>>93 ある意味独我論的に(?)、
《「思考している」「行じている」「“自己もまた空である”と“見る・考察する”」モノ》が居るじゃないか。
という指摘と思われ・・。(で、デカルトはこれを解決できなかった。)
で、
仏教は、「そのような思考・思惟もまた、因により縁により生じ、因により縁により継続している在り様・様相である」と【見】、
それの極が龍樹なのでは?
※この“【見】ること”を指し、「ほら、【見】ているモノがいるじゃん。コレは消去できない」
という反論は当然ある。 そして、
イタチゴッコの如く、「それもまた、因により縁により云々・・・」と返す。
すると、「だから、そのように“【見】做している”モノがそこに居るだろ?」と返す。
対してまた、「そのような《【見】做し(ているという思考)》が、因により縁により云々・・・」と返す。
すると、「だから、そのように《【見】做し(ているという思考)》をするモノが、そこに居るだろ?」と・・・。
いつになったら終わるんでしょうね・・・w
※
>>89や
>>82中の139は、
このように ≪懐疑や、消去・解体の果てに『残滓として残る“(思考の)主体”』≫ があるでしょ?
という疑義だろうと思われる。