140 :
1/4 旧7:
使用したのは、原始仏教第5号(1993年4月発行/中山書房仏書林)。
例によって“【”“】”は引用者の挿入。
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乳製品のくだり。(上掲書p110)
*(直前には、3種の我の獲得が、それぞれの時にそれぞれのみしか該当しないことが、
同様の文章構成で述べられていることに注意。)
『(35節):チッタよ、たとえばそれは、
牛から牛乳が、牛乳からヨーグルトが、ヨーグルトから生バターが、
生バターからバターが、バターから醍醐味が生じるようなものです。
【牛乳が生じるとき】、それはけっしてヨーグルトと呼ばれることがないのです。
生バターと呼ばれることがないのです。バターと呼ばれることがないのです。醍醐味と呼ばれることがないのです。
【そのときはただ、牛乳とだけ呼ばれます】。』
(以下、単語を入れ替えて同様に続く。すなわち、
≪ Aがある時(生じている時)、それはBともCともDともEとも呼ばれることなく、ただAと(のみ)呼ばれる ≫
≪ Bがある時(生じている時)、それはAともCともDともEとも呼ばれることなく、ただBと(のみ)呼ばれる ≫
≪ Cがある時(生じている時)、それはAともBともDともEとも呼ばれることなく、ただCと(のみ)呼ばれる ≫
≪ Dがある時(生じている時)、それはAともBともCともEとも呼ばれることなく、ただDと(のみ)呼ばれる ≫
≪ Eがある時(生じている時)、それはAともBともCともDとも呼ばれることなく、ただEと(のみ)呼ばれる ≫ と。)
141 :
2/4 旧7:2009/08/27(木) 14:45:58 ID:V99cXnwl
ここで言われているのは、(実は「3種の我の獲得」もそうであるが)、
その時その時の「相(≒在り様)」によって「○○」と呼ばれているのみである、ということだ。
そして、経文のどこにも 《“相”によって名称は変化しているが、変化しない“乳製品としての本質”がある》
などと書かれてはいないし、文脈としてもその意味はない。
あくまでも 《今まさにどのような相(≒在り様)であるかによって、各名称が付されている》。
たとえ、(この場合なら乳製品としての)繋がり・関連性があったとしても、それは、時系列の上での関連性に過ぎない。
そこに、「なにかしら不変なるもの」を見出すことは、少なくとも、この経のこの部分からはできない。
「(乳製品(として)の)本質」には、一切触れられていない。それが“ある”などと言われてはいない。 よって、
>>72 >【乳製品の本質は変わらない】(1) などと言い得ないし、
>乳製品の【本質は常住】(6) とも言い得ない。
「本質」についてなどどこにも述べられていない。
ましてや、
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】8
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1247232994/635 >釈尊は牛乳、ヨーグルト、バターに【共通する】【乳製品の「本質」を解説】されておりますが、・・・・・・
など、誤読にも程がある。
ただただ >【その相は無常であり、名称も変化】(3) しているのみ。
(今ある)その相によって、 >牛乳⇒ヨーグルト⇒生バター⇒バター⇒醍醐と >【呼ばれる】(2) のだ、と。
各名称で呼ばれ得るような相(の状態)であるから、その名称で呼ばれるのだ、と。
ここでは、このことだけが言われている。本質についての教えではない。
(→寧ろ「常住不変で固定的本質などない」という含みがある。)
142 :
3/4 旧7:2009/08/27(木) 14:46:52 ID:V99cXnwl
ここで、この35節冒頭のチッタへの呼びかけ部分の註を付しておく。
〈ここで簡略に説かれたことの意味は次の通りである。
――たとえば牛から牛乳が、また牛乳などからヨーグルトなどが生じるとする。
そのうち、【牛乳が生じるとき】、そのときは「ヨーグルト」とか「生バター」などのうちのどれかとか
称されたり、言われたり、名づけられたり、呼ばれたりすることがない。 なぜか。
もろもろの法によって【「ヨーグルト」などというもろもろの慣用語が生じる法はない】からである。
そこで、「牛乳」とだけ、そのとき呼ばれるのである。 なぜか。
もろもろの法によって【「牛乳」という名称、言辞、名前、慣用語が生じる法はある】からである、と。
この仕方はどの場合も同じである〉。
参補:
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】10
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1248609075/359後者註
143 :
4/4 旧7:2009/08/27(木) 14:57:56 ID:V99cXnwl
以上のことから、
>>72 >当時のバラモン達は【「バターだ。」、「否、ヨーグルトだ。」と論争して】(4)
>仏の眼で見れば【本質は同じ】(5)
は、前文(4)は、まさにその通りで、
≪諸縁によってバターの相であるからバターと呼ばれているだけのものを、
「これこそが絶対的バターだ!」「これこそが絶対的ヨーグルトだ!」等の論争≫であり、
後文(5)は、≪仏の眼で見ればそれらは顛倒妄想であり、縁により変化する相にその都度付された名称に過ぎず、
そこに絶対的恒常的本質を見るのは愚かな行為である≫ということならば言えるだろう。
けっして≪乳製品の本質を説いたわけではない≫≪「本質は同じである」と説かれたわけではない≫、
ことは留意されねばならない。併せて、
>【乳という「本質」は変わらず】(6)に、 >【名称が変わる】(3)
のではなく、≪諸縁により現じている相によって名称が付される≫のであり、
そこに≪絶対的恒常的本質が見られるわけではない≫。 (→寧ろ逆であろう。)
以上によって、 >【アートマンを乳製品(本質)とした場合】(7) といった比喩(思考実験)は、
この経に於いては成立しない。
また、≪ >【人の変わらない「本質」がアートマン】(7) ≫という前提は、
尚更、この経とは関係なく、別の形で主張され或いは反駁されるべきことであり、
「これ」を前提としてこの経を読み、乳製品のくだりと関連付けるのは、
荒唐無稽な茶番だと言わざるを得ない。
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きちんと出典(=文章)が提示されてないので、かなり支離滅裂な反論となってしまったが、
御容赦願いたい。併せて、諸賢の添削を乞う。
ノシ