ラマナ・マハルシ等【不二一元論】アドヴァイタ総合5
1 :
神も仏も名無しさん :
2012/08/07(火) 00:47:31.15 ID:jX6Unakd インド古典のヴェーダやウパニシャッドから発展した、インド哲学の
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(純粋不二一元論)の分野について、
難しい言葉の議論でなく、むしろ瞑想や体験など実践的な視点で
結局‘真我探求’って何?とか、本当に‘梵我一如’を会得できるの?
とかを、初心者〜覚者の分け隔てなく、自由に語りあおうという主旨の
「アドヴァイタ関連・雑談その他なんでもOK」の総合スレです。
関連リンクや関連書籍など
>>2-10 あたりをどぞー (自由な追加も歓迎)
前スレ
ラマナ・マハルシ等【不二一元論】アドヴァイタ総合4
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1340113480/
2 :
神も仏も名無しさん :2012/08/07(火) 00:48:54.90 ID:jX6Unakd
3 :
神も仏も名無しさん :2012/08/07(火) 00:49:26.65 ID:jX6Unakd
4 :
神も仏も名無しさん :2012/08/07(火) 00:49:59.25 ID:jX6Unakd
5 :
神も仏も名無しさん :2012/08/07(火) 01:08:38.00 ID:jX6Unakd
6 :
神も仏も名無しさん :2012/08/07(火) 01:57:01.27 ID:N7GzKJVk
72 :地震雷火事名無し(dion軍):2012/08/06(月) 19:28:35.69 ID:c6WtSkrk0
今日、死の灰?が降ったとか言われてるけど
これなんなの?
http://www.youtube.com/results?search=tag&search_query=fuku1long12080413 82 :地震雷火事名無し(千葉県):2012/08/06(月) 21:13:00.67 ID:7ogQS5QD0
>【真偽不明につき扱い注意】 4号炉が先日の解体で、配管まで全て壊してしまい、
>全く冷却が出来ない状態になってます。
>どうして勝手に4号炉を解体したのかは東電内でも不明)
>僅かに残った燃料プールの水も全て蒸発、
>原子炉も冷却できない状態になってます。 (MIXIニニギ氏情報)】
そういえば1日のデマッターでこんなのが流れてたけど、
この間の爆発と何か関係あるのかな。
7 :
神も仏も名無しさん :2012/08/09(木) 00:56:15.66 ID:S1ouH6E6
私の感覚はどこにあるか?の議論は興味深いね。自分もはじめは少し迷った。 「これのような感じがするがほんとにいいのか?」って、結局本当に厳密に言えば 私の中心って存在しないんだと思う。ただし肉体感覚中でやはり胸に感じる感覚 が「相対的、主観的に」私感が最も強い、だからそれを見つけて中心だって 思い込んじゃえばそれでいいんではなかろうか?
迷いとか思い込みとか、そんな感覚なの?
9 :
神も仏も名無しさん :2012/08/09(木) 04:06:04.33 ID:S1ouH6E6
自分はそうだったね。マハリシの本読んでも胸のところにあるでしょ?分からんのか? みたいにしか書いてないね。胸の右か左かについては忘れなさい。とも書いてあったな。 これかな?と思うものを素直に断定しちゃえばいいだよ、きっと。 だってそれも結局ただの肉体感覚にすぎず、本当は「私」の本体ではありえない。 知性や感性が「私」という幻影を重ねてるにすぎないわけでしょう?
その知性や感性は誰のもの?って話でしょうね…。
自分にとっては一番はっとした時にわたしを感じるのは、 目の内側というか、両目が窓になっていて、その内側が私だということに気づくというか。
前スレがまだ残っていますので、そちらを消費してから移行してください。
前スレ >意識が静かで明晰なら大丈夫。 瞑想が深まっても意識は最後まで明晰なのですか? 明晰というのはハッキリとした認識があるということですよね 瞑想が深まると、眠いということではなく、主体や客体という認識があやふやになってきますが、 そうではなく自分の状態などハッキリと認識したまま深まるということでしょうか
初書き込みです 皆さん、瞑想って具体的にどのように行なっていますか? 禅宗みたいに、座禅を組んで心を落ち着かせる見たいなものですか? 教えてください。
16 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 21:24:04.30 ID:IdgGLjdH
俺も瞑想ってなんなのか、どういうふうにやるのか わからない。 俺がたまにやるのは、永遠の「今」を意識するために 今息を吸っている、今息を吸っている、今息を吸っている 今息はいている、今息はいているとなるべく瞬間瞬間に 意識しながら、呼吸以外のことはなるべく考えないように しているってのをやっているけど これは瞑想ではないのかな。何も考えないってのは 俺には出来ない。なるべく呼吸のことだけ考えるように すれば、いや、それでも雑念はでるが、まあ あまり他のことは考えないようにはできる。 なにも考えない、思わない、なんて、出来るヤツいるのか??
初心者にとってやりやすいのは、ヨガナンダが教えていたホーン・ソーか、 サイババが教えていたソー・ハムかな。これ表裏の関係にあるんだけどね。 ホーン・ソー行について簡単に説明すると…、 ホーンという音を想いながら額の第三の目のあたりからエネルギーが入ってきて 松果体〜脳下垂体〜延髄を経由して背骨を降りて行き尾てい骨に達する。 これを鼻から息を吸いながらイメージでやる。 次に口から息を吐きながら、尾てい骨まで降ろしたエネルギーが今度は背骨の内部を上昇していき 息を吸う時とは逆のルートで最後は第三の目から外に出て行くとイメージする。 この時、ソーという音を意識する。あくまで意識するだけで実際にそれを唱える必要はない。 これを繰り返していると眼前に白い小さな光の点がいずれ見えてくるようになる。 まあ、これはアドヴァイタとは何の関係もないけどねw
あっ忘れてた。ホーン・ソーの続き。 息を吸い込んでエネルギー(あくまでイメージ)が尾てい骨まで来たら 肛門をギュッと締め上げるようにする。 そしてエネルギーを今度は逆のルートで上昇させ始める時に それを緩めるようにする。 そして吸気が終わった時(エネルギーが尾てい骨に達した時)、 呼気が終わった時(エネルギーを第三の目から出しきった時)、 その呼吸の入れ替わりの境目に注目する。一瞬呼吸が止まる。 そこに意図的な瞑想から自動的な瞑想へ移行する鍵がある。 瞑想はずっとやり続けなければならないものではなく、 いずれ瞑想が勝手に起こるようになればもはやそれを行ずる必要はなくなる。 以上、単なる受け売りです。 でも団体によってはこれでさえ秘伝とされている。 本当はどのような瞑想法であれ指導者について実習するべきです。 我流でやるのは極めて危険なのでやめましょう。
19 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 22:32:39.31 ID:wLyOszrW
ラマナの私は誰か?が一番やり易いんではなかろうか?やり方は本にある通り、
だが
>>15 さんは初心者さんだっていうから誰か解説してあげれば?
20 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 22:38:54.91 ID:wLyOszrW
21 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 23:02:25.86 ID:wLyOszrW
瞑想中の認識力についていろいろ意見が出てるみたいだけど、関連して自分が いまだによく分からないのはラマナがいうlayaというやつ。瞑想は想念のない 空なる心を求めるものだと思うが、一方でラマナは瞑想中に現れる空白状態laya のなかに落ち込んではいけない、と言う。ここが何度彼の本を読んでも分からない。 瞑想の無心状態とlayaの違いとはいったいなんぞや?
みなさんありがとうございます。 瞑想やヨガって言うのは、我流では無くて、師が不可欠と言うのは、どの本にも書かれていますが。 一体何が、どう危険なんでしょう。このことは、どの本もはぐらかしていて、はっきりしません。 逆に気になってしまいます。まあ、おそらくほんとにやらないほうがいいんだとおもいますけど・・・
>一体何が、どう危険なんでしょう。このことは、どの本もはぐらかしていて、はっきりしません。 ありふれたところでは「気が狂う」らしい。しかも自分では「オレは完全に正気だ」と思う、とかw いわゆる「狂人、おのれの狂を知らず」
>>22 普通の瞑想してる範囲なら平気だと思うけど、瞑想もいろいろ種類があるし
自己洗脳になったり、余計妄想や我を強めたりしちゃうケースもあるだろうね
修行者にとって瞑想で現れる状態は未知のものだからそれがどういうものか判断つかないのが普通だし
それを本などを参考にしても、しょせん主観だから自分の体験を勝手な解釈で当てはめがちだったり
そういうあたりで、経験者である指導者のコメントが重要になるんじゃない?
まあ危険って言っても、瞑想で危険になるような人は、心にそういう因子を持ってるからだし、
瞑想しなくても、遅かれ早かれ同じようなことになると思うけど
自分をちゃんと見つめながら瞑想していける人なら、特に危険はないと思うよ
妄信しやすいような人や自我が過剰な人なんかは危険なこともあるのかもね
グルってほんとなかなか見つからないよね ヨーガの先生位なら、何処の街にもいると思うけどさ
27 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 00:55:54.34 ID:ZIDfofAp
>>24 ナルホド…二つの哲学的違いはだいたい分かった。しかし、修練者は心の完全な死滅を達成
していないんだから、一時的な休止をするしかないよね。ラマナのいうlayaに落ちるだけの
無意味な瞑想とは何だ?俺がやってるのもそうなんだろうか?
>>27 あなたのやってる瞑想の状態はわからないけど、
一時的な休止はただの一時的な休止で、今までとかわらないことであって、
もし、一時的な休止を今までとは別の状態、特別なこととみなすなら、
それは、区別と同一化してる、区別してる自分と同一化してるだけの状態だろうね
ただの一時的な休止(変化の中にある一状態)を特別と思って、それに執着してるだけじゃないかな
一時的な休止も特別なことだと思わず、そういうような現れる状態も、何も、同一視しないように、
修練していけばいいんじゃない?
あなたの状態がそうなのかどうなのかは、あなたじゃないからわからないけどね
29 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 02:20:59.67 ID:ZIDfofAp
>>28 ふうむ…それだと瞑想はまったく無意味、という事になるね。瞑想中何が起きても
(究極の状態以外は)一時的な状態でそれに執着してるわけだから。
宮元啓一さんの、インドの一元論哲学を読むを読んでるんだけど カントの統覚とか、世界外存在(おそらくハイデガーを意識してる?)とか 西洋哲学の理解が色々怪しいのだけれど・・・ 宮元啓一さんは、この手の専門家だから愚問かもしれませんが この本信用に足りますかね?
>>29 いや、執着(同一視)なく瞑想すればいいだけじゃないの?
心と体が瞑想に向かうならそうさせるだけで
瞑想が無意味なら瞑想しないっていうなら、意味を求めて瞑想していることになっちゃうだろうし
修練の過程で有意味とか無意味とか判断するのもよくわからないけど
そういうのは瞑想を特別なものだと思うからじゃないのかな
瞑想もそういうカタチの日常の一部だし、日常も状態に応じて瞑想だし、明確な区別はないと思うよ
日常でも様々な状態が現れているわけだし
瞑想でも日常でも、そこに同一視(執着)があるかないかだけじゃないかな
32 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 02:43:18.25 ID:ZIDfofAp
>>31 なるほどね…ラマナはなんらかの同一視、執着のある空白状態をlayaと言っている。
という理解か。
>>32 いや、layaがよくないのじゃなく、layaになったときlayaに執着(同一視)するのがよくないと言ってるのだと思うよ
layaになったときもlayaへの執着(同一視)がなくなったら、意識としてはlayaもそれ以外も区別なく、より同一視のない状態になるんじゃない?
34 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 06:19:27.15 ID:YZt1uPre
「あなたは思いが静まったときに経験されるlayaの楽しみに満足してとどまってはいけません。 すべての二元性が止むまで進まねばなりません。」 ラーマナ・マハルシ layaは瞑想が進んでいる指標であるけど、そこに留まってはいけない、みたいな 話しもありました。
35 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 23:13:56.41 ID:ZIDfofAp
なるほど…よりわかり易い、それがゴールだと錯覚してはいけない、という事か。 心理的にもっと高い所を想定して進まないと瞑想の進歩は止まってしまうんだね。 laya自体は瞑想の進歩とともに当然出てくるもので悪いものではないと考えればいいのか。 確かに自分もlayaの中に心が浮かんでいるような感覚、つまり、layaと心の二元論的感覚だな、いまだ。
ソギャル・リンポチェの本にも書いてあった 瞑想中 「ああ、来ました、とうとう・・・」 「そうか、それは良かった。だが執着してはいけない。 つまるところ、それは良いものでも悪いものでもないのだ」 チベット密教では、すべては無常であり、「境地」すら来ては去っていくものだとのこと。
体験は、それ自体は瞑想が上手くいっている1つの道しるべ。 だがそれを「悟り」と勘違いしないように魔境と呼んで警戒したりも。 でも、神秘体験は「ただの体験」。絶対的なものと思ったり、逆にことさらに嫌悪して遠ざけるのも同じ執着。
>>37 確かに、それはオウムがやった過ちと同じだな
体験=解脱と勘違いした
39 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 21:57:05.07 ID:QQ1HbG/2
いや、勉強になった、ありがとう。瞑想中の心的態度もより良い方にかわっった様に思える。 しかし、何らかの変化が現れたら多少喜ぶ事許されるべきだと思うな。でないと瞑想なんて 続かないし、2CHの情報交換だって「それは誰に現れたんだ?」というコメで全部が埋まるだけで無意味になっちゃう。
喜ぶのは喜びとして、いいことでいいんじゃない? 心に喜びが生じてるだけで、それに執着しなければ 喜びを求めて行為や瞑想したり、喜びを続かせようとするのは、喜びと喜びでないものの 比較(2元性)からくる執着だろうけど 喜びであれなんであれ、心に生じるものは、ただ心に生じてるだけだから、 心の範囲において、いいこと、でいいと思うよ
41 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 22:24:47.47 ID:QQ1HbG/2
>>22 瞑想の危険って瞑想の進展とともに現れる何らかの境地や、超能力的なものを
なにか自分が超人にでもなったかの様に思い違いをしてしまう事のみじゃなかろうか?
それこそ浅原みたいに。あとは宗教組織が組織維持のために強調している側面も
否定できないと思うな。
>>41 そういう増上慢的な落とし穴も深い危険性だと認識してる上で、敢えて付け足し。
それだけではなく、実際に瞑想で極度のウツになり、日常生活に破綻をきたして
精神科医にかかった人を何人か知ってる。そういう人に直接会った。
皆、感受性が高く、急激に深い瞑想に入った人たちだった。
ちゃんとした瞑想の師はいなかったと言ってた。
みな、1年以上苦しんでたね。
どんな人の潜在意識の層にも魔境的なものは存在するが、ウツは手強い。
やはり対処できる師についたほうがいい。
対処できる師についていて、サダナ中にひどいウツになった人がいたが、
医者に行かずに半年くらいで回復した。
師にはどうやったら出会えるのかな。 できればそれがいいと思うんだが・・・なかなか機会が。
下半身の柔軟性も精神に影響するよ 太ももの裏側が第二の心臓と呼ばれてるけど リンパの流れを送りこむ箇所だからね もちろん足裏もだけど ツボを刺激するといいから 凸凹の木製のやつにのるといいよ 昨日の夜バランスボールにのって筋肉のスジ(特に下半身)をゴムに押し付けるようにしてやったけど ヨガや呼吸法はリラックスして脱力状態(食後にうんこした後)でやらないと多少危険。 気が頭に上がりすぎて頭痛がしてくるときもある。…吸う息を適当 吐く息をなが―く クリシュナムルティもハタヨガはやってたみたいだしね スレチ すまそ。
柔軟は俺も大事だと思うよ 普通の人は、本人はそれを普通と思ってるけど、 身体の乱れが脳や精神に刺激(情報)を出し続けてる状態だから、 脳や精神はそれらに常に反応してて、 いくら脳や精神を整えようとしてもなかなか整わない 最初にそういう余分なものをおさめておくのはいいことだと思う 柔軟だとか菜食だとか小食(断食)だとか、無理じゃなければやっていくといいよね 頭痛は、気もあるかもしれないけど、頭の筋肉もあると思う 頭を手でよく揉みほぐすのもいいと思うよ
>>14 遅レスですいません
>瞑想が深まっても意識は最後まで明晰なのですか?
『想念を制御している間、意識をはっきりさせておくことが重要です。
さもないと眠りに誘われいくことでしょう。プラーナーヤーマのあと
プラティヤハーラ、ダーラナ、ディヤーナ、サマディについてさえ
強調して指摘されてるように、意識をはっきりさせておくことが主要な
要因です。』
(ラマナ・マハルシ『不滅の意識』第3章 瞑想の修練 105Pより抜粋)
>瞑想が深まると、眠いということではなく、主体や客体という認識があやふやになってきますが、
そのあやふやになるのは「主体と客体の区別」であって、
意識自体があやふやにはならないですよね。
意識があやふやなら、“主体や客体という認識があやふやになってくる”こともよく認識できないわけで。
>>37 神秘体験に類似するものは脳卒中だかになったときにもおこるらしい
ジルボルトテイラーという脳学者が体験している
どっちか忘れたがたしか左脳が機能不全になったとき、私と他の境界がなくなり、至福状態になったそうだ
自他の境界が曖昧になるという感覚は俺も体験したことがあるが、両脳は働いていたので、不健康にならずとも体験はできる
体験だけなら脳を止めれば誰でもできるが、それは非日常をレジャー的に体験することでしかなく、本質を求めた過程でのステップというわけじゃないんだろう
>非日常をレジャー的に体験することでしかなく 河合隼雄はそれを「観光」といってたなぁ。 まあ、「光を観る」にかこつけたシャレもあるんだろうけど。 ヘミシンクもマリファナも、そういうもんだと思う。 ただ伝統的なシャーマニズムや密教は体系的なメソッドとして極めているんだろうけど。
観光は危険だけど大事だと思う。諸刃の剣だね。 何度もいけば、そっち側が本当の現実だと思えてくる。 夢物語とか妄想じゃないって確信が出てくる。 1回や2回じゃ日常的な認識が転換しないことも多いよね。 たまに、強烈な1回の観光でそっち側に住んじゃう人もいるけど。
50 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 02:57:27.37 ID:tXxd2Mme
>>48 ヘミシンク的な科学を混ぜ込んだアプローチは可能性が大きいと思うな。
新しいシャーマニズムだろう?薬物は生理的に危険が大きいから×
別に伝統的な宗教だけがいいわけじゃない。
51 :
絶対神 :2012/08/18(土) 03:13:38.48 ID:YzHLf3wV
>>41 「いえいえ、瞑想の危険とは単に」
『瞑想になんらかの効果があると思い込む事です』
本当に深刻な状態になったら
「精神病院にいって治療してもらうしかありません」
『瞑想というものはあくまで「趣味程度」の意味しかないという事です』
自分が超人になるというものは裏返せば
「瞑想に凄い効果があると思い込んでいるという事です」
52 :
絶対神 :2012/08/18(土) 03:15:32.18 ID:YzHLf3wV
>>41 「真理はあたまの中にあるんじゃなく」
『あくまで「外」にあるんだという事を理解しておきたまえ』
「君が何を思い込んだところで、「現実」には通用せん」
瞑想の効用とは、せいぜい
『有名になれば馬鹿をだまくらかして金をとれるところだけ』
(瞑想に限らず「宗教」ってのは「皆そうだけど」)
53 :
絶対神 :2012/08/18(土) 03:18:16.39 ID:YzHLf3wV
>>49 「いや、あくまで夢物語で妄想だからな」w
『現実じゃないぞ「宗教」は』
あくまで、「日常の中の清涼剤程度に考えておいた方が無難だと思うがね」
「現実は何も変えられないよ」
54 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 03:54:08.84 ID:tXxd2Mme
┐(´∀`)┌ハイハイ… このスレに書き込む必要がない人だね。執着しないで よそにいきな。そんな事してると精神的に危ないぞ、それこそ。
このスレ的には、アートマン以外、幻影だからな そこには、瞑想も現実もない。
56 :
絶対神 :2012/08/18(土) 04:02:12.24 ID:YzHLf3wV
「実際、瞑想とやらが生み出されて何千年もたっているが」 『人間の本質は何も変わってないだろ』w 「気付けって、それで」(大笑) オウムの問題点は「瞑想の力」とやらを「信じすぎた」事にあるのであって 『実際に現実の社会に働きかけようなんて思わないで』 閉じこもって自分たちだけで遊んでいるだけなら 「問題はなかったんだよ」
57 :
絶対神 :2012/08/18(土) 04:03:59.62 ID:YzHLf3wV
「宗教の最大の問題点はねえ」 『神秘体験を「現実」だと勘違いする事なんだよ』 「神秘体験なんてお前のあたまの中で化学反応が見せてる「錯覚」にすぎないの」 『現実じゃないんだぞ?』 もし、お前がそれを現実だと思い込むのなら 「オウムと同じ間違いを犯す事になるだけさ」
58 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 06:16:58.58 ID:vfwEs8n6
我々は至福です。至福とは我々の別名です。それが我々の本質です。 ラーマナ・マハルシ
59 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 06:26:25.11 ID:vfwEs8n6
解放は、我々の本質です。我々は、それです。 我々が解放を望むという事実こそが、束縛からの自由が我々の本質であることを示しています。 それは新たに獲得される必要がありません。 必要なことすべては、我々が束縛されているという誤った思いを取り除くことです。 ラーマナ・マハルシ
まあ科学が進んで神秘体験すら薬物や脳の部位の刺激で引き起こせるから 妄想の類に格下げになったのは事実ですな。 精神療法としての評価はあっても現実認識として一般社会から扱われることは ない。
認識・体験を脳の反応として片付けてしまうのは、簡単だが、 クオリア的な意味でも、完璧な説明が与えられているわけではない。
脳が反応して認識してるのか、認識に応じて脳がそういう反応をしてるのを観測できてるのか わからないしな 結局科学は対象と観測者の二元性を前提に時間軸に沿って論理展開してるわけだし 極論すれば脳をいじって神秘体験が起こったのか、神秘体験が起こるために脳がいじられたのか、判断できないし
初歩的な質問で申し訳ないですが、バガヴァットギーターとアシュターヴァクラギーター ってどう違うんですか?(関係性とでも言えばいいのか・・・) マハルシの「あるがままに」から入ったものの、次どちらに進めばいいか迷ってるので。
「入った」って後はやるだけで 別に文献的に進む必要もないと思うんだが研究者か何かなのか?
>>63 どう違うかはわかんないが、上の関連書籍で挙がってる上村氏訳の
ギーターより、田中 嫺玉さん訳のギーターのほうがわかりやすくて読みやすい。
上村氏訳のは、いかにも「学者さんが訳しました」感が強い気がする。
アシュターヴァクラも読んだが、オレにはなんかピンとこなかった。
(正直いうと、バガヴァット・ギーターもそうなんだがw)
ただ、田中訳ギーターの訳者あとがきで、聖典にはあまり重きを置かなかった
ラーマクリシュナも「ギーターだけは別。あれは本当に神の言葉だ」と言ったとか。
私は、アシュターヴァクラ・ギーターは、とてもわかり易かったな。 不二一元論に立って書かれているのは、明白だからね。 逆に、バガヴァット・ギーターは、千夜一夜物語的な意味で面白かった。
>>50 自分はこのスレで何度かヘミシンクを出した者(うざくてスミマセン)で、
いわば肯定派なんですが、やはりキチガイに刃物の刃物だと思う。
ほんとに簡単に手軽に変性意識やシンクロニシティ、拡張された「今ある」を
体験できるんですが、やる人の人格がついていかない。
オカルト板のヘミシンクスレをみると、ストーリーに飲み込まれた人ばかりですよ。 大きな意味でのシャーマニズムには同意だけど、 無免許で車に乗るようなもので、手軽にぶっ飛ばせるが、それを自力と勘違いして・・・アーッてことに。 でもストーリー抜きで気功やる人にはいいかな。 自分も単なる健康法としてやってます。
多少のサマーディは入れるけどヘミシンクは効かないな というか、あれは自己暗示で自分の深層心理のビジョンを見てる部分が大きいと思う 瞑想でもヘミシンクでも見ようと思う気持ちによっていろいろ見えたり、状態を体験できるけど、 それらは結局自分の見たいもの体験したいものを、心に作り出してるだけで、 求めず心を静めたまま入っていくと、ヘミシンクしても特に何も見えてこないし効かないな 見ようとか体験しようと思うといろいろ見えたり体験できるけど
71 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 09:43:19.62 ID:hE++bXOE
自分はヘミシンクで何の変化も感じられない人間だけど肯定するな。別に伝統宗教の 観点だけが正しいとも思わないし、伝統の方だってサイババみたいな怪しげな 手品師もいれば、過去の即身仏みたいな現代ではとても受け入れられない様な 現象も起こる。結果は人それぞれだろうね。夢の中でのSEXに夢中になって それだけ、みたいな人もいるらしい。
正直どうでもいい
目的地の違いでしょ アプローチが同じでも目的地が違えば、例え同じように見える体験でも、違う体験をしてしまうことになる ヘミシンクを、他の霊を助けるための手段として使う人、自分を助ける手段として使う人、 霊の世界はあるという確信を得るために使う人、無料で世界旅行をしたいというために使う人、 いろいろな目的のために使う人がいる その人たちはフォーカス○○においては、第三者の観測者からすれば同一の体験をしているように見えるけど、 体験の主体者である彼らからすれば、全く違った体験として受け取るのではないかな
74 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 10:13:23.95 ID:/BjsXv0K
『アシュターバクラギーター』 英語版wikiから アシュターバクラ・ギーター、アシュターバクラの歌、アシュターバクラ・サンヒターとしても知られており、 完全な師アシュターバクラとミシラーの王ジャナカとの対話を記録したアドヴァイタ・ヴェーダンタの聖典である。 アシュターバクラ・ギーターは、魂の本質、真実、束縛についてのアシュターバクラとジャナカとの対話である。 それは、非常に徹底的な不二元の哲学の説明を提供する。ギーターは、外的世界の完全な非現実性と、存在の 絶対的な一体性を強調する。道徳や義務についてのなんらの言及もないので、解説者から「神が存在しない」とみ なされている。また、名称と形態を非現実であり、無知のしるしとして扱っている。
75 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 10:31:24.01 ID:hE++bXOE
>>73 全くそうだろうね。自分なんかはガイドというのに会ってみたくってね。
現世で自分を任せたい様な師に出会えるような気がしないもんで。
彼らは個我に対しては他者、偉大なスピリットなんだから。
>>74 >解説者から「神が存在しない」とみなされている。
確かにね。
神と個我という二元性が、真我に吸収されてるんだから、神はいない。
意識が自分を個我だと誤認しているから、神を外側に投影することになる。
この本好きだから、言及する人がいると嬉しいね。
アシュターヴァクラ・ギーター 日本語だとトーマス・バイロンの しか出てないけど英訳だと、複数 出てるんだね。だれか、原典から 日本語訳してくれないかな
俺はたぶんもうしばらく二元性の世界で遊んでいたいんだろうな 多分みんなもきっとそうなんだろうな
個我の立場から絶対的他者に向かって「神よ」と叫ぶのも1つの悟りなんでしょう。 そのときは神が主体で個我が従。「放下」「サレンダ―」「私に死んで神に生きる」 「百尺竿頭一歩を進む」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」 こんな人もいるんだろうけど、なかなか自分には・・・
神が全てに宿っていることに目覚めた人を「ブッダ」と呼ぶんでしょうね。 それは知性の確信ではなく、真に体感した人の名前…。
二元性は肉体の中にあってはけして捨てられない。
「風の大地」というゴルフ漫画があって、主人公は周囲に何があっても 「僕には関係のないことだ」と自分のゴルフに徹する。 それが結果的に、周囲に大きな影響を及ぼし、周囲を変えていく。 悟りを開いた人っていうのは、こういうものなんだろうな。
あの漫画ってスゲェ面白いよな ゴルフとかまったく興味無いけど 喫茶店で何となく読んでハマったわ あれぐらい面白い漫画創れるって才能だよな それにパクリでない個性あるよな、あの漫画
あの漫画、キャラの能書きが多過ぎ 打つ球が数週で1球なんてザラ ゴルフ漫画界のアストロ球団とか言われてる 確かにプロテスト編までは非常に面白かったけどな
ワロタ読んでる人いるんだなw 最近マインドフルネスにはまっている。
お前らのセンス、渋すぎだよ
漫画ならロビン西のマインドゲームとか 小池桂一のウルトラヘヴンとかおもしろいんじゃないかな
あと、お勧めしないけど山本英夫のホムンクルスとか お勧めしない理由は、作者がおそらくしたであろう熟考や体験や境地が、 ちょっと浅く感じるあたりかな でも終わりあたりとかアドヴァイタ的におもしろい内容だとは思う
俺が好きなのは「ピアノの森」だな。 全てに感謝してピアノを弾く境地・・・。自分を虐待したものにも、愛せはしないが感謝の念で・・・ パン・ウェイ 高田純次も大ファンだとのこと。
諸星大二郎の『孔子暗黒伝』 あれは、良い。 老子とか孔子とかヒラニヤガルバとかキーワード満載で。 最後に「知識」に対する欲望の危険な落し穴を孔子が見るのがいい。
手塚治虫の火の鳥って、アドヴァイタか言うと少し違うけど ブラフマ・スートラに近い世界観だよね。
>91 「暗黒神話」、「孔子暗黒伝」は凄いよな 当時本当にハマったわw
ジョージ秋山のアシュラもオススメ
坂口尚のあっかんべェ一休とかもいいんじゃないかな 禅僧の一休の漫画だけど 手塚のブッダより悟りが描かれてると思う
96 :
ろん :2012/08/23(木) 06:21:02.16 ID:YfL6/unc
『あっかんべぇ一休』はなかなかだよね。。 逆に『バガボンド』の沢庵は最低、ちっとは勉強しろと言いたくなる。。
WhoAmI?って、頭で私は誰かと唱え考えるんじゃなくて、私の領域を感じとれってことですか?
自分はそんな感覚ですね・・・。 いまここ感覚というか。そうすると、 いままで一体化していた「思考さん」「感情さん」が自分からわずかに離れる。 これを「スペース」というのでは。
で、その「思考さん」「感情さん」も、たとえば雲や火山のように、 過去のさまざまな要素(縁と因果)でおこる自然現象であり・・・罪はない。 これを「過去の古いレコード」と表現した人もいたし、「神経組織の噂話」と 表現した人もいた。
こうした「思考」「感情」と距離を置くことを学べば、 国際紛争も起こらなくなると思う。 ある本には、中国の多大な民族的カルマは、何百万人もの太極拳や気功の実践によって かなりガス抜きされている、これも1つの自浄システムというふうに書いてあった。
>>98 探求して想念が消えると、漠然とした空間みたいなのはあるね。
私は誰か、はこの時やればいいのかな?
>>102 そうです。ニューエージに分類されそうなので伏せてましたが、
日頃の人間関係とか洞察すると、国際関係も同じかなぁと・・・
こだわりを手放す、というのは言うほど簡単ではないと実感してます。
104 :
102 :2012/08/25(土) 08:08:29.37 ID:kZssqGnM
>>103 俺ちょうど最近ニューアース読み直したんで
この話題が出て「おっ!」と思いましたよ。
これも源泉の意思なんでしょうね、ラメッシ風に言うなら。
たしか、ホーキング博士を街で見かけたとかで、遠まわしに名前を勝手に使ってたよな。 だめだろjk。
たまに話題出るんでエックハルト・トール読んでみたが ニューエージな感じでなにも思わなかったな。 どっかのブログで十数人しか集まらない初期の集まりに出たことのある人が 「あのままなら人集まらなかっただろう」という旨のことを言っていたらしく ニューエージ取り入れて集客を計ったんだろうね。
俺もニューアース3年くらい前に読んだ時は何いってんの? と途中で止めたけど、今はかなり真剣に読んでる。 その間にいろいろな仏教やプンジャジの本を読んで、すんなり 腑に落ちるというか・・・
108 :
神も仏も名無しさん :2012/08/26(日) 11:10:44.05 ID:myC1dobz
トールさんを通じてラーマナ・マハルシに至って、トールさんとガンガジさん の本は古本屋へ。感謝してます。
スピリチュアル系の人が言うことってさ。劣化スウェーデンボルグに東洋の神秘主義混ぜたって印象しか無いんだけどどうなの?
昨夜亡くなった Armstrong 氏が、月面に立つ時の 「That's one small step for a man, one giant leap for mankind.」 (一介の人にとっては小さな歩みですが、人類にとっては巨大な跳躍です) という有名な発言があるけど、アドヴァイタの立場から考え直すと微妙。 船長と一緒に月を歩いた Aldrin 氏や周回軌道上の Collins 氏も (1930年生れトリオ) さらにNASAのスタッフやNHKの衛星中継で「こちらヒューストン」の流行語を生み出した 同時通訳者の西山千氏も、それを白黒TVでぼ〜っと見てた幼稚園児の自分も含めてw ぜんぶ一つの‘私’(マインド)の幻想・劇的演出と仮定すると、「各個人」の努力の集大成とか 「人類」全体の進歩とかってのは、皆を元気付けるだけの方便かも。 話をエックハルト・トールに戻すけど、教えの根底は 「各自の心が思い込んでるのは本当のあなたの姿でない」的に、アドヴァイタに近そうだけど 目次をみると、新しい人類の目覚めとか進化とか、ニューエイジっぽい表題が並んでて、 このへんは一般受けしやすい主題なのでやむを得ず採用したのかなぁ、と思った。 (ちょうどアームストロング船長のセリフと同様) いっぽう、ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジは、こういうことは 絶対に言わないような気がする。時間も空間も‘私’の中の投影にすぎないから 地球も月もヒトも社会も非実在だし、進歩という時間の流れも幻想なので 人類の進化の心配は人類社会(世俗カルマを司るイシュワラ神)にまかせて ひたすら私の‘本体’基盤(アートマン)を探すことだけに没頭すればOK、みたいな。
>>112 俺も同じこと思ってた。「新しい世界」みたいなストーリーが
すごく鼻についてそんなのに捕らわれてるからダメだ、と思ってたが、
歴史を見ても人間の精神的な段階ってのはあるし、いずれ社会も世界もありようが変わるとおもう。
114 :
神も仏も名無しさん :2012/08/26(日) 23:10:51.78 ID:Yc9Jbydz
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
>>115 まだ学びの途上にある人、あるいは学びの道に足を踏み入れていない人へ
古本屋という一般人への書籍展示場(あるいは情報ハブ)を通して教材を提供したとも言える
俺はシュレッダーで裁断した おかしな本が流通してはいけない
>>116 学びの道を踏み外した人へ
かっこつけんなw
ココのいる人は、自分の読んでる本が一般からみれば トンデモ本とみなされてる自覚は、あるの?
あるよ。だから読んでも買わない。
>>119 ある。ラマナも結局シュレッダー行きとなった。
122 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 18:54:26.57 ID:5KlwFC8s
J. Krishnamurti said “I don't mind what happens.” Hakuin (白隠) replied “Is that so?”
123 :
神も仏も名無しさん :2012/08/28(火) 21:22:43.76 ID:ZHlSblP5
ramana maharshi: (silence)
124 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 20:17:54.76 ID:W5CvL4f9
誰かになりたいの? 同じ場所に立ってみたいの?
みなさんは瞑想やってますか?やってるとしたら 一日どのくらい? 自分は休日に20分くらいやるほかは、まあできるだけ多くの頻度で 電車の中、布団の中と「私」を意識するくらいかな。 やはりまとまった時間を取って習慣化することも必要ですよね。
126 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 20:45:18.95 ID:W5CvL4f9
>>125 2週間に一度30分程度でしたけど目覚めを体験しましたよ
あまり「何かをすれば」、という形にはこだわらないほうがいいと思いますけども
>>126 目覚めの体験とはどのようなものでしたか?
それは瞑想中のことですか?体験したきっかけは何かあるのですか?
128 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 21:38:20.90 ID:OVn12atX
可能な限り瞑想の時間は増やしたほうがいい 瞑想によって意識が上がれば、奇跡がただの事実になる そうすれば奇跡は日常の中にただの事実のひとつとして引き寄せられ、自分の道標となる方に恵まれるチャンスも高まる 真面目に瞑想に取り組み、生き方を神に合わせている方々を見ていると、つくづくそれを実感させられる 瞑想に億劫になるのは前に進むことへの抵抗、自我を守りたいということもあるだろうから その抵抗を無理なく解いてくれるのも瞑想
130 :
神も仏も名無しさん :2012/08/30(木) 22:36:15.80 ID:W5CvL4f9
>>127 これといって特定の体験は無くて
いつの間にか「ああ…」って感じで色々クリアに理解が進むって感じでした。
今思えば、ですけど瞑想中に感じてた事は色々先人達の感じてる事と重なってたんですけど
当時は知識が無かったので、ちょっとずつ感覚が変わってるな…ぐらいにしか思って無かったです。
良い意味で期待が無かったと言うか。
ただ何が目覚めに繋がるかと言うのは瞑想だけに限らず人生における明け渡しとか
色々な要素があっての事だと思います。
>>128 あれれwwwもしや…
>>129 お節介ですが、「瞑想している自分」に重きを置くと自分、自我が肥大しますよね。
先人にも追い求めて追い求めて絶望の果て、追い求める事を止めたらすぐそこに在ったと気付く方もいますし。
もしかしたらはじめから「全く何もしない」で在る事が出来れば勝手に目覚めは流れ込んでくるような気もします。
シャンカラって瞑想しろって言ったか。 むしろ、カルマになるからやめろ見たいなこと言ってなかった?
132 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 05:14:07.43 ID:TnmUY2Zw
せめて引用してほしい。
子供のときは仏教にはまるで興味なかったな 小難しい漢字の掛け軸みたいな存在の意味がわからなかった それが回り回って一生無縁だと感じた 仏教みたいな宗教信じてるんだから俺も変わったもんだ
仏教とアドヴァイタは双子の兄弟みたいなものでしょうね…。
>>130 同意。体験や経緯が自分とそっくりだw代弁ありがとう。
>>132 うろ覚えで他にも、合ったと思うけど見つけられたものだけ。
あと、シャンカラが明確に否定してるのは、ウパデーシャサーハスリー
散文偏第一章30節にあるように、差別の直観のことだったわw
階級制度でも人生規範でもなく 慣習でも法でもない
集中 瞑想 ヨーガ その他の修行のどれも必要ない
「私が」「私の」という観念は自己でないものから生じる
その誤りは捨て去るべきである
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する ダシャシュローキー
「愛児よ、君は誰ですか」 ウパデーシャサーハスリー散文偏第一章9節
師が弟子に教えるのは、呼吸法やアーサナ的な瞑想ではなく。
問うのは、「アナタ(私)は、誰か」だけ。ここは、マハリシと同じだね。
細かいことは、ここみてくれ
http://www.youtube.com/watch?v=UX0QlGm-rC8
137 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 18:33:07.38 ID:TnmUY2Zw
>>136 丁寧な説明ありがとうございます。
ただ、思うに、そういう聖典が誰にあてて書かれていたか、はじめに書かれて
あると思いますが、たいていもう十分に成熟した、離欲の境地にある人にむけ
て書かれているのではないでしょうか。
138 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 18:35:56.39 ID:TnmUY2Zw
言い換えれば、もう十分に「集中 瞑想 ヨーガ その他の修行」を十分やって あとは、「アナタ(私)は、誰か」だけで十分という人に向けていると思います。 そうでなければ、マハルシが他の修行法を認める理由はないと思います
必要ないっていうのは、どちらでもいいってだけで、別に良くないっていうことではないし、 必要ないからじゃあやらないってのはただのエゴとの同一化でしょう やってもやらなくてもいいけど、自然とやれるならやったらいいでしょう 執着やこだわりでなく、ただやれるなら、それはそれでいいことでしょう 例えば悟りに食を気にする必要はないといっても、エゴにまかせて暴飲暴食してたら悟る前に死んでしまう 必要か必要でないか以前に、自分の心と身体を整えておくのはいいことでしょう 心と身体もそうしてほしいと思っているでしょう
140 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 20:09:23.55 ID:MnUQ3jUQ
また、あなたですか。「でしょう」が好きですね。
141 :
神も仏も名無しさん :2012/08/31(金) 20:19:47.33 ID:wI8M2drU
花が咲くでしょう
木になるでしょう
このスレは日立グループの提供でお送りしています
あの木は菩提樹だったのか
145 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 19:30:17.77 ID:/qqXUiZs
>>133 自分は仏教やキリスト教は単に道徳だと思ってた
仏やキリスト(神)に形があるのがまず納得いかなかったし
一つ一つに作法があったりする所にも胡散臭さを感じてた
天国地獄というのも納得いかなかった 信者を洗脳する意味を含んでるとしか思わなかった
自分は最終的に何も無い所に行くんだと思ってた
146 :
神も仏も名無しさん :2012/09/02(日) 20:40:12.79 ID:eyDKL0Ir
マハルシに出会ってから、宗教の真意に気づかされました。無意味ではないと。
俺は子供の頃から諸宗教崇拝派だったな。イエスもブッダも変わりはないと思ってた。 天皇制が不思議だった。死ねば、あるいは生まれる前はそんな肩書きなかったんだから。 皇族は人として尊敬してるし、皇室にも歴史文化的価値はあると思うが、 命を捧げるような絶対的なものとは思わなかったな。
その点ダライ・ラマの発言はすごい。 「ダライ・ラマ制度が私の代で終わっても何の痛痒も感じない。 所詮人の作ったものだから・・・」 桜井よしこに聴かせたい。 たぶんその思想背景には入菩提業論があるんだよね。 「自分が崇拝する仏塔や経典が破壊されても怒りを起すな。仏が破壊されることなどないんだから」
釈迦以前にダルマが合ったとする仏教ならそうかもしれないけど、一神教で、それは ありえんよw 一つの学説だが、 明治以降の天皇制は、日本を近代国家にするための機軸となる宗教として キリスト教的な一神教に組み替えられてその伝統に彼らは載ってるわけだからねw これに保守思想が絡んで来るため、理屈抜きで伝統を守るって、聞くとすごく不合理に聞こえるけど。 皇室は、関係無いようで現在でも日本にとってマストであることには、変わりないと思う。
おしえてください この世に生きとし生けるものの すべての生命に限りがあるのならば 海は死にますか 山は死にますか 風はどうですか 空もそうですか おしえてください
151 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 05:55:31.95 ID:mN5H5Kj5
あなたが深く眠るとき 海はあるのか 山はあるのか 風はあるのか 空はあるのか それらは毎朝生まれ、毎夜死んでいる
ラマナが言いそうないい回答だね あらゆる全ては今この瞬間死んで、また生まれてる 自分自身も今この瞬間死んで、今また生まれてる
自分という認識が毎分毎秒生まれている。 認識はどこから生まれるのか? 永遠不滅の(?)は生まれもしないし、死ぬこともない。 しかし(それ)は、多分自身を知らない…。
多分認識は、記憶から生まれる…。
すべて下らない戯言の気がすんだけど
しかし、それは在る。 私は在る、すべては下らない虚言の気がすんだけど、と言いながら…。
ラマナを知っていようといまいとそれは在る。 ならばアドヴァイタは必要か?
158 :
神も仏も名無しさん :2012/09/04(火) 20:46:10.44 ID:abnv5M07
井戸水は掘らないと湧かない。
井戸を掘った人が、井戸水を作ったわけではない マハリシやシャンカラがアートマンを作ったわけではないように 他からの支配・制約などを受けず、自ら立てた規範に従って いまココにある私を掘り下げなさい
しばらくの間、真我だなんだと目を逸らされ 騙されているだけのことだ。 死ぬまで騙されていればいいけどな。
海は自身を海とは知らない。 しかし、それだけで終わりなら生命は生まれない。 プランクトンも魚も海の子供とは思わないだろうが はじめからただ(それ)だけでいいなら何も生まれないはず。 真我は見つけられなければならないだろうな…。 何故釈迦がひとり悟れば、全ての人が悟らなかったのか 何故真我に出会った者だけが悟と言われるのか、それは何故か…。
知ろうが知るまいがそれは、ただ在る。 しかし、それを認識する者が必要だった、離れた視点が必要だった…。
ヒルティの「眠られぬ夜の為に」を読んでるんだけど、なかなかの本だ。 人間はたぶんよほど如才ない者でないと自力では生きぬけない。 でも、神とか、自分より大きなものとつながって生きることで、人生を全うすることができる。
自分の意識だけと向き合えばいいとか 基本は自己中心な生き方なんだけど 悟るほど極めたら我が儘ではないのが不思議だよね
しかし、最高に贅沢な生き方ではあるよね。
166 :
神も仏も名無しさん :2012/09/05(水) 15:46:23.18 ID:HXDhRHae
つーかそんなおれらと関係のないスレのアドレス貼らないでくれ。
>>166 ティルバンナマライにも行ってるっての。
あそこに行った人でもほとんどはこんなもの捨て去る。
これがないとどうしようもないぐらい人生がおかしくなってるか
ヨガ関係で食ってる人だけだ、食らい付いてるのは。
そのどうしようもない期間を紛らわすという意味では役に立つ。
つか不思議なのはティルにいる人でも 頭から信じ込んでる人なんて少なくて 話せばみんな疑問も疑いもあるのに なぜかこのスレにいる奴らってオウムみたいに狂信的で まともな意見拒絶すんだよね。
それは専用スレだから当たり前だと思うけど 日本人の中のそういう話がした人が集まってるスレなんだから当然というか 別に狂信的とまでは思わないけど、そういうスレにきて何で狂信的と批判する必要があるのかなあ ティルにいる人がどうだとか比較する意味もわからないし オウムみたいに他者に物理的な害を与えてないなら他人の進んでる道は基本どうでもいんじゃないすかね もし批判するならもっと具体的に何がどうおかしいのか論理的に話したほうがいいと思うけどね 騙されてるとか狂信的とかそういうのでなく
171 :
神も仏も名無しさん :2012/09/06(木) 03:38:51.21 ID:kY/vBRAd
別に信じない否定派なら来なけりゃいいんだよ。心配で心配でたまんないのか?
172 :
神も仏も名無しさん :2012/09/06(木) 05:37:51.70 ID:gLrlN7Pg
どこがまともな意見なんだろう?未熟なものが聖地にいって何も得ずに帰って て、なんだか逆恨みしているぐらいしか分からない。 疑問があるのは、悟るまであたりまえでしょ。それでも、魅力を感じるか否か。
173 :
神も仏も名無しさん :2012/09/06(木) 16:48:29.78 ID:IXVpKF4l
マハルシとか見てもわかるように、 悟りに近づいたら、現象世界に対する執着がなくなり 子孫を作らなくなる。 地球から人類滅亡。
174 :
神も仏も名無しさん :2012/09/07(金) 02:41:25.46 ID:eDHAnXup
滅亡するならするで別にいいと思う 元々地球上に人類なんていなかったんだし
175 :
神も仏も名無しさん :2012/09/07(金) 08:19:33.55 ID:hpAaqul+
ポップコーンみたいにポンポン悟れば心配すればいいけどね。
カルマヨーガを実行したいけど、難しい…
ショックな出来事があって心が壊れた(その場合大抵変態に目覚める) と感じる事がありますけれど これってラマナやニサルガダッタの言う 「マインドが破壊される」の一種なんですか?
心が壊れるってのが、今まで持ってた価値観や思考の癖を失うってことなら、 マインドが破壊される一種だろうけど、だからといって別に変態に目覚めなくてもいいし、 変態に目覚めるなら、 今までの価値観を失ってそれに抑圧されてた価値観が出てきたのだろうから、 破壊されてるとは言えないかも マインドが破壊されると変態も変態でないものも実感といて同じに思えるよ 論理(思考上)の区別はあっても実感の区別がなくなる 区別しているのがマインドだから 変態に目覚めるっていうより変態も受け入れられるってことならそうかもね
心が壊れる前に進みたいものだな それは死後まで続く程度の取るに足らないものだとしても、再びそれを背負って生まれなければならないのはイヤだもんな といっても、どうしようもない苦しみが訪れるまで待ち続けるんだろうな 興味本位でしかない時はたいしたことないけど、決心して歩き出したことのある者は、止まったりするといずれやってくることが多い
こころが 壊れる・・・
いろんな本でも、なぜか「マインド」は日本語に訳されずにそのまま使われとるね。 訳す方はラクだろうが、読むほうは意味が非常に掴みづらいんだけど。
えっ?
183 :
177 :2012/09/08(土) 08:29:10.39 ID:aLP7iYIv
自分の経験だとその後変態的なものを やたらと求めるようになってしまったので ラマナらが言っているのとは違うようですね。 ありがとうございました。
184 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 09:23:33.70 ID:hD6l9PuU
心が壊れるのは幸福の根源だと思ってた物を失ったと思った時。 人は壊れた後もまたどこかに幸福の根源を発見して投資する 壊れた後、自分の場合は変わることのない普遍的なものに惹かれるようになった 因みに変態にはならなかった
色欲、物欲なんてもんは、自我を守るいちばん原始的な武器みたいなもんかな どの段階にいても、そこへ逃げたいという誘惑はなかなか魅力的 力を手にした方々には権力欲とか、自分あるいは周りにいる人々を護るというもっともらしい機会まで準備されていたりする そこで力を仮想敵に用いるか、それでも愛を選択するのか、かなりの誘惑だろうな よくその力を用いることなくいられるなと思ったりする
186 :
神も仏も名無しさん :2012/09/08(土) 22:13:34.05 ID:liCfuDEm
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕 警視庁防犯課 二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
メンヘル板をみると、「今この瞬間が辛い」という人が多く居る。 かくいう自分もそうだし、見回せば肉親の死や失われた過去、 のっぴきならない現状に苦しんでいる人は多く居るだろう。
自他の苦しみをどうしたらいいのだろう? それも偽りの自分の破壊される際の苦しみなのかもしれないが、 今この瞬間、時間と場所に閉じ込められた苦しさは・・・ 気休めでもいいから「楽」を与えたい。和顔施、愛語なんかでも役に立つのかな。
神に祈りつつ、ありのままの苦しみを苦しむしかないのかな。 何かのせいにせず、、、ヨブのように。
旧約の神って、日本的感覚でいうと悪霊の範疇だよな 出エジプト記で、飼ってる家畜に、暴れ癖があることを 前もって注意していたかまで想定してるのには、驚いたがw
何かいいものと比較するから苦しい すばらしいもの、たのしいこと、優れているものや人と比較をして、 今の状況や、今の自分が、そうでないから苦しい 比較がなければ苦しみはない 怪我や病気など身体の痛みなどはあっても、状況に対しての苦しみはない
そんなゴタクは聞き飽きましたよ。 理屈はそう、誰でも知ってると思います。 大津の自死した子供ももちろん、そのご両親の今の気持ちに対して、まったく無力な言葉だとは思いますが・・・
苦しいままでもかまわんよ。なにがあかんの。
震災の人たちの心はあなたが考えることではないのでは? あなたが震災にあっていて、震災にあった自分の心のことについて考えるならわかるけど 他人の心のことを考えて、あなたは何がしたいの?何を求めているの?
>>194 他者の苦しみも自分の苦しみも、自分にとってあまり質の差はないです。軽重の差はありますが。
それより、私の心のことはあなたが考えることではないのでは?
あなたが私と同じ情況で自分の心のことについて考えるのならわかるけど。
なぜ私が何がしたいのか、何を求めているか訊ねるのですか?
>今の状況や、今の自分が、そうでないから苦しい >比較がなければ苦しみはない ようするに、たとえば子供が自殺した場合、子供が死んだ事実と、死んでない情況を比較するな、ということでしょう。 どうしても薄い言葉だと思います。
>>195 別にあなたの心を思って苦しいから言ったわけじゃないよ
あんたの問いがあったので自分の知っていることを書いただけ
他人の心を考えたくて考える(欲求)のと、論理的に話をする(問いに答える)のは別
>>196 そうじゃないよ
子供がいる状況と子供がいない状況を比較しないということ
子供は生まれるまでいなかった
今、いないからといって子供の生や死とむすびつけるのは、
今までの生活や子供との記憶と今の状況を比較してるだけ
目の前に子供がいないときは子供はいない、それだけ
いるときはいる、いないときはいない
こいつは相手にしない方がいいよ。 いろいろやってるのに自分は何もしていないようにもってく人だから。 何でもいいといいながら何でもよくない人。 これが自我だと全然分からないんだから。
7lgcmtnyのことね 意見したいこと、書き込みたいことを認めりゃいいのに 真我みたいな振りして人間以外のものになっちまってる
懐疑主義に陥ってるね。不二一元は、 アートマン以外は、すべてマーヤーと言う思想なんだから 懐疑主義に陥りやすいといえば、そうだけど。 あんま外みんなよ 自分で自分に問いかけろ
202 :
神も仏も名無しさん :2012/09/10(月) 17:56:56.80 ID:rIVyeEGY
眼が覚めるまで、眠っているんだから、無理に起きたふりしなくてもいいのにね。
みんな他人の程度を判断するのが好きなんだなあ
エスパーじゃないんだから、他人がどの程度の人間かわからないだろうに 出てきてる言葉なんて嘘かほんとかわからないし
205 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 12:22:19.25 ID:B3RrktVc
書き込みでどんな人かいくらか分かるけどね。特に同じようなこと書く人は。
「こういう言い方をしてるからこいつの心理状態はこうだろう」 「こういう内容言ってるからこいつの性格はこうだろう」 自分がそういう人間だから、他人も同じようにそうだろうと思うんだろうな。 女にモテるためにオシャレしてる奴がさ、 オシャレしてる他人見て、「こいつ女にモテたいんだな」って思うのと変わんねえ。 妄想なんだよな、妄想。自分を基準にした勝手な妄想。 自分がそうだから他人もそうだろうって推測するのはいいけど、あくまで単なる推測。つまり妄想。 ま、でも、それでも、分かりますよ、分かるんですよ、って言われたらそうかもなって思うけどね。 分かるようなすごい人もいるのかもしれないし。
207 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 13:42:33.34 ID:B3RrktVc
>自分がそういう人間だから、他人も同じようにそうだろうと思うんだろうな。 女にモテるためにオシャレしてる奴がさ、 オシャレしてる他人見て、「こいつ女にモテたいんだな」って思うのと変わんねえ。 >自分がそうだから他人もそうだろうって推測する この内容が「妄想」そのものじゃないかい。自分が相手と同じでなくても、相手の状態 わかるでしょ。しかも、より客観的に。 後、推測してもいいでしょ。私は普通の人だから推測しますよ。わざわざ「妄想」「妄想」 って大げさに感じますよ。
>>207 ん、だから俺の書き込みももちろん妄想だよ。
「ま、でも、それでも、分かりますよ、分かるんですよ、って言われたらそうかもなって思うけどね。
分かるようなすごい人もいるのかもしれないし。」
って書いてるでしょ。
きみが「自分が相手と同じでなくても、相手の状態わかるでしょ。しかも、より客観的に。」って言うなら
きみはそうなのかもなあと思うよ。
それに推測してもいいとも書いてるよね。
しょせんただの推測だとわかってればいいんじゃないの?
分かる、って断定的に思いこんでなければ。
まあ、きみは本当にわかる人なのかもしれないので、それならそれでもいいよ。
俺はきみじゃないので分からない。
ただの推測だから。
>>「こういう言い方をしてるからこいつの心理状態はこうだろう」 >>「こういう内容言ってるからこいつの性格はこうだろう」 心理学の話?そんな客観的な話されても困るw
>>209 ちょっと上の流れもそうだけどさ。
他人の書き込みに対してよく、悟ってるだの悟ってないだのエゴだの同一視してるだのしてないだのの話になるからさ。
そういう毎度毎度の流れ見てて、そりゃ推測であって、実際どうかはわかんないよなって話。
誰かが何か言うと、こいつはわかってる、こいつはわかってないって流れにいつもなるじゃん。
そんなの推測でしかないんだから気にしなくてもいいんじゃないかなと思うって話。
211 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 15:17:38.75 ID:B3RrktVc
>きみが「自分が相手と同じでなくても、相手の状態わかるでしょ。しかも、より客観的に。」って言うなら きみはそうなのかもなあと思うよ。 あなたはそうじゃないの?例えば、自分が怒ってないと相手が怒ってるって分からないの? >ん、だから俺の書き込みももちろん妄想だよ ふーん、206みたらとても自分の考えが「妄想」と思ってるように感じないけど なあ。自分の考えが妄想なら、相手の考えがどうして妄想っておもえるのかな。妄想 してる人に「それは妄想だよ」って言われても説得力ないよね。 まあ、的外れな意見は気にしなくていいとは思うけどね。
>>211 >あなたはそうじゃないの?例えば、自分が怒ってないと相手が怒ってるって分からないの?
俺は相手が怒ってるように見えても、本当に相手が怒ってるのか怒ってるふりをしてるのかわからないよ
きみは相手が実際にどうなのかはっきりわかるの?
相手が怒ってるかどうか自分が確実にわかってるという根拠が何かあるのかなあ?
>自分の考えが妄想なら、相手の考えがどうして妄想っておもえるのかな。妄想
>してる人に「それは妄想だよ」って言われても説得力ないよね
誰しも主観でしかものを見てないと思うし、客観と言いつつも主観を通しての客観でしか
ないと俺は思うから、誰の言ってることも妄想じゃないの?って思うけど、
それ自体、俺の推測だし妄想だから、相手にそうじゃないって言われたら、
その人はそうなのかもなってことじゃん。
他人でないのに他人のことがわかるのは俺には妄想にしか思えないからね。
相手がどうなのかは主観だしただの推測であって、わかってる場合もわかってない場合もあるだろうし、
実際どっちなのかは俺にはわからないよね。
213 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 15:58:52.53 ID:B3RrktVc
>相手が怒ってるかどうか自分が確実にわかってるという根拠が何かあるのかなあ? 別にないよ。常識的な判断をしているだけ。いちいち、ふりしてるとか疑って 意味あるの?ただ、 >自分がそういう人間だから、他人も同じようにそうだろうと思うんだろうな。 女にモテるためにオシャレしてる奴がさ、 オシャレしてる他人見て、「こいつ女にモテたいんだな」って思うのと変わんねえ。 これは妄想でも、明らかに間違った妄想だから、ほかのことを妄想って言う前に自分 の妄想何とかしたらと思っただけ。主観でも、論理的なのと、まったく支離滅裂なもの があるからね。これは、後者。 >実際どっちなのかは俺にはわからないよね。 だから、まったく説得力ないですよね。役にも立たないし。想像や推測を「妄想」 って言葉で表して何がしたいのかわからないなあ。当たり前の話だし。
お前らは、さっきから 何と戦ってるんだw
216 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 17:27:51.11 ID:GINSpgiO
神と宇宙と自分が同じだと? じゃあ、全部が神(エネルギー)じゃないか 全てに感謝しないとだな エネルギーは回転しないと、淀ませたら勿体ない 宇宙からもらったものは、宇宙に返す それは、働くこと 結果を求めずに、感謝して愛他の中で ありがとう宇宙 ありがとう地球 ありがとう太陽 ありがとう両親 ありがとう自分 ありがとう神様 ありがとうクリシュナ
217 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 18:59:37.91 ID:qNT0vyoW
>>191 君はもう、どんな情況に対しても「苦しみ」は感じないの?
それとも、本を読んで「大体こんな理屈だろ」と言ってみただけ?
>>217 苦しみが全くないわけじゃないよ
ただ昔に比べたらほとんどないし、あってもそのときだけで続かない
子供の死の例で言えば、子供が死ぬときは目の前の出来事だから苦しいけど、死んだら出来事はもうないから苦しくない
思い出しても比較だってわかってるからその瞬間思いは消える
目の前で子供が苦しんでたら苦しいけど、目の前にいなければいないのだから苦しくはない
苦しみは比較からくるとわかってるというけど、わかって苦しみが去らないならわかってないはず
言葉でわかってるというけど実感としてわかってない
煙草やギャンブルが悪いとわかってるけどやめられないっていう人と同じ
本当に悪いと心の底から思ってたら、もう見るのも嫌なはず
それと同じで比較によって苦しんでると本当にわかったら、その瞬間その苦しみは消える
だって、自分の心が比較をして、それによって苦しんでるんだから、自分が好きで苦しみを作ってるようなもの
自分が苦しみたくて苦しんでただけなんだってわかったら、笑っちゃう
プンジャジのとこで女性に気づきが起きて笑い出す動画が以前よく貼られてたけど、
今まで苦しんでたのに、あんな風にゲラゲラ笑っちゃう
自分が好きで苦みを作って苦しんでただけだったんだなー、バカだなーって
苦しみがあるときは、自分の心が何と何を比較して、心に苦しみを生じさせているか、常に熟考していけば、
心がしている比較に気づいていくし、思いや苦しみは生じなくなっていく
同時に、たのしみも苦しみも同じように心の作用で、自分が比較から作り出しているだけってわかってくる
だから苦しみも生きてる証拠ですばらしいものだし、たのしみも単なる心の作用でどうということもないものになっていく
苦しいときも苦しみがたのしめたり、たのしいときもたのしみに興味なくなったりする
そうなってくと、その向こうに、そういう心の作用でない、変化でないものが見えてくる
苦しみもたのしみも完全には無くなってないけど、そのとき目の前にある最低限になっていく そういう心の状態は心の状態、変化するものとして、意識は変化と無関係になっていく 苦しんだりたのしんだりしている心をただ傍観できたり、それを生の証拠としてよろこんだり、 それらに興味待たなくなったりする これは本の知識とかそういうことじゃなく、自分の普段の話 でも別に悟ってるわけでもないし、それ以上のことは知らない 本などにはもっと先のことまで書いてあるけど、ここまでしか知らない これらは自分の心についての熟考をやっていけば誰でも少しずつそうなるものだと思ってるよ 今でも多くのことに苦しんでる人もいれば少々のことでは苦しみと思わない人もいるし、 大なり小なりみんなこういうもんだと思う
>>210 に同意。人の言動を自分の物差しで測ってツッコミはじめると、場が荒れる傾向があるね。
>>215 他人を装った自分のエゴ? ・・・かな
>>187 "今この瞬間"って言葉に集約されすぎてて、逆に解決しにくいんじゃないかな。
たとえば、自分がやりたくない事を強要される状況に置かれてるとか、
ずっと二人で過ごしてたたから一人の寂しさがつらいとか、
実際に自分が感じてることを紐解けば、解決方法が見えてこないかな。
>>219 しかし現実にそれが簡単にできないからスポーツ選手にしろ震災で家族を
失った人にしろ苦労すんだぜ。
目の前にない2chにどういうプロセスか知らないが書き込んでいるわけで
それさえ止められないだろ。「もう書き込みやめろ」と言ったらやめられるか?
>>206 の話まさに自分のことでためになった。ありがとう。
これも推測でしかないけど、このスレに居る人だってほとんどが、 恋人をレイプされて殺されたりしたら、楽しかった頃を思い出して苦しむとか、 子供が事故で死んだりしたら、折々の光景でフラッシュバックして苦しむとか、 するんじゃないかなぁ。 「目の前に恋人も子供ももういないから苦しみもない」というのは、ある意味すごいと思う。
しかし、クリスチャンとかだったら、その苦しみが解脱への一歩じゃないかな。 苦しいままに神に包括されるというか。 ま、これもただの空想。 でもラーマクリシュナも、知り合いの子供が自殺した時は号泣したそうな。 これはどういうことだろう。
子供のいない俺でさえ、やはりいじめで子供亡くされた人の心境考えたら、 胸が激しく痛むよ。 まあ、仮定の話はするな、って人も居るだろうけど、他人の痛みに 少しでも共感可能なのも人間じゃないか? 仏教のカルナってのは、他者の苦を見てのうめき、というのが語源だそう。 まあ、他人の苦しみなんか認識できない、とか哲学的なこと言われたらおしまいだけどね。
>でもラーマクリシュナも、知り合いの子供が自殺した時は号泣したそうな。 鈴木大拙は、奥さんが亡くなった時、遺体にすがって号泣したそうな。 それを聞いた人が「先生のように悟った人でも、そうなのですか?」と訊くと 「悲しい時には泣くのが禅である」と。
苦って、悲しみに限らず喜びや怒りとかも含めて それに過剰に囚われることを指すんじゃないかな。
229 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 01:52:15.17 ID:AFjK0kPz
まさに、この世は、「苦」ですね。。。 肉体を離れても「苦」ってあるのでしょうか? 肉体を離れても心があると仮定すれば、あるんでしょうねぇ。 だって、「苦」は、心がそう思ったり・感じたりしているからあるんです ものね。
230 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 02:03:14.26 ID:AFjK0kPz
>>229 続き
苦しみから逃れるために、肉体から離れても「ある」となると、逃げ道は、
マハルシが言われるように、心が生じる源に って。
んでも、源が感じられるようになったとして、そこにとけ込むことが
できるかどうかは、真我の気まぐれ?に期待するしかないです。。。
231 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 02:05:29.31 ID:AFjK0kPz
>>230 続き
焦らず、悩まず、考えすぎず、毎日コツコツ源を探って、そこを意識し
続ける、それが、マハルシの言われる「真我探求」なんでしょうね。
苦は持っているものを失いたくないとか失ってしまったという思いからくるわけで、 でも、生まれたときはみんな何も持ってないはずなんだよね だから、失うといっても、ただ持っていなかった状態に戻るだけだし、 それが苦になるのは本当はおかしい 財産や家族や思いや拘りや自分という観念を、失うのが怖いし苦になる でも本来持ってなかったものなんだよね むしろそういうものを一時期でも持てたことを感謝して、 失われることは当然だと思ってもいいわけだし 存在するものは全ていつかは無くなるし、 一人残らず誰だって全員そのうち死ぬし自分だって死ぬしね
233 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 08:59:11.71 ID:+him59YR
>>229 体を私と思わなくなれば、苦はなくなるようですよ。でも、霊体?とかになるという
意味なら、それぞれの体に応じた苦はあるんでしょうね。
こつこつが一番大切で、難しいです。。。
234 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 11:43:10.33 ID:LH1yFWhL
>>233 そうですよね!
体は、私じゃない!
そう思うことが、外を向き続けている私が内に向かうための最初の一歩!
ですよね!
235 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 11:48:31.91 ID:LH1yFWhL
「思う」が、「感じられる」ようになって、 「あぁ、そうかぁ!」から、 「そうだ」、 そして、その先はわかりませんが、それが当たり前みたいになれば、 その頃には、苦しみがなくなっているのかもしれませんね!
236 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 12:13:17.84 ID:+him59YR
>>熱心なLH1yFWhLへ 『体の意識は、間違った「私」です。この体の意識を放棄しなさい。それは、「私」の源 を探すことによりなされます。
237 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 12:15:38.54 ID:+him59YR
体は「私は存在する」と言いません。「私が体である!」というのは、あなたです。 誰がこの「私」か見出しなさい。その源を探求することで、それは消えます。』 talks p169から 少し意訳 分けないと書き込めない。。
奇跡も自分の意識がないと存在できないもんな それを粒子とか宇宙とか色々考えるからわからなくなるだけかもな
239 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 15:07:50.90 ID:LH1yFWhL
>>237 そうそう、分けないと書き込めないですね。。。
段階というか、順番があるみたいです。
外から内に向きを変えようとしても、不安定。
体じゃないと思ったり、放棄したり、いろいろしながら、
源を探求し続けていると、少しずつ安定してくる。
240 :
神も仏も名無しさん :2012/09/13(木) 15:13:33.27 ID:LH1yFWhL
思ったり、考えたりして何とかなる?ことはないかなぁ。 頭で考えることが少なくなってくると、 源を感じることが少しずつ増えてきて、 ハートから出ないよう、いつも気を付けていると、 あぁ、そっかぁ、みたいな。
やろう!と本気になれないからなかなか理解するのは無理だろうな 自分を無限に拡大すれば自分が無く、同時にまた自分だけしかいないことに気付くには、本気具合が足りな過ぎ このまま一生を終え、それをまた何度も繰り返すんだろうな 大きな絶望や死しか見えない苦しみというものが、生を見抜くとてつもない可能性を秘めているようだからそんなキッカケ待ちかな、みんな わざわざそんな思いをしなくてもいい道があると聖者は語っているのに、僕らはみんなその道に向かって歩いているみたいだ 自分が大好きなんだよな、やっぱり
粒子とか宇宙とか外の世界ばかり関心を持って 自分の意識には関心ない無頓着だから駄目らしいんだよな 神も世界も奇跡も自我無しに存在できないもんな なるほど、そうだったのか!って気はする
244 :
神も仏も名無しさん :2012/09/14(金) 05:55:05.48 ID:cKMpMNOR
うーん、正直なうなずける意見が出てきてるのがうれしい。。。
でも、いわゆる空間の「無」は二元論の域を出ないよね? 認識する者がいる限り、それは無という名の認識対象ということだから。
とりあえず「それ」を道(タオ)って呼んどくわ って昔の偉い人が言ってたらしいよ。
>>245 そんなこと言い出したらキリがないじゃんw
だからまずは「私は誰か」から始めるんでしょうな。
>>246 へー、タオって名前だけ知ってた。メモっとくw
まぁ、言葉で伝え合ってるかぎりキリないのは分かるけどね。
月でも指でもなさげならもう「概念」でいいじゃんて・・・エゴだねこりゃ
ラメッシの教えは納得行くけど 良さげなアイディア閃くと「俺が考えた」と思いたくなるし 嫌な事あるとこれを神の意志と思おうとしても 受け入れたくないと思ったりする。
249 :
神も仏も名無しさん :2012/09/19(水) 01:12:32.81 ID:xuzZMaZI
>真空は全くの無ではないんだよ それはおかしい。微粒子があるならそれは真空ではない。宇宙空間は真空ではない。 という事。真空とはあくまでも概念的な存在。
質問者 あなたは、われわれがその内部に神的な中心を見いだすであろうと言われます。もし個々人が中心をもつならば、 何百万という神的中心があるのでしょうか。 マハルシ 円周をもたないただ一つの中心だけがあります。内部に深く潜り、それを発見しなさい。かれあるいは見る者 つまり真我に対して瞑想すれば、すべてのものがそれに変えられる「私」という心のヴァイブレーションが生じます。 「私」の源をたどれば、原初の「私は私」(真我)だけが残ります。これは言い表わせないものです。 (ラマナ・マハルシ『不滅の意識』第10章 宗教の意味 243Pより抜粋)
251 :
神も仏も名無しさん :2012/09/19(水) 20:24:21.83 ID:T5MYXOcU
>円周をもたないただ一つの中心だけがあります はじめてみる表現ですね。英文が気になります。どういうことを表しているんでしょうか。
252 :
神も仏も名無しさん :2012/09/19(水) 23:29:21.62 ID:K6PIYlb1
>>251 原著は、「Conscious Immortality」ですねぇ〜
フリーダウンロード版は、フランス語しかないです。。。
253 :
神も仏も名無しさん :2012/09/19(水) 23:43:27.86 ID:K6PIYlb1
フランス語だと ↓ Il n’y a qu’un seul centre qui n’est limité par aucune circonférence.
254 :
神も仏も名無しさん :2012/09/19(水) 23:54:37.85 ID:K6PIYlb1
Talksですと、Talk 219によく似た文章がありますが、 マハルシが伝えたかったのは、そこじゃなくって、 「私」の源をたどれば、原初の「私は私」(真我)だけが残ります Tracing the source of ‘I’, the primal ‘I-I’alone remains over みたいですねぇ〜
255 :
神も仏も名無しさん :2012/09/20(木) 05:45:31.37 ID:UEkJWPwd
256 :
神も仏も名無しさん :2012/09/20(木) 08:31:39.99 ID:NcllM4NR
257 :
神も仏も名無しさん :2012/09/20(木) 09:01:24.69 ID:NcllM4NR
「不滅の意識」は、冒頭の「覚え書き(6P)」に記載されているように、 Talksなどとは、ちょっと違っているので注意して読む必要があるようです。
おまえら何が必要か、なにをしなければならないか、すでに知っているだろ 足踏みしたがる欲望はなんだ?
259 :
神も仏も名無しさん :2012/09/20(木) 10:39:35.06 ID:NcllM4NR
マハルシの教えでは、潜在的傾向(vasana)は、努力して弱らせることはできても なくすことはできないみたいです。 なので、足踏みしながら、毎日コツコツ源を意識し続けるしかないみたい。。。 (;^_^A
真我に気づけば普通に暮らせばいいのでしょうね。 勿論ネット三昧もオーケーでしょう…。
自分の真我探求は正しいのか、自信がない。 みなさんがしてる探求の過程を教えてもらえませんか。
637 :神も仏も名無しさん:2012/09/19(水) 08:12:38.58 ID:2+8X0u0V 全てに貫かれている法則は一つだと思いますね。 それは、探究心、はたして何次元にあろうとつまるところはその土台がなんであるのか? 無我であるはずのその土台を知りたいという欲求が生まれる。 しかし、その欲求がその土台から生まれたことが不可解ではありますが。 私たちがわけも分からずにこの世界に生まれて来るのに似ていますね…。 638 :神も仏も名無しさん:2012/09/19(水) 08:16:17.37 ID:2+8X0u0V 自分を知りたい、見事に貫かれていますね…。 真我探求そのものが、真我の欲求だと思いますね。 その欲求が生まれなかったとするなら、私たちも、万物も存在していないと考えます…。
263 :
神も仏も名無しさん :2012/09/20(木) 11:46:46.68 ID:UEkJWPwd
>>256 ありがとうございます。
>>259 自分としては潜在的傾向(vasana)を消すことが悟りだと思うのですが。
それが可能かどうかはやってみるしかなさそうですね。 こだわりすぎると返って足がもつれますし、常に気づいている 当たり前過ぎて、それを忘れているほどに気づいている トライする価値はあると思いますね。
265 :
神も仏も名無しさん :2012/09/20(木) 15:48:54.13 ID:k4QLzBFu
>>263 僕も最初は、潜在的傾向をなくせるんじゃないかって思っていました。
が、真我であり続けたマハルシが「なくすことはできない」と。
なので、それを信じることにしました。
266 :
神も仏も名無しさん :2012/09/20(木) 15:51:07.23 ID:k4QLzBFu
ただ、なくせれないからと言って、そのままにするんじゃなく、手放せるものは、すべて手放し、手放せないものは、すぐ近くに置いて、ごまかしています。
267 :
神も仏も名無しさん :2012/09/20(木) 15:56:11.42 ID:k4QLzBFu
潜在的傾向を弱らせ、源を感じ続けられれば、いつか真我が、とけこませてくれる。 マハルシの教えは、ホント、毎日コツコツです。。。 (;^_^A
創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね
毎日コツコツできるんなら、もう少し大胆に踏み出してもいいかも知れないな といっても寝る時間を削ってでも瞑想を増やすくらいだけど 彼の弟子の努力はコツコツではなく目一杯だもんな 時間が足りないとか、準備が整っていないとか、それはウソだもんな やっぱりやらなきゃならないことはやらないとダメだな オレのことだけど
270 :
神も仏も名無しさん :2012/09/21(金) 09:33:44.74 ID:1XRy89r5
『遺教経』にいわく、この故に、汝等、当に好んで心を制すべし。 これを一処に制すれば、事として辨ぜざるということなし。 秘密曼荼羅十住心論 巻第六
271 :
神も仏も名無しさん :2012/09/21(金) 17:11:46.47 ID:T23shDO+
>>269 マハルシの教えでは、
瞑想の時間を増やすより、
仕事をしているとき、
遊んでるとき、
瞑想以外の何かをしているときに、
源を意識し(感じ)続けるってことみたいです。
272 :
神も仏も名無しさん :2012/09/21(金) 17:13:52.47 ID:T23shDO+
あぁ、そうそう、寝てるとき(夢を見てるとき)も です。 (;^_^A
真我を疑っている場合は、そうするしかないかもしれませんが 疑う余地がなくなれば、何をしていても、たとえそのことを忘れていたとしても、それが潜在的に染み付いているはずですね。 私たちは日本人であることを意識しなくても、日本人であることに変わりはないように…。
そうして暮らしながら瞑想を続けていれば、或いは真我に溶けることがあるのかもしれませんね。
275 :
神も仏も名無しさん :2012/09/21(金) 19:01:22.05 ID:vrlyf7ck
>>273 そうですねぇ、疑っていてもいなくても、真我は「染み付く」ではなく、
あり続けていると思います。
私たちの考えや思いにかかわらず、真我は、あり続けている。
そうなんじゃないかって感じます。
276 :
神も仏も名無しさん :2012/09/21(金) 19:05:40.49 ID:vrlyf7ck
マハルシの教えは、「瞑想」じゃないです。 最初に生じる「心(私という思考)」の源を探り求め、そこに居続ける です。 それは、探求をしているときだけじゃなく、いつも ということですよぉ。
そうですね、真我は有り続けている。 しかし、わざわざそれを思い出さなければならないのは 潜在的には知らない、というスタンスをとり続けているのではないか、ということでしょうね。
278 :
神も仏も名無しさん :2012/09/21(金) 19:16:34.12 ID:vrlyf7ck
>>277 すみません。
細かいことが気になりまして(水谷豊風 笑)
「思い出す」ではなく、「探り求める」です。
源は、思ったり、考えたりして、見つかるものではないようです。
279 :
神も仏も名無しさん :2012/09/21(金) 19:19:41.37 ID:vrlyf7ck
源を覆い隠しているもの(障害物)を取り除くという行為を 毎日し続けるって感じで、忘れていたことを思い出すではないようです。 「知らない(無知)」は、覆いを取り除くことによって、「知る」になるみたいです。
そうですねw 源がないと思えるほうが、不思議な気がする今日この頃なものですから。 だからといって、けして特別なことではないとも思っています。 源は忘れたり思い出したりするものでもない、と感じています。
281 :
神も仏も名無しさん :2012/09/21(金) 19:23:01.88 ID:vrlyf7ck
いつも、ハートの中の源を感じ続け、ハートから出ないように 気をつけていれば、いつか、真我が、とけ込ませてくれる。 マハルシの教えは、そういうことみたいです。
282 :
神も仏も名無しさん :2012/09/21(金) 19:24:29.55 ID:vrlyf7ck
>>282 そう、ハート!
お互いに、そうあり続けましょう!!
日々の生活そのものが瞑想、しかしそれだけでは全く足りないからこそ、弟子達は瞑想を大切にしたんだろう 彼の教えがそうでないなら、弟子達もまた瞑想を大事にすることはなかっただろうな
285 :
神も仏も名無しさん :2012/09/22(土) 09:36:41.54 ID:7uLXm5yJ
決まった時間瞑想する → 瞑想が進歩する → 日常生活送ってても瞑想してる という流れだと思いますけど。
286 :
神も仏も名無しさん :2012/09/22(土) 10:45:02.02 ID:aOJ+iZlj
>>285 そうですね!
まぁ、決まった時間に無理してしようとすると破たんしやすいので、
やれるときにやれるだけって感じでもいいと思いますよぉ!
やれるときに目一杯やる強い意志が育ったときに、日常が本当の意味での瞑想になるんだろうな 我々のはほとんど起きていても寝ているだけだ
288 :
神も仏も名無しさん :2012/09/22(土) 11:21:48.38 ID:7uLXm5yJ
決まった時間するのは、確かに計画倒れに終わる可能性が高いんですよね。やる気ある時に 計画たてたりするから。 一方やれるだけにすると、ぜんぜんしなかったりする可能性もあるし、なかなか難しい。。。
マハリシやニサルガが現地のタミル語やマラティ語(?)で たぶんサンスクリットの「ディヤーナ」に相当する言葉を話して それを通訳の人がイギリス流の英語に翻訳した「meditation」という単語で 欧州や米国の出版物を通じて、世界的に広く普及してるわけだけど 聖人の画像や写真やブラフマンやシヴァやイシュワラ等の心に抱いたイメージに 精神集中する (contemplation ?) 技術的な側面を強調したニュアンスなので 仏教から日本独自の禅に派生した「瞑想」、雑念が消えた無対象の状態(?)を さす言葉とは、なにか違うような感じがする いい単語がなかなか思いつかなくて難しいけど 外界でなく‘自己意識に対して常に注意を集中させる’精神状態 …とか、やたら小難しい言葉になってしまう(汗)
追記: どうも言葉にこだわりすぎるのが自分の悪いクセで申し訳ないが カトリックに「黙想」( retreat ) という言葉があったのを思い出した これが一番近くて自分的にはしっくりくる気がする 修善寺のアジズ・クリストフが奨めるリトリートとは別かもしれない
291 :
神も仏も名無しさん :2012/09/22(土) 13:08:02.87 ID:aOJ+iZlj
>>290 マハルシの教えですと、「瞑想」ではなく、「探求」ですね!
TalksのGROSSARYによると、
サンスクリットは、vichara。
英語は、enquiry。
292 :
神も仏も名無しさん :2012/09/22(土) 13:11:08.99 ID:N0UAkwTe
瞑想のかたちというのはあくまで方法、手段であって本質ではないでしょう。 本当に強烈な体験をしたらたとえそれが一秒でも一日中影響するはずです。
293 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 00:27:37.19 ID:aDYtxaDq
>>292 そうそう、瞑想や探求は、手段(方法)であって、目的ではないですよねぇ
目的は、唯一あり続けている真我にとけ込むこと。
瞑想は、心を強くするための方法。
瞑想によって心が強くなったとき、探求を行うことをマハルシは勧めていますね。
294 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 09:37:35.43 ID:S/zxklPs
しかし、「手段であったものが、目的になる」ともマハルシは言ってますね。
真我探求そのものが、真我の欲求だと感じていますね。 探求が済めば、そこに留まりながら人生を味わう(探求の継続) それこそが存在のあり様そのものだと感じています…。
真我は自分自身を経験し続ける、そのために万物を生み出した。 人間の立場では知りえないあらゆる次元が、それを基点(基盤)にして そこから派生したのだと想像しています…壮大なロマン、あくまでも想像にすぎませんが 今ここにある肉体を明け渡したあとに、未知に明け渡したあとに はたしてどんな探求が続いて行くのか、ワクワクしています…。
297 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 15:44:59.13 ID:vJCR4JyW
>>294 マハルシの教えは、ほとんどが質問に対する答えで、その質問者の段階に応じて、言葉を編みかえています。
なので、その背景を理解して読み取らないと、マハルシが伝えようとしたことが正しく伝わりません。
298 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 15:47:42.95 ID:vJCR4JyW
具体的にどのような質問に対し、どのように答えられたのか教えていただけないでしょうか? マハルシの教えにぶれはないですからねぇ
299 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 15:58:14.24 ID:vJCR4JyW
あと、柳田さん、福間さん以外の訳書は、誤訳が多いので、英文を参照した方がいいです。 マハルシは、タミル語、サンスクリットで話されているので、英文も正しくないのがあるそうですよ。
>>296 真我は幻には無関係というスタンスだから
アドヴァイタにはそういうニューエージチックなものはないけどね
強いて言えば、そういうの期待してるあなたが苦しみの原因、幻という
厳しい教えだよ
301 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 17:10:59.00 ID:vJCR4JyW
>>300 僕もそう思います。
私たちが、あれこれ考えて理解できることではないんでしょうねぇ
次から次へとわき上がる、そういうものすべて削ぎ落とし続けないといけない。
まぁ、そういう意味で厳しいです。
302 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 17:38:31.99 ID:S/zxklPs
>>vJCR4JyWさん この引用の場合はあまり前後は関係しないかと。 手段(瞑想やジャパなど)が熟達すると、目的(真我)になっている。 手段が目的の性質を持たないと、目的に達しない、みたいな事がかかれてあったと思います。 ちょっと面倒なので、該当箇所はご自分で探してください。day by dayとかtalksにあるかと。 aim、meansなどで本文検索したらいいかも。
303 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 17:48:02.25 ID:vJCR4JyW
>>302 それですと「手段であったものが、目的になる」とは少し意味が違いますねぇ。
あと、そのような内容をtalksで読んだ覚えがあります。
それは確か、探求をするには、まだ心が十分強くない人に向けて話されていたはずです。
304 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 17:57:39.16 ID:vJCR4JyW
マハルシは、対象を瞑想することは、心を強くするのに役立つが、目的(真我にとけ込む)を達することはできないと。 瞑想により心が十分強くなったら探求を と言われています。
305 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 18:01:30.20 ID:vJCR4JyW
質問者の段階に応じて瞑想を勧めているときがありますが、それはそういう意味で、それ以外に何もないです。 マハルシの教えは、瞑想ではなく、探求です。
306 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 18:06:08.79 ID:vJCR4JyW
初期の段階の方法(手段)は、瞑想・ジャパ、何でも良いです。 それは、目的(心を強くする)を達することができれば良いです。 心が強くなったら探求。 目的は、ただ一つ、真我にとけ込む。
307 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 19:05:25.59 ID:S/zxklPs
「手段であったものが、目的になる」とも言ってますよ。心が強くない人向けという よりか、誰もが通る達成までの過程の話だと思いますけど。 また、たとえば、神の名のジャパをしていても、それにより真我に溶け込むとも いってますよ。瞑想(ディヤーナ)やジャパが真我の別名とも言ってますしね。 まあ、探求が、ストレイト・パスであるのは疑いないですね。
308 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 19:25:23.79 ID:S/zxklPs
マハルシ愛が感じられる方とやり取りできてよかったです。。。 ストレイトよりダイレクトだったかな。では、また。
309 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 19:59:12.38 ID:vJCR4JyW
>>308 それぞれの段階に応じて、いろいろな方法があります。
どの方法でも真我にとけ込めると思いますが、マハルシの勧める方法は、おっしゃる通り「直接的」で、揺るぎがないです。
お互い道の途上、頑張りましょうね!
(*^^*)
310 :
神も仏も名無しさん :2012/09/23(日) 23:14:20.36 ID:tEP6gcmB
あまりラマナの言葉にとらわれる必要もないと思います。 それぞれの段階といっても自分がどの段階なのか難しい問題です。 ラマナは沈黙が最大の教えであるといわれています。 私はキリスト系の祈りをきっかけに真我(ハートあるいはそのようなもの) への絶え間ない意識の気づきが生じています。 自分自身の真に従うことが最も大切ではないでしょうか。
311 :
神も仏も名無しさん :2012/09/24(月) 01:31:51.08 ID:A7gpXLMc
>>310 何を信じ、何に従うのかは、それぞれが決めればいいと思いますよぉ。
「沈黙が最大の教え」というのは、「ラマナの沈黙が最大の教え」です。
なので、沈黙していれば、それが最大の教えというわけではないんです。
何が真で、何が偽なのか?
それを見極めるのは、とてもむずかしいですねぇ。。。
312 :
神も仏も名無しさん :2012/09/24(月) 01:36:23.52 ID:A7gpXLMc
私たちには、先達というか、道を指し示す人が必要だと思います。 その人が「真」でなければ、袋小路に迷い込むことになります。 遠回りをしたいのか、近道をしたいのか、まぁ、そういうことです。 大悟小悟、いろいろ気付いても、ただそれだけで終わるってこともあります。 気付くだけでは十分でないんでしょうねぇ。
転職を機に、欲望や不安が多くもたげてきました。 仕事や、家庭生活など、実生活の指針になるような書籍があったらお願いします。 また、みなさんが指針としている考えがあれば、教えてください。
あるいは大切にしている言葉とか・・・ 最近「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が流行っているようですが、 勇気付けられた人も多いと思います
自分のまわりに起きてくる出来事を、素直に受け入れる覚悟をすることが、『自分の人生に恋をする』ということだ。 恋をしている相手のことは、なんでも好意的に解釈しちゃうのが、人情っていうもんだよね。 だから、自分の人生に恋をしている人は、どんなトラブルに巻き込まれても、自分を困らせる『人生』という恋人に対して、 『困ったやつだけど、そこがまたかわいいんだよなぁ』なんていう、寛大な気持ちで受け入れることができるはずなんだ。 ほんの少し、発想を変えるだけでいいんだよ 生きがいの宝箱ー人生に迷うすべての方々へ 飯田史彦
>>315 スレ違いだが、実際は精神安定剤で乗り切る人だから
どうも心に響いてこないな
むしろ自分の苦悩、弱さをさらけ出して先生ぶるの止めた方が…って
思ってしまう
>>300 禅で言うところの、見ている自分(観照者)を脱落して、未知に溶ける(個人を落す)
それが、真我に溶けることだと解釈しているのですが、そこから先は個人ではなく神の領域と言ってもよさそうです。
神の領域と言っ肉体に留まっている状態で知り得る悟りは、それが限界ではないのかと感じます。
そこから先がさらにあるのかないのか、それを知ることがあるのかないのか、それさえも、未知であると感じます。
だから、それが分かるまでは探求が続くと表現したのです…。
三行目の、神の領域と言っ…、は削除です。
録画しておいたジル・ボルティ・テイラーの番組を見てみた。 番組のナビゲーターらしき人が「彼女の体験は、悟りの状態のような」云々と。 たしかにテイラーは普通ではない経験をし、それを科学者というより女優のように すごく上手に伝えていた。ただし、それがイコール「悟りの境地」だとも思えない。 (もちろん、彼女自身も「私、悟りました」などと言ったわけではないが) 個人的には、彼女の内的体験は脳卒中を起こした部位に関係があるのかどうか? 他の部位でもそういう内的体験を経験した可能性はあるのか?を脳科学者である 彼女に語って欲しかった。本も出てるそうだが読んでないから、そっちに書いて あったら謝るしかないけどw
323 :
310 :2012/09/27(木) 01:15:35.84 ID:YBvltoJZ
>>311 >>312 私の意図は別なところにあります。
私は教えが必要ないと言っているわけではありません。
例えば、水を飲んでくださいといわれて飲むのと飲みたいと思って飲むのとは
違いますよね。後者が自分の真ということです。
別の例えをすると、ある目的地に向かうときに地図を見るとします、地図ば
かり見ていて周りの様子をちゃんと見なければ目的地に着くことはできません。
時には地図だけではわからず人に聞いたほうがいい場合もあるかもしれません。
さまざまな教えはここでの地図みたいなものです。
言葉は絶えず限界があります、それに対して事実には不足がありません。
324 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 02:20:27.08 ID:RvO8wul6
>>323 いろんな考え方、方法がありますから、否定はしませんよ。
「真」にもいろいろありますからね。
ま、それぞれがそれぞれの信ずる道を歩み、もし、間違っていると気付けば、改めればいいんですから。
325 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 02:22:27.63 ID:RvO8wul6
ただ、私が言いたいのは、間違いなく真我であり続けられたマハルシの教えに従うことは、迷いがなく、直接的だと言うことです。 お互い頑張りましょう!
326 :
310 :2012/09/27(木) 03:11:07.51 ID:YBvltoJZ
>>325 残念ながら私の真意を理解していただいていないようです。
私が言いたいのマハルシの教えにどうしたら従えるかということです。
それの拙い私の体験からの実感です。単なる考えではありません。
ある段階になると自分の努力以上にむこうから引っ張られます。
327 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 06:49:24.54 ID:RvO8wul6
>>326 うーん、、、そうですねぇ、まず私は、「どうすれば従えるのか?」については、お答えするまでもないんじゃないですか?
マハルシの教えを信じようと思えば従うことができます。
326さんは、信じていますか?
ただ、それだけのことです。
従うか、従わないか なんてことは、自分の意思です。
328 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 06:56:46.64 ID:RvO8wul6
あと、私はたとえ話しが苦手です。 簡単な話を、複雑にします。 禅問答も同様。 考えすぎなんじゃないかと思います。 あれこれ考えすぎて、返って遠回りしてる、そう思います。 素直にマハルシの教えに従えばいいだけです。 あれこれ考えず、まず信じることです。 真我は、「私」のつたない体験や考えであらわになるものじゃないと思いますよ! 頑張ってくださいね!
330 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 11:03:10.02 ID:RvO8wul6
>>329 ん?
質問の内容がよくわかりませんが?
(;^_^A
マハルシだってバクティは認めてるというか教えてるよ。 私を忘れるほどの瞑想、私を忘れるほどの帰依、そういうことだよ。 「信じる」「従う」のように能動的ではいつまでたっても「その状態」から抜け出せない。 疑わない。依らない。瞑想を「やら」ない(それが本当の瞑想だけど)。 ただ在れ、そして私を忘れろということ。単純だけど簡単じゃないんだって。 まずは「マハルシの〜」って冠(つまり月をさす指)を消すことからだ。
>>304 対象を瞑想することは、心を強くするのに役立つが
「対象を」作ったら瞑想は完成しない。それについての言及だと思うけど。
>>331 ,332 自分のいう"瞑想"はマハルシの言葉では「イメージなき沈黙」となってたわ。
誤解を生みたくないので一応。
334 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 13:23:53.00 ID:k6G3xZjF
対象への瞑想が成熟すると、対象と一体になり、それさえも真我に消える。 だから、別にある対象に瞑想してもOK。バガヴァーンは色々な道を教えてますよ。
335 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 14:00:14.54 ID:gh/QYUS5
>>331 「バクティは認めてるというか教えてるよ」
そうですね!
それどころか、マハルシの教えは、「源へのバクティ」です。
「私を忘れるほどの瞑想」
マハルシの教えは、そうではないです。
「源への探求をし続けると、最終的に「私」が源にとけ込む」です。
「私を忘れるほどの帰依」
これも違います。
マハルシの教えは、「忘れる」ではないです。
「源へのたゆまない帰依」です。
「冠を消すことからだ」
それは、それぞれの自由なので、そうしたければそうすればいいんじゃないでしょうか?
このスレタイに「マハルシ」がついていますので、マハルシの教えについて
コメントしただけですよ!
336 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 14:02:58.31 ID:gh/QYUS5
>>332 マハルシの教えは、「瞑想」ではないです。
なので、「瞑想」については、よくわかりません。
ただ、対象に対する「瞑想」は、心を強くするのに役立つ ということです。
337 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 14:06:58.77 ID:gh/QYUS5
>>334 そうですね!
マハルシの「私は誰か?」を読まれましたでしょうか?
それが、マハルシの教えの基本(源への探求)です。
マハルシは、否定をあまりしません。
どの方法でも一生懸命にし続ければ、たどり着くと思います。
ただ、マハルシが実践した方法は、より直接的だ ということです。
>>335 ,336
えーと、マハルシについて書いたのは1行目だけ(^^;
冠を消す云々は
>>327 ,328が「教えに従う、信じる」についてこだわるから書いたの。
ちなみにスレタイは「アドヴァイタ総合」だと理解してる。
339 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 16:09:41.33 ID:gh/QYUS5
>>338 あぁ、そうなんですか。
(^^;)
少し前に書きましたが、真我をあらわにするためには、あらわにされた方の教え(導き)が必要だと思います。
338さんは、「従いたくない、信じたくない」というのであれば、それはそれでいいんじゃないでしょうか?
ただ、それだけのことです。
このスレタイは、「ラマナ・マハルシ等【不二一元論】アドヴァイタ総合5」です。
端折るのは、いかがでしょうかねぇ?
340 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 16:11:28.00 ID:gh/QYUS5
もし、このスレタイが「アドヴァイタ総合」で、「マハルシの教えは関係ない」 と言うことであれば、今後、コメント致しません。 (*^_^*)
>>340 いいや、誰がどうでなくあなたが理解したまま理解すればいいと思うよ。
ちなみに自分は、ここにヴィシシュタ派の人が書き込んでも別にいいと思うし。スレタイが許してるから。
ラマナ・マハルシのいう「源」については良くわかった、ありがとね。
んでね、
>>339 従いたくない、信じたくない、わけじゃないんだ。
従う、信じるにこだわると油断すると"ア・ドヴァイタ"から離れそうだなって思ったから。
執着してなければ別にいいんだけどね^^;;
「何も知らないので、先輩に教わ(従う、信じるはココ)った後、アドヴァイタを実践する」って感じ。
>>341 ヴィシシュタってだめじゃん!!
>>1 にヴェーダーンタって限定してあったよorz
343 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 17:50:56.87 ID:k6G3xZjF
まあ、マハルシは別に信じろ、信じろ言いませんが、マハルシに信があるなら すばらしいことじゃないでしょうか。 >「何も知らないので、先輩に教わ(従う、信じるはココ)った後、アドヴァイタを実践する」 これはこれですばらしい態度だと思いますよ。これも信でしょう。まったく 信がないと何にもしませんからね。批判ばかりで。
344 :
310 :2012/09/27(木) 23:27:10.03 ID:YBvltoJZ
>>328 私は考え過ぎてはいませんよ。むしろ何も考えていないくらいです。ただ
<自分の感覚を大事にすることがどんな教えを実行するにしろ大切だと思う>
だけです。
一日中自動的に瞑想状態が続いています。心がとても静かです。そして日々
深まっています。日常生活でさまざまな困難な問題がありますが全く影響され
ることはありません。
前に真我への気づきと書きましたが、実際にはうまく表現できませんがそう
いった感じでもないです。とてつもなく巨大なものが自分の中にあるそし
てそれは自分自身でもあります。あるいは自分はこの世界にいないような
夢を見ているような感じです。といっても全然違いますが、、、
ハートの強烈な感覚もあります。そしてハートは自分であり全てです。
頑張って下さいという言葉を頂きましたが、探求において頑張るという
感覚はありません。全ては自分の意志とは関係なく進んでいきます。何かを
する余地はいろいろありますが頑張るというより楽しむといったほうが
しっくりきます。
345 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 23:29:41.94 ID:RvO8wul6
>>342 まぁ、いいんですけどね、一つのこだわりに集中することにより、他のこだわりすべてを削ぎ落とすって感じです。
で、こだわる対象が、こだわり続けることにより、それ自信もなくなる。
マハルシは、薪をかき混ぜる棒をたとえにすることがよくあります(たとえ話は好きじゃないですが、このたとえはわかりやすいです)。
本質的なこだわり(執着、潜在的傾向)は、なくすことができない と言うのが、マハルシの教えです。
こだわりをすべてなくせると言うのであれば、そうすればいいんじゃないでしょうかねぇ〜
ま、ここで、マハルシの教えを説明する意味がなさそうなので、ここまでにしておきます。
目指すゴールは同じだと思います。
頑張りましょうね!
>>344 そういった境地に至るまでにはどうしたらいいのだろうか?
絶えず「私」を意識していたら、そうなれるんだろうか?
教えてください。
347 :
神も仏も名無しさん :2012/09/27(木) 23:50:46.70 ID:RvO8wul6
>>344 そうですか、それはうらやましいですねぇ〜
では、頑張るではなく、楽しんでくださいね!
私は、一時的な静寂が続いたり、
ハートの中の源から何かがあふれだし、私を包み込んだり、
源と私の境界が曖昧になったり、
私と私を取り巻く大いなる流れを感じ、私がその流れの中で、流れることなくあり続けたり、
まぁ、いろいろありますが、
まだまだ努力し続けなければならないようですので、頑張ります!
348 :
310 :2012/09/28(金) 00:16:21.04 ID:zFEzNjDd
>>346 あくまで一つの意見ですが。
頭で考えたことではなく、本当に実際に自分が引かれることをするのが一番
いいと思います。それは一つだけではないかもしれませんしその答えはご本人
にしかわかりません。
個人的には祈りや、悟った人に会うことはよいことだと思います。
個を見て何か解を得るということは、見ている者のヴァーサナゆえなんでしょう。 結局誰かを対話してるようであっても、実は「私」は「私」と対話してるに過ぎないんだろうね。
350 :
310 :2012/09/28(金) 02:46:18.73 ID:zFEzNjDd
>>346 大事なことを忘れてました、大切なのは方法ではなくて熱意ですね。
死ぬときに後悔がないだろうかと考えてみるといいかもしれません。
ガンジーは、どっかの晩餐会かなんかに招待されたとき「ただし、その格好では困ります。 正装でお願いします」と言われた。するとガンジーは「わかりました、では私にかわって 洋服が出席いたしましょう」と。 裸のガンジーを「真我」とすると、洋服は「我」、「個性」、「エゴ」あたりかな? まぁ、その会の主催者が招きたかったのは、「洋服」ではないことだけは確かだw
352 :
神も仏も名無しさん :2012/09/28(金) 07:22:24.46 ID:/Sop5i9s
同じような話がマハルシについてもあったね〜。ある信奉者が何も贈り物を持たないで 会いにきて、何も持ってきてないのを後悔していたら、マハルシは、一番肝心の あなたが来たじゃないか、と言ったというお話。
353 :
神も仏も名無しさん :2012/09/28(金) 14:35:44.97 ID:4socoyXE
ええ話や
幼くてもはじめっから瞑想ができる子っているんだよなあ そんな子を見ていると過去の努力が今生に生きるんだなあと思う たった一回ですべてと溶け込むような方は、死ぬ気の努力を何度も繰り返し生きてきた結果なんだろうな そんな方でさえ、そこから何十年も努力して自在になっても、まだ完成なのかわからないと言っている 神自身が自分を知らないとしたら、永遠にそれが続いていくのか 永遠に続いていくことが続いていくのか そこにいる自分は絶対に無くなることはできないのかもな そこにいるんだからしょうがないのか
355 :
346 :2012/09/29(土) 00:08:14.48 ID:cuNOdQep
>>348 感謝です。深く考えてみたいと思います。
パンパカパーンすり師マラナ丸橋さんに気をつけましょう。
それはとても巧妙に、まるで自分がマハルシであるかのように、あなたに語り掛けてきます。
自分自身を、自分の体の影や、体が映ったものや、夢や想像のなかで見る体と同一であるとみなすことはない。 したがって自分自身を、生きている自分の体とも同一とみなすべきではない。 ──シャンカラ(788〜820)。『智慧の髻宝』
359 :
神も仏も名無しさん :2012/09/30(日) 15:06:13.13 ID:9vwiQ53Y
素晴らしい。。。
シャンカラみたいな悟り人にリアルで出会ったら ウオ〜俺も悟ろう!がぜんやる気沸いてきた! みたいになるのだろうが 何か生きてて括が足りないからやる気でん 宇宙の話とか聞いてたら広大な宇宙でちっぽけな自分が 本当に悟れるのか?って弱気になるわ
361 :
神も仏も名無しさん :2012/10/02(火) 02:46:29.45 ID:Uao8/KuX
そもそも、ちっぽけな自分って思うのが間違いだって言われるだろうな。
わざとちっぽけな自分になることで、そこから成長する楽しさを味わおうとしている という考え方をする教えもある
私などは、ただの探求バカになってしまったw どこまでも探求することが真我の歓びだと思ってる。 結局はずれはない、信じられないと辛いと思うが…。
>>360 それはない
悟り人の周りにも、その道を歩こうとする者はわずかしかいなかった
実際にその力、その強さを前にしてさえ従おうとしない者がほとんど
いま努力できない者はそばにいても変わらない
努力しないからめぐり会えない、というのも事実なんだけど
でも悟り人を殺すためにやって来る者でも巡り逢える可能性はある
殺しに来て真理に触れる者もいる
過去の種がどこに潜んでいるかはわからない
いま努力すれば、いずれその種はいずれかならず実ることは間違いない
>>364 その物語自体が現代社会では完全に疑問視されてないか?
366 :
神も仏も名無しさん :2012/10/03(水) 08:16:32.78 ID:pJnXjzey
努力して得るもの 努力しないと得られないものっていう考えは何処から来たの? すぐそこにあるものを周囲の水をかき回して どこかへ向かいどこかで手に入れようとしたら 見えなくなる一方じゃないのか 何もしないという事をしてみた事はあるの?
367 :
神も仏も名無しさん :2012/10/03(水) 10:15:26.53 ID:zNiu8nzD
マハルシの前で「やる気がでないんですけど」みたいな質問をしている人もいましたね(笑)。 目の前にいても、バリバリするぞーってなるのは少数派であるイメージ。仏教では、法にあう ことがすごい稀有で、ありがたいことだというように、聖者の教えにあうのもすごいありがたい ことなんでしょうね。でも、なかなか本気になれない情けない自分。。
ラマナ・マハルシの本は読んだことがないのですが、 イエスやキリスト教については何か言ってますか? ラーマクリシュナが肯定的だったことは知ってますが・・・
職場の苦しみがいつまでもつきまとってきます。 正直、物質的な満足と、たとえ迷妄であろうと自分を支えてくれる世俗的な満足 を隠れみのにして、死ぬまでを乗り切りたいんですが・・・ 悟りを開くか死ぬかって感じです。
370 :
神も仏も名無しさん :2012/10/03(水) 13:53:22.94 ID:zNiu8nzD
少なくとも否定的なことは一言も言ってません。聖書に書かれてある言葉を、 真理が表現されたものとして、引用することもしばしばあります。だから、肯定的です。 ・I AM THAT I AM 旧約聖書の出エジプト記からの引用みたい。 ・The kingdom of God is within you とか 上の言葉なんてヴェーダ全部をまとめた言葉である、みたいなことすら言ってますよ。 みたいに。
371 :
神も仏も名無しさん :2012/10/03(水) 13:55:00.40 ID:zNiu8nzD
「みたいに。」は余分でした。
だいたい、常に「わたしはだれか」を意識したからと言って、それがなんになるのか。 意識しないのとなにがちがうのか。 苦しいだけなら、麻酔(迷妄、物質的財産)を打ちつづけて苦痛を感じずに 生きるの方が間違っていないのではないのか。 そのくらい苦しいです。
>>370 ありがとうございます。
私はクリスチャンではないんですが・・・でも真理の
共通性、普遍性ということで、大変励まされます。
親しい人の苦しみや、自分の苦しみ、ほとんどの人は
それに耐えているのでしょうが、私は無理っぽい。愛した人が苦しむのは、考えただけで
苦しい。
374 :
神も仏も名無しさん :2012/10/03(水) 15:07:10.65 ID:pJnXjzey
悟ったとして苦しんでいる事を苦しむ事は無くなるだろうけど 大事な人が苦しんでいるのは誰でも苦しい 考える、予想するのは言わずもがなただの妄想、それは恐怖であって 詰まるところ自分を構成してるものを失う事への恐怖であって 自分が外部によって形作られた空っぽのものだと気付く事にも繋がる。 喪失感とは何を喪失するのか、失われようとしてるものはそれ自体なのか 自分の中の存在が失われそうで恐怖するのか。 僕は自殺願望と大事なものを失う恐怖、両方を抱えて自分を追い詰め そこにある恐怖を凝視し続けそれに自我が耐えられず 「もう出来る事は無い」と手放した後に目覚めと思われる経験があり それ以来、何かを得た訳でも失った訳でもありませんが 唯々、起こる事を受け入れるしかないんだと諦観と解放感どちらもありながら 澄んだ意識で日々を過ごすようになりました。 あなたにも心静かな平穏な日々が訪れますよう祈ります。
苦しみは、自分が苦しみなんて願ってもないのに起きてしまうし、だからこそ苦しい でも苦しみは自分の中に起きている どこから、どうして、起こってるんだろうね 人はどうして、何かをしようとしたり、何かをしないと気がすまなかったり、 何かをしてしまうんだろうね
>>374 ありがとうございます・・・。
納得のいくことばかりです。
あのあと、少し外出しました。恐怖は少し収まりました。
というのも、ラマナの本を買おうと立ち寄った本屋で、4年半ぶりに元々彼女を発見。
金銭的体調的に不調なひとだったけど、気がかりだったのが、元気そうで・・・
そして、一昨日は、前の彼女が、今の彼と籍を入れたとの情報・・・
どちらも、両親をのぞけば、もっとも不幸になって欲しくない人で・・・
もともと恵まれない方たちだったので、不幸になったらどうしよう、といつもいつも恐怖の対象でした。
先日より、神に祈りを捧げていました。 あなたのレスも含め、これは神による恩寵なのでしょうか?わたしの恐怖が幻影に過ぎないという・・・ 今、心が穏やかです。 もちろん、どんな情況においても(喪失においても)変化のない平安ではなく、 彼女らの幸せを確認した安堵であり一時的な過ぎ去るものでしょうが・・・ ただ、なんとなく思ったことは、不幸も幸も恩寵であり、当たり前のことと思えることほど 感謝の対象なのではと思いました。 全ての経験が・・・。
>>375 どうしてか・・・どうしてでしょう。動かないと、わたしの愛した人たちが
あるいは世界中の人たちの苦しみを無視しているようで・・・
>>376 の動画も何度も見ていますが、自分に留まること、「私」に入り込むことが、
他者を置き去りにしているような気がして・・・
実際は違うのでしょうね。
いろいろありがとうございました。
>>375 ACIMはそれをエゴの仕業と言ってるな
381 :
神も仏も名無しさん :2012/10/04(木) 01:29:18.58 ID:ux3sVWM+
自分の中に苦しみが起こってるんじゃなくて 苦しみが自分だと気づけばもうバカバカしくて 苦しむの止めるから
ヒンドゥーの考えでよく「人間はマーヤーのカーテンにとらわれてる」的な言い方があるけど ひょっとしたら、『「私」が存在して、その私がマーヤを見る』というより、 『幻としてマーヤー、その内側に「私」がマーヤーの部分としてある』のかなあ 幻の外側からすれば存在は無く、幻の内的論理として存在が有る…無くて有るから、幻と言うトートロジーでしか語れないけどさ
「私が幻を見る」、じゃなくて「私が幻」
私は○○と言えるものはみな幻、みたいな表現してたのってマハラジだっけ? 「私」は幻だし、「私は幻」も幻だよね 幻と幻でないものを分ける区別自体も幻だし 幻とかそうでないとかいう観念が幻だよね 幻という観念が幻、幻はない、全てが幻、真我のみが実在、いろんな言い方があるよね
俺だけかもしれないが、歴代覚者たちには差違というものが無いように思える 各人は言ってる内容が違うように思えるが、みんな共通の場所から話をしているように思う 例えるならCDプレイヤーは一つで、そこから出てるスピーカーが複数あるような状態 スピーカーの差違はあっても、その向こうには一つのCDプレイヤーしかないから、差は実際には無い 俺らもスピーカーに過ぎないのだと思う 奇跡の類を起こせる人たちがたまに口にする、私がやったのではなくて私を通して神が行ったという言葉も、 根源が実在であり、私はただのパイプに過ぎないという意味を表してるんだと思う
386 :
神も仏も名無しさん :2012/10/05(金) 10:08:05.85 ID:ZusssXeG
覚者は性能のいいスピーカー、我々は壊れかけのレディオ。。
他人のドッペルゲンガーを初めて見たんだけど、アドヴァイタではどういう見解になるのでしょうか? 真我探求と関係あるのかな?詳しい人教えて。
本来はなにものでもない「まっさら」 ↓ 何かについて思ったり考えたりする←ヴァーサナ ↓ 積もり積もって束になる←自分(と呼んでいるもの) 意図的に「まっさら」であろうとしなくてよくて、 想念が起こるたびに「まっさら」であることを わかっていればよい。
389 :
神も仏も名無しさん :2012/10/06(土) 08:06:00.78 ID:5KAd5CIt
すくなくとも、それはマハルシの教えと違いますね。
アプローチの仕方の違い 探求の結果その意味を知ることになる。
391 :
神も仏も名無しさん :2012/10/06(土) 17:17:27.92 ID:5KAd5CIt
それもまた、マハルシが言ってないことですね。
他人の言動を、マハルシの教えかどうか、マハルシが言ったかどうか、断定していくことは、 マハルシの教えか、マハルシが言ったことなの?
393 :
神も仏も名無しさん :2012/10/06(土) 18:14:45.55 ID:5KAd5CIt
それもまた、マハルシは言ってないですね。
>> ID:5KAd5CIt それってどれ?
397 :
神も仏も名無しさん :2012/10/07(日) 06:00:04.39 ID:yhmHMLl4
どうも、悟った人のように語る人を見ると、個人的意見であって、マハルシの 教えと違うといいたくなってしまうね。だまされる人がいそうで。。
>>387 何か意味ないらしいよ
例えば俺が死んで家族の写した写真に俺が心霊写真として
写ったとしても死んだ俺本人はまったく自覚ないらしい
自我意識のエゴがあるからそんな幻影をみるんだって感じだったと思う
家族が死んだ遺族に逢いたいとかそんなこと考えるから そんな幽霊みたいな幻みるんだみたいな感じだったと思う
幽霊が幻みたいなものってのは一理あると思うな 仮に幽霊が居たとしても人間みたいな五感とかあるわけないんだから 人間が想像してるような向こうもこちらを意識してるみたいなのは 人間の想像だからな 寝てるだけなのに夢の中で必死に何かから逃げるみたいな 本人もよくわかってない無自覚さはあるかも知れない
まあオカルトめいたようなドッベルゲンガーや幽霊はもちろん 物理的に生きるといったような深いテーマまで幻影なのがアドヴァイタだからな
常世(トコヨ)=永遠の世界 現世(ウツシヨ)=映された世界 ユングのイメージだと、この世は巨大な瞑想者の瞑想の中の世界なのだと・・・ 本当の実存の世界はまた違うのかもね
>>398-402 なるほど。ドッペルゲンガーや霊も、あれこれ定義や名前が付けられてるけど
結局はそれ自体が自分が夢の中で作り出した幻ってことなのかな。
そうだね 客体と主体がある時点でアドヴァイタでは永遠の真実ではないね 悟りを開いた人はドッベルゲンガーだろうと幽霊だろうと 他者と自分との隔たりなんか感じない 一つの実在、真我しか存在しないらしいから 真我の光で消え失せるんじゃないかな?そんな幻は そんなのを我々の世界では成仏すると言うのだと思う
他人のドッペルゲンガーのようなものを見た そのように自分の心は思った ってだけで、それを解釈しなくてもいいんじゃない? それがなんなのか、わかるときにはわかるだろうし、 わからないならわからないままだろうし、 どちらかの結果が与えられるというだけじゃないかな
見る聞く感じるは重要じゃないじゃないか。 世界の中のお話だもんね。
まあ、ただそれを悟りとして体感するまでは、二元の世界で 遊んでいてもいいんじゃないかなぁ。実感は二元で生きてるのに、頭だけで一元的に 解釈(したつもり)になるのは、逆に危険なことだと思う。 本当に悟っていたら、解釈することもないだろうしね。
何かの本で、「神は認識できるか?」の質問に、 「できない。なぜなら神は主体だから、常に見る側である。」という答えがあり、非常に印象深かった。 ただ、それはあくまで悟り(心神合一)の境地における認識であり、われわれが二元世界にいるときは、 あくまで客体として祈ったり憶念したりするのが我々の修行、とヨガナンダがいっていた。 とあるキリスト教の修道院でも、もう本当に祈りをするのは、神との合一を体験する為、 という明確な目標があったりするとのこと。 イスラムスーフィズムでも大目的、かかげるテーマは「神との合一」であり、 その際は忘我の中で「私は神である」と発言して既成宗派から異端視扱いされたりしてたらしいから、 まあ二元視点と一元的な視点では、同じ発言でも意味がまったく違うんだろうね。
というわけで、われわれは口ではまぼろしまぼろしといいながら、いったんPCから離れると、 まぼろしのコンビニに行ってまぼろしのコーヒーをまぼろしの金を払って買ったりする。 で、店員に「これはまぼろしだから、お金は払わないよ」とは言わずにちゃんと金を払い、 職場でプレゼンするのに、「まぼろしなので、解釈しないでください」とは言わずに、言葉で説明しますよね。 であるのに、なぜか同じ二元世界の現象であるドッペルゲンガーや心霊写真については特別扱いで 「まぼろしだから解釈しない」というのもちょっと不自然な気もしなくもないw
ドッペルゲンガーが目の前にいるなら、何だろうと考えたり解釈するえばいいんじゃない? でも、いま、目の前にいないのに考えるのも不自然だと思うけど いまコンビニにいないのにコンビニで払うことについて考えたり、コンビニが何なのか解釈する必要は ないと思うよ コンビニにいるときや、お金を払うときだけ、言葉で考えたりお金を払えばいいんじゃない?
あとさ、お金はいくら払うか考えればわかることだけど、 ドッペルゲンガーはわかるかどうかわからないことだよね お金を例えをするなら、ドッペルゲンガーに関して考えることは、 お金が本当にお金かどうかとか、お金に意味があるのかとか、 考えるのと同じことだと思うけど 提示された金額を払うだけで、お金についてあれこれ考えなくてもいいんじゃないの?
>>410 人に聞いたってわかるもんじゃないでしょw
>>409 確かに。まあ、普段から説明できないものだしね。
推測だけど、ドッペルゲンガーは、自我による真我実現の邪魔、あるいは、この世のプログラムバグだったりしてw
夢の中で見た話を現実のように言われたら困るけど 真我に気付いた悟り人から見たらドッペルゲンガーや幽霊とか そんな夢の中で見たような話なんじゃないの?
二元世界でもドッペルゲンガーや幽霊は夢に近いものなんだろう 誰でも見るようなもんじゃないし 話題が共有できてもないし、二元といっても実在する物質とは違うからな 夢は誰でも見るからあることはあるのだろうけど
ドッペルゲンガーを見たと言っても、 本当にドッペルゲンガーを見たのかはわからないんじゃないの? 瓜二つの唯の別人かもしれないし、幻覚を見ただけかもしれないし。 蛇を怖がってたら、縄が蛇に見えるってこともあるし。 どうやって自分が本当にドッペルゲンガーを見たと確証するんだろう?
>>410 それもちょっと牽強付会のような。
あなたもコンビニが目の前になくても、腹が減ったらコンビニに行くでしょ。
まぼろしだとは思わず、おでん買って確実に喰う気まんまんで。
ドッペルゲンガーにしても、目の前にドッペルゲンガーがいなくても、
そういう「ドッペルゲンガーはあるやなしやのテーマ」は存在しているわけで、
たとえば科学者なら「そのテーマ」を客体として二元論的に相対することになる。
別に俺がそれほどドッペルゲンガーに興味があるわけじゃないんだけどw、
少なくとも今は二元世界に置いて二元的に存在しているわけで、
その限りでは二元的に取り組んだ方が自然だと思うんだよな。
客体(コンビニ、ドッペルゲンガーというテーマ)と主体(それについて解釈する自分)というふうに。
悟ってないのに悟りを開いているつもりで、あれもまぼろしこれもまぼろしといったところで、
実は、けっこうそうじゃない。モノを選んでるんだよ。親がまぼろしといっても、
たまに電話したりするでしょ。
本とか読むと、安易に「全てはまぼろし」といいたくなってしまうが、 じゃあ、実際に、自分がすべての対象に公平に「まぼろし」として接しているのか、疑問なんだよね。 ドッペルゲンガーとかいう漠然とした、科学的に未検証なことに対しては、「まぼろし」とかっこよく 斬り捨てやすいが、じゃあそれと同じ態度であらゆる物事、あらゆる事象に対して、「まぼろし」としているのかな。 ドッペルゲンガーだって、科学的、心理学的、文化人類学的、民俗学的その他さまざまなアプローチができる。で、アプローチができてしまう以上、 それは二元的なもの。 自分はドッペルゲンガーに別に興味ないんだけど、それは興味の問題であって、 まぼろしかどうかとかいう問題ではない。 自分は少なくとも今の存在様式としては二元的であり実在的存在。 自分が実在なら、同じレベルで他のものも実在なんだと思う。 本当にそれがまぼろしになるのは、自分が実在、二元的な存在様式から脱却した時だと思う。
>>417 「コンビニ」と「ドッペルゲンガーというテーマ」は違うよ
「コンビニというテーマ」と「ドッペルゲンガーというテーマ」は同じだろうけど
「ドッペルゲンガーがありやなしやと話す」のは、「コンビニがありやなしや」と話すのと同じだろうね
コンビニとドッペルゲンガーが同じなら、
コンビニに行って中に入り買うように、ドッペルゲンガーに会いに行ってドッペルゲンガーかどうか確かめればいいだけ
でもコンビニには行って買えるけど、ドッペルゲンガーに会いにはいけないよね
何故だか考えてみたらいい
腹が減ってコンビニに行くように、ドッペルゲンガーに会いに行けばいいのに
>自分が実在なら、同じレベルで他のものも実在なんだと思う。 といっても幽霊や迷信が実在だ、といってるんじゃなく、幽霊というテーマ、 迷信というテーマが実在というわけね。
身体器官の反応上の二元性と、心の事象である観念をごっちゃにしてると思う
>でもコンビニには行って買えるけど、ドッペルゲンガーに会いにはいけないよね それは単に頻度や条件の希少性の問題では? ブラックホールを見た人や、ブラックホールに行けた人居ないけど、だからまぼろしとは言わないよね。
>>422 誰かの発言と間違えてるのか知らないけど、
俺は別にドッペルゲンガーがまぼろしなんて言ってないよ
俺にとってはコンビニもドッペルゲンガーもブラックホールも、
まぼろしかもしれないしまぼろしでないかもしれない
どちらかわからないという意味でまぼろし
ただ身体的に、コンビニは行けるし、ドッペルゲンガーは会えない
ブラックホールも見えないし、俺には確かめられない
あなたにとって、コンビニもドッペルゲンガーもブラックホールも同じならと言うなら、
それはそうかもしれないし、それでいいよ
自分の言いたいのは、コンビニに行くというのもドッペルゲンガーを机上で検証するというのも 二元的に客体として対峙するという意味で同じということ。 そういう意味でコンビニもドッペルゲンガーもブラックホールも同じということで、 誰もどれも同列に物理的に行けるもの会えるものとか言ってないわけです。初めから。
対峙する客体ていうけど、身体においての主客と、心の中や頭の中の主客はまた違うと思うけど
とにかく誰でも死んでいくし 死なない人なんて居ないんだよな 昔のギリシャなんかでは見せしめに殺されたりして 死がリアリティのある身近なものだったのだろう 俺たちはアドヴァイタのキリスト教でいうシャンカラとかの 預言者を信じたのだから真我という天国を信じるのが信仰ということなんだよ
ドッペルゲンガーがあろうと無かろうと 幽霊が居ようと居まいと 確実に誰でも訪れる死からの救いが欲しいから 真我といった天国を信じてるそれだけの話だよ 肉体的な死は絶対あるもんな、あるのか無いのかって話ではない
真我には幻でも、身体や心にはその幻が必要ってことかな。
>>427 例えて言うなら真我は天国であり地獄だよ。天国でも地獄でもないけど。
真我は信仰でもないでしょ。
このスレの人は「祈り」についてはどう思う? 原始仏教にある慈悲の瞑想、神道の祈り、ヒンドゥーのジャパ、 誓願、キリスト教の感謝、とりなし、懺悔、、、。 友人の創価学会員が自律神経失調症になってお題目を一日何十分も唱えて 快方に向かったとか。 なんでもいいから、祈りというのは必要なんだと思う。
祈りと一口に言っても、祈るという行為自体に集中する祈りや、 自分を明け渡すような祈りとか、いろいろあると思うよ。 慈悲の瞑想なんかもやり方次第でどちらにもなると思うし。 集中する祈りは、儀式の遂行やマントラとかと同じで、 ひとつのことに集中するせいで、マインドが他の余計な方へ集中しないから、 病んでる心が快方に向かうとかあるよね。 でもアドヴァイタ的には、明け渡すような祈りが、よりアドヴァイタ的だと思うけど。 集中する自分すら放棄して、向こうから来るものを何であれ受け入れるような。 それだと主体性が失われていくから、病気も快方も、その意味自体が無くなるよね。 どんな祈りであれ、やったらやっただけの答えや体験はあると思うよ。 ただ、与えられる答えや体験は、やり方によってかわるだろうね。
人間てとっさの時に祈ってたりするよね。 見ず知らずの人であっても生死をさまよっている現場にいあわせたりすると どうか助かりますように、と、自然に祈っている。 そこに何か秘密があると思う、根源的な何か。
自然に祈ってしまってるときは、それが自分ではどうしようもないことだと自覚してる 自分の力ではどうしようもないことだと自覚し、自分で努力するのではなく、 自分以外のものにどうにかしてくれるようにお願いをしてる だから、明け渡しが始まってるんだよね 自分が何かを出来る存在だとか、自分が努力によってなんとかしようというマインドを、 結果的に手放していってる
435 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 12:27:31.11 ID:PwnOh3xe
なるほど。。そうかも。
>>434 都合のいいお願いは明け渡しでもなんでもない。始まってもいない。
>>436 お願いが都合がいいか、お願いが欲求なのか何なのかは、いろんなパターンがあると思うよ。
それに明け渡しとは言ってないよ。
明け渡しが始まってると言ってる。
最終的には願いや、願う自分や、二元性がなくならないと明け渡すことにはならないよね。
ただ、マインドは人それぞれいろいろ持っているし、
自然に願うときは、その多くのマインドに中のいくつかを手放すことになっていると思うよ。
つまり、明け渡しが始まってる。
でも、不自然に願うとき、都合のいい願いを願うときなどは、余計マインドを作ってたり、いろいろだよね。
まあでも始まってもいないという言い方でもいいよ。 どこを起点とするかなんて、どうとでも言えると思うし。 誰しもすでに明け渡しが始まってるという言い方もできると思うし。
オルダス・ハクスレーの『永遠の哲学』に、「祈り」に関する章がある。 ハクスレーによると、「祈り」という語には、少なくとも四つの、はっきり分かれた 行(ぎょう)がある。すなわち、歎願、代祷、崇拝、瞑想である。 多くの人の場合の「祈り」は、歎願(自分のために何かを乞い求めること)である。 一時的に効験を得られることもあるが、たいていその結末は・・・・・。 自己中心的な歎願を手段として欲しいものを手に入れるのは一種の驕りであって、 それに見合ったネメシス(復讐の女神)がついてくるのだ、と。
>>437 多くのマインドのいくつか?
いつまでたってもなくならないよw
>>437 たとえば浄土真宗だと「あなたまかせ」とかいって、事態に窮した時に、
進退のすべてを阿弥陀仏に任せる、出来事も、自分の感情も、人間関係も、死後の成り行きも。
これなんかは明渡しですよね。
キリスト教の祈りもそうだと思う。
>>439 歎願、代祷、崇拝、瞑想、すべてやはり意味のあることだと思う。
ただ、エゴが勝っていれば、そのレスにかかれたとおり、驕りだろうし、
しかし、本当に自己に窮しての嘆願なら、それは「自己の有限性」「全面降伏(サレンダ―)」を
意味するので、「マインドに中のいくつかを手放す」は当たっていると思う。
キリスト教や浄土宗は「貧者、弱者の宗教」と言われるけど、それだけ窮して苦しみ
切羽詰った心理の人じゃないと、明渡しは出来ないのかもね。
「足るを知る」というのは老荘だと思うけど、
これも「現況を受け入れる=マインドフルネス」に通じると思う。
前にも書いたかもしれないけど、宗教学入門に、 「健康な人の宗教=悟りタイプ」 「病める人の宗教=救いタイプ」との類型があるとのことだった。 エックハルト・トールは、苦悩して解脱する後者のタイプを「十字架の道」といい、 自分もそうだったと回想しつつ、「いまここ」を実践することで、苦悩の道をとおらなくても 悟りを開けると言っている。 祈りは、やはり自分に窮しないとなかなか自発的に行わないから、 苦しい人にはキリスト教タイプが向いているのかもね。 逆に、苦しんでいない人は、キリスト教タイプは向いてないのかも。 権威的で傲慢になる人もいるからね。
ちがうかな、キリスト教も浄土宗も「凡夫のままで救われる」という。 煩悩だらけの、そのままの自分でいい、阿弥陀はすでに救ってる、という不可思議。
>>11 さんはまだいるかな?
自分も最近同じです。
真我に集中する、というのはどういうことだろ? 「私を意識する」のと同じこと?みなさんどうしてます?
446 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 07:15:55.72 ID:PfItq5ZF
同じじゃないですよ。その「私」は自我です。本当の自分である真我ではありません。
キリスト教も現在は儀式化して形式化したけど もともとはアドヴァイタみたいな客体も主体も無いみたいな ことは言ってたらしいんだよな 三位一体がそうだし、トマス福音書なんて聖書より前段階の イエス語録みたいなものも出てきてせれにはアドヴァイタみたいなことを書いてた
>>445-446 その自我、私に気付いて感じ続けるのって、言うほど簡単じゃない。
自分は考え事をしてる時とかにはっと我に帰るというか。でもしばらくするとorz
448 誤)感じ続ける 正)源を探求する
キリスト教の三位一体は当時の司教たちが 何を言ってるのか理解できないから大激論を交わした部分だからな 客体も主体もないみたいな物質=エネルギーみたいなのは基本的に物質主義者の 当時の司教たちにはまったく理解できなかったみたいだ だから確かに言ってたんだよ、真我体験みたいなことをイエスは
451 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 17:37:00.36 ID:PfItq5ZF
たしかに難しいですよね。 三位一体って確かにアドヴァイタみたいな気がしてきた。。。
ユダヤ教と違いすぎたら異端として排除されてたらしいけど 三位一体は間違いなくイエスが語ってた部分だから 排除出来なくて大激論を交わした部分なんだろうね
まあ、神学的、儀式的なものはともかく、後世にも聖テレジア、マイスター・エックハルト みたいな確かに不ニの境地に達したのではと思われる人物も輩出しているし・・・ 現代でも、シモーヌ・ヴェイユや神谷美恵子女史などは、キリスト教的精神で、 高みに達した人では?そういう人は、かなり居るのではないかと思える。
神学論争というのは難しいね。 唯識学派も中観派も、テーラワーダも大乗も密教も、 みんな方法論や解釈論の違いで、いうなれば悟りへの地図を見ながら道筋や 路線図をみて議論しているようなもんだろう。 法然だって道元だって明恵だって日蓮だって悟ってたと思うが、 それを言葉にしたときに、生まれる齟齬だろうね。
まあ人生っていうのは有限だからね 神学論争なんてしてる間はまだ余裕があるんだと思う 本当に切羽詰まって死をま近に感じられたならば もうわからないことはいくら考えてもわからないんだから 信じたグルの言うことはまま受け入れようって気になると思うな
ああ〜自分は無力だな〜ってのを実感してからが 信仰はより深まるんだって思う 神学論争なんてのは自分は何でもわかってるんだって エゴがあると思うからな
同感です。苦しみも恩寵? イスラームの聖者の詩ですが、 神「そなたらの私を求める苦しみのうめきを聴くと、いますぐにでも助けたいと思う。 だが、その声の甘美さに、しばし、聞き入っていたいという思いがわく」 随分いじわるな神だと思ってしまったけど、神を求めること自体が恩寵なのかも。
>>453 カトリックの環境で達した、
「自己喪失の体験」や「神はいずこに」の著者のバーナデット・ロバーツ(存命)もそうだよね。
興味深いのは、「自己喪失の体験」、「神はいずこに」の異なる訳者双方が、
彼女の行程と禅との共通性を指摘してること。
仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、その他もろもろ、
いずれもがその純粋な教えの部分には共通するものがあるのだろうと思う。
バーナデッド・ロバーツの動画がYoutubeであったな。
460 :
神も仏も名無しさん :2012/10/16(火) 04:52:17.10 ID:JfQGFZvp
自分も神は存在する。と思うが、それはキリスト教の様な人格神が本質とは思わない。 人格的な物を持ったスピリットは無数に、個人個人の心に従って現れるが、 その本質は非人格的な物なんだと思う。したがってそれは人間に関心も無ければ 善人であれ、とも思っていない。と言うより人間を認識すらしていない。 …危険思想かな?
人間にとっては危険思想かもしれないけど、そもそも人間なんてものないからね 人間と呼ばれる何かが、これこれこういうものを人間だ、と他と区別しているだけで
462 :
神も仏も名無しさん :2012/10/16(火) 08:28:31.64 ID:kpbJmp9h
善因善果・悪因悪果をマハルシは肯定してます。その結果を配分するのが神だと も言ってます。非人格的な神はブラーマンで、人格的な神はイシュワラと区別され てますね。どちらにしろ神は恩寵そのものらしいですが。
俺も本質は唯物的な面はあると思うよ 過去生でどれだけ悪事を重ねてても 今生で悟れば帳消しらしいから 神は成果主義なんだろうね 真我には善悪の意思なんかなく常にあるがままらしい
聖書にもハッキリ善人にも悪人にも差別なく 雨は降るし太陽は昇ると書いてあるもんな 真我というのがそういった唯物のような非人間的な境地らしいな
465 :
神も仏も名無しさん :2012/10/16(火) 17:52:10.26 ID:K7fYblns
私が覚えている例は、太陽が平等に照らしていて、花開くつぼみと花開かないつぼみが あるが、それで太陽のせいにできるのか、というものです。つまり、真我は 太陽のようにすべての生命を恩寵の光で照らしているが、それにふさわしい者しか その恩寵に気づかないということだと思います。例はシュリー・ラマナのものです。
466 :
神も仏も名無しさん :2012/10/17(水) 04:50:11.23 ID:iWS5rFzZ
しかし、結局人間は完全な悪人にはなれない、凶悪犯ですら。そういうのが「神の意思」 と考える事もできるな。無論弱肉強食の世界の成り立ちも…
467 :
神も仏も名無しさん :2012/10/17(水) 04:58:49.20 ID:iWS5rFzZ
ラマナは「神とは存在の一切です」って言ってた。そう考えれば、有神論と 無神論の違いは事実上消滅する。自分は学生時代これを読んで究極の哲学だと 思ったね。そして涼しい顔で(と想像する)こういう事を口にするこのおじいさんを すごい、こんな人間がこの世にいたのか。と思った。
ラーマクリシュナによると、母が幼子に食を与える時は、その子にあったものを与える。 だから、人格神があっている人には人格神として、無形の真理があっている人には そのように現れる。すべての宗教はそのようなもの。とか。 だから、ラーマクリシュナ自身、仏教の空の境地を体感したり、キリスト教のマリアの愛に泣いたりしてたとか・・・
まったく詳しくないのだが量子というのは同時に2か所に 現れるらしいんだよな つまり人格神のような神と非人格神のような神は 同時に存在できるんじゃなかろうかな 我々のマーヤーの程度によって実在するんだけど 蜃気楼のように現れたり消えたりできるんじゃないかなって気はするな 本質には神に意思はないって感じ
神が作り出した量子ですら同時に何か所に 現れたりできるなら神にできないわけないもんな
閑話休題
472 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 11:26:36.03 ID:7FWWtmVh
「それはあなたの心が作り出した幻影ではないのか?」という人間には、「個人の 心と宇宙の無限の存在は切れ目なくつながっている。人間は宇宙と断絶した存在ではない。 したがってその問いは無意味だ」という答えが与えられる。そしてもちろんこれを 受け入れないタイプの心にも「存在」は平等に力を与える。
最近、話題の暗黒物質とか暗黒エネルギーとかが 神の領域なんだなって思わん? 我々の世界の分かっている範囲ってたった4%だけなんだって 思うと、ほんと幻影の世界だよね。
>>470 それに似た表現だけど、
ちっぽけなわれわれごときに人格があるんだから、
神が人格として顕現するのも造作ないと思ってる。
でも、あらゆる宗教でやはり神とか真理とか言われるものの実体は、 「無条件の愛」なんだよね。善悪の判断を超えた。 まあ、それも人間の有限な表現力における表現だけど、、、。 無限とか永遠の平安とか表現されたりする。
われわれは愛とか幸福を日常で感じるけど、その果てしない延長線に あるものみたいだな。
477 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 17:10:49.80 ID:v5awqF8D
延長と言うか、その源。。。
>>474 神が人格として顕現したもの、それが人間だぜ。
むしろ、日常で感じないのが愛だろうな。 文字どおり、空気のような存在こそそれだ
480 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 04:14:38.60 ID:QEi+xfNW
ここに出ている思想全て真実だろうな。非人格神という概念を受け入れると、 人間の思想は完全に自由になる。危ないほどに…
知能低い動物は鏡に写った自分の姿を他人だと錯覚するらしいんだよな 人格神や幻影の類いも影とか反射とかの延長線なんだとは思う だってまず自我意識があるって前提が無いとそれらは存在できないからな 神は何も知らないあるがままに在るっていうラマナの言葉どおりだと思うな
482 :
神も仏も名無しさん :2012/10/20(土) 05:06:25.46 ID:F5/OlMNm
そこをどう考えるかによって様々な宗教が生まれる。それを身近な自然の精と考えるか。 宇宙の本質と考えるか。一種類のスピリットだけが神で後は悪魔だと考えるか。 何の意味もない幻影と考えるか…
イシューワラは居られます。われわれが存在する限り。
真我実現をしていない我々が、頭の理屈で神の有無を推測するよりも、 ラーマクリシュナが言うように「一度でも気違いみたいに神を愛してみろ」というほうが、 素直な気がする。
しかし人格神だとか神に意思があるんだとか考えたら 聖書みたいに不幸があるのは神に試されてるんだとかになるから 色々と理不尽に感じないかい? 実際に俺自身がシヴァ神みたいな幻影を見たことあるけど 特別にシヴァ神とかを信仰したりはしない 何の奇跡も起こってないけどラマナの言葉のほうを信じてるのは ラマナはそれだけの説得力がある素晴らしいグルなんだろな ラーマクリシュナをグルに感じるならそちらを信じればいい、それだけだな
人生は有限だからな わからないことはわからないとして 効率としてわからないことをいつまでも探求するのはかなりの時間の無駄だと思う グルを無条件に信じるのはそういった時間の無駄を無くす意味で大切だろうな
>>485 どのような姿を取ろうとも、その本質は形の無いエネルギーで、全て平等なものではあるんだよなあ
俺らもエネルギーの水瓶の中の、わずかな波紋にすぎないのかもしれない
488 :
神も仏も名無しさん :2012/10/20(土) 19:01:03.58 ID:N1CxWJ80
〉〉483それラマナのセリフじゃなかったっけ。 不滅の言葉で創造神はいるのかと問われて
489 :
神も仏も名無しさん :2012/10/21(日) 05:38:19.63 ID:poBLPahb
ラマナの人格神に対する考えはあまり定見は無いみたいだね。非人格神の哲学 に賛同はしてるんだろうけど。自分に怒りを向けた不可触民のおばぁちゃんを 神とみなしたり、母親の回復を神に祈ったりもしている。別に自然で違和感はないが。
490 :
神も仏も名無しさん :2012/10/21(日) 05:42:37.31 ID:poBLPahb
最近、立花隆の臨死体験を読んだり、アメリカの超心理学や、シャーマニズム に関する本を読んだけど、やっぱり人間とある種のスピリットとの交流って感動的 だと思う様になったな。その点ではヒンドゥーや禅的な、全てをただの無意味な 幻影と見なす感覚に違和感をお覚える様になった…
>>490 違和感の無いほうに進むのがあなた(私)の進む方向なんだろうよ。
まぁいずれにせよ他方を否定しないと進めないという事はない。
どこから登ろうが頂上は同じただ一点のみだ
私も同意ですね。
源泉があり、そこからの人格的存在が人間だけとは限らない。
源泉の顕現として導いてくれている存在と考えれば、人間以外の人格的存在も不自然じゃないなぁ。
人間自体が源泉から来ているのだし。
チベット密教は菩薩に供養する儀式があるけども、同時に空観とか
ヴィパッサナーとかもやってるし。道元も法華経を大事にしていたし、ヒンドゥーだって
多種多様な人格神を崇拝しているでしょう。
>>489 母親の回復を神に祈ったりもしている。
どの本ですか?興味深いなぁ。
493 :
神も仏も名無しさん :2012/10/21(日) 14:08:12.34 ID:yzF80QeW
collected works にそういう詩がありますよ。バガヴァーンはときどき神の 信奉者の立場で詩を書かれるようです。信奉者のためにそういう立場をとるん でしょうね。
ありがとうございます。私も身内の調子が悪いので、 参考にしつつ神に祈ってみるかな・・・
495 :
神も仏も名無しさん :2012/10/22(月) 02:06:53.20 ID:ca/xojRH
マハーリシの伝記にも出てたよ。その作者は何か全く特別な事だ。と例外的に 理解したみたいだね。アルナーチャラの山歩きを習慣にしていた時は、不可触民 のおばぁちゃんに怒鳴りつけられ、それを神の指導と考えて以後山歩きをやめた とも書いてあったな。あと弟子の祈りに反応して対外離脱してその前に現れた なんていうエピソードもあった。
行いや想いが良い人は神に全託すればいいんじゃないのかな 悪い人は悟る以外救われる手がないような気がするだけで 悪因果では神は悪魔の姿で現れて災いも降り懸かるんだろうと味方に思えないだろうと そういった人は自分が悪いのだろうけど自力で悟る以外ないじゃないかと感じるね
497 :
神も仏も名無しさん :2012/10/22(月) 03:34:16.18 ID:ca/xojRH
非人格神の考え方を受け入れて、神には本来何の思いも無い。と考えても、 そこから現れる神々やスピリットには人格、思想、個性が在るみたいだね。 最も、それと交流する人間個人の精神との相互作用で生まれるのかもしれないが。
非人格神には感情がない 感情がないのは冷たい、けしからん という連想が出てくるけど、感情って波を作るだけだよなあ 常に流動変化するものの最たる物が感情
異常者にナイフで刺されても自分にも責任があるとするのが アドヴァイタだからな 自我意識をもってこの世に再び現れたエゴのせいでそんな不幸に出会うわけで 神も悪因果をかかえてる間は時としてそんな不幸を招く災いですらあるからな 行いの悪い悪人が救われるには悟る以外ないよな 行い良い人は生まれつきアラブの石油王に生まれたりして アラーアラーと感謝できるのだろうけど
行いのいい人から見たら神は人格神で感謝できる対象なんだろうけど 行いの悪い不幸続きの人から見たら神は非人格で何の意思もない 不幸は空に投げた石が落ちてきて当たっただけの 誰にでも起こる自然現象だと思ったほうが気が楽だよな
>>497 相互作用、こちらが人格だから、あちらも人格として現れるのが
きっと交流する際に一番スムーズなのかも?
オカルトめいた話になるかもしれないけど、やはり高く目に見えない悟りに近い存在って
あるような気がする。
行いの悪い人が、自分に絶望して、神に己の進退を明渡す、 というのもあるような気もしますが・・・
人格神がいるという考え→自分の不幸はその人格神のせいだという流れが良く分からない。 人格神は信じてるが、自分の不幸は自分のせいだと思ってる。 自由主義国家の政府と同じで、そこまで細かく手を出さないだけでは。
>>503 そう、人間が引き起こす問題は、人間が解決できる問題、だよね。
ラーマクリシュナの直弟子のなかでも、ヴィヴェーカーナンダと並んで双璧と うたわれたブラマーナンダは、(おそらくは在家の)信者にこんなことを言っている。 「ラーマクリシュナは、一般の人の心が把握するには余りにも偉大だった。 ヴィヴェーカーナンダによってはじめて、師の教えを誰でも理解できるように なったのである。両者の教えは別々のものではない。 ・・・スワミジー(ヴィヴェーカーナンダ)の著作を注意深く勉強したまえ。 そして同時に、ジャパムと瞑想を熱心に実践しなさい」
>>499 アドヴァイタは、自分を刺した人間を「異常者」とは捉えないよ。
"痛みが起こった"という経験としか捉えない。
異常とか正常の基準なんて社会(共同体)上の便宜上の基準でしかない。不幸とか悪もね
まあそうだけど・・・ ラメッシ・バルセカールの本を読んで不快だった、というレビューが アマゾンにある。その不快を注視しているうちにわかるものがあった、と。 自分もどんな不快かと思って読んでるけど、確かに不快だなw 大乗の仏教では「慈悲」を重んじたり、「布施」「愛語」を推奨したりするけど、 そういうのは、アドヴァイタとはあまり関係ないのかな。あくまで「まぼろしだからw」で。
アドヴァイタでいう「まぼろし」は仏教でいう「無常や無執着」で同じ教えだと思うよ 「慈悲」や「布施」や「愛語」もそこを常なるものだと思ったり、それに執着したら、 ただの我欲だってことは仏教でも言ってるし、 アドヴァイタでも、執着ない「慈悲」や「布施」や「愛語」は尊重されてると思う 全てはまぼろしで、実在は真我だけであるとともに、 真我の現れとしての、現実のあらゆるものが尊重されてると思うよ まぼろしというのは無価値という意味ではなく、あらゆることから自由という意味じゃないかな 意識として自由でありながら「慈悲」でも「布施」でも「愛語」でもしたらいいと思う
まあ、心を遊ばせる余裕ってことだろうな。
>>504 誰だっけ……レヴィナスの言う神のあり方だったか(´・ω・`)
511 :
神も仏も名無しさん :2012/10/22(月) 18:12:44.40 ID:HiDR8VGp
ラマナのアドヴァイタと、現代のアドヴァイタのグル達は似て非なるものの ような気がする。よく選ばないとね。
>>503 ,504
なるほど
つまり人格神を信じてる人は健康でアラブの石油王に生まれるのも
体が不自由な上にストリートチルドレンに生まれるのも
人間側の自分の責任で人格神は関係ないと思ってるわけか
結構みんな器用だよね、どちらにせよ未知な力なのに
あれはあれ、これはこれと使い分けしてるから
>>506 なるほど、悟った人がやる宗教がアドヴァイタって考えなんだな
なら悟ってない人はどうすればいいんだろうな
異常者に刺されて冷静な奴なんかそんなに居ないと思うけどね
まあ、事実に厳しいこと言ってる宗教ではある
>>513 悟った人がヴァガみたいに振りかざすのがアドヴァイタw
悟ってない人は「信じ」るのをやめて「探求」すればいいらしいよ。
人格神もどっかにいるんじゃないの、旅に出た友人を五感で捉えられないのと同じ文脈で。
>>512 体が不自由なストリートチルドレンに「問題がある」と捉えるのは本人か?
世論か? 多数意見か? それともあなたの「私」か?
責任云々を言ってるのではなくて、問題の所在をいってるわけ。
>>515 何を言ってるのかわからない
純粋な物理的な環境の違いを話してるに決まってるだろ?
自分でそれを選べるか否かの話しをしてる
>>508 そうなんですね〜。
私は生まれつきか、他者の苦しみへの執着が強く、
他人が苦しんでるとノイローゼになる。
ともだちが裸で遊んでるのに、「裸でかわいそうだ」と泣いたり・・・。
もっと、執着無しで慈悲が出切るようになりたいです。
どうも、世の悲惨をみるにつけ、悲しくてどうしようもない。
しかし、世から悲惨を取り除くことは出来ないしね。ジレンマですよ。
>>517 シスターの渡辺 和子さんは、マザー・テレサが来日した時に通訳を務めたそうだが
マザーの眼差しの非常に厳しそうなことに驚いたそうである。多くの人はきっと
「柔和で穏やかで、慈愛に満ちたような眼差し」のマザーを想像するかもしれないが。
シスターが思うには、多くの悲惨な状況を、決して目を背けずに見続けてきたからこそ
あのような「厳しい眼差し」になったのだろう、と。
本などで読むと、マザーはきわめて「現実的」であり「行動派」であったようである。
>>517 俺そろそろ30歳になるんだけど童貞なんだわ
ってか付き合ったことないんだわ
あなたの目から見たら俺はどう見えるの?
520 :
515 :2012/10/22(月) 23:52:27.37 ID:tF/J3s9L
>>516 ごめん
>>499 の後半、善行とアラブの生まれのとこを読み飛ばしてたみたいで
イミフな返しになってた;
自分は行動派か知らんけど、介護の世界で悲惨な情況は吐き気がするほど見てきたし、
稼いだお金も困ってる友人に数年給料の半額以上渡して、いまやワープア。
でも、自分自身は今職があり、息を吸えるだけで幸せだと思う。
だけど、足りないんだよ。知り合いや知らない人が病苦や孤独感に苦しんでいると、たまらない無力さを感じる。
個人の出来ることはするけど、宗教的世界観的な安心感というか、確固たる、方向性がほしい。
>>519 それが一番に浮かんだ悩みなら、お幸せな部類じゃないですか?
無力さを感じるってことは、こういう言い方はなんだけど、 自分がやれば出来るはずだっていう傲慢な思いがあるんじゃないの? 自分は誰かを救えるとか自分は誰かを幸せにできるとかいう、自分は何らかの価値ある人間だっていう ひょっとしたらそういうところから思いが始まってるから執着になってるんじゃないのかな 自分は無力で、だけどもし誰かの為にできることがあるならしたいって立場なら、 何もできなくて当然だし、何かできたらその分だけ幸せだし、無力感は感じないんじゃないかと思うけど
>>521 悩みだとは思ってない
面白い現象、話のネタくらいに考えてる
つまり不幸だとはみじんも思ってないんだ
なんで童貞云々の話を持ち出したかというと、
あなたが見ている彼らの境遇を、彼ら自身はどう考えているのかあなたはわからない
彼らは案外楽しんでいるかもしれない、あるいは望んで、利点があるからその境遇を持続させているのかもしれないってこと言いたかった
カルマの法則を持ち出してしまうと、彼らは何かを達成するためにあえて辛い境遇を経験している
非二元論ではカルマは否定されるから、何かを達成するために辛い経験をするというのは間違いなんだけどね
あなたは彼らを手助けはしても、境遇については気にするほどじゃない
逆に気にしてしまうと、彼らを傷つけられることが可能な弱い者(これは神の性質ではない)と信じてしまい、幻想世界の強化に繋がってしまう
彼らの弱さは見ず、彼らの強さを見るようにしてはどうだろうか
痛みに耐えてよく頑張った的な
まあ痛みも究極的には彼らがそう感じているだけで、本来は存在しないもののようだ
神に意思なんか無いって あったら地震で何万人も死んでいくとかあるわけないし 大体が生物の歴史でそんな天変地異はありふれたことだわ 人格があって見守られてると信じたい人は願望が幻として ただの反射みたいに人格神として現れてるだけなんだろ 本当に救われたいなら神と等しい悟りの境地に達するしかないな ラマナも悟らない限り人は神の奴隷だとか言ってた気はする
幸福も不幸もなくなるなら、存在そのものが喜びになるな
不幸は空に投げた石が落ちてきただけの 誰にでも起こる自然現象なんだよ 良いことをやった人は枕元に菩薩が立つことあるけど 悪いと悪魔が立つ それでも菩薩も悪魔も同じ存在で神に意思なんかないよ 菩薩も悪魔もただの反射みたいなものだな
悟ってないから永遠の存在でない 悪魔や菩薩の幻なんかに翻弄されるんだよ 悟ったらそんな幻は消え失せるからな
528 :
神も仏も名無しさん :2012/10/23(火) 05:39:45.76 ID:ZK/cSqtk
>ラマナも悟らない限り人は神の奴隷だとか言ってた気はする こういう表現にであったことないなあ。
529 :
神も仏も名無しさん :2012/10/23(火) 06:48:05.44 ID:SXK/F6hn
ヒンドゥーでは伝統的に「残酷な神の遊戯」って言うらしいね。日本では神は たたりも起こすし天災も起こすから。いろいろお供えしてお静まり頂く。
530 :
神も仏も名無しさん :2012/10/23(火) 06:51:42.85 ID:SXK/F6hn
ヒンドゥーイズムよりはるかに古いシャーマニズムに最近は興味がある。 見えざるスピリットに会ってみたい。人にはそれぞれ守護霊、超心理学で言う ガイドっていうのがいる。というのが研究者のおおまかな一致らしい。 昔読んだ「後ろの百太郎」の世界と変わらない。
531 :
515 :2012/10/23(火) 12:43:43.33 ID:IAKxHBI/
>>528 神の道具って表現はあったね。
奴隷ってのも、自我の作り出した概念に隷属するというニュアンスだとすれば言ってるかも。
名前が勝手に入った! なんて便利なんだorz
まあ超然としたことをいえるのも、けっこう今余裕があるからであって、、、。
神に願うなら悟ることだけを願うのが一番賢いよ 金持ちになりたいとか裕福になりたいとか 願えば願うほど他人を巻き込む 実際利子付きの借金をいくら人が借りようが神は無関心なんだからな 呪いなんか特にそうだろ 無関心な神があるがままに叶えただけだよ ようするに人格神マンセーに見えて悪因果ってやつだな
あるがままに在る真我意識だけがこの世に属さない 憎しみをもって虫を殺せば罪になるが あるがままに虫を無意識に殺しても罪にならないらしいんだよな だから悟る以外ないんだっての
君は悟ってるの?
地球だけでも7割は海だよ 地球の内部なんか広大な面積だ 人類が生まれる前の何十億の暇な時間を人格神は何してたの? 地球から近い銀河でも何十億光年だよ ちっぽけな人間一人だけのために人格神が常時存在するわけないだろ 何らかの未知の法則みたいなものが願いに反射してるだけだな それが菩薩や悪魔になって現れてるだけ
それはアドヴァイタの見識なの?それとも自分なりの世界観?
アドヴァイタでもそうだよ 人格神に願えば天国に行けて永遠に幸せとか そんな中途半端なことは断じてない 永遠の幸せは悟ることだけだな
これなんか古代ギリシャ哲学だけど、アドヴァイタにそっくりだな。ある部分ではキリスト教にも。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%86% E3%82%A3%E3%83%8E%E3%82%B9#.E4.B8.80.E8.80.85
>プロティノスの思想はプラトンのイデア論を受け継ぎながら、その二元論を克服しようと
>したものである。プラトンの『パルメニデス』に説かれた「一なるもの」(ト・ヘン to hen)を
>重視し、語りえないものとして、これを神と同一視した。
>また、人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。
>一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。[エネアデスVIの第11節]
>ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである。
>プロティノス自身は生涯に4度ばかり体験したという。
人格神とかはひらたく言えばオカルトの部類 アドヴァイタでは究極的には否定してる 悟ったら消え失せるただの幻だよ
543 :
神も仏も名無しさん :2012/10/24(水) 05:41:20.67 ID:Bxpgz+Et
>>540 これはほんとにアドヴァイタそっくり。しかも、シャンカラーアーチャリアより
前の人物。びっくり。
544 :
神も仏も名無しさん :2012/10/24(水) 15:18:10.90 ID:IRhq7/5+
ソクラテスはインドに留学してたってなんかの本で読んだな、本当だろうか。 人格or非人格神は非常に難しい問題。スピリットとの交流には善悪両例がある。 幻だと切って捨てる思想が出てきたのは、ほんの数千年の事。人間という種は元々 普通にそれらと交流してきた、何万年も。
>>543 仏教では龍樹と同じぐらいの時代だね。
それよりも600年以上も前に仏陀が覚醒してるのもびっくりだけど。
シャンカラがそのあたりの哲学や思想から矛盾点を取り除き完璧に融合させたものが
アドヴァイタヴェーダーンタだということだよね。
何も物理的に悪いことをしてなかったとしても 恨んだり呪いをかけたりしたら悪因果 逆に世俗にかかわりあっても意識が真我なら罪はないからな とにかく中途半端はないわな 人格神とかも悟ったら消え失せるからオカルトな悩みで苦しむこともない 悟る以外に救いはないのは事実なんだろう
神我=ブラフマンとしての神(世界の法則)と デーヴァ・リシ・シッダ(肉体を持たないで人格を持つもの)を 混同しているから、議論が起きるわけで。 クリシュナムルティの言うマスターにしても その手の確かに存在はしている。 しかしヨーガやアドヴァイタを本当に成し遂げたいのなら それらに関わってはいけないと ヨーガ・スートラに書いてあるよ。 デーヴァにしても良いものもあれば悪いものもあるから ろくでもないのに引っかかると、ばかげた新興宗教の 教祖になったりすることもある。
とにかくオカルトが大嫌いなんだよ 現実にあるからそんな問題に向き合ってるだけで 悟りは唯物のような自然な法則だけの救いであってほしいよ 霊とか神とかそんなよくわからないものに振り回されるのはまっぴらだ 唯物のほうが健全な思考を保てるからな だって仮に金庫からお金が消え失せて 天使がばらまいたりしたら誰も働かなくなるし経済が回らなくなるだろ
つづき ラーマクリシュナはその後もイスラム教徒やキリスト教徒についてそれぞれの教えを受け、 信仰と修行を経験した。そしてキリスト教のイエスに聖母マリア、イスラム教のアラー、 仏教の空などと接触する経験を持ち、全ての神と宗教は一に帰すということを確信する。 彼は「宇宙の母なる神は子供たちのお腹に合うように料理を作って下さる」という喩えを 用いている。子供の消化力や好みに合わせて母親が色々な料理をこしらえるように、 神は国と時代と容器(人の理解力)に応じて色々な宗教を作るということである。 神は有形か無形かという論争などもラーマクリシュナにとっては上辺のつまらぬ対立に過ぎない。 ブラフマンは無相無形であるが、人間の信仰の力、神への愛に応じて有形の人格神となって現れる。 だから一見神は様々な形をとっているように思われるのである。 ある1つの形をとった神が正しく、他の形が間違っているといったものではない。 神の様々な形は神の人間への愛の現われなのだ。 無性のブラフマンを知るためには自我を完全に滅却する必要があり、普通の人間には難しい。 一方、有形で人格を持つ神の方は親しみやすい。人の個性は様々であるから、人と神との繋がりもまた様々である。 神と繋がるための具体的な手段としては宗教儀式や偶像崇拝がある。 迷信として非難される偶像崇拝もラーマクリシュナは「真珠を育成するために必要な母貝」として称揚する。
神の下で休らっているラーマクリシュナは楽観的だ。世界は神の遊戯であるという。 神は何かの目的があって世界を造ったのではなく、遊びとして世界を造った。善と悪、幸と不幸などの 対立があるのもゲームを続けるためということになる。あらゆるものは神の働きなのだから、 全てを受け入れる。それが神である限り、世は幻だといって切り捨てたりしない。 彼にとって神の遊戯活動も永遠不動も同じものであり、 皆ありがたく戴くべきものである。「皆戴かないと目方が減るもの」と彼は言う。
イスラームスーフィズム
http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/sufi_kaitei.html >◇ズィクル(連唱)とファナー(消滅)
これって、ジャパと真我達成に相応するな。
イスラムスーフィズムはヒンズーの影響も受けてるそうだけど、
一神教でもある。
>同時にこの状態は、自他の区別がない、まったくの恍惚状態、
>エクスタシーに満ちた 忘我の境地であるという。このような自己も他者も消滅し、
>融解している神秘的合一状態をスーフィズムではファナー(消滅・消融)と呼んでいる。
で、このファナーを体験したあと、また世俗に戻る段階がある。
>ふたたび世俗の中に入り、神の御心にまかせて奉仕生活をすることが重要視される
ここまでくると、ほんとに仏教だね。
>>550 ウィキからの抜粋だから何なんだけど、
>仏教の空などと接触する経験を持ち
ってのは実際の記述にあるのだろうか
ラーマクリシュナの本は邦訳を何冊か読んだけど、
仏教をやってみたという記述はなかったんだよね
むしろ、仏教は神を認めてないって笑い話をした場面とかあったし
俺自身ラーマクリシュナが仏教をどう思ってたのか知りたかったから、
そのあたりは見逃さないように読んだつもりなんだけど
仏教って無我、無神って立場では、
アートマンやブラフマンを認めないって言われ方もしてるしさ
もちろん、仏教の悟りと、アドヴァイタは同じって言う人もいるけど
ラーマクリシュナが仏教をやってみたか、仏教をどう思ってたか、
詳しく知ってる人いるかなあ
554 :
神も仏も名無しさん :2012/10/24(水) 23:46:05.63 ID:IRhq7/5+
仏教でもアドヴァイタでも理論的には反駁不可能なほどに完成している。いかなる 質問にも「それは幻影である、質問者自体存在しない」と答えればいい。 しかし、結局それだけでは人々を引き付けられず、土俗的な祭祀やシャーマニズムの 要素を取り入れたタントリズムが現れる。(日本では時系列が逆になってるが) 密教のことを「仏教オカルティズム」って言う人もいるね。
「酒」という語を頭で理解しても、それで酔うことはできない。
仏教をひとくくりにまとめてはダメだよ。 時代によって人によって言ってることが全く異なるから。 ナーガルジュナの空観、アサンガの唯識から 空海の密教やら日蓮の立正安国論まで 同じ名前で呼ばれているのがあほらしくなるくらいに違う。 シャカの説いた原始仏教ではアートマンやブラフマンを 否定するどころか積極的に肯定している。 詳しくは中村元先生の本を読むといい。 ラーマクリシュナは興味が無いのでわからないが。 カルカッタのテンプルで見た羊の首切断が印象に残りすぎて カーリー信仰にはかかわりたくないなあ。 豊川稲荷とどっこどっこいだし。 アメリカではヴィベーカナンダに従ってカーリーを拝んだら 頭がおかしくなった白人が相次いだそうな。 子供のころからキリスト教の洗礼を受けて神父や牧師の話を 聞いてきた人からしたら、悪魔以外の何者でもないからな。
>>546 何もせずに山に篭もってもそれがカルマになる場合がありそうな気がする
山に産み捨てられたなら別だけど、普通は社会の中で育って必ず人の繋がりができる
それを断って山に行くという行為の中に、自らのエゴを優先したという後ろめたさが合った場合、
カルマにならないはずがないと個人的には思うんだよなあ
それ以外に良い方法があったはずだということがわかると、それが現世をやり直す動機になってしまう
もっとうまくやれるということがわかったら、やり直そうと思わないはずがない
悟ったら、全部夢幻でやり直しは無意味だとわかって、完全に輪廻から逃れられるんだろう
テレビゲームを何度も繰り返すようなもので、ゲームがどう進もうが終わろうが、現実(神)は変わることがない
>>556 原子仏典むかし一通り目を通しましたが、
アートマンやブラフマンを積極的に肯定するような記述なんてありましたっけ?
>>557 ありがとうございました
ためになりました
でも、そうなると、ラーマクリシュナが仏教を学んだことはないのかな
他の宗教を自分から学んだのに、何故仏教を学ばなかったのだろうか
ヒンドゥーから見れば、仏教はヒンドゥー教の一派と捉えてるから学ぶ必要ないと思ってたとかですかね
googleの検索でスレの存在を知り、 プロバイダのアク禁が解けたので寄ってみました。 哲学的な知識がほとんどなく、 不二一元論という言葉だけはサイババの著作で知っていましたが、 具体的な内容はシャンカラの英訳本を読むまで触れることはありませんでした。 以前からAnthony de Melloの本が好きで、最近Eckhart Tolleの本を読んで、 彼らの考え方の土台のひとつであろう本も読んでみたいと思い、 シャンカラの本を読み、今ウパニシャッドの英訳本を読んでいます。 理詰めで考えながら読むというよりも気になったところに一瞬注目するという 読み方で、そうした小さな断片が強く印象に残ればいいという読み方です。 そのため、全体像を理解するには何度も繰返し読まないといけない感じです。 シャンカラのViveka-ChundamaniはSwami Prabhavananda and Christopher Isherwood 訳のものを読み、ウパニシャッドはEknath Easwaran訳のものを今読んでいます。 衝動買いでJuan Mascaro訳とSwami Prabahvananda and Frederick Manchester訳の ものも今注文しているところです。積読にならなければいいのですが。 一般向けの英訳本のいいところは難しい内容も易しい英語で説明してある点かな と思います。
561 :
神も仏も名無しさん :2012/10/25(木) 05:12:05.71 ID:HQQR4zcU
仏教とヒンドゥーの違いって宇宙の本質は0か?∞か?という表現の違いだけじゃぁない のかねぇ。マハーリシの本なんか読んでると、禅者の話と何の違いもないと思えるが。 倫理や社会科学的な部分は大きく違うかもしれないが、(カーストとか)現代人には そこってあまり興味がないんではなかろうか?
>>558 そういうのをキリスト教では信仰義認といって
結構深いテーマだよ
アドヴァイタでも一生山に籠るとかして行いで救われるわけでない
信仰によって悟ることで救われるとか言ってるのだから
人間の価値感とかなり違うよ
このことは悟った人間が万人に好まれるわけなく
イエスが十字架に吊されたのも何となくわかるような気はする
人間にとっては行いというのは非常に大事なことだからね
極端な話で家族や身内を殺した殺人犯が 何十年も死ぬまで良心の呵責なく牢に居るより 心の底から悪いと感じて一瞬だけ頭下げたほうが罪は軽いとか 言ってるんだから人間の価値観とはかなり違うよ だから悟るとかいうのは神から観てそれだけ特別なことなのだろうと
559 ラーマクリシュナは有名なのはキリスト教、イスラム教だけど 仏教もやってるよ! とくにヴィヴェーカーナンダなんかは一時期、釈迦に凄く影響を 受けてたでしょ。 ヨーガを修めたら隠遁しても良いが 修行中は市井の中で、放棄を実践しろとギーターは説くよね。
>>564 ラーマクリシュナが仏教をやったというのは文献に書いてあることなんですか?
>>559 中村元「自我と無我〜インド思想と仏教の根本問題」より
「原始仏教聖典の古層には、『無我』あるいは『アートマンは存在せず』
という趣意を標榜している特別の術語あるいは文句は存在しない」
「初期仏教の聖典は、我ならざるもの(非我)を我(アートマン)と
見なすことをも排斥している」
「仏教はウパニシャッド乃至ヴェーダンタ的思想と何ら異なっていない」
「したがってわれわれはこれを無我説と呼ぶことを躊躇する。
『無我』という語は誤解を引き起こし易い」
「初期の仏教においては、アートマンを否認していないのみならず、
アートマンを積極的に承認している」
「(原始仏教は)ウパニシャッドなどの思想と多分に密接な連関を
たもちつつ、独自の実践的倫理的なアートマン論を展開しているのである」
「本来の自己(アートマン)ならざるいかなるものにもよることなく、
ひたすら本来の自己を追求し、そうしてそれによって現実の人生における
苦を超克しようとしたのである」
「初期の仏教においては、著しくウパニシャッドの哲学に類似した
思想を説いているのであるが、さらに仏教の修行そのものを
『アートマンに関する、真実無上の、ブラフマンへ赴く車乗』と
呼んでいる。したがってアートマンがブラフマンと合一することが
解脱であるというウパニシャッドの思想を一応承認しているのである」
「初期の仏教における修行とは、真実の自己・本来の自己に復帰することである」
もっと実践的な話をしないか?
568 :
神も仏も名無しさん :2012/10/25(木) 19:46:14.26 ID:kIEfpfE/
>>566 興味深いですね。全文読んでみたいです。
>>566 ありがとうございます
ただ、中村元も含め、解釈本はいろいろ読みまして、解釈も学者等によって様々ですし、
仏陀やラーマクリシュナのように、悟ったといわれている覚者本人の、
言葉や見解があれば知りたかったんです
アドヴァイタの覚者が仏教の内容に言及するときもほとんど大まかなことで、
細かい内容を語っていることをあまり見たことないですし
570 :
神も仏も名無しさん :2012/10/25(木) 22:28:13.01 ID:HQQR4zcU
仏教とヒンドゥーの争いって哲学よりむしろ政治的、社会科学的な側面が大きかった んじゃないの?要するにカーストVS平等。現代インドでも同じだよね。日本人仏教者 が活躍しているとか。(毀誉褒貶が多いみたいだが)
571 :
神も仏も名無しさん :2012/10/25(木) 22:33:36.57 ID:HQQR4zcU
>>569 ヴィヴェーカーナンダの本には仏教の事が少しだけ出てたな。「私は
彼らの哲学がいかに精密ですばらしいか知っている。しかし、我々の方が少し
優位なのです」みたいな言い方してた。確かアートマンについての解釈の事だったような…
彼の「カルマヨーガ」っていう本にに出てたんだと思うが…
572 :
神も仏も名無しさん :2012/10/25(木) 22:39:24.45 ID:U4OXLse+
ヒンドゥーのアートマン論を持った人間は、断滅論を信じる人間と同じく 解脱せず、転生し続ける。アーガマの一つである「梵網経」に書いてある。
573 :
神も仏も名無しさん :2012/10/25(木) 22:39:45.81 ID:HQQR4zcU
ラマナは釈迦について、彼の出家のいきさつを延べ、「彼は放棄の力を知っていたのです」 って言ってるね。あと仏教徒にたいして「それ、はまさに無です」と言った事が 書籍に出ていた。弟子がアートマンについて、仏教徒がその実在を否定している。 と言った時には、アートマンの学説がヒンドゥーの異端であり、だから仏教徒に 批判されたみたいな事も言っていたような…
574 :
神も仏も名無しさん :2012/10/25(木) 22:45:54.97 ID:U4OXLse+
釈迦もとことんオカルトを排除して 悟ることでしか救われることはないと言ってたんだよな それはいいことだよ
>Anthony de Mello この人は面白い人ですね。私も一冊持ってます。 インド人神父さんですが、ゴエンカさんのヴィパッサナーを取り入れたりしてるんですよね。
>>561 気功家の中健次郎さんの最近の対談本に、プンジャジに会いに行ったら、
壇経(禅宗の慧能の説法集)をよめと勧められたとか。
この対談本はなかなか面白い本なのでおすすめ。
プンジャジの本にも禅の話とか、仏教にちなんだ話は出てますよね。
ティク・ナット・ハンによると、ブッダのいう「無我」は、当時のバラモン教に対しての
カウンター、つまり方便としての発言であり、確固としたドグマを提出したのではない、と。
1つの対機説法ですね。
夜に見る夢のなかでは、夢を体験している自分も・他者として出てくる登場人物も・見ている内容の脚本家も、 覚めてしまえば、全ては自分・自分の生み出していたものなんだよな。 よくこんな事思いついたなと我ながら感心してしまうシュールなストーリーでさえ、自分の無意識が作り出している
>>578 論点違うけど、朝の自我から見るとシュールな物語が、寝てる間の自我は
何ら違和感のない常識そのものと思ってるのも面白い。この世の構図とまるで同じだ!
ウパデーシャサーハスリー前田専学訳は、見かけたら買いですか?
581 :
神も仏も名無しさん :2012/10/27(土) 18:38:27.67 ID:PHlcThvh
ウパデーシャ凄いよな あの文章を日本が聖徳太子の頃 新訳聖書から700年後くらいに書いてたのが凄い 比較したらダビンチとか全然最近の人物だしな 只ものでは無いのがわかるがそれが文庫で買えるんだから買いだろ
純粋に文庫の作品として読んでもこの時代でこの表現力は凄いと思うわ
>>565 遅くなった!
正式には学んでないね。
ただ弟子たちには仏教の教えをよく引用はしてたよ。
釈迦も訳してる人のセンスがいいのかも知れないが 独特の表現をしてたな シャンカラはもちろんラマナマハルシも映画のスクリーンがどうとか 個性的な表現をしていたな 悟った人っていうのはやっぱりパクリじゃない 言ってることが個性的ながらも説得力あるものなんだよな
要塞のなかに敵がいるかぎり、敵は反撃を続けるだろう。 もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば、要塞はわれわれの手中に落ちるだろう。 このフレーズはやる気でる。
だれか聖母アマチの本を読んだことありますか? この人もアドヴァイタらしいですが、どうですか?
>>587 個人的には悪くないと思います。
アマチに限らず本に書いてあるのは結局ヒンドゥ教ですから。
しかし、20年くらいそばにいたナンバー2か3の方が逃げた当時に書いたという箇条書きの文句には
「他の人の本からコピーしてそこにアマチの名前をつけアマチの教えとしている」
「嘘の奇跡について話され続けている。彼女自身でっち上げているのかも」とありました。
現地の言葉も習得して、疲れ果てるまで側近中の側近としてそばにいた女性ですので
信用できると思います。
589 :
神も仏も名無しさん :2012/11/03(土) 21:26:30.43 ID:RiWTYZOP
>>585 ラマナマハルシのスクリーン論は決定的に分かりやすいね。自分の世界観、宇宙観
は全面的にそれになってるな。あとはその「幻影」をどう評価するか、肯定するか
否定するかの価値判断の問題。
590 :
神も仏も名無しさん :2012/11/03(土) 21:31:36.32 ID:RiWTYZOP
ちなみにバガバットギータなんかは世捨て人とは全く違った価値観だよね。 完全な戦士の価値観で「放棄は不可能である」って明言している。
アドヴァイタ、素晴らしいんだが、ときどき壮大すぎて学び疲れする。 アドヴァイタでは慈悲とかいう観点はあるのだろうか? スッタニパータの 「あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、 そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし」 母が子を、ってのはすごい強い動機だと思う。 原始仏教でこんなに強い慈悲を推奨していたと言うのは意外だった。
592 :
神も仏も名無しさん :2012/11/04(日) 08:37:16.50 ID:Qt2PwC/9
>>591 確かに疲れを感じるときがありますね。
慈悲より、神への愛・献身が智慧と対になっているようです。しかし、ellam ondre
(All is One)というマハルシが勧めた本のなかで、慈悲を勧めていたので、慈悲が
ないとはいえないと思います。
593 :
神も仏も名無しさん :2012/11/04(日) 16:46:45.70 ID:xp735eLo
>>590 武士道とは死ぬことと見付けたりの世界かな
>>573 まだ、いらっしゃるかわかりませんが
「書籍に出ていた。」って具体的にいうと何ですか?
>>593 武士道=葉隠れの精神、とするなら、
死ぬこととみつけたり、の意味は、如何に死ぬかを目的としているのではなく、
必ず死ぬことになつてゐる、その死ぬ時点から逆算して今を見つめ直し、
無意味な思い患いに拘らない生き方をするということ。
今自分が後生大事に抱え込んでいるものも、死ねばすべて手放すことになる、
それだから本当に今やるべきことに専念し、死によって手放すことになるような、
さういう瑣末な事どもには一切拘らないということでせう。
597 :
神も仏も名無しさん :2012/11/05(月) 10:33:07.41 ID:f7V1sN0H
いや、そういうくだらない理知を捨てて自由になりなさい シンプルになりなさいってこと 「別に仔細なし胸座って進むなり」
武士道は、アドヴァイタとは正反対の決着のつけかただと思うなぁ。 死の恐怖を超えようとして、死というのは死ではなかったと達観したアドヴァイタと 死の恐怖を抗えないものと諦観して、生きると死ぬとが完全に同居した武士道 じゃないかと思った。
599 :
神も仏も名無しさん :2012/11/05(月) 18:52:24.01 ID:S2dngket
>>594 どれだったかなぁ〜、分厚い弟子との対話本が2冊あるでしょう、あれか西洋人が
書いた伝記本かのどれかだったけどねぇ。マハルシは自分がヒンドゥー教徒だって
いう意識はなかったんじゃないかね。イスラムにもクリスチャンにもそれぞれの
言葉で話してたっていうくらいだからね。
600 :
神も仏も名無しさん :2012/11/05(月) 18:55:03.31 ID:S2dngket
>>593 もっとリアリズムに近いかもね。敵の金玉に矢を放ったりとか平気でやってるもんね。
601 :
神も仏も名無しさん :2012/11/05(月) 19:04:09.85 ID:S2dngket
死を克服すると人間はまったく変わってしまうみたいだね。マハルシの悟りも 臨死体験だし盤珪禅師なんかもそう、現代でも臨死体験者の多くは価値観、行動 が180度変わってしまうらしい。侍達もそれに近いものがあったんだろうか。
臨死体験の多くは酸欠を主因として、脳の異常放電による幻覚。 アドヴァイタや禅における死を体験することと 同一に並べるのはどうかと思うよ。 海外の医師が側頭葉に微弱な電流を流す実験をしたら 臨死体験した人間が多数いるからね。
幻覚かどうかは置いといて、酸欠に関しては、サマーディや座禅でもほとんど息しない状態になるよ 酸欠というか、身体機能が静まると息する量が最低限になってくので自然とそうなる
604 :
神も仏も名無しさん :2012/11/06(火) 00:26:44.54 ID:t4lgEyv+
>>602 科学的にほとんど分かっていない現象を、あたかも分かっているかのごとく
語るのはどうかと思うよ。それならマハルシの「死の体験」幻覚だ、と断定せねば
理屈が通らない。自分の好むものは実在、肌合いが違うと思えば幻覚。では
根本的な人間性が疑われる。
チベットみたいな高山では自然と酸欠になる要素があるとか言ってたね。 ヨガでの火の呼吸とか、酸欠を1つの踏み台にした修練法もあるとか。
真我って本当に凄いなって思う。 実際に無想で完全な境地なんだろうな。 でも今ただ在るっていうのはボケーとしてる訳じゃなくて 身体感覚はまるで違うと思うよ。意識は開放されてるんだと思う。
禅定と臨死体験を同列に並べるのは カニとカニかまぼこを同じ見た目だから一緒というようなものだよ。 臨死体験でいいなら別にとめないけど。 スピリチュアルの世界は本物と偽物の区別ができないと、 だまされてお金や時間を浪費することになるよ。 あとサマディに入ると呼吸が止まったような状態にはなる。 でも呼吸停止の先にサマディは無い。 クンバカしまくって酸欠状態で手がにょきにょき生えてる神様を 拝むのも個人の自由だけどね。
禅定と臨死体験とサマディを全部体験して言ってるならそうかもね そうでないなら、それはただの推測だろうね
609 :
神も仏も名無しさん :2012/11/06(火) 20:40:57.91 ID:t4lgEyv+
マハルシの思想は危険が無いと思ってたけど、勉強すると自分の信奉するものは 本物で他者が経験したものはフェイクだ、と考えるに至るのか…やっぱ案外危ないんだね。
そうからむなよ。 個人の自由で好きにすればいいんだから。 サマディに入るために土に埋まったり、水中クンバカしても止めないよ。 インドでひたすら手を上げつづける苦行者も 延々と地面に転がって巡礼するやつも それで悟れると本気で思っているのなら好きにすればいい。 阿含の星祭でもラジニーシでもアーレフでも 自分に縁のあるのを選べばいいさ。 でも臨死体験で悟りが得られるのなら 聖地に行って瞑想したり、師についたりする必要はないのでは。 洗面器に水を張って我慢大会で悟れるなら そっちのほうが楽だしお金も時間もかからないよ。 わざわざアルナーチャラに行くこともないな。
とりあえず瞑想すっか
612 :
神も仏も名無しさん :2012/11/06(火) 21:09:42.83 ID:t4lgEyv+
マハルシの本読んだ方がいいぞ、彼はいかなる瞑想もせず、師ももたず「死の体験」 一つで悟りに至った。大きくは「臨死体験」のカテゴリーに入る事は明白。 細分化して優劣をつけるのは自由だが、マハルシの体験のみが価値あるもの。 という事ではない。怪しげな例のみ引用して印象操作しようとしても真実は変わらない。
ラマナの本は日本語で刊行されているのはほとんど読んだし、 インドで日本ラマナ協会の機関紙も、置いてある分は全て目を通した。 トークスもレターズもデイバイデイも英語版を持っている。 君のほうこそ世の中で言うところの臨死体験の ラマナの逸話を比較検討してはいかがかね。 「ラマナ・マハルシの伝記」を読んでそのへんの病院で転がっている年寄りが 同じことを体験できると思うのかい。 あと無師独悟で悟れるのは、極めて特別な大天才だけだよ。 シャカはさんざん各地の仙人を訪ねて修行した後 最後の詰めのところだけ独りで悟った。 曹洞宗の道元禅師は師を得るために海を越えて大陸に渡った。 アドヴァイタも禅も、修行を完成させたいのなら絶対に師が必要となる。 だからみんな必死で師を探して旅をするし、 偽者の師に引っかかる人もでてくる。 パパジだって全財産をはたいてインド中のグルを回ったじゃないか。 ラマナの真我探求にしたところで、あれは面前にラマナがいて その沈黙のシャクティパッドを受けられる人に対して薦めているんだよ。 師につかず勉強もせず、アドヴァイタやニューエイジの本を読んで 一日数十分座っているだけで何ができるというんだ。 独りでえんえんとスクワットをしていてもオリンピック選手にはなれないよ。 まずは良い師を探しなさいな。 あと本をよく読むこと。 悟りと臨死体験を同等に扱っているようでは読書してないだろ。 アドヴァイタの聖者が読書の効果を否定しているのも多いけど あれは「自分が目の前にいれば本を読む必要が無い」という意味で 師についていない人間が瞑想の勉強をする必要がないという意味ではない。
臨死体験じゃないけど、同一視がなくなっていくと身体から離脱するようになるけどね まあ、あくまで個人体験なので、幻覚じゃないかと言われればそうかもしれないけど 師や体験は、自分の状態に応じて相応のものが与えられると思うし、 他人の道はどうでもいいんじゃないかな
身体から離脱するのはあってる。 それは幻覚ではなく、あなたが瞑想をできている証拠。 酸欠に由来する神秘的体験と、瞑想によって起こる神秘体験は決定的に異なる。 全てが幻覚や錯覚ではないが、本物はとても少ない。 あと他人の道がどうでもいいというのも正解。 思わず色々と書いてしまったが、またロムに戻ります。 もう何年もこのスレにいるけど、時折口を挟みたくなりますので。 スレ汚し失礼しました。
616 :
神も仏も名無しさん :2012/11/06(火) 22:27:39.22 ID:KelmJGQ3
でも、師は自分のうちに、ハートにもいるんじゃないかな。そんなに探しまわる ことはないと思うけどね。自分を遠くの国から訪ねてきた人に、マハルシがここ まで来ないでも良かったのですよ−と言った話があります。シャクティまたは、 恩寵は遍く行き渡っているから。もちろん、外側の師がいたら、なおいいけど。
617 :
神も仏も名無しさん :2012/11/06(火) 22:27:51.92 ID:6ECUdrNs
>ラマナの本は日本語で刊行されているのはほとんど読んだし、 >インドで日本ラマナ協会の機関紙も、置いてある分は全て目を通した。 >トークスもレターズもデイバイデイも英語版を持っている。 それってすごいんですか?
618 :
神も仏も名無しさん :2012/11/06(火) 22:36:29.89 ID:t4lgEyv+
>>613 他の臨死体験とマハルシの悟りが同じものだ、との意見はどこにもないね。
「そのへんの年寄り」とあなたが軽蔑する人達の体験が、マハルシに匹敵する
ものでなくても、それが無価値とは言えないし、人知れず偉大な体験している
人間だっているかもしれない。なんかになった気になっちゃってるね。
621 :
神も仏も名無しさん :2012/11/07(水) 01:15:51.57 ID:rDpXvYPa
マハルシの言う「私が消滅した状態」の中に幸福があるのか?あるならどんな 幸福で、誰がそれを認識してるんだ?というのも大きな問題だと思うな。 不幸、苦痛が無い、は分かる。しかし、「そこには誰もいない、幸福のみがある。」 は理屈上は完全に矛盾している。何も無く誰もいないなら、幸福も無いのではないだろうか。
ニルビィカルパサマーディとか言い出したのはラマナが初なのだろうかな 仮に学んだのならあんな知識をどこでラマナは手にいれたのだろうか シャンカラがひょっとして言ってたのかも知れないな
幸福はもたらされるものではなくて、デフォルトのことだよ、ってことかと。
私は誰か、をすると、胸の辺が詰まるような感じになる?
なる。と言うか「私は誰か」言語化しない。
>>621 不幸や苦痛がない状態が幸福なのかもしれないね
静寂とか沈黙といった感じに近いのかな
苦しみや痛み、不足するものもなく悩むものもなく、なんにもとらわれるもののないような
627 :
安室 ◆B0SerIzvr6 :2012/11/08(木) 21:21:36.96 ID:F3jMtIqZ
>>621 「誰もいない」、「自分が消滅した」というのは、自我が神我に溶け去った状態の
表現なような気がする。
確かにそこには至福のみが在る。
不幸や苦痛はあってもそれにとらわれることがなくなる。
本来の自分に戻ったということ。
消滅するとかは唯物的だけど 世界は生きてるというのが真我だから 消滅するといっても 意識の生命力はただありのままに在るとして残るみたいだ
>>621 「無い」っていう概念は、言葉としては"数量"のゼロと似てる。
秤は、量ることだけができて、何も量らない状態には絶対にならず、常に量ってる。
量る、量らないという枠、二元を超越した何かを感じない?w
趙州狗子
人間、個人の意識はは世界の一部だよね。 ということは、世界が自らを認識を認識しているわけだ。 自分の眼で自分の手足を見るように。 目玉の比喩で例えると、人は右目で自分の左目を見ることはできないけど、 もしかしたら、ひとつの目玉(自分)が自分の体(世界全体)の他の目玉(他人)を見て、他人(自分とは異なる別存在)だ、って思ってるのかも
投稿したの読んだら推敲が不十分で、誤字ばっかだった
ビートたけしがバイク事故で、道路に転がってる右の目玉を、飛び出てぶらぶらした左の目玉で見てたってのがあったな まあ冗談だろうけど
>>631 真我って認識を超えてるんじゃなかったっけ。
自我の枠が世界規模まで広がっただけで、自分を認識してるのはやはり自我なのかも。
ガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド』が再販されてました。 以前は徳間書店でしたが、今回はナチュラルスピリット社からソフトカバーで。 表紙デザインは以前のものがそのまま踏襲されています。
新しいものもいいが シャンカラの真作と思われるものから安価で訳して出して欲しいわ ブラフマ・スートラとか ラマナのレアなのも再販して欲しい
自我の私に気付いている自分に気付く。たまに見かける表現ですが、これはラマナの言葉ですか?
638 :
神も仏も名無しさん :2012/11/14(水) 10:36:13.11 ID:FKZli6lX
最後の「自分」が何かで話が変わるからなんともいえないですね。そういう表現 はあんまり見かけませんよ。
あれ文章間違えたかなwマハルシじゃなくマハラジだったかな。 調べすぎて、なにがなんだか分からなくなってきたw
Be As You Are: The Teachings of Sri Ramana Maharshi(kindle版) I Am That: Talks With Sri Nisargadatta Maharaj(本) 今日、何時間か時間を置いてそれぞれ衝動的に買ってしまいました。 Be As You AreはIntroductionとChapter1が読み終わったところで、 I Am Thatの方は明日届きます。 Ramana MaharshiもNisargadatta Maharajも他の聖者も 書物によってアートマンのビジョンを体験されたわけではないだろうと、 財布の事情や今メインで読んでる本のことなども話し自分に言い聞かせましたが、 なんか、星の数が多い本はユーザレビューを読むと辛抱ができないみたいです。
BeAsYouAreならネットで見れたのにっ。訳すの大変ですね。
642 :
神も仏も名無しさん :2012/11/16(金) 18:08:30.32 ID:HhRJdOri
うーむ、わかるなあ。その気持ち。買いたくなるんだよね(笑)。kindleって どんな感じなんだろうか。安かったら試したい。
>>641 気づくのが遅かったです。
>>642 自分はとりあえずはAmazon.comのkindle本が読めればいいので
amazon.comにアカウント作ってKindle for PCを使って買った本を読んでますが、
amazon.co.jpからもandroidやiOSを搭載したスマホやタブレット用に閲覧ソフトが
出てますよ。無料です。ただし、前者のKindle for PCはアメリカのamazon.comから
購入/ダウンロードした本しか読めません。同じく、amazon.comからは
Kindle for Macも出ています。
android端末やiphone/ipadなどお持ちでしたら、
日本のamazon.co.jpを利用して青空文庫やスマイルズの自助論など
無料の本をダウンロードして読んでみるとなんとなく感じがわかるかも
しれませんよ。Kindle PaperWhiteは目に優しく読書向きらしいです。
644 :
神も仏も名無しさん :2012/11/16(金) 20:56:38.54 ID:rSMiZeeY
なるほど〜。kindle for PCなら使えるかも知れません。調べてみます。丁寧 な解説ありがとうございます。
じっくり考えて悩んだ結果に出した結論を ラマナはあっさり言ってたりするから俺ももう少し ガッチリ反芻して読まないといけない 言ってることが身に付くまではかなりかかるからな
英文ならI am thatやパパジのもネット上にあったりする
英文読めるとは頭良いんだな ノーベル賞取った科学者もルルドの奇跡見て ガチガチの唯物論者が洗礼受けたくらいに心変わりしたと聞いて 頭良い奴はやっぱ1を聞いて10を知るんだなと思った もっと凄い奇跡見てもたぶん俺とかまったく変われん 頭良い奴って何故か奇跡とかを見ないよな アホかと思われるから口外しないのかも知れないけどな
外人ってガンガンに思い付きみたいなのでもメールしてくるけど 英語がわからないから返信出来ないし話にならんわ でも英語でのゆとりとかステマとか造語みたいなのは 詳しい人でもわからないと思う
最近は食事を二日に一回とかにしてる でギリギリまで腹減ったらドカ食い 食べるばかりしてたら腹がもたれるし 内蔵休めたいし、精神が研ぎ澄まされる感じが割といいかな そんでもインドの修行者は凄いな 一日に小さいバナナ二本とミルクだけとかな それで体に火を点けたりしてたなw カロリー消費は個人差あるらしいがどうなってるんだろうな
内臓
おお、本当だ内臓だわw テレビのおまけインターネットで やってるんだがリモコンが使いにくいんだよな
現代はしかし便利な時代だよな ラマナくらい偉大な聖者の語録が何の苦労も無しに 言葉の壁の勉強をしなくても学べるしな 空海なんか下手したら死ぬかもしれないのに大海渡ってまでも真理求めてるからな 秘められたインドなんか時代的に日本は戦争状態で 極限の飢餓状態で人肉食らってた時代だからな 半端ないくらい豊かだよ、今はな
空海はようするに中村元訳のスッタニパータとか求めて大海渡ったんだろ? 今はネットで買えば文庫で買えるからな 凄い時代だわ
真面目な話、みなさん性欲の制御って どうやってますか?
ご飯食べなければ性欲も無くなるよ 献血した後二日食べなかったら足がふらついたからな まあ俺の場合内臓休めるために断食してるのだけど
656 :
神も仏も名無しさん :2012/11/21(水) 19:50:26.16 ID:iqjsYuuY
まあ、難しいね。断食も一時的な抑えにしかならないだろうし。
>>652 >半端ないくらい豊かだよ、今はな
これだと思った本に書いてあることの
たとえ10分の1でも実行できるようになれれば
残りの人生おつりがくるんだろうな。
>>654 できない人間の一人だけど、
どこかの宗教のカウンセリングをやってたひとが
一般の信者は神のことしか話さないのに聖職者はセックスの話ばかり
というセミナーの合間の脱線話を以前本で読んだことがあるので
そういうもんだと思って気にしないのが一番なのかな?
アジズ(アナディ)の『ヒューマンブッダV』が出ましたね。 これでヒューマンブッダ三部作完結です。 12月にはラマナ・マハリシとの対話三部作の第一巻も出版されるとのこと。
翻訳は『あるがままに』の福間巌氏、出版社はナチュラルスピリット社とのこと。 昔、大陸書房から出ていた、おおえまさのり氏の『南インドの瞑想』の中で一部取り上げられていましたが、 今回は『Talks with Ramana Maharshi』の完全訳で三分冊にて出版されるらしいです。
ラマナって凄いのう 癌になっても痛くても人格にブレが無かったらしいし 何でこんな人格者が痛い病気で無く安楽死できないのかと 他人事でも俺だったら人格がブレるし迷うよな 本当にたいしたものだよ
661 :
安室 ◆B0SerIzvr6 :2012/11/22(木) 19:25:27.74 ID:nQa1IMzQ
>>654 性欲を抑圧すればするほど、思考はセックスだらけになる
一方、性エネルギーは愛や癒しの源泉たりえる
ラマナの死に方ってどちらかといえば 部類わけすればかなり苦しんで死ぬタイプの死にかただからな 現代みたいにモルヒネとか充実してればそうでもないかも知れないが 普通の人間なら天罰で苦しんでるような感じして自問自答するだろ そこで人格にブレが無いというのは本当に関心する
663 :
神も仏も名無しさん :2012/11/22(木) 19:48:57.07 ID:cR+yt1ya
たしかに。肉腫が腕にできた時、それをリンガムと表現したりしてたぐらいだ からね〜。無執着そのもののような人だよね。
>>661 祭りで屋台なども出た街中をねり歩くときには
像の鼻にあらかじめ何かを握らせておくということでしょうか?
665 :
安室 ◆B0SerIzvr6 :2012/11/23(金) 08:24:06.73 ID:fGooe1NZ
>>664 質問の趣旨が良く分からない。
性欲であれ何であれ、あなたが否定し抑圧したものは、
あなたの意識に留まり続ける。
一方、受容し統合したものは、意識から消えていく。
>>665 ごめんなさい。書き方が悪かったです。
像は象で、最近読んだ本に、屋台か店の売り物のバナナや果物を
移動中の象が鼻でわたくししないように棒切れか何かを象の鼻に持たしてやると
途中象はその棒切れを落とさないように屋台などで売っている果物などには
手を出さないといった内容の話があったので、なにか別の魅力的なもの、
昇華できるものを用意すればいいのかなと思って、ついつい書いてしまいました。
どうにかしたいって言うんだったら、性欲をどうにかするよりも 性欲をどうにかしようとしてる「それ」をどうにかする方向でいいんじゃないか。
>>667 ありがとうございます。
>>661 さんの1行目と2行目をつなぐものが良くわからなかったので
>>664 を書きました。
>>654 さんとは別人です。
性欲の意識的なコントロールは諦めてます。
別の件でself enquiryは少しずつやってみます。ありがとうございました。
669 :
安室 ◆B0SerIzvr6 :2012/11/23(金) 11:27:36.74 ID:xl0/x43x
クンダリーニ覚醒の経験をすると分かるだけれど、 セックスのエネルギーが、人の意識の変容や癒しに決定的な役割を 果たすことを実感する。 宗教が伝統的に行ってきた性を罪悪視するイデオロギーは、 人を救うという宗教の本来的目的からすると、 それにまったく逆行するものだ。 もしくは、人が、性という強力なエネルギーを正しく用いることができるほど 成熟していないので、外側から社会的規制をかける必要があったのかもしれない。
クンダリーニの覚醒自体、目覚めとは何の関係もない。 関係ないどころか、さまたげになる。
クンダリーニの覚醒も目覚めもよく分からんけどな 目覚めた人も食っちゃべってるだけが現実で 宗教国家の広告塔として重宝されるだけだもんな
多分、このスレの人は自分ひとりを救うのに精一杯だと思います。 でも世の中には福祉職で働く人もいます。その中には経済的な理由の他に、利他心みたいのが働いていることだろうと思います。 (中には苛めなどをする人もいますが‥。) マハルシの著作を読んで「慈愛」が育たなければ、 その創造が成り立たない気がするんですが、 その辺いかがですか? 己の悟りがある事なしに他人に施しするわけなかろうってスタンスなのでしょうか。
福祉職だが、いろんな人がいるよ。 認知症フロアを一人で夜勤任されたら、温厚ではいられない。 温厚な人は辞めて、非情な奴が残ったりする。別に使命感でやってるわけでない人もおおい。 それはどこの職場でも同じでしょう。 ただ一つだけいえるのは、老人とのやりとりで、こんなに自分が癒されることって 他にはない、と断言できる。どんなヒーリングスペースでのひと時よりも癒されるから、 鬱もちの自分でも続いてきた。
>>673 まあ、その前に自分が人様に施せるほど偉いのかよってことですかね。
偉い人はやればいい。
私は支えて支えられてぐらいのものです。
マハルシは一般人が汗水流して働いた喜捨で食べてるんですけどね そこのところ考えた方がよくないですか?
逆流食道炎には断食がいいよ 胃を空っぽにする 二日食べない この繰り返しで何年も寝起きにみぞおちが痛かったのが 楽になった まあ、俺だけに効果あったのかも知れないけど参考までに
>>673 その利他心や慈愛が自我なんじゃないかな。
そもそも他者は存在しない。
といいながら、思いっきり他者を意識しつつ生きる・・・レスまでサービス
心や身体が他者を認識したり自然に反応するのは別にいいんじゃん それらに執着したり同一視しなければ 当たり前のことなんだし
まあ他人のババアがどんな死にかたしようと知ったこっちゃないしな。 老人ホームで介護者のろくに洗ってない手で触られて クソにまみれて死のうと、それはそれでそいつのカルマだ。
>>673 読むとか読まないとか
育つとか育たないとか
創造するとかしないとかでなはくて、
余計なものを落として、すでにそこにある本来の自分に気づき
本来の自分に戻るということなんじゃないの?
行き着く先が苦しみに通じない欲望ということで
肉体との同一化に陥らず、個を超えてひろく世の中に役立つ
という話はあったかもしれないけど。
不二一元論、ウパニシャッド、Ramana Maharshiを読めば
何かの宗教や(人間らしさという意味での)人間性を回復させるための
本や教えでないことはわかると思うんだけど。
イエスとかブッダとか、家族を捨てたくらいなら本物だと思う>無執着 あるいは身内と他人の区別なく完全に平等と言うべきか。 そこらへんまで達した人いる?
蒸発する奴なんていくらでもいるんだが それのどこが無執着なんだか
欲望と静寂、そこに2つの選択の別れ道がある場合、その場で本人はどちらかを選択しているように思えるが、実際はすでに選択は終わっているそうだ そこに至るまでに積み重ねた思いや行動によって選択する道はすでに決定している 分離や消極的な思いに繋がる積み重ねがあると、欲望を選択する以外にないと 逆に日々の思いや行為が全一体という真理、愛を積み重ねているなら、日々の生き方そのものが欲望ではない道を選択させる 「愛、真理というより大きな欲望へ向かう道を必然的に選択させる」ともいえるかな
静寂無いよな、次から次にと心が沸き立つ 我ながら未熟だとは思う
次々と心が沸き立つその切れ目切れ目を感じたら静寂が感じられるかも。 マハラジがそんなふうな言い方してたけど。 沸き立つとき静寂がないのではなく、静寂はいつでもあって、その上に思いが沸き立ってるだけだと思うし
思いをうまく消せると、その思いは確実に弱まるな。草むしりじゃないが、うまくいくと根っこごとごっそり取れる。
>>685 その積み重ねたという日々の生き方にさえ選択はなかったことは理解してるのかな?
選択があろうとなかろうと、小さな努力をするかしないかは本人次第だと思うんだな、最近は すべての選択が運命に支配されているかどうかなんてのは、真理そのものまで自分を拡大させてから識別すればいい 一瞬一瞬の選択で未来が流動しているのもまた事実 聖者はその流動をとらえているからこそ、努力の大切さを説いている 努力している者とそうでない者にはやっぱり違いがあるんだな
「ラマナ・マハルシとの対話」いよいよ発刊迫る!!
12月4日発刊・・・・全国の書店に並ぶのは10日頃の予定。翻訳は御馴染み福間巌氏、出版社はナチュラルスピリット。全3巻。
1、 版型は 四六版
2、 3冊揃ってではなく、1冊づつ刊行。
3、 順次刊行予定ですが、間隔は「1〜2ヶ月おき」を 検討中。
原題は「TALKS WITH SRI RAMANA MAHARSHI」
通称 TALKS と呼ばれ、アシュラムにとっても「聖典」扱いされている第1級、いや超1級の資料。
1935年から約4年間にわたり(ほぼ毎日・・は言い過ぎにしても)、オールドホールでの「ラマナと訪問者との間に交わされた問答」を克明に記録した書物。
数々の書籍や写真集などで「ラマナの言葉」が引用されるときも、「出典はこの本からであるケース」がかなり多い。
絶版となった「南インドの瞑想」(大陸書房刊)の中で「ごく一部」のみ翻訳されたが(監修はおおえまさのり氏)、「完全翻訳版」はこれが初めて。
翻訳はおなじみ福間巌氏なのだが、現地に長期在住の日本人数名が全原稿に眼を通して協力した作業でもあり、「かなり精密な翻訳内容」が期待される・・・・・(下記参照)
出版関係者から〜
「あらゆる面で、レベルの大変高い仕上がりとなりました。
内容的にヴェーダーンタ哲学の学者にとっても受け入れられ、マハルシを初めて知る方にとっても分かりやすい翻訳となっています。
長期にわたって愛され、読み継がれて行く本になると思います。」
http://www.geocities.jp/ramana_mahaananda/talksinfo.htm
すでに製本済みだね。 四六版だからハードカバーかもしれない。 ナチュスピの社長さん自らアルナーチャラに出向いて、 アシュラムにこの新刊本を献呈されるとのこと。
水を差すようで悪いけど、ラマナの言葉として残ってても、死後発表されたもの、つまりマハルシ自身が校訂してないものはいらないな。 Who Am I?だけでも事足りるでしょ。
694 :
神も仏も名無しさん :2012/11/29(木) 16:52:05.64 ID:lrsHEhiJ
水を差すようで悪いけど、「who am I」のタミル語版を読めるのならすごいけど、英訳したものは校訂され てないからね(笑)。
ラマナの本って田んぼばかりの田舎だけど 知らない間に無くなってるから 俺以外に買う人居るんだなって思った
>>694 別に面白くないけどな。
翻訳の正確さは知らんが、そのタミル語出版のものが生前か死後かは重要。
頭のいいデービッド・ゴッドマンが纏めた「Be as you areあるがままに」が あるからねぇ 全3巻1万円でどれだけ売れるんだろう つか「あるがままに」ももういらんけど
699 :
神も仏も名無しさん :2012/11/29(木) 23:17:07.59 ID:v0qEcVMI
トークスは原文が英語で書かれ、それをラマナが目を通しています
そしてあるがままにと何も訂正しなかった
ラマナってキリスト教系高校中退だが英語できたのか? 沈黙の期間によく忘れなかったもんだな
インドはイギリスの植民地だったの知ってる?お前らより英語ペラペラだぞ。
まあ、イギリス英語がかなり訛った感じで、rを強く発音したりする特徴がある。 とういうかほぼネイティブだな。
これは恥ずかしい。
あまり喋らなかったらしいから それを四年間かけて地道にまとめたってことか それはかなり買いだと思うな あるがままにもかなりのレベルの高さだったもんな
>>702 ん?一応インドに2年くらいはいたので知ってるけど
高校生で意識の話が出来るほどに英語できるのは少数だろ
ニサルガダッタの通訳がラメッシュ・バルセカールだったと思ったが ラマナは特にいないのかな?
708 :
神も仏も名無しさん :2012/11/30(金) 08:36:02.36 ID:XRaP4TYq
通訳の人はいましたが、時代によってかわっていたみたいですね。talksの編者Munagala Venkataramiah もそういう役割をしていたようですよ。英語は理解できたようだけど、あまり話さなかったようですね。
ラマナと言ったらマウナでしょ。 話違うけど、サイババもアドヴァイタなんだね?ただ白い粉を出す人だと思ってたよ。
同じ言語を使っても、語彙をラマナと同じ意味で使ってる人なんてラマナ以外一人もいないわけだし、 言葉を使うこと自体がすでに意味の翻訳なんだから、 仮にタミル語や英語でラマナと直接話したとしても、 ラマナと自分の違い(個人性)によって翻訳や通訳されてるんだよね ラマナの頭の中が自分の頭の中に直接通じるなら別だけど
真我と言うのが個人体験だからなあ そこである程度の霊性が無いと意味がわからないのは 言葉の壁以上の隔たりがあるからなあ ラマナに直接に質問できた人は幸せだよ 俺も聞きたいことあるけど どうせアドバイスが完全には理解出来ないだろうなあ ラマナみたいな高いレベルの真我というのがよくわからないんだよな
まあ完全に理解出来なくてもいいとは最近思う ある程度の真我体験あって救われたらそれでいいなと 別に人に尊敬なんかされない無名でもいいよな 個人の満足感は大事だよ、俺はそれでいいや ラマナいわく母親も死後救われたらしいし それくらいなら誰でも起こり得る救いの範疇じゃないのかな
>>711-712 > I was a simple man, but I trusted my Guru. What he told me to do, I did.
> He told me to concentrate on "I am" -- I did. He told me that I am beyond
> all perceivables and conceivables -- I believed. I gave him my heart and soul,
> my entire attention and the whole of my spare time (I had to work
> to keep my family alive). As a result of faith and earnest application,
> I realised my self (swarupa) within three years.
Sri Nisargadatta Maharaj "I AM THAT" P.48
Ramana Maharshiの「Be As You Are」のChapter 5、第一、第二パラグラフには
self-enquiryのエッセンスがまとまってるよ。Maharajの本には最高のグルは
the Self(アートマン)だとも書いてあったと思った。
そのアートマンというのがわかるなら たいしたものじゃないかと思うけど 何に対してアートマンと言ってるのか俺にはさっぱりわからん 本来は自他が無いのにどこからアートマンなのかラマナに質問したいよ
715 :
神も仏も名無しさん :2012/11/30(金) 18:19:36.46 ID:XRaP4TYq
理屈では、自他の自は相対的な自、まぼろし。アートマンは本当の自分。自分の 内側にいる、と相対的に言われている。
そんなのは全てわからなくてもいいと思うよ 富士山の頂上がラマナなら俺たちは車で上がれるレベルで 救われるならそれでもいいやと思うけどね 全部知りたいと思うならそれがエゴなんだしな ラマナの母親はそこまでのレベルでは無かったと思うし
717 :
神も仏も名無しさん :2012/11/30(金) 19:08:48.73 ID:XRaP4TYq
救われる、救われるって自分ですることしないと無理だと思いますけど。夜店の金魚 じゃないんだし、簡単に救われたら苦労しない。
718 :
安室 ◆B0SerIzvr6 :2012/11/30(金) 22:46:04.20 ID:AISc5Igm
真我の感覚は、例えば、自分は神そのものであった、 自分は本来完璧なものである、自分には無限の価値があるといった、 ある種の実感や理解として体験されると思う。 これには、自分が「存在する」ということへの本来的理解が伴う。 この認識領域に至ると、上下、左右、自他といった二元性が、 自我の囚われによって作られた幻想であったことに気付く。 もっと正確に言うと、上にして下、右にして左といったように 矛盾した概念が、矛盾しながら1つに統合されていることに気付く。
ラマナいわく深い真我ではこの世の存在にすら気付いてないらしいから いいんだよ無知でも 質問されても何も知らないし答えられないでも救いの中にある場合もある
>>713 ,715
よく読んだら結構サクッと凄いこと言ってたんだな
重たいテーマをサクッと言うから胸が痛いわ
そういったエゴを簡単に捨てれる人間なら苦労しないよな
芸術や哲学なんか殆どがエゴの産物だしな
721 :
神も仏も名無しさん :2012/12/01(土) 19:41:19.19 ID:L06YoF+I
「ラマナ・マハルシとの対話」の発売予定日がアマゾンでは12月15日なっていますが4日からずれたのでしょうか?
Be As You Are、Kindle版で読んでましたが紙の本も欲しくなり購入しました。 本はそれほど大きくないですが活字はかなり小さいです。 Be As You Are、I Am That、Viveka-Chudamaniは一生ものですね。
>>717 夜店の金魚って救われてもすぐ戻されるんじゃないのか?
持って帰ってるのか
いや、そもそも救われていることに間違いはないな
オレ達は自分で自分を救えるようにならんとな
生きてるあいだに
>>720 >そういったエゴを簡単に捨てれる人間なら苦労しないよな
>芸術や哲学なんか殆どがエゴの産物だしな
ベクトルが逆なんじゃないかな。
こんな理解が難しい宗教によくみんな興味持ったよな ぶっちゃけ俺は悟り体験もあるし霊感も多少あるから 本に書いてあることがある程度は理解出来るけど それでもよくわからないことのほうが多いよ
最近で驚いたのはアートマンと言うのは
自我の生命力みたいなのを指すのかなと長らくそんな理解だったが
>>713 でアートマンは最高のグルと指摘されて驚いたな
こんな人を選ぶ言ってることが理解しがたい宗教は他に無いと思うな
主婦になれば、分かるはず! ameblo.jp/741-qaz/
>>726 いきなり応用系(基礎知識前提)のところを読むよりも、シャンカラの不二一元論
(Swami Prabhavanandaの英訳 Crest-Jewel of Discrimination)とか、
ウパニシャッドとかから読み始め、書かれている内容が本当のこと
だと思って読み進めれば、少しは理解が楽になるんじゃないかな。
ただし、文字にできない、自分で体験しなければわからないところは
教えの実践を通じて自分で体験するしかないんだろうけど。
>>709 >サイババもアドヴァイタなんだね?
そうだよ。下で毎日、「今日の言葉」的な内容が確認できるし、
登録すると、htmlメールになるけど、同じ内容のメールも
毎日欠かさず送ってくれるよ。
Thought for the Day
http://www.radiosai.org/pages/thought.asp (過去30日の内容もリンクから確認できるよ)
>>729 >登録すると、htmlメールになるけど、同じ内容のメールも
>毎日欠かさず送ってくれるよ。
写真なども入って画面が大きくなり、小さな画面だと横移動や縦移動が
必要になるので、解像度の高いタブレットかパソコン向きだと思う。
上のサイトの方がコンパクトで、そのテキスト表示が一番コンパクト。
2年近く送ってもらってるけど、登録したからといって、
迷惑メールとか来ないよ。名簿の漏れ(管理)は心配ないと思う。
メールアドレスの申し込みから8年くらい一通も
迷惑メールが届いていないメールアドレスで受け取ってます。
>>726 悟り体験とはどのような体験ですか?
霊感はどのような霊感があるのですか?
>>731 そりゃ自他一体に決まってるだろ
でも俺の場合精神に静寂が無い性格だから
完全な悟りには生きて自我ある限り遠いような気はする
それに自他一体と言っても悟りの入口だから
相念の働きですぐ元に戻った
霊感は神社とか神聖な場所やら逆に自殺の名所とか
その場の気の流れみたいなのにはかなり敏感なほうだと思うよ
>>729 いや、難しいことを書いてあると思うよ
単純に729さんは頭がいいとゆうか理解力あるだけなんでしょ
俺は身近で人の理不尽な死とか見てきて
どうしても知りたかったからやっきになってきたけど
やっきになればなるほど悟りは遠ざかるのが難しいんだよな
むしろ寝てる時の精神の働きないほうが悟りに近い側面はあるという
そういった理屈では無いところが色々と難しく感じたな
まあ、でも真理の探求に一応心の整理ついたから一区切りしようと思う
これからは心の静寂に目を向けよう
悟ったのなら理不尽な死が存在しないことも気付いたんだろうな これから理不尽なことが日常になることも
何かを知ろう、到達しようという思いを沸かす人には難しいのだろう 自他不二は無執着、無分別、心や身体を自分と同一視しないだけだから、 方法としてはわかりやすいし、それらに相応の自分の状態があるだけだし
736 :
神も仏も名無しさん :2012/12/05(水) 21:43:30.73 ID:lHzAca1a
何より驚くのはマハリシが1950年まで生きていたという事。完全な現代人。 プレスリーとかとかぶってるんだからな。
自分の爺さんでさえ幼少期古臭いと感じたが そのまた爺さんが死んだぐらいの年だからねぇ。 それにインドは現在でさえ呪いをかけたと疑って殺したりする国で 全く日本とは違うよ。
739 :
神も仏も名無しさん :2012/12/05(水) 23:26:47.56 ID:lHzAca1a
マハリシはムッソリーニなんかについても発言が記録されてるよね。「彼の様な 偉大な才能のある男が同胞の破壊にしか興味ないとは」といった内容だったな。
たかが60年だけど、本人いなけりゃ儲はネタ切れ。自分達に都合よく解釈するのだろうな。
741 :
神も仏も名無しさん :2012/12/06(木) 18:36:22.46 ID:svQfiI8O
関係ないがインドを数ヶ月巡って思ったのがシルディ・サイババの普及が凄まじい。 ガンゴートリーのサドゥーのいるところまでシルディ・サイババの絵がかけてあった。 なんか大ヒット映画とかドラマでもあったのかね。
743 :
神も仏も名無しさん :2012/12/06(木) 20:39:25.99 ID:5qQSrl9K
しかし、やっぱり最も尊敬されているのはラマナ マハリシなのでは?自分も 20年ぐらい前彼の本を持ってインド旅行したけど、汽車の中で向こうの人と 彼の話をした(ほとんど分からんかったが)相当尊敬されてるみたいだったな。 相手は元軍人のおじいちゃんで、ロンメルと戦ったと自慢してた。
744 :
神も仏も名無しさん :2012/12/06(木) 20:47:59.43 ID:svQfiI8O
でも10年前にインド行った時はあんなにどこもかしこもシルディ・サイババ状態ではなかったような気がしたんだ それが今やもうアイドル状態で飯屋の看板にまでシルディ・サイババが出てるからね
シルディサイババが盛況なのは、ひとえに欧米人と日本人のおかげ。 サティアサイババやカレスワールスワミ等を通じて 欧米と日本でのシルディババの知名度があがっていき、 シルディ村を訪れる外国人の観光客が激増した結果として 看板にシルディババの絵をかけておけば外国人の目にとまり、 あれこれ余計に買っていってくれるようになったから。
>>743 インドは広いから全国的にはラマナは無名に近いだろうなぁ。
一部のインテリが知っている程度と思う。
そこかしこで地元の聖者、グル、信仰があるんだろう。
南だと黒いルンギー着て何日間か禁欲し願かけて聖地に向かう人たちをよく
見かけた。願いが叶うってところの方が強いね。
ドストエフスキー 1821年11月11日-1881年2月9日 ルドルフ・シュタイナー 1861年2月27日 - 1925年3月30日 ヴィヴェ―カナンダ 1863年1月12日- 1902年7月4日 グルジエフ 1866年1月13日? − 1949年10月29日 鈴木 大拙 1870年11月11日- 1966年7月12日 出口 王仁三郎 1871年8月27日 - 1948年1月19日 カール・グスタフ・ユング 1875年7月26日 - 1961年6月6日 ダライ・ラマ13世 1876年2月12日 - 1933年12月17日 マルティン・ブーバー 1878年2月8日 - 1965年6月13日 ラマナ・マハリシ 1879年12月30日 - 1950年4月14日 パラマハンサ・ヨガナンダ 1893年1月5日-1952年3月7日 クリシュナムルティ 1895年5月12日 - 1986年2月17日 宮沢 賢治 1896年8月27日 - 1933年9月21日
748 :
神も仏も名無しさん :2012/12/07(金) 00:17:06.18 ID:DmxvrUP+
日本で言えば幸福の科学の大川と鈴木大拙の知名度を比べるようなものか…
749 :
神も仏も名無しさん :2012/12/07(金) 00:20:36.69 ID:DmxvrUP+
しかし、インドでは、よく少年が森の中で深い瞑想に没入し、村人が尊敬してる みたいな胡散臭い話が伝わってくるけど、あのスタイルはラマナ マハリシの 影響だろうね、商売に利用されてる。そういうのも濃厚にインドの特徴だな。
750 :
神も仏も名無しさん :2012/12/07(金) 08:50:38.79 ID:c0yngmmG
マハリシ誕生 1879年(明治12年) 日清戦争 1894年 日露戦争 1904年 第一次世界大戦 1914〜1918年 第二次世界大戦 1939〜1945年 インド独立 1947年 マハルシ死去 1950年(昭和25年)
751 :
神も仏も名無しさん :2012/12/07(金) 18:30:47.27 ID:hLtNcK8g
1920年くらいにはみんな存命だね。 現在どのくらいの賢者がいるだろうかね。 精神世界のリーダーはだいたい超党派だろうかな。
752 :
神も仏も名無しさん :2012/12/07(金) 20:26:09.26 ID:DmxvrUP+
日露戦争の時ははもう若き聖者だったわけか…日本の勝利を聞いた時は何を 述べたんだろうね。
753 :
神も仏も名無しさん :2012/12/07(金) 21:37:51.64 ID:hLtNcK8g
覚者すなわちリーダー、ティーチャーじゃないしね。 妙好人なんかは覚者ではあるが説法者じゃない。 いっぽう説法者ではあるが覚者じゃない人も多いだろう。 エックハルト・トールさんなんかは今は貴重な存在だろうね。
Ramana Maharshiはself-enquiryで途中下車 (surrenderまでは読んだ。残りは冒頭の解説だけ。しばらくself-enquiry特化)、 Nisargadatta MaharajのI Am Thatは毎日一単元ずつ、まだ2ヶ月分くらいある。 こんな状況で、ついついYoga SutrasをAmazonでポチった。時代を逆行だな。 Eckhart TolleはThe Power of NowとA New Earthを一回ずつ読んだけど、 内容がどこかにいってしまったようです。同じことを延々と書いていた印象ですが。 本はよく売れていますが、伝え方の問題か、読者に好き嫌い出るようです。 レビュー中にcondescendingという言葉をたまに見かけます。
シルディサイババって本当にインドの聖者って外観してるもんな 広く好まれるのは見た目ってのもあると思う
>>753 エックハルト・トールはニューエージを取り入れているから
このスレでは評価低いよ。
読んだことないがどのへんがニューエイジなの? チャネリングとか?
新しい世界っていっても比喩の面もあると思うけどね。 いついつ新しい世界になるとかじゃなくて、 意識のあり方を変えて苦悩のない世界に行こうって話しだと思うし、 特におかしいとも思わないけどな。 たしかに表現のとり方にとっては新時代志向みたいかもしれないけど。
760 :
神も仏も名無しさん :2012/12/11(火) 07:46:49.27 ID:eInQ+MGk
トールはガンガジと交流あるし、ACIMにも言及してるし、アドヴァイタへの理解はあると思う。 彼の本を読むに、少なくとも一瞥以上のものを得た人だろうと思う。
糞儲乙
>爆発的に売れることが予想された本じゃないので、 爆発的に広まることが予想された本じゃないので、
スレ内ぐらい検索してほしい せっかく
>>109 で原語の全文紹介済みなのに
public domainになってたり、 合法的に掲載されているのが明らかなら pdfの直リンも踏んでみるけど。
>>760 自分はそうかな。ニューアースというタイトルも、人の新しい精神段階=浄土みたいな
ニュアンスで、ニューエイジみたいな「時間設定」「イベント」の概念はなかった。
正直、ニューアースのタイトルで読むのやめて、4年ぶりに再読したら
まともな内容だったので、いまでは信頼してる。むしろ損なタイトルでは。
ラマナは隠遁してたけど シルディサイババは世俗の中で暮らしたらしいからな
769 :
神も仏も名無しさん :2012/12/11(火) 18:28:16.80 ID:RAJ0D5tr
>>767 「来たものは去る」「あなたは捨てるものを一々調べるのか?」と切り捨てた
ラマナに対し、西洋人は結局グダグダと思考を展開するから
俺は飛ばし読みというか途中で読めないな。
ニューエージ思想に嵌っていたり、触れたことない人なら高く評価するんだろう。
どっかで聞いたような事ばかりでね。はいはいって感じ。
>>769 どっかで聞いたような事ばかりは、俺も思った。内容も薄い。
修行者向けじゃなく一般人向けだしね まあ、読み手に合ってればいいでしょ 読み手が自分に合った本を読めばいいというか
>>770 悟ったら天才になりすべての問題に対し的確に解決策を提示できるならいいんだけど
知らない外国語話せないのがいい証明で
実際はそれまでに知っていることしか知らないからねぇ。
精神世界にどっぷりだった人が経験してないこと解決してないこと聞かれても
聞いたこと言うだけだから「どっかで聞いたような」になるんだよね。
マハラジのように知らんものは知らんって言った方がいいと思うんだけど
キリストのイメージなのか全能目指して頑張っちゃうよね。
他人の動機も境涯も知り尽くしてるような語りっぷりだが・・・ さすがに自分のイメージで語ってないか。
ニュー英二はパクりの詰め合わせ物という事で決定。
パンパカパーン丸橋様、こんにちは。
>>772 >知らない外国語話せないのがいい証明で
「ハムの人」がサイババのアシュラムにテレビの仕事で行って
目の前でプレゼントされた指輪か何かの色を変えられたことを
話していた時代だったと思うけど、別のサイババを特集したテレビ番組に
出ていたサイババのアシュラムに行ったことのある出演者(帰依者?)が
ダルシャンのあとサイババに招かれて仏教かかなにかの質問をしたら
答えは流暢な日本語で、日本語の仏教用語か質問内容にあった日本語の
専門用語を使って答えてもらったという話をしていたとことを覚えてる。
ま、それよりも、どのサイババの特集番組か忘れたけど、番組の最後に流れた映像で
サイババがブランコに乗っている映像が流れたのが一番気になった。
ご
>>774 ごめん言い過ぎた。しかもニューアースと間違えてるし…
読み直してみたら結構面白いな。
779 :
神も仏も名無しさん :2012/12/12(水) 06:03:40.90 ID:sJoUR2Zi
時の検証にかかると、誰が歴史上の偉大な人物のようにのこるだろうか。 しかし、他者を批判するのでなく、自分自身を正さねばならないだろう。
>>776 その話は信者から聞いたことあるけど眉唾だなー
常識外れで自分で体験もしていなければ、広く確認されてないことは信じない。
サイババは特にトリックをカメラで撮られていたり、多くの信者が性的になんかされた
と訴えていたり、サイババの名前使っててなんかで捕まった日本人キチガイ教祖もいたし。
それで日本人がしばらくインタビューに呼ばれなかったんじゃなかったかな?
本人にも問題あれば、その周りにいる人たちにも問題あってそのまま信じない方がいいかと。
思い出した。
サイババはベッドルームでサイババ学校の生徒が警備員に射殺されたりもしてる。
>>729 が今日のお言葉とか紹介してるがそういうことは知らないんだろうな。
でも悟った人が善しか行わないとか人間の妄想だからな 我々の住んでる世界は時として災害だとか理不尽なことは実際に起こる ギータでもクリシュナは最終的には戦争を勧めてるんだよな サティアサイババの存在で良くも悪くもアドヴァイタは有名になったし 俺もそれで興味を持ったきっかけだったし、実際サイババ周辺に奇跡はあったと思う
悟った人が善なる行動しか行わないとかは人間の妄想なのは確かだよ それは間違いない 地震やハリケーンの災害はそれなら何なの?って感じだしな 俺はもうそういうのはそういうものだと割り切ったな
だからキリスト教でも信仰羲認って言葉があるんだよ パウロがそれで悩んだってやつ 深いテーマだと思うよ 仏教でも悟れば自殺しても地獄に落ちないらしいぞ 人は行いでは救われない信仰の深さで救われるらしいんだよな アドヴァイタでもそれは一緒だと思ったよ
>>781 詳しくは覚えてませんが、何かで読んだことがあります。
他にもいろんな話が出回っていますが、真偽の確かめようがなく、
一方で、過去世の帰依者を大切にしたという話もあります。
成し遂げた社会事業や教え(お話)の内容、帰依者の存在を考えると、
テレビの仕事でアシュラムを訪れた宜保愛子さんの魂(精神)がダルシャン後
舞い上がっていた場面などは、見たことのない光しか見えなかったんだろうと、
勝手に解釈しています。
結局は、何を見るか、何をスクリプチャ(教典)にするかの問題ですね。
>>785 >過去世の帰依者を大切にしたという話もあります。
過去世の帰依者を特に大切にしたという話もあります。
>>N6fk3iwv 目覚ました方がいいぞ。 それ全部宗教に吹き込まれたことだろ。 オウムでさえ「信仰を試されている」「本人の清算しなければならないカルマがあった」 「聖者は善悪を超えている」といくらでも同じような言い訳できたんだ。 精神世界は言葉だけであーだこーだといくらでも言い訳できるんだ。 だから黙るのが一番なんだ。言葉に騙されるな。
そりゃ善なる神とか人物を立てようとすればそういう辻褄あわせが必要になる。 善なる神がいるにしては災害、戦争、犯罪、不平等があり、説明できないからな。 つか君あまりアドヴァイタ向いてないよ。 どっちかって言うとそういう下らない知識は捨てるんだよ。
789 :
神も仏も名無しさん :2012/12/12(水) 22:10:17.43 ID:yWmimOxX
肉体に対する執着がなくなれば、災害、戦争、犯罪、不平等に対する不条理な感覚もなくなる。
しかしよく喋るな物知りな人は。しったり顔で。
まあそれが簡単になくなれば誰も苦労しないんだけどね 読んだ本と簡単に一体化しちまうのも精神世界にはよくあることで とりあえず100発ぐらい殴らせてくれ それで不条理と感じなければ合格
誰が悟ってる 悟ってないなんか他人が決めることじゃないからな 787さんがサイババさんやオーム信者全員を認めないと絶叫した所で あなたが判断して裁く必要無いから そんなことは天が決めることだ 更に言うなら自分が悟れるか悟れないか アドヴァイタでは自分の心配だけしてたら良いらしいわ
>>792 自分の心配だけしたいのならばお前がそうしていてくれ
書き込みする以上、自分が他人に影響を及ぼしたいのは認めてくれ
>>793 結局何が言いたいのかわからないのだが?
最初にサイババさんの非難をしてたが
サイババさんが本当に悟ってるのか悟ってないのかなんか
誰にもわからない判断付かないことだと俺は言いたかったのだが?
それを黙るのが一番だとかマッチポンプにしか感じない
795 :
神も仏も名無しさん :2012/12/13(木) 01:40:09.19 ID:ZabDdwLx
796 :
神も仏も名無しさん :2012/12/13(木) 01:41:34.04 ID:ZabDdwLx
お前は俺をどう判断して書き込んでいるんだ? それはお前に分かることなのか?
だから黙ろうとか言ってたんだよな? ならお互い黙ろう そこだけは賛同するよ
ベッドルームで殺人があっても悟っているかどうか分からん精神世界脳に 他人のことなどなにか分かるのか? 必死こいておかしな理屈振り回してるのは気付けよ。 お前には俺が悟っているかどうかさえ分からんだろ。 何も分からんくせになぜかサイババ批判には反応して、 立場がないようなふりしてしっかり宗教擁護だろ。 しかし「天が裁く!」ってオウム信者の言い草みたいだな。どっちが絶叫だか
前スレ
>>662 あたりで、質問はないかって問うてた人のこと覚えてる人いる?
あれ理解できた人いるのかなぁ。
>>798 宗教板で最後にたどり着くだろう場所で言い争いはやめよう。
>>799 Ramana MaharshiのBe As You Areやシャンカラの不二一元論に
普通に書いてあるような内容だと思うけど。
>>799 こんな自分とはもうやっていけない、
人格の総入れ替え(自分が自分でなくなっても)や
こころ自体なくなってもかまわない、
このまま生きることはもうこりごりだと思ってる人間だったら、
上のような書物を読めばスーッと入ってくるかも?
>>798 他人のことなんかどうでもいいじゃないか?
何で自分が悟る努力を考えないんだ?
サイババさんが悟ってなかったら
あなたにそれがどのように関係あるんだ?
それに黙るのが一番精神性高いと言っておきながら
何故そんなに喋りたいんだ?
どうもあなたとはまったく気が合いそうにないわ
自分は悟ってるし、黙るのが一番精神性高いのだとか 言うのなら最初からグダグダ書き込まなければいいのにな 冗談抜きでそう思うぞ
>>803 自分のこと心配してろよ
サイババのベッドルームで警備員に生徒が射殺されたって書いたって別にいいじゃねえか
韓国のテレビ局にトリックすっぱ抜かれているって書いちゃ悪いのか?
精神世界人は情弱が多いんだから
サイババの話してる時にそれ書いて何が悪い?
それを「誰にも悟っているかどうか分からない」とか何でわざわざ邪魔すんだ?
お前には何もわかりゃしねんだろ?
わからねえなら言葉通り黙ってろよ。
どうせ精神世界にプラスな発言した時には 「誰にも分からない」なんて遮ることはしねえんだろ?
俺が悟っているか分からないサイババについて言うのはいけなくて お前が分かりもしない俺について言うことは何が違うんだ?って言ってんだ。
普通の人間なら黙るのが一番だとか座右の銘みたく言うなら黙ってるよ 俺にはあなたが何を考えてるのかまったく理解できん 以後スルーするからよろしく
>>808 答えられないなら
自分で言ったように自分のことだけ心配していろ
お前には何も分かりはしないのだから
エックハルトが嫌いな人って、最近の欧州のアドヴァイタ系も全部インチキ扱い? 日本で本が出てる人だと、アジャシャンテイとかセイラーボブとかアジズとか。 100年前のインド人のマニア向け説教と言い方が違うのはしょうがないと思うんだが。
自分はトールはまあまあ セイラーボブはインドのアドヴァイタと同じ感じでよかったなあ アジャシャンテイは今はじめて知った 読んでみるよ ありがとう アジズはイカサマとは思わないけど、自分のわからないことをかなり言ってるので微妙 欧州のというより、超常的(シッディや高次の存在など)なことまで語られると、それってどうなの?とは思う アジズも高次のガイドにおしえてもらってるとかいうあたり、よくわからない インド欧州や、昔現在に限らず、そのあたりを説くかの違いがあると思う インド人でもラジニーシなんかはそういう話してたし トールも少しだけそのへんをにおわすような語り口があると思う アドヴァイタの多くや、クリシュナムルティなんかは、超常的なことに関して積極的に語ることは避けてたよね そういったことは現れる人には現れる程度で
>>810 エックハルトは嫌いだけど、他の人は名前とネット上にある抜粋をちらっと
見たことあるぐらいでインチキかどうか言うほど知らない。
そもそもアドヴァイタ自体はそれほど複雑でなく、単に、判断と思考の必要な社会で
暮らす現代の西洋人がアドヴァイタとどのように折り合いつけているのか?というのが
買った動機だったが、彼らはこの活動で生きている教祖のようなものでほとんど参考に
ならない上に
ニューエージの混ぜ物が多すぎて読み続けられなかったため、それ以後西洋人の本を買う
気がまったく起きない。
「ガンガジとエックハルトの本を買ったが」が第二段落の頭から抜けていた。
>>810 自分も同感。柳は緑で、相手がどんな語り口かではあまり判断しない。
「無口な聖者」のステレオタイプにべったり信者になる必要もないしね。
いろいろな表現の仕方があっていいとおもう。
違うのは語り口だけで同じことを語っているのか、 表現だけでなく、語っている内容自体も違うのか、 そこだよね
>>800 Be As You Areをこないだ買ってきて、まだ1章しか読んでない…読書って苦手だ。
ちなみにマハルシの本は初めて。
817 :
神も仏も名無しさん :2012/12/14(金) 03:30:56.57 ID:368pB1iD
禅者なんかは瞑想は悟りのためのみにあり、悟りが得られなければ無意味だって いうけど、自分は違うと思うなぁ。瞑想はそのひと時にすべての価値があり。 人生にも良き影響がある。アル中患者にとっての酒。ジャンキーにとっての 薬物に代わるものだと思う。自分だけが家族の中であまり酒飲みじゃないのは 瞑想のおかげだと感じる。(その他の効用は見分けがつかないが) 「悟りのためのみ」というには、この訓練は結果を得る可能性が低すぎる。 悟りは神が気まぐれに選んだ人間への贈り物だと思うな。努力量にすら比例しないし、 善行にも関係がない。
>>801 全般だよ~
今の自分には夢の世界に生きてる自覚なんて、まずないしね。
静寂に在るなら静寂を感じる必要はない、そもそも在ると感じる事が間違い、己の右手を探ることは不可能…
このくだりもさっぱり。
一番意味が分からないのは「フルーツが何者でもない瞬間がある」
>>801 サドルのくだりも考えるんだけど、それを知ったところで何なんだって考えが邪魔をする。
この世界に生きてる以上、名前があり区別があり規律があり。
生活していくのに当たり前なこと…なんて、思考がストップしてしまう。
>>818 夢の中に生きてるって自覚がないなら、今、現実の中に生きてると思ってるってことだよね
例えば、自分が現実に生きてることが当たり前だと思ってたら(自分という存在が現実そのもので在ったら)、
現実であることは当たり前すぎて、いちいち、「ここが現実だ」なんて現実を感じないよね
だったら、今のあなたは、
「現実そのものに在るなら現実を感じる必要はない、そもそも現実と感じる事が間違い、現実そのものである己の現実を探ることは不可能…」
と言えるかもね
自分が静寂そのものであるときなら、
「静寂に在るなら静寂を感じる必要はない、そもそも在ると感じる事が間違い、静寂の静寂を探ることは不可能…」
と言えるかもね
フルーツはフルーツだけど、フルーツを知らない人がフルーツを見たらどう思うのだろう
いま自分がフルーツを知っているからフルーツだと思うけど、知っている部分を除いてフルーツを見たらそれは何だろう
あなたは、あなた自身がどんな人間か、私は人間だとか、私は大人だとか、
「私は○○だ」という様々な言い方で知っているけど、私を知らずに私を見たら何だと思うだろう
「私は○○だ」という言い方を全てやめて私を見るとき、私は何だろう
というような類のことじゃないかな
あの人じゃないからわからないけどね
こういうような話は、覚者の本の中で、いろいろな例えでわりと出てくると思うよ
いろいろ読むと、自分で理解しやすい表現に出会えるかもね
自分のこととして、照らし合わせながら読みこめば、それに応じて答えが出てくるんじゃないかな
>>819 生活をしていくだけで十分な人は、生活していくのに当たり前なことだけしていけばいいんじゃない?
生活をしていくだけでは十分でないと思う人が、当たり前でない部分まで探求すればいいと思うよ
この世界で疑問を持たないなら、名前や区別や規律のままに生きればいいし、
この世界に疑問があるなら、それらが何であるのかどうであるのか、その構造を探求すればいいんじゃないかな
>>817 善行も誰にとって善行なのかって話だしな
カムチャッカ半島の大自然なんか見てたら
あれが本来の人間が居ない大自然の姿だと思うし
野生動物や草木から見たら人間なんか居ないほうがいいからな
人にとっての善行だとか人間主体の自己満足なエゴだと思うわ
823 :
神も仏も名無しさん :2012/12/14(金) 10:27:45.74 ID:368pB1iD
見たことないな…カムチャッカ。
824 :
神も仏も名無しさん :2012/12/15(土) 07:32:23.23 ID:VXfCvkpq
悟りも諦めてこその諦観だよね。マハリシの美しい言葉に癒されたり、瞑想で 癒されてればそれで十分。(禅坊主にはカ〜ッツ!!」って言われるだろうが。
825 :
神も仏も名無しさん :2012/12/15(土) 12:14:06.87 ID:E36c4ubH
>>817 いやぁ、それこそ禅の言っていることではないの?
「ゼンマインド・ビギナーズマインド」って本なんかまさに。
あと、善行にも関係がない、っていうのは違うと思う。 ほぼすべての宗教で善行は推奨されていて。 でも、悟りとか神とかというのは、人の価値観ではかる善悪を超えた懐の深いものだとは思う。
日本語の「悟り」と聞くとなんか重々しく特別なもののように思えるけど、 英語のself-realizationとか、self-knowledge、realise the Selfとかだと 「悟り」「悟る」と違ってなんとなく距離が近いように感じられる。 selfがatmanでも。 Maharajの対話の中でも「earnestness(熱心さ、真剣さ)」をよく見かける。 最終段階では何もなくなるんだろうけど。
MaharshiとMaharajの対話を記録したどちらの著作にも言えることですが、 dive withinやそれに類する表現が頭によく残ります。
人生ってどんな誰であれ、自分が自分の相手をしているわけだから、 みんな、修行の道、悟りの道を歩んでるといえるんじゃないかな。 だから、生を得た以上、悟り終えることがただ一つのゴールって言い方もあると思う。 修行で善行を薦めるのはそれが善だからではなく、個我の執着が生まれにくい生き方を 薦めてるだけだと思う。 執着の生まれにくい行為は、全体的だし、共有共同的で他に尊重的で、 結果的に世間で善と呼ばれてるものに当てはまるだけで。 薦められてる行為の基準は、いわゆる善悪という個々の主観に左右されるような基準じゃなく、 執着の有無、アドヴァイタでいうなら心や体と自分を同一視してるかしてないかというような 基準じゃないかな。
Eknath EaswaranがKatha Upanishadをベースに書いている本だったと思うけど、 愛だったか共感に言及した箇所で、人間や他の生物に共通する二つのことに触れていた。 1.生まれてきたもはいつか必ず死ぬ 2.それぞれのアートマンは同じものである
>>830 >1.生まれてきたもはいつか必ず死ぬ
1.生まれてきたものはいつか必ず死ぬ
「の」が抜けました。
>人間や他の生物に共通する 人間や他の生き物が共有する
まあ動物のような一生を過ごすなら 同じ生態系の頂点でも熊なんかより よほど罪深い動物だろうな、人間は 動物は放射能とか撒き散らさないからな しかも人間の世界では勝ち組の会社の社員がその体たらくだし 悟りに人生捧げるのが宗教では最高の勝ち組かも知れないが 日本の社会では負け組で ホームレス扱いを下手したらされそうなのが辛いところだわな まあ、地獄では無いのだが色々と人生は辛いな
悟りに近付けば近付く程に世間の常識とはかなり違うから驚くぞ 善行も関係ない、努力も関係ない すでにハッキリ言って救われてるんだからな 悟るってのは夢から覚めるだけだな 思い込みってのが想念の始まりがマーヤーなんだろうなあ 微生物には思い込みなんかないもんな、今があるだけなんだろうな
粒子とかな、血液の白血球とかあんなシステムが 人間の能力を遥かに超えてるからな 人間の能力を遥かに超えてるにも関わらず 人間のような想念や思考も無しに あれだけのシステムが行われてるのが悟りの神秘なんだよな 馬鹿でも動物でも下手したら悟れるってのはそこにあるんだろうな 生きてるだけでもある意味ですべてが用意されてるんだよな 山に隠遁しなければ悟れないとか思い込みだよ
まあ神がそんな風に世界を作ってるんだから仕方ないよ 何故は要らない
植物や動物や微生物も悟ってはいてもそれを知ることが出来ない。 二元性を認識しその意味するところを理解出来る能力が備わっていないから…。
彼らには疑問が無い、”それ”と一つであるから。
でも時をへて、単体の微生物もやがて人間まで進化を遂げた。 彼らも長い時をへて、人間まで進化するのかもしれない。 それは善悪とは全く別次元の神のシステムかもしれないですね。
岩城先生はどうして政治の話をするんだろう? 今日の選挙で自民党が勝つだろうけど、それはサタンの仕業なのだそうだ。 岩城先生はずっと共産党に投票してきて、ここしばらくは民主党に投票してきたが、 今回は未来の党に投票したとのこと。 自民党の歴代の首相は中曾根首相以降は全員フリーメースンとも言っていた。 昨年、大震災が起きたのは、政権を取られた腹いせに自民党がメースンに働きかけて 地震兵器を使ってあのような震災を起こさせた、というようなことも言っていた。 阪神・淡路大震災も、当時の村山富市首相に対する嫌がらせとして自民党が起こさせたとも語っていた。 (村山内閣は、自社さ連立政権で自民党も政権与党だったんだけどね?) ・・・この3年3か月を振り返れば、どう考えても民主党の所業こそサタニックだろう。 自民党の政治家は呼び捨てにしていた一方、菅直人のことは菅ちゃん、などとも呼んでいた。 民主党はまだ政権慣れしていないから、多少の失敗は仕方ないじゃないか、 というようなことを言って、しきりに民主党を擁護していた。 あの人は本当に覚醒しているのだろうか。 そのことさえ疑わしくなってきた。 政治の話は政治の話であり、スピリチュアリティとは何の関係もないだろう。 政治の話題を無理矢理スピリチュアリティに結びつけ、○○はサタンの力が働いている、 などと言って生徒をミスリードすることこそ、マーヤそのものではないか。 岩城先生は以前、「先生の話を聞いているとマーヤになるからもう来ない」 と言って生徒が離れていくと言っていたが、さもありなんだと思う。
全ては神が、神自身を知るためのシステム…。
神の世界はわれわれの認識を超えている。 それは、未知である…。
岩城せんせそんなこと言ってんの? でもあの人、自分はまだ悟ってないって立場じゃないっけ
>>843 昨日の修道会で言ってたことです。
リアルワールドさんが、先生は明日の選挙についてどう考えてますか、
と質問したのに対して上記のようなことを語って、
他の参加者はどうだったか知りませんが、自分はどん引きでした。
それからあの先生は自分は悟ったと言ってます。
1999年に最初の一瞥がありその後彼の言うマー(マザー)との繋がりを得て
いろいろガイダンスを受けている、と言っています。
本当に解せないのは、マーヤ解きということを普段くりかえし言ってるのに、
どうして生徒を迷わせるようなああいう発言をするのかということ。
両親が熱狂的な左翼の俳優で、そういう影響もあったんでしょうけど、
サットサンガでああいあことを言っていてはダメですね。
政治的発言だけではなくて、シャンバラがどうのとか、
宇宙人云々という話もよく出てきてゲンナリしてしまう。
もうそういうのはとっくの昔に卒業していて、そんな話はもう聞きたくない、
という参加者がほとんどだろうに。
神が人間の能力を思考も感情も想念も無く 遥かに大きく超えてるのは オセロのコンピューターみたく一手一手全ての組み合わせ試したり アメーバーみたいに迷路全体に体を広げたり 単細胞なんだけど千の手や顔を持つ千手観音状態だから それだけのことが可能なんだろうなと想像してみる まあそういった想像も神は大きく超えてるわけだがな
>>844 へえ〜、そうなんだ
一瞥やマザーうんぬんは知ってるけど、一瞥って悟りの入り口でしかないと思うし、
自分はまだ悟りきってないみたいに言ってた気がしたと思うよ
言い方は憶えてないけど、自分の修行のためにも人に説いてるみたいな
そもそも悟ったらガイダンスなんて必要ないだろうし
でも、もし、俺は悟ったみたいな言い方してるなら、そういうことになったのかもね
>>845 だから聖者たちも、”それ”としか表現のしようがないのだろうと思う…。
848 :
神も仏も名無しさん :2012/12/16(日) 21:29:14.61 ID:DFRY2ibf
多くの意見を聞きたいです。俺は最近「欲望」は「恐れ」 から生まれる、つまり欲望より先に恐れがあるんではないか。 と思うときがあるんです。例えば、充足をもたらすものは 世の中には限られていて、自分には回ってこない 恐れ が あるから、より多くより多くと欲望が生まれる。。みたいに。 でも、欲望と恐れは関係していないような気がしないでもない。 欲望は欲望単体で存在するかもしれないとも思える。なくなる恐れが あるからより多く獲っておくではなく、恐れなしでガメツイ欲望というもの もあるような気もする。 何でこんなことを気にするかといえば、前者の説が真実なら、 禁欲、つまり欲望を抑えることを行うよりも、恐れ というものが 無い ということを理解するのが先じゃないかと思うからです。 なぜなら欲望は恐れから生まれるからです。恐れというものは無い と理解できれば欲望はなくなるはずです。(恐れ→欲望説が正しいなら) でも、欲望は欲望単体で存在するなら、禁欲が直接意義あるものになる はずです。
849 :
神も仏も名無しさん :2012/12/16(日) 21:55:54.93 ID:DFRY2ibf
ちなみに私は今年の1月から約半年間、 禁酒、禁煙、禁オナニー に励みましたが 特に得るものはありませんでした。 ただ、性的な禁欲に関しては、 女性の裸体は美しいということを発見しました。 エロ抜きで美しいと思います。これは性欲では ないと思います。 芸術家が裸婦を描く理由ですね。 この発見は嬉しいです。 でも、そこに魔が差して肉欲が入り込むと堕ちるんです。 過大な期待に対する刹那的ではかない快楽にかえって苦しむ んです。
欲にも2種類あると思うよ 身体が自然と必要とする欲と、身体に必要でないのに欲しいと思う欲 前者は、生体維持と、目の前にあるものを知覚しようとする欲 お腹がすいて食べたいとか、ずっと起きてると眠くなるとか、寒いので着たいとか 食べてるご飯を味わおうとしたり、見てる景色を眺めようとしたり 後者は恐怖や不満、想像や観念から生じる欲、目の前にないものに対して思う欲 今でない未来にお金がなくなるとこを想像して蓄えておこうとか、 目の前にない食べ物を食べたいとか、きれいな景色を見たいとか 今の状態に不満や物足りなさを感じるから、欲しいと思う 単純に、今全てに満たされていて、とてもたのしいことをしてるのに、 それでもしたいことなら身体が自然に求めてるんだろうね さすがに眠いとかさ 単純に、今全てに満たされていて、とてもたのしいことをしていて、 その間、忘れているようなことは、身体に必要ない欲だろうね そういうときは酒も煙草もオナニーも忘れてるしさ 今をヒマに思うから、じゃあ酒でも飲もうかとかオナニーでもしようかって思うだけだし 今目の前にあること(あるがまま)に集中できず、ないものを求めてるだけだよね
でも、酒も煙草もオナニーも、執着なく行われるならいいんじゃない? そういう機会に出会ったなら ただ、執着ないとき、それらはほとんどしたくならないと思うけど してもひとくちやすぐやめたり 禁欲とか、何かを禁じようとするのも、必要ない欲のひとつだと思うよ 今の状態でない、別の状態を望んでいるだけだし だからといって、欲を肯定するわけじゃなく、 欲が生じたら、身体に必要かどうか、観念や、今あるものへの不満から生じてるかなどに気づいて、 自然と禁欲の状態になるのがいいんじゃないかな 恐怖と欲に関しては、恐怖なしに生きるって本がわかりやすくていい本だと思うよ
禁オナでエロ抜きで美しいと思えたなら、 同じように、接するものを何でも神聖なものとして見てみるといいかもね 酒でも煙草でも、そこに神性を感じられたら、むさぼる気はなくなるだろうし それらの表面的な個性に、自分の表面的な個性(習慣性など)を反応させるんじゃなく、 表面的な個性の向こうのものを見ようとすると、見方がかわるんじゃないかと思うよ
岩城って人を先日知って、一月に初めてセミナーいってみようと 休みいれてみたんだが、そんなこと言ってるのか。
自称悟った人って言うことがおかしいからな 本当に悟ったんかいなと思っちまう 単なる思い込み激しい人って可能性も非常に高い
インターネットで坐禅を進めていた和尚のページも、次第に陰謀論になっていたたしなあ ケムトレイルとか、原発とか・・・なんでなんだろう
>>855 彼は元々普通の社会、普通の人々を嫌悪してたからね。
結局、悟りの体験前と同じ構図なんだよね。
普通の奴らは馬鹿、俺は気づいてるって構図にとても弱いと思う。
そもそも悟りを目指す人には、内面のコンプレックスや不純な動機から目指す人がけっこう多いと思う たいてい本人は気づいてないけど 自分には長所もないし、人より優れてる部分もないから、悟りを得て逆転してやろうみたいな心の構造 カルト宗教に入る人にも多いよね 優れた人間になってやろうみたいな それこそ、恐怖心からの欲望 自分がただの何でもない人間という事実を直視する恐怖
私などは自分の境遇から刷り込まれた観念が自分を痛めつけていて そこから這い出すすべを全力で模索していたと思う。 優れた人間以前に、普通の人間として生きることを許されるにはどうすればいいのか。 その延長線上で悟りというものの存在(?)に出会った。 見返してやりたい、とかいう動機だとちょっと違う方向に行ってしまうのかもしれないですね…。
私は勿論言うまでもないけれど、悟りは得ていませんが。
心をなくし、人格をなくし、好き嫌いもなくし、 自分が存在しないか、自分しか存在しない状態が目指す悟りの到達点だとすると、 他の存在を前提とする自分を祭り上げる「逆転」という発想自体が そもそも「悟り」とは相容れない関係なのではないでしょうか?
心をなくし、人格をなくし、好き嫌いをなくす、この発想は悟りとは違う方向に向かわせると思いますね。 ”無心になる”という言葉がそのように誤解されるのは仕方のないことなのでしょうが。 そもそも自分が救うのは自分の心であって、心無きものにするためではなかったはずなのです。 無心になること(坐禅等)で、自分の心に寛ぐことが出来る、他人の評価にうおさおする自分さえ安心して観ていることができる。 悟りはその先に観えてくるのではないのかと思っています…。
862 :
848 :2012/12/17(月) 11:30:50.83 ID:kv8iP4nS
>850 飲酒、喫煙、オナニーは嗜む程度ならいいかもしれないけど、 その嗜む程度でおさえるのが難しいですね。 心の惰性というか、もうちょっと・・という流れ、欲を断固止める 苦痛は、最初から手をつけないという苦痛より勝る時がある気がする。
結構みんなの疑問ってのはラマナ・マハルシは あっさり答えてたりするからな 言われてピンと来るかどうかってのが 俺もそうだけどその時はわからないもんなんだよな
ラマナ・マハルシの凄さって自分がある程度わかればわかるほど 知れば知るほど やっぱこの人はスゲェ悟ってるわみたいな地味な凄さだからな
865 :
神も仏も名無しさん :2012/12/17(月) 23:39:45.40 ID:tDs54gxW
ラマナ・マハルシの問答で厳密に「役立つもの」は瞑想のハウツーだけじゃないか? あとは詩を読むのと同じ、美しさを感じ取ればいい。個々人の質問に対する答えは 明らかに矛盾してるんだから。書籍の場合は読んだその人の捕らえ方で内容は大きく 変わる。
866 :
神も仏も名無しさん :2012/12/17(月) 23:45:36.53 ID:tDs54gxW
善行の事は議論を呼んでるみたいだけど、宗教が善行を薦めるのは「そうじゃなきゃ 社会的に尊敬されないから」じゃないの?神(と言っていいのかな?)が啓発を与える のは別に善人だけじゃない。いくらでも前例がある。聖書にも仏典にも。 努力もあまり関係がないのはラマナ・マハルシの事例が端的に示している。 それを知ったからとて別に悪人になれるわけでもないし、絶望が深まるわけでもない。
マハラジの本、買って後悔した。もう、なにがなんだかサッパリわからんw
悪人でも悟る例はあるけど、悪人のまま悟るわけじゃなく、何かをきっかけに、 自己の内面を理解したり、執着が消えたり、自己放棄が行われたりして、悟ってると思うよ そういう意味ではいわゆる努力とは言えなくても、原因があって、結果が訪れてるし、 理由なく誰でも悟るときは悟るってわけではないと思う マハルシだって今生の結果は前世の行いによってかもしれないし 努力も善行も、欲や執着から生じてる場合もあるし、必要とは言えないけど、 内面の理解、執着をなくす、手放すことは恩寵を受けるには必要じゃないかな
それもただの意見
>>867 言い回しがわかりづらいよね
でもああいう表現でピンとくるようになったら理解がすすんでいることなのかなあとも思う
自分は、わからないところは置いといて、時間をおいて読み返してるよ
>「そうじゃなきゃ社会的に尊敬されないから」じゃないの? ちがうでしょ。神にも知られぬように行えとか、陰徳とかいう言葉があるし、 ダンマパダとか読めば端的に善いから行えと推奨している。 >別に善人だけじゃない。いくらでも前例がある。 そらそうでしょ。聖書の徴税人が義人とされた話なんか意義深いよ。 いわんや悪人おや、ってのはようするにバクティ。 自力宗教と他力宗教の違い。 どちらも自己放棄につながることもあれば、逆に自我の拡大につながることもある。 どちらが自分にあっているかは、その人が生まれついたグナによる。 みたいな事をプンジャジが言ってた。
873 :
871 :2012/12/18(火) 00:27:35.41 ID:iYjPGi5w
>>871 >ほとんどシームレスに読めるよ。
書かれていることを疑わず、そのまま本当のことだと思って信じる、
というが大きいかもしれません。
>>877 ありがとう。
輪廻を超越できないときの影響がわからないのでw
最近は買うことにしています。
>>879 ありがとう。
インドの本屋も探してみます。
881 :
神も仏も名無しさん :2012/12/18(火) 01:48:27.92 ID:b2mNcJyz
>>872 ふ〜んな〜る。自分はそう思わないけど、これ以上議論する気もない。
そう思える人はそれで全く構わないだろうね。
ラマナ・マハルシと釈迦って教えが似てるよな 特に超能力や奇跡は悟りから遠ざけるとして 沈黙の中にとどまるように教えてたところがよく似てると思うわ そういう無駄の徹底排除なところが俺は好きなんだよなあ
超能力や奇跡は実際あるけど 人間の能力を完全に超えてるからな 後ろのことが人間に生まれたら見えるわけないのに 背後のことを見てないから駄目なんだみたいな話をしても 仕方ないからな ラマナにも実際に教えに個性はあったよな 聖者みんなが同じようなことを言うとは限らないんだよな 超能力や奇跡を認めるイエス・キリストみたいな人も居るしな
884 :
神も仏も名無しさん :2012/12/18(火) 18:37:42.98 ID:PDzysvgp
その力を自分で実演できるならいいけど いい大人には失笑されるからな 今まで生きてきてそんな力も奇跡もないからくすぶってんだろ?
何十年と生きてきて遭遇もしてないことを本読んで夢見ているのは直らないのかな? この人、何度言ってもこれ始まるよね こういう人に遭遇すると訳分からないこと言う自称悟った人たちもこの部類なのかな?と思う。
あなたが会ったことや見たことないだけで 自分の人生の価値観で決め付けないほうがいいよ 俺も別に信じてくれとか押しつける気も無いし そもそもスレ違いな話なんかしてないと思うけどな
信仰っていうのが個人で勝手に信じてるって意味でもあるからな 宗教板自体が超能力や奇跡が実際にあるとかないとか 話あうような場所では無いんだよな 個人で勝手に信じてる範疇で終わりなわけだな
勝手に信じてればいいなら書かなきゃいいのに お前が信じてること書くなら俺は「僕、何歳?」って自分の信じてることに基づいて 書くだけだよ
つうかまず家族とか友人にそういう話をしてみなさい 「そんなことより目の前のことでしょ」って言われるから 自己探求にしろほとんどの精神修行はそういうことなんだけどなぁ 本読んで超能力がどうの、奇跡がどうのと頭の中で言葉の旅をすることではないんだよ
好き嫌いとか価値観とか人生とか家族や友人のこととか 超能力とか奇跡とかそういうのをすべて忘れる時間があればいいね。 考えることも思い遣ることもする必要がないひとときが。
別にスレ違いな話をしてるわけでも無いのに それすら気にいらないならスレを見なければいいのにな 仏教でも千里眼使えたとか釈迦の伝説はあるんだから そんな話をするなとか仏教スレで話すなとか言うのと一緒だろ? 自分な解釈の宗教の話をしたいなら新たにスレでも立てたら?
892 :
神も仏も名無しさん :2012/12/19(水) 08:55:01.11 ID:2zLI39cY
瞑想は想念を消滅させる事、とりわけ言語を消滅させる事。だから本当はいかなる テーマでも議論の余地がないんだよね。だからマハルシも弟子の質問に対して 常に質問自体が静まる様な答えしかしない。言語が消滅すれば肉体感覚も肉体感覚 ではなくなる、なんでもなくなる。
てか、話の発端となった
>>882 の人は超能力の
存在はあるとしても、それを重視することには否定派なんだから、
目くじらたてることもないような・・・
そういえばパパジの本とか読むと「別の惑星での世」とか「悟りを開けるのは地球だけ」
とか、前世の存在全肯定のオカルト話、そういうのは否定派はどう思うのかな。
おっと、俺は別に肯定派じゃなく不可知論者なんで喧嘩うらないでね。
モーリス・フリードマンについて、日本語で読める本とかサイトとかないのかな? 英語は全然ダメなもんで・・・。 あと、ポール・ブラントンについても(『秘められたインド』と『新カルマ論』以外で)
895 :
神も仏も名無しさん :2012/12/19(水) 12:35:29.35 ID:EV2NUOeF
なさそう。。
やっぱりないかぁ・・・。英語で書かれたものはけっこう充実してるようだが。 グルジェフに、ウスペンスキーという優れた解説者がいたように、ラマナやマハラジの 優れた理解者として、もっと評価されてもいいと思うんだが。
ぶっちゃけラマナ・マハルシくらいの逸材は 本場インドでも稀にしか居ないと思うよ 知らなければ答えれるわけ無いことを 言葉少なめに答えるから間違いないなと思った 本当にわかってるよこの人は、人格にブレが無い本物だよ
みんなすごいなぁ 翻訳したり現地行ったり そこまでの情熱はないわ
899 :
神も仏も名無しさん :2012/12/20(木) 02:18:09.03 ID:Bn6pp9Ap
転生は科学者達も認める人が増殖中だよね。臨死体験の研究からさ。自分も 死後生、生まれ変わりはある。と思うようになったな。
900 :
神も仏も名無しさん :2012/12/20(木) 02:20:48.16 ID:Bn6pp9Ap
ちなみに、ラマナ・マハルシも認めている事は母親、付き人の死の時の対応を 見れば明らか。何らかの力で死の瞬間の解脱をさせようとし、失敗すると、 「よき転生の兆候が見られた」と言っている。
そういう話するとオカルトとかいって激怒する人がくるから やめといたほうがいいっす。
まあ、あるにしろないにしろ、自分のわからないことは、わからないこととして、 ほっとくのが修行の道かと
マハラジは何を話して何を話さないか予定を組むことによって、滞在しに来ようとする人々をある程度選り分けていました。 彼は彼が「幼稚園の学習」と呼んでいたものに興味はありませんでした。 つまり彼は、儀式的な礼拝、カルマと輪廻、念誦のような慣習や、それに類することなど、伝統的なヒンズー教の教義について語ることをたいてい拒んでいたのです。
後に、彼と最初の対話をした後、彼はよりいっそう厳しい試練を質問者に与えました。
「私は肉体の内にいる個人が存在しているという仮定にもとづく質問に答えることに興味がありません。
私はそのような実体の存在を認めてません。だから私にとってはそのような質問はまったく仮定のものです。」
この第二の制約は、本当に会話の殺し屋でした。
あなたは、「どうやって私は悟ればいいのか?」や「私は何をすればいいのか?」と言えません。
なぜなら、そのような質問のすべては「私」の存在を仮定しているからです。
その仮定は、マハラジがいつも拒否していたものでした。
私は、通訳がマハラティー語で質問の内容を説明していてるのを、マハラジが聞いている様子を鮮明に記憶してます。
質問の要点がわかると、マハラジの顔はときどきしかめっ面に変わりました。
彼はこぶしを握り締め、床をたたいて、「カルパナ!カルパナ!」と声をあげました。カルパナは概念という意味です。
質問者が得られる解答はそれだけの時もありました。
マハラジは訪問者の概念を扱うことにまったく興味がありませんでした。
彼は概念を捨ててほしかったのであり、概念について議論してほしくなかったのです。
この第二の制限が効果的に人々が師に聞きたがる質問のほとんどを切って落としたとき、
マハラジは空いた時間で意識の性質について語りました。
来る日も来る日も、彼は同じ話題をつづけました。たいてい同じ喩えを使いました。
http://artofawareness.jp/library/nisargadatta-maharaj.html
ある朝新顔のインド人夫婦が来て、家庭と仕事に責任がある中でどのようにして超然としたスピリチュアルな人生を送ればいいのかということについて、マハラジに英語で質問しました。
これはインドでは標準的な質問で、グルの務めをする人は皆標準的な答えを持っていたはずです。
マハラジは彼らをとても丁寧にうやうやしく扱い、一五分ぐらいかけて彼らに話をしました。
その時間の終わりに彼は、彼らに出て行って欲しいと言いました。
これは少し珍しいことでした。
ふつうは、質問者がマハラジとの対話を終えるときまって自分の席に戻って皆が話すことを聞いていたのです。
この時マハラジは彼らが階段を降りて姿を消すのを見守っていました。
彼は十秒ほど待ってから突然嬉しそうに笑い出しました。
ももを打って彼は言いました。「あれはあなたたち外国人が来る以前にも毎日のように交わしていた退屈な会話だ!」
http://artofawareness.jp/library/nisargadatta-maharaj.html
和平氏は口臭なんとかするべき。
ラマナ・マハルシって見た目は裸ふんどし姿で 動物に餌をあげたり、無口でそれなのに悟ってるから すごいよな、なんでこんなに地味なのに凄いんだろな 周りが持ち上げなかったら世間に関心もたれなかったのがまた恐ろしい 悟るってのは実に地味で平凡な日常の中にあるんだろうな
この人のいう真我に留まる、っていうのは、ヴィパッサナー瞑想法と同じなの? だとしたら同じくらいの覚者も仏教のほうでいそうだけど・・・
ぜんぜん違うよ。 ヴィパッサナー瞑想は観察がメイン。 真我探求は観照がメイン。 あと原始仏教や禅ならば悟った人がいるけれど ヴィパッサナー瞑想だけでは技術的に無理ではないかと。
いや、一般向けのヴィパッサナー瞑想は簡単な観察が紹介されてるぐらいだけど、 それが進むにつれ、アドヴァイタでいう様々なサマーディのような、 煩悩の消滅や諸行が停止した状態、平安や涅槃まで到達するってことにはなってるよ 俺は悟ってるわけじゃないから実際はわからないけど それにヴィパッサナー瞑想も在家向け出家向けといろいろあるんだよね
>転生は科学者達も認める人が増殖中だよね。臨死体験の研究からさ。 もう興味ないのであまり知らないけど大体そういう研究って古いんだよ。 80年代ぐらいかな?それから何十年経ってるのになぜか新しい研究がほとんど 出てきてないはず。 まあ、「科学者達も認める人が増殖中」ってソースも精神世界本臭いが。
私を探求してると、探求している私Aに気付いている私Bに気付く時がある。多重人格になりそうorz
転生を科学者が認めても、転生も科学者も全部丸ごと実際には無いのだから、あんまり気にしないでいいんじゃないかな
>>913 私を見つめる私に気付いても、それを見つめる私以上をいまのところは感じない
普通に考えたら、私を見る私を見る私を見る私・・・と永遠に続くはずなのに
「真我」に「世界」という部分的かつ有限的な定義を当てはめてるだけだから。 世界の定義にこだわらなくなると、楽になると思う。
人間はいくつかのことを同時にできるから、歩きながら痒い部分を掻くことができる。 しかし、私を観ている私に気づいて、そこから先の見ている私云々はすでに思考のループだと思う。 探さないで注意深くそこに留まり続けることで、何か認識の変化が起こるのかも…。
テスト
科学番組見てたら わかってることだけでも世界はこれだけ複雑なのに 科学でわからないことだからな、宗教の世界は 本読んだりしてわかったような気がしても まったくわかってないこととか多くあるから 謙虚な気持ちになって、そういった謙虚さから心が静まるし 悟りは近付くと思うんだよな
>>917 >「あれはあなたたち外国人が来る以前にも毎日のように交わしていた退屈な会話だ!」
それをインド人が、よりによって「英語」で尋ねたのが、マハラジの笑いのツボだったんじゃね?
>>921 州によっては公用語のヒンディー語の使用率が低いところもあるらしいし
植民地統治時代からの英語を使ってもおかしくないのでは?
観察と観照のちがいは?
925 :
923 :2012/12/21(金) 22:18:40.91 ID:OH7ZCQ/g
(州の)公用語が違う州から夫婦でわざわざ来たんだよ。きっと。
926 :
神も仏も名無しさん :2012/12/21(金) 22:53:04.12 ID:dzH0KVa0
>転生を科学者が認めても、転生も科学者も全部丸ごと実際には無いのだから こういうのは笑っちゃうね。全てが幻影でも、幻影として全てはあるんだよ。 どうも悟ってもいないのが悟り顔であーだこーだ言ってるのは気持ちが悪い。 自分達の認識のみ正しいとでも言いたげにね。ラマナ・マハルシはそういう感じ を一切抱かせないのがすごいがね。
>「あれはあなたたち外国人が来る以前にも毎日のように交わしていた退屈な会話だ!」 「以前はインド人を相手に、今はあなたたち外国人を相手に、相変わらず退屈な会話を交わしている」 そう言いたげな気がするw そして「誰か、もっとマシなことを質問してくれないものかねぇ?」とかww
928 :
神も仏も名無しさん :2012/12/21(金) 23:34:17.60 ID:dzH0KVa0
インド哲学には混乱があるよね。全ては幻影だ。という前提から、生真面目に 人間の肉体に宿る魂などという存在は無く、従って転生もない。と頑固に 言い張ろうとしている。こんな結論を導き出す必要なんて無い。 例え魂が転生するとしても、それは真の実態ではない。と言えばいいだけ。 全てが幻影だとしても、幻影には幻影の法則があり、原理がある。
言葉じり捉えて、あーだこーだと。 どうも悟ってもいないのが悟り顔であーだこーだ言ってるのは気持ちが悪い。
ここはそもそも知識を蓄えるのに必死な人達のスレだから
~だと思うよ、~と書いてある、~じゃないかな、~なのかもね、なんていらない。 本の知識じゃなく、実際の体験から得た話が聞きたい。
慈悲の話をすると警戒、超能力の話をすると罵倒、しかし 智慧の話は飛びつく。 どれも同じ執着の元なのに。
>>931 実際の体験としては
考えなけりゃそりゃ価値観も区別もなくそりゃ平安ですな、で終っちまうから。
それで終われないで人生を何とかしようと自我が足掻いていつまでも悟りに執着す
るだけの話で。
アセンションに嵌る人よりは上等と思ってたが結局同じなのかもね。
他人が悟ってるか悟ってないか気にしてもしょうがないじゃん ラマナですら悟ってたかどうかわかりようがないのに 本の内容から、2ちゃんの書き込みの内容から、 それを通して自分の内面をどう見ていけるかでしょ
悟りだけは痛みを伴ってもいいから向こう側に行かないと 見えない景色ってのがあるからな 手術した闘病本とかでも同じ病気したなら最高に共感できるだろ? 本の知識でも実際はかなりのアドバイスを得れるからな 修行不足としか返答出来ない
本気で実践しはじめたら、ここも2ちゃんも忘れ去ってしまって二度と戻ることはないだろうから、ここにいるということは停滞しているんだな、と自覚する場所だと思えばいいんじゃないのか ここは分離と議論の場所だと思うだろ
938 :
神も仏も名無しさん :2012/12/22(土) 22:06:19.70 ID:+WF0Y8Sv
インドまで行って、それなりに修行してからここ来たけどな。 修行不足ねぇ。 まあ悟りに望みかけてるから仕方ないんだろうが、本の受け売りそのまま 悟りに夢描いてる奴は大体修行してねえな。
インドまで観光に行ってなにも身につかなかったわけですね
>>937 実践の課程でも構わないんじゃ。
もちろん議論もありだけど、本ばかり漁って知識こねくりまわしてる頭でっかちの話はどうも。
たまに、ここは本について語るスレなのか?と思う時がある。
ここで質問した時に「この本に書いてあるよ?」と回答されたのにも違和感があった。
悟り関連スレだとよく、お互い悟ってる悟ってないという泥仕合になるけだ、ここはまた違うプライドの高さがある。
前スレで質問求めてた人いたじゃない。
その時の反応見て、ここの人の探求心って一体どこに向けられてるんだろうって思ったよ。
本の知識だろうと実際の体験だろうと 事実なら事実だろ? 内蔵の病気でわき腹から背中がかけて痛いと 本に書いてあった知識でも実際の体験だろうと 事実なら否定する根拠はないじゃないか? それで相手に対して不平感じるのが意味わからんよ スレ内で英語わかる人とか実際それなりに詳しいとは感じるよ その人たちが本当にわかってるかわかってないかは自己責任だし 引用してくれたりする聖者の言葉は確かに本物だよ
聖者の言葉はポインター(pointer)。 指先に注目する人と指が指しているものを探す人とがいるそうだ。 本で読んだ「知識」。ごめんね。
別になんか、聖者の本読んで示唆受けるのが別に問題あるわけじゃないだろうし、 僧侶もガーターやスートラ読むし、だめだめいってたら皆ダメなんじゃないの? たかが2ちゃんのスレ、修行の場とかいてるわけじゃあるまいし、 悟った人と、修行者だけしかきちゃいけないってのが無理があるだろ。 本の感想語り合いたいだけの、別に悟り目指してない普通の人なんかどこのスレだっているわけだし。 それがまずいってんならそれこそサットサンに行けばいいと思うんだが。
このスレにいる他者に不満を感じるなら、 それもまたそういう自分の内面を熟考できるいい機会になってると思うけど それでもどうしても他者への不満の思いが生じて耐えられないなら、 他者を排除しようとするより、自分が出て行くほうがいいかと思うよ
>>941 否定なんかしてないよ?
知識をコレクションするのが目的になってる人がいるってこと。
>>942 のいう指先しか見ようとしないんだ。
自分もそう。指摘されたけど最初は意味が分からんかった。
無自覚なんだよね。
>>944 出たり入ったりしてるよw
まぁ、他人は変えられないからね。
ちょっと不満をぶつけちゃったけど本音だったんだ。
でも排除しようとしてるのはお互い様かな。
どこまで行っても「自分のめんどうをみなさい。」ってことでしょうね。 それがラマナの探求が直接的であると言われる所以なんだろうし。
このスレは色んな意味で独特だなぁ。
>>946 犀のようにただ独り歩め、だよ。
>>947 あなた自身の面倒を見なさい
世界の事は世界に任せなさい
ってのがラマナの言葉にあったと思ったけど。
何か違いが?
>>913 なかーま。
自分も、アジズの言うステートオブプレゼンスの練習をしてたときそんな感じになった。
↓ 某所からの引用です。
グルジエフは、自己想起練習で自己同一化から抜け出していく訓練を言ってますが、
これは「意識は反射するものがないと意識できない」という意味では、意識を単独で成立させるのではなく、
反射するものを意識するということです。
花火を見る。花火を見ているわたしを見る。花火を見ているわたしを見ているわたしを見る。
このプロセスでは次々と、反射器を移動させていることがわかります。
意識は、反射するものがないことには、決して働かない。つまり射出運動そのものが意識。そして射出は闇夜にできない。 必ず何かに向けて射出する。
引用終り
「私」という感覚も、私を探求している私の感覚も、意識の対象でしかない。
私を追う、私を追うものを追う、私を追うものを追うものを追う、私を追うものを・・・
対象に到達する前の、「意識」そのものはつかまえられない。
かたちや概念には、なりえない。 ということはわかった(ような気がする)。
>>924 「観察」は、観察者がいる。
「観照」は、観照者がいない。
>>936 それはイエスのように十字架にかけられないと悟れないって話に繋がらないか?
別に十字架いらんよ
それでも砂糖の甘さも舐めてみないとわからないからなあ ストーブの熱さもそうだし より深い理解に十字架にかけられる必要は無いけど 悟る必要はあるかもしれない
猿に味覚はあるのか ケーキの甘さを感じ取れるか わからない
>>957 味覚がなければバナナを見て興奮したりしない
>>954 そうだねえ。
観察は夏休みの宿題にでる朝顔の観察日記のように
微細な変化・さっきとはどこがどう異なるのかを
詳細に見てその違いを認識すること。
観察には自我が必要となるから
観察をどれだけ続けても自我は静まることがない。
ハタヨーガやクンダリーニヨーガなら観察が正しいけれど
瞑想ではその先がある。
観照はただひたすらに見守る。
違いも変化も気にせず、ただゆだねてそのままに在る。
観照を続けると心の作用が少なくなっていくので
ラマナのいうヴァーサナが減少する。
自我の消滅こそが真我の完成だから
真我探求や瞑想では観照が正解。
その前段階として観察をするのも正解。
ただ呼吸を詳細に観察することと
呼吸を見守ることは似ているようで
カニとカニかまぼこくらいに本質が異なる。
でもその意味でいうと、ヴィパッサナー瞑想の観察ってのは観照だよね 瞬間瞬間、心や体に生じる反応を判断せずただ観続けるだけだから
だから原始仏教の瞑想でも 初心者向けから玄人向けまで幅があるんだよ。 一般向けのヴィヴァサナはあきらかに観察しろって言ってる。 阿含経の経典を読めば、もっと深い内容も書かれている。 シャカは相対する人によって発言内容を変える対機説法をしていたから 高弟と一般人では教える内容も変えていた。 どんな習い事でも始めてすぐの初心者と 何年もやっている人なら違うことを教えて当然だよ。
>>936 修業不足?ただ理解できない状態があるだけ。
理解する事と、言葉や発する人に固執する事は違う。
結局は示唆する言葉を越えていかなければならない。
理解する人は自分の言葉で語る。
964 :
神も仏も名無しさん :2012/12/25(火) 10:32:25.67 ID:0BEj7yo0
Talk 86. キリストとは、自我である。 十字架とは、体である。 自我が磔され、消滅する時、生き残るものが絶対的存在(神)である。 この栄光ある残存が復活と呼ばれている。 ラマナ・マハリシ
鈴木大拙も本で同じこと言ってたな。 イエスの磔刑は、西洋人に強く見られる自我の死であり、 あれがあるからこそ復活がある。だが、東洋には殺すべき自我がそもそも薄い、とか。
「東洋的な見方」だったか「神秘主義」だったかな? いろいろ面白かった。とくに「仕事について」みたいな論が。 中国の賢者が、便利な道具があるのに、それを使わず 体を使った手順の仕事にこだわったエピソードとか。 シモーヌ・ヴェイユ(大拙を愛読してたらしい)が、「労働とは、詩でなくてはならない」と 言っていたことに感心したとか。 聖テレジアがどんな仕事をするにも「アーメン」と心で唱えながらしてたとか。 読んだ時はあまり意味がわからなかったけど、最近わかるようになってきた。 マインドフルネスに働けということなんだね。
ラマナ・マハルシとの対話を買ってきた あるか無いか不安だったけど よく見えるお勧めコーナーに 何冊か積んであったから良かった
>>967 沢山あるね。実際には売れてるのかな?売れるといいな。
他の本より積みが低かったし 一番上の本が斜めに傾いて誰か触った形跡あったから 売れてるんじゃないのかな?よくわからないけど 周りが田んぼなそれなりな田舎在住だけど興味ある人居るのかも
プンジャジの『真理のみ』ももうすぐ出版されるらしい。 自費出版のものは以前出ていたんだけどね。
プンジャジの本はわかりやすくて好きだな。 また話題に出すだけで荒れるかもしれないが、 前世とかシッディとか、時おりラマナやプンジャジの本に出てくるああいうものはなんなんだろう? 前世や超能力なんて検証不能ものを真我覚醒者が言及するその関連性が解からない。 「真我覚醒すると車の運転ができるようになる」、と同じくらい意味がわからない。
>>971 mixiだったかな?
そこで関係者と思しき人がコメント残していた。
それならいいんだけどね。 プンジャジの本とか読むと、問われてもないのにいきなり別の惑星での生とか ながなが語り始めて戸惑う。
現実についての話では現実の中にあるとみなされることを話すし、 心についての話では心の中にあるとみなされることを話すし、 真我のみが実在だという話においては、それらは否定されるのでは
プンジャジが別の惑星での生の話をするってどの本なの?
まさか、パパジという肉体の中に個人の行為者がいると思ってないよね?
まあ、解脱してみれば輪廻も幻想、ということなんだろうけど、
解脱する前に輪廻の概念が必要なんだろうか。
「あなたがそれを知るのは後になってからのことで、はじめにではない」とのことだけど。
>>覚醒の炎のP165〜167とか、P138とか随所に。
>>978 まあ、これを書いてるわたしの中にも個人の行為者はいないんですがね。
これを読んでるあなたの中にもね。
>>979 そこで書かれてる他の惑星にも生命があるってのは、
宇宙は全て生命(真我)で満たされてるって意味で読んでたよ
ここ(地球)とそこ(他の星)もどこも同じであるっていう
>>979 >輪廻の概念
ラマナマハルシのBe As You Areに
修行者が修行に向かうために必要みたいなことが
書いてあったように思うよ。
グルに言われたことを素直に受け容れ
余計なことには見向きもしない人には必要ないんだろうけど、
自分の頭であれこれ考え納得や行為の意義を求める傾向にある人には
必要なのかも。
>>979 行為者がいない。
同じ行為者がいないでも、
パパジと普通の人の行動の基点が同じだと思っていないよね?
感じ悪い言い方すんなよ
それでは、答えを書きましょう。 普通の人は、自我を基点として行動がなされます。 パパジのような人は、存在を基点として行動がなされます。 存在を基点として行動がなされる場合は、 その場、その場で一番適切な行動がとられるのです。
気になってたんだけど、プンジャジは本当にマハルシの弟子なのかな?マハルシと一緒に写ってる写真見たことがないので。
>>984 何を今さら知識としてわかりきったことを・・・。横からうっとうしいから軽くあしらっただけですよ。
実際、悪夢から覚めて夢だと気付くように 悟るとこの世が夢なんだと気付くだけなんだから まるで夢から覚めたら最初から寝てただけみたいな 真我自体は変化無いが悟りの真実なんだから凄い話だよな
> 解脱する前に輪廻の概念が必要なんだろうか。 分かりきっていれば、こんな発言が出るわけありません。
>>989 些細なことです。
少しは沈黙しといたらどうですか?
ID:UzbR0I0q 経験していないからボロボロだね 馬脚を・・・バカ へたれ
修行者同士なかよくいこうぜ
虎の威を借るとはこのこと 勘違いも甚だしい 自己顕示欲、特別意識 いずれ誰もがぶつかる問題ですが
相手は人間なんだもの。
言い方一つで角が立つ。
それともこれが、
>>984 さんの存在を基点としての行動なのかな?
ほっとけ。
誰か、正しい答えお願いします
沈黙d( ̄  ̄)
999 :
カラス人間 :2012/12/28(金) 16:21:19.24 ID:OnlC8Iqc
c
このやりとりが既に自我の世界の縮図だな 小さなコミューンも大きなコミューンも同じだ 社会なんてない 所詮自我が作り出してるだけなんだな
1001 :
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