私は、《単純に「無我と“輪廻(或いは転生)”が抵触する」》と言っているのではない。
それ(「輪廻と無我が抵触する場合」)は、
《輪廻(或いは転生)に際し、「業力を(或いは業果)継承する主体が想定されている場合」抵触する》ということだ。
※ 少なくともこれまでは『そうした“主体ありきの輪廻・転生”意見』にしか出会っていなかったし、
今でも、肯定論者の9割がそのスタンスだろう。 (そうでないのは極々一部だwww)
※※ 私が提示したのは、《寧ろ、「三世に跨った輪廻及び転生」こそが、「縁起」に(或いは因果律に)抵触するのではないか?》
ということ。(詳細は過去スレ。)
※※※ 宝珠がスレを建てるまで、私は「輪廻及び転生」を蚊帳の外に置いてきたし、必要な時に
「仏教ではこれこれこのように言われます」と触れるに留めてきたし、それで事足りてきた。
今後もそうするつもりだし、誰かさんは「それは世俗的方便だ」と評していたが、
輪廻自体が世俗の方便なんだろ?w 咎められる謂れもなかろう?w
ただ、誰かさん(AB或いはC)のおかげで、「厭離の基盤」であり「解脱の語義とのリンク」等を鑑みれば、
やはり適度に触れたほうが良いとも思った。そして、その時の「主体なき輪廻」についての語り口は、
幾つか自分で試みた分も含め、大変勉強になった。いい喩えにもいっぱい触れることができた。
その意味では、宝珠にも(!www)感謝に堪えないw
“主体を立てない輪廻(或いは転生)”に関しては、
勿論、《【仏教の枠内では】無矛盾であり整合性が取れている》と思っている。
(おそらく相手は10氏だったろうが)、稚拙ながら何度か解説もさせて貰った。
だから、ここから先が分水嶺となる。(量子力学や相対性理論を言い出す者もいるがw)、
そこまで仔細な、専門的な領域に入らずとも、日常レベルでの名色の変異をどう受け止めるかという部分で。
(宝珠はつまみ食い的引用しかしないのでスルーとしてw)、沙門果経に述べられるように、
今、現象している(縁起している)この肉体(色)を離れての名或いは想・行・識はない。
このことの反例・反証は古代の文献(聖典)以外に存在しない。(宿命通も同じ。)
リアルに、如実に、自身の心身を観察して見えてくるのは「無常なる五蘊」「縁起する五蘊」だ。
勿論、インドの世界観、仏教の世界観として、「生成と破壊の繰り返し」「無始劫来の輪廻」があることは承知だ。
が、それは現代宇宙論や或いは科学、物理学等でも同じこと。
人が、始原を問うこと・辿りつく事の一歩手前で立ち止まる諦観はあろう。
しかし、【始原を問えない】からと言って、
「輪廻し、生まれ変わり、継続してゆく事象((更新されつつの)存在)」を想定する必要はあるまい?
事象の連鎖に断裂が見られた時、その時初めて「断滅」「断見」となるが、“世界”はそうではない。
“世界”は間断なく繋がっている(連鎖している)。
《「如実に見る時」「そこに“常”も“”断」もない》と言われる時、それはまさしくその通りであろう。
逆に、「輪廻を(転生を)認めなければ断滅となる」と言う時、それは、
《『断滅する何ものか』が、そこに想定されている》。
→ ≪いったい、【何が】断滅なのか(断滅するのか)?≫
→ ≪【断滅してはならない何ものか】が断滅する思想・考え方・見解だから批判されるのならば、
【それは何か】? そして、それは【恒常的に存在する】ことを意味しないのか?≫
「心」と称しようが「識」と称しようが「霊魂」と称しようが「アートマン」と称しようが、「意識」と称しようが、何も変わらない。
【それらは(教義上・伝統上)継続せねばならないもの】だから、
【断滅せず】【継承され】【過去のデータは蓄積され続け】、
【「心」として、或いは「意識」として、【その在り様・要素・性質のまま!】存在し続ける】。
どなたかさんが、無常であり、変転している、そうした移相を言うかもしれないが、
おっとどっこいだ。 この変転の仕方である限り、(世俗的名称としての)ラベルが貼り替えられているだけで、
その中身は常住だよw だろ?w
「因により縁により諸法は生じ、また滅す」と言う時、「それを見、知り、頷く」時、
スパンの長さ(三世に跨るかどうか)は関係ない。
(寧ろ、そのスパンを過・現・未と区分すること自体が、如実に見ることに反する。
誰かさんが言った「輪廻は世俗のことである」「勝義にはない」という台詞にも見える通りだ。)
そして、「人の意識が、死によって(=肉体の壊滅によって)そこに生じなくなる」という
現代の(世俗の!)常識(≒知見)がまさしくその通りである“可能性w”は依然として残っている。
これを覆した聖者はいない筈だ。
問う。
「風化し、摩滅し、細かな塵となって雲散霧消した石を
“断滅(した)”と(「石という(世俗的)存在」の断滅と)見るのか?」。
「心停止し、止まった血液の【流れ】を『血液の流れの断滅』と見るのか?」。
風化し、摩滅し、散逸した【石の在り様の果】を断滅と見るなら、【血液の“流れ”の停止】を断滅と見るなら、
上記の場合の人の意識を断滅と見做すのも筋が通る。
が、そうでないならば、人の意識にも又、「断滅」という表現をもってくるべきではない。
「人の意識(≒「心」)だけが、滅せず継続されてゆくのか?」 そして、
「滅して、また所縁によって生じる時、(それは“別もの”であるわけだが)、
ここを繋ぐ『業力』を納得し得るかどうか?」が、2つ目の分水嶺だ。
ほか全ての事象が、生じ滅し、事象として変遷継続してゆく際に、
過去のデータが関与し、且つそれが抽出可能であることなどない。
唯一、「心」「意識」だけが、それを可能としている。
(※勿論、業(業力)を積み得るのがまさしく「心」「意識」だけだ、という方向性もあるが、今は措く。)
ここに於いて、『転生が無ければ断滅だ』という指摘の背後に見えるのは、
≪人の意識を特別視し、【継続すべき事象である】と見做している≫ことに他ならない。
上(
>>838)で指摘する通りだ。
まるで、因により縁により生じ、継続し、滅するものであることを忘れているかのようだ。
間断なく連続している事象の連鎖に於いて、過去世・現世・来世を区分すること自体が既に迷いであろう?
だから「願望」だと、「来世での帳尻合わせを願う根性」だと批判した。
意識が脳の所産であって、なぜ仏教と(縁起と)抵触するのか不思議でしょうがない。
【抵触しているのは】【三世に跨った輪廻《のみ》】だ。
(※私の立場は、《「血流」と「意識」「心」とを同格・等価・等質に見做す》ものだと思って貰えばいい。
「意識」だけを特別扱いする理由は微塵もない。)
だから、「仏教という枠組み」の重要性、場面場面で(議論に於いて、或いは解説に於いて或いは法話に於いて)
それがどの程度の拘束力で効いているのか(→《話の中で、どの程度まで効かせていくのか》)
の見極めが重要なのだ。 そして、仏教の枠外との対話が生じた時、
話者は「自身のスタンス」と「言葉の選び方」を、望むと望まざるとに関わらず問われることになる。
自分が用いようと思っている枠組み・前提が、今臨んでいる現場に於いて通用するのかどうかの見極めを・・・。
(ここを間違えると、以降どれだけ言葉を重ねても、修復困難が予想される。)
話者は、仏教の枠内で通用することを援用する際に、その話術を問われることになる。
それが、相手の枠内でもまた通用するのかどうか。相反する場合どうするか。
10氏や他何人かが問うているのは、まさにこの部分なわけだ。
仏教と無関係な者も輪廻し転生するなら、仏教の枠を越えて語ることが可能でなければならない。
また、現に、《神智学の枠内での輪廻(及び転生)は、【仏教のそれと大きく異なっている!】》
《仏教の枠内の者は仏教的に転生し、神智学の枠内の者は神智学的に転生する》、ということか?
それは、どうにも不自然だ・・・w
自身の意識(の存在)とラッシュアワーの人の流れとの間に、さしたる違いはない。
そして、更に蛇足を加えるなら、
『三世に跨らない方が、業報思想(業報論)はその完成度を高める(完成形となる)』と私は考えている。
蛇足:
《仏教が認識論であり、「当人にとって、どのように認識されるか(=受け止められるか)」》 であるなら、
そして、
《「輪廻(及び転生)」が、「当人の自覚として」、「過去世の業果を受けている」と、
「当人に於いて」「認識される」もの》 であるなら、
《そのように見做され、区分され、分別され、認識される事象
(―それは、世俗的言辞で「輪廻(或いは転生)」と称される事象であるが―)は、
「その人にとってのみ」「輪廻」であり「転生」であり「懺悔の由」であり「発奮・菩提心のきっかけ」》であろう。
《「その人以外にとっては」、その事象は「全く違う見え方」をし、「違う受け止められ方」をし、「違う意味」を持とう。》
そして、《「その事象の真の姿(≒在り様)」に於いて、これのみが正しい、ということはない》であろう。
それが、認識論と評した場合の限界であろう? この時、「勝義という括り」もまた力を失う。
所詮、当人にとってのみの勝義なのだから・・・。
そして、
《三世に跨った輪廻及び転生が抵触するのは、
まさにここを逸脱し、『当人以外に適用されている』という点なわけだ。
しかも『問答無用(≒当人の自覚無視!)に適用される』という点なわけだ。》
とてもじゃないが、「認識論だ!」なんて言えないと思いますがね・・・。
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十分に推敲・構成はできてないが、大筋は示せてるんじゃなかろうか・・・。