506 :
無明の闇:2009/09/20(日) 14:05:18 ID:Qk097OXR
そんな親鸞会なんか龍谷にいたのか。私は一度もお目にかかったこともない。
どこにいたわけ。大宮か。図書館か、私は深草には行ったことないから分からん。
いつ頃の時代なのか。まあどうでもいいけど。少なくても東大にはいなかったぞ。
まあ私たちのような他大学の印哲系は本山系の大学のかやの外だからどうでもいいけど。
釈迦が出家した時の状況はどうだったか。後世の仏伝作家達が、昔からの伝承と自分達
の哲学的想像を織り交ぜて描いている。出家とはどういうことか。馬鳴の考えを掘り起こして
みよう。
手段
<彼に対する愛情はもう捨てたほうがよい>
恩愛の情を断つ
目的
<彼は生死を克服す(ることができ)れば、すぐにでも帰ってくる>
生死つまり再生・挫折・再生・挫折の繰り返しを克服する道を探すと言うことだ。後生の一大
事の解決を求める。これが出家の目的である。
覚悟
<努力を怠って目的を果たさないときには、死するであろう>
道が得られなければ、その後の選択は死があるだけである。
退路を断つ
<満面に涙をたたえるチャンダカを退去させ>
もと来た道を戻らない。前進あるのみである。
誇りと自信をもつ
<オレンジ色の衣を身にまとい>
インドでは、おそらくオレンジ色の染料が簡単に手に入るのだろう。簡単に手に入る染料で染め
た服をまとうと言う意味があるのだろう。
それと、オレンジ色は黄金色に近い。仏像は黄金で輝く。つまり、オレンジ色は決してさびること
のない不変性を象徴する。そこに修行者の誇りと自信と決意とを表していると考える。
人の心は忘れない
<涙を流してはいけない。(汝の)名馬のほどはここに示された。しんぼうしてくれ。汝のこの労は
速やかに報いられるであろう>
恩愛の情は断つが、人の心は決して失わない。
王位を捨てる・生まれ変わる
<彼は毛髪もろともきらびやかな冠を切り落とし>
毛髪を切り落とすと言うこと。髪を落とすと言うことは、赤ん坊になるということ。生まれ変わること
だ。釈迦が出家した時、人間の心は失うことなく、一人の王が死に、一人の僧が生まれた。釈迦は
最後の輪廻を経験した。
生まれ変わったとき、釈迦は王位を捨てた。人は、全て王位にある。自我と防衛本能で守られた自
分の価値観、世界観の中の主人であり、王である。出家すると言うことは、自分を守ってきた価値観、
世界観を出る。この王位を捨てるということ、これが出家の最大の仕事だろうと思う。
行者の仲間に入る
<行者の庵のあるほうに向かっていった。>
修行は、同じ心を持った者が互いに助け合う。修行者の仲間に加わるということだと思う。
釈迦の出家ありかたは、その後、彼の継承者達の思想に多大の影響を与えている。釈迦に真実を
学ぶ全ての者にとって、真実を学ぶ時の指針になると思う。
■状況的には自殺か他殺の可能性が高い臼井儀人さんの死■
◆以前自殺した人の場所が臼井さんの遺体発見場所と同じ荒船山の艫岩(自殺の名所か?)
◆子供が登っても危険な場所が全くないという多数の登山者の意見
◆登山に行ったのを知っているのに、警察は「失踪」で捜査していた
◆携帯電話だけ、山に入る前に、全然離れた場所に置き捨ててあった
◆11日の夕方に帰ると言って出かけたのに(現時点では死んだのも11日と推定)、
12日に軽井沢・13日に下仁田で携帯の微弱電波をキャッチ
日帰りの山登りなら絶対にあり得ない現象 その間に家族に電話を入れなかったのもおかしい
◆もし12日13日の携帯を持ってたのが他の奴なら、殺人もありうる
◆死の直前のクレしんのストーリーが不自然に暗く、周囲に不審がられていた
◆エホバの証人の件で親族(臼井さんの母親が創価)ともめていた
◆エホバでは自殺は禁止されている
◆以上により、事故の可能性はほとんどない
参考情報
母親が静岡にいた頃から創価 ところが臼井さんはエホバに乗り換え
創価母親と臼井さんがもめていた そしてナゾの死
(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル まさか・・・・・・・・・ひょっとして・・・・・
創価の勧誘を断った為、集団ストーカーされ自殺した清水由貴子さん
http://www.youtube.com/watch?v=Wo28LIJU5qM ★清水由貴子さんの証言全文★ 警察も消防も郵便局まで創価とグルだった・・・(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
http://antigangstalking.join-us.jp/doc/CivilSuit_03_e40_yukiko_shimizu.pdf
510 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/09/21(月) 14:25:22 ID:CaO/gb4Y
人間がいたいけな牛豚を斬首している。天道はこれを許さず。
天武天皇の正体は竹田皇子
蘇我馬子(百済王義慈)、蘇我入鹿(豊璋)と蘇我蝦夷(藤原不比等)にとって日
本を乗っ取る為の敵は彦人皇子と竹田皇子である。大化の改新は彦人皇子(聖徳
天皇)を蘇我入鹿(豊璋)と藤原鎌足(新羅武烈王)が暗殺した事件である。入鹿は
聖徳太子の係累を滅ぼした。蘇我氏の悪名が広まったので藤原氏と改姓し、豊
璋は彦人皇子の曾孫の中大兄皇子になりすました。聖徳太子の暗殺を隠す為に、
彼の業績を前にずらし、中大兄皇子の業績を後にずらした。だから彼は19年間皇
太子のままでいなくてはならなかった。その間、高市天皇、長屋天皇が治めた
が、それを女帝にすり替えた。
天武天皇が古事記を選録させたのは、諸家に伝わっている帝紀及び本辞は真
実と違い、多くの虚偽が加わっている。今の内にその誤りを正さねば、幾年も
経たない内にその趣旨が失われてしまう。それらは国家の原理、天皇政治の本
である。正しい帝紀を選んで記し、旧辞をよく検討して偽りを削って真実を定
めて、後世に伝え様と考えたからである。こんな言葉は日本天皇でないと発言
出来ない。天皇は肉食禁止の詔も出している。
安万呂が言う。上古の時は言葉とその内容が素朴で、文章に書き表すとなる
と、漢字の用い方が難しかった。全ての漢字の訓を用いて記した場合には、漢
字の意味と言葉の意味が一致せず、全て音を用いて記すと記述が大変長くなる。
そんな訳で一句を記すのに音訓を混用した。日下を玖沙訶(くさか)と記した。
これは神代文字をそのままの発音で表すとくさかだが、太陽の下と言う意味で
ある。日本には漢字以前に神代文字があった。外国の侵略によって神代文字を
破棄させられ漢字を強要された。これは日本人の知能を低下させる陰謀である。
正しい皇統の敏達天皇の皇子から該当者を探すと、竹田皇子が一番可能性が
高い。竹にはかぐや姫伝説の意味が込められている。天皇の皇后には大国主命
の娘が代々なっていた。それが藤原氏に代わった。それまでは母体が日本天皇
で魂がユダヤ王であったが、その両方がユダヤに代わった。だからかぐや姫は
月(幽界)へ帰ったのである。
511 :
無明の闇:2009/09/21(月) 15:16:43 ID:vHuuTFw1
親鸞さんが出家したのは何らか一家に生活できない事柄が生じたからだ。
父親を始め、兄弟みんな出家しておられる。それもみんな違う寺だ。
没落貴族とはいえ、いろいろ頼って出家したんだろ。しかし叡山での位は高くない。
当時叡山は修行で地位があがるのではなく、貴族の地位でつく位が決まっているんだよ。
念仏三昧堂の堂僧なんかは全然たかくない。
512 :
無明の闇:2009/09/21(月) 15:30:19 ID:vHuuTFw1
ところがかえってこれがよかった。この横川に念仏の教えがあり、この中に
かすかに仏教が残っていたんだな。まあ流罪になるわけだけど、そんなに悲惨な
生活ではない。流罪地へは京都市内から大津口までは輿にのってお付きの人もおられた。
琵琶湖は船で行かれただろうし北国街道は歩いて越えられ、さらに船で越後に入られたと思われる。
まあ流罪になった人で流罪地に到着していろいろ記録が残って確認されているのは法然さんと親鸞さんぐらいで
あとの僧達は記録がないのを考えるとどうも腑に落ちない点もある。
しかし叔父が今で言う越後の国の副知事クラスだから、さらに恵心尼の家の領地もあり
飲まず食わずの生活ではない。では親鸞さんや法然さんは流罪をどう受け止められていたのか。
ここが問題だ。
一向専修の人においては、回心ということ、ただ一度あるべし。その回心は、日ごろ本願
他力真宗を知らざる人、弥陀の智慧を給わりて、日ごろの心にては、往生叶うべからずと
思いて、もとの心をひき変えて、本願を頼みまいらするをこそ、回心とは申し候え。(歎異抄)
出家という生き方は、誰にでも可能という訳にはいかないだろう。一家の大黒柱が出家す
れば残った家族が路頭に迷うこともある。浄土真宗は、物理的出家という形をとらなくても、
やや曖昧な言い方をすれば精神的出家という生き方を提案している。釈迦のような出家は
取らないが、心はそれに近い生き方を提案する。引用した歎異抄の言葉は、そのような精
神的出家という生き方を提案している言葉だろう。
念仏者になるということは決断だ。自己防衛の迦毘羅城に籠もっている日ごろの心にて
は、再生・挫折・再生・挫折という悪循環を断ち切ることができない。悪循環を断ち切れた
世界に往き、そこで新たな生き方をしていくことはできない。そう思って自分自身の迦毘羅
城を捨て、外に出る。阿弥陀仏の本願を頼みとする行者の庵、正定聚の住む方向に歩み
出す。これが浄土真宗の精神的出家である。僕はそう思う。
出家は慎重に判断する。世の中にはすばらしい先人はたくさんいる。宗教もたくさんある。
本当に仏教でいいのか。どうしてキリスト教を信じないのか。キリスト教こそ、世界最大の
宗教として、多くの人々が信仰している。なぜ自分は仏教なのか。
なぜ親鸞なのか。日蓮聖人は念仏無間という。念仏を称えれば無間地獄に堕ちると教え
ている。なぜ、自分は念仏宗を選ぶのか。
無宗教ではいけないのか。なぜ無宗教という選択を選ばないのか。
親鸞を自分の師匠として選ぶなら、その前にしっかり考えて欲しい。相談できる相手がい
れば、相手にしっかり聞くがいい。答えをはぐらかしたり、曖昧にするような人は相手にする
な。しっかりと答えてくれる人を探してほしい。
この上は、念仏を取りて信じ奉らんとも、また捨てんとも、面々の御計らいなり。
515 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/09/23(水) 11:03:47 ID:UUQ948a/
「阿弥陀さまは、私がわかろうがわかるまいが、首に縄をつけてでも、とにかく、おまえを地
獄に落としてなるものか。迷わしはせん。早う私の懐へ抱き寄せたいんじゃ」など、がんじが
らめのマインドコントロールの縄で相手を縛るのは、外道の宗教である。
痛くもない腹を探る宗教は外道である。お伽噺は幻想である。本性を隠すのは詐欺師である。
形もましまさぬ様を知らせんとて、始めに弥陀仏とぞ聞き習いて候。弥陀仏は、自然の様を
知らせん料なり。(自然法爾抄)。
桃太郎は形而上の存在だから形はない。架空の存在である。入門者に最初に言う言葉、そ
れは、「桃太郎は勧善懲悪という概念を伝えるための手段である」ということである。お伽噺は、
子供に大事なことを伝えるための道具である。
阿弥陀仏は形而上の存在だから形はない。入門者に冒頭に言わなければならない言葉、そ
れは「阿弥陀仏は、自然という概念を伝えるための手段である」ということである。これはあくま
でも、仏教が扱う道具である。道具は、人がよりどころに使うものであり、人が使われるものでは
ない。
なぜ仏教か。なぜ浄土真宗か。なぜ念仏か。お伽噺でなく、マインドコントロールでなく、客観
的合理的に説明できる根拠を持って合理的に判断しようではないか。
桃太郎をよりどころにし、これまでの心を反省して善を行い、悪をやめる。桃太郎は子供達に
そうした生き方を期待している大事なお伽噺である。
日ごろの心にては往生叶うべからずと気づけば、阿弥陀仏をよりどころにし、本願をよりどころ
にして座禅して念仏を称える。五会念仏を称える。奢摩他・毘婆舎那を実践していく。これが浄土
真宗の出家である。
客観的合理的根拠に基づき、納得しているから念仏者は後戻りしない。揺らぐことがないよう
に乗ってきた馬チャンダカは迦毘羅城に戻す。
オレンジ色の衣はまとわないが、納得している心はオレンジ色で決してさびることがない。客観
的合理的根拠に基づくから、人の心は忘れない。
正定聚に向かって歩み出す。これが浄土真宗の出家である。ぼくはそう思う。
>なぜ親鸞会は、「なぜ私は親鸞会を辞めたのか」のサイトが出来たとき「なせ親鸞会を
>辞めたのかを読んで」を作ったように、親鸞会教義の誤りを指摘するサイトに対する
>反論サイトを作らないんでしょうか?
反論サイト作ってもその論理がきわめて曖昧でつっこみどころが満載ですので、
また、その反論サイトがつくられて、結果的に親鸞会批判を助長してしまうことに
なることを、W部弘宣部長がようやく学んだので、反論サイトはつくらずに、
うちわで会員に「やめないでね、おねがい」と言うようになったと聞きました。
>
http://n.m.livedoor.com/a/d/4334029 >livedoorニュースの記事が、捏造ならどうしてすぐに裁判所に訴えないのですか?
捏造でないので、訴えられません。
もし仮に、捏造だとしても、裁判所に訴えることで、親鸞会の恥部が法廷で明らかに
なる恐れがあるので、親鸞会は絶対に裁判沙汰にはもってゆけないのです。
親鸞会の教えを聞くようになるには、配慮が必要と言われます。
しかし、部外者に知られたらそれだけでも聞かなくなるくらい高額の御法礼、厳しい参詣目標。
部外者に隠しまくらないといけないことばかり、親鸞会はしていませんか?
50周年大会のとき、参詣者は会員以外も含めて全員、1日2万5千円、2日間で5万円の御法礼でした。
5万円出せない人は全員支部長が特別申請、○○が理由で5万円の御法礼が出せないと布教局長に報告しました。
その際、支部長は、「参詣者は全員御法礼5万円ですが、誰でも彼でも金額を言っては、また親鸞会は金集めをしていると悪い評判がたってしまいます。だから充分な配慮が必要です。」
「特別申請するのに、1人1人理由を書いて申請しないといけないから、班長のみなさんは状況を詳しく教えてください」
等々、無理矢理上から高額の御法礼を決められた悲哀と、けれども人数を集めて、申請をしないとまた問題にされる焦りが感じられて、とても可哀想でした。
518 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/09/26(土) 13:13:33 ID:cm450dwB
出家した釈迦は、その後、二人の先人の元を訪ねる。資料としては、中村元さんの
ゴータマ・ブッダ(釈尊の生涯 春秋社 刊)を使わせ貰う。
先人の一人は、アーラーラ・カーラーマという。もう一人は、ウッダカ・ニ・ラーマプッ
タという。中村元さんの引用元は、方広大荘厳経である。
アーラーラ・カーラーマはわたくしにこのように言った、―「きみよ。ここにいなさい。
この教えは、そこにとどまるならば、智者は久しからずしてみずからを師としてみず
から知り、証し、体現し得るほどのものである。」と。
そこでわたくしは久しからずして、速かにその教え(法)に達することができた。かく
てわたくしは、ただ唇を打つ程度、ただおしゃべりする程度には知識のことばを語り、
長老のことばを語ることができ、「われは知る」「われは見る」と自他ともに認めるほど
になった。 〜 アーラーラ・カーラーマは、わたくしの師でありながら、弟子であるわ
たくしを自分と同等に置いて、大げさな尊敬供養によってわたくしを尊敬供養した。そ
のときわたくしはこのように思った、―「この教えは厭離に赴かず、離欲に赴かず、止
滅に赴かず、平安に赴かず、英智に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない。た
だ無所有処を獲得し得るのみ。」
ウッダカ・ニ・ラーマプッタはわたくしにこのように言った、―「きみよ。ここにいなさい。
この教えは、そこにとどまるならば、智者は久しからずして自らを師として、みずから
知り、証し、体現し得るほどのものである。」
そこでわたくしは久しからずして、速かにその教えに達することができた。かくてわた
くしは、ただ唇を打つ程度、ただおしゃべりする程度には知識のことばを語り、長老の
ことばを語ることができ、「われは知る」「われは見る」と自他ともに認めるほどになっ
た。 〜 ウッダカ・ニ・ラーマプッタは非想非非想処を宣説した。 〜 ウッダカ・ニ・ラ
ーマプッタは、わたしと修行を共にするものでありながら、わたしを師の地位に置いて、
大げさな尊敬供養によってわたくしを尊敬供養した。
519 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/09/26(土) 13:14:14 ID:cm450dwB
そのときわたくしは、このように思った、―「この教えは厭離に赴かず、離欲に赴かず、
止滅に赴かず、平安に赴かず、智に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない。ただ
非想非非想処を獲得し得るのみ。」と。そこでわたくしは、その教えを尊重せず、その
教えに慊らず、出で去った。
アーラーラ・カーラーマは無所有、ウッダカ・ニ・ラーマプッタは非想非非想を説いて
いたという。釈迦が、成道前に一度は教えを請い、その教えに飽きたらずに放棄した無
仏の教えである。実体は何か、それを浄土真宗の教えとの関係で考えてみたい。
520 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/09/26(土) 13:18:33 ID:cm450dwB
>>515 訂正
× 揺らぐことがないように乗ってきた馬チャンダカは迦毘羅城に戻す。
○ 乗ってきた馬とチャンダカとは迦毘羅城に戻す。
521 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/09/28(月) 10:30:37 ID:1mfEszA6
釈迦の出家の目的は、再生(生)・挫折(死)・再生(生)・挫折(死)の繰り返しを終わ
りにし、持続的継続を可能にする方法を取得することにあった。釈迦がアーラーラ・カ
ーラーマとウッダカ・ニ・ラーマプッタに求めたものもそれであり、二人には、釈迦が知
りたいと思った問題の解答があるのではないかと思ったからだ。
アーラーラ・カーラーマは無所有処の教えを説いていたという。「難しいことではない。
すぐに分かる」アーラーラ・カーラーマは無所有の教えについて釈迦にそのように言う。
「きみよ。ここにいなさい。この教えは、そこにとどまるならば、智者は久しからずしてみ
ずからを師としてみずから知り、証し、体現し得るほどのものである。」
釈迦はほどなくしてそれをみずから知り、証し、体現した。するとアーラーラ・カーラー
マは「大げさな尊敬供養によってわたくしを尊敬供養した」という。アーラーラ・カーラー
マは、釈迦だけでなく、それの考えを知り、証し、体現した人には、誰に対してもそのよ
うに振る舞ったのだろう。
無所有というのは、頭で考えることではない。要するに、所有品も道具ももたないこと
である。その考えの流れは、インドでは現代にもある。彼らはジャイナ教徒という。ジャ
イナ教徒の裸行派は今でも存続し、素っ裸の生活をしている。女性でも出家は着衣を
着けないそうだ。
再生・挫折・再生・挫折の失敗はなぜ起こるのか。物欲があるからであろう。物欲を断
ち、あるがまま、自然に生きれば再生・挫折・再生・挫折という愚かなことはなくなる。彼
らはそのように考え、それを実践する。
釈迦はアーラーラ・カーラーマの場を去る。「この教えは厭離に赴かず、離欲に赴か
ず、止滅に赴かず、平安に赴かず、英智に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない」。
釈迦はそう考えた。「わたくしはこの教えを尊重せず、この教えにあきたらず、出で去っ
た」。
成道前、釈迦はアーラーラ・カーラーマの考えを退けた。しかし、悟りを開いた後、釈
迦は、幾度か弟子達にその同じ教えを説いている。中村元は『スッタニパータ』を引用
する。
522 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/09/28(月) 10:31:35 ID:1mfEszA6
尊師は答えた、「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有を期待しつつ《そこには何も
存在しない》と思うことに依って、煩悩の流れをわたれ。
諸々の欲望をすてて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
ウパシーヴァ尊者がいった、「一切の欲望に対する貧りを離れ、無所有にもとづいて、
他のものをすて、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、―かれは退き堕する
ことなく、そこに安住するでありましょうか?」
尊師は答えた、「ウパシーヴァよ、一切の欲望に対する貧りを離れ、無所有にもとづい
て、他のものをすて、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人―かれは退き堕す
ることなく、そこに安住するであろう。」と。』
浄土真宗に無所有の考えがある、かどうか。無所有の考えは全く存在しないように思
われる。裸行という考えが出てくるなら、現代の浄土真宗の坊さんなら、とんでもない話
だと言うだろう。浄土真宗は在家主義であり、在家主義に無所有の考えはないと、きっぱ
りと言うだろう。
しかし、現代の浄土真宗の専門家でも、ほとんどの人が見たことがなく、関心も持って
ない文書がある。一度は存在を知っている人も、二度と見たくないと思っていて、恐らく消
し去りたいと思っているであろうと思われる親鸞の重要な古い肉筆の文書の中に、これに
非常に近い主張が書かれている。親鸞の考えは奥が深いのだ。後で紹介して考えたいと
思う。
523 :
無明の闇:2009/09/28(月) 17:45:35 ID:qoSp4lWw
さてと、大経の教えが真実なのに釈迦の教えがそのごとく歴史にあらわれてこないといけないのです。
たとえば仏教の歴史観でいえば、末法思想が釈迦によって語られ、そのごとく歴史に現れないと、いけないのです。
親鸞さんや法然さんはこの末法時代の凡夫の救いを求めたわけです。
大経に於いては、時代が経つにつれて仏の教えは滅び、人はウソや偽りを言い、様々な悪を犯し、さらに時代が
たてばいっそう激しくなることを釈迦自身が語っているわけです。
−−我世を去りてのち経道ようやく滅し云々−−五悪段の後のところです。
ここにお釈迦さん自身がちゃんと末法を語っておられる。
まずここをおさえて於かないと話が進まない。そこでお釈迦さんは後の凡夫のために
アミダの他力の教えを残されたのです。この教えは正像末を貫き法滅においても通じる
法なのです。
524 :
神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 19:01:15 ID:SF5r+rBK
>>523 「ここにお釈迦さん自身がちゃんと末法を語っておられる」って
あんた、大乗経典が釈尊の言葉の速記録だとでも思ってんの?
アホちゃうか。
まあつまりHしたいんだろ?
2人きりでそういう雰囲気になったらキスくらいするよね
その後、真面目に「Hしたい」とでも言ってみるといいよ
もちろん女の子には「結婚してからじゃないとしない」っていう人もいるし
「万が一子供が出来ても育てられる状況じゃないとダメ」みたいに思ってる人もいる
これ以外にも色々理由はあるだろうし、もしHを拒否されても、それに対して色々つっこまないこと
それでもHしたいなら真剣に話し合うべき。別に本番しなくても他の方法で性欲は発散できるわけだし
ハッサンはとびひざげりをはなった!
ちなみに俺は今の彼女とは付き合って2日目でHしました
でも周りがこうだから俺達もしようぜ!みたいなのは絶対だめだぜ
それぞれペースってもんがある
526 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/09/29(火) 11:32:14 ID:LnxbiSk2
極楽浄土について
親鸞仏教
これまでの議論を、中間的にまとめてみました。
全体像がすこし見やすくなったと思います。
しんらん.jp
なぜおばはんは韓流のような純恋愛ドラマにハマるのか?
それは韓流ドラマが物理的にフィクションではあるが
確実に現実生活のメタファーとして視聴者に捉えられるからでしょう
馴染みのある光景を排除して、それでいて何処と無く親近感を感じてしまう程度のキョリ感
それこそ韓流なのです
つまりおばはんが韓流にハマるのは、大学生がアニメにハマるのと
根本的に同次元の事象であると言えるのです
528 :
無明の闇:2009/09/30(水) 03:16:41 ID:Ioe+ltoa
ついでに524に答えておこうか。まずお前にはその考えがでるということはいくつかの点がある。
1つはお前には仏教の救いが必要でないとお前自身が思っている。
2つには、したがって、お前は山を遠くから見ているだけで実際に登っていない事を自らが証明している。
3つに、仏教は仏道だからお前はその道を歩んでいないことを証明している。
4つには仏教は信をもって能入とするということをお前はしらない。
5つにはお前は仏教がどのようにつたわり私を救うのかを知らない。
6つには仏教は現代の今から過去をみることを知らない。
7つには歎異抄の2条を読んだこともないからそれが分からないのだよ。
8つにはお前は自分自身を本当に見れていない。自分を賢とみて仏典を自分に合うように
理解をしょうとしている方向に救いはない。
9つに我かくのごとく聞くの仏典の最初の言葉の意味をしらない。
10にお前は月をさしている指を見ようとしている。そして指をみて月ではないといっている。
指の指し示す方向に月はあることを知らない。
11にお前は後得智ということを知らない。この智によって経典は説かれている事を知らない。
12にお前は言葉にとらわれている。
まだまだ100ぐらいあるけど、肝心なのはお前は救いに遇っていない。人に会っていない。
現実の救いがあって、その意味を経典に聞くんだよ。親鸞さんは法然さんにあって阿弥陀に救われたんだよ。
それが現実にあって、その意味を、歴史的真実の意味を経典に聞かれて行かれているんだぜ。
今、ここに阿弥陀の名がある、その歴史的意味をさかのぼって聞かれているんだよ。7高僧、釈迦をつらぬいて
弥陀まで。最後にお前は大無量寿経を読んでいないし、親鸞さんの本典もよんでいない。
だから名号をもって経の体とするなりという言葉をしらない。
529 :
無明の闇:2009/09/30(水) 03:28:29 ID:Ioe+ltoa
もう一度書いてあげよう。
まだまだ100ぐらいあるけど、肝心なのはお前は救いに遇っていない。人に会っていない。
現実の救いがあって、その意味を経典に聞くんだよ。親鸞さんは法然さんにあって阿弥陀に救われたんだよ。
それが現実にあって、その意味を、歴史的真実の意味を経典に聞かれて行かれているんだぜ。
今、ここに阿弥陀の名がある、その歴史的意味をさかのぼって聞かれているんだよ。7高僧、釈迦をつらぬいて
弥陀まで。最後にお前は大無量寿経を読んでいないし、親鸞さんの本典もよんでいない。
だから名号をもって経の体とするなりという言葉をしらない。
この経はどこを切っても名号だということよ。アミダ如来ということよ。さらに本質は釈迦が説いたんじゃないんだぜ。
アミダ如来が釈迦に説かしめた。言葉を変えていったら月が指をささしめたわけだ。
このあたりは現実に私にアミダ如来の救いの成就がありそれを聞いていって、17願にたどり着くわけだから
救いがないものには見えてこない世界だ。その人間は救われていないから疑う。経典を疑い、釈迦を疑い、親鸞を疑う。
お前は救いを求めていない。
530 :
神も仏も名無しさん:2009/09/30(水) 07:02:53 ID:b4DECi4f
>>528 12にお前は言葉にとらわれている。
13におまえはお経がおとぎ話であることを知らない。w
…浄土経典はお釈迦さまがお説きになったものではありません。アンデル
センが『人魚姫』を創作したように、グリム兄弟が古老を訪ねて『白雪姫』
を採録したように、浄土経典は後世の仏教徒たちが作り上げたおとぎ話に
過ぎないものです。(真宗批判サイトからコピペ)
531 :
神も仏も名無しさん:2009/09/30(水) 07:13:46 ID:rFYMZdpP
>>529 親鸞さんは法然さんにあって阿弥陀に救われたんだよ。
「親鸞は法然にあって阿弥陀のヨタ話に騙されたんだよ」と書けっ。w
…仏の説き給いし大乗経の各章には、共通して禅定と知慧の波羅蜜多が説
かれ、浄土経典だけを例外扱いするには及びません。また信仰による「死
後の救済」を説いていないことも大乗経各章に共通し、浄土経典の場合も
例外ではありません。
「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生する
ぞと思い取」る法然のいかがわしい仏教は、経蔵・論蔵・律蔵の中のどこを
探しても見つけ出すことはできません。(同上)
532 :
神も仏も名無しさん:2009/09/30(水) 07:21:39 ID:rFYMZdpP
…彼らが拘泥する法蔵菩薩の四十八願にしても、異本間では願数が揃わず『仏
説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』と『無量清浄平等覚経』は二十四願ま
でしかないし、『大乗無量寿荘厳経』は三十六願で止まってしまい、チベット
訳は四十九願にまで増広されています。法然が「王本願」と呼んだ法蔵第十八
番誓願も、やはり異本間に異同があり、至心信楽を欠いているものもあります。
(同上)
ttp://kokageno.jakou.com/shousingetop.html
533 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/09/30(水) 11:58:31 ID:QqVs9GJB
非想非非想処とはどんな思想か。中村元は『スッタニパータ』を引用している。『ありの
ままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想い無き者でもなく、想いを消滅した者でも
ない』。
非想非非想という命名の基本となった言い回しだろうと思う。中村元は、この言葉に、「非
想非非想ということがはりきりと示されている」と評価している。しかし、否定形の言葉を綴
られれば、僕には真意が伝わってこない。物事は肯定系で説明してほしいものだ。
中村元はもう一つの言葉を紹介してくれている。この中身は詭弁であると言っているが、
僕にはこちらの方が意味が伝わってくる。中村元は『中阿含経』第二十八巻「優陀羅経」を
引用する。
『チュンダよ。実にウッダカ・ラーマ・プッタはこのようなことばを語った、―「見つつ、見
ず」と。何を見つつ、見ないのであるか?。よく磨かれた剃刀の面(平)を見るけれども、
その刃を見ないのである。これが「見つつ、見ず」と言われるものである。ウッダカ・ラー
マ・プッタの語ったこのことは、劣って卑しく、凡夫のことであって、聖に非ず、意義のな
いことで、剃刀のことのみを暗に含めて考えてそういうのである。しかし「見つつ、見ず」
ということを正しく語る人が語るならば、「見つつ、見ず」ということを正しく語るべきであ
る。では、何を見つつ、見ないのであるか?。「かくのごとく一切の相が具わり、一切の相
を円満し、減なく増なく善く説かれ純粋円満なる清浄行が明らかにされた。」と、実にか
くのごとく見るのである。「ここでこれが除かるべきである。それはかくのごとく更に清浄と
なるべきである。」と、かくのごとくそれを見ないのである。「ここでこれが加えられるべき
である。それはかくのごとく円満となるべきである。」と、かくのごとくにそれを見ないので
ある。これが「見つつ、見ず」と言われるのである。』
534 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/09/30(水) 12:00:26 ID:QqVs9GJB
ウッダカ・ラーマ・プッタは、「見つつ、見ず」という言葉を振り廻して人々を驚かした。し
かし、誰もその意味を了解することができなかった。その意味を尋ねると、「このことば
の意味は深遠であって、腹工合の善い時でないと答えられない。暫らくして答えよう。」
といって、四ケ月間、人の尊敬供養を受けていたという。その後に「〈見つつ見ず〉という
のは〈剃刀の平は見るべからず〉という意味である」と説明した、ということになっている。
ウッダカ・ラーマ・プッタは、一方では非常に尊敬される一方、激しく非難する人もいた
という。こういう事情を考えると、ウッダカ・ラーマ・プッタの思想の実体が僕には見えてく
る感じがする。ウッダカ・ラーマ・プッタの教えの実体は、現代浄土真宗からは非常によく
見えてくる。現代浄土真宗こそ、その亜流ではないか、そんな感じがするのだ。
内容を考えてみる。
>>534 誤 現代浄土真宗からは
正 現代浄土真宗教団を含む多くの現代の組織、あるいは人々の本音から
誤 現代浄土真宗こそ、その
正 現代浄土真宗教団を含む現代の多くの組織こそ、ウッダカ・ニ・ラー
マプッタ教の
536 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/10/01(木) 12:23:26 ID:t97jmERI
織田信長の出自は物部守屋の子孫
織田家は津島神社を氏神としている。津島神社の祭神は素盞鳴神で、牛頭天
王とも呼ばれる。物部氏の祖神は饒速日命であり、素盞鳴神の神裔である。
信長は今川義元との田楽狭間の戦いの必勝祈願に熱田神宮に詣でている。熱
田神宮には素盞鳴神の八岐大蛇退治の時に、大蛇の体内から出て来たと言う草
薙剣が奉納されている。神武天皇の皇后・伊須気余理姫は大物主命(大国主命で
素盞鳴神の神裔)の娘であり、神八井耳命はその次男で尾張の丹波臣の祖である。
丹羽長秀はその子孫である。
物部氏は蘇我氏と神仏戦争を行った日本土着の民族である。だから、蘇我氏
(朝鮮人)の秀吉と家康によって暗殺された。その時代の天皇家も蘇我氏を改姓
した藤原氏で同類である。
美濃市の大矢田神社のひんここ祭りは、素盞鳴神の八岐大蛇退治を題材にし
ているが、本当は信長の仏魔退治を称えているのである。(素盞鳴神を演じる代
官の陣笠に木瓜の家紋が入っている。織田木瓜である。今から五百年前から始
まったと言われている。)百姓が一向宗の邪教に洗脳されて魔道に落とされて行
くのを、信長が素盞鳴神の様に大蛇の仏魔を切り倒して救う場面を人形劇で演
じている。信長は比叡山延暦寺を焼き払って僧侶を皆殺しにし、長島の一向一
揆を殲滅させた。正に英雄である。浄土真宗や日蓮宗等を信仰すれば畜生道に
落ちて、犬猫等に生まれ変わる外ない。家で飼っている犬猫は、因縁によって
その家へ辿り付いた、ご先祖の姿なのである。主人が大病して犬が身代わりに
なって死んだという話は、主人と犬が霊的につながっていたと言う証拠である。
537 :
無明の闇:2009/10/02(金) 13:33:17 ID:FgNw8nQk
やっとつながった。530−531−532はいはい質問待ってました。はいそうですかと引き下がられると
こちらも困る訳です。今日は違う角度から。普通この手の質問、即ちお経は釈尊の説かれたあるいは書かれたものでない。
仏説ではないという質問はずっと昔からあり答えも出ているのです。よく答えるのは六時成就でする。
釈尊滅後、30年ぐらい経て結集があり多聞第一アナン尊者を中心に編集していく話。そして第二結集のとき解釈の違いから分裂していき
部派仏教になっていく。この時にこれは釈尊が説かれたのに間違いないという証明をするために
我かくのごとく聞く−−−信、聞
ある時仏ましまして何処で誰にこの教えを説いた−−−時、説いた人、場所、誰に説いたかがあるわけです。
538 :
無明の闇:2009/10/02(金) 13:45:14 ID:FgNw8nQk
ところが6時成就があるからといって釈尊が本当にこの教えを説いた証明になるのかどうか。
後のものが6時成就をいれて創作もできるわけです。現に中国や釈尊滅後いろいろな経典が成立をしていったのです。
だからその経典を真と仮と偽に分けたりもしている。これは親鸞さんもやった。
またこうも考えられる。釈尊の教えは時代とともに深まりはしないのです。真実をあらわしたわけだから、真実なるものは
変わらなく、いつの時代もあるとなると、釈迦の時代と龍樹の時代と親鸞さんの時代も同じでないといけない。
同じ水でないといけないのです。ただし釈迦と龍樹と親鸞と私では器はみな違うけどね。その違う器に入る水は同じでないと
いかんのですよ。だから釈迦の説いたところが一番高く、だんだんそれが低くなる。言葉を変えればずれる。それを今度はもう一度
もとの高みにもどそうとする。もとにもどってまた時がたつと低くなる。また高みにもどす。この繰り返しで教えが伝わるわけですよ。
539 :
無明の闇:2009/10/02(金) 14:04:37 ID:FgNw8nQk
その高みは何かというと釈尊は縁起、龍樹は空、親鸞さんは本願念仏と表現したわけで
同じことなのですよ。そもそも釈尊の説法というのは対面者にあわせて釈尊の悟りを内実として
いろいろな問題に対応し説法されたわけだから、問題はその悟りの内実が問題になる。
それを縁起といったり空といったり本願というわけです。
これを言葉、語によらず義に、意味によるというわけです。この視点から無量寿経は歴史的実在としての
釈尊が弥陀の本願海を説いたと言い切り、龍樹は釈尊は一切空を説いたと言い切っているわけです。
540 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/10/02(金) 14:17:46 ID:wLeWGq2l
ウッダカ・ラーマプッタは、「見つつ、見ず」という。こういう言い方を現代の我々でもしばしば
することがある。われわれは見て見ないふりをする。ウッダカ・ラーマプッタの主張は、見て見
ない振りをせよということだったろうと思う。こういう主張であれば、浄土真宗教団のなかにもあ
る。
最近は冤罪事件が社会問題になっている。浄土真宗は、冤罪で流罪となった人物が宗祖で
ある。浄土真宗教団には、刑務所で収監者と直接接している教誨師が少なくない。教誨師総
裁も浄土真宗の近くにいる。もっともその人は、宗教の本は自分では書けないので、幽霊に書
いて貰って出版して儲けたそうだ。商魂だけはたくましい。
しかし、冤罪事件の解決に浄土真宗が関わったという話は、一度も聞いたことがない。死刑
囚の身から冤罪が晴れて出所した人が、教誨師ほど冤罪事件に無関心な人はいないと、そん
な意味のことを書いていた。
鎮護国家だって?。とんでもない。自殺者が年間3万人を超そうが、幼児虐待の相談件数が
うなぎ登りになろうが、それがどうした。そんな社会の問題を心配してどうする?。小さい話じゃ
ないか。そんなこと心配していたら、浄土真宗は日本だけの民俗宗教になってしまう。我々は
凡夫である。仏教がすべての人を救うなら世界宗教であるはずだ。そんな意味のことが、2ちゃ
んねるにも書かれている。
真宗の人の多くは社会に対する責任に消極的である。僧としての社会的使命感が乏しい。向
上心を嫌う。私たちは凡夫ですから自力はだめです。阿弥陀様が救ってくださるという他力を主
張する。僕は、こういう他力の教えを、見て見ないふりをする現代のウッダカ・ラーマプッタ教だ
ろうと考える。
教誨師をやっていると言えば肩書きがつく。しかし、冤罪事件に取り組めば、法務省からにら
まれ、苦しみが生じる。冤罪事件など、見てみない振りをすれば決して苦しむことはない。無実
の人が死刑になっても、一生懸命にそれを見ようとするから苦しくなる。心配になる。不安にな
る。見なければ苦しみはない。寺は先祖代々世襲で続く。教誨師は、安楽椅子に乗っていれば、
苦しみなどはやってこない。
541 :
無明の闇:2009/10/02(金) 14:20:24 ID:FgNw8nQk
釈尊の言葉にとらわれたら一番さかのぼる事が出来るのはスッタニパ−タか法句か。
しかしそれでも矛盾がでてくる。またあのとき説かれたのとこの人に説かれたこと等々を
あわせるためにより複雑で矛盾が矛盾をよびさらにつじつま合わせがおこる。
ニュ−トンの万有引力のようなものだよ。今の時代もニュ−トンの時代もあるだろ。
べつにその力をニュ−トンが作ったわけでもない。きっとニュ−トン以前もこの力はあってこれに気づいて
いた人もあっただろうし、ニュ−トンがこの世に出なくても後の人がこの力に気づき証明しただろうし。
そんな力を知らなくても引力のなかにいるんだよ。疑ってもその力の中にいる。忘れるんだったらたまにでも
引力の事を思い出せ。それには口にだしてインリョクがあるというのが一番。
まあこれは喩えだけど、この引力を縁起や空、なも阿弥陀仏に変えるのよ。
542 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/10/02(金) 14:23:36 ID:wLeWGq2l
ウッダカ・ラーマプッタは言う。「ここに実に明知者がいる。ここに実に一切にうち勝った者がい
る。掘り取られなかった節ある根を、ここに掘り取った。」と。ウッダカ・ラーマプッタは明知者なら
ざる者でありながら、「われは明知者である」と語り、一切にうち勝った者ではないのに、「われは
一切にうち勝った者である」と語り、また節ある根は掘り取られていないのに、「われは節ある根
を掘り取った」と語る。
門徒は言う。「私は救われているんですよ」と。門徒は自分が凡夫であると言い、「信心がある」
と言う。救いはなんら解決していないのに「救われている」と語り、生老病死は何一つ解決してい
なのに、「阿弥陀様が救ってくださっている」と語る。
ウッダカ・ラーマプッタは禅定をしていたようだ。見て見ない振りをすると言っても、何となく不安
にはなる。寺は世襲に安住すれば不安はないというが、子供が生まれなかったら、宗教法人は
他人の手に渡る。自殺しなければならないようなことが自分に起きたらどうしよう。不安はよぎる。
禅定は、そんなことも見て見ないようにするための手段だろう。
門徒は禅定をしない。そのかわり、気休めを言う。「そういう凡夫だからこそ阿弥陀様が全てを
お見通しして救ってくださっている。ありがたい、ありがたい」と。
浄土真宗の坊さんの講演会に行くと、最前列に座り、回りの人の迷惑も考えず、公演中「ナン
マンダブ、ナンマンダブ」とこれ見よがしに念仏を称えている人がいる。この人に、少し静かにした
らどうだと注意する人もいない。念仏を称えるのもいいが、念仏は他人に聞かせるものではない。
禅定はないが、気休め念仏という見せ物念仏は一部にある。
中村元は経典を紹介する。
ウッダカ・ラーマプッタは何を見つつ、見ないのであるか?。「かくのごとく一切の相が具わり、一
切の相を円満し、減なく増なく善く説かれ純粋円満なる清浄行が明らかにされた。」と、実にかくの
ごとく見るのである。
阿弥陀様が救ってくださっていると言って見て見ない振りをすれば、一切の相が具わり、一切の
相を円満し、減なく増なく善く説かれ純粋円満になる。
543 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/10/02(金) 14:25:57 ID:wLeWGq2l
経典は言う。「ここでこれが除かるべきである。それはかくのごとく更に清浄となるべきであ
る。」と、かくのごとくそれを見ないのである。「ここでこれが加えられるべきである。それはか
くのごとく円満となるべきである。」と、かくのごとくにそれを見ないのである。これが「見つつ、
見ず」と言われるのである。
「無実の人が犯罪者とされて収監されているようなことは許されるべきではない。直ちに釈
放すべきである。更に清浄となるべきである。」と、このようには教誨師は考えないのである。
なぜならそのように主張し努力するすることは自力だからである。「冤罪はなくすべきである。
かくのごとく国家による人権侵害をなくし、社会を平和にすべきである。社会は円満となるべ
きである。」と、教誨師は真実を見ないのである。なぜなら自力では問題が解決しないから
である。これが「見つつ、見ず」つまり「見て見ない振りをする」と言われるのである。努力をし
たり、使命感を持ったりする自力はいけません。
こんなことを言う人ばかりではないと思うが、使命感、責任感、努力、克己心、闘争心、研
究心、こういう生きた魂が自力という言葉で一括して否定できるのは、現代浄土真宗の不思
議な教義の特徴であり、ウッダカ・ラーマプッタ教との共通点ではないだろうか。
保元・平治の乱、源平の合戦、武家政権の誕生、平安時代という比較的平和な時代が一
気に幕を下ろして戦乱の時代になった時、鎮護国家をたたき込まれていた法然・親鸞らが一
斉に山を下りる。そんな中で親鸞は、女の尻を追っかけたんだろうと卑猥な評価をし、あの
人は自分達と同じ凡夫だなぁなどと、嘲弄の言動を浴びせる。「見つつ、見ず」、「現実を見て
見ない振りをする」。苦しみのない思想の真骨頂だろと僕は考える。
ウッダカ・ラーマプッタの教えは、誰もその意味を了解することができない。その意味を尋
ねると、「このことばの意味は深遠であって、腹工合の善い時でないと答えられない。暫らく
して答えよう。」といって、四ケ月間、人の尊敬供養を受けて、その後に「〈見つつ見ず〉という
のは〈剃刀の平は見るべからず〉という意味である」と説明した。
544 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/10/02(金) 14:29:59 ID:wLeWGq2l
「見て見ない振りをする」というのは、人間の本音である。真正面切って説くと正義感に駆ら
れている人からは猛反発を受ける。「腹工合の善い時でないと答えられない」とウッダカ・ラー
マプッタがいうのは、まじめに答えることはできませんという意味だ。四ケ月間、人の尊敬供養
を受け、ウッダカ・ラーマプッタはその後、「剃刀の平は見るべからずという意味」だと、抽象的
に慎重に説明する。「危ないところには近寄らない。冤罪者が泣いているというような問題には、
法務省がへそを曲げるから、刑務所に出入りしている教誨師は関わらない」ということである。
仏典は言う。かつて或るとき、トーディ村のバラモンの仲間のうちには他人を非難する人々が
いた。
刑務所に出入りし、収監者と直接面接していながら、冤罪には無関心な教誨師は、法務省か
らは喜ばれても、解放後の元収監者からは嫌われる。トーディ村のバラモンでなくても、社会
的な責任を果たそうとしない宗教人は、法務省以外からは非難を受けるだろう。
「このエーレッヤ王は愚かである。かれは修行者ラーマプッタを深く信じ、またかれにこのよう
に服従している。すなわち挨拶、起って迎えること、合掌、敬虔な態度を示している。またエー
レッヤ王の侍従であるヤマカ、モッガツラ、ウッガ、ナーヴィソダキ、ガンダッバ、アッギヴエッサ
も愚かである。かれらは修行者ラーマプッタを深く信じ、またかれにこのように服従している。
しかし、そんな教誨師を深く信じ、またかれにこのように服従している人もたくさんいた。ラーマ
プッタ、あるいはウッダカ・ラーマプッタは、物腰が柔らかく、いつもにこやかにしていたようだ。
法務省に歓迎され、犯罪を犯した収監者に他力本願の阿弥陀様のすばらしいお話をしている
坊さんであると言えば、尊敬する人も多いだろう。
ウッダカ・ラーマプッタは社会的にも相当の尊敬を受けていたようだ。
ただ、この問題は非難ばかりしていられない深刻な問題も絡んでいる。肯定はできないが、簡
単に否定もできないというジレンマがある。
「この教えは厭離に赴かず、離欲に赴かず、止滅に赴かず、平安に赴かず、英智に赴かず、正
覚に赴かず、安らぎに赴かない」生老病死の最終的な解決にはなり得ない。
545 :
無明の闇:2009/10/02(金) 14:33:29 ID:FgNw8nQk
宇宙を貫くおおきな働きがあって縁起の法という。空とも言う。名号ともなも阿弥陀仏とも言う。
釈迦はこの働き力を悟り、言葉で多くのものに伝えた。ある時は有無にとらわれるなといい
ある時は三法印、ある時は執着をなくせ、ある時はとらわれるな、ある時は無一文等々
この働きの中にすべてのものはある。疑おうが、関係ない。この中で生まれこの働きに帰る。
この働きは釈尊以前にもあり以後もあり、釈尊が作ったのではない。
この働きを知らなければ、我をたて、常とおもい、悔やみ苦しむ。
この働きと同じになれば無我無常、苦しみは消える。この働きを知らないところ無明から苦しみは
起こり、有から輪廻がおこる。しかし凡夫は分かってもすぐに忘れ、うなずいても
そのごとくならないが、忘れずに心にとどめておけ。一つの覚えやすい言葉にして口に称えよ。
たとえその働きを知らなくても、その中にあって苦しんでもその働きは常にお前を包んでいると
こうなるのよ。仏教も真宗の親鸞さんの教えも簡単だろ。
546 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2009/10/02(金) 14:51:26 ID:wLeWGq2l
>>545 宇宙を貫くおおきな働きがあって縁起の法という。空とも言う。名号ともなも阿弥陀仏とも
言う。釈迦はこの働き力を悟り、言葉で多くのものに伝えた。 〜 この働きを知らないとこ
ろ無明から苦しみは起こり、有から輪廻がおこる。しかし凡夫は分かってもすぐに忘れ、う
なずいてもそのごとくならないが、忘れずに心にとどめておけ。一つの覚えやすい言葉にし
て口に称えよ。
無明から苦しみは起こり、有から輪廻がおこるんだから、いやなことはみんな忘れろ。
心配するな、たとえその働きを知らなくても、その中にあって苦しんでもその働きは常に
お前を包んでいるとこうなるのよ。嫌なことは見なければいい。放っておけばうまくいく。仏
教も真宗の親鸞さんの教えも簡単だろ。
詳しいことは、腹工合の善い時でないと答えられない。現代の非想非非想の思想だ。考
えるのでもない。考えないのでもない。ウッダカ・ラーマプッタの教えは難しい思想ではな
い。それは、現代の浄土真宗,の中に生きている。
547 :
神も仏も名無しさん:2009/10/02(金) 20:30:03 ID:xQj5J9LX
>>545 (1)仏教も真宗の親鸞さんの教えも簡単?それなら日蓮や道元の教えも
簡単だ。それがどうした。
(2)宇宙を貫くおおきな働きがあって縁起の法といい、まあ空ではあろ
うけれど、それは阿弥陀仏ではない。どさくさにまぎれてデタラメを言わ
ないように。
548 :
神も仏も名無しさん:2009/10/02(金) 20:48:25 ID:xQj5J9LX
>>537 お経は仏説だ。親鸞は仏説として浄土真宗を開いたはずだ。今さら仏説では
ない、と訂正しないように。親鸞教義が成立しなくなるだろ。
549 :
無明の闇:2009/10/02(金) 22:33:38 ID:FgNw8nQk
まず誰も仏説ではないと言ってないぜ。大経は仏説だ。三部経もな。だから言ってるだろ。
これを言葉、語によらず義に、意味によるというわけです。この視点から無量寿経は歴史的実在としての
釈尊が弥陀の本願海を説いたと言い切り−−−−って。
547−−意味がわからない。日蓮道元がなぜ関係してくるのか順序だてて述べろよ、
お前それじゃアミダブツをどう理解しているんだよ。述べてみろよ。デタラメと言うんだったら
根拠を示せよ。なんなら真宗の6字釈か正信げを使ってもいいぞ。どちらにしろ
縁起−空までは理解できていてアミダが同じなのが分からないんだろ。日蓮宗か禅宗かだろ。
聞いてやるぜお前のアミダブツ理解を。
550 :
無明の闇:2009/10/02(金) 22:40:24 ID:FgNw8nQk
それから−−−親鸞は仏説として浄土真宗を開いたはずだ−−ここが根本的に違ってる。
親鸞さんの教えを宗派としてとらえると、あかんのだよ。一宗派に止まるような教えではないんだよ。
551 :
神も仏も名無しさん:2009/10/03(土) 09:55:22 ID:Qmx21Ah5
>>550 宗派に止まるから浄土真「宗」だ。「宗」の字が読めないのか。
552 :
無明の闇:2009/10/03(土) 22:22:30 ID:BJncaVKV
551−−そんなことより早くアミダブツ理解を示したらどうか。
あとは浄土の真宗と読むと少しは見えてくる世界もあるぜ。それから真宗と言う言葉は
中国の禅宗の坊さんでも使うんだぜ。禅宗の僧が我が真宗においては−−−−。
まあ信楽先生の真宗学原論でも読み直すことだね。
会にいたころは、真実のためには、多少の犠牲も仕方ない、と、思っていた。
他力といっても、 自力いっぱい求めて すたるところまで!といわれると、
この人の言うことに間違いはない、と、鵜呑みにした。
でも、いろいろ、とてもうそ臭さが最近はばれて、とても信じられない。
これは、真面目に求めようとした人なら、当然起こる気持ちだと思うし、
今残っている人が、同じように思わないなら、思考停止で、おかしいと思う。
だいたい、光に向かって、みたいに、生き方の先生として、廃悪修善を説きながら
人の文章を、そのままパクルなんて、よくやるよね。盗みはだめと言っている人が
言行不一致すぎる。それなら言わなきゃいいのに。「余裕はたなぼたでは来ない」も
どんな神経しているんだろ。随行してた○田講師がけなげだよ。
一日のご説法が命がけ!というのも、今から思えばどこが命がけなんだ!と思うし、
対機説法が大事といいながら、一度も舞台から降りて、手に手をとって会員に話かけ
ようとしてなかったよね。ホント会員にとって遠い存在だ。
講師の人も、盲信の何ものでもないよね。
正しい先生なら盲信もいいが、ここにきて、こんなに怪しいし、いつ亡くなるかもしれない人。救われてない
なら、これで本当に正しい教えだったのか、と、疑問が起きて当然ですよね。
すべてが化けの皮が剥がれてきている。早く目を覚まして、教えに依るように
原点に帰って、よく 考えようよ!
世の中、私こそ真実! という人が多いが、残念ながら、親鸞会はその例にもれず
似て非なるものだったと ばればれなんだから。
お世話になった という思いは、尊い感情だとは思うが、自ら言っているとおり、
万死に値する悪を しゃあしゃあとしている人物、もっと、正見しないと、
ひとごとじゃあない。また 周りをまきこんだ責任を感じるなら、よくよく冷静に
考え、勇気ある決断をする方が一人でも出て欲しいと願います。
554 :
無明の闇:2009/10/04(日) 13:25:20 ID:lmtGV+kg
私はその親鸞会なるものはぜんぜん知らないけど、分からんから意見のしようがない。
それとここはその会の掲示板なのか。難度とか言う人はその関係者なのか。
まあ私なんかはどこにも属してないけど。私なんか勝手にやってきて勝手に意見書き込みしているけど。
553番の貴殿もなんか名前つけて書き込んだらいいよ。本典の総序からつけるというのはどうかな。
名前つけないと誰がどの意見をいっているのが分からないからね。
555 :
神も仏も名無しさん:
>>552 阿弥陀仏は仏国土に住する。仏国土を理解すれば阿弥陀仏を理解できるし、
阿弥陀仏の理解は仏国土の理解である。
(以下Wikipediaから引用)
精神的物質的に何らの潤いを感ずることのない穢土に対して、浄土とは清
浄で清涼な世界である。このような清浄の世界は正しく仏の国である。し
たがって、浄土とは仏国である。
『維摩経』には「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」といい、また
『心地観経』には「心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢(ぞうえ)な
るが故に世界雑穢なり」とあるように、世間の清浄であることは心による。
すなわち、国土の浄不浄はそこに住む人の心によって決定づけられる。
――ということだ。アホバカ宗学者信楽峻麿を早く卒業するように。