【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】9

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305神も仏も名無しさん
>>303の続き(>>220の修正版)
>誤解しているのかもしれませんが、転生している媒体は真実の自己ではありませんよ!

「誤解」? 誰がですか? 一人称と二人称の区別は付いていますか?
第一に、「転生」に「媒体」は不要だと、SN.5.9-10に拠り指摘済みです。
第二に、『中論』18.1に拠り指摘したように、もしも我が五蘊と同一ならば無常だし、
別異ならば五蘊相を如何にしても持ち得ません。
即ち、もしも我が五蘊と関係するならば無常であり「常住」ではなく「真実の自己」ではない。
もしも「真我」が「現象界を超越しており」「一切“外”の常住で無我ではない場所」ならば、
五蘊と完全に無関係ですから「真実の自己」足り得ない。
更に「常住」であるから法を転ずることも全く不可能です。


>Dhp.160

SN.1.3.5を引用した上で、釈尊が我や我所に言及するならば、
「言語表現のみのもの」であると、指摘済みです。


>低我、真我

「低我」という語と、「真我」という語、それぞれのパーリ語の原語を挙げて下さい。
それとも、相当する語も無いのに、神智学的偏見で「低我」だの「真我」だのと呼称しているのですか?
そうであれば、「無我」だとする論者を批判することは許されません。
一方で、「無我」ではなく「非我」だ、と言い出すときには、教証を強調しながら、
他方で、「低我」だの「真我」だのと言い出すときには、教証を無視して神智学的偏見で感想文を垂れ流すならば、
「無我」だとする論者を批判することは全く許されませんよ。
更に、もしも「低我」「真我」という訳語が、anattanに対しての「無我」という訳語と比較して、
原始経典の原語に忠実ではないならば、「無我」と訳すことが不適切なわけがありません。