仏教 議論スレッド 37

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640宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
>>622
>そして更にいうと、
>当時において現実に真我を実現してみせたのが、
>かのゴータマであったと。

追記/補足:
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宝珠----以前のメモより


しかし、マーガがブッダに対して、
「梵天(ブラフマー)に遭えた」とか「あなたは梵天に等しい」というときには、
それは、バラモンであるマーガにとっては、
ゴータマのことを“ブラフマン(梵)の化身としてのプラフマー(梵天)”として呼称しています。
それに対して、ゴータマはこれを拒絶することなく是認しているということなのです。

 『私(ブッダ)は梵となりたる<もの>であり、無比であり、
魔軍をほろぼしすべての敵を屈服させ、おそれることなく喜ぶ。』(Sn.561)

 Sn.561では、ゴータマは自分を「梵となりたる<もの>」(ブラフマンになった人)と述べていた
と(Sn.563もほぼ同様)。もうこうなってくると、やはり原語が読めない者には限界性がありますね。
中村氏訳の「わたしは神聖な者であり」(Sn.561)「神聖な者」(Sn.563)では分らないし、また特に
何の注釈もなかった。
 ただし、いわれてみれば、Sn.508(と、対する返答の509)には気付けないこともない部分ではあ
ります・・。『わたくしは今梵天をまのあたり見たのです。真にあなたはわれわれにとっては梵天に
等しいかただからです。』(Sn.508)中村氏訳

 『私(マーガ)はいま梵(Brahma)に遭うことができた。
あなたこそ本当に梵(Brahma)と等しい方である。』(Sn.508)
641宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2012/05/12(土) 21:22:53.59 ID:P7iKxCtC
そして、
 『ここで注意すべきことは、マーガがブッダに対して、ブラフマンに遭えたとか、ブラフマンに等しい
方であるとか言っているのに、ブッダは何の反応も示されずにその呼称・表現をそのまま受けてお
られることである。なぜなら、もしブッダがウパニシャッドのブラフマンを否定されたのであれば自分
自身をブラフマンと呼称されることを拒絶され、正しい呼称を教えられたに相違ないからである。考
えるにブッダはブラフマンの存在を認め、したがってアートマンの存在をも同時に認めておられたの
ではないか。前の例証のように、ブッダはブラフマンになった人であるから、他の人からブラフマン
に等しい方、ブラフマン!と呼称されても当然だと思っておられたのではないか。かくてブッダの自
己とはまさにブラフマン即アートマンのアートマンであったと考えられる。ただこれらの2・3例でもって
即断することは危険であるが、『スッタニパータ』でこのような表現が伝えられていることは、初期の
段階では、注目すべき点だといえる。』(田上太秀著『ブッダの自我と無我について』p46)
という考察をしています。

 これは相当、以上に重要な意味を持っていると思います。つまり、暗に内に肯定している姿勢が示
されているということ。