仏教 議論スレッド 37

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587宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
>>586
もちろん、ごく短文で簡単に述べることもできますが、
多分、殆ど説明として納得を与えられるものにはならないでしょうから、
説明なし、資料のコピーを再掲します(資料だけ)。

詳しくは過去ログをお願いします。
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html

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*無我とは、「我(アートマン)は無い」という意味ではない

 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。
これは、「主語+述語」の文の、述語に置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我
ではない)」ということで、「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我ではない」という意味
です。
 ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作るこ
とはできないのです。『ブッダ論理学』の【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱
うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざるものであることは、述べることができます。述語
には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出てきます。
 ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代
頃かな) これは、経典を作りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入っ
てくるということです。』(管理人エム/マニカナ掲示板過去ログ2739.)

  『これまで、伝統的な解釈に従って「無我」に「自己はない」という意味を便宜的に与えておいたが、
実際には、阿含経典では「無我」は「自己でない」の意で用いられていることがわかるだろう。ブッダが
「自己はない」は説きえないことがはっきりしている今となっては、これは当然のことだが。』
(石飛道子著『ブッダ論理学五つの難問』講談社刊)

『本来の無我説』(宝珠編集)
 http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm
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