>>483 大乗系なら、もう少し違う考察も可能でしょう?w
≪漢訳仏典には「自灯明」の語は皆無≫≪「法灯明」の語はある≫
≪北伝地域では、「島」は勿論、「河の中州」がポピュラーな景色だったかどうか(拠り所としてイメージし易いかどうか)≫
≪「灯明」という語の汎用性、重要性、及び、深い意味の含ませ易さ≫≪灯りの大切さ≫
≪説明・解説(昔なら「説法」、近現代なら「法話」)の際、「島・洲」と「灯明」と、どちらの方が、イメージし易く、理解し易いか≫
≪現時点を見るなら、歴史的にどれだけ頻繁に(→大量に)「灯明」の方で説かれてきたか≫
≪仏教外でも使用される頻度の高い(→より解り易さ・イメージのし易さが求められる)名句となっている≫ などなど、
こうしたことを考慮すれば、近現代日本で、「灯明」の訳が多く使用されることを不思議に思うこともあるまい?
「灯明」であることにより誤解が生じ、それが深刻で避けねばならないと思う人は、補足説明すればいい。
それで十分だ。岩波辞書も無難な記述だよw
※もっとも、近代の学者でその流布した著作に於いて使われていたということはあるかもしれないが、
かといってその彼を(誰かは知らんがw)責めることもなかろう。
普通に補足説明すれば、「自灯明」でも誤解はないのだから・・・。 御隠居は特別だろw
>>486 それは結果論でしかないし、
人型の大根が成育したからといって、大根という植物が、その種が、人型に育つ形質を持っていたわけではない。
援用可能なほど洗練されていたという評価は為し得ても、
《現代知られる「それら」を説いていた》なんてのは、宝珠や在家の妄想と変わらんと俺は思う。
≪2500年前と変わっていないと推測される、《我々の心模様》について、釈尊は説かれた≫のだ、
と私は理解している。
>>479>>485 了解w ノシ