【最終】輪廻転生説はどう扱うべきか!?【決着】1

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828絶対神:2009/11/15(日) 18:06:08 ID:BWhVCh1K
元々、生まれ変わりとは、キリスト教でいう楽園でのアダムとイブの堕罪と
一緒で、

「人間はどうしてこんなに不条理で不幸な体験を多くするんだろう、この世界
 のシステムはいったいどうなっているんだろう?」

という言ってみれば、「不幸の根源」を、「不条理の根源」を、理屈付けようと
して生まれただけのものだと思うよ。

だからどうしても突き詰めて考えれば、おかしなところが出てくるんだよ。
たとえば、アダムとイブの場合は、そんなに遠い昔の人間が神にそむいた事なんて
知るか! という気になるし。
輪廻の場合は、ダイレクトに障害者差別に繋がる、という風にね。

     『ある意味、根本的に無理のある理屈なんだと思う』
829絶対神:2009/11/15(日) 18:15:44 ID:BWhVCh1K
    「いや、自灯明なんてどこの宗教の教祖でも言ってるけどさ」

たとえば、聖書のイエスの自分絶対者宣言とか、そういうのは「後の時代の弟子
のねつ造」である事が判ってるよ。

寧ろ、ワリと平凡な言葉だと思う。
麻原だって言ってたらしいしね。

もし、釈迦が「自灯明」なんて言ったとしたら、根本的に錯誤しているね。

「人間が自分の頭で考えて、人生における絶対の律=真理なんて判る訳ないもの」
830前スレ10:2009/11/15(日) 19:51:12 ID:C8feEU5w
以下、連投失礼します
>>797
>もともと五蘊仮和合なんだから、最初から主体は無我ですよね。
ですからね、何度も指摘してますが、貴方の言うように、輪廻を想定すると、
輪廻する主体が必要になるわけです。
そして、その輪廻の主体は、常住でないと「輪廻」はおかしなことになりますよね?
「五蘊仮和合の無常の我」と、「貴方の主張する輪廻する我」は、天と地程の違いがあります。
両者が同じ「我」と命名してあるからといって、同じものだとしないで下さい。

>輪廻があると言うのは世俗諦の話です。
またぞろ「世俗諦と勝義諦」が出てきましたが、
後半の説明を読んだ限りでは、「輪廻は無い」と言う結論でよろしいんですか?
なら、今まで散々説明してきたのは何だったんですか?
831前スレ10:2009/11/15(日) 19:51:32 ID:C8feEU5w
>>799
又横スレですが、
「すべてのできごとが過去の業のせい、ではない。」と言うなら、業のせいにする必要も無いと思うんですが……

そして、貴方が業のせいだと言っている、「生まれた環境」こそ、差別につながる問題だと思います。
「あなたの性格が歪んだのは、貧しい家に生まれたからで、それは過去の業のせいだ」と、言うおつもりですか?
生まれた瞬間から持っている先天的疾患についても、過去の業のせいですか?
832前スレ10:2009/11/15(日) 19:52:10 ID:C8feEU5w
>>808
>深い禅定をマスターすれば経験できるかもしれません
>そのレベルに達した上で「実際やってみたら違った、嘘だった」と確かめないかぎり、 嘘だとも断言できません。
なんとも都合のいい理論ですね。
修行しても理解できない場合は、「修行が足りない」と言えばいいんですから。

何度も言いますが、
「業報輪廻は仏教徒専用の理論」なら、普遍的真理であるかの様な語り口は止めてください。
普遍的真理だと主張するなら、根拠をお示し下さい。
どちらも出来ないなら、発言をおやめ下さい。
833前スレ10:2009/11/15(日) 19:53:22 ID:C8feEU5w
>>812
先ず、誤解が有るようですが、古代インド人がもっとも恐れた苦しみは「死」です。
 (余談ですが、古代インド人が輪廻と言う迷信の中でもっとも恐れたのは、
  「悪い所に生を受ける事(再生)」ではなく、
  「死に続けないといけない事(再死)」だそうです)
そして、その次に恐れたことが、生きている間に受ける苦しみです。
ですから、死んで苦しみを逃れると言う発想はありえません。
「苦しみの無い生き方を模索する」と言うのが仏教の目的だと思います。

次に、煩悩が苦しみの原因であるので、死ねば煩悩も無くなり、苦しみも発生しなくなります。
(原因がなくなるので、結果がなくなるのは当然ですよね?)
よって、死後も苦しみが消えないと言う事はありえません。

貴方の主張は、死後も「煩悩」をもつ「主体」が残り、その主体が苦しむと言う、
単なる「霊魂」信仰に過ぎませんよ?
834前スレ10:2009/11/15(日) 19:53:40 ID:C8feEU5w
>>818
え〜と、だいぶ違うと思いますが……
仏教で言う場合は、「満足しなさい」ではなく、
「現状で実際に病気なんだから、いくら悩んでも祈っても願っても現状が変わる訳は無い。
だから、そこを悩んでも、しょうがない。
しょうがない事は受け入れて、どうにかできる部分をどうにかしましょう。」
という事だと思います。
「病気は前世の業(お前)の責任だ!」と言うのとは、雲泥の差がありますよね?
835前スレ10:2009/11/15(日) 19:54:59 ID:C8feEU5w
>>826
煩悩肯定論ですか…。
釈迦は、苦の原因は煩悩(無明)であると見抜かれ、煩悩を「滅する」事で苦から脱する事を説かれたんだと思います。
煩悩と一体化というとカッコいいですが、それでは、野生の動物は全て悟りを開いて成仏してしまいます。
欲望の赴くままに生きれば成仏してしまうんですか?

以下、個人的意見ですが、
基本的に、仏教は、非社会的、反倫理的教えだと思うんです。
社会を維持する為には煩悩は必須であり、
仏教が社会的にも有用だと示したいあまり、
煩悩を肯定する風潮がありますが、それは誤りだと思います。
また、修行の助けとして、心身を整える為に善行を行いますが、善行そのものに、悟りに至る「力」は無いと思います。
仏教が道徳的だと示したいあまり、善行自体に「力」が有るような意見も、よく見ます。

あくまで、悟りに至るには、智により、無明(煩悩)を滅する以外に方法が無いと思います。

連投失礼しました。
8361/6 セブン:2009/11/15(日) 20:56:10 ID:K1MdG47i
私は、《単純に「無我と“輪廻(或いは転生)”が抵触する」》と言っているのではない。
それ(「輪廻と無我が抵触する場合」)は、
《輪廻(或いは転生)に際し、「業力を(或いは業果)継承する主体が想定されている場合」抵触する》ということだ。
 ※ 少なくともこれまでは『そうした“主体ありきの輪廻・転生”意見』にしか出会っていなかったし、
  今でも、肯定論者の9割がそのスタンスだろう。 (そうでないのは極々一部だwww)
  ※※ 私が提示したのは、《寧ろ、「三世に跨った輪廻及び転生」こそが、「縁起」に(或いは因果律に)抵触するのではないか?》
     ということ。(詳細は過去スレ。)
   ※※※ 宝珠がスレを建てるまで、私は「輪廻及び転生」を蚊帳の外に置いてきたし、必要な時に
       「仏教ではこれこれこのように言われます」と触れるに留めてきたし、それで事足りてきた。
       今後もそうするつもりだし、誰かさんは「それは世俗的方便だ」と評していたが、
       輪廻自体が世俗の方便なんだろ?w 咎められる謂れもなかろう?w
       ただ、誰かさん(AB或いはC)のおかげで、「厭離の基盤」であり「解脱の語義とのリンク」等を鑑みれば、
       やはり適度に触れたほうが良いとも思った。そして、その時の「主体なき輪廻」についての語り口は、
       幾つか自分で試みた分も含め、大変勉強になった。いい喩えにもいっぱい触れることができた。
       その意味では、宝珠にも(!www)感謝に堪えないw

“主体を立てない輪廻(或いは転生)”に関しては、
勿論、《【仏教の枠内では】無矛盾であり整合性が取れている》と思っている。
(おそらく相手は10氏だったろうが)、稚拙ながら何度か解説もさせて貰った。
8372/6 セブン:2009/11/15(日) 20:57:00 ID:K1MdG47i


だから、ここから先が分水嶺となる。(量子力学や相対性理論を言い出す者もいるがw)、
そこまで仔細な、専門的な領域に入らずとも、日常レベルでの名色の変異をどう受け止めるかという部分で。
(宝珠はつまみ食い的引用しかしないのでスルーとしてw)、沙門果経に述べられるように、
今、現象している(縁起している)この肉体(色)を離れての名或いは想・行・識はない。
このことの反例・反証は古代の文献(聖典)以外に存在しない。(宿命通も同じ。)

リアルに、如実に、自身の心身を観察して見えてくるのは「無常なる五蘊」「縁起する五蘊」だ。
勿論、インドの世界観、仏教の世界観として、「生成と破壊の繰り返し」「無始劫来の輪廻」があることは承知だ。
が、それは現代宇宙論や或いは科学、物理学等でも同じこと。
人が、始原を問うこと・辿りつく事の一歩手前で立ち止まる諦観はあろう。
しかし、【始原を問えない】からと言って、
「輪廻し、生まれ変わり、継続してゆく事象((更新されつつの)存在)」を想定する必要はあるまい?
8383/6 セブン:2009/11/15(日) 20:58:12 ID:K1MdG47i
事象の連鎖に断裂が見られた時、その時初めて「断滅」「断見」となるが、“世界”はそうではない。
“世界”は間断なく繋がっている(連鎖している)。
《「如実に見る時」「そこに“常”も“”断」もない》と言われる時、それはまさしくその通りであろう。
逆に、「輪廻を(転生を)認めなければ断滅となる」と言う時、それは、
《『断滅する何ものか』が、そこに想定されている》。
 → ≪いったい、【何が】断滅なのか(断滅するのか)?≫
 → ≪【断滅してはならない何ものか】が断滅する思想・考え方・見解だから批判されるのならば、
     【それは何か】? そして、それは【恒常的に存在する】ことを意味しないのか?≫
「心」と称しようが「識」と称しようが「霊魂」と称しようが「アートマン」と称しようが、「意識」と称しようが、何も変わらない。
【それらは(教義上・伝統上)継続せねばならないもの】だから、
【断滅せず】【継承され】【過去のデータは蓄積され続け】、
【「心」として、或いは「意識」として、【その在り様・要素・性質のまま!】存在し続ける】。
どなたかさんが、無常であり、変転している、そうした移相を言うかもしれないが、
おっとどっこいだ。 この変転の仕方である限り、(世俗的名称としての)ラベルが貼り替えられているだけで、
その中身は常住だよw  だろ?w

「因により縁により諸法は生じ、また滅す」と言う時、「それを見、知り、頷く」時、
スパンの長さ(三世に跨るかどうか)は関係ない。
(寧ろ、そのスパンを過・現・未と区分すること自体が、如実に見ることに反する。
 誰かさんが言った「輪廻は世俗のことである」「勝義にはない」という台詞にも見える通りだ。)

そして、「人の意識が、死によって(=肉体の壊滅によって)そこに生じなくなる」という
現代の(世俗の!)常識(≒知見)がまさしくその通りである“可能性w”は依然として残っている。
これを覆した聖者はいない筈だ。
8394/6 セブン:2009/11/15(日) 21:32:25 ID:K1MdG47i
問う。
「風化し、摩滅し、細かな塵となって雲散霧消した石を
 “断滅(した)”と(「石という(世俗的)存在」の断滅と)見るのか?」。
「心停止し、止まった血液の【流れ】を『血液の流れの断滅』と見るのか?」。
風化し、摩滅し、散逸した【石の在り様の果】を断滅と見るなら、【血液の“流れ”の停止】を断滅と見るなら、
上記の場合の人の意識を断滅と見做すのも筋が通る。
が、そうでないならば、人の意識にも又、「断滅」という表現をもってくるべきではない。
「人の意識(≒「心」)だけが、滅せず継続されてゆくのか?」 そして、
「滅して、また所縁によって生じる時、(それは“別もの”であるわけだが)、
 ここを繋ぐ『業力』を納得し得るかどうか?」が、2つ目の分水嶺だ。
ほか全ての事象が、生じ滅し、事象として変遷継続してゆく際に、
過去のデータが関与し、且つそれが抽出可能であることなどない。
唯一、「心」「意識」だけが、それを可能としている。
 (※勿論、業(業力)を積み得るのがまさしく「心」「意識」だけだ、という方向性もあるが、今は措く。)
ここに於いて、『転生が無ければ断滅だ』という指摘の背後に見えるのは、
≪人の意識を特別視し、【継続すべき事象である】と見做している≫ことに他ならない。
上(>>838)で指摘する通りだ。
まるで、因により縁により生じ、継続し、滅するものであることを忘れているかのようだ。

間断なく連続している事象の連鎖に於いて、過去世・現世・来世を区分すること自体が既に迷いであろう?
だから「願望」だと、「来世での帳尻合わせを願う根性」だと批判した。
意識が脳の所産であって、なぜ仏教と(縁起と)抵触するのか不思議でしょうがない。
【抵触しているのは】【三世に跨った輪廻《のみ》】だ。
 (※私の立場は、《「血流」と「意識」「心」とを同格・等価・等質に見做す》ものだと思って貰えばいい。
   「意識」だけを特別扱いする理由は微塵もない。)
8405/6 セブン:2009/11/15(日) 21:38:37 ID:K1MdG47i

だから、「仏教という枠組み」の重要性、場面場面で(議論に於いて、或いは解説に於いて或いは法話に於いて)
それがどの程度の拘束力で効いているのか(→《話の中で、どの程度まで効かせていくのか》)
の見極めが重要なのだ。 そして、仏教の枠外との対話が生じた時、
話者は「自身のスタンス」と「言葉の選び方」を、望むと望まざるとに関わらず問われることになる。
自分が用いようと思っている枠組み・前提が、今臨んでいる現場に於いて通用するのかどうかの見極めを・・・。
(ここを間違えると、以降どれだけ言葉を重ねても、修復困難が予想される。)
話者は、仏教の枠内で通用することを援用する際に、その話術を問われることになる。
それが、相手の枠内でもまた通用するのかどうか。相反する場合どうするか。
10氏や他何人かが問うているのは、まさにこの部分なわけだ。
仏教と無関係な者も輪廻し転生するなら、仏教の枠を越えて語ることが可能でなければならない。
また、現に、《神智学の枠内での輪廻(及び転生)は、【仏教のそれと大きく異なっている!】》
《仏教の枠内の者は仏教的に転生し、神智学の枠内の者は神智学的に転生する》、ということか?
それは、どうにも不自然だ・・・w
自身の意識(の存在)とラッシュアワーの人の流れとの間に、さしたる違いはない。

そして、更に蛇足を加えるなら、
『三世に跨らない方が、業報思想(業報論)はその完成度を高める(完成形となる)』と私は考えている。
8416/6 セブン:2009/11/15(日) 21:39:40 ID:K1MdG47i

蛇足:

《仏教が認識論であり、「当人にとって、どのように認識されるか(=受け止められるか)」》 であるなら、
そして、
《「輪廻(及び転生)」が、「当人の自覚として」、「過去世の業果を受けている」と、
 「当人に於いて」「認識される」もの》 であるなら、
《そのように見做され、区分され、分別され、認識される事象
 (―それは、世俗的言辞で「輪廻(或いは転生)」と称される事象であるが―)は、
 「その人にとってのみ」「輪廻」であり「転生」であり「懺悔の由」であり「発奮・菩提心のきっかけ」》であろう。
《「その人以外にとっては」、その事象は「全く違う見え方」をし、「違う受け止められ方」をし、「違う意味」を持とう。》
そして、《「その事象の真の姿(≒在り様)」に於いて、これのみが正しい、ということはない》であろう。
それが、認識論と評した場合の限界であろう? この時、「勝義という括り」もまた力を失う。
所詮、当人にとってのみの勝義なのだから・・・。

そして、
《三世に跨った輪廻及び転生が抵触するのは、
 まさにここを逸脱し、『当人以外に適用されている』という点なわけだ。
 しかも『問答無用(≒当人の自覚無視!)に適用される』という点なわけだ。》
とてもじゃないが、「認識論だ!」なんて言えないと思いますがね・・・。

 ────────────────────────
十分に推敲・構成はできてないが、大筋は示せてるんじゃなかろうか・・・。
842神も仏も名無しさん:2009/11/15(日) 21:49:14 ID:K1MdG47i
追記: >>840中の“蛇足”と>>841の“蛇足”に関連はありませんw



あと、2chでは唯識系の意見をあまり聞かないな・・。
禅、上座部、中論ベースの人は沢山いるけど・・・。
なんでかな? (´・ω・`)
843前スレ10:2009/11/15(日) 22:25:59 ID:C8feEU5w
>>836-842
大筋でその通りだと思います。

唯識が居ないのは…・・・自己完結しちゃうからでは?w
844神も仏も名無しさん:2009/11/15(日) 22:33:29 ID:rmmvDFX1
>>835
>釈迦は、苦の原因は煩悩(無明)であると見抜かれ、煩悩を「滅する」事で苦から脱する事を説かれたんだと思います。
>煩悩と一体化というとカッコいいですが、それでは、野生の動物は全て悟りを開いて成仏してしまいます。
>欲望の赴くままに生きれば成仏してしまうんですか?

それが、釈迦の基本的誤り。というよりも、彼の鬱病という「心の病」の症状。煩悩とは、換言すれば「生物的
生存本能(生命)」のこと。あらゆる時代と地域を越えた、すべての人間に共通する唯一の普遍の事実。

生命の指示によってひたむきに生きる生活者や野生の動物は、煩悩という「苦」や「煩悩から逃れようとする」
「我執」や「苦」はない。

さらに、生命(生存本能)は、独りで維持することは絶対に不可能なことを、これも本能的に知っているから、
生存本能から、共同体形成維持本能、自他の死への恐れ、他者への思いやりという自然の感情が派生する。
即ち、生存本能は、すべての「善」の根源でもある。この本能は、すべての人間ばかりか、すべての動物の
身体に宿る肉体的本能だから、他者から教えられるいわれはなく、教えられてはならないもの。教えられれば、
肉体的本能が観念化され、変容・歪曲され、結局は破壊されることになる。

百獣の王ライオンでさえ、自分の家族には優しい。動物たちは、生存という目的を離れた、「人為的観念の遊戯」
に過ぎない宗教のために、他の動物を殺すことはない。

結論的には、すべての生活者も野生の動物も悟っている。悟っていない、成仏できないのは、生存本能から
隔絶した人為的観念の虜になった、宗教者のみである。
845神も仏も名無しさん:2009/11/15(日) 22:40:06 ID:K1MdG47i
↑こういうのも極論過ぎてアウトだけどね・・・w
846神も仏も名無しさん:2009/11/15(日) 22:41:15 ID:wggGM57w
>>830 おかしいでしょう。
あなたの言い方では、生きていることを認めると、
生きている主体が必要になることになります。
しかし、生きている主体は世俗諦であり、概念上の存在です。
と言っても、生きているという現象が無いわけではありません。
主体を認めつつもその主体は無常・無我・世俗諦だということです。
なんで主体が常住じゃないと輪廻できないんですか?
主体が常住じゃなくても、あなたも私も毎日生きてるでしょう。
847神も仏も名無しさん:2009/11/15(日) 22:53:33 ID:wggGM57w
>831 何もかもが過去の業のせいだとも思ってないし、
生まれた環境がすべて過去の業のせいだとも思ってません。
ただ、人間に生まれたことは過去の業のせいだと思います。
また、過去の業が、持って生まれた性格に影響を与えてるとは思います。
848神も仏も名無しさん:2009/11/15(日) 22:54:06 ID:5gSm2MqN
>>845
ちっとも極論ではない。むしろ、「動物としての人間」という最も
基本的な事実。

宗教者とは、「人間としての根源」を忘れて「精神病者である1個人の
観念で狂わされた人々」のこと。

そもそも、健常者であれば、「一切皆苦」などと考える者は皆無である。
「苦があるからこそ、楽も存在し得る」という「真理」を悟って、その
真理に基づいて生存を続けている。

膨大な原始仏教の経典から、「時代と地域を越えた、万人と万物に適用
できる原理」、即ち、「真理」のカケラでも得られるのかね。
849神も仏も名無しさん:2009/11/15(日) 23:04:21 ID:wggGM57w
>>830 輪廻と呼ばれる現象はあるし、
輪廻の主体と言える心という現象もある。
しかし、過去の現象もあったし、現在の現象もあったし、
過去と現在の因果関係もある。
しかし、過去の現象と現在の現象とは別ものである。
映画のフィルムの1コマ1コマが別々の画像であるのと似ている。
コマとコマを連続した動画として見ることはできる。
しかし、実際には、コマとコマは別々の画像であり、
コマに映った絵が動いてるわけではない。
現象はあるが、無常・無私です。
本当は動画ではなく、静止画像の連続。(1コマごとに滅ぶ無常・無我)
しかし、連続した静止画は存在してるので、無ではない。
動画に見える現象はある。(輪廻はある。)
しかし、本当は動画ではない。
(輪廻の主体は1コマずつ生じては滅びていく無常・無我。)
850神も仏も名無しさん:2009/11/15(日) 23:07:24 ID:bgGgs0bi
宗教の最大の欠陥は、それが「百人百様の観念の遊戯」に過ぎず、その
正誤・正邪を判断する「現実界」という確固たる基準が皆無だからである。

従って、宗教における「真理」は、必ず「争いの原因」となるだけ。
一方、自然科学における「真理」は、全人類的合意が容易に到達できる。
これは何故であるかを、よーく考えてみて欲しい。
851神も仏も名無しさん:2009/11/15(日) 23:17:32 ID:K1MdG47i
>>848
あのな・・・w
仏教に於いては、人が生きる上で二つのスタンスの取り方を、(目指すべきものとして)設定している。
一つは
《苦楽を併せ呑み、楽を享受しながら、(代償とも言うべき)苦を甘んじて受けつつ生きる》 こと。
もう一つは
《Sn.ダニヤの章に象徴されるように、無常なる一切を厭い、(負債無き境地と讃される)出家者(比丘・遊行者)として生きる》 ことだ。

貴方の言っているのは前者だ。
(しかも、後者を視野に入れつつ、その手前の段階であることが把握されねばならない。)
仏教では、それを無価値だとは言わない。
ただ、そうした、苦楽併存した煩わしさを超えた境地が、釈尊一押しの生き方として提示されているわけだ。

御隠居は、ダニヤの章をしっかりと読み込むべきかと思うw
852前スレ10:2009/11/16(月) 00:04:52 ID:zREsI+eD
>>844
>煩悩とは、換言すれば「生物的生存本能(生命)」のこと。
>あらゆる時代と地域を越えた、すべての人間に共通する唯一の普遍の事実。
え〜と?煩悩が全人類が共通して持っている性質である事と、煩悩が肯定されることに、何の関係が有るんですか?
まさか、全人類が煩悩を持っているから、煩悩は肯定されるべきだと?w

>結論的には、すべての生活者も野生の動物も悟っている。
野生動物のように生きろと?
それは、人間性を全て捨てろと言う事ですかね?

貴方の主張のように、煩悩に従って生きた場合、一番の問題点は、
「世界の中心は貴方ではない」事ですね。
具体例でいえば、お腹の空いた貴方が、煩悩に従ってコンビニの棚のパンを食べ始めたら、
パンの持ち主(店主)に起こられて、逮捕されますよね?
即ち、逮捕されると言う「苦」が生じます。
他にも、『常に健康で若く死なないで居たい』と、あなたが煩悩に従って望んでも、貴方は、病み、老い、死にます。
貴方が、無病で、不老不死にならない限り、いくら煩悩に忠実に生きようとも、この苦しみは止まらないですよね?
もし、世界が貴方の思うように改変されうるものであるなら、煩悩のままに生きても、何の苦も無いと思いますが、
世界が貴方とは別の存在で有る以上、煩悩は、苦の原因になると思います。

煩悩と一体となって生きると言うカッコいいフレーズに酔うのはいいですが、もう少し冷静になって考察しましょうよ。
853前スレ10:2009/11/16(月) 00:05:00 ID:zREsI+eD
>>846
え〜と?なんで、生きていると常住の主体が要るんですか?

単に今生を生きるのに、常住の主体を想定する必要は無いと思っていますが?
何度も指摘していますが、私は「無我」は肯定してるんですよ?
ただ、「輪廻を想定すると」、輪廻する主体としての我が必要となると指摘しているだけです。
そして、輪廻に主体が必要なのは、貴方の仰る輪廻は「業」を来世の肉体に伝える「存在」が必要になっているからです。
854前スレ10:2009/11/16(月) 00:05:06 ID:zREsI+eD
>>847
ドンドン「業」の影響範囲が狭くなりますねw
生誕後の人生は、過去の業の結果ではなく、生誕時の環境も、過去の業の結果ではないと言う事は、
つまり、「人間に生まれた事」だけが業の結果なんですよね?
そうすると、今の人間は、全て同じ程度の善悪の業しか犯していないと言う事で、
人間同士を比較した場合には、前世の業の影響は皆無だと言う事になります。
もはや、一般的応報輪廻からはかけ離れた新説ですね。
これが貴方の主張する業報輪廻ですか?
855前スレ10:2009/11/16(月) 00:05:11 ID:zREsI+eD
>>849
今度は映画のコマですか……
また、輪廻と無我が矛盾しない根拠を示そうとなさっているようですが、
今回の「映画のコマ」も、無常の説明にはいいかもしれませんが、輪廻の説明に向いていませんね
「輪廻」をする為には、一つ前のコマ(今世)と、次のコマ(来世)の間に関係性が無いといけないわけですが、
そのためには、監督と言う存在(主体)が想定されなければなりません。
また、問題点のスライドです。
もし、監督が居ない(主体が無い)とすると、一コマごとに関係性の無いランダムな絵が現れることになり、それは輪廻とは対応していないですよね?
無常である事を説明しようと頑張ったあまり、「主体無き輪廻」と対応していない例を、またまた引っ張ってきてしまいましたね。
856前スレ10:2009/11/16(月) 00:05:16 ID:zREsI+eD

>>850
>自然科学における「真理」は、全人類的合意が容易に到達できる。
いやいやw 自然科学会でも百家争鳴してますよw
全人類が合意した「真理」なんて自然科学には存在しません。
あるのは、「真理に近いのではないかと多くの人が推測する仮説」だけです。
857神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 00:24:12 ID:KRYCvEby
>>851
ダニヤの章を読んだが、釈尊は、ダニヤをそれまでの「真理(すべての人間に
共通する原理)」から引き離してしまったようだな。即ち、「健常者」としての
ダニヤの人生を破壊するという、巨悪を行ったことになる。現代のカルト教祖と
何らの相違も無い。

釈尊が「俺は悟っている」「俺は偉い」という意味の発言を常にするのが気に
なる。彼は、うつ症状としての厭世観と同時に、躁状態としての「誇大妄想」
もあったようだ。現代の精神医学では「鬱病」という言葉はあまり使わず、
「双極性障害」という言葉を使う。即ち、ここでの釈尊のように、うつ状態と
躁状態とが共存し、または交代して現われる。

付き合うなら、精神病者ではなく、健常者の人格者と付き合うべき。君の人生
に巨大な禍根を残す。

駒沢の教授は、己が嵌った原始仏教を、教壇の上から布教し、学生を洗脳して
いるのか。テラワダ信者も紛れ込んでいるようだ。それでは、「客観性」を生
命とすべき学者の資格は、もはやない。
858神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 00:26:44 ID:JfPAdkfc
>>856 別に隠居を擁護するつもりもないが、
それは単なる揚げ足とりのコメントだろう?
例えば「地球は丸い」「太陽は熱い」などの事例に関して一部のものは異を
唱えるかもしれないが「全人類的な合意」のとれている真理と表現しても、
問題はなかろう?それとも、お宅は「そのことを自分で確認したわけでなかろう?ならば、
それは極めて蓋然性の高い仮説にすぎない」と言うか?
であるならば、我々が通常しようする「真理」と言う表現はほとんど全ての場合において不適切な表記となってしまうが。
859神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 00:34:27 ID:cRSkDcC8
>>852
他者概念は、「生存本能」から「のみ」、生じるのだよ。他者への配慮が
なければ、自分も生存できないことを、これも本能的に知っているからだ。

他者が存在しないのが、観念の遊戯によって本能を破壊された、宗教者の
姿である。
860前スレ10:2009/11/16(月) 00:40:15 ID:zREsI+eD
>>858
いや、揚げ足取りではなく、科学の本質の話なんですがね。
例えば、「地球が丸い」という仮説は、人工衛星による詳細な観測の結果、実は楕円球(しかも南北で極率が違う)であった事がわかりました。
ニュートン力学は、相対性理論によって、速度が光速より十分に遅い場合の近似値に過ぎない事が解りました。
そのほか枚挙に暇が無いですが、全ての科学法則は、いつか否定されうる「仮説」に過ぎません。
自分が確認したか否かは、この話には全く関係がありません。
全ての科学法則は、いつか否定される可能性を秘めた「仮説」に過ぎないというのが、「科学」の大原則なのです。

極論すれば、「科学において」は、「真理」はありえません。
「現時点で真理に限りなく近づいた仮説」が有るだけです。
861承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/11/16(月) 00:44:21 ID:ieyMGrs1
>858
(^。^;)ヨコレスだが、それこそ揚げ足だ。

科学的な【真理】は、>856の立場から還元主義的に追実験による検証を重ねて最も妥当な仮説を採択する事により万物理論の構築を目指す事を言う。
地球が楕円形である事や、重水素核融合の発する高熱などは、観測データであり、所謂【真理】では無い。


(^。^)さぁ、間違い探しだ♪(笑)
862神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 00:46:38 ID:xAaLpfxj
そのようなオーヴァーエンジニアリングみたいなのは必要ない。

近似値で実用性に足る。

誰のために、何のために必要となるのか?

真理なんて言葉、中学生までにしときなさいな。
863前スレ10:2009/11/16(月) 00:47:45 ID:zREsI+eD
>>859
え〜と?私の発言をきちっと読んでますか?
煩悩=生存本能で有る以上、死は絶対的な苦しみですよね?
他者が存在しようとしまいと、貴方は死にますよね?
よって、煩悩に従っていようと、死ぬなら、苦が生じますよね?

それとも、煩悩に忠実に生きると、死ななくなるんですか?

864神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 00:57:10 ID:JfPAdkfc
>>860 だから、それは極論だろうと言っている。
そのようなことを言い出せば、現に我々が存在していると考えているこの世界の実在
さえも不確かになり全ての試みが無意味となる。
現時点において我々は「地球は丸い」を真理と表現する。たとえ、厳密に言えば将来、それが覆される可能性が
ゼロではないが現時点ではそれが真理であることは、まぎれもなく我々の共通認識であり
そのように表記することな何の問題もない。
それとも、お宅は「全ての事例は将来、覆される可能性があるから『全人類的な合意のある真理』と言う表現は
使用するべきではない」とこう言うのかな?
俺が思うに『全人類的な合意のある真理』と表現することが不都合とは考えられない
科学的知見は多数あると思うがな。
865承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/11/16(月) 00:57:22 ID:ieyMGrs1
>863
(^。^)解説しよう♪

ご隠居は、かの【水槽の脳髄】でさえも無視する事が出来る豊かな想像力をお持ちの勇者なのである!(爆)
866神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 01:05:58 ID:vz3QtRPz
>>863
死は、すべての人間、すべての生物に、極めて公平に訪れる大自然の
摂理。個体の死によって、新陳代謝が行われ、種としての生命の維持
が可能になる。

死ねば、煩悩は完全に無くなるのだから、煩悩を無くすためには、死ぬ
のが一番。それでも、すべての生物は、ただひたすらに生きようとする。

生きているうちに煩悩を「苦」とする釈迦は、わざわざ二重の苦を作り
だしていることになるw。これが彼の鬱病の典型的な症状。
867神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 01:08:15 ID:JfPAdkfc
例えば「人間はいつか死ぬ」
これも現時点において「死なない人間」が観測されていないから「極めて蓋然性の高い仮説」である。
しかし、将来「死なない人間」が現れる可能性もゼロではないから「真理」とは言えない。
厳密に言えば、そのような論も成り立つが
我々は一般的にこれを
「全人類的な合意のとれた真理」であると認識し、そのように表記することに問題はないと考える。
違うかい?
868神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 01:19:16 ID:JfPAdkfc
誤解がないように断っておくが、俺は別に隠居を擁護してるわけではない。
ただし>>850 の書き込みだけに限定すれば、これは間違った見解ではないと
考えたので、それに揚げ足とり的なレスをつけたお宅に絡んだわけよ。
869神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 01:21:36 ID:xAaLpfxj
>>850
百人百様の思想が認められない、一党独裁共産思想乙w
もしくはファシストか?
870神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 01:37:15 ID:WMu4wmK0
>>869
思想も、人間の生命の機能である。人間は、現実界に100%依存しな
い限り、絶対に生存できないのだから、現実界から隔絶した思想は、
生によって生を否定するという矛盾を犯しており、人間にとって無意味
で有害。マルクス主義やファシストの思想が、まさにその典型である。
これらは、生によって生を否定するという矛盾を犯した「宗教」である。

871神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 01:38:51 ID:JfPAdkfc
>>869 そうとるか?
確かに隠居は偏向性の強い独断的な見解の持ち主だと思うが
>>850 は「宗教における真理と科学における真理の客観的検証性の違い」を指摘したに過ぎないと俺は読んだのだがな。
そうであるならば、この点についてのみは、俺は隠居に同意するね。
872神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 01:50:58 ID:xAaLpfxj
真理なるものがあるとするならば、
「常見」
になるだろうなあ。
日常において、生きるだの、死ぬだの大騒ぎしないのが
まっとうな健常者の精神。
873神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 08:01:07 ID:p/PujghC
>>853
生きてるときだって、一瞬一瞬ごとの肉体と肉体をつなぐ主体があるから生きているわけです。
生きてる人の肉体も心も、映画のコマです。
(点滅してる。)
それをつなぐ監督が無明・渇愛でしょう。
生きている人には無明があります。
過去に生きていた人にも、今生きている人にも無明があります。
無明という監督がいるのです。
しかし、無明という煩悩は常住ではなく、滅ぼせるのです。
874神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 08:05:11 ID:p/PujghC
>>854 一か百かという話をしてるわけではない。
病気になったのも自分の過去世の業かもしれないし、
生まれてから新たに起きたことが原因かもしれない。
仏教は慈悲を説きます。
輪廻肯定派だって、病人やその他悩み苦しんでる人への慈悲を肯定しています。
875神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 08:28:27 ID:p/PujghC
>>855 赤ちゃんのときの記憶がない人が、
赤ちゃんのときの自分と今の自分との連続性をなぜ信じられるのか?
写真に映ってる過去の赤ちゃんをみて、
過去にその赤ちゃんがいた物証とすることはできても、
今の自分の心と赤ちゃんの心との因果関係をどうやって信じてるのですか、
それを信じるように、輪廻も信じることは不可能ですか?
876神も仏も名無しさん:2009/11/16(月) 09:20:45 ID:BBUZB2ST

業報輪廻転生論の仕掛け人でバラモン至上主義者ヤージュニャヴァルキャと
釈尊をわからなかった世間知らずの苦行主義者マハーカッサバ

このふたりのマイナス影響が釈尊像を歪ませている。

>>875
あなたが無明だから、>自分と>輪廻を「信じる」ことができるのです。
877神も仏も名無しさん
>>875
あなたは過去→現在という時系列的な実体論発想に陥っており、
それはなんらの根拠もない妄想分別でしかないことは縁起の思想から明らかです。
あなたのいう自分(龍樹のいわゆる化人)の行為(業)を実体化し、そこに輪廻転生を構想することの愚行は、
釈尊の「縁起」=空=中道によって否定されたはずです。
輪廻転生論と縁起の思想が水と油、両立できないことは明らかです。
 そもそもテーラワーダは苦行主義者マハーカッサバ教の劣化版であっても、
釈迦仏教であるとはいえないのです。
アビダルマ部派仏教の実体論的発想における仏道は、
釈尊が無駄であると捨て去った修定主義か苦行主義かに陥らざるをえないものであり、
精神や肉体の安定を計る程度のヨーガ的な役割しか果たし得ません。
マハーカッサバ教である所以です。