>>624 だからw
その辺が、そもそも倒錯なんじゃねーの?
「消えちゃう」ってのは、「対象(法身の人格面(…世間に働き出ている仏の慈悲という光))が消える」
のではなく、
「認識論的に」、或る求道者が理解・体験を深めるための取っ掛かり、“ハーケン”として
「人格的側面を」「仏の(如来の)、法身の“用”と“相”として」一端把捉し、
河を渡り終えたあとの筏が捨てられるが如く、
「不要な要素として」捨象される、ってことなんじゃねーの?
それを、やれ「主体が消失するわけない!」「具体的存在・人格が無くなるはずがない!」
と思うから、いつまでたってもウダーナ8が理解できないw
>>625補
だから、
(認識論的に)、
或る者が、悟りを求めて(…理解・体験を深めるため)の取っ掛かり、“ハーケン”として
「人格的側面を」「仏の(如来の)、法身の“用”と“相”として」護持し続ける限り、
如来の慈悲もまた尽きるときは無かろう?
まさに、心ある衆生がいる限り、如来の慈悲も寿量も尽きることがない、というロジックは成立するぜw