>>649 観音和讃に、三十三に身を分けてと言われたり、八万四千の法門と言われる如く、
たとえば、水が、注がれた器の形にぴったりと合うように、そのように、
空だからこそ、人人個個の衆生に即した形で顕われ得るんじゃない?
だからこその遍く注ぐ慈雨法雨足り得、待機説法足り得るんじゃないの? (´・ω・`)
*(なぜ、そうした「空」なることが重視され、根幹と見做されるか。
空ならざる形であれば、(例えば貴方が今、如来を慈悲と変換するが如くすれば)、
それは、【或る“規格”のもの】というとになるからだ。
或る一定の、一意の規格としてあるときには、上記水の喩えの如く、
「万器(万機)に応じて働き出す」とはいかなくなるからだ。
その規格が、詳細であり、個性的であり、単一であればあるほど、規格条件が増えるほど、
パズルのピースが、或る一つ所にしか嵌らないが如く、その働きが制限されることになる。
それは、大乗の本質からして、大変に宜しくないw
空なる諸法実相なるがゆえに、一切衆生への(救いの)慈悲として
*(そして付言すれば、有情衆生たる我々もまた、
所縁の存在であり無常であり無我であり、空なるがゆえに、それこそ
因により縁により(業により)、今、このようにしてここに顕われているのでしょう?
どうして、空ならざるもの(我でも真我でも何でもいいですが)が、
因により縁により(業により)種々に顕われ得ましょうや・・。)
*(だから、重々無尽の縁起の法界として無相であり(真如として)一相であり、
法界=法身のラベルとして常住無量寿の仏、如来(大日如来)なんじゃないのかな。
そうした上で、 諸法実相、真如=如来、仏=法身=空=衆生 ということで、
仏=人 (≒人人具足の仏性)という等式へと至り得る、と。))
先に言っておくがw、具体的該当テキスト箇所があるわけではない。
あくまでも、個人的な“俯瞰的”感想。