入中論自註の訳のクオリティってどんなもんなん?
注って細かくついてる?
クリティカルされたテキストとかってついてたりする?
947 :
神も仏も名無しさん:2012/11/25(日) 05:55:10.04 ID:QJunpQ5e
テルマってなんですか?
関係ないと思いますけど青山テルマやテルマエロマエなら知ってます。
949 :
神も仏も名無しさん:2012/11/25(日) 19:36:11.56 ID:QJunpQ5e
>>948 テルマとは教主以来、師から弟子へと次々に口伝えによって脈々と伝えられてきた口承の教えであるカマ、アーガマに対する言葉で、
成就者が未来の教化対象となる諸有情のために寺、岩、寺、心相続など様々な所に埋蔵・ 封印し、機が熟した時、聖者が埋蔵・ 封印を解いて取り出した教えを意味します。
大乗経典も同じだと思います。
950 :
神も仏も名無しさん:2012/11/26(月) 00:43:14.72 ID:aSJz9BgL
普通のチベット語とアムド方言ってどれぐらい違うの?
なんか具体例つきで教えて!
>>949 誰か天台チギさんにテルマについて、教えてあげるべきでしたね。
大日経ですら五時八教に組み込んでるんでしたっけ?
『中論』で否定されている「無我」と中論以降の大乗仏教が言っている「無我」の違いを教えてください。
953 :
神も仏も名無しさん:2012/11/28(水) 12:04:45.16 ID:zdtXWQee
>>952 逆にそのような違いがあると誰が言ってるのでしょうか?
できれば書籍や論文などを引用するか、書誌、頁数を教えてください。
難しい話じゃないです。第十八章についての初歩的な質問です。
雜阿含經卷第五
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=0099_,02,0032a21 T0099_.02.0032a22: 告仙尼。今當爲汝隨所樂説。佛告仙尼。色
T0099_.02.0032a23: 是常耶。爲無常耶。答言無常。世尊復問。仙
T0099_.02.0032a24: 尼。若無常者是苦耶。答言是苦。世尊復問
T0099_.02.0032a25: 仙尼。若無常苦是變易法。多聞聖弟子。寧於
T0099_.02.0032a26: 中見我異我相在不。答言。不也世尊。受想
T0099_.02.0032a27: 行識。亦復如是。復問。云何仙尼。色是如
T0099_.02.0032a28: 來耶。答言。不也世尊。受想行識。是如來
T0099_.02.0032a29: 耶。答言。不也世尊。復問。仙尼。異色有
T0099_.02.0032b01: 如來耶。異受想行識有如來耶。答言。不
T0099_.02.0032b02: 也世尊。復問。仙尼。色中有如來耶。受想
T0099_.02.0032b03: 行識中有如來耶。答言。不也世尊。復問。仙
T0099_.02.0032b04: 尼。如來中有色耶。如來中有受想行識耶。
T0099_.02.0032b05: 答言。不也世尊。復問。仙尼。非色非受想行
T0099_.02.0032b06: 識有如來耶。答言。不也世尊。佛告仙尼
見我異我相在不 − 我と見るか? 異我か? 相在か? 不か?
我でもない、異我でもない、相在でもない
中論の「我という自性はない」は同じ意味だと思います
>諸佛或?我 或?於無我
>諸法實相中 無我無非我
おそらく、私が勘違いしたのはココの部分ですね。
無我無非我を「我もなければ無我もない」見たいに訳されていた(空覚え)のをそのまま解釈しちゃったんだと思います。
あと上段では、我と無我なのに対して後半では、我と非我になってるのはなにか意味があるんですか?
「我という自性はない、それ故に、非我という自性もない」という意味だと思います
960 :
神も仏も名無しさん:2012/11/28(水) 13:53:19.08 ID:zdtXWQee
>>954 いや、逆にこちらの問いこそ簡単だと思いますが
では、誰かが言っているのではなく、アナタの個人的な考えなのですか?
でなければ、誰がどこで言っているか教えてください。
アナタご自身の疑問は解決されたかもしれませんが、知らない説なので後学のために教えてください
>>960 957にも書きましたが訳を読んで私がそう思ったということです。
読んだ訳は確か、中村元さんと梶山雄一さんだったと思います。
962 :
神も仏も名無しさん:2012/11/28(水) 15:10:44.12 ID:zdtXWQee
>>961 分かりました。
あれでは分かりませんよ。
釈尊と阿弥陀仏ってどう違うのですか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5 阿弥陀如来(あみだにょらい)とは、大乗仏教の如来の一つである。
梵名は「アミターバ」、あるいは「アミターユス」といい、それを「阿弥陀」と音写する。
「阿弥陀仏」ともいい、また略して「弥陀仏」ともいう。
梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。
無明の現世をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ(東方は薬師如来)。
三昧耶形は蓮の花(金剛界曼荼羅では開花した蓮華、胎蔵曼荼羅では開きかけた蓮華)。種子(種字)はキリーク。
真言・陀羅尼
小咒は、オン・アミリタ・テイセイ(新義真言宗等一部宗派では『テイゼイ』と読む)・カラ・ウン。
_ _ _
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E5%A6%82%E6%9D%A5 釈迦如来または釈迦牟尼仏は、仏教の開祖釈迦(ゴータマ・シッダッタ、ガウタマ・シッダールタ、瞿曇悉達多)を、仏(仏陀)として敬う呼び方。
上座部仏教(いわゆる小乗仏教)では、釈迦牟尼仏は現世における唯一の仏とみなされている。
最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(アラカン 如来十号の一)と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。
大乗仏教では、釈迦牟尼仏(釈迦如来)は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である。
また、三身説では仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。
真言
ノウマク・サンマンダ・ボダナン・バク
すいません。もっと分かりやすく簡潔にお願いできますか。
阿弥陀仏は、西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ仏(如来)である
釈迦は、現世の人々の前に現れた仏(如来)である
釈迦→古代インドに生まれた仏教の開祖
阿弥陀→ナンマイダーと唱えたら救ってくれるスーパーマン
968 :
神も仏も名無しさん:2012/11/30(金) 01:38:06.16 ID:JXsD0g7v
>>963 経典に出てくる話では、お釈迦様が弟子や信者に対して
阿弥陀仏や阿弥陀仏の建てた西方極楽浄土の存在を説いて、浄土に往生する方法を説いている。
釈尊はこの裟婆世界で「極楽浄土へ往け」と背中を押す仏で、
阿弥陀仏は「念仏すればもれなく極楽浄土へご招待」と迎えてくれる仏。
私達が今いる世界は裟婆世界で、その裟婆世界の仏がお釈迦様。
阿弥陀仏は西方極楽浄土と呼ばれる別世界の仏。
お釈迦様は2500年以上前に入滅されたが、
阿弥陀仏は寿命が無量であり今現在も西方極楽浄土で生きておられる。
自分も中論18章の、
『六 もろもろのブッダは、「我(アートマン)が有る」と仮説し、
「無我(アナートマン)である」とも説き、
また「アートマンなるものは無く、無我なるものは無い」とも説いた。』
の解釈は気になります。
これはつまり、
世諦として我を説き、勝義諦として無我を説き、
それらの二諦によって非我・非無我の中道、戯論寂滅への導く…という感じなんですか?
真実のありさまを見れば、我と説かれたものは我にあらず、無我と説かれたものは無我にあらず、という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91 我とは、バラモン教(のちヒンドゥー教)及び仏教上の概念。アートマン(梵我)。
仏教ではその教義的立場から、我というものに関して、実我(じつが)、仮我(けが)、真我(しんが)という区別を説いている。
このうち、「実我」(aatman)については、仏教はこれを否認して無我(anaatman)といい、非我(niraatman)という。
この語が存在について、その本質とか自性とかを意味するようになり、後には万物の髄とか本体とかを示すようになり、
ことに人間の生命現象の奥に潜んでいる本質存在と考えられるようになった。
ウパニシャッド
このような「実我」は仏教以前のウパニシャッド哲学で力説され、一方に「ブラフマン」(梵、braahman)との相即がいわれた。(梵我一如)
仏教では、ここで説かれるような実我を常一主宰と規定付けた。
すなわち、我は、常住であり、他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え、それは働きのうえで自由自在の力をもつとした。
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである。
釈迦はこのような実我観念を批判し、「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた。
これを色受想行識の五蘊について説き、人間生存は無我である 『 五蘊の仮和合したものである 』 から仮りの存在であると説いた。(五蘊仮和合)
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm 中論觀四諦品第二十四
諸仏は、二諦に依り、衆生に、説法される
一は、世俗諦
二は、第一義諦で
若し、人が、二諦を、分別することを知らなければ
則ち、深い、仏法の、真実の義を知らない
世俗諦とは、一切の法は、性空だが、而し
世間は、顛倒の故に、虚妄の法を生じ
世間には、是れが、実である
諸の、賢聖は、真に、顛倒の性を知るが故に
『一切の法は、皆、空で、無生だ』と知り
聖人には、是れが、第一義諦で、実と名づける
『衆因縁より、生ずる法を、わたしは、即ち、是れは空だ』と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
但だ、『衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた』
972 :
神も仏も名無しさん:2012/11/30(金) 04:54:52.73 ID:/eLmZq1R
973 :
神も仏も名無しさん:2012/11/30(金) 05:11:53.98 ID:/eLmZq1R
>>973 え?何も説いてないって事は、仏教の本来の教えは、無我ですら無いってこと?
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm 中論卷第四 龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯 觀如來品第二十二
空は則ち説けない空でなくても説けない
但だ仮名を以って説くのみだ
諸法の実相は性空であるが故に如来の滅後をこう思惟してはならない
有るか? 無いか? 有であり、無であるのか? と
如来は本より畢竟じて空なのだ
如来は戯論を過ぎるが
而し人は戯論を生ずる
_ _ _
人は戯論を生じているので
「我でもない非我でもない」と言う事柄に「固執するな」と言う事かもしれない
_ _ _
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 世尊は輪廻を説かれたのではなく、輪廻からの解脱を説かれた
世尊の時代、人々は(バラモンなどの)輪廻を信じていた
だから世尊は、(バラモンなどの)輪廻を方便として、正しい知恵を説かれた
あなたたちは、大きな激しい変化にばかり心を奪われたことだろう
「いつも」もまた無限の変化でできていることを、あなたたちは見なければならない
これまであなたたちは、(バラモンなどの)善行に励み、永遠ばかりを探してきた
だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない
あなたたちは、練習が必要だ
禅定に入ろうとする人は…
…この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
>>973 なるほど、確かにこの場合は非我・非無我まで説かれたとあるので、
世諦を我・無我とし、勝義諦を非我・非無我とした方が適切でしたね
>>974 吉蔵の中観解釈をかじった者ですが、
無我と理解する者は、我と理解する者よりは理解が深いですが、
諸仏菩薩と比べるとまだ誤りであるみたいです。
諸仏は我を世諦として、勝義諦としての無我に至らしめ、
我・無我を世諦として、勝義諦としての非我・非無我に至らしめる。
その非我・非無我(我は無く、無我なるものも無い)ということを見解として持って滞ることになるならば、
二(我・無我)、不二(非我・非無我)を世諦として、非二非不二に至らしめる。
つまり、「ブッダは何も説かなかった」25-24で示してくださったように、
言葉で表された「教」はすべて、戯論寂滅・言忘慮絶の「理」に導くための手段に過ぎない、ということだと思います。
そこを分からずに「無我」と聞いては「無我こそ理である」と自分の誤解を深めてしまうことに吉蔵は警鐘をならしているようです。
一方、方便のある者は、諸仏の説く有無が因縁(縁起)による有無であり、仮の有無であると正しく理解できるのだそうです。
理科の先生が「物質は原子からなります」と言うと、
皆は原子なるものが実在すると世界の中に求めるのは自然なことだと思いますが、
諸仏が「xがあります」といったとき、同様にxなる実在が世界にある、
と思い込んでは、うまくいかないのだと思います。
あくまで、"導き"のために説かれたのだと思います。
977 :
神も仏も名無しさん:2012/11/30(金) 13:10:19.29 ID:/eLmZq1R
>>974 教えは色々です。
勝義は教えではなく、本来の状態そのもの、戯論寂滅の境地自体なので、そこは教えも戯論、仮設ですから寂滅していますので。
>>976 おお! いいですね。その通りだと思います。
宮本啓一『仏教誕生』を読んだのですが、いろんな視点を知りたいと思うので、
他の仏教学者がブッダ像を語った本を読みたいと思います。
おすすめの本を教えてください。
>>963 釈尊は、
実在したゴータマ王子の史実としての生ける如来です。
対する阿弥陀如来というのは、
初期大乗グループがゾロアスター教からその概念を拝借してきたものです。
これは史実の如来ではなくて、ゾロアスター教の救世神だと思われます。
研究家によれば、
阿弥陀仏の原名「アミターバ」(amitAbha)は無量光を意味し、ゾロアスター教の光明神と結びつく。
また、別名「アミターユス」は無量寿と訳され、無限時間を指すズルワーン・アカラナと同じ意味になります。
阿弥陀仏の救世主的性格そのものがゾロアスター教の影響が濃厚で、
阿弥陀仏を説く教典そのものが、クシャーン朝時代に西北インドで成立したと考えられています。
「浄土」の概念は、「国土を浄める」意であり、ゾロアスター教のフラショー・クルティ、
すなわち“終末”の建てなおしにおける世界の浄化の影響をそこに見ることができます。
これらのことから、阿弥陀仏のゾロアスター教起源説は十分に説得力があります。
980 :
神も仏も名無しさん:2012/11/30(金) 19:36:11.44 ID:/eLmZq1R
>>978 概説: 優しい順
石飛道子『龍樹』
片山一良『パーリ仏教入門』
山口益『仏教思想入門』
ダライラマ『智慧の眼を開く』
パユットー『仏法』
水野弘元『仏教要語の基礎知識』
歴史:
古坂絋一『宗教史地図 仏教』
平川彰『仏教通史』
981 :
978:2012/11/30(金) 20:38:20.04 ID:Hqzbz9aU
>>980 ありがとうございます。
どの宗派にも属しないニュートラルな立場から文献学的に考えると、
宮元氏のいうようにしかならないんですかね?
宮元氏と同じような立場から、異論を唱えている学者っていますか?
982 :
神も仏も名無しさん:2012/11/30(金) 20:49:37.86 ID:/eLmZq1R
>>981 いえ、宮元さんは特殊です。
基本的にヒンドゥーと同じ、現象と実在、マーヤー・ブラフマン解釈なので。
あまり賛同する文献学者はいないように思います。
>>980に挙げたのは石飛先生以外、穏当で標準的な解釈ですよ。
石飛先生は、先鋭的ですが読みやすく実にニュートラルな立場から文献的に読まれていると思います。
ダライラマは大乗の伝統を、パユットーはテーラワーダの伝統説をやさしく述べています。
>>975 >世尊は輪廻を説かれたのではなく、輪廻からの解脱を説かれた
>世尊の時代、人々は(バラモンなどの)輪廻を信じていた
>だから世尊は、(バラモンなどの)輪廻を方便として、正しい知恵を説かれた
輪廻というのはバラモンから受け継いだ単なる方便などではなく
(こういうのは輪廻転生を信じられない唯物主義者が自己都合に合わせた勝手な説です)、
ゴータマ自らが、その大いなる超常的な能力でこれが現実に作用している自然法則であることを確認し、
その上で、大衆が輪廻に流されて苦しんでいる様と輪廻からの解脱の必要を説きました。
984 :
宝珠愚者@(規制代行):2012/12/01(土) 00:06:11.85 ID:+q5M+6li
『心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、けがれなく、やわらかで、たくみで、確立し
不動になったときに、多くの人々の死と生を知ることに心を向けた。すなわち、わたしは清浄で
超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑しい人と高
貴な人、美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従って
いるのを見た。
「じつにこれらの人々は身体で悪い行為をし、ことばで悪い行為をし、心で悪い行為をし、多く
の聖者を非難し、よこしまな見解をもち、よこしまな見解にもとづいて行為をする。かれらは身体
が壊れ死んだ後、悪い所、苦しい所、地獄に生まれる。また、他のこれらの人々は身体で善い
行為をし、ことばで善い行為をし、心で善い行為をし、多くの聖者を非難せず、正しい見解をもち、
正しい見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、善い所、天界に生まれる」と。
わたしは、このように清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。
すなわち、卑しい人と高貴な人、美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれ
ぞれの行為に従っているのを見た。バーラドゥヴァージャよ、これが夜の中間の部分において得ら
れた第二の明知である。
ここに無明が滅び明知が生じたのである。暗闇は消滅して光明が生じたのである。それはつと
め励み、努力している人に現れるのである。』(『マッジマ・ニカーヤ100/サンガーラヴァ経』)
>>983 >その大いなる超常的な能力で
普通の人には無理ってこと?
だったら、何のために仏教があるの?
普通の人に成し得ない教えじゃ意味ないじゃん。 (´・ω・`)
他の、自分にも成就可能性のあることを探した方がいいんじゃない?
ああ、だから仏教は人気がないのか・・・。
>>985 一般衆生には、
輪廻の実体の直接確認は無理ですけれど、
仏教の教えに従うことで輪廻からの解脱はできるということ。
尚、三学の修行が進んで一定の境地に達すれば、
行者は宿命智を得て自己における過去の全生涯を見て、
現在に至るまでの業の関りの因果をすべて確認できるとされています。
仏教は自らの体験によって確認していく道なのです。
中観派は諸法実相と考えるのですか?
これと般若心経の「是諸法空相」は矛盾しないのですか?
988 :
神も仏も名無しさん:2012/12/01(土) 22:50:32.49 ID:GSULR/xS
989 :
神も仏も名無しさん:2012/12/02(日) 00:01:15.00 ID:rf7WtTmW
般若心経の中に「是故空中無色声香味触法…」という箇所がありますが、
この「空中」とは、どういう意味なのでしょうか?
また、「空中」はそのあとに続く文章にかかっていますが、どこまでかかっているのでしょうか。
>>977 ありがとうございます!
『中論』18-8についても質問させてください。
これは要約すると、「四句がブッダの教えである」という内容に見えます。
一方、釈尊は四句を否定しました。これを仮に二諦に当てはめるとすれば、
世俗諦:四句 → 勝義諦:四句否定
となり、戯論寂滅へ導こうとしている、という理解でいいのでしょうか。
つまり、四句は四句ならざるものへ導くために仮に四句を仮設して説いたという。
991 :
神も仏も名無しさん:2012/12/02(日) 06:03:18.41 ID:DVjRNLZZ
>>989 玄奘訳ですね。
a:
T0251_.08.0848c06: 觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五
T0251_.08.0848c07: 蘊皆空。度一切苦厄。舍利子。色不異空。空不
T0251_.08.0848c08: 異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如
T0251_.08.0848c09: 是。舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨
T0251_.08.0848c10: 不増不減。
b:是故空中。
c:無色。無受想行識。無眼
T0251_.08.0848c11: 耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至
T0251_.08.0848c12: 無意識界。無無明。亦無無明盡。乃至無老死。
T0251_.08.0848c13: 亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。以無
T0251_.08.0848c14: 所得故。
aが、般若ハラミツで行じると五蘊はすべて空であると分かる。
bが、それゆえ空性(中身空っぽで実体がないということ)においては、
Cで挙げられる一切法すべて無いということです。
992 :
神も仏も名無しさん:2012/12/02(日) 06:13:18.40 ID:DVjRNLZZ
>>990 そうです。教え・法は四句という論理形式を取らざるえませんから。
そして『中論』18-9は戯論寂滅した実相を指していますが、
『中論』18-9という教え自体は他ならぬ四句という論理形式を取っています。
これが仮設に他なりません。
ですから、四句という仮設の教えによって、四句を遮断した中道を示し、
四句分別という戯論寂滅した実相・涅槃に導いているわけです。
これを空性の論証と考えたり、空性という見解を主張していると考えるなら、
それは明らかに四句分別の戯論の中にいることになるでしょう。
>>988 わかりました。仏教辞典を買うことに決めました。ありがとうございます。
994 :
神も仏も名無しさん:2012/12/03(月) 02:26:42.02 ID:K5incw8/
>>991 ありがとうございます。
「空性においては」の「空性」もよくわからない感じもしますが、
「勝義諦においては」と言うニュアンスでしょうか。
995 :
神も仏も名無しさん:
>>994 そこは空性と読んでください
xという相、姿形がない境地と考えれば意味が通ると思います。