【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】8

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1:不死と言われる理由
    → 《凡夫としての》《輪廻の中にある生死》が無い。
      仏、阿羅漢、如来には「死」がない。
      何となれば、≪「死」は、因により縁により生じる「果」であるから≫。
      仏や阿羅漢、如来には、「死」があるのでなく《「(五)蘊の滅」があるのみ。だから「不死」。》
      《「輪廻の中にある“次の生”」が無い。だから「不生」。》

        ※「“不死”だから“常住”」ということではない※

2:主体が不要である理由(涅槃もまた無我であると言われる理由)
    → 完全なる寂滅の境地であるが故に、
      そこに、≪「誰それ」という個別性はない≫≪「誰それの涅槃」というものではない≫
      完全なる寂滅という「一色」「一味」であるが故に、
      そこに「アートマン(という個)」はありえない。

3:常住である理由
    → 生じたのでなく、作られたのでない寂滅は、
      「一切の作用が止滅した」境地であり、生じるでもなく、
      またその寂滅という境地が滅するでもなく、
      何かによって(たとえば“主体”“アートマン”等によって)維持され継続されるのでなく、
      縁によって生じ滅するものでないから、常住である。  (・・・・・後代の「自性」との共通性有。)
      《所縁のものでない》から常住と言われる。だから(「不生」であり)「不滅」である。

        ※「“不死”だから“常住”」ということではない※

4:常住であることが、主体(アートマン等)を必要としない理由
    →>>165及び上記2から、主体が要請されることはない。
     また、3にあるように、所縁のものでないから常住たりえているわけだが、 (・・・消極的常住?www)
     それは、一切の、完全なる寂滅であるが故であり、
     《何がしかが常住たらしめている》のではない。 (・・・積極的常住?www)
     もしそうであるなら、それは(互いに)所縁のものとなってしまうだろう。