1 :
神も仏も名無しさん :
2012/08/27(月) 20:33:44.79 ID:Qm5rFaJD
2 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 20:40:59.90 ID:36xGMH7d
3 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 20:56:53.38 ID:SK9l4YVN
仏教が真理を求めるものでないとしたら四弘誓願とは何だったのか
4 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 20:59:26.67 ID:Qm5rFaJD
解脱じゃなくて真理求める仏教とかちょっと敵わんなw
5 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 21:00:32.78 ID:/32wHCz5
>>3 真理を求めるということもできるけど、その真理の意味を、実在論的前提の真理なら、それは仏教の言う真理ではなく戯論に他ならないっすよ
6 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 21:13:57.00 ID:SK9l4YVN
実在論にも触れると思うけどな 因果を見つめるというのは、縁起の仕方を学ぶことでしょ
7 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 21:53:15.49 ID:/32wHCz5
>>6 >実在論にも触れると思うけどな
どういう意味で触れるの?
そこが重要なんだが、
8 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 22:05:52.14 ID:xM3ZFGkV
>>4 「現実に生老病死・悲嘆苦憂悩を征服すること」じゃなくて、
「解脱」とか「真理求める」仏教とかちょっと敵わんなw
9 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 22:11:23.35 ID:/32wHCz5
グノーシス仏教とか科学推進仏教とか、 こいつら本気で言ってるんだろうな
>>9 そういう事は、八万法蔵といわれる膨大な経典を読破してから
いうべきであろう
生老病死・憂悲苦悩は身体と心に属する。身体と心はいずれにせよ解消される日が来る。また、それらが無ければ生老病死・憂悲苦悩も無い
13 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 22:25:10.66 ID:/32wHCz5
>>11 全部は読んでないけど、結構読んでるよ。
少なくとも、パ梵蔵漢の長部・中部経典は上に一致するし、
『中論』及び梵蔵漢の諸註、諸中観論書はそれに一致し、
それらの論書は大乗経典とも一致して解釈している。
そして、テーラワーダもチベット仏教も、シナ・日本の伝統仏教も、
その点で全く矛盾ない。
上のような解釈は、和辻などの現代日本仏教とアーベンドカル仏教ぐらいしか知らない。
ところで、自己とは何か?身体か?心か?本性とは何か?無常のものが自己や本性では有り得ないだろう。そして本性と言うからには暫昇的獲得物ではないだろう。もしそうなら、それは本性ではない。すでにそれは我々のものであったし、永遠に我々のものである。
15 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 22:32:16.45 ID:/32wHCz5
16 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 23:02:27.00 ID:xM3ZFGkV
>>9 >そりゃ、仏教を倫理とか思想とかで捉えてない?
梵網経(Brahmajala-sutta)みたいな御都合主義テキストではなく、
ブッダと議論してくださいw
『マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、
まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。』
(マッジマ・ニカーヤ 63)
『ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、
独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマ・ニカーヤ 72)
『弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」
「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」』
(マッジマ・ニカーヤ 22)
しかし、仏教はあらゆる人が苦から離れるための導入を設けていると思うけどな そのためには千変万化するのでは?
苦の超克、誠に結構。それが仏教の良さであり、限界でもある。苦しみをものともせず、死や破滅をも恐れない「真理探求者」には物足りない学説で終わるだろう
ブッダの弟子にはそういう優秀な頭脳の持ち主もいたが、教祖の視野狭窄な指導法はそれら優秀な頭脳を決して満足させはしなかった。少なくとも私は苦しみの解消よりも「真理」を要求する
20 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 23:42:30.75 ID:xM3ZFGkV
>>9 しかし梵網経ってかな〜り、痛いテキストとちゃうか?w
『Atthi , bhikkhave, aññeva dhammā gambhīrā duddasā duranubodhā santā paṇītā
atakkāvacarā nipuṇā paṇḍitavedanīyā, ye tathāgato sayaṃ abhiññā sacchikatvā
pavedeti, yehi tathāgatassa yathābhuccaṃ vaṇṇaṃ sammā vadamānā vadeyyuṃ.
ビクたちよ、このほかに、如来がみずから悟り体現して教示している、深遠で、
見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、
微妙で、賢者だけが理解できる諸法がある。』
これは直接現実は無分別智直覚だから、二項相対の間接現実の分別「思考と思惟」ではない(別カテゴリーゆえ『越えており』はこの経典の明確な誤りw)
のは当然だ。
しかし『理解できる諸法がある』は二項相対間接現実そのもので、またまたこの経典の明確な誤り。
この経典作者は掴んでないのだろう、あかんなあw
相対では執着を生み、苦の滅尽にならんわ。
この『如来』様ってインチキ如来やろw
21 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 23:45:58.19 ID:xM3ZFGkV
『六十二邪見』なんてマッジマ・ニカーヤ63 72 からみてもアウトは当然、いうまでもない。 『Tatra , bhikkhave, ye te samaṇabrāhmaṇā pubbantakappikā ca aparantakappikā ca pubbantāparantakappikā ca pubbantāparantānudiṭṭhino pubbantāparantaṃ ārabbha anekavihitāni adhimuttipadāni abhivadanti dvāsaṭṭhiyā vatthūhi, tadapi tesaṃ bhavataṃ samaṇabrāhmaṇānaṃ ajānataṃ apassataṃ vedayitaṃ taṇhāgatānaṃ paritassitavipphanditameva. ビクたちよ、これらのうちで、かれらシャモン・バラモンたちは、 過去の限界について考察し、未来の限界について考察し、 過去の限界と未来の限界とについて考察し、過去の限界と未来の限界とについて見解をもち、 六十二の根拠により、過去の限界と未来の限界とに関して種々の浮説を主張するが、、 それはかれら尊敬すべきシャモン・バラモンたちが〔真実を〕知っておらず、 〔真実を〕見ていないために感受されたものであり、渇愛に陥っているために おののき狂躁したものにすぎない。』 このアキメクラのシャモン・バラモンの三世論(過去世、現世、未来世)なんて愚かな妄想であって、 渇愛に陥っているために おののき狂躁したものにすぎない ―と『如来』さんとやらが事実上業報輪廻転生論を否定してしまっているテキストに他ならない。 これはかなり痛すぎるw
22 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 23:53:27.19 ID:xM3ZFGkV
忙しすぎて眠い、寝るわ。
23 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 23:57:16.09 ID:xM3ZFGkV
>>18 >>19 真理なんて間接現実での妄想やで。
メフィストにゴロニャンしたファウストのおっさんもそーゆーとったわw
なんだか一癖二癖ある人多いなここ 時間、空間だけは人がものを考えるときにかならず前提とするアプリオリな概念とカントはいったが 時間空間は直接現実ではどうなるの?
苦楽の観念は相対的なものだ。自己の本性つまり無限永遠性を悟った者に苦しみなど存在しないだろう。あたかも大海に一滴の毒薬を垂らしたら毒薬の毒性は消滅してしまうように…
数学には時間も空間もないよなぁと思ったり。
27 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 00:07:30.29 ID:5oPJY0Qx
時間と空間の支配下に置かれているという観念は、まったくの偽りで、自己にこそすべての時間と空間がたたみ込まれている。自己こそそれらの支配者である
>>17 同意。
一つの説き方では万人は理解できないからね。
31 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 00:18:31.73 ID:5oPJY0Qx
>>28 >出典plz
出典はアタシ。・・でわアカンか?
この権威主義者めw
『前後ありといえども、前後際断せり』(道元)からの誘発?語。
=空・中道。
>>31 造語を通じて当然の日本語のように語られてもそりゃ判らんわ。
>>20 閻魔大師
失礼ながら、少なくとも私個人には「痛い」のは大師の方に思われます……
>これは直接現実は無分別智直覚だから、二項相対の間接現実の分別「思考と思惟」ではない
>(別カテゴリーゆえ『越えており』はこの経典の明確な誤りw)のは当然だ。
あなたの「直接現実」という表現は「欲界」なり「色界」を離れた、色界なり無色界の実相を
指しており、以前として「世間」の内側ではないかと、思われますが……。
確かに、あなたにとっての間接現実「欲界」はあなたにとっての直接現実で「色界(以上の梵天界)」ではないし、
もうひとつのあなたにとっての間接現実「色界」はあなたにとっての直接現実「無色界」ではありません。
しかし、梵網経で釈迦牟尼如来が言及されていることは、その双方を含めた「世間」全体を「超えている」ということです。
34 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 04:10:16.09 ID:FHexRY0b
>>16 そりゃ、その訳に問題ありでしょ。そんなことも知らないで、主張するなよ。
仮設、世俗として輪廻がないというのは、明らかに邪見だと、正にマッジマ・ニカーヤ(中部経典)でも説かれてるぜ。
十/十四無記の真っ当な解釈は二つだ。「人間」を人我を仮設せず、不転移を説くとする解釈。どうもこちらの可能性が高いと思う。その意味は以下。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/28.html 単純に言うなら、仮設の人は輪廻するが、勝義では人などない。これが不生不滅の縁起。
この場合の不生不滅というのは、仮設として生滅はあるが、勝義では生滅などなく、不生不滅であるという意味で、恒常不変という意味ではない。
これが『中論』の八不で、『中論』の25章は生滅や人という仮説の戯論を寂滅へ導くために説かれるわけ。
もう一つは、「人間」と訳される言葉の原語は「如来」であり、解脱・涅槃された方の死後を問うのは無駄だという意味。
なんで、長部経典の『梵網経』がだめで、中部経典ならいいのか分からないけど。
その十/十四無記は、正に『梵網経』の六十二見の簡略版だぜ。そして、六十二見、十/十四無記という戯論を寂滅へ導くのが八不に他ならない。
これは恐らく説明しても理解できないから省くけど、上の説明も理解できないんじゃないか? そんなどうしようもない解釈を採ってるとなると。
35 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 04:14:39.40 ID:FHexRY0b
>>20 >>21 アホだな、何でも勝義で説いて何が分かるってんだ。
実際、お前(遊びだろ)は何も分かってないし。
分かったと思ってるのは、外道流のマーヤーとアートマン、あるいは仮象と実在説だろ。
話にならんは。ほんと、机、生命教と同じだ。自分の妄想に合わない経典説は排除。それじゃ何も分からない。
36 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 04:21:09.43 ID:FHexRY0b
>>31 こういう「根拠は俺と」するなら、せめてオイラなど対話者の前に現れる神通ぐらい見せろって。
それもできないなら、根拠にならない境地だってなんで自覚できないかな。
そんな妄想根拠にされて、対話になんないだろ。
それだとお前を信じるか、信じないかになると、分からないのが不思議だ。
そのくせ、都合のいい部分では、経典引っ張ってくるという、まさに断章取義ご都合主義の机、生命教と同じなんだって分かんないのが不思議だ。
このスレを見ていると論語読みの論語知らずって言葉を思い浮かべるな
38 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 08:20:46.49 ID:3PoygNTw
法境(心が考えること)が無我であることさえわかってれば、 物質が実在してても空でも、仏道の実践には影響ないきがする。
39 :
1/3遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/28(火) 08:26:58.27 ID:5oPJY0Qx
>>33 不説さん
梵網経のアカン連中は、分別知覚記憶による識(間接現実)を真実だと信じ込み、それによって謬見に陥っている。
梵網経の如来はんは、縁起の現観(直接現実)により見解や自己の縁起現象を自覚し、執着がなく、寂滅している。
>以前として「世間」の内側
直接現実は言語論理同断ですから、“〜界”なんて観念できない妄想でしかありません。
また『内側』と外側区分も勝手な妄想でしかありません。
これでは梵網経のアカン連中の思考と同じです。
あくまで直接現実=間接現実です(中論25-19・20)
私が自分なりにやっていることはあくまで『己事究明』→ブッダの本懐である実存苦の根本的克服という本懐に
可及的に合目的的に龍樹の中論を中心に咀嚼したものであって、
本懐の実践のためにはシンプル イズ ベストです。
夾雑物の徹底排除です。
自己(≒他己)のための仏教の洗濯&選択です。
シーラカンス固定「仏教」なんて、願い下げだすw
40 :
2/3遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/28(火) 08:30:37.69 ID:5oPJY0Qx
色即是空(坐水月道場:法灯明:直接現実) ← フィードバック → 空即是色(修空華万行:自灯明:間接現実)
ブッダの本懐「実存苦」の根本超克を踏まえて、
ベースになっているのはあくまでも縁起の『現実』=あるがまま(無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相・無分別)であって
あるがままには執着すること自体がありえないことの自覚です。
そこには龍樹がいうような「真理」などはあり得ません。
「真」も「理」もあるがままではありません。
>>18 >>19 >>23 で判るように実体や真理設定は執着対象となり本懐に反する構成です。
この点で龍樹を支持できません。
それを<「分別」知覚・記憶・判断を通した間接『現実』>、<「無分別」智直覚による直接『現実』>に分けますが、
縁起の『現実』=あるがままにおいて全く同じです(中論25-19・20)
−縁起の間接現実における言語習慣によらねば、縁起の直接現実(あるがまま)を<示唆する>ことはできません。
縁起の直接現実(あるがまま)を無分別智によって直覚し体得しなければ、涅槃の境地には至れません(中論24-10アタシ改訳)
また、直接現実を体得したまなざしでなければ、
仏法の本懐である「間接現実で慶安にあること」はできません。
41 :
3/3遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/28(火) 08:35:32.17 ID:5oPJY0Qx
>梵網経で釈迦牟尼如来が言及されていることは、その双方を含めた「世間」全体を「超えている」ということです。 そうなら、梵網経に仏法はありません。 梵網経での釈迦牟尼如来は落第です。支持できません。 間接現実=直接現実ですから、仏法において「世間」全体を「超えている」は100%ありえません。 あなたのスーパーブッダ妄想は捨るべきだと思います。 そのような思考(梵網経)は縁起撥無の妄想戯論固定化「仏教」でしかありません。 そこには仏法はありません。 ただただ直接現実での縁起の現観から還滅されたまなざし(あえて言えば「出世間のまなざし」)があるだけです。 それは注意深くあれば、だれでも得られます。 ゆえに、仏法の本懐は、出世間のまなざしで、しかも世間の只中(現実)で慶安に生き直すことです。 その他詳細は議論スレ43・44あたりに二念を継がずに書き散らしていますので、よければ参照してください。
42 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/28(火) 08:52:00.76 ID:5oPJY0Qx
>>35 >何も分かってないし
そう、アタシは何も分かっていない、分かりようがない。
そのことをアタシは徹底自覚している。
分かる=分別しうるものはなにもなく、
説きうるものもなにもない。
戯論の消滅というめでたい境地なるがゆえに、
ブッダは、いかなる教えも、どこにおいても、
誰のためにも、説かれなかったのである。
分かった、分からないの輩は所詮「間接現実」オンリーの梵網経のアカン連中と同列である。
43 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/28(火) 09:01:19.85 ID:5oPJY0Qx
訂正
>>39 >>40 × 中論25-19・20
〇 中論25-19
中論25-20の『ニルヴァーナの究極』の文言はアカン。
ニルヴァーナには、究極⇔中途半端の相対を観念できないからである。
縁起のあるがままに究極もヘチマもあろうわけがない。
龍樹はん、中論の全面改訂版を出されることをお勧めします。
前スレ44>986 >百万言、言葉を尽くすよりも、現実を変えて貰った方が「よっぽどありがたいのである」 ところが宗教の掲げるその神が、無力・無能で宗教団体や宗教者(人間)が 儲かるシステムが問題
45 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/28(火) 09:19:14.16 ID:5oPJY0Qx
>>36 >せめてオイラなど対話者の前に現れる神通ぐらい見せろって。
もちろん、御冗談でしょ?
アタシの辞書にはマハーカッサパ教連中のような
『神通』などという文字はない。
子供だましのような宣伝コピーをそのまま実体視して使うなんて、あまりにも痛すぎる(爆笑
46 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 09:19:41.90 ID:FHexRY0b
妄想満開で、妄想に合えば正しく、合わずば間違い。 つまり「オレチャン」を信じるか、信じないかで、話すことは何もないわけだ。 なんでこの手合いは仏教を持ち出すかというと、「オレチャン」妄想を権威付けるために他ならない。 しかも「オレチャン」妄想こそ正しく、釈尊も龍樹菩薩も一部正しく、一部間違いだそうだから、なあ。 要するに居酒屋のホラ吹き話と変わんないんだは
47 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 09:42:26.81 ID:3Bjlgyqz
>>43 スッタニパータの全面改訂版をだすことのほうが先ではないの?w
現実が二つに見えるようになったら、精神科にかかる必要がある。
それでは、「現実を慶安に生きる」ことは無理。
「釈尊の本懐」は、絶対に批判できないの?それでは「執着」に過ぎない
>>42 無分別ってのは迷妄に囚われないって意味だと思うけどな
分別をしないって意味ではないでしょ
49 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 09:57:23.66 ID:FHexRY0b
確かに超越意識→サマーディで実在の相を見る者は全宇宙が消え失せる…云々とか説かれるけど、それが何を意味するか我々はまったく知らない
52 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 10:14:11.78 ID:3Bjlgyqz
>>49 「分別がない」という「分別」をしてる。何処まで行っても同じこと。
だから龍樹が、「あるでもない。ないでもない」という表現をしてる
のだよ。
彼らによると蛇だと思っていた対象が、よく観察すると単なる縄だった…などと言う。蛇は消え縄は残る。それにしても臨済録とはワケのわからん書物
54 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 10:17:08.03 ID:FHexRY0b
>>50 具体的には経験しないと分かんないっしょ。
知覚がない状態といえば分かる?
それだのこれだのが消えた状態。
脳性麻痺
56 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 10:23:48.66 ID:3Bjlgyqz
>>54 全身麻酔は、大手術の時だけ。麻酔薬には、大きな副作用があるから。
57 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 10:24:13.25 ID:FHexRY0b
>>52 >「分別がない」という「分別」をしてる。何処まで行っても同じこと。
全く違う。xが無いというが、それは表現の問題で
xである、xでない、xであり且つxでもない、xであるのでもxでないのでもないという四句分別という論理形式による、何らかの認定、認識、知覚という戯論が鎮まった状態。
>だから龍樹が、「あるでもない。ないでもない」という表現をしてる
>のだよ。
全く違う。それだと四句の第四番目で、これが神秘主義。そういう何らかの見解が鎮まった境地を釈尊や龍樹菩薩は戯論寂滅とか涅槃などという記号で示した。
無分別もその境地を指す場合もあり、私は上でそれを示した。だけど、こういう記号は同じでも意味としてはxでない、xであり且つxでもない、xであるのでもxでないのでもないというような意味を示す場合もある。
それは神秘主義で、ヌーエイジやアドヴァイタ仏教などと言ってる人で、仏教とは程遠いと言わざるえない。
この違いが分からないと、仏教とヌーエイジの違いが分からないよ。
58 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 10:26:00.18 ID:FHexRY0b
>>55 気絶と同じと言った人もいる。しかし、違う。
これは表現の問題だから、信じなければそれまで。
別に信じる必要はないよ。
60 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 10:33:05.62 ID:FHexRY0b
>>59 違うよ。違うから仏教と外道が違う。
縁起・空性・仮設による観法のあるなしで異なることが、『梵網経』以来一貫して伝統仏教では説かれていますよ。
61 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 10:36:08.69 ID:3Bjlgyqz
分別しまくりw。
62 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 10:45:25.56 ID:FHexRY0b
>>61 そりゃ、言葉を使ってるんだから、分別してるに決まってるでしょ。
勝義とか、戯論寂滅、無分別などを言葉で直接示せるわけないっしょ。
その境地を仮設して記号つけて指してるだけ。
そうでなく机とか遊びみたいに勝義といっとけば、なんでもいいってわけないでしょ。
そこに行く道を説いてるわけで。その道が仮設された方便としての仏教なわけ。
もちろん、仏法と言っても同じ。
>>60 細かいようで恐縮だが
つまり、分別は働かないし、知覚も働かないが、
非想非非想処ではなく、
観法を行える状態にあるってことか?
64 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 11:19:28.18 ID:3Bjlgyqz
>>62 言語自体が「仮設した記号」なのだが。「イヌ」を「ネコ」と言っても、別に
構わないのですよw。
65 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 11:34:51.34 ID:FHexRY0b
>>63 違う。
観法を行える状態で、中論に説かれるような観法を行なって、
戯論寂滅の境地に入る。
そこでは、分別も知覚も働かない鎮まった境地だということ。
非想非非想処では観法を行えない。
>>64 言語自体は「仮設した記号」に他ならないが、
現代日本の言い習わしでは「イヌ」を「ネコ」と言っては通じないか、
ヤバイやつと思われる。
ここで言い習わしをあるがまま用いるわけ。
66 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 11:46:56.66 ID:3Bjlgyqz
>>65 >現代日本の言い習わしでは「イヌ」を「ネコ」と言っては通じないか、
>ヤバイやつと思われる。
「世間の一切の慣習」が認めれば、ヤバイとは思われない。すべては、「世間
の一切の慣習」に還元される。それから遊離するすべてのことがヤバイ。
67 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 11:51:51.86 ID:FHexRY0b
>>66 生命教か、困った人たちだ。
生命教、机、遊びとかはオイラにレスしないでね。
あと遊びはコテつけてよ。
68 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 12:11:22.58 ID:3Bjlgyqz
>>67 「一番困った人」は、あなたですよ。生命教では、世間はちっとも
困らないw。
>>68 御隠居殿
「世間」というのはそもそも仏教用語でして、色界・無色界を含む広い範囲を指します。
御隠居どのが世間という言葉で指し示している欲界という狭い範囲には限定されません。
【解説】欲界とは五欲(五感)に潜在意識の奥底まで束縛された人が認識している世界像
なので厳密に言うと
>生命教では、世間はちっとも困らないw。
は
>生命教では、欲界はちっとも困らないw。
が適切かと。
何せ、欲界だけが世間のすべてだと思い込んでいると、欲界の最上位の他化自在天にいる
かの連中は、だからこそかの連中としてあのようにあるわけです。
>>65 わかりやすい説明だな
それで、「分別も知覚も働かない鎮まった境地」と非想非非想処とでは何が違うんだ?
入る手段が違うだけで、状態は同じに見えるんだけどな
71 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 12:34:55.61 ID:3PoygNTw
>>53 蛇は消え綱は残る。
煩悩が消えたら世界の見え方が変わる。
煩悩まみれの孫悟空には、お釈迦様の指が宇宙の果ての柱に見えた。
72 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 12:40:17.09 ID:3PoygNTw
>>70 スマナサーラさんによると、悟る瞬間は色界心だそうで、
非想非非想処など無色界心で悟るわけではないとのこと。
色界心で観察対象(蛇)をしっかり観察する中で悟る(綱だったのかと目覚める)のであり、
観察すべき蛇が消えちゃう非想非非想処などの無色界心では悟る(綱だと気づく)チャンスがない。
仏教VSゼノサーガシリーズVS英雄伝説・零の軌跡全作品VSグノーシス主義VSクトゥルフ神話作品!?♪。
>>72 それはその通りかもしれないが、
戯論寂滅が「分別も知覚も働かない鎮まった境地」だとすれば、どちらでも同じことだろ?
そこらへんはどうなのかと思ったんよ
75 :
ノスタルジア :2012/08/28(火) 13:21:03.69 ID:QXjRjPPh
>>72 色界心って言うのは色界にいるってことではないかもしれないね。
色界の心を持っているって話。そして無色界心というものを探して見ないようにするということ。
だから禅定や苦行を捨てたお釈迦様の心境は、残存である、色界心が優位を占めて瞑想(観察)に入ったってことか?
76 :
ノスタルジア :2012/08/28(火) 13:30:30.72 ID:QXjRjPPh
他人の業により僕は十悪をするからな。だから普段は十善しかしない。その普段ってのはなかなかないんだけど。 光明を脳から食したり、色界心とはイメージの上で浄土と関係が深いんだろうな。 他の教えにより行動してしまうと、すべて十悪になる。しかし十善により行動してしまうのが私が無の上にいるってことだ。
77 :
ノスタルジア :2012/08/28(火) 13:53:11.99 ID:QXjRjPPh
光明を食するのは、当然減るからですよね?なぜに減るのか?それは、光明を使うからです。 どういう風に使うのかというと、自の光明を周りに分け与えたり、その因としての、自を犠牲に する根性故に、それが主な原因でしょうね。自が、全部の他の、表現者になるのです。
78 :
ノスタルジア :2012/08/28(火) 13:58:53.06 ID:QXjRjPPh
色界にいる菩薩ってそんなものだと思います。他から受けるそのようないろいろ なものによって疲れる。疲れるから減る。減るから光明を食するしかない。 だから食する。食しても食しても周りは動き回り人それぞれ情欲や色欲に振り回されるそんな世界でしょう。そんな心でしょう。
観が止をへてから行われるという日本の禅の常道はどうなるん
80 :
ノスタルジア :2012/08/28(火) 14:11:40.17 ID:QXjRjPPh
その迷宮ループからどうやって抜け出すのか?悟りでもなく菩提でもなく、 覚りでもなく、結局は南無阿弥陀仏であると思うのです。無の上は善である。 少しずつ少しずつ善の地平が全てを無とすることによって開けてきて、南無阿弥陀仏と称える私は有無を超越した者になるのでは?
81 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 14:21:47.62 ID:FHexRY0b
>>70 その違いはあれ以上説明しても体験しないと分からないと思うよ。
ただ簡単な違いがある。
非想非非想処では、果としてそこへ転生し、輪廻するが、
戯論寂滅し、涅槃すれば転生せず、輪廻から解脱する。
これが『梵網経』以来、伝統仏教で説かれる外道と仏教の違いですよ。
82 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 14:28:02.72 ID:FHexRY0b
>>79 「観が止をへてから行われるという」のは、通仏教ですよ。
『無碍解道』PTS97ff.: 滅尽定は止観を前提する。止は精神集中。観は、無常・苦・無我などの十六の観法。
『清静道論』PTS320: 定の等流は非想非非想処、観の等流は果定、止観の等流は滅尽定
滅尽定は止観を前提するので、観、つまり、縁起・空性、あるいは無常・苦・無我などの観法のある仏教の聖者だけが入り、外道は入れないという北伝系インド・チベット・シナ・日本の説と同じ。
83 :
ノスタルジア :2012/08/28(火) 14:28:50.62 ID:QXjRjPPh
>>79 僕は止観についてはいまいち知りませんでした。
しかし観も無、止も無、日本も無、禅も無、常道も無だからどうにもならんね〜
あなたが善人なら話は別ですが、極重悪人の凡夫である我我にそんなの関係ありませんよ。
>>82 いや、スナマサーらの色界心からという部分だが
>>81 体験しないと分からないと言われてしまうと、それまでだな
しかし、あなたは両方できるのか?
だとしたらすごいな
>>84 念仏者なら論註くらいには目を通した方がよくないか?
87 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 14:49:10.19 ID:FHexRY0b
>>84 色界心というのは、一般に色界定、四禅と言われるよ。
色界定、四禅で観を行うのが、一般というか、その集中力がないと観にならないし、
無色界定だと集中し過ぎて知覚が少なく、観にならない。
>>85 いやいや、戯論寂滅したらアルハット超えてますがな
88 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 14:54:41.47 ID:FHexRY0b
>>85 勘違いしないようにオイラは、ただのエロオヤヂだとキッチリ言っときますね。
>>87 なるほど、ところで観とは体空観でいいのかな
90 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 15:15:32.96 ID:FHexRY0b
>>89 体空観でも析空観でもいいよ。
どちらも観です。違いは器根でしょ。
体空観ができるなら、そっち。
できなければ析空観で地道に〜
見思、塵沙のちがいはどうする
92 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 15:27:51.66 ID:FHexRY0b
>>89 体空観でも析空観でもいいよ。
どちらも観です。違いは器根でしょ。
体空観ができるなら、そっち。
できなければ析空観で地道に〜
なんか、重いね
重いねw
94 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 15:33:26.22 ID:FHexRY0b
>>91 見思の違いは、見解で断じられる煩悩と、その後、長く修習することで断じられる煩悩でしょ。
塵沙のちがいって何? 塵沙って地上の塵の数ほどのカルパという意味だよね、その普賢行のこと?
二重投稿すまんです。
いわゆる空仮中の三観だよ、ググればわかる基本的な用語
97 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 15:53:08.17 ID:FHexRY0b
>>95 おお、それは知らんかった。天台は用語が特殊だから、あんまり知らないです。
なるほど、煩悩を四つに分類してるのか。
二分類と三分類しか知らないは。
それと、そっちはあんまり今の所興味ないんだよね。
相当、修行が進まないと微妙な違いはよく分からなくて。
98 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 16:10:53.29 ID:Xfa53Ijv
>>69 欲の全くない人間って何処に行けば見れますか。精神病院だけですねw。
いや、精神病者でさえも、よほど重症で無い限り、欲はあります。
そもそも、欲がなければ、人間は生きて行けません。宗教者も同じですw。
あんまりあほらしいことは言わないこと。
まあ、わりかし耳の痛いことを言えば、塵沙とは 宇宙観に表れている万般の学を修めようとしない怠惰の心であると 社会万般の事象について無知なる事柄があたかも塵のごとく沙のごとく多数である所から 塵沙の煩悩というそうだ、この煩悩は菩薩の限って論じられるもので 声聞縁覚には通じない。なぜなら菩薩は必ず衆生教化を行うから そのためには是非とも万般の事象に通暁しておらねばならない。 衆生の悩めるところを察知し、物心両界にわたって適切な救済をほどこし、迷を転じて開悟せしめないといけないから ただその惑体とするところの無知は、菩薩の化地の行をして実行不能にさせるものゆえ 煩悩というより、むしろ菩薩としての資格の缺欠させると言った方が適格である だそうだ
100 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 18:30:36.66 ID:Wdb9oAr0
思いっきり亀レス
>>74 戯論寂滅が
「分別も知覚も働かない」っていうのはどこソースなんだろ?
分別は置いておくとして、「知覚も働かない」ってのはどこに経証があるのか
「知覚が働かない」なら「あるがままに見る」こともないだろうに
101 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 18:40:22.43 ID:3PoygNTw
>>74 戯論(綱を蛇と見ること)が消えるだけで、綱が消えるわけじゃないでしょう。
悟ったあとは、ずーっと一生戯論がなくなっているはず。
ところで、宝彩有菜というエッセイストが、瞑想でとある体験をした直後、
車の運転など、慣れているためいちいち考えなくても脳がオートマでやってくれてた動作が、
いちいち考えないとできなくなった(脳のオートマがリセットされた)
という経験をしたと書かれていました。
分別がなくなるということと関係ある気がします。
102 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 18:56:39.64 ID:3PoygNTw
>>79 色界も禅定(止)ですよね。
さらに深い禅定が無色界(空無辺処から非想非非想処)。
お経極楽浄土の描写なんかは、極楽の菩薩には自分と他人を区別する感覚さえないと言われてるが、
しかし物質的世界は消えていないので、
あれは色界の世界を想定してるんでしょうね。
ざっと今見たんだが 小乗三蔵教には修行する三つの機類があるようだね 声聞、縁覚、菩薩の三乗だけど。これら三つの人は同じく析空観を習うようだけど それぞれの根性に応じて、所修の法門に不同があるようだよ いわく、声聞は四諦の法、縁覚は十二因縁、菩薩は六波羅蜜。 声聞は最鈍根で漸次に成覚を求める。四諦は略せば戒定慧であり広せば三十七道品。 細別すれば、四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道に至る三十七種の法門。約せば戒定慧の三学。 声聞が四諦の理を観じ、滅諦の果に到達するまでに経巡る位階断証は七賢七聖の位であり、これを経て見思の煩悩を断ずる。 七賢位は凡位(未断惑)の者が修行するところであり、三賢位と四善根位に分けられる。 七聖位とは簡単に言えば四向四果。 縁覚は因縁覚で十二因縁の道理を観察思惟して、見思の煩悩を断じ、習気の一分をも断除し声聞と同じくうよ無よの二涅槃の果を 証し、灰身滅智して真空の理に帰入する。だから、縁覚は声聞の如く階位をたてず一座成覚する。 この十二因縁の道理を観察する縁覚の法門に流転門の観法と還滅門の観法があるそうだ。 菩薩は六波羅蜜。まあ、みんな嫌がるやつだわ 菩提心を起こして、自行の進修と化地の救済を並べて行う人であり 菩薩の行程は大乗小乗異ならず、教理が異なる。 小乗でいう仏果とは釈尊のそれであり、菩薩は三祇百劫の長期間、見思の煩悩を制伏するにとどめ これを断じないでおく。それは自他兼済を主とし、菩薩行のtまえ常に三界に受生する必要があるから。 もう一つは、小乗は、正化二乗、傍化菩薩の教えであり、二乗の救済を本業とするから もし三界に生まれ続けために六度を修すと言ったら、二乗に対して矛盾を感じさせる恐れがあるから。 これを伏惑行因という。仏陀の悟入する涅槃界は、声聞縁覚が悟入する涅槃界と同一で、勝劣はない。 しかし、通教以下の大乗では、これを認めず。
通教というのは、大乗教であり、大乗教においても初門、入口であるそうだ。 通は共通の通であり、通同通入の通であり、二つの意味で通教であるという 共通というのは、三乗ともに通じて四諦を学び、十二因縁を習い、六度を修し、三乗ともに十地の位を経歴するのでこういう。 四諦十二位因縁六度を習学し、鈍根の菩薩は小乗を学び、利根の菩薩は早くも中道の理を見、別円(これは天台の教え)に入るとされる 通教は経があるわけでもなく、方等般若等の中に説かれる三乗共学の教えを取って通教と判ずるものであるそうで ある種、大乗経編纂過程から、小乗と大乗のつなぎとしてあるものと言うべきだろうか ところで、小乗教には有門、空門、亦有亦空門、非有非空門の四門の教法があるそうで、 有門は婆娑論や倶舎論、空門は阿梨跋摩の成実論、亦有亦空門は昆勒論、非有非空門は車匿所用の論のような教えであり 亦有亦空門、非有非空門は大智度論の中に指し示すのみで支那には伝訳されず。
106 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 20:33:18.63 ID:FHexRY0b
>>100 >「知覚が働かない」なら「あるがままに見る」こともないだろうに
そうはいってないっしょ。
とりあえず、『ウダーナ・ヴァルガ』26-24以下、及び註をあげよう。
ぴったりな問答が『入中論』にあるよ
寂静が真如であるなら、そこにお知慧は働かない。お知慧が働かずに認識
対象を持つことは全く合理的でもなく、全く認識が無いことが、どうして認
識になるのか? つまり、食い違う。認識者無しに貴方は他人に「こうだ」
と誰が教え示すというのか? 12-3
[縁起によって]不生が真如で、意識も生じることを離れた時、それらに依る。
だから、それで真実を理解するように、あたかも心がなんらかの姿あるもの
となること。それによって、その対象を完全に認識する。同じく習わしに依
って理解するのである。12-4
これに対する自註が以下だ。
この世では「その姿に添ったものを捉える時、意識によっ
て対象を知覚する」と言う。例えば、意識が青い姿を把握して生じた時「青
を認識する」と言うように、真如の姿に添った認識が生じた時「真如を認識
する」と仮設される。
その認識の姿に添ったことを教え示すために「不生が真如で、意識も生じ
ることを離れた時、それらに依るから、それで真実を理解するように」[12-4ab]
と述べた。つまり、その姿に依る門から定めるのである。「あたかも心がな
んらかの姿」[12-4c]などによって常識的譬喩を述べた。そして、それも解
説し終えた。それ故、仮設されたものから「真如を理解する」と定めるが、
実際には何かを何かが認識するのではない。なぜなら[不生の真如とは]認識
や認識対象の二つとも生じないことだからである。
107 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 20:46:58.23 ID:FHexRY0b
さらに『入中論』が典拠とする『智光明荘厳経』に次のように説かれます。 文殊よ! 不生不滅な時、意心識は働かない。そこに何の分別もな い。そ(分別)の妄想で理に適わぬ意識(不如理作意)も働かない。理に 適った意識(如理作意)を働かすことに努める者。彼は無明を起こさない。 無明を起こさないから、有の十二縁起が起きない。有の十二縁起が起き ないこと。それが不生です。文殊よ! 何か不生なこと。それは無欠で す。何か無欠なこと。それは了義です。何か了義なこと。それは勝義です。 何か勝義なこと。それは無人格な(無我の)対象です。何か無人格な対象。 それは言い表せない対象です。何か言い表せない対象、それは縁起です。 何か縁起の対象。それは法の対象です。何か法の対象。それは如来の 対象です。だから「誰か縁起を見る者は法を見る。誰か法を見る者は 如来を見る」と言われます。つまり、どのように探求しても観られない。 そのように観るのです。文殊よ! そこで「何も」とは何かというなら、 つまり、心と知覚対象[を何も]です。彼が心も知覚対象[を何]も観な い時、正しく観るのです。以上のようにそれら諸法を如来が平等性か ら同一だと正しく悟るのです。 つまり、こういう場合「観る」というのは譬喩表現に他ならないということですよ。
108 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 20:49:42.01 ID:FHexRY0b
>>99 なるほど、となると普賢行を行わないという意味の煩悩ですね。
浄土真宗的にいえば「七地沈空の難」
つまり、戯論寂滅の境地で涅槃し、普賢行を行わない菩薩の死と言われるものです。
109 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 20:51:47.22 ID:FHexRY0b
>>102 それは『華厳経』などで浄観・荘厳などと言われるもので、果としての境地です。
戯論寂滅、空性体験が前提となった、その果の境地です。
110 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 20:57:36.27 ID:FHexRY0b
>>103 そうですね。上に書いた通りです。
>>105 >ところで、小乗教には有門、空門、亦有亦空門、非有非空門の四門の教法があるそうで、
これは完全に四句分別ですね。
ですから、そういう部派があるというより、部派の見解を四句分別という論理形式で戯論を形成して掴んでいるのを中論のように遮断して寂滅に導いてあげるということだと思います。
これを戯論寂滅への導きと捉えず、思想分類と解釈すると、四句分別しても、戯論寂滅にならず、そういう見解として理解して掴んでしまうことになっちゃうので要注意だと思います。
論理的には小乗のほうが立ってると個人的に思うのだが やはり、衆生救済という面を重視した大乗仏教運動の興隆という背景を見れば 論理展開にしてもさもあるかなと思う次第。 通教は中道の教えを含むもので、説く教えではないというのが天台の解釈なんだよね で、鈍根で空寂の涅槃に入るものを結局、煩悩を断じ切れていないとすることになる。 そのの論理は、菩薩の扱いをめぐる解釈によっている。菩薩が受生する理屈。 まず、通教は小乗(三蔵教)から一歩すすんで、断惑行因とするため、仏果をうるときは最後のちょっとの惑だけで解脱できる、 だから一念で救われるとする。つまり、見思の煩悩の全分を断じ、さらに習気の一分(業の残りかす)をも断ずるから 第九菩薩地において存するのは残余の習気だけ(長い前世から残り)とする。 で断惑にもかかわらず転生できるのは、誓扶習生、つまり三界受生の誓願力をもって残余の習気を扶助するから。 蔵通二教がこのような教理にたつのは、 結局は、生死界と解脱界を全然別立させるからであり、生死界の外に解脱界をたてるから、煩悩を断じるにあたって生死と超絶してしまう。 通教は体空観を三乗共通の所修の行として無明の夢から覚めて真空の理を悟ろうとするものであるが 主観上の迷妄として生死の世界を観じ、生死の世界をすなわち解脱の世界と言わないため、誓扶習生と言わざるをえない。 しかし、実大乗によれば、諸法を中道実相の妙体とし、煩悩を断除するほど、生死に自在をえるとする。 日本では、蔵通円がごっちゃに論じられていると思う
112 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 21:37:00.06 ID:FHexRY0b
>>111 いや、論理的にも大乗圧勝でしょう。龍樹菩薩がいらっしゃるから。
ただ、パーリとか部派経典は分かりやすいのは確か。
大乗は甚深広大で、難解なものをあり、容易なものもありです。
竜樹は菩薩なので、つまり悟ってない衆生の一員扱いなわけだが、 如来にしようぜって運動は無かったんだろか。
114 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 21:46:46.39 ID:FHexRY0b
>>113 ないない、確か将来如来になる予言(授記)はされていたような
115 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/28(火) 22:20:03.08 ID:5oPJY0Qx
ID:FHexRY0b(オイラ:縁起一代さん)さん、大丈夫ですか? 一日中こんなスレにへばりついて妄想を書き連ねるのは、異常な精神状態を感じます。 「平常心是道」では有り得ません。 暫く、離れられてはいかがですか? どうか、御自愛のほどを。
オイラ様にいつもお世話意なっております。 西洋論理学と仏教の縁起の違いについて、石飛先生の論を理解できたか不安なので、質問させてください。 例えば、このようなことでしょうか。 西洋の論理学に、推移律「A→BかつB→C」よって「A→C」というものがあります。 西洋論理学の言い分:「A→BかつB→C」と記した時点で、同時に(無時間的に)「A→C」も含まれている。 一方、これを仏教の縁起的に考えると、 「A→BかつB→C」を頭に思い浮かべる。次に、これを因として「A→C」が想起され、果となる。 さらに、「A→C」を因として「これは正しい」が思考され、果となる。 このように縁起とは、順番になされる業と業の因果、というイメージでしょうか。 なんというか、西洋の方の論理学は、人間の心の様態を排して、無時間モデルで命題の真偽を確かめる一方、 仏教の縁起観から見れば、推移律だろうが三段論法だろうがトートロジーだろうが、 それらも結局は人の心の中に生起し、広がり続ける戯論にすぎない、ということでしょうか。
石飛先生って、中学生レベルの論理学を誤解して著書を書いちゃった人じゃなかったっけ?w 最近の著作は読んでないけど、少しはマシになったの?
>>116 それはオイラさんより石飛先生に直接質問したほうがよいのでわ
>>115 >一日中こんなスレにへばりついて
きっと、一代もお盆が過ぎてホッと一段落・・・。
娯楽(2ch)に没頭できるひと時のオアシスを味わっているのでしょう。
今回はまた熱が入っていて文字量も多く、
いつもはあまりしてくれない引用文の直打ち大サービスあり!
TV『ホンマでっか!?』で-脳科学の澤口先生が、
ネット掲示板の投稿は脳内麻薬の分泌をもたらし快感となって、
強い中毒症状(依存症)を起すといっていましたね。
自分の投稿にレスがつくと、それが批判や反論意見であれ、
これが強い快感をもたらします。
私も2ch利用して、早12年くらいになってしまいましたね・・・。
あぁぁ・・(苦笑)
120 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 07:20:53.64 ID:KLV/49vJ
>>116 私も石飛先生に直接伺った方がいいと思います。
ただ西洋論理学の問題は未だ不徹底ですが私なりに考えがありますので短く以下に述べたいと思います。
二点あります。論理形式と真偽です。
まず、論理形式ですが、仏教の場合、四句分別と中道があると思います。
四句分別は、x、非x、x且つ非x、非{x且つ非x}です。
中道はこれら四句分別を離れたものです。
これに対しパルメニデス、特にアリストテレスは四句分別を網羅しつつ、
四句の後二項をドグサ・非論理として排除し、前二項だけを論理として選択し、
排中律を設定します。
現代論理学もこの基本設定を免れていないように思います。
ですから、西洋論理学を前提として中道、端的にいえば中観を考えると排中律に基いて矛盾とか詭弁と考える学者が多いわけですが、それは単に中道・中観が分かってないだけのことです。
121 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 07:23:10.68 ID:KLV/49vJ
次に真偽です。仏教では真偽は「これあらばこれあり、これなくばこれなし」という此縁性・縁起に基いて設定されると考えます。 これはどういうことかというと、xであるということを、あるがままの習わしによって仮設されたセツナ的認識・知覚、法と捉えているということです。 これは対話の際にも適用され、法として知覚されたこと以外の観念的な言葉だけのことは排除されます。 言い換えると仏教的に真は、言い習わしによってxとされるアルタクリヤー(それと仮設された働き)を備えた法に一致するものということです。 ですから、常に実のある内容しか話題にならず、そうでないものは排除されるのが釈尊、龍樹菩薩の論理です。 ただし、最後にちょっと述べるように部派やゲルクなどで逸脱があるようにも思います。 これに対して西洋論理学は、命題や名辞の真偽、さらにはそれらを不問にして形式だけの真偽を扱うように思います。 しかも、命題や名辞は流動的な言い習わしと扱わず、勝手に定義して同一律を適応して一義的にあつかいます。 一度、xと定義したものは、いつでもどこでもxと考えるわけです。 この点が問いに対する主たる答えになると思います。 これはハイデガーが問題視したように「なぜ無ではなく、より何か有るのか?」というライプニッツの問いのような素朴な実在論信仰に依っていると思います。 仏教的に言うなら、有身見、あるいは我見ということができるでしょう。
122 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 07:25:19.47 ID:KLV/49vJ
これに反するのが以下の『スッタニパータ』757, 758です。 あらゆる条件(因縁)によって[xと]思う。それ(x)は[次の瞬間] それ(x)と異なるものになる。それ(x)はそれ(xと異なる)ゆえ虚 妄です。なぜなら[xと思う]虚妄な法はその場限りのものだから。不 虚妄な法は涅槃です。それを聖者は真実と知る。彼らは真実を現観し 無執着になり完全に涅槃する、と そして実在論に基づく論理学が如何におかしいか指摘したのが以下の『中観荘厳論自註』ad 63 です。 [物事は単一でも複合的にも成立しないという]論理ゆえ存在全ては[実在に]還元できないので、 ただ分析考察せず[習わしどおり]受け入れるべき本質としての本体を持つ。 例えば幻の象や人馬などのように。もし、そのように他人が[妄想]によって改変していない存在一切を本体と認定すると考えるなら、それを私が何で否定しよう? 彼らがこの存在の本体[火]を本質[熱さ]によって[火]そのものとするが、これは誰にとってもこじつけのない[習わしの]考えなのだから、これらを[形而上学によって]定めることはない。 仏教は言い習わしのあるがままにxとしそれぞれの状況に従って認めるが、実在論者はそれぞれの形而上学によって概念体系を構築する。 端的にアリストテレス的概念の体系、例えばラテン語による種の概念と定義体系に明らかなように実在論者は、それぞれの形而上学によって概念体系を構築し、それぞれが勝手に違う、違うと言い争い実りある対話は成立しにくい。 これは仏教にも起こってます。世親『五蘊論』やゲルクのドゥラという定義集をみれば一目瞭然です。 ですが、仏教ではあいての用法に応じて、その場その場で対話するので、実のある対話になる。正にアーガマ・ニカーヤでの釈尊の話し方がそうだと思います。
123 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/29(水) 09:36:07.51 ID:y6bP+Aco
仏法の本懐とは無関係な趣味的無駄知識。 実践的には、「非有非無」(中村元 龍樹p262〜)で十分。 看よ看よ臘月尽く: 看看臘月尽(虚堂録) 頭でっかちには、遂に法を観る(縁起の現観)はない。
124 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 12:03:07.41 ID:1iycxjYN
仏教徒は、修行によって人為的に生じさせた「変性意識」を「悟り」と 勘違いしている。 精神とは、あくまで「状況に応じて肉体(生命)を維持するために、 肉体から発する機能」に過ぎない。もっぽら「精神のために精神を使う」 のは、「精神の目的外使用」「精神の濫用」である。精神にとって極めて 有害で、結局は狂気に至り、肉体の維持を危うくする。 物の実在(物質・現実界)とは「五感で知覚され、かつ肉体(生命)の 維持に直接の影響を及ぼすもの」との視点を導入しない限り、存在論は どこまで行っても不毛な「観念の遊戯」に過ぎない。インド哲学でも、 存在とは「作用を有するもの」という要件を導入している。 古代の思想は未発達なのだから、いくら古文献の「言葉」のみを追跡 してみても、無駄というもの。常に、現代人の視点から、古代人の誤り を見出し、是正することが不可欠であろう。
下っ端は黙ってろ
126 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 12:14:02.75 ID:1iycxjYN
唯識がいくら「すべては心」と考えてみても、その心は肉体(生命)から発し、 生命は物質に100%依存しない限り維持できないのだから、あまり意味は無い。 しかし「心理学」という科学としては意味がある。「無意識」を、フロイトに 先立つ千年以上前に発見したのだから、驚くべきもの。しかし「無意識」を 「意識」したら、それはもはや無意識ではなくなることを、忘れてはならない。
127 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 12:24:35.30 ID:1iycxjYN
「アーラヤ識」も、結局は「肉体的生命」ということに他ならない。
128 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 12:44:59.28 ID:1iycxjYN
>>125 君たちは、古文献の言葉を初めから有難がり、それに執着しまくる下っ端。
129 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/29(水) 12:50:31.65 ID:y6bP+Aco
>>127 >「肉体的生命」
グロテスクな「唯物論的アートマン」の謂いでしかない。
それは粗雑な形而上的論議(戯論)として龍樹によって壊滅的に批判済み。
すっこんでろ!
否定という形で仏教を自らの権威付けに利用するってほんと器が小さいのな。
これで仏の道を学んでいるっていうんだから、困ったもんだな
132 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 12:55:00.24 ID:1iycxjYN
>>129 龍樹も釈迦も、その「グロテスクな唯物論的アートマン」によって思考したw。
釈迦とは違って、竜樹は、そんなアホナことは一切言っていないよ。
133 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 13:05:39.45 ID:1iycxjYN
新刊紹介: 「唯識とユガ行」(「シリーズ大乗仏教7)(第5回配本、春秋社、2012年 8月30日発行、定価¥2800+税)
134 :
アートマン論者 :2012/08/29(水) 13:50:38.21 ID:bZlkCZdf
求道者も、修行すべき道も、悟りも解脱もない!諸君、ゆえに「修行に専念し、夢夢怠る事なかれ!」
ついでだから修行も専念も怠るも無くしておいてくれよ。
アートマンの上にあなたの小さな個人性や人格を重ねおくな。そもそも束縛が無いのだから解脱もない。みずからの無限の栄光にみちた本性は常に自由無限定の自己であったと見て取り、即今只今自由になれ!自由と宣言したあなたはスパリと解脱だ
137 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/29(水) 14:13:08.66 ID:y6bP+Aco
>>132 >竜樹は、そんなアホナことは一切言っていないよ
老駄犬に芸を仕込むのは無駄だからもう打ち切るが、
・「非有非無」(中村元 龍樹p262〜)を眼光紙背に徹して読み直せ。
言語で表現せざるをえないこの間接現実では『非有非無』が直接現実を“示唆”できる言語的限界だ。(中論25-10・15・16)
・梵網経も批判する断滅論は結局、アートマンの<常住(有)⇔断滅(無)>を包含する二項相対論でしかなく、
非有非無の空=中道ではない戯論からだ(中論15-10・11)。
もちろんこのような見解も捨てねばならないことは金剛般若経やスッタニパータ874(前スレ
>>228 )にも明らか。
もっとも、お前の「唯物論的アートマン」は論理以前のハチャメチャであって、グロテスクというしかない。
↑ガンと一発、しびれる啖呵。花のア太郎江戸っ子かたぎ
ところで観法てなんなの?何を観るの? 空であることを随時見ていくの?
141 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 17:45:16.76 ID:nNAs24Zt
>>140 スッタニパータは、「分別の塊」のように思える。「分別しないという分別」w。
そんなものは余計。
やっぱ、輪廻転生あたりの構造が不和を産んでいるとしか思えないなぁ 断惑によって受生が可能かどうかというあたりで、 仏教の前提と不可分な失が明らかになってくるのではないかな そもそも蔵通二教は生死界と涅槃界を別立していないと思う まず、修行者は見思のゆえに業をつくり、その業によって死後来生してしまう そこで煩悩を断じれば、次第に涅槃が現れてくるわけだが 思うに例えば貪とは、永久不変の我ありと思うことが前提となって起こる習慣のような悪癖であり 食欲そのものではない。私という人格主体は認めつつ、これを無我と見て、私が苦悩を起こさないための必要さえ 満たされればよしとするのはおそらく貪ではないと思われる。 私に我があると思うから、食が満たされなかったときくやしいのであり苦を生み出してしまうのだから、 苦悩をおこさないためには、私がやがてその私ではなくなるという無我を透徹しさえすればよいとなるから。 見思を離れ、煩悩の残り香を滅してしまえば自然と涅槃が現れてくるのであり、 そこが私に我ありと思うことによって、生死の苦しみに陥ることなき世界に変わり、来生もしないという単純な理屈であると思う。 だから、生死界と涅槃界は同じ娑婆世界の出来事なのだよ というか、過去、未来世を設定することも必要であるのかも不明に思われる。 仏教の教説によらずして、救われるとする縁覚とは、つまりはインドにおいて一般常識であったアートマン思想の中に住んでいた 人たちが因果、因縁という、時間的空間的関係性の推敲のすえに我なしと悟るという過程ではないだろうか? 声聞乗には輪廻転生を見るような修行は存在しないのだ。 インドの人たちにとって、苦しみをとりさることは、神々に祈り、我をますます有りと既成事実化していくようなことであった。 そのような思考法の中で我なしと論理立てて分からせるには十二因縁しかないのではなかろうか。 というか、そもそも死後が存在するかどうかを決定することは苦をとりさるのにさほど重要なことであろうか。 空とは縁起のことであるが、無我を忘私と勘違いすることによって、実大乗への道が開かれ 頭でっかちの論理だけが先行して作られるような運動が起こり、実践者がその方法に迷うような事態が起こってしまったのではないか と思う次第。
書いた本人が自分が意味したいことを誤解のない形で書かないと 一代目の読者の段階で誤解が生じる。代を重ねたらワケワカランになる
144 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 18:26:39.06 ID:nNAs24Zt
>>142 >無我を忘私と勘違いすることによって
無我が既に有我の無我との分別。忘我が正しい。
145 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 18:35:27.11 ID:nNAs24Zt
初めから有我を前提とすれば、分別は生じない。忘我は分別ではない。 無我を思念するのは我であるから、無我はそもそも最初から成立しえない。
>>144 我はアートマンのことで、私は仮名人のことです
147 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 19:12:43.62 ID:ZzndlGZa
>>139 身は不浄である、受は苦である、心は無常である、法は無我である、
これに尽きるのではないでしょうか。
生死即涅槃ということは、つまり、この世を有と見る、万有の生死界と、この世を無相と見る、空の涅槃界とを どちらにも偏ってみるべき世界でないということであるが、 この空観と仮観から中観への過程というのは、要するに、どうしろと言っているのか分からないのだ。 また煩悩即菩提ということは、煩悩を拡充したものが如来の大慈悲心であり、煩悩と菩提の関係は糸一筋ほどの違いでしかない。 ここから、我々生死界に住んでいる者が見ている世界も涅槃界であるという見方にもつながる。 結局、今私が見ている世界の中に涅槃分が含まれており、あるいは仏分、菩薩分、縁覚分、声聞分、界内の六道の分もあり また十界がそれぞれ十界の分をもつとして、百界、があり、十如について百界あるため三世間で三千世間あるとされる よって空と有の間に三千世間があり、その三千すべてが空仮中の三観であるとする つまり、今私たちの生活が実は空観であるという結論になってしまう ということは、迷も悟も三千実相の一つである、じゃあなんで私たちは迷っているのか? 苦しむから、迷と悟の二対を産む。実は、我々は断ずべき煩悩も無ければ新たに顕すべき涅槃悟界も無い。 天台が法華経、長者窮子の譬えをよんだ結果、下した結論がこれ。 本覚思想に近い。大乗が衆生救済を過度に求めたためだろう。 元の仏教の形が抹殺されている感さえあると思うのは俺だけだろうか。 ちなみに、これは蔵通別円とある四教の中の円教であり、別は空仮中の次第三観により竪の階梯で涅槃をめざすのだが 小部屋に一つずつ、灯りをつけていくようなもので、一心三観の円教はすべてを少しずつ灯りを増していくようなものと例えるが 五十二位の階梯そのものの原理が異なり、結局別教の妙覚は円教の十行にあたる。
ホァオムキョン!生死といい涅槃というも、それらが有るとか無いとか考える無智な人間には存在し続ける。瞑想修行者の最高境地なんてものさえ「知識」とは必ずしも直結しない。
>>120 116です。丁寧な解説ありがとうございました。
論理形式については了解しました。
真偽についても、興味深く読むことができました。
なるほど、自分なりにですが、また1つ西洋の命題論理との違いに気付けました。
つまり、西洋の扱う命題が、現実(あるがまま)を見ることなく命題をたてるため、
まるで言葉が(現実を取り残して)独り歩きをしているかのような…イメージですかね。
命題の中の名辞として出てくるxも常住不変のxとして扱われ、それは無常の現実を映し出せていない。
一方、仏教の縁起観では無常な現実に対する知覚に沿って言葉が仮設されるので、
実のある内容しか話題にならない…ということ、ですよね。
また、実際に知覚されたことに対してxと仮設するため、
言葉としてのxも、xという名で指示された実際のxも、まとめて「法」とひと括りできる、
ということでしょうか。
西洋では、命題と、命題が指し示す現実を独立に考え、それらをすり合わせてその真偽を確かめる、
という方法だと思いますが、仏教ではこのような分け方はしない、と。
151 :
アートマン論者 :2012/08/29(水) 19:44:50.95 ID:bZlkCZdf
ただ必要なのは、自己への信念のみである。
物質はひとつの限定であり、音の有るところ必ず名称と形態→つまり物質が有る。よって言語は物質である。言語が限定されているのは論を待たない。身体と心、知性、瞑想修行者の超越意識さえアートマンには達しない。そしてそれを証明するすべはない
153 :
アートマン論者 :2012/08/29(水) 19:59:17.73 ID:bZlkCZdf
言語証明には必ずや二限性の知覚を前提とする。とすれば、もはや言葉でそれを表現したら絶対者を限定してしまう。絶対者との合一は証明不可能である→それをブッダは戯論として排斥した→しかし真理は、存在は人間の認識を前提としない。その必要を認めない
154 :
神も仏も名無しさん :2012/08/29(水) 20:05:58.47 ID:KLV/49vJ
>>150 >言葉としてのxも、xという名で指示された実際のxも、まとめて「法」とひと括りできる、
>ということでしょうか。
>西洋では、命題と、命題が指し示す現実を独立に考え、それらをすり合わせてその真偽を確かめる、
>という方法だと思いますが、仏教ではこのような分け方はしない、と。
全く仏教はしないわけでなく、アビダルマや仏教論理学派などは分けても考えます。
しかし、釈尊や龍樹菩薩は分けて考えず。単に言葉のみのことは問題にしないと思います。
後代では、それをアルタクリヤーの有無で判断するようにもなりました。
この釈尊や龍樹菩薩の考えに接近したのが、ハイデガーとウィトゲンシュタインだと思います。
二人とももう一歩というところで残念ながら、突き抜けられなかったように思います。
155 :
ノスタルジア :2012/08/29(水) 21:14:24.85 ID:OeIzM1Y6
インド哲学と仏教って俺は重ね合わせられないな、むずかしいな〜 俺はアートマンにブラフマンとプルシャとプラクリティが内包していると見て 考えはするけど、その構造モデルを仏教に照らし合わせるってなかなか出来そうで出来ないことじゃないかな〜。
156 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/29(水) 23:06:27.19 ID:y6bP+Aco
>>150 >一方、仏教の縁起観では無常な現実に対する知覚に沿って言葉が仮設されるので、
>実のある内容しか話題にならない…ということ、ですよね。
あんた、自分が何言うてんのかわかってんのか?
チンケ学者とかあ、固定「仏教」趣味者になりたいなら、
成道妨害無駄知識で勝手に裸踊りさらせ。
多少でも実践的な「道の人」の感覚があるんやったら、
アタシの好きな趙州和尚が言下に於て頓悟(とんご)した
『南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。
泉云く、平常心是れ道』に深く参入されんことを。
157 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 00:00:02.50 ID:Fyfur6bX
>>148 >元の仏教の形が抹殺されている感さえあると思うのは俺だけだろうか。
元の仏教とは本質的に異なる「全面改良型の新製品」だから、当たり前では
ないの。そんな新製品が出たのに、旧製品を買うバカはいない。
その天台宗結論で完璧ではないの。何処が問題?
>>157 世の中には、旧製品の方が大好きな人も居るんだよw
159 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 00:14:17.85 ID:qqyzB5fZ
どのへんが劣っていると思ったの?
そういえば、 キリンが、クラッシックラガーなる製品を出してるなぁ・・ 復刻版ってのもよく見かけるなぁ・・・ 社会制度、各法、組織のシステム、在り方etc.etc.etc. 旧体制に戻るケースも沢山あるなぁ・・ 新しいから素晴らしい、新しいから優れている、 なんてのは幻想以外の何ものでもないなwwwww
162 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 00:25:29.07 ID:qqyzB5fZ
>>160 >>148 に書かれている、天台宗結論だけからでも明らか。
一般に、新製品は旧製品の欠陥を是正し、改良したものであることが
常識。
そうそうw ウィンドウズなんて、XPの評価は抜群だったが、新製品・次世代Vistaは糞だよなぁ・・・w で、7の登場だろ? 新製品が旧製品より優れていないことがあり得る証拠だよなぁ・・w
>>162 つまり、全ての宗教をごっちゃ混ぜにして再構成した幸福の科学が、至高の逸品と言う事ですな!
って、ねーよw
新製品にだって欠陥はあるし、時代や場所に応じて修正した部分だって、別の所に行けば、適合しない部分も出てくる。
十二因縁の流転輪廻と声聞の階梯と菩薩の衆生救済をごちゃまぜにしてまったく新造されたって感じ で、菩薩の優れていることを主張するためにどんどん壮大なことを言っていくうちに誰もそんなことできねえよってなってしまった。 天台は教観二門、教相判釈教理の大綱だけでなく、円教を体験証得する法華経実践法門として摩訶止観がある。 智目行足といい、智の教と行の観でもって悟りへと歩み至る。 この観法から念仏、禅へと移行し、鎌倉新仏教ができたのはせめてもの救いだよ
私なら、同一系統の新旧としては見ず、 パーリ:MacintoshとかiPhoneとかiPadとか 大乗:WindowsとかGalaxyとかがGalaxy Tabとか って見ますがね。Macのマウスはボタンが少ないのが良いのです。 それをボタンを単純に沢山増やして、どうだ、って自慢する思考がWindows。
>壮大な事を言ってるうちにできねえよ…菩薩道の否定か。人が犯しやすい過ちは、この人生だけが本物であとは夢物語と無意識的に捉えがちな点だ。あえて百万回、百億回、百兆回、百ガイ回、輪廻転生して衆生済度しようとする忍耐力が無い
でなければ衆生無辺誓願度は口先だけの嘘っぱちという事になる。無量劫に渡ってあえて菩薩の方便と知恵を押し通す勇者こそ必要で、鎌倉祖師特に浄土宗を非難するつもりはないが…
>>167 そうじゃなく、
単純に、自分を放下できないからでしょw
自分可愛さ・自分に御褒美を断ち切れないからでしょ。
苦難・悩み、不快を避けたいと思うからでしょ。
菩薩行は、そうした自我の保全を潔しとしないことの極だから。
そりゃ、“一般的”でない(→好まれない、求められない、遂行し難い)のは当然でしょ。
衆生救済は否定していないよ 流転輪廻と衆生救済をセットにして悩める衆生あるかぎり自在に応現して救済するというような観世音菩薩信仰のような 美談を実際問題真剣にやらないといけないというようなことを修行者に課した時点で 仏教から救いなんてなくなったも同然じゃないか 浄土教の結論は俺はできないと認めることで、逆に救われる、その思いに共鳴するという逆説的教えだからこそ うまくたためたにすぎないぞ 禅は知らんが、どうせあいつら何も考えてないだろ
畜生の世界とは違い人間の世界は互いを喜ばせあうことで成立しているのだから、 菩薩行により人を喜ばせて自分が苦しむということは本来ありえないことなのだけどな。 って言ってた、偉い人が。
172 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 01:37:33.51 ID:qqyzB5fZ
>>171 偉い人だけでなく、一切衆生に分っていること。分らないのは釈迦教徒だけ。
173 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/30(木) 01:48:44.02 ID:rTRDKeTH
なにが衆生救済菩薩行だ、笑わせる。 口先ばっかりの、偽善 キ・レ・イ・ゴ・ト >禅は知らんが、どうせあいつら何も考えてないだろ お前らのような衆生救済とかのチンケ理屈を考える前に、手足が動く
智慧から慈悲へのシフトなのかね もともと智慧しかなかったらしいからねぇ 己の空のみを考える阿羅漢と異なり、仏陀の衆生救済の因を考えていくうちに過去世の菩薩なる概念をつくり、 仏陀の当世の智慧格別なる因を考えていくうちに、過去における六波羅蜜を そして、菩薩の優位性を肯定するために、断惑しながら受生するという誓願、回向なる概念をつくり、 過去世があるから、未来世もあるはずで、菩薩は断惑しながら、衆生救済のために未来永劫生死界に留まり続ける 理想の菩薩像をつくりあげた。 こういう経緯なんじゃ?
175 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 02:03:09.39 ID:qqyzB5fZ
今、新刊の「唯識とユガ行」(シリーズ大乗仏教)を読んでいるが、初期唯識 の「心のみ」が後期唯識では「外界実在論」に180度転換しているのには 驚いた。これでは唯識の名に値しない。 「知に顕現しているもの」とは妄想以外の何物でもない。カントの「物自体」と 同じ。 やはり私の「五感の知覚という本則と、生命の維持に対する直接の影響という 補助ルール」という存在論を超えうるものはない。
こういう前提がおこる背景には相当な社会的な貧困と苦しみ喘ぐ民衆がいたんだろうな あるいは仏教信仰をしていた富裕層の没落か
なんか三歳児のラクガキを世界最高峰の名画だと言い張られてる気分
178 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 14:27:49.82 ID:+XHEhO3w
>>177 それを信じ込ませるのが、まさに宗教w。
179 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 14:32:27.93 ID:+XHEhO3w
釈迦の「無我」「一切皆苦」などの勘違いに無理やり合致しようと するから、論理が現実から遊離し、ワケわかめになるのである。
無我なのに心はあるの?じゃあこの心は誰の心なのさ
>>180 「誰の」という修飾のつかない、只の「心」でしょ。
182 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 17:04:45.26 ID:ashjN0ZW
>>166 むしろ、釈尊がunixで、パーリがwin、大乗がunixベースのmacでしょ。
>>180 無我という時は、有るとか無いとか、有り且つ無いとか、非有非無というような何らかの論理的な認定がない境地、戯論寂滅を目指すから、
心も有るとか無いとか、有り且つ無いとか、非有非無と言うことができない戯論が寂滅しているわけ
そうでなく一般的な言い習わしに従って言葉を使う場合は、心は誰かの心だし、我も「有る」とか「無い」とか言うわけ。こちらは仮設です。
>>182 >釈尊がunixで、パーリがwin
系統が断絶してるって・・・
そんならパーリなんか研究する意味がない
MacOS ]が出てUNIXになった時はワクテカしたわ
龍樹はwinからunixを透かして見て中論を造ったことになるな
186 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/30(木) 19:21:59.45 ID:rTRDKeTH
>>141 >「分別しないという分別」w。そんなものは余計。
>>145 >>175 >無我を思念するのは我であるから、無我はそもそも最初から成立しえない。
>論理が現実から遊離し、ワケわかめになるのである
>>180 >無我なのに心はあるの?じゃあこの心は誰の心なのさ
いずれも二項相対の間接(縁起)現実のままだから、論理矛盾は解消されない。
これを西田幾多郎は絶対矛盾と称した。
しかし縁起の直接現実(あるがまま)において時空際断=空=中道であって、執着すべくもなく,苦は超克される。
ワケわかめになるのは論理そのものが直接現実から遊離しているからである。そこにおいて論理は非有非無である。
ところが、これを西田幾多郎は自己同一と称した。
しかし自己そのものは非有非無であり、様相は不一不異である(中論 帰敬序)。
西田哲学は結局、本質主義であり、不二一元論の反仏法である。
<(間接現実において)もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修業を完成させなさい。>
187 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/30(木) 19:27:43.63 ID:rTRDKeTH
>>175 >五感の知覚
その五感の知覚なるものがいかにもたらされるかを徹底して考究すれば、(←間接現実)
存在の不思議(相対思考がとどかない)に直面する。
⇒ 第一義空経<十二支縁起批判(除俗数法):直接現実(縁起の現実=あるがまま)の示唆>
思考するなら徹底せよ。お前の現状のように、こんな中途半端で思考を固定=自己満足=するな。
存在は本質をもたない(たとえば素粒子は波でもあり粒でもありなど多様な性質が関係性ゆえに同時観測可能であって、
それ自体=物自体なるものが非有非無=縁起=空=中道といわざるを得ない)。
一切において、自立・単一・恒常なるものはない。
ゆえに、縁起の直接現実(あるがまま)=仏法に直面する。
<(間接現実において)もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修業を完成させなさい>
188 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 19:33:58.76 ID:39XgkBN/
>>186 「自己同一」なら、「絶対矛盾」など初めからなかったことになる、西田は
論理矛盾。
西田はキリスト教の影響を受けている。
「直接現実」のほうが仮設である。そんなものはない。現実とは一義的なもの。
さもなければ、人間社会はたちまち崩壊する。ちょっと考えただけで分ること。
189 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 19:39:35.45 ID:39XgkBN/
>>187 修行による「人為的な変性意識」を、「悟り」と勘違いしているw。
それなら、麻薬のめばいつでも悟れるw。
190 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/30(木) 19:55:25.79 ID:rTRDKeTH
>>189 麻薬が切れれば、苦しみの間接現実のままだと気づく。
サマディが覚りではないのと同様だ。
サマディはあくまで間接現実での様相でしかない。
ヨガ連中はこのことが掴めていない。
<(間接現実において)もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修業を完成させなさい>
191 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/30(木) 20:01:45.93 ID:rTRDKeTH
>>188 論破済み(→中論25-19)
セクシー比喩で
コンドームセックスもナマセックスも、
オチンチン<縁起の「現実」(あるがまま)>であることには変わりがない。
隠居はインポでないなら、コンドームを取れw
192 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/30(木) 20:08:10.04 ID:rTRDKeTH
>>188 >西田はキリスト教の影響を受けている。
ヒンドゥー教(特にヤージュニャヴァルキア)だよ。
ブラフマン(本質)主義者だ。
その意味で西田の思考は禅ではなく密教的だ。
心の清い人にだけ見えるとか言って見えますって言わせるのってどうなの?
194 :
《アラシを呼ぶ男》 ◆Arasi/MT2E :2012/08/30(木) 21:45:15.63 ID:WUeB5NbL
195 :
《アラシを呼ぶ男》 ◆Arasi/MT2E :2012/08/30(木) 23:29:04.42 ID:WUeB5NbL
>>182 一代氏
WindowsはUNIXの派生ではなくてBSDとは完全に別の出所から発生したものですよ。
その点においてもちょうど大乗の経典群の出所と相応します。
とはいえ、MS-Windowsはアイデア的にはUNIXの影響をモロに受けている一方で、
「大衆化路線」で、普及したわけです。
一方、経典の複雑化は避けて保守に傾いた一方、少数の出家者(プロのエンジニア)中心に
血脈を受け継いできたパーリ仏教(UNIX)。
OS-Xも一応、れっきとしたBSD系です。
BSDは当然釈尊で。
まあLinuxみたいなBSDなんだかSystemVなんだかわけのからない変わり種もいますが……。
>>196 ×BSDは当然釈尊で。
○UNIX(AT&T)は当然釈尊で。
198 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 00:17:19.25 ID:W1kunVvg
>>191 >論破済み(→中論25-19)
中論25:19は、「世俗と涅槃との間には如何なる区別もない」、即ち両者
は「全く同じ」と言っている。
中論は、そんな「無意味な分別」はしない。
「世俗的なことに基づかなければ、第一義は説示されえない」(中論24:10)。
ということは、「世俗=勝義」である。これが自覚できることを「覚り」と
いう。大乗仏教の「生死即涅槃」とは、この覚りを意味する。
要するに、君は、まだ覚っていないということw。
仏教界には、コンドームとナマ以外の、もっと適切なたとえはないのかねw。
ナマだと、自分は気持ちイイかもしれないが、エイズや性病の感染、妊娠の
恐れがある。ナマはバカがやること。
199 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 00:51:38.47 ID:W1kunVvg
中村元博士は、「世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことは 出来ない」と訳している。「世俗の表現」とは、「世俗が理解できる表現」 「世俗が共感できる事柄」「世俗的なこと」の意味。 「世俗に理解できない難しい言葉」でいくら語っても、究極の真理、涅槃には 到底到達できないということw。
修行のときに空空言うのはいいんだけど、議論してる最中に空空言う人いるでしょ? ありゃダメだ。
修行のときも空空言ってると怒られますよ。 なにその執着の塊って。
202 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 05:39:54.21 ID:7v5wWJDS
>>196 私は大乗、特に龍樹菩薩こそ釈尊を完全に再現した方だと考えていますから。
まあ、譬喩なんでピッタリあいませんが、win のビジネス一面性が、上座部に似てるかと
203 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 07:12:47.51 ID:DAAHqzAV
>>198 >>199 いかに言語(間接現実)で直接現実の様相を『(間接)示唆』しようとも、
間接現実の範囲内であって、言語では直指できない、ということだよ(ゆえに直指人心)。
縁起の現実(あるがまま)そのものは分別知覚記憶フィルターを通す(→苦)以上は
時空という「変容・歪」をうける。
だからこそ無分別智で縁起の現実(あるがまま)そのものを直覚・体得して透過し(色→空)、
そのまなざしで世間(間接現実で「生き」ざるを得ない)で慶安にあること(空即是色)です。
宗教憎しで、意図的に強引に否定して遊ぼうという以上、道の人ではなく、
縁なき衆生です。
宗教とは、おもな教えであり子供の絵本と変わることがない 道の人とは絵本に拘ることなく己が仏心の探求者である
205 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 08:38:56.57 ID:DAAHqzAV
>>204 >己が仏心の探求者
⇒ゆえに直指人心(
>>203 )
<(間接現実において)もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修業を完成させなさい>
無限の全体的は活動出来ないし変化も出来ない。限定された個我、心、肉体は一秒ごとに活動せざるを得ない
207 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 10:03:03.57 ID:7v5wWJDS
>>206 それはヒンドゥー、特にヴェーターンタのような見解で、仏教では否定されますね。
諸々の事象は過ぎ去るものである。しかし「自己」が本来的に変化せず、無限であり、Etc…と自覚する者は修行の必要は必ずしもないのよ
209 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 10:13:25.14 ID:7v5wWJDS
>>208 いやいや、それは三昧の境地を勘違いしたものでしょう。
少なくとも仏教では『パーリ梵網経』以来一貫してそう捉えられていますよ。
死すべき肉が、やがては崩壊する心や知性が修行するとかしないとか意味あるんですか?
211 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 10:41:52.71 ID:7v5wWJDS
>>210 私はあると思いますよ。
なぜなら、死んでも解脱しない限り輪廻すると信じるから。
もちろん、信じない人はそれで結構です。
もともと束縛されていない者が解脱する事は無いでしょう?ただし、菩薩行を行う人は別ですが…このスレで菩薩行(普賢行)に否定的な人が多く戸惑ってしまいます
213 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 11:06:02.68 ID:7v5wWJDS
>>212 いやいや、そんなことないですよ。
単に無自覚なだけです。
例えば、発病も検査もしてないエイズ・キャリアのようなものです。
まあ、仏教の体系内で話さないなら、ここで議論するのは無駄だと思います。
自分という認識があるから他人という認識が存在する。 無我とは自分と他人という認識がないこと、認識そのものが存在しない。 自分という分離した認識がある限り、再び肉体を持つことになる、と私も思っていますね…。
215 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 11:41:40.61 ID:7v5wWJDS
>>214 大筋、そんなかんじでしょ。
自分、自分、オレチャン、おれちゃん、と大いに膨らまして掴んでる思いが無明、無知蒙昧に他ならず。
そんな思いから開放されるのが解脱、そのためのヒントとしての道が、無我・縁起・空性と仮設された言葉なわけで。
>214自己があって他者がある→自己と他者は本性一体だと考えられませんか?そうしてはじめて菩薩行の土台が完成します。
解脱していない自分という思い込みに解脱しなければならない自分という観念(煩悩)をもうひとかわ覆いかぶせ、自縄自縛するのが、果たして仏教でありましょうか?私は違うと思います
自己があって他人があるという認識がすでにもうと注意されるがな。 他人があって自己があるという認識がさらさらないあたりに自己中心の考えが。
要するに自分も他人も同一のものだということですよね。 そこに分離は存在しない、それが真に分かれば無問題、だと…。
そう思いたいならそれで修行続ければいいんでない? 口でのみ大風呂敷広げてないでさ。
>それ、梵我一如でしょ。ブッダはブラフマンを見た者はいるか?とバラモン達に問い、彼らは皆「いいえ、見た者はおりません」と答えた。ブッダもバラモン達も両者とも過失を冒した
223 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/31(金) 12:30:16.46 ID:DAAHqzAV
横槍だが、許してちょ
>>216 >自己があって他者がある→自己と他者は本性一体だと考えられませんか?
考えられません。 あなたの論は隠居と同じ間接現実固執です。
それは反仏法の西田哲学的誤謬です⇒
>>186 自他不二というのは自と他を既に分別した上での、
本性一体だの合一だのという「判断」そのものであり、間接現実内での妄想です。
間接現実で直接現実の様相を示唆するなら、自と他は不一不二&非有非無→空・中道←仏法です。
このことを既成日常間接現実での分別知覚では掴み得ないから、
『怠ることなく、修行を完成しなさい』というのがブッダの遺言です。
そもそもブラフマンは見たり聞いたり知ったり認識出来る対象でないからブッダの問いは無意味なものである。一方バラモンは見えないと答えた事で、それでもすべての現象事物宇宙は「限定的」ブラフマンの現れと答えなかった
この観念は往々にして恐るべき信条を人間に課す。殺人鬼の内にも自己を認めなければならない。しかし事態はまさにこの通りである。「心と仏と衆生の三つに差別無し」の意味を少しだけ「かする」しかし心は以前、自己ではない
226 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/31(金) 12:40:09.85 ID:DAAHqzAV
禅でも自他不二妄想から、 鈴木大拙のように、問いと一体になることが禅だというやつが多数。 こういう不二一元論がヒンドゥ的梵我一如論の密輸入だとの自覚がない。 大乗仏教(爆笑)ではこの類の反仏法が蔓延している。 だから、アタシは仏教徒などではありえない。
方法論としてのアートマン否定も悟りには導くだろう。大乗仏教は西北インド・パンジャブ地方の民族の十字路で発生したとすれば保坂俊二氏の主張するように、他宗教との共存の必要性からの多元化によって生まれたのだから当然
228 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 12:49:52.06 ID:7v5wWJDS
そりゃ、大乗じゃなく日本近代仏教の一部でしょ。 そう大乗を読むのは単なる誤読。 非有非無を中道と勘違いするのと同じっす。 まあ、言うだけ無駄だが、他の人のためにたまにはいっとこ。
>>222 いやいやいや、ブラフマンて、要はブラフマーの人格化であって、意味は世界原理でしょ
230 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 12:59:28.26 ID:/IX+wrse
>>223 >『怠ることなく、修行を完成しなさい』というのがブッダの遺言です。
「修行しろ」「修行しろ」(By 麻原)
ブッダと麻原とはどこが違う?w
231 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/31(金) 13:01:06.99 ID:DAAHqzAV
>>228 >非有非無を中道と勘違いする
中村元 龍樹 p262〜
非有非無も中道も間接現実言語そのものであって、〇〇〇〇〇を示唆できるにすぎない。
〇〇〇〇〇にて戯論寂滅
232 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/31(金) 13:02:47.11 ID:DAAHqzAV
>>230 >ブッダと麻原とはどこが違う?
それは体験者であるオイラ氏に聞けよw
ブッダは痩せ型、麻原はメタボ…
234 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 13:17:30.04 ID:7v5wWJDS
>>231 中村先生なんか根拠にすんな。ほれ、中論25-19・20の後読んでみろ、
註に「非有非無亦無」非有非無もない、と書かれてるぞ。
本頌も一貫してそう。君が誤読した所は、四句分別の二項だけで他の二項が省略されてるとこでしょ。
他の註もそう。そして六十二見という『梵網経』のテーマであることが註されている。
これは清弁、アティシャでも確認できるんだよ。
T1564_.30.0036a27: 一切法空故 何有邊無邊
T1564_.30.0036a28: 亦邊亦無邊 非有非無邊
T1564_.30.0036a29: 何者爲一異 何有常無常
T1564_.30.0036b01: 亦常亦無常 非常非無常
T1564_.30.0036b02: 諸法不可得 滅一切戲論
T1564_.30.0036b03: 無人亦無處 佛亦無所説
T1564_.30.0036b04: 一切法一切時一切種。從衆縁生故。畢竟空
T1564_.30.0036b05: 故無自性。如是法中。何者是有邊誰爲有
T1564_.30.0036b06: 邊。何者是無邊。亦有邊亦無邊。非有邊非無
T1564_.30.0036b07: 邊。誰爲非有邊非無邊。何者是常誰爲2是
T1564_.30.0036b08: 常。何者是無常。常無常非常非無常。誰爲非
T1564_.30.0036b09: 常非無常。何者身即是神。何者身異於神。
T1564_.30.0036b10: 如是等六十二邪見。於畢竟空中皆不可得。
T1564_.30.0036b11: 諸有所得皆息。戲論皆滅。戲論滅故。通達諸
T1564_.30.0036b12: 法實相得安隱道。從因縁品來。分別推求
T1564_.30.0036b13: 諸法。有亦無。無亦無。有無亦無。非有非無亦
T1564_.30.0036b14: 無。是名諸法實相。亦名如法性實際涅槃。
235 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/31(金) 13:34:44.34 ID:DAAHqzAV
>>234 >註に「非有非無亦無」非有非無もない、と書かれてるぞ。
あたりまえやろw
間接現実ではどこまでいっても相対矛盾から逃れられない→我執⇒苦。
>>234 のゴタクなんかぜーんぶ(直接現実の様相を示唆しようとした)間接現実言語そのものだ。
いくらゴタクを並べてもアカン。
四句そのものも寂滅する。
ゆえに、
非有非無も中道も間接現実言語そのものであって、〇〇〇〇〇を示唆できるにすぎない。
直接現実は〇〇〇〇〇にて戯論オール寂滅なんやでw
たとえば『是名諸法實相』とエラソーに言うても実相⇔虚相の矛盾からは逃れられんのや。
だからこの間接現実ではいつまでも矛盾がつきまとう←これに気づくか、得心できるかが関や。
236 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/31(金) 13:36:49.37 ID:DAAHqzAV
龍樹得意の勝義諦=究極の「真実」なんてあらへんのやw
237 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/31(金) 13:43:48.18 ID:DAAHqzAV
訂正 × 「真実」 〇 「真理」 どっちでもおんなじやけど。 但し、間接現実では当然「真理」は戯論として成立する、 それは直接現実にて寂滅する。
238 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 14:06:29.45 ID:7v5wWJDS
要するに単なる神秘主義。なんも分かってないんだって。 間接現実・直接現実って、仮象・実在、マーヤー・アートマンという発想のいいかでしょ。 それじゃ仏教にならない。もちろん仏法でも同じ。そんな記号を言い換えてもしょうがない。 分かってないって自覚しろよ。 生命教と一緒なんだって、書いてあることで自分の理解を超えたことがあると、簡単に書いてあるを否定したり、解釈したりしちゃう。 それじゃ、読む意味ないだろ。要するに権威付けのために引いてるだけ。 最初っから最後までオレチャンしかない。
要するに心臓なんだな…心臓が死ぬのが怖いとか、ホラー映画観てバクバクするようでは、俺俺ちゃんなんだな。いくら戯論寂滅とかなんたら語っても
いきなり不慮の事故や病(末期ガン余命3ヶ月)とか、そういう状況下でも心臓がまったく反応せず、呼吸も荒くならない。そういう肉体の観念がまったく無い人じゃないと
241 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 14:28:17.75 ID:7v5wWJDS
>>240 そりゃ違うと思うけどなあ。
業の現れはあるから、苦や気持ち悪い思いは縁起するが、解脱・涅槃した方は、その現れに揺れない、流されず新たな業を作らないと考える。
だからこそパーリ涅槃経で釈尊も下痢して苦しんでるでしょ。
まあ、これについては異論もあり、難しい問題だとは思うけど、少なくとも仏教では肉体はそれほど重要じゃないよ。ジャイナとの対比で決定的なのはそこ。
仏教は心の流れ、動きを重視することは間違いないでしょ。
だから、そういう付け焼き刃な知識が現実問題、俺やキミを救うかって事だよ…呼吸の乱れは想念の乱れ迷いだから、死ぬのが怖いなどと考えるうちは無明っしょ?生への盲目的意志、生への無意識的執着、生存欲は苦の認識が欠けている証拠(基本仏教四聖諦)
243 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 14:43:09.25 ID:7v5wWJDS
>>242 いや、オイラは伝統仏教で文献学も含め20年以上やってきてるんだが、付け焼刃かな〜
救われてると思うよ。もちろん、こういう高度な問題ではなく、もっと初歩的な部分でだけど。
しかし、初歩的な話や、菩提心などはここで問題にならないので話してないだけのこと。
オイラは基本的に答えてるだけのつもりだから、自分から言い出したことは基本的にないつもり
自己顕示欲の塊がなんかゆうちょるわw
245 :
1/2遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/31(金) 15:39:47.82 ID:DAAHqzAV
>>238 >要するに単なる神秘主義。なんも分かってないんだって。
ホント、だるいなあw、
なんも分かってないのは分類ペンキ屋・身勝手納得屋のあんただって。
神秘主義てーのは、自己の内面でアプリオリな「絶対本質」との合一体験(脱我←エクスタシー体験)で「真の自己」の復活を遂げようとする思想だろ。
こんな「絶対本質」とか「真の自己」妄想など形而上学的思惟であって戯論そのもの。
この手の執着妄想なんていくらでもあるが、代表はヒンドゥーの梵我一如論だとか、密教なども含む、いわゆるタントラ教だとかだ。
西田幾多郎(純粋経験)とか鈴木大拙とかの似非(臨済)禅もそうだ。
仏法には無我(アナートマン)、捨我執にて候。
あるがままの事象は非有非無の素粒子の縁起によるたえざる集合(よって無我)変化(よって無常)であって<←縁起=空> 、
その様相は無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相。
ゆえに、なんであれなにものも執着されるべきでない−“Sabbe dhamma nalam abhinivesaya.”。
このような仏法が神秘主義ごときではありえない。
「真の自己」なんて観念はあくまで間接現実内での妄想でしかない。
その意味では、アタシは完全な反神秘主義反本質主義者でござんすYO。
246 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 15:40:58.09 ID:7v5wWJDS
オイラはエロオヤヂですが、何か?
247 :
2/2遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/31(金) 15:41:45.16 ID:DAAHqzAV
>間接現実・直接現実って、仮象・実在、マーヤー・アートマンという発想のいいかでしょ。 何度も言うけど、仏法にて「現実」というのは“縁起のあるがまま”以外にない。←縁起の現観 他はすべて妄想だ。 仮象・実在、マーヤー・アートマンという発想などはゼロ。 そして「現実」は真理などではありえない。 これで掴めなかったら、謹んでお前には成道妨害無駄知識馬鹿といおう。 <(間接現実において)もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修業を完成させなさい。>
248 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 15:48:33.86 ID:7v5wWJDS
>>245 密教はそういうもんじゃないよ。
記号はどうあれ、直接現実とか論理を超えたとかいう以上、神秘主義だね。
オイラの言う神秘主義は、四句分別の範疇に収まり、実在を表現不可能とするもの。
非有非無で直接現実を表現不可能とするなら、まさにそれ以外の何者でもない。
それは『梵網経』などのアーガマ・ニカーヤでも、『中論』などの大乗でもお話にならない。
身勝手なのは伝統ともテキストとも食い違うことを述べならが、それを仏教という君でしょ。
そんな手前勝手なオレチャン基準で仏教を語られちゃ困るは。
249 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 15:52:32.23 ID:7v5wWJDS
>>247 ><(間接現実において)もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修業を完成させなさい。>
これ全く違うんだは。
「もろもろの事象は過ぎ去るものである」この訳も問題だが、この意味分かってる。
これを間接現実って言っちゃ分からないんだよな。
なぜ、釈尊がこの言葉を遺言としたか、そしてカウンデニヤの言葉を聞いて彼は分かったとお喜びになられたのか?
全然わからんだろ、どういう意味だと思ってるの?
250 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/08/31(金) 16:06:18.57 ID:cyMJHKap
>>245 真我も、見られる者と二つで一つなので自性はなく、
無自性な空であり、ゆえに無我だと言ってるだけなんだけどね。
真我も全ての根源である無に帰すものだし。
で、君。無意味な言葉遊びは楽しいか?
jなんもわかってない奴がめでたく戯論寂滅なんて得意げに語っているが
実のない言葉遊びに耽っている君らが一番実のない戯論に耽っていることくらいは
早く悟ろうね。しかし中論かぶれの連中は終わっとるな。せいぜい実のない
言葉遊びだけで人生棒に振ってください。馬鹿に付ける薬は無いっていうしね。
251 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 17:57:52.96 ID:mE3nF8Od
>>230 ブッダは殺生を戒めた。
麻原はテロをやらせた。
ブッダは逮捕されなかった。
麻原やキリストは逮捕された。
質問したいのだけど、四句分別の後半2つというのは何が言いたいの?あれ。 なんだ、URLをあげるのは控えたいので筆記するが 種が芽を内包しているから、種は種でありながら種でない。 また、芽は種でなく、種でないこともない。 あくまでこれは時間的関係性の中での論理矛盾をあげたものだが もちろん空間的関係性においても同様の在り方はあるだろう。 簡単に言えば、有無を峻別する論理は、死んだ論理。写真に写された固定的な世界ということで 後半2つは生きた論理の世界ということであろうか。 これを即非の論理というが、空というのはつまり生きた論理を言うのであろう では種は存在しないのか、というとまたそうではない。ある時間、ある空間的な関係性においては真実なのだろう 四句のどれかの真実性に拘ることそのものを斥ける、ということが中道ということになろうか これでよいか?
どうでもいい…プッ!>真我は根源たる無へ…あなた自分が何を言ってるかわかってます?
現代物理学、宇宙工学がどうであれ、欲界、色界、無色界を含む→全体的が無から生じたとするなら、そんな非理性的認識には唾を吐きます。宇宙に発生の原因は無い→そこまでは良い。しかし常に存在していた→これが正論→魂も無始無終→反仏教って?→クソくらえ
255 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 19:51:47.54 ID:XXmYPJma
>>251 殆どすべての人間は殺生を戒めるし、殆どすべての人間は逮捕されない。
そんなことでは、区別の基準にはならないw。
「修行しろ」「修行しろ」などと言う人間は、麻原以外には殆どいない。
その点で、釈迦はまさに「麻原と同じ」ではないか。
256 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 19:53:07.73 ID:7v5wWJDS
>>252 論理形式、言い換えると考える筋道の二つの形式。
もちろん、西洋論理学では排中律が適応されて非論理だよね。
だけど、アリストテレスは形式としては後二項もキッチリ認めた上で禁止してる。
恐らくパルメニデスの影響だと思うけど。
それでも、考える人は考える。その形式を使うという意味。例えば、ヘーゲルとか。
釈尊は禁止するのではなく、そういう論理形式では覚りに導かないと論理的に示した。それが中道。
なぜ、悟れないかというと非有非無などという論理形式で見解を掴んじゃうから、分別・戯論が静まらないから。
だから、八不によって六十二見という論理形式に禅定段階を含めた見解全てを寂滅に導く中論が説かれるわけ。
即非の論理なんか、完全にそういう罠に嵌ってるわけ、そういう論理形式で理解して、そうそうこれが正しい見解だと掴んで納得するから。
まあ、言い換えれば非論理という論理形式で納得する。あるいは何らかの体験をそういう論理形式で掴む。それも戯論に他ならないというのが四句分別です。
257 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/08/31(金) 20:06:56.33 ID:zUIS5XaF
>>253 俺の言ったの無とは、基点のゼロのことを言ってるんだよ。
それを何も無い完全な無と捉えると誤謬する。これは前にも書いた。
意味がわかるか?ドメクラさん。君らは得意気に無意味な言葉遊びに耽ってればいいと思うよ。
ゴイム達にはそれが相応しい。
258 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 20:09:38.36 ID:XXmYPJma
>>241 >仏教は心の流れ、動きを重視することは間違いないでしょ。
「仏教とは精神に限定される」という仏教学者もいるが、それに反対して
「身体面への充分な顧慮なしに仏教(少なくとも禅定に直接関係する部分)を
を理解することは到底できない」という仏教学者もいる。
>>258 wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
仏教が、どれだけ身体重視の宗教か判らんか・・w 愚かよのぉ・・ ・゜・(ノд`) ・゜・
260 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 20:25:45.61 ID:7v5wWJDS
>>258 アホ、文も読めないっていい加減自覚しろよ。
限定されるなんて学者はアホだ。
仏教は身口意を常に意識してる。
その中でも意、つまり、心、精神を重視するという意味だ。
それと松本チズオは、水俣病の影響で障害を受けたが、国から保証されなかったので、復讐するために始めから毒ガスを首都に散布するのが目的だった。
その復讐のために仏教やヒンドゥーを利用しただけ。
釈尊と比較するのは、問題外だ。
釈尊なんて最初から「尊」とか言って崇めてるみたいだけど…麻原と釈迦を何かしら別者だと考える差別の心は良くないね。悪とはより少ない善であり、善とはより少ない悪である。その差は質的のそれでなく程度の差にすぎない
仏教が「意」を重視するならば、もはや自分の外部にいかなる悪も善も見ないであろう。それ程まで「捨」によって意がクリアーになっているはず。
263 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 20:49:32.38 ID:7v5wWJDS
そう無根拠に断定され続けられると、もはやついていけな〜い
264 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 20:57:34.43 ID:AJ2n2DvG
>それと松本チズオは、水俣病の影響で障害を受けたが、国から保証されなかったので、復讐するために始めから毒ガスを首都に散布するのが目的だった。 元信者の告発でつか?
265 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 21:26:30.96 ID:TZO4LqZW
藤原新也「黄泉の犬」に書いてあるらしい。
266 :
諸星あたる ◆/M0NjtB3O48A :2012/08/31(金) 21:38:09.67 ID:VwhVISuE
死体やウンコが毎日流れてくるガンジス川でも平気で沐浴できる気丈なインド人ならいざしらず、 三神一体の、創造→維持→破壊(ふりだしに戻る)→創造のサイクルは日本人の体質には合 わんわな。 現代における性急な破壊的変革欲求は焦りの象徴。 万一ブサヨク過激派逃亡者が、体のいい駆け込み寺として教団に入信してくれば、 たちどころに腐ること間違いなしw
軒を貸して、母屋どころか本道や本堂を獲られる・・・とw 終末思想や世直し建て直し思想がある宗教は、既存・新興 問わず要注意だわな。
269 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 21:52:40.04 ID:7v5wWJDS
>>264 いや、この前のNHKの特集で見解を改め、ちょっと調べた結果。
これで全て辻褄が合うよ。
今までは動機が分からなかったんだけど。
公害でやられ国に見捨てられたから、官庁など首都の中心部を毒ガスという化学兵器でというのは納得できないかい?
>>256 たぶん、話が通じてないわ
調べてみたんだが、中論は無自性を説明しているのであって
要は四句分別ですべての可能性をつぶすための道具なわけね
たとえば論理学の中で、二項対立が考えられる場合、清・汚の二項対立があるが
図で示した場合、清と汚だけで全部を網羅しているのではなく
清とも汚とも言える部分や清とも汚とも言えない部分が考えられる。
これですべての存在可能性について網羅していると考えられるのだから、
それで存在可能性で説明できないものがあれば
それは存在しない、ということだろ?
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E5%8F%A5 そうして、無自性を証明したんだよ
でも、これはあくまで俺が言う死んだ論理だね
問題は、二項対立が Aがある、とAがないという対立を設定した場合、
さらにAがありかつAがないということがありうるか、であって
本質論の話になればそりゃ後半二つはいらないことになる。
だけど、有無の二項対立の間に何かがあるんじゃないかという状態を気にするなら
後半二つはいることになる。こういうことだと思われるが。
で、即非の論理というのは、金剛般若経の一説の言葉だよ
衆生は衆生でないから衆生、仏も同じ。
その意味は、衆生が衆生であるなら仏になる必要がないだろってこと。
271 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 22:06:02.96 ID:TZO4LqZW
まともな人間なら、国や自治体を憎みこそはしても、赤の他人を殺しまくろうとは思わない。 思考回路がもともと邪悪だった。 情動を発散するまともな手段に行き当たれなかった。 出会う人間いかんによっては、麻原が犯罪者にならない人生もあり得たのか?
>>271 あり得たでしょ。
だから「縁起」なんじゃないの?
273 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 22:15:56.81 ID:TZO4LqZW
神通もない普通のおっさんの肛門の毛が マヨネーズをかけるとナーガに変ずる。 というのが仏教的な「縁起」であり得るならその通りだと思う。 麻原の邪悪性が、縁起の触れ幅でどうにかなる性質のものだったか、 それが問題だ。
274 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 22:17:25.13 ID:1EoR+pyP
>>271 麻原がキリスト教に影響されたのが原因だと思うね。
仏教だけなら、どれを取ってもあそこまではやらなかったと思う。
「仏教のキリスト教」である浄土真宗は例外だろうが。
「イエスの思想あるところ、必ず流血あり」である。
275 :
《アラシを呼ぶ男》 ◆Arasi/MT2E :2012/08/31(金) 22:22:41.03 ID:9tAQMtUV
まあね・・。 仏国土が、捨身・献身・奉仕の果てに顕現するものとするなら、 千年王国は、他を染め直して(≒洗脳・矯正・掃除・報復の後に)顕現するものであろうから・・。
277 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 22:24:10.21 ID:7v5wWJDS
>>270 う〜ん、どうかな。きっと誤解がある。
まず、無自性論証という問題がある。
ゲルクとかカマラシーラなんかやっちゃってるけど、本来の中観は論証してるわけではない。
なぜなら、論証したら見解、主張を立てることになっちゃうでしょう。それじゃ戯論寂滅にならない。
だからこそ、月称菩薩は清弁菩薩の誤りを指摘したのであって、自立と帰謬という論証形式の違いからではないよ。
そもそも自立論証というのはいいけど、帰謬論証というのは可笑しい。月称菩薩の方法を帰謬法というのはありだけど、論証はしてないからね。
即非の論理ってのは、金剛般若経の一節じゃなくて、その一節を鈴木大拙が解釈した言葉でしょ。神秘主義以外のなにものでもない。
>その意味は、衆生が衆生であるなら仏になる必要がないだろってこと。
そういう意味じゃないは。
リンクの四句分別の第二語釈は、そう。全く同じ解釈だよ。
まあ、原典きっちり読むか、山口益先生と石飛道子先生を読むことを勧めるは。
君みたいな解釈というか、ゲルク系に歪められた中観説が主流となってる日本の中観研究じゃ読んでも全くわからんよ。
麻原の邪悪性は縁起によるもんでないの? それを見捨てるような奴が仏教徒? ただの学者さんなら文句は言わないよ。
>>277 それじゃあ論理、非論理の区別なくありとあらゆる表現方法によって、あるとは言えないだけで
あるかもしれないという可能性を残すってことだな
ただ、それは人間の分別によっては理解できないと。
ただ、超感覚的にだけ知覚できると。
それはここには見えないうんこがあると言ったことを信じるか信じないかと変わらんのじゃないか?
たしかに信仰は安泰なのかもしれんが
トリックというドラマのオチのようなことにならんか?
そして、あらずあらずと言うために用意された四句分別は単なる様式美にすぎないことになる。
まあ、わからんじゃないかな 問題はだまされてるってことじゃなくて、人間どうしてもほしいものは絶対手に入らないと気づけ そしてそのことが何よりの宝である、ということかな その手に入らないものが、煩悩が求めるような日常的な俗物ではないってことが肝心かな
281 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 22:56:58.81 ID:7v5wWJDS
>>279 違う。仮設のなかで整合性を論じる時は、第一・第二項を用いる。
勝義への導きでは、四項を遮断する中道を用いる。
第三・第四項は、仮設の世俗の中でも非論理なわけだが、勝義に導く場合に誤って、この第三・第四項を掴む人が多いから、これをキッチリ遮断しとくわけ。
つまり、世俗の言い習わしの中では論理形式として西洋論理とさほど変わらない。違いは存在論・認識論の問題だ。
どういうことかというと、上に書いたように西洋論理だとほぼ観念論でxと一端定義すると、どこまでもxだという本質主義に立つから現象世界と論理領域が矛盾する。
ところが、仏教だとxというのは縁起によるその瞬間の認識だから、観念的であることなく、無我で無常、空性だけど仮設としての本体と捉えられるところが大きく違う。
細かくはいわんが、もうちっと分かってないこと自覚しようや、じゃないと付き合えん。
>>281 つまり、瞬間にも有無がまじわるような知覚世界があるのを俺は知ってるぜってことだな
超感覚というやつだな
3,4句はそれを遮蔽することを表しているのであって、実際は論理じゃないんだな
だから、非論理の世界はあるし、それが通じる世界はあるが、それは悟りではないということか。
その世界に逃げてしまうなら神秘主義と変わらんよ
グルグルまわるだけのスーフィズムや覚せい剤さえ馬鹿にできなくなる。
283 :
1/2遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/31(金) 23:23:04.36 ID:DAAHqzAV
えらい伸びてるなあw 明日は早いんで、返事だけコメントしときます。
>>248 >オイラの言う神秘主義は、四句分別の範疇に収まり、実在を表現不可能とするもの。
アカンなあ、なんでやねんw
それはあんたのデタラメ定義でしょ?(アタシの定義は
>>245 )
なぜなら、四句分別の範疇(間接現実)に収まるなら、表現可能なはずです。
収まらないから、『表現不能とするもの』などといえるのです。だから論理矛盾な定義です。
で、それでも
>>245 の趣旨は『四句分別の範疇に収まり、実在を表現不可能とするもの』というデタラメ定義にも当てはまらないので、神秘主義ではありえません。
・四句分別は間接現実での言語論理であって、直接現実では二項相対言語論理そのものがあり得ません。
間接現実では否定表現(非・不・無など)で「示唆」するのが限度です。したがって『収まり』ません。
・また、縁起の現実において無自性ゆえ『実在』←実体(自立・単一・恒常)もありえません。
以上のように、直接現実においては、言語論理そのものが有り得ず、したがって「表現」そのものもありえない。
仏法において、本質も実存(現実存在)も有り得ない⇒空=中道なのでありんすYO。
>手前勝手なオレチャン基準
<自己帰依(間接現実)←フィードバック→法帰依(直接現実)>で 自己なりに掴んだ仏法基準と言うてくんなまし〜w
284 :
2/2遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/31(金) 23:26:38.73 ID:DAAHqzAV
>>249 >どういう意味だと思ってるの?
直接現実において、意味なんかあらへんわ。
@間接現実で、「一切行無常」(すべては壊法:時間) →<執着するな>← 「一切法無我」(一切内無我、一切外無記:空間)
A直接現実への示唆で、「非無常非恒常」「非無我非有我」→執着そのものが空(無執着の執着もない):時空際断=中道
間接現実で直接現実の様相を示唆するなら、非無常非恒常→空・中道←仏法でっせ。
>なぜ、釈尊がこの言葉を遺言としたか、そしてカウンデニヤの言葉を聞いて彼は分かったとお喜びになられたのか?
コンダンニャ長老の悟りの言葉「すべて生起するものは壊法である」は即ち、一切行無常・一切皆苦・一切法無我(テーラガーター676〜679、同文ダンマパダ675〜678)@を意味する。
これでブッダは孤独ではなくなったのだ。
しかしブッダはおそらく@Aだろうが、コンダンニャはこの段階ではおそらく@だけだろう。それでも悟りの端緒を掴んだ。
だから→怠ることなく、励め(テーラガーター680〜)⇒中論18-6
以上のことを既成日常間接現実での分別知覚では直接現実の様相を掴むことが困難だから(とくにA)、
『怠ることなく、修行を完成しなさい』というのがブッダの遺言だす。
それでも、最良の導師ブッダにもとでもでもアカン奴がいっぱい居たらしい(中部経典107)。
とくに『怠ることなく』は重い。アタシなんか怠ってばかりだもんねえw
285 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/31(金) 23:56:20.48 ID:DAAHqzAV
ああ、オバカラスが挨拶してたん忘れとったわw
>>250 ぽんこつサーンキヤ哲学(プルシャ)なんか振り回すなw
!!!! m9(^Д^)プギギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ ー !!!!
オバカラスは、お断りします
お断りします パスパスパス w
ハハ ハハ
(゚ω゚)゚ω゚) シッ シッ シッ シッ !
((⊂ ) ノ\つノ\つ)
(_⌒ヽ ⌒ヽ
丶 ヘ | ヘ |
εニ三 ノノ Jノ J
286 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 00:15:55.01 ID:noALHsRJ
つまり、 @肯定 A否定 ・・・・・ここまでは、論理的w B肯定かつ否定 C肯定でもなく否定でも無し・・・・これは非論理w んで、このB、Cをもって(その非論理性を悟りと勘違いしてw) 勝義(または勝義への道)と説くアホが多い (特に、禅坊主、「分ったぞおお〜の自称悟った君」ww) のが問題だとww B,Cも所詮は論理形式の一形態にすぎず、それでは、「論理」というもの に依拠して物事を判断しているに過ぎない。 「論理」というのは、ある対象に対して、それが本質をもつという前提において その本質を評価するのに用いるツールなわけだ。 しかし、全ては縁起によって仮設されたものに過ぎないわけであるから、それを 論理を持って評価し、定式化しようとする試み自体が意味をなさない。 勝義(への道)というのは、一切の見解の断定を廃するところにあるわけで、 何かしらの論理的帰結によって到達できるものではない。 (体験的直覚智によるのみ) B、Cのような一見するとその非論理性から、これこそが悟りであると 勘違いしてしまいがちなものも、論理による一つの見解の主張に過ぎず それでは、マダマダだよ・・・・ってww ・・・・・こう言いたいんじゃねえの? 一代はww 違うかい?wwww
>>286 いや、そもそも
縁起と因果はそれぞれ空間的関係性であるか時間的関係性であるかのちがいだけで
本質的には変わらないと思うのだが
原文は、
それあればこれあり、それなくばこれなし(うろ覚え)
だろ?
これを、
昨日腐ったものを食べたから今日下痢をした、昨日腐ったものを食べなかったら今日下痢しなかった、
と時間的にとらえると因果
一方、中観派が主張したのはちょうど、長いという概念が単独で存在しないように、
これより長いか、あれより長くないかをいう事ができるだけであり、つまり
それがあるからこれは長いと言える、それがなければこれは長いとならない、
と空間的にとらえることを縁起とした。
(まあ厳密には空間の概念というか抽象表現の世界にも拡張しているのだが)
これを即非の概念で説明するなら
種はやがて芽になる因をもっている、だからこそそれを種というのであり
種は種じゃないことを内包しており、その意味において種であり種じゃない。これが因果
また、御茶碗は、お箸ではないが、お箸というものが存在しないと茶碗なるものも存在しない
そういう意味において、御茶碗はお茶碗でありながらお茶碗ではない、というのが縁起
竜樹が言ったように、御茶碗なる自性は存在しないのだから
だから、即非の概念は、空間的時間的関係性の中においてあらゆるものが無自性であることを
表現している概念と言えるのだが、あらゆる論理表現を四句分別におさめようというのに
無理があると思うのだが。
289 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 01:17:26.04 ID:noALHsRJ
>>288 え〜〜と、オレにアンカーふってるので、一応確認w
一代ではなく、その対話の相手の人? かなw
279-280は俺だよ
291 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 01:46:10.27 ID:LQUbnjB3
「世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない」 (中論) 「世俗の表現」で説いてくれw。
292 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 02:00:15.59 ID:noALHsRJ
>>290 そうかw え〜とまず断っておくけど、
>>286 は、
一代の言い回しがわかりずらかったので、その確認の意味w
オレ自身が、そう思ってるというんじゃないんでw
(基本、俺は仏教徒じゃないんで、教義について「語る」ことは避けてるw)
ということを前提として、「あくまでも私見」としてだが、
>縁起と因果はそれぞれ空間的関係性であるか時間的関係性であるかのちがいだけで ・・・・
以下、
俺は、「縁起」→空間性、「因果」→「時間性」 という見方ではなく、
「縁起」は、空間性、時間性の両方を内包する、「より射程の広い」ものとして
捉えている。 そこに時間性を観るとき、「因果」という表現になり、
時間性を排除した一瞬を切り取ったときにその空間的側面(いわゆる、『相依性』)
が浮かび上がると。
(ただ、これも疑問があってね、→「一瞬の切り取り」と簡単に済ませてしまうが、
そもそも、この「一瞬の切り取り」・・・・時間性の排除というのが可能なのか?
という問題がある。 これは「無限」を扱わなくてはならなくなり、今まで、
各分野でそれを扱ってきたわけだが(数学などでね)、 現時点でも未解決の
お題だww。 だから、この「一瞬、今」ということにも、
過去→今 今←未来 のように、『相依性』を持ち込まなくては成立しない
のでは? と思っているw)
293 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 02:01:12.50 ID:noALHsRJ
「即非」の論理については、正直よくわからんww (世間一般でよく言われている・・・・・は実は)、→「・・・・・ではない」 (これは名称上そのように、言い習わされているに過ぎず、)→「真実・・・・・と 言えるようなものではない。」 つまり、名称による規定、定式化が間違いのもと・・・・こんな意味じゃねえの?ww AはAであって、Aではない・・・これを「肯定」かつ「否定」の論理矛盾とし、 それを認知することが悟り みたいな方向にもって行くと間違うようなww 以上は、私見だから、鵜呑みにはしないでねwwww
294 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 06:43:58.25 ID:yD46/J9m
>>286 流石だが、ここだけ。
>勝義(への道)というのは、一切の見解の断定を廃するところにあるわけで、
>何かしらの論理的帰結によって到達できるものではない。
>(体験的直覚智によるのみ)
その勝義への道、導きを論理的に示したのが中道。
つまり、四句分別全てを遮断することで、論理形式で意味を分析判定するのを止める。
それによって空性の直接知覚に導く。
これが観、中道の観という意味で中観なわけ。
だから、中論は、xでなく、非xでなく、xでも非xでもなく、「xでも非xでない」のでもない、とずーと説いてるでしょ。
ただし、後の二項が不要な場合は、前二項だけしか説かないので、そこだけ読むと非有非無であると掴むやつもいるが、誤解だと。
そしてカウンデニヤの「すべての生じたものは壊れるものだ」はものは実在してるのではなく縁起しているという存在論的転換を示す。
だから、釈尊は「カウンデニヤは分かった」と嬉しそうに叫んだわけ。
そして、釈尊の遺言も「壊れるものが一切諸行だ」で同じことを意味してる。
つまり、実在論の「xはずっといつでもどこでもx」なのでなくxというのはその瞬間の認識だけでそれは虚妄な空なるものなのだという意味。
>>122 と同じこと。
だからシャーリプトラも縁起法頌を聞いただけで悟ったと言われるのです。
そして縁起法頌こそ仏教の核心という意味で南方系でも北方系でも重視されているのです。
釈尊の遺言を「もろもろの事象は過ぎ去るものである」と訳したなら、無常である、儚いという意味が強調されて上の存在論的転換が見えにくいから問題なんですよ。
295 :
1/2遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/01(土) 08:53:53.06 ID:TaObFNkb
>>256 >>286 しばらく出かけるので急いでますが、正確に理解してもらえるかな?ブッダによれば「微妙にして難解」なところですから。
お二人とも誤解というより曲解ですよ。批判するなら、人が言っていることをもっと正確に掴んでくださいよ。
ちょっと、クドク表現します。
これじゃ、なぜわざわざ直接&間接「現実」とネーミングしたのか判らない。現実とは縁起のあるがままです。
>非有非無などという論理形式で見解を掴んじゃうから、分別・戯論が静まらないから。(
>>256 )
>B、Cのような一見するとその非論理性から、これこそが悟りであると
>勘違いしてしまいがちなものも、論理による一つの見解の主張に過ぎず(
>>286 )
便宜のため
>>286 の四句@ABCを使わせてもらいます。
中観において@ABCのすべてを否定⇒直接現実においては“語り得ない”、ということは当然。
ブッダの実存苦の超克本懐から実践的に見るなら、ポイントは四句の論理性@A⇔非論理性BCにあるのではなく、
「分別」知覚@ABC⇔「無分別」智直覚か、にあります。
(1) 間接現実においては、「分別」知覚記憶判断
>>286 の@ABCの全てが間接現実の「分別」そのもの(Cで直接現実を間接的に否定表現で『示唆』しうるのが限度) BCはたとえ非論理であろうと、「分別」表現であることにおいて変わりがない。
間接現実そのもので、直接現実の様相を『示唆』!!しうる表現限界が「非有非無」だと何度も言っている。
そこには言語によるなんらの直接現実の「直指」→見解はない。ない見解は掴めない。従って、分別・戯論もなく静まるもヘチマもない。
中論そのものも直接現実を直指しているのではなくあくまで“示唆”した論書←間接現実そのものです。
296 :
2/2遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/01(土) 08:57:25.56 ID:TaObFNkb
(2)直接現実において、「無分別」智による縁起の直接現実(あるがまま)の直覚。空=中道だから、
@ABCすべての二項相対「分別」言語そのものがありえない!言語同断=無分別だと何度もいっている。
オイラ氏的には『四句分別全てを遮断することで、論理形式で意味を分析判定するのを止める。』、というより言語そのものがありえない。
『それによって空性の直接知覚に導く。』アタシの上記と同趣旨なのでしょう。
だから『論理を持って評価し、定式化しようとする試み自体』がありえないし、
『勝義(への道)というのは、一切の見解の断定を廃するところにあるわけで、何かしらの論理的帰結によって到達できるものではない。』のもあったり前田。
縁起の「現実」の様相ををわざわざ「間接」と「直接」に分けているのもそのためだ。
>>256 >>286 それならこちらから問いましょう。
(1)龍樹は「究極の真理」の言語を使うが、これは勝義の表現として適切か?
(2)中論18-8での四句全肯定、同18―6での@AC、同25-10でのC肯定をいかに受け止めるか。
297 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 09:03:06.85 ID:yD46/J9m
>>295 >間接現実そのもので、直接現実の様相を『示唆』!!しうる表現限界が「非有非無」だと何度も言っている。
釈尊も龍樹菩薩もそんなこと言ってないって、キッチリ示したろ。
それでもこんな事言ってるから話にならねえんだ。
妄想用語使わずにテキストに即してキッチリ読んでみろ。
そんな事言ってないつーの。
お前のは、妄想があって、適当にテキスト読んで、違うと示されると、それはテキストが間違ってるだから、どうしようもないんだよ。それじゃ生命教と同じだ。
言っとくが、オイラは完全に理解してるとは思ってない。あくまで現在の理解だ。妥当な反証があればいつでも改める気はある。お前はないだろ。
最初っからオレチャンが正しいだけで、その根拠が否定されても全然あらためないし。
とりあえず、付き合ってられんは。
298 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/01(土) 09:09:05.65 ID:TaObFNkb
>>294 >カウンデニヤの「すべての生じたものは壊れるものだ」はものは実在してるのではなく縁起しているという存在論的転換を示す。
それはあくまで間接現実での縁起の様相です。→
>>284 @
直接現実にては「壊れるものは壊れない」→
>>284 A(中論第二章)
時空際断の様相です。
299 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 09:09:46.93 ID:yD46/J9m
>>296 >(1)龍樹は「究極の真理」の言語を使うが、これは勝義の表現として適切か?
これはどこに書いてある。それを示さんと話にならない。こういう場合は訳語で云々してもしょうがないだろ。
>(2)中論18-8での四句全肯定、同18―6での@AC、同25-10でのC肯定をいかに受け止めるか。
中論18-6, 8は、釈尊は相手、その場に応じていろいろな論理で説くという意味。
25-10は、上に書いたように非有非無ではなく、四句分別の前二項を示している。引用した25.22~24 を読め。
何回も言わすな。これで分からなければ頭悪いって自覚しろよ。
300 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/01(土) 09:19:44.48 ID:TaObFNkb
>>297 アタシはテキスト(仏教・仏典)主義者じゃないと何度いったらわかるのかなあw
しかしあなたも正確に理解しようとしない人ですねえ。
シーラカンス固定「仏教」に期待するのは無理だと得心しましたよw
『とりあえず、付き合ってられんは。』 よかったら、また遊んでねw
301 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 09:22:28.17 ID:yD46/J9m
>>298 まず、直接現実・間接現実という妄想解釈を捨てろ。じゃないとどうしようもない。
そんなこと誰も言ってないは。
中論の表現は、四句否定だって。不生の縁起とも言われる。
生滅の縁起と不生の縁起は同じことを説いてる。
それは龍樹菩薩自身が言ってる。
『中論』13-1, 2『六十頌如理論』21, 22『空70自註』23『宝行王正論』4.86
およびそれらの諸註が同じことを説いている。お前のいうようなことは説かれてない。
妄想だって理解したか?
302 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/01(土) 09:22:57.52 ID:TaObFNkb
>>299 >これはどこに書いてある。
たとえば、中論24-10,25-20
303 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 09:25:20.99 ID:tVun0WED
>>255 ほとんどすべての人間とブッダが殺生を戒める中で、麻原は違った。
充分区別する基準になる。
また、どんなジャンルでも師匠が弟子に努力しろと言うのは当たり前であり、
ブッダと麻原だけを抜き出す材料にはならない。
何を目指して修行し、いかなる方法の修行をしているかで区別すべき。
304 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/01(土) 09:26:07.13 ID:TaObFNkb
すまんが、ここで抜ける。 また遅刻や またあとで!
305 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 09:26:21.18 ID:yD46/J9m
>>300 >アタシはテキスト(仏教・仏典)主義者じゃないと何度いったらわかるのかなあw
分かってるから、オレチャン妄想だっていってるだろ。
そんなヤツと話しても無駄だって分からないか?
生命教の話を聞いてるのと同じなんだよ。
人には根拠とその整合性を問うが、自分には要求しない。
そんなヤツと付き合えないって分からないか?
要するに居酒屋で妄想語ってるオヤジと同じなんだよ。
306 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 09:31:30.46 ID:yD46/J9m
>>302 24-10は勝義、25-20は果てだ。
だから、訳によって妄想すんなって。
それにテキストに依らないなら、なんでテキストや仏教に依るんだ?
すべてオレチャン曰くでいいだろ。
テキストつかって根拠示して、反論されたらオレチャンはオレチャンだからじゃ誰が納得するんだ。
始めからテキストは捨てろ、オレチャンはこれが真理だと言う、なら一貫してるが、それなら他所でやってくれ、仏教とは何も関係ない。
307 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 09:40:03.99 ID:D2VrUT5P
>>306 釈迦は、俺ちゃんではなかったのかねw。俺ちゃんでないら、何を猿真似
したのか。
308 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 09:56:05.36 ID:yD46/J9m
>>307 大乗だと一切如来から教えを受けてるよ。
オイラはこっちをとる。
309 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 10:02:43.30 ID:noALHsRJ
>>295 大王? だわな?www
>お二人とも誤解というより曲解ですよ。批判するなら、人が言っていることをもっと正確に掴んでくださいよ。
え〜〜となw、俺のカキコは一代宛であって、別にお前の見解への批判じゃねえぞww
っていうより、正直、あまり真剣にお前のカキコ読んでなかったんで、そもそも批判というのが
無いwwww
んで、
>>295 >>296 を読んでみたが、基本、一代と言ってることに大きな差異は
ないように思えるが?ww
違いは(一代にとっては、その違いが大きんだろうがww)
>・・・直接現実の様相を『示唆』・・・・
このような言い回しがイカンというのだろうww
中論というのは、あくまでも論理形式を排除することにより、勝義へと
『導く』ものであり、勝義の様相を『示唆』などしていないとww
お前は、「非有非無」を勝義の様相を(この世俗において示唆するなら)
これが限界・・・というように二項相対の否定という勝義の一側面をこの
表現に託そうとするが、一代にしてみれば、それはあくまでも
勝義について語る(あるいはそれを示唆する)ツールではなく、論理を廃すべきことを
示した時に挙げた「論理の一形式」に過ぎないとw
その辺の差異だろ?www
310 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 10:10:49.81 ID:D2VrUT5P
現実を「直接」と「間接」に分別することが「二項相対」「戯論」の の典型だと、中論は言っているのである。
>>309 彼の(一代に対して)(提示している)言辞が、
・自身もまた文中で批判した西田・大拙的なものになっていること、
・一代の言う(≒中観で言う)論理を超えた勝義が、四句の外にあること
及び
・自身の(≒西田・大拙的)着地点が、(いみじくも貴方が指摘するようにw)
依然として四句(論理)の範疇(―孫悟空と如来の指の如くw―)にあること、
を、一代は言っているのだろうね。
312 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 10:41:19.28 ID:OQwLszDM
>>298 「壊れるものは壊れない」 って、ちょっと言い方がおかしいような気がするね。
313 :
だいおう(閻魔でない方) :2012/09/01(土) 12:25:47.72 ID:9wN8E/GB
ワイのことなんだろうか・・・ 最近レスしていない・・・
スレッドを読ませて頂きました。
議論は白熱しておるようでが、
これは、あれだね・・・
百尺竿頭進一歩というのじゃないのか?
一歩進んだ人間がいたり、まだまだ恐怖で進むのを躊躇したりで・・・
このカオス状態がなにげに百花繚乱。
>>312 >「壊れるものは壊れない」 って、ちょっと言い方がおかしいような気がするね。
横槍だけど、論理的には全くオカシクはないとおもいます。
つうか、そもそも「壊れる」という単語自体の矛盾性の内包を指摘。
「矛盾」⇔「大疑団」
315 :
だいおう(閻魔でない方) :2012/09/01(土) 12:33:47.94 ID:9wN8E/GB
ライヤーデスクが法螺をふくw
去るものは去らずって表現が悪いよな。 まるで去らないということがあるようで。 正確には、去るものはくぁwせdrftgyふじこlpと現代人なら表記すべきでないかなと思わなくもない。
317 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 13:52:39.04 ID:fgo139gY
>>316 すでに去りつつあるものは、「去る」という動作を二度することは出来ない。
「去る」という概念は、「静止している」という概念の相対として生じる。
すべての人間が「常に走っている」のなら、「走る」という概念は生じない。
英語でも「A walking man walks」などと言ったら笑われるだけ。
318 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 14:24:50.29 ID:fgo139gY
>>292 切り取りはあくまで見做しだろうね
人間そこまで究極的に考えてない
ニュートン力学が相対性理論を考慮に入れていないように
影響が薄いなら排除できるとみなす
>>293 意見のちがいが分かった気がする
俺は、あくまで二項対立を設定している中で、(たとえば、AとB、一とすべて)
片方がもう一方に対して独立しているかいないかを問題にしているから、
片方だけがあることにはならないという有かつ無を言うことになる。
つまり、全体であり、一つである、ということになる、これは無自性をみちびく。
一方、彼の言う非論理がよく分からないのだが、
これは認識論ではなく、体験らしいから論理にできない。まあだから非論理だそうなのだが
非論理を仮に論理として定式化し、それは体験ではない、と言っている。
うーん。俺も何を言っているのかよくわからんのだが。
この場合、生じる齟齬と言うのは、Aがあるかないかという前提をおいているので
アプリオリにAの本質の有無を前提にしており、有かつ無も、(この状態がよくわからないが)
本質論を前提にしているかぎり、相依性を説明しているものではない、ということだろうか?
すまない、こうか これは認識論ではなく、体験らしいから論理にできない。まあだから非論理だそうなのだが 非論理を仮に論理として定式化し、それは悟りではない、と言っている。 有かつ無の体験というのがもうよく分からんのだが それはまだ序の口でそれとはちがう体験があるらしく、それが悟りだということだな 二つの体験はおそらく明確に異なるらしく、 有かつ無で説明できる体験というのは、あーあーあれね、有かつ無の状態ね、あったあった的に 論理化できる状態ということなのであろう
321 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 14:51:34.56 ID:fgo139gY
>>320 不自然な修行によって人為的に生じさせた「変性意識」を、「悟り」だと
勘違いしているだけ。
それでは、麻薬飲んでも全く同じ。
悟りとは、乳粥一杯で止められる「お遊び」としての修行ではなく、
生存努力という「選択不能な大修行」によってのみ得られる。
まとめると、 俺は唯名論で、彼は虚無論ということかな 俺は、本質はない、無我であるが、かと言って仮に本質を設定できる実在の固有性はある、というスタンス。 有かつ無を空を説明する一つの方法と認めつつも、しかし仮に説明するために用いた論理だから それにとらわれてはならない、空を空じるというものだが 彼は体験を重視し、四句で説明される人間が体験できる世界は虚妄であり ある体験で見る世界だけが真実であり、それはすべての実在性を否定する。 というもの、ということだろうかね
>>321 おれもそう思う
論理的に消化できない部分がある恍惚状態というものは俺は知っているつもりで
そして、そのもどかしさが信仰の持続性につながると思うのだが、
それを論理で説明すること事態を拒否し、ひたすら体験のみを昂揚していくのはどうかしてる。
理性を働かせれば、ある程度構造を解析できるのはたしかで、その冷徹さを欠いて
論理を否定してはだめだと思う、
論理は理解できるものだが、それをどうとらえているかこそ問題なのであって、
その心の部分の選定こそ師資相承の真髄。
互いにたしかめようがないのは独り善がりにすぎないよ
たぶん、彼は論理の中に押し込められることを拒否したいだけなのだと思う つかまれてしまうことが恐怖なのだろう そのためにあらずあらずの中道をつかうが でも、それでは人に気持ちを伝えようとしていろいろな論理をつくり築いてきた先達を すべて否定して心地よくなっているだけの人だと思う 中観の論理を悪用しているとしか思えない
325 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/01(土) 17:04:21.71 ID:MsvOe6Sd
>>285 でた、幼稚な煽りと、無知なレッテル貼り。
そういや俺をニューエイジだとかレッテル貼って無視することで
自分のプライドを必死で守ってるマヌケもここにいったっけ。
サーンキャ哲学は自性を無だとは言ってないぞ。
また俺は梵我一如も言っていない。なにせ我の消滅こそが
ブラフマンそのものだからな。ま、サーンキャ哲学の自性を無と置き換え、
ブラフマンさえも無自性な空と説けば、サーンキャ哲学も、
ゴータマの仏教も何も矛盾しないわけだが。ただ見方による表現の違いだけ。
ちゅうか、いくら小難しい御託を並べようとも所詮女の浅知恵。
女は黙ってろよ。女は男の言うことを黙って聞いて従ってりゃいいんだよ。
そうパウロも言ってんだろ。これは宗教的な意味合いで言ってるわけだが君らメクラ
にわわからんだろうな。女がでしゃばるとろくなことはない。
326 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/01(土) 17:15:55.40 ID:MsvOe6Sd
そういやゴータマの仏教も、頭でっかちの後世の弟子達が 教義を複雑怪奇なものにしてしまい、在家などの一般教徒には理解しづらい ものにしてしまい、仏教衰退の一因になったと聞くが、このスレみてると まんま当時の愚かな弟子達と同じことをやっているのが見て取れて笑える。 元々は単純な教義を、無明に囚われた頭でっかちの連中がどんどん違うものに してしまっている。ここの連中にかかれば、八正道も間違いになってしまう。 なにせ正しいも正しくないもないんだからな(苦笑) これらの迷いもゴータマが肝心なことははっきりと説かなかったことに起因してるんだが、 これも意図的なものだったんだろう。なにせ後世は末法の世になると自らいってるくらいなわけで。 まんまそのとおりになってることが笑えるやね。頭でっかちのアホ共はせいぜい 迷っておれ。言葉遊びの屁理屈だけじゃ誰も救われねぇから。
327 :
机龍之介@規制代行 :2012/09/01(土) 17:18:23.15 ID:xVOyfa5I
>>321 >不自然な修行によって人為的に生じさせた「変性意識」を、「悟り」だと
>勘違いしているだけ。
変性意識については、
現実的抑圧の認識を、拒絶する原始(原初)的防衛としての機能があり、
やがては空想の世界に埋没してしまう。
主に幼児期頃を頂点として、やがて大人にと成長し、現実から多くを学習し消滅していく。
しかし、
自己防衛としてこの機能が肥大化される場合もある。
そうなるともはや現実否認となる。
幼児期の万能感が、大人になっても残存する。ってことだよ。
仏教というのは、究極的現実肯定なんだけどね><
縁起というのも、これに集約されるんだから・・・
物事には本質が存在するのに、人間にはたとえば社会が自分に求めているような 大人になって所帯もってこどもつくって社会に貢献して死ぬというような本質では満足できない 自分とは何なのか、なぜ生まれてきたのか、死ななければならないか、苦しまなければならないか という現実存在としての自分を解決したい衝動をもたざるえない動物である それを実存は本質にさきだつとするのであるが 俺は実存を満足させるのが宗教であると思う。 そうしてこそ、社会に貢献していくような自己を修養できると思う。 もちろん、社会に一定程度貧困があるのは承知しつつ、限度を超えると考える場合はこれを変えるように 動くことは否定しないが、世直しにかかわるようなことと宗教は一線を画すべきものだと思っている 世直し宗教と実存宗教が混成し、世直しのために実存宗教をもちだすようなものは宗教として二流であると思うし 争わないことをもって実存宗教をいっしょに論じることも論理の否定につながり二流であると思う 論理の階梯をぬかして、いっしょなら何もしなくてよい、となるから。 また実存宗教の論理のちがいをことさらにあげつらい相手に打ち勝ちこれを誇ろうとするものもまた二流であると思う
329 :
前世は :2012/09/01(土) 19:49:11.73 ID:n3nOaVxd
>>326 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/01(土) 17:15:55.40 ID:MsvOe6Sd
>そういやゴータマの仏教も、頭でっかちの後世の弟子達が
>教義を複雑怪奇なものにしてしまい、在家などの一般教徒には理解しづらい
>ものにしてしまい、仏教衰退の一因になったと聞くが、このスレみてると
>まんま当時の愚かな弟子達と同じことをやっているのが見て取れて笑える。
そうですね。
釈尊も三明智(六神通)にて、自身の教え(正法)は千年しか持たないと予見されてます。
私も主に原始仏典と大般若解説書(大智度論)を参照しております。
時々、貴兄はグノーシスの方と似ているなと感じる次第です。
議論は苦手なので、また去ります。(ロムだけの常住もまた、不去不来かも。)
カラスも隠居も在家も宝珠も、ほとぼり冷めたら顔を出してくるな・・ その根気強さだけは評価するよw
331 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 20:29:36.03 ID:UMUfdcsr
>>327 >仏教というのは、究極的現実肯定なんだけどね><
>縁起というのも、これに集約されるんだから・・・
その通りだと思うが、ここの「釈迦教徒」には現実肯定など誰一人見当たらない
のは何故でしょうね。
結局、「釈迦から現実を演繹」しているからでしょう。釈迦も「法(現実)」には
従わなければならにのだから、「演繹」は方法論的な誤り。
「法(現実)」から釈迦を帰納する」。これが大乗のやっていること。
中村元博士は、「真実のブッダとは、われわれの経験するこの現実社会」と
解釈している(「龍樹」(中村元著、講談社学術文庫)。
332 :
神も仏も名無しさん :2012/09/01(土) 20:33:24.63 ID:UMUfdcsr
>>331 の訂正
×ならにのだから
○ならないのだから
空じゃ人間らしい生き方じゃなくなるから 社会のルールや価値観に合わせようと菩薩心なるインチキを思いついた。 このようなインチキを作り出したのは世間への未練である。 世間への未練がある状態では到底空の境地には至れず苦から脱することはできない。
排中律は存在しない。 有であり、無であるなんていうのは細かい定義ができてないだけ
>>334 つまり、「>細かい定義」(≒条件)があって初めて、そう言い得るってことでしょ。
そうした条件付けがあってこその有であり無なわけで。
或る条件なら有で、或る条件なら無、と。
或る条件という限定幅の中でしか言えず、そして、それは、固定的であることなく、
たゆたう流れの如き縁起する諸法なわけでしょ。
四句分別を超えているというのは、そういう消息なんじゃないの?
336 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 01:43:06.32 ID:Na4t5Yv3
337 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 03:10:48.74 ID:Na4t5Yv3
338 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 04:57:50.22 ID:jBvNWQUZ
>>309 流石。オイラ的には以下のような問題がある。
まず、テキストを用い根拠とするが、その読みの非妥当性を指摘すると経典主義じゃないという点。
これじゃ何のために話あいにテキストを用いるのか、根拠とするのか分からない。
止・禅定主義で、縁起・観の意味を理解してない。つまり、外道と同じ。
中道と非有非無は違うなど、解釈が極めて適当。
339 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 04:59:09.37 ID:jBvNWQUZ
>>311 そういうこと。
二人の存在はありがたい。
340 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/02(日) 06:18:05.87 ID:At6Ffbq0
朝帰りで眠い。レス後すぐ寝るんでまたあとで。
>>306 >24-10は勝義、25-20は果てだ。
勝義(直接現実)において、究極(果て)⇔中途半端、真⇔偽、理⇔直感などの二項相対(←執着・苦の原因設定)の直接表現は相応しくないのんとちゃうか?
表現するなら間接的否定表現(例えば般若心経の無〜、不〜、空〜、非〜)でないとアカンのとちゃうか?―と言っている。
龍樹は肝心のところを掴んでないのとちゃうか?の疑問あり。
『中論』の全面大改訂版を希望する。
>テキストに依らないなら、なんでテキストや仏教に依るんだ?
何度も説明したで。
@テキストや固定仏教、さらに仏そのものも筏でしかない。
彼岸到達のための手段なんだから、下記Aのスタイルでの検討で、出来が悪けりゃ捨てる、無視する、乗り換える。
用がなくなれば捨てる。
で、A<自己(間接現実)帰依 ←フィードバック→ 法(直接現実)帰依>が、灯明であり洲。
フィードバックが修行スタイル。
これらがなけりゃ難破する。
アタシはこれを実行しているだけさw
341 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/02(日) 06:21:38.65 ID:At6Ffbq0
>>309 >基本、一代と言ってることに大きな差異はないように思えるが?ww
一応、そうですよ。(じつは根本的な問題がある)
なのに、以前から眼のカタキにされるのは、よっぼどアタシのフリースタイル(依拠経典なし)が気に召さないんでしょうかねえw
アタシは『世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。
究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。』(中論24-10中村元訳 龍樹p380 )という矛盾を内包した趣旨に極めて忠実であるだけですよ。
もともとニルヴァーナ到達(色即是空)が折り返し点であり、折り帰って世間の只中で慶安にあること(空即是色)がブッダの大乗仏教的本懐ですから、
折り返し点を世俗の表現(間接現実)でギリギリのところまで「示唆」するのが24―10の趣旨です。
そしてこの偈に忠実であればあるほど、表現が矛盾している(実は龍樹は正確につかんではいないのではないかという疑問)ことに気がつく。
もともと『究極の真理(勝義諦)を“説く”』(龍樹)ことは不可能です。龍樹は明確に矛盾してます。
オイラ氏との混乱の原因は龍樹の不明にある?w
そして直接現実は言語道断ですから言語で『直説』できません。『間説』せざるを得ません。
直接現実(×究極の真理=勝義諦)の様相を“説く”間接現実(世俗)の表現(言語慣習)の限界は、
間接否定『非有非無』形式で直接現実の様相を『示唆』するのがギリギリの肉迫限界だといった、ごく当たり前のことを言っているのです(中村元 龍樹p262〜)。
そのごく当たり前の代表例が『〜三世緒仏』“まで”の般若心経<無〜、不〜、空〜>です(この点でも見解の相違あり 前44スレ
>>433 )。
24-10の趣旨に徹底忠実ならば24―10を改定せざるを得ません。⇒中論の全面改訂版を出そう!(特に26&27章はカット)
342 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/02(日) 06:29:01.55 ID:At6Ffbq0
>>312 >「壊れるものは壊れない」 って、ちょっと言い方がおかしいような気がするね。
全然おかしくない。
中論での龍樹の説明は言語論理の矛盾をつくものだが、
彼の頭の回転が良すぎて、凡人にとってはかえって下手糞な説明になっており、かえって判りにくい。
本当は説明不可だが、アタシなりに敢えて文字通り無理やり説明すると、
『去るものは去らず』 :「去るもの」(分別世俗)は「去るもの」ではない(無分別勝義)から去りようがなく→去らない、
ゆえに「去るもの」と名づける(無分別の分別世俗)。言葉のみの言語ゲームであることの示唆。
金剛般若経の作者が〇〇〇〇〇を掴んではいるんだが、四苦八苦してなんとか伝えようとしたところだ。
間接現実で「去る」といわれる行動は、直接現実では無意味・無価値・無相な〇〇〇〇〇←縁起のあるがまま。
ゆえに、間接現実では「去る」という言語名称で分別せざるをえないのだ。
・壊れるもの→分別間接現実
・壊れない→無分別直接現実(壊れる(ない)という相対言語そのものがない。ゆえに「壊れ」ようがない。
禅的には『無』(趙州)=空の一言に尽きる。この一語も当然矛盾の中にある)
さすがあ、趙州禅師やあ!かっこいい!!
ブッダが成道後「微妙にして難解」と生存と説法を躊躇したところ(
>>284 A)だ。
343 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 06:36:44.42 ID:jBvNWQUZ
>>340 >龍樹は肝心のところを掴んでないのとちゃうか?の疑問あり。
>『中論』の全面大改訂版を希望する。
>>341 >24-10の趣旨に徹底忠実ならば24―10を改定せざるを得ません。⇒中論の全面改訂版を出そう!(特に26&27章はカット)
こういう偉そうなこというなら、仏教に依らずにオレチャン教勝手に説いてりゃいいじゃん。
>何度も説明したで。
>@テキストや固定仏教、さらに仏そのものも筏でしかない。
>彼岸到達のための手段なんだから、下記Aのスタイルでの検討で、出来が悪けりゃ捨てる、無視する、乗り換える。
>用がなくなれば捨てる。
>
>で、A<自己(間接現実)帰依 ←フィードバック→ 法(直接現実)帰依>が、灯明であり洲。
>フィードバックが修行スタイル。
>これらがなけりゃ難破する。
だから、こういうスタンスがオレチャン教だっつーの。ヌーエイジ。
こういうスタンスとるなら、神通ぐらい見せろって言ってるだろ。
お前のご都合主義解釈だと神通は覚りに関係ない、ってことになってるわけだが、そういうオレチャン解釈だけじゃ、話してしかたないってことだ。
それは例えば、タイカレー食べにいったら、日本カレーみたいなの出されて、これがうちのタイカレーです。タイカレーのレシピは知ってますが美味しくないので、改善しましたと言われてるようなもの
だったら、タイカレーって言うなというように仏教っていうなとオイラは言ってるだけ。
これは生命教や、宝珠、カラス、前世、机とかにも全く同じことなんだけど、これで分からないなら、君は彼らと全く同じだぜ。
344 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/02(日) 06:37:24.48 ID:At6Ffbq0
>>331 >中村元博士は、「真実のブッダとは、われわれの経験するこの現実社会」と解釈している
では真実のブッダとな何であるか。:→非心非仏(直接現実)
それはわれわれの経験している世界にほかならない:→即心即仏(間接現実)」(中村 元 龍樹p301)
ゆえに間接現実=直接現実(中論25-19)(前44スレ
>>519 >>594 )
345 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/02(日) 06:39:06.16 ID:At6Ffbq0
>>335 >四句分別を超えているというのは
四句分別は文字通り間接現実ベッタリです。
「超えている」も分別です。
しかし、間接現実=直接現実(中論25-19)ですからじつは超えるもヘチマもないんです。
無分別の分別です。「微妙にして難解」(ブッダ)な関です。
このニュアンスを体得することが「悟り」←折り返し点です。
346 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/02(日) 06:42:26.65 ID:At6Ffbq0
>>311 >・自身もまた文中で批判した西田・大拙的なものになっていること、
>・一代の言う(≒中観で言う)論理を超えた勝義が、四句の外にあること
>・自身の(≒西田・大拙的)着地点が、(いみじくも貴方が指摘するようにw)依然として四句(論理)の範疇(―孫悟空と如来の指の如くw―)にあること、
アタシからみると、この評もじつは間接現実ベッタリズムです。
関をこえてはいません。色即是色です。
・間接現実(世間)=直接現実(この直覚の境地がニルヴァーナ:中論25-19)ですから、
『論理を超えた勝義が、四句の外にある』ことはありえません。
・また逆に、アタシの『着地点』は無分別の分別(折り返し点帰りの分別)ですから、
『依然として四句(論理)の範疇』ではありません。
おそらく、色即是色のままでは、なんのことか御理解(分別)いただけないでしょう。
理解(分別)できないことを表現しているのですから。
鈴木大拙は金剛般若経を曲解しています。アホです。
「ゆえにAと“いう”」を「ゆえにAで“ある”」と曲解している。
例えば『佛説微塵衆則非微塵衆。是名微塵衆。』(30-a)でわざわざ『是名』と無分別の分別として“名称する・名づける”と書いてあるのを無視して、
等号“〜である”に歪曲してしまっているのです。
言葉だけがある(無分別の分別)ことの根本的意義を破壊しています。
アタシゃ不二一元論ではありゃ―せんぞな、もし。
乞う、ご教授。
347 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/02(日) 06:58:07.28 ID:At6Ffbq0
>>309 >二項相対の否定という勝義の一側面をこの表現に託そうとするが、
>一代にしてみれば、それはあくまでも勝義について語る(あるいはそれを示唆する)ツールではなく、
>論理を廃すべきことを示した時に挙げた「論理の一形式」に過ぎないとw
上記したように、アタシは中論24-10の趣旨に徹底して忠実なだけですよ。
忠実であればついに24-10そのものも透過するパラドックスです。
直接現実=間接現実(中論25-19)であり無分別の分別<折り返し点後(≠時間)の分別>です。
348 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 07:07:40.36 ID:jBvNWQUZ
>>347 妄想解釈してるだけだよ。
釈尊も龍樹菩薩も勝義を直接言い表してるなんてとこないよ。
中論でいえば、ほとんどが勝義・戯論寂滅への導きとしての道を説いてるだけ。
妄想術語やめて伝統的記号と意味でよく考えてみ。その時、現代語訳は使わない方がいいよ。できれば梵蔵漢。せめて国訳で。
勝義を言語表現した箇所に、18-9があるがこれも勝義・戯論寂滅というように仮設して属性を譬喩表現してるようなもの。
349 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 07:50:17.78 ID:PuJLivPY
>>347 すべて「世俗の表現」として理解可能な見解です。
「直接現実・間接現実などという無意味な分別」を否定しようとするのが、中論
の主意。空は、その裏づけの一つである。
釈迦に対する痛烈な反論。
中論24:10は、確かに誤解を招く恐れがあり、現に招いている。しかし、
龍樹の説明の苦労も察してあげてください。中論全体から判断してあげないと、
気の毒ですw。
確かに、いくら原典に基づいても、その解釈は百人百様だから、あまり意味の
無いこと。すべての責任は、現代人としての解釈者にかかっているのです。
349の滑稽さが一段と際立つ流れだな・・w
351 :
机龍之介@規制代行 :2012/09/02(日) 10:09:16.76 ID:3HXjwfJT
>>331 >その通りだと思うが、ここの「釈迦教徒」には現実肯定など誰一人見当たらない
>のは何故でしょうね。
そうですね。メクラだと分からんかもしれませんですね><
私は一発で分かりますが!(^^)!
現実肯定の人はおります!
>「法(現実)」から釈迦を帰納する」。これが大乗のやっていること
中論解釈でも、演繹でやってる人はおります。
まあ大体の人が、帰納法的推論の域は出てませんけど、
この演繹と帰納では全然レスポンスの内容が違いますから、
これで「噛み合う論議」ってのは非常に難しいかとおもいます。
不立文字ってのは演繹ですよね。
どういうふうに相手に伝えるか?がキーポイントですけど、
ビンビン伝わっちゃう人もいれば、「言葉遊び」などと比喩する人もいる。
演繹と帰納では、これだけの差がある。
おまえら仏教以外の知識を根拠に使って仏教を見てるやつ多いな。悪いことではないが
353 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 12:57:15.09 ID:HHPIx8sj
>>350 >349の滑稽さが一段と際立つ流れだな・・w
釈迦に嵌った君たちが、中論を釈迦で解釈しようとしているだけの話。
中論の「帰教序」をよく読むと、そこにあるのは龍樹の思想だけ。
釈迦の思想の片鱗もない。
中論は、釈迦に対する痛烈な批判である。
>>342 あるがまま、直接現実において、「壊れるものは <壊れている>」 が、正解じゃないの?
「壊れるものが <壊れる>」 ては、すでに壊れているものが、さらに壊れるということで、
二重の同じ働きがあることになる。
それと反対に、「壊れるものは壊れない」 では、相反する二つの作用が、
同時に存在することになる。
どちらも二重の作用が働いてることになる。
一方、「壊れつつあるもの」 の場合、まだ 「壊れる」 に至っていない段階だから、
ありのままの直接現実において、この瞬間において、「壊れつつある」 が絶対の法位だから、
「壊れない」 が正解だと思う。
中論でも確か、「去りつつあるものは去る」 という表現はあるけれど、「去るものは去らない」 という
表現は無いよね?
355 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 13:10:07.63 ID:HHPIx8sj
>>351 >不立文字ってのは演繹ですよね
「只管打座」「修証一等」は、只座るという「現実動作」からの帰納です。
>>354 訂正
「去りつつあるものは去る」 ⇒ 「去りつつあるものは去らない」
357 :
机龍之介@規制代行 :2012/09/02(日) 14:36:32.70 ID:nzMYfQQp
>>355 >「只管打座」「修証一等」は、只座るという「現実動作」からの帰納です。
そういうのは帰納なんでしょうけど・・・><
「不立文字⇔演繹」つうたら、何も私が説明せんでもピンとくるでしょ?
公案も同じなんだよ。
「隻手音声」にしても、どう受け止めるか?は、
「白隠の心を感じとれ」ってことですから。→演繹です。
(実際は演繹も帰納もない)→以心伝心
つまり感得つうくらいだから、解釈するんじゃなくて・・・感じとるもん。
(理性【理屈】ではなく感性【覚】)
不立文字ってのは、それを文章にした訳で、
これは師が弟子に伝えたいもんを残す。
悟った人間は、こういうものを後世に残したくなる。
それが人情ってものかとおもいます。
そういう訳で、禅宗の論書は他の宗派と比較すると
その量は甚大になる。
多いから良いってもんじゃないですが・・・
ツールですから、年老いて、再度紐解くと又違った印象になるかもしれんですね。
358 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 14:55:47.73 ID:bIfP9fBD
>>357 不立文字も、現実からの帰納だと思う。例えば「眼横鼻直」「庭前の柏樹子」。
悟りは「思慮分別(観念)を超えたところ」、即ち「あるがままの現実」に
しかない。
359 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/02(日) 15:04:48.39 ID:At6Ffbq0
>>354 >>356 さっき起きて、食事して、また出かけますので、手早く書きます。
>あるがまま、直接現実において、「壊れるものは <壊れている>」 が、正解じゃないの?
直接現実において正解などありません。なんでもいいんです。
龍樹の狙いは「毒(言語)をもって毒(言語)を制す」<故川上雪担師>ですから、ここでは毒の効き方(言葉事理・尻)に拘泥する必要はありません。
ここでの龍樹は的外れでヘタクソだなあとおもいますよ。イエローカードですよ。
ポイントは直接現実(縁起のあるがま)には言語そのものがありえないことを押さえることです(
>>342 参照)
>>342 でもいいんですが、ちょっと別角度から。
<壊れるもの(分別「間接現実」)は= 〇〇〇〇〇(無分別「直接現実」)>です。
なぜなら、間接現実=直接現実だからです(中論25-19)
〇〇〇〇〇は無意味ですから、なんでもイイのです。
つまり、「壊れるもの」(間接現実)とは直接現実で、壊れない、壊れつつある、壊れる、壊れた、壊れるであろう、
アホ、間抜け、スケベなどなんでもOKです。
意味なんかありません。
なぜなら、意味は人間の勝手な二項相対妄想に過ぎないからです。
このように、比較する意味も価値も実体もありません。
一切に矛盾はありません。一切は空です。一切は中道なのです。時空際断です。
したがって、そもそも苦しみそのものもなかったのです。
この現実(あるがまま)に安んじて、世間の只中で二念を継がず、いかなるときも、慶安にお過ごしください。
改めて、戯論の消滅というめでたい境地なるがゆえに、
いかなる仏法も、どこにおいても、誰のためにも説かれなかった稀有なる説法者ブッダに敬礼いたします。
360 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 15:17:29.09 ID:bIfP9fBD
「現成公案」: 「目の前に自ずから存在している公案の意。現実世界がそのまま究極存在で あるという、哲学的意味合いのもとに、用いられるようになった。」 「しかあるを、水をきわめ、そらをきわめてのち、水そらをゆかんとゆかんと 擬する鳥魚あれば、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。 このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、 この行李したがひて現成公案なり」(「正法眼蔵」)。
361 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 15:39:46.43 ID:bIfP9fBD
>>359 >いかなる仏法も、どこにおいても、誰のためにも説かれなかった稀有なる
>説法者ブッダに敬礼いたします。
釈迦は、やたらと教えを「説きまくっている」w。
龍樹は、「釈迦は、自分(龍樹)のようないかなる教えも説かなかった」と
言いたかったのかもしれないw。
中村博士は、「ブッダたち」と、ブッダを複数に解している。ブッダは、釈尊
だけではないのです。勘違いしないように。
机や隠居は、どこ行っても三十棒喰らって叩き出されるのがオチだな・・w んと浅薄だな、お前等は・・・┐(´ー`;)┌
363 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 15:54:08.98 ID:bIfP9fBD
>>362 一旦釈迦に嵌った者は、中論は絶対に理解できない。無理、無理w。
364 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 16:04:55.41 ID:bIfP9fBD
>>362 釈迦こそ、真っ先に三十棒喰らうのではないの?w
>>363 ばーかw
(別に、あってもいいけど)、基本、禅に中論は不要なんだよ。(或る意味お釈迦さんもねwww)
少なくとも必須じゃない。
わかる? わかんないだろうな・・w
366 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 17:21:46.56 ID:Y7OUbT29
なんか、スレの進行が速いなwww 話題についていけんわww 机のバカが、我慢できずに乱入してきたのには笑えたwwww こいつは、ホントに「かまってちゃん」なんだなwww なんか、別の大王が書き込みしてたなw これが、ポッタンスレの大王かw んで、「遊び・・・」ってのが、別バージョンとww ややこしいんで、こっちは「遊び大王」としようwww
367 :
机龍之介@規制代行 :2012/09/02(日) 17:22:51.66 ID:3HXjwfJT
>>358 >不立文字も、現実からの帰納だと思う。例えば「眼横鼻直」「庭前の柏樹子」。
眼横鼻直、庭前の柏樹子、倶胝堅指など、そのフレーズは違えど
「何を伝えたいのか?」は皆同じなんだよ。
だから私はツールでしかない。と言ってる訳で。
そういう意味では演繹なんだね。
帰納法とは、そういうフレーズを受け止める側が、どう解釈するか。
ということなんだけど、
これも殆ど感性的(理屈ではない)なもんだろうよ。
ピカソの絵がどう素晴らしいかは、その人にしか分からない!
つうことでしょうね。
ピカソは送信者であって、受信者は貴殿なのだ!
帰納法とは、受信者側の感性をいう。
368 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 18:18:19.65 ID:U4QFtF9U
>>367 そのツール自体が、あるがままの現実から帰納されたものでなければならない。
受信者がそのツールを、あるがままの現実に還元できるものでなければならない。
現実を離れた「思慮分別」には、悟りはない。
ピカソも、具象物の正確なデッサンから出発した。
369 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 18:25:07.11 ID:U4QFtF9U
>>365 >基本、禅に中論は不要なんだよ。(或る意味お釈迦さんもねwww
道元さんの基本は、中論そのまま。釈迦が不要なのは当然。あったら悟れない。
禅や中論とは、本質的に異なるものだから。
370 :
机龍之介@規制代行 :2012/09/02(日) 20:50:02.90 ID:3HXjwfJT
>>368 そうです。そのとおりです!!
つまり、眼横鼻直、庭前の柏樹子、倶胝堅指というツールにおいて
送信者の「心」が受信者に“そのまま伝われば”いいんであって、
これが拈華微笑なんでしょうね。
言葉などいらんですね!(^^)!
ニッコリで、もうそれ以上は語ちるまい。
で、貴殿は机龍之介の心が伝わったでしょうか?
もしそうであるなら、ツールは捨置しても宜しいかとおもいます。
>>359 を見て思ってることはおんなじようなもんかも(レベルは同じとは思って
ません(^^ゞ)って思った。
ただ直接、間接の語感が観念論に聞こえてしまうのです。
分別を超えて世界をつかむことが大切なんでしょうか?
掴もうともがくことが大切なんでしょうか?
掴むときの構造を知ることが大切なんでしょうか?
分別を離れた世界は僕には必要ないような気がするんですが
釈迦は苦を離れようとして、自分を消そうとしてたら偶然
自分や世界に慈悲を感じてしまった って妄想してるんですが
>>369 んとに何も知らんのやな・・・w
何度も言ったろ?w
禅は、(道元だろうが臨済であろうが)、突出して異端であるが、同時に(≒故に)、正統な釈尊の系譜である、と。
373 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 00:39:40.15 ID:535Ayerk
>>372 >同時に(≒故に)、正統な釈尊の系譜である、と。
新刊のシリーズ大乗仏教の「中国禅思想の展開」を読んでみたが、
そんな系譜は一向に感じられない。
例えば、
「『迷』に対して『悟』を説くが、本来『迷』が無いからには、『悟』も
また存在しない。一切の衆生は、永遠の昔よりこのかた、法性三昧より
出ることなく、常に法性三昧の中ににあって服を着たり、飯を食ったり、
おしゃべりしたりしている。感覚のはたらきや一切の行動は、すべて法性
なのである」(馬祖道一)。
釈迦の「無明」や「一切皆苦」などとは、対極にあるではないか。
>>370 >言葉などいらんですね
>ニッコリで
>で、貴殿は机龍之介の心が伝わったでしょうか
こいつは馬鹿か?
文字のみの電子掲示板で、にっこりが伝わるとでも思ってんのかしらん?wwwww
禅問答だ!かかってこんか!!
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1346406582/ 14 名無しさん@京都板じゃないよ 2012/09/01(土) 05:32:09.15
おぬしの目の前にいる犬が吠えた。
犬は何と吠えたのか?
16 名無しさん@京都板じゃないよ 2012/09/01(土) 09:51:48.52
>> 14
電子掲示板じゃ無理だろw
目の前に対峙して商量してるのでないと。
つか、その意味で、こういうスレは無意味なんだよな・・w
現場主義の禅が、電子掲示板で何を伝え得ようかw
>>373 >釈迦の「無明」や「一切皆苦」などとは、対極にあるではないか。
ハァ?(゚∀゚)
どこ読んでんだよwwwww
そこんところは、禅に於ける大前提だぞ?
ああ、そうかw
あんたは解説書だけで、祖師方の語録は何一つ読んでないんだったなw
そりゃ解らなくても無理ないわwwwww
376 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 00:49:16.62 ID:535Ayerk
>>375 禅では、「理解したらいけない」のである(大慧)w。
>>376 ぷw
「解る」を「(知的に)理解する」としか読めないレベルが何を言ってるのやら・・・w ┐(´ー`)┌
>>376 そうそうw
無明や一切皆苦は、禅の前提でもあるという点は了解してくれたのか?
376ではその辺の回答がされてないようだから。
んと、「“違うこと”“ズレたこと”を書き込んで、問いから逃避する」姿勢は相変わらずだなw
379 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 01:16:18.62 ID:535Ayerk
>>378 少なくとも、唐代の禅は「平常無事」である。
「克服すべき『迷い』を想定することがそもそも『妄念』であり、したがって
その対概念である『悟り』もまた存在しない。日常的な営みが、『そのままで
本来的に法の姿』である。唐代の禅宗において、このような現実肯定の態度は
非常に普遍的であり、自己のありかたの根本的な変化を意味する修行や悟りは
概して否定される傾向にある」(「中国禅思想の展開」)。
禅てあの禅状態のみを言うの? だったら、座禅がおわったらふつうの人じゃん
>>359 閻魔大師
そのような不可知論的態度という帰結に至る思想の場合、サンジャヤ・ベーラッティプッタではな
ぜいけないのでしょう? サンジャヤ師は不可知論的態度を「これが縁起と向き合う在り方だ」と
弁明したかもしれませんね。
また、サーリプッタ長老、モッガラーナ長老がなぜ、そのような不可知論的帰結に至っていた態度
であったサンジャヤ師を見限らなければならなかったのか?
それとも大師は沙門果経の存在自体に疑義を提出するとか?
基本的に、釈尊の教えに、「悟ったならば、還俗して、出家をやめて世間に戻って慶安に暮らす」
なんてものは見出せませんね。それは単に仏教とは根から無縁の、中国人的な儒教思想にルーツが
ある価値観でしょうね。
>>381 続き
彼ら二大長老のような方々ですら、釈尊の教えに出会う前には、サンジャヤ・ベーラッティプッタ
を悟った人と勘違いして彼に師事していたように、不可知論的な思考は悟りと勘違いしやすい典型
的な陥穽ではなかろうかと思います。後世に仏教の純粋性が薄れてくれば、サンジャヤ系の影響が
“先祖返り”を起こしてぶり返してきた派閥もあったのかもしれないと思いますよ。特にシルクロ
ードを越えてからは中国人が自分らの肌に合うように好き放題に実態を改変しまくりではないかと。
で、それ(中国人的儒教価値観)が肌に合う人が日本人にも多くいる。
383 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 07:02:17.94 ID:ak5R+17X
>>381 サンジャヤは非想非非想定には達してたと思いますよ。
だからこそ、サーリプッタ・モッガラーナは縁起法頌で悟れた。
言い換えると止は十分なしていたので、観に直ぐ入れた。
それとサハジャー、禅、本覚の境地は釈尊の境地と変わらないと思います。
もちろん禅には野狐がたくさんいるので気をつけないといけないのですが。
384 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 07:05:19.32 ID:pxSOhu+g
悟るまではお釈迦様に執着しなければならない お釈迦様への執着を怠ると誘惑に負けて 金、地位、酒、ギャンブル、セックスなどに溺れるのである 偽物への執着は最悪だがお釈迦様への執着は最高の徳なのである
385 :
机龍之介@規制代行 :2012/09/03(月) 07:52:01.59 ID:OYrESCdm
実にいい流れですね!(^^)! カオスの中に一輪の花を見つけたり! 2chの素晴らしいとこじゃ〜ないですか。 滅多にないことですけど、私は感動したレスポンスは 記念にコピペして保存しとくのですが、ひとつ保存が増えました。 有難う御座います。
386 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 08:47:32.17 ID:2WU5nFSl
>>384 典型的な釈迦カルト。座禅でもやって、釈迦への滑稽な執着を去れ。
387 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 09:23:25.88 ID:2WU5nFSl
>>380 その「ふつうの人」「ふつうのこと」に最大の価値を見出せるのが禅。
釈迦には、逆立ちしてもできなかったこと。
388 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/03(月) 10:46:05.41 ID:O6+00+nk
>>381 忙しいので、お構いできませんが・・
>釈尊の教えに、「悟ったならば、還俗して、出家をやめて世間に戻って慶安に暮らす」
>なんてものは見出せませんね。
縁起の現実(あるがまま)=縁起の現観の一言に尽きます。
アタシは、仏法フリーター(固執筏なし)なんですが、不説さんは(固定)「仏教」正社員なんですねw
失礼ですが、不説さんも「仏教」正社員なのに(だからこそ)、結局間接現実(二項相対)オンリーから抜け出せていないのです。
不説さんもオイラ氏も、会長(ブッダ)や社長(サーリプッタ)の根本趣旨が掴めていない“不良”社員です。
『悟った』のに、出家⇔在家の分別執着があるなどということ自体があなた方が『悟っていない』証拠です。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺してください。(『臨済録』示衆)
直接現実(縁起の現観)にては、仏とか祖とか出家とか在家とか、非有非無←そんな差別(しゃべつ)があるわけないやないか!
この低能の頭でっかちどもが !!
389 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 10:50:26.38 ID:ak5R+17X
>>388 掴めてると思ってるんか?
>『悟った』のに、出家⇔在家の分別執着があるなどということ自体があなた方が『悟っていない』証拠です。
だったら、君に「君と僕」「悟った、悟ってない」という分別自体がなんであるんだ?
なんで有意味な言葉が話せるんだ? 全て無分別なんじゃないのか?
390 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/03(月) 10:59:18.83 ID:O6+00+nk
>>382 >
ホント、不説さんは(固定)「仏教」不良」社員ですねえ。
ブッダはスカウトしたサーリプッタとモッガラーナを通じてサンジャヤ師のノウハウの多くを学ばれたと思いますよ。
アタシはサンジャヤさんは好きですよ。周りからはアホと思われるほど、実直で深いお方です。
あんな百家争鳴のときに、判らない事は判らないという勇気を持っていただけでも素晴らしい。
でなければ、あのサーリプッタやモッガラーナさんが付いて行きますか?
サンジャヤさんの結晶がブッダの「無記」として花開いたのですから。
しかし、仏法は不可知論ではありません。
不可知論なんて間接現実ベッタリズム(不知という分別)でしかありません。
アタシは仏法は趙州禅師が言下に於て頓悟(とんご)された下記に尽きると思います。
平常心是道(南泉禅師)
『仏法は知(妄覚)不知(無記)に非ず〜豈に強いて是非すべけんや』
⇒廓然無聖・神・真・善・美・分別。
ちなみに達磨『不識』は無分別(の分別)の謂いたるは当然です。
391 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/03(月) 11:01:37.62 ID:O6+00+nk
>>389 ここはまさに間接現実そのものですよ。
矛盾の渦中にあるのは当然です。
判っていただけないでしょうが。
392 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 11:09:11.49 ID:ak5R+17X
>>391 君の言い分はわかる。単なる神秘主義。
しかし、それが仏教とは全く思えない。
仏教というの止めてくんないかなあ。
393 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/03(月) 11:28:10.05 ID:O6+00+nk
>>392 >神秘主義
え〜と、どっかで『単なる神秘主義』とやらで話を伺ったなあ、その場所を探すのに手間取りましたw
ありました ⇒
>>245 >仏教というの止めてくんないかなあ。
御心配は無用!
アタシはずっと前から固定仏教批判(反マハーカッサパ教)の仏法フリーターですから。
394 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 11:37:24.66 ID:ak5R+17X
>>393 いや、アンタが勝手に思ってるならいいんだが、
ここで書くとなると、勘違いする人が出てくるかもしれないから、
その人のために言ってるだけなんだが、
これでも聞かないなら、まあ、一週間に一回ぐらいこれは仏教じゃないって言うだけにするは。
仏教の考え方は美しい至高哲学の至高だうお!?4音符。
396 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/03(月) 11:50:25.37 ID:O6+00+nk
もう出かけるので、後は継げませんが、
>>394 >ここで書くとなると、勘違いする人が出てくるかもしれないから
ここはまさに「議論スレッド」であって、
そーゆーお方のために「質問箱」があるのですから、
そんな老婆心は無用でしょう。
カオスのうちに「道」を見い出せばいいのです。
>>392 言い分が分かるのにそれを退けて
仏教にこだわるのなぜ?
399 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 12:54:53.65 ID:K/LBD99A
>>398 >仏教にこだわるのなぜ?
「仏」は多数いるんだよw。釈迦一人ではない。勘違いしてはならない。
400 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 13:00:21.12 ID:ak5R+17X
>>398 分かるというのは彼の見方。
それと仏教は全く違うのは明らかだから、仏教とは言ってほしくないわけだ。
401 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 13:03:00.70 ID:ak5R+17X
>>396 >カオスのうちに「道」を見い出せばいいのです。
少なくともここではテキストに基いて仏教を議論する場だと思ってる。
そして伝統仏教はサンガの中で聖者から聖者へと伝承されてきた法を道として学ぶもので、各自が勝手にこれが仏教だなどというのは歴史にないんだは。
>>400 そうじゃなくて、
仏教とは違ってもそっちの言い分が正しければ仏教を捨てて
そちらを信じればいいのでは?
403 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 13:19:20.40 ID:ak5R+17X
>>402 ここは仏教スレだぜ。
何が正しいか、という問いより。
まず、仏教という体系内で何が説かれてるか、それをテキストに基いて議論する場でしかないだろ。
なぜなら、ここは文字しか見えないのだから。
何が正しいかとか、体験に基いて語りたいとかいう人はスレ違いじゃないか、
少なくともオイラは、その範囲を超えて語ろうとは思ってない。
それにその正しさを保証する判断基準はないだろ。それぞれ主観で話しても、話にならないのは分かるだろ。
>>402 「(それが)“正しい”かどうか」(理解できるかどうか)、ではなく、
「伝統的な仏教・仏法として適切かどうか」ということだから。
「たとえ正しくても仏教ではない事柄」ってのも世の中にはたくさんんあるんじゃなイカ? w
また、理解したなら、その考え方に組せねばならないのかい?
相手の言い分を理解したら、自身の立場を捨てるのかい?
複数の考え方をそれぞれ理解できたとしたらどうなるんだい?
彼は、何を基準に選択するんだい?「正しいか正しくないか」?
ちなみに訊いてみるけれど、
麺類(特にうどん・そば)を音を立てて食べるのは、日本文化としては正しいが
西洋マナーとしては×でしょう? 【どっちが】正しいの? (´・ω・`)
俺は仏教がどうであれ、自分の理想に従う。誰かが自分以上崇高な理想を俺に提示出来ない限り、自分の理想しか要らない。仏教であれなんであれ
406 :
机龍之介@規制代行 :2012/09/03(月) 14:41:07.27 ID:y7s6GSrL
>>403 >なぜなら、ここは文字しか見えないのだから。
そうですかね?私は文字において見えてくるものがございます。
だから感動もあるんじゃないですか?
良い書き込みつうのは、文字を通して、そしてその真意が私に伝わるからです。
いや、伝わらない人もいるかもしれませんけど、
伝わる人には明確なメッセージになってるんですよw
>>373 氏などは、ちゃんと分かってて、そして引っ掛けの書き込みしてるんだから・・・
407 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 14:50:58.01 ID:2bUK/8HB
>>401 >少なくともここではテキストに基いて仏教を議論する場だと思ってる。
「テキストを超える」という意欲は全くないのかw。
「自灯明・法灯明」などと言い切れた偉い宗教の開祖は、世界広しと
いえども釈迦一人であることを忘れてはならない。
そんなヤツどこにでもおるわ!ボォケ!
生じてきているものが、(―たとえば文中にもある“感動”でもいいが・・w―)
文字情報(視覚情報)によって惹起されているということが判ってないんじゃ話しにならんな・・w (;´ー`)y━~~
〔文字情報の入力(感受)〕によって(それを因なり縁として)、
自身の心の中が波立っている(→或る在り様が生じ来っている・在り様が変容している)のに・・。
んと、野狐丸だし棚w
>>406 【そこ】に、【文字(情報)以外に】何があるんだ?www
>>407 だからぁw
【ココ】は、テキストを超える場所(スレ)じゃないのw テキストを超えた話をしたければ、
実際に会って対話するしかないのw
解る?ボクちゃんw
>>409 補
文字情報の中に感動があるんじゃないぞ。 (解釈として、そう読んで、そう法話することは吝かではないにしてもw)
そういえば、若人欲了知三世一切云々なんてフレーズがどっかにあったなw
人間に理解され得るようなものは真理たりえない。真理の光は世界でごく少数の者しか持ちこたえる事ができない…
真理がもし選ばれし少数者のものでしかないなら。真理は真理として認めつつも、それはあまり実践的ではない。それは認める
真理はすべての者が得られるものではないけど、得たところですぐに何かが変わるものではない たんたんと因果をうけいれるだけ、習慣で意図せずそれをなしているものもいる ただ意図しない者は偶然の楽をえているだけで、偏執すればたちどころに楽あればという苦の連鎖を生じる
414 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 17:28:28.70 ID:M8fwhhT8
>>409 >【ココ】は、テキストを超える場所(スレ)じゃないのw
超えると何か困ることでもあるのか?wどうもあるらしいなw。
大乗も龍樹も、原始仏典に言及するが、それは釈迦ブランドの利用による
己の権威付けだけで、実質上は超えている。
禅語て謎々のようなもんだな、解説されるとなあんだなのに、 コロンブスの卵みたいだ、なんでこんなものをあんだんだろ
>>403 >>404 価値観や信念に正しい基準なんてないが
お互い納得してる前提から
そこから派生する帰結を議論することはできる。
体験というが個人の特殊な体験をもとにしてるわけじゃないだろう。
417 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 18:26:20.42 ID:M8fwhhT8
>>413 「偏執すればたちどころに苦あればという楽の連鎖を生じる 」のだから
同じこと。これが真理である。
>>417 同じこと。その楽を求めて苦となる
分かりやすく言えば、ものを消費すること、ものをつかうことは異なる
419 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 19:42:53.34 ID:M8fwhhT8
釈迦教徒は、人間に「苦の概念」など植え付けてはならない。これはキリスト教 の「罪概念」の植え付けと同様、人間に対する「地獄に堕ちる」に値する犯罪で ある。
>>414 ばーかw
【文字情報しか存在しない場所だから】、テキストを超えられないと言ってるのにw
んと頭悪いなwwwww
文字のみで情感あらわした人ザラにいますがな。
422 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 20:14:17.07 ID:ak5R+17X
>>421 そうじゃなくて、仏教を論じる場合、テキスト抜きに主観だけで話てもしょうがないでしょってこと。
互いに同意してる場合はそれでもいいけど、異論が出た場合、テキストに依らずに互いに妥当性を言い張るなら、最後はアホ・バカ合戦になりがちだということ。
実際、そんなもんでしょ。
仏教はテキストの妥当性そのものが胡散臭・・・ううん、なんでもない。 伝達能力の低さが問題なのであって、主観云々はそうでもないと思うけどね。 争う奴は何を基準に持たせても争うやんか。
仏教は、特に大乗はどうあがいても限定一元論。仏という究極と森羅万象のカオスの一体化。仏宇宙というひとつの有機体。それでいて、肉体と心の背後に寂滅を論じる→何かが混線している。小と大乗の混乱状態か?
少なくとも心の限定を超える事はできない→ゆえにテキストが必須となる。やはり、不二一元論というエベレストの頂点を極める事は仏教の仕事ではない。不二一元論にテキストは不要だし、必然でもない。仏教的寂滅以前に「非人格的自己」のみを取り扱うからだ…
>>424 いきなり上から目線で言われてもな。
「馬鹿は何をどうしたって馬鹿」以上のポイントがあるつもりなん?
428 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 20:55:33.01 ID:BEADNgkq
諸君のオツムかち割って見てみたいものだ
430 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 21:16:18.15 ID:ak5R+17X
ほれ、この有様。 テキストによらずに、思いを述べるなら、単なる居酒屋の雑談か、便所の落書きだ。
>>430 テキストベースで罵り合うってことはつまり仏教を凶器に使うわけで、
それなら使わんほうがよっぽどマシですが?
便所が何を勘違いしてるん?
↑便所のらくがき
究極の真実とは仏も無ければ衆生も無い。生死なく涅槃無し。無知もなく知恵もない。仏教徒もこれぐらいは平気でほざくだろう。しかし、彼らはその意味を理解しない。出来ない…
>>434 何を基準にしたって「どうせお前ら罵り合うだろ」に、尽きますが。
んな三下が仏教についてしたり顔で語ってるの見ると逆に笑えるわ。
ヤツら仏教徒は口先だけは高尚な議論を戦わせる。が、金色の仏像に額を地面にこすりつけて拝む有り様はまるで、ご主人様からエサをもらう犬のようにみっともない。俗物根性丸出しで、こんな輩は不純な動機で仏門に入ったに違いない…
437 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 21:51:43.76 ID:ak5R+17X
>>434 少なくとも数人はコンセンサス得てるよな〜
ところで、午後ローで名の起源『セブン』やりますぜ、セブン!
仏像や法座に礼拝するのは、慢心を抑えるため 2chで管巻いてる奴よりは謙虚
>>435 基準? 罵り合う?
そういう問題じゃないってのが、ホントにわからんのか?
>>437 起源とかwww
せめて諸星ダンにしてくれよw
440 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 22:30:01.71 ID:ak5R+17X
>>439 え〜、オイラは好きなんだが、デヴィッド・フィンチャー
それに絡めて呼んだつもりっす
ウルトラじゃなくて
>>439 いいえ、そういう問題ですが。
問題の根っこはお前らの性根が腐ってるから諍いになるんだよって。
【そこ】には文字情報の他に、対話の相手に対する色眼鏡がそこにはありますから。
だからお前らは何をどうしたって駄目だってば。
みなおのおの自派を主張に互いに分裂する アビダルマ仏教のような混迷を示してるな あのアビダルマでさえ心の奥を分析しきれなかったわけで 有部のあの煩瑣な心の系統分析を見れば分かるように わけいってもわけいっても心の支配者になることはできんのじゃないの? それより自分の分というものを知るほうがいいよ 分析が世のために資すると思うなら止めんが
>>440 絡めてってw
ワシはそれほど高尚・ハイセンスじゃないっスw
モーガン・フリーマンも良いよね。
>>441 >諍いになるんだよって
争いになるかどうかを問題にしてるわけじゃないだろ?w
流れを捻じ曲げるなよw
>【そこ】には文字情報の他に、対話の相手に対する色眼鏡がそこにはありますから
いやいやいやいやw
頭大丈夫? 色眼鏡は【そこ】にあるのでなく、個々の心の中にあるんじゃないの?w
どこにあるの?
文字情報の側に色眼鏡があるのかい? 馬鹿じゃね?w
>>443 あぁ、
>>422 はお前じゃないのか、すまんすまん。
お前はテキストベースじゃないとヤダって主張してないのね。
色眼鏡かけながら歪み無い文字情報を得られるのか。へー、すごいねー。
あと、文字が情報になるのは頭ん中なんだけど。
法名をチンカスあたりにしたらどう? おすすめ。
ナザレのイエスは報身の如来ですか?それとも応身の如来でしょうか
446 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2012/09/04(火) 06:36:25.38 ID:Sl/Op4TE
>445 彼は自在天気取りで奇術を弄して聖者を詐称した単なるペテン師です。
447 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 06:37:16.30 ID:/EmcuKfT
セム式の主宰神信仰を説く他宗教の聖者であってそれ以上でも以下でもないですね。
448 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 06:58:32.92 ID:znot+wtm
>>443 >モーガン・フリーマンも良いよね。
いいね
そいつは単なるネラだから、もう相手にしてもしょうがないと思う
>>448 今度はレッテル張りかー、とにかく自分たちの自尊心守るのに必死なんだねーw
やっぱ僧侶気取りのメンヘラじゃこの程度が限界か。
>>444 机のレスを受けながら言えば、
色眼鏡が心のうちにあるから、感動が生じるのだろう?w
違うか?
そのとき、
「感動や色眼鏡が」、「既に、アプリオリに」、「“文字情報のうちに”秘匿されている」
かの如き言辞を弄すから、 ちょっと待てよw と言ってるんだが?
この点に関して触れずに、別の話(罵り合い・色眼鏡の有無)を繰り返しているから、
「(話の)ポイントが見えていない」と評した。
異議があるなら、きちんと上記を踏まえてレスしてくれないか?
「言霊」という言葉(概念・考え方)がある。 このこと自体を否定するつもりはないし、
「お蔭様」と同じく、(日本人として)大切にしていくべき言葉だと思っている。
しかし、
《そのように言葉の中にアプリオリに(感動なり何なり)があって、
内在する何かが感受されるから・流入するから(外部から入ってくるから)、人は感動するのだ》
という言辞を、仏教的に認め得るかということは別問題だ。
貴方は、文字情報の中に(既に)感動が内在されてある、とお考えなので?
なぜ、
>>409 前半に触れずに、
>>435 とレスするのですか?
論点はまさに409前半の筈ですが? それを 435として >尽きますが と別話にするなら、
>んな三下が >したり顔で と言うなら、たとえ別話として叱責するにしても、
誤っているならそこを指摘したらどうですか?異論があるなら提示したらどうですか?
だから、何度もレスアンカーしてるんですが、貴方は一向にスルーするだけ。
「ああ、そこまで考えてなかったのね・・w」と思われても仕方ないんじゃありませんか?
>>450 だから、純粋な文字情報だと思い込んでいるものは心の中にあるもので、
それは既に色眼鏡によって最初から歪んでるものなんだってば。
外界においてはただの光の文様を頭の中で意味(文字)に換算する際に色眼鏡が絡んでどうにもならんと。
それを認めず物自体を取り扱うように文字自体を取り扱える気でいるなら、それこそどこの野弧だと頭はたかれるよ。
>文字情報(視覚情報)によって惹起されているということが判ってないんじゃ話しにならんな・・w (;´ー`)y━~~
と、自分自身それが頭の中にそれがあると言ってるだろに。視覚が頭の外にあってたまるかと。
452 :
究竟涅槃 :2012/09/04(火) 10:17:27.09 ID:IR9HB4fU
<ニルヴァーナ(涅槃という境地)の表現> ニルヴァーナは肯定的直説は不能であって、否定的間説で隔靴掻痒に示唆する以外にない。 ・中論 帰敬序 25-3・10 不得・不捨・不常・不断・不生・不滅・不一・不異・不去・不来 ・般若心経 是諸法空相 不生不滅 不垢不淨 不摯s減 是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明盡 乃至無老死 亦無老死盡 無苦集滅道 無智亦無得 ・ウダーナ8-1 修行僧たちよ、このような境地がある。 そこでは、地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、空無辺処もなく、識無辺処もなく、無所有処もなく、非想非非想処もなく、 この世もなく、あの世もなく、月も太陽もない。 修行僧たちよ、(そこに)来るとも、行くともいえず、(そこに)いるとも、死ぬとも、(再)生するともいえない。 それは何かに依っているのでも、何かから生じたのでも、何かに支えられているのでもない。 <それこそが苦しみの終わりである。>
>>451 ハァ?(゚∀゚)
だから、最初からそう言ってるだろw
色眼鏡との作用で、感動が生じるんだろ?
光の文様に、何か内在してるのか?
(「光の文様」という言葉でなく、「文字“情報”」という“意味を内在させた”語を用いたことを責めてるのか?
文字情報という語の使用が、《既にアプリオリに、光の文様側に意味が存在する》ことを示唆している、と。
「色眼鏡で感動が生じ、色眼鏡で光の文様が有意味な”情報”となる」、この後者を無視している、と。
「文字情報」と表現することで、《光の文様の中に、既に・アプリオリに「情報」が存在する立場をとってしまっている》と。
ならば、ワシが悪かった。曖昧な言葉遣い・用語の使用をしてすまなかった。(だったら最初からそう言えよw)
一連のレスの「文字情報」を「光の文様」に脳内で置き換えといてくれ。(光の文様という言い方なら良いのだろ?)
ただ、いずれにしても、話の構図は変わらんけどな。根境識の和合によって(感動なり何なり)が生じるという構図は。)
455 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 11:22:04.38 ID:6V/7GTzi
>>445 ユダヤ教信者で、「自分が神になった」積りの誇大妄想を抱いた、単なる
統合失調症患者。
456 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 11:33:48.16 ID:6V/7GTzi
イエスと釈迦との間に相似性があるのが気になる。
>>453 あっそ。それはそれはフレキシブルで都合よかですね。ウザ。
ちなみに内在しないことと、掲示板ではテキスト(仏典)準拠じゃないと駄目だって話はどうつながるん?
目の前に居たところで光による刺激の他に聴覚や触覚の刺激が増えはするけどそれぞれには何も内在しないわけですから、
実際に会わなきゃどうのこうのとか整合性つかないんですけど?
458 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 11:57:46.03 ID:IR9HB4fU
俺は、実際にはもう会えないベートーベンやバルトークの 弦楽四重奏曲の楽譜(テキスト)だけで感動するけどね。 楽譜がなくとも、読めなくとも、 いい演奏が生み出す『音楽』に感動する人も多い。 仏法も音楽も何も説かれてはいない。
同じ中論を読むにしても 名高い禅師が読む中論と ネラーの独りよがりな中論では 別物になってくるのが仏教の経典というもの
460 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 12:08:47.58 ID:e3JmCLsC
小僧にも満たない行しかしていないネラーに 経典なんて読めるのか?
462 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 12:12:18.66 ID:IR9HB4fU
>>459 中論はなにも説いていないんだから、
別物もヘチマもない。
だから、中論に対しては批判を批判するしかない。
463 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 12:29:07.59 ID:grscAw4Y
架空のヒーロー(5人)を考えています。 忍者と魔法使いの中間みたいなかんじで、現代社会に潜む妖怪(悪魔)と戦う。 それぞれ、地水火風空の五大に対応した属性をもつキャラにしたいんですが、 どんな必殺技や武器がいいでしょうか。
>>457 w
>目の前に居たところで光による刺激の他に聴覚や触覚の刺激が増えはするけど
そこがポイントでしょうがwww
増えたら増えた範囲内での話になるだけで。
『“今ココでは”、「光の文様」(文字様の羅列)しかないから、「光の文様」(テキスト)の範囲で語ろうよ』
って話だろ。 ただそれだけのことを一代は言ってるわけだ。
至極単純な話だろ?
(それを、無い情報についてまで語ろうとするから隠居(
>>407 )みたいになるんじゃねーかw)
*(尤も、今読み返してみれば机の
>>406 は、噛み付くほどのこと(表現)でもなかったなと少し後悔してるが・・。)
>>464 こんどは「テキスト」の意味を仏典から文字列にフレキシブルに変換ですかそうですか。死ねよ。
伝達能力の低さが問題であって主観であるとかそういうのはそんなに問題じゃないと一等最初に言っただろ。
ポイントが見えてない? 見えとらんのはお前じゃ。
どのみち十全な伝達能力あったところで、豊富な語彙で罵り合うだけだからどうしようもないけどな。お前らは。
>>465 見えてないのはお前だろw
隠居の言う
『 >テキストを超えて >現代的解釈をして >意訳して、解釈し直した もの 』を仏教と再定義することの是非を言ってんだよ。
何でわからないかな・・。
>>466 補
芸能人や企業人の方々の「my解釈」を「伝統解釈」(≒テキスト)と
“称する”或いは“置き換える”ことを、宜しとしないってことだ。
>>467 はぁ? 今度は仏典準拠ですかそうですか。内在してないから〜はどこ行ったん?
上では文字様の羅列しかないから光の文様の範囲で語ろうよ。
下では文字様の羅列しかないから仏典準拠の範囲で語ろうよ。
って言ってることがフレキシブル過ぎて理解できませんな。
>>469 おいおいおいおいおいおいおい、なんでもレッテル張ってんじゃねーやチンカス。
我々は十全な意思伝達能力を持たないため、
仏典を共通の知識とすることでそれを補い話し合いましょうというのが一代の言ってることで。
お前のは僕チン隠居や机の妄想を仏教と認めたくないでちゅ〜の一点張りじゃんけ。
そりゃ棒にも箸にもかからんわな。
471 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 14:57:33.34 ID:znot+wtm
>>469 だから、オレチャン凄い、オマエラ馬鹿って言いたいだけだって
それ以外言いたいことないから、その場しのぎの薄ーい思いつきしか言えないから、根拠とかテキストに否定的なんでしょ。
472 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 15:01:45.61 ID:znot+wtm
>>470 ちなみにオイラが馬鹿一代って呼ばれてるエロオヤヂですが、何か?
>>472 少し煽られりゃ相手を見下すことで精神の平静得ようとする三下なんてお呼びじゃないですよ。
仏教を齧っただけの人に期待はしてないけどさぁ、それにしても酷いもんだね。
だから言ってるじゃん、仏典がどうのの前にお前ら屑だから無駄だって。
仏教を学べば学ぶほどに、この人たちの傲慢さ、自己愛は異常に増大する。
475 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 15:15:20.24 ID:znot+wtm
>>473 はいはい、それはいいですが、期待してないのに、こういうこと言いうと矛盾してるんで信用されませんぜ。
>>470 >仏典を共通の知識とすることでそれを補い話し合いましょうというのが一代の言ってることで。
ということで、オイラを根拠にしないでね。君は支持できないから。
そこんとこヨロヨロ
あとはどうでも好きに為さりませ
>>474 増大したんじゃなくて隠れてものが仏典の功徳によってしっかりと
見えてきたんですよw
わしもな〜orz
>>475 根拠にしないでってイミフで困るんだが。支持とかいつもとめたよw
自分のレスには権威や力かあると思ってるとか?
仏教知識自慢で終わっちゃってる馬鹿、周囲にも多いから解らんでもないがなんだかなぁ。
478 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 15:39:12.36 ID:znot+wtm
>>477 そうか、じゃ、以下はどういう意味なの?
>
>>470 >>仏典を共通の知識とすることでそれを補い話し合いましょうというのが一代の言ってることで。
オイラには理由句、理由節にしか見えないんだが、つまりセブンを否定するために根拠、権威としてオイラが使われた。
違うなら、どういう論理なのか後学のために伺いたいものですねえ。
オイラはエロオヤヂなんで、オイラの人格が低いことは自覚してますよ。
それはいいが、君は自覚してないのか?
>>478 セブンの主張が一代のものとごっちゃになってたから整理してやっただけよ。
一見、良い事言ってる様に見えるが、
自分達の身の程わかってないから結果経典の巻物で頭叩き合うような底の浅い主張だと前もってあれだけ言ってるだろ。
むしろ仏教名乗るの許せないとある種の義憤で動くセブンより下かな。自意識過剰すぎ。
自分の糞っぷりに底があってそれを自覚できてると思える君ほど頭悪ければ良かったんだけどね。
480 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 16:17:07.99 ID:znot+wtm
>>479 そうか、それは分からなかった。
どうもどうも。
なるほど、底なしの馬鹿で自覚できないと、そりゃ凄い、凄い。
まあ、あとは好きにしてくれ。
481 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=6,xxxP】(2+0:3) :2012/09/04(火) 16:54:00.84 ID:cc9PoAEC BE:410613023-2BP(3)
なんか、いい科学哲学の本はないですか? 仏教も、科学哲学も、まちがってるとしか思えないんです。 いちばん真理に近いのはカントだと思いますが。 良本、教えてください。
482 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=6,xxxP】(3+0:3) :2012/09/04(火) 17:03:02.25 ID:cc9PoAEC BE:1026531735-2BP(3)
無記、末那識、阿頼耶識、弥勒菩薩、阿弥陀如来、の初出仏典を教えてください。
ヴェーダーンタ哲学入門−スワミ・ヴィヴェカーナンダ−日本教文社−古書
484 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=6,xxxP】(2+0:3) :2012/09/04(火) 17:13:34.38 ID:cc9PoAEC BE:1368708645-2BP(3)
スレ違すまん。誰かFM-TOWNS版のウルティマV持ってる人いない?いたらオクに流してよ…高く買い取ります!ドーンと
>>481 藤場俊樹
「教行信証を読み解く」
何が正しいのかじゃなくて、わしにとって(あなたではないかもしれないけど)
何が必要なのかを考えれた本です。
487 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=7,xxxP】(1+0:3) :2012/09/04(火) 20:47:14.90 ID:cc9PoAEC BE:1368708454-2BP(3)
>>486 興味はあるけど、値段が高くて見送るかなあ。
唯識と瑜伽行 (シリーズ大乗仏教)/高崎直道/桂紹隆
489 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=7,xxxP】(1+0:3) :2012/09/04(火) 21:51:32.05 ID:cc9PoAEC BE:958096627-2BP(3)
東大がやってるという漢訳仏典のデータ化は、どこで読めるの?
>>388 >>390 閻魔大師
>アタシは、仏法フリーター(固執筏なし)なんですが、不説さんは(固定)「仏教」正社員なんですねw
>失礼ですが、不説さんも「仏教」正社員なのに(だからこそ)、
>ホント、不説さんは(固定)「仏教」不良」社員ですねえ。
私は仏教に対してはカスタマー(顧客)/コンシューマー(消費者)/サポーター(後援者)である
という認識はありますが、サービスの提供者(サプライヤー)側であると言うつもりはありませんし、
そのような資質を持っている自信はありません。
ただ、カスタマーとして、“競合他社”のサービスと比較検討して、どれが優れているかは厳選して
選びたいというのが、身銭を切る側の消費者心理というものですし、さらには、類似サービスの偽ブ
ランド品(特に中国製のコピー商品)を掴まされないように非常に気を遣っております。最近は、メ
ーカーの正規品(一応は仏教の系統樹の延長上に位置する宗派)であってもブツ(実態)は made in
China のもの(中国人的儒教思想をルーツとする性質の思考)が罷り通っている始末であります。
>サンジャヤさんの結晶がブッダの「無記」として花開いたのですから。
このようなコメントは禅定の域を出ず、他の外道と何ら違いはない次元に依然として留まると思います。
禅定の域内で、その粗密などの差異によって他との差別化を出張している場合に限定すると、
神智学やその影響を受けた数多のニューエイジ思想のようないわゆる“万教帰一”的な主張を
馬鹿にする資格はないと思います。皆禅定主義ってことですから。
真正の仏教のみが、その轍を外れています。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ SAT大正新脩大藏經テキストデータベース
智慧の宝庫、『大正新脩大藏經』の第1巻から第85巻までの全テキストをデータベース化
SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2012版 (SAT 2012) [NEW!]
SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2007版 (SAT 2007)
大蔵経テキストデータベース委員会は、
『大正新脩大蔵経』出版元の大蔵出版株式会社からの全 面的な信任を得て、
本データの作成と公開を行っています。
大藏經テキストデータベース研究会
東京大学大学院人文社会系研究科
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=0001_.01.0001a01 T0001_.01.0001a03: 長阿含經序
T0001_.01.0001a04: 長安釋僧肇述
T0001_.01.0001a05: 夫宗極絶於稱謂。賢聖以之沖默。玄旨非言
T0001_.01.0001a06: 不傳。釋迦所以致教。是以如來出世。大教
T0001_.01.0001a07: 有三。約身口則防之以禁律。明善惡則導之
T0001_.01.0001a08: 以契經。演幽微則辨之以法相。然則三藏
T0001_.01.0001a09: 之作也。本於殊應。會之有宗。則異途同趣矣。
T0001_.01.0001a10: 禁律律藏也。四分十誦。法相阿毗曇藏也。四
T0001_.01.0001a11: 分五誦。契經四阿含藏也。増一阿含四分八
T0001_.01.0001a12: 誦。中阿含四分五誦。雜阿含四分十誦。此長
T0001_.01.0001a13: 阿含四分四誦。合三十經。以爲一部。阿含秦
T0001_.01.0001a14: 言法歸。法歸者。蓋是萬善之淵府。總持之林
T0001_.01.0001a15: 苑。其爲典也。淵博弘富。韞而彌廣。明宣禍
T0001_.01.0001a16: 福賢愚之迹。剖判眞僞異齊之原。歴記古
葬式が儒教のモンだから中国産止めちまったら坊主はおまんま食い上げだなw もっとも中国仏教は儒教のライバルであり、正反対の道教の思想のほうが多く入ってるんだが。
494 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=7,xxxP】(1+0:3) :2012/09/04(火) 22:45:26.75 ID:cc9PoAEC BE:547483924-2BP(3)
495 :
神も仏も名無しさん :2012/09/05(水) 04:03:19.20 ID:o0Yo8yCs
ハンニャハラミツ=智度
皆さんはおそらくどんな宗教家、僧侶、学者に出会っても失望させられた経験があるのではないか?私は経験上すべてに失望させられた。故に言おう。依存は死、独立不羈は生である。自分以外何者も信じるな。少なくともテキストと自分以外頼りにならない
テキストと自分捨てりゃさっぱり解決。
2chはパロールじゃないの?
>テキストと自分捨てりゃ…それは声聞、縁覚のやり方だ。菩薩を目指す者はそうはいかない。もっとも上記のやり方が間違ってるわけではないが…菩薩は第八地までは自分無くしても、テキストは捨ててはならない。
自分の周囲に功利主義を見いだす内は、自分の内にも打算、計算、たくらみ、狡知、詐欺が渦巻いている。どんな高僧にもそれはある。故に自分無くしても、テキストに依るべきであり何度も何度も目を通さねばならない。少なくとも動物園でトラの餌になろうと思うその日まで
いや、それは悪魔が望む言葉だ。高次元の観点からはそれが理想だが…まあ、そうありたいものです
>>501 > 自分の周囲に功利主義を見いだす内は、自分の内にも打算、計算、たくらみ、狡知、詐欺が渦巻いている。
だから効を受ける自分捨てればけり。
自分有る限りそいつのために打算を繰り返す。
> 自分有る限りそいつのために打算を繰り返す 「渇愛(タンハー)が有る限り輪廻を繰り返す」 と言う意味で良いのかしら? おじゃる?
506 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/05(水) 09:38:04.91 ID:InDpCrgm
>>490 不説
>このようなコメントは禅定の域を出ず
!!!! m9(^Д^)プギギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ ー !!!!
・仏法は霊肉二元論に非ず。
・坐水月道場 修空華万行
・極めて高い知性のサンジャヤ師は一切の存在法則(仏法でいう縁起)に確信をもっていたが、
それでも思義の及ばぬコトを認める誠実なサマナだ。フィクションや妄想で誤魔化さなかった。
それをウナギ論法で表現した。
それがブッダの、実践的な「無記」や「戯論の排斥」として筏化されている。
ブッダに最接近していたのがサンジャヤ師だといえる。
>真正の仏教
!!!! m9(^Д^)プギギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ ー !!!!
『予、弟子にむかひて。かならず修行とげがたくは還俗せよ。其の罪は少し。
法師の身としていやしき心あらは<ば>、ちくしょうと成る事うたかひ<疑い>なし。
此<この>世はわづかのうちなり。とてもかくても光陰をくるにはや<速や>し。
<還>俗はむくひ<報い>ありとても、出家のむくひにくらへんや。』 (至道無難禅師 「即心記」より)
507 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/05(水) 13:20:55.53 ID:InDpCrgm
訂正 × 思義 〇 思議
常啼菩薩の物語って、ちょっとカルトの被害者みたい
>>487 図書館にあると思うよ
ネットで予約できるしわしの市では市内の図書館全部を在庫として
選べるよ
食べ物を見て食欲は仮設されるが 怒る事象をみて怒りは仮設されない そんなわけはないよな
>>506 閻魔大師
>ブッダに最接近していたのがサンジャヤ師だといえる。
最接近も何も、“象を撫ずる群盲”の十把一絡げの構成員だと思いますが……。
512 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/06(木) 05:32:41.23 ID:f3JX/fF6
早朝坐禅終了
>>511 >“象を撫ずる群盲”の十把一絡げの構成員
『マーガンディアよ。「わたくしはこのことを説く」、ということがわたくしにはない』(スッタニパータ837)
アタシはサンジャヤのうなぎ論法はこのブッダの境地とニヤ・イコールだったと看ている。
サンジャヤは掴んでいたんだよ、存在の法則を。
アタシの言う折り返し点を掴んでいた。
サンジャヤと同じく知性派のサーリプッタにとってはこの境地は一方で心地よく、
他方で忸怩たる想いがあっただろうと察せられる。
ただ、ブッダとの違いは、それを無分別の分別にて<コレあるがゆえに、アレあり>縁起の法として表現できなかったことにある。
アッサジからこれを聴いたサーリプッタにとって、頭をハンマーでガーンと殴られた想いであったろうことは、
アタシはリアルに感じ取ることができるよ。
無門関『即心即仏』の三割だけ説けの教えに反して、
対面しないネット空間ゆえに、ここまで超親切に解明しているにも拘らず、
これで掴みえないなら、頭を完全リセットして下山せよ。
513 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/06(木) 05:50:36.58 ID:f3JX/fF6
訂正 × 無門関『即心即仏』 〇 無門関『非心非仏』(三十三) まあ、いっしょやけどねw
514 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/06(木) 10:24:00.07 ID:3iYNZZ2z
>>506 朝から基地外笑いして楽しいか?
君は仏教以前に精神科で診てもらうことを強く勧める。
515 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/06(木) 10:43:04.10 ID:3iYNZZ2z
以前あった原始佛教とかいうスレの残党共が集うここは大変 集まりが悪いと思うが、遊びをせんとや生まれけむというコテを名乗る 邪見の王様禅宗かぶれの、遊びをせんとや生まれけむとかいうコテを名乗る 外道とwwwwの糞餓鬼に対する不快な感覚はいったいなんなんだろう?
顔真っ赤で怒ってるけど、「キレてないですよ」といいはるのが仏教ですね。
517 :
神も仏も名無しさん :2012/09/06(木) 11:10:07.56 ID:S1dOU5ZU
また、キチガイカラスが涌いてるwwww
日本は中国仏教は輸入したが半島仏教は輸入してない
釈迦の直弟子で悟りを得た阿羅漢より 修行者にすぎん菩薩が偉いってのは間違ってるのでは?
520 :
神も仏も名無しさん :2012/09/06(木) 22:45:22.13 ID:Qm5X0x5S
>>519 菩薩と言うからには、将来仏になる存在。
未来に何百人の弟子を阿羅漢に育てる仏になる、という前提。
悟った人間て日本にはいたないだろ。 現在も過去も
522 :
1/2遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/07(金) 09:41:17.96 ID:6KRDq9cT
質問箱31
>>567 です。
質問箱
>>568 失礼ですが、はっきりいうと、あなたの論はハチャメチャです。
@倫理行為の日常「自我」 A自帰依の「自我」B真我の「自我」を分けて考える必要があります。
>自燈明のアートマン 倫理的行為のよりどころとしてのアートマン
『安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、
──このような人がきさにその故に<道の人>と呼ばれる。』(スッタニパータ520)
・空=中道の縁起の直接現実(あるがまま)から還滅(無分別の分別)すれば、
「倫理」なるものは日常分別間接現実における共同幻想(塵・善悪判断)であって、『倫理的行為のよりどころとしてのアートマン』とやらはあなたの脳内妄想でしかありません。
世俗倫理行為のよりどころは既成概念の日常自己@です。
あなたの『アートマン』なる語は(プルシャとともに)相応しくありません。
・自帰依の「自」Aとは、スッタニパータ520の“道(中)の人”、道元のいわゆる脱落させる身心の自己(正法眼蔵「現成公案」)です。
<自帰依(間接現実) ← フィードバック(修行) → 法帰依(直接現実)>
= 一切は壊法である。怠ることなく修行を完成しなさい。 =
523 :
2/2遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/07(金) 09:44:28.33 ID:6KRDq9cT
>何がアートマンBであるかは、(一般的なアートマンではなく)プルシャと同じく教えなかった。 そのようなゴミ妄想⇒戯論は教えようがないからです。 仏法における自我(アートマン)Bについては、 ・間接現実(世俗)において、 一切内無我(相対判断で無し) 一切外無記 ・直接現実(勝義)において(中論24-10にいわゆる世俗的言語慣習に寄れば) 非無我非有我=空・中道 仏法において、いわゆる真我(アートマンでもプルシャでも)Bなるものは論外(『まったく愚かな教え』)であって、 どこにも位置できないゴミ妄想です。
↑と語るゴミくず。しかし、このゴミくずもやはり不滅のアートマンである。すでに完全無欠にして、永遠なる者
>>522 私見と断っている以上、それほど深い意味があるわけではないということは、最初に言っておきます。
臨終の説法の補助として、例えたまでですので、この議論自体に、意味があるのかも疑問です。が、
一応答えさせてもらいます。
釈尊自身の教えや抽象的な仏教の経典を読む場合、私は学者ではないので、基本、注や学者の解説を引用し
その解説に添った、またそれに対する自分の理解を説明しますので、そこのところを理解してください。
まず
>歴史的人物としてのゴーダマはその臨終においてさえも、佛教と言うものを説かなかった。かれが、説いたのは、
>いかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道である。ところが、後世の経典作者は、佛教と言う特殊な教えを
>つくってしまったのである。
>> ゴータマ・ブッダ 第七章 中村元
ここからも、わかる通り、仏教の教えに釈尊の教えは、関係ありますが、釈尊の教えに仏教の教えは関係ありません。
しかも、釈尊を、神格化していった大乗の経典「正法眼蔵」「中論」は、仏教ならまだしも釈尊自身の教えを、理解する上では、
悪影響が多いと思います。
例えば、質問版で言った通り、釈尊は、「自灯明法灯明」でアートマンを倫理的行為のよりどころとして承認していますが、
仏教では、あなたが
>>522-523 で示した通りアートマンを承認していません。つまり、自灯明法灯明を理解する上で、ほとんどの仏教のによる解説は意味をなしません。
ココからは、私の私見としていった「プルシャ」についての説明ですが 釈尊の「私」と仏教の「私」は、全く別です。当然釈尊は、後者の「私」を仏教と同じく否定しています。俗世の人間である私もアートマンと言われると =「私」と考えてしまいますが、おそらく、この私は前者の「私」ではありません。ここで初めて私は、前者の「私」は、一般的な「アートマン」より「プルシャ」に 近いのでないかと考えたわけです。このプルシャには、永遠不滅とか、実体があるとかは知りません。上にも書いた通りあくまで、倫理的行為のよりどころ としても「私」をどう理解するかと言う話です。 繰り返しになりますが >>仏法において、いわゆる真我(アートマンでもプルシャでも)Bなるものは論外(『まったく愚かな教え』)であって、 >>どこにも位置できないゴミ妄想です。 釈尊の教え自体は、仏教・仏教とは、無関係です。仏教でなくては釈尊の教えの光が保たれないわけではありません。(仏教がなかったら現物として教えが残っていなかったかもしれませんがw) また、釈尊が、いなくても釈尊が教えたダルマそのものは、なんの変わりもありません。なぜなら、釈尊が、ダルマそのものを作ったわけではないからです。 ただ、それでは「自灯明法灯明」が足が宙に浮いてしまいますので、質問版でも言った通り「釈尊の説いた教えと釈尊の制した戒律」がセットとなってと言ったわけです。
>>釈尊の「私」と仏教の「私」は、全く別です。当然釈尊は、後者の「私」を仏教と同じく否定しています。俗世の人間である私もアートマンと言われると >>=「私」と考えてしまいますが、おそらく、この「私」は前者の「私」ではありません。ここで初めて私は、前者の「私」は、一般的な「アートマン」より「プルシャ」に >>近いのでないかと考えたわけです。このプルシャには、永遠不滅とか、実体があるとかは知りません。上にも書いた通りあくまで、倫理的行為のよりどころ >>としても「私」をどう理解するかと言う話です。 ここの部分は、自分で書いといてあれですが、わかり辛いですねw 「倫理的行為のよりどころとしての私」する上で、すぐさま一般的な「私」と結びつかない高尚っぽい「プルシャ」でいいだろ程度のものだと考えてください。 当然、プラクリティとの二元論とかは、関係ありません。
修業者たちよ、生じないもの、成らぬもの、造られないもの、作為されないものがある…修業者たちよ、もしその…が無いならば、生じ、成り、造られ、作為されたものの出離はないであろう
修業者たちよ、生ぜず、成らず、造られず、作為されないものがあるから、生じ、成り、造られ、作為されたものの出離があるのである。(udana-[-1&3)ウダーナより。つまりはアートマンだ
アートマンを否定する人間は個人ならともかく、世界に悪い影響を及ぼす観点から、もはや犯罪的である。それは世界中の人間の能力を退化させ、頭脳と神経を弱める。結果非合理性がはびこって人間は自分への信念を失って堕落の道を辿る
532 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/07(金) 22:50:31.33 ID:6KRDq9cT
>>524-
>>531 仏法にとっては外道妄想であって、 間接現実ベッタリのゴミ妄想で論評及び議論にも値せず。
仏法は形而上学的論議に関わることはない。
挙証責任は存在を主張する>>524-
>>531 にある。
・アートマンとかあw、プルシャとかあwとかいう形而上学的教義妄想の完全立証を遂げてから、顔洗って出直して来い。
>>531 『このページ』もゴミ。
過去ログ嫁
533 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/07(金) 22:56:41.53 ID:6KRDq9cT
まだ、落ちるところに落ちず言い合いしてるんか… バカばっかやな!
535 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/07(金) 23:02:02.12 ID:6KRDq9cT
536 :
神も仏も名無しさん :2012/09/07(金) 23:04:52.46 ID:vqIPlg3C
>>532 釈迦の実態は
>>151 のリンクの通りだったのではあるまいか。
バラモン教や六師外道には、果たして「縁起」の思想が全くなかったのだろうか。
「無我」は優れて形而上的。「一切皆苦」はお話にならない。
>>532 >>・アートマンとかあw、プルシャとかあwとかいう形而上学的教義妄想の完全立証を遂げてから、顔洗って出直して来い。
あなたは、大きな勘違いをなさっているようです。
最初から言っている通り、釈尊の人間の倫理的行為のよりどころとしてのアートマンの話であり。倫理的行為を行う体や精神は、
恒常のものなので、アートマンが永遠不滅であるとかほんとに存在しているとかの完全立証など全く必要ありません。
一神教の信者が、神を信じるのが、神が完全立証されているからではないのと同じです。
むしろ今アナタが言っているような証明は形而上学的なもので神学で扱うべきものです。あなたの、レスを見る限り仏教は、高度な神学をお持ちのようですが
私が、言っているのはあくまで釈尊自身の教えですので、仏教(法)とは、無関係です。あなたが、反論に、仏教中観派龍樹の思想「中論」や仏教禅宗
道元の思想「正法眼蔵」を挙げられても困ります。釈尊は、龍樹と道元とは、別の人です。
あなたは、仏教は、理解されているようだが、宗教をわかっていないようだ。証明や論理など下らない。アナタがやっているのは、神学です。
悟り=ゲシュタルト崩壊したときの認識について議論しても無意味
539 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/08(土) 03:23:11.27 ID:FIG/UXm5
>>537 >釈尊の人間の倫理的行為のよりどころとしてのアートマンの話であり。倫理的行為を行う体や精神は、 恒常のものなので、
>釈尊自身の教えです
アタシが聞いているのは、上記をどのようにして知りえたのか?お聞かせくださいということだよ。
たとえば、
>「自灯明法灯明」でアートマンを倫理的行為のよりどころとして承認していますが
大パリニッバーナ経 (例えば一般的な 中村元 岩波文庫p63-64)を読む限り、
アートマンを倫理的行為のよりどころとして承認しているとは読めません。
証明や論理など下らない、「そう信仰している」とのことなら、どうぞ御勝手にで、打ち切ります。
はじめは蕎麦にコロッケなど全く理解できなかった。 何でもかんでも載せればいいというものではないのだと。 しかし喰ってみると丸々と裏切られた。 敢えて言うなら「世紀の大発明」だとも思った。 只では物足りない蕎麦にボリュームを持たせるというだけでは 蕎麦にコロッケが載ることの効果を語るのに充分ではない。 一見すると相容れない関係の二者ではあるのだが、 蕎麦つゆの塩味が見事なまでにコロッケの甘みを引き立て、 そしてコロッケの甘みは蕎麦そのものにアクセントを加える。 これは驚くべき高度な相乗効果であり、これを喰った後では ただの蕎麦など塩辛いだけ、ただのコロッケなど甘いだけだ。 それだけ衝撃的だったこの一杯に、「小さな宇宙」とも呼ぶべき 世界の無限の広がりすら感じるのだった。
541 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 04:35:15.03 ID:qs0CSd89
542 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 08:41:09.74 ID:q8jviDuA
>>540 食物のたとえは、適切ではない。味覚は五感の作用である。
要するに、釈迦が己のアートマンを以ってアートマンを否定したことは、彼の
滑稽な勘違い、矛盾、誤り。龍樹のいう「戯論」の典型である。
いや、アートマンを以てアートマンを否定出来ない。それは「存在」である。否定も肯定も「心」が判断するに過ぎない。アートマンは何事にも影響されない、自己である。
544 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/08(土) 11:24:53.71 ID:FIG/UXm5
>>542 >釈迦が己のアートマンを以ってアートマンを否定したこと
もう数十回も論破済。
ご都合主義ボケ老人の愚かな繰り言でしかない。
スル~~~~~~~~~~~~~wwwwwwwwww
≫516「キレかかっていますよ!」「いいえキレてません!」「キレてるじゃないですか!」(;`皿´)「キレてないって言ってんだろ!ボォケ!」→だって僕ちゃんは正しい仏教徒だもんね( ̄∀ ̄)→やたらスルーを連呼→でも内心は怒りの炎が燃え盛る
とにかく敵を論破しろ!是非善悪などこの際問題ではない。とにかく相手の口を塞ぐんだ!論破出来ない時はスルーという必殺技もある…よし、この手で行こう。たとえ良心がとがめてもそんな感傷感慨は後回しにすればいい。とにかく敵を論破しろ!
547 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/08(土) 14:43:53.99 ID:FIG/UXm5
>>536 見過ごしてたわw
>バラモン教や六師外道には、果たして「縁起」の思想が全くなかったのだろうか。
ネーミングはともかく、サンジャヤさんはニヤ・イコールだったと思います。→
>>512 >「無我」は優れて形而上的
間接現実において『無我』とは、一切(存在)現象に実体(自立・単一・恒常)は認められないということであって(←ゆえに縁起現象)
一切は人間が経験的に検証可能なコトですから(サンユッタニカーヤ 33-1-3)、
あくまで優れて(「心と心の作用」が入っています)形而下的です。
一切外は人間に経験的検証不能ですから、修行に役立たず、『無記』です。
>「一切皆苦」はお話にならない。
間接現実はあくまで一切における知覚・記憶・判断の分別二項相対ですから、
その一方への執着⇒苦が人間存在の様相(一切皆苦)であって、
そういった実存苦の根源的克服がブッダの本懐です。
それが『お話にならない』と言われるなら、勝手に妄想世界で裸踊りをやっている縁なき衆生であって、
このスレからお引取りください。
実存苦を三悪道におちない形で解決するのはよほど難しいことですね
実存苦を解消するには、実存楽を棄てる事です。が、感覚器官はイヤも王もなく苦楽を感受するので肉体から意識を切り離す事が必要です。しかしこのヨーガの技術は通常、今生や来世辺りで獲得出来る技ではなく、そのためには何万回もの転生もものの数ではない程困難です
550 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 17:23:28.08 ID:s7iyw80j
実家が曹洞宗 曹洞宗が人権・平和・環境と糞のような政治活動をしてる 幹部が同和団体とずぶずぶ 人権擁護法案成立まで主張して、同和利権を推進しようとしてるわけで こんな糞坊主が集まった糞宗派が先祖伝来の檀家であるわしは これからどうすればいいですか?
>>537 >倫理的行為を行う体や精神は、恒常のものなので
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
どこのオカルトだよwww
>>550 質問箱と言い回しが違う理由は何だ?w
つか、いずれにしろ
そういう現代日本仏教批判は変わり映えしなくてウンザリなんだよ。
もっと新しい切り口は無いのか? (´ー`)y━~~
553 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 17:34:55.15 ID:s7iyw80j
554 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 17:38:30.28 ID:s7iyw80j
わしは毎日毎日肺癌患者を診てるわけだが 呼吸ができずに酸素を吸うようになってもタバコを吸うアホが 年に3-4人いる 2-3年にひとりは吸入した酸素に引火して盛大に燃え上がるバカを 経験する ニコチン依存症の患者の分際で、ひとに説教垂れるな
555 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 17:42:53.69 ID:s7iyw80j
坊主の癌患者ほど泣き言をいう根性なしはいない (あとは学校教諭) 病状が悪くなるにつれ 家族や看護婦に当り散らし、泣き喚きまくるやつが多い 悟りや坊主のほざくことは全て糞だと 日日の診療から感じる
556 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 17:44:27.56 ID:x5fzZvt/
>>550 それは自分でも薄々感じていた。道元さんの思想は「人権・平和・環境」などの
「理念」とは対極にあるものだと思うが、何故だろう。
駒澤大学の「仏教学科」が原因ではないのかな。曹洞宗と原始仏教とが、どう
やって同棲できるのか不可思議w。
557 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 17:48:59.89 ID:x5fzZvt/
>>555 人間的でなかなかいいじゃんw。本当に悟っていることの証拠w。
558 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 17:55:49.37 ID:x5fzZvt/
>>555 >日日の診療から感じる
お医者さんが宗教板参入か。医師、弁護士、サラリーマン、僧侶まで、2ch
は日本の縮図。「2chは日本の実力」と言った人がいる。
僧侶も中学教師も、医師と同様、ストレスが多いからではないの。
559 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 18:01:46.92 ID:gz4wFYhX
>>558 葬式仏教はぼったくり価格だが
遺族のグリーフケアシステムとして歴史的にそれなりの価値は認める
だが今の坊主はほぼ世襲だから、頭が悪く知能の低い連中ばかり
講話のレベルの低さは目を覆う
とにかく政治に口出す糞坊主は死んだ方がいい
人権擁護法案推進の同和利権・曹洞宗は滅びよ(創価もだが)
国破れて2ch有り…ここには人間性のかけらもなく悪意しかない。日本人の精神的退廃は2chによってほとんど良心というものを滅茶苦茶に破滅してしまった。特にそれが知識人と呼ばれる人々にまで疫病のごとく蔓延し、案外日本は2chで滅びる気がする
上部構造及び下部に到るまで人々はかなり深刻なフラストレーションにさらされている。誰もが他者を押しのけ、嘲笑し…リアルでは鬱憤を晴らす場がないのだろう。これを持って他山の石とし、せめて最低限のヒューマニズム、愛情を失う事なく生きて行きたいと思う僕であった…
存在苦を切り離してまで生きたいのかな (と言いつつ何度も死にたいなあとは思うがなあ) 進化上必要だから苦を感じてるんだと思うんだが 生物は進化してるほうが楽しいと思う 化石とかw
563 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 20:09:13.28 ID:qs0CSd89
>>555 現代日本のお坊さんはほとんど凡人ですから
しかもほとんど制約なく勝手に生きてる人が多いので、非常識な人が多いです
だからといって仏教を否定するのはもったいない
実存楽というのがよくわからんが 実存苦は単純な苦じゃないよ、いわば分からないことから来る苦しみ 知れば、消える ただ単純な苦しみがなくなるというわけじゃないが
565 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/08(土) 22:57:11.86 ID:dyrOrH0u
>>555 一切皆苦。どうあがいても死で終わる自我による迷いの生存は、苦しみでしかない。
そりゃ日本の空理空論唯物末法仏教の真理は、いくら空だの中道だの能書き垂れても死ねば終わりの唯物論だからな。
いくら元気な時に仏教は中道だ。本当は生死などの二項対立などないんだとほざこうとも、そんな気休め程度の心の持ちよう程度の
話では、実際に死を目の前にすれば、自分が消滅してしまう恐怖に打ち勝てない人が多いんだろう。
中には元気な時にいくらご高説を垂れていようと。いざ死を目の前にすれば、どうせ死ねば終わりだからと周りにわがまま放題、
迷惑かけまくる坊主も多いんだろう。所詮本質的には無意味な言葉遊びに過ぎない気休め程度の
心の持ちようで終わる教義では、実際に死を目の前にすれば、死に対する人の根源的な恐怖に打ち勝つ事は難しいし、根本的な
解決にもならない。腹を壊し、激しい腹痛に苦しんだ。だが本当は痛み、快楽などの二項対立など
ないんだ。などと自分に言い聞かせて必死で痛みをこらえる。これが苦の滅なのだとこんな下らない宗教はないわけで、こんな
アホ教義に嵌まってる空理空論唯物末法仏教徒は救いようの無い馬鹿だ。せめてそのことくらいは悟ろうや。
566 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 23:07:41.43 ID:SV8Nr04e
禅寺は体育会系の勘違い雲水が相撲よろしく後輩をかわいがりをする場となり、 真宗は凡夫の自覚を単なる甘えに転化し 真言系では理趣経をエロパワー有効活用という解釈する。 文化遺産と施設以外に価値はない。 全部破壊して焼け野原にして改めてビルマ系とチベット系を植林しよう。
567 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 00:54:10.63 ID:+KJc2rd2
>>566 直ちに日本を出国して、本国にお戻りください。日本に外国人仏教徒は不要。
568 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 01:19:40.74 ID:8vCeQjNL
悟りを開いても肉体的な苦しみはなくならんでしょう ブッダも病気になって痛みを感じてたただそれで悩まないってだけで
在家でも悟れますか?
570 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 01:59:50.22 ID:8vCeQjNL
悟りは開けると思うけど開いた時点で在家の生活は成り立たなくなる 何せすべての欲がなくなるから
571 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/09(日) 05:40:32.24 ID:e4NhNWrX
>>568 だからさ。腹痛が起こっても悩まなくなる理由ってのが、実際に痛みはあるのに、
本当は痛みなどはないのだ。中道だ!なんて妄想全開で痛みを我慢するのが苦の滅っつうんなら、
こんなアホな宗教はないって話をしてるんだよ。これは別に肉体的苦痛の話だけではなく、精神的な苦の話でも当てはまる。
たく、腹がいたたけりゃそんな御託並べる暇あったら腹痛止めの薬でも飲んでるほうがよっぽど建設的だっつうの。
いつまでも言葉遊びに耽って、本当に君らは救いようがないな。
>>549 さすがは華厳さんなのかな?
投稿内容は概ね同意できるものばかりです。
>しかしこのヨーガの技術は通常、今生や来世辺りで獲得出来る技ではなく、
>そのためには何万回もの転生もものの数ではない程困難です
ババジ直伝のクリヤヨーガ
(パラマハンサ・ヨガナンダ創立『SRF』の教示指導)ならば可能です。
最高度の三昧境地であるニルビカルパ・サマーディ
(呼吸したり活動したままで唯一者との融合意識を保ち続ける)はともかくして、
少なくともその前段階としての瞑想境地であるサビカルパ・サーマディならば、
今生中において誰でもが到達可能です(ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』の
第二十六章/クリヤ・ヨガの科学を参照のこと)。
魂が必要だと思っている人たちは、それがなかった場合を考えるのが恐ろしいということではないのかな その恐ろしさを見つめていったら、おそらく自分というものが根源的に存在しないことに耐えられない自分と 向き合うことになると思う。その根源の欲が何に起因しているか、観察してみたらいんじゃないかな。 また、無我にこだわる人たちは離法愛、空理空論をもてあそぶ法愛から離れることが大切じゃないかな
サビカルパ・サーマディとは自律神経系統を制御して、 殆ど完全な無呼吸状態に肉体を持っていくものです。 この技法の修得によって、意識のほぼ100%を自己の魂に定めて保持できるので、 肉体と外界からの感受を完全遮断できるのです。 私程度の者にでも、 心臓と呼吸をかなりのところまで沈静化する経験ができましたから、 これは本物です。 ただの技法の問題なので、 大乗のように読経やマントラを永遠と唱え続けたり、 千日回峰行のような壮絶な荒行などもすることなくここまで達成が可能。
われわれは、自然現象だったと、自然は自然のまま、そのまま。 肉体に拘ろうが拘るまいが、法則は存在する…。
これで無我が分かると思いますが。 自我はけっして認めませんが…。
全てが法であり、全てが神である。 仏陀はそれに気づいた存在…。
全ての仏陀が、慈悲の雨を降らさんことを…。
579 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/09(日) 08:36:47.20 ID:EJSSoEyE
>>574 >肉体と外界からの感受を完全遮断できるのです。
そのような思考の根底にあるのは、所詮『霊肉二元論』的な発想でしかない。
一方は一時しのぎの修定主義(意識の抑制)であり、他方は苦行主義(肉体の抑制)だ。
それらはブッダの試行において既に超克済みの反中道だ。
ブッダの本懐は「実存苦の克服」である。
一定の境地に達することは手段たりえても、「実存苦の克服」そのものではない。
逆に言えば、「実存苦の克服」を妨げたり、役立たなかったり、関係がないことがらは捨て置けばいい。
その意味では、ブッダは極めて(広義での)合理主義者であり、仮説思考・逆算思考・自力検証主義者であって、
そこには神秘主義・溶暗信仰主義の影は微塵もない。
580 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 08:54:44.49 ID:8vCeQjNL
>>571 仏教の教えはそんなもんじゃないでしょ痛みや精神的苦しみ無理矢理我慢するんじゃなくて
何かしら感覚がおこったらそれをとどめるただ観るあとブッダでも病気になったら医者にかかるし
薬も飲みますよ 肉体的な苦は肉体がある限りなくなりません
581 :
555 :2012/09/09(日) 09:01:25.06 ID:tRjYs81D
坊主の糞のところは生老病死の苦とそれを逃れる法を説くのに 病も死もろくに見てないところ 葬式仏教というが、本当に死んでいく人間は見ていない 死んだ後の生きてる遺族からカネをとる商売 (よく言えばグリーフケア)だけで生きている 何百人、何千人も癌患者を見て、死んでいくのを見てきたが 患者への癌告知から治療、再発、病状悪化、死亡の中で 患者の心理は衝撃(ショック状態)、 否認(いや違う)、怒り(どうして自分だけが)、取引(この苦しい治療をすれば助かる) 諦め(諦観)、周囲への無関心、死亡(涅槃) といわゆる「悟り」と同じ感情推移をとる 糞坊主ども(学校教諭も)の多くは諦観などになかなか行かずに 家族や看護婦にあたり、病棟で暴れ周囲に迷惑をかけまくる人間のクズ集団
582 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 09:20:17.30 ID:R6OacMna
>>581 そういう現代日本のダメ坊さんみて、彼らに怒っても損するのはアナタでしょう
どうせ仏教に意識を向けるなら聖者にこそ向けるべきです
583 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 09:21:27.95 ID:8vCeQjNL
ブッダも肉体的な痛みはずいぶんあったしかしそれで心までなやまない感覚を そのまま観てください判断しないでください
584 :
555 :2012/09/09(日) 09:24:28.74 ID:tRjYs81D
>>582 わしが今、怒ってるのは
実家が曹洞宗なので「人権・平和・環境」と糞政治活動をして
同和利権にカネを流してること
菩提寺に納めたカネがそんな糞坊主と同和利権に流れる現状に怒ってるわけだ
実際問題としての解決法は、檀家を止めることだが
何百年も続いてきた村の菩提寺なので、社会人の付き合いとして難しい
だから糞坊主死ねと書いている
知能の低い坊主どもにもともと何の期待もしていない
585 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/09(日) 09:25:45.08 ID:EJSSoEyE
>>571 >実際に痛みはあるのに、本当は痛みなどはないのだ。中道だ!なんて
>妄想全開で痛みを我慢するのが苦の滅っつうんなら、こんなアホな宗教はない
!!!! m9(^Д^)プギギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ ー !!!!
言語正当、趣旨誤当。アカンなあ、ほんま外道や。
仏教上の『苦』につきイロハから学び直されることをお勧めしまっせ。
仏教で説く「苦」は哲学的意味の苦(実存苦)と表現している。
したがって、覚りを得たからといって、病気や肉体的な苦痛が無くなる訳ではない。
肉体的な苦痛に耐える釈迦が描かれているし、暗殺(毒殺)にせよ、食中毒にせよ、
直腸がんにせよ、病死したことは間違いないのだ。
あまりカッコよくはないが、ホンマ仏教は正直やなとは思うw
586 :
555 :2012/09/09(日) 09:31:09.91 ID:tRjYs81D
>>585 人格的にできたひとは
死にゆく苦しい病状の中でも、相手を思いやる
糞坊主どもは泣き喚き、まわりに当り散らすクズばかり
哲学的な意味の苦(実存苦)を学んでも何の意味もないようだ
587 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 09:31:43.43 ID:R6OacMna
>>584 つまり、どうしようもない不満を吐き出すために坊さんを貶したく、
坊さんもいるだろう、そのアンチという共感してくれるかもしれない人がいるだろうと思ってここに書いているということ?
それは情けない。
それは
>>581 のアナタの言葉で言えば、「諦観などになかなか行かずに」ネット「で暴れ周囲に迷惑をかけまくる人間のクズ集団」の一人ということになるでしょう。
それでいいんですか?
588 :
555 :2012/09/09(日) 09:34:09.56 ID:tRjYs81D
>>587 わしはまだ、生命欲に溢れた健康体だからな
涅槃に行く邪魔をするのがわしの商売だ
589 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 09:39:49.14 ID:R6OacMna
>>588 そんなしょうもない屁理屈じゃクソ坊主と変わりませんね。
つまり、クソ坊主、クソ坊主と貶むのはご自身の心を移しだす鏡ということでしょう。
自身の心を磨かないと鏡の映像を蔑んでも全然きれいになりません。
それどころか貶めば貶むほど醜くなるだけでしょう。
590 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 09:49:07.54 ID:8vCeQjNL
>>582 まあ今の日本仏教界に人材を育てるシステムがもうないんじゃないですかね
意識を向けるヒトが見当たらないとゆうかアラばかりみえる
妻帯とかしょうがないけどせめてビール飲むのやめろよツーか仏教葬式で酒だす方もおかしいな
いや個人的な経験なんだけど葬式で酔っぱらいがでるのはどうかとおもう
>>590 儀礼と酒を切り離すのは、「習俗的」「文化的」「伝統的」「風土的」側面としてどうかとは思うな。
たとえば、焼き場の帰りや葬儀後の酒は、明らかに清めの意味であった筈だから。
(だから、今は殆どが献杯もビールになってるけど、本来は絶対的に日本酒であるべきとも思うしね・・。)
日本で、日本酒であることの意味も、忘れられて久しいんじゃないのかな?
神社の奉納も、最近はビールが増えてるのかもしれないけど、日本の神様がビールで喜ぶとは思えないよね・・w
>>579 >そのような思考の根底にあるのは、所詮『霊肉二元論』的な発想でしかない。
やはり酷く誤解していますね。
あなたの発想というのは、どうもクリスチャンサイエンスのような捕らえ方をしているような印象を受けます。
彼らは、病気というものはない(実体がなく実在してない)などといって、
医学で直る基本的な病気すらも治療を受けることなく、結局、仲間内から病死者を出します。
それ故にカルト認定を受けるのです。
これと凄く似ています。
そして、ゴータマの教えと中論は同じだという扱い評価には私は同意し兼ねます。
ゴータマは一切(現象界における法)についてを語り、これ以外を殆ど説かれなかったわけですから、
中論のような勝義一辺倒のような視点からの教示ではなかったわけです。
ゴータマの教示は段階的なものであり、一定の訓練によって一つ一つの境地を達成していくものであって、
その正しさが1+1=2のごとく結果として現れることでその確認が摂れるものです。
菩提分法(道品法)の修練修得によって、八輩の四向四果(四沙門果)の説く段階を経ていく・・・。
ヨーガ道も同じです。
あなたの話だと仏教の修行がすべて無用となってしまう・・・。
>>592 いやいやw
どう考えてもどっから見ても二元論でしょw
594 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 10:19:49.53 ID:8vCeQjNL
>>591 日本仏教ってつまり一般人にとっては葬式仏教でしかないんだな教えの方は全く知られてない
知る機会もない
あと自分の地元結構大きな祭りがあるんだけど神様に奉納するって意識はほとんどないな
まあごんたくれどものガス抜きだなまあ伝統といってもそんなもんだ
>>594 だから、(躾とかもそうなんだろうけど)ジジババが尻込みして遠慮して、
教えてこなかった躾けてこなかった結果が今なわけで・・。
「公(≒全体)を大事にする」ことも、それがまるで悪しきこと極悪なこととして教育もされてきたし、
「公なんて二の次三の次、個さえ死守すればよい」という考え方に、ジジババもまた組してしまってね・・。
596 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/09(日) 11:43:04.02 ID:EJSSoEyE
>>592 >やはり酷く誤解していますね。
あなたは「考えただけで身体を中に浮かすことが出来る」空中遊泳(麻原彰晃)支持者ですか?
エネルギー保存法則(縁起)を破るオカルト妄想丸出しですねえw
>病気というものはない(実体がなく実在してない)などといって、
⇒
>>585 (間接現実にては分別知覚現象しているが、直接現実にては非有非無と返照できる:無分別の分別)
病気は病気ではない、ゆえに病気というんだよ。
>ゴータマの教えと中論は同じだという扱い評価には私は同意し兼ねます。
ブッダもナーガールジュナも、なにも説かれてはいない。
説かれてもいないのに、同じもヘチマもない。
仏法にては、超越論は破説済み。
直接現実に超越もヘチマもない。超越論は間接現実ベッタリの縁起撥無の分別妄想でしかない。
>あなたの話だと仏教の修行がすべて無用となってしまう・・・。
道元が中国へ渡るきっかけと成った『人が本来悟っているなら、なぜ修業するのか』の大疑団は
中国なんか行かなくったって、簡単に掴めるYO。
こねくりまわして「修証一等」(道元)なんてカッコつけなくていいんだよw
なぜなら、『人は本来悟っている』は、無分別の分別の境地にある者の間接現実での言葉であって、
間接現実ベッタリ(分別そのもの)の者にはこの境地に達する(体得する)ためにはまさしく『修行』が必要だからだ。
チャンスの女神は準備のあるものにしか来ないし、来ても捉まえられないのは世の習いさ。
>>596 >あなたは「考えただけで身体を中に浮かすことが出来る」空中遊泳(麻原彰晃)支持者ですか?
>エネルギー保存法則(縁起)を破るオカルト妄想丸出しですねえw
それはあなたが無知だから。
究極においては、物質現象界の影響からも解放されるよう物質の制御(コントロール)
についても修行によって修得するのですよ。
近代においてもインドのナゲンドラ・ナート・パドリ(バドリ・マハサヤ)が空中浮揚で知られ、
また、チベット仏教のジェツン・ミラレパを始めとして、
チベットには名も知られていない不可思議な僧の空中飛行(浮揚のレベルではない)が確認されているし、
キリスト教聖人では17世紀の聖ヨゼフ、 アヴィラの聖テレサなどもいる。
これらは単に考えただけではなく、
『ヨーガ・スートラ3:39.42』によれば、ウダーナ気の使い方によって身体を浮き上がらせると説く。
つまり、技法の修得の問題なのです(尚、キリスト教聖人の場合は、高次存在の介入による現象です)。
そして、ただ想いだけでこれを可能にするのは完成された覚者方だけ。
>間接現実ベッタリ(分別そのもの)の者にはこの境地に達する(体得する)ためにはまさしく『修行』が必要だからだ。
通常の人間(凡夫)はすべて二元性の中で生存しているのです。
故に、勝義視点のみのアプローチは役立たずだということ。
ゴータマはそういうことはしなかった。
>>596 >>ゴータマの教えと中論は同じだという扱い評価には私は同意し兼ねます。
>
>ブッダもナーガールジュナも、なにも説かれてはいない。
>説かれてもいないのに、同じもヘチマもない。
そう・・・。
ごめんごめん。
では、
これは中論の一般的な評価と扱いに対してのものとします。
>537 >アートマンが永遠不滅であるとかほんとに存在しているとかの完全立証など全く必要ありません。 >一神教の信者が、神を信じるのが、神が完全立証されているからではないのと同じです。 単純な話なんだけれども、ここんところを理解したくない護教神学者がたむろするスレだからね、ここは。 お釈迦さんがアッタン(自己)について語るとき、別に形而上学的な定義づけなどしていないのだけれども。 無我神学の徒としては、アートマンなりプルシャなりの名が出たら、叩く義務感に駆られるようですよ? 他の仏教スレで話がうまくいかない場合、このスレの泥沼に誘導しようとする奴がいるから、用心してね。 釈尊自身の教えが仏教(法)と無関係なのは同意。
>>551 >
>>537 >>倫理的行為を行う体や精神は、恒常のものなので
>
>wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>どこのオカルトだよwww
『この心は清浄である。しかし、これは本来的なものではない煩悩によって汚染されている。
…教えを聞かない凡夫たちは如実にこれを知らない。』(AN. I, p.10, ll. 11-18. cf. ibid. p.10, ll. 5-8)
とするならば、
“心の本来の姿(状態)は清浄そのもの”である。
と解することができるわけですから・・・。
>>537 の言わんとしたことともリンクするのではないでしょうか?
六妙法門とかの話って以前出てたっけ?ここで とりあえずやってみなよ、きみたち
602 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/09(日) 18:51:47.13 ID:bp3uqTNV
>>585 実存苦も一緒じゃボケ。
真理は確かに二項対立から離れた中道だが、
我々はあくまでどう転んでも二元世界の束縛の中に生きている。
二元世界の住人である我々に中道等の勝義の話を持ち出して当てはめて
話すのはナンセンスだし、無意味な言葉遊びににしかならない戯論にしかならない
ちゅう話をしてるんだよ。わかったか?中論かぶれの無明の人。
603 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/09(日) 19:09:11.07 ID:bp3uqTNV
>>581 特に禅宗の坊主にその傾向が強いんじゃない。
中でも中論かぶれのまぬけ。
禅宗坊主を代表する彼らに言わせると、善悪などないのだ。中道だ。
獣をみろ。彼らは善悪などに囚われない。獣は他者の獲物を横取りしたって
善悪の象徴、良心などにとらわれて苦しむことはない。
善悪などに因われるから苦しむのだ。善悪などに囚われない獣は生まれながらに悟っている。
だから善悪にとらわれず好き勝手に生きよ。それすなわち涅槃静寂。
なんて邪見の見本みたいなことをいう坊主がいるからね。
ま、そういう価値観の人たちだから、元気な時は、この先まだ長いと思っているので
エゴのおもむくまま、好き勝手に生きたいところだが、まわりの人間関係の損得勘定から
自制しているが、いざ死を目の前にすると、所詮は死んだら終わりの唯物論者だから、
元々は善悪などとらわれずに好き勝手に生きるのが是だという価値観で生きてる
屑共だから、たがが外れて縦横無尽に、周りに迷惑かけようが知ったことないと、エゴ丸出し
の最後を迎えるんだろう。道徳を否定する宗教は害悪しかないから、
滅ぼしたほうがいいと思うよ。
604 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/09(日) 19:27:01.29 ID:bp3uqTNV
空理空論中道教信者の間違い。 真理の世界は確かに善悪等の二項対立のない中道だが、 我々はあくまで二項対立のある二元世界の束縛の中で生きている。 私とあなたを分ける今の生存の源、自我はその象徴である。 もちろんこの世界には私とあなたはいるし、善と悪もある。 我々の自我はその束縛からは逃れられない。では、善悪などの二項対立から離れた 中道の真理に赴くのはどうすればいいか?それは善悪のある二元世界の 生存において、善をなして生きること。逆に悪を滅ぼさずに生きるといつまでも 真理ではない偽りのこの世界をさまようことになる。では、善とはなにか? それは我々のエゴイズム(利己心)を滅ぼす道である。それは私とあなたを分かつ 自我を滅ぼす道。では、悪とは何か。それは私とあなたを分かつ自我を愛し エゴイズム(利己心)に忠実に生きる。もしくはエゴイズムを滅ばさない努力を放棄した 生き方である。彼らは私とあなたとを分かつ偽りの世界をさまよう。 ゴータマの仏教は道徳を否定しない。今生において道徳の完成こそ真理へ至る道なのだ。 だが、中論かぶれの末法仏教徒達は愚かにも道徳を否定している。
605 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/09(日) 19:30:08.34 ID:bp3uqTNV
四正断(四正勤)四つの努力 已生悪令永(すでに生じた悪は除くように) 未生悪令不生(まだ生じてない悪は生じないように) 未生善令生(いまだ生じていない善は生ずるように) 已生善令増長(すでに生じた善は増すように) これがゴータマの仏教の教えだ。 中論かぶれの自称大乗(本当は大乗も小乗も糞もないのだが)仏教徒達は、 慈悲の瞑想すら知らない人が多くいるんだろう。今生において善悪を否定するのは、 ゴータマの仏教じゃない。
>>602-605 w
文中で批判している相手が存在しない件。
どこにそんな人(文中で批判されているような人)がいるんでしょう?w
みんな、見えない敵と戦うのが好きやなぁ・・w
>>604 それはちがうよ
たしかのこの世の世界の理で苦悪からのがれるなら善をおこなっていくというのが道理。
しかし、それは究極のところ、世間が求める本質なるものに専心することに他ならない。
人間はそれでは満足できない。空しいのだよ。
そこで自己の存在に本当の本質を求めて苦悩してしまう。
道徳は人が共生するための理であって、それは不可欠、大切にすべきものであるが
それがすべてではない。それのみを駆使する慈悲は所詮聖道の慈悲だ。
608 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 20:51:53.22 ID:yriinge0
仏に会っては仏を殺し、とか そこらへんの坊主や在家が言ったら 師匠にどつかれると思うんだがなあ。
それにいわゆる支那禅が善悪を否定するといわれているが、これはかならずしも当たらない そもそも、支那禅の本流は北宗禅であり、南宗禅の馬祖は田舎生まれの傍流であった。 だからこそバイタリティにあふれ、ひろがっていったとも言えるのだが、 善も悪も仏性なりとする洪州宗批判は宗密によってすでになされている。 しかし、融通無碍の境地は空寂の智があってはじめてなされるのであって、 決して悪を否定しているものではない。 まあ、行儀をおもんじるはずの禅宗がおろそかにされると今のような 善悪の枷をはずされたとんでもないモンスターが生まれることになるという点で禅の危険性は とびぬけているかもしれんわな
610 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 21:03:07.57 ID:yriinge0
仏教という実践体系の中でのとあるテキスト(中論とか)の位置や扱いを語るんじゃなくて、 その中から文章を抜き出して、それに二本足生やして架空の仏教徒を創作してもしょうがない。 そういう勘違いをした人が実在する可能性は否定しないけど。 差し障りが無いなら、いったい誰か知りたい。
611 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 21:12:11.34 ID:yriinge0
朝青龍がたまにイベントで来る蓮華院誕生寺の人の本で、 結婚しないと言った僧侶に、おまいの修行への意思は、結婚したくらいで 出来なくなる程度のものなのか。一休さんだって恋人いただろ! みたいな話をして結婚させた話が出てきてげんなりした。 一休さんほどデキる奴なのか、とか、あっちは禅宗でも そっちは真言律宗だろ、そういうのアリなのかよ、とか。 還俗しましょう。
612 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 21:51:29.93 ID:yriinge0
現代のお坊さんってどんなふうに仏教学んでるんだろう?
>>612 宗派によって違うので一概には言えないが、基本&建前は、「師資相承」
師匠に弟子入りして、日々の生活の中で自然と伝授されるもの。
もっとも、近年は、宗派の教育機関(大学など)で詰め込み教育w
(教える能力を持った師匠が少なくなった。というか、教える能力が無くても師匠に成れるためw)
規定以上の勉強がしたけりゃ、あとは老僧の元に通うなり、本を読むなり、自分で研鑽をつむしかないね。
614 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/09(日) 21:58:25.95 ID:bp3uqTNV
>>607 >道徳は人が共生するための理であって、
何も分かっていないなこの人達は。今生において道徳の完成(善の修行)こそが
真理へ至れる道だといった。それは八正道にもつながる道だ。
これを否定したらそれはもうゴータマの仏教じゃない。ま、君らゴイムに言っても仕方ないと思うが。
>>614 >今生において道徳の完成(善の修行)こそが
>これを否定したらそれはもう
誰が否定してるんだよwwww
馬鹿か?
616 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/09(日) 22:04:30.61 ID:bp3uqTNV
一休なんてただの破戒僧だ。 竜樹も伝承では一休のような生涯を送ったそうじゃないか。 つまりエゴのおもむくまま。この二人は全然悟ってもいないし、 頭でっかちなだけの凡夫だろ。おっと、君らに言わせると悟りなんか無いだっけ(苦笑) 一休などが悟っているなんて思える君らの迷いは救いようがない。
617 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/09(日) 22:06:31.28 ID:bp3uqTNV
>>615 人の文意を読み取れず、揚げ足取りと罵倒しかできないカスは黙ってろよ。
なんなんだろうこの感覚。お前は本当に不快だ。
618 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 22:09:11.40 ID:yriinge0
>>616 >竜樹も伝承では一休のような生涯を送ったそうじゃないか。
最初のほうだけじゃなかったっけ?
後宮でちょめちょめでしょ?
一休って森女一筋じゃなかったっけ?
619 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/09(日) 22:12:01.52 ID:bp3uqTNV
>>615 真理へといたる道を語る俺の話と、あくまで世俗における苦を
和らげるだけのおまえらの話と混同するなよ、ハゲ。
620 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/09(日) 22:13:59.12 ID:bp3uqTNV
>>618 両方共、頭でっかちなだけの、lただの破戒僧だろ。
621 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 22:17:02.61 ID:yriinge0
反省して仏門に入っても破戒僧。 そりゃないわ。
>>614 浄土教が来世で助かる教えだと思っているのであればそれはちがうよ
>>620 善の完成というのはあくまで、苦果をもたらさない寂滅への方法論の探求という意味なら
純上座部的で、賛同するよ
途中で煩悩が発作的にわきおこってもそれを観じてゆくのはなかなか難しいがね
とくにこの現代においては。
出家をして世捨て人となって道を歩むか、八斎戒守るように喧噪をさけないといけない
大乗の提示した問題点はまだ息づいていると思う
624 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 23:56:05.62 ID:CuAxJDDs
やはり僧侶はスレンダー巨乳がおっぱい押し付けてきても 精神が乱れたり性欲が発生したりはしないのですか?
625 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 00:19:11.82 ID:4ExMijFi
質問の意図が感じられない質問だねー。
普通に、基地外が来たと思って通報でしょ
>>624 心が動揺しないのは
純粋な同性愛者か、煩悩を滅した阿羅漢だけでしょうね
あと不還者ぐらいになるともう、俗世の事柄に触れても動揺しないでしょう
629 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 01:41:10.67 ID:b7uWsCqK
>>613 大学で学ぶ場合は、仏教学として学問的に学ぶこととなり、
たとえば大乗仏教の宗派でも学問の世界では大乗経典が偽経である可能性を学ぶ。
自分の宗派の教えを否定することを学問としては学ぶことになる。
坊主の育成としてそれがいいのかは疑問でもある。
大乗非仏説など知らなくても毎日み仏のお世話をしてお勤めに明け暮れる生活をしている
故き良き和尚のほうが、よほど人格円満な気がする。
「我」は「非我」であることによって、「我」たりうる
631 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 05:07:15.26 ID:pjXyzBSW
>>595 つか、楽しければ何やってもいいという個人主義、市場主義が蔓延して、
旧来の習わしとしての倫理・道徳が全くといっていいほど尊重されないでしょ。
微かにヤクザ的な仁義、家族愛が残ってるだけ。
『セブン』よかったが、午後ローのせいか薄いかんじだった。
632 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 05:12:38.91 ID:pjXyzBSW
>>599 >釈尊自身の教えが仏教(法)と無関係なのは同意。
そりゃ、オレチャンの教えが仏教と無関係なんじゃないか?
>>606 「おまえら」という呼称を用いるのは自分を特別視して、他人を蔑んでる表れでしょ。
しかもほとんど読んでなくて、オレチャン素晴らしい、「おまえら」分かってないという思い込みで書いてるから話にならない。以下が典型でそう思い込んで書いてるだけでしょ。
>>619 >真理へといたる道を語る俺の話と、あくまで世俗における苦を
>和らげるだけのおまえらの話と混同するなよ、ハゲ。
633 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 05:19:46.98 ID:pjXyzBSW
>>624 視覚はそれほど同様しないけど、肌の接触は強力だよね。
一瞬乱れるが、大丈夫だと思う。
なぜなら、そういう受動的なパターンは燃えないでしょ、男は。
もっともそのスレンダー巨乳に魅力を感じる業・縁があるかないかで決まると思うけど。
634 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/10(月) 08:10:13.32 ID:t86/CeNv
>>599 >釈尊自身の教えが仏教(法)と無関係
あなたは『釈尊自身の教え』とやらをどうして知ったのか?
教えて、ちょーだい。
635 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/10(月) 08:12:10.17 ID:t86/CeNv
>>597 >それはあなたが無知だから
「無知との遭遇」は認めますが、むしろ『不識』(無分別)と言っていただきたいw
あなたの説明は、
間接現実の一切内では縁起撥無の虚偽であり、
一切外は論ずるに値しない無根拠な妄想です。
一切内は経験的な検証可能領域ですからいくらでも何回でも立証できるはずですよ。
どうぞ早く立証してください。
636 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/10(月) 08:16:09.86 ID:t86/CeNv
>>597 >通常の人間(凡夫)はすべて二元性の中で生存しているのです。
>故に、勝義視点のみのアプローチは役立たずだということ
二元性?
凡夫のみならず、覚者もすべてが―アタシの用語では―間接現実(世俗)で存在現象しているのだよ。
仙人みたいに、霞を食って存在するわけにはいかないからね。
ただその実存の様相が違う。
坐水月道場(色即是空) 修空華万行(空即是色)
@分別(間接現実)→ A無分別(直接現実:折り返し点)⇒B無分別の分別(還滅間接現実)
@のままでは盲目苦だし、 Aのままでは白痴入院だし、 Bでようやく慶安だ。
“ボロ(世俗)は着てても、こころは錦(勝義)”(水前寺清子)Bさ、
これによってようやくブッダの本懐が達成されるのだ。
・・・こういった仏法的にごくあたりまえの常道アプローチ(十牛図参照)のどこが「勝義視点のみA」やねん!
637 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/10(月) 08:28:43.69 ID:t86/CeNv
>>602 >真理は確かに二項対立から離れた中道だが、
>>619 >真理へといたる道を語る俺
真理:真⇔偽、理⇔情の二項相対の非中道。
縁起の現実(あるがまま)に真理は相応しくない。
真理は間接現実(世俗)でのみ成立しうる共同幻想だ。
638 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/10(月) 08:37:02.74 ID:t86/CeNv
>>614 >今生において道徳の完成(善の修行)こそが真理へ至れる道だ
これは完全な誤りであり、反仏法です。
俗物世俗解釈以外のなにものでもありません。
仏法を間接現実(世俗)的人格者=善の完成ととらえることは、まさに『陥穽』です。
仏道は直接現実(仏法:折り返し点=ターンニングポイント)から間接現実(世俗)に還滅された修行法です。
その様相が『安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、
──このような人がまさにその故に<道の人>と呼ばれる。』(スッタニパータ520)です。 *
>>522 ここの『善悪』『塵』は世俗“間接現実”における共同幻想(道徳、倫理、常識、ルール、法律など)を言っているのであって、
ブッダは、このような既成概念や共同幻想ではなく、
ずばり“縁起の直接現実(あるがまま)を無分別智直覚し、縁起のあるがままに従え”と示唆しているのです。
それがブッダの本懐たる間接現実における実存苦を超克する<道>だからです。
これが“ ♪ ボロ(世俗)は着てても、こころは錦(勝義)♪ ”(水前寺清子)の様相です。
その様相を道元は『自受用三昧』、良寛は『随縁且従容』と表現しました。
639 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 08:55:12.46 ID:pjXyzBSW
640 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/10(月) 09:24:28.44 ID:t86/CeNv
>>634 >お前が言うか
オイラ氏も、無粋なお方どすなあw
おなごはんに嫌われまっせ。
わざわざ『知った』と書いてまっせ。
641 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/10(月) 09:28:29.02 ID:t86/CeNv
>>620 >ただの破戒僧だろ。
ならば、下記の公案によって、カラスのその評とその境涯を聞かせてもらおう。
『昔、婆子あり、一庵主を供養し二十年を経たり、常に一人の二八女子をして飯を送って給持せしむ。
一日女子をして主を抱かしめて曰く、正に恁麼の時如何と。主曰く枯木寒巌に倚る三冬暖気無し。
女子婆に挙似す。婆曰く我れ二十年祗箇の俗漢に供養せしかと。遂に遣出して庵を焼却す。』
庵主および婆子を評せよ。
カラスが庵主なれば如何。
642 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 09:48:18.79 ID:pjXyzBSW
庵主はまあまあそれ以上分からない、婆子は確実に三十棒だな
643 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 10:10:14.56 ID:NRthVCOG
創価は、仏敵を野たれ死ぬまで攻め抜けを政教新聞に書いて、 嫌がらせしています。 集団ストーカーと呼ばれていますが、 仏教って、仏敵を攻撃しろといっているんでしょうか?
644 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 10:15:26.96 ID:pjXyzBSW
>>643 日蓮は仏教じゃないんで、創価とかももちろん仏教じゃありません。
スリランカ仏教やチベット悪霊派もそうですが、排他的で攻撃的なことをするなら、
もはや仏教じゃないと思います。
特に日蓮は教義からして仏教と全く反対の内容なので、仏教とは思えません。
>>602 そのとおりだな
勝義に至った人間が歴史上どれだけいる?
伝承でも指で数えられるぐらいだろ
ほんとむなしい宗教だよ
つい先日まで日本国憲法も刑法も民法も無い時代は 経典が法律で法とは仏法のこと僧はボーズだとキリシタンに言ったら ここにきやがったなそういえば
縁起のあるがままに従えw ワロタw 犯罪者は犯罪者の縁起に従えってことかw
648 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 12:08:48.13 ID:1/wV+GNl
すみません 経典の中に、釈迦が池で体をあらって その水を弟子に飲め、と言った部分はありますか
それやると腹壊すでしょ
650 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 13:33:56.44 ID:pjXyzBSW
>>645 いっぱいいるなあ。
ビルマとチベットだと今でもたくさんいるし。
651 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/09/10(月) 14:03:39.45 ID:t86/CeNv
>>647 >ワロタw
>犯罪者は犯罪者の縁起に従えってことかw
そーゆー受け止め方しかできないのは、あなたがひたすら
>>636 @ベッタリだからさ。
だから、坐れ(道元)
諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
是諸仏教 この七仏通誡偈も無分別の分別
>>636 Bであって@ではない。
@なら3歳の子供でも言える、しかしBなら80歳の老人でも護るのは難しいー伝承だ。
『縁起の直接現実(あるがまま)を無分別智直覚し』をすっ飛ばしてなんとする。
上記には矛盾(関)がある。それを承知で言っている。
652 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 14:34:02.07 ID:cT6cVnpE
653 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/10(月) 16:55:33.26 ID:62Ta3XIO
>>638 な、禅宗の人は道徳を否定するだろ。
この人達にかかればこの二元世界においても善悪などない。
そんなものに囚われるのは迷いだ。良心に咎められるのは迷いだ。ってことになる。
だから実際に死を目の前にすれば、今までのたがが外れてモンスターに変身するんだろう。
彼らは所詮どうせ死ねば終わりの唯物論者だしね。邪教なんだよ、邪教。
原始経典等を読めばゴータマは嫌というほど、善因善果。悪法悪果。の因果の法。
四正勤等の道徳を説いている。道徳は、あなたと私を分かつ世俗から勝義に赴く道。
この人達の間違いはあくまで二元世界の住人である我々に勝義の話を当てはめて
思考していること。ゆえに本質的には全く無意味な言葉遊びにしかなっていない。
テーラガータには将来道徳を否定する破戒僧が現れるとこの人達にたして否定的な
ことが書かれている。外道はお前達の方だ。道徳を否定するなら釈迦の仏教の看板降ろせよ。
一番迷っているのはこの人達なんだよ。
654 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/10(月) 18:04:28.07 ID:t86/CeNv
>>653 >禅宗の人は道徳を否定するだろ。
いまさらながら、『否定』としか受け止められない人間としての底の浅さに落胆する。
⇒
>>651 七仏通誡偈の「無分別の分別」(還滅的)意義がまったく掴めていないもののタワゴトでしかない。
>二元世界においても善悪などない。
>二元世界の住人である我々
間接現実だからこそ、善悪などの二項相対(執着→苦)観念が有り得る。
間接現実における実存の様相がちがう(カラスは
>>636 の@ABいずれなのか?)
Aの折り返し点(縁起の現観)を透過できるのか?
直接現実(勝義)に於いて矛盾なく、間接現実(世俗)還滅において仏は矛盾なきを矛盾(言語論理)のうちに説く。
『世俗の表現(言語慣習)に依存しないでは、究極の真理(勝義諦)を説くことはできない。』(龍樹 中論24-10)からである。
但し、龍樹の「究極の真理」という表現は妥当ではない。勢い込んだ書き過ぎである。
勝義=時空際断相において究極も真理も相対観念(想)であって比較はありえず、ただただ、無意味・無価値・無相・無実体のあるがままだからである。
ここからみるに、龍樹は天才的学僧ではあっても、龍樹自身は悟達していなかったのかもしれない。
優れた宗教学者(学僧)が道の人であるとは限らないのである。
655 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/10(月) 18:14:24.16 ID:t86/CeNv
656 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 19:32:13.60 ID:1/wV+GNl
二元世界においても善悪などない。 そんなものに囚われるのは迷いだ。良心に咎められるのは迷いだ< そう考える宗派があったら、オウムを弾圧できないじゃん 浅原は(善悪なんて解脱していない人間が作った観念だ)って言ったよ
657 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 19:33:54.82 ID:1/wV+GNl
経典の中に、釈迦が池で体をあらって その水を弟子に飲め、と言った部分はありますか < まじでどなたか、ご存知ありませんか こう言っては風呂の水を高値で売るんです
>>653 まあ、そうとしか受け取れないのは悲しいことだが
そういう風に勘違いされる原因が禅宗にあるのも確かだと思うな
戦時にはいかに相手を多く殺し、味方を殺させないか、それに習熟したものが
善になる。何手も先を考え、苦悩の末に決断して、勝てば軍師よ英雄よともてはやされる
その技の粋を集めた体系なぞは平和時に使えば人殺しの方法なのかもしれん
平和時に民族融和につとめて、生活するのが生きていくのが最善といわれる
だが、結果として文化や習俗は失われ、結束は乱れ、忍耐より金を拝んで
人心は乱れ、生きることが遊びとかわらないような人生観がつくられる
道徳というものはたえず境界がゆれうごき、教条主義的なものではない。
しかし、だからと言って、人という生き物がある程度規定されている存在であるからには
道徳にもある程度の地平が存在するとは言えるだろう、
人と人とのかかわりの中でどんなときにも変わらないだろう基本的な道理が
自然、あるところにおちつく。それをまとめたものが、六度万行なるものなのだろうな
659 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/10(月) 20:18:27.84 ID:D6ie0jze
>>654 ハイハイ。我々は否定も肯定もない。中道だってか?(大爆笑)
そういうのを詭弁論つって、ゴータマの否定した、外道のひとつなんだよ。
久々に貼ってやろうか?六師外道の話。で、実際問題、お前らの中道思想からなる詭弁を極めたところでなんになる?いくら
元気な時にもっともらしい詭弁、屁理屈を並べても、実際に死を目の前にすれば、それを受け入れられず狼狽し、
醜態をさらすのが関の山だろうが。本質的には全く意味のない詭弁、屁理屈を極めたところで、
生老病死という、人間の根本的な苦の滅にはなんの役にも立たないんだよ。お前らの詭弁屁理屈はもう聞きあきた。
ゴータマの仏教は詭弁を極めることじゃない。
660 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 20:29:09.95 ID:1/wV+GNl
法句経読んで、お釈迦さまは割と いわゆる普通の道徳的範疇でものを考えていると思いましたよ あと、どの経だったか(悪いことをすれば、あとで自分に跳ね返ってきて 痛い目に会うのではないか、来世悪いところへ転生するのではないか、と 悩む 悪いことをしなければ、そういう恐れを持たずに済む それを考えただけでも、悪いことをせず、良いことをすれば気持ちがいいでないか)って 確か法句経だったと思うけど ごく当たり前の善悪だと思いますけど
661 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 20:39:55.81 ID:1/wV+GNl
道徳というものはたえず境界がゆれうごき、教条主義的なものではない。 < 麻原の愛人だったケイマってのは、サリン事件で強制捜査に入られる前は 愛人だってことを隠していた で、信者から(夫が自分に隠れて浮気して、相手の女に子供までいた 悔しくてならない)って相談されて (日本でも昔、身分のある人は愛人がたくさんいたでしょ そのときに、あなたみたいに嫉妬しましたかね あなたが苦しんでいるのは、一婦一夫制という固定概念のせいじゃないですか)って 観念が時代や場所で違うというのは実際あることです でも、だからといって、自分も人に隠れて愛人として麻原の子供を産んで 黙っている 黙っているのは(あなたがたは知ったら怒るでしょ、ゆるさないでしょ レベルが低いから、高い法則を聞いても理解できないでしょ ホントはあなたが観念的でうすっぺらい善悪にとらわれているだけなんだけど)
662 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 20:46:23.73 ID:pjXyzBSW
>>658 >まあ、そうとしか受け取れないのは悲しいことだが
>そういう風に勘違いされる原因が禅宗にあるのも確かだと思うな
そうですね。
>戦時にはいかに相手を多く殺し、味方を殺させないか、それに習熟したものが
>善になる。何手も先を考え、苦悩の末に決断して、勝てば軍師よ英雄よともてはやされる
>その技の粋を集めた体系なぞは平和時に使えば人殺しの方法なのかもしれん
>平和時に民族融和につとめて、生活するのが生きていくのが最善といわれる
>だが、結果として文化や習俗は失われ、結束は乱れ、忍耐より金を拝んで
>人心は乱れ、生きることが遊びとかわらないような人生観がつくられる
>道徳というものはたえず境界がゆれうごき、教条主義的なものではない。
道徳というより、習わしね。そうです、習わし、習慣、言語習慣は適当なものです。
ですが、釈尊も龍樹菩薩も、その適当な習わしを尊重します。
決して、それと争いませんよ。
もちろん、勝義への導きの時は別です。
>しかし、だからと言って、人という生き物がある程度規定されている存在であるからには
>道徳にもある程度の地平が存在するとは言えるだろう、
>人と人とのかかわりの中でどんなときにも変わらないだろう基本的な道理が
>自然、あるところにおちつく。それをまとめたものが、六度万行なるものなのだろうな
道徳というか戒律の根本は、無害、アヒンサーですよ。
大乗ではそれに利他、思いやりが加わります。
>>661 最後まで読もう
一夫一婦制という共同意識、掟、約束がある中で、一人それに反することをするのは
一夫多妻制が善か悪かとは別の問題が生じると思うのだが
>>662 仏教教団の戒律は、その教団の共同体として結びつきを維持するためのルールであって
教団以外とのかかわりを意識したものではないだろう、あくまでそれまでの関わり合いの延長線上に
あらわれたものであると思う
665 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 20:52:32.02 ID:x7QGRxpH
瞑想ってのはつまらないからいいんだよ 心=自我が死ぬ 心はギャンブル、セックスみたいな刺激的なものを求めているからな つまらないことが心の天敵なんだよ 心を殺さないと無我になれない
666 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 20:54:28.64 ID:1/wV+GNl
一夫一婦制という共同意識、掟、約束がある中で、一人それに反することをするのは< あなたがどういう見解の持ち主であるか存じませんけど それはいわゆる(社会的制裁)という奴を受けると、いうことですよね でも、社会って大きく変わるときもありますでしょ 天皇も近代まで、側室があったと思うんですよ あなた、天皇に(悪いことすんなよ)って文句言います?
667 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 20:57:15.46 ID:x7QGRxpH
オウムってのはテロとか愛人セックスとか刺激的なことばかりやってるからな 刺激的なことは自我を増大させるから 無我に向かう仏教と方向がまるで正反対だ
>>666 文句など言いませんよ
一夫多妻制が共同意識、掟、約束であった中で、それをしたところで
一夫多妻制が善か悪かを論じることは意味のないことですから
あーなるほどなるほど、カタストロフ理論の飛躍が訪れるまでは善悪に拘る事が必要、 だけど一旦、カタストロフィーが起こったらその時は善悪の区別に拘るのは 死者を多くしてしまうって意味?
670 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 21:00:51.28 ID:1/wV+GNl
私は別に、愛人を容認するとは一切言わないですよ でも、日本の皇室では側室あるのが当たり前だったでしょ 近代やめた理由はしらないけど たぶん、西洋を意識したからじゃないかしら キリスト教徒って一婦一夫制でしょ
>>665 心はべつに刺激なぞ求めてませんよ
習慣の慣性によって、ギャンブルをしていたころの心地よい習慣をつづけようとするだけです
その心をしずめれば、心を調伏できます
672 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/10(月) 21:01:30.99 ID:D6ie0jze
>>658 宗教上の善悪は、時代、時代の価値観に左右される善悪とは違い、普遍的なものだ。
宗教上の悪とは、一つのものを二つに分かつこと。二つのものを一つに決して一つにしないこと。
宗教上の善とは、二つに分かれたものを再び一つにすること。そこに真の平安がある。その道はエゴイズムを滅ぼす道。
エゴイズムは私とあなたを分かつ自我を繰り返し再生している。そして私とあなたを分かつ我々の自我は
二元世界の束縛の中で生きている。空理空論中論教信者はそのことを理解しない。
>>670 私が言っているのは、共同体として協力し合って生きている中でルールをつくる
みんなルールを守って生きている中で、自分はルールを守らない。
そして、ルールなんてものは存在しないんだとうそぶく、
それは、ルールにしばられないで生きることと違うでしょ、と言っていいるわけです。
>>672 そうですか。あなたのような人は人を許すことができないんでしょうね。
許すことができると反論するなら、あなたが信じているのは道徳でなく、自分ルールだと思いますよ。
675 :
555 :2012/09/10(月) 21:08:47.43 ID:PVsCA0eB
うちの病院のホスピスには牧師や司祭はよくくるが 仏教の坊主はまず来ない 仏教は本来、生老病死の苦しみから逃れる方法を説く 心理カウンセリングだろ? カウンセリングの役に立たない坊主には存在意義はゼロ (政治活動をする分、むしろ害悪)
>心理カウンセリングだろ? ちがいます。 心理カウンセリングは現代世界の道徳の中で生きている人たちを その道徳の中の範囲内で彼らの善悪を判断し、これをサポートすることです。 仏教など宗教は、その道徳の外からも人をサポートします。
677 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 21:16:01.55 ID:pjXyzBSW
>>664 そりゃ、認識不足過ぎますね。
根本は無害、他者を傷つけず、その逆である助けることをすることがある。
他者を傷つけることが悪い行為・業でそれをしないこと、
その逆が善い行為・業でそれをすることが戒定慧の戒、身口意の行為の基本指針になってますよ。
その上にサンガ内政治としての律がある。
それには僧として一般社会への見せ方も考えられてますよ。
清潔質素で品行方正であれというような。
>>676 1.道徳の内と外の区別
2.サポートの定義
が不明なので答えになってない
679 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 21:18:58.10 ID:1/wV+GNl
ちの病院のホスピスには牧師や司祭はよくくるが< ふ、キリシタンは布教熱心だこと 気をつけないと、ムショあがりはみんなキリシタンになってしまうわね 穴場をキリスト教徒にだけ占領させることもないわ 坊主もどんどん行ってやってちょうだい
680 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 21:19:56.50 ID:pjXyzBSW
>>675 >仏教は本来、生老病死の苦しみから逃れる方法を説く
>心理カウンセリングだろ?
前段はあってるけど、後段は違います。
そんな慰めみたいなもんじゃありません。
もっと本質的で効果的ですよ。以下のどれか通読してください。
山口益『仏教思想入門』
ダライラマ『智慧の眼を開く』
パユットー『仏法』
>>677 認識不足の点があるのは申し訳ありません。
本当にあまり知らないもので、
しかし、修行者はあくまで世捨て人という、世間が捨てた人であり、世間を捨てた人である、という
認識です。あくまで関わり合いにならず、施しによって生活するというスタンスだと思います。
大乗のように積極的に関わっていこうとする生き方があれば、大乗はできていないはずですから。
>>679 生老病死の苦しみから
逃れる方法を仏教が人々に説かないなら
現実社会で何の意味もない
ただの空理空論・オナニー・自慰行為
不安を取り除く効能があり、末期状態で心の平安が得られるなら
何教であっても意味があるし、役に立つ宗教
683 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 21:22:05.91 ID:1/wV+GNl
キリストって自分のした悪いことをザンゲすると気前良く許して くれるんでしょ でも、仏教は因果を説くから、悪いことしたら制裁を受けるのは 仕方ないと説くのよね キリスト教のほうが甘えが多いから、悪いことして捕まった奴からは 受けがいいんじゃないの??
>>680 >>もっと本質的で効果的ですよ。以下のどれか通読してください。
だから現実社会では役立ってないという事実を述べてる
キミは自慰行為に忙しそうだな
>>678 すみません。あまりいろいろコメントすると収集つかなくなりますね。
あくまで、共通感覚論という本にあったカウンセリングのやり方にもとづいた言い方です。
この人が病気である、という判断は、この人が社会生活をできない状態であるという意味であるそうです。
だから、今よくわからない病名が大量生産されている状況にあるのだと思います。
病気というのは、その人が生活する中で、外界にあわられた氷山の一角です。
海に隠された部分にも目を向け、人生に対する考え方から根本的に考えなおしていくのが宗教です。
686 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 21:28:40.49 ID:1/wV+GNl
現実社会では役立ってないという事実を述べてる< 頭が悪いと、その現実社会が諸行無常だっていくら言って聞かしても 理解できないで、現実社会に価値があるって思っているのよねw
687 :
555 :2012/09/10(月) 21:30:35.84 ID:PVsCA0eB
>>685 根本的な勘違いとして
医療は病気の人だけを対象としてないのと同じで
人間の健康状態は、正常から異常へ突然変化するものでなく
その差はなだらかなもので境界はない
心理サポート・カウンセリングを必要としてる人は病人に限らない
患者家族も対象となるし、健康なひとの不安も対象になる
これは宗教が提供するカウンセリング効能と全く同じだろ
医学的に宗教の法話が役立つ時があるので、末期癌患者を多く診療する
わしは診療場面で、宗教家の力があれば喜ばしいと思うが
坊主どもが腰抜け・役立たずぞろいで困る
688 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 21:30:42.18 ID:1/wV+GNl
現実社会のほうが、オマケ、なのよ 悟りも糞もない人間のふきだまり、でしょ お釈迦様は娑婆を捨てたじゃないの どうして、娑婆の頭の弱い人間になんか、文句言わせるものか、、
689 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 21:30:44.95 ID:pjXyzBSW
>>684 現代日本仏教は確かにそう見られても仕方ありませんが、
タイ・ビルマ系、チベット系仏教は効果的ですよ。
実際、西洋人や台湾人には現実にやくにたってます。
特にアメリカでは大学などでワークショップなどが行われたり、
会社などで協力する方法などで応用されたりして効果が実証されてますよ。
ハーヴァードでは修行が脳に驚くほどよい効果をもたらすことが実証されてますよ。
先ずはそこらへんを見てから言ってください。
日本仏教に文句を垂れるためにここで子供のように叫んでもアナタ自身が苦しむだけでしょう。
690 :
555 :2012/09/10(月) 21:31:45.52 ID:PVsCA0eB
>>686 お前の惨めな人生が社会的に無意味なのは真理だろうな
691 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 21:35:59.45 ID:pjXyzBSW
>>681 出家の場合は基本的に社会から出ますが、
行乞・乞食することで社会と関わります。
この手段も非常に素晴らしいよく考えられた奥深い方法だと思います。
なぜなら、極めて単純に言うと一般の人は聖者と見てよい影響を得られるとともに供養することで福徳が積めます。
出家者は、乞食することで慢心を防ぐことができます。
692 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 21:38:54.88 ID:1/wV+GNl
現実社会って、諸行無常で一切皆苦なわけですよ 頭が悪くなければ、理解できるわけ そこにそんなに価値があるって思っているってのが、すでに進化が遅いわけだ
>>687 んー、私が意図していることとちがいますが、その問題点もありますね
日本では、病気になってからカウンセリングに行きますが、
欧米では日頃から行きつけの医師に相談に行く習慣になっていると。
そのような社会では心理カウンセリングが社会生活を行ううえでの必要な精神ケアをしてくれるのは
たしかでしょう。人は理解者を求めている。その孤独を医師という商売によって解決するというのも
ひとつの手なのでしょうから。
そういう意味ではギャンブルと変わらないのかもしれませんね。
しかし、宗教というのは、社会生活という範囲にはとどまりません。
死生観を見つめるからです。
たとえば、この世のあらゆる商売や約束事は生きていることが前提となってできているでしょう。
病気を恐れるのも、死がその背景にあるからでしょう。
しかし、人は一人たりとも死から逃れられません。いざ死と一人向かい合うことになったとき
誰も理解者はいませんよ?
生が前提となっている社会から一歩外に出ることが宗教の宗教たる由縁だと思います。
694 :
555 :2012/09/10(月) 21:45:11.39 ID:PVsCA0eB
>>693 毎日、誰かが死ぬのが当然の
わしの診療の日常は生が前提になってないので、
あなたの定義の「社会」ではないのだろうか?
695 :
555 :2012/09/10(月) 21:48:58.29 ID:PVsCA0eB
一番重要な書類にサインさせるのは もうすぐ死んで責任がとれなくなる患者本人じゃなく 生きて責任が取れる家族だしな
696 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 21:50:01.18 ID:1/wV+GNl
死ぬのが怖いのの一つの理由は、身の回りのいろんなものに愛着を残して いるからですよね 仏教では、一切に対して執着してはいけないんですよ (なにも本来自分のものではなかった、と理解しなさい)って 家族も、これが自分の人生だ、とか言っているその人生も そう思い定めている人の死ぬときは 晴れ晴れしているんじゃないかしら 肉体の苦痛は軽減できないだろうけど
>>694 俺も病院につとめたことあるよ、3ケタ越えた人の家族と連絡して見送ったことあるけど
来週何人入って、どの部屋が空くから無駄になるとかの話しかしたことないが?
698 :
555 :2012/09/10(月) 21:54:19.10 ID:PVsCA0eB
>>696 患者がその境地「諦観」に達するのは
一般的には、自分で寝返りもうてなくなった頃ですな
苦しいので自分以外の周囲への関心が低下する頃
その前に心の平安が得られればいいですが
暴れる坊主が多い
>仏教では、一切に対して執着してはいけないんですよ 愛着をもってはいけないということではないね 愛着もってもやがてそれとは別れざるをえないと見つめること。 そこで苦しみを起こして、偏重しないということだな
>その前に心の平安が得られればいいですが >暴れる坊主が多い 素晴らしい、御立派御立派。
何事も楽しみ半分苦しみ半分
702 :
555 :2012/09/10(月) 22:03:55.82 ID:PVsCA0eB
>>701 葬式仏教は遺族のグリーフケアシステムとして非常に優れてるが
本来の生老病死の苦しみから逃れる方法を説いたはずの
仏教ががん患者の役にたってないのは困る
703 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 22:19:31.75 ID:1/wV+GNl
生老病死の苦しみから逃れる方法を説いたはず< お釈迦さま、そんなこと一言も言ってないよ みんなちゃんと生まれたら老いて病気して死ぬって言っただけ 何人もそれを逃れられないって言っただけ
704 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 22:22:04.70 ID:1/wV+GNl
うまい話があったねw キサーゴータミーの話 ああいうのが仏教だよ 病気治したければ、医者にでも行け
>>702 まあ、分からないではないな
俺も通夜で説教きいたが、あれで全部分かれと言うのは無理だ
坊さんもこいつらどうせ聞く気ねえだろうなと思って形通りの方式をやってるだけなのだろう
たま〜に物好きな坊さんがくることもあるが、うん分かるよ分かるみたいなジェスチャーして
訳知り顔で去っていくだけ
おそらく、大学教師が幼稚園児をどう教えるかぐらいの心境なんだろ
一週間程度のつきあいで結婚してくれと言っても無理。
所詮宗教は、世俗化の波には勝てない、公平でなく、一般的でないとされるために
向こうから求めてこない限り何もできんのだろうさ
706 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 22:29:57.76 ID:1/wV+GNl
ゴータミの話、知ってますか あるところに、とても貧しい若い女がいた この女が嫁いでやっと一人の子供を産むと、子供を産んだことで一族から一通り 認められて、やっと安堵したんだけど、これが死んでしまった 女は狂乱して(なんとかこの子を生き返らせてくれ)って死体を抱えて歩く 人々は気の毒にと思い、遠巻きにみるが、ある人が (今、ゴータマという優れた修行者がきているから、彼にいえばあるいは 叶えてくれるかもしれない)と 女は狂気して、お釈迦様のところに行き(どうか、この子を生き返らせてください)と 釈迦は(いいだろう)皆は、誰にもできないことが釈迦にはできるのか、と息を呑んだ
707 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 22:35:23.82 ID:1/wV+GNl
(ただし、条件がある、けし粒を一粒、もってきなさい ただしそれは、いまだかつて死人を出したことのない家からもらってくるのだ) 子供が生き返ると喜んだ母は鉄砲玉のように町にでて、 (あなたの家では、いまだかつて死人がでなかった、家ではありませんか) (いいえ、私の祖母も祖父も死にました) (私の母も父も死にました) 家々を訪ね歩いても、皆同じ返事でした (いまだかつて死人を出したことの ない家)はありませんでした
708 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 22:38:19.27 ID:1/wV+GNl
とぼとぼ帰る道すがら、女には釈迦がなにを言わんとしていたか わかってきていました (私も私の子供も、人々と同じなのだ 死なない、ということはありえないのだ) 娘はそして出家しました、ですと
>やっと一人の子供を産むと、子供を産んだことで一族から一通り >認められて、やっと安堵したんだ ここ聞いたことないんだけど?
あーはいはい、じゃあカンフル剤打ちましょうね って冗談に出来ない自分がちょっと悔しい
711 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 22:46:26.76 ID:1/wV+GNl
そうですか、どっかの文庫本では出ていたと記憶しているが 徳の低い娘、なわけですよね まずそこが強調して書かれていて、嫁にいって、インドでは女は分際が 低いじゃないですか 子供を産んで、母となって多少夫の一族からも一目置かれるようになった矢先、って 書いてあった
712 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/10(月) 22:49:20.38 ID:t86/CeNv
>>702 >仏教ががん患者の役にたってないのは困る
そのがん患者が「発菩提心」=「自己をならふ」(道元)発心をしたのかが問題となる。
判らずに嫌がるロバを水辺に連れてゆくわけにはいかない。
掴まえる準備のないところに根源的な苦の超克=全存在的革命はありえない。
555氏、あなたの義憤は判らないではないが、あなたは仏法を掴み損ねている。
仏法を舐めんなよ。
一連のレスを読んで、カラスをはじめほとんどが間接現実アキメクラ議論なので、
もういいか・・・という気分だよw
713 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 22:59:20.04 ID:1/wV+GNl
これはヒンズーのクリシュナ神の話なんだけど、 知り合いの人間に葬式があったんだと で、葬式出たんだけど、(肉体は死んでも魂は輪廻するから悲しまない)って ヒンズーは考えるんで クリシュナはちっとも悲しくないや、と思っていたんだけど 葬式なんで、わざと悲しい顔して立っていたってさ
714 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/10(月) 23:05:18.03 ID:t86/CeNv
>>713 >クリシュナはちっとも悲しくないや、と思っていたんだけど
釣られてみると、
クリシュナは矛盾した馬鹿でインチキだと判る。
理由は自分で考えろ。
715 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 23:07:42.95 ID:1/wV+GNl
クリシュナが馬鹿でもあんまり気にならないからいいやw お釈迦様を馬鹿にする奴は許さんが
お釈迦様を馬鹿にするのは天に唾するようなものだから
日本の曹洞宗の僧侶が韓国に植民地支配謝罪の石碑を建設
【群山聯合ニュース】日本の植民地時代の蛮行を反省し悔い改める碑が、日本の
仏教人の手により韓国南西部にある全羅北道群山市の東国寺に建てられる。
日本の仏教の代表的な宗派である曹洞宗の僧侶10人余りが16日午前10時に
「東国寺創建104周年茶礼祭」に出席し、ざんげ法会をする予定だ。
この日、法会では「懺謝(仏教用語で許しを請い謝ること)文碑除幕式」も同時に行
われる。東国寺の前庭に横幅3メートル、高さ2.3メートルの大きさで制作された石
碑には、日本語の原文と韓国語の翻訳文で植民地支配の蛮行を恥じ、心から謝罪
するという内容が刻まれている。
法会には、東国寺を創建した曹洞宗の宗務庁の神野哲州財務部長が出席し、
碑文を読み上げる。
碑の建設費用は日本側が負担した。
http://japanese.joins.com/article/225/159225.html?servcode=A00§code=A10
718 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 23:25:05.34 ID:D6ie0jze
>>686 だからさ。諸行無常だからあなたが死ぬのは仕方ないですよと言ったところで、
生老病死という人間の根本的な苦の滅にはなんの役にも立たないといってるんだよ。
現に死を目の前にすると取り乱す坊主が多いちゅうのはそのいい見本だろうが。
たく、無意味な言葉遊びだけは達者で、本当に馬鹿な人達だな。
719 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 23:55:39.57 ID:P8xdUMiX
>>718 悟りの境地は所詮言葉では表現できんからねー言葉遊びになっちまう
結局瞑想しなさい坐りなさいとゆうしかない
720 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 00:02:14.29 ID:P8xdUMiX
言葉は悟りを示す矢印でしかないからなしかしこれが難しい 才覚のある人でしかできないもんだ
俺はすわりなさいしか言わんやつは信用せんが
722 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/11(火) 00:15:39.54 ID:YoIxjnAo
>>715 >お釈迦様を馬鹿にする奴は許さんが。
それをエゴっちゅうんだよ。君らはゴータマがなぜこの世のものに執着してはならないと説いたか、
本意を悟らない。
723 :
カラスの唄 :2012/09/11(火) 00:18:48.18 ID:YoIxjnAo
>>719 悟りの境地は確かに言葉では表現できないが、お宅、意味わかって言ってんの?
724 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 00:27:18.58 ID:WBM3MbvW
>>723 わかってりゃいいんだけどたぶんわかってないうけうりだ
まあ、分かってなくても商売の都合上分からないとは言えんやつはいる そういうやつはとにかくすわりなさいというしかないんだろう 禅の行儀や作務を身を以て教え、叩き込むため指導するならまだしも いきなり来たものにすわれはないわ
726 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 00:45:24.01 ID:WBM3MbvW
>>725 まあだからこれかの坊主は言葉の才能がなけりゃだめだな
だがそれが難しい学問すればみにつくもんでもないし
才能の問題じゃない 人に伝えたいほどのことは言語化をこころみるもの それがどんなに稚拙でもこころがあれば、それがウソかホントかくらいは人は分かる
728 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 05:58:58.70 ID:lM9kD/wF
>>719 いや、それじゃ神秘主義なんだよな。
仏教、釈尊の凄いところは、縁起によって論理的に示せたこと。
もちろん、それによって行体系も非常にスッキリと示せた。
現象は幻だ。覚りが真実だ。この間には断絶があって、表現できないというような神秘主義ではない。
729 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/11(火) 08:30:14.41 ID:F8akS0wi
カラスの三宿題
>>722 (1)>ゴータマがなぜこの世のものに執着してはならないと説いたか
>>723 (2)>悟りの境地は確かに言葉では表現できないが、お宅、意味わかって言ってんの?
>>653 (3)>
>>641 の庵主および婆子を評せよ。 カラスが庵主なれば如何。
まず、落第答案を予測するw
730 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/11(火) 08:48:51.99 ID:F8akS0wi
>>728 >現象は幻だ。覚りが真実だ。この間には断絶があって、表現できないというような神秘主義ではない。
神秘主義を再定義せよ。
混乱しているのではないか?
正誤如何を問わず、「主義」である以上、神秘主義も『論理的』だ。
⇒
>>654 直接現実(勝義)に於いて矛盾なく、間接現実(世俗)還滅において,
仏は矛盾なきを矛盾(言語論理)のうちに説く。
731 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/11(火) 09:19:24.76 ID:F8akS0wi
Rose,oh reiner Widerspruch,Lust, Niemandes Schlaf zu seine unter soviel Lidern. 薔薇よ、おお純粋な矛盾、 誰の眠りでもない眠りを あまたの瞼の陰にやどす 歓びよ。 <リルケ 墓銘碑>
732 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 09:29:46.25 ID:lM9kD/wF
734 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 11:27:47.30 ID:lM9kD/wF
>>733 単純にいうと四句分別という四つの論理可能性を列挙して、そのような論理的把握から逃れることを示した。
正に『中論』がそれ。
詳しくは過去ログを見てくれ、なんども繰り返すのは疲れたし、今、集中してることがあるので
735 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 11:58:43.19 ID:hZnhqbHU
「あれ」の仕上げか……待ってるけどまだ出ない。 いつまでも待つから ゆっくりクオリティアップしちくり〜。
736 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 12:11:44.68 ID:lM9kD/wF
737 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 13:08:10.64 ID:hZnhqbHU
738 :
記憶喪失した男!ninja :2012/09/11(火) 14:22:28.04 ID:TIjqJo7K BE:1026531353-2BP(3)
仏教は、まちがっていると結論づけたけど、 歴史的評価としては、単純に拡大する快楽主義を調整する反対原理としては、 極めて上手に機能するものだと思う。 繁栄の反動としての諸行無常。 快楽主義の反動としての一切皆苦。 理論的思考の反動としての諸法無我。 真理の探究への反動としての空性の思想。
論理から逃れる具体例をだれかあげられるひとがいたら頼む
740 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 15:46:32.02 ID:Ya8UsIPG
外部者にとっては、禅宗が最も仏教的。なぜなら、他の宗教にはない 思想だから。 眼横鼻直、婆子焼庵などいいね。
741 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/11(火) 17:29:33.57 ID:YoIxjnAo
>>729 現代用語を使わず難しい言い回しの文章示したり、漢文だらけの文章
示したり、専門用語を駆使した文章を示したりと、これはごまかしの一種なんだよ。
とにかく禅系の坊主共は、ごまかし、詭弁のテクニックは極限まで研ぎ澄まされている。
仏門に入り、坊主になる目的はあくまで真理を掴むことであり、禁欲することが
目的ではない。ではなぜ禁欲しなければならないか?それは執着は
なんにせよ、我々のエゴを肥大させるからである。別に、女抱いても、なきゃないでそれでいい。
物ならどんな高価なものでもあっても無くてもいい。本当に必要な者がいれば
くれてやる。たとえビジネスに成功して大金を掴もうと、そんな金に執着せず、
困っている人たちがいれば惜しみなく全部使ってやってもいい。などと思える心が完成しているなら、
別に相手が抱いてくれと来たら抱きゃいいし、高価な物だって所有すりゃいいし、ビジネス
だって頑張って成功すりゃいい。だが一旦そういうものを手にすると、なかなかそういうものからの
執着を離れるは難しいものだ。だから、あえて禁欲して、欲に対する執着する心が生起する
のを避けたほうが賢明である。出家僧の戒はその為にある。別に俗世間に流される
在家でも、欲に対する執着制する強い心があるなら出家する必要はない。
一休の場合、晩年盲目の女と快楽にふけり、あげくに死に際「わしゃ死にとうない」だ。
こりゃ典型的な女などの欲望に執着し、ひいては己のエゴが肥大し、この世の未練、己の命(エゴ=自我)
未練タラタラで死んでいったわけだ。こいつは明らかにゴータマの仏教を理解してないし、
真理にも到達していない。だから、こいつはただの欲にまみれた破戒僧だってんだよ。
わかった?本質的には無意味な言葉遊びが仏教だと思っている開きめくらの人。
私生児作りまくりの昔のローマ教皇には負けるがなw いっかいの僧じゃなくてトップだぜ
743 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 18:01:14.54 ID:WBM3MbvW
公案禅は確かにわかりにくいとこあるねデリケート扱わないと言葉遊びになってしまう まあ法をどううまく表現するかわ個人の才能にたよるしかないから
744 :
一在家 :2012/09/11(火) 18:04:29.40 ID:iFX5C5YB
これを読めば、真光の創始者 岡田光玉という人物がよく分かる。 上之郷利昭 「陸軍中佐岡田良一を襲った 『真光』 の啓示」 『教祖誕生』 ISBN 4103670010 ISBN 4061857398 「宗教情報」編集部 「関口榮―世界真光文明教団教え主」 『宗に生きる―現代日本の宗教者たち』 (インタヴュー) ISBN 4790210316 早川和廣 「分裂好きな関口栄・世界真光文明教団と岡田聖珠・崇教真光」 『新興宗教教祖のウラの裏がわかる本』 ISBN 4893740210
745 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 18:19:07.37 ID:OENGg8r4
新しく入った弟子で、出来の悪いのがいて 娑婆に未練があって、おしゃれしたり贅沢なものをもちたがるのがいたんだと そいつは托鉢の鉢を透明なおしゃれな鉢にしたんだと お釈迦様はとりあげて、なんの変哲もない木鉢?にしたんだと あんたらのいうことは、少し自分の願望が入っているんじゃないの? 少しくらい、楽しんでもいいよね、っていう
746 :
カラスの唄 :2012/09/11(火) 18:19:18.33 ID:YoIxjnAo
>>729 あと俺は公安は下らないと思ってる。君らの土俵に上がって話しする気もないし、
よって以後、公安などの謎々を出されても答える気は無いのであしからず。
すごいすごい どんな土俵なんだろうなあ まさか土俵の外から自分は戒律守ってないけど 他人が戒律破るのは許せんとかそういうのじゃあないだろうなあ?
末法思想ってのがあるけどあれは衰退史観なんでしょうか? もしかして釈迦は存在苦は1000年後には誰でも克服してて 自分では体験してないようなより高度な問題に挑戦してるほど 人間は進歩してる・・・・wなんて楽観してたorz ってことはないですよね? 残念ながら今でも大変だけど
749 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 18:57:29.54 ID:4e0Eb+y/
>>741 まず、ゴータマへの執着という、最大の不必要な執着を捨てることだな。
話は、それからだ。
750 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 18:58:32.39 ID:WBM3MbvW
751 :
カラスの唄 :2012/09/11(火) 19:15:19.88 ID:YoIxjnAo
752 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 19:15:55.03 ID:hZnhqbHU
竜樹を破戒僧と呼ぶのはやめたようで けっこう けっこう
753 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 19:36:17.66 ID:WBM3MbvW
>>751 ヘー仏教徒じゃないんですね
でも一神教が他宗教の勉強しても大丈夫なんですか
754 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 19:38:46.12 ID:hZnhqbHU
カトリックの信仰は持ってないので大丈夫。 というか最近のカトリックは他宗教に歩み寄り過ぎな位なので 信仰持っていても大丈夫。
755 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 19:42:29.67 ID:WBM3MbvW
>>751 あと全知全能の神がいるキリスト教ではブッダが悟りを開いたのも神の采配とゆう認識
なんですか
756 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 19:48:02.73 ID:WBM3MbvW
>>751 それって家の宗派がカトリックってことなの個人的には無宗教?
仏教の本来の目的観にたった話を進めてみたらどうかね 研究し努力して良い成果をだしていくのだという釈尊の思い 棚から牡丹餅を当てにしてはいけない
758 :
絶対神 :2012/09/12(水) 00:50:08.38 ID:akDjAyaC
「ヒンズー教にも三位一体はあるという人もいるね」 『ヴィシュヌと、シヴァと、ブラフマン』 ブラフマンが作り、ヴィシュヌが維持し、シヴァが破壊する
>>741 wwwwwwwwwwwwwwwwwww
君の文章が解り易いと思っているならば、とてつもない馬鹿だとしか言いようがないなw
761 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 08:11:28.63 ID:lWWkgnfX
十八界は空であるがゆえに執着に値しない。 で、十八界の外をを仏教では涅槃と呼ぶわけだが、 涅槃について仏教は語らない。(十八界より外のことは言葉にできないし。) しかし、カラスさんは、十八界の外に神様を置くのではないでしょうか。 仏教では神様も十八界の内側と考えるが。
762 :
一在家 :2012/09/12(水) 08:11:46.59 ID:TZlaarJa
「三位一体」も崇教真光の御教えにございますよ。
763 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 08:16:36.49 ID:lWWkgnfX
十八界(一切)の範疇より外のことは、心の管轄外なので、 心で考えることができない範囲。 耳で光を視られないのと同じで、十八界の外を心はとらえられない。 だから仏教ではそこは「涅槃」と名前だけつけて、語らない。
764 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 08:48:22.33 ID:M2IYddHT
>>761 >で、十八界の外をを仏教では涅槃と呼ぶわけだが、
>>763 >耳で光を視られないのと同じで、十八界の外を心はとらえられない。
>だから仏教ではそこは「涅槃」と名前だけつけて、語らない。
違うよ。それじゃ外道と同じだがな。
そういうものは認められてないって、きっちり否定されてる。
涅槃は、そういうのも含めたあらゆる妄想が鎮まった境地。
陰入界がすべての対境、一切
766 :
1/3遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/12(水) 12:42:19.74 ID:A8gv1Jjy
>>741 ブッダの本懐はあくまで「実存苦の根本的超克」であって、『真理を掴むこと』自体ではない。(→
>>636 >>637 >>638 )
「真理」はあくまで間接現実
>>636 Aにおける二項相対の共同幻想だ。(→
>>637 :龍樹 中論24-8・10 25-20は誤謬)
で、
>>641 の公案だが、問題は庵主が
>>636 Aを透過してBにまで至りついていたかを検討し,
発菩提心の自己(道元)がBの境地を直覚体得且表現できるかにある。
これはブッダの悟りは、縁起だから、コンダンニャの覚醒で成就したとのアタシなりの認識の返照だ。
しかし、さすがにカラス、的外れだが、暗愚ではない。アッパレ、アッパレ!!
>>741 でカラスが言いたいことは「無執着」の一語に尽き、それはいいんだが、
(1)我執(エゴ)を生む原因及び
(2)無執着Aへのプロセス@→Aと還滅持続担保B、への言及が欠落している。
(1)が悟り(折り返し点)であり(2)が修行内容・スタイルだ。
表面的結論のみ、論点落しの落第答案なんだよね。これでは境涯がわからない。
残念賞だw
767 :
2/3遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/12(水) 12:49:26.83 ID:A8gv1Jjy
で、他所でも此処でも通用しないだろうが、 (1)婆子はなぜ怒ったか? これは当然で、長年の供養に関わらず、庵主は未だ分別二項相対(抱く⇔抱かない&守戒⇔破戒)の 間接現実べったりの執着境涯から抜け出せていない状態だからだ。 俗物論難もやむをえない。←本公案の入門レベル@ (2)一方、婆子自身も1)貪・瞋・癡の三毒の貪・瞋、および2)「無執着への執着」状態であって、 庵主と五十歩百歩であること。←初級レベル@ いずれも、間接現実内@であって、これを透過させるAのが本公案のコンセプトだろう。←中級レベルA
768 :
3/3遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/12(水) 12:53:32.21 ID:A8gv1Jjy
しかし、さすがに一休は役者が違う。 老婆心為賊過梯 老婆心、賊の為に梯(かけはし)を過(わた)し、 清浄沙門与女妻 清浄の沙門に女妻を与う。 今夜美人若約我 今夜美人、若(も)し我と約せば、 枯楊春老更生稊 枯楊(こよう)春老いて更に稊(ひこばえ)を生ぜん。 長年供養したのにいまだに女を抱く⇔抱かないの二項相対に迷う俗物境地でしかない修行僧に見切りをつけた老婆を さらに、「執着しないことに執着する」もの(ここまでが本公案の趣旨)として笑い飛ばし、 一切の束縛から解放された自由な境地から老年の回春讃歌を唱えた一休らしい素敵な詩だ。←上級レベルB 一休は本物だよ。 縁起の現実(あるがまま)=空・中道・時空際断Aにおいて、煩悩(世俗)⇔涅槃(菩提)、凡夫⇔聖者の相対分別そのものがない。 これは一切は空であることAを体得できた覚者のみが還滅でき得る無分別の分別の境地B<ボロ(世俗)は着てても、こころは錦(勝義)>だ。 しかし、アタシに言わせると、この覚者Bを聖者と呼ぶなら自己撞着だよ。 なぜなら、聖者は聖者ではなく、覚者は覚者ではないからだ。 ゆえに聖者とか覚者とかいうのだ。
769 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/12(水) 13:32:45.97 ID:A8gv1Jjy
770 :
婆子焼庵の解釈 :2012/09/12(水) 13:40:25.95 ID:vFsFFS2f
この坊主がババアに追い出されたのは、坊主に菩薩の心が無かったから。己の悟りを犠牲にし女の求めに応じてセックスしてれば、ババアは坊主を追い出さなかっただろう…ここで言う「女」とは「迷いの衆生」である
771 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 14:38:11.94 ID:M2IYddHT
772 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 15:11:22.51 ID:A8gv1Jjy
>>771 >ど神秘主義、ヌーエイジ、仏教じゃないっすね〜
度々の高評価、ありがとう。
→
>>730 仏法ではあっても、固定教条主義のマハーカッサパ教≒仏教ではないと何度も言わせるな。
一切行無常、『百尺竿頭進一歩』(無門関)は固定教条「仏教」を歯牙にもかけぬ。
へぇ死に際に「死にたくない」といい セックスに明け暮れるのが悟った人間なのか
774 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/12(水) 15:18:48.95 ID:A8gv1Jjy
ん〜〜〜〜、
>>731 のリルケの三行詩を本当に味わい得るなら、趙州<無>も白隠<隻手音声>も透過できるはず。
印可状ゲット!だ。
で、その視点から検討すれば
>>731 “Niemandes Schlaf” は「誰の眠りでもない眠り」でも「主なき眠り」でもいいと思うが、
「無我なる眠り」と訳すると仏教的香りに包まれ、掴み易くなるだろうし、
リルケと握手できるだろうw
Rose,oh reiner Widerspruch,Lust,
Niemandes Schlaf zu seine unter soviel
Lidern.
薔薇よ、おお純粋な矛盾の歓びよ。 *分別(薔薇:間接現実) =純粋な矛盾=無分別 〇〇〇〇〇
無我なる眠りを 西田流では絶対矛盾
あまたの瞼の陰にやどす *無我なる眠り←無分別の分別
あまたの瞼の陰にやどす←分別
外相を離るるを禅となし、内乱れざるを定となす(慧能)
775 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/12(水) 16:00:12.08 ID:A8gv1Jjy
>>773 おそらく一休は森女に、自己の一切を包み込んでくれる至純の菩薩を見たんだよ。
悟り得たとて、煩悩がなくなるわけがない。存在するが故の煩悩だ。
一休の大悟云々が問題ではなく、一休こそが盲目の森女によって受け入れられ導かれていることを智ったのさ。
自ら悟れども、一切の煩悩を包み込んでくれるくれる菩薩。
ならば、『死にとむない』は、一切を止揚した逆説的な至高の境地だと感じられる。
これは一切は空であることを体得できた覚者のみが観得る無分別の分別の境地だ。
凡人、分別ベッタリ者が、無分別の分別の覚悟者をその基準で計るなど、グロテスクの極みだ。
776 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 16:42:01.31 ID:IKeTmXYX
>>775 自分が勉強した限りでは悟ったら煩悩がなくなると聞いたが
煩悩がない故に娑婆では生きられず出家して法を教え広めることのみに存在理由をもとめるとも
まあ一休さんが悟ってなくても立派な人物だとはおもう
777 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 16:55:31.88 ID:M2IYddHT
>>776 >自分が勉強した限りでは悟ったら煩悩がなくなると聞いたが
正しいと思います。煩悩はない。現れはある。
まあ、妄想はいくらでもできるわけですから。
778 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/12(水) 17:10:43.41 ID:THRmoD6m
>>755 広義の意味ではそうなる。
ただ今のキリスト教徒が考えているような神などいない。
神のいるところに神々がいる。イエスは ”それ” を
「天の父」と呼んだ。ゴータマは仏と呼んだ。そして二人ともその者自身のように
振舞った。”それ” は識別し得ないもの。識別しえない”それ” の本質は「無」である。
彼の内に独り息子が生じたとき、彼らは単独者として立つだろう。二人は一つである。
>あなたがたを惑わす者たちが[見よ、神の国は天にある]
>あなたがたに言うならば、空の鳥があなたがたより先にそこにいるであろう。彼らが
>[それは海にある]とあなたがたに言うならば、魚があなたがたより先にそこにいるであろう。
>しかし神の国はあなたがたの中にある。そして、外にもある。あなたがたは、
>自分自身を知るならば、知られるであろう。そして、自分が生ける父の子らであることを知るで
>あろう。しかしあなたがたは、自分自身を知らないならば、貧困の中にいるのだ。
>そしてあなたがた自身が貧困なのだ”。〜トマスの福音
今のキリスト教徒達は、彼を自分自身の外側に見出そうとしている。
779 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/12(水) 17:13:32.40 ID:THRmoD6m
別にゴータマはブラフマンを否定していない。 ただブラフマンを含め現象世界に縁してあるものは全て無自性な空(無我)ですよと 言ってるだけだ。俺もそういう話をしている。
780 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/12(水) 17:18:22.22 ID:THRmoD6m
>>756 俺自身は幼児洗礼者。成人になってから自分の意志で堅信まで受けた。
が、堅信はあくまで気分的な問題で、イエスの教えは真理だと思うが
イエスの教えとは関係のない教会の教えるキリスト教は全く興味なし。
教会にも行っていない。ミサは単なる儀式に過ぎず、救いとは全く関係がない。
信仰義認のプロテスタントはもっと救いようがない。カトリックは
他宗教に対して寛容だ。別に信者が他宗教のことを学んでも問題ないだろう。その宗教に深く関わり、反社会的な行動でもすれば別だろうけど。
神父自身、禅寺で座禅組んでるのもいるし、ヴィパッサナーやってる親父もいる。
俺自身は、ゴータマの瞑想法が知りたく、ゴエンカさんとこの十日間瞑想合宿
に参加したこともあるし、テーラーワーダさんところに何度か足を運んだこともある。
別に俺自身は、カトリックを破門になろうがどうなろうが痛くも痒くもない。
781 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/09/12(水) 17:20:46.73 ID:THRmoD6m
>>766 お前のくだらない空理空論はどうでもいいんだよ。
二元世界の束縛の中で生きている我々に勝義の話を当てはめても
無意味な言葉遊びしかなりませんよと教えてあげても
この開き盲は全く理解できない。お前は一生無意味な言葉遊びの中で遊んでろや。
慈悲の瞑想も知らなきゃ、やったこともない。知ってても、幸せも苦もなければ
真理なども二項対立の共同幻想だなどとほざいて否定する輩達は
ゴータマの仏教の看板降ろせよ。おまえら禅宗は仏教じゃねぇんだから、
仏教スレで能書き垂れんなよ。二元世界の束縛の中で善悪を否定し、道徳をも
否定的見解を持つお前らは、邪教なんだよ。
>>775 もはや凡人と何も変わらんな
>ならば、『死にとむない』は、一切を止揚した逆説的な至高の境地だと感じられる。
一切を止揚してもしなくても凡人と行動発言も全く変わらないんじゃないか
しかし悟りの理解の違いでこうも大きく帰結がちがってくるんだな
「死にとうない」はラベリングだな。 一休は安らかに死んだ。
784 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 17:38:34.70 ID:IKeTmXYX
>>780 イエスは全知全能の神の存在を肯定してるでしょ
全知全能の神がいるならいっさい神にまかせて修行もなにもしなくてもいいんじゃないの
785 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 17:46:12.08 ID:Ho4rjZez
>>783 安らかに死んだのなら洒落にもならん。最後まで生に執着して死ぬのが、
人間としての悟りである。
786 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 17:47:32.31 ID:lWWkgnfX
>>783 一理ある。
預流果、一来果を得てもまだ欲と怒りは残っているていうことだから、
「死にたくない」という気持ちもあるだろう。
しかし、苦・無常・無我はわかった上での「死にたくない」であり、
凡夫の「死にたくない」とは冷静さが違うのではないでしょうか。
787 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 17:50:33.23 ID:lWWkgnfX
しょうゆラーメンが出てきたときの、 「やっぱりオレみそラーメンの方が好きだな」という程度のつぶやきで 「死にとうない」と言ったのかも。
もう戻ってくることがないと知っているから言ったのかも。
789 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 17:57:43.82 ID:Ho4rjZez
>>786 凡夫に悟りを見出せない宗教は、宗教として落第。
そもそも、聖者・凡夫、直接現実・間接現実などという無意味な2項対立の
戯論からこそ解脱せよ。宗教者の戯論は、本当にウザイ。
統合失調症患者の症状は、ありのままの現実が直視できず、なんとなく
不気味に見えることである。
自分の書いたものがおおよそそのまま残っていても 数千年後には多数の解釈が生じるのは読み物としては 解釈の幅があって面白い。断言するとこうはならないからね。 そして、断言されているものは誰かが必死でひっくり返したり 反証したり否定しようとする。2ちゃんとおなじ
それよりも、今も正しい通りを根拠として どう見ても不当な殺人とか戦争が起こってるんですが?
793 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 18:30:13.61 ID:Ho4rjZez
仏教者が悟れないのは、ひとえに、「釈迦個人」に対する執着が原因である。
日本人は一切批判せず善人とか型にはめて持ち上げるから正しく理解しないんです
795 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 18:37:11.38 ID:Ho4rjZez
>>791 「正しい」「正しくない」という「理念」を持つからである。
一切の「理念」をはなれて、ただ「あるがまま」のなかに、価値と平安を見出す
ことだ。
旧約聖書は、人間が「自然状態を離れて、神になった積りになり、善悪を知ること」
を「原罪」と呼ぶ。極めて深い。
まえおきは省略して全知全能こそ人間の欲望なんじゃないかと思います
>>795 某クリスチャンもそのように「あるがまま」と書いていたのでそれが正解のようなものなんでしょうね
798 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 18:51:44.47 ID:Ho4rjZez
>>793 正解かどうかは知らんが、「それしかない」ということw。
宗教が駄目なのは、開祖が「理念」を垂れ流すからである。
「理念(精神性)」は極めて伝播(感染)しやすいと、フロイトも言って
いる。
創唱宗教とは、開祖のこの「理念(精神性)」の感染という、「精神医学的
現象」以外の何物でもない。別に「ありがたいもの」ではないのであるw。
なんとか維新の会
800 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/12(水) 18:55:31.27 ID:A8gv1Jjy
801 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/12(水) 18:56:01.09 ID:A8gv1Jjy
凡人、分別ベッタリ者が、無分別の分別の覚悟者をその基準で計るなど、グロテスクの極みだ。
802 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/12(水) 19:01:21.19 ID:A8gv1Jjy
>>795 >一切の「理念」をはなれて、ただ「あるがまま」のなかに、価値と平安を見出すことだ。
この言葉には明確に矛盾があることに気づかない愚者であることが、痛すぎる(爆笑
お前の『あるがまま』を定義せよ。
803 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 19:25:13.10 ID:Ho4rjZez
>>802 定義などしたら、「あるがまま」ではなくなるw。
「AはAである。故にAではない」。
さすが食物連鎖の上の人
805 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 21:50:24.81 ID:M2IYddHT
>>803 定義はソクラテス以来の誤りの種だから。
定義して言葉の意味を固定して使う。
それじゃあ、ねえ
>>784 全知全能を使って神の手を離れて自らで成長する存在に
つくったとかね
後、自ら成長するだけの力を与えたので信じて見守ってるとかw
807 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 22:45:58.60 ID:IKeTmXYX
>>806 全知全能ならはじめっから完璧もん作れとか思うよね
808 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/12(水) 22:46:25.14 ID:A8gv1Jjy
>>803 >定義などしたら、「あるがまま」ではなくなるw。
そのとーり!w
だったら、『価値と平安を見出す 』を撤回せよ。
定義できない領域に価値も平安もありえない。
809 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/12(水) 23:05:19.06 ID:A8gv1Jjy
>>803 >「AはAである。故にAではない」。
詳しい話を聴こうじゃないか。
明日は早いのでもう寝るが、ちゃんと書いといてね。
810 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 23:07:59.43 ID:cbwKD3TM
>>808 >だったら、『価値と平安を見出す 』を撤回せよ。
それなら、釈迦や君たちの大好きな「悟り」にしておこう。これなら文句ない
だろw。
811 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/12(水) 23:26:58.67 ID:A8gv1Jjy
812 :
神も仏も名無しさん :2012/09/12(水) 23:33:14.95 ID:cbwKD3TM
>>811 釈迦に聞いてくれ。俺は知らんw。
「平安」なら分るがね。
>>761 >しかし、カラスさんは、十八界の外に神様を置くのではないでしょうか。
>仏教では神様も十八界の内側と考えるが。
横レス
その十八界が、
如来が出現しようがしまいが無始の初めから生じていることこそ神の力に依るもの。
仏教の説く輪廻を逃れない天部の神々のようなものとは本来的に意味が異なる。
ただ、仏教ではこれを取り扱わなかっただけ。
もしそんなに神の存在が気に食わないなら、
仏教は、仏典から梵天勧請の逸話を削除すべき。
>>764 >違うよ。それじゃ外道と同じだがな。
>そういうものは認められてないって、きっちり否定されてる。
そういう否定はないのでは?
『aとbの形式の文に限って言うならば、ヴィトゲンシュタインの語った「語りえぬものには沈黙
しなければならない」という文は有効に効いている。「〜がある」「〜がない」の「〜」に代入でき
るのは自らの存在論で認めたものだけである。いかにブッダといえども、この文の形式ではヴィ
トゲンシュタインの言葉にしたがわざるえないのである。それだから、ブッダは「自己はない」と
は語らなかった、そして、もちろん「自己はある」とも語らなかった。』
(石飛道子著『ブッダ論理学五つの難問』講談社刊)
語りえぬものを語ろうとすると西田哲学になってしまうからな
816 :
一在家 :2012/09/13(木) 04:06:03.72 ID:6wIZKxoa
聖者、イエスや釈迦も救い主様と同様に手かざしをしていましたよ。 イエスは、患部の傷に手をかざしただけで跡形もなく消え去った。 仏教では、国訳一切教(経集部二)仏説浄飯王般涅槃教にこう記述がございます。 「王、仏の到るを見て、遙かに両手を挙げ、足を接して言く、唯願わくは如来よ、 手を我が身に触れ、我をして安きを得しめよ」・・・・・仏袈裟の裏より金色の臂を出す。 掌は蓮華の如し、即ち手を似て<父王の額上に著く>・・・・・」 <父王の額上に著く>が手かざしだと癌が得られると存じます。 王の額に「手かざし」に満腔の信頼をよせていることがよくうかがえる。 釈迦の「手かざし」はこれまで行われ、奇跡的効果をあらわしていたものと 存じます。
817 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 06:17:42.30 ID:l6FqSIFG
>>814 神は存在しないということを主張してるのではないよ。
「我(アートマン)はない」というなら、それは四句分別の一つをとっていることになるから。見解を持つことになり、戯論を持つことになり、六十二見になってしまう。
かといって「我は有るのでもなく無いのでもない」という見解を持っても全く同じ。それじゃ戯論なんだ。以下で十分でしょ。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/31.html 今、『スッタニパータ』837を読んでる。837の読みはこんな感じになる。
> 世尊曰く「マーガンディヤ! 諸法と捉えて決定し〈これと言い切る〉ことは彼はない。
> そう見て諸見解と捉えず、分析し内なる静寂[析滅]を観た」と。
837の第四章註、つまり『スッタニパータ』編集前の第四章が独立で暗唱されていた時の古い註。
その古い註では全く私の解釈と同じ読みをしている。
「諸法と捉えて決定し」とは六十二見で、分析判断して四句分別によって見解を捉えること。その例として十無記が挙げられている。
十無記は四句分別によって世界や我などを捉えた見解に他ならない。
「内なる静寂」とは、内なる貪欲の静寂、瞋恚の静寂、暗愚の寂静、忿怒の...中略...一切の不善諸行の静寂、鎮まり、止息、寂滅、止まり。
「分析し」とは「一切諸行は苦だ」と「一切諸法は無我」と「何か生じたもの、その一切は滅するものだ」と分析、判断、吟味、比較、測定、判明、明らかにしながら、と注釈される。
つまり、観、ヴィパシャナを行なって縁起・空・無我を覚ることで「内なる静寂」戯論寂滅を得ることを意味してる。
818 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 06:31:00.29 ID:l6FqSIFG
ちなみに837の後が『大智度論』に引用されていてとても本質的な話になってる。 『大智度論』で引用されるのは『スッタニパータ』そのものより編集前の第四章で、漢訳『義足経』の原本であるサンスクリット本だと予想されるけど意味はほぼ同じ。 それ以外に相応部、『勝義空性経』『中論』が引用される。 そこでは言い争わない無諍法が説かれていて耳が痛いが、それでもそれは仏教でないということは否定されない。 そして無我なのにどうして経典で「このように私は聞いた」というのかと反問され、それに答えて「私」というのは世間的言い習わしに従っていうとする。 さらに「一切法は空性である」「無我である」ということも、それを見解として持つなら六十二見と変わらないと説き。 最後に「聞く」ということなども何が聞くのかといった還元主義で何らかの基体や実体に還元できず縁起するのであるとし、その根拠として以下が引用される。 業が有り果が有る。業と果を作る者は無い。 この勝義は甚深でこの法はブッダが説かれた。[『勝義空性経』] 空でも断絶せず、相続しても恒常でない。 [業の]罪福も失われない。このようにブッダが説かれる[『中論』17-20] 全く私の所説通りで、君等実体還元論者や神秘家のいうこととは違うでしょ。
819 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 06:43:48.75 ID:l6FqSIFG
>>813 >仏教は、仏典から梵天勧請の逸話を削除すべき。
だから、「私」と同じで世間的言い習わしとしての「神」は否定しない。
究極の実体としての「神」「アートマン」などは四句分別の全ての形式で認められないということ。
ここが理解できると随分違うと思うけど、どうよ?
「全ては空から生まれる」 「そして空に還る」 これがこの地球を支配する法則なんですね。
821 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 07:47:50.82 ID:l6FqSIFG
822 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 08:12:45.51 ID:+Oxhfft7
>>813 梵天も十八界でとらえられる、三界のうちにある存在。
823 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 08:14:24.58 ID:eY+fG8hJ
はっきり言葉で否定はしていない。 ↓ 実は認めてるんだよ! 陰謀論と親和性のある思考だなあ。 バックストーリーを用意してつまみ食い。 否定するにしても回りくどい釈迦とは相性がよい。
824 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 08:16:35.57 ID:eY+fG8hJ
神格としてのブラフマーは、ヒンドゥーでも 他の神の引き立て役なんだよなあ。
825 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 08:59:18.99 ID:6wIZKxoa
仏教では、国訳一切教(経集部二)仏説浄飯王般涅槃教にこう記述がございます。 「王、仏の到るを見て、遙かに両手を挙げ、足を接して言く、唯願わくは如来よ、 手を我が身に触れ、我をして安きを得しめよ」・・・・・仏袈裟の裏より金色の臂を出す。 掌は蓮華の如し、即ち手を似て<父王の額上に著く>・・・・・」 <父王の額上に著く>が手かざしだと癌が得られると存じます。 王の額に「手かざし」に満腔の信頼をよせていることがよくうかがえる。 釈迦の「手あて」はこれまで行われ、奇跡的効果をあらわしていたものと 存じます。
826 :
ノスタルジア :2012/09/13(木) 10:43:04.16 ID:nZqY1OwW
みんな濃厚に密接に真理を探究している土台となる思想があるように見えて 実は何もないんだよね〜みんな一歩どころか、逆に他からくる思想を、吸収 しすぎて、自我の肥大、孤独、地獄にいるね〜つまりみなさんは自分の考えとして ひけらかすが、わかったのようでいて何もわかってない菩薩衆という肯定的に 僕はみるね〜しかしみんな遊煩悩林現神通している者達といいたい。地獄にいても 仏はかまってくれないが、神はいつでも地獄にいる者を超越的視点で手助けして いるのだろう。このスレをまずに荒野にして、一からスタートしたく思っている者だ。 皆さんは何がしたいんだね?僕が思うに皆という字は、髑髏が、死して比べられる そのようなところに死していくような気がしてならないので、あえて助言してみた。 口先だけはやめよう。乗り越えようとしている人の文は伝わってくるものがある。 皆さんにはただ地獄にいて個性的な回答をしている風にしか思えない。
827 :
ノスタルジア :2012/09/13(木) 10:47:21.29 ID:nZqY1OwW
苦による地獄界の形成を井の中の蛙に僕はしたが、皆はそこにいる蛙なんだよ。 夢とスレッドは僕にとって蛙でしかないね〜でも逆に慧による天国界の形成を 井の中の蛙にもしているんだよね。それはそれこれはこれなんだけどね。
828 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 18:24:29.53 ID:q4qliZHs
超能力じみた手かざしのヒーリング能力なら説明は簡単だよ。 釈迦もキリストもインドでヨギとしてヨガ(瑜伽)の修行をした期間がある。 単なる思想家でなく、肉体的な、精神的な苦行を 積んで人間としての限界を越えたヒマラヤのマハラジ、ヨギラジとしての側面を持ってる。
829 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 18:36:17.80 ID:VRWqlYge
無明一途 除俗數法
830 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 19:10:20.18 ID:Vlz18Iei
>>819 今度は四句分別を使った詭弁論ですか。あんたの話もひとつの見解だよね。
中論教の信者さん達は、日頃言語界、それに付随する戯論の滅を唄いながら、自分達が
一番言語による無意味な戯論に耽っているよね。ここの詭弁家達の実の無い話を
読めば読むほど仏教は駄目だなと思う。
カラスのレスも、上滑りするだけで中身ないけどなwww
>>818 > 業が有り果が有る
> 業と果を作る者は無い
これに尽きるんだがねぇ・・・。
まさに、「この法は見難い」だなw
833 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 20:48:01.88 ID:l6FqSIFG
>>832 だけど、それが分かる人は少ないでしょう。
大抵、詭弁ですましちゃう。
>>821 (
>>817 )
水野訳は南伝でしょ?
世尊宣はく、『摩健地耶よ、
「斯く我は説く」といふこと我にあるなし。
諸法に対する取著を確知して
諸見に於て見て取著せず、
省察しつつ、内の寂を我は見たり。
実際の本文の体裁は
諸法に対する取著を【取著と】確知して
諸見に於て【過患を】見て取著せず ・・・・・・
と、【 】部分が入ってるけどw
本職のお坊さんでも答えられない問いが出ましたね
836 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 21:28:49.78 ID:l6FqSIFG
>>834 ども〜、そう南伝がなかなか見られないんですよ。どっか行かないと。
なるほど、『ニッデーサ』に従って「彼」を「私」と訳し、「過患」などを補ってるわけですね。
穏健な訳でタニサッロ比丘訳に近いかな。
ただ省察ってしちゃうと、分析修習の観、ヴィパシャナだと分かりにくいと思います。
その点、タニサッロ比丘の detecting という訳は巧いし、さすが行者ってかんじですよ。
本職のお坊さんがまず覚えるのはお葬式に読むやつで 安らかにあの世へ行ってくださいと言う意味らしい
838 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 21:39:32.13 ID:l6FqSIFG
>>837 なんじゃそりゃ?
往生の願文とか、誓願のこと?
原典を理解するなら原典で読めば良いので日本語に訳す必要はありません。 現代日本語の意味するところを正しく訳しているか不明です。 電気ガス水道コンビニの概念が無い世界です。
“Ida vadAmIti na tassa hoti, (mAgaNDiyA ti bhagavA)
Dhammesu niccheyya samuggahItaM ;
PassaJca diTThIsu anuggahAya,
AjjhattasantiM pacinaM adassaM”.
'I argue for this' doesn't occur to one
when considering what's grasped among doctrines.
Looking for what is ungrasped with regard to views,
and detecting inner peace, I saw.
detect = adassaM(adassA)…dassati(1st/sg/aor)ってトコ?
>>837 なるほどねw
能動的且つ身体的であるニュアンスが出るということか。
*( >『ニッデーサ』に従って「彼」を「私」と・・・・・・
動詞の活用を一人称で見てるってことかも? )
841 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 22:45:12.11 ID:fSE6F4aR
バガヴァッド・ギーターで「私は統治者にとっての杖(ダンダ)である」という言葉があるのを見て、 ダンマパダの「すべての者は 暴力におびえ、すべての者は 死を恐れる」 の暴力という訳語は「杖」のほうがいい、と確信した。 統治者の権力(の悪用)、ゴロツキや召使の主人が振り回す棍棒、 多義性と生々しさが生きてくる。
842 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 22:49:47.89 ID:VRWqlYge
>>818 >空でも断絶せず、相続しても恒常でない。
>[業の]罪福も失われない。このようにブッダが説かれる[『中論』17-20]
『ブッダにより説かれた<業は消失しないという原理>は、
業は空性であって断滅ではなく、輪廻であってしかも常住ではない、というものである。』
この偈には直接現実と間接現実の混乱がある。
中論17-20は龍樹の偈ではなく、説一切有部の輪廻転生を前提とした批判対象としての偈だ。
チャンドラキールティも当然、反対者の偈と規定している。これを龍樹の偈とみるのは青目ぐらいだろうw
で、>業が有り果が有る。業と果を作る者は無い。[『勝義空性経』]
『業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す。俗數法をば除く。』
間接現実においては『業報有る』ように知覚・記憶・判断しても、一切内においても実は『作者無し』(無我)。
直接現実においては、無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相の空・中道(非有非無)=時空際断である。
縁起の直接現実(あるがまま)にては「縁って起こる」=相續観念自体がありえない。
直接現実にては相續観念自体がなくとも、間接現実にては、二項相対の妄想として知覚記憶(相續)してしまう。
仏は矛盾なきを矛盾のうちに説く(無分別の分別).
直接現実(勝義空性)の様相を、間接現実(無明世俗)にて還滅(無分別の分別)すれば、
無明の連鎖である十二支縁起(俗數法)なるものは批判排除<除俗數法>されて当然だ。
ならば、<除業報輪廻転生>であることも理の当然だろう。
第一義空法經たるゆえんである。
隠居は、今月の大法輪を熟読すべきだなw
つか、どう読むかな? 怒髪天を衝くように読むだろうか・・・w
>>841 なるほど。
隠居には未来永劫理解できない部分だろうな・・w
けど、もしかしたら
その目的の爲に用いられるツールは、「杖」(棒)より「鞭」の方がポピュラーだったかもよ?w ( ̄ー ̄)
(つまり、バガヴァッド・ギーターの訳こそが「鞭」であるべきかもしれない可能性はゼロなの?)
844 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 22:55:10.51 ID:l6FqSIFG
>>840 >detect = adassaM(adassA)…dassati(1st/sg/aor)ってトコ?
ちゃう、pacinaṃ
adassaṃ は I saw.
detecting だと以下のように見つける、気付く、見抜く、見破るってかんじが巧いと思った。
>>817 > 「分析し」とは「一切諸行は苦だ」と「一切諸法は無我」と「何か生じたもの、その一切は滅するものだ」と分析、判断、吟味、比較、測定、判明、明らかにしながら、と注釈される。
> つまり、観、ヴィパシャナを行なって縁起・空・無我を覚ることで「内なる静寂」戯論寂滅を得ることを意味してる。
直訳だけど、分かりやすく行、伝承の側面も外してないかんじでいいです。
> *( >『ニッデーサ』に従って「彼」を「私」と・・・・・・
>
> 動詞の活用を一人称で見てるってことかも? )
ちゃうよ〜、『ニッデーサ』は、このように
> Na tassa hotī ti na mayhaṃ hoti,
tassa を mayhaṃ と言い換えてるでしょ。
これはなかなか興味深いことで釈尊がご自身を三人称で呼ばれたのか、それとも指示代名詞で指示し人称ではなかったのか。
サンスクリット見たいとこだよね。
漢訳は「尊云何當受是」の「是」なのかな?
845 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 23:47:55.10 ID:JtxRLrE1
>>841 片山一良先生ですか?
多義的な「杖」だと、読者にとって印象がぼやけ、この仏典随一の名文の
格調ががた落ちですよ。「暴力」「死」という抽象語との対応関係だから、
やはり抽象語でなければならない。
>>844 ああそうかw 「tassa」か。
そこは単純に「彼」(というか「その人、そのような人、そういう人」)は、でいいと思うけど。
つーか、直接話法で作文する(訳す・意訳する)なら「吾」だし、間接話法なら(直訳するなら)「彼」って感じなんじゃないの?
世尊が一例として挙げた台詞の引用と見て、
「これこれこのような人はこのように言う」という形での表現と読むなら、間接話法的に「彼」でるべきだし、
「これこれこのような人は○○!と言う」という形での表現(強調)と読むなら、直接話法的に「吾」の方が、
より『リアル』で『我が事的』で『冷暖自知的』言葉になるけど。
また、(ここは、掘り下げてみたいポイントだけどw)、
自称が「如来」であることが多いことと関連させても面白いとは思うけど。
どのような時「如来」と言われ、どのような時に「吾(aham)」と言われるのか、
その違いにこそ、仏教的に大きな意味があると思うしね。
たとえそれが釈尊の自称でなく、経典編者達の技巧であったとしても・・・。
>漢訳は
わからんw
該当文無しとみてもいいような気もするが・・w (^^;
少なくとも対応しているとは見做し難いよね・・・
我所説婬不欲 無法行不内觀
雖聞惡不受厭 内不止不計苦 ・・・836?
見外好筋皮裹 尊云何當受是
内外行覺觀是 於黠邊説癡行 ・・・837?
>>845 ばーかw 片山訳は「鞭」だよ。
確認もせず、脊髄反射して意見を述べる・・。
そんな人間の発言に、どれほどの信用性が付随しましょうや・・w
847 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 00:06:29.10 ID:SVScSiHT
>>843 >隠居は、今月の大法輪を熟読すべきだなw
とっくに買って読んだよ。特集の「表題」に、つい釣られてしまったw。
しかし、「仏教雑誌」だから、形通りの「宗教肯定」。つまらん。批判して
いる部分もあるから、そこだけ読めばよい。
滝本太郎氏が日本の伝統仏教を批判して、最後に、「どうか、よろしくお願い
申し上げます」などと言っていたが、彼はキリスト教系ではないかな。
反オウムに、キリスト教の牧師が参加しているから、オウム問題に関与した
弁護士までキリスト教に影響されているフシがある。調査が必要。
>>847 P.84の川村邦光の小論を百億回読んどけ。
849 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 00:30:44.52 ID:SVScSiHT
>>846 >ばーかw 片山訳は「鞭」だよ。
「鞭」のほうがややベターだが、それでも「杖」と同じ問題が生じるな。
片山訳は立ち読みだけ。「鞭」という訳語だけで、大金はたいて買う必要は
なくなったw。
>>849 w
手塚治虫の「ブラックジャック」。
立ち読みして、 おっぱいが出てくるからけしからん!
と言って、有害図書認定するくらい馬鹿げた態度だな。
んと、お前は人間の屑だよ・・。
一代の話(説明)というのは、 すべて“一切(一切法)”についてのものです。 “恒常の否定”も然り。 私が語るときの「神」や「真我」(ウパニシャッドのアートマン)というのは、 仏教の説く一切外のこと。よって仏教の法の適応範疇外にて、 仏教の摂る態度というのは唯一にして“無記”だけ。 “無い”などという意味などなし。
>>824 現象界(濃密物質界)の創造に関る神格だから、
どうしても休眠中扱いをされて“不人気”となるのだと思います。
けれども、創造も神の属性の一面を示すものに過ぎず、
本来的には三位一体としての唯一者、イシュヴァラを意味する。
「意訳」か「直訳」かの話でいうと、 絶妙な訳文というのは意訳のことでしょうね。 ただし、必要において随所に注釈を入れ「原語」「原意」(直訳語)を示せばいい。 確かにこれは必須かと!!
854 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 07:47:54.17 ID:mJC/olD4
>>842 >『ブッダにより説かれた<業は消失しないという原理>は、
>業は空性であって断滅ではなく、輪廻であってしかも常住ではない、というものである。』
>
>この偈には直接現実と間接現実の混乱がある。
まず、なにより『大智度論』では最終的な根拠として説かれてることを認めないといけないね。
そういう読みできず、テキストに自分の妄想と異なる記述があると、その箇所を否定するための道具が君の「直接現実と間接現実」なんじゃないか?
そういう読みしてたらいつまでたっても自分の妄想に気付けない。
テキストを読む理由がない。師匠についても君の場合はだめだろう。
妄想に固まってるから。『スッタニパータ』の後に続く詩句がピッタリだ。
マーガンディヤ曰く:仙人さま、決定し分析分別した何か、それらを全く捉えず、内なる静寂ということを説かれますが、そのことをどのように賢者たちは述べるのですか?
世尊曰く:マーガンディヤ! 見てでなく、聞いてでなく、知ってでなく、戒律や物忌ででも清浄になると言わない。見ないでなく、聞かないででなく、知らずにでなく、戒律や物忌なしにも清浄になると言わない。そして、それらを捨て捉えず、寂静は有に依らず有を望まない」
マーガンディヤ曰く:もし〈見てでなく、聞いてでなく、知ってでなく、戒律や物忌ででも清浄になる〉とも言わず
〈見ないでなく、聞かないででなく、知らずにでなく、戒律や物忌なしにも清浄になる〉とも言わないなら、私は全く愚かな法だと思う。見解によってある人は清浄になると見なします」
世尊曰く:マーガンディヤ! 見解に基いて訊ね、捉えた事々の中で迷っています。そしてそれにより概念をちっとも理解しなかった。それゆえアナタは愚かしいと見るのでしょう
これと同じでテキストや教えを虚心に読まず自分の妄想で読むから、愚かしい、マハーカッサパの陰謀とか、間接事実とかですましちゃうわけだ
855 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 07:50:25.02 ID:mJC/olD4
>>842 >中論17-20は龍樹の偈ではなく、説一切有部の輪廻転生を前提とした批判対象としての偈だ。
>チャンドラキールティも当然、反対者の偈と規定している。これを龍樹の偈とみるのは青目ぐらいだろうw
そうか? じゃ、根拠出して。
>で、>業が有り果が有る。業と果を作る者は無い。[『勝義空性経』]
>
>『業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す。俗數法をば除く。』
>間接現実においては『業報有る』ように知覚・記憶・判断しても、一切内においても実は『作者無し』(無我)。
>直接現実においては、無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相の空・中道(非有非無)=時空際断である。
>縁起の直接現実(あるがまま)にては「縁って起こる」=相續観念自体がありえない。
>直接現実にては相續観念自体がなくとも、間接現実にては、二項相対の妄想として知覚記憶(相續)してしまう。
>
>仏は矛盾なきを矛盾のうちに説く(無分別の分別).
>
>直接現実(勝義空性)の様相を、間接現実(無明世俗)にて還滅(無分別の分別)すれば、
>無明の連鎖である十二支縁起(俗數法)なるものは批判排除<除俗數法>されて当然だ。
>ならば、<除業報輪廻転生>であることも理の当然だろう。
>
>第一義空法經たるゆえんである。
妄想満開だな、まずその妄想すてないと「仏法」に触れられないよ
856 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 07:51:48.45 ID:mJC/olD4
>>846 >>漢訳は
>わからんw
この漢訳は難解だ。一応、対照してみてみたんだけど、まだ自信ない
857 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 08:36:37.27 ID:mJC/olD4
>>851 >私が語るときの「神」や「真我」(ウパニシャッドのアートマン)というのは、
>仏教の説く一切外のこと。よって仏教の法の適応範疇外にて、
>仏教の摂る態度というのは唯一にして“無記”だけ。
>“無い”などという意味などなし。
無記ってのは、中立という意味でなく、四句分別による論理的断定・成立を取らないという意味なんだよ。
だから、「無い」と言ってないから「有る」と排中律で認められるというようなもんじゃない。
xが有る、無い、有り且つ無い、有るでもなく無いでもないという四句分別によって何らかの見方、見解を掴み取らない戯論寂滅であるということが示されてるんです。
だから、釈尊以来、一切外のアートマンは認められてないっての。
それがこれなんだが
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/31.html ウパニシャッドとかヴェーダンーンタが現象以外の実在を設定してるのは分かる。
だけど、それは『梵網経』以来以下のように仏教では否定されている。
禅定の境地を勘違いしたと考えられてる。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html だから、そういう現象/実在という考え方は仏教ではないって。これは認めないとしかたない。
だから、ヒンドゥーではこういうというならそれは否定しない。
しかし、それと仏教を混ぜるなって。
858 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 09:17:25.94 ID:3fuH/z90
>多義的な「杖」だと、読者にとって印象がぼやけ、 理由を述べよ。 隠居が真っ白い背景に杖や鞭がぽつんと浮かんでる様子しか イメージできないだけなんじゃないかw? 具体的な物体と、抽象語の対、と考えることもできる。 というか「片山」訳なのが気に入らないだけだろ。
859 :
1/3遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/14(金) 12:44:36.03 ID:MBv1fsRf
>>854 >(中論17-20が)『大智度論』で最終的な根拠として説かれてる
その前提たる中論17-20および勝義空性経を問題としている。
>>854 >>855 >妄想満開
一見、批判であるように見えても、自分の読んだ『テキスト』(固定教義仏教の概念解釈←妄想)と異なる見解を
『妄想だ』と言っているだけで、相変わらず無意味な中傷でしかない。
オイラ氏の『妄想批判』はマハーカッサパ教スコラ部派が龍樹を批判しただろうと同じ構造だろうw
『一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。
しかるに人がもし空見(空という見解)をいだくならば、その人々を「癒されない人」とよんだのである。』(中論13-8。同7-34,18-6)
⇒「筏の喩え」金剛般若経: テキスト、ブッダも筏なんだから、一切を捨てなければならない。
ブッダは何も説かれていないのだから、最終的には「仏法」も〇〇〇〇〇。
860 :
2/3遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/14(金) 12:47:48.93 ID:MBv1fsRf
>>855 >そうか? じゃ、根拠出して。
<根拠>
・中論17-21〜33による批判 (但し、同28・31・32には疑問がある。批判対象者の偈だろうと思う、この点は留保する。)
・中論17-1〜20は一体誰の偈なのか?
・中村『龍樹』p361
・『何故に業は生じないのか。業は本質(固有の実体)をもたないもの(無自性)であるからだ。
また、業は生じないのであるから、滅失することもない』(中論17-21)
業が不生ならば、(反対者の)<業は消失しない>という観念自体が無明である。
また、直接現実において、<原理>観念自体がありえない。
無分別の分別による批判であり、まさに17-20の偈には直接現実と間接現実の混乱がある、と言わざるを得ない。
17‐20は反対者の偈であり、龍樹の批判を免れない。
本性上は存在しない煩悩を本質とする業が本性上生じて存在する訳がないのだ(同上17―26参照)。
ゆえに無苦集滅道。
このことを既成日常間接現実での分別知覚では掴み得ないから、
<(間接現実において)もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修業を完成させなさい>
861 :
3/3遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/14(金) 12:51:51.40 ID:MBv1fsRf
>>854 >>855 >テキストに自分の妄想と異なる記述があると、その箇所を否定するための道具が君の「直接現実と間接現実」なんじゃないか?
もちろんアタシは筏ゴックン主義者ではない。(→
>>247 >>300 >>340 何度も繰返すのはエネルギーと時間の無駄、げんなりだ。)
中論24-8・9の趣旨を徹底させて、咀嚼自得せんとしているだけさ。もーええか。うんざりだな。
直接(無分別智直覚)現実、間接(知覚記憶)現実は、現代では通用しない古代用語である勝義諦、世俗諦に対応させているが、
(1)勝義には『諦』=二項相対真理自体が観念不能で、誤った相応しからざる用語であること
(2)仏法には、<縁起の『現実』(あるがまま)の現観が土台である>ことに相応しい用語とすること
を踏まえている。
まさに諦=真理という観念に龍樹をはじめ人々は執着する。
昼メシに帰宅したが、ブルーだねw もう、ええか。
862 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 13:00:18.36 ID:sNp+AP9q
>>859 >一見、批判であるように見えても、自分の読んだ『テキスト』(固定教義仏教の概念解釈←妄想)と異なる見解を
>『妄想だ』と言っているだけで、相変わらず無意味な中傷でしかない。
>オイラ氏の『妄想批判』はマハーカッサパ教スコラ部派が龍樹を批判しただろうと同じ構造だろうw
違うな。その読みにテキスト的な根拠がなく妄想を当てはめてるだけでしょ。
つまりは生命教の中論は釈尊を否定したってのと同じだってことよ。
>>860 中村先生は根拠にならないぜ。『明句論』というなら『明句論』をどう読んだか示さないとだめだってことだ。
かなりがっかり結構、読んでるのかとおもいきや、単に中村先生の孫引きかよ。
そういう場合は、中村先生はこう言ってるだろ。それじゃ根拠にならないけどね。
>>861 じゃ、生命教と同じだって。要するに妄想に合った部分だけテキストを権威として使ってるだけ。
話にならないなあ。
863 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 13:16:11.40 ID:sNp+AP9q
言い換えよう。テキストを基準にすれば、正誤に客観的な評価基盤がもてる。 つまり、話し合う場、土俵が作れるわけだ。 ところが、君とか生命教のやり方だと自分の妄想を受け入れるかどうかを迫るだけで、それ以外にテキスト出したりしてるのは単なる偽装のための根拠づけだ。 だから、二人共テキスト的にそんな読みができない、自分の妄想と合わないとなると、自分で判断するとかいうようなこといって拒否するよね。 これって要するに対話を拒否してるってことなんだよ。最初からオレチャンの素晴らしい説を信じるかどうか、信じないヤツは分かってないだけってことになる。 今回、『明句論』や他の註も読んでるような口ぶりだから、見なおして書いてみたんだが、全然違う、単なるハッタリだったようなんでガッカリだ。 オイラはちゃんとテキスト的な根拠を示して、誤りを指摘してくれるなら大歓迎だ。そうじゃなく妄想の押し売りは止めてくれ。
864 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/14(金) 13:17:04.47 ID:MBv1fsRf
>>862 >単に中村先生の孫引きかよ。
どこが?ハアあ?
龍樹の偈(17-21)によって、龍樹の偈?(17-20)を
咀嚼して批判させただけだけど、何か?
わざわざ一行空けてんだけど?
あんたの誤解誤読にはウンザリだ。
ボクは、げっそりだ
866 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 13:40:46.92 ID:sNp+AP9q
オイラが「単に中村先生の孫引きかよ」と言ったのは以下の発言なんだが。
>>842 >チャンドラキールティも当然、反対者の偈と規定している。これを龍樹の偈とみるのは青目ぐらいだろうw
この発言の根拠を示せるかい? 示せないなら「単に中村先生の孫引き」と言われても仕方ないっしょ?
マハーカッサパに従わないとかそういう言い逃れは、もうできないぜ。断定してるから。
867 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 15:00:32.75 ID:O0+glu1T
>だから、「無い」と言ってないから「有る」と排中律で認められるというようなもんじゃない。 宝珠愚者氏が以前から貫いてるけど、この発想がよくわからない。 大事なものならちゃんと言明するよなー。 ヒンドゥーもネーティ、ネーティ(非、非)ばっかり言うわけじゃないんだし。 悟りにも救いにも全く関係無い、「神」や「真我」って、 そりゃどういうことだよ。「適用外」にするってことはそういうことだ。 意見として形にするために、それっぽい言葉を「つなぎ」にしてるだけではないのか。
868 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 15:32:42.99 ID:O0+glu1T
中村先生が生きていたら、サイトに掲示板つくって 質問に答えてくれてたんだろうか。
869 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 17:08:06.31 ID:ZMMUKOAr
マハーカッサパって、陰謀論のネタになるようなことしてたの? それとも バラモン出身だからバラモン風に仏教改竄しただろ、って いうことになってるだけ?
870 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/14(金) 17:22:26.29 ID:MBv1fsRf
ただいま、雨で濡れ鼠w
晩メシの支度前に一言コメント。
>>866 >>チャンドラキールティも当然、反対者の偈と規定している。これを龍樹の偈とみるのは青目ぐらいだろうw
>この発言の根拠を示せるかい?
『根拠』の趣旨が不明だが、代表的な日本の学者本から引用すると、
・中村元「龍樹」p361『法有の立場にたつ人々の主張である』←孫引きもなにも、中村博士の言及はこれだけだ。
・三枝「中論」(中)P459『反対者の偈。ひとり青目釈羅汁訳だけは龍樹の偈と見る』
・黒崎宏「私説 中論」p138『これは、三枝・中村・チャンドラキールティによれば、反対者の偈であるが、
青目釈羅汁訳は龍樹の偈と見る。私は反対者の偈である、と思う』
これらは当然の解釈であって、説一切有部オリジナル?の“輪廻の主体”を前提とする『不失法』概念を中論17-14〜19で示し、17-20でブッダの所説だと着地させている。
で、17-21以下で17-1〜20(17-6は?)を反駁するという構成になっている(17-28・31・32は?)。
なんでひとり青目釈羅汁訳だけは龍樹の偈と見るのかアタシにはワケワカメ。
ふたりめがオイラ氏になるわけかw
詳しい話を聞こうじゃじゃあ内科。
17章は大勢には影響が少ないとは言え、???箇所が多い。
しかし、テキストなんかに捉われてたら、概念仏教学(間接現実ベッタリ)で終わる。
つまらん!
871 :
806 :2012/09/14(金) 18:49:16.89 ID:QC+QLkXE
>>807 わしらの言う完璧は出来上がったものだけど
神様にとっての会心の出来は無限に変化する今の
わしらの世界なんじゃないかな、とか思ってます
この変化はいずれ(宇宙100万回w)製作者を超えれるぐらい完璧な
神様の自信作なんかもしれないw
そしてその変化をすごくうれしく、有限だけど無限に近い間
神様は見守るのかも知れない
妄想失礼ですm(__)m
872 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 19:21:02.24 ID:mxOKFaF/
>>870 全体読めば、中論は、輪廻転生を完全否定。17:12以下。
業ももろもろの煩悩が常住なら、空の理論自体が破綻する。
873 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 19:32:16.05 ID:mxOKFaF/
>>870 >17-20でブッダの所説だと着地させている
17:21以下で、そのブッダの所説を完全論破。17:28もブッダの所説。
それも17:29以下で完全論破。
874 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 19:34:28.24 ID:mxOKFaF/
875 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 20:04:45.21 ID:sNp+AP9q
>>870 >・三枝「中論」(中)P459『反対者の偈。ひとり青目釈羅汁訳だけは龍樹の偈と見る』
>・黒崎宏「私説 中論」p138『これは、三枝・中村・チャンドラキールティによれば、反対者の偈であるが、
> 青目釈羅汁訳は龍樹の偈と見る。私は反対者の偈である、と思う』
三枝・黒崎によってるだけでしょ。なら、孫引きだ。
和訳でも『明句論』青目釈など見たことあんの? それなら、その訳を根拠に出すのが根拠。
ないなら、以下のような書き方はハッタリに他ならないんだよ。
>>>チャンドラキールティも当然、反対者の偈と規定している。これを龍樹の偈とみるのは青目ぐらいだろうw
そして『中論』も中村訳や三枝訳にだけ依っているなら、そりゃ根拠にならんぜ。
なぜなら、訳者がそういう前提で訳してるからだ。
以下のようなのは根拠じゃなく、解釈、読みなわけ。なぜ、そう読めるかという理由が根拠で、それはテキストや伝承にしかないんだは。
>・『何故に業は生じないのか。業は本質(固有の実体)をもたないもの(無自性)であるからだ。
> また、業は生じないのであるから、滅失することもない』(中論17-21)
> 業が不生ならば、(反対者の)<業は消失しない>という観念自体が無明である。
> また、直接現実において、<原理>観念自体がありえない。
> 無分別の分別による批判であり、まさに17-20の偈には直接現実と間接現実の混乱がある、と言わざるを得ない。
> 17‐20は反対者の偈であり、龍樹の批判を免れない。
> 本性上は存在しない煩悩を本質とする業が本性上生じて存在する訳がないのだ(同上17―26参照)。
> ゆえに無苦集滅道。
他の註は見てるとこだが、無畏註、ブッタパーリタ註は龍樹偈と見ているように読めるみたいだが、難解でまだ自信がない。今の所、保留しとくは。
読むってのは、そう簡単じゃないんだよ。
876 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 20:13:10.97 ID:ZMMUKOAr
十七章の最後でブッダが神通備えてて、その仏陀が 変化人とかいうのを生み出すとか書いてあるな。 それがまた変化人を生み出してを繰り返すとか。 西遊記の孫悟空が髪の毛から分身出すようなもんか。 そのエピソードはどの経典にあるんだろう。 アーガマにもあるかな?
877 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 20:14:28.26 ID:ZMMUKOAr
これが化仏の原型だったら面白いな。
878 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 20:23:39.50 ID:sNp+AP9q
>>876 『明句論』は『律』『ディヴィヤ・アヴァダーナ』『三昧王経』を挙げてますね。
>>870 先に言ったように『大智度論』での意味としてしか問題にしてないだは。
テキストを読むのはそういうもんだと思う。解体するのはやりすぎだろう。
君がテキストを離れて変なイチャモン付けるから、今検討しているが
879 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 20:25:19.90 ID:ZMMUKOAr
三昧王経は中公文庫でもってるから読んでみよう・・・
仏典は文字で書かれていて数字も出てきますが 自分が小学校で算数を習ったときに分数が出てきて 1/10の1/10・・・・・・と延々考えたことがあります。 大きい数は無料だいすうといわれてますが小さいほうはどうなんでしょうか? そんで、そんなこんなで10進法を根拠に考えて答えは出るんでしょうか?
881 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 21:05:08.53 ID:8bil6v9b
>>880 分数はありますが、最小は分かりません。
十進法は、たしかシューニャ、空が関係してるとか聞いたことがありますが、
インド数学は知りません。
882 :
1/2遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/15(土) 00:09:19.57 ID:HGJEPS0Y
>>875 >和訳でも『明句論』青目釈など見たことあんの? それなら、その訳を根拠に出すのが根拠。
>なぜ、そう読めるかという理由が根拠で、それはテキストや伝承にしかないんだは。
こんな奴に無分別智直覚による縁起の現観は100%ないことを断言しておく。
100%悟りはない。
アルコールと日頃の疲れに乗って、言わしてもらうが、もうええわ。
情けな! まともな実践家の言葉ではない。化石チンケ学者そのものじゃん。
仏法は、金と頭でっかちとエリート教条主義にありと見つけたり!!(爆笑
まさにグロテスクな概念無明仏教学(間接現実ベッタリ)発想そのものだな。
固定化・化石化した『テキストと伝承』には仏法は100%ない。
マハーカッサパ教スコラ部派そのものだw
883 :
2/2遊びをせんとや生まれけむ :2012/09/15(土) 00:14:15.93 ID:HGJEPS0Y
たとえば、中論註釈書の研究―チャンドラキールティ『プラサンナパダー』和訳
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E8%AB%96%E8%A8%BB%E9%87%88%E6%9B%B8%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9% B6%E2%80%95%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%86%E
3%82%A3%E3%80%8E%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%80%E3%83%BC%E3%80
%8F%E5%92%8C%E8%A8%B3-%E5%A5%A5%E4%BD%8F-%E6%AF%85/dp/4804305629
自慢じゃないが、釜ヶ崎通いの貧乏自慢のアタシが数万円の本を買って手元に蔵書できると思うのか?
またまた、こんな2ちゃんねるスレのために、またまた時間を潰して京都大学図書館へ日参しろとか?
アホか? こんなココの迷妄連中のために、今そこまでやってられるか!
そんな金は、一休なら淫売屋で使うし、良寛なら落胆泥棒に渡してやっただろう。
オイラ氏の釈迦仏法は『平常心是道』ではなく、大学図書館とお金とヒマにあるらしい。
アタシゃ、あんたのようなリッチでヒマをもてあまし、僧院奥深く巣窟するエリート・スコラ阿闍梨様とは御身分が違うんだよ。
根本問題は、権威と知識主義丸出しで、還滅言説そのものの深度=仏法の示唆度そのものを“感じよう”としないことにある。
間接現実ベッタリ(テキストと伝承)のオイラ氏が仏法に触れうるのはもはや困難だ。
もう、アタシはこんな間接現実低レベルに絡むのはうんざりだ。
このスレの間接現実ベッタリズム連中には、遂に仏法は見出しがたいことを断言しておく。
シーラカンス化石概念「仏教』に幸あれ!
一昨日亡くなった、釜の主、宿無し辰っちゃんに 合掌
辰っちゃんの悟りはほんまもんやったで。
884 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 00:16:36.75 ID:gooSnVaC
>>882 つまり、孫引きで、直接見たことないと認められないから、
罵倒するわけね。
キタキタ、決まり文句マハーカッサパ。要するにオレチャン解釈の逃げ口上
だから、妄想が始めにあって適当にテキスト引っ張ってるだけでしょ。
正にさっき nhk でやってた野狐禅、ヌーエイジっすね
885 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 00:26:17.75 ID:gooSnVaC
>>883 どっちが貧乏かな? オイラは時間かけてモノを言ってるぜ。適当なことは言ってないつもりだ。
そんなの買えとはいわんわ。オイラが言いたいのは読んでもないのを読んだように書くなってことだ。
梵蔵漢英が読めればほとんどネットで読めるよ。
時間もかけずに自分の妄想に引きつけて適当にちょろっと読んで、理解したつもりなのが困る。
釈尊も仰ってるが、釈尊の法は一切智者以外理解し難いとされる。それらのにオイラ程度の理解もない明らかな外道法を仏法っていうのは深い罪だと思うぜ。
まあ、嫌ならここにこなければいいんでないか?
別に来てもいいが、時折、違うとは指摘するよ〜、他の人が勘違いしちゃうとかわいそうでしょ。
886 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 00:57:03.04 ID:7MLAGV8H
思想を理解するためには、「全体の流れ」を理解しなければならない。 枝葉末節の言葉に拘っていたら、「全体の流れ」が見えなくなる。それでは、 筆者にとっても迷惑な話。 釈迦の教えは無謬などいう前提があったら、理解は到底不可能である。 中論は、内容的には、釈迦を全面的に論破したのである。だから「大乗の 祖」と言われる。
888 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 01:21:43.97 ID:9AT5n4kw
閻魔大王って図書館で取り寄せできること知らないのか。 輸送費がかかりそうなばかでかい本を取り寄せておいて、 確認したいところだけちょろっと確認して1,2日くらいで 返却したら図書館の人に小言を言われたのが懐かしい。
889 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 01:26:47.00 ID:9AT5n4kw
ともかく逆上してレッテル貼りはまずい。
890 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 01:42:06.62 ID:9AT5n4kw
>>886 斜め読みと、台詞と裏腹の断章主義でお話を作り、
細部を確認してそれまでの理解にフィードバックすることもなく、
その時点でわからない部分について判断保留にすることもない。
でも、そのまま進めてわかったことにしちゃう。
元の著者もそれに同意してくれるだろうと勝手に考える。
この甘えは何だろう。
滅後の上座部の流れが、(舎利弗・目連を欠いているという事象を決定的に受けて) 、 シッダッタが紡いだ「おしえ(≒仏法)」を変容させたという視点は忘れてはならないと思う。 (一代は異義を唱えそうだが・・w) 私個人も、摩訶迦葉のカラーに染められてしまった面はあると思うし、 阿難のカラー(或いは、長老偈等に散見される「隠遁派」のカラー)がもっと出ていれば、 また違った上座部が出来上がっていたろうと思うしね。 また同時に、歴史的推移としての、律保全・形式主義的側面を固辞したからこそ、 2500年存続し得たとも言えるんだけどね・・・。 形無ければ、中身を表し得ないし続かないし、 形に囚われれば中身が見失われ易い・・。 上座部は、形を保つことで中身を保とうとした。 大乗は、形を崩す(多様化させる)ことで中身を継承しようとした。
892 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 01:56:19.74 ID:9AT5n4kw
在家向きを充実させるだけでなく、 ゴッリゴリのガチ勢向きの部分も残してさらに発展させたのは良いと思う。 法華経の菩薩大士が畜産業者を見捨てても、阿弥陀如来や馬頭観音は助けてくれる。 方便の重ねがけが大乗の豊かさ。
893 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 06:33:06.03 ID:gooSnVaC
>>891 そういう側面もあったと思うよ。
例えば、上座部三蔵に『勝義空性経』が入ってないとか
そして本来の形に戻したのが龍樹菩薩だと思ってる。
だけど、言ってるレヴェルが違うでしょ。
テキストと食い違う自分の妄想を正当化するためにそれを持ち出すのはありえない。
894 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 07:37:36.09 ID:SWtSM0HO
>>891 >大乗は、形を崩す(多様化させる)ことで中身を継承しようとした。
中身がまったく違っているから、大乗なのである。
大乗も原始仏教と関係付けようとしているが、それは形式的なことであり、
内容ではない。
>>892 >法華経の菩薩大士が畜産業者を見捨てても、阿弥陀如来や馬頭観音は助けてくれる。
>方便の重ねがけが大乗の豊かさ。
それらが真実であればいいけれども、
すべてがテルマと感得という扱いで本当にいいのかはかなり疑問に感じます。
単なる客寄せ(信者獲得)のための創作物語でないことを願う。
さて、大乗教義が扱う諸仏諸菩薩の存在は、
本当にどこまでがテルマ(授与された霊的直感)で、
どこどこが単なる創作なのか?
>>806-807 >>871 神とてまったく同様であって
元々、はじめから全知全能なるものが有得ないということ。
それらは単に人間と引比べての表現に過ぎない
(ただし、無限的存在ではあるけれども)。
全能で完全であるということは進歩がないということ。
つまり、停止していることを意味します。
真実は無限的存在である神が有限界を生じさせて、
みずからが有限界の存在としての濃密肉体である人間を通して
“物質を経験”している姿こそが人間(の成長)であり、
真実は人間の成長そのものが神御自身の成長の糧であるということ。
この事実を直知体験して認識すること、
そして、必要な一定の経験を達成することが我々の当面の目指すべきゴールです。
>>857 >無記ってのは、中立という意味でなく、
>四句分別による論理的断定・成立を取らないという意味なんだよ。
わかっています。
>だから、「無い」と言ってないから「有る」と排中律で認められるというようなもんじゃない。
であるから、仏教は「ある」という姿勢にあるなどとは言っていません。
>だから、釈尊以来、一切外のアートマンは認められてないっての。
それは、
「(あるものとしては)説かない」ということに過ぎない。
アートマンについては一切には存在しないといえるだけであって、
一切外については「無い」ということすらもできない。
ただ無記があるだけです。--それがゴータマの摂る態度でしょう。
>ウパニシャッドとかヴェーダンーンタが現象以外の実在を設定してるのは分かる。
>だけど、それは『梵網経』以来以下のように仏教では否定されている。
>禅定の境地を勘違いしたと考えられてる。
>
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html ヴェーダ/ウパニシャッドそのものに対する否定ではない。
単に当時のバラモンたちの間違いを指摘したまで。
>だから、ヒンドゥーではこういうというならそれは否定しない。
>しかし、それと仏教を混ぜるなって。
あなたのいう伝統仏教とやらがそうであるということは認めます。
両者が異なるものであるということを。
ただしおそらく、
本来のゴータマの教えとは違うものなのでしょうね。
(後で掲載紹介する論文の趣旨に私は完全同意です---ご参考まで)
>>867 >宝珠愚者氏が以前から貫いてるけど、この発想がよくわからない。
>大事なものならちゃんと言明するよなー。
それ(その役割り)は、
ヴェーダ(ウパニシャッド)の正しい修得というものに任せたのでしょう。
事実、原始経典にはヴェーダを讃える文句はあっても批判する言葉は皆無でしょう。
ゴータマの批判とは単に、真理に到達できず誤解を生じて慢心している
当時のバラモンたちの間違いを指摘したまでのこと。
>悟りにも救いにも全く関係無い、「神」や「真我」って、
>そりゃどういうことだよ。「適用外」にするってことはそういうことだ。
これらを扱う道は“正しいバラモン道”に任せたのでしょう。
誤解を生じるバラモンばかりが徘徊してる様をみたゴータマは
まったく異なる別の道を選択したまでのこと。
けれども、目指すべきゴールも結果も本当は同じ。
(ゴールできずにゴールしたと勘違いしているバラモンたちを見て、
ヴェーダそのものの間違いであると誤解しないことです)
〜これが、この私の仏教理解です。 というよりはゴータマ理解ということかな。 現在、伝わっている仏教というはそのものであるとはみていません。 この論文などは、従来いわれ続けてきた仏教観というものが、 如何に一面的な強調(バラモン教とは異なる仏教の独自性の意図的強調) に過ぎないものであったかを示す典型的なものでしょう。 無我の誤解をはじめ、従来の伝統的仏教観に対する批判的研究は これからますます深まっていくことになるでしょう。 伝統法門側というのは、保守派として頑なにこういうのを拒む立場を摂るものです。
『原始仏教聖典には数多くのウパニシャッド的表現をもって説かれる語句が存在する。韻文におい てbrahmanは最高の存在として説かれている。また世間一般においてbrahmanとbrahma^の両者を 区別なく同一視していたと思われる。「brahmaに達した人」や「brahmaになった者」は明らかに「悟っ た者」を意味しており、「brahmanの輪」「brahmanの道」「brahmanの乗り物」などの語句は悟りに導く 仏の教えを意味している。故に原始仏教聖典に説かれるbrahmanに関する語句を軽視すべきでは ない。多くの学者は原始仏教の独自性を見出したいがために、聖典の教えをバラモン教やウパニシ ャッドから切り離して考察しようという傾向が強く、たとえ、聖典の中にウパニシャッド的な表現を以っ て説かれる語句が存在したとしても、すぐに比喩的表現を用いた教えであると考え、それを釈尊の 説いた真理であるとは認めなかった。しかし、釈尊はバラモンであることを自称し、真のバラモンた る行為を説いていたのであり、そのような教えを聞いていた出家者、在家者においても、仏教とバラ
903 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 08:29:42.18 ID:jaM7A/0d
>>895 >すべてがテルマと感得という扱いで本当にいいのかはかなり疑問に感じます。
そりゃブーメランだて。ジャンの書を古代文献の寄せ集め・パクリと見なすか、
それらを含むより古い根源からの引用とみなすかの違い。
ぶっちゃけ信仰の違いでしかない。
>ヴェーダ/ウパニシャッドそのものに対する否定ではない。
>単に当時のバラモンたちの間違いを指摘したまで。
そのような但し書きはナッシング。
>これらを扱う道は“正しいバラモン道”に任せたのでしょう。
神我に触れなくてもいい、それなしでも救済は出来る。
と、いうのは、バラモン教・ヒンドゥー教の発想ですらない。
近代的な万教帰一的思考でしかない。各宗教には当人たちにとって
とても重要な違いがあるが、そんなの関係なく頑張ればどの信仰だろうと
真理にかすって結果オーライという。
一つの考え方としてはいいだろうが、古代人にそれを当てはめるのは陥穽だ。
>>897 それはふつうアートマンとは言わないよ
私であり、同時にあなたでもあり、また一切でありうるんだから
それらは混濁していて、境界が存在しないのだから
区分けすることが愚かしいでしょ
905 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 08:37:40.11 ID:gooSnVaC
>>897 >それは、
>「(あるものとしては)説かない」ということに過ぎない。
>アートマンについては一切には存在しないといえるだけであって、
>一切外については「無い」ということすらもできない。
>ただ無記があるだけです。--それがゴータマの摂る態度でしょう。
違うって、『梵網経』と二十見の否定をみればハッキリするでしょ。
>>898 >ヴェーダ/ウパニシャッドそのものに対する否定ではない。
>単に当時のバラモンたちの間違いを指摘したまで。
それも違う。だったら釈尊は『ヴェーダ』『ウパニシャッド』をなぜ聖典としないの?
『ヴェーダ』は基本呪術だぜ
『ウパニシャッド』は、きっちり『梵網経』と二十見で否定されてる。
そういう道をとらない、そういう道は解脱に至らないというのが釈尊以来の仏教の見方だ。
これを否定する人は、伝統仏教はもちろん文献学者でも稀だろう。
>>898 >本来のゴータマの教えとは違うものなのでしょうね。
そりゃ近代ヒンドゥーとか神智学に基づく君の妄想だろう。
>>901-902 こういう学者が言ってますじゃ、根拠にならないんだよね。
自分でテキスト読んで証拠だせないなら、主張できないって分かってくれよ。
906 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 08:39:11.72 ID:jaM7A/0d
梵行尼って言葉が今でもあるように、仏教における「梵」はブラフマンに限らない。 清いもの、聖なるものにも使われる。 ヒンドゥーでもアートマンはブラフマンに「なる」ものではない。不変不滅なんだし。
一切の認識主体と一切の中で私という自我をもつように迫られている主体の不一致こそ 魂と私の問題ではないだろうか
908 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 09:28:19.78 ID:gooSnVaC
>>907 その二つも魂も私も同じ仮設されたものでしょう。
一切は五蘊・十八界・十二処だよね。
その一切も、その認識主体も無我・空性だけど、世間の言い習わしのなかで主体とか、私とか、自我とか魂と言い習わされ仮設される。
だから、世間に従ってそのように主体とか、私とか、自我とか魂と仮設して言い習わすだけでしょう。
ここで言う仮設というのは、記号づけて表す、文節表象する、ラベリングするというような意味で無意識に行われます。
決して意図的に仮に設定するというような意味ではありません。
いや、現象論と存在論の相剋を言ってるわけで
910 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 09:43:35.72 ID:gooSnVaC
>>909 いや〜、仏教的にその二つは不可分だと思うよ。
なぜなら、無我・空性だから、「これあらば、これあり」というxは、認識されたものを言うけど、それがそのまま存在論で要するに実体のない幻の本質を仮設されるという意味ね。
西洋思想を前提にそれを分けて、なんらかの基体、実体を想定して仏典を読むと混乱すると思う。
違うと思うなら、教えてください。
>>910 仏教は現象論として私を一切の一部として扱うのでしょ
で、魂は一切のどこにも見当たらないと。
しかし、一切を一として扱うことがつまり魂なのではないの?
912 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 09:57:25.56 ID:gooSnVaC
>>911 違うでしょ。一切を魂と見るなら、それは仏教ではなくヒンドゥー以外の何者でもない。
アートマンとか言われるヤツで、それはキッチリ仏教では否定されるよ。
上に書いた通り。私も魂も世間の言い習わしに沿って名指すなら、五蘊やその一分を指す。
しかし、戯論寂滅へ導く時、私も魂もどこにも見当たらないと言われる。
この二つが世俗と勝義で、これをごっちゃにすると混乱して妄想するだけだと思うよ。
仏教ではてのは分かるよ で、一切そのものが魂ではないというのはどうやって否定されたの?
>>913 まず、
「魂」という日本語(漢字)での意味、概念を、古代インド語のどれに比定するかを決めないとw
話はそれからでしょ。
915 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 10:07:17.43 ID:gooSnVaC
いや、アートマンでいいよ、私が感じる一切が唯一私を根拠づけているのだから 一切そのものがアートマンでしょ
917 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 10:13:33.33 ID:gooSnVaC
>>914 いや、仏教はそういうソクラテス的に考えない。
確実な定義とかありえない。
記号が指す意味・対象は曖昧で大雑把な一致があるだけで、
そのすりあわせは対話の中で行われる。
記号が重要なのではなく、その記号が指す大体の意味・対象で話します。
魂に相当するのは、チッタ、ヴィジュニャーヤあたりで問題ないでしょう。
別に他の記号でも問題ない。問題なのはその文脈での用法で、記号が同じだからと言って意味・対象が必ず一致すると仏教では考えない。
といってもアビダルマとかゲルク、法相あたりは一義的な記号対象を想定しているようだけど、それは仏教の王道からの逸脱だと見る
918 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 10:13:44.09 ID:coPxaN56
よ〜わからんなwww 一切=魂 ?? 一切を「魂」という語彙で表記するわけ?
919 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 10:14:23.43 ID:gooSnVaC
920 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 10:17:00.82 ID:gooSnVaC
>>918 単純な話だよ。
現象と実在だ。
現象は多様で実在は唯一平等と考えるわけ。
現象は一切だけど、本当の実在はアートマンで唯一平等と考えるわけ。
三昧体験でそういう感じになるからね。
でも、それは違うというのが『梵網経』以来の仏教
921 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 10:17:58.03 ID:coPxaN56
>一切そのものがアートマンでしょ さらにわからんw 魂=アートマン なら、そういう言い回しはよくあるなw だが、 アートマン=一切 ?? これは何だ?w 結局、一元論に帰結させたいわけかな?ww
そう、一切が魂、神の顕現
923 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 10:26:42.07 ID:coPxaN56
つまり、根元たる一元を「魂」という語彙で表記したいと?w それは、お前さんの勝手だが、対話者には余計な混乱を与えるだけだと 思うぞww 通常、「魂」という語彙が支持するものは、「アートマン」のように 『個別性』を有するもの という意味合いが強いw それを一元的視点から、なんでもかんでも 「全てはひとつなんです。それを魂といいます。」と、やっても 「そりゃ、お前にとってはそうなんだろうよ。」で、終わってしまうと 思うが?ww
924 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 10:30:16.21 ID:coPxaN56
さらに、→「神の顕現」・・・・というような表現してるが、 これは何か超常的なものを設定しているのかな?絶対者のようなw それも、勿論、信仰としてはありだが、仏教とはまた、別物なのでは?ww
>>923 そうかな
仮にそうだとして、それは魂でないと否定できる証拠はないのか?それを聞きたいわけだが
>>917 >確実な定義とかありえない。
>大雑把な一致が
>その記号が指す大体の意味・対象で
そこへ辿り着くための >対話の中で行われる>すりあわせ 手段の一つが「語の対応関係」でしょ?
(翻訳(もっと言えば理解への道筋)ってのは、そこを通過せずにはありえんでしょ。)
また、貴方はcitta、viJJANaと言うが、jIvaという可能性もあり得るし、
或いは(付与される“力”としての要素という観点で)AyuやらvAtaやら或いはkammaであってもいいwwwww
(巷にはそういう思想や宗教が溢れてまんがなw)
(で、それらは、たかが記号されど記号であって、語が違うという分だけその指し示される概念にも差異があるわけでしょ。)
つまり、「肉体とは別の」「肉体を維持活動させる」「何ものか」というのが最低限の大筋で、
現に彼はattA(Atman)だと言っているしw
すり合わせ作業=対応語の比定でしょ。
で、そういうすり合わせとしての比定の一つに、
>>923 の「 >通常 >『個別性』を有するもの 」というものもあるだろうし。
927 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 10:47:41.65 ID:coPxaN56
>>925 >仮にそうだとして、それは魂でないと否定できる証拠はないのか?それを聞きたいわけだが
問題は、「それは魂でないと否定できる証拠はないのか?」・・・・このように
言われても、お前さんが『魂』という語彙で表記しているものの内容は? となるでしょw
通例、「魂」という語は「霊」などと同義で用いられ、
→身体とは異なる基体、死後も存続し、生前の人物との同一性を担保するもの
・・・・みたいな意味合いで使用されるわけだw
だから、「魂でないという証拠は?」と言われても、
「んじゃ、貴方が言う『魂』って何?」となってしまうぞwww
928 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 10:52:37.09 ID:gooSnVaC
>>926 もちろん対話は必要ですり合わせ、コンセンサスは重要だけど、
比定と言われるとついついソクラテスの亡霊が出ていそうで、
>>927 だから、死んだら魂はなくなるんだよ
一切が消えるとしたらね
930 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 10:54:25.66 ID:gooSnVaC
>>927 魂は表現できない。
そうなると「表現できないものを云々してもしょうがない、むしろそれは妄想」ってのが仏教の流れですね
ところで、五蘊の蘊て共有物なの?
932 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 10:57:24.11 ID:coPxaN56
>>929 >だから、死んだら魂はなくなるんだよ
>一切が消えるとしたらね
???? すまんが、何を言いたいのか? さっぱりだw
魂の死後存続の可能性の話がしたいわけでもなかろう?ww
一切とは私が認識するもののすべてのことだろう もし、私が認識するものが何もなくなったら、私の魂は死んだと言わざるを得ないのでは?
934 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 11:03:49.97 ID:coPxaN56
>>933 www
「私の魂・・・」
『私の』と言う冠をつけるには、前提として『私以外の』も認知していると
いうことか?www
それなら、『個々の』の魂があるというわけだw
魂=一切とは、ならんだろうが?www
>>934 仮定としておいているだけだよ
そのくらいの推理くらいできるでしょ
たとえば、月を見ているときは月は存在しているが
月を見ていないときは月は視覚的に存在していないと言える。
月を思っているときは、月は存在しているが
月を思っていないときは、月は意識的に存在していないと言える。
このように、一切は私が認識する一切であるから
私が認識していない間のあなたは(これは私が認識しようがないわけだが)
存在しているかもしれない。
しかし、私が認識しているあなたは、私の一切であり、わたしの魂にすぎない。
936 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 11:20:38.11 ID:coPxaN56
>>935 wwww なんだ、結局、隠居の言ってる「人間原理」のことかいww
そりゃ、確かに『その人にとっては』存在していないかもしれないが、
それで対象の実存が決定されるわけではないww
「月を見てない人にとっては、」 月は存在していないかもしれないが
それでも「月は存在しているの。」www
ある人が死んだら、「その人の世界は消滅するだろうが、」それでも
それ以後も「世界は存続する」でしょう?wwww
何辺んも言ったが、「実存に認識は必要条件とはならない」・・・・ということwww
べつに実存の話はしてないでしょ 私が認識する一切が魂だって言ってるだけで 私が一切をどのように認識してるかは問題にしてないよ あなたが月は見ていないところでも存在するという世界に生きているなら そのかぎりでそれはあなたの魂の一部というにすぎないよ
938 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 11:35:38.40 ID:coPxaN56
>>937 ????
つまり、
「ある個人の認識する世界・・・・これを『その人の』一切とする。
(ここで間違えちゃいけないのは、あくまでも「その人の」であって、
他者の一切ではないない・・・)
この「その人の」世界を「その人の」魂と表記する・・・・こういうことねwwww
なら、結局、
>>923 にもどるなww
「魂は通例、
>>927 のような意味合いに取られるわけだし、
『個人の認識する世界』を指して用いるなら、 「お前さんは、そういう意味で
言ってるのかもしれないけど、それじゃあ、対話者の誤解を招くだけだよ」
で終了だwwww
>>925 証拠?
アホかw 日本語の「魂」には、普遍包括的意味合いは無いぞw
923にあるように、あくまでも個別の「命(の素、元)」だよ。
強いて言えば、近似・類似した或いは血縁等系譜を近くする「魂」同士が融合した(させた)後にも
それを「魂」と称することはあり得るだろうが、それでも、普遍的に遍在包括するものではない筈。
940 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 11:46:40.18 ID:coPxaN56
「魂」・・・・・これも文脈によっては、様々な意味合いで用いられる。 例えば、 「お前の言動には『魂』ってもんがないんだよ。だから、相手がいつも傷つく。」 というような言い方をすれば、これは「誠意」あるいは「熱意」みたいな意味だ。 では、その文脈における解釈を抜きにして、(辞書的に)その総論的意味を 解すれば、→@「個人の成立する基体」・・その人を他者と分離して、 「そのひとたらしめているもの」 A霊などと同義で、身体とは別に設定される個人基体 ・・・・・まあ、こんなとこだろう?w 通常、個人の認識する世界観、もしくは世界そのものを支持して使用 されることはないわなww
>>914 セブン同意。ていうか、まずは逆かと。
インドでは、自己を示す語句は何でも「アートマン」呼ばわり。
だから、こちらからアートマンの使い方を意図によって区別する必要があり、
そのそれぞれをどの日本語に当て嵌めるかが重要です。
で、大きく分けて、以下の3つのアートマン存在を上げることができる。
1.単なる日常会話の自分(仏教の仮和合存在)としてのアートマン
2.輪廻主体としてのアートマン
3.ウバニシャッドがいう自己の本質で唯一なる実体としてのアートマン
942 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 11:50:49.60 ID:coPxaN56
(どうでもいいとは思うがww) 支持→指示 ねwww
そして、このそれぞれを以下とすると明確になる。 1.日常での「私」、普通の「自己」(仏教の仮和合存在) 2.「魂」、「識」(阿頼耶識/これも五蘊の一部) 3.「真我」(輪廻しない究極の本質自己) 仏教では1.と2.は、 その次元での存在は肯定して説かれている。 3.については無記です(存在しないとして否定されたという意見あり)。 そして今、話題として取り上げられているのは、 3.「真我」、ウパニシャッドの説く究極のアートマン存在についてですね。 また、議論において誤解されて困るポイントとしては、 「魂」は輪廻主体として仏教では認められているという点です。 ただし、これは恒常存在ではなく、当然、輪廻の終わりにおいて消滅する。 (輪廻終焉において仏教は「涅槃」を説き、ウパニシャッドは「真我」としての恒常アートマンを説く) ----以上
>>941 いや、「アートマン」をあーだこーだするならその通りだが、
今は、『彼の言う“魂”が、何を指し示そうとしたラベルなのか?』ってことだから。
(ちょうど一昔前の『隠居の言う“生命”とは?』ってのと同じ位相だよ。)
アートマンの語義が解っても(確定しても)、彼の言う「魂」とは関係ない。
彼が、
>>916 で自ら「 >アートマンでいいよ 」と言ったそこで初めて対応するわけで・・。
尤も、【○○でいいよ】という言い方には、若干の不本意さ(不正確さ)がつきまとうけれども・・・w
>>938 べつに意見が分かれることには不満はありませんよ
その人はその人の世界にいるのでしょうから
ただ、一切が魂ということが、否定される根拠は仏教にあるのかと聞いているだけです
946 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 11:58:56.48 ID:coPxaN56
www 宝珠、また来たwww おちょくって遊びたいとこだが、時間がないのでオチwwww (っていうか、この『基体』論は、いつか時期を見て、もう一度 きちんとまとめておきたいとこだな。 俺が最近、遊んでるスレでも、わけの分からんモヤモヤ〜〜〜〜とした 一元論をさも、わかってるぜ〜〜〜〜 ってな顔して語る奴が多くて 面白いwww 一代は、真っ向から毛嫌いしてるが、俺は「遊び大王」の見解も結構 楽しく読んでるぞ、最近はwwww 仏教としてどうか? は抜きにしてなwwww)
>>940 世界とはちがいますよ、外縁ではなく、一切を魂と言っているわけです
948 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 12:03:42.29 ID:coPxaN56
>>945 >ただ、一切が魂ということが、否定される根拠は仏教にあるのかと聞いているだけです
いや、だからねwww
お前さんの言う「魂」ってのが、通常の「魂」とは違う意味みたいだから、
答えようがないでしょ?
お前さんは、「一切=魂」というように、この「魂」という語義を定義して
しまったのなら、「お前さんの中では」、そりゃそうでしょう としか言えない。
でも、一般的な意味合いでは、「魂」というのはそう言う意味ではありませんよ とwww
仏教者として推論はできないのですか? 汎神論やモナド論、デカルト的な考え方なのでわりと一般的だと思うのですがね
950 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 12:14:05.44 ID:gooSnVaC
>>949 そういう実在論も虚無論も神秘主義もまとめて形式化されてキッチリ否定しているのが『梵網経』
『中論』『入中論』『中観荘厳論』『十住心論』チベットの諸宗義書もそう
で、どういう否定のされ方をされているの?
952 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 12:20:43.62 ID:gooSnVaC
>>951 そういう捉え方は解脱に至らない、楽をもたらさないと。
リンク先読んでね。
>>905 >だったら釈尊は『ヴェーダ』『ウパニシャッド』をなぜ聖典としないの?
>『ヴェーダ』は基本呪術だぜ
聖典信奉という姿勢をゴータマは摂らなかったからでしょう。
もちろん、ご自身の語った教えについてさえも同様で、
それを聖典信奉扱いすることには恐らく賛同されない可能性がある。
ヴェーダの記述すべてが正しいものである筈はありませんから(クリスチャンの聖書扱いがこれ)。
呪術祭祀は主に一般のためにあって、ゴータマはそのことを認められています。
解脱には無用ということ。
>>本来のゴータマの教えとは違うものなのでしょうね。
>
>そりゃ近代ヒンドゥーとか神智学に基づく君の妄想だろう。
学者の中にも同意見が幾つも出ています。
伝統とか定説とか常識というのは、いつの日にか覆されます。
いや、解脱は求めてないから、そういう魂の在り方が否定される論理を知りたい
>>946 >(っていうか、この『基体』論は、いつか時期を見て、もう一度
>きちんとまとめておきたいとこだな。
これは論決済みです。
輪廻する基体としての「魂」を認めると「無我」に抵触するなどというのは基本的な無知で、
ただ、わかってない人だけが議論を続けているだけのこと。
輪廻する魂を認めない業論や業論そのものの否定など・・・。
輪廻する魂存在すらも無我(本当は「非我」で“アートマンではない”という意)というのが仏教。
この部分までなら、一代も概ね私と同意して頂けるかと?
よって、納得できないなら専門家である一代に聞いてwww
>>952 え?それって順序が逆じゃん。
正しいからそれを信じるんじゃなくて
信じたら得だから信じるの?
>>903 >一つの考え方としてはいいだろうが、古代人にそれを当てはめるのは陥穽だ。
説かれたのは“完成者である仏陀”ですよ
(バラモン・ヒンドゥーの成就者もほぼ準ずる完成者と私は見なすが・・・)。
そして、
仏教以外はすべて完成への道ではない(仏教だけが唯一なる真理)
という偏狭的な姿勢に対しては、私からは以下の言葉を遅らせていただく。
『かれらは自己の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何人を愚人であると見ることができようぞ。
他の説を、愚かである、不浄の教えであると説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。』
(Sn.893)
『或る人々が「最上のもの」だと称する教えを、他の人々は「賤劣なもの」であると称する。これらのう
ちで、どれが真実の説であるのか。かれらはすべて自分らこそ真理に達したものであると称しているの
であるが、かれらは自分の教えを完全であると称して、他人の教えを賤劣であるという。かれらはこの
ように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を真理であると説く。もしも他人に
非難されているが故に、賤劣なのであるというならば、諸の教えのうちで勝れたものは一つもないこと
になろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからで
ある。』(Sn.903-905)
>>953 >聖典信奉という姿勢をゴータマは摂らなかったからでしょう。
>もちろん、ご自身の語った教えについてさえも同様で、
>それを聖典信奉扱いすることには恐らく賛同されない可能性がある。
ご自身のことすらも導師(グル)であるという自覚を持たなかったのがゴータマであり、
最後の説法においても、導師(グル)を立ててそれに追従するようには言わなかった。
恐らくゴータマにとり、まったく望まれない手法と姿勢とがこれでしょう。
師がいうから・・・正しい
聖典の記述にこうあるから・・・正しい
という追従姿勢はゴータマの望むものではない、と。
これらは師が間違ったら終わり。
聖典に誤記が挿入されたら終わりになるものであり、
すべての諸宗教がこの手法で間違った。
であるから、
ゴータマは自己(真理と照らして自己確認しながら)を拠り所とすることを最後の教えとした。
宗教が苦労とか不幸を救うものであるなら 学校とか仕事とか生活もあるので 苦労せずポイントを押さえてなるべく簡単に覚えられるほうがいい。 自業自得は昔の話で他人の不幸を支えるのは今や社会全体ですし。 脳のトレーニングをしたいなら○は●であると可能な限り遠まわし かつ難解に書かれている哲学の本でも読んだらいい。
>>959 仏教を複雑難解なものにしたのは、後代の弟子らや研究者たち。
本来は解りやすくてシンプルなものだったでしょう。
今でも、
一般向けに対する言葉は平易で有益なものですよ。
961 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 15:40:47.52 ID:coPxaN56
>>955 >これは論決済みです。
論結してねえよ、バカタレがwwwww
オメエの頭の中では決着してるんだろうがなwwww
今生きていて伝える側にいるけど、なぜそうしなければならないのか知らず ただ習慣でやっている無意味なことも多い気がする
963 :
自由とは ◆Nehan/VAUo :2012/09/15(土) 18:55:32.09 ID:gjZmOiqr
>>956 いいがかりだが、正しいこと、証明されてることは信じなくてもいい
知ってるんだからw
自分の直感でしかない・・・おれもあんたもなあ
965 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 20:35:15.35 ID:gooSnVaC
>>956 それが正しいかどうか凡夫には分からないよ。
要するに信じるか信じないかしかない。
仏教ではそうなってる。再現性がある。オイラは信じる。
アナタが信じるか信じないかはアナタ次第だ。
ここでは仏教のテキストでどう説かれているか、その中で記述の妥当性を話しているのであって、
仏教自体の正誤なんてことはオイラに扱えるわけがない。
966 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 22:05:02.23 ID:UX4Olmdt
>>957 >説かれたのは“完成者である仏陀”ですよ
問題点がいくつかある。
@仏陀、とは言うなれば自称(と信者による賞賛)に過ぎない。
A仮に本物の悟った人であっても、世俗的近代人の好みの考え方をしている保障は皆無。現状では願望の投影に過ぎない。
B悟った人でなくても同様。
>という偏狭的な姿勢に対しては、私からは以下の言葉を遅らせていただく。
相手の宗教を正しい、と言っているわけではない。
と、いうのも相手が信じる物を真理そのものではないとする事と、
それを一つの思想・実践として尊重・評価すること、
それを行う人々を尊敬することは矛盾しないからだ。
世界宗教者会議でわざわざムスリムがクリスチャンにイーサー(イエス)は十字架にかかってないし、
週末の時にはむしろ十字架ぶっ壊すんだよ。とか、ゾロアスター教徒がヒンドゥー教徒に
お前らの信じるデーヴァ(神々)はダエーワ(悪魔)なんだよ。とか言うだろうか?
『第2バチカン公会議 公文書全集』では、ヒンドゥー教の神話をすばらしいものとして賞賛する文面があった。
もちろんカトリックがヒンドゥーを真理とみなしているわけではない。
967 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 22:15:28.35 ID:UX4Olmdt
釈迦のスタンスとして、ガチで喧嘩を売られない限り、 外部の人間をそこまでクソ扱いはしない。 ちなみにガチで喧嘩を売られた時のカウンターは『阿摩晝経』に書いてある。
968 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 22:21:14.38 ID:UX4Olmdt
>>958 自分のサイトに置いてる「ご隠居の自灯明・法灯明ループについて」を読み直したほうがいいと思う。
西遊記もありがたいお経を取りに行くまでの苦労話で 持ち帰ってどうなったのかは書かれていない。
970 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 22:30:32.37 ID:gooSnVaC
>>969 >西遊記もありがたいお経を取りに行くまでの苦労話で
「も」って何を含む、あるいは類比してるのよ?
西遊記は、仏教と本質的に関係ない冒険物語ですから、比較されても
仏教ネタの長編娯楽。書いた人は仏典は読んでないかもしれないけど キャラクターの個性を出して話を広げてる。 仏陀の人物像について書かれているものもそうかもしれない。 それについてまったくのでたらめであると否定する人もあまりいない
972 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 22:38:38.92 ID:UX4Olmdt
師につかなければ出来ないことってけっこう多いよな。 芸事とか、職人とか、医者とか、高度なスキルと精妙さが要求される分野では特にそう。 師が間違ったらかなりヤバイことになるものも。
973 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 23:01:50.68 ID:UX4Olmdt
医者の場合、トンデモ思想吹き込まれたら弟子が人を殺す結果になるかもしれない。 育てきれず、技能不足で患者を追い込むかもしれない。 職人、建物や乗り物の部分・部品にミスが生じれば、それが原因で人が死ぬかもしれない。 師が間違ったら、終わり、というのは合っている。 でも他にやりようがない。それこそ優れた人間しか出来なくなり、門戸が狭まることになる。 行をやるということは精神変性を迎える瞬間があると思われるが、 師についていなければ、三昧ヤッホーイな魔境を止めてくれる人はいない。 魔境であると自分で識別できるのかも怪しいのではないか。
974 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 23:29:39.90 ID:gooSnVaC
>>966 >『第2バチカン公会議 公文書全集』では、ヒンドゥー教の神話をすばらしいものとして賞賛する文面があった。
>もちろんカトリックがヒンドゥーを真理とみなしているわけではない。
そういうのは、
キリスト教後代の信徒らの態度にしか過ぎない。
イエス御自身であったなら、もっと異なるものになるでしょうね。
もちろん、ヒンドゥーも真理の側面を捉えた素晴らしいものとして示すでしょう
(迷信を多大に含む広大な宗教にて全部ではないが・・・)。
もしもイエス、ヒンドゥー究極のアヴァーラ方(レベル範囲が広いので)、
そしてゴータマらが一同に集えば、お互いを最も良き理解者として
時には酒を交わしながら双方を讃え合うことでしょう(飲酒は×かw)。
“自分の宗教だけが唯一なる真理” などという意識が最も低レベルの意識でしょう。 それは、 伝統カトリックの殺人の歴史に然り、 イスラム原理主義に然り、 神と契約を交わした自分らだけしか救われないという偏狭民族のユダヤ教然り、 他宗の仏壇を燃やす排他的攻撃性の日蓮/創価然り、 その他、殆ど大勢の新興諸宗教に然り。 究極のレベルではゴールは同じ。 究極の大師方同士では、異なる宗教でも互いの意識を共有する。 どの時代でも分かり合えないのは、常に弟子のレベルにしか過ぎない。
977 :
一 :2012/09/16(日) 09:12:40.43 ID:hHyoXWES
>>943 宝珠氏
>3.「真我」、ウパニシャッドの説く究極のアートマン存在についてですね。
釈尊が「一切皆苦」と説いた際には「一切」は仏は含まれない。
仏は無量寿で「不去不来」、「不生不滅」だが、相互依存する有為法の「空」とは同じとは説かれてないでしょう。
法華経の「全ての仏子はやがて仏となり得る」が正しいのであれば、仏子(人)も有為法と無為法とのハブリッドかと。
仏子の内の無為法が「真我」かも知れないと仮設しております。
余談ですが、イエスもまた「神の国は人の内にある(within you)」と説かれてます。
978 :
神も仏も名無しさん :2012/09/16(日) 10:09:25.19 ID:VeVMOcKR
>>977 >イエスもまた「神の国は人の内にある(within you)」と説かれてます。
そのイエスが、「神の国は近づいた。悔い改めよ」などと大騒ぎしているのは
滑稽極まりない。
979 :
神も仏も名無しさん :2012/09/16(日) 11:57:13.70 ID:hT0yGWii
>>978 はいはいわろすわろす
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・)
\_っ⌒/⌒c
⌒ ⌒
(´〉ω〈`)「非有非無そして非空」黒豆食いの老和尚でいいっす俺は…
>>977 >法華経の「全ての仏子はやがて仏となり得る」が正しいのであれば、
すみませんが、
この私は大乗諸教は仏典とはまったく見なしていないので、
そこに何が書かれてあろうとも仏教としての価値としては認めていません。
特に『法華経』というのは、上座部の教えに反旗を翻し彼らと対峙するものとして書かれたものであっ
て、その中では、勝手にサーリプッタを登場させて「これまでの自分達が最高の悟りだとして聞いていた
教えは小乗のものでした。」などと誤らせたり、ゴータマ御自身に、「これまで説いたのは小乗(方便とし
て)の教えだったが、期が熟した今から本当の大乗の教えを説こう。」などと言わせたりと、実に手の込
んだデタラメなフィクション(意図的な作り話)を盛り込んだりして、あまりにもトンデモナイことを遣らかし
てきた経典なので、そういう意味でもゴータマからは最も遠く離れた位置にあるものです。
大乗がその歴史的経緯の反省点から、原始経典の菩提分法に回帰することを志向し始めようとあれ
これ模索するようになるのは、更に遙か後代の大乗です(後期大乗/密教の中にはそれが見られる)。
当時のシナ(中国)に続々と大量に流入してくる大乗経典群に一定の優劣をつける必要に迫られ、『法 華経』にあるこれらの記述を鵜呑みにしたシナの天台大師/智によって打ち立てられた教相判尺/五 時八教の発令によって、完全に『法華経』の優位性が確立して、このレッテルと権威的伝統と共に伝来し たのが日本のシナ仏教というもの。 以降、近代仏教学の成果が明るみになるまでこれは永遠と続いてきたのです。初期大乗の二大看板、 『阿弥陀経』も絶対他力などというゴータマが最もしてはいけないこととして戒められていたことを柱とし ているので、まったく仏教ではありません。 このように、この私が大乗マンセーとしないのは明確な理由があります。何でも“テルマだの感得”だと といったご都合主義には興味なし。
(´〉ω〈`)「あなたが大乗否定するのは勝手…でも信仰してる人を傷つける権利はありません」
(´〉ω〈`)「上座部と大乗は互いに絶対譲歩はしないとすでにこの問題は解決済みですので…」
985 :
一 :2012/09/16(日) 17:10:33.04 ID:hHyoXWES
>>978 >そのイエスが、「神の国は近づいた。悔い改めよ」などと大騒ぎしているのは滑稽極まりない。
そうですね。仏教は原始仏教に、キリスト教は原始キリスト教に回帰する時期ですね。
(トマスの福音書 3)
イエスは言われた。「あなたがたを惑わす者たちが[見よ、神の国は天にある]
あなたがたに言うならば、空の鳥があなたがたより先にそこにいるであろう。
彼らが[それは海にある]とあなたがたに言うならば、魚があなたがたより先
にそこにいるであろう。
しかし神の国はあなたがたの中にある。そして、外にもある。あなたがたは、
自分自身を知るならば、知られるであろう。そして、自分が生ける父の子らで
あることを知るであろう。しかしあなたがたは、自分自身を知らないならば、
貧困の中にいるのだ。そしてあなたがた自身が貧困なのだ」。
(50)
イエスは言われた。「人々があなたがたに[どこから来たのか]と尋ねるならば、
こう言いなさい。[私達は光から来た。光が自ら生ずる場所から。それは立って
彼らの像において現れた]。
(´〉ω〈`)「原理主義回帰の誘導…バレバレですよ…」
(´〉ω〈`)「イエスがどうの、シャーリプトラが道化にされただの、正直どうでもいい」
>>983 勝手デタラメ好き放題をしたのは大乗グループ。
その他の誰のせいでもありませんから。
大乗各派は信者離れが怖くて隠したがるのか?
私はただ(仏教学上の)事実を公にしてるだけです
(そして、これを敢えて公にします)。
もしも、本当に誠意があるのならば大乗各派の寺院は事実を自ら公にして、
その上で更に信仰の価値があることを信徒に示してそれを問うべきです。
意図的に隠そうとするのは不誠実です(隠そうとしているわけではない寺院も増えつつあるが・・・)。
仏陀ゴータマに泥を塗ることをしてきたのが大乗。
私は悪口を述べているのではなくて、その事実を明らかにしているまでのこと。
かつては原始経典研究をしていることがバレたけで、
法門を破門してメシの食えない僧侶にし、これを見せしめとしてきたのが大乗
(歴史の事実)。
990 :
(´〉ω〈`) :2012/09/16(日) 18:47:37.91 ID:+GG0x/yZ
(´〉ω〈`)ああ、そういう事実の暴露はいいんでないかい?反対しませんよ。法華経だけが大乗ではないですしおすし
991 :
(´〉ω〈`) :2012/09/16(日) 18:51:35.32 ID:+GG0x/yZ
(´〉ω〈`)でも大乗では悟れないなんて妄言は止めましょう。唯識系でもアサンガなど弥勒系の覚者はいたわけで、そういう方々が釈迦に泥を塗ったとは言えませんでしょ?
992 :
神も仏も名無しさん :2012/09/16(日) 20:08:52.84 ID:rG25ZwHz
法華経はこれまで一番読まれてきた経典と言われています。 人それぞれの生命に無限の可能性があるのだと、 そう言うことを顕された経典ですね。
993 :
神も仏も名無しさん :2012/09/16(日) 21:14:54.26 ID:dSl1Zp66
>唯識系でもアサンガなど弥勒系の覚者はいたわけで アサンガが覚者とか言っているのは誰? 単なる身内びいきでしょ?
995 :
神も仏も名無しさん :2012/09/16(日) 21:38:49.00 ID:aX3AOW3N
>>975 >そういうのは、キリスト教後代の信徒らの態度にしか過ぎない。
何の問題もない。
「相手が信じる物を真理そのものではないとする事と、 それを一つの思想・実践として尊重・評価すること、
それを行う人々を尊敬することは矛盾しない」の例として挙げてるだけだから
千年後だろうが一万年後だろうが十万年後のクリスチャンの態度であろうと問題ない。
その下の願望の開陳部分には何の意味があるのだろう。
>>975 >“自分の宗教だけが唯一なる真理”
>などという意識が最も低レベルの意識でしょう。
それは単なる好悪の感情に過ぎないって。ズバリあなたの好み。
目ざわりか目障りでないか、ウザいかウザくないか。
好感を持てるかどうか、というレベルにとどめて置けばいいのに、
真理かどうか、ってところの判定まで飛んでしまう。
996 :
神も仏も名無しさん :2012/09/17(月) 17:29:56.00 ID:fH//wlr3
梅干
997 :
神も仏も名無しさん :2012/09/17(月) 17:30:38.15 ID:fH//wlr3
梅酢
998 :
神も仏も名無しさん :2012/09/17(月) 18:44:47.78 ID:8ySLylYR
涅槃寂静
999 :
神も仏も名無しさん :2012/09/17(月) 18:45:36.12 ID:8ySLylYR
〇〇〇〇〇
1000 :
神も仏も名無しさん :2012/09/17(月) 18:46:32.91 ID:8ySLylYR
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1001 :
1001 :
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