>>927 旧約ではヤハウェはモーセの前で姿を表し、くっちゃべっているんだが(苦笑)
ま、聞く耳の無い人にいくらいってもしかたがないので聞く耳のある人に話そう。新約の書簡には、世の権力者に
逆らってはいけません。なぜなら彼等の裁きが神の裁きとなるからです。といった内容の記述がある。
たとえば人を殺す。捕まる。そして国という権力機関から死刑の裁きをうける。こういうことをキリスト教の裁きという。つまり
因果応報のことを言っているのだ。自分の気に食わない者は直接殺しまくる旧約の神の裁きとは根本的に意味が違う。
我々は本当は一つだ。他人を幸せにする者は自分自身を幸せにしている。いずれその果報は受けるだろう。
我々は本当は一つだ。他人を不幸にする者は、自分自身を不幸にしている。いずれその報いは受けるだろう。
我々は本当は一つだ。他人を殺す者は自分自身を殺している。人殺しは生きない。
だから殺してはならない。善い報いの最高の果報は、真理に至り、生ける者となることであり、
悪い報いの最悪なものは、滅びである。この世界は流転している。始まりあるものには必ず終わりがある。
それはこの宇宙も同じこと。御言葉という種は蒔かれた。それを受け取り真理の道を進むも、
御言葉を拒み続け滅びの道を進むも自分次第。御言葉を拒み続け、輪廻の輪の中、
今の時(宇宙)が終わるまでに真理を掴まない者の末路は、完全な滅びである。これをキリスト教では第二の死と呼ぶ。
こうなっては全ては手遅れである。この滅びも聖書では神の裁きと比喩されるが、
結局は因果応報。自業自得のことなのだ。イエスの教えは勿論のこと、原始仏典など読むと
随分道徳的なことが書いてある。我々は本当は一つだ。この真理を悟る者は、今生において道徳の完成こそ、
真理に至る道だと悟るだろう。