兄弟たちよ、どなたかこの人たちに奨励の御言葉がありましたらどうぞお話くださいと言わせた。
そこでリンゴが立ち上がりテサロニケ人への手紙を引用した。
ご自身の御国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。(テサロニケ2:11)
416 :
ラピスラズリ-:2010/09/13(月) 21:54:17 ID:5mLQnPzX
>>415 聖書に照らして「グノーシス主義」に矛盾が無いのなら、グノーシスでさえも聖書に立脚した一つの
立場であると、認めなくてはならないと思います。
wikiからの引用
グノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるが故と考えた。
現象的に率直に、真摯に、迷妄や希望的観測を排して世界を眺めるとき、この宇宙はまさに
「善の宇宙」などではなく「悪の宇宙」に他ならないと考えた。これがグノーシス主義の
「反宇宙」論である。
宇宙が本来的に悪の宇宙であって、既存の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは、
誤謬であるとグノーシス主義では考えた。(中略)善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の
原因であれば、実は悪の神、「偽の神」である。しかしその場合、どこかに「真の神」が存在し
「真の世界」が存在するはずである。(以下略)
>>416 「グノーシス主義」にもいろいろあります。キリスト教グノーシス主義の場合は、
ユダヤ教・キリスト教の神は聖書にある造物主であり、それが最高神ですが、
グノーシス主義の場合、創造主は最高ではなく、その上にさらに至高神の存在を考えます。
やはりこのような聖書に立脚してない立場を認めるわけにはいかないと思います。
ピリピ人への手紙2:6-11
「キリストは、神様の身分でありながら、神と等しい者であることに、固執されず、御自分をなくして、しもべの身分になり、
人間と同じ者になられたのです。
人間の姿として現れ、へりくだり、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神様はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる御名をお与えになりました。
それは、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものがすべて、イエス様の御名にひざまずき、すべての者の舌が、
『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神様を褒め称えるようになるためです。」
419 :
前世は一在家:2010/09/13(月) 22:27:56 ID:M1gVmdQY
>>416 名前:ラピスラズリ- :2010/09/13(月) 21:54:17
(中略)善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因であれば、
実は悪の神、「偽の神」である。しかしその場合、どこかに「真の神」が存在し
「真の世界」が存在するはずである。(以下略)
私は師から創造主と火(日、陽)系統の神々と水(月、陰)系統の神々の存在を
伺っております。多分、明主様も説かれていたかと存じます。
永い間、この世を水(月、陰)系統の神々、優しい女神達が治めておりましたが、
近年火(日、陽)系統の神々が統治を交替されつつあるということです。
水(月、陰)系統の神々はアクエリアス神とも呼ばれていたでしょう。
「偽の神」とか「真の神」とかも、相対的な定義でしょうか。
人間界でも自民党が与党をおり、民主党が与党になれば自民党は野党になるのと
似ておりますね。
どちらの神々が正しいというよりも、ご性質とみ働きが違うという認識でよい
でしょう。
この教えは釈尊やイエスもご存知でも説かれなかった真理(法)の一つですが、
古神道系の天理、金光、大本、救世、真光では啓示として降りているかと推察
致します。
すまん。
ちょいと立ち寄った。
サロメって何処にいるかわかんないよね?
あ、でも今はいないのか…
う〜ん。
でもサンキュ!
>>423 いるよ。サロメコテじゃなく、いちばん怪しく長いコテ使ってんのがそう。
>>424 お、本当だ
低能を間違えて低脳って言うのはあのアホのクセだw
ありがとう!
426 :
前世は一在家:2010/09/14(火) 06:57:13 ID:rccz+FoX
質問板910 :神も仏も名無しさん:2010/09/14(火) 02:02:02
>Qを肯定するとしたら(二資料仮説を肯定するとしたら)、
>マルコによる福音書が大きな元になって共観福音書が出来上がった、という理解になる。
マルコ伝が最古の福音書というのは最有力説ですね。
トマス伝の発見により、Q資料の存在の可能性が高まったということ。
【私のスタンス】
・「イエス本来の教え」を検証する。ヨハネ教やパウロ教ではなく。
・グノーシスそのものを調べるわけではない。
・エイレナイオスの「福音書は四つだ!」宣言により、焚書された聖句を検証する。
・旧約と3共観に照らして判断基準とする。
・エッセネ派の使用した死海文書群(最古の旧約、宗規要覧)も参考にして照らす。
【主な調査点】
・死海文書から見たヨハネ伝、パウロ書簡の矛盾箇所の抽出。
・死海文書から見たナグハマディ文書の共通箇所の抽出。
尚、大乗仏教の検証には、原始仏典に照らしております。
427 :
前世は一在家:2010/09/14(火) 07:21:23 ID:36oBADqy
>>426 【検証1】 原罪
(宗規要覧)創造時に人は光の霊と闇の霊を受肉した。
(旧約)人は神の似姿、神の霊を宿している。
(トマス伝)全ての人は神性を宿している。
(マリア伝)人は心魂と欲心を宿している。罪というものはない。
パウロ教のアダムの原罪と矛盾していることが検証されますね。
異教の法華経の「全ての人は仏性を宿す。」の方が、パウロ教よりも真理(法)
を説いていると見なせるでしょう。
428 :
神も仏も名無しさん:2010/09/14(火) 07:23:47 ID:g+OPW+iE
このスレって、いとぴょんや、まちこのスレだったと思うんだけど、
遠慮も無しに埋めていることに、暴虐の快感が生じているのでは?
気持ち悪いよ。
429 :
ラピスラズリ- KoL:2010/09/14(火) 09:14:49 ID:EOMed+tH
430 :
ラピスラズリ- KoL:2010/09/14(火) 09:39:02 ID:EOMed+tH
431 :
神も仏も名無しさん:2010/09/14(火) 09:44:39 ID:g+OPW+iE
>>429 そう?では、いとぴょんには確認したのかな?
「いとぴょんや、まちこ」と書いた筈なんだけど。
いい加減なのは、キミなんじゃないのかな?
432 :
神も仏も名無しさん:2010/09/14(火) 09:53:49 ID:g+OPW+iE
「いとぴょんや、まちこ」という書き込みに対して、
(まちこは賛同している)というレスは、いとぴょんとまちこの同一視なんだろうか?
わけわかりませんけど。
433 :
神も仏も名無しさん:2010/09/14(火) 10:17:05 ID:g+OPW+iE
ラピス君って、全体主義なんだよね。
だから、いとぴょんとまちこに、まちこがOKなら無問題と思ってしまう。
ラピス君ってロンリネスに怯えるけど、ソリチュードを楽しめないタイプかな。
群れていれば幸せなら、かたまってりゃいいんじゃないの?
他の人に、絡まなきゃいいだけだと思うけどな。
434 :
ラピスラズリ- KoL:2010/09/14(火) 11:58:53 ID:EOMed+tH
愛する兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らが救われることです。
わたしは、彼らが神に対して熱心であることをはあかしする。だが、その熱心は深い知識によるものではないのです。
なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからです。
キリストは、すべて信じる者に神の義を得させるために、ユダヤ律法を終らせました。
モーセは、律法による正しい行いをする人は、その正しさによって生きる、と書きました。 しかし、信仰による神の義は、こう言っています、
「あなたは心の中、だれが天に引き上げられるかと言ってはならない」。それは、キリストを引き降ろすことになります。
また、「だれが底知れぬ所に下るのかと言ってはならない」。それは、キリストを死人の中から引き上げることになるからです。
では、なんと言っているのでしょうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口にあり、心にある」。この御言葉とは、
わたしたちが宣べ伝えている信仰の御言葉です。
すなわち、自分の口で、イエス様は主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエス様をよみがえらせ復活させたと信じるなら、
あなたは救われます。
なぜなら、人は心に信じて神の御前に正しい者とされ、口で告白して救われるからです。 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」
と言っています。
ユダヤ人とギリシヤ人との差別はありません。同じ主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵みを下さるからです。
なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」と書いてあるからです。
436 :
前世は一在家:2010/09/14(火) 22:17:57 ID:wR6U39Yn
>>430 :ラピスラズリ- KoL:2010/09/14(火) 09:39:02 ID:EOMed+tH
>議論はタイミングが大切ですので、時機を逸しないで下さい。
一応、レスを貼っておきましたが、私も色々な世界(スレ)で対話することは
限度がありますので、予めご了承願います。
437 :
ラピスラズリ- KoL:2010/09/14(火) 23:04:26 ID:EOMed+tH
>>436 それならば、この議論はこのスレ(エクレシア教会)に集約させましょう。
実際にも議論宝石には荒らしが入ってきましたので、私も不快に感じていました。
なお議論宝石に在家さんへの返事はしておきましたので、同スレの525番コメだけは
読んでおいて下さい。
438 :
ラピスラズリ- KoL:2010/09/14(火) 23:25:22 ID:EOMed+tH
在家さんの日ユ同祖論については、その主張の終着点としては、どのような結論なり提案が
用意されているのか、示してください。
439 :
通りすがり一在家:2010/09/14(火) 23:53:24 ID:U4X+Vk8S
>>438 日ユ同祖論は、主に三つの立場がある(Wiki)。
1.古代イスラエルの「失われた10支族」が、日本に来たという説。
2.古代イスラエルの「失われた10支族」のみならず、12支族全てが、日本に来たという説。
3.古代日本人が、ユダヤ人の先祖であるという説。
1.の検証から入って、何年かかっても3.の検証を目標としております。
440 :
ラピスラズリ- KoL:2010/09/15(水) 00:26:59 ID:xJZxK8jr
>>439 >>438は、そのような意味ではありません。
仮に、
>>439の1〜3のいずれが正解であっても構わないのですが、左記が証明された暁には
どういった成果なり変化が私たちにもたらされるのかという質問です。
おそらく在家さんは、
「神道と聖書との共通性が確認されることにより、宗教界から万教帰一の機運が生まれ、
この動きが世界平和への原動力になる」
といった答を準備されているのだとは、予想しています。
神武天皇より三代前に当たる神足別豊鋤天皇時代の末期以降の時代に、
日の本全島において大地震が相次いで三回に亘って発生し、大災害に見舞われた。
その被害の度合いが極めて甚大であったがために、当時の日本列島の住民は、
その生活様式を再び太古時代の姿に戻して、穴居生活を再開せざるを得ない程の
窮地に追い込まれた。それと同時に、その時点までの長い間、全世界人類の
文化生活を指導して来た日本独特の文化はほぼ完全に滅亡し尽くしたのである。
このような混乱荒廃の最中に、皇統第七十三代を受け継がれた神武天皇は、
皇兄五瀬尊天皇と共に我が”日の本”の復興に力を尽くされたのである。すなわち
神武天皇は、御即位後”日の本”の文化復興方針を具体的に確定された。
その内容は次のようなものである。
(一)皇祖皇宗の時代には地球上の支國(えだくに)の文化を指導する立場に
あった日の本の國が荒廃の中に在る現実を考えて、一時的に世界を統理する権限を完全に放棄すること。
(二)かつて皇祖皇宗の時代の指導成育によって確立された世界中に存在する支國の
文化を逆輸入して日の本の國の文化復興の素材とすること。
これらの事は非常に重大な意味を持つものであった。何故ならば、それが神武天皇御即位以来
今日に至るまでの極めて長い期間に亘って國内政治の一貫した方針として定着することになったからである。
http://plaza.rakuten.co.jp/OmMaNiPadMeHum/diary/200704050000/
神の国とその義を求めれば、次のことが起こります。
詩編103
わたしの魂よ、主をたたえよ。
わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。
わたしの魂よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何一つ忘れてはならない。
主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から購い出してくださる。
慈しみと憐れみの冠を授け、ながらえる限り良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。
☆イエス・キリストを主としたものは、罪を赦され、神に繋がります。
そして、神の国へ入れます。
エフェソ1:8
事実、私達は恵みにより信じることにより、神の国へと入れます。
このことは、自らの力ではなく、神の賜物です。
主をほめたたえよ。その聖所で神をほめたたえよ。その御力の現れる大空で主をほめたたえよ。
その大能のはたらきのゆえに主をほめたたえよ。その優れて大いなることのゆえに主をほめたたえよ。
ラッパの声をもって主をほめたたえよ。立琴と琴とをもって主をほめたたえよ。
鼓と踊りとをもって主をほめたたえよ。緒琴と笛とをもって主をほめたたえよ。
音の高いシンバルをもって主をほめたたえよ。鳴り響くシンバルをもって主をほめたたえよ。
息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。主をほめたたえよ。
(詩篇150:1-6)
リンゴさん、おはようございます。
やはり、キリスト教質問箱にお邪魔します。
宜しく、お願いします。
>>444 まちこさん、おはよう。ぜひそうしてください。
御言葉だけでもみなさん、喜びます。
446 :
神も仏も名無しさん:2010/09/19(日) 19:07:25 ID:PWvkcZHL
209 :ろりぽっぷ ◆epMrs1963. :2010/09/11(土) 21:25:10 ID:BJUV3NHF
ごめん。このスレって基本的に、
病気のクリスチャンの話でループするのがデフォだと思っていたから、
一体何がスレの趣旨なのか分からんかった。
215 :まちこ ◆mVQWRBLduE :2010/09/12(日) 22:28:17 ID:FOX1Fqpo
ろりぽっぷさんにとって、イエス・キリストの十字架は、
意味が無いということですか?
216 :ろりぽっぷ ◆epMrs1963. :2010/09/12(日) 22:47:10 ID:RK8U5PHD
>>215 へ?イエス・キリストの十字架によって、
神と人との間の断絶が繋がった、ということではないんですか?
そのようにわたしは捉えています。
276 :ろりぽっぷ ◆epMrs1963. :2010/09/19(日) 16:54:23 ID:xYiujgj/
つきみ氏と風氏は穴熊なのに、仲間割れしたらつまらん。
278 :ろりぽっぷ ◆epMrs1963. :2010/09/19(日) 18:21:36 ID:xYiujgj/
まぁ。まちこ氏も、分からないことは素直に「分からない」と言えばいいしと思うよ。
不条理に見えること、聖書でいえばヨブ記とか、
しょっちゅう聞かれている、
「病気のクリスチャンは救われていないのか?」という問題に関しても、
すぐにつじつまを合わせようとしないで、
答えを祈り求め続けて行く、という姿勢も、もう少し示してもいいと思うよ。
それを意地張って、即答しようと思うから、つじつまが合わなくなって、
かえって突っ込まれるんじゃないの?とは思う。
癒し主 救い主 117
447 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/23(木) 09:27:30 ID:McDUpjz+
「三位一体」
この父・子・聖霊は聖書のどこに書いてあるだろうかと言う端的な問いがあると
思うが、マタイ[28:19]などが代表的な例とされている。キリスト没後300年ほど
経って開かれたニケーア公会議の際には、アリウス派が「キリストは預言者である」
として神性を否定していたのだ。しかし、各宗派のメインストリームとして
三位一体は位置づけられることになった。父なる神と、神の存在の現れとしての
聖霊、そして人間として遣わされた子なるイエス。しかし、人としてのイエスの神性は
増していった。
三位一体という言葉を最初に使ったのは、アンティオケのテオフィリスだとされる。
かれは、「私は、神と言葉と叡智と、そして男が存在すると考えており、それは
三位一体のようだ」と語った。これが三位一体という言葉の起源だろう。
テオフィリスは2世紀の人物だが、3世紀に入ってタートゥリアンが「父、子、聖霊
が一つのエッセンスとして一人の人格に宿った」とした。これがニケーア公会議で
認められたようだ。
ニケーア公会議では「神は神、光は光、大いなる神は大いなる神として存在し、
作られたものではなく、一体となって父の中に存在する」というドクトリンが
公表された。
キリスト教の初期の段階では、聖霊は伝道を行ううえでの「神の力」を意味したようだ。
「父、子、聖霊の名の下に伝道を推進すべきである」とされた。
ヨハネの福音書では「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。」という。ことばはイエス・キリストを喩えているとされるが、
神「とともに」あった、神「で」あった。という表現の「矛盾」も指摘されているようだ。
448 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/23(木) 12:37:44 ID:McDUpjz+
新約聖書においては「三位一体」という記述はないが、この考えを基盤にしている
のは明らかであるとされる。キリスト教初期の伝道者たちは、神の力が自分たちに
あると信じ、それを「聖霊」と呼んでいた。やがて、父と子、聖霊の教えを伝道する
偉大なる任務を自分たちは担っているという確信に変わっていく。
一方で、ユダヤ教などでは「神とキリスト」という対置がなされたこともあり、この
三位一体という発想は必ずしも必然ではなく、一つの「考え方」として相対的に
考えることも出来る。
旧約聖書においては、「主のことば」(詩篇[33:6])「主の霊」(イザヤ書[61:1])
「知恵」(箴言[10:1])などの「3つのことば」がみられ、創世記18章で
アブラハムの前に現れた人が三人であり、預言者や律法者であったことから、
この3つのことばが「父」「子」「聖霊」と解釈されたのだろうとされている。
しかし、旧約聖書から「三位一体」を導き出すのは「無理があるのではないか」
というのが現在の通説のようだ。
449 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/23(木) 14:30:46 ID:McDUpjz+
三位一体を語る上で、ヨハネ[14:25-26]は重要な意味を持つ。
イエスが「父があなたがたに聖霊をつかわし、すべてを話す」と言っているのだ。
このことは、父と聖霊が別の存在であることを意味し、また、イエスとも異なる
存在であることを意味するのだ。
キリスト教社会の共通認識としては、これらを前提にしながらも、「父」も「子」も「聖霊」
も「神」であるが、この三つは異なる存在であるとされるのだ。
異なる存在でありながら、一つの神格に属するのだ。
ヨハネの手紙第三では、イエスの王国と、現在の社会の双方においてイエスは
救い主であるとされている。このヨハネの手紙第三は何世紀にもわたり三位一体
に関する論争の的となった。しかし、イザヤ[9:6]を参照して議論を終息させた。
イザヤではイエスは「力ある神、永遠の父、平和の君」とされており、イエスの王国
のみならず、現実社会にも君臨することが明らかになったのだ。
英語では「4番目のゴスペル」と書いてあったので「ヨハネの手紙第三」と解釈
しましたが、皆さんの方が詳しいかも知れません。
しかし、「現実社会にも君臨する」かどうかは、各宗派が「教義によって解決した」
とされているようです。
450 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/23(木) 16:33:18 ID:McDUpjz+
後世の芸術家は、父と子、聖霊を、3つの人物として描いたりした。
教会を守る彫刻としてそのような作品があるのだ。
しかし、ヨハネ[10:30]で、イエスは「わたしと父とはひとつです」と言っている。
いろんな角度から議論された歴史があるのだ。
以上のことから、聖書の記述でもっとも影響力のある記述は、マタイ[28:19]なのだ。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、
父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け。」
451 :
ラピスラズリ-KoD:2010/09/23(木) 22:38:49 ID:iAT+PShw
452 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/24(金) 10:00:45 ID:mHXbDh6L
「Body&Soul」トマス・アクィナス
スタンフォード百科事典は非常に長く、興味のある部分だけ読んでみた。
たまたま、アイドルグループSPEEDに同タイトルの曲があったからだが。
トマス・アクィナスは、霊魂と肉体の関係を考察するに当たって、二元説
に立つとされたが、トマスは興味深い描写をしている。たとえば、「腕」
を人間から切り離したら、腕は存在するものの人体として機能しないだろう
ということから、人間の霊魂も、これと同じように考えるというアプローチを
とる。さらに、人間の理性を動物と比較する。合理性という意味では、神も
天使も決して合理的な存在ではない。しかし、理性という意味では人間は
動物とは一線を画し、神や天使に近いとする。トマスは「食事」「出産」の
側面では人間と動物は同じではないかという問題意識があったようだ。
トマスは霊魂と肉体の議論では、二元論に立ちながら物理主義者だった
とされているようだ。
英語文献は、決して衒学的ではなく、非常に読みやすい。
それにしても、トマスは少年の頃「主要7科目」の教育を受けたとされるが、
その中に「音楽」があるのだ。チャイコフスキーを聴きながら奇妙な気分になって
しまったな。一体どんな教育を行っていたのだろうか。
453 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/24(金) 12:53:43 ID:mHXbDh6L
「知覚と思考」トマス・アクイナス
まだ最初しか読んでいないので、あとでちゃんとまとめておこうと思うが、
トマス・アクイナスは、見る・聞く・触るなどの知覚に関しては独特の考え
を持っていた。
見るというのは、見ていない状態に比べると「色を認識している」とする。
触るというのは、例えば手で物を触ると「体温の移動がある」とするのだ。
実に独特の考えで、現在の通説とは思えないが、たとえば、靴の裏に
ガムがついても我々は気がつくが、あれは体温の移動はないだろう。
非常に興味深い人物だ。
知覚に関しては、人体の器官によって行うということをトマスは上記のたとえで
表現したが、物質的でないものをどのように知覚するかということを、アリストテレス
を引用して「考える」という知覚の方法をとるとした。
しかし、これでは、キリストが死んで、再び肉体を得たことを説明できない。
ギリシャ哲学とキリスト教の接合はまさにこの部分に存在する。
人間の「魂」(Soul)という概念を生み出しているのだ。
ここでまさに「Body&Soul」の問題意識が生じている。
454 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/26(日) 11:32:32 ID:/9dxOiBL
「キリスト教と哲学」トマス・アクィナス
トマスが哲学者であり理論家であるという部分には疑いはないが、キリスト教信仰
は、ときに、考えることをやめてしまう。信仰には考える余地はない部分がある。
しかし、トマスは哲学者であった。彼に信仰への忠実さがあったのは事実だが、
トマスは「批判に耐えうる」哲学を構築しようとしたのだ。それは、それまでの議論の
蓄積を踏まえていなければならず、彼にとってそれはアリストテレス哲学だった。
物質主義的に物事をとらえ、ギリシャ哲学の「考える」ということばの意味を探求しながらも、
彼は、人間が不朽の存在であるというキリスト教の教義を踏まえていた。
それが彼の哲学の基盤だったのだ。
455 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/26(日) 11:53:49 ID:/9dxOiBL
「トマスとアリストテレスの関係」トマス・アクィナス
トマスの業績を哲学と理論学に分類した場合、哲学の分野ではアリストテレスの影響が
きわめて強い。しかし、彼は新プラトン学派にも造詣が深く、哲学の蓄積を踏まえていた。
そうでなければ、彼が「哲学者」として歴史の一ページに刻まれることはなかった。
しかし、トマスはアリストテレスに直接影響を受けていたのだ。
456 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/26(日) 12:14:01 ID:/9dxOiBL
「哲学の探求の意味」トマス・アクィナス
トマスにとって、哲学は「科学を覆う傘」であった。数学にせよ、理論物理学にせよ
心の働き=考えるという作業が基盤になければならないとした。しかし、トマスは
理論物理学にも「経験」を要求していたのだ。実践がなければ科学は意味を成さない。
一方で、トマスは形而上学を、神聖なるもの、の発見をするうえで、哲学のゴール地点
ですらあるとする。
457 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/26(日) 17:07:04 ID:/9dxOiBL
「物理的存在について」トマス・アクィナス
この、トマスの物理学に関しては、時代の制約もあり、かなり陳腐化しているのは
否めない。しかし、アリストテレス哲学にもとづいて物理的存在の定義を行っている。
物体がどのような過程を経てどのように変化するかは、我々の認識にかかっている
とする。物があることが知覚でき、その「物」が我々の知っている法則によって支配
されていることを物理学と呼んだようだ。
物が混乱の中から分類可能になるのは、まるで赤ん坊がすべての男性を父親だと思い、
すべての女性を母親だと思うことから、やがて特定の男女を、父親・母親と見分けが
つくようになるようなもので、人間は物体をそのように認識しているのだろう、とする。
この記述は、トマスもアリストテレスの解釈で非常に悩んだそうだ。
時代の制約というものだろう。
458 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/26(日) 19:23:33 ID:/9dxOiBL
「神」トマス・アクィナス
トマスは「神は存在する」ということばを問題にする。神が存在するかは「分かるわけがない」
しかし、この「神は存在する」という言葉自体が神の存在を前提にしているではないか
とする。神の存在がどのように証明されるかは「5つの方法」をトマスは発表している
らしいが、結局は、キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、イスラム教であれ、各自の
「信心深さ」に求める以外にないとするのだ。
世の中にはいろんな経験が満ち溢れている。その中で各自が見出せばいいだけの
ことだとする。
非常に頭のいい人ですね。
459 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/27(月) 10:27:47 ID:RHYcdCs9
「トマス道徳哲学」トマス・アクィナス
人間は、どんな職業についていようが、その役割をしっかりと果たそうとする。
その職業においては、彼の健康状態がいいか悪いかなどは問題にならない。
役割を立派に果たすことが「良きもの」とされる。人間は良き人間になろうと
思うし、幸せになろうと願う。しかし、忘れてはならないのは、現世での幸福
は不完全であるということだ。人間は理性と美徳にしたがって生きることにより、
現世では不完全な「幸福」が、来世では完全な幸福になる。
しかし、どんな人間も完璧に理性と美徳にしたがって生きることは出来ないのだ。
それは人間が天使に劣る部分でもある。誰だって間違いは犯すものだ。
聖人君子のように生きれば来世に完全な幸福が得られるとまでは要求しない。
もっと緩やかに「理性と美徳」を念頭においておけば、来世には完全な幸福が
得られるようになっているのだ。
これが「トマス道徳哲学」の概要だ。
460 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/09/27(月) 16:28:26 ID:RHYcdCs9
俺も断片的にしか知らないのだが、少なくとも、トマス・アクィナスは「神は不合理」
「現世では完全な幸福は得られない」ということは認識している。
それではあまりにも救いがないので、キリスト教に基づく「来世」というのを想定
している。
しかし、時代が下り、キルケゴールなどは率直に「死とは虚無を見つめることであり、
そうであるからこそ『生』のありようも分かるはずである」としている。
現代人にはキルケゴールの方が説得力があるのではないだろうか。
「来世」という「空手形」を切るカトリックの「死」が「神は死んだ」ということの意味である
気がしてならない。
461 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/10/01(金) 23:05:22 ID:RgogpI+H
「弱いものは常に間違っている」ヒューゴー・グロティウス
グロティウスは、実務を熱心にこなした研究者だった。
代表的著作は「戦争と平和の法」(DIP)「海洋自由論」(DIB)の二つだ。
哲学者としては、ルソーが「ホッブスは哲学的に語り、グロティウスは詩的に
語っただけで、同じことを言っている」と辛らつに批判している。
たしかに、哲学の分野でグロティウスが引用されることは少ないのだ。
しかし、彼は7人の子供を育て、収入を求めて実務をこなしたのだ。
彼は、戦争はなぜ起きるのか、富は何に由来するか、など、現代においても
非常に論争的な議論の端緒を開いていることは見逃してはならない。
462 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2010/10/01(金) 23:08:07 ID:RgogpI+H
「自然法の論争の幕開け」グロティウス
自然法という言葉がまず問題となる。「自然」というのは人間の本質・本性を
意味するのに対し、「法」というのは文字に書かれた規範を意味する。
この二つの言葉をつなげたことから、この「自然法」という言葉は、歴史的には
カントよりも長い期間、哲学の世界に存在することになった。
しかし、この言葉の抽象性は無限定であり「神にしたがわなければ罰せられる」
とすら言えてしまうのだ。キリスト教社会とその他の社会での自然法は同じなのか?
そのような議論もあった。
グロティウスは、人間の自己保存の欲求と、人間が社会に依存している現実に
目をつけた。人間が社会で生きていくうえでの「調和」を自然法に求めたのだ。
トマス・アクィナスは「義務とは優れたものに劣ったものがしたがうことである」
と言ったが、グロティウスはこの考えとは一線を画している。
あくまでも、自己保存の欲求と、人間が社会で生きていかなければならない現実
という観点から義務は生じると考えたのだ。
463 :
糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :
「エホバの証人Jehovah's Witnesses」は、1870年代にアメリカで生まれた
キリスト教系の宗教団体(団体自体は「ものみの塔watchtower」と称している)
である。世界各地に広がっており、日本でも戦前の1920年代から「灯台社」
という名のもとで活動していた。「兵役を拒否した日本人〜灯台社の戦時下抵抗」
という稲垣真美という人の著作がある。団体自体の発表している統計によれば、
現在、日本には22万人弱の信者がいるという。「王国会館」と呼ばれる施設をもち、
二人一組で個別訪問を行っていることはよく知られている。
聖書中にある「血を食べてはならない」(創世記9章3,4節や申命記12章23−25節
など)という教えは輸血によって血を体内に取り入れることにも当てはまるとする。
「命を創造者からの賜物として尊重する人々は、血を取り入れることによって
命を支えようとはしない」というのだ。
平成4年に悪性の肝臓血管腫との診断を受けたエホバの証人の主婦が、
輸血をしないで手術が行えるのは東京大学医科学研究所付属病院だけだと
考え、9月に手術を行ったが、手術の際に出血がひどく、医者は輸血を行った。
患者がこの事実を知ったのは、本件輸血の事実があったことを知った週刊誌の
取材申込みが10月に病院にあったことから、11月の退院時に病院側が輸血の
事実を告げたのだ。