【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】4

このエントリーをはてなブックマークに追加
942旧7
>>925
>日常での普通の自己ね!つまり、唯物論でいう自己だと??
ハァ?(゚д゚)  お前、「唯物論」という語に過敏になってないか?w
なんで突然唯物論が出てくるんだよw
普通に、「自己を確立する」とか「自我の目覚め」とか「アイデンティティ」とか「本当の自分」とか
《単に自分を指さして「私」》というでなく、
過去様々な経験を背負い、受け止め、
今まさに様々な事象に相対し、識別し、分別し、判断し、行動してゆく、
そうした“実存的存在”(≒在り様)を「自己」と表現することはないのかい?

中村元は「アートマン」と訳すことが多いのかもしれないが、片山さんは少ない。(ってか、ゼロかも?)
片山さんが「我」と訳している部分は、彼もまた《「アートマン」が説かれている》と読んでいる部分だろう。
彼が「自己」と訳している部分については、《実存的自己》《アートマン》どちらの読みも可能だといことだ。
これじゃ不服か?w 全部引用しなきゃダメか?

そうだ、とりあえず、Dhpから一つ二つくらい挙げておこうかw (【 】・「 」は引用者が付加。)
・62偈(部分):  〜 attA hi attano natthi. 〜
   中村訳:〜 しかし、既に【自己】が【自分のもの】でない。 〜
   片山訳:〜 【自己】でさえ【自己のもの(≒主)】でない。 〜 (・・・ノートからなので自信無しw 「主」という注記は160偈を受けてのこと)

・160偈: attA hi attano nAtho , kho hi nAtho paro siyA.
      attanA hi sudantena nAthaMb labhati dullabaM.
   中村訳:【自己】こそ【自分】の「主(あるじ)」である。他人がどうして(【自分の】)主であろうか。?
        【自己】をよく調えたならば、得難き主を得る。
   片山訳:【自己】こそ【自己の】主である。どうして他が主となり得ようか。
        【自己】をよく調えたならば(≒調えた者は)、得難き主を得る。 (・・・ノートからなので自信無しw)

別に難しいことじゃなく、≪わざわざ「アートマン」とせずとも≫文意は通る、ってだけの話なんだけどなw
 ちなみに、その時の片山さんの台詞も付記しておくか・・・。→「“主である”という表現はおかしいと見なければならない」とねw