卍 仏教 質問箱 卍 パート33

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357神も仏も名無しさん
>>355
真宗は正しい仏教だと思いますが、
清沢満之とかの近代教学は、完全な邪見だと思います。

>>356
 そこは難しいところです。縁起する法性、法則は不変ですが、教えとしての無常が不変ではありません。
 仏教が何か思想や見解を説いていると考えると、例えば三/四法印を説く仏教は世界が無常だと主張していると誤解しがちです。
 例えば『宝性論』は「〈諸行は無常〉と見るなら、それは断見になるでしょう」という『勝鬘経』を根拠に「勝義の我は、我・無我の戯論が鎮まり」と述べていす。
 「諸行無常」は言うまでもなく三/四法印(三相)で、仏教の徴、根本に他なりませんが、「諸行無常」「一切皆空」も思想や見解として掴むなら、それは戯論に他ならないのです。
 『中論』13-8にも「〈空性は見解一切を離れること〉と勝者は説いた。〈空性を見解とする者たちは救いようがない〉と説く」と説かれます。
 これは思想一切を離れるために空性を道として示したのに、空思想として捉えてしまっては救いようがないと言い換えることができます。
358神も仏も名無しさん:2014/01/21(火) 07:37:40.64 ID:4XgaXWaR
 これは大乗仏教だけではなく『ヴァッチャ族火喩経』でも説かれます。
 ヴァッチャ族の行者が釈尊に世間は 1.恒常である。2.無常である。3.恒常でもあり無常でもある。4.恒常でもなく無常でもない。

 などと問いますが、釈尊はいずれも執らないと答えられ、それらの見解を執るなら悟りや涅槃などに導かないと説きます。
 釈尊の答えに納得しない行者に釈尊は譬喩として「目の前で燃えていた火が消えたら、どこへ行くか?」と行者に訊ねます。
 行者は消えた火はどこへ行ったかという問いがおかしいと答えたのに対して、それと同じことだと説明します。
 つまり、戯論寂滅した境地では恒常は勿論、無常であることもないのです。
 無常は導きとして教えますが、それを掴んで離さないと見執になるということです。
 ですが、無常は正しい教えで、途中まではこの見解を掴んで修行するのが正しいのです。最初から無常なんてないとか、無常も戯論、喝!とか言ってもどうしようもありません。