>>684 >永久不滅の境地であるということ。
重要なのは、
≪「見られている」「境地として」常住≫なのではなく、
≪「見る行者が」「居ようが居まいが」常住≫という点だよ。
(解り易い例が
>>294な。)
saNkhAraに対して、そうでない『目指すべき』「境地」として、設定されている点だ。
(ウダーナや如是語の記述は、まさに、このことを述べていると言える。)
※“asaNkhata(-dhamma)”としてその存在を、
(それこそ、「名詞化されているものは実在する」というベクトルでもって)考察していったのがアビダルマ仏教でもあろう。
原初は、もっと素朴な涅槃だったのではあるまいか・・・。(←妄想混入率9割www)
勿論、私個人は、(涅槃の)このような伝統解釈に100%同意はしていない。(輪廻や転生と同じだw)
が、涅槃についてはともかくw、
現存上座部が(或いはその他伝統諸派も)『無我』で伝承してきている事実は、重く受け止めるべきだろ?
君らは、そう言って前シリーズでの私たちを外道認定してきたのだから・・。
しかも、仏典に確かな記述があるかどうか、そしてその読み方をほぼ字句通りに読むべきだとして・・・。
(というか、《「有我」を説く仏教》なぞ、未だかつて存在していないんじゃないか?)
もし、無我でなく有我だとするなら、それが論証されたら、
それこそ、仏教2500年の歴史を塗り替える大事件だよ。