>>88 >と思っている方々も
そ。
だから、彼等(凡夫)はanusotagAmin(流れに隨う者)であり、
私(比丘)はpaTisotagAmin(流れに反して往く者)だと言われるんだよねぇ・・。
だから、「この法は見難い」と言われるんだよねぇ・・。
その基本的立ち位置も、事象への眼差しも、その評価体系も、
通常の社会的価値観とは異質だったり真逆だったりするわけで・・。
*(だからこそ、真逆のものであるからこそ、
特に禅の系譜では、「市井に出ること」「入てん垂手」「あるがまま」ということが強調されるわけで・・。
真逆の位置にあるからこそ、そこに安住し易いからこそ、俗なる人間(じんかん)に歩を進めることが、
常に注意喚起され、推奨されるわけだ。
だから、単なる現状肯定でなく、トラックを一周してきた後のスタート地点なわけで・・。)
で、申し訳ないが、神智学等種々の新思想も、
新しい知見を取り入れたり、各宗教の要素を輸入しながらも、
通常の社会的価値観や視線のとり方を踏襲護持するものなんだよねぇ・・。
最も根本的な、お釈迦さんによって「斥けられたこと」をこそ追求するという構図、
世間一般の欲望充足のベクトルを慰撫増長するものでしかないのにね・・。