仏教議論スレッド 81

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106神も仏も名無しさん
>>85(オカルト宝珠)
>“涅槃は縁起に依らない”と仏典(ウダーナ)は説いているからです。
>涅槃は縁起を超越しています。

相変わらずアカン奴やなあw

オカルト「仏教」連中のウダーナ8-3のアホ解釈は何度も論破済み。
どうしてもそう解釈されるなら、ウダーナを批判するよw

宝珠が<作られないもの ⇔ 作られたもの>の相対思考超越論で、
<作られないもの>のみが実在で、<作られたもの>が幻だとするのならば、シャンカラ的不二一元論の劣化バージョンでしかない。
隠れた仏教徒だというが、シャンカラは仏法(あるがまま)を<無分別智直覚>できていないのだ。
シャンカラ的一元論のままでは『作られたもの』の一元(『作られざるもの』)に対する執着が助長され、
機能的に仏法の本懐に反する。

これは西田幾多郎も陥ってしまった落とし穴である。
『インド宗教の根本義であるようにアートマン(『自分』)とブラフマンとは同一である。』(善の研究 岩波文庫p121)。
オカルト「仏教」教徒連中のウダーナ8-3の解釈についてもおなじことがいえる。

とうてい「二項相対・対象化思考=「想い」、からの解脱」(Sn.1072)ではない。
二項相対・対象化思考=「想い」からの解脱においては、
『自らが守られていること』←「自らを守るもの」や、自分が「作られていないもの」である=幻であるという「想い」からも離脱しているのである(空である)。

涅槃とは、娑婆における「心(無我)と心の作用(慶安)」(相応部35-23)であって、超越論なんて関係がない。
縁起撥無は反仏法である。