>>744 >仏教の根幹は「無我」ですから
それは専ら釈迦佛教(小乗仏教)の特殊性ではありませんか。釈迦は、己の
我(生命)を以って、我(生命)を否定し、生を苦(無明)として排除すると
いう矛盾を犯しました。
大乗仏教における無量寿仏や久遠実成の仏は、まさに生命ではありませんか。
如来蔵(仏性)は如何ですか。
竜樹も、下記のように、「生命」を聊かも排除してはいません。
「生死の世界は涅槃といかなる区別もない。また涅槃も生死といかなる区別も
ない。」(中論25:19)
「涅槃の限界がそのまま生死の限界である。この両者の辺際には、何らの微細
なる区別もない。」(中論25:20)
「如来の本性であるもの、それがそのまま生類の本性である。」(中論22:16)
「生類の本性」とは、「生命」であると解するべきでしょう。