【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】8

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984神も仏も名無しさん
>>942 >>917
中村訳:自己こそ自分の主である  片山訳:自己こそ自己の寄る辺なり
原文は attA hi attano nAtho ですが、「主、寄る辺」に当る原語 nAtho は、男性/単数/主格です。
もし中性/単数/主格なら nAthaM となるはずです。

ところでモニエルによれば nAtha の意味は、中性形が n. refuge(避難,避難所,保護) , help
男性形は m. a protector , patron , possessor , owner , lord ですから、
片山訳の「寄る辺」は中性形の refuge の意味に近いかも知れません。

それはわきに置いといて、本題の>>923に移ります。
>自己こそ自己の主(あるじ )>>915
>自己こそ自己の寄る辺なり>>917
>が、真我を意味している可能性は大いにあるでしょう。

>>915の訳文から分かるように、
//自己が自分の主である。
//他人は自分の主でない。
「自己」(attan)を「他人」(para)と対比させています。

>>314の「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」で引用されている経典の、
 自分(attan)を苦しめず、自分を苦しめる実践に耽らず、
 他人を苦しめず、他人を苦しめる実践に耽らない人 (MN I, pp.348-349)
でも、自分(attan)を他人(para)と対比させて説いています。「他人」(para)と対比される
この「自分」(attan)とは、やはり、五蘊仮和合の我のことではないでしょうか。