1 :
三休 :
2012/08/01(水) 10:49:32.22 ID:wV6NG1sB
2 :
神も仏も名無しさん :2012/08/01(水) 12:01:10.06 ID:arcuIB6A
3 :
神も仏も名無しさん :2012/08/01(水) 13:13:18.85 ID:J+eu8RUg
4 :
神も仏も名無しさん :2012/08/01(水) 14:01:25.90 ID:J+eu8RUg
◎図説 地図とあらすじで読むブッダの教え[大型本]高瀬広居(監修) ◎宗教史地図 仏教/古坂紘一(著) ◎チベットの生と死の書/ソギャル・リンポチェ(著)大迫正弘(翻訳)三浦順子(翻訳) ◎スワミ・シヴァナンダの瞑想をきわめる/菊水美佳(翻訳)木村慧心 ◎江原啓之神紀行 2 四国・広島・出雲(スピリチュアル・サンクチュアリシリーズ)江原啓之(著) ◎voice style vol.2 パワースポット 神社 [大型本] voice style 編集部 (著, 編集) ◎下ヨシ子の死後の世界 (図解雑学)下ヨシ子(著) ◎魔のJR中央線―自殺霊の撮影で判明したこと/斎藤斎霊(著) ◎地震予知研究の新展開/長尾年恭(著,写真) ◎地震は予知できる!/早川正士(著)
5 :
神も仏も名無しさん :2012/08/01(水) 19:27:27.27 ID:7ECllpiC
出世間知に至ったら、言葉では議論できないと思う。 言葉を発して自分の考えを述べるときは、どうしても 世間智の範囲でしか議論出来ないと思うから。
6 :
神も仏も名無しさん :2012/08/01(水) 20:17:28.77 ID:aYGsS+ph
>>5 そりゃ、議論できないって言えばいいんじゃないか?
でなきゃ、何で議論するんだw
7 :
神も仏も名無しさん :2012/08/01(水) 21:05:47.82 ID:7ECllpiC
世間の中で生活している以上、出世間に至る思考 は世間智によるしかないとしても、最後は100%自分 の内省のみで、出世間知へと至らなければならないと するなら、悟りへと向かう中で、他者の言葉は意味を 持たないのではないかと思う。それでは悟者にとって外部とは 他者とは何なのか。そこにはコミュニケーションの深い断絶 が存在するのではないだろうか。社会にとって一般人にとって 悟者とは無駄飯を食らう者という以外に意味があるのだろうか?
8 :
神も仏も名無しさん :2012/08/01(水) 21:41:12.96 ID:aYGsS+ph
>>7 半解だね〜、変な妄想広げるより聞くのが先ですね。
9 :
? :2012/08/01(水) 22:22:41.95 ID:J+eu8RUg
悟者の為に施をした人には善業が報われる だから 「悟者の為に、そして他人にも施をせよっ!」 と言う事なんじゃなイカ?
>>7 隔絶していたとしても教えを施設する事によってパンピーを利益する事ができるしいいんじゃない?
利益が無駄だと思えば自身の境地に遊んでいてもいいし、入滅してもいいだろうし。
11 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 08:07:35.93 ID:gsnuV6Dr
>>7 >悟りへと向かう中で、他者の言葉は意味を持たないのではないかと思う。
>それでは悟者にとって外部とは他者とは何なのか。
イイところに来ているが、二項相対のままでは関を越えられない。
この問題は前スレ43の
>>987 小林秀雄「無常ということ」と同根だ。
なぜなら、生女房(一言芳談)も小林秀雄も「無常」を捉えそこなっている。
一切は空常なること、即ち
無常なるものもなく、無常ならぬもの(恒常)もないからである。
無常ゆえ濁世を逃れて極楽浄土に救いを求める(生女房)のが浄土(無常ならぬもの:小林秀雄)思想の根幹だとはいえ、
それは方便にすぎず、
出世間のまなざしで、世間(濁世)の只中で慶安に生きなおすのが仏法である。
世間とニルヴァーナ(浄土と言ってもよい)は不一不二だからだ(中論25-19・20参照)。
「現代人」に至ってはいわずもがなだ。
また、「歴史」は過去ではなく現在である。
ゆえに、歴史には動物も多数いるのである。
てか、小林の言いグサは「動物」に失礼だろうw
12 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 08:39:09.47 ID:dCmgKwcB
>>11 >出世間のまなざしで、世間(濁世)の只中で慶安に生きなおすのが仏法である。
>世間とニルヴァーナ(浄土と言ってもよい)は不一不二だからだ(中論25-19・20参照)。
そりゃ、君の解釈で仏法じゃないだろ。
上の短文じゃハッキリしないが、君の解釈は単なる観念的現状肯定なんじゃないか?
そんなの仏法じゃなく机の同類だぜ
13 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 09:19:55.55 ID:gsnuV6Dr
>>12 >君の解釈は単なる観念的現状肯定なんじゃないか?
・「出世間のまなざし」を体得することが、どうして『単なる観念的現状肯定』になるのか?
・<前スレ
>>993 >
直接現実(あるがまま)は無価値・中道である。
執着罵倒すべくもない(涅槃寂静)
間接現実(知覚記憶現実)は我執・有価値と誤解夢想する。
執着罵倒もやむを得ぬ(苦)
両者共に「現実」であることには寸分の区別も存在しない(中論25-19・20)
寒山・拾得みたいに山中深くで隠遁生活して、世間を罵り
護摩でも焚いてシーラカンス「仏教」をやってろよw
14 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 09:35:55.06 ID:dCmgKwcB
>>13 あほだな〜「観念的現状肯定」って言葉から、
「世間(濁世)の只中で慶安に生きなおす」が力点だって読めないかな〜
こんな事言ってるから「出世間のまなざし」とか言っても「観念的」だとしか思えないんだよね〜
せめて、「〜と思う」ぐらいにして断定は避けてくれよ。大して分かってないんだから。
15 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 10:05:25.84 ID:gsnuV6Dr
>>14 >大して分かってないんだから。
と、大して分かってない御仁が言ってます。
仏法は実存苦を超克して、慶安に生きなおすことだけが本懐です。
これができれば他は余計な迷いです。
分かる=分別し得るものは何もなく
説き得るものも何もない。
無分別直接現実における戯論の消滅というめでたい境地なるがゆえに、
ブッダは、いかなる仏法も、どこにおいても、誰のためにも、説かれなかったのです。
>>15 >ブッダは、いかなる仏法も、どこにおいても、誰のためにも、説かれなかったのです。
ソースplz
17 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 10:17:42.38 ID:qmuA5zq0
仏法においては真理は一つではないのだろうか。 所業無常ということは、悟りに到達した仏の心も無常 ということだから、それでも悟り続けていられるというのは、 前の瞬間の悟りの状態から、次の瞬間には別の形の悟り の状態へと移行するということなのではないだろうか。 つまり、悟りの在り方、真理はそれこそ無数にあるのではならない ということになるのではないか。真理が一つしかないならば、悟者が悟り を続けるには思考停止するしかなく、知覚の作用も考えれ ば、外部との接触も閉ざさなければならなくなるのでは? われわれが世間のなかで悟りを開いた人を見ることが出来るとすれば それは、真理や悟りは決してただ一つの状態ではないということなのでは ないだろうか
18 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 10:17:54.16 ID:dCmgKwcB
>>15 >仏法は実存苦を超克して、慶安に生きなおすことだけが本懐です。
全件はそういえるだろう。後件が、机と変わらないと思うんだが、
何かテキストか、伝統説の根拠があるのか?
「慶安に生きなおす」なんて言わないだろ、解脱する、涅槃すると言うと思うが。
19 :
15 :2012/08/02(木) 10:19:51.73 ID:gsnuV6Dr
ブッダは、いかなる仏法も、どこにおいても、誰のためにも、説かれなかったのです。
ゆえに、
>>7 は己事究明という一点を自力で突破して全面展開しなければならない。
師は教えるのではなく、ただ誤った道に迷わないよう、見守るだけである。
20 :
15 :2012/08/02(木) 10:21:58.64 ID:gsnuV6Dr
>>19 >解脱する、涅槃すると言うと思うが。
それは色即是空。
仏法の本懐は空即是色(無分別の分別)です。
だな。仮設としての世界をみとめるなら 仮設としての自我、苦悩、執着も認めないとおかしい
>>17 なんだか色々と前提が間違っている気がするよ。
そもそもここで述べられる「真理」とは何を指しているのさ?
>>20 >ブッダは、いかなる仏法も、どこにおいても、誰のためにも、説かれなかったのです。
出典を出してください。
23 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 10:44:43.55 ID:dCmgKwcB
>>20 そりゃ、違うだろ。
そうだっていえる。根拠、さっきから何も出てないよね。
出せないなら、単なる妄想だって認めるしかないんだが。
24 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 10:54:34.52 ID:qmuA5zq0
25 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 11:23:13.65 ID:KYNjEamL
真理(法)を言葉で説明できる(し尽くすことはできる)、と釈迦が考えてたとは思えないが、 だからといってその文面を元に哲学めかした言辞を新たに作っても仕方がないような。 釈迦は言葉で説明できないからこそ、実践を教えて 自洲法洲のスタンスでいけと(修行者に)教えたんじゃないの。 一昔前のご隠居みたいだが、法洲、法灯明「法」の部分に自分の考える 「法」を閻魔氏は代入しちゃってるように見える。そして 自分は「法」を知っているという立場から、それを表現するために 仏典からいろいろと言葉を拾ってくる。
26 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 11:32:13.98 ID:dCmgKwcB
27 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 13:04:01.64 ID:gsnuV6Dr
>>22 >出典を出してください。
ホント仏教概念主義には困ったものだw
なにか、テキスト解釈が君たちの「仏教」=ガクモン・ディレッタント仏教なのか?
左脳仏教=空蝉仏教まがいだなw
何度もいうように、仏法は仏教化で即仏法ではなくなる。
テキストを排し、直接に自力で仏法を直覚させる禅の手法(いわば右脳直覚仏法)を支持する。
どーでもいいが、しかし、あえて挙げれば、中論 帰敬序 同18-3 25-24
スッタニパータ 874あたりかw
>>23 自力(自灯明)で法(法灯明)に気づくことに、
いちいち「仏教」(テキスト)の根拠を求めなければならない態度自体が問題だろう。
そんなのは無分別智による直覚とはいわない。
やれやれ、ひも付きミイラ概念仏教主義の不自由なことよw
君らは下の言葉をなんと聴くのか?
『比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、
なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。
悪しきものならばなおさらのことである。』(マッジマ・ニカーヤ22)
『筏の喩えの法門を知る人は、法をさえも捨てなければならない。
まして、法でないものはなおさらである。』(金剛般若経 6 中村元=田辺祥二p176)
28 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 13:24:01.49 ID:dCmgKwcB
>>27 要するにテキストの言葉を適当に摘んで妄想してるだけっしょ。
コテつけてくれるとスル〜しやすいんだけど
29 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 13:37:19.70 ID:gsnuV6Dr
>>28 >テキストの言葉を適当に摘んで妄想してるだけっしょ
だったら、中論25-24を完全否定してみろよw
30 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 13:51:02.52 ID:dCmgKwcB
>>29 いや、だからテキストは否定しないよ。
上に書いたようにテキストの言葉を摘んで妄想してるっていってるっしょ。
オイラが異を唱えたとこは、そこじゃないってよく認識しろよ。
そこに異を唱えたのは別人だ。
31 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 14:01:36.41 ID:gsnuV6Dr
>>30 >そこに異を唱えたのは別人だ。
>>25 の人のことか?
それは失礼・・・でもないか→
>>26 妄想だという根拠を教えてもらいたいね。
もっとも、テキスト解釈の修辞学は願い下げだ。
おっとしまった、しまった、島倉千恵子!
デートの約束に遅れた〜〜
またあとで!
中論觀顛倒品第二十三 無漏法に至るまで尚お不生の相と名づけない − − − 中論觀法品第十八 八聖道分を修習して 我、我所を滅する因縁の故に 無我、無我所を得て 智慧を決定する 滅尽定を以って第一と為し 終に無余涅槃に帰する
33 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 14:08:53.08 ID:HfpS9ndM
>>27 なんで川を渡り切る前に筏から飛び降りようと思うのかわからない、と感じる。
渡りきった後、筏を捨てるってことじゃないの?
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)の場合は とりあえず心(識)は仮に存在すると仮設して 深層意識の阿頼耶識が 自分の意識も 外界にあると認識されるものも生み出している(唯識無境)と考えて 瑜伽(ヨーガ)の実践などによって 第六表面意識から → 深層意識の阿頼耶識に働き掛けて 最終的には阿羅耶識もまた空である(境識倶泯)とする
36 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 14:18:01.45 ID:dCmgKwcB
>>31 オイオイ、ID ぐらい見たらどうだ。
根拠も簡明に上に書いたぞ。
37 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 14:18:40.30 ID:HfpS9ndM
38 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 14:21:41.35 ID:HfpS9ndM
喩えの中で「渡舟もなく、また橋もないとしよう」とされている
のも見逃せないポイント。
>>34 それにしては扱いが軽い。
おまいら 彼岸の河渡りきったのか?
秘密経典・理趣経 八田幸雄 178ページ参照 その人には、その人にとっての世界観がある 184ページ参照 その人にとっての〔我と言うのは、このようなものである!〕とか その人にとっての〔如来と言うのは、このようなものである!〕などの 妄執分別の念があると空を体感会得する事は出来ない
41 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 14:37:43.84 ID:HfpS9ndM
>>39 無理ゲー
>>40 その文面を記憶して、頭の中で微調整を自己流にちょこちょこ行って
それっぽい態度をとったとしても、
それは理趣経をつくった集団の意図ではないと思われる。
正しい適用法のもと行われなければならず、
そのためには師について自分を見てもらいつつ
直してもらわないといけない。
理趣経の本来の適用法が伝承されていなければそもそも出来ないけど。
秘密経典・理趣経 八田幸雄 184ページ参照 自己も如来も捨て去って、空(くう)、無自性の世界に没入 身心脱落、自己と他己との融即統一 と言う体感会得に至る
> その文面を記憶して > 頭の中で微調整を自己流にちょこちょこ行って > それっぽい態度をとったとしても 表面意識だけで哲学的に思惟しても何も変化は生じない 瑜伽(ヨーガ)の実践などによって 第六表面意識から → 深層意識の阿頼耶識に働き掛けて 最終的には阿羅耶識もまた空である(境識倶泯)とする
44 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 14:55:25.09 ID:dCmgKwcB
>>37 渡ったってんなら、ちっと目の前に現れるくらいの神変見せやがれってんだ。
>>39 オイラは洲から大船で漕ぎ出し中、なかなか帆が立たない
>>41 理趣経は、果を道とするから全くそれまでの大乗経典とは違う。
当然、ブッダが説かれ伝承されたと考えるけど。
45 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 14:58:16.53 ID:HfpS9ndM
他宗教のメソッドも構わず継ぎ接ぎだったり、 誤りを指摘してくれる師につかずに遣り出したら何も起こらないか 泥沼に嵌るな。 生兵法の精神変性で野狐禅の仲間入り。
46 :
神も仏も名無しさん :2012/08/02(木) 15:04:30.42 ID:dCmgKwcB
>>45 一人でやるなら、そう。
だけど、ネットで言いふらすなら、害があるでしょ。
48 :
? :2012/08/02(木) 16:13:33.59 ID:hiIlR85v
根本仏典も、中論も、瑜伽行唯識なども 表面意識だけの哲学的な思惟によって作られたものではなくて 禅定(瞑想)とか、瑜伽(ヨーガ)の実践などの 体感会得によって、教理にまとめられたものなので 色々な人の解説書を読んで そして最終的には、禅定(瞑想)によって 体感会得してみて下さい と言う事のようで おじゃる
49 :
ノスタルジア :2012/08/02(木) 16:46:08.82 ID:rVDhed5z
>>11 あなたの文章は、死ということ、つまり無量の諸仏の浄土の景色や南無阿弥陀仏自体、
を無視している。それじゃあ空などまだまだ論外だろう。空を論中におさまるには、
少なくともその二つに対する証明がないと坊やである僕は納得がいかない。
それと娑婆(世間)即浄土とみる見方も好きじゃないな。嫌いといっておこう。
無常なるものと無常ならぬものの間には死があると言っておく。
50 :
? :2012/08/02(木) 17:05:16.26 ID:hiIlR85v
> 出世間のまなざしで、世間(濁世)の只中で慶安に生きなおすのが仏法である そう言えば机先生も 日常生活の中においての 「 気づき(正念?) 」 によって とか言ってたような気がする おじゃる?
51 :
ノスタルジア :2012/08/02(木) 17:05:58.96 ID:rVDhed5z
>>49 48まで読んだが他に回答しようと思うものがなかった。
52 :
? :2012/08/02(木) 17:14:09.99 ID:hiIlR85v
私の場合は 娑婆(世間)即浄土ではなくて 八聖道分の修習によって 滅尽定によって第一と為し終に無余涅槃に帰する と考えている おじゃる
53 :
ノスタルジア :2012/08/02(木) 17:33:55.05 ID:rVDhed5z
>>52 お釈迦様の真の教えからは外れるかもしれませんね。無余涅槃って言葉
が難しいな〜人間や菩薩や神や仏を超えるのが真の悟りに至る道程である空と
という技術だと鬼和尚流に言うなら解釈しているけど。
やっぱ滅尽定から無余涅槃に帰る道程は内緒ですか?
どこかの国の人が体、消してどこかに行ってたってYOUTUBEで観たからな〜
あまり当てにしてないな無余涅槃。今の現状報告。
冥想なんぼやっても 自我の爆発が我慢できんもんは我慢できんもんやな もう悟りとかむりぽ お釈迦さんの成仏方法ではおれは仏にはなれんかもしれん 阿弥陀はんに帰依することとした
お念仏をとりあえず唱えとこう 南無阿弥陀仏
56 :
? :2012/08/02(木) 17:52:16.30 ID:hiIlR85v
スッタニパータ 1026 無明が頭であると知れ 明知が 信仰と念と精神統一と意欲と努力と に結びついて 頭を裂け落させるものである − − − クンダリニーは 普段は尾てい骨付近のムーラーダーラチャクラに眠っているが ヨーガの実践や宗教の各種修行によって活性化し始め 生涯をかけ各チャクラを開花させグランティを破壊し 最終的には 頭頂のサハスラーラを押し開け解脱に至る
そんな能書きとっくに読破してるわ 己の煩悩の前ではなんのやくにもたたん
58 :
ノスタルジア :2012/08/02(木) 17:57:28.75 ID:rVDhed5z
無余涅槃はお釈迦様の死後の存在というものを想定しているのだとすると、 滅尽定はお釈迦様の悟りか〜
59 :
? :2012/08/02(木) 18:12:43.00 ID:hiIlR85v
ブッダの人と思想(NHKブックス)中村元 40ページ参照 非想非非想処 想うのでもなく想わないでもない境地 滅尽定(想受滅定)という最高位の禅定の 一歩手前の境地であるといわれております 51ページ参照 四如意足(四神足) 神通力の基礎となる力で 意欲、努力、思念、観察へのそれぞれの集中力のことで それを修めて悟りを開いたというものです 意欲、努力、思念、観察は悟りへの必須の条件でもあります
さらば 冥想仏教 7年間ありがとう
一切の自力雑業をふりすてて 八月二日夕方の刻 本願に帰す
>>27 それらの典拠のどのような言葉をどのように理解すれば、
>ブッダは、いかなる仏法も、どこにおいても、誰のためにも、説かれなかったのです。
となるのでしょうか?
自力を捨てるということは、ありのままに生きるということで、 ありのまま = 中道 = 空 で、そこには自我がない。 それが悟り。
>>63 ありのまま=欲望に忠実
ではありませんか?
>>64 補
少なくとも、辞書的語義として言うなら、
「ありのまま」とは、生を受け、
その生理的欲求と「(後天的学習によって確立された)自我」の保全に従うこと以上の意味を持たないわけだが・・。
(だから、無垢な赤子の如くという譬えは、仏教だけでなく様々な所で見出し得る。)
>>64 ありのままというのは、自然のままに ってこと。
自然のままに ってことは、自然の運行に、すべてをお任せするってこと。
自然にお任せするから、そこには欲望があるとか、無いとか、そういう
自我の価値判断は存在しない。
欲望があるとかないとかに捉われず、自然に行うから 「ありのまま」 であって、
欲望のままに動くこと = ありのまま じゃない。
ありのままとか、あるがままとか書いてあると 欲望そのままにと勘違いするんじゃなイカ? おじゃる?
68 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 02:25:29.34 ID:3QKoUDuW
欲望、煩悩のない人間はいない。だから「あるがまま」じゃん。 宗教者にも、「覚りたい」「解脱したい」という特に強い欲望があるw。
69 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 08:06:12.19 ID:KC03kXgX
>>68 最初に悩み苦しみをなくしたいという欲がなければ、進まない。
最終的に煩悩がなくなり悩み苦しみがなくなれば、悩み苦しみをなくしたいという欲も必要なくなる。
70 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 08:42:20.13 ID:JRU5zRYo
>>16 >>ブッダは、いかなる仏法も、どこにおいても、誰のためにも、説かれなかったのです。
>ソースplz
・『世俗の表現(言語慣習)に依存しないでは、究極の真理(勝義諦)を説くことはできない。』(中論24-10)
・『マーガンディアよ。「わたくしはこのことを説く」、ということがわたくしにはない』(スッタニパータ837)
・『わたくしには主張は存在しない。まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存在しない』(龍樹「異論の排斥」より)
・『ブッダはいかなる教え(法)も、どこにおいても、誰のためにも、説かなかった』(中論25-24)
・『如来によって説かれた法というものはなにもありません』(スプーティ「金剛般若経」13-b)
など。
これは明白だとおもいます。
71 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 08:44:24.71 ID:JRU5zRYo
>>62 >それらの典拠のどのような言葉をどのように理解すれば
>無分別直接現実における戯論の消滅というめでたい境地なるがゆえに、
>ブッダは、いかなる仏法も、どこにおいても、誰のためにも、説かれなかったのです(
>>62 )
上記は龍樹 中論25-24を基にしています。
仏法の本懐は実存苦の超克ですから、合目的的に“理解”してゆくのが合理的です。
実存苦は二項相対(矛盾)分別の一辺への執着によりますから、二項相対分別思考の原因をなくせばよいという縁起的思考が簡明です。
ですから、直接現実は無価値・無意味・無矛盾・無実体・無相の無分別中道である必然性があります(本スレ
>>13 ,前スレ
>>993 参照)。
言語・概念・思考はまさに間接現実における反中道の分別意味(戯論が代表)ですから、直接現実においては成立しません。
ゆえに、間接現実における上記文言となります。
72 :
11 1/2 :2012/08/03(金) 08:50:44.68 ID:JRU5zRYo
>>49 >それじゃあ空などまだまだ論外だろう
そうですか。それは恐縮です。
でも、
>>11 で「二項相対のままでは関を越えられない。」と指摘しましたが、その限界のままとお見受けしました。
>その二つに対する証明がないと
わたしは未熟者にして、未だ『無量の諸仏の浄土の景色』や南無『阿弥陀仏』自体を知覚経験検証したことがありません。
<ない>ことの『証明』は不可能です。
『無視している』という文言からは、あなたは<ある>ことの証明は可能なはずですね。
どうぞ、『証明』をお願いします。
>死
人が死という分別を想うのは(わたしの用語では)間接現実(→
>>13 、前ス43
>>993 )での知覚記憶によります。
ところが、あなたはそして私も、自己の生前・死後の直接的な知覚記憶がないのです。
ところがあなたは『死がある』と断定している。
その根拠は知覚記憶以外に何でしょうか。
73 :
11 2/2 :2012/08/03(金) 08:53:31.36 ID:JRU5zRYo
>>49 仏法は中道ですから、
>無常なるものと無常ならぬものの間には死がある
・一切は空常なること、即ち 無常なるものもなく、無常ならぬもの(恒常)もありません(
>>11 )
・ゆえに、直接現実において不生不滅(前スレ
>>991 龍樹 中論 帰敬序 1-3 )です。
生も死もことばのみです。
不生の仏心(盤珪)です。なにものも生まれないのに、実体としての死があるわけがないのです。
>娑婆(世間)即浄土とみる見方も好きじゃないな。嫌いといっておこう。
世間とニルヴァーナにはいかなる区別もありません(龍樹 中論25-19・20)(
>>13 )
(間接)現実=(直接)現実です。
しかし、好き嫌いを言われれば、沈黙するしかありません。
74 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 08:58:02.62 ID:JRU5zRYo
>>63-
>>69 >あるがまま
「あるがまま」は直接現実におけるものです。
間接現実におけるものではありません。
これの無分別智による直覚を『縁起の現観』といいます。
75 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 09:01:00.09 ID:JRU5zRYo
>>63-
>>69 >あるがまま
「あるがまま」は直接現実におけるものです。
間接現実におけるものではありません。
これの無分別智による直覚を『縁起の現観』といいます。
76 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 09:02:05.05 ID:JRU5zRYo
連続投稿ミス 御免
77 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2012/08/03(金) 09:29:59.50 ID:wHoDvjt7
>>70 はいはぃ、簡単です!
スッタニパータからみて、
ゴータマの言葉の意図するものとはこういうことでしょうね。
つまり、ゴータマはこう言っているわけですよ!
『マーガンディヤよ。あなたは(自分の)見解にもとずいて尋ね求めるものだから、
執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。』(Sn.841)、と。
要するに、
世間の人々は自分勝手な妄執にもとずいた思考をすべての前提にしてるということ。
これに対して、ゴータマの説く教えとその言葉というものは、
本来、如来が出現しようがしまいが最初から制定され働いている自然界の摂理に関するものであって、
ただ人間はこの中でどう生きるべきなのか?というものでしかない。
だから、私の述べる事柄は“自分勝手に脳内創作した絵空事ではない”、
という意味なのでしょう。
そういう意味で、
「“私”は主張しない」「“私”は説かない」と言っているのです。
当人(ゴータマ)にとっては、
「本に書かれてあることをただ述べているだけで、
別に私の考えを言っているわけではない」というような感覚なのでしょう。
はい、瞬殺論破!!!
78 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 09:46:01.78 ID:JRU5zRYo
>>77 宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk は相変わらずあかんなあw
まさに、外道ピエロw
お前の論はすべて間接現実での妄想(戯論にもならない)でしかない。
⇒>はい、瞬殺論破!!!
79 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2012/08/03(金) 09:57:59.82 ID:wHoDvjt7
>>78 単純に、「私は説いてない」と書かれてあるからといって、
自分勝手なデタラメでどうでもいいことにはならないから!
>お前の論はすべて間接現実での妄想(戯論にもならない)でしかない。
まっ、あなたは人の話を聞かない方のようですからね・・・。
>まさに、外道ピエロw
外道で大いに結構!!!
あなたの百倍は真意を読み摂ってるから
(けっこう毛だらけ、猫灰だらけね)。
80 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 10:50:26.99 ID:vfWqb2EB
>>69 >最初に悩み苦しみをなくしたいという欲がなければ、進まない。
それがまさに煩悩。「なくしたい」と意識して務めれば務めるほど、煩悩は
増す。
煩悩は「生命の維持に不可欠な精神作用」と感謝して受け入れて、煩悩は初めて
止む。
81 :
? :2012/08/03(金) 11:01:32.07 ID:XApZ8fii
>>11 さん
> 出世間のまなざしで、世間(濁世)の只中で慶安に生きなおすのが仏法である
>>78 さんの場合は
日常生活の中においての 「 気づき(正念?) 」 によって…とか
禅定(瞑想)を人為的に行なう事は邪道外道である
と言う感じなのかしら? おじゃる?
82 :
? :2012/08/03(金) 11:14:17.60 ID:XApZ8fii
> 「なくしたい」と意識して務めれば務めるほど、煩悩は増す 例えば 瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)の場合は 表面意識だけの哲学的な思惟で「煩悩を滅したい」と考える訳ではなくて 瑜伽(ヨーガ)の実践などによって 第六表面意識から → 深層意識の阿頼耶識に働き掛けて 渇愛(タンハー)を滅し尽くすのである と言う事だと思うけど? おじゃる?
83 :
? :2012/08/03(金) 11:19:56.74 ID:XApZ8fii
日本に悟った人間なんていないだろ いて世間からも評価されず 何も善行を成してないこれなら終わってる
85 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 11:36:33.37 ID:8Y+EIha/
>>92 煩悩をなくしたいという煩悩からヨガに励む、修行者の煩悩まみれの
姿は滑稽。
86 :
? :2012/08/03(金) 11:55:52.03 ID:XApZ8fii
>>85 さん
文章形態が隠居先生に似てるけど別の人かしら?
92じゃなくて
>>82 の間違えなんじゃなイカ? おじゃる?
87 :
久しぶりに :2012/08/03(金) 12:18:09.67 ID:mPHwAfyV
妄想概念「生命」退治としようか。 隠居氏の、おめでたさは、生命と言う事実と、 隠居氏の妄想概念「生命」と区別できず、 かつ、その妄想概念「生命」の作用すら説明できない自己陶酔である事です。
88 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 12:37:53.09 ID:KC03kXgX
>>85 煩悩とは、悩み苦しみを増大させる原因になる心。
私は、悩み苦しみをなくすために煩悩を制御・軽減させようとする意欲は、
悩み苦しみを減退させる方向なのだから、煩悩とは逆方向だと考えています。
あなたは逆に、悩み苦しみをなくそうとする意欲が余計に悩み苦しみを増やすとお考えですか?
89 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 12:42:38.07 ID:JRU5zRYo
>>79 >真意
⇒
>>71 それにしても、マハーカッサパ教後裔スコラ部派のテキスト「作者」に巣食う
猥雑なオカルト趣味にここまで振り回されて裸踊りをやっている姿は、
滑稽どころか哀れというしかない。
実存苦の超克にとってオカルト趣味は障害(執着動機:縁起の現観を眩ます)になりこそすれ、
せいぜい子供だまし程度の効果しかなく、反仏法である。
90 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 13:03:05.28 ID:JRU5zRYo
>>78 >禅定(瞑想)を人為的に行なう事は邪道外道である
そのようなことはありえません。
また人為的な禅定でなければならない訳でもありません。
現に私は邪魔の入りにくい早朝に坐ることも多いです。
気づきはいつ来るかわからないので、自分で受け皿・アンテナを張っておくことです。
アイデアやチャンスは準備のあるところにしかきません、来てもキャッチできません。
坐水月道場―色即是空―出世間のまなざしで
修空華万行―空即是色―世間の只中で慶安に生き直す
ブッダの本懐は、世間の只中で慶安に生き直すことで達成されます。
万行はあらゆる行いですから、修行も仕事も遊びもボランティアも
デートも区別する必要はありません。
91 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 14:04:11.70 ID:q+S264+Y
瞋恚がなくなったら、向上心がなくなるような感じもするのですが どうなんですか?
92 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 14:14:30.15 ID:JRU5zRYo
>>61 >一切の自力雑業をふりすてて
>本願に帰す
ご苦労様でした
本願成就を祈念いたします。
ただ、阿弥陀仏がお隠れになっても気にならなくなったときが本願成就で、
ふたたびお会いできるかもしれませんね。
93 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 14:19:45.71 ID:JRU5zRYo
>>91 >向上心
執着を離れた向上心がありましょうや?
94 :
ノスタルジア :2012/08/03(金) 14:49:54.50 ID:QPP8huKo
>>72 僕たちは間違いなく肉体的に死を迎えます。そして死に到着します。私は生きている
時南無阿弥陀仏を「思い出した時」、時折称えます。しかし南無阿弥陀仏自体
は生きている間にもあるものです。ただ一体感がないだけであって・・。
南無阿弥陀仏という名号をどこかでみたことがありませんか?それが死という
ものです。間接現実で書かれたものは間接現実ではないでしょう。普通に言うなら
「自然」にあるものが南無阿弥陀仏です。「自然」に生きる私の信念、信心が、
南無阿弥陀仏なのです。それが見えないのが生きている私(私たち?)なのです。
私は無自覚の凡夫ですが、次のレスで無量の諸仏の浄土について証明してみます。
95 :
ノスタルジア :2012/08/03(金) 15:26:35.01 ID:QPP8huKo
>>73 >>生と死もことばのみです
その通りだとおもいます。どこまでも伸びる線があったとして、そこに点を
つけて生と死を分断したのではないでしょうか?線を距離と解釈してみると
もっとリアルになってくるのですが、死というものに到着した途端、自分は
完璧な菩薩になるのです。それも完璧な菩薩に・・・。完璧な菩薩は無量の
諸仏の浄土の景色に自由に行き来していくのです。しかし完璧な菩薩は初めから
いません。生そして生前またそれよりも昔とず〜っと引き継いで今の私死の完璧
な菩薩がいるのです。菩薩道を歩んできたのです。証明終わります。不生の仏心
については死についてと生についてがない地平あるがままの地平のことをいう
らしいですけど、それで満足ですか?
96 :
? :2012/08/03(金) 16:40:59.02 ID:XApZ8fii
>> 禅定(瞑想)を人為的に行なう事は邪道外道である > そのようなことはありえません > また人為的な禅定でなければならない訳でもありません > 現に私は邪魔の入りにくい早朝に坐ることも多いです > 気づきはいつ来るかわからないので、自分で受け皿・アンテナを張っておくことです > アイデアやチャンスは準備のあるところにしかきません、来てもキャッチできません ↑ 了解 おじゃる
97 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 17:59:25.09 ID:KC03kXgX
>>91 一歩一歩歩くのに怒りは必要ない。
雨が降ってきたときに傘をさすのに、怒りは必要ない。
そのように、粛々と一歩ずつ修行を重ねていけばよいのでは。
レレレのおじさんが掃除するときにゴミにいちいち怒っていない。
98 :
神も仏も名無しさん :2012/08/03(金) 21:11:15.99 ID:6iI4x4tA
煩悩は「生きていることの証(あかし)」「生の原動力」「感謝して受け入れる べきもの」。「なくすべき異物」ではない。己の煩悩を尊重してこそ、他者の 煩悩も尊重できる。 釈迦の根本的誤り。
煩悩即菩提 ひとえに欲望といっても、向上欲や探究心・種の継続など人類にとって なくてはならないものや、単に自身の欲望を満たそうとするエゴ欲がある 故に、欲望はコントロールされるべきものでなければならない ガンジーは地球はあなた方が生きるだけのモノは用意されているが あなた方の欲望を満たすだけのものはないのだ、と
都合の悪い欲望だけ消す こんな都合よくいくわけないだろw
101 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 00:01:05.57 ID:KC03kXgX
>>98 あなたが言っていることこそが、「無明」と呼ばれる煩悩の親玉なのです。
生命が生まれながらに持っている「生きるのはすばらしいことだ」という勘違い。
生きるのが素晴らしくないなら他人が苦しもうが平気だなw
>>100 都合の悪い欲望を消すのではない
消したら「煩悩即菩提」では無くなる
利己欲を推し進めたら、結局他者のみならず自らも破滅させるもの
故にコントロールせよといってるだけ
104 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 02:04:41.21 ID:f2SBlPTE
>>102 他人が苦しんでいたら、「残念ながらあなたは生きているので苦しみはなくなりません」と。
105 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 03:14:10.54 ID:S0iNtLZO
>>101 >生命が生まれながらに持っている「生きるのはすばらしいことだ」という
>勘違い。
少なくとも、生きることのほうが死ぬことより素晴らしいからこそ、人類は
営々として存続している。すべての生きとし、生けるもの、然り。
釈迦の「一切皆苦」は、彼の鬱病の症状以外の何物でもないのだから、現代では
専ら治療の対象に過ぎない。釈迦の単なる勘違い。従って、健常者は無視すべ
きもの。
106 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 08:20:49.64 ID:3MKdT2Om
仏教の良いサイト教えて頂けるませんか。
107 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 08:57:11.49 ID:HB0gSTS+
『ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、 想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。 ─このように掴んだ者の形態は消滅する。 なぜなら、時空意識は想いにもとづいて起こるからである。』(スッタニパータ874) 知覚・記憶という分別知による間接現実から、 無分別智による直覚によって直接現実(あるがまま)=時空際断=空=中道を掴み得る。 ブッダは信仰手法ではなく仮説検証手法→(自力)経験主義・追検証主義者だ。 この非想非非想処でも尚はたらく無分別智は日常作業よりも坐禅で得やすい。 もちろん日常作業中でも得ることはできる。それだけのことだ。 幽霊の正体を智ったら、なんてことはなかったのである。 安心して、慶安に生きていけばよいのである。 <信心銘より(一部改)> 至道無難 唯嫌揀擇 時空際断 (←ココ) 洞然明白 毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆
108 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 09:16:09.41 ID:f2SBlPTE
>>105 生命が生きてしまうのは、瞬間瞬間ごとの苦しみにより生じる衝動の連続でしかない。
「堂々と」などという立派なものではない。
瞬間瞬間にやってくる苦痛と衝動(うずうず)から逃れようと、次の行動に移る、ただそれだけ。
物心つく前の赤ちゃんをみてみればわかる。
おっぱいを目の前に近づけられると、泣く。
物心つくと、おっぱい(好きなもの)が近づけば歓び笑うが、
赤ちゃんは、泣く。
快楽も大人の勘違いで、好きなものが目の前に来るという喜ばしいように思える刺激も、
実は苦痛であり、赤ちゃんはおっぱいを早く飲みたいという苦痛と衝動で、苦しみ泣くのである。
このように、一見喜ばしい刺激も実は細かい苦痛と衝動の連続であり、
苦痛と衝動に突き動かされて弾かれ動かされているのが、生命活動であり、
「堂々と」などと言えるりっぱなことではない。
109 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 09:27:01.70 ID:HB0gSTS+
>>105 >少なくとも、生きることのほうが死ぬことより素晴らしい
おまえは死ぬのが怖いのか?
間接現実だけがすべてだと思い込もうとしている“蛙in井戸”姿は哀れだぞ。
溶暗信仰主義も間接現実only主義もともに戯論(形而上的論議)であって、発想が幼稚過ぎる。
110 :
久しぶりに :2012/08/04(土) 09:53:03.10 ID:qtxbFBwp
105のオカルト研究者隠居氏盲説迎撃! 隠居氏の妄想概念「生命」は人間の脳と精神を軽視した妄想です。 また実際の生命と、隠居氏の妄想概念「生命」は別物です。 人間の脳と精神を軽視した妄想概念「生命」で釈迦の病気の判定、観測のプロセスを説明できません。 隠居氏の妄想概念に洗脳されない様に注意しましょう。
111 :
久しぶりに :2012/08/04(土) 09:55:41.38 ID:qtxbFBwp
105 :神も仏も名無しさん:2012/08/04(土) 03:14:10.54 ID:S0iNtLZO 妄想概念「生命」は隠居氏の夜の眠りを妨げるらしい。 妄想概念「生命」が隠居氏を夜中三時に書き込みをさせる。 なぜなら、妄想概念「生命」がなければ書き込みができないからだ(爆笑)
112 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 10:50:42.20 ID:0NypHufB
>>77 文脈を確認されたほうがいいでしょう。
○○である、という見解にも
○○でない、という見解にも執着せず、
それによって「等しい」「優れている」「劣っている」論争となることもない。
○○によって清らかになる、とも○○によってでなくとも清らかになるとも説かない、
と彼は言っています。
弟子をとり、修行者が守るべき、きまりを定めた上でです。
悟りを開くための方法論を彼なりに提示しつつ、もちろん彼の目的は
「俺は正しい考えを支持してるぞ、正しい行をやっているぞ」と誇る人物を生むことではありません。
あくまで(釈迦の考える)悟りという目的地点に到達することです。
釈迦やその後継者は
目的地に向かうことなくただ見解に執着する形になることを望まず、
そのため金剛般若経や中論のような表現が生まれてるんでしょう。
113 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 11:02:49.54 ID:0NypHufB
須菩提が釈迦(の教え)に忠実であることをやめてつまみ食いにシフトした、 という伝承はあるのでしょうか。 スブーティは戒律を守ることをやめたりしたでしょうか。 なければ、 彼と釈迦との対話に仮託してこの経典をつくった人々にとっても そのような受け取り方をするものではない、 という扱いだと考えられるでしょう。
114 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 15:12:50.52 ID:HB0gSTS+
一休宗純はんはホンマにエエわ まさに人境倶不奪 入鄽垂手の境地 莫道再来銭半文 おっさん!また来たら、銭半文の価値もない奴やなんて言わんといてんか。 婬坊酒肆有功勲 淫売屋にも居酒屋にもええとこがあるんやで 祇縁人話相如渇 のどが渇く糖尿病で苦しんだ相如はんの話って 腸断琴台日暮雲 ほんま哀しいこっちゃ、琴台に日暮の雲がかかってるやないか!
115 :
ノスタルジア :2012/08/04(土) 17:46:06.63 ID:BtqyXiVB
94と95で示したことについて何かしら回答してくれることを期待している のですが・・・。
116 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 18:12:34.68 ID:f2SBlPTE
117 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 18:17:58.41 ID:HB0gSTS+
>>115 莫妄想 !
ハチャメチャ妄想には応えようがない。
回答は既に出ています。
徹底的に内観されることをお勧めします。
118 :
ノスタルジア :2012/08/04(土) 18:27:47.06 ID:BtqyXiVB
>>116 線=道はどこまでも続くものなのだろうか線には途切れ目というか何かしらの
終止符があるはずなのです。それが完璧な菩薩というものです。菩薩道も道であり
ます。
119 :
ノスタルジア :2012/08/04(土) 18:43:07.31 ID:BtqyXiVB
あなたは古い学生時代のアルバムは捨てましたか?大事にとって おくでしょう普通はね。そしてまた新しいアルバムを増やしていくでしょう。 しかし私はそういう常識が邪魔くさかったので捨てました。 それにしてもはてな?妄想とは一体なんでしょうか?さっきの質問にも出ました が、完璧とは今あるものではないのですよ。それなら確信のつくところを抜き出して そこのみを回答すればいいのではないでしょうか?あなたは全体把握が好きなの でしょうか?
120 :
ノスタルジア :2012/08/04(土) 18:43:56.43 ID:BtqyXiVB
121 :
ノスタルジア :2012/08/04(土) 19:10:26.94 ID:eDC4w2He
妄想が何か分からないのが僕の今のレベルです。妄想と言われ全否定された 気分でいるのがぼくの今のレベルです。
122 :
ノスタルジア :2012/08/04(土) 19:14:52.08 ID:eDC4w2He
一個人の渾身の新しい論理をはらうのはある意味行けないことだと思う。 内観って何ですか?なぜそれを勧めるのですか?
内なる心を観るということが何故大切なのか 成仏の「成」とは開くという意義があります 法華経には、誰しも内なる心に仏性が内在し、故に無限の可能性を秘めているのだと 教えているのです
124 :
神も仏も名無しさん :2012/08/04(土) 22:24:15.77 ID:HgA4nzdq
インド人もやる時はやるんだな
126 :
神も仏も名無しさん :2012/08/05(日) 23:42:06.75 ID:PR6j4hnW
------ 「“それ”が射るのです」 「それでは先生は目隠しをしてもあてられるに違いないでしょうね」 と思わず 私の口から漏れた。 師範は、私が彼の感情を害したのではないかと、私に気を もませるような目付きで私を見た。 それから 「今晩お出でなさい」 といった。 道場には明々と電燈がついていた。 師範は私に命じて縫針のように細長い蚊 取線香を的の前の砂地にさし込ませたが、梁の電燈にはスイッチを入れさせない ようにと注意した。 真っ暗だったので私は梁の輪郭すら見分けがつかなかった。 そしてもしも蚊取線香のちっぽけな火玉がそのありかを示さなかったとしたら、 私は的の立っている場所を、あるいはぼんやり感づいていたかもしれないが、 はっきり見定めることはできなかったであろう。 師範は礼法を“舞った”。 彼の甲矢は皓々と輝く明るみから真暗い闇の中へと飛んでいった。----------- (『弓と禅』 オイゲン・ヘリゲル)
127 :
神も仏も名無しさん :2012/08/06(月) 09:23:57.29 ID:OTKUw2Et
幽霊の 正体観たら 枯れ尾花 生存における苦しみと恐怖をもたらす幽霊の正体を智ったら、 なんてこともなかったのである。 誤解だったのである。 なんらの神秘もオカルトもない。 眼からウロコが落ちれば、 安心して、慶安に生き直していけばよいのである。
129 :
神も仏も名無しさん :2012/08/06(月) 09:39:34.63 ID:6fqoEwEu
>>127 生存における苦しみや恐怖は、生命維持のための不可欠な心理作用。
それを無視したら、確実に「最大の苦」としての死に至る。幽霊
ではなく、現実の最たるもの。「なくすべき異物」どころか、感謝
して受け入れるべきもの。
己の苦しみや恐れを真正面から受け入れることにより、初めて、他者の
苦しみや恐れへの理解と共感、即ち「人間の成長」が可能になる。
既にひたむきに生きている者は、「生き直す」必要などない。
130 :
神も仏も名無しさん :2012/08/06(月) 12:37:24.96 ID:OCw1MJa9
>>129 少なくとも、悩み苦しみの原因が生への執着であることは理解されてるようですね。
そのうえで、生への執着を捨てずに悩み苦しみを抱えたまま生きることを選択する、ということですね。
131 :
神も仏も名無しさん :2012/08/06(月) 18:36:11.43 ID:OTKUw2Et
英語でいえば、
132 :
神も仏も名無しさん :2012/08/06(月) 18:50:49.37 ID:OTKUw2Et
簡単に言えば英語では、基本は 主語(Subject)・述語(Verb)・目的語(Object)・補語(Complement)で言語ができている。 凡人は日常で使っているから、凡人はこれらに実在を信じ込んでいる。 分別知覚の名称でしかないのに。 ・主語(Subject)の実在は疑おうとしない⇒空我、はあ? ・述語(Verb)⇒去るものは去らずは、はあ? ・目的語(Object)⇒不一不二は、はあ? 実在の既成概念(間接現実)は一種の信仰宗教でしかないのに。 諦めが肝心か?
133 :
神も仏も名無しさん :2012/08/06(月) 18:55:28.17 ID:OTKUw2Et
そして、最大の信仰は 生 と 死 である。 誰も自己の 生 と 死 を検証したものはいない。
ほこたて見て思ったこと 学者の言うことほどあてにならないものはない
--------- 炸裂音で私はその矢が的にあたったことを知った。 乙矢もまたあたった。 梁の電燈をつけた時、甲矢が黒点の中央に当り、 また乙矢は甲矢の筈(はず)を砕いてその軸を少しばかり裂き割って、甲矢と並んで 黒点に突き刺さっているのを見出して私は呆然とした。 そしてその矢を別々に引き抜くに忍びず、的と一緒に持ち帰った。 師範はそれをしげしげとみつめていた。 やがて彼はいった。 「・・・・・とにかく私は、この射の功は“私”に帰せられてはならないことを知っています。 “それ”が射たのです。 そしてあてたのです。 仏陀の前でのように、この的に向かって頭を下げようではありませんか」 と。 この二本の矢をもって、師範は明らかに私をも射とめたのであった。 一晩の中にまるきり別人になったかのように、私はもはや私の矢や、それがどうなったかに ついて心を煩わす誘惑に陥らなくなった。 (『弓と禅』 オイゲン・ヘリゲル)
136 :
神も仏も名無しさん :2012/08/07(火) 05:07:24.69 ID:xQADuTis
早朝坐禅 了 至道無難 唯嫌揀擇 仏教不立 (←ココ重要) 洞然明白 毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆
137 :
神も仏も名無しさん :2012/08/07(火) 10:07:50.64 ID:xQADuTis
日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残されているという “けじめ”がいっこうはっきりしないままに立ち消えになってゆく。 そこでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まると、 前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。 (丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年、p. 7)
いつもお世話になっております また縁起について質問させてください! 例えば、 人を見る→助けたいと思う→見返りを期待する→期待は裏切られて失望する→怒る→その人を罵る といった因果の連鎖、これらの現象を「縁起している」とか、「縁起の世界に生きている」 と解釈してよろしいでしょうか だとすると、竜樹・釈尊の悟り、戯論寂滅とは、この縁起をある意味で捨てること、と言って良いでしょうか。 縁起を説いて、次に縁起が仮設(無自性空)に過ぎないことを知り、いわば脱縁起を目指す、といったような流れでしょうか
139 :
神も仏も名無しさん :2012/08/08(水) 07:50:40.69 ID:B5XylL2K
>>138 たとえば、怒りにスポットをあててみます。
怒りは、「見返りを期待すること」を縁として起こっています。(縁起)
ですから、「見返りを期待」がなくなれば、怒りは消えてしまう。(ゆるぎないものではない)
怒りは縁起である。
→縁起であるので無自性(ゆるぎないものではない)
→無自性であるので空である(夢、幻みたいに消せる)
縁起である性質を利用して、悩み苦しみの種を消しちゃえばいい、ということ。
140 :
神も仏も名無しさん :2012/08/08(水) 10:00:42.44 ID:iX2VDReS
>>138 >縁起をある意味で捨てること
>脱縁起を目指す
縁起は一切における厳然たる現実(意味・実体はない)ですから捨てたり、脱却できるものではありません。
縁起現象を知覚記憶を通して分別解釈→一方への執着・渇愛⇒苦というのが(有意味)「因果」の流れです。
縁起は間接的にも直接的にも「現実」現象の関係性です。
間接<知覚記憶分別>現実(縁起現象) = 直接<無分別智直覚>現実(縁起現象)[龍樹 中論25-19・20]
直接現実(あるがまま)の非想非非想処における無分別智直覚を「縁起の現観」といいます。
知覚記憶分別解釈といった分別フィルターを通しませんから、
直接現実は無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相⇒無分別中道(空)です。
廓然無真 、廓然無聖、 廓然無実 廓然無浄
直接現実の無分別中道の体得(まなざし)を「悟り」と称しています。
問うことも、言うことも、なにごとも本来不可得ですから苦しみの終焉であり、無苦集滅道です。
因果関係は原因⇔結果という有意味解釈関係ですから間接現実です。
>人を見る→助けたいと思う→見返りを期待する→期待は裏切られて失望する→怒る→その人を罵る
あなたの例示は苦をもたらす間接現実における因果関係です。
>竜樹・釈尊の悟り、戯論寂滅
戯論は有意味概念論議ですから間接現実のものであって、
戯論寂滅とは直接現実における縁起の現観(←無分別智直覚による)=竜樹・釈尊の悟りです。
中論觀法品第十八 八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に 無我、無我所を得て、智慧を決定する 一切の、心行は、皆、是れは、虚妄であり、虚妄の故に、滅するはずだ 諸法の、実相は、諸の心数法を出て、無生、無滅であり、涅槃のように、寂滅の相だと それ故に 空等の解脱門を用いて、諸の禅定の中に 滅尽定を以って第一と為し、終に無余涅槃に帰する
空観と仮観はどうやって使い分けるの?
滅尽定(想受滅) ◎非想非非想処の次の段階の禅定法 ◎渇愛(タンハー)を滅し尽くす為の禅定法 滅尽定を以って第一と為せ!
仮観とは 例えば 具体的には、どのような瞑想ですか?
例えば 初心者向けの瞑想として ロウソクの火に意識を集中すると言う この精神を集中する為の訓練なども含めて 仮観と言ってるのかしら?
天台宗の「三諦偈」「一心三観」「円融三諦」 第24章18詩 「衆因縁生(因縁所生)の法、我即ち是れ無(空)なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦是れ中道の義なり。」 (どんな縁起でも、それを我々は空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。) における「空」「仮」「中」を、それぞれ別々の真理(諦)と捉え(「空諦」「仮諦」「中諦」)、この文を、その「三諦」を説いているものとして「三諦偈」と呼ぶ。 ここでは、「空」と「仮」が、「無」(断見)と「有」(常見)の「二辺」として捉えられてしまっており、 その「空観」と「仮観」の対立から、「中観」(「非有非空の中道」)を見出すこと、 あるいは、これら「三諦」を一体的なものとして観ずること(「一心三観」「円融三諦(三諦円融)」)などが、説かれる。 しかしながら、 『中論』の原義から言えば、「空」(空性)も、「仮」(仮名・仮説・仮設)も、「中」(中道・中観)も、全て、「縁起」「無自性」の言い換えであり、 同じ内容を違う言葉・表現で言い表してるだけ、ただの「同義語」として使用しているだけに過ぎず、対置・対立させるような関係にはそもそもないのであり、 ましてや、「空」や「仮」を、「無」(断見)や「有」(常見)の「二辺」と混同してしまうような、上記の捉え方は、端的に言って、解釈としては、明確に誤りである。 (ちなみに、三論宗の宗祖である嘉祥大師吉蔵もまた、(全面的ではないにしろ)こうした「三諦」の解釈を承認していた。)
こうした天台宗・中国仏教的な「誤解」を、前向き・好意的に捉えることもできなくはない (実際、語彙・概念にまつわる誤解は混じっているものの、 「空」という概念もまた「非空」なる諸々の概念と相互依存的に成り立っているとも見ることができるし、 「空」概念の実体視や、そこへの執着を避けるためには、 「空」概念もまた相対化されるべき対象になるわけで、 そういった点では発想としては間違っていないし、 冗長ではあるものの、丁寧にもう一歩踏み進んだものだとも言える)が、 少なくとも、『中論』の正確な理解や、 その主旨である「縁起」「無自性」の正確な読み取りを考える上では、 確実に妨げになるということだけは、踏まえておいてもらいたい。
> 空観と仮観はどうやって使い分けるの? 『中論』の原義から言えば、 「空」(空性)も、「仮」(仮名・仮説・仮設)も、「中」(中道・中観)も、 全て、「縁起」「無自性」の言い換えであり、 同じ内容を違う言葉・表現で言い表してるだけ、 ただの「同義語」として使用しているだけに過ぎず、 対置・対立させるような関係ではないらしい 大変失礼致しました訂正してお詫び申し上げます
149 :
神も仏も名無しさん :2012/08/08(水) 17:30:29.03 ID:iX2VDReS
>>141 >中論觀法品第十八
なんだこれ。
これって、清弁?誰の訳?
清弁さん、ヘンですよー、ネタを投下しておこうか
>我、我所を滅する因縁の故に無我、無我所を得て、智慧を決定する
清弁さん、逆ですよー
非想非非想処における無分別智を『決定する』がゆえに 『無我、無我所』たるを直覚し、
『我、我所を滅する』、でしょ。もうハチャメチャとちゃいますかw
>一切の、心行は、皆、是れは、虚妄であり、虚妄の故に、滅するはずだ
あかんなー
虚妄にあらず、実有にあらず、であるがゆえに生滅ではありえず、でしょ?
>諸法の、実相は諸の心数法を出て、無生、無滅であり、涅槃のように、寂滅の相だ
清弁さん、調子悪いんか?
諸法は実相にあらず、虚相にあらず、ゆえに直接現実は不生不滅の無分別空相だ、です。
寂滅⇔喧騒の二項相対観念に捉われた誤り。
>無余涅槃
なんでや?
涅槃はあくまで涅槃であり不生不滅の境地であって、有余も無余もヘチマもない。
生⇔死の相対観念に捉われた誤り。身体観念にとらわれて、ポイントを外している。
150 :
《アラシを呼ぶ男》 ◆Arasi/MT2E :2012/08/08(水) 17:42:43.42 ID:G9LV4NqR
スティーブ・ジョブス、生涯の愛読書 「弓と禅」
> 非想非非想処における無分別智を『決定する』がゆえに… 中論觀法品第十八の場合は ◎八聖道分の修習によって智慧を決定する ◎滅尽定を以って第一と為す と言う事で良いんじゃなイカ? おじゃる?
なぜ仮説である世界の道徳やルールを守るんですか? 欲望や執着は空だと言って取り合わないのに。
中論觀法品第十八 諸の煩悩、及び業が、滅するが故に、心に、解脱を得る!、と名づける 是の、諸の煩悩、業は、皆、憶想、分別より、生じて、実が有るのではない 諸の憶想、分別は、皆、戯論より生ずる 諸法の実相は、畢竟じて、空だ!、と得れば、諸の戯論は、則ち、滅する 是れを、有余涅槃を説くと名づける。実相の法も、是のようである
中論觀四諦品第二十四 衆因縁より、生ずる法を、わたしは、即ち、是れは空だ!、と説いた 何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる 是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い 自性が無いが故に、空であり、空も、亦た、復たしても、空である 但だ → 衆生を引導するが故に 仮名の空を以って説いた ←
中論なども勉強して 「(煩悩を滅却したので)欲望や執着は取り合わないっ!」、と言っている お坊さんでも 仮説である、この世界の道徳やルールを守っていない お坊さんも、たくさん居るかもしれない おじゃる?
袈裟を着ていれば坊さんなどと暮れぐれも思はぬようにw
http://npn.co.jp/article/detail/67446552/ 僧侶が除霊と称して女性の体触り逮捕される!
2012年08月07日 11時45分
警視庁昭島署は8月5日までに、除霊と称して女性の体を触ったとして
準強制わいせつの疑いで東京都昭島市の僧侶、山内日豊こと山之内一豊容疑者(58)を逮捕した
山之内容疑者は、8月2日にオンエアされたばかりの
フジテレビ「奇跡体験!アンビリバボー〜禁断の恐怖 封印開封スペシャル!」に、霊媒師として出演
161 :
神も仏も名無しさん :2012/08/08(水) 22:46:08.19 ID:iX2VDReS
>>150 >スティーブ・ジョブス 伝説の卒業式スピーチ
ジョブスに<隻手の拍手>を !!
“Stay hangry, Stay foolish !”
162 :
《アラシを呼ぶ男》 ◆Arasi/MT2E :2012/08/08(水) 23:26:06.23 ID:5L5uvQVF
>>140 138です、丁寧なご回答ありがとうございます
>縁起は一切における厳然たる現実(意味・実体はない)ですから捨てたり、脱却できるものではありません
えーと、前に悟りについて「新たな業を作らないこと」ということを説明いただき、
新たな業を作ることが縁起だとすれば、悟りは「縁起させないこと」とも言えるのかな、
と思って脱縁起世界、と表現しました。が、やはりこの言い方はズレがあるのでしょうか。
あるいは、単に「縁起からの解脱」と言ってしまえば良いのかもしれませんが…
もちろん、縁起が無実体ゆえに捨てたり脱却できないというのも、その通りだとも思ったのですが。
縁起が、
戯論に基づく分別知覚される間接的な現象と、
戯論寂滅に基づく無分別智・直接知覚されるありのままの現象に分けられる、
という説明は大変参考になりました。たぶん、理解できたと思います。
164 :
神も仏も名無しさん :2012/08/09(木) 00:44:33.29 ID:56wekbCh
流転縁起と還滅縁起という表現がある。 惑→業→苦→惑→業→苦→…をくりかえすのが流転縁起。 一方、煩悩(惑)を滅して業を滅して苦を滅するのが、還滅縁起。
因 → 縁 → 果 → 報 → 因 中論觀涅槃品第二十五 諸の因縁を、受けなければ、是を、涅槃と名づける 如実に、顛倒を知るが故に、則ち、復た、五受陰に因っては、生死を往来しない 無性の、五陰は、復た、相続しないが故に、説いて、涅槃と名づける だけど 諸の因縁を、受ける人々は、如実に、顛倒を知らない人々は 諸の因縁を、受けるが故に、生死の中に輪転する 如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する 中論觀四諦品第二十四 諸の賢聖は真に顛倒の性を知るが故に 一切の法は皆、空で無生だ、と知り 聖人には是れが第一義諦で実と名づける 一切の法は性空であるけれども 世俗諦とは 世間は顛倒の故に虚妄の法を生じ 世間には是れが実である
166 :
ジョブス :2012/08/09(木) 10:40:25.13 ID:YImwA4vi
『自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。 ドグマという罠に、絡め取られるな。』 自己を頼みとせず、何を頼みとするのか(自帰依:自灯明) 哀れにも、仏法をドグマ(仏教)だと想い、テキスト解釈迷路に陥っている者が多いのだ。
167 :
神も仏も名無しさん :2012/08/09(木) 17:20:58.87 ID:cSXVXiop
石飛先生のブッダと龍樹の論理学を読んで疑問に思った所の質問です。 中論27章の神から人への輪廻の所です。「神は不生(死すべきもの)だから神と人は同じではない。相続はないのは不合理だから神と人は別異ではない。」といった論旨なんですが不生と相続があるという前提は中論では証明されてるんでしょうか。 あと石飛先生は輪廻を進化論やDNAの喩えで説明してますがこれは物質の相続(遺伝情報はある意味記憶とはいえます)の説明にはなりますが、やはり人格や前世の記憶という精神の伝達が輪廻説の主眼ではないでしょうか。
中論觀四諦品第二十四 一切の法は性空ではあるけれど 世俗諦とは 世間は顛倒の故に虚妄の法を生じ 「 仏教のテキスト解釈迷路に陥っている者が多いのだっ! 」 世間には是れが実である
中論觀四諦品第二十四 一切の法は性空ではあるけれど 世俗諦とは 世間は顛倒の故に虚妄の法を生じ 「中論觀涅槃品第二十五 諸の因縁を、受ける人々は、如実に、顛倒を知らない人々は 諸の因縁を、受けるが故に、生死の中に輪転する 如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する」 世間には是れが実である
顛倒の故の虚妄の法を、滅し尽くす為に 渇愛(タンハー)を、滅し尽くす為に 中論觀法品第十八の場合は ◎八聖道分の修習によって智慧を決定する ◎滅尽定を以って第一と為す − − − 滅尽定(想受滅) ◎非想非非想処の次の段階の禅定法 ◎渇愛(タンハー)を、滅し尽くす為の禅定法
八正道(八聖道) 1).正見(正しい見解) 2).正思惟(正しい考え) 3).正語(正しい言葉) 4).正業(正しい行為) 5).正命(正しい生業) 6).正精進(正しい努力) 7).正念(正しい念慮、気づき) 8).正定(正しい集中) 四如意足(四神足) 四つの自在力 1).欲(すぐれた瞑想を得ようと願う) 2).精進(すぐれた瞑想を得ようと努力する) 3).念(すぐれた瞑想を得ようと心を集中する) 4).思惟(すぐれた瞑想を得ようと智慧をもって思惟観察する)
173 :
神も仏も名無しさん :2012/08/09(木) 18:43:20.51 ID:ojT3lr+h
>>173 ありがとうございます。時間をかけて読んでみます。不生が本質であるが相続も無明に起因した現象としては認められるといったイメージを持ちました。
>>169 ありがとうございます。その文章を読んで無明によりエネルギーが生じその一定のエネルギーが集合離散を繰り返すといったイメージを持ちました。
> 不生と相続があるという前提は中論では証明されてるんでしょうか? 諸の因縁を受けていない人は、如実に顛倒を知る人は、「又、次の、この世の生に戻り来る事はない」らしい だけど 諸の因縁を受けている人は、如実に顛倒を知らない人は、相続しているらしい > 人格や前世の記憶という精神の伝達が輪廻説の主眼ではないでしょうか? 私の個人的な妄想としては 私は、「顛倒の故に虚妄の法を生じている世界に住している」ので 「前世から現世へと心の働きが相続(心相続)している」と言う 妄執の念に自らが固執している状態でございます
↓ 携帯だと見れないかもしれない
http://semi.natura-humana.net/2003/contents/genzemi/bunken/2004-aki/abidaruma.pdf 仏教では輪廻もまた、無明(avidoya)によって生起した迷妄にすぎず
そのゆえに、解脱とともに消滅してしまうのである。
だが、輪廻を否定すると業の主体や因果応報、また人格の連続性を否定されてしまう。
そこでアビダルマで考え出されたのがプトガラ(人我)という考え方であるが
『ミリンダパンハー』では、このプトガラの存在を認めず
かわりに業の相続、つまり行為の連鎖的持続という考え方で
この難問をかわしたと考えられるが、これではまたアビダルマの
小乗的な法の恒有に戻ってしまうのではないだろうか。
そこで、このアポーリアをクリアするために
仏教の深層心理学である唯識思想が登場してくる。
(アビダルマは大乗仏教への架け橋 世親もここから出発している)
唯識では阿頼耶識という無始以来のすべての有情の
記憶が(大脳新皮質と古皮質の問題と考えあわせると興味深い)存在し
それが末那識(いわゆる無意識層)に働きかけ
結果的に意識上に表象された(業によって影響されているが)世界
つまり、識転変こそが我々の認識のすべてである、世界そのものであるとする。
業(行為)はまた、その阿頼耶識に沈潜されて上記のプロセスを経ることで
我々の業を形成し続け、無明の世界の我々の存在となる
177 :
神も仏も名無しさん :2012/08/09(木) 22:35:18.75 ID:56wekbCh
>>176 糸電話でも、空気、コップ、糸、コップ、空気と、声を伝える媒体は変わっていく。
なぜ、プトガラだとか識だとか、業を伝える媒体を一種類に限定しなきゃならないのでしょうね。
178 :
神も仏も名無しさん :2012/08/09(木) 22:41:15.95 ID:pfKnvet3
チベット訳華厳経を全訳できそうな学者さんっていらっしゃいますか?
179 :
神も仏も名無しさん :2012/08/09(木) 22:43:25.70 ID:ojT3lr+h
>>178 いるいる。結構、いるよ。
だけど、やる人はいるかな?
なぜなら、本気でやれば5年ぐらいかかると思う。
オイラはやらないな。他にやることがあるから。
>>176 ありがとうございます。PCに保存しました。
私自身としてはカントの倫理的要請としての神の様に倫理的要請としての輪廻があればという願望を持っています。そうでないと死ぬだけで苦は解決するということになってしまうように思います。
一切の法は性空ではあるけれど 諸の因縁を、受ける人々は、如実に、顛倒を知らない人々は 諸の因縁を、受けるが故に、生死の中に輪転する 如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来するので → 例え死んだとしても苦の解決にはならない ← 世間には是れが実である
182 :
《アラシを呼ぶ男》 ◆Arasi/MT2E :2012/08/09(木) 23:26:21.63 ID:Aw+NbeRK
瑜伽師地論(ゆがしじろん) T1579_.30.0282a17: 造惡 T1579_.30.0282a18: 業者所得中有。如黒羺光或陰闇夜。作善 T1579_.30.0282a19: 業者所得中有。如白衣光或晴明夜。又此 T1579_.30.0282a20: 中有。是極清淨天眼所行。彼於爾時先我愛 T1579_.30.0282a21: 類不復現行。識已住故。然於境界起戲論 T1579_.30.0282a22: 愛。隨所當生即彼形類中有而生
(時間差的な)原因と結果が縁起だっていう人が時々出てくるけど、 少なくとも龍樹の縁起は、 (時間差的な)原因と結果 = 縁起 じゃないよね。
世俗の人に説明する場合は(私の場合も) 因 → 縁 → 果 → 報 → 因 「時間の変化によって、何かが変化する」 と言う説明の方が、わかりやすいと思う
私の個人的な妄想として 私の場合は「時間の変化によって、何かが変化する」と言う 妄執の念に自らが固執している状態である と言う事でございます
>>186 少なくとも龍樹の縁起は相依性のことで、時間差的な原因と結果じゃないでしょ。
>「時間の変化によって、何かが変化する」 と言う説明
「時間の変化によって、何かが変化する」 ことを 「縁起」 とは、
龍樹は言ったことがないと思う。
これは、あくまでも
私の個人的な見解として
→
>>187 と言う事でございます
大変失礼致しました、訂正してお詫び申し上げます
中論觀涅槃品第二十五 諸の因縁を、受けるが故に、生死の中に輪転する 如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する これを拡大解釈すれば 時間の変化によって、何かが変化する と言う拡大解釈も出来きるかもしれない
因 → 縁 → 果 → 報 → 因 死 → 中有 → 生 龍樹の事は、ともかく一旦置いといて 私の場合は(妄執の世界に住しているので) 「時間の変化によって、何かが変化する」 と言う説明の方が、わかりやすい と言う事でございます
中論觀顛倒品第二十三 無常の中に常に著する、是れを則ち顛倒と名づける 無漏法に至るまで尚お不生の相と名づけない この場合 無漏法に至る前と後では、何かが変化する (この場合は時間の変化と言う意味ではない気もするけども) (状態の変化と言う事に重点を置いているような気もするけども)
たとえば、 「ボールを投げたら窓ガラスが割れた」 という場合、 「窓ガラスが割れている状態」 が、結果ということになるけど、 この 「窓ガラスが割れている状態」 はもはや、「ボールを投げる」 という原因を必要としないよね? つまり、時間差による原因と結果の分断が起きてる。 こういうのは縁起とはいわないと思う。 「窓ガラスが割れている状態」 は、「ボールを投げる」 ことに依存していない。 縁りて起きていない。 例えば、 「光が木に当たって木陰が出来る」 という場合、 「木陰」 は 「光が木に当たる」 ことに縁りて起きてるでしょ? 時間差的に捉えるんじゃなくて、今現在の状況・・・・ 〜に縁りて、起きてる状態・・・ これが縁起だと思う。
木陰がなければ、そこには 「木に光が当たっている」 ということがないよね? つまり、逆観が成立するよね。 原因と結果を時間差によって分断している以上、逆観は成立しない。
195 :
神も仏も名無しさん :2012/08/10(金) 02:52:10.25 ID:OHwnKGvh
>>193 中論の縁起とは「存在の構成原理」を示す。「割れたガラス」は「割れていないガラス」
との相対関係によって存在する。即ち、原因・結果の概念を否定する。
釈迦の縁起(因果関係)とは似て非なるもの。
>>195 中村先生とかはその立場でしたよね
前スレ(43スレ目)の
>>820 以降の議論が参考になるかもしれません
197 :
神も仏も名無しさん :2012/08/10(金) 03:03:23.51 ID:OHwnKGvh
>>196 釈迦や石飛氏の「因果関係」は、ひたすら「業報論」を維持するためのもの。
「空」はどこにも成立しない。
一切の法は性空であるが故に 世俗諦においては 世間は顛倒の故に虚妄の法を生じ 諸の因縁を、受けるが故に、生死の中に輪転する 如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する 世間には是れが実である 龍樹も、鳩摩羅什も 「一切の法は性空であるが故に、業報論も涅槃も成立するのだ!」 と主張しているような気がするけども
199 :
神も仏も名無しさん :2012/08/10(金) 05:57:01.18 ID:qUZB10b+
>>198 >業報論も涅槃も成立するのだ
中論は、いずれも明白に否定している。
43スレの822 因果は、空性であり、仮設であり、中道です 知覚は瞬間的に認識されるので、無時間に思われますが よく心を見つめる時、時間性が分かるかもしれません 中論は空性に導き それによって戯論寂滅という勝義に導きます 何か見解を論証しているのではありません
>>195 >>200 「原因と結果」にも、2種類あるような気がするんだよね。
原因が結果を生じさせたあと、もはやその結果は原因を必要としないものと、
原因が結果を今現在において支えている状態・・・ この場合、今現在において原因と結果が存在している。
原因が過去ものではなく、現在において結果を支えている。
たとえば、12階建てのマンションがあったとして、建設されるさまを見ると、1階から順次建設されて
時間的な因果関係になるんだけど、今現在12階は単独で存在できず、1階から11階までの支えを必要としてるよね。
これはある意味、
>>195 の 「存在の構成原理」 を現してると言えるんじゃないの?
時間的な過去から未来への流れに注目するんじゃなくて、今現在の状態に注目することが
縁起を見ることじゃないかと思う。
龍樹は時間的なものを相手にしていないと思う。
「去りつつあるものは去らない」 って言葉からもそれは感じられる。
龍樹は横の縁起で、釈迦の12縁起は縦の縁起だと思う。
仏教書の原点には縁起の具体例としてどんなことが挙げられてるのですか?
204 :
神も仏も名無しさん :2012/08/10(金) 13:01:18.29 ID:Y6XlfAh2
>>202 >龍樹は横の縁起で、釈迦の12縁起は縦の縁起だと思う。
その釈迦の「縦の縁起」なら、人類は恐らくその発生以来知っている
ことだね。例えば、「火に手を近づければ火傷する」。わざわざ釈迦に
教えられる必要もない。
龍樹の「横の縁起」は、恐らく人類未踏の発見であり、万物・万人に
適用され、人類の今後の指針となるべきもの。
>>204 興味深い考えですが、釈迦の縁起とそこまで意味を異にするなら、
なぜ竜樹は釈迦が初めて使い始めた縁起という言葉を用いたのでしょうか
>>202 これはあくまで、私なりの理解ですが…
マンションを見る→マンションの1階を見る…2階3階…→12階を見る
という、(人間の主観や認識を排した建設の時間的な流れではなく)
私たちの"認識の"時間的な流れに対して、マンション(の自性)を見ない人は、
その後に1階とか12階とかも見ませんよね、と竜樹は言いたいのかなと思いました
「存在の構成原理」というのも、有部的な考えを連想させます
竜樹の言わんとするところは、構成要素(の自性)を見ないものは、
その要素の和合(マンション)も見ない、ということではないでしょうか
これを応用すれば、「マンションを見る→マンションを買いたいと思う」
という縁起を考えたとき、「マンションを見る」を滅すれば、
買いたいという欲望に駆られることがありません
206 :
神も仏も名無しさん :2012/08/10(金) 15:44:55.34 ID:Y6XlfAh2
>>205 マンションは、厳然たる実在である。龍樹は何らそれを否定していない。
唯、マンションが、「相互依存性・関係性」という「抽象観念」の産物だから、
「執着すべき自性はない」というだけの話。
龍樹は、物理現象や世俗の一切の慣習を「無条件の前提」とする。
龍樹の「空」とは、「無」の対極にあるもの。
207 :
神も仏も名無しさん :2012/08/10(金) 16:19:57.20 ID:Y6XlfAh2
>>205 >なぜ竜樹は釈迦が初めて使い始めた縁起という言葉を用いたのでしょうか
「あるものは、何でも使え」という気持ちだったのではないのw。
龍樹は、釈迦の「縁起・空」の1語にヒントのヒントを得て、それに「新しい意味を
与え」「換骨奪胎」したのである。
中論の「帰教序」の内容は、すべて竜樹の思想であり、釈迦のものではない。
「いかなる教えも、どこにおいても、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである」
(中論25:24)。
>>204 だからぁw
心理面、感情に於ける縁起を処理しなかったら、苦悩の解決にならんだろw
『或る心理的事象が或る心理的事象の因なり縁なりになっている』ってとこが、縁起説の胆なんだよ。
そういう物理的事象の連鎖なんて幾ら積み重ねても駄目なのw
それこそ、子供でもわかることなのw
この《外縁起》の氾濫は誰の功績なんだろうなぁ・・。 弊害大き杉www
隠居は心理的側面を一切無視し続けてるよなぁ・・。
何度も尋ねているのにw 貴方の心理的縁起を説明して御覧なさい、と・・。
相互依存の話の流れでついでに確認したいのですが、 中論(7・4)は相互依存の誤謬を指摘した、と解釈する梶山先生の説は やはり妥当なのでしょうか(『空の論理』の118頁です) 長と短とか父と子とかの事例が出てくるから、「相互依存の縁起」と解釈されやすいのかな…
>>203 > 仏教書の原点には縁起の具体例としてどんなことが挙げられてるのですか?
因 → 縁 → 果 → 報 → 因
私の場合は
妄執の世界に住しているので
「時間の変化によって、何かが変化する」
と言う説明の方が、わかりやすい
と言う事でございます
一切の法は性空であるが故に 世俗諦においては 世間は顛倒の故に虚妄の法を生じ 諸の因縁を、受けるが故に、生死の中に輪転する 如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する 世間には是れが実である
212 :
神も仏も名無しさん :2012/08/10(金) 19:06:12.64 ID:5KNkDJ5E
>>206 >隠居は心理的側面を一切無視し続けてるよなぁ・
双極性障害であった釈迦とは異なり、龍樹は飛び切りの健常者だったから、
ちまちました心理的苦悩感など問題にしていない。
そもそも、彼にとっては、そのような心理的側面も、すべて「空」なのだからw、
気にするほうがおかしいのである。
彼は、万物・万人が、相互に関連性の中にあるというより大きな悟りで、精神
の安定と平安を得たのである。
>>212 いやいやいやいやw
仕事で腹が立つかどうか、
腹が立ったまま(その原因すら想像せず)苛立ちのままにしてミスを犯す危険性も無視かw
つか、人間関係を何だと思ってんだ?
薬を処方すれば、何か物質的に充足されれば、いじめや差別、対立がなくなるとでも思ってんのかいな?w
んとにおめでたい奴だ・・w ┐(;´ー`)┌
214 :
神も仏も名無しさん :2012/08/10(金) 20:47:52.30 ID:A3SACHwU
釈迦だろうが竜樹だろうが人類にとって有益な教えが人類にとって善き教えである よって釈迦<<竜樹でも何ら問題はない
>>214 ハァ?(゚∀゚)
何? ウルトラマンとデビルマン、どっちが強いか?って話をしてたのかw
小学生かよwwwwwwwwwwwwww
216 :
神も仏も名無しさん :2012/08/10(金) 21:06:09.57 ID:m462oZXl
>>215 え、小学生か幼稚園生でしょ。いまさら。
217 :
神も仏も名無しさん :2012/08/10(金) 21:09:45.84 ID:A3SACHwU
いや、どっちの教えが役に立つかという話だよ
218 :
神も仏も名無しさん :2012/08/10(金) 21:13:58.85 ID:A3SACHwU
逆に言うと釈迦>>竜樹でも何の問題も無い
>>212 >双極性障害であった釈迦とは異なり、龍樹は飛び切りの健常者だったから、
>ちまちました心理的苦悩感など問題にしていない。
>そもそも、彼にとっては、そのような心理的側面も、すべて「空」なのだからw、
>気にするほうがおかしいのである
心理的苦悩を問題にしないんだったらただの思弁哲学じゃないですかw
ありがたくもなんともない教えですなぁぁぁぁぁぁw
220 :
質問箱31 375 1/2 :2012/08/11(土) 11:01:02.62 ID:NONmVI4Q
質問箱31
>>380 おやおや、帰ってみれば的外れが書き連ねてあったw
>アンタがヌーエイジで全く仏教じゃないだけっしょ
アタシが「仏教」化石主義者ではないのはアッタリ前田。
アタシは自帰依・法帰依ではあっても、オイラ氏のような非仏法の固定化された空蝉伝統「仏教」帰依徒などではないと何度いったら・・・
オイラ氏にはSn.796−800(特に800)を毎日千回自得できるまで読むことを薦める。。
自帰依・法帰依の基本精神だ。
>こんなことどこに書いてあるのか? 仏教だと伝統的に四禅、つまり色界定で観ずることで無我・空を悟って解脱すると書かれるぞ。
またまた、頑迷な非仏法化石テキスト依拠主義者 は『どこに書いてあるのか?』というトンチンカンな間抜けセリフで応じるw
アタシは『流れ嫁カス』(質問箱31
>>354 )なんて上品なことは言いませんよw
でも、質問箱31
>>351 以下の流れは、スッタニパータにおけるブッダのSn.874(非想非非想処)、同.916(分別知の根本の制止)、
653(縁起の現観)、734・735(識別作用の制止)1037(名色の滅び)を踏まえた
“非想非非想処(Sn.874)での”
(分別知を超克した)ブッダの仏法直覚←無分別智の話の流れだったはずだ。
流れを、勝手に変えんといてんか。
ブッダに非想非非想処を伝授したラーマプトラ仙(修定主義)とブッダの違いは、
「実存苦の超克」という鋭い本懐・問題意識があるからこそ、
“非想非非想処定において”も尚働く無分別智(あるがままの縁起の現観をもたらす智慧)の発見(気づき)に繋がったのだ、と言っている。
「智慧」による「中道」の「悟り」というブッダの独創的なウリ文句ができたのだ。
一般的な固定化されたマハーカッサパ教テキスト伝承化石「仏教」上の話ではない。
221 :
質問箱31 375 2/2 :2012/08/11(土) 11:04:12.68 ID:NONmVI4Q
>伝承をきっちり守ってるよ 一切存在は縁起現象(W→G⇒W’の無量ネットワーク)だから当然だ。 しかし、オイラ氏のような伝承カーボンコピー(W→W)なら、その他大勢のままだ。 ブッダはラーマプトラ仙のカーボンコピー=修定主義者ではなかった。 ブッダをはじめ、ビッグネーム改革・革命者たちは決してそうではなかった(W⇒W’又はM)。 ブッダはW(バラモン教)をひっくりかえしたM(仏法)だ。 ゆえに俺はブッダを「存在の革命」(埴谷雄高)者という。 仏法は動いて(方便)やまぬ。「仏教」では捉えられない。 固定「仏教」に捉われてはならない、いかなる見解もそのまま信じるな(Sn.800、同趣旨カラマ・スッタ)。
222 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 11:08:41.30 ID:Eki6CfKs
>>220 なんだ、お前か。いつもながらトンチンカンだな。
生命教と変わらんは。
なら、仏教と言わず、オレチャン教とでもいってなよ。
アンタのSn.読みは、無理。
勝手に妄想してるだけだ。短文だから、妄想しても可能だと思ってるだけだ。
付き合ってられん。わりいことは言わん、仏教を騙るのは止めた方がいい。
なんも分かってない。
ヒンドゥー・レヴェルだ。
223 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 11:12:08.11 ID:Eki6CfKs
>>221 >固定「仏教」に捉われてはならない、いかなる見解もそのまま信じるな(Sn.800、同趣旨カラマ・スッタ)。
全く生命教の自灯明と同じだな。ちょっとだけ経典読んだ、生命教なんだよな〜
まあ、ヌーエイジって方がピッタリだけど。
確かに仏教は固定的ではない。だからといって、ヒンドゥー・レヴェルの妄想が仏教というのはちゃんちゃらおかしい。
224 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 11:37:35.74 ID:NONmVI4Q
>>222 >>223 >ヒンドゥー・レヴェル
?????????
>仏教を騙るのは止めた方がいい。
仏教は仏法ではない、といっているだけだよ。
これを認めたら、オイラ氏のアイデンティティが崩壊するからやむを得ぬが・・
>確かに仏教は固定的ではない。
固定的なのが仏教(そのスタイルを始めた嚆矢プロデュサーがマハーカッサパ)。
非固定非流動なのが仏法。ゆえに分別知では捉えられぬ。
>付き合ってられん。
無視して頂いて結構。
それでも仏法は動く(非固定非流動⇒空=中道)
225 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 12:26:01.27 ID:WLhSrkuz
非想非非想処(第八禅定)と聞いて思い出すのは、大パリニッバーナ経でブッダが入滅する臨終の場面。 興味深いのは、ブッダが最後に涅槃に入るその直前が、 無色界の第4=非想非非想処(第八禅定)ではなくて、 色界の第4=第四禅定であったこと。 ブッダは、まず初禅から第八禅定(非想非非想処)まで禅定の最深点(無色界)までいってから、 わざわざ再び色界禅定にもどってきて、色界から直ちに涅槃に入ったんです。 涅槃に入るのに非想非非想処などの無色界の禅定は必要ない、色界から涅槃に入るのだから。
226 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 13:52:52.12 ID:JpqL2VVS
>>219 >心理的苦悩を問題にしないんだったらただの思弁哲学じゃないですかw
>ありがたくもなんともない教えですなぁぁぁぁぁぁw
そう。「ありがたがること」「崇拝すること」自体が執着だからである。
龍樹と釈迦とでは、頭のデキが違う。釈迦は本当に頭が悪い。「苦」を異物と
して排除しようとするから、執着は深まるばかり。
龍樹の「空の論理」では、「苦も楽との相対関係。従って、苦楽には、執着
すべき自性はない」。これは一切衆生の「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」
という悟りと同じである。
釈迦は、苦に執着しまくり。龍樹の悟りは、釈迦よりはるかに高次元。それが
苦のより根本的消滅に連なっていることを自覚すべき。釈迦では、苦への
執着の故に、苦は永遠に消滅しない。
>>226 「ありがたくない」というのは「助けにならない」という程度の意味で、
それを「役にも立たないただの思弁哲学では?」と言ったの
斬新な捉え方だけど、端的に言って、なぜそれが正しいと言える?
根拠のない憶測ではなくて?
釈迦の智慧は完成していなかったと?
竜樹は、智慧を完成していなかった、より低次の釈迦を敬礼したと?
実際、竜樹の悟りは釈迦以上に人々の助けになったと?
釈迦は苦への執着から解放されないままに一切智者を自称して説法をしたと?
228 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 15:18:14.80 ID:NONmVI4Q
>>226 >釈迦では、苦への執着の故に、苦は永遠に消滅しない。
『知覚(識別)のままに想う者(隠居お前だ)でもなく、誤って想う者(隠居お前だ)でもなく、
想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。 *非想非非想処
──このように掴んだ者の形態は消滅する。 *形態の消滅(時空際断)だから、当然に時空(一切:存在)を予定している。
なぜなら、時空意識は想いにもとづいて起こるからである。」(スッタニパータ874:アタシ訳)
さらに、無分別智が働く非想非非想処から進め、無分別智さえも働かなくなった様相を滅尽定:(想受滅定)
<想いからの解脱という想い(非想非非想処:Sn.874)からも解脱する>という。
ブッダの修定レベルが滅尽定までいかれたかは知らん(いく必要もないが)。
完全な苦の消滅である。
ぶっちゃけ、竜樹は、 (中観という論理(?)に於いて)比丘たちにとっては役立ったかもしれんが、 (実際の人生・生活への援用という点では)人々の役には立ってないんじゃね?w ※別に、一代への餌というわけじゃないからなw
230 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 16:11:43.16 ID:dVgNYrV/
>>227 >なぜそれが正しいと言える?根拠のない憶測ではなくて?
「正しいか否か」は、その正しさの「基準」がなければ判断できない。その基準は、
人間のすべての営みの根源である「生命」以外にはないでしょう。
釈迦は「正しい」を八回も唱えたがw、その正しさの基準は何ら示しえなかった。
単なる、言葉による自己陶酔。
苦も煩悩も、生命の維持に不可欠な心的作用。このことに思い至らなかったことが、
釈迦の根本的な誤り。しかしそれは鬱病という彼の心の病の症状だから、釈迦を
責めることはできない。現代では治療あるのみ。しかし、健常者には無関係な
病的心理状態。
釈迦は「分別」「無分別」という「分別」に捉われていた。分別も、生存に
不可欠な機能として受け入れてしまえば、もはや「分別感」は消滅する。
人間は、どこでも、いつでも、共同体として「共生」している。独りでは、
絶対に生存できないからです。釈迦もお布施がなければ餓死するだけ。
そして、竜樹の「相互依存性・関係性」は、まさにこの共生の原理。衆生は
この原理に基づいて生存しているのです。
>>230 ( ´,_ゝ`)プ
それだったら、
『“竜樹の気付き”こそが、衆生にとっては“今更”』であり、
竜樹に言われるまでも無く、人々はそうして生き抜いてきたんじゃね?www
釈尊だけでなく、竜樹すら馬鹿者でしょw
232 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 16:33:48.33 ID:dVgNYrV/
>>231 >『“竜樹の気付き”こそが、衆生にとっては“今更”』であり、
>竜樹に言われるまでも無く、人々はそうして生き抜いてきたんじゃね?www
その通り。「衆生の気付き(悟り)」に気付いたのが、竜樹の偉大さです。
釈迦には、それが出来なかった。却って、衆生を己の「病的迷妄」に誘い込もう
とした。
>>232 バーカw
それを言ったら、竜樹以前に“気付いた”のが釈尊なわけw
んとに頭悪いな・・ (;´ー`)y━~~
そもそも生存のためとか言ってる時点で 執着丸出しで、苦からの脱却なんて100%無理。 なんだかんだいって仏教は、道徳やルールを守り常識の枠内にとどまろうとする。 こんなことでは到底執着からは脱することはできない。 不都合な執着のみ空だの仮説だのという論理では全く説得力がなく、役に立たない。
235 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 16:56:32.62 ID:dVgNYrV/
>>233 釈迦は「真如としての衆生心」などには一切気付いていない。
「ダニヤの章」を読め。まさにそこいらのカルト教祖の姿そのまま。
236 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 17:00:30.85 ID:Eki6CfKs
>>234 >そもそも生存のためとか言ってる時点で
>執着丸出しで、苦からの脱却なんて100%無理。
そりゃ、生命教で、仏教じゃないがな。
>なんだかんだいって仏教は、道徳やルールを守り常識の枠内にとどまろうとする。
>こんなことでは到底執着からは脱することはできない。
別に留まろうとしているわけではないぞ。世間を壊さないために尊重しているだけ。だから、釈尊は「世間は私と争うが、私は世間と争うわない」と説かれた。
ここでいう世間は、全くの空性で仮設なわけで、単なる習わしなんだが、もし、それを否定するなら、こういう会話さえ成り立たないし、君も正に仮設の言い習わしを使ってるじゃないか?
>不都合な執着のみ空だの仮説だのという論理では全く説得力がなく、役に立たない。
そんなこと言ってないぞ、一切皆空で、全ての現象・知覚・体験は仮設だよ。
だけど、全てが空性で仮設だからといって、それが無意味なのではない。そこら辺、まだまだ分かってないねえ。
237 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 17:31:05.48 ID:NONmVI4Q
>>230 >「正しいか否か」は、その正しさの「基準」がなければ判断できない。
これは間接現実に固執する盲目隠居には無理だってw
ブッダのそもそもの本懐は『実存苦の超克』であって、この目的に資するモノ・コトが「正しい」基準だ。
よく観察してみれば、あの当時のサマナたちの中でブッダほどの合理主義者はいない。
ブッダは信仰手法ではなく、合目的的な仮説検証手法→(自力)経験主義・追検証主義者だ。
しかし、この合目的性も、知覚・記憶という分別知(想い)による分別知間接現実を透過して、
無分別智による直覚によって直接現実=時空際断=空=中道を掴み得てはじめて、
『正しい』とは何かを還滅(無分別の分別)覚悟しうる。
仏教はそのための努力の集積ともえいるが、
目的的に逆検証すれば 膨大なガラクタの集積とも言える。
隠居には到底手が届かない。
しかし間接現実においても『実存苦の超克』基準は役に立つだろう。
もちろん根本的解決になるものではない。
戯論の消滅、無記、呪術の禁止、方便の活用、医学、産業、哲学、・・・
>共同体として「共生」している。
苦しみのうちに「生命」という名称と形態で。
238 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 18:23:48.42 ID:3hrYJang
>>237 >『実存苦の超克』
それは釈迦の鬱病の症状に過ぎない。健常者には無関係。健常者に釈迦の
病気を植え付ける行為は犯罪である。
現実は一義的。間接・直接の区別はない。さもなければ、人間社会は瞬時に
崩壊することは、ちょっと考えただけで分ること。「現実」とは五感で知覚
できる世界。それ以外を「脳内現実」「妄想」と呼ぶ。釈迦も含めて、人間は
現実界のみにおいてしか生存できないのだから、釈迦がいくら考えてみても
無意味w。
239 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 18:44:40.35 ID:PeUuQnt6
まあ子供でも生まれたら釈迦だの悟りだの言わなくなるんじゃないか?
釈迦が鬱病なんてそれこそ妄想でしかないな 紀元前の生活習慣で鬱病になれたら逆に凄いわ
241 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 19:11:15.68 ID:PeUuQnt6
釈迦も人間なのだから気持ちが落ち込んだ日もあっただろう
242 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 20:43:29.48 ID:3hrYJang
>>240 基地外は病気なのだから、何時の時代も変わりなく発生する。
開祖の精神病が感染したのが、創唱宗教という精神医学的現象。
244 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 21:54:05.11 ID:3hrYJang
>>243 現代の精神医学では、狭義の「精神病」とは、統合失調症と双極性障害(躁うつ病)
を言います。
前者には「人格の崩壊」を伴うが、後者は「気分(感情)障害」で、通常、人格の
崩壊は伴わない。
勿論、両者が混交した病態も多くあります。、また、多くのボーダーラインケース
(所謂「ボダ」)もあります。
精神医学の標準的教科書を読めば、釈迦が鬱病または双極性障害であったことは明らか。
>>244 医師でなければ診断してはいけないことさえ知らないやつが何を言っても時間の無駄だわ
>>224 閻魔大師
>仏教は仏法ではない、といっているだけだよ。
御隠居殿と同じく、「白馬非馬」の弁舌を振るう?
247 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 23:05:20.60 ID:NONmVI4Q
>>246 >「白馬非馬」の弁舌
『仏教は仏教ではない。ゆえに仏教という』
上記を解いてから、再質せよ。
248 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 23:19:47.34 ID:3hrYJang
>>245 病気とは、不特定多数人(健常者)の平均値からの有意の偏倚。
精神病とは、「思考・感情・行動」の偏倚。医師も、専らこの基準で判断する。
その偏倚の程度を示すのが、精神医学の教科書や文献。精神病の診断には、
レントゲンや血液検査は通常不要。あくまで、不特定多数人の思考・感情・行動
に基づく。従って、基地外か否かを判断するのは、結局、不特定多数人の思考・
感情・行動ということになる。
イエスは明らかに統合失調症。キリスト教と仏教との相違は、専らイエスと釈
迦との病態の相違から生じる。
249 :
神も仏も名無しさん :2012/08/11(土) 23:55:40.25 ID:NONmVI4Q
>>245 >不特定多数人(健常者)の平均値
・データを示せ
・健常(不特定多数)判断の前提となる「異常」(不特定多数)判断は二項相対関係であって
両者共に不特定多数である以上、不特定多数人(健常者)の平均値概念は自立して成立しない。
『不特定多数人(健常者)の平均値からの有意の偏倚』はインチキ・レトリックだ。
ゆえに、不特定多数人の思考・ 感情・行動にもとずく宗教戦争が「異常」である判断はできない。
隠居が統合失調症ではないという判断根拠は何もない。
釈尊が精神病?平均的ではない精神状態だったってのは結構リアルな話だとは思うけどね だが、むしろそれで良いのでは?という印象 精神病とか自閉症とかって、健常者にも傾向としては見られる、 つまり突き詰めれば明確な線引きは出来ないわけだから そういう平均的でない人が苦を追求して、健常者では辿りつき難い境地に至るというのも さもありそうな話だと思うよ。実際、哲学者にもそういう人多いよね 逆に、クシャトリャ生まれで物質的に豊かな生活が保証されてるのに、 苦と徹底的に向き合うとか、いわゆる健常者じゃ難しいだろ…とさえ思える
251 :
絶対神 :2012/08/12(日) 07:48:24.94 ID:jIyc2FWV
「生命教に対する反論」 『進化論を見れば判るように』 「元々、「生命を生み出したのは、非生命、無機物である」」(単なる 化学反応が生命を誕生させたのである) 『更に、その大本となった「宇宙」を生みだしたのも「非生命」である』 (宇宙は単なる物理現象であるビックバンによって生まれた事くらい知っているだろう?) 『生命があれば「それが生み出せる」とお前はいうが』 「生命が『無い』方が、「もっと偉大な大きな要素を幾らでも生み出せるのだ」」 お前の理屈で言えば 『単なる無機物や、物質などの「非生命」の方がよっぽど「偉大だ」』 「非生命こそが「宇宙」や「生命」を生みだした「大本」だからだ」 (生命がなければこそ、「生み出せる」という方がよっぽどマクロな視点であるの だよw)
252 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 07:52:07.76 ID:2xL1Dczy
>>238 ニワトリ隠居
>現実は一義的。間接・直接の区別はない。
⇒質問箱31 >>364-
>>367 コンドーム(間接)ナマ(直接)を問わずオチンチン(現実)であることに区別はない。
(龍樹 中論 25-19・20)
ナマで行こう(色即是空)!
でも普段はやばいから、コンドームだ(空即是色)!
これを悟りという。
253 :
絶対神 :2012/08/12(日) 07:58:25.42 ID:jIyc2FWV
「精神病であるかどうかは」 『実際の活動においてあまり関係がない』 たとえばアインシュタインも、分裂病だのアスペルガーだのなんだの言われている 「いわゆる、天才というのは「脳異常ではないか?」というのは昔からワリと 言われている説である」 『結局、世界の歴史に偉人として名を残したのだから』 「少なくても、「お前」よりもはるかに有能で歴史的に意味のある人物だったのは 事実だな」w 『お前が釈迦やイエスの精神に関して、資格もないのに診断を下す行為は』 「それこそ、ただの負けをしみ、キチガイの寝言でしかない」(笑)
>>253 こういう文章の書き方も病気っぽいけどなw
255 :
絶対神 :2012/08/12(日) 08:06:24.30 ID:jIyc2FWV
「大体からして、現代と時代が全然違うのだから」 『何千年も前の人間は、殆ど全員、神仏だの死後だの霊だのを信じて生きていた のだから』 「イエスの言動が奇態かどうかはまったく判断できない」 『当時の人間としては常識的で当たり前の言動だったのかもしれん』 精神病というのは社会常識に極端に反し、適応できない場合に言われるものであって 「社会全体が神仏や霊を認めている社会は、別に「精神病」でもなんでもない」 (それを言うのなら、客観的物理的に人間の命に価値がある訳ではない。生活に 余裕のない時は、どの国でもふつうに間引きなどはしている) つまり、現代の先進国の基準で、何千年も前の文明をはかっても 『まったく意味はない』(精神病は、肉体の病と 違って、「あくまで相対的な病」である(実在はするが))
256 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 08:18:57.28 ID:L7rPHFHL
>>254 つか、この方はどうみてもそうでしょ。
完全スル〜で、よろ。
イエス・キリストは統合失調症ではない。 むしろ、ゴータマ坊っちゃんが怪しい。 王家の坊っちゃんが、おとぎ話を語ったのが仏教じゃないの? ミーハーなゴータマファンが弟子になって、ビジネスにした。
258 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 08:23:00.36 ID:GAl++eOU
>>249 臨床検査では、すべて正常値と異常値の区別を示す。精神医学では、正常心理
と異常心理との区別を示す。いずれもその基準は、不特定多数人。
宗教者は、特定多数人または特定少数人である。
>>250 芸術家には、精神病傾向の人も少なくないが、しかし、芸術によって殺しあった
り、生来の人格が変容することはない。どんなに素晴らしい音楽を聴いても、
会場から一歩外に出ると、忽ち現実に復帰できる。芸術と宗教との本質的相違
を考える必要がある。
日本の仏教である大乗仏教では、「苦概念」はすでに克服されている。
執着を去ることを標榜する仏教か、苦に執着するのは矛盾。
>>251 生命に対し反論するのも生命の機能。死者には反論は不可能。反論すればする
ほど、生命を肯定していることになる。
むしろイエス・キリストは ガンジーに近いと思う。義憤が捨て身の行動の原動力になっていたと思う。
260 :
絶対神 :2012/08/12(日) 08:35:10.01 ID:jIyc2FWV
「ついでに言っておくと」 『お前の言動は差別的である』 「精神病患者を社会から抹殺しようとする意図が見え見えだ」w 『それこそいつの時代の考え方だ。現代の常識ある先進国の人間の考え方 ではないな』(笑)
261 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 08:35:34.32 ID:GAl++eOU
>>259 ガンジーは、その長い英国留学から、キリスト教の影響を深く受けていた。
彼の「非暴力抵抗」は、物理的抵抗にも優る「心理的暴力」w。
結局は、インドとパキスタンの分裂を招き、更なる宗教対立の原因を作った
だけ。
262 :
絶対神 :2012/08/12(日) 08:37:32.06 ID:jIyc2FWV
「実際問題」 『人間の歴史の殆どは、封建的で、宗教が支配している時代だったのだから』 「宗教を否定すると、人間の歴史認識として」 『あまり現実的でなくなってしまう』(逆に架空の理想社会を 前提とした宗教めいた視点になってしまう)
263 :
絶対神 :2012/08/12(日) 08:39:58.64 ID:jIyc2FWV
『ついでにいっておくと』 「キリスト教の教義を作ったのは、「イエス」ではなく」 『後代の無数の人間なので(実に基本教義を作るだけでも色んな会議をやって 400年以上かけている)』 「イエスが病人であろうとも、その病状が反映されるという事は」 『元々、「あり得ない」』(こいつはきちんと宗教の 教義の成立の歴史を何度言っても調べないんだな)
264 :
絶対神 :2012/08/12(日) 08:48:06.74 ID:jIyc2FWV
「古代の宗教は」 『色んな人間が何百年もの間、知恵を出し合った「合作」であって』 「別に特定の教祖が言った事を教条的に信じ込んで」 『ずっと守っている訳でもなんでもないのだよ』 これかなり前にもお前に言ったよな?
265 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 08:48:23.36 ID:GAl++eOU
>>263 精神病が感染することは、現代の精神医学の定説。だから、クリスチャンは、
イエスだけは絶対に批判できず、その分、専ら他の人間を批判する。それが
キリスト教による大殺戮の歴史の原因。すべてのクリスチャンは、イエスの
精神病が感染した痛ましい「犠牲者」である。
266 :
絶対神 :2012/08/12(日) 08:52:30.36 ID:jIyc2FWV
「で、たとえば、神道には巫女だのなんだのがいて」 『神がかり、妙な言動をとる事が幾らでもあるけど』(沖縄にはユタ がある) あれは西洋医学の観点から言えば、「精神病」なのであろうが 「宗教儀式、宗教内でやっている範囲内においては」 ふつう、医学は干渉しない 『そういう生活の慣習だとか、生活に根付いた宗教的習慣にまで』 「ふつう、医学は干渉しない」(科学は人の生き方を 決定しない)
ものごとの捉え方一つとちゃうかな? クリスチャンでも、献身的に活動しているマザーテレサのような人もいるし 己の欲望を満たすために、非情の限りを尽くす者もいる。
>>258 その平均値教・完全なる線引き教は論破してやったろ?w
古い話過ぎて忘れたか?www
269 :
絶対神 :2012/08/12(日) 08:55:55.89 ID:jIyc2FWV
『つまり、人間には意図的に「精神病的状況」を作り出し』 「そこから、精神世界(神だの仏だの)を追及しようとする習慣が昔から ある」(大昔の頃の仏教は、アヘンを用いていたのは有名) 『だが、それ自体には「医学」も「科学」も干渉はしない』 (まあ、当然、麻薬を使う事に関しては、司法だのなんだのが干渉するだろうが) 「つまり、お前の言っている事は「完全に筋違い」」(イエスや 釈迦が精神病だったら一体どうしたの? としか言いようがない)
わたしはクリスチャンだから、ブッディストだからという理由で差別はしないが ブッディストより明らかにクリスチャンの偉人が多いことに着目している。 確かに、その反対のことも多いが。
271 :
絶対神 :2012/08/12(日) 08:57:48.88 ID:jIyc2FWV
「もっと「宗教」とか「文化」に関して学んでくれないか?」 『隠居だっけ? 今の段階のお前では』 「あまりに幼稚過ぎて、笑いしか出ないのだが?」 まあ、こう言って、理解し、反省するやつだったら、何年間も「キチガイの戯言」 をわめいてないだろうけど(笑)
272 :
絶対神 :2012/08/12(日) 09:03:49.90 ID:jIyc2FWV
『最後に言っとくと』 「ゴッホっていうのが精神病だったのはしってるな?」 『そして、彼が有名な画家である事も知ってるよな?』 要するに、「そういう風なことなのだよ」 「大きな文化的活動をするのに、精神病であるかどうかなんて」 『何の評価の対象でもないのだよ』
そもそも、仏教信者は、このパソコンインターネットシステムの根本的な原理である電磁気の働きを発見したのが イギリスの敬虔なクリスチャンだった マイケル・ファラデーであることを、どう考えますか? 日本人も、江戸時代に平賀源内?という学者が電気のようなものを発見していたが。
274 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 09:10:01.75 ID:L7rPHFHL
>>270 オイオイ、何を見てそう言ってるんだ?
仏教徒の偉人を、アナタがどれぐらい把握してるか疑問だ。
ちなみにチベット仏教の偉人を十人あげられるのか?
>>269 精神世界や宗教だから干渉しないのではなく、
ただ幻覚が見える程度じゃ統合失調症とは呼ばないんよ
そんなことさえ知らないやつが鬱だの統合失調症だのと騒ぐのさ
276 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 09:11:39.53 ID:L7rPHFHL
>>273 そんなこと、どうでもいいは。
偉人というのは、科学に貢献したという意味か?
>>276 まさに今あなたは墓穴を掘ったんだけどね。
どうでもいいという考え方ね。
クリスチャンは偉業に対して惜しみなく称賛するが
仏教は、どうでもいいと考える傾向があることの典型例を示しましたね。
>>273 単にキリスト教圏内にそういう人材がいたってだけじゃないのか?
西洋人のほうが西洋科学と相性が良いのは言うまでもないと思う
仮に彼が敬虔な仏教徒だったとしても、優秀な科学者だったなら同じように発見しただろうさ
>>278 いや、彼が言ってるのは、
仏教徒は偉人を褒めない(目を注がない)んだねってことでしょ。
それが、仏教界から輩出されていないから褒めないの?という意味も暗にあるだろうし。
つか、最近現れたいつものキ印の人でしょw
280 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 09:30:58.22 ID:NBbbDd4k
精神病の病名を蔑称として使うことは、 本職の精神医にはありえんだろうなあ。 要するにご隠居はただのネラ。彼の診断(笑)は そこらにありふれた「アスペ」認定と変わらない。
281 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 09:38:46.35 ID:L7rPHFHL
>>277 世俗のことなんか、偉大でもなんでもないってことなんだが。
君のいうクリスチャンというのは、ほとんど西洋文化という意味だろ、宗教や生き方という意味ではない。
君の論法は『コリントの信徒への手紙』 2.6では以下のように科学のような世俗の知恵なんか意味がないと説かれてるでしょ。
> しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
君の論法は完全に背いた、単に仏教を自分が信じるものより低いと言いたいセコイ詭弁だよね。
君は、そういう偏狭な汚い動機で他人を貶めることがクリスチャンの教えだと思うのか?
『ローマの信徒への手紙』12.2でも、このように言われてるぞ、君はそれに反してるとさえ思わないのか?
> あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
仏教の中で唯一、日本人に害のない教え それはゴータマ坊っちゃんとは似ても似つかない。 南無阿弥陀仏教だと考える。 なぜなら、すべての人は、南無阿弥陀仏を唱えたら極楽浄土に行けると説いたから。 これはキリスト教に近い。この明快さが、日本の近代化に影響を与えたと言えよう。
>>281 あっそう。パソコンインターネット通信は世俗だから意味がないんでしょう?
みーんやってて、これほど世俗的なツールで遊んでんじゃん。あなたも。
華厳経も法華経も 衆生はみな既に仏性があると考える 曹洞宗は座るものすべて座る姿が仏そのものなのであるという教え 阿弥陀仏のはからいもまた仏の慈悲から出てくるものであり 選民のみが救われるというどこかの西洋の教えではないので あしからず
285 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 09:50:32.88 ID:L7rPHFHL
>>283 意味ないとは言わない。しかし、それは世俗の中での話だ。
しかし、このスレで「偉大」という意味を問うなら、悟ってるとか聖なるものであるという意味でしょ。
オタクがやってるのは、オリンピックで金メダルとったウサイン・ボルトに「アンタよりチーターや、新幹線のが偉大だ」とか言ってるようなもんだ。
問われてるこの場の意味を、全く無視してトンチンカンな詭弁を弄してるだけだって気付けないか?
>>281 はキリスト教徒にとっては、かなり本質的なことだと思うんだが、「あっそう」で一蹴するとは。後は好きにすればいいは。
南無阿弥陀仏の思想ってあまり仏教的ではないんだよな 仮にそれで「救われた」としても、救われた状態が固定的でない以上、 必ずまた救われていない状態に転落するわけで キリがないわな
287 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 10:11:39.91 ID:CI45CdFJ
>>273 仏教徒だってもちろん、使える道具は使わせてもらう。
しかし、仏教の教えは、基本的には、道具を発展させることに執着はしない教え。
僧侶は、積極的に動物を殺して食おうとはしないが、
すでに死んでいる死肉の料理を出されたら、ありがたく食べる。
かけっこが1番の人を見て「すごいね」と言うが、1番になることに執念はない。
誰かが1番にならないなら、別の誰かが1番になるだけの話だから。
仏教 諸仏の教えじゃないのか? 大乗の菩薩や仏の教えは仏教じゃないとなると もう仏教はどマイナーな宗教に成り下がる
289 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 10:14:38.64 ID:CI45CdFJ
>>286 たとえば、念仏をとなえて怒り(悲しみや嫉妬を含む)がすみやかに静まるなら、
それは、怒りのカルマを積む量を抑制することになるのだから、
たとえ微量でも、悟りに近付く能力(功徳)を貯めることになる。
いちど華厳や法華経など大乗仏教を 勉強すると南無阿弥陀仏は大乗の極みだとわかる 華厳などは小乗の教えは入り口にすぎないとの教え
小乗を抜けたら 大乗の基本である龍樹の中論や世親の唯識が第二段階 その後第三第四と続いていくのが華厳
292 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 10:18:24.32 ID:L7rPHFHL
>>286 いや、浄土教も大乗だよ。
アミダの場合は、アミダの誓願によって浄土に生まれ、そこで成仏できます。
ただし、五無間業の悪業を積んだものを除くとされます。
この積んだというのは、限りない輪廻の中で積んだことがあるということで、
この現世に限ったことではないので、注意が必要です。
293 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 10:20:22.24 ID:CI45CdFJ
誰か一人が必死(ピリピリ、イライラ)になると、 周りの人にもそれが伝染して、みんなピリピリとした空気になる。 人類みんながゆるーい感じになればそれがなくなる。 その「ゆるーい」の発信源となるのが仏教徒でしょう。 誰かがピストルを持ったら、他の人も護身用にピストルを持たなきゃならなくなる。
華厳によると禅宗は第四段階のレベルにある 人は既に覚っていてと禅はそれを証覚するだけだという道元の教えは 華厳のそれと同じレベル
世親菩薩は若年時代はひたすら唯識に没頭するも 中年以降から晩年はついに南無阿弥陀仏に至る
296 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 10:35:04.63 ID:GAl++eOU
大乗でも、浄土教、特に浄土真宗は、仏教のキリスト教だから、例外とするのが、 仏教議論の前提。
>>292 >アミダの誓願によって浄土に生まれ、そこで成仏できます。
まるで新興宗教の広告のようだw
>>296 親鸞の著作に根拠となる経典群が記載引用されて
事細かく解説しているが
その根拠はほとんど大乗小乗経典から根拠つけている
どこにもキリスト教の根拠文がない
華厳のさらに上をいく大乗思想を突き詰めてしまったのが 親鸞といえよう
>>298 いやw
そういうことじゃなくてw、結果的に現れ出でた様相が「キリスト教“的”」ってことでしょ。
アイデア・構想は違っても、総体として仕上がりとして近似することはよくある。
301 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 10:43:29.14 ID:L7rPHFHL
>>296 >大乗でも、浄土教、特に浄土真宗は、仏教のキリスト教だから、例外とするのが、
>仏教議論の前提。
いや、むしろ誤解。浄土真宗は清沢満之などによってキリスト教的に解釈された面がありますが、本来は大乗の方便の一つですよ。
浄土真宗も親鸞上人はもちろん、明治以降でも七里恒順師、金子大栄、山口益先生などはよく仏教全体が分かった上で、浄土教を説かれていて、大乗と何も矛盾しない。
清沢満之などの現代真宗教学が問題あるだけ。
302 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 10:55:17.88 ID:L7rPHFHL
>>299 アナタの仰ることは、断定だけで根拠がないようですが、できれば、それぞれ文を引用して根拠を示してもらいたいです。
>アミダの場合は、アミダの誓願によって浄土に生まれ、そこで成仏できます。 >ただし、五無間業の悪業を積んだものを除くとされます。 >この積んだというのは、限りない輪廻の中で積んだことがあるということで、 >この現世に限ったことではないので、注意が必要です。 仮に篤信の念仏者が、絶望のなか奈落に沈んでも、 「実はこいつは限りない輪廻の中で五無間業の悪業を積んでいたんですよ♪」 ということにして、アミダ神も浄土経典を創作した者にも傷はつかないというわけだ。 なにせ「限りない輪廻」という設定なんだから、悪業を積んでいない方が珍しい。 昔の人はなかなか狡猾で、ムシの良いことを考えるものですな。
>>アミダの誓願によって浄土に生まれ、そこで成仏できます。 >まるで新興宗教の広告のようだw 浄土経典が創作された頃は、実際に新興宗教の広告だったのでしょう。 仏教的には「創作」ではなく「感得」とか言うのかもしれないけれども。
306 :
神も仏も名無しさん :2012/08/12(日) 19:26:44.16 ID:L7rPHFHL
>>305 いいです。神社仏閣は、話しても分からないようなキガス
307 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 04:52:10.75 ID:B7IkiWCj
中論でググると色んな人の個人訳やら論文やらが引っ掛かってくるね。いい時代になったもんだ。
>>306 ま、要はどっちに組する?ってことだが・・w
または、どちらも誤っているのかもしれんがな・・・。
309 :
禅と浄土 :2012/08/13(月) 08:26:44.03 ID:vOfGq+zp
>>292 >アミダの誓願によって浄土に生まれ、そこで成仏できます。
浄土系のお方にお聞きしたいが、
一遍上人
・となふれば仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして(不合格 分別執着あり)
・となふれば仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏(合格 これで法燈国師の印可証明ゲット!)
しかし、禅的にはこれでも、まだダメでしょうね。
阿弥陀仏を対象化している雑念→阿弥陀仏への執着が残っています。
その根底にあるのはヒンドゥ教と同じく、ブラフマン・大日如来との合体→不二一元論思考ではないでしょうか。
仏教は不一不二の無元論(論がない:空である)のはずです。
だからこそ、最終的には阿弥陀仏から離れることが問題になります。
これに対しマトモな禅師たとえば私の好きな至道無難師ならこう応えられます。
・『となへねばほとけもわれもなかりけり それこそそれよなむあみた仏と』 *なむあみた仏→皆無阿弥陀仏:阿弥陀仏は非有非無
<注>となへ「ね」ば、 です。 仏を念じればあみた仏を対象化し執着に誤る。執着(想い)を捨てるのが仏法、Sn.874。
・『念仏はりけん(離見)なり。 かならす<必ず>仏になると思ふ<う>べからず。
仏にはならぬが仏也。 *仏は仏ではない、ゆえに仏という。仏とは彼岸への筏=手段だ。筏になってどうする?
身の業のつきはてぬれは何もなし。 *仏もゼロもない。時空際断
かり<仮>にほとけ<仏>といふばかりなり。』<至道無難>
310 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 09:25:48.48 ID:d9dwqzWG
>>309 オイラは浄土系の方ではないけど、浄土教は今生で完全に悟るという道ではなく、
誓願を信じて、アミダの誓願によって浄土に生まれ、そこで完全に悟るという道ですよ。
その流れを考えず、禅の一部を標準に考えても何も分からないでしょう。
もっと広い視野で見ないなら、他の道を比較して云々するのは無理だと思います。
311 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 09:32:45.88 ID:2A8goQOt
>>309 >阿弥陀仏を対象化している雑念→阿弥陀仏への執着が残っています
ならば、意図的に「座る」ことも執着だね。
釈迦崇拝・教祖崇拝・教典崇拝は、最大の執着。
すべての宗教観念を捨てて、生命の命じるままに「身体行動」することにより、
執着は初めて去る。
人間にとって、「身体行動」の持つ意味を考えることが必要。
一 教は大きにあやまる。それを習ふは猶あやまる。只直に見、直にきけ。直に見るはみるものなし。直にきくは聞くものなし。 見ずきかずおもはすしらぬ思ひてを なにとてをのかほかになすらむ 教えは大きに過る、間違いなんです、これを知る、至道無難禅師に於てのみ、よくよく知って下さい、教えを習うはなを過る、間違いなをさらです、ただじかに見る。 じかに聞くこれをのみ、じかに見るは見るものなし、じかに聞くは聞くものなし。 見ず聞かず思はず知らぬ思ひてを、 なにとてをのが他になすらむ 標準他にはなし、よこしまなければ自受用三昧これを標準となすと、これのできる人皆無、まったくただ一人いないのを知る、情けないことです。 たとえばこのネタ本の解説者、どっかの学者権威ですが、こんなふうに訳す、よくよくそのでたらめを見て下さい。 (教へは人を大いにあやまらせる。それを習ふとなほあやまりを犯す。ただ有りのままにものを見、ありのままにものを聞け。 有りのままにものを見れば、見る我は無い。ありのままにものを聞けば、聞く我は無い。) どうですか、この人無心を知らず、仏を知らず、教えという我田引水をもってすること、かくの如し、わかりますか。 こんなのにたぶらかされるようでは、そりゃ覚束ないです、じかに見、じかに聞いて下さい、見るものなし、聞くものなし。=ありのままなんてあるんですか。
313 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 10:05:48.04 ID:d9dwqzWG
>>312 単に誤解してるだけにしか思えないよ〜
よく居る野狐禅ですねえ。
315 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 10:10:51.03 ID:2A8goQOt
>>312 >ありのままなんてあるんですか。
赤子、幼児の見る世界が「ありのまま」。
宗教観念が少しでも混入すると「ありのまま」が破壊される。
赤子の脳はバイアスが働かないなんて話は聞いたことがないけどな バイアスが働くから親の顔を認識出来るんだろう
317 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 10:20:00.83 ID:d9dwqzWG
>>314 至道無難禅師は知ってるけど、禅師はともかくアナタの解釈が問題だと言っているだけど。
アナタ自身は、悟ったのか、それとも印可を受けたのですか?
それとも単に自分で勝手に読んで考えた説ですか?
318 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 10:20:54.46 ID:d9dwqzWG
319 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 10:29:26.15 ID:2A8goQOt
>>316 すべての人間に生来的に備わる肉体的本能はバイアスとは言わない。
それを、後天的・人為的に変えようとした釈迦やイエスがバイアス
なのである。
そりゃコピペで、そこに私の作った文はないです。 即答するのはやめて下さい。リンク先くらいはせめて読んでみて。
321 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 10:49:14.34 ID:d9dwqzWG
>>320 う〜ん、最初に言ったようにもっと広い視野を持たないと仏教の他の道と比較することはできないよ。
アナタは、話し合いたいのか、それとも頷いてほしいのかどっち。
後者なら、無理。前者なら、せめて人の問いにも答えないとね。
どっちにしろ、オイラは止めときますは。
322 :
禅と浄土 :2012/08/13(月) 10:49:15.55 ID:vOfGq+zp
>>319 生理的に歪むのは問題なくて、釈迦やイエスの思想で歪むのは駄目なのか?
ある信念を持つことで歪むのも、結局は生理的なものだけどな
>>321 んー。だれかと勘違いしておられるみたいですが、私は最近ここに書き込んでるものではないです。
>>312 の文の解説は印加を受けた正師のものです。
私自身にはは縁もゆかりもないものです。
ただ、あなたの方に禅に対する偏見があるようにおもわれますがね。
私とて正法眼蔵百巻あまりを全て読んでるわけではありませんがね。
まあ、一つの宗派であろうとも真意を知るには専念しても十年くらいではおさまらないでしょう。
325 :
禅と浄土 :2012/08/13(月) 11:18:06.26 ID:vOfGq+zp
>>312 >只直に見、直にきけ。直に見るはみるものなし。直にきくは聞くものなし。(至道無難禅師)
直接現実における縁起の現(あるがまま)観=無分別智による直覚です。
至道無難ほど仏法の精髄を凡人にもわかり易く解かれたお方はめったにおられません。
本当に掴んだ方出なければ、やさしくは説けません。
素晴らしい。
>>325 >直接現実における縁起の現(あるがまま)観=無分別智による直覚です。
いや、だからそういったゴタクを並べるあんた自身が失せさるんだよ。
だから、見るものはなし。
327 :
禅と浄土 :2012/08/13(月) 11:33:13.70 ID:vOfGq+zp
>>326 >だからそういったゴタクを並べるあんた自身が失せさるんだよ
御意。
でも、ネットは間接現実(知覚記憶現実)ですから、
直覚に至った禅僧たちの禅語でもわかるように、
間接現実はゴタクのカタマリです。
→だから、見るものはなし。
まあ至道禅師も極めて仏教的にはあたりさわりのない考えの人物ですよ 「世間の人をすすめ、上根機の人には、直に目前を以てをしへ、中根機の人には、方便を以て坐禅させ、 下根機の人には、念仏を以て後世をねがはせ、かくのことく人をたすくるを、真の出家といふなり。愚にしてなりかたし。 」
329 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 12:59:01.76 ID:yQoU3WuC
>>322 生き延びれば毎日の念仏の功徳が積もる。
死ねば浄土に往生できる。
だから生死ともに煩いなし。
…と、法然さんはおっしゃられています。
「生死ともに煩いなし」の心境が、念仏者の安心。
>>329 わかりやすい説明だな
浄土が本当にあるかどうかはともかく、信じるものは救われるのかもしれんね
331 :
禅と浄土 :2012/08/13(月) 18:20:29.59 ID:vOfGq+zp
>>314 >ここらにいるボンクラとは格が違います。
そう言われれば恥じ入るしかありませんが、
故川上雪担老師の至道無難禅師についての気合のこもった提唱、いいですね。
これを『よく居る野狐禅ですねえ。』(
>>313 )などと評する人がいるのですから
半知半解にしても驚きです。
こういうお方は、故川上雪担老師の
『法をとく法師に
ころせころせわか身をころせころしはて
なにもなきとき人のしとなれ (至道無難師)
実にこういう人皆無です、仏教というもとありもしないものを知ったか振りして、
なにしろ生噛り中途半端でとくとくとして法を説く人。』と評されても甘受すべきでしょう。
>『仏教というもとありもしないもの』という雪担老師の見解には共感できます。
332 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 18:49:49.24 ID:V/+TEPgb
>>331 その「ありもしない」佛教や釈迦に執着している仏教徒は、己の滑稽な姿に
目を覚ませ。
333 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 22:17:29.60 ID:78bxO47T
釈迦は、苦に執着することにより、自ら「中道」に反している。 「一切皆苦」ではなく、「一切苦楽」というべきであった。 大乗は、釈迦のこの誤りを是正した。
334 :
禅と浄土 :2012/08/13(月) 22:47:58.53 ID:vOfGq+zp
>>332 >>333 >「ありもしない」佛教
>「中道」
>大乗
宝珠と同じく、完全に腐臭を発しています。
あなた方には、仏法を掴むのはとうてい無理です。
無難禅師にしても、故川上雪担老師にしても、
言語論理の全く通用しない直接現実(空=中道)からの還滅(捉えかえし)で、
無理やり提示(無分別の分別)しておられるのですから、もはや外道には無理筋です。
どうぞ、お引取りくださいませ。
335 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 22:59:22.27 ID:yQoU3WuC
>>333 「一切皆苦」の「苦」は、衝動・ウズウズ・不満足・落ち着かない、ということ。
苦痛も快楽も、どちらも「ウズウズ」であり、次の思考、次の発言、次の行動を誘発する、
細かい衝動の連続であるということ。
苦痛も快楽も「ウズウズ」。
そこを見抜いたとき、「ウズウズ」は別の「ウズウズ」に代替できることがわかり、
目の前の苦痛や快楽の原因に執着せずにすむ。
恋愛感情も性欲も「ウズウズ」にすぎず、目の前の恋人にふられても、
また別の人に簡単にウズウズできる、その程度のものである。
歴史上の人物で悟りの境地に到達していた人はいますか?
この世に悟った人は現存しますか?
338 :
神も仏も名無しさん :2012/08/13(月) 23:53:53.06 ID:uPO35Ign
>>335 だったら「一切皆楽」とすれば、釈迦も鬱病呼ばわりされなくて済むw。
仏典の「苦」をすべて「楽」に入れ替えw。
339 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 00:04:54.56 ID:T/L1pKn/
十二支縁起で三世、二世以外の解釈はあるのでしょうか?
341 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 00:37:54.14 ID:pcXCBskC
>>338 「楽」では、煩わしさが表現できない。
人生・生命という店を三界の中にオープンしているかぎり、
とめどなく「発注」がきて、応え続けねばならない、しかも、
その「発注」は条件によって刻一刻と違うことを要求される、
一つ一つがバラハラの発注で少しずつ違うが、
一歩引いて見ると実は似たり寄ったりで斬新さはない。
人生はひたすらその発注に応え続ける繰り返しである、
苦痛も快楽もその「発注」のパターンのひとつにすぎない。
そのような煩わしさのニュアンスが必要。
親鸞、法然は 天台であらゆる修行を何十年こころみるも 悟りをひらくことはなかったと言われて阿弥陀への他力門を選んだのでは?
親鸞においては煩悩は死ぬまでついてくると 正直に述べられてる
344 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 01:16:07.84 ID:KfGdrxfQ
>>340 エックハルトは、今ここの自分を受け入れることが悟りだと言ってるようだね。
ならば、何かを求めようとする釈迦やすべての宗教者は、悟りからはほどとおい
ことになる。
345 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 03:52:50.43 ID:8jCjFf5i
>>342 >天台であらゆる修行を何十年こころみるも
ここソースなし
天台の実践は 円頓止観である 四種三昧、二十五方便、十乗観法といったものです われわれが考えてる以上に天台の実践はあらゆる仏教の修行が整理され 実践されてる 般若空観、念仏、座禅などなど 常坐三昧や佛立三昧などもあります その他方等三昧や法華三昧、半行半坐三昧などなど
内々のことなんてどうでもいいから片隅を照らしてろよ。
最澄の天台実践はおもに4首三昧となります 常坐三昧、常行三昧、半行はんざ三昧、非行非坐三昧が 天台修行僧の基本実践となります
天台宗の「三諦偈」「一心三観」「円融三諦」 第24章18詩 「空」と「仮」が、「無」(断見)と「有」(常見)の「二辺」として捉えられてしまっており、 その「空観」と「仮観」の対立から、「中観」(「非有非空の中道」)を見出すこと、 あるいは、これら「三諦」を一体的なものとして観ずること(「一心三観」「円融三諦(三諦円融)」)などが、説かれる。 しかしながら、 『中論』の原義から言えば、「空」(空性)も、「仮」(仮名・仮説・仮設)も、「中」(中道・中観)も、全て、「縁起」「無自性」の言い換えであり、 同じ内容を違う言葉・表現で言い表してるだけ、ただの「同義語」として使用しているだけに過ぎず、対置・対立させるような関係にはそもそもないのであり、 ましてや、「空」や「仮」を、「無」(断見)や「有」(常見)の「二辺」と混同してしまうような、上記の捉え方は、端的に言って、解釈としては、明確に誤りである。
(ちなみに、三論宗の宗祖である嘉祥大師吉蔵もまた、(全面的ではないにしろ)こうした「三諦」の解釈を承認していた。) こうした天台宗・中国仏教的な「誤解」を、前向き・好意的に捉えることもできなくはない (実際、語彙・概念にまつわる誤解は混じっているものの、 「空」という概念もまた「非空」なる諸々の概念と相互依存的に成り立っているかもしれない と見ることもできるし、 「空」概念の実体視や、そこへの執着を避けるためには、 「空」概念もまた相対化されるべき対象になるわけで、 そういった点では発想としては間違っていないし、 冗長ではあるものの、丁寧にもう一歩踏み進んだものだとも言える)が、 少なくとも、『中論』の正確な理解や、 その主旨である「縁起」「無自性」の正確な読み取りを考える上では、 確実に妨げになるということだけは、踏まえておいてもらいたい。
351 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 06:47:40.81 ID:Zoodxg4A
>>349 >解釈としては、明確に誤りである
直接現実を「解釈」(分別)していること自体で、
なんにも掴めていないのだ。
愚の骨頂というしかない。
352 :
治癒しえない人へ :2012/08/14(火) 07:09:32.50 ID:Zoodxg4A
>>349 >>350 「あらゆる見解を脱するために、勝者(仏)によって空性が説かれた。
一方、人がもしも空性の見解を抱くならば、その人々を治癒しえない人と呼んだのである。」(龍樹 中論13-8)
「涅槃とは、いっさいの知解が滅し、戯論が滅して、めでたい(境地)である。
ブッダは、どんな教えも、どこにおいても、誰のためにも、説かなかった。」(龍樹 中論25-24)
353 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 07:09:46.32 ID:k5lOgIam
>>349 >『中論』の原義から言えば、「空」(空性)も、「仮」(仮名・仮説・仮設)も、「中」(中道・中観)も、全て、「縁起」「無自性」の言い換えであり、
>同じ内容を違う言葉・表現で言い表してるだけ、ただの「同義語」として使用しているだけに過ぎず、対置・対立させるような関係にはそもそもないのであり、
語弊あり。縁起の三つの側面、それぞれを強調したものであり、それぞれの意味はことなるよ。
中論觀行品第十三 大聖は、六十二の諸見及び、無明、愛等の煩悩を破る為の故に、空を説かれた 若し、人が、空に於いて、復たしても、見を生ずるなら、是の人は、化しようがない 譬えば、病が有り、薬を服すれば、治すことができるが 若し、薬が、復たしても、病と為れば、則ち、治しようがないように
中論觀涅槃品第二十五 一切の法は、空の故に 何処が、有辺、無辺、亦たは有辺、亦たは無辺、有辺でなく、無辺でもないなのか? 何者が、同一、別異なのか? 何が、有常、無常、亦たは有常、亦たは無常、有常でなく、無常でもないなのか? 諸法が、不可得ならば、一切の戯論を滅する 則ち、人は無い 亦た、処も無い 仏も、亦た、所説も無い
中論觀四諦品第二十四 諸仏は、二諦に依り、衆生に、説法される 一は、世俗諦、二は、第一義諦で 若し、人が、二諦を、分別することを知らなければ 則ち、深い、仏法の、真実の義を知らない 世俗諦とは、一切の法は、性空だが 而し、世間は、顛倒の故に、虚妄の法を生じ 世間には、是れが、実である 諸の、賢聖は、真に、顛倒の性を知るが故に 一切の法は、皆、空で、無生だと知り 聖人には、是れが、第一義諦で、実と名づける 衆因縁より、生ずる法を、わたしは、即ち、是れは空だと説いた 何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる 是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い 自性が無いが故に、空であり 空も、亦た、復たしても、空である 但だ、衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた
仏も、所説も、自性ではない 自性ではないが故に空である 空であるが故に 衆縁が、具足、和合して そして 仏も、所説も、現われる
>> 『中論』の原義から言えば、「空」(空性)も、「仮」(仮名・仮説・仮設)も、「中」(中道・中観)も、全て、「縁起」「無自性」の言い換えであり >> 同じ内容を違う言葉・表現で言い表してるだけ、ただの「同義語」として使用しているだけに過ぎず、対置・対立させるような関係にはそもそもないのであり > 語弊あり。縁起の三つの側面、それぞれを強調したものであり、それぞれの意味はことなるよ ↑ とりあえず 了解!
> 直接現実を「解釈」(分別)していること自体で、なんにも掴めていないのだ。愚の骨頂というしかない ↑ とりあえず 了解!
360 :
治癒しえない人へ :2012/08/14(火) 08:43:35.11 ID:Zoodxg4A
>>357 >自性
あなたのそして龍樹のいわゆる「自性」とはなにか?
スヴァバーヴァなのか、プラクリティなのか?
361 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 09:03:37.52 ID:Zoodxg4A
お盆の法事終了 読経僧(臨済宗)に、般若心経の『三世諸仏〜』以下は無用矛盾でカットすべきではないかと質問した。 僧曰く、心経は般若経郡のいいとこ採りの集大成なんだから、こだわるな、とのお示し。 しかし、空を説きながら、「三世」との比較相対時間を設定し、「これ以上ない」と比較し、 挙句の果てはオドロオドロシイ呪文で締めくくるなんざ、前半のピュアーさとは完全断絶の様相だ。 当時のヒンドゥ教密輸入風潮との生き残りをかけた妥協の産物か?
363 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 09:12:19.89 ID:k5lOgIam
>>361 そりゃ、勘違いでしょ。あるいは倒錯というべきか。
般若心経は、正確にはフリダヤなんだから、最後のフリダヤ、心真言が正に核心。
それは縁起法頌と同じ。縁起法頌もフリダヤだから。
それ以前は、その意味が分からない。分別智しかない凡人のための説明文みたいなもんでしょ。
どれも仮設なんだから、そういう文句は半解以外のなにものでもない。
それに、たんに戯論寂滅のための遮断だけ論理的に分かっても、それこそ呪文でしかないっしょ。
自性(じしょう) そのものが本来備えている真の性質。真如法性(しんにょほっしょう)。本性 事物をそのものたらしめている本来的な不変の性質。本性。本質。性(しよう) 衆生(しゆじよう)が本来は持っている真理としての性質。性(しよう) サーンキヤ学派の主張する根本物質のこと
365 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 09:22:36.39 ID:Zoodxg4A
>>363 >フリダヤ
仏法には無我(アナートマン)にて候
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1341747707/ 957 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2012/07/31(火) 14:38:59.51 ID:HsJAbUdN [6/16]
仏法の本懐は実存苦の根本的克服にある。
苦しみを生み出す執着の原因を取り除く(縁起法)
執着原因:我執→無我
執着しうるもの すべきものは,なにもない(空である)。
執着対象(特に利己的自己)が無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相←無分別空であること(中道)を
体得<無相の心三昧(滅尽定)>する⇒涅槃寂静。
無分別の分別で示すなら、執着しうるなにものもない境地に立たせる構成が必要だ。
しかるに、般若心経『三世諸仏〜』以下は無分別の分別としても誤った
比較相対分別矛盾に陥った『無上・大』への執着を生むヒンドゥ的呪文主義であり、
化け狸の尻尾が丸見えとなっている。
このあたりの作者の発想は法華経と大して変わらん。
サーンキヤ学派
人はプラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている
サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている
− − −
http://nagarjuna.jugem.jp/?eid=59 それにしても、なぜスヴァバーヴァが最大のキーワードなのか…
それは、ものが <それそのものとしてあるというあり方> をすることがない、ということが、空(くう)ということだからです
> あなたのそして龍樹のいわゆる「自性」とはなにか? スヴァバーヴァなのか、プラクリティなのか? バラモン(ヒンドゥー)の場合は 「アートマンは絶対不滅、常住不変である!」 私の場合は 「渇愛(タンハー)があれば、その渇愛(タンハー)によって 例え、存在の形が変化してでも、異蘊相続によって 又、次の、この世の生に戻り来る事になる!」 私の場合は 「プラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っている状態!」 でございます
369 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 09:53:59.19 ID:k5lOgIam
>>365 そういう意味じゃないって、分かってないな〜
フリダヤも仮設に決まってるでしょ。
やだなぁ〜、もう
世俗諦と勝義諦って神学的にみてすごい便利な論理だよね。 端からみるとうざいだけだけど。これ、考えた人才能あると思うわ。
371 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 10:08:49.48 ID:Zoodxg4A
>>367 >なぜスヴァバーヴァが最大のキーワードなのか…
な〜んでか?
龍樹のいわゆるスヴァバーヴァ=自性なんて、
論争で相手を打ち負かすためだけにでっち上げたインチキ概念とちゃうか?
ーというところにある。
角のあるウサギ、仏法を悟った隠居、5本足の人間の類だ。
ホンマに、完全自立・完全単一・完全恒常←龍樹のいわゆる「自性」なんて
どんなもんでも、あるわけないやないかw
あったら、完全パラドックスに陥る。
角のあるウサギ(自性)はない⇒ゆえにすべては空なり。
アッフォか?
子供だましの手品の類やねw
こういう反撃をやった説一切有部のできのいい坊主もいたろうに。
般若坊主連中が抹殺しやがったか?
歴史は勝者によって書かれる。
> 世俗諦と勝義諦って神学的にみてすごい便利な論理だよね 表面意識の哲学的な思惟だけではなくて 瑜伽(ヨーガ)の実践によって 第六表面意識から → 深層意識の阿頼耶識に働きかけて 最終的には阿羅耶識もまた空である(境識倶泯) と言う体感会得によって 教理にまとめられたものが 瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)などであるらしい
ちなみに
私は一時的に根本仏典原理主義の時もありましたが
今は根本仏典も中論も両方とも勉強をしているところですが
>>371 さんは根本仏典原理主義の人なのかしら? おじゃる?
374 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 10:43:46.08 ID:Zoodxg4A
375 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 10:46:22.94 ID:k5lOgIam
>>371 >龍樹のいわゆるスヴァバーヴァ=自性なんて、
なんだ、アビダルマの解釈史も知らんのか、
でかい口たたくないよ〜
376 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 10:51:25.88 ID:4qzPHMAv
377 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/14(火) 10:59:50.16 ID:Zoodxg4A
>>375 オイラはん、
無視しておいて、おくんなましw
寝言なんやさかい。
ちゃんとアタシが掴んだ定義はしてまっせw
378 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 11:20:50.75 ID:k5lOgIam
>>376 アビダルマの解釈上、スヴァバーヴァとスヴァラクシャナという概念が登場したってこと。
スヴァバーヴァは、実体、本質、それ自体といった意味に傾斜し、
スヴァラクシャナは、固有の形相、それ自体の姿という意味に傾斜するけど、
ほとんど同じような実体概念。
379 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/14(火) 11:28:58.09 ID:Zoodxg4A
あかんなあ、実体たって、もっと機能的(Functional)に把握せんと、 使いモンになりまへんで。 第一、「縁起」って関係性っていう機能なんやさかいなあw それをちゃんと意識して掴まんと、お話になりまへん。
380 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 11:55:48.24 ID:k5lOgIam
>>379 ちゃう、ちゃう。そういう理解だから、分からないんだって
381 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 12:55:48.02 ID:6G4Y4GR9
>>380 君が根本仏典原理主義者だから、分らないだけの話。
仏典の戯論に対する執着・煩悩から離れることが先決。
>>361 >しかし、空を説きながら、「三世」との比較相対時間を設定し、
“現世今生だけ”などという考え方は、ただの唯物論で完全な間違い。
それは断見断滅論として仏教では明確に否定されています。
“変滅を繰り返す現象に実体はなし”ということが空性であり、
これが輪廻する人間の姿を示したものです。
(縁起に依る)三世の生存が実体無き空だということ。
383 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/14(火) 17:46:27.63 ID:Zoodxg4A
>>382 >“現世今生だけ”
ちゃんと嫁!
そんなあ低レベルな断見わあ、いっとりませ〜ん! まったく逆やで!
時間わあ空間と共にい、自立・単一・恒常(←スヴァバーヴァの機能的定義)であるわけがない<時空際断> ⇒縁起=空=中道。
だったら、糞坊主は「三世」なんて時間概念を断りなしに勝手に書き込むな!ちゅーねん。
・「〜三世諸仏」前までは、非常にピュアーな勝義諦(直接現実)還滅提示であるにもかかわらず〜(このクールさが好きですよ!)
・「三世諸仏〜」以下は非常にオドロオドロしくも下品な俺様エライ主義の俗物世俗諦(間接現実)根性表現と
ヒンドゥ的マジナイ主義に堕落していて、あかんやないか!でしゅ。(この下品さがたまらなくお好きな趣味の方もおられるでしょうがw)
ほかの般若経典にこんな変態趣味はない。
この密輸入俗物根性主義こそが般若心経の本質やという、おそらくオイラ氏(
>>363 )特選本
(「真釈 般若心経」宮坂宥洪著 角川ソフィア文庫)もありますので、
変体趣味のおかたはドゾー。
>“変滅を繰り返す現象に実体はなし
・変滅を繰り返す現象←知覚記憶<間接現実>。 無分別智<直接現実>では「非無常非恒常」(
>>11 )
・実体はなし ←二項相対間接現実。 直接現実では「非有非無」(有無判断は戯論)
般若心経なんて元々がおまじないみたいなものだろうけどな 般若心経には高尚な真理が〜なんてのは、世界遺産のパンフレットを見て感動するようなものだわ
385 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 18:04:28.91 ID:25vsohRh
これ以上ないくらいの文献学的集成の名著『「般若心経」成立史論』 でも 単なるマントラ(まじない)文献扱いだからなあ
般若心経や法華経見てると、言葉自体に、何か功徳があるのではないかと思えてくるわ。 宗教学的にみて呪術的なものって、宗教の合理化と言う意味で、明らかに堕落してるよね。 初期の仏教は、そんな事なかっただろうに、こりゃいかんわ。
387 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/14(火) 18:12:57.50 ID:Zoodxg4A
な〜んで、「実体」なるもんを認めたらアカンのか? 実体に対する執着原因⇒苦の原因となるから八正道から見て正しくない。 実存苦の克服というブッダの本懐実現に資するモノ・コトが 八正道(世俗諦)の正しさの唯一のモノサシだ。 「仏教」(非有非無=空)の構成もこの基準で合目的的に相対判断すればいいだけ。 ゆえに、執着すべきものはなにもない(非有非無)⇒空・中道でなければならない。 シンプル・イズ・ベスト。
>>387 >>ゆえに、執着すべきものはなにもない(非有非無)⇒空・中道でなければならない。
空とか、中道ってさ、「でなければならない。」見たいに、わかってない人(俗世の人も含む)に
結論として、押し付けるべきものなのかな。
それとも、「天台本覚論」みたいに、口伝や切り紙による秘密相承みたいに門外不出にするべきなのかな。
門外不出は、既に無理だが・・・
スッタニパータ 927 わが徒は アタルヴァ・ヴェーダの呪法と 夢占いと相の占いと星占いとを 行なってはならない スッタニパータ 428 (悪魔)ナムチは言った あなたがヴェーダ学生としての清らか行いをなし 聖火に供物をささげてこそ 多くの功徳を積むことができる 苦行につとめはげんだところで何になろうか スッタニパータ 431 ブッダは告げた わたくしにはその世間の善業を求める必要は微塵もない 悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい − − − だけど世間の善業の功徳を求める人々にとっては スッタニパータ 568 火への供養は祭祀のうちで最上のものである サーヴィトリー〔賛歌〕はヴェーダの詩句のうちで最上のものである
390 :
神も仏も名無しさん :2012/08/14(火) 19:52:49.32 ID:k5lOgIam
>>383 >この密輸入俗物根性主義こそが般若心経の本質やという、おそらくオイラ氏(
>>363 )特選本
>(「真釈 般若心経」宮坂宥洪著 角川ソフィア文庫)もありますので、
ぜんぜん、オイラが推すのはこっち
>>385 >これ以上ないくらいの文献学的集成の名著『「般若心経」成立史論』 でも
>>388 >それとも、「天台本覚論」みたいに、口伝や切り紙による秘密相承みたいに門外不出にするべきなのかな。
>門外不出は、既に無理だが・・・
少なくとも『入中論』は空性は気根の高い人のみの教えとしてるよ〜
恐らく『中論』もそうだったじゃないかと思う。
391 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/15(水) 12:16:52.23 ID:05an56tQ
>>388 >わかってない人(俗世の人も含む)に
>結論として、押し付けるべきものなのかな。
そりゃー、総合コンサルタントの極意・要諦たる待機説法でっせ。
クライアントの状態によりちゃいます。
『もろもろのブッダは、
間接現実において ・「我(アートマン)が有る」と仮設し、
・「無我(アナートマン)である(我が無い)とも説き、
また直接現実において「我なるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
(龍樹 中論18-6 アタシ改訳)
実存苦の超克という本懐に相応しいコンサルタントは難しい。
サーリプッタさんはめちゃめちゃ敏腕なコンサルタントやったんやろな。
ブッダも、あいつのほうがうまいわと、社長を譲って、会長になったらしい。
周りからはブッダ商会ではなくサーリプッタ商会やと誤解されてたらしい。
392 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 13:25:49.39 ID:d6nN5/f2
「実存苦」という言葉は、釈迦の鬱病の症状を示すだけだから廃止すべし。 何時までも釈迦の恥さらしを続けるべきではない。空を唱えながら、いつまで 「苦」に執着するのかね。全く矛盾してるよ。
393 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 14:08:18.29 ID:loRiXHlL
>>391 >『もろもろのブッダは、
> 間接現実において ・「我(アートマン)が有る」と仮設し、
> ・「無我(アナートマン)である(我が無い)とも説き、
>
> また直接現実において「我なるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
>
> (龍樹 中論18-6 アタシ改訳)
こりゃ、訳じゃなくて妄想解釈以外のなにものでもないなあ
394 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/15(水) 15:03:00.35 ID:05an56tQ
ブッダ商会極秘マニュアル解説
>間接現実において ・「我(アートマン)が有る」と仮設し、
これは世俗=知覚記憶現実での「仮説」ね。
「有我」は、
>>392 隠居みたいな自我を無視する唯物論者向けマニュアル。
で「「無我(アナートマン)」は、有我との既成概念を持つ一般凡人向けマニュアル。
間接現実をクリアし、無分別智直覚の直接現実到達まであと一歩の非凡人向けマニュアルとして、
「非有我 非無我」という最後の執着断ち切りの為の決めセリフ、勝負押しが用意されている。
7-34、13-8と同趣旨。
395 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 15:05:38.63 ID:loRiXHlL
396 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/15(水) 15:23:10.61 ID:05an56tQ
>>395 >見解持っちまうは
だから、13-8で直接現実は無分別直覚するもんで、
「空見」→分別解釈したらアカンで←癒されへんで、
二項相対とちゃうんやで、空にも捉われたらあかん、というマニュアルも用意されてる。
総合コンサルタント集団『ゴータマ・ブッダ商会』は
天上天下唯我独尊!天下無敵!!
悩み無用!
悩み、苦しみの御相談は精鋭コンサルタント揃いの『ゴータマ・ブッダ』商会にお任せください。
397 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 15:46:48.80 ID:loRiXHlL
>>396 違うなあ。それじゃ外道と変わんないは。
そういう解釈するから、アドヴァイタ仏教とかヌーエイジになっちゃうんだよ。
398 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/15(水) 16:30:27.12 ID:05an56tQ
>>396 >違うなあ。それじゃ外道と変わんないは
違うなあ。それじゃ外道と変わんないは
空は空ではない、ゆえに空という。
うぜえ 外道も仏教も言葉(記号)を消去したら、同じだろうが 釈尊も龍樹が、空や涅槃を作ったわけじゃないんだよ ヴェーダの聖人が、アートマンやブラフマンを作ったわけじゃないようにね。 だから、空やアートマンって言う記号を消去しようが、釈尊やヴェーダの 聖典を消去しようが、なんの問題もない。 記号(言葉)に依拠する、言語活動は、あくまで、仮説にすぎない。 「空は空ではない、ゆえに空という。」も言語に頼ってる時点で、仮説。 これは、神秘主義とかじゃなくて、言語そのものを消去しても、その意味するものは なんの影響も受けないってことね。あくまで、記号は、補助にしかならない。
400 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/15(水) 17:39:09.36 ID:05an56tQ
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。。。。。。。
401 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 18:33:13.34 ID:loRiXHlL
>>399 そう記号だよ。だけど、外道と仏教は違う。
それは筋道で分かる。釈尊以来、伝統仏教者はそう言ってきてる。
その違いが分からないんじゃ、仏教が分かってないってことだ。
402 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/15(水) 19:28:29.08 ID:05an56tQ
>その違いが分からないんじゃ、仏教が分かってないってことだ。 wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww! 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。 *******w
403 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 19:35:08.10 ID:loRiXHlL
病的なやつが多いスレだな 百日の説法屁一つって言葉を思い出すわ
405 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 21:43:53.55 ID:0SA1H7nI
空に過ぎない言葉(記号)や観念に、あたかも実体であるが如くに操られて、 高揚状態、狂乱状態になっている釈迦や釈迦カルト。 宗教の病理を如実に証明している。 これでは、キリスト教を笑えない。それとも、キリスト教の影響か。
お尋ねします 釈尊は死後の世界の存在を肯定していたのですか?
407 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 21:55:02.62 ID:loRiXHlL
>>406 単純に言えば、そうです。
輪廻とは、生まれ変わり死に変わって、グルグル巡ることに他なりません。
ただ、現在の私達も輪廻していて、しかも無我で仮設されたものであることも釈尊は説かれています。
程度の低い批判するにも程があるというものだ 屁のついでに糞も出しておけばよかろう
409 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 22:21:48.81 ID:0SA1H7nI
>>407 現世が空で、来世が常住なら、釈迦の大矛盾だな。
>>409 馬鹿?
なんで来世が常住なんだよ?w 説明してみw
来世を常住と見做してしまうその理由をwwwww
できないだろうなぁ・・w 隠居はいつも脊髄反射の言いっ放しだからw
412 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 22:28:39.56 ID:0SA1H7nI
>>410 来世が空なら、わざわざ語るまでもない。
414 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 22:38:28.82 ID:0SA1H7nI
>>413 だから釈迦が、現世の苦を「実存苦」だなどと大げさに語るのもおかしい。
そんなものも、最初から空のはず。釈迦は「現世の苦」に執着が過ぎる。
釈迦は来世で、もう一度苦を味わいたかったのかねw。
>>412 つか、誰一人として、『来世は常住』なんて言ってないけどねw
つか、410の問いの答えになってないよねw
来世を常住と見做すなら、(そんな人はいないのだけどw)、
そう見做し得る理由はどのようなものだと推測しますか? という問いなんだが。
>>414 いやいやw 釈迦が云々じゃなく、貴方自身の言辞のことですよw
貴方は現世を語っていないのですか?
語っているなら現世は空ではないのですか?(空であるなら語る必要がないと412では言っていますが)
つか、そもそも、語りうるかどうかでなく、
来世に生じたなら(生を受けたなら)既にそれは現世なんですけどねwwwww
空を無と捉える香具師がいるとは、情けないw
417 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 22:59:00.10 ID:loRiXHlL
>>416 その人は生命教といって断章取義も誤読も妄想も憚らない方ですから
一般にスル〜されてます
418 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/15(水) 23:08:42.15 ID:05an56tQ
さてと、やっぱりオイラ氏をはじめ皆さんには直接現実は無理(←ココ重要)ですかw
ブッダが説法を躊躇されたのがよく感じられますよ。
『病的』(
>>404 )『仮説』『仮設』『意味するもの』『分かる』(
>>399 )etcという
間接現実的類型用語をあてはめて、結局常識的ななんでもありでご都合主義で処理してしまう。
オイラ氏は典型的な常識人ですねえw 安心してください。
>>407 なんて典型的にダメ回答でしょうw
では皆さん、 おきばりやすw
419 :
神も仏も名無しさん :2012/08/15(水) 23:22:59.11 ID:loRiXHlL
>>418 >間接現実的類型用語をあてはめて、結局常識的ななんでもありでご都合主義で処理してしまう。
釈尊も「私は世間とは争わない」と説かれてるんだけど。
仮設ってのは世間に言い習わし通りラベリングされて表象されるというような意味だぜ。
だから、ここはほとんど常識という言い習わしを用いて、戯論寂滅に導くんだけど。
机と同じような理解だから、そんな風になっちゃうんだとは自覚できないのかねえ。
仏教に博学な人に質問です 今の韓国と日本の騒動をどう思われますか? 韓国大統領の天皇にたいする暴言をどう思われますか? 仏教徒は今の韓国にどう対応すべきですか?
仏教は、釈尊を消去しても成り立つ。これは、宗教学的にみて常識。 また、釈尊以前に法は、あったか?→あった。 とするならば、釈尊以外に、法に気づいた人は、いたか?→いた。 分かりやすい例として、科学的因果関係などが挙げられる。 しかし、科学的因果関係と仏教の縁起は、完璧な=ではない。外道やその他も同様。 では、仏教の教えは、完璧な真実か?→違う。 何故ならば、言語による法の記述は、ゲーデル・アロウ・ハイゼンベルク・チャイティンなどの不完全・不確定性で明らかであるからである。 その言語を超越した(戯論寂静)法は、既に言語に基づく、宗派学派を超越している。法そのものであるから、仏教もなにもないのである。 以上のことにより、「仏教が分かってない」などと声高らかに言う人に、質問したい。 あくまで「仏教の真実」とするならわかるが、「仏教が真実」とする理由は、一体何処から来るのだろう?
422 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 00:22:16.62 ID:TRIqT6S2
>>421 「開祖の盲信」「開祖への執着」という、すべての創唱宗教に共通する「病理」
に過ぎない。これは、開祖の精神病の感染という、精神医学的現象である。
精神病は感染する。これは現代の精神医学の定説(「感応精神病」)。精神科
医は、患者からの逆転移を最も警戒する。
創唱宗教の開祖は、「例外なく」精神病者。最古の創唱宗教と言われる
ゾロアスター教の開祖も、大麻の常用者であった。
423 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 01:28:35.80 ID:NP9hx8bC
424 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 05:11:03.77 ID:QOLoQGmT
>>420 保身を願って禁じ手を使っている彼を哀れみ、慈悲を育み忍辱するべきでしょう。
>>421 体系として不完全であるということですね。
それは既に釈尊、龍樹菩薩も説かれてますよ。
そして私は「仏教の真実」という言葉は使ってませんが、
それしか説いてません。
しかも、完全に分かっているとは思ってません。
明らかにそれは仏教ではない考え方にたいして、
それは仏教じゃありませんよと、
テキストと伝統の教えに基いて述べているだけです。
基本的にテキストだけでここでは話していますので、反証可能です。
根拠は全て示していますから。
それと普遍妥当性や普遍的真理などとして述べたことは一度もありません。
仏教のテキストでは、こう書かれていると述べています。
>>424 揚げ足取るみたいで、悪いが、
>それと普遍妥当性や普遍的真理などとして述べたことは一度もありません。
>仏教のテキストでは、こう書かれていると述べています。
これじゃ、仏教のテキストを立てて、外道の教えを論破つーか 否定できないんだけど
外道には、外道のテキストがあるわけだから、これは仏教のこれは外道の真実です、ハイ終わり。
で、仏教と外道が、矛盾なく成り立つって事になるね。日本では、信教の自由も保証されてるし。
426 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 07:29:17.57 ID:bYUWrW7O
竜樹は釈迦の教説には世俗勝義の二諦があると説いた。 このことは「釈迦の教えは矛盾している」と批判するご隠居居士への答えになるのではなかろうか 例えば「一切皆苦」を文字通り受けとると「世の中には苦しみばかりではないではないか」「一切は空で実体はないと言うのに苦がある事を前提にするのは矛盾している」と反論される。 勝義の真理からするとその通りなのかもしれんが 一般の人間に真理を説く場合勝義から説いても意味がわからない そもそも勝義の真理は言語では伝達出来ない。 空の論理ですら空なのであり空を説いた途端に空でなくなるが 言語表現を伴わないと何がなんだかわからないので便宜上、一切空と説いてそれもまた否定する必要がある そのような由縁で悟った人は悟りは言語では表現出来ないと言いながら言語で表現している訳であるから 言語上の矛盾があるとして仏陀を批判しても そもそもそれを前提に悟りが説かれている訳だからこのような批判は批判として本来成立していないと言う事だろうと思う
>>426 上言われてるように考えると、仏陀は法を作ってないわけだから
勝義諦が仏陀の言ってる法だとするならば
仏陀や龍樹菩薩は、勝義諦や法には、全く関係がないということになるね
仮に仏陀が、勝義諦を作ったとすると、仏陀以前に勝義諦は、ないと言うわけだから(ry
後は、分かるね。
>>427 物理法則と物理学の関係性がわからないとか、そういう話?
アインシュタインが作ったのは相対性理論であって、物理法則を作ったわけじゃないだろ
>>428 そういう、理解でいいけど
正確には関係性が分からないではなくて、関係がないってことね。
逆に関係があるとなると
「仏陀」があるとき「法」がある
「仏陀」がないとき「法」はない
となるね。これによると仏陀も法(勝義諦)も常に変化するってことだねww
430 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 08:49:31.97 ID:QOLoQGmT
>>425 念のため誤解なきよう、私は外道を否定してるわけではないよ。
外道と仏教を混ぜる人がいるので、それは仏教ではないと言ってるだけ。
>>426 だから、仮設なのであり、仮設のなかで因果は法性(法則)とされるわけ。
その仮説の因果の中で、道として妥当性がある。
妥当な道が仏教であり、妥当でない道を仏教だと述べる人に「仏教ではそういはない」と述べてるわけ。
>>427 分かってないな、勝義ってのは「作られたもの」じゃないし、
戯論寂滅なんだぜ、それは無明を除いた本来のあり方なんです。
世俗の諸法として説かれた道は、そこへ導くために仮設された方便なわけだ。
だからこそ筏の喩えが説かれる。
輪廻の暴流で自洲を得て教えという筏に乗って戯論寂滅の彼岸に渡ったら、
もう筏はいらない。既に筏も寂滅していると。
分かってないもなにも、「仮」って書いてあるだろ だれも、ほんとに勝義諦が作られたものなんて言ってないよ あくまで、仮にそうならという話
432 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 09:03:25.24 ID:QOLoQGmT
433 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/16(木) 11:08:36.91 ID:cBUFGrQv
あ〜あ、皆さん間接現実のままですなあw
「有我」は、
>>392 隠居みたいな自我を無視する唯物論者向けマニュアル。
で「「無我(アナートマン)」は、有我との既成概念を持つ一般凡人向けマニュアル。
ってとこです(
>>394 )ねえ
ところで、直接現実においては、涅槃も空なんですよね?
やっぱりスブーティ兄貴はよー掴んだはるわ。
鎧袖一触、さすがやー!
で、間接現実で「自性」⇒空とは、
@龍樹にとってはスヴァバーヴァ(自立・単一・恒常)と、白いカラスだったんだけど、
A般若心経にとっては空なのはプラクリティやったんとちゃうか?が問題となる。
般若心経成立時の流行トレンドはサーンキヤ哲学で、プラクリティと捉えるのが自然。
そうすると自性空たるプラクリティと一体となるためにギャテー以下のマントラ(真言)を唱え、
解脱してプルシャ⇒アートマン=ブラフマンとなるという梵我一如、隠秘された信仰宗教が密輸入潜入させていることになる。
背景となると誤解された般若経郡とは全く異なった「外教」思想というべきだろう。
それを見抜いた応答が
>>365 (仏法には無我(アナートマン)にて候)⇒
>>369 ←
>>360 >>363 となる。
おきばりやすw
434 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 11:11:32.44 ID:PRHQ5+Ih
>>365 >仏法には無我(アナートマン)にて候
と、己の「我」で考えているw。アホラシ。
435 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/16(木) 11:14:27.61 ID:cBUFGrQv
>>434 おまえは間接現実べったりで、
「有我」は、
>>392 隠居みたいな自我を無視する唯物論者向けマニュアル。
さえクリヤーできてないことをワキマエロw
436 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 11:20:36.51 ID:QOLoQGmT
>>433 >@龍樹にとってはスヴァバーヴァ(自立・単一・恒常)と、白いカラスだったんだけど、
>A般若心経にとっては空なのはプラクリティやったんとちゃうか?が問題となる。
>般若心経成立時の流行トレンドはサーンキヤ哲学で、プラクリティと捉えるのが自然。
>そうすると自性空たるプラクリティと一体となるためにギャテー以下のマントラ(真言)を唱え、
>解脱してプルシャ⇒アートマン=ブラフマンとなるという梵我一如、隠秘された信仰宗教が密輸入潜入させていることになる。
>背景となると誤解された般若経郡とは全く異なった「外教」思想というべきだろう。
妄想満開だね〜、生命教とおんなじなんだは、ここらへんが
437 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/16(木) 11:26:13.26 ID:cBUFGrQv
>>436 龍樹の真似して、帰謬ポーズには笑えますなあ
妄想大好き!
アインシュタインもめっちゃくちゃな妄想家バッシングをうけたんやでw
438 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 11:29:54.09 ID:PRHQ5+Ih
>>436 妄想出来るのも、我(生命)の機能だから、我(生命)だけは妄想ではない。
比丘たちよ 生じないもの 成らないもの 創造されないもの、 構想力から発生したのではないもの が存在する もし、この生じないもの 成らないもの 想像されないもの 発生しないものが存在しなかったとすれば 生じたもの 成ったもの 想像さたもの 構想力から発生したものを認識することができないであろう
>>429 論理がおかしいので一応突っ込んでおくわ
物理法則がなければ物理学もないが、物理法則があるからといって物理学があるとは限らんでしょ
法がなければ仏教もないから、仏教があるなら法もあるが、
法があるからといって仏教があるとは限らないってことだが
法に仏教が依存する以上、仏教と法は相関関係にあることになる
>>440 上で、言ってるのは、法や物理法則は、人間の如何なる言語活動とも関係がないってことだけ。
それ以外は、背理法での例ね。
あと429の論理は(龍樹の人が詳しいと思うけど)なにもおかしくはないよ。
429は、仏陀が、法を作った的な立場の論理だからコレなら文句無いでしょ 「法」があるとき「仏陀」がある 「法」がないとき「仏陀」はない
>>442 まあ言いたいことはわかるわ
論理は間違えているけどな
x 「法」があるとき「仏陀」がある、「法」がないとき「仏陀」はない
o 「法」があるとき「仏陀」がある、「仏陀」がなければ「法」はない
苦しみも仮設ですか?それとも悟ると苦しみはなくなるのですか?
445 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/16(木) 16:33:08.99 ID:cBUFGrQv
>法がなければ仏教もないから、仏教があるなら法もある(
>>440 )
これはまったくデタラメなエセ論理だ。対偶として成立しない。
いわゆる仏教なるものが仏法を表現しているとは限らないのだから、
・「仏法(直接現実)←相互依存関係→仏教(間接現実)」は成立しない。両者が同時存在関係にあるとはいえない。
・また仏法(直接現実)と仏教(間接現実)には、因果関係はない。 両者が異時存在関係にあるともいえない。
> o 「法」があるとき「仏陀」がある、「仏陀」がなければ「法」はない(
>>443 )
これにもまったく同じ論証があてはまる。
インチキ仏陀もいっぱいいるのである。アサハラとか、イケダとか、オオカワとか・・・・
しょせん、直接現実と間接現実を二項相対論理で「理解」=分別できない。
龍樹を含むインチキ論理に御注意!
446 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/16(木) 17:04:14.84 ID:cBUFGrQv
>>444 苦集滅道(間接現実)−<無分別智直覚>⇒ 無苦集滅道(直接現実) (般若心経)
(間接)現実 = (直接)現実 (中論 25-19・20)
「苦しみ」を慶安に受け入れるようになります(自受用三昧:道元 隋縁且従容:良寛)
>>445 命題と対偶を並べて、そのどちらかを論破することで命題を否定するのが対偶の論法だろ
もしそれがエセ論理なら、論破したところで命題を否定できないわな
論理として正しいから、論破することで命題を否定出来るんよ
論理の用法くらい知っとけ
448 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/16(木) 18:08:43.42 ID:cBUFGrQv
>>447 >論理の用法くらい知っとけ
⇒直接現実と間接現実との関係を二項相対論理で「理解」=分別することはできない。
キーワードは無分別智直覚
二項相対論理(間接現実)はいかなる場面で使えるか 『論理の用法くらい知っとけ』
>>448 前から気になっていたが、二項相対論理や間接現実って仏教用語なのか?
論理学や哲学の用語ではないし、国語辞典にも載っていないよな
450 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/16(木) 18:25:53.69 ID:cBUFGrQv
>>449 >仏教用語なのか?
時空際断(の直覚)と同じく、アタシ用語でっせ。
2ちゃんねるでも、よそでも通用せんやろなw
直覚?したときに最初に出てきたことばをそのまま使ってるだけ。
451 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/16(木) 18:33:21.00 ID:cBUFGrQv
道元さんも、自分なりに感じ取ったことを ことばを手段として自由に組み替え、逆転し、創造し、 法に、たとえ隔靴掻痒でも、ギリギリまで迫ろうとしている。 凄い迫力だ。 これって、カッコええなあ。 惚れちゃいます。
>>450 造語かいな
そんなものを議論で使われても、
正確な定義は定義した本人しかわからないんだから周囲は何も言えんよ
感覚だけでやり取りするなら、伝言ゲームになるのは目に見えてるだろうさ
453 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 18:49:29.50 ID:wPB8bHyr
>>450 現実が二つあったら、人間社会は瞬時に崩壊する。ちょっと想像してみれば
容易に分ること。
道元さんは、そんなアホナことは言っていない。「現成公案」である。
「しかあるを、水をきわめ、そらをきわめてのち、水そらを行かんと擬する
鳥魚あらば、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず、
このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、
この行李したがひて現成公案なり」。
454 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/16(木) 18:49:37.13 ID:cBUFGrQv
>>452 >造語かいな
スマン。
アタシって不器用なモンで、そこんとこを忖度していただいて、
大目に見てちょ。
ことばって、不完全で不自由で不正確なのに、その指示するものに
実体があると誤解することから苦しみが始まる(らしい)。
感覚でもエエから、だいたいのところを判ってもらえたらエエンです。
455 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/16(木) 18:53:04.28 ID:cBUFGrQv
456 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 19:09:03.42 ID:wPB8bHyr
>>455 道元を学び、座禅でもやって、もっと悟れ。
「直接現実・間接現実」、「勝義諦・世俗諦」などの分別は、無意味な2項
対立。そんな区別はどこにもない。
457 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 19:32:18.00 ID:NP9hx8bC
>>456 現実が2つある例は、脳死は人の死かどうか。
勝義諦としては「死」の概念もまた無自性で空なりと言える。
しかし世俗諦としては、
仏教では倶舎論だったかな、寿と煖と識が離れたところから死が成立すると言われるし、
法律では臓器移植する場合には脳死は人の死とみなされる。
世俗諦とは、「そのようにみなされる」こと。
458 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 19:44:52.50 ID:wPB8bHyr
>>457 死が空なら、直ぐに死んでみろ。絶対に出来ないだろw。
「みなす」とは、「推定」とはことなり、「反証によっても覆されない」と
いう意味。脳死は、人工呼吸設備が完備している大病院のみで起こる例外的
な現象で、脳死者は、ほどなく、間違いなく死ぬ。「脳死者が生き返った」
というのは、「脳死の判定」を誤ったからに過ぎない。脳死は「人の死」なの
である。
【?】です、セブンさんやってきましたよ
>>459 以前、何度も指摘した「貴方の態度」が変わっていないから、再度指摘したのです。
自覚ができませんか?
>>459 もっとはっきり言えば、
「聞かれてもいず」「脈絡上の関係も無く」「オーソドクスな根拠を有するでもなく」、
「ただただ自説を垂れ流すだけ」
という貴方の態度が、質問箱にふさわしくない、と言っているのです。
私が別意見(別回答)を提示する義務が発生する話ではありません。
こんな単純なことも理解できないのですか?
462 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 20:34:04.08 ID:NP9hx8bC
>>458 脳死しても、他の部位の細胞が生きている場合、
その部位を生かす寿(人工呼吸器などが送り込む酸素や栄養などの生かそうとする縁・寿命)、
煖(細胞の活動に伴う熱)、
識(その部分の神経が刺激を受けて働く識)の三つの要素があり、
少なくとも単細胞生物なみには生きていると言える。
> 以前、何度も指摘した「貴方の態度」が変わっていないから、再度指摘したのです。自覚ができませんか? 何が悪いのか? わからないけど?
>>463 お前も、隠居と同じ鳥頭か・・。
処置なしだな・・・。
まず質問に対して
>>461 さんが
的確な意見を提示して
その後に
私が批判を受けると言う順番で良いんじゃなイカ? おじゃる?
>>465 はあ?
おまえ、日本語大丈夫か?
お前の発言が、スレや問いと関係ないことを指摘しているだけなんだよ。
そこに、ワシが別意見を提示する義務は発生しないと言ってんだよ。
んとに頭悪いな・・・。 orz
467 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 20:42:49.30 ID:QOLoQGmT
>>466 向こうにも書いたけど、放っとくしか無い
ほんまもんの天然でしょ、言っても無駄、悪い人じゃないんだが
隠居先生が何を主張しようとしているのか 私には理解できないけど 何かに一生懸命、固執しようと、している、ところには 人間性としては立派な先生であると思います (ただ何を主張したいのかは理解できないけど…)
>>468 w
>人間性としては立派な先生であると
いや、その感性や、そういう「一途」「真摯」「朴訥」な要素自体は評価してもいいかもしれないが、
そのプラス面を相殺減殺してマイナス評価を底上げする内容だから問題なんだよ、彼は・・。
その面で(内容的偏りと押しつけが無い分)、君の方が百倍マシなのは認めるがwww
で、君が質問箱では有害因子であるように、隠居は、このスレに於いてさえ有害因子なんだよ。
少なくとも、≪『仏教』という枠組みや看板の下に置けるものではない≫ということさ。
「スレや問いと関係ない」
と言う事を指摘する時間的な余裕があるなら
まず質問に対して
>>466 さんが
的確な意見を提示してくれなイカ?
と申しているので おじゃる
> その面で(内容的偏りと押しつけが無い分) 私の場合は 小学四年の頃に 落武者の霊を、はっきり、くっきり、目撃したので 私にとって「霊は実在である」という 偏りは、かなり強い と言う事で おじゃる
473 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 21:02:29.38 ID:QOLoQGmT
>>469 おやおや、生命教はこのスレの主役でしょ。
セブンが、このスレを彼のために立てたんじゃなかったか?
生命教の目的は、自分の性欲の正当化と、キリスト教の否定でしょ。
自分か親族がキリスト教系の宗教で、痛い目に遭ったようなことが動機だと予想してる。
実に単純だと思うけどね〜
>>471 さんって中論原理主義の人じゃなかったんですか?
− − −
「生命教の隠居先生は宗教全般に対して怨みがある」と言う事なのでしょうか?
475 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 21:12:53.67 ID:QOLoQGmT
>>474 ものごとが明らかに分からないこと自覚して、
君は質問するだけにして、人の質問には答えたり、
無意味な引用を乱発するのは、止めた方がいいぞ
それがみんなのためだ。悪いけど。
476 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 21:13:06.65 ID:Dut8PZhs
オリンピックも終わって、盆も過ぎたから、また宗教スレに戻ってみたが 相変わらず変わっとらんwww 隠居のバカと、キチガイ? と、 よくわからんが、もしかして大王か?wwww
477 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 21:15:22.19 ID:Dut8PZhs
>>475 それがわかるような奴なら、もう少し進歩してるだろ?
この馬鹿かも、荒らし歴長いんだからwww
>>473 そのことと、隠居の発言が正当であるかは別問題だ。
放射性廃棄物と一緒で、隔離廃棄したはいいが廃棄した先で「完全安全」となるわけでもなかろう?w
勿論、彼の発言や着目点の中に評価すべき面はあるけれども、(何点かは、何度か具体的にレスを入れてる)、
天秤かけたらちょっとね・・w
>>474 >宗教全般に対して怨みが
スレ住人の多くのプロファイリングで共通してるポイント。
だから、良心的な人は、糾弾し過ぎて反省や自己嫌悪をすることになるw
>>476 >もしかして大王
正解。 「摩訶迦葉(の流れ)を批判し、“スコラ部派!”と伝統上座部を揶揄する」閻魔の方だけどw
479 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 21:23:24.72 ID:Dut8PZhs
>>478 大王が二人いると言ってたが、今だにわからんww
>「摩訶迦葉(の流れ)を批判し、“スコラ部派!”と伝統上座部を揶揄する」閻魔の方だけど
これって、ぽったんのスレに登場する大王と同一人物なのかな?ww
もう一人の大王のスタンスがしりたいwww
>>446 苦しみは仮設されるわけですか
ということは慶安という感情は苦しみと同時に感じるということでしょうか?
2つの感情を同時に体験することは脳的に可能なのだろうか
481 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 21:55:29.34 ID:QOLoQGmT
>>477 たまには、言ってみるのもいいっしょ。
>>478 生命教とか、コテいれてくれればいいだけなんだけど
遊びの人は、ちょっと経典読んでる生命教、机、宝珠、カラスってかんじだね〜
コテあるかぎり、問題ないでしょう、勝手にどうぞ、ってかんじ
>>479 それは知らんけど、(おそらく違う?)
もう一人は、かつて「精霊大王」の名前欄。
宗派渡り歩いて、(実際の本式な指導かどうかは不明)、体験重視で評価する。
禅系、上座部のヴィパッサナー系、密教のトランス系等を好む傾向はあるかも。
体験重視故に、キ教仏始宗教問わず批判もするし評価もする、そういう人物。
483 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 22:33:53.09 ID:QOLoQGmT
>>444 苦しみも仮設・縁起・空性ですよ。
悟れば、苦が消えるわけではありません。
悟っても、業が残っているので、苦は現れます。
完全に苦が消えるのは、涅槃した後と解釈します。
>>483 それは語弊があるな。
『 >苦が現れ る 』のでなく、
『通常(=凡夫には)“苦”と認識される感受(事象・現象)はある』
ってことでしょ。
少なくともそのように表明しなければ、入滅前の御様子を説明できないと思うけど?
>>484 補
勿論、
≪ >通常(=凡夫には)“苦”と認識される感受(事象・現象) ≫
のことを、
≪ 世俗的言語習慣に則って「苦」と表現した(→表現せざるを得ない) ≫
(それは、言辞上(世俗的慣習上)「苦」と言われざるを得ない)
と言う理屈はわかるけどねw
486 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 22:47:17.69 ID:QOLoQGmT
>>484 おや、いつもと逆で細かいね
正確にはそうでしょう
最近、言い方にこだわらなくなったんです
>>486 ほうw
>最近、言い方にこだわらなくなったんです
それは、或る意味(→布教、対話、提示etc.に於いても)いい傾向かも?w
488 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 23:01:28.97 ID:KDoFN67u
>>474 >「生命教の隠居先生は宗教全般に対して怨みがある」と言う事なのでしょうか?
史上の宗教戦争、現在の中東の情勢を見ても、宗教が最も多くの殺戮と争いの
原因となったことは自明である。また、例外なく本人と家庭を崩壊させる国内の
カルトによる被害も、極めて大きい。
すべての宗教は、「開祖の盲信」と「生命の軽視」という点で、共通の病理を
有しているから、宗教全体の否定にならざるを得ない。中東の情勢や国内のカルト
被害を目の当たりにして、何の批判もしない、ということこそ、人間として異常で
あろう。すべての宗教にとって、己の宗教と開祖のみが、無批判に賞賛すべき
存在なのである。
なお、私は、日本の仏教である大乗仏教は高く評価しているが、龍樹、道元、それに
中村元博士などを引用すると、袋叩きにする仏教徒が多いのは誠に不可思議。
このスレに、外国の仏教徒が多数紛れ込んでいる証拠である。
>>488 たとえば古神道ならアリなのか?
開祖もなくて自然や生命、先祖を大事にする思想だが
491 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 23:24:39.33 ID:KDoFN67u
>>489 いかなる宗教であっても、行なわれる国の風土・歴史・文化に適応して
修正されるのが当たり前。
>>490 何の問題もないだろ?
>>491 >修正されるのが当たり前。
その通りです。
で、 その『修正された仏教』(それはつまり『日本仏教』ということですが)と貴方の主張は、
「一切被っていない」「別物」だということです。
493 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/16(木) 23:33:44.16 ID:cBUFGrQv
>>480 >苦しみは仮設されるわけですか
知覚記憶による偏執着は間接現実のみの境涯では自己にとってまさしく「現実」であって
仏教理論を振り回して「仮設」などと規定してもまったく意味がありません。
>慶安という感情は苦しみと同時に感じるということでしょうか?
> 2つの感情を同時に体験することは脳的に可能なのだろうか
可能です。
「第二の矢を受けず」の教えは素晴らしい。
『比丘たちよ、
・まだ教えをきかぬ人々は、苦受をうけると、歎き悲しんで、いよいよ混迷するにいたる。
それは、ちょうど、第一の矢を受けて、さらに第二の矢を受けるに似ている。
<間接現実:分別>
・それに反して、すでに教えをきいた人は、苦受をうけても、いたずらに歎き悲しんで、混迷にいたることがない。
それを、わたしは、第二の矢を受けず、というのである。』
<直接現実の還滅(捉え返し・出世間のまなざし):無分別の分別)
(相応部経典、36、6、箭。雑阿含経、17、15、箭。)
494 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 23:35:12.17 ID:KDoFN67u
>>492 その前に、あなたは何処の国の仏教徒?
わたしは、中村博士の線に沿ってる積りだが、中村博士も「一切被っていない」
「別物」ということ?w
>>491 ああ、ちなみに再度(つーか、何度も何人もから指摘されてると思うがw)指摘すれば、
道元、竜樹、中村元を袋井叩きにはしてないだろw (また捏造かw 相変わらず姑息だな)
中村さんについては、「日本語訳に関して難がある(→『恣意的で独善的である』)」ってことだよ。
何度言わせれば気が済むんだ?w
>>494 wwwwwwwwwwwww
お前の言辞と中村さんの言辞を同じだと思ったことはないよw
そんなことしたら中村さんに失礼だw
それくらい、異質だってことだよ。
497 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 23:44:36.53 ID:KDoFN67u
>>495 >(→『恣意的で独善的である』)」ってことだよ。
>何度言わせれば気が済むんだ?w
中村博士より偉い仏教学者が、2chにおられることを知らないで、失礼
したw。
「恣意的で独善的である」のではなく、「直訳ではなく、意味を伝えようと
した」のではないの。外国語の翻訳は、そうでなければならないのだよ。
例えば、言語的に近い英語とフランス語の場合でも、「直訳」は絶対にしない。
直訳したら、ワケわかめ。それは「翻訳」とはいえない。
>>497 またその話かw
何度同じレスをさせれば気が済むんだ?
>>497 一言補足すれば、
「意訳」が無謬であるという感性の方が病んでいると思うがなwwwww
500 :
神も仏も名無しさん :2012/08/16(木) 23:58:32.07 ID:KDoFN67u
>>499 「自分の頭で、現代でも通用する意味を掴もうとした」努力は、評価される
べき。仏典の教えも、「当時の状況における、当時の人々」に対してなされた
ものだから、状況が大きく変化した現代人に「そもまま」持ってきても、無意味
であることくらいは、理解すべきだ。
>>497 ああ、もう一言付け加えておくか。
パーリ仏典の読み方に関しては、ワシの方が中村さんより適切だという自負はあるよ。(これはちょっと言い過ぎかwwwww)
けど、中村さんは専門医じゃないからな。 総合病院の院長(インド仏教全般)でしかない。
それがどれほど危いことか、医療にも詳しい貴方ならわかりますよね?w
外科の専門医が小児内科の微妙な診断を下せるか?ということです。
そして、広く浅くということの弊害を、貴方はガン無視しているということです。
>>499 あほかw
勝手に読んで、それが正当化されるなら、
小学生の読書感想文が書評として成立するってことだ。
努力を評価するなら、過失罪は不要だなwwwwwwwwwwwww
502 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 00:17:34.59 ID:ZkKAFaZa
>>501 >けど、中村さんは専門医じゃないからな。
なるほどね。そういうことか。しかし、身体の場合、全身的に有機的に
関連し合っているから、全体を知らない専門医についても、リスクは同じ。
現在の医学は、身体部位ごとに分かれすぎ。身体は一つなのだから。
やはり全体を知るべきだろう。全体を知れば応用が利くが、部分だけでは
応用力は皆無。
どんな病気でも、死ぬ時は内科的である。
503 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 00:35:55.60 ID:kUbxVDI5
>>484 >少なくともそのように表明しなければ、入滅前の御様子を説明できないと思うけど?
その辺り、よく「釈迦は苦しみながら死んだ。よって、完全には悟ってない。
死によって肉体を滅し、苦を完全に消去し、(死後において)涅槃に達した。」
と言う奴がいるが、(キチガイカラスがその筆頭www)・・・・・
それについては、
→「釈迦は解脱後においても肉体を有すること50年近く・・・・
当然、肉体に関する苦はあったわけだ。切られれば痛みを感じ、腐った物を食えば
腹もこわすと。・・・確かに、それらは凡夫から見れば『苦』であるが、
または世俗的言い回しによると『苦』とされ得るものであるが、覚者にしてみれば
全てが空であるので、それらの『苦』も肉体という、一つの現れ、仮設されたもの
に付随する現象に過ぎないのであって、それらを『苦』と看做すことは無い。
すなわち、全てを空性と了解している覚者にとっては、苦楽の分別無し。
腹をこわした釈迦が、→「苦しんで」死んだ・・・・というのは、
凡夫の世俗視点からの物言いであって、釈迦にとっては、それは苦でもなんでもない。」
・・・・・・・ざっくり言うと、こんな感じの解釈が、仏教の基本的見解であると
思ってたんだが、違うのかい?www
504 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 00:39:47.35 ID:kUbxVDI5
んで、隠居のバカは相変わらず治っていないとwwww (いや〜〜〜〜、いつもどおりだと何かホットするねwww)
505 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 00:43:02.93 ID:ZkKAFaZa
>>503 >凡夫の世俗視点からの物言いであって、釈迦にとっては、それは苦でもなんでもない。」
・・・・・
そんなこというから、釈迦仏教がカルトなのだよ。
506 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 00:47:46.66 ID:kUbxVDI5
>そんなこというから、釈迦仏教がカルトなのだよ。 wwwww 「生命教」というカルトの教祖さまにとってみれば、繁盛している釈迦が 憎くてたまらないと?www わかる、わかるwww
507 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 00:52:10.11 ID:ZkKAFaZa
>>506 釈迦・イエスを含め、すべての人間・すべての生物が、生まれながらに
「生命教カルト」。
すべてがそうなら、「カルト」とは呼ばない。
生命教には、執着すべき個人の開祖・教祖はいないよ。それが宗教との違い。
カルト的要素を持った宗教でなければ、世界的な宗教となることは不可能 世界史に名の出る、レベルの宗教は、その宗教自身が否定しようが、本質的に カルトであることにほかならない。
>>488 隠居先生
> 史上の宗教戦争、現在の中東の情勢を見ても、宗教が最も多くの殺戮と争いの原因となったことは自明である
> また、例外なく本人と家庭を崩壊させる国内のカルトによる被害も、極めて大きい
↑ 了解致しました
隠居先生が
何かに一生懸命、固執しようと、している、ところには
人間性としては立派な先生であると感じるところもあるので
これからも応援させて頂きます
510 :
久しぶりに :2012/08/17(金) 09:58:39.33 ID:avY02h4T
隠居氏の妄想概念「生命」の布教活動ですかw 隠居氏の妄想概念「生命」の存続は、隠居氏が死ぬまで、もしくはボケるまで 存続する、イエス、釈迦がいた頃には、 隠居氏の妄想概念「生命」は存在していない。 これが隠居氏の妄想概念「生命」の欠陥である。
511 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 10:07:41.60 ID:YWsl+p/S
>>510 >イエス、釈迦がいた頃には、
>隠居氏の妄想概念「生命」は存在していない。
イエス、釈迦だけが、その精神病ゆえに悟れなかっただけ。
健常者(生活者、一切衆生)は、皆悟っていた。
生命が妄想であるか否かを判断するためには、自分で死んで見ること。しかし
絶対に死ねないだろ。それが、生命が妄想ではない明らかな証拠である。
512 :
久しぶりに :2012/08/17(金) 10:11:46.50 ID:avY02h4T
私が死のうが、 隠居氏が死ぬか、ボケるかしない限り、 科学概念「生命」ではない、隠居氏の妄想概念「生命」は存続する。 イエス、釈迦がいた頃、または隠居氏が妄想概念「生命」を思いつくまで、 存在しない、妄想概念「生命」は。 隠居氏、きちんと日本語を知覚しましょうw
513 :
久しぶりに :2012/08/17(金) 10:13:51.48 ID:avY02h4T
隠居氏の妄想概念「生命」で 釈迦やイエスの精神病がどのように観測、判定されたか明確に提示できない。 隠居氏の妄想概念の「精神病」である。
514 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 10:17:19.77 ID:YWsl+p/S
>>510 釈迦は、己の我(生命)を以って無我を説くことの矛盾と滑稽さに気付かなかった。
また、彼の「苦概念」は、自ら「中道」に反している。中道なら「苦楽」と
なる。
己の鬱病の症状としての「苦概念」を健常者に植え付けることは、地獄に
堕ちるに値する大罪である。イエスによる「罪概念」の植え付けも、全く同様。
515 :
久しぶりに :2012/08/17(金) 10:20:55.89 ID:avY02h4T
隠居氏は苦を感じない、躁病のようです。 健常者は苦を感じることが無いと思い込み激しいようです。 妄想概念のオンパレードですね、隠居氏w 隠居氏の妄想概念「生命」を説く妄想概念患者は 歴史上、隠居氏以外に存在しません、 隠居氏の妄想概念「生命」は科学的概念「生命」と別の 隠居氏の脳内妄想であります。
516 :
久しぶりに :2012/08/17(金) 10:32:16.70 ID:avY02h4T
妄想概念「生命」妄想概念患者隠居氏のまたのおこしをお待ちしております。
517 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 10:35:26.05 ID:YWsl+p/S
>>515 状況に応じて「苦楽」ともに感じ、己を維持しようとするのが生命。
苦のみを感じるのが鬱病、楽のみを感じるのが躁病。状況に関係なく、
理由無しに、苦と楽を定期的・交互に感じるのを、双極性障害(躁うつ病)と
呼ぶ。釈迦は双極性障害に該当するが、その「異常な観念(精神性)過多」から、
統合失調症も充分に疑われる。
518 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 10:44:44.19 ID:YWsl+p/S
開祖の精神病が、集団的に一大感染した精神医学的現象を「創唱宗教(教祖 宗教、啓示宗教、世界宗教)」と呼ぶ。精神病が感染することは、現代の 精神医学の定説。「感応精神病」と呼ばれる。精神科医は、患者からの逆転移を、 常に極度に警戒する。「信者」とは、開祖の精神病の感染の痛ましい「犠牲者」 のことである。
519 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/17(金) 10:52:09.04 ID:rbptXlKA
>>457 念のために
>現実が2つある
誤解しないでください。
世間(間接現実)と涅槃(直接現実)にはいかなる区別もなく、
時空際断(中道=一切法空:無意味・無価値・無指向・無矛盾・無実体・無相のあるがまま)です。
ブッダや龍樹が、間接現実で提示しようとしたのはこれだけです。
「仏教」ではありえません。
オイラ氏にはこれがまったく掴めていない。だから「分かっていない」が口ぐせになる。
そこには『仏法』(方便)は当然ながら、ありません。
これが直覚(無分別智)できないから、身心を調える(坐る)のです(道元)。
520 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/17(金) 11:11:22.49 ID:rbptXlKA
>>509 >これからも応援させて頂きます
井戸カエルにエサをやらないでください。
それにあなた?の超越妄想趣味は変性意識として
カエルのエサになります。
あなたも二代目金魚カエルの糞ですか?w
521 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 15:54:24.08 ID:OJfezbWI
>>503 食中毒になった釈迦は痛みをこらえ耐え忍んだとあるんだが。
君らの仏教によると、この苦しみも仮設。空なんだとヘラヘラ笑いながら
耐え忍ぶことが涅槃静寂なのれすね。そういうのをただの気の持ちようというんれす。
馬鹿馬鹿しい。
>>521 w
>君らの仏教
残念ながら、それが、伝統であり、主流であり、正統であり、正当なんだよ。(´∀`)b
523 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 16:10:08.35 ID:OJfezbWI
>>522 伝統的、主流といったからとそれが教祖の教えを正しく引き継がれている
とは限らない。それはイエスの教えとは遠く離れてしまっている今のキリスト教を
みればあきらか。智慧のある者なら、仏教に興味を持てば、教祖の教えを発端とする今の
伝統的宗教の教えより、教祖そのものの教えとは何かを探求するものだが、君らは違うんだね。
仏教なんて最初から気の持ちようだろうに 痛覚を消すための特殊な瞑想テクニックや本草医学だとでも思ってるんだろうか
> あなた?の超越妄想趣味は変性意識としてカエルのエサになります 変性意識状態は「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い この体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われる その体験は精神や肉体が極限まで追い込まれた状態とか 瞑想などによってもたらされる 非常にリラックスした状態を心理学上こう呼ぶこともある トランスパーソナル心理学ではこれを人間に 肯定的な効果をもたらすものとして研究する また精神疾患に対する 有効な療法として、一時的にこの状態を患者に与える方法が活用されている − − − 隠居先生の場合は 「変性意識状態は有害である」と主張していたと思うけど?
526 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/17(金) 16:26:16.25 ID:rbptXlKA
>>521 >>522 >馬鹿馬鹿しい
⇒
>>493 まさしく知覚・記憶・分別(間接)「現実」だが、
無分別智の直覚による(直接)現実を透過した者は
第二矢を受けず
>仮設、空
表面の一部だけの生齧り知識を使って的外れは、ブザマだよ。
もっときちんと学んで、質問箱に帰ってください。
議論スレッドに来るのは10年早い、というより来てはいけない。
隠居は枯れ木も山の賑わいで、宝珠とともにピエロとして置いてある。
おじいちゃん、お元気で、もっと馬鹿ぶりを楽しませてね!
認知行動療法 行動療法(学習理論に基づく行動変容法・理論の総称)と 認知療法(認知や感情に焦点を当てる心理療法)との総称である 近年においては 「マインドフルネス」と 「アクセプタンス」を共通の治療要素とする 第三世代の行動療法が展開されている − − − 隠居先生の場合は 「マインドフルネス」とか 「アクセプタンス」などについても 「変性意識状態は有害である」と主張していたと思うような気がする
>>523 >伝統的、主流といったからと
wwwwww
そういう順序じゃネーよw 正当正統なものとして内容が確認されるから、伝統・主流と称し得るんだよ。
んとに馬鹿だなw 言葉に遊ばれてんじゃネーよwww
529 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 16:39:52.15 ID:OJfezbWI
>>526 いくら千の屁理屈をこねても結局気の持ち用で終わる話を
さも高尚な話をしているような錯覚をしている君らの方が
智慧のある者からみればピエロだよ。
530 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 16:43:14.78 ID:OJfezbWI
>>528 必死でつね。クスクス。
で、誰が正当正統なものとして内容を確認したわけ?
エゴの権化の俺様でちゅか?
OJfezbWIが隠居さん?
532 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 16:47:56.66 ID:v7/0KP3y
仏教理論はどういう役に立つのだろうか 物理学の理論のように現実に応用させることが可能なのか?
>>529 谷村有美も歌ってるぞw
「心の向きを変えれば、知らずにパンプスが踊りだす」ってなw
その程度の体験すらないのか・・w
寂しい奴よのぉ・・・(´・ω・`)
真面目に言えばw、その『気の持ちよう』を、
《一時的なもの》でなく《継続させ》、また《適用範囲を広く取る(極大化・普遍化させる)》ために、
瞑想や節制等、まさに「行」があるわけで、それを徹底できないから、在家には困難だと言われるわけ。
この理屈には、何にも難しいことないんだけどね。勿論、高尚でもなんでもない。
(つか、高尚かどうかなんて仏教とは無縁だろ?www)
俗人は生活上困難だというだけの話。 で、ちなみに日本仏教界も、俗人の集まりだから、
上記を徹底できないわけ。
535 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/17(金) 18:24:02.70 ID:rbptXlKA
>>529 >結局気の持ち用で終わる話
女心と秋の空
やっぱり、クサイ臭い(苦しみ)は元から断たなきゃダメ!というのがブッダです。
元の様相が仏法。
もちろん、縁なき衆生で、女心に降りまわされるのもOKです。
536 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 18:44:03.68 ID:xiPsQ/de
釈迦は「苦・苦・苦」と鳩のように鳴き続けるのは、みっともないから やめたがよい。「人生、楽あれば苦あり。苦あれば楽あり」という 真理を悟っていない証拠だから。苦を「排除する異物」として執着する から、苦はますます深まる。 釈迦は、もっと修行して「苦への執着」を捨てよ。
☆ 隠居先生へ ☆ 認知行動療法 近年においては 「マインドフルネス」と 「アクセプタンス」を共通の治療要素とする 第三世代の行動療法が展開されている − − − 隠居先生の場合は 「マインドフルネス」とか 「アクセプタンス」とか 「変性意識状態」などについて どのような見解を持っているのか? ご教示願います
538 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 21:14:50.49 ID:v7/0KP3y
人生に楽もあれば苦もあるのは小学生だってしっている。釈迦がそんなことをわからない訳がないでしょうよ
>>483 >>484 >『通常(=凡夫には)“苦”と認識される感受(事象・現象)はある』
これはどういう状態だろう。
苦に伴う身体的な反応もあるということでしょうか?
たとえば怒りで顔が真っ赤になるということも悟った人でもあるのでしょうか?
>>538 >>人生に楽もあれば苦もあるのは小学生だってしっている。
ならば、楽を大切に生きて行けばいいではないか。
苦を過剰に意識しすぎ。苦も楽もあるがまま受け止めるのが、大人だろ。
小学生っていうか、子供みたいなこというんだな。
>>540 そんなこと言ったら医学者だって心理学者だってそうだわな
みんな病気病気言ってるぜ
あるがままに受け止めるといえば聞こえはいいが、
苦を取り除くための原因究明も努力もしないのは違うだろ
>>541 病気(精神の病気もそう)をそのままにしておくと、目に見えて大変なことになるが、
>>人生に楽もあれば苦もあるのは小学生だってしっている。
とある通り、どこでも遍満している苦や楽をそのままにしておいて
なにか、大変な事になるのか?ならないだろ。
そういうのを、論理のすり替えを言うんだ。全く別の話で無意味。
543 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/17(金) 22:42:04.56 ID:rbptXlKA
>>539 >これはどういう状態だろう。
横やりだが、ちったー自分で必死になって考えろ!
何でも聞けばいいというものではない。
お前はどう把握したのだ?ぎりぎりまで考えたのか?
あんたを見ていると、ブッダの大部分の愚かな弟子連中を思い浮かべてしまう。
ゆとり教育の成果って、こんなもんかw
544 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 22:42:08.05 ID:lxjsyv98
釈迦には「生存努力」という大修行が全く欠けていた。だから最後まで 悟れなかったのである。 不安や苦が、生命の維持に不可欠な心的作用であることに思い足らず、苦を 異物として排除しようとした。人間に不安や苦がなければ、人類はとっくに 滅亡していたであろう。 衆生は、皆悟っていること。
>>542 大変なことって何の事だね?
人類が作ったものの大半は、なくても命には関わらないわな
>>545 >>人類が作ったものの大半は、なくても命には関わらないわな
人類が作ったもの?一体なんの話をしてるんだ?
547 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/17(金) 23:01:56.04 ID:rbptXlKA
>>544 相変わらず、カエルのような知覚記憶オンリーの間接現実固執主義だなw
コードなきメタ・コードからの捉え返しなのに、
俗物コードオンリーからの批判中傷など全く的外れだ。
もっとも、今後とももっと楽しめるピエロ・ジョーク(我田引水)を期待するw
御経とは、心の美しい純粋な者しか唱えられないものである
549 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 23:06:30.21 ID:lxjsyv98
>>547 反論に窮すると、感情的な罵詈雑言しか返せない時点で、釈迦カルトは既に
終わっている。
550 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 23:22:43.27 ID:v7/0KP3y
医者に「腹が痛いんです」と言ったら「痛いも痛くないもないのです。人生に痛みは付き物ですから」と言って治療をしなかったらダメ医者でしょう 痛かったら原因を追求してそれがウィルスによるものか食いすぎによるものか盲腸炎なのか原因を突き止めて治療する必要がある 釈迦が言ってるのはそれだけのこと
>>546 身の回りを見れば、どれも日常的な苦、些細な苦、
どこにでも遍満している苦を取り除くために作られた道具ばかりだろ
どこにでも遍満している苦を取り除くための理論(方便)ではいかんのかね
552 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/17(金) 23:37:31.73 ID:rbptXlKA
>>550 >>551 盲腸炎で死んだ人はいるが、苦しみ自体で死んだ人はいない。
こんな違いもわからないのか。
「人類が作ったもの」を医学の事を言っているなら、十分な医療を
受けれず死んでいった人たちの忘れている。冷血な人間だな。
インフルエンザ一つとっても、医学の重要性は説明不要。
苦を取り除くと言った釈尊は、ゲリピーの脱水症状で死んだが、
医学は、そんな理屈の前に実際に人を救う。十分な医療があれば釈尊も助かっていた。
>>医者に「腹が痛いんです」と言ったら「痛いも痛くないもないのです。人生に痛みは付き物ですから」と言って治療をしなかったらダメ医者でしょう
上で書いた通り、純粋な医学を仏教は、同立には、語り得ない。
楽や苦をあるがままに受け止める話を医学に当てはめている時点で、無理解もいいところだ。
554 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/17(金) 23:40:20.45 ID:rbptXlKA
>>549 反論に窮すると、感情的な罵詈雑言しか返せない時点で、隠居は既に
終わっている。
『コードなきメタ・コードからの捉え返しなのに、
俗物コードオンリーからの批判中傷など全く的外れだ。』(
>>547 )
“正確に”反論せよ。
555 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/17(金) 23:46:51.33 ID:rbptXlKA
>>553 >盲腸炎で死んだ人はいるが、苦しみ自体で死んだ人はいない。
自殺者のほとんどは「苦しみ」という精神要素自体で死んでいる。
最近の一連の“イジメ”がそうだ。
コードなきメタコードを智りえない追い詰められた人々にとっては、
オイラ氏の言うとおり、一切皆苦なら、自殺が一番の「楽」だと誤解してもやむをえない。
隠居は馬鹿すぎる。
556 :
神も仏も名無しさん :2012/08/17(金) 23:47:05.51 ID:v7/0KP3y
>>553 君の理屈だと精神医学は十九世紀までに後退してしまうよ
557 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/17(金) 23:56:22.33 ID:rbptXlKA
>>553 >医学は、そんな理屈の前に実際に人を救う。十分な医療があれば釈尊も助かっていた。
数万人の自殺者を医学は救えない現実がある。
ブッダは直腸がんだ。
十分な医療があっても、肉体的な滅は迎える。
間接現実の限界だ。
>>555 だから、最初から、違う話だと言ってるだろ。
自殺者は、自らを傷つけて初めて死ぬわけで
自殺するほどの苦しみで人が死ぬわけではない。
当たり前だろ。
>>556 私の理屈を見れば分かる通り、ココで言う医学とは、単純な外科内科のレベル
精神科は、入ってない。外科内科レベルの先に、はじめて精神科や仏教が来ると言っているだけ。
生きてて初めて、苦しみ楽しみも出てくる。釈尊は、無い物強請りが強い。わがままで贅沢。
与えられたものを、与えられたまま、受け取る。
それが無為自然。(しかし、これも最低限の衣食住の上に成り立っている)
559 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/18(土) 00:02:22.56 ID:SsTTHE5t
560 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 00:05:59.85 ID:5f/EzRQU
じゃあ黙って自然死したらいいんじゃないかね あーだこーだ言いたがるのや医学にすがって延命しようと言うのは「無為自然」に反するのではないか それも無為自然だと言うならなんでも無為自然になっちゃうでしょう
>>553 私は「人類が作ったものの大半は、なくても命には関わらない」と言ったんだけどな
どういう解釈で人類が作ったもの=医学になったんだか
医学は地上で最も命と関わっているうえ、身の回りにも転がっていない(
>>551 )だろ
562 :
絶対神 :2012/08/18(土) 00:11:09.77 ID:YzHLf3wV
>>553 「精神的な苦しみで自殺したやつは腐るほどいるよ」
『他人から見れば些細としか思えない事でな』
「神仏じゃねーんだから、人間には本当は、楽苦をあるがままに受け止める
事なんて『元々できねーんだよ』」
「んな事できたら、誰も苦労しないんだ」
564 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 00:14:44.16 ID:YjDDvAW5
565 :
絶対神 :2012/08/18(土) 00:17:04.59 ID:YzHLf3wV
>>558 「屁理屈もいいところだ」
『自殺するほどの苦しみを受けるから「人は自殺するんだ」』
「両者は別の事じゃねーよ」
どーして都合よく精神医学を取り除くんだ? (大笑)
「ついでに言っとくと、ストレスだけで人間が物理的に死ぬ事だって
あるかもしれんぞ」(大笑)
『滅多にないがな』w
実際の人生の苦しみについて論じる場合に
「自殺とか精神病を除いて論じることじたいが「無意味」だよ」(そもそも
理屈として成り立っていない)
「人間は最低限の衣食住なんかではな満足しない」
もっと上を元々目指す、お前の言っている事の実戦など、お前にも不可能だ
『ネットが最低限の衣食住か馬鹿』ww
文明にひたりきって、不自然に生きているくせに
「なにが無為自然だっつーの」w
「あまりわらかすなよ」ww
566 :
絶対神 :2012/08/18(土) 00:18:23.17 ID:YzHLf3wV
「ネットをやってる時点で」 『自然もへったくれもねーもんだ』w もうちょっと 「考えてから理屈を言え」(大笑)
567 :
絶対神 :2012/08/18(土) 00:21:35.81 ID:YzHLf3wV
「人生における苦しみとは」 『当たり前だが、物理的な苦しみを抜きにして語れない』(それは 自然に存在する。社会自身も病を苦しみに入れている) 「つまり、「苦しみからの脱却とは」」 『どうしても「超能力」的要素が必要になる』(病気にかかれば 楽しいどころの騒ぎじゃないからだ、到底、病気の苦痛は激しく慢性化すれば 受け入れられなくなる) 「お前の言っている事も、仏教も「基本的に駄目な理屈なんだよ」」 医学と宗教は、もし人生における苦しみからの脱却と言う事を言うなら 『同列で語るべきものだ』(宗教が嘘っぱちだから 現実には成り立たなくなるだけさ)
>>563 それは私だな
そのあとのレスは医学と関係がないけどな
身の回りの道具や、宗教や科学を含む諸々の概念や道具の話をしてたんよ
>>567 間違いが多すぎて、どこから反論すればいいか わからん。
大きく間違いの2つについて言っとくと
医学的に、ストレスが全くない状態などない。
あり過ぎても死ぬが、なさすぎても死ぬこれが、ストレス。
ほどほぼ、これが肝心。
あと、無為自然に対する理解が、空を無と勘違いしてるレベルでひどい。
一生懸命仏教を否定しようと必死な 凡夫
571 :
絶対神 :2012/08/18(土) 00:26:53.94 ID:YzHLf3wV
「ふつう人間が宗教に縋る場合」 『精神的苦しみのみでなく、不治の病にかかった場合などに縋るものだ』 「それにこたえられなければ「意味がある」とは言えない」 『つまり、現実的に言えば、「仏教は無意味」である』 極端な事を言えば、重い病の人間にとっては病こそが人生最大の苦しみなのだから 「治してくれた医者が「神」にもなるだろう」 それから、数は少ないが、極度の羞恥心とか、怒りとか 『精神的な苦痛だけで、脳の血管がぶちきれて「死ぬ」事は本当にあるぞ」
「ふつう人間が宗教に縋る場合」 >> 『精神的苦しみのみでなく、不治の病にかかった場合などに縋るものだ』 なんだ、よくわかってるじゃないか、その時の医療では、直せないとなって初めて、 宗教が出てくるわけだ。あなたでも風邪引いたから、読経は、しないだろ。 だから、これらは、全く別なんだよ。
573 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 00:32:56.49 ID:htxUcrL2
仏教の四法印のひとつである涅槃寂静を忘れてないか? めざすは平安なる滅び。
574 :
絶対神 :2012/08/18(土) 00:35:31.42 ID:YzHLf3wV
「ひとつに大抵の宗教が」 『救いを「死後」に限定しているのも』(仏教も結局、 輪廻からの解脱が「救い」にされてしまった(死後にしか確認しようがないw)) 『現実の世界では、実際には「何をする事も出来ないからなんだよ」』 (ふつうの人間が出来る事を越えてはね) 「そういう意味では、「すべての宗教は人を現実には救えない駄目なものなんだ」」 つまり、この世界には「超能力」は『無い』か、『滅多にない』為 「実際には、「宗教」はふつうの意味では「破綻してしまっている」んだ」 (禅の大家だって自殺する事から判るように、精神的な方面でも大して効力は 本当はない)
575 :
絶対神 :2012/08/18(土) 00:59:42.25 ID:YzHLf3wV
『そもそも、神仏や悟りなんてものがあるのなら』 「理屈の上から言うと」 「この世界が救われていない事じたいがおかしいんだよね」 『なんで病があるの? なんで人々は不幸で苦しむの?』 「なんで戦争で何百万人も死ぬの?」 『なんで、戦争が終わっても「地雷」とかで悲惨なめにあう人がいるの?』 「本当に「神仏」がいるのなら」 『なんでどうにかしてくれないの?』 「俺たちはそこまでされるような酷い事を」 『何もしてないのに』
無明の権化 ここに極まる
577 :
絶対神 :2012/08/18(土) 01:05:10.23 ID:YzHLf3wV
>>576 「無明で当然だ」
『元々そこに万人が納得するような「答え」などないのだから』
「私が仏教が大嫌いな理由は」
『そこに「答え」があるかのような「嘘」を言っている事だ』
仮にあったとしても
「そんな事は「神」にしか判らん」
私は菩薩ではないので 無明の衆生を助けようなんて考えはありません あんたの行く末なんて心底どうでもいいです 好きに生きてればいいよ あんたはあんたで おいらはもうそういうの卒業したけど
579 :
絶対神 :2012/08/18(土) 01:12:55.87 ID:YzHLf3wV
「あんまり長くなるのもなんなんで、ここまでにしとくが」 『宗教にかかわるものというのは』 「どちらにしろ「神仏に対する恨み」というものを抱かざるを得ないし」 「そうでなきゃ逆に『嘘』である」 神仏が実在しなければ、人間は救われないが 『神仏は人類の最大の呪詛の対象でもある』 「もっとも、私は「神」だけどな」(笑)
正直、宗教ってものに万能さを求めすぎだと思うがね 過剰な期待を持っているから、実物を見るとガッカリくるんだろう
581 :
宝珠愚者@温泉ホテルから :2012/08/18(土) 01:21:40.12 ID:vsceupAc
582 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/18(土) 08:26:00.86 ID:SsTTHE5t
>>581 ×
>>363 ⇒〇
>>365 (非無我 非有我,不生不滅:直接現実)
・般若心経は『三世諸仏〜』以下で間接現実的俗物主義根性に堕落している。
・ちなみに、「フリダヤ」はアートマン=ブラフマンを含意していることを見抜く必要がある。
ゆえに、・間接現実において、仏法は無我(アナートマン)にて候(蓮如)
・
>>382 は直接現実の直覚なき者の誤解でしかない。
583 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/18(土) 08:36:10.10 ID:SsTTHE5t
>>582 補遺
>>433 その他も含め願わくは体系的に掴まれんことを。
ちなみに、ブッダの間接現実における合理主義精神からは排斥されるだろうが、
アタシはマントラ(おまじない)は嫌いでもない。
子供じみた根性の人間にはけっこう催眠暗示として効くからねえw
584 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/18(土) 08:54:52.47 ID:SsTTHE5t
あっふぉの神智学ピエロに再念押ししとくけど、 <非(断見断滅) 非(常見恒常)>←直接現実(中道:時空際断)なんやで〜〜〜!w
585 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 09:02:19.00 ID:XfcWPPB3
遊びはスル〜しませう
586 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/18(土) 09:07:18.92 ID:SsTTHE5t
ねえねえ、 かくれんぼして、遊びましょw
587 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 10:17:27.04 ID:EN09wPTl
こらえ切れずに、宝珠が出先から、レスいれてくるとwww
悟った人間は怒りを認識すると顔が真っ赤にになるのか? これを否定するなら、悟った人間は食事を前にしてもよだれがでないことになる。 つまり悟った人間は唾液が出ず消化不良で餓死するので生存不可能ということでよろしいか?
>>588 一行目から外してるでしょw
《「怒り」を「認識」する》ということはない筈でしょ?
怒りを認識する(知覚する)ということは、【そこに既に「怒り」が生じている】じゃないw
その時点で、その人は悟っていると言えないでしょw
或る事象の感受があり、それがどのような果を結ぶかってとこがポイントなんだから。
だから、凡夫ならそこから怒りが生じるのだろうし、
如来に於いてはそこに慈悲が生じるんだと思うよw
日常会話でもよく、「あの人が怒ったところ、見たことないよね」とか「あの人は“できた人”だね・・」
という言い回しはあるだろ?
サイズは桁違いになるかもしれんが、或る種相似形だよ。
また、「唾液が出る」というのは「悪しきこと」「避けるべきこと・厭離すべきこと」なのかい?
「唾液が出る」ということは煩悩なのかい?或いは煩悩を欲望を増長させるものなのかい?
そういう悪縁なのかい? 「食欲」を「貪欲、貪り」に変えるものなのかい?
590 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 11:59:11.15 ID:r21s60Zl
>>589 「如来」の意味は、その語の示す如く、「来るがまま、あるがまま」である。
「戯論(形而上学的論議)を超越し不壊なる仏を、いろいろ戯論する人々は、
すべて戯論に害せられていて、如来を見ない」(中論22:15)
「如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質を
持たない。この世界もまた本質を持たない」(中論22:16)
「では真実のブッダとな何であるか。それはわれわれの経験している世界に
ほかならない」(中村 元)
591 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 12:06:25.44 ID:r21s60Zl
>>590 いちいち五月蝿い奴だなw
書き直すわw
>>588 一行目から外してるでしょw
《「怒り」を「認識」する》ということはない筈でしょ?
怒りを認識する(知覚する)ということは、【そこに既に「怒り」が生じている】じゃないw
その時点で、その人は悟っていると言えないでしょw
或る事象の感受があり、それがどのような果を結ぶかってとこがポイントなんだから。
だから、凡夫ならそこから怒りが生じるのだろうし、
ブッダに於いてはそこに慈悲が生じるんだと思うよw
日常会話でもよく、「あの人が怒ったところ、見たことないよね」とか「あの人は“できた人”だね・・」
という言い回しはあるだろ?
サイズは桁違いになるかもしれんが、或る種相似形だよ。
また、「唾液が出る」というのは「悪しきこと」「避けるべきこと・厭離すべきこと」なのかい?
「唾液が出る」ということは煩悩なのかい?或いは煩悩を欲望を増長させるものなのかい?
そういう悪縁なのかい? 「食欲」を「貪欲、貪り」に変えるものなのかい?
593 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/18(土) 12:28:34.16 ID:SsTTHE5t
>>588 このスレにもヒントがいっぱいあるのだから、
ちったー自分で考えろ⇒
>>543 禅では、『二念を継がず』という⇒
>>493 (ヴィパッサナーという人もいる)
594 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/18(土) 12:45:40.29 ID:SsTTHE5t
>>590 ・中論22-15 : 直接現実は分別知では掴めない
・同上22-16 : スヴァバーヴァ(自性)がない(白いカラスはいないというペテン設定)
・「では真実のブッダとな何であるか。:→非心非仏(直接現実)
れはわれわれの経験している世界にほかならない:→即心即仏(間接現実)」(中村 元)
ゆえに間接現実=直接現実
ここでは、よく中論引用されるけど 中論を根本に置いてる宗教って今 日本に実在してるの? じゃなきゃ、議論が宙に浮いちゃうんだが
596 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 15:07:09.63 ID:XfcWPPB3
>>595 なんで日本に実在しないと浮くのかな?
ここで日本仏教に限定して話してる人は生命教ぐらいじゃないか?
>>596 私日本人だから日本に、ある宗派ぐらいしか詳しく
知らないという意味で、日本に限定したんだけど
別に日本じゃなくてもいいよ
文献だけじゃ、何が具体的な仏教か
分からないから宙に浮くでしょ
中論を根本に置いてる具体的な宗派って
世界的にでもいいけど、まだあるの?
>>597 とりあえずチベットの各宗派は中論その他の中観派を根底に据えているのでは
599 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 18:21:44.12 ID:5f/EzRQU
『八宗綱要』などには八宗の祖を竜樹としているのだから日本仏教の殆んどは竜樹並びに中論の影響を受けてるのでは?
>>598 チベット仏教って、ダライ・ラマの初め、マンダラとかタントラ見たいな、密教的なイメージが強かったけど
哲学的には龍樹の説いた中観派の見解を採用してるみたいだね。
ただ、各宗派共に、仏性を一切有情が本来持っているということを「基」、完璧な龍樹の中観とはいえないみたいだね。
少なくても、上で書かれている。中論などを引用している中観派の人たちの仏教は、チベット仏教のことでいいのかな。
>>599 龍樹は、大乗の祖であって、八宗綱要には、上座部も入っているでしょう。
602 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 18:40:41.31 ID:pKDWh2WG
>>600 八宗:
「八つの宗旨を表すのではなく、全ての大乗仏教の宗旨・宗派のこと。大乗
八宗の祖龍樹菩薩と呼ぶ場合はこちらの意味。」
日本の仏教は、大乗仏教。
悟ったら怒らないのか? 肉体がある限り怒り機能は作動すんじゃないの? ただそれにとらわれずに、そのまま流しながら仏教回路が後追い作動して 同時進行しながらそっちにバイパスしていく感じ?
604 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 19:57:44.16 ID:XfcWPPB3
>>601 仏教は、形式とかは習慣はそんな重要じゃないんだよ。
仏性も空性で中観と何も矛盾しないよ。
矛盾すると考える人が分かってないだけ。
中観は、小乗とも矛盾しないように説かれてるし、
大乗で龍樹菩薩に依らない人はいないよ。
>>593 二矢を受けずですね!
怒りを認識した瞬間に消し去る
ヴィパッサナーにありますね。
>>592 空観、直接知覚で認識される世界は、概念が構成されてない感受しかない世界だと思ってます。
一方中観では世俗的に言語習慣によって仮設された諸認識が可能となる。
ところが概念は仮設されるが、概念から身体的反応は仮設されないとおっしゃるわけですね。
なにかすっきりしないものを感じますがこれは考えておきます。
後段についてですが
都合の悪い煩悩に対してのみ空観、直接知覚を用いる、
見方を選択的に使い分けるということだと理解しました。
ただ、それだと説得力が弱まる気がします。
自然状態が空だから執着しないのではなく、空だと思い込むことで執着を消す
というような印象も受けます。
>>604 いや、龍樹によらない大乗仏教は、居ないことはわかってるし
仏性が、空や中観と矛盾しないのは、知っているけど
龍樹の中観(例えば中論)をそのまま採用してる。現存の仏教を私は、知らないから
あるなら、教えてくれないかってこと。
法相宗(唯識)と龍樹の中観が全く同じだとか言うなら、別だが、私には、そうは思えなくてね。
608 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 20:40:03.57 ID:XfcWPPB3
>>607 >龍樹の中観(例えば中論)をそのまま採用してる。現存の仏教を私は、知らないから
>あるなら、教えてくれないかってこと。
厳密にそのまま採用しているのは、月称菩薩でも違うでしょう。
仏教は、そういう道じゃないですよ。
根幹は外さないが、道も時代や地域などに応じて縁起するのが仏教。
チベット仏教一般と三論宗、天台宗、華厳宗は中論に深く依ってますよ。
真言宗でも中論八不偈を唱えるし。
このようなことを認めないなら、それはアナタが縁起を理解せず、固定的形式的に仏教を捉えようとしていることになり、
それではもはや仏教から逸脱した形式主義、本質主義などになってしまうでしょう。
およそ文献学は、この立場で仏教を捉えようとしているので、マテリアルなテキスト研究や歴史研究以上の成果は、あまり期待できない。
>>608 >>根幹は外さないが、道も時代や地域などに応じて縁起するのが仏教。
ここだよね。 具体的な(時代や地域などに応じて縁起する)仏教を挙げた上で、次に中論などが、来るならわかるが、
いきなり、誰も飲めないようなカルピスの原液出されても困るよ。初めは、飲めるレベルで頼む。
既存の宗派だって、どれも、龍樹の中観(原液)そのまま採用せず、個性豊かな教義で薄めて段階的に教えてる。
その意味で、宙に浮いてるって言ってるのね。上でも、すべて、いきなり原液(中論)から話が始まってるじゃん。
日本の仏教は変質しているというのは本当ですか? 釈尊の教えから大きく変化してしまっているとか 財産を捨てて三衣一鉢で修行するのが仏教ではないのですか? 法事で読経して金銭を貰うのは釈尊の教えとは違うと思うのです 読経の料金表を提示する僧もいるそうですね
611 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 21:02:08.02 ID:34T3Oa7J
>>610 個人的意見です
>日本の仏教は変質しているというのは本当ですか?
教学的にも、断滅見(死んだら無)や汎神論的な誤解が広まっていて、ちょっと仏教とは呼べないですね
>財産を捨てて三衣一鉢で修行するのが仏教ではないのですか?
まあ、そうですけど、日本仏教には戒律がありませんから、彼らはバラモンでしょうね。
在家の修行者(修行してるのか知りませんけど)と捉えたら良いんじゃないでしょうか
>法事で読経して金銭を貰うのは釈尊の教えとは違うと思うのです
法事で読経することと、布施はイコールではつながらない。あくまで、在家が布施する機会の一部なので、
その二つが一致してる現状は違うでしょうね。ただ、法事は仏教ではないというのは違うと思います
>読経の料金表を提示する僧もいるそうですね
論外ですね
612 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 21:04:44.40 ID:XfcWPPB3
>>609 チベット仏教顕教一般と三論宗は中論から始まるといっていいよ。
天台宗、華厳宗、真言宗、チベット密教は、中論が前提となっている、少なくとも空性体験がないと始まらない教えだと思う。
614 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 21:07:13.25 ID:XfcWPPB3
>>610 >日本の仏教は変質しているというのは本当ですか?
本来の教えは基本的に変わりません。
>釈尊の教えから大きく変化してしまっているとか
>財産を捨てて三衣一鉢で修行するのが仏教ではないのですか?
>法事で読経して金銭を貰うのは釈尊の教えとは違うと思うのです
>読経の料金表を提示する僧もいるそうですね
現代日本仏教の実体は、基本的に仏教を学んでるとは言えないでしょう。
しかしながら、スリランカ仏教も文献学で同じようなもんだと思います。
なんか、そうなると、何が仏教なのか わからなくなるな。 実は、本当のユダヤ人が定義不能な様に 仏教も「定義不能」 だったりしてなww
616 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 21:19:44.88 ID:XfcWPPB3
>>615 一言で言えば、縁起に基づく戒定慧ですね
縁起にしても戒定慧にしてもヴァリエーションがありますが、
基本は同じでしょう。
>>615 仏教の定義が人それぞれなんてのは、今更だと思う
だからこそ中論を基準にした相対的な物言いが好まれるんじゃないかね
618 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2012/08/18(土) 21:34:53.64 ID:+nY6Kvgq
(^。^)お前らそんなんでよく隠居を笑えるな?(笑)
619 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 21:36:15.86 ID:34T3Oa7J
>>617 中論が相対論だというのは誤解だと思いますよ
誰も中身を読めてないから、何でも自分の好きな思想を引き出すんじゃないですかね
「釈尊は何も説かなかった」という有名な偈も、「見解を捨てること」を教えているのであって
何でもありですよーというのとは違うと思います
620 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 21:42:30.65 ID:At+AvOHs
>>619 >見解を捨てること」を教えているのであって
説いてるじゃんwww。
621 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 21:48:43.42 ID:34T3Oa7J
>>620 「見解を捨てよ」と説いているのではないと思います
それもまた、ひとつの見解ですから
これは観念論で考えるより、空性を会得した者の境地を現した感興の偈でしょうね
個人的な見解ですけども
>>619 中論が相対論なんて一言も言ってないんだけどな
ついでにいうと、相対論って相対性理論の略称だぞ
623 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 22:03:32.25 ID:34T3Oa7J
>>623 大辞林では認められているのか
それはすまんかったわ
>どういう意味で言ったんですか?
xを基準にした相対的な物言いと言ったんだよ
「仏教ではこうだ」といえば、仏教の定義次第で大きく誤爆するけど、
「中論ではこう言っている」という分には、間違えようがないだろ
中論は、印籠 問答無用! ハハー _○/|_
626 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 22:20:07.93 ID:VzGPMv1/
>>621 この手の教えが説かれる対象は、みんな修行者だったと思います。
在俗信者に説かれたケースって伝承にありますか?
大王さんが愛用する金剛経も釈迦の高弟が相手ですね。
>>624 >「中論ではこう言っている」という分には、間違えようがないだろ
それなら「『中論』を基準に仏教を定義する」っていえば言いわけで、
>相対的な物言い
という表現は要らないんじゃないですかね。。誤解が増えてめんどくさくなるだけで
>>627 そんな我侭言われてもな
自分だけ中論基準で「仏教とはこういうものだ」と語っても、周りが考えている仏教は違うかもしれないだろ
そういうことを言っているんだけどな
>>626 中論は、論理的に戯論寂静を導くにあたって、明らかな飛躍がありますからね。
修行者以外が口頭で追うのは、不可能でしょう。
だから、中論だけでは、根拠としては不十分で、宙に浮いてると言ったんです。
まあ、文献学に限った仏教観ならこの限りではありませんが。
630 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 22:40:38.12 ID:XfcWPPB3
>>619 間接的には見解を捨てることになると思いますが、
主張・見解としてxである、xでないなどという四つの論理形式で断定しなかったという意味だと思います。
あらゆる教えは、戯論寂滅への導きとしての仮設で、「何も」断定して「説かなかった」というような意味で。
631 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 22:47:31.38 ID:XfcWPPB3
>>629 飛躍というのは、論理的飛躍という意味ですか?
でしたら、それは誤解ですよ。
実にキッチリしてます。
西洋論理だと仏教の四句分別の前二者しか認めず、四句分別のない論理項も認めないので、排中律から解釈して飛躍に見えるだけだと思います。
仏教の方が論理がキッチリしていて、射程も広く、西洋論理は唯の観念操作なのに対して現象と一致しています。それが他ならぬ此縁性です。
中論は優れて論理的で美しい論書だと思いますよ。
んー・・・ちょっと分からないですね
>自分だけ中論基準で「仏教とはこういうものだ」と語っても、周りが考えている仏教は違うかもしれないだろ
そういえば中論基準で仏教を定義しろとは仰ってなかったですね。すいません
ちなみに
>>628 さんが考える『中論』像って、どんな感じですか
相対主義的な考えが見える気がするんですけど
>>631 戯論寂静も一種の戯論でしょ。
こういう文字面追ってるだけで、
論理そのものの外に出れるの?
つまり、本読んで理解することと
実際に行動して理解することは別でしょ
修行者が中論で理解するならわかるけど
修行者以外に、いくら優れてて美しい論理って言われても・・・
もしかして、優れて論理的で美しい論書、中論を理解すれば
一切修行しなくても修行者と同じ境地に至れるって言ってるの?
634 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 22:56:35.64 ID:At+AvOHs
釈迦と龍樹とは、「内容的には」本質的に異なっている。一旦釈迦カルトに 嵌った者には、中論を本当に理解することは不可能である。
>>630 >あらゆる教えは、戯論寂滅への導きとしての仮設で、「何も」断定して「説かなかった」というような意味で。
うーん・・・
「ブッダによって、どのような法も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」
とある以上、仮説によって断定的に説かなかったというより、本当に何も説かなかったと読めますが…
636 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 23:04:56.17 ID:XfcWPPB3
>>633 戯論寂滅という観念は確かに戯論。
確かに論理的理解と体得には隔たりがある。
だけど、中論は、戯論寂滅への導きをキッチリした論理で示した書ですよ。
それは確か。中論は論理で示せるギリギリの所だと思います。
それ以上の教えは、空性の体験を前提としているので、論理では分からない部分があります。
その典型が密教です。
いや、中論は、少なくとも禅定・三昧に入れる人のための教えだと思ってますよ。
だけど、論理的な理解は可能な教えです。
>>632 私は単に、釈迦の理論を拡大解釈した(矛盾なく発展させた)としか思っていないよ
矛盾がないとは思うが、その拡大解釈が正しいかどうかはノーコメントだな
事実として言えるのは、大乗仏教の重要な経典の一つとして認められているってことくらいだ
638 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 23:14:05.02 ID:XfcWPPB3
>>635 >「ブッダによって、どのような法も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」
>とある以上、仮説によって断定的に説かなかったというより、本当に何も説かなかったと読めますが…
そこでいう法や人は仮設でない法や人だと解釈します。
でなければ、仮設の法はブッダは確実に説かれていますから、矛盾するでしょう。
上の解釈なら〈「見解を捨てること」を教え〉ることも説けないことになります。
それは可笑しいでしょう。
>>636 >>それ以上の教えは、空性の体験を前提としているので、論理では分からない部分があります。
>>だけど、論理的な理解は可能な教えです。
ごめん よくわからないのだけれど、結局どっちなの?
640 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 23:23:05.45 ID:34T3Oa7J
>>638 >上の解釈なら〈「見解を捨てること」を教え〉ることも説けないことになります。
>それは可笑しいでしょう。
確かに。。
>そこでいう法や人は仮設でない法や人だと解釈します。
>でなければ、仮設の法はブッダは確実に説かれていますから、矛盾するでしょう。
そうですが、ここでのポイントはブッダの教説が仮説だっというより、
この偈自体が、一種の龍樹菩薩のウダーナだと解釈します
空性によって見解を離れた境地を、後になって表した言葉が、
「ブッダによって、どのような法も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」
だったと。
641 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 23:28:59.99 ID:At+AvOHs
>>637 それが「釈迦カルト」である君の「釈迦の正当化」。釈迦と竜樹との
本質的相違は、西欧の学者はこぞって語っている。「龍樹」(中村元著)
参照のこと。
642 :
640 :2012/08/18(土) 23:29:54.28 ID:34T3Oa7J
>>638 追記
『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ることが寂滅し、戯論が寂滅して、吉祥なるものである。
ブッダによって、どのような法も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』
詩句の全体がこのようになっていることも、これがウダーナである証左であるように思います
>>641 大乗仏教は仏教と呼べるかってやつな
ナンセンスな議論だとは思うが、
>>641 みたいなのがいるとそういう話にもなるんだろうな
644 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 23:56:12.35 ID:At+AvOHs
>>643 私は、カルト問題を専門にしているが、カルトは、キリスト教や釈迦仏教は
好んで引用するが、龍樹やその衣鉢を継ぐ道元は絶対に引用しない。
645 :
神も仏も名無しさん :2012/08/18(土) 23:58:53.30 ID:At+AvOHs
>>644 の続き。
釈迦仏教が、キリスト教と並ぶ超カルトであることを、如実に証明している。
すなわち、生来の人格の変容とその結果としての現実性・社会常識の喪失が、
特に甚だしい。
>>644 個人事業主?
年間何件くらい扱ってるの?
大乗経典である法華経や華厳経などはすべて空を説いてるので 龍樹や釈迦やあらゆる菩薩の述べていることが すべて集約されてる 龍樹や世親時代からまたさらに深く入り込んでる 仏教は生き物というか積み木というか 時代や地域に密着して乖離することなく 人々のそれぞれの心に蠢いて醸成しつつある宗教かもしれない
648 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/19(日) 06:33:06.19 ID:bNAXtUsG
>>619 >>630 >見解を捨てる
!!!! m9(^Д^)プギギャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャャーーーッハッハーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ ー !!!!
直接現実(勝義)において、「見解」(←分別)定立はありえない。
捨てる⇔拾う(得る)の相対はありえず、捨てようがない。
ゆえに、ブッダが直接現実における「見解」を直説することはありえない(中論25-24)。
つねに隔靴掻痒たらざるをえない。
649 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 06:34:04.86 ID:m4o1gnaJ
>>639 単純にいえば、中論は論理で分かるギリギリの教え、
密教などは空性体験がないと分からない教え。
650 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 06:38:04.48 ID:m4o1gnaJ
>>640 >この偈自体が、一種の龍樹菩薩のウダーナだと解釈します
これは辛い。それはないでしょう。論書ですから。
>空性によって見解を離れた境地を、後になって表した言葉が、
>「ブッダによって、どのような法も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」
>だったと。
これは私の考え方と同じだと思いますが、要するに目的が戯論寂滅だから、xであるなどと説いてない、戯論寂滅なので法も人も寂滅している。
しかし、そこへ至る道は説いた。
651 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/19(日) 06:41:17.02 ID:bNAXtUsG
龍樹の中論は間接現実において、直接現実を示唆(あくまで隔靴掻痒だが)し、 苦が縁起する執着とその対象(自立・単一・恒常の実体:白いカラス)が空(非有非無)であることを “間接的に”提示した。 直接現実(縁起のあるがままの様相)は無分別智による直覚(現観)でしか掴み得ない。 その様相は無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相という空・中道であって、 執着⇒苦そのものがありえない。 特に「実存」を説く説一切有部の「実存」(←執着対象)を破説することによって、 「実存苦の超克」というブッダの本懐を敷衍・達成したのだ。 もちろん、涅槃そのものも空である。 本質の前に実存があるなどというサルトルなんぞ鎧袖一触である。 本質も実存も非有非無だからだ。
652 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 06:46:59.13 ID:m4o1gnaJ
>>648 相変わらずアホだな、勝義が戯論寂滅なのは二人とも分かってるだろう。
問題はそこへ行く道なんだ。中論で説かれてるのは全て見解を捨てることだぜ。
要約すれば六十二見、さらに要約すれば十四無記、それらの見解を、
八不で捨てる、断じる、遮断する。空性というのはそれを説いているわけだ。
だから、こう言われる。
『中論』13-8:〈空性は見解一切を離れること〉と勝者は説いた。
653 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 07:06:16.30 ID:m4o1gnaJ
>>651 >苦が縁起する執着とその対象(自立・単一・恒常の実体:白いカラス)が空(非有非無)であることを
>“間接的に”提示した。
非有非無は、遮断される見解の一つだよ。分かってないなあ。
非有非無は、明らかに四句分別の一つに他ならない。
非有非無という見解を取るのは、神秘主義か虚無主義で非論理な。
なんども説明しても、つまんない妄想理論に囚われてるから、話しても無駄なんだよ。
全く読めてないってなんで分かんないかなあ。
654 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/19(日) 07:07:22.76 ID:bNAXtUsG
>>652 >中論で説かれてるのは全て見解を捨てることだぜ
相変わらずアホだな
脳の完全破壊がないかぎり、
間接現実において「見解」(分別)を捨てることは不能だ。
分別(間接現実)→無分別(直接現実)⇒無分別の分別(間接現実)
>『中論』13-8:〈空性は見解一切を離れること〉と勝者は説いた。
⇒一切の執着を脱せんがために、ブッダにより空が説かれた。
直接現実(空中道)において、見解(分別)そのものがありえない。
従って、離れるもヘチマもない。離れるという動作そのものがありえない。
離れる者は離れない。
悟りを開いた日本人はおられるのでしょうか?
656 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 07:19:01.30 ID:m4o1gnaJ
>>655 悟りの意味が問題ですが、完全な悟り、等正覚という意味なら、
我々の教えの期間では、釈尊以外出現しないとされます。
そうでなく空性を悟ったというような意味なら、たくさんおられると思います。
657 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/19(日) 07:51:24.07 ID:bNAXtUsG
あのですね、皆さん 仏道は実践であって、 自帰依、法帰依が基本コンセプトであって、 学生の試験じゃないですから、 先生に教えてもらったり、教科書(仏教)通りではアカンのやで。
658 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/19(日) 07:58:50.28 ID:bNAXtUsG
>>653 >非有非無という見解
非有非無は「見解」ではありえない。
だから「神秘主義か虚無主義で」ありえない。
>>657 すくなくとも
佛法僧に帰依してなければ
仏教徒では、ないでしょう
660 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 08:14:43.97 ID:m4o1gnaJ
>>659 スル〜するがよかです。
何言っても無駄。
要するに俺ちゃんが正しいとしか言ってない。
661 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 09:44:01.01 ID:SARnQt4R
>>650 >それはないでしょう。論書ですから。
そうですかね。。ウダーナというのがまずかったですね。無問自説ではないわけで、ある意図を持って編纂されたわけだから
ただ、これは現に空性を体験した龍樹菩薩の、境地の表現と読むのが正しいと思うのですが。
>xであるなどと説いてない、戯論寂滅なので法も人も寂滅している。
>しかし、そこへ至る道は説いた。
ここは同意です。
梵天勧請前のように文字通り、本当に何も教えを説かなかったということはないでしょう。
現に数多くの教えが説かれ、経典として編纂されているから
662 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/19(日) 10:01:29.05 ID:bNAXtUsG
>>660 >俺ちゃんが正しいとしか言ってない
あなたは正⇔誤の両見を離れたのではないのか?
「空見」者は遂に「癒されない人」なのである(中論13-8)
>>659 >佛法僧に帰依してなければ、仏教徒では、ない
アタシは仏教徒などではい。
灯明(洲)は自己&法(仏法)<のフィードバック>であって、
仏教や佛法僧は単なる筏でしかない。
故障していたり、性能が悪ければ捨てるのが当然だ。
まして、到彼岸(直接現実の直覚自得)で、どんな高性能でも捨てる。
中論はけっこう高性能な筏だが、無分別智へのノウハウは記し得ない。
だから間接現実で、マジナイ(マントラ)という非合理主義に
陥ってしまう連中も出てくる。
>>662 >>アタシは仏教徒などではい。(ないって事かなw)
なんだ なら
佛法僧に帰依する仏教徒と
仏教徒ではないが、仏道は実践するもの
で住み分けできてる
言い争う必要なんてないじゃん
664 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/19(日) 10:18:31.22 ID:bNAXtUsG
>>663 ああ、それなら沈没確実の筏に乗って溺れるがいいさw
仏教と仏法はまったく違う。
一休がなぜ当時の大徳寺体制をボロカスに罵ったと思うのか、考えるがいい。
五蘊非我ですが なぜ非我なのでしょうか?その理由が示されてないように思うのですが?
>>665 経典には明確に示されています
一例を挙げると、五蘊は無常で変化するものだからです
無常で変化するものはアートマン(我)足り得ません
非我(アナートマン)とは「アートマンではないもの」という意味です
>>666 示されてましたね。その無常で変化するから我でないというのがわかりません。
変化するからと言って五蘊は決して他人の物ではありません。私のものです。
私に属しているという判断は変化しません。
>>667 これは僕の解釈です
五蘊が属している「私」があるとき、初めて五蘊は「私のもの」と言えるのではないですか?
「私」なるものは存在しません。意識さえ「私」ではない。ゆえに五蘊は「私のもの」ではありません。
>私に属しているという判断は変化しません。
本当にそうでしょうか?
常に新陳代謝し、一瞬たりとも固定せず、構成要素が入れ替わり、捨てられていくものが、「私のもの」でしょうか?
669 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 13:30:51.46 ID:3ojbirpr
ご隠居の見解はさておき 世俗勝義の二諦を置いたナーガルジュナのアイディア自体は秀逸だと思いますね。 これによって修行者は悟った人が説く究極的な「真理」と世俗の習俗の分断に悩むことなくどちらをもバランス良く学び修める事が出来る訳ですから
670 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 13:57:59.11 ID:TtKE7aoQ
>>664 クラウンにあるレスです
机さんはあなたが大好きなようです
↓
637 机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. 2012/08/19(日) 13:43:09.67 ID:VRBlmTG0
今、仏教議論スレをロムってみたんだが、
「遊びをせむ氏」はバリバリの禅宗でオモシロイですね(#^.^#)
彼の文意の行間を読み取るスキルがないと・・・
非常に難解です(笑
私には手に取るように分かるんですがね。
あのスレッドでは、こういうレベルの高い書き込みは無理です(笑
671 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 13:59:35.11 ID:TtKE7aoQ
>>668 たしかに属してる「私」とはいったい何であるかといえば、
これだというものはありません。
しかし、「私」に属してる、他人のものではないという判断は常に変化しません。
それをもって「私」があると一般的には認識、表現されていると思います。
>構成要素が入れ替わり
物質的にはそうです。ただ「私」に属しているという判断はかわりません。
世界3秒前仮説という思考実験がありますが、
「私」に属しているという判断が脳に書き込まれていれば、
絶えず入れ替わろうがその都度私は認識されます。
>>672 ヨーガではアートマンを認めるが、仏教では無記なんだよな
デカルトを引用するまでもなく、私というものの根源は意識だが、
意識が脳によって作られるとすれば、
私を認識する意識自体が、脳の状態や構造から縁起した仮設的なものでしかないことになる
その辺りと関係するんじゃないかね
674 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 15:14:21.40 ID:6hYj/2uy
>>673 「それしかないもの」を、いくら「仮設」「幻」と言い換えてみても、無意味で
滑稽なだけ。内容は、ちっとも変わらない。「仮設」は、戯論の典型。
>>674 表面的に見ればそうかもな
酸素とO2の区別がつかないようなもんだ
676 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 16:37:45.04 ID:k8teVprR
>>674 「それしかないもの」でも見方が変われば価値判断が変わる。
日常生活の中で「それしかないもの」に対する価値判断が変われば成功。
今まで怒ってたことに怒りを感じなくなったり、
今まで悲しんでいたことに悲しみを感じなくなったり。
677 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 16:45:54.48 ID:tyFdqQF7
>>676 >今まで怒ってたことに怒りを感じなくなったり、
>今まで悲しんでいたことに悲しみを感じなくなったり。
それでは「人間」が「人間」ではなくなり、「化け物」になっていしまう。
「怒り」も「悲しみ」も、生命の維持に不可欠だから存在していることに、
思い至る必要がある。
>>672 >それをもって「私」があると一般的には認識、表現されていると
ここ↑、最重要ポイントだぞ〜w
>>672 また、そういう「私」って“どこに”“どうやって”居る(ある)の?
679 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 16:53:50.81 ID:k8teVprR
>>677 どうせみんな死ぬんだから、
「化け物」として快適に過ごして
平安に滅んでいけばいいじゃないですか。
680 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 16:58:38.44 ID:tyFdqQF7
>>678 >また、そういう「私」って“どこに”“どうやって”居る(ある)の?
他人に聞けw。人間も他の生物も、徹頭徹尾共同体であることに思い至ること。
独りでは、そもそも存在し得ない。
681 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 17:00:15.46 ID:tyFdqQF7
>>680 の続き
「個は他との関連においてのみ存在する」。これが大乗仏教の真髄。その真髄を、
龍樹が初めて見出したのである。釈迦ではない。
682 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 17:03:13.95 ID:k8teVprR
現実的にはありえない難しいことだけど、 仮に、あらゆる生命が涅槃に入ったらどうなるか。 それは、生命がすべて滅ぶということ。 涅槃寂静は仏教の旗印。 平安なる滅びこそが究極の幸せであるという、価値観の大転換。
683 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 17:06:27.61 ID:tyFdqQF7
>>682 ならば直ぐ死ねば一番よいのに、絶対に死ねないのは何故か。釈迦も80過ぎ
まで生きながらえて、生を楽しんだw。
684 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 17:25:17.87 ID:tyFdqQF7
釈迦が80過ぎまで生きながらえて生を楽しんだことは、彼の「実存苦」なる ものが全くの誤りであったことを、如実に証明してるねw。 彼は「苦」を説くことで、生を「楽しんだ」のであるw。
>>684 どうして釈迦が苦を抱えていたと思うんだ?
悟ったものにとって苦は存在しないってのは仏教の大前提だと思うけどな
いつ涅槃に至ってもよかったけど 衆生を導くために、現世に残ったつーのも 後世の信者の付加物だな
687 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 17:37:37.65 ID:tyFdqQF7
>>685 苦のない釈迦がどうして苦を説ける?「作り事」か?w
>>662 >まして、到彼岸(直接現実の直覚自得)で、どんな高性能でも捨てる。
その意識と姿勢だけは評価しておきます。
恐らく、両極端な二つの姿勢がある。
一つはバリバリの全面的従属型の信仰者の道。
そしてもう一つが、こういったある意味で達観的なジュニャーナの道で、
方法論には依らない自己実現の歩みです。
>だから間接現実で、マジナイ(マントラ)という非合理主義に
>陥ってしまう連中も出てくる。
神智学がインドから見出した
“20世紀の仏陀”とも評されるクリシュナムルティがそういう教え方をする典型です。
しかしながら、そういう極端な姿勢も一つの見解の固執に他ならず、
史上最強の意識姿勢というのは、ギータの中のクリシュナの教えにあるのです。
『おまえは義務的行為を行え。なぜなら、行為は無行為にまさるから。行為がなければ、
おまえの身体を維持することさえおぼつかないであろう。』(『バガヴァッド・ギーター』3:8)
http://2chnull.info/r/entrance2/1270611666/185-186
>>687 昔、英語の勉強で苦労した大学生が、
今苦労している中学生に英語の勉強を教えるようなものだろ
690 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 17:51:11.18 ID:tyFdqQF7
>>687 「中学生の(家庭)教師」程度では、大した英語力もないなw。
語学の勉強は、常に「継続中」。到達点などない。「マスターした」
などと思った時点で、まだ不完全であることを示す。
691 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 17:55:50.96 ID:tyFdqQF7
692 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 18:05:50.56 ID:3ojbirpr
我は他との関連で存在するように他も我との関連で存在する つまり絶対的な善人や悪人は存在しない
>>690 あなたには目標も立てずに学習する癖があるってだけだわな
釈迦の目的は何で、釈迦が達成したものが何なのかを考えてみるといいよ
694 :
668 :2012/08/19(日) 18:17:08.90 ID:SARnQt4R
>>672 >「私」に属してる、他人のものではないという判断は常に変化しません。
判断が、常に変化しないというのは本当でしょうか?
熟睡しているとき、麻酔で意識を失っているとき、「私」や「私に属している」という判断はありません。
>絶えず入れ替わろうがその都度私は認識されます。
絶えず入れ替わり、実体がない、同一性のないものを、ただ「私」「私のもの」とラベル付けするのは
錯覚でしょうか?真実でしょうか?
どう思われますか?
695 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=16,xxxPT】 :2012/08/19(日) 18:17:58.50 ID:8fAh1f0w BE:684354252-2BP(3)
質問です。 浄土真宗なんですが、 仏教で母親と議論したら、論破されちゃいまして。 質問は、浄土真宗の仏壇の中央の絵は、釈迦如来なのか阿弥陀如来なのか? ということです。 左右の絵は、阿弥陀如来と薬師寺如来に決まってるとおれが主張したら、 母親が通ってる仏教セミナーの本を見せられて、 左は蓮如、右は親鸞の絵が描いてあるというんです。実際、確かめたら、蓮如と親鸞でした。 うちには、寂如の書いた仏教本が古書として仏壇にあります。
>>695 浄土真宗は詳しくないけど、本尊は阿弥陀如来でしょ?
左右はまあどうでもいいが、本尊は阿弥陀如来でないとおかしいと思うが
697 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=16,xxxPT】 :2012/08/19(日) 18:53:27.57 ID:8fAh1f0w BE:273742122-2BP(3)
>>696 やはりそうですか。
正式には、絵ではなく、文字で南無阿弥陀仏と書くらしいので、阿弥陀如来が濃厚です。
流れを読まずに 人間の感じる時間と物体の持つ絶対的な時間にはかなりの差があると思う 56億7千万年って推定の太陽系の寿命だからセンスあるわ あと数億年のうちに宇宙に出ないと今の地球の生物絶滅ですよ社長さん
苦しみを知ることは改善点に気が付くということで、進化するためには 必要なように思うんだけど、釈迦は苦を取り除くために進化を否定したんじゃろか? 生命とか進化を否定してるような意見と、進化を維持するためにバランスを とろうとしたような意見に分かれてるように思うんですが。 皆さんはどう思いますか? 僕は後者だと信じたい(藁
宗教戦争やってる場合ではない。もう数千年やってるけど。子供に変なこと教えないで
>>656 悟ったと証明する方法はありますか?
大変失礼ながら、釈尊が修行完成者だという根拠は何ですか?
悟りの定義を満たすものが悟ったものである。そんだけ
703 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 19:48:10.31 ID:SNNuxxFd
704 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 19:48:13.23 ID:m4o1gnaJ
>>688 >“20世紀の仏陀”とも評されるクリシュナムルティがそういう教え方をする典型です。
仏教の聖者で認める人はいないでしょう。
>>699 進化というセム的概念を持ち込むこと自体可笑しいでしょう。
そういう発想とは全くことなります。
>>701 凡人にはありませんね。
信じるか信じないかです。
あくまで私は仏教の伝統、テキストで説かれていることを述べているだけです。
その真偽は論じていません。信じられない方は信じなければいいだけです。
今の地球を維持するだけならこれまでのプロセスを短縮してさっさと作るだけ
それっぽいネタをサンライズに持ち込めばガンダムはあと1000年行ける
707 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 20:23:59.28 ID:SNNuxxFd
>>704 現代では、小学生でさえ、「人まね」ではなく、「自分の頭で考える」
ことを学ぶ。
仏教的な「たましい」があればいいのなら金属人間だって良いのか?
どっかの手塚治スレに書いたけど光合成して自家発電する植物デンキナマズ人間を遺伝子操作で作るか
710 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 20:30:28.34 ID:3ojbirpr
釈迦なんてアホやろと言う所から始める事は有用かもしれない。 自分の頭で考える為にはね
>>708 仏教的には、アトムもトランスフォーマーもレプリカントも「衆生」だよw
人間にえらとか酸素以外の代謝もできるようにすれば酸素が無いとか水中でもおk
そもそもミトコンドリアが他の機能を持ったか取り込んだのが単細胞生物らしい
そこにあるのは結論があって初元が分からないという問題
715 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 21:19:56.75 ID:SNNuxxFd
>>710 >釈迦なんてアホやろと言う所から始める事は有用かもしれない。
>自分の頭で考える為にはね
それも極めて危険。何時の間にか釈迦の精神病が感染して「自分の頭で考える」
ことが出来なくなる。「触らぬ神に祟りなし」w。それがカルト洗脳のお決ま
りのプロセスです。
カルト宗教みたいなのが商売でもあるわ
717 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 21:32:38.23 ID:3ojbirpr
自分とは他人との関係の中で生じるのだろう だったら純粋な意味で自分の頭で考えるなんてことはあり得ない。
718 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 21:39:28.11 ID:3ojbirpr
釈迦がいてこそ反釈迦もありえる 釈迦がいなければ反釈迦もありえない 反釈迦の思想は釈迦の思想に依存している 私の思想は私以外の思想に依存している
719 :
神も仏も名無しさん :2012/08/19(日) 22:17:56.79 ID:921pnEKI
720 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/20(月) 11:17:11.80 ID:kknRWx3l
>>688 >史上最強の意識姿勢というのは、ギータの中のクリシュナの教えにあるのです。
>『おまえは義務的行為を行え。なぜなら、行為は無行為にまさるから。行為がなければ、
>おまえの身体を維持することさえおぼつかないであろう。』(『バガヴァッド・ギーター』3:8)
仏法には、無我にて候(蓮如) (
>>365 特に
>>433 )
義務的行為(クリシュナにとってはカースト的義務だ←奴隷思想)などありゃーせん。
間接現実において、
縁起撥無のクリシュナのような戯論、の消滅というめでたい仏法(直接現実)を示唆されたブッダに
あらためて、感謝と敬礼の意を表明する。
>>720 仏法は、無我でなくて非我
不完全な帰謬法では、無我は
証明できんよ。
戯論を使って無我とこじつける事は
出来ても、論理的には、破綻してる。
722 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 11:44:45.18 ID:p2NVvq93
>>721 いろいろ問題だけど、二点
なぜ、証明しないといけないのか?
龍樹菩薩の無我論証は認めないのか?
>>699 >苦しみを知ることは改善点に気が付くということで、
>進化するためには必要なように思うんだけど、
それこそ神智学の提示する教えそのもの。
確かに、輪廻転生と人間の苦悩は必要あって生じています。
経験を通して進化するためです。経験し、更にこれを超えていくのです。
当然、流転変滅を繰り返す現象界も必要あってそのように生じている。
そして、これら物質現象界を超越していく・・・。
>>704 >>“20世紀の仏陀”とも評されるクリシュナムルティがそういう教え方をする典型です。
>>688 >
>仏教の聖者で認める人はいないでしょう。
現在の仏教徒たちは、
寺院において(高僧によって認定されて)排出する者以外に
覚者を認知することはできないでしょうね。
一応、ここで誤解が生じないように補足しておきます。
“20世紀最大の巨人”や“20世紀最高の覚者”、“孤高の哲人”などと評されるクリシュナムルティですが、
もちろん、これらは仏教的に認められた仏陀ということではなくて、
もっと一般的で広義的な評価であり、特に“精神世界”と呼ばれる分野のカテゴリーにおいて顕著です。
彼をマイトレーヤの顕現(器)として世界の全面に押し出そうとしたアディアール派 (ブラヴァツキーというよりは、二代会長ベサント色濃厚の『神智学協会』現主流グループ)の人々と、 協会退会後の彼を信奉する直接的なグループの人々は確かに、 クリシュナムルティをニルヴァーナに到達している本物の完成者だと見ていることでしょう。 私は違います。 クレーム派から得ている情報によれば、 クリシュナムルティは第三段階のイニシエートとして1895年に生誕し、 49歳のときに第四段階のイニシエーションを受けた(仏教の説くニルヴァーナ境地は第五段階)。 恐らく、そのジュニャーナ的な勝義一辺倒の見解、 それ以外をまったく認めない偏狭性と固執が彼にとっての最後の足枷(最後の壁)になっていると、 この私は見ています。 一見すると、大王も似た印象を放ってはいるけれども、 彼の場合は単なる勘違いからきている。
726 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/20(月) 11:51:20.89 ID:kknRWx3l
>>721 >仏法は、無我でなくて非我
間接現実において、
・一切内無我
・一切外無記
直接現実において
非無我非有我
727 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=16,xxxPT】 :2012/08/20(月) 12:02:44.82 ID:8Gbz7brW BE:1094966944-2BP(3)
ここで聞くのは不適切かもしれませんが、 イスラム教のアラーが万物の創造主だという記述はクルアーンにあるんですか?
>>722 >>なぜ、証明しないといけないのか?
>>龍樹菩薩の無我論証は認めないのか?
これを、別の言葉に訳すと
「あなたは、神を信じますか?」「アーメン」
となる。
>>726 それなら、いいんだけどさ
あなた以前、間接現実=直接現実
みたいなこと言ってなかったか?
>>727 それは、コーランによらなくても旧約聖書に書いてあるでしょ
729 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/20(月) 12:15:26.23 ID:kknRWx3l
>>725 >一見すると、大王も似た印象を放ってはいるけれども、
>彼の場合は単なる勘違いからきている。
にーちゃん、文句あんなら、詳しい話を聞かせてもらをーやないか。
もっともヤボ用でしばらく出かけるけど、ちゃんと書いといてや。
730 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/20(月) 12:25:10.47 ID:kknRWx3l
>>728 >間接現実=直接現実
そうやで。(龍樹 中論25-19・20)
縁起の現実(あるがまま)において、直接vs間接の区別は一切ない。
龍樹が必死になってなんとか示唆しようとしたとこや。
>>730 個人的には、龍樹の結論と論理には、かなり懐疑的なんだが
それを、気にしなければ間接現実=直接現実は、何の問題もないね。
ただ、一つでも例外が見つかれば、簡単に崩れてしまう様なものを、
絶対の真理としてに扱うのは、関心しないな。
だからこそ、仏教の世界観を十八界までに限定し修行者前提の教え
としてかなり制約を付けていたのかもしれないけど。
732 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 13:27:45.12 ID:p2NVvq93
>>728 >>>なぜ、証明しないといけないのか?
>>>龍樹菩薩の無我論証は認めないのか?
>
>これを、別の言葉に訳すと
>「あなたは、神を信じますか?」「アーメン」
>となる。
答えになってないねえ。
分かんないの?
733 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 13:29:01.75 ID:p2NVvq93
>>732 >>733 仏教の(まあここは、龍樹に限ってもいいや)証明では、
=無我の証明にはなってないって言ってんの。そんだけ。
>>722 で、最初に
>>なぜ、証明しないといけないのか?
見たいに、証明不要論唱えてる時点で、アナタ信者でしょ。個人的に盲信するなら構わないけどさ。
>>龍樹菩薩の無我論証は認めないのか?
で話すなら、認める認めないなんてレベルの低い信仰の話はしてない。
龍樹の論理だけを追って、無我に結論付けられるのか否かの問題。ここまで理解できる?
735 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 14:08:53.06 ID:p2NVvq93
>>734 >龍樹の論理だけを追って、無我に結論付けられるのか否かの問題。ここまで理解できる?
まあ、君とかはどうせ同一律とか実在論を不当前提として、龍樹菩薩の論理が分かんないと思うんで、いいけど。
石飛道子『龍樹と語れ』を読むと無知が自覚できるかもよ〜
736 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 14:29:21.24 ID:2T0+Rgg2
>>735 石飛さんは、単なる釈迦信者。龍樹の「空」を「因果関係」としてるが、これは
専ら釈迦の忌むべき業報論を維持するため。「空」などどこにも成立しない。
「相互依存性・関係性」により、「因果」の概念を否定したのが、まさに龍樹の
「空」である。
>>736 中論で二諦が示されている理由に、まだ気付けないんだもんな・・w
738 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 15:01:08.47 ID:2T0+Rgg2
>>787 二諦は、勝義は「世俗的なことにもとづかなくては」説示できないのだから、
結局は世俗諦に還元される。竜樹はそんなアホな2項対立(戯論)はやらない。
中論25:19、25:20を味読せよ。ここから、大乗仏教の「煩悩即菩提」
「生死即涅槃」の思想が発生する。
>>738 w
貴方のその読み方は何度も反証されたでしょう?w 懲りない人ですねぇ・・・(^^;
また、支持する学者さんの説も、古尊宿の言葉も無い筈ですけどねぇ・・w
どこかに居ます?貴方と同じ考えの大乗仏教の学者さんや大乗仏教僧侶がw
>結局は世俗諦に還元される
wwwwwwwwwwwww
そういうのは「還元」と言わないと思うんだが、どこの国の日本語をお使いで?w
740 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 15:28:35.84 ID:p2NVvq93
>>739 なぜ、語りかける?
どうせ意味なんか分からないというか、分かろうともしない人に
741 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 15:54:10.62 ID:2T0+Rgg2
>>739 他人の見解の「借り物」ではないから、君たちには分らないだけw。
還元:
「根源的なものに(再び)もどす、またはもどること」(岩波国語辞典 第7版)
とりあえず過去の人と同じことを言って過去の人を持ち上げておけばそこそこの人になれる
743 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 16:00:48.19 ID:p2NVvq93
>>742 そういう日和ったポジションを狙うヤツは完全な売僧ですなあ
まさに護摩すり
745 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 16:12:24.41 ID:kXGy3qBD
何とか菩薩っていうマイトレイヤーの概念が出ていて 末法から来たんだろうけど世の中が終わることが書かれている。 概念として最終戦争ハルマゲ丼はあったが科学的にも物理学の発展で最近出てきた。 最近と言っても30年ぐらい前の漫画ですでに子供にも分かるように書かれている。 重力引力を自由にコントロールして光年単位を飛ばないといけませんが 動力が太陽と同じく核融合か理論のみ存在する多くの他の方法になるのか分かりませんが そのうち人類はスターヲーズみたいに宇宙にはびこるんでしょうか?
747 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 16:21:04.07 ID:yYr+Meyf
中論25:20 ニルバーナの究極なるものは即ち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なるいかなる区別も存在しない
748 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 16:38:04.77 ID:yYr+Meyf
普通に解釈すればニルバーナは輪廻の究極的な終着点にある と言うことだと思うけど
>>729 >にーちゃん、
私は“おっさん”!
>ちゃんと書いといてや。
あなたが中論を引用する度に何度も指摘してきた通りです。
それらの単なる思考(の理解)によっては、中論の説く真理に到達することは不可能ということ。
このような勝義一辺倒の陶酔姿勢の最大のマイナス点は、
つまり、何もしなくなること。
実践的行為(修行)を無用のものと勘違いを犯してしまい、
結局、その人の境地には変化は無く、単に知的理解が一つ加わっただけに終始するということ。
この唯一の利点は、ドグマ(教義)と方法論に対する捉われと固執に陥ることがないという部分です。
確かに、これは大きいといえる。
これで言ってる意味が分らないなら、話しても無駄です。
>>726 >間接現実において、
>・一切内無我
>・一切外無記
これは問題なし。
750 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 17:43:29.01 ID:zUEyAMmb
>>748 修行などやって輪廻から解脱する必要は無いし、解脱などしたらいけないという
ことだねw。解脱したら、涅槃に至らないw。
751 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 17:49:40.94 ID:zUEyAMmb
龍樹は、本当に凄いな。
>>750 では輪廻の中で苦しめと?
そんな教えのどこがスゴイのか分かりません
輪廻の究極は解脱とは違うの?
754 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 19:45:02.35 ID:No9aExJo
>>752 「輪廻」は、文字が示す如く「廻り回り」。つまり「楽あれば苦あり。苦あれば
楽あり」という人生の姿そのもの。その中で生きて「生の喜び」を味わう。
「苦楽(輪廻)のない涅槃」は、「地獄」の別名。涅槃は輪廻であってこそ、
涅槃なのである。それが、中論25:19、25:20の意味である。
755 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 19:57:09.97 ID:No9aExJo
>>753 「究極の」とは、「最後の」の意味ではなく、「根源的な」「根本的な」「本
質的な」の意味だろう。中村訳とは異なり、平川訳には、「究極」の語はない。
ちなみに、平川訳を下記に示す。
「生死の世界は涅槃といかなる区別もない。また涅槃も生死の世界といかなる
区別もない。」
「涅槃の限界がそのまま生死の世界の限界である。この両者の辺際には、何らの
微細な区別もない。」
釈迦も龍樹も涅槃やら空やらと 高説を言うだけ言うが どうやっておれたちが涅槃に至れっていうんだよ なんぼ冥想したところで輪廻なんて脱出できない
757 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 20:04:35.98 ID:No9aExJo
>>756 釈迦とは違って、中論は、「涅槃からの脱出(解脱)」などというアホナことは
言っていない。「輪廻」がそのまま「涅槃」なのだから。
隠居は、中村さんと平川さんとどっちを支持するかな?w
楽しみw
つか、 「それらは最終的に“最後の”という意味になる」とか言いそうw
>>755
しかしきみらの高説を聞いていても 心静まることはないもんだな ちっともありがたくない
760 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 20:11:01.56 ID:p2NVvq93
761 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 20:11:02.71 ID:No9aExJo
>>756 輪廻の世界(現世)がそのまま涅槃であることを自覚することを「悟り」という。
「煩悩即菩提」「生死即涅槃」。
762 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 20:17:29.79 ID:No9aExJo
>>760 「限界(end)が同じ」「両者は全く同一」ということ。
って、755が本人だったのかwwwww テラハズカシスw (*ノノ)
学者の本とかただの睡眠薬だろ よく眠れるわ なんだよこの世が涅槃て? なわけねーだろっての
765 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 20:21:10.19 ID:No9aExJo
このようにして、勝義諦は世俗諦に「還元」される。両者の間には、如何なる 微細な相違もない。
766 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 20:23:32.84 ID:No9aExJo
>>764 悟ればこの世が涅槃になるのだよ。衆生は皆悟っている。悟れなかった
のは釈迦だけw。
世間のやつらが悟ってるわけねーだろ なんで犯罪や戦争が怒るんだよ?
768 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 20:29:14.61 ID:p2NVvq93
>>767 生命教は、自分の欲望を正当化するために妄想読みで屁理屈捏ねてるだけだから
ほんと可哀想な人です。
769 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 20:37:28.66 ID:No9aExJo
>>767 犯罪や戦争があっても、衆生はその合間にはささやかな楽を見出している。
犯罪も戦争も争いも一切ない世界を想像できる?それって地獄じゃない?
「苦」があるから「楽」が、「争い」があるから「平安」が存在し得るのだよ。
「相対性ならざるものはない」(中論)。これが中論の中心思想。
ちんけな楽しか見出せないんだけども これが涅槃か? おれも悟ってんのか? あほらしくて涙でてくる 日本のみんなが 悟ってるならなんで自殺者が年間3万人なんだよ? あ〜ますます闇が深くなってきたわ お前らって奴は
771 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 20:56:22.09 ID:p2NVvq93
>>770 流れ嫁カス
輪廻と解脱をどのように捉えるのか、また、中論をどのように読むべきなのかって話をしてるところに
横から言葉端を切り取って噛み付くなよ
知らないんだったら知らないんで黙ってるなり、わからない所を聞くなりにしておけよ
カスとか平気で人に言うが おまえらは自分をカスだとはおもわんのか?
774 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 21:22:22.27 ID:p2NVvq93
>>773 2ちゃん語かもしらんが、複数形二人称はやめてくれ〜、といいたい
>>770 解脱するってことは今とは変わるってことだよね
わしらは変わらないといけない、もしくは変わっていくのが普通な存在
なんだと思う。
だから闇が見えるってことは変えないといけないところが解ってるって
事だと思う。
その時点で悟りに向かっている存在なんだと思うんだが。
悟りに向かっている時点で悟りの一部なんだと思うんだけどダメ?
永遠の平安であって永遠に変化しないことではないんだと思う。
776 :
神も仏も名無しさん :2012/08/20(月) 22:56:23.49 ID:5Xb0Exc2
相も変わらず実の無い言葉遊びに耽ってるここの連中は終わっとるな。 竜樹、中論以降の大乗と称する末法仏教は屁理屈を極めることが涅槃らしい。
>>776 迷ったまま解脱出来る
これ、ヤヴァいだろ
比叡山のエリート僧侶達は
マジ才能あると思うわw
778 :
神も仏も名無しさん :2012/08/21(火) 00:19:51.25 ID:CjGBka/0
779 :
神も仏も名無しさん :2012/08/21(火) 00:58:31.26 ID:YMASQ1ri
竜樹はあくまで涅槃の究極が輪廻の究極といっている
>>779 参考までに聞くけど
ほんとに、コレ信じてる人いるの?
迷ったまま解脱出来るってのは、
日本人なら、あんまり深く考えず
みんな信じてるっぽいけど。
信じてるっていうか、実行してるって感じかw
解脱じゃなくて 成仏かw
782 :
神も仏も名無しさん :2012/08/21(火) 01:09:01.39 ID:67GJeuqZ
「わしが阿弥陀になるじゃない 阿弥陀の方からわしになる 南無阿弥陀仏」ってやつか。
783 :
神も仏も名無しさん :2012/08/21(火) 07:51:04.23 ID:GVAIuPOW
>>780 その意味は、戯論寂滅した境地では、涅槃も輪廻もないという意味。
生命教がいうような意味ではないよ。
重要なことは、テキストの意味と、テキストの妄想解釈を混同しないこと。
不明な部分に適当な妄想を混入してこじつけず、不明な文は不明とすること。
784 :
神も仏も名無しさん :2012/08/21(火) 08:58:39.36 ID:CVQR76CD
>>763 涅槃や輪廻が戯論の典型。龍樹はその戯論を寂滅せよと言っている。
釈迦に捉われた解釈こそ、妄想解釈。
釈迦と龍樹との大幅な本質的相違は、欧米の学者もこぞって指摘している。
龍樹を少しでも釈迦で解釈しようとすると、妄想解釈になる。それは解釈では
なく、単なる信仰(洗脳)。
文献学は人文「科学」。信仰とは明確に区別すべきもの。混同してはならない。
心外無別法
786 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/22(水) 12:18:18.01 ID:4ZPwTxcx
♪ あ〜あ〜、釜ヶ崎―わ〜、今日も 地獄だった〜 ♪ (前川清 長崎は今日も雨だった 風に)
三角公園のブルーシート小屋はまさに熱射地獄、シェルターもセンターも同じ
不殺生戒をぶち破って、何匹の蚊やしらみ、ダニ、ゴキブリ、南京虫その他無名虫を昇天させたことか。
http://www.nurs.or.jp/~tenko/ ←この人を応援してます。機会があれば映画見たってや。
>>749 ガッカリ!
アナタが言ってる『意味』が分りません(龍樹自身が間違っているところもあるので無理もありませんがw)
あまりにアホらしいので、話しても無駄です。
以上
PS. ・ 宝珠のおっさん、無料でええから釜ヶ崎・三角公園ブルーシート・ホテルのスィート・ルームに一週間連泊するか?
小便と食いモンの腐臭と動物園のような臭いのなかで、空き缶集め、便所掃除、ゴミあさり、泥棒市場と徹底的にシゴイたる。
夏は暖房、冬は冷房の天然エアコン付きや。クタバル寸前までエエ『修行』さしたるでw
・ところで、クリシュナのバガヴァット・ギーターは反仏教やで。
あんなもん、要するにカースト制度維持前提の粗雑なサーンキヤ哲学←戯論であって、
こんなのを奉っている程度では戯論の消滅というめでたい境地は直覚不能でありんす。
せいぜいが、般若心経のオマジナイ(マントラ:呪文)だすw。(
>>433 >>720 )
だから、宝珠大先生ごときには中論はム〜リでありんすw
ねえ これ言うと あなた達の思う仏教じゃ なくなるから 死ぬほど 拒否するかもしれないけど 一回 戯論寂静から 離れてみたら どうよ 今の アナタ達が 何言ったて 空中戦にしかなってない 地に足が付いてないのよ 文句があるなら 戯論寂静した 聖者を 挙げて見なさいよ そして、その挙げた聖者と自分を比べて見なさいよ そしたら分かるでしょ 少なくても戯論寂静は アナタには 過ぎたおもちゃだって事がw
788 :
神も仏も名無しさん :2012/08/22(水) 15:35:30.71 ID:ajaZ9ikn
何でホモ臭い口調で力説してるんだ?
>>786 >クタバル寸前までエエ『修行』さしたるでw
お誘いありがとうです!
お気持ちは嬉しいのですが、残念ながら、
殆どプライベートではなかなか近隣地域から出ることがないです。
今は時間と経済的制約の中でジッと我慢しており、
自身の信仰する本山に参るといった憧れすら叶わず・・・(苦笑)。
>アナタが言ってる『意味』が分りません
あなたが志向する方向性はある程度は正しく、
究極的な勝義的真理を述べているものであることは認めます。が、
しかし、この道にある者の殆ど99%はそれを自己実現させることがありません。
何故なら、ただ単に中論の言葉や論理について“思考を巡らせているに過ぎない”からです。
私が、この道を役立たずと呼ぶのはそういうこと。
>・ところで、クリシュナのバガヴァット・ギーターは反仏教やで。 ここで説かれている問題はまったく同じものなのです。 真理到達への道には、「行為の道」と「非行為の道」の二つがあります。 これは仏教であろうと何教であろうと無関係であり、必ずこの二つの道が途上の者を迷わせるのです。 『中論』の示す内容は完璧にこの後者側であり、 この道に就く者の殆どが、「行為の道」を認めず無価値と見なす愚弄を犯して、 「非行為の道」なる実現不能な道のみに固執するようになります。 (これらの人々は、「悟るべきものは何も無い」とか「既に、今このままですべてを悟っているのだ」 などといって、地道な修行や錬行を放棄します。) クリシュナの教えはこの問題を明快に教示したものであり、 結果的には、「行為の道」に勝るものがないことを見事に論証します。
このクリシュナの教示は、 仏教の教えと修行をスッポリ当て嵌めて読めば自ずと氷解できる勝れものなのです。 あなたのことがそのまま該等する忠告ですから、これを繰り返し読むことをお奨めします。 特に、ギーターの第三章〜第六章を。 『人は行為に着手しないでは超行為の状態に達せず、また行為の遠離(カルマ・サンニャーサ)によってのみ 完成に到達するものでもない。なぜなら、一瞬間たりとも行為を行わずにいる者はないから。(3:4-5) 行為の実修を修めた者は、行為の結果を捨てて、究極の静寂に到達する。行為の実修を修めない 者は、欲しいままに行動して、結果に執着し束縛される。(5:12) 行為の結果を期待せず、義務的行為をなす者、彼は遠離者(サンニャーシン)であり、実修者である。 単に祭火を用いない者、祭式を行わない者がそうであるというのではない。(6:1)』 (『バガヴァッド・ギーター』) 〜取りあえず、この件はこれで終わりにします。
>三角公園のブルーシート小屋はまさに熱射地獄、 >小便と食いモンの腐臭と動物園のような臭いのなかで、空き缶集め、便所掃除、 >ゴミあさり、泥棒市場と徹底的にシゴイたる。 >夏は暖房、冬は冷房の天然エアコン付きや。クタバル寸前までエエ『修行』さしたるでw エーと、 あなたはホームレスのボランティア活動さんでしたっけ? このことに対しては心から敬意申し上げます。 あなたは同じ「非行為の道」にある者の中でも、 アドヴァイタにドップリと嵌って、現象界の出来事はすべてマーヤー(幻影)であるからと、 難民や飢餓とホームレスの苦境にある人々に手を差し伸べる行為を無意味、 無価値(マーヤーを実体視する間違った行為である)と論じる馬鹿者たちとはまったく違う。 この点は大変、失礼申し上げます。 ごめんなさい! それと、 私にはマントラ(真言陀羅尼)がなければダメといった固執はないので、 これについても同意しておきます(ドグマと固定化した方法論の否定)。
悪魔と神に本質的差異は無い。それは程度の問題であって質的なそれではない
善悪二元論の立場に救いはない。目指すべきは無形無属性たる本質…他者の内に自己を見る者だけが真に奉仕出来る
禅仏教の方に質問していいですか? 無分別な世界にいけたとして、自他の区別はなくとも何か意識というか電流のようなものはあるんでしょ 要はTVを誰が何を見るという外枠がなくなったとしてもの電源は付いているというような。単純にいのちの息づきのような。 結局、それってなんなの?それが消えるという恐れはないの?認識する自己がないから消えることも恐れないの?
恐れというものがすでに分別の産物なので無いものについて聞かれても困る。
ふむ たしかにアドレナリンがでて気持ちよく恍惚とした夢心地の中でフェイドアウトするということもありうるからな 平常時の感覚で言うのも誤りか しかし、未来おこりうるそのような自己に平常時疑問をいだくということはないのかね 世界が指一つと言ったところで、指一つが消えるまで何をするつもりなのかと。
一応、禅でも路傍の石と人間の区別くらいはあるのだろう? 無分別になることは石になることじゃない じゃあ、死後の無分別なる者はどこにいくんだ?
路傍の石になるのが悟りじゃ
無分別ってのは妄想に囚われない(色眼鏡を通して物事を見ない)ってことだと思うけどな
別の言い方をすれば、 区別はするけどサベツはしない、って感じかな。
無分別を分別中w
あなたはそこに いますか?
越法罪は大事だけどな どんな知識も段階的に掲示するのが本来は正しい そうしないと、低レベルなのが自分勝手な解釈をして、本来の意義、意味を歪めてしまうからだが
そうきゅうのふぁふなー
>>803 >越法罪越法罪五月蝿いんだが、
まったく同意。
>どんな知識も段階的に掲示するのが本来は正しい
>そうしないと、低レベルなのが自分勝手な解釈をして、
>本来の意義、意味を歪めてしまうからだが
>>805 ここまではその通りだと思います。
>越法罪は大事だけどな
>>805 しかし、
「越法罪」なるものなど最初からないのであって、
これは、法が歪められて流出していくことを防ぐために“制定された脅し”です。
(悪意なしに)間違って使用されたからといって、地獄行きがあろう筈がなく、
また同様、勝手に使用したからといっても地獄行きなどない。
善意に基づく使用者を必要以上に脅すことの方こそが問題。
バラモン呪法の一部を在家が修したからといって、
どうしてそれが地獄行きとなるのか?そんな教えはゴータマにはない。
迷信(脅し)に脅える姿など時代遅れ。
808 :
神も仏も名無しさん :2012/08/23(木) 14:33:56.48 ID:JcsIgk+V
809 :
1/3遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/23(木) 14:39:46.62 ID:/blMBSRt
>>789 >>786 はちょっと不親切すぎましたか。
>単なる思考(の理解)によっては、中論の説く真理に到達することは不可能(
>>749 )
至道無難 唯嫌揀択(信心銘)
中論には『真理』は説かれてはいません。
勝義諦は真理ではありません、「究極」もありえません。
この点は龍樹自身が誤解していて掴めていないのです。
真理⇔偽理、究極⇔中途は二項相対の間接現実において成立する概念です。
直接現実(勝義=時空際断相)において,究極も真理も相対観念(想)であって比較・相対・程度はありえず、
ただただ、無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相・無名称のあるがまま(空=中道)だからです。
実存苦の超克のためには、直接現実は相対執着を断ち切る様相である必要があるのです。
ここからみるに、龍樹は天才的学僧ではあっても、龍樹自身は直接現実を掴みえず、また悟達していなかったのかもしれません。
優れた宗教学者が道の人であるとは限らないのです。
810 :
2/3遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/23(木) 14:41:40.98 ID:/blMBSRt
私が直接現実と言い換えているのも @一般に通用する勝義『諦』が“真理”と誤解されてきたことと(龍樹自身に責任があります)、 A無分別智(直接)、分別知覚・記憶(間接)共に、『縁起の現実(あるがまま)』が仏法の基盤であること、を明確にするためです。 勝義や世俗という古めかしい言語では、現代において縁起の現実をイメージできません。 縁起撥無の「無為法」なんてナンセンスです。 名称は手段ですから目的に対して不都合ならタメライなく捨てればいいのです。
811 :
3/3遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/23(木) 14:44:44.46 ID:/blMBSRt
中論の趣旨は、『毒をもって毒を制する』(雪担師)気概があるもんでないと掴めません。
直接現実は、コード(『単なる思考(の理解)』
>>749 )なきメタ・コードですから
無分別智による直覚で掴まざるを得ません。
これが凡人にはできんから、<ブッダの成道の姿に徹底して学ばんがために>、身心を調える(例 坐る)のです<道元>。(
>>519 )
即ち中道です。
これだけのために、禅では膨大なノウハウが蓄積されている。
ところで、アタシにはブッダの成道の姿として、
<菩提樹の下で、必死で護摩木焚いて、御祈祷やって、マントラ:呪文でラリってる>というイメージがどうしてもできないんですがねえ(爆笑)
ブッダが必死で<南無大師遍照金剛><南無阿弥陀仏><南無妙法蓮華経>を唱えているなんて想像もできん、
どうですか空海さん、親鸞さん、日蓮さん?
812 :
ニュース速報 :2012/08/23(木) 14:48:12.38 ID:WuT9ZD72
私は「無限」である。あなた方もそうだ。したがって真理とは…
813 :
ニュース速報 :2012/08/23(木) 14:52:27.57 ID:WuT9ZD72
したがって真理とは、万象の単一化以外の何物でもない…様々な事物が個々独立分離され分散化される状況は「非真理」である。すべてが結合に向かい唯一なるものへと向かうなら、それを真理と呼ぶ
814 :
神も仏も名無しさん :2012/08/23(木) 15:02:57.27 ID:JcsIgk+V
ヌーエイジの人は、単に自分の無知を聖者の無知に投影させる。 そこに映っているのは自分の無知のうつしみだと気づかない。
知識と無知。偽りと真実…ともにまやかしである。不生不滅の本体がある。しかしながら、まやかしもやはり本体の「部分」であり疎外さるべきものにあらず
知識といい、無知という事→すべて無限なるものの限定化にほかならず、無限なる者の顕現を疎外する。しかし限定化しているのはマインドであり→菩提樹下の釈尊にはすべてが限定されざる「無限にしてひとつの同じもの」をハッキリと見て取った…
817 :
神も仏も名無しさん :2012/08/23(木) 15:30:52.58 ID:57Hhhndj
>>816 >菩提樹下の釈尊にはすべてが限定されざる「無限にしてひとつの同じもの」
>をハッキリと見て取った…
そんなことを、君は一体どうやって確認したの?そっちのほうがよほど気になるw。
818 :
神も仏も名無しさん :2012/08/23(木) 15:31:28.66 ID:JcsIgk+V
>>815 >不生不滅の本体がある。
これじゃヒンドゥーだ。仏教の不生不滅ではない
819 :
神も仏も名無しさん :2012/08/23(木) 16:19:32.97 ID:57Hhhndj
>>818 釈迦仏教よりもヒンドウーのほうが、哲学的にははるかに深いように思える。
820 :
神も仏も名無しさん :2012/08/23(木) 16:24:42.81 ID:JcsIgk+V
>>819 >釈迦仏教よりもヒンドウーのほうが、哲学的にははるかに深いように思える。
思うのは自由。しかし、仏教と違うものは違う。
それを同じと言われれば、違いますとイイますよお
ああ…仏教徒は仏教を理解していない。経典に書いてあるのに。しかもヒンドゥーは仏教を理解している。ヴェーダには何も書かれていないのに…
822 :
神も仏も名無しさん :2012/08/23(木) 16:42:34.58 ID:JcsIgk+V
ほらほら 男爵ディーノさんとお前ぐらいだよ ヒンズーのことヒンドゥーって書くのは
せめて、非我説がいつしか無我説にすり替えられた事実は認めるべきでしょう
825 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/23(木) 17:14:12.01 ID:/blMBSRt
>>821 >ヒンドゥーは仏教を理解している。
仏教には仏法はなく、
理解できるのなら仏法ではない。
一切の不可得及び、戯論(ヒンドゥ教義、仏教など)の消滅というめでたい直接現実境地なるがゆえに、
ブッダはいかなる教え(仏教)も、どこにおいても、誰のためにも、説かれなかったのである。
>>826 >▼ 我の六義 と 自性概念の概説
>▼ 自性概念の要件の考察 (5要件列挙・概説版)
>▼ 我見・人我見・法我見 の正しい定義
>▼ 「典型的な誤りの無我説」 の誤解部分を正す
目次見ただけで「我」を立てたい自我論者だと分かるね
>さて、ここで、「人の五蘊は皆、空なり」と否定しつつ、尚且つ「ア−トマン(我)」を肯定する選択肢は有るのか、問題となります。
>この問題を解く鍵は、脚下照顧によって−−−<二つのア−トマン(我)>−−−を認識することに有ります。
>では、<二つの「我」>とは何でしょうか?
>一つは、梵我一如の「我」です。この「我」は、梵と同一の「我」です。
>よって、この「ア−トマン」は叡智と光に満ちており、無知や偏見とは全く無縁の「完全なる我」です。
パラパラと斜め読みしたけど、これだけで読む価値がないことは明らか
非存在は存在を前提に知られます
829 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/23(木) 19:14:51.47 ID:/blMBSRt
>>826 これは、あかん。努力賞もやれん。
支離滅裂。
般若心経の空は、このHPの論旨を一貫させようとすると、
龍樹や八千頌般若経のスヴァバーヴァ(自性)の欠如ではなく、
プラクリティ=自性空と把握しないとこの人の狙う梵我一如論にまでもってゆけない(⇒
>>433 )。
般若心経の本質を、一切皆空の直接現実の様相の示唆描写する(非〜、無〜、不〜)お経ではなく、
フリダヤム⇒オマジナイ(マントラ:真言)を唱えるお経と把握できない。
ゆえに論旨一貫せず。
じゃあ兎角も亀毛も空華も存在するのね
831 :
遊びをせむとや生まれけむ :2012/08/23(木) 19:24:52.47 ID:/blMBSRt
>>820 >>思うのは自由。しかし、仏教と違うものは違う。
>>それを同じと言われれば、違いますとイイますよお
当たり前だな、ヒンドゥー教と仏教が同じものとか
キリスト教とイスラム教が同じ教えってくらい的外れ
そして、キリスト教よりイスラム教の方が優れているように ヒンドゥー教より仏教の方が優れている それは、各宗教の聖典経典をみれば分かる。どちらが整合性があるか。 すこしでも、理解力があれば一目瞭然いや考えるまでもない。
>>811 やり方というのは改善していくんでないの?
もしくは人に合わせて変えたり。
直接現実って掴めるの?知覚機能ぶんの世界でしかやりくり
できないのに。しかも知能だってまだまだ進化するぜ(100万年ほど待てw)
さとりってなんなんだ
わしらには解らんもんなんかな、わかるけど実現せんもんなんかな、
悟っててもくそみたいなことを言う人もいるのかな?
悟ったばかりの釈迦と死ぬ前の釈迦は仲がいいんだろうか?
悟ってない人が釈迦が悟ってたってわかるんだろうか?
あほの質問終了_(._.)_
835 :
神も仏も名無しさん :2012/08/23(木) 21:55:11.94 ID:JcsIgk+V
>>828 本質主義、実在論の立場ではね。
縁起・空性・仮設の立場なら、どちらも同じこと。
『カーティヤーヤナへの教戒』ぐらい読んで理解してほしい、
仏教を語るなら、それぐらいは超えてくれ
836 :
神も仏も名無しさん :2012/08/23(木) 23:31:11.85 ID:GJ8Y4QSb
懐かしいな般若宗 管理人結構いい人だったよ
837 :
神も仏も名無しさん :2012/08/24(金) 09:10:15.61 ID:KpJ2du72
>>789-791 閻魔大王がいちばん嫌いそうなネタを、というか本人が直接言及してるネタすら外すのはわざとなのか。
838 :
神も仏も名無しさん :2012/08/24(金) 09:15:30.36 ID:KpJ2du72
>>807 >(悪意なしに)間違って使用されたからといって、地獄行きがあろう筈がなく、
>また同様、勝手に使用したからといっても地獄行きなどない。
仏典や仏教伝統から引用できるのでなければそれは単なる願望の投影であり、
お話としてどれだけきれいで耳障りのよいものであっても、
少なくとも、「神社仏閣板」のスレに書き込むことでは無いと思われ。
>どうしてそれが地獄行きとなるのか?そんな教えはゴータマにはない。
在家信者ならバラモン修法をすることを釈迦が容認した、というのを提示できなければ
それは印象操作でしょ。
839 :
神も仏も名無しさん :2012/08/24(金) 09:49:57.35 ID:lbdqtcuA
>>838 >>どうしてそれが地獄行きとなるのか?そんな教えはゴータマにはない。
>
>在家信者ならバラモン修法をすることを釈迦が容認した、というのを提示できなければ
>それは印象操作でしょ。
つか、マントラといってもバラモン教のものとは違うですけど。
形式はたしかにバラモン教やヒンドゥーのものだけど、
それは単なる習わしで、本質はそこにない。
それは例えば、同じ日本語で書かれてるからとエロ本と仏典を一緒に論じるようなもの。う〜ん、あまり上手い例えじゃないなあ。
コンビニで売ってるエロ本と美術館に飾られてる春画のようなものだろう。
841 :
神も仏も名無しさん :2012/08/24(金) 10:17:16.86 ID:lbdqtcuA
>>840 いや、それをいうなら同じ美術館に収蔵されている絵でも春画とルネッサンスのビーナス像を同じと考えるようなもの。
形態は同じ絵画で裸婦であっても目的が違う。
つまり、空性とアートマン(実在)では全く目的が違う。
>>841 これ、言うと怒るかもしれけど
ゴータマ・ブッダが呪術否定してから
仏教は、大ぴらにマントラを唱えなくなった。
まあ、入れたとしても、申し訳程度だったり、
効果のほどもよくわからんようなものばかり。
つまり、大昔に、仏教のマントラは死んだんだよ。大幅な発展はない。つまり
実用性はない。=春画 (ただ、なにやら ありがたくて 高価そうなきがする。)
逆に、マントラ・ヨーガなるものが、あるように、バラモン教は
マントラを全面に押し出してるため、今でも実用的。=エロ本
つっても、どちらもちゃんとした師に教わらないと効果ないので、一般には
どっちも無意味と言う意味では同じ。
あとこれは、理屈じゃなくて神秘的なお話だから 実在とか空性とか言う問題ではない
843 :
神も仏も名無しさん :2012/08/24(金) 10:31:40.81 ID:lbdqtcuA
>>842 いや、そういう見方は密教を誤解してる。
空性という基盤があって、方便としてマントラなどを使ってるだけ。
そこが分かってないから仏教文献学の密教解釈は極めて倒錯したものになっている。
>>843 密教の伝承って口伝でしょ または、マンダラを始めとする絵によるものでしょ
そこを考えれば
>>仏教文献学の密教解釈は極めて倒錯したものになっている
となるのは、当然だよね。そもそも文献には、重要な教えは書かれないんだもん。
845 :
神も仏も名無しさん :2012/08/24(金) 10:42:26.96 ID:lbdqtcuA
>>844 >密教の伝承って口伝でしょ または、マンダラを始めとする絵によるものでしょ
前件はそう。必ずしも口伝だけではないけど、伝授です。後件は本物のマンダラは絵じゃない。絵はあくまで本物が見えない人のためのもの。
もう密教のことは語るの止めときますね。
>>845 >もう密教のことは語るの止めときますね。
ゴータマ仏は、
「師の握り拳は無い」といってすべてを語り、万人が学べるもの(万人成仏道)とした。
にも関らず、密教の場合だと語ることすらも辞めてしまう・・・。
その決定的な違いと何かを述べてもらえますか?
この私は、
密教にはゴータマが説かなかった
“タントリズムと呪術性”の存在があるからだと解しますけれど。
どう、如何です?
であるから、
勝手に大衆の手の届かないところとするために、
越法罪なる宗教的脅しを導入したのです。
これ以外にどんな理由があるというのです?
こうして密教(後期/金剛大乗)は“創られた”。
確かに大衆の好きにさせるには大きな危険性があること、
また、法が歪曲されて流布されていくことを止める歯止めの必要性はあるでしょう。
ただし、“地獄に堕ちる”からではないから(これは単なる脅し文句)。
日々、本尊不動尊の御前で手印に真言陀羅尼を誦呪するこの私を咎めることなく、 いつも優しく加護して下さっている事実ここにあり。 また20年前、ファミリア(創られた肉体)を纏ったマイトレーヤとの出逢いの際にも、 そんな忠告は一つもなかった。祝福のための貴重で有難い顕現(その慈愛)に、 ただただ感謝あるのみ。 私は、そんなことで地獄に行くのであれば、 「どうぞ好きなだけ堕とせ!!」と思って行じている。 まっ、本当に“地獄に堕ちる”かどうかは、 私自身がこの身で確認してくるから。 結果報告はできないと思うけれど・・・(苦笑)。
自分は正しいと思い込んでいるうちは、何を言っても無駄なんだろうね
自分が正しいと思い込んでなきゃ 何も言えないけどなw
どうです?
この馬鹿げた質問は?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1344529117/323 寺院内に掲げられた真言や寺院運営のサイトページに載っていたものなら、
それは、「どうぞ、お唱え下さい!」という意味に決まっているでしょ!
けれども、越法罪などといって大衆を脅しているから、
実際、こういう可哀想な質問がいちいちやっくるのです。
そんなに地獄に堕ちるかもしれないほどの恐ろしい罪悪ならば、
仏具店の市販経巻に真言をズラリと載せたり、あっちこちに掲げるな!!
法門は責任持って、書籍関係もすべて焼き払って焚書しろって。
今度は看板見て唱える大衆には罪は無く、
これを設置した側が地獄に行くのだ、というのだろう・・・。
この看板に書いた僧侶と掲げた僧侶の越法罪だと。
ならば、大衆の目の届くところに掲げるな!!!
ていうより、もうとにかく馬鹿馬鹿しいから・・・(怒)
851 :
遊びをせんとや生まれけむ1/2 :2012/08/24(金) 19:08:46.90 ID:1SjOAL09
>>688 宝珠愚者@(規制代行)
>クリシュナムルティがそういう教え方をする典型です。
あらためてクリシュナムルティ自身による彼の教えの要約であるThe Core of the Teachingを読んでみた。
http://www.jkrishnamurti.org/about-krishnamurti/the-core-of-the-teachings.php 彼の考え方のほとんどに同意できる、というより仏法そのものではないか。
アタシなりに掴んだ直接現実と間接現実(の関係)とほとんど同じことを彼は感じている。
ただ用語の問題の違いだけだ。
・『真理という領域に通ずる決まった辿り道はない』という言明通り、
人はいかなる宗教、哲学、心理的な技法によっても真理に到達することはできない
⇒『真理』を縁起の直接現実(あるがまま)に置き換える。但し二項相対の“理(ことわり)”はない。真理はそれ自体として存立できない。
・『知的な分析や内省ではなく、関係の鏡を通しての鋭敏かつ受動的な観察により、あるがままの自己自身を刻々に自覚する中に真理は現在する。
⇒直接現実における縁起の現観:無分別智直覚を言っている。
852 :
遊びをせんとや生まれけむ1/2 :2012/08/24(金) 19:10:43.83 ID:1SjOAL09
訂正 × ただ用語の問題の違いだけだ。 〇 ただ用語の違い問題のだけだ。
853 :
2/2遊びをせんとや生まれけむ1/2 :2012/08/24(金) 19:14:05.17 ID:1SjOAL09
・『人は自分を守るために様々な防御機構を心理的にこしらえていて〜 このような防御機構が常に干渉している精神の努力の行き着く先は必然的に自己欺瞞である。』 ⇒間接現実において苦しみを生む我執によって「あるがまま」が見えないことを言っている。 ・『観察者の条件付けられた反応を投影しない純粋な観察こそが必要なのであり、そのような観察は自由の中にこそ花開く』 ・『精神からいかなる計らいもはけきれた時、観察者と観察されるものの間に分離はなく、ただ観察だけがあるようになる。 そこには「あるがまま」だけがあり、刻々にあるがままにありのまま気づいていることが重要なのであり、人が鋭敏にになるにつれ、事実に干渉する観察者は消滅する』 ⇒間接現実への捉われ(束縛)から解放された直接現実の『縁起の現観』の様相⇒苦しみの超克 を言っている。 Etc. また彼の反権威的な姿勢にも共感できる。 この点は伝統仏教主義者は受け入れないだろう。 彼が言わんとしていることに、大いに共感できる。
854 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/24(金) 19:33:47.66 ID:1SjOAL09
>>704 >仏教の聖者で認める人はいないでしょう。
当然、頭の固定化・老化した方には無理です。
・『観念や信念への固執は真理の正しい知覚をもたらさないばかりか、人と人との間に争いをもたらす。』(同上)
―伝承と称する固定化された教義仏教への批判だ。
我々は動いて止まぬ(方便)仏法(クリシュナムルティのいう真理)を掴まなければならない。
そこに必要なのは
・『自由は『探求の到達点に実現するものではなく、「そもそもの始めに必要」なのであり、
それは反応や選択ではなく、「方向のない純粋な観察」なのだ』(同上)
偏見のない、直接現実における無分別智による縁起の現観をいっている。
反応や選択や願いは自由ではないんだろうか? この世界に「あるがまま」なんてあるんだろうか? 自由な選択や自由な意思とつねに寄り添ってくれるのが世界だと 思ってるんだが
宗教的な真理が実証で一部覆されています。地面の下に象はいません
857 :
神も仏も名無しさん :2012/08/24(金) 22:18:02.71 ID:K0hM0j1j
そこらへんの仏具店で理趣経が売ってある時点で、 日本仏教(密教)はサマヤとか気にするのを止めちゃってると思われ。 仏具店で売ってあるということは需要があるってことなんだろうけど。 なんでだろう?
858 :
神も仏も名無しさん :2012/08/24(金) 22:22:08.76 ID:K0hM0j1j
>>850 >法門は責任持って、書籍関係もすべて焼き払って焚書しろって。
やったらやったで叩くんだろ。
>>850 越法が脅しかどうかはともかく
理趣経を額面どおりに受け取って欲邪行を行えば、まあ地獄には落ちるでしょうな
越法不可思議
>>851-854 「クリシュナムルティ」
----はい、私は自信を持ってお奨めできます。
彼は神智学などというカテゴリや枠などもすべてを超えた巨大な霊的教師です。
インド人でありながらも、インド教(ヒンドゥーであれ、仏教であれ)のアプローチすら使用することなく
シンプルに真実についての核心を語ります。
さすが、マイトレーヤ(7段階イニシエート)が肉体顕現の媒体として選択された弟子だけのことはあり、
マイトレーヤによって鍛え上げれた精神そのものです(マイトレーヤの教えそのものとも評価される)。
おそらく現在、及び近年において本当に実在し、一般人が知って、そして接触可能な人類の教師の中では、
アヴァター方を除いては彼が最も進化した人物(弟子)でしょう。
書籍(語録)は豊富ですから、
その中から数冊(1〜3冊)を読まれればその人の人生に革命をもたらすでしょう。
(推奨書籍はクリシュナムルティ関連のサイトなりからご自由に)。
凡そ、クリシュナムルティにかかれば宗教のカテゴリにあるすべてが崩壊してしまう(既存仏教も含め)。
我々の身に次第と付着してくる条件付けという錆を掃うのに、
“目のウロコ落とし”として時折り使えるのが彼の教えです。
ただし、理解することも、
ましてやこれを実践実行することも尚のこと難しい。
(人々にとり難解であることが大王ならば分るでしょう!)
参考:
http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/index.html (『クリシュナムルティ学友会』)
>>857 理解することが無理な相手や
誤解を生ずるだけのような相手の場合には、
ただ、ひたすら“沈黙すべし”というのはある(神智学においてもそう説かれる)。
>>854 >当然、頭の固定化・老化した方には無理です。
>我々は動いて止まぬ(方便)仏法(クリシュナムルティのいう真理)を掴まなければならない。
共鳴。
>>854 >当然、頭の固定化・老化した方には無理です。
>我々は動いて止まぬ(方便)仏法(クリシュナムルティのいう真理)を掴まなければならない。
共鳴。
アビダンマの知識(を私のように多少なりともかじった経験)があれば、
>>851-854 閻魔大師
>彼の考え方のほとんどに同意できる、というより仏法そのものではないか。
>アタシなりに掴んだ直接現実と間接現実(の関係)とほとんど同じことを彼は感じている。
>・『精神からいかなる計らいもはけきれた時、観察者と観察されるものの間に分離はなく、ただ観察だけがあるようになる。
> そこには「あるがまま」だけがあり、刻々にあるがままにありのまま気づいていることが重要なのであり、人が鋭敏にになるにつれ、事実に干渉する観察者は消滅する』
このような形で形容・表現されているものが、たった一語、「心一境性」という用語で済まされている
(片付けられている)境地に相当することに思い至ります。
対象と自己との間の分別(境界線)がないためにそのように呼ばれます。
心一境性とは、要するに「禅定」のことです。
すなわちこれは、色界初禅から始まる体験です。
このような色界禅定の境地に触れたことから、数多くの、自由思想家たち、すなわち沙門がかの時代に多く
登場し、彼らは、それまでの自己が感じていた現実と、大きく異なったことから、我こそが真理を知る者也
と、反バラモン的なリベラルな方向性を持つ思想家たちとして知られています。
>また彼の反権威的な姿勢にも共感できる。この点は伝統仏教主義者は受け入れないだろう。
禅定ですら、俗世間の一般人からすれば、圧倒的な経験を持たらす境地ですが、
釈尊は、そのような外道の思想家たちとは比類しようもありません。
正自覚仏とはそれほど圧倒的に遠い存在です。
>>866 >釈尊は、そのような外道の思想家たちとは比類しようもありません。
>正自覚仏とはそれほど圧倒的に遠い存在です。
確かに、仏陀は別格であって、
地球人類における最高の進化到達点、
“第八段階イニシエーション”を受けられている御存在。
>>866 >釈尊は、そのような外道の思想家たちとは比類しようもありません。
>正自覚仏とはそれほど圧倒的に遠い存在です。
証拠。ゴータマ・ブッダを軽く見てるわけではないが、ゴータマ・ブッダを
他の思想家たちと比較出来るほど、ゴータマ・ブッダ自身が他の思想家より
高い禅定体験(というと少し違うがそんなそうなもの)を得ていたとする証拠は
あるの?でなきゃ、そもそも他の思想家と優劣のつけようがないんだが・・・
>>866 神智学、詳しくないので質問したいんですが、キリスト教文化圏にインドの宗教(哲学)を
広めると言うのが、神智学の一つの目的として考えてもいいですよね。とするならば、
神との合一つまり梵我一如などのは、どの様に説明しているのでしょう?
宝珠氏は神智学徒なのかどうかも微妙なんだよな 神智学の思想からずれているうえに、異端として協会を追放されているアリスベイリーの思想が中心にある気がするわ
870 :
868 :2012/08/25(土) 06:51:21.70 ID:JmIPdIC8
>>867 神智学、詳しくないので質問したいんですが、キリスト教文化圏にインドの宗教(哲学)を
広めると言うのが、神智学の一つの目的として考えてもいいですよね。とするならば、
神との合一つまり梵我一如などのは、どの様に説明しているのでしょう?
間違えました。
八正道(八聖道) 正見(正しい見解) 正思惟(正しい考え) 正語(正しい言葉) 正業(正しい行為) 正命(正しい生業) 正精進(正しい努力) 正念(正しい念慮、気づき) 正定(正しい集中) 四如意足(四神足) 四つの自在力 欲(すぐれた瞑想を得ようと願う) 精進(すぐれた瞑想を得ようと努力する) 念(すぐれた瞑想を得ようと心を集中する) 思惟(すぐれた瞑想を得ようと智慧をもって思惟観察する)
>>871 滅尽定と同程度くらいなら 外道にも たくさんおるやろ
それにその後の仏教では、滅尽定は、解脱したと勘違いしてる
みたいな説も出てきてるらしくて、支離滅裂な事になってるけど
そこんトコロどうよ。
非想非非想処定についてはどう思いますか? > 滅尽定は、解脱したと勘違いしてるみたいな説も出てきてるらしくて、支離滅裂な事になってる 非想非非想処定 → 滅尽定 → 有余涅槃 → 念の為にもう一度、滅尽定 → 無余涅槃 ↑ 違うんですか?
875 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/25(土) 08:56:00.68 ID:zi4ZuZdq
>>682 >ただし、理解することも、ましてやこれを実践実行することも尚のこと難しい。
んーなこたあ、ない。
仏道を、神秘化したり、権威主義的心情で実現不能心情に陥らせたり、不必要に大事業化してはいけない。
『人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、
まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。 現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。』 (マッジマ・ニカーヤ63)
まさに禅師の名前通り「至道無難 唯嫌揀択」(信心銘:
>>809 )、平常心是れ道(南泉普願)etc。
禅には端的かつ直截な膨大なノウハウがある。
(逆に、その膨大さが確かにこのスレの頭でっかち達には『難しい』ことを物語っているのだが:
>>811 )。
ブッダの本懐たる「実存苦の根本的超克」のみに焦点を合わせ合目的的かつ端的に掴めばいい。
無駄な分別知識が邪魔なだけ。
TV視聴は、その膨大な技術情報を知らなくとも、ボタンを押すだけで見られる。子供にもできる。
根本的に合目的的であれば「南無阿弥陀仏」一本でもOKではないか。
876 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/25(土) 08:59:23.08 ID:zi4ZuZdq
>>866 >「心一境性」
>対象と自己との間の分別(境界線)がない
アタシが〇〇〇〇〇に触れえたのかな?のときに出てきた最初の言葉が「時空際断」(おそらく道元さんの「前後際断」からの誘発)、
それと同じ趣旨だと思う。
「あるがまま」は縁起の直接的な「現」(様相)であり、無分別智による直覚が「縁起の現観」です。
ただ現在は、『対象』『自己』そのものが非有非無(空)ゆえ『との間の分別(境界線)がない』さえ問うことはできない、と感じています。
西田・鈴木哲学的な主客一如とか自他不二のような、あんな一元論的融合戯論(ヒンドゥ的梵我一如論を含む)はとっくに卒業しました。
中論において空=中道とは非有非無(という様相)をいいます(中村元「龍樹」p263参照)。
言語で表現せざるをえないこの間接現実では『非有非無』が直接現実を示唆できる言語的限界です。
中論25-10・15・16は四句第四の(一見否定に見える)非肯定非否定の天才的な逆説的限界表現というべきです。
これ以上には直接現実に迫ることは不可能でしょう。
まさに龍樹に脱帽です。
>>874 非想非非想処定は、ウッダカ・ラーマ・プッタが釈尊に教え、それを釈尊が体現したと言う意味でも、
非想非非想処定なるものは、「ある」と見ていいでしょう。釈尊は、そこでは飽きたらず、滅尽定まで至った
というのも、外道やその後の仏教ともに、同じような事を言っている(自分自身で完璧に確認を取ったわけ
ではありませが)ので「ある」と見ていいでしょう。
ただ、中論の
>>非想非非想処定 → 滅尽定 → 有余涅槃 → 念の為にもう一度、滅尽定 → 無余涅槃
は、成立時期から考えても、釈尊自身の体験または教えとしては、「偽経」と云えますし。釈尊以外でその(外道も含め)
これらの、「無余涅槃」に至ったと言う例を私は知りません。
まあ、それが釈尊が他の思想家たちを比べ物にならないくらいすごい、ということに成るかもしれませんが、根拠としては、弱いです。
中論に書かれている通りに「無余涅槃」に至ったと言う体現者が、実際にいるというなら、私は、上の意見を撤回しますが
後世の釈尊神格化の付加物の一つとして考えるほうが自然だと思います。
878 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 09:16:09.26 ID:IswuZjgK
>>873 >滅尽定と同程度くらいなら 外道にも たくさんおるやろ
こういう根拠は何よ?
>それにその後の仏教では、滅尽定は、解脱したと勘違いしてる
これは一体誰が言ってるわけ? 上の解脱ってのは最終的な境地という意味で煩悩から逃れたことを意味する八解脱という意味ではないよね。
だったら、オイラがちょろっと調べたところ寧ろ以下のように逆だ。
パーリ・ニカーヤの滅尽定:
PTS, DN II, 156: 九次第定で涅槃する時にアーナンダが涅槃と勘違いする
MN I, 302: 滅尽定から出たビクの心は遠離に傾き、遠離に向かい、遠離に滑り落ちる。
SN II, 151: [七界を説くなかで]想受滅界、この界は滅尽定を得る。
SN IV, 294: 滅尽定は想と受を止滅すること。
Ptm 97ff.: 滅尽定は止観を前提する。止は精神集中。観は、無常・苦・無我などの十六の観法。
以上からは、滅尽定が解脱、あるいは涅槃ということを示す直接の記述は見つからない。
特に最後の『無碍解道』の記述は、滅尽定は止観を前提するので、観、つまり、縁起・空性、あるいは無常・苦・無我などの観法のある仏教の聖者だけが入り、外道は入れないという北伝系の説に接近する。
更にテーラワーダ教学を決定づけている『清静道論』で「定の等流は非想非非想処、観の等流は果定、止観の等流は滅尽定」PTS320と説かれる。
つまり、定、禅定・三昧という方法だけでは非想非非想処、言い換えれば有頂天にしか行けないと説かれ、北伝系の伝承はもちろん以下の『梵網経』の記述に一致する。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html
中論觀法品第十八には 八聖道分の修習によって、そして 滅尽定によって第一義(勝義)と為し終に無余涅槃に帰する と書いてあるけど 龍樹も、鳩摩羅什も、滅尽定に至る事は出来なかったんですか?
880 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 09:18:53.79 ID:IswuZjgK
これは以下の北伝系の記述、特に『倶舎自註』で滅尽定は涅槃と勘違いする境地とされのに一致。 北伝系の滅尽定: 倶舎自註 ad 2.43 ff.: 滅尽定は心・心所の止滅。非想非非想処の境地。聖者がこれが涅槃であると勘違いする境地。 月称五蘊論 Lindtner 142, acip 265: 滅尽定は非想非非想処の愛欲を離れた想が先行する作意によって心・心所が止滅すること。 チベット・シナ・日本の大乗系は上のような解釈に従っているので、滅尽定を涅槃とすることはないが、ある煩悩から逃れた八解脱の一つと考えるが、それは最終的な境地という意味ではない。 だから、確かにその意味で解脱というのは正しいが、この場合の解脱は究極の境地という意味ではなく、煩悩から開放される八つの精神集中段階、八つの禅定階梯という意味で、最終的な境地で完全に解脱した、涅槃したという意味ではないよ。
881 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 09:20:17.87 ID:IswuZjgK
>>879 >滅尽定によって第一義(勝義)と為し終に無余涅槃に帰する
そう書いてねえだろ。それにそれは中論といっても青目註の部分だ。
>>878 >>観、つまり、縁起・空性、あるいは無常・苦・無我などの観法のある仏教の聖者だけが入り、外道は入れないという北伝系の説に接近する。
細かいことは知らんけどさ、この論理で行くなら、独覚は、どういう位置づけなわけ。
というか、「仏教の聖者だけが入り」って言うのが、意味がわからんんだが、キリスト教の免罪符見たいな物と考えればいい?
883 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 09:30:00.13 ID:IswuZjgK
>>882 つまり、滅尽定に入るには観という仏教特有の観法が必要だってこと。
この観が、ヴィパシャナといわれているものなんだけど、
簡単にいうと縁起・空性・無我・仮設なわけ。
仏教以外では縁起・空性・無我・仮設という見方をせず、我・実在・本質・アートマンがあるとされるから、精神集中である禅定をいくら深めても、非想非非想処の境地どまりだってこと。
独覚は、縁起を独りで覚るから、独覚、あるいは縁起を覚るので、縁覚とも言われると伝統仏教では解釈されていますよ。
なんの矛盾もない。明解な世界でしょ。
仏教の救いとは電気も電話も病院も食べ物も無くて死と隣り合わせの時代のもの
だとしたらもうこの世は極楽だよね
んじゃ
えいっ!
888
>>883 違う違う。私が言いたいのは、
そうだな〜なんて言えばいいか。
まあ、これは、神智学とかラーマクリシュナの理想にも繋がるんだけど。例えば
経典には、外道の聖者(教団のトップ)が、仏教に改宗した人の例が結構あるじゃん。
で、これは、経典には、載ってるはずが無いことなんだけど、逆に、仏教の聖者(覚者)が
他の宗教に改心した場合どう名乗るかなって事。
普通に考えれば、仏教の聖者として悟りを得たなら、改宗して仏教の聖者では無くなっても
(まあ、無宗教でもいいや)その悟りは、悟りのままだよね。で、その元仏教の聖者つまり
外道の聖者だね。が、表向きは外道中身は、仏教の教えを説いて人々を導いたら、どうなるの?
この教えで、仏教で言う涅槃に到ることは可能?不可能?
891 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 09:43:29.82 ID:IswuZjgK
>>889 >諸の禅定中に何故に
>滅尽定を以って第一と為し又終に無余涅槃に帰するのか?
この文は、諸の禅定中で滅尽定が第一だ。「滅尽定によって第一義(勝義)と為し」じゃないだろ。
892 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 09:50:06.54 ID:IswuZjgK
>>890 オイ、そんな意味、あの短文から読めんぞ。もっと分かるように書かんとあかん。
オイラが知る限り、外道の聖者が仏教に帰依した例はあるが、
仏教の聖者が仏教を捨てて外道になった例はないけど。
もちろん、仏教のチンピラが外道に転向した例はある。
それは単に仏教の縁起や、それによって至る聖者の境地に達してないだけのこと。
そういうありえない、例を想定して推測するのは正に無記と同じだよ。
そういいたいなら、まず例を見つけなければ意味がない。
それは難しいと思うよ。なぜなら、その人が少なくともアルハット以上の境地にあったことを証明されなければならないから。
>>892 仏教の聖者が、他の宗教からそんな改宗するほどの勧誘を受けると言う状況は
自分で言っといてあれだが、想像できん。ただ、論理的にあり得ない話ではないと思う。
個人ではないが、仏教国がイスラム教国に変わった例なら、少なくない。
逆は0だが。
>>890 思考実験としてはうまい問いだな
ラーマクリシュナも仏教の空を悟ったと言われているけど、どうなんだろうね
非想非非想処定 → 滅尽定 → 有余涅槃 → 最後もう一度、滅尽定 → 無余涅槃 中論觀法品第十八 滅尽定を以って第一と為し又終に無余涅槃に帰するのか? この場合の「第一」は「第一義(勝義)に至る為の滅尽定」と言う意味だと思うけど?
人間の悪意の作為とウソを見抜くにはそういう見方も必要
ラーマクリシュナもだけど、アドヴァイタなんて、仏教の論理まんまだからね。 その聖者であるラマナ・マハルシとかの教えが、仏教とは全く別とは、(当事者達はともかく) 外から見てると思えない。 仏教が他宗教の教祖や幹部達を上手く取り込んできたように、仏教から他宗教への 改宗者がでると言うのは、十分あり得るでしょ。まあ、その人の記録は、抹消されちゃうかもしれないけど。。。 自分たちが今までやって来たんだから、逆が起こらないなんて、都合が良すぎるよね。 まさに 因果応報
898 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 10:16:16.60 ID:IswuZjgK
>>895 そういう意味じゃない。
九次第定って言葉あるっしょ。
九つの禅定の階梯って意味ね。
その中で、滅尽定が第一、最高なわけそういう意味だよ。
だから、こう書かれてるっしょ。
>>諸の禅定中に何故に滅尽定を以って第一と為し
これは入れ替えるとこうなる。
>>何故に諸の禅定中に滅尽定を以って第一と為し
訓読の問題で、「禅定中に」となってるけど「禅定中で」と変えればこうなる
>>何故に諸の禅定中で滅尽定を以って第一と為し
だから、伝統的な九つの禅定の階梯の中で滅尽定が第一、最高という意味でしょ。
違うってんなら、納得できる理由を述べられないとね。
そして勝義と取るなら、伝統説と食い違うぜ、それも説明できないとね。
> 九つの禅定の階梯の中で滅尽定が第一、最高という意味でしょ ↑ 了解 おじゃる
900 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 10:23:04.85 ID:IswuZjgK
>>897 >ラーマクリシュナもだけど、アドヴァイタなんて、仏教の論理まんまだからね。
いや〜、全く違う。そう思うのは君がただ仏教を理解してないだけのこと。
彼らがアートマンと言わずに縁起・空性・無我・仮設と述べるなら、認めるが、そんな説のアドヴァイタを観たこと無いぞ。
そもそもアドヴァイタは、仏教の影響で成立した学派なんだよ。
だけど、アートマン説は譲れないから、その部分だけ温存して、説明体系を構築してる。
そしてその大成者であるシャンカラは、仏教を否定してる。
この傾向は、少なくとも14世紀まで確認できる。
ラーマクリシュナなどはアドヴァイタというより、カビールのようななんでも一元論系統でしょ。
それらを仏教側が仏教と同じと認めた人はいないんだわ。
901 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 10:23:57.08 ID:IswuZjgK
>>900 897で
>仏教とは全く別とは、(当事者達はともかく)外から見てると思えない。
と言ってる通り、仏教もアドヴァイタも互いに違うものだと主張するでしょう。当事者だから当然だけど。
あと、ここで言ってる同じは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が同じと言うのと同レベルの同じね。
903 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 10:35:30.91 ID:IswuZjgK
>>902 つまり、君は釈尊やシャンカラ以上に仏教とアドヴァイタが分かってると。
もう、言うことはないは。
そんな見方じゃ、何もわからんと思うは。
ラーマクリシュナの思想はともかく、 仮にラーマクリシュナが空性を悟っていたとして、それで滅尽定に至れるかってのが本旨でしょ そういえば道教の道士が空性に言及するケースも多いわな あれは歴史的に仏教が流入しているわけだが まあ、結論は任せるわ
>>903 なんで、そうなる。どこに、そんな事を書いた。
外から見れば、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が「同じ」律法使ってる様に、
外からみれば、仏教もアドヴァイタも「同じ」論理を使ってるだろ。(扱ってるものは同じでも解釈が全然違うけどなw)
ここで言う、ユダヤ教は、仏教に近く。アドヴァイタは、キリスト教。
イスラム教は、それらを統一しようとするまあ神智学みたいなものだと思えばいい。
ユダヤ教(仏教)から見れば、キリスト教(アドヴァイタ)は、俺達の律法(論理)に
新たに、新約(アートマン)見たいな、もの入れやがって、何やってんだよと言うのは当然だわなw
みたいな、感じだわ。なんか書いててい意味わからんくなってキタからこの辺にしとく。
>>904 道教の無は、仏教の空ではないよ。禅宗などは、別だが。
906 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 11:11:47.88 ID:IswuZjgK
>>905 >外からみれば、仏教もアドヴァイタも「同じ」論理を使ってるだろ。(扱ってるものは同じでも解釈が全然違うけどなw)
それが分かるってのは、釈尊、シャンカラより分かってるってことだぜ。わからんか?
律法みたいなマテリアルなものと違って、論理だからな?
まあ、何一つ問いに答えられない時点で、止めるべきだったと反省するは。
>>905 単純に仏教の影響が色濃いところが珍しくないって言ったのよ
別に無=空とか、そんな限定的なことは言ってないぜ
>>875 >んーなこたあ、ない。
であれば、いいんですけれどねぇ・・・。
けれども、
実際には“クリシュナムルティがあれば万事OK!”かというと、
そうはならないものと私は見ています。
では、ゴータマとクリシュナムルティの教え方の決定的な違いはどこなのか?
ゴータマの教えの場合には、
歩みにおける進歩の段階が説かれ、修得すべきものの体系がしっかりあるということ。
仏教学的な意味での体系化は遙か後代によるものでしょうが、
当時の原始教団においても(部派の教義ではない)原初の状態としての「四向四果(八輩)」と、
及び、実質上の「三十七菩提分法(道品法)」の体系があったものと推測されます。
これらがあることによって、出家はもちろんのこと、在家には在家なりの進歩が得られた。
しかしながら、
クリシュナムルティの場合にはこれらの“段階と体系”がスッポリとないのです。
尚且つ、“段階と体系”を持つこと自体に対しても否定的です。
私が危惧するのはこの部分なのです。
私が、クリシュナムルティは“目からウロコ落とし”の位置付けだとしているのはそういうこと。
ここに気付けないと、彼の絶対信奉者となる・・・。
>>870 >キリスト教文化圏にインドの宗教(哲学)を
>広めると言うのが、神智学の一つの目的として考えてもいいですよね。
思想の基本部分についてはほぼ同一ですけれど、
インド教(及びインド哲学)そのものを広めようという意図はなかったものと思います。
もちろん、欧米におけるインド教に対する“無知や偏見を取り払う方向性”での助力は惜しまない、
という感じかと。
インド教(及びインド哲学)そのもの、
またはその核となる精神性の基礎部分を広めようという確たる目的で欧米に出向いたのが、
ラーマクリシュナの直弟子、スワミ・ヴィヴェーカーナンダであったり、ババジ直系列のパラマ
ハンサ・ヨガナンダなどでした。
>神との合一つまり梵我一如などのは、どの様に説明しているのでしょう? 基本部分は同一です。 ただ、梵我一如そのものが誤解されていて、当時のゴータマの指摘にもあったように、 前段階の過程状態を梵我一如だと勘違いするバラモンたちが大勢いたのです。 この部分について神智学用語と分類とによって明確化を図ったのです。 バラモン教での梵我一如の「我」(アートマン)を輪廻する魂(シッディ)だと勘違いすることがないよう、 神智学では輪廻する魂(ジッディ)は真我(モナッド)の反映であり、 霊(スピリット)である真我が物質(肉体)を経験すべく、 その媒体としての魂を顕現して輪廻の旅を体験させているものとしました。 一定の必要経験を獲得した魂は最後にその役目を終了して、真我へと再び吸収されて消滅します。 ここで意識の焦点が魂に留まり続ける内はこれは果たされることがなく、 一度、“自己意識の完全死”を自覚した後に、真我が自己意識として立ち顕れてくるという体験が必要です。 尚、神智学の姿勢は、何教だけがゴールに達する唯一の道とすることはなく、 どこの宗教や道からもそれは達せられるものと見なします。 本当の進歩は個人によります。
補足:
>>908 >ここに気付けないと、彼の絶対信奉者となる・・・。
誤解を避けるべく補足しておきます。
彼の絶対信奉者らは気付くべきですが、
クリシュナムルティ自身は、「わたしに信奉者はいらない」と明言しました
(これが孤高の哲人としての彼の重要なメッセージです)。
教えの実践ことがすべてであって、
クリシュナムルティ個人に対する信奉と献身は無用だと。
(これが献身と崇拝行為への自戒の必要性/伝統仏教の反省点か・・・)
>>906 お前は、自意識過剰と固定観念が強すぎる。
みんながみんな仏教にお熱になるほど関心があるわけではないよ。
そういう人達(外)からみたら、「同じ」と、言うこと。そんだけ。
915 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 15:24:00.35 ID:IswuZjgK
>>914 我強いな。知らなきゃ語らなければいいだけだろ。
シッタカ指摘されたら、逆切れして非難かよ。
痛すぎる。
外見(そとみ)だけ見たら同じ。 どれだけ内実が優れていようと、その中身に珠玉のエッセンスが溢れていても、 一見して同じであるならば、深く入り込まない限り(→深く理解しない限り)そこに区別は見出されない。 そして、深く入り込まない者の方が、社会には圧倒的に多数を占める。 では、どうするか? ゴミの分別が如く、雑多な瓦礫と共に捨て去られる危険を避けるためにどうするか? それが「戒」(≒律)(…梵網経の)であり、「形式」(相、形相)であり、(顕われ出た)様相であろう。 フェラーリV12エンジンを積んだカローラも、止まっていれば只のカローラ。 エンジン音が響いたとき、或いは走らせて見て初めて、その違いが顕現する。 さて、 “仏法”は、カローラ車体(ヒンドゥ等インド教、或いは神智学)のV12エンジン(縁起、空)であろうか・・。 “仏教”は、フェラーリ車体のV12エンジンだろうか・・・。
お前らのなにかを侮辱しないと仏教を持ち上げられないのって何かの病気かね。
>>917 うどんとスパゲティは違うよ、という発言は侮辱?
○○よりも優れたる仏教という構図を取る時点で駄目駄目。
>>919 優れてるかどうか(≒適しているかどうか)は本人が決めることでしょ?
キリスト教の方が合うならキリスト教でいけばいい。
神智学が合うなら神智学でいけばいい。
それをわざわざ、「仏教とキリスト教は同じ」「仏教と神智学は同じ」と、
《わざわざ仏教に言及して、自分の立場を説明する必要はない》でしょ?
ってこと。キリスト教と仏教は違うし、神智学と仏教も違う。
ただそれだけのこと。
めんどくせえ寄ってくんなカス。
922 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 15:50:46.79 ID:IswuZjgK
>>921 めんどくせーカスはお前だろ
くだらねえ屁理屈捏ねて、論破されたら、罵倒か
自分の内心をとぼけるクズと無駄話したかないだけですが? なんで自身が大衆車のカローラを選び、フェラーリを選んだのかわかる気がないなら知らんがな。
>>911 訂正:
すみません、間違えました。
×「魂(シッディ)」
○「魂(ソウル)」
*シッディとは神通力のことで、
どちらかというと低レベル的意味合いの心霊力(サイキック能力)をさす場合が多い。
>>923 w
お前、
宝珠や在家、カラスその他がやってることの意味が全く見えてないじゃんかwwwww
やってることの意味? あいつらの行為にオナニー以上の意味があるなら教えて。
仏教的な意味での「識別」の概念について教えてください
>>885 俺が子供のころに比べれば今の生活は十分極楽だよ。
カラーテレビも自動車もあるし。
十分幸せなのに満たされないと思うのが不幸だな。
物質の豊かさだけで十分幸せなら、仏教はいらないでしょw
で、禅仏教での観照体というか、どの器官にも己がいないうつろな体験をしたときのその器官の働きがなくなったとき うつろはどこ行くのかってのは禅側はどう論じるんだ?
>>926 あれ?
今の一連のレスは、包括的姿勢を侮辱するな〜、という
彼等の姿勢を擁護してるのかと思ったわw
>>915 お前は、いきなりハイコンテクストすぎるんだよ。
最低限のコンセンサスも取れないまま議論が成り立つかよ
まずは、互いの一致点・相違点の確認からだろ
お前の様に、初めからall-or-nothingでは、ローコンテクストな
議論すら成り立たんわ。そこが、クリアできなければ
ファンダメンタリストと、聖書の歴史的事実を創作の部分を議論するくらい無意味。
>>931 なにそのストローマン。
自分の嫁を褒めるのに隣の奥さんより綺麗だとか失礼な相対評価で物言う馬鹿が居るか?
仏教を褒めちぎるのは構わんが、かこつけて他を貶めてんじゃねえや雑魚助。
過去スレのぞいていたのだが、無我と輪廻の話はどうなったの? 単純に推論して、無我と輪廻を矛盾なく説明しようとすると、迷いの魂なんてものは存在しなくなるんじゃないの? ということは、死後、迷いの魂なるものがある生物からちがう生物へまるまる転移するということはないってことだよね あらゆる環境の中の一つとしてある迷いの者が他の迷いの者へ影響を与えることはあったとしてもさ 禅の人たちじゃないが、則非の論理で解決のつく話ではあるが、問題は転生する迷いの本体なるものは存在しないということだよ。 つまり、この世で救えないと迷いの衆生は救えないということ。これじゃほとんどの仏教では救われないことになる。 これをどう読み解くのか、一家言あるかたは教えてください
935 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 20:15:42.41 ID:IswuZjgK
>>932 >最低限のコンセンサスも取れないまま議論が成り立つかよ
>まずは、互いの一致点・相違点の確認からだろ
オイオイ、最初から断定口調なのはお前さんでしょ。
まあ、やってられんから、勝手にしてくれよん
936 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 20:21:33.08 ID:IswuZjgK
>>936 それは分かるのだけど、たとえば火が燃えているのが消えたところで、火がどこへいったとは言わない。
火は消えただけだ。だが、人間の場合はちがう。燃えている命を我が物と思い込み、死後もありつづけると思い込む
この業に因果が働くのだろうか?仏教は物質主義ではないが、かと言って、一般的に生死を超えて名言種子や業種子を認めるものなのか
>>933 w
何にも見えてないじゃんw
貶めてなんかいない。 「違う」と言い続けているだけw
勝義の立場で無我を貫くなら、
そもそも肉体もなければ今現在生きてすらいないという見解になるのに、
なんでみんな揃って態々死後や魂や輪廻にばかりぶつけたがるんだろな。
>>938 はいはい、僕チンは違うといってるだけでちゅね。
無自覚な糞はほんとに糞だから困るわ。
そんな事を議論している内に人生が終わってしまうんだろうな
>>939 それはわかるのだけど、無我に生死はない。
だけど、人間の認識する一切は生きていることが前提になっているだろう
生きていることが前提となっておこる業に因果が働くか?仏教の見解が知りたい。
いや、みんなの考え方がというほうが正解かな
942 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 21:02:14.29 ID:IswuZjgK
>>937 >火は消えただけだ。だが、人間の場合はちがう。燃えている命を我が物と思い込み、死後もありつづけると思い込む
>この業に因果が働くのだろうか?仏教は物質主義ではないが、かと言って、一般的に生死を超えて名言種子や業種子を認めるものなのか
名言種子や業種子というのも仮設ですよ。本来は、業・サンスカーラというよくわからない潜在力を仮設したもの。
本当は釈尊が仰る通り実体的に考えられないもので、それを業・サンスカーラと仮説して呼んでいると思います。縁起というのも同じようなことです。
それでは分からない人、実体的に考えて何か基体がないと業が消えちゃうと考える人のために名言種子や業種子、アーラヤなどを方便として説いたと『入中論』は解釈してます。
私はこの解釈が縁起的だと思います。
>>942 おお、俺と同じだ。
だが、じゃあ、現生のほとんどの衆生が救われていない現実をどうする?苦から救われてないだろ
そして、死んだあと同じなら、救う必要もないと考える人もいるのじゃないか?
それをどう読み解くの?
944 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 21:06:49.21 ID:IswuZjgK
>>941 >だけど、人間の認識する一切は生きていることが前提になっているだろう
>生きていることが前提となっておこる業に因果が働くか?仏教の見解が知りたい。
そう。働く。それが無明による流転門の縁起。
その因果はあるけど、本質的に空性・無我で幻のようなものです。
しかし、そう見解で理解するだけでは意味がない。
それは戒を守り、定によって精神集中した上で、その見解で生滅を縁起・空で観ないと意味がない。
そこで観ることで、還滅門の縁起が起こり、無明が消滅し、煩悩から解脱する。
訂正 生きていることが前提となっておこる業に(生死を超えて)因果が働くか?仏教の見解が知りたい。
946 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 21:08:33.02 ID:IswuZjgK
>>945 業論掲げる人たちにしてみれば働くという見解なんでない?
いったい何が業を記憶して報復に赴くのかという話は別として。
>>946 それでいったいどれほどの人が救われるのか
あるいは、世間の人でも苦楽との付き合い方を感得する人もいる
仏教の力の無力さ、ひいては必要かも問われるものだと思うが、それだと
949 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 21:26:20.50 ID:IswuZjgK
>>948 仏教的には「世間の人でも苦楽との付き合い方を感得する」のは、根本的に解決にならないから、
そして仏教では、ちょっとした苦の解決も推奨するよ。半日だけでも戒を護るとか、しかし、政治とか社会事業というような方向に行くのは間違いだと確信する。
なぜなら、それは精神異常者が治療中なのに、他の精神病者を治療するようなもんだから。
だから、往々にして政治とか社会事業は最初は良い動機で始まっても、途中から悲惨な結果に終わることが多い。共産主義革命なんか典型でしょ。
>>947 でも、それ実証されてるわけじゃないよね
いくら禅定で幾千の生を重ねる夢をみたところで、それが実証になるとは思えない
ジっけ、そのような業の薫のようなものに感ずいたとしても生が前提となった観察にすぎない
生死を超えた因果の証明をどうして彼らが行いえたのか、それが疑問だわ
魂があると思う社会的な幻想が連鎖していくという面では輪廻があると仮定してもよいが
個人の業が個個に連鎖すると考えるのはやはりアートマン的な考え方が背景にあると思うけどなぁ
>>950 魂in肉体が生命で、魂go out肉体が死で、魂into肉体が生命誕生な生命観な人たちの思想だからな。
生きようが死のうが実際は魂を通してずっと個が継続してるって思想なんだからしょうがない。
肉体の転生なんてちょっと服を着替えた程度のことなんでしょ。
指先より脳、脳より魂が自己を継続する中心に近いという感覚なだけで、
魂が永遠不滅と言い出さない限り無我とは矛盾せんし勝義の立場からどうこう言う必要はないでしょ。
952 :
神も仏も名無しさん :2012/08/25(土) 21:37:59.86 ID:IswuZjgK
>>950 それは証明じゃなくて、直接知覚だから
その体験を信じるわけでしょう。例えば、今、自分が実在すると信じるように。
証明というのは後代、ダルマキールティ以降たくさん行われましたが、
結局、凡人にとって信じるか信じないかでしょう。
それは基本的に仏教を信じるか信じないかに繋がると思います。
別に信じない人は、信じなければいい。ただそれだけでしょう。
953 :
神も仏も名無しさん :2012/08/26(日) 00:04:34.21 ID:V1hENFnY
偉いお坊さんにお願いがあります。 どうか、★パチンコ問題を追及 糾弾していく51★に来てお説教してください。 パチンコは賭博で、人を惑わし、人を狂わせると思います。 ただの娯楽じゃないと思います。偉いお坊さんの考えを聞かせてください。 失礼しました。
>>876 閻魔大師
それは非想非非想処と何か「決定的な」違いはあるのでしょうか?
結局、禅定を細分化しただけで、あくまでも禅定内の物事に終止しているのでは?
正覚仏の教える仏教は、最終的に「覚った」結果として
「それは言葉で表現不能である(不立文字)」というような
サンジャヤ・ベーラッティプッタばりの教えに至るわけではないと思います。
もちろん、禅定を得るための教えとしては、アリだと思います。
でも禅定を得ることが、仏教の目的ではないでしょう。
禅定を目的とし、禅定の価値を専らとする範囲内においては、アールニー仙人、
ラーマプッタ仙人を蔑むことができましょうか?
そして禅定だけで覚ったと勘違いする外道に対して「決定的な違い」を握っている
正覚仏の仏教では、禅定を殊更取り上げて、前面に押し出すことはしません。
実際に仏門に入った修行者レベルの現場では、禅定は実際的な「手段」として日常的に
扱われるのだろうと思いますが、俗世間に対して教えを説く場面で、そんなものを
敢えて取り沙汰することはないでしょう。それでは外道と何ら違いがありませんから。
そもそもの「目的」からして決定的な違いがあるのです。
>>869 それは、どこを正統派と見なすかによるでしょうね。
ただ現主流派を正統派なんだと位置付けるのならば、
分派というのはすべて正統派に対する異端派扱いされることになります。
ご存知かもしれませんが、
歴史的に『神智学協会』というのはほぼ同時期に大分裂を起したのです。
しかし、どう見てもその根本的な原因というのは、
現主流派である国際本部インド・アディヤールのネオ神智学、
第二会長アニー・ベサントの後継団体にあったのであって、
ブラヴァツキーの死後を受け継いだベサントによる権威主義体制による悪運営で、
組織が腐敗堕落して空中分解したことにあります。
>>957 >正式に追放 ( >自分達の思想を神智学とは )
(伝統内の評価や実際の確執の様相の双方含め)、
ダイバダッタのような位置付けになるのかしらん?w
>>951 >>952 レスありがとう、今見返すとひどい内容でしたが
急いでたのでひどいことになってしまいました。
ただいまかえりましたので・・・。
960 :
1/2遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/26(日) 10:35:51.84 ID:HTCz7XKE
>>954 不説さん
>それは非想非非想処と何か「決定的な」違いはあるのでしょうか?
禅定・瞑想レベルと智慧(無分別智)とは別です。
しかし、学問的に分類分別して識りたいとも思いません。
識らない、と言っておきます。(それでも後述)
理屈で識らないと不安なのですか?(
>>312 >>325 )
失礼ですが、それじゃ 【?】氏とおなじ陥穽に落ちますよ。
961 :
2/2遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/26(日) 10:38:17.29 ID:HTCz7XKE
>そもそもの「目的」
『人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、
まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。』(マッジマ・ニカーヤ63)
この『現実に』という言葉はじつに重いですね。
ブッダは徹底したリアリスト(シュルレアリスム)です。
縁起の現実(あるがまま)です。 莫妄想です。(直接「現実」を透過した)間接『現実』です。
色即是空(坐水月道場:法灯明:直接現実) ← フィードバック → 空即是色(修空華万行:自灯明:間接現実)
>俗世間に対して教えを説く場面で、そんなものを
・総合コンサルタントの要諦 待機説法(
>>391 )
・本懐(
>>220 >>322 )
『ブッダに非想非非想処を伝授したラーマプトラ仙(修定主義)とブッダの違いは、
「実存苦の超克」という鋭い本懐・問題意識があるからこそ、
“非想非非想処定において”も尚働く無分別智(あるがままの縁起の現観をもたらす智慧)の発見(気づき)に繋がったのだ、と言っている。
「智慧」による「中道」の「悟り」というブッダの独創的なスタイルやウリ文句ができたのだ。
一般的な固定化されたマハーカッサパ教テキスト伝承化石「仏教」上の話ではない。』
>>961 議論スレで尋ねるにはナンセンスな質問かもしれんけど、
あなたは非想非非想処まで到達しているのか?
963 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/26(日) 13:31:51.07 ID:HTCz7XKE
>>962 >あなたは非想非非想処まで到達しているのか?
不識 & ノーコメント
964 :
神も仏も名無しさん :2012/08/26(日) 17:01:49.44 ID:pNzlt/ML
「実存苦」などという言葉を使うのは、やめるべきである。 「実存苦」は「実存楽」によって相殺され、その残高が「実存楽」の プラスになるからこそ、人類がこれまで生存してきたのである。 「実存苦」とは、釈迦の、中道に反した病的執着・煩悩に過ぎない ことを、精神医学的に理解する必要がある。 釈迦も、「苦を説く」ことに、「実存楽」を得、80歳過ぎまで 「実存」したのである。
輪廻転生と人格障害
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1338784341/794 794 名前:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. [] 投稿日:2012/08/26(日) 12:24:06.72 ID:yoYgF9Qx
>ただ世俗の言い習わしに沿って仮設するなら、魂、意識、心相続が輪廻するということもできる。
そもそも縁起一代氏は、「仮設」って意味をよくご存知ない。
だから、いくら一代氏と議論しても、話が噛み合うことはない。
簡単にいうと、仮設(仮説)ってのは「想定」のことだよ。
じゃあ、なんで想定として理論構築せねばならんのか?
ってとこを、縁起一代氏は分かってない。
これは無自性(本質・本体なるものはない)だからだ!!
無自性だから、そもそも理論構築は無理。
これを前提として、中論は構成されちょるんです。
このコンセンサスなくして、中論は語ちることは出来ない。
机www
痛過ぎるw
>>964 『 >「実存楽」 』とかw 新しいな。
けど、「実存苦」に対する“対概念”としては非常に興味深い・・。
が・・・ 『 >80歳過ぎまで「実存」したのである。 』
wwwwwwwwwwwww
それ、所謂《実存》じゃねーだろwww
隠居も相変わらずユルイ頭だ・・w
「実在」ではなく、わざわざ「実存」と表現するところには、「実在」とは違うニュアンスが込められるからだろが。
んとに、言葉の使用法に関してデリカシーが欠けとるな・・。
でもディオって、結局はカーズ様たちから見れば効率の良い餌にすぎないんだよな
>>957 ベイリー追放の件については、彼女が協会所属中に覚者からの通信を得て著作を発表した
ことが協会から異端視されたからでした。何故ならば、ベサントにとっては覚者と交信できるの
は、絶対に“アディヤール神智学協会の『秘教部門』のみ”でなければならなかったからで、こう
いったところにもベサントの権威主義が如何なく発揮されているわけです。
ところが、ハイアラキーの覚者方が選択するコンタクティというのは、そういう人間が勝手に線
引きした地位階級などは関係がなかった。寧ろ、これらの権威主義体制とか結晶化し、硬直し
てしまった組織やグループというのは、ハイアラキーの覚者方はその手足としてはもう使われる
ことがないということ。
従って、ブラヴァツキー亡き後の協会では覚者の直指導は二度となされなかったし、今後もな
いでしょう。そして協会は、今だに自分ら以外のところで覚者の通信が起こることはない、という
満心に陥ったままであり、これが実態なのです。
レーリッヒもまた、ほぼ同様の内容で脱会分派しています。
シュタイナーとクリシュナムルティ両名も協会のこの組織的活動の在り方にウンザリしたのであ
り、シュタイナーの場合はハイアラキーという概念そのものが受け入れられなかった。彼は本質
的に神秘主義的キリスト教徒であって、彼の個人的見解においては、最後までキリスト(マイトレ
ーヤ)の肉体次元の再臨などというアイディアは理解することができなかった。
そして、そこへきて協会総意としてのクリシュナムルティ・マイトレーヤ運動などというの、彼に
とってとても絶えられるものではありませんでした。
クリシュナムルティはハイアラキーに対する否定ではなかったけれども、組織活動とドグマ(教義)
の捉われから脱却する方向性において独自に歩みを進めていったということです。
>自分達の思想を神智学とは名乗っていないでしょ 覚者方のとられる包括的な精神を捻じ曲げてしまったのは一体、どこなのか? それにより、当時の有能な協会員たち大勢がいなくなってしまったという事実をお忘れですか? 例えばもしも、南方仏教が現大乗仏教の各宗門に仏教の看板を取下げるよう発令したらどうなる でしょうね・・・。 >神智学協会の会報誌や勉強会を見ても、彼らの名前が出てくることもないよ >まあそういうことだね 権威に従属するつもりなし。協会の公認などはこちらから願い下げです (もちろん協会が反省して、心を入換えて素直に認めるというのならば歓迎しますが)。 という姿勢にあるのではないかと、私は思いますが・・・ハテどうでしょう? *スレ違いということもあり、この件についてはこの辺にします。m(__)m
>>965 >簡単にいうと、仮設(仮説)ってのは「想定」のことだよ。
>これは無自性(本質・本体なるものはない)だからだ!!
>無自性だから、そもそも理論構築は無理。
ちょっと違うと思います。
実体無きものを論ずる際に仮設というのでしょう。
当然、肉体の維持存続と日常生活のすべてが仮設ということになるし、
この仮設は何も・・・・目に見えるものごとだけに限定するわけじゃない。
輪廻する機体も本物の実体ではなく、仮設です。
これは何も無いのではなくて、仮設としては存在しています。
肉体が在るのと同程度の意味合いとして。
971 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 06:37:26.96 ID:/32wHCz5
>>970 仮設というのは原語がプラジュニャプティで、潜在力としての行・業が世間に言い習わしによって記号化(ラベリング)されて表象されることを言う。
もちろん、無自性・空性だからできること。しかし、それを縁起・此縁性として論理だって説明したところ、そしてそれこそ無我・空性を覚るための観法であるところに仏教の本質がある。
このプラジュニャプティはニュートラルな非主体的概念だけど、だからこそ分かりにくいので、それを主体的にヴィジュニャプティと言い換えたのが唯識だと思われる。
ヴィジュニャプティは、同じ語形で二つの意味で使われる。
1. vi-√jñap+ktin 識、了。
2. vi-√jñā+ṇic+kti 教、表。
1.が唯識の識、つまり知覚、認識。2.は無表業の表。こちらは表象で、プラジュニャプティにより接近するように思われる。
いずれにせよ、机が全くなにも分かってないのは明らか。
机氏へ 年末の株購入正解でしたね、楽しいでしょ? 忙しかったので未購入で残念でした! 又、チャンスがあったら教えて下さい 今度はトライするかもです
>>970 >実体無きものを論ずる際に仮設というのでしょう。
これはそのとおり。
>これは何も無いのではなくて、仮設としては存在しています。
無自性だから、こういう論理はありえない。少しヒントを・・・
AとB(主客)は対立関係には成り得ない。→無自性だから。
よってAとBを仮設して論理構築。→本来はアリエナイ。
論理において縁起の理論構築。→これによってAとBは成立、→世俗締と名づく。
(空即是色)
AとBは無自性だから、これにおいてAとBは寂滅。
第一義締においてしかAとBは成立しない。ということだよ。→無我の説明
だから最初が(色即是空)。AとB(主客)は何ぞや?と問題提起。
色即是空は空即是色となる。
中論の偉大なとこは、仮設といふ論法において勝義締を導き出してるとこだよ。
つまりAとBの寂滅(戯論)において、自性を論破しちょるんです。
寂滅したもんが、心相続することはアリエナイんでつ。
何故なら、仮設(これが戯論)という論法手段でしかないもんが相続する訳がない。
974 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 09:11:55.40 ID:/32wHCz5
>>973 たく、規制なのに恥さらすなって、何も分かってないくせに
中論は勝義を導き出してるんじゃなくて、四句分別で諸法が実在するという戯論を寂滅に導いているわけ。
これが還滅門の縁起で、中道の観法、つまり中観なわけ。
しかも、中論24.18では逆に諸法がどのように仮設されるかも簡潔に示している。
これは詩句だけでは分からないから、諸註や、『入中論自註』や『中観荘厳論自註』
さらに、その根拠となった『勝義空性経』などを参照する必要がある。
仮設として因果がなければ、お前自身が書いてる言葉の意味や論理がないってことになるぜ。
ほんと、アホなんだって自覚した方が後生だぜ。
以上、他の人のために書いた。当分、これで誤解する人もそういないだろうから、勝手に妄想つらねてくれ
975 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 13:35:20.74 ID:/32wHCz5
>>974 >四句分別で諸法が実在するという戯論を寂滅に導いているわけ。
ちと、問題あり、以下に訂正しとく
四句分別で諸法が実在する、虚無であるといった戯論を寂滅に導いているわけ。
976 :
机龍之介@規制代行 :2012/08/27(月) 16:00:32.93 ID:4STxca85
>>975 >四句分別で諸法が実在する、虚無であるといった戯論を寂滅に導いているわけ。
無自性だから、そもそも四句分別という主客対立そのものの論理矛盾。
(これが自性だったら論理矛盾はしない)
じゃあ、無自性をどう立証するか?つまり自性(有部)を叩けるか?
って話になる。
貴殿だったらどうゆうふうに有部の矛盾を指摘する?
そうだね、私だったら「かのようであったなら」。と先ず仮設する。
これしか方法はないからね。
つまり縁起でしか無自性は語ちれない。
第一義が空(無差別)であって、主客(差別)そのものは二義である。つうことだね。
四句分別は主客対立だから、無自性では対立にならんだろ?
だから私は「先ず矛盾に気づけ」と、逝っておるんでつ。
977 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 16:15:15.33 ID:4hDsQpUH
>>970 「仮設」という言葉は、龍樹が、その説明の困難さの故に、苦し紛れに、
ついうっかりと使ってしまったのではないでしょうか。
「仮設」も実体だから、龍樹はたちまち矛盾に陥ってしまう。
彼の言いたかったのは、単に「関係性」という「抽象観念」による構成だから、
実体であっても自性はない、ということではないでしょうか。
>>970 >この仮設は何も・・・・目に見えるものごとだけに限定するわけじゃない。
>輪廻する基体も本物の実体ではなく、仮設です。
>肉体が在るのと同程度の意味合いとして。
w
どっちでも同じw
貴方に限らず皆そう。物質的なもの(≒肉体)についてしか言ってない。見えていない。
*(だから、(隠居の如く)心経の「色即是空」にしか言及しない。
五蘊全てについて見て、初めて意味のある文句なのに・・・。)
喜びも悲しみも怒りも憎しみも愛情も、心的事象もまた仮設なわけ。(勿論、概念や名称なぞ言わずもがな)
そこには、名色の別も無く、ただ諸法が縁起するのみ。
輪廻云々とか肉体云々とかじゃないの。
物質的なものを仮設と見ることが困難なのではなく、(およそあらゆる)諸法を仮設と見ることが困難なの。
そう、まさに、貴方や在家やカラス等「アートマン論者」のように・・。
979 :
遊びをせんとや生まれけむ :2012/08/27(月) 17:50:12.76 ID:xM3ZFGkV
おやおや、帰ってみれば、皆さん、面白そうですねえw
メシの支度+ファミリータイムなので、見学しときます。
>>977 >「仮設」も実体だから
>実体であっても自性はない
なんやそれ?新説か?
詳しい話を書いといてやw
「なにか」として人間が捉えたものが全て仮設であるというのはいいとして、 物自体への仏教的アプローチはどうすんだろね。
981 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 18:26:20.71 ID:iaVixb7H
>>980 物質(色)に対しては、四念処の「身不浄」さえ忘れなければよい。
また、「法無我」の法については、
意根・意識の対象である法境が無我(縁起・無自性・空)であるとわかれば充分。
つまり、肉体は綺麗じゃないし、心で考えたことははうさんくさいので、執着するな、と。
982 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 18:34:50.83 ID:4hDsQpUH
>>981 >つまり、肉体は綺麗じゃないし、心で考えたことははうさんくさいので、
>執着するな、と。
そんなこという奴は、宗教者としてばかりでなく、人間としての資格も
初めからない。浅薄さと人間差別極まりない。一体、どこのどいつか。
唯識は物自体も感覚器官も阿頼耶識がつくるもんだから、観念論じゃないの?物自体なんてものがない 有部は法体恒有だけど、この法ってのは五位七十五法のことかな、だったら物自体はあるね
984 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 19:49:04.41 ID:/32wHCz5
>>980 物自体というのは妄想、あるいは捉えられないものなら考えてもしかたないというのが仏教的アプローチ
>>981 そんな観念的なスローガンじゃないと思うよ
>>983 古唯識だとアーラヤも空でしょ。
985 :
絶対神 :2012/08/27(月) 20:13:53.89 ID:rvS59R7n
>>984 「そもそも、どうしようもない事を延々と考え続けるのが人間である」
『その結果、自殺する事も幾らでもある』
判らない事を考えてもしょうがないという論法では
「何の解決にもならない」
986 :
絶対神 :2012/08/27(月) 20:18:33.47 ID:rvS59R7n
「当たり前なんだが」 『疑問に明確に答えてもらう事はないにしても』 「問題点を解決して貰う事なしに「解決」はあり得ない」 なぜ、共産主義などが破綻するのかというと 『そもそも人間に理想社会を実現する「実力」がないからである』 人間には、「この世界の問題点を解決する力が、元々ないのである」 つまり、前から言っているように 「元々、現実を変える事なしに、問題の解決というのは「あり得ない」のである」 (そういう意味では、元々、「宗教」では、『誰も救われない』) 百万言、言葉を尽くすよりも、現実を変えて貰った方が 「よっぽどありがたいのである」
987 :
絶対神 :2012/08/27(月) 20:21:37.40 ID:rvS59R7n
「前から言っているが」 『人を本当に根本的に救えるのは『人間』ではない』 「「神」である」(この点、釈迦や、仏教は 根本的に誤っていると言わざるを得ない)
お金の登場以来、物理と同じく単位を相互変換できる便利な道具として使われてますが・・・・・・
>>986 それ、神はいないと言ってるのと同じ
物質を与えることで満足させられるつまり悪魔と取引しろということを言ってるわけで
990 :
絶対神 :2012/08/27(月) 20:26:43.15 ID:rvS59R7n
「単純に言った場合」 『人間が「真理」を知る必要なんて『元々ない』のである』 「単に、「神」に「問題点」を解決さえして貰えれば、「それでいいのだ」」 極論すれば、無病息災で、争いも悩みも苦しみもない世界を与えて貰えれば それでよいのであって 「何が正しいとか、何が真理であるかなどを」 『追及する必要はない』(それはあまり本質的な 問題ではない。寧ろ、現実的、物的な問題からの「逃避」にしか見えないなあ……) こう言ってはなんだけど、一般的に言って、社会的に成功していないから宗教に 人は逃げ場を求めるのであって 「世俗的に成功して満たされていれば、わざわざ宗教など求めないのではないか?」
991 :
絶対神 :2012/08/27(月) 20:33:37.00 ID:rvS59R7n
『ある面における「神」の「効能」は』 『「奇跡」の力で、人を救ってくれるとか』 「世の終わりに、永遠の楽園を齎してくれるとかいう面ばかりではなく」 『健全な「思考停止」をさせてくれるところだと思う』 「人は、「神」という言葉を持ち出した時に」 『そこで「追及」をやめる事が出来るのだ』 そういう意味では、「神」は『非常に人間の精神にとって良い存在である』
>>990 それがニーチェが言ったらしいけど
キリスト教徒のルサンチマンだ。
真理を放棄して偽の真理を植え付けられ偽の神を拝ませられているということだ。
おめでたいことだよ。
実際問題さ、科学の最先端についてそれほど詳しくは知らんが まあ、この世が素粒子とやらがCP対称性を失ったがゆえに仮に束の間存在しているような宇宙だとしても 人智においては、現象を説明するのに物をかんがえていかないといけないのはたしかなんじゃないのかね いうなれば、この世のものが縁起による仮合であるとしても、合わされた何物かを留意しないといけないのじゃないの? でないと、縁起によって流転するといっても、この世には法則がある。この法則はゆうなれば、いかに縁起するかの法則であるが その法則が、なぜ起こるかというと、この宇宙の固有性と言ってしまえば早いが、人智の及ぶ範囲内においても その物自体の固有性に依っているということが分かる。 たとえば、犬というものが同じ犬というものを量産していく現象について、縁起と言えるとはいえ、本質、より的確な言い方をすれば 犬という生物の生体機能、生態からそうであるから、と言った方が早いだろう
人生の幸不幸で人は真理探求の手を休めるものではない
真理探究は仏教の目指すところじゃないんだけど。
人間は本性上神であったし、目に見えるすべてが神であった。しかしそれを「知る」のは不可能だ…知る者が知られる者では有り得ないから
999 :
神も仏も名無しさん :2012/08/27(月) 20:48:41.88 ID:4hDsQpUH
>>992 ニーチェのいう「弱者のルサンチマン」とは、弱者が力では敵わない強者に
対抗するために、「愛」「神」「正義」「善」「倫理」などの観念を作り出すこと。
あなた方が神でなかったら、神など初めから存在しなかったしこれからも存在しないだろう。しかしあなた方は神であった
1001 :
1001 :
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