>>232 地獄に落ちるとはどういうことか。正統派の仏教の説明をしたいと思います。
親鸞は、教行信証で、涅槃経という古い経典の一部を引用しています。父王を殺し、母后を幽
閉し、クーデターで王位を奪った阿闍世王と釈尊との対話です。阿闍世王は、釈尊と同時代に生
きた歴史上の人物で、クーデターも歴史上の事実だったそうです。
阿闍世王は、父を殺し、母を幽閉したことを非常に悔い、自分は地獄に堕ちるんじゃないかと
心配しています。釈迦は、次のように言います。
大王、たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非
有・非無にしてまたこれ有なりといえども、慙愧の人はすなわちすなわち非有とす。
阿闍世王よ。悟りというのは有るとも言えない。無いとも言えない。その上で、悟りは存在す
る。殺すというのも同じようなことだ。人殺しというのは有るとは言えない、無いとも言えない。
確かに人殺しというのは有るのだが、慙愧の人に対しては、人殺しは無いと言うべきなのだ。
慙は天に恥じること、愧は地に恥じること。慙愧とは、人殺しをした人がその行為を心から後
悔していることを言います。人殺しをしても、心から後悔している人に対し、お釈迦様は、人殺
しは存在しないといいます。
無慙愧の人はすなわち非無とす。果報を受くる者、これを名づけて「有」とす。
無慙愧の人つまり、人殺しをしても全く後悔しない人、そういう人には非無、つまり人殺しは
存在する。人殺しという事実はあるんだぞと教えるということです。人殺しを行っていれば、そ
の報いつまりお釈迦様から指弾を受けなければなりません。お釈迦様から指弾を受けるという報
いを受けなければなりません。地獄に堕ちるとは、お釈迦様から激しい指弾を受けるという意味
です。地獄に堕ちるぞと、そのように指弾を受けます。人殺しは有るとはそう言う意味です。
空見の人は、すなわち「非有」とす。有見の人は、すなわち「非無」とす。