仏教議論スレッド49

このエントリーをはてなブックマークに追加
613神も仏も名無しさん
>>598
だね。
まさしく、知識や記憶を因や縁として、寂しいという感情(→心の波)が生じる。
(宝珠との業報論議とも被るがw)、
本来「無表情」な事象に、なぜ一喜一憂するのか?
なぜ、各事象そのものが寂しいもの喜ばしいものであると、人は思うのか?
それは、その生じた感情にまつわる因が、或る事象Aを縁として結実するからだろう。
愛別離苦と言うが、なぜ愛する者との別れは悲しいのか?
初めて会って、一時会議を同席した者との別れに涙する者は、そうそう居ないだろう。
その「(人と人との)別離」という事象には、悲しみを生じさせる因や縁がないからだ。
卒業式で泣かないと〜♪なんて歌があったような気もするがw、
卒業式での別離が悲しいのは、そこに「蓄積されたもの(過去(記憶、(別れは寂しいものというテンプレート的)知識)」があるから。
そこには、悲しみを生じさせ得る因や縁が既に積まれているから。


人の死も、「“死”自体が悲しい」のではない。寂しいのではない。
『“死”を巡る物語が、“死”の周縁の様々な案件が(まさしく)悲しみである』わけだ。
人は、死を悲しんでいるのではなく、死を巡る物語を、死にまつわる物語を悲しんでいる。
生、誕生も同様だ。 生自体、誕生自体が喜び・吉祥なのではない。
生や誕生を巡る物語が、喜ばしいもの・めでたいものであるわけだ。
だから、その物語り次第では、周縁の状況次第では、
喜ばしき死、悲しむべき誕生というものが存在してしまうわけだ。
生や死は(そしておそらく業報も)実に淡白なものであろう。
そこに、種々色をつけているのは、人の分別に他ならない。