1:不死と言われる理由
→ 《凡夫としての》《輪廻の中にある生死》が無い。
仏、阿羅漢、如来には「死」がない。
何となれば、≪「死」は、因により縁により生じる「果」であるから≫。
仏や阿羅漢、如来には、「死」があるのでなく《「(五)蘊の滅」があるのみ。だから「不死」。》
《「輪廻の中にある“次の生”」が無い。だから「不生」。》
※「“不死”だから“常住”」ということではない※
2:主体が不要である理由(涅槃もまた無我であると言われる理由)
→ 完全なる寂滅の境地であるが故に、
そこに、≪「誰それ」という個別性はない≫≪「誰それの涅槃」というものではない≫
完全なる寂滅という「一色」「一味」であるが故に、
そこに「アートマン(という個)」はありえない。
3:常住である理由
→ 生じたのでなく、作られたのでない寂滅は、
「一切の作用が止滅した」境地であり、生じるでもなく、
またその寂滅という境地が滅するでもなく、
何かによって(たとえば“主体”“アートマン”等によって)維持され継続されるのでなく、
縁によって生じ滅するものでないから、常住である。 (・・・・・後代の「自性」との共通性有。)
《所縁のものでない》から常住と言われる。だから(「不生」であり)「不滅」である。
※「“不死”だから“常住”」ということではない※
4:常住であることが、主体(アートマン等)を必要としない理由
→
>>165及び上記2から、主体が要請されることはない。
また、3にあるように、所縁のものでないから常住たりえているわけだが、 (・・・消極的常住?www)
それは、一切の、完全なる寂滅であるが故であり、
《何がしかが常住たらしめている》のではない。 (・・・積極的常住?www)
もしそうであるなら、それは(互いに)所縁のものとなってしまうだろう。