仏教議論スレッド 5

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229神も仏も名無しさん
>>227
また違う話ですかw
そういう「正誤・常異常」(≒価値判断、内容・質の吟味)を見るかどうかという話ではありません。
それは、その次の段階の話です。

>>154は、『視線の対象となる或る事柄が、複数の視線を被り得る』ことを述べている。
『そのうちの一つ或いは幾つかが「誤っている、多数派から逸脱している」かどうか』は問題とされない。
『「質や角度の違う視線を複数生じさせ得る対象」であれば、喩えに用いられるモチーフとしては可である』、
ということだ。

だから、そのこと、『或る視線の対象が、複数の視線を被り得る』ということをお認めになりますか?
と問うているのです。(「正誤・常異常」は、その後での吟味に於いて分別されるものです。)
誤っていようが狂気だろうが、吟味の結果そう判断されようが、複数の視線を生じさせているならば、
154は正だし、歌舞伎(の書割)と富士山の喩えが並立されることに問題はありません。

 ※現に貴方は>>227で、
  「不特定多数の生活者(世間)の平均的視線」と「そこから逸脱した(狂気の)視線」の二つを
  自ら設定している。もしかしたら「後者を妄想である」と評するかもしれない。
  だが、それは上で述べたように154を偽とするものではない。
  それは、『複数の視線それぞれに対する評価』であって、「単一の視線しかない」ということではないからだ。
  狂気だろうが妄想だろうが、そこには(貴方自身が採用しているように)二つの視線が生じている。
  (評価としてのレスしか入れていない)貴方は、暗に154を認めているわけです。
  それを宜しとしない貴方は、必死で「質の違い」・「一方が誤りである」ことに触れ続け、
  あたかも、「(正しい視線を選び、評価することのアピールにより)正しいことを述べている」かの如く演出しているわけです。

(もう少し引っ張ってからにしようかと思ったが、面倒なのでまとめた。)