773 :
神も仏も名無しさん:
774 :
神も仏も名無しさん:2010/12/13(月) 21:12:29 ID:qsB6rR47
>>773 kattkoiihitodaのような考えの人間は、どこにでも沸いてくるゴキブリのような創価の狂信者。
775 :
神も仏も名無しさん:2010/12/13(月) 21:33:29 ID:LrY0zuhX
>>773 まず、日蓮のような排他的解釈は『法華経』でもなく、ましてや仏教ではありません。
『法華経』の説く一乗とは包括的な宥和の教えであるとインド・チベット・シナで解釈されています。
次に「四十余年未顕真実」という言葉は、以下のように大正大蔵経では『法華経』にも『無量義経』にもでてきません。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=四十餘年未顯眞實&mode=search&uop=1 『無量義経』の内容を要約した『法華玄義』が初出のようで、典拠のようです。
『無量義経』の内容も、四十年はそれぞれの人に応じて教えを説いたという意味で、他の教えを排他的に拒否するものではありません。
この考え方は、宥和的な一乗を説く法華経に通じると思います。
日蓮とは全く反対です。
因みにインド・チベットでは『法華経』より『般若経』や『華厳経』の方が重視されます。
もちろん、その人に合った教えが一番だと思います。
これだけが正しいというスタンスで教えないのが、縁起・空・仮設を基本とする仏教の本質だと思います。
>>775 (後代(≒現代)の)解釈としては「宥和的・包括的」一乗だとしても、
その出発点(→「発想・動機・意図」)として『蔑視・糾弾的優位性の宣言』であったことは否めないのでは?
777 :
神も仏も名無しさん:2010/12/13(月) 23:01:26 ID:LrY0zuhX
>>777 ふむ、前後二つを見る限り、予想通りの内容かな。
《排他的「三乗」(教え・手段)、【隔絶した】別個の「三乗」ではなく、
「他二乗」を【支分として】包含する「一乗、大乗」》
ということだと理解する。
その意味では、
>>773(及び日蓮的?w)のような『“排他的”一乗』説が斥けられることに異論を挟む必要はない。
*(尤も、そのような方向性を生じせしめる要素が最初から含有されていたことは認めるべきだと思うが・・。)
しかしながら、
時系列で言えば、
「方便・初級として他二乗乗(≒小乗)が説かれ、後に、真の教え・上級として大乗が説かれた」ということ、
構造的に見れば、
「悟り(仏智)へ向う爲の大道(大乗・一乗)の一部として他二乗がある」
「最終的仏智(最終ゴール)への中継点・通過点としての仮のゴール
(―それは、“あきらめさせない”為の“繋ぎの御褒美”的なもの―)として他二乗がある」ということは、
一乗・大乗が説かれる『理由』として、その最初期から意図されていたものといえるのではないか。
これが、上の*( )だし、
>>776で >出発点(→「発想・動機・意図」)、>蔑視・糾弾的優位性
と記した所以でもある。
そこには、明確に「悟りの深度」「手段としての有効性・適切性・上質性」に於ける、
言い換えれば「レベルの差としての」分別・区別がある。
こうした区別があるからこそ、『後から明かされる』のであり、
『到達点の別として(→如来・仏と阿羅漢の悟りの別として!)、
他二乗(声聞等)は阿羅漢止まり、大乗・一乗(菩薩)は仏に至り得る』という、優越性が担保される。
その意味では、一乗説或いは大乗という標榜は、(後々、排他的軽視の志向性を生じせしめたが如く)、
《その草創から、『「教え」の明確な差別化』こそが目的であった》と言い得るのではなかろうか。
779 :
神も仏も名無しさん:2010/12/14(火) 11:46:14 ID:tHGVfKDf
>>778 斉藤さんの見解もほとんど変わらない。前谷さんと生井先生の見解の方が鋭いし、説得力があるように思うよ。
大乗側から差別化・蔑視があったというのは誤解だと思う。
まあ、そういう日蓮みたいなしょうもない人もいたけど。
四諦・声聞乗の教えでは一切智の仏位に到達できない。
一切智の仏位と羅漢には大きな違いがある。
これは大乗側の勝手な言い分と思われてきたが、そうでないと思う。
今のところ文献学者でこの説を支持するのは石飛道子先生しか知らないが、
一切智・普賢行・誓願あたりは重要なことが、説かれていると思う。
いずれ明らかにしたいと思っているよん!
ちと、今のところ別の仕事をしてて当分先になりそうだけど。
>>779 言わんとする所は解る。
だが、今問いかけたのは、
《・『排他的ではないにしても、「悟りの質的違い」及び「方法論としての優劣」が、そこに存在するということ』
・『そうした「違い」「優劣」が、最初から意図されたこと』》
という2点が、「一乗説」「大乗という標榜」の骨子ではないのか?ということだ。
解釈として「宥和的である」というのは、「後付け」という批判を免れ得るのか?と。
>四諦・声聞乗の教えでは一切智の仏位に到達できない。
>一切智の仏位と羅漢には大きな違いがある。
>これは大乗側の【勝手な言い分と思われてきたが、そうでないと】思う。
とある通り、そこに(差別的)差異が存在することは明白だと思う。
(そしてそれこそが、「後代の排他性の種」であることも疑いなかろう?)
勿論、上座部に於いても、初めて法輪を転じたこと・おしえ(sAsana)の原点であることを最大の理由として、
諸々の弟子達(→阿羅漢)と釈尊(→ブッダ)との間に境界が設けられた事実はある。
*(神格化の一端として、銀幕のスターへと押し上げる庶民的感性を免れ切ってはいない。)
同様に、大乗仏教に於いても、
「仏法の難見であること、その行じ難きこと」を理由とした「スーパースターの渇望、設定」でないと言い切れるのか。
隠居相手に大乗小乗の(辞書的)解説をしたこともあるが、そうした流れの中で発せられた「一乗」「大乗」なる幟なれば、
「それは宥和的言辞である」というのは、【解釈の遡及】ではないのか。
>>779 >大乗側から差別化・蔑視があったというのは誤解だと思う。
実際に差別的・侮蔑的に用いられたかどうかが問題ではなく、
その言辞が、「誕生の時から既に差別(区別)的意味合いを持って生じた考え方」、
「【差異化することを目的とした】語・概念」であることは否定できないでしょう?ということ。
そして、この「差異化という事象が(必然的に)内包する排他性」の払拭(法)が、
まさに貴方が例に挙げた種々の解釈に他ならない。
だから、
「「一乗」「大乗」は、排他的言辞・考え方と捉えてはならない。そうではなく包括的言辞・考え方である」 と、
(【解釈上】、【受け止め方】としては)言い得ても、
原意・意図もまたそうであった、とは言い難いのではなかろうか?
782 :
神も仏も名無しさん:2010/12/14(火) 20:38:37 ID:tHGVfKDf
>>780-781 いやいや、パーリ・ニカーヤにもジャータカがあるでしょ。
ということは一切智とアルハットの違いを認めてるということだよ。
テーラワーダの教学は、そこら辺に自覚的ではないだけ。
そこを上手く説明したいけど、いまのところ自分の中でも論理構築できてないんです。
783 :
神も仏も名無しさん:2010/12/14(火) 20:40:25 ID:tHGVfKDf
そうそう、質問箱なので、これ以上は議論スレにでも。
といって詳細に論証できる時間はないけど。(^^)
784 :
773:2010/12/15(水) 01:23:24 ID:hYzc0nHn
回答ありがとうございます。
インターネットアーカイブで公開されている国訳大蔵経を見たところ
無量義経に「四十余年未顕真実」がありました。ですが昭和新編国訳大蔵経だと
「未(いま)だ曾(かつ)て實(じつ)を顯(あらわ)さず」となっていました。
これは大正大蔵経の無量義経にある
T0276_.09.0386b01: 種種説法。種種説法以方便力。四十餘年未
T0276_.09.0386b02: 曾顯實。是故衆生得道差別。不得疾成無上
という漢文に対応しているように見えます。大正大蔵経と昭和新編国訳大蔵経
で見られる文章が正式で、国訳大蔵経版は『法華玄義』から逆輸入したもの、ということでいいのでしょうか。
もう一つ「未(いま)だ曾(かつ)て實(じつ)を顯(あらわ)さず」は、真実が表れてない、
というのとはニュアンスは違うように感じられますが、否定的であるようにも見えます。
実が顕にされていなかった、とはどういうことなのでしょうか?
785 :
神も仏も名無しさん:2010/12/15(水) 06:38:37 ID:HziLlJFp
>>784 すいません。電子データで検索しかしなかったので詰めが甘かったようです。
実物を見てみますと、大正大蔵経は以下のように
T0276_.09.0386b01: 種種説法。種種説法以方便力。四十餘年未
T0276_.09.0386b02: 曾顯實。是故衆生得道差別。不得疾成無上
「四十餘年未曾顯實」としてますが、註で異読として宋・明・元・宮内庁本の四本は「四十餘年未顯眞實」としています。
大正大蔵経は高麗本を底本にしているからです。
高麗本の陰影と諸本との異同を記した中華大蔵経を見ますと、
資福藏、磧砂藏、普寧藏など六本が「四十餘年未顯眞實」としていると記していますので、無量義経に「四十余年未顕真実」という典拠がありました。
ですが、意味は先に書いた通りで違わないと思います。
「未曾顯實」も「未顯眞實」も、意味は同じで、「四十有余の間、真実を説かなかったので、衆生の道果に違いがあった」と言った意味だと思います。
だからといって、一乗は、他の教えを排斥する訳ではなく包括・宥和する教えであるというのは、引用した生井、前谷、斉藤の三先生の見解は一致しています。