卍 仏教 質問箱 卍 パート33

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308神も仏も名無しさん
>>307
またそこw
彼が言ってるのは、そういうレベル(言語そのものの仮設性を見る)のことじゃないでしょ。
各文脈で相違があるようだけれども、その相違はどういうものなの?ってことじゃない?
言語の多義性をいきなり言うなら、それはもう「問う意義がないのだから質問自体が成立しない」ってことだから。

>>304
感じた通りだと思いますよ、ニュアンスも。 (ざっくりし過ぎじゃない?w  >>302 )

実際に目にする文脈としては、(単なる辞書語義でない実状としては)、
こんな↓感じとか。

(瞑想≒) 禅定┬三昧( ┬止 )
          |    .└観
          ├止
         ( ├随観 )
          └観

勿論、同義のときもあるだろうけど。
たとえば、「彼は剣道をする」というとき、
彼が、試合をするのか練習をするのか、はたまた居合い、型の演武をするのかは示されていない。
厳密に言えば、型の演武と試合は違うし、かかり稽古や打ち込みも違う。
けど、「剣道」の一語で準用する。
同じように、各場面で、それぞれが持つニュアンスの重点部分を残し(示し)つつ、
トータルで、所謂『禅定』状態ですよということが言いたいとき、
一番大枠の「禅定」を使いながら
狭義として「止」を言ったり、(禅宗の語法は、こんな感じかも)
狭義として「観」を言ったり、(こちらは密教的かも)
或いは、「それ、そこにどっぷり浸りきっている」ような状態にあることを指して
“一般的にも”「三昧」ということがあるけど、その感覚で、「法悦にあること」「悟り(の安楽)を味わいつくしていること」
などを言いたいときに、逆に「三昧」を用いて「禅定、定」の状態にあることを示したり、(大乗経典に多いかも)。
で、畢竟は>>307になっちゃうねぇ・・って話。