1 :
南無 :
2 :
渡海 難:2000/08/14(月) 18:24
>1162さんへ
>何故、仏教には輪廻転生の考えが有るのでしょう?
輪廻転生思想は仏教の原点です。空と輪廻転生とは同じ認識を別の言葉で表したものと考えます。
人間の皮を被っている存在はみな人間ですか。人間はその表皮を失ったときに死ぬのでしょうか。あるとき、裁判所で傍聴席に座っていた被害者の遺族が被告席に向かって「ケダモノ」と叫びました。被告席には牛さんか豚さんが座っていたと思いますか。人間が座っていたんです。人間でも、「ケダモノ」と言われる。ケダモノの心でケダモノの行為をするものは、人間の皮を被っていてもケダモノです。鬼の心で鬼の行為をする者は、人間の皮を被っていても鬼なんですよ。
お釈迦様はどんな人だったと思いますか。時には有頂天になり、時に鬼になり、真人間に戻ったかと思ったら次の瞬間には地獄にも堕ちる。意思と行動が変われば人格が変わります。人格が変わるとそのたびに新たな人格の誕生があります。誕生した人格は、やがて疲弊(老病)し、挫折(死)します。挫折するとそこからまた全く違った新たな行動が始まります。行動には新たな意思が伴います。意思と行動が変われば新たな人格の誕生です。人は時に鬼となりケダモノとなります。生死生死をくり返します。これが迷いです。
人は、挫折すると自分が馬鹿だったことに気づきます。愚かだったからこそ、人は疲弊し、挫折します。そして愚かなまま、新たなスタートを切る。愚かなまま、新たなスタートを切るから、また挫折する。生死生死の原因こそ、自らの愚かさにあった。これが三十五歳のときのお釈迦様の発見(お悟り)でした。お釈迦様のお悟りを十二因縁の法理といいます。無明から老病,死まで十二個の単語が因果則で並びます。ギリシャ哲学の無知の知の認識に一脈通じるものでしょう。ああ自分は愚かだった。これは大変なことだ。お釈迦様はそう認識すると、その認識を人々と共通の財産として共感的に享受し、利用し合おうと、祇園精舎を開き、教育事業に乗り出します。無明に目覚めたお釈迦様が作った学校が祇園精舎です。世界中の寺院はその分校です。無知の知に目覚めたソクラテスはプラトンを育て、プラトンが作った学校がアカデミヤです。洋の東西で学校は自らの愚かさに目覚めた人によって作られました。
人は畜生となり、真人間から天界に生まれ、次の瞬間には地獄にも堕ちる。輪廻思想は、我々の愚かさそのものを指摘しています。自らの意思のまま自由闊達に行動できるもの、これは天才と言われます。幾ばくかの自由な意思があり、自らの意思で行動をする者を人と言うのでしょう。自らの意思を殺し、他人の意思で動かなければならないもの、これが兵士です。兵士は時に人の上に立ち、時に人以下に見下げられます。これが阿修羅です。盲目的意思と行動に走るものが畜生でしょう。満たされない自らの欲望の意思に支配されて行動する者を餓鬼と言います。欲望の意思があり、行動は身動きできない存在、これを地獄と言います。
人は、畜生となってもいつかは天界に生まれる可能性もあり、いつかは地獄に堕ちる可能性もあります。地獄にあっても天界に到達する可能性はあり、天界にあっても地獄に落ちる可能性もあります。無知だからこそ、福あれば天界にいたり、不運が来れば地獄にも堕ちます。永遠の天界もなく、永遠の地獄もありません。縁に従って予測を超えて変化します。永遠なものはありません。これが空です。空でありながら、やはり天もある。地獄もある。これが色です。色がそのまま空であり、空がそのまま色です。
般若心経の色即是空は、輪廻思想といささかの相違もありません。
3 :
渡海 難:2000/08/14(月) 20:27
>1163さんへ
>現世での悲惨な最期に執着する事なく、来世で暮らして欲しいと思うのは当然ではないのですか?
当然かも知れんが、これは生きている人の思いじゃな。死んだ人はどう思っているかは誰にも分からん。
>また死んだ人の事を心配する事はないと仰っておられますが、
心配したくても、生きている人には測り知れず、心配できないと言うことです。
>死者を弔う事を否定しても言い訳ですね?
死んだ人はどう思っているかは誰にも分からん。わしらが出来る範囲は、弔いたいという生きている人の今の心を大事にできるのが限度じゃ。弔いたいという生きている人の今の心を無視すれば、生きている人は次の動きをとれなくなる。死んだ人はどう思っているかは誰にも分からんのよ。
>またその否定により今迄の仏事は行わなくても良い、それこそ読経すらしなくて良い。
生きている人のために読経するんじゃ。死んだ人に向けてのサービスなどはだれにもできん。
>こうなると、死者を火葬して墓所に葬る事無く、死者はその屍を死んだ場所で野ざらし、そして朽ちて行くまま時を待つ。またその屍が朽ちても誰も骨を拾わなくても良いとゆう事ですね。
生きている人の気持ちがどこにあるかが問題じゃ。誰も骨を拾わなければ、生きてる人の気が済まんじゃろ。生きている人の思いを最大限に尊重するのが仏教じゃ。
>何時から日本はチベットや中米・南米の鳥葬を信仰する事になったのでしょう?
????
>これも上記に上げた疑問と同じですね。
???
>自分自身どれ程、世俗の垢にまみれ・現世に狂おしいまでの執着を持っている事を否定しませんしね。
お好きなように。
>自分よりも高位な方に弔って貰うのは当然じゃないですか?
世俗の垢にまみれ・現世に狂おしいまでの執着を持っているあんたを弔わなければならんようじゃ、高位な方にとっては、不愉快な話かもしれんのよ。貴方を弔う高位な方の気にもなってみなさい。
>そのルールに則った生き方をせねばならないと思いますが?
そんなルールがどこにある?
>自称僧侶で自分で営業し 顧客をつかんで経を上げ金銭を貰っても良い訳ですよね。 僧とは何かについては、後に書きます。
坊さん達や、実にいい質問じゃなー。あんたらは、こんだけ自分の職業を真剣に考えておるか。