>>262 君こそ、その部分をよく読むことだ。
(有為と無為が対比されるにしても)、どこに、《無為なる「意識」の存在及び存続》が述べられている?
(少なくとも原始仏教の文脈では)、
《「有為でないもの」が、「無為」として見做されている(一括されている)だけ》だ。
だから、ウダーナ四節のような謂いになる。多種多様な別称が用いられる(用いられ得る)。
(参:
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1244362051/314)
そしてそれは、(おそらく最も重要なことの一つと思われるが)「所縁によってあるのでない」ということだ。
当然のことながら、《「意識」といった表現すらふさわしくない》。
たとえ≪『ニルヴァーナ』意識≫なぞと形容語句を加えたとて同じことだ。
だから「涅槃」に於いても、(場所的な語群を用いるしかないという言語(表現)の限界も含め)、
≪ThANa≫とも称され、「境地」と和訳(意訳)される。
それは、「働き(用)」があるものではない。
「相(姿かたち・様相)」があるものでもない。
「依存する個物(身・色等))」があるものでもない。
「体(固有の、自立独存・恒常する本体・核)」があるのでもない。
そのようなものが、どうして≪(【誰それの】)『意識』≫などと称されようか。
「状態」などと言い換えたとて同じこと。顛倒妄想に他ならない。