【最終】輪廻転生説はどう扱うべきか!?【決着】1

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770宝珠愚者
>>768
一在家さん、他〜

まず基本的理解として悪霊と悪魔(魔)とは違うものです。
憑依(現象)と転生も異なるものです(ここでは解説しません。
しかし、誤解が甚だしいので、これについては他でいずれ詳しく扱います)。
識別を学ぶ必要があります。これらが同一視されたりし、誤解されたりしています。

そして、仏典中における悪魔(魔)とは繰り返し述べてきたとおり、
精神性の意識状態や心の迷い(ブッダの迷いとは凡夫レベルとは次元が異なるもの)
の象徴化したものです。事実、悪魔(魔)の正体については“仏典は明かしている”のです。
もちろん、梵天勧請の逸話もまた同様です。
迷信の排除と唯物論化についても混同しないようにあるべきです。


スッタニパータ
 『(師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の魔女)
を見ても、かれらと性の交わりを行いたいという欲望さえも起らなかった。大小便に満ちたこの(女が)そ
もそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足で触れることさえも欲しない。」』(Sn.835)


 『「大徳よ、悪魔、悪魔と仰せられますが、大徳よ、いったい、なにを悪魔と仰せられるのでございます
か」「ラーダよ、色(肉体)は悪魔である。受(感覚)は悪魔である。想(表象)は悪魔である。行(意志)は
悪魔である。識(意識)は悪魔である。
 ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、
想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。厭い離れることによって、貪を離れることができる。貧
を離れることによって、解脱する。」』(『相応部経典』23-11/羅陀相応魔)