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>>390>>393 一応、読者の便宜のために再掲載します。
梵我一如そのものが誤解されていて、当時のゴータマの指摘にもあったように、 前段階の過程状
態を梵我一如だと勘違いするバラモンたちが大勢いたのです。この部分について、神智学用語と分
類とによって明確化を図ったのです。
バラモン教での梵我一如の「我」(アートマン)を輪廻する魂(シッディ)だと勘違いすることがないよ
う、神智学では輪廻する魂(ジッディ)は真我(モナッド)の反映であり、霊(スピリット)である真我が物
質(肉体)を経験すべく、その媒体としての魂を顕現して輪廻の旅を体験させているものとしました。
一定の必要経験を獲得した魂は最後にその役目を終了して、真我へと再び吸収されて消滅します。
ここで意識の焦点が魂に留まり続ける内はこれは果たされることがなく、一度、“自己意識の完全死”
を自覚した後に、真我が自己意識として立ち顕れてくるという体験が必要です。
神智学の採る姿勢は、何教だけがゴールに達する唯一の道とすることはなく、どこの宗教や道から
もそれは達せられるものと見なします。本当の進歩は個人に拠るのです。