>>410 そうではない。
【《「連続性」はある》が《「同一性は」ない》】というのが、縁起に則った「(三世に跨った)輪廻」だから。
「次の生を受け、生きている存在」は、「過去の存在と同じではない」。
(PTS辞書が“new birth”と釈しているのもまんざらではない。)
過去、「肉親であったという関係性」は、死(≒五蘊の滅)と再生(≒五蘊の生起)との間で消失する。
再生した存在は、別人(別存在)。
(ここに於いて意味のある連続性は、(当人としての)業果が連続しているということだけ。
他者との関係性は問われない。外から見て・第三者から見て・客観的に同一であるかどうかは問わない。)
仮に、食されるサンマが前世でAさんの爺さんであったとしても、
今まさに食されるその瞬間、サンマがAさんの肉親であるわけではなかろう?
あくまでも、サンマの時はサンマでしかない。
(過去)所縁によってAさんの爺さんという存在であっただけであり、
(現在(今))所縁によりサンマであるだけだ。
言語習慣上、世俗上、仮設される同一性を見てしまいがちだが、そのようなものはない。
「爺さん(という関係性)」も「(食される)サンマ(という関係性)」も、
それぞれ、その時その時の縁により生じ、構築される関係性に他ならない。
だから、単語上の「非我」が「無我」へと昇華される。
案ずる必要はない。
(と、類推を重ねて記してみたが、どこまで言い得ているかは疑問だw)
ノシ