「神との対話」と「神の使者」の共通点と相違点3

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348神も仏も名無しさん
>>341
どうしてすべての本を読まなければならないんだ?
すべての本を読むことなど誰にもできないし、また読む必要もないのだ。

私が何もかもやり尽くした、と断言できるのは、私が何もかもやり尽くしたと判断した時だろう。
何をやったかではなく、私自身がもう結構だ、やるべきことはすべてやったと実感した時だ。
エゴが創り出す誤創造からレッテルを剥ぎ取り、体験そのものを体験し続ければ、
この世で起こるあらゆる現象に対してどんどん無関心になっていく。
世の中はなるようになるだろうさ、なるようにさせておきなさい、という感覚になっていく。
外でどのような嵐が吹き荒ぼうと、もはやそれはどうでもよくなる。
それは内側に絶対的な静寂(源、ソースに立脚した視点)が育っていくからだ。
その静寂の度合いによって、自分が置かれている階梯を把握することができるだろう。

いいか、体験というのはコンテンツの問題じゃないんだよ。わかるか?
君がコンテンツに拘るのは、自らの(誤)創造にレッテルを貼って経験することから逃げ、
自らの創造物がそこかしこに停滞し、目の前に料理があるのに自ら食べられない状況を作り出しているからだ。
金が欲しい、女が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しい、というその欲求が、
創造のプロセスのどこがブロックされて生じているのか、それを冷静に観察してみなさい。