【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】14

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566神も仏も名無しさん
>>563
どうよ
172 名前: 神も仏も名無しさん Mail: 投稿日: 2009/02/03(火) 21:34:50 ID: aY704kGy
>>169
核心的問いですね。頭のいい方ですね。

法とは「釈尊が再発見し説かれた理法」で十分ではないかというのが現在の私の理解です。
これは石飛道子先生の『ブッダと龍樹の論理学』46頁に依っています。
石飛先生は、天才ですね。仏教の難問を美しく整理して再現しているようです。

>仏教徒が三宝に帰依を表明するときの「法宝」を説明した古くからの定型句も、

定型句とは「法は1.世尊によって善く説かれ、2.自ら見るべく、3.無時的で、
4.来たり見るべく、5.導き、6.識者が各自に覚知すべきものである」でしょうか?

この1.が正に「釈尊が説かれたこと」でしょう。2., 4., 6.は自分で体験する、
3.は行ずれば即時的に結果が出る、5.虚妄ならざる真実に導く教えである。
ということで、1.以外は、全て釈尊が説かれた教えの属性、特性を示しているので、
この定型句は明らかに法とは釈尊の教えであるということで問題ないと思います。
以上に関してはご覧になっていると思いますが、
水野弘元『仏教要語の基礎知識』初版98頁以下で再確認してください。
ブッダゴーサの四分法も「釈尊が説かれたこと」を基本に特性を述べたと考えられるでしょう。
その水野先生の解釈は圧巻です。素晴らしい!
567神も仏も名無しさん:2009/09/09(水) 20:42:20 ID:KFALggyU
173 名前: 神も仏も名無しさん Mail: 投稿日: 2009/02/03(火) 21:35:50 ID: aY704kGy
>「縁起を見るものは法を見る」「法を見るものは仏を見る」だの「依法依不人」だの「法燈明」だの、簡単に言いますが、実際はさまざまな場面でその意味内容を使い分けているようです。

上の用例は、「見る」を体験、体得すると考えれば、全て教えと置き換えて問題ないでしょう。
原始仏典で「 x は法である」とは、定型句の1〜6の特性を全て釈尊が認めたということです。
逆に釈尊が人に質問されて「私はそうは説かない」と仰る場合は、1〜6を満たさないので認めない。
つまり、悟り、解脱に導かない体験できない結果のでないので法と認められないことです。

問題は、「一切法」「諸法」という用例です。これはよく諸現象とか物事、万物という
意味に解されますが、原始仏教に限ってはどうも誤解のようです。
では、何か。これも釈尊が縁起を悟ったことで明らかになった様々なことと考えると、
釈尊が悟った時に「諸法顕現せり」と伝承されることも理解できるでしょう。
そしてこの明らかになった様々なこと、つまり悟りの体系は、釈尊の意識内の出来事でしたが、
それを人に説く時に、「一切法」「諸法」などと呼ばれました。
つまり、「一切法」「諸法」は釈尊が悟った体系を、人に説いたもの。
釈尊が悟り、解脱に役にたつと認めたことが、法というわけです。
以上については、村上真完<最初の仏語「諸々の法が明らかになるpatubhavanti dhamma」考>印度學佛教學研究 54に依っています。以下で読めますのでご覧ください。
http://ci.nii.ac.jp/search/servlet/Kensaku
村上先生のこの解釈も素晴らしいものだと思います。

他に「滅法」といった要素、性質と訳される場合も、
滅と「釈尊が説かれたこと」が要素、性質という意味であると考えれば問題ないと思います。
その後、部派仏教時代にたぶん行のために「一切法」をまとめる論書が出現し、
分析探求、論理構築が進んで複雑なアビダルマ体系になったと思います。
このアビダルマを見ると、非常に難解で異説が多いので混乱すると思います。