>>71 >仏教が存在として認めるは、縁起によって知覚されるものだけ、つまり有為、無常で、
>仮設するしかできないもの もし仮に、そのように知覚されたアートマンが究極の悟りだとすると、
>そういう有為で無常で虚妄なものが究極ってことになっちゃう
>で、知覚されないアートマンとか神は、一切の中に見つからないから、説かれない。非法と呼ばれる。
「一切」から「一切外」へ移行すれば見つかるのでは? 尚、移行とはいっても意識上の出来事です。
これを“超越”という(超越できない者にとっては一切しか知覚できない)。
>>74 >ということで宝珠さんと議論させてもらいました〜
了解しました。
(私の賛同者とは限らず)議論に真面目で前向きな参加者ならば私は歓迎します。
>>77 >一切(諸行)を、縁起した存在として知覚し、
>その無常なる存在を仮に言葉にした(仮設した)とき、それは有為法と呼ばれる。
>一切(諸行)をすべて滅して、手放した涅槃の境地を仮に言葉にしたとき、それは無為法と呼ばれる。
これには私も同意できると思う。
>>188 それは詭弁、または誤解というものです。
「色即是空」「空即色是」ですから、色(現象界)の性質は空だということ。
「空」とは色(現象界)の性質のことです。だから、涅槃が空のわけがないのです。