問う。
「風化し、摩滅し、細かな塵となって雲散霧消した石を
“断滅(した)”と(「石という(世俗的)存在」の断滅と)見るのか?」。
「心停止し、止まった血液の【流れ】を『血液の流れの断滅』と見るのか?」。
風化し、摩滅し、散逸した【石の在り様の果】を断滅と見るなら、【血液の“流れ”の停止】を断滅と見るなら、
上記の場合の人の意識を断滅と見做すのも筋が通る。
が、そうでないならば、人の意識にも又、「断滅」という表現をもってくるべきではない。
「人の意識(≒「心」)だけが、滅せず継続されてゆくのか?」 そして、
「滅して、また所縁によって生じる時、(それは“別もの”であるわけだが)、
ここを繋ぐ『業力』を納得し得るかどうか?」が、2つ目の分水嶺だ。
ほか全ての事象が、生じ滅し、事象として変遷継続してゆく際に、
過去のデータが関与し、且つそれが抽出可能であることなどない。
唯一、「心」「意識」だけが、それを可能としている。
(※勿論、業(業力)を積み得るのがまさしく「心」「意識」だけだ、という方向性もあるが、今は措く。)
ここに於いて、『転生が無ければ断滅だ』という指摘の背後に見えるのは、
≪人の意識を特別視し、【継続すべき事象である】と見做している≫ことに他ならない。
上(
>>838)で指摘する通りだ。
まるで、因により縁により生じ、継続し、滅するものであることを忘れているかのようだ。
間断なく連続している事象の連鎖に於いて、過去世・現世・来世を区分すること自体が既に迷いであろう?
だから「願望」だと、「来世での帳尻合わせを願う根性」だと批判した。
意識が脳の所産であって、なぜ仏教と(縁起と)抵触するのか不思議でしょうがない。
【抵触しているのは】【三世に跨った輪廻《のみ》】だ。
(※私の立場は、《「血流」と「意識」「心」とを同格・等価・等質に見做す》ものだと思って貰えばいい。
「意識」だけを特別扱いする理由は微塵もない。)