☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート31

このエントリーをはてなブックマークに追加
102神も仏も名無しさん
>>101
> >通常の概念でも自己同一性などと変転を予定して使用されている事と何ら変わらず、
>
> この文が何を言っているのか分かりません。

自己同一性というのは変化する個の流れの中での一定の傾向として捉えられる概念で
諸法無我に独特な領域は無いのでは。
アイデンティティの訳語として作られた語なのでそちらが影響を受けているとも言えますが。

> >煩悩もその関係の中に生じているのであり無我概念はそこに変化を与えない。
>
> 「その」と「そこ」は上の文を指していると思いますが、その文が分からないので、意味がとれません。

諸法無我言う所の現象としての変転する関係を捉えての自己の上に表れるのが煩悩であるから、
無我にそもそも煩悩は内包されており概念導入によっては何ら変化が無いのでは。

という事です。質問内容伝わりますでしょうか。
103承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2012/06/23(土) 16:59:51.54 ID:sncTBiW+
>100
現代の論理学的視点から見ればそう思われるかも知れませんが、当時の時代背景、すなわち梵我思想などの迷信なども併せて考えてみては?
104神も仏も名無しさん:2012/06/23(土) 17:04:25.21 ID:6kH0zbgW
>>102
分かりました。その場合、同一性の基体となるなんらかの本質、アルケー、実体をも認めないのが諸法無我です。以下のようにです。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/31.html

例えばベルクソンのデュレが近い考え方に思えますが、確か明確に違ったと思います。
詳細は忘れてしまいましたけど。