阿含宗と桐山氏について-第四十二章-

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576ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/10(日) 22:09:43 ID:dGoaE8b+
>>547:準シュダオン :2009/05/10(日) 15:45:59 ID:wJ8PBINa
>例えば、外道出家が、独一静所で修行していたら、三宝のもとになるかい?
>ならんでしょ。そういうことよ。

では逆に外道の出家が如来たる釈尊の説法に場である竹林に現れて聴聞したら
あなた的には如来所に功徳を種えたことになるのか?
ところで外道とは何か?もちろんこいつは人間じゃねえっ!ってな極悪人という
意味ではなく仏教以外の別の宗教を信じる人ですよね?
あなたは異教徒が独り静かな所で修行しても三宝のもとにはならないとした。
全くその通りです。
では三宝のもとにあって独り静かな所で修行する人たちとは何か?
もちろん仏教徒です。
仏教の出家であり、あるいは在家信者です。
仏教徒は三宝に帰依する者たちを言う。
質問するがお釈迦様の前や僧仲間と一緒にいる時だけ「我は三宝帰依者なり」
ということになり、独りで洞窟にでも籠って瞑想している時は仏や僧などの三宝の
制約を離れた自由人などと申すか?
在家なら家庭にいるあいだじゅうは三宝なんか帰依していないのか?
そんなことはない。
彼らは365日24時間三宝に帰依しているわけです。
だから仏教徒なんです。
それを言っているのですよ。
外道でないこと=仏教徒であること=常に三宝に帰依して煩悩を減らす努力をすること
ということです。
577ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/10(日) 22:18:19 ID:dGoaE8b+
>>551:準シュダオン :2009/05/10(日) 16:43:17 ID:wJ8PBINa
>「学者、もの知り後回し」という言葉のようにね、国語力があれば修行が
>進むというものではない。国語力のある深山くんなどは後回しになる
>可能性が高いよ。仏法はそんな単純なものではないね。

国語力があるということは何もインテリということではありません。
逆に国語力がないと評価されるという人は、単に社会人として失格な馬鹿だと
言われたも同然です。
仏法とは教えとして極めて単純なものです。
ただ実行して成し遂げることが非常に難しいだけです。
成し遂げる程度によっては非常に簡単なものもありますが。
単純だから知的障害のあるチューダパンタカも素直に理解できたのです。
578ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/10(日) 22:34:02 ID:dGoaE8b+
>>552:準シュダオン :2009/05/10(日) 16:52:24 ID:wJ8PBINa
>そうですね。マラソンのように、修行のペース配分は自分で決めないといけ
>ませんね。自分の体力は自分が一番わかるのですからね。
>そうしないと、途中で棄権、なんてことにもなりますね。
>そして、信仰も修行も、継続することが大切でしょう。
>管長も、「修行は楽しくなければ長続きしない」と、おっしゃっています
>からね。

いかにももっともらしそうな一般論を書いているが、あなたの場合の現実に則して
考えると、あなたはペース配分もクソもない。
最初から休みっぱなしで前に進んでいない。

私は登山をするが、あなたのように無理のない計画を考える。
他人が2泊3日で行く行程を自分は山小屋などの条件が許せれば3泊4日で
達成できればよいと当初から考え実践してきた。
苦しい登り坂を歩いている時も自分を慰める。

休みながらでもゆっくりでもかまわないから、今この1歩を前に出して歩む限り
いつしか頂上に辿り着くと。
もちろん時間の制約とか休み過ぎはかえってよくないとか計算しながら計画を
立てながらだが。
ところがあなたの場合は休んでばかりで少しも前に足を進めていないのがよくわかる。
だから展望のきかない山麓の繁みの中にいるだけで、山上の世界を空想してるだけです。
それがあなた流の準シュダオンの自覚です。
修行は楽しみながらしないと長続きしないを履き違えている。
活動に参加してそこから楽しみを見出だすように観念工夫の努力をするのです。
非参加者が何をほざく?
あなたの楽しいは楽チンに過ぎない。
何もしないことは楽チンなり。
579神も仏も名無しさん:2009/05/10(日) 22:34:35 ID:O0smLRxO
>>542 早く疎開の準備をしたほうがよい。

2009年 断末魔の資本主義  ラビ・バトラ著 (2009.1.7初版)
崩壊から黎明へ 光は極東の日本から ペマ・ギャルポ+藤原直哉 監訳
http://blog.goo.ne.jp/aran-wish/e/22639710f8dc12c717b93cbb369cb11c
資本主義は、2009年にはっきりと目に見える形で崩壊を開始する。
その激流の中で、新たな未来への道を見出しうるポジションこそ、
日本が置かれている位置であると確信する。
略奪的資本主義は、その業として粉々に崩壊していく。
しかし、世界中の人々が営々と築いている日々の暮らしは、
変わらずに営まれ、その基礎は揺らぐことはない。
人々と、国々の良心、そして、人類の進歩への情熱は、決して未来永劫、
枯れることはなく、人間は、今ようやく、この巨大な危機を与えられたことによって、
次へのステップへと踏み出しつつあるのだ。
(本の終わりより一部抜粋)

この本で私が書いていることは、決して「予言」ではない。
私が瞑想をおこなう中で得た、"神の啓示"ともいうべきものだ。
以前から繰り返して伝えていることだが、神は次のように言っている。
「今や何が起こっても不思議ではない」と。
本書で私が書くことは、神が示した今後の世界についてのイメージなのだ。
(本の最初より一部抜粋)
580神も仏も名無しさん:2009/05/11(月) 09:49:40 ID:Pdw4J+iV
大日氏や青柿氏も言っているが
桐山ゲイカはサイコパスってこと。

もう一度しっかり認識しておくことが必要だ。
桐山ゲイカはサイコパス。

はやくあんな奴から離れるべきだ。
サイコパスに支配されたらあんた達も精神が醜くなって
終いにゃあんたもサイコパスになっちまうぞ。
581準シュダオン:2009/05/11(月) 12:13:01 ID:B1KmQxA0
まあ、於如来所について、仙尼経の例は、適当ではなかったね。
仙尼経の最初の方に、「仙尼来詣仏所」と、あるから、この意味では、
「独一静処」と「仏所」とは、物理的には違うわけだ。
だから釈迦に対して、
「於如来所とは、精神的な意味でしょうか、物理的な意味でしょうか?」
と、質問しても良いわけだ。
批判派のいうように、信者は三宝に帰依してるのだから、何処にいても
如来の所にいることになるのだ、という意味ならば、わざわざ、お釈迦様
が、「於如来所」という必要はない。それなら蛇足です。
森全体の葉ほどの知識から、手に握った葉ほどの、重要なことのみ説く、
お釈迦の言葉に、蛇足はないと思う。
だから、於如来所とは、単純に三宝に帰依して、という意味ではないと思う。
勿論、物理的な意味での「仏所」だけ、でもないね。


582神も仏も名無しさん:2009/05/11(月) 13:34:36 ID:kJNn4T4z
>>580
サイコ・パス診断テスト

ある女性が自分の母親の葬式で、知らない男性に出会いました。彼女はこの
男性を素晴らしい人だと思いました。まさしく彼女の運命の相手だと
思い、恋に落ちました。ところが、彼の電話番号を聞いていなかったので
,その後彼がどこにいるのかわかりませんでした。
数日経って、彼女は自分の姉を殺しました。

質問: 彼女が姉を殺した動機は何でしょう?

答え
http://labaq.com/archives/51025265.html

ちなみに私は姉に彼氏を取られたと推理しました。
あなたはどう推理します?
推理して答えを見てみてください。
あなたもサイコ・パスかどうか診断してみてください。

サイコ・パスと言われる犯罪者に大久保清、宅間守がいます。
583ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/11(月) 20:28:56 ID:RUYWaCNz
>>582
月がとっても青かったから殺したのでしょう。

>>581:準シュダオン :2009/05/11(月) 12:13:01 ID:B1KmQxA0
>だから釈迦に対して、
>「於如来所とは、精神的な意味でしょうか、物理的な意味でしょうか?」
>と、質問しても良いわけだ。
>批判派のいうように、信者は三宝に帰依してるのだから、何処にいても
>如来の所にいることになるのだ、という意味ならば、わざわざ、お釈迦様
>が、「於如来所」という必要はない。それなら蛇足です。

また釈迦と呼び捨てにしとるな。
それはさておき、ずるいですねえ。
「於如来所」だけを問題にしている。これだけではないでしょう?
「於正法」と「於聖衆」はどうしました。
この3つはセットになっているのだから切り離しては駄目なんですよ。
途中でおしっこがしたくなっても3つ連続して言い切らねばならないのです。
言い切るまではおしっこをしてはいかんのです。
だからこれらは切り離してはならない。
例えば、
@如来のみ→つい滑って転んだはずみで如来になってしまったので、正しい法が
何やらわからないし、聖衆たる弟子の僧の育て方もわからない。
A正法のみ→正しい法を想像してみたが、まだこれで実際に如来になるのか実験
したことがないし、聖衆たる弟子の僧も集まらない。
B聖衆のみ→如来もおらんし、正法もないが、とりあえず解脱を目標に模索して
みようかと僧どもが集まってみた。
こんな馬鹿げた話はないでしょう。必ず仏法僧の三宝が切り離せないように
揃っており(仏←法→僧)、これで一つなんです。
あなたは釈尊の説法の途中に「先生!おしっこ!」と話を遮って分離させたのです。
だからこれは仏教の精神、あるいは仏教教団、仏教徒全体を示す用語なのです。
584ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/11(月) 20:32:20 ID:RUYWaCNz
如来場所=東京両国
正法場所=大阪
聖衆場所=名古屋
とか言いたいのか?このオッサンは?
585準シュダオン:2009/05/12(火) 13:42:33 ID:NUlwlB2e
つまり、於如来所、には、精神的な意味での所と、物理的な意味での所と、
両方が含まれる、ということです。
無貪瞋痴の修行などは、何処で修行しても、於如来所ということにもなり
ます(三宝に帰依してるのだから)。こんなことは批判派に言われるまでも
ない。だが、それだけでは不十分です。
ユビキタス氏の問のように、於如来所には、物理的な意味も含まれている
のです。「功徳を植える」の意味には、修行と布施供養等、の二つがある
からです。施食や衣服供養の場合には、物理的な意味で「如来所」を限定
しなくてはいけません。三宝以外の所へ布施供養しても涅槃界へは至れな
い、というわけです。
桐山管長も、「社会科学としての阿含仏教」P354で、そのように解説
しております。

つまり、批判派の中には、私の国語力がない、とか言いながら、実は己の
考えの浅いことに、気づいていない、のです。
586準シュダオン:2009/05/12(火) 13:58:43 ID:NUlwlB2e
確かに私は前に、無貪瞋痴などは何処で修行しても良い、と言葉足らずのレス
をした。この場合の何処でもは、物理的な意味で言ってます。
於如来所を、私の場合は精神的な意味での如来所と、物理的な意味での如来所
と、両方含めて考慮しています。

批判派の場合は、精神的な意味での如来所に限定しているような感じですね。
それは、功徳を種える、の解釈を無貪瞋痴の修行のこと、と限定しているか
らと思われます。
私の解釈はそれと別です。
善根は無数にあるから、功徳の種も無数にあります。
無貪瞋痴の修行は勿論のこと、それ以外の修行もよい、掃除でも何でもよい。
布施供養でも、勿論、よい。
そのように、「功徳を種える」を解釈してるわけです。
587神も仏も名無しさん:2009/05/12(火) 14:12:54 ID:pLsCVN7r
サイコ・パス診断テスト
>>583
>月がとっても青かったから殺したのでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=sQ1RjUbcyiY
になる事はないですか?
588ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/12(火) 19:52:02 ID:GBOHtrYZ
>>587
バンパイヤ懐かしいですね。そうです。水谷豊は少年時代こんな役を演じていたのです。
それはさておき、>>582の「正解」を読んでなるほどと思いました。
おじさんそこまで考え付かなかったなあ、参った参った。
しかしサイコパス(精神病質)と診断されなくてよかったですね。
私は最初から葬式で知った素晴らしい男性とお姉さんの話を関連つけませんでした。
くそ〜、電話番号聞いておけばよかった。
それはさておき・・・
それから数日経ったある日のことでした。
いつものようにお姉ちゃんと二人で食事をしてました。
あたし太巻きが大好物なの。だから大好きな太巻きを後の楽しみにしようと
残していたんです。
そしたらねー、お姉ちゃんたら「かおり(あたしのこと)は太巻きが嫌いなのね。
あたしが食べてあげるわ」と箸であたしの大切な太巻きをつまむと一口で食べちゃったの。
あたしアッタマ来ちゃって・・・
気がついてみたら側にあったビール瓶でお姉ちゃんの後頭部を思い切り殴り付け
ちゃったの・・・お姉ちゃん血を流して・・・

とまあそんな話だと思いましたよ。
いや、殺す理由なんか何でもいい。
お姉ちゃんはいつも自分と比較してあたしのことを馬鹿にして・・・そりゃ容貌も
頭脳もかなわないわよ。だからってそんなに蔑むことってないんじゃない?
もう、ムカついてムカついて、いつか殺してやる、とか。
要はたまたま葬式で会った彼氏と何も無理に関連つけて殺意にする必要がないと
考えたわけですね。
その辺をまとめると「月がとっても青いから」になるわけです。
何?わけがわからん?
失礼しました〜。
589ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/12(火) 23:25:45 ID:GBOHtrYZ
>>585:準シュダオン :2009/05/12(火) 13:42:33 ID:NUlwlB2e
>ユビキタス氏の問のように、於如来所には、物理的な意味も含まれている
>のです。「功徳を植える」の意味には、修行と布施供養等、の二つがある
>からです。施食や衣服供養の場合には、物理的な意味で「如来所」を限定
>しなくてはいけません。三宝以外の所へ布施供養しても涅槃界へは至れな
>い、というわけです。

では質問しますが消防署に功徳を種えるとはどういうことですか?
正法に於いてです。
深山さんも質問しているが、如来さんも聖衆さんも全国を行脚しています。
広いインドで彼らに会えるか会えないかなんてまさに人生一期一会です。
彼らにコンタクトを取りたくても携帯電話も固定電話もありません。
布施供養という功徳を種えたかったら、追っかけをするしかない。
生活もあるのに在家を捨てよというようなものです。
さあ、どうするか?
行かないでくれ!俺に功徳を種えるチャンスを潰す気か?卑怯者!
590ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/12(火) 23:43:12 ID:GBOHtrYZ
>>586:準シュダオン :2009/05/12(火) 13:58:43 ID:NUlwlB2e
>私の解釈はそれと別です。
>善根は無数にあるから、功徳の種も無数にあります。
>無貪瞋痴の修行は勿論のこと、それ以外の修行もよい、掃除でも何でもよい。
>布施供養でも、勿論、よい。
>そのように、「功徳を種える」を解釈してるわけです。

つまりあなたは精神的な三宝もあるし、物理的地理的な三宝帰依もあるとした。
精神的な三宝も認めたわけです。
そして善根にもいろいろあるさとした。
布施供養はその一つに過ぎないという立場にした。
ならばあなたの方こそ不当に限定していますと宣言しているようなものではないか?
善根、善いことだよ、善いこと。わかるかね?チミぃ。
一口に善いことと言ってもいろいろあるのさ。わかるだろう?チミぃ。
電車で席を譲るのも善いこと、勉学に励むのも善いこと、修行するのも善いことだ。
(ところで如来の所という物理的地理的な場所でどうして「修行する」という
発想が浮かばず、「金さえ貢げばよい」布施供養しか思い浮かばないのだろう?
如来の場所が地理の問題でも修行場という発想がどうして出てこないで否定するのか?
さすが道場で修行皆無なだけある。例祭 の運営とかしたことないだろ?)
なんでもよいのだよ。諸君。好きにやりたまえ。
ほう?そこのオナゴは如来たるワシの所で裸踊りを奉納してくれるか?
感心感心、善いことじゃ。功徳を種えよ。わっはっはっ。
と、どうにでも取れる教えを説いたのがこの経典か?
591ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/12(火) 23:56:17 ID:GBOHtrYZ
訪問者「如来のみもとにやって来ましたー!」
如来「よう来たの。ではここで戒律を守ってしっかり修行に励むように」
訪問者「ちょっとちょっとちょっと・・あんた何そんな精神的な話してるの?
俺は物理的地理的に、遠路遥々如来のみもとに来たんだぜ。そこですることと
言ったら食事を提供して見返りを受け取ることしかないだろ?修行?そんなもん
家に帰ってからやるさ。それともなにかえ?如来さんの所では修行もやっているのかえ?
いや、笑ったね、こりゃ」
592天身菩提薩婆訶:2009/05/13(水) 00:32:48 ID:6I2J15Ty
おしらせ
癇癪おこして仏塔を叩き割ったユビキタスです。

【 ユビキタスは嘘吐きです 】

ユビキタスの卑しい単なる大嘘捏造答案です。

1.鳩摩羅什も玄丞三蔵も中国人で多くのインドの仏典を中国の言葉に翻訳して
漢訳経典を作りました。その際に中国人ならではの思考とかも影響して、選ぶ漢字語句
などもインドと違う中国人に誤解されて本来の意味が歪められるものもあったかに思います。
そんな感じですからその訳も多岐の語句が使われる可能性を有していると思います。
一つの訳語に囚われないことですね
593天身菩提薩婆訶:2009/05/13(水) 00:34:17 ID:6I2J15Ty
☆ 安井廣度先生は正しい。

間違っています。
ユビキタスの悪質なでっちあげ

>ユビキタス ◆oGqIQwSRtg
>安井廣度さんの著書の間違いをそのまま原典を調べることもせず空想を論じた。
>それと意味の問題です
594天身菩提薩婆訶:2009/05/13(水) 00:41:26 ID:6I2J15Ty
わたくしが
さっさとやめろといったら、
言ったとおりに従って
HN大日はやめました。

595天身菩提薩婆訶:2009/05/13(水) 00:48:31 ID:6I2J15Ty
言ってる側が、終いまでいっていた
はいるまえから稚拙にそのようだっただけなのです。

580 :神も仏も名無しさん:2009/05/11(月) 09:49:40 ID:Pdw4J+iV
596ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/13(水) 00:54:47 ID:MaaS9cvb
>>594
アク禁くらっていたそうだね。
597天身菩提薩婆訶:2009/05/13(水) 01:24:43 ID:6I2J15Ty
わたくしが
さっさとやめろといったら、
言ったとおりに従って
御約束通りです。

体がヨワヨワしいゆえのキレかたが
わかりやすい反応です。
598天身菩提薩婆訶:2009/05/13(水) 01:27:41 ID:6I2J15Ty

【ユビキタスの登っている山は、全て桐山なのです。】

桐山にわざわざ登りに行っているのです。
高尾山にユビキタスが登ってうろうろしても
桐山にのぼってうろうろしていたこととなるのです。
根源的動機なのです。
【ユビキタスが、なにに対して手をあわせても
桐山氏にたいして手をあわせているのです。 】
ユビキタスは、いまはやりの
「脳波指紋(脳紋)」が桐山氏になっているのです。
599天身菩提薩婆訶:2009/05/13(水) 02:02:15 ID:udJySKLA
【追放された元職員】の人生は、
桐山氏がすべてだったのでしょう。

何十年間も桐山氏に御金を貰いながら
食わせてもらっていたようです・・・
600準シュダオン:2009/05/13(水) 13:10:40 ID:YYnMT071
例えば、「社会科学としての阿含仏教」P319に、「如来の所で功徳を種
える」ことについて解説しています。
管長はこう書いています。
「お釈迦様が、お金をもうけるとか、高い地位が得られるとか、長生きする
とか、そういうことを福と考えられて、そういうものが得られるぞ、とわさ
わざお説きになるわけがない。」とね。

三供養品の「功徳を種える」ことによって得られる福は、そういう世間福の
ことではありません。涅槃界へ至る福です。管長も本の中でちゃんと解説し
てるのに、批判派はそういうことには目が行かないらしいね。

但し、世間福を求める信徒も否定はしない、ということです。
だが、それは貪りになっていないか信徒自身が反省しないといけません。
「播けば播くほど実るもの」などという言葉に操られて、世間福の貪りに
陥り、無理な布施供養などして、効果がなかった者が、退会してから教団
の悪口言ってる印象を受けますね。

601準シュダオン:2009/05/13(水) 14:34:22 ID:YYnMT071
アンババリが釈尊に食事供養の許可を得た直後、隷車という種族の人々が、
大変悔しがり、大金を払うからその食事供養の権利を譲れ、とアンババリに
言います。
だが、アンババリは、「たとえ国中の財宝すべて譲られようとも食事供養の
権利は譲れない」と、断りました。
それほど釈尊に出会う機会は稀であるのです。縁のない人は、布施供養する
機会がないのです。於如来所での供養は難しいですね。そういう人は、僧に
供養することです。アナゴン以上の僧を探すことですね。外道は避けてね。
602神も仏も名無しさん:2009/05/13(水) 16:40:56 ID:SKBZ5E9U
陰隲録 袁了凡 功過 雲谷禅師(検索結果)
いろはにほへと・「香十徳」
功格(善行)五十条・過格(悪行)五十条

元は新道教「浄明道」による、功過格

陰隲録(いんしつろく)抜粋
中国人生活倫理−功過格− 道教百話
準提呪

摩訶般若波羅蜜多心経

http://doratomo.jp/~unib/cgi-bin/readres.cgi?bo=mog&vi=1230370812&res=140&fi=no
603神も仏も名無しさん:2009/05/13(水) 17:01:05 ID:SKBZ5E9U
604ミルラ:2009/05/13(水) 20:42:07 ID:2YuoC6x9
GWは呼吸法おこもり修行してました。
色々と閃くものです。
例祭の御護摩と、人型の謎が二つ解けました。
閃いただけで体得してません。
で階層としてはまだまだ浅いです。
点が線になって面になったぐらいです、立体にはまだ成ってません。

大切なのはやはり体からのアプローチですね。
次元を上げる視点は体が出来てないと無理だと感じます。
皆さんご存知だと思いますが大切なことなので書いておきます。

「腸の神経そうは脳の元祖です。原始的な神経そうの姿を留めているのです。
ですから、腸の神経そうを理解することは、脳を理解することに繋がるのです。」
求聞持聡明法秘伝より。

藤田恒夫先生の脳と腸につい書かれた本を読むと、「A-腸の基底果粒細胞と
味蕾の味細胞がA-に似た構造と機能を持つと」書かれてあります。
呼吸法に行うにおいて、上あごに舌の先をつけると言うことが何か深い意味
を持ってくることが想像出来ますね。
605ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/13(水) 21:33:26 ID:MaaS9cvb
>>600:準シュダオン :2009/05/13(水) 13:10:40 ID:YYnMT071
>三供養品の「功徳を種える」ことによって得られる福は、そういう世間福の
>ことではありません。涅槃界へ至る福です。管長も本の中でちゃんと解説し
>てるのに、批判派はそういうことには目が行かないらしい

目が行ってます。そういう桐山世間福も桐山出世間福も昔から両方否定しているのです。
あなたのようなサボリ信者と違って、こちらはそんな「三福道は因縁解脱の徳が授かる」
なんて常識です。
現世利益が授かる福徳宝生と因縁が切れるだけの徳が授かる解脱の2本立てであり、
殊更解脱の徳こそ大きいのです。
我々は自力では因縁は切れない。仏の加護があって初めて因縁切りに推進できる。
もちろん他力に頼りっぱなしでは駄目で自力努力と他力の加護が両々相俟って
力を発揮するというのがアゴン宗教義です。
しかし私はこれを釈尊の仏教の立場から否定しています。
阿含経で釈尊は頼りにすべきは自己しかいないと説いている。
一切の他力を否定する。神々は説いても神々に依存することを否定する。
解脱や涅槃は自分自身が煩悩をなくすことによってしか達成できない。
釈尊は単なる言葉で教えを示す教師に過ぎずなんの力も貸してくれない。
それを説いている経典の一つが、アゴン宗でも聖典にしている雑阿含経の応説経です。
釈尊を頼っても漏尽解脱は得られない。念処正勤如意足根力覚道を実践すれば
漏尽解脱を得る、と。
供養をしただけで涅槃界にまで往けると説く三福道と矛盾するではないか?
釈尊は矛盾したことを説く二枚舌か?
この矛盾には桐山さんも回答を出しているから答えてみなさい。
しかし三善根の実践 ならば、三宝を尊ぶ精神をどこにいようがよく保ち、
あるいは出家が仏教教団という最高の環境で三善根を実践するのであれ、
涅槃界に至る功徳の種になるのも納得の行く話です。
606深山:2009/05/13(水) 22:42:02 ID:ADQCxJmn
>>585 :準シュダオン:2009/05/12(火) 13:42:33 ID:NUlwlB2e
>ユビキタス氏の問のように、於如来所には、物理的な意味も含まれている
>のです。「功徳を植える」の意味には、修行と布施供養等、の二つがある
>からです。

準シュダオンさんの上記の思考順序がおかしいのです。
あなたは、先に「、修行と布施供養等、の二つがある」と書いている。
どこにそんな意味が書いてあるのですか。
私はあなたにこの件は何度も質問した。
というよりも、毎回指摘している。
この三供養品のどこに供養とあるのか?

質問3.三供養品には供養という言葉も概念も出てこないのに、
供養を説いたかのように言うのは嘘ではないか。(>>266)

この質問に対するあなたの答えは、

>>277 :準シュダオン:2009/04/27(月) 14:37:55 ID:FFk79Ddp
>三供養品の三善根・功徳を種える、を供養と解釈したのは、経のタイトルが
>三供養品とあるように、供養を主題にしてると考えたのですよ。

つまり、三供養品がこの経典のタイトルだから、
そのように考えと根拠を示した。
だから、>>295以降で、私は三供養品とはこの経典の
表題ではないことを丁寧に説明した。
k地区信者さんにスレ156の701以降で説明しました。
わずか一ヶ月前なのだから、読んでくださいね。
607深山:2009/05/13(水) 22:45:11 ID:ADQCxJmn
スレ156
>684 :K地区信者:2009/04/07(火) 20:55:05 ID:fcl9TUVf
>三供養品に「三善根」という言葉があるのは私は誤訳だと思いますね。
>三供養品は三種類の供養を説いた経典であり、無貪(施)・無瞋(慈)・無痴(慧)である「三善根」はこの経典には
>不適切であるということです。
>では原語はどのような言葉であったのか、原本の無い以上ははっきりとはわかりませんが、私は経典の題名が三供養品なのだから
>「三供養」という言葉が最も適切だと思います。

>>277 :準シュダオン:2009/04/27(月) 14:37:55 ID:FFk79Ddp
>三供養品の三善根・功徳を種える、を供養と解釈したのは、経のタイトルが
>三供養品とあるように、供養を主題にしてると考えたのですよ。

信者さんたちもよく上記の二人の信者の書き込みを読んでほしい。
信者さんたちは、三供養品に供養という言葉がないことにすら気が付いていない人が多い。
おそらく、K地区信者さんも準シュダオンさんも気が付いていなかった。
「功徳をうえる」を供養だと頭から信じ込んでいるからです。
指摘されて読み直してみると、たしかに三供養品の釈尊は
ただの一言も供養という言葉を用いていない。
信者さんたちには、まず経典には供養という言葉がないことに気が
つかなかった自分に驚いてほしい。
そして、そのことを指摘されると、次に言うのが、
上記の経典の題名に供養という文字があるという主張です。
だが、三供養品というのはこの経典の題名ではありません。
608深山:2009/05/13(水) 22:48:43 ID:ADQCxJmn
>684 :K地区信者:2009/04/07(火) 20:55:05 ID:fcl9TUVf
>私は経典の題名が三供養品なのだから 「三供養」という言葉が最も適切だと思います。
>>277 :準シュダオン:2009/04/27(月) 14:37:55 ID:FFk79Ddp
>経のタイトルが 三供養品とあるように、供養を主題にしてると考えたのですよ。

スレ156の701以降で具体的に説明したから、読んでほしい。
簡単に言うなら、三供養品とは10ある経典群の表題であり、
経典内容を示す言葉ではありません。
3という数字でくくられる経典を集めたにすぎず、たまたま最初の経典が
供養に関する話だから、三供養品と名前が付けられただけです。
三善根の経典は、経典群の二番目にあり、供養とはまったく関係ない。
また、残りの8つの経典も供養とは関係ありません。
桐山さんのゴマカシなのです。
たしかに経典群の題名は三供養品だから、
三善根の経典に三供養品と書いても嘘とは言えない。
だが、桐山さんはこの題名をたくみに利用して、というよりも、
悪用して、いかにも三善根の経典が三供養品という題名であるかのように
見せかけたのです。
その結果が、信者のほとんどが三供養品とは供養を説いた経典だと
錯覚し、思い込んでしまった。
二人の信者が、三供養品を供養を説いたと信じていたのは、
決して偶然ではなく、桐山さんのゴマカシに見事にアゴン宗の
信者がひっかかっているということのなによりの証人です。
609深山:2009/05/13(水) 22:51:55 ID:ADQCxJmn
>>586 :準シュダオン:2009/05/12(火) 13:58:43 ID:NUlwlB2e
>善根は無数にあるから、功徳の種も無数にあります。
>無貪瞋痴の修行は勿論のこと、それ以外の修行もよい、掃除でも何でもよい。
>布施供養でも、勿論、よい。

あなたが年寄りであり、記憶力が減退しているのだから、
しかたないのだろうが、すでに私が反論して否定した内容です。
善根にたくさんあるのは当たり前です。
だが、釈尊はそれらの善根の中から、最大の善根を三つあげたのです。
これ以上のないほどの善根だから、「窮尽すべからず」と述べた。
布施や掃除も善根に間違いないが、釈尊はそれらよりも、
無貪・無瞋・無癡こそが最高の最大の最も素晴らしい善根だと説いた。
当たり前です。
無貪・無瞋・無癡とは解脱そのものです。
解脱を最高の目標と説いている釈尊が、その境涯を
最高の善であると説くはなんの不思議もない。
釈尊は、この経典で善根なら何でも良いなんて言っていません。
三善根(無貪・無瞋・無癡)の三つに限定している。
それを強調するために、三宝で三度強調し「窮尽すべからず福」と念を押し続けた。
いったい準シュダオンさんは経典のどこを読んでいるのだ?
釈尊は善根なら何でもいいなどと言っておらず、三善根とわざわざ三つに
限定しており、三善根の内容は無貪・無瞋・無癡以外ありません。
610深山:2009/05/13(水) 22:55:52 ID:ADQCxJmn
>>600 :準シュダオン:2009/05/13(水) 13:10:40 ID:YYnMT071
>三供養品の「功徳を種える」ことによって得られる福は、そういう世間福の
>ことではありません。涅槃界へ至る福です

あなたの上記の二行の説明は極めて正しい。
まさにそのとおりであり、釈尊はそのとおりのことをおっしゃっている。
だが、あなたの腹の中で信じている内容とは全然違います。
釈尊は三善根(無貪・無瞋・無癡)という功徳をうえることによって
解脱の福が得られると説いた。
解脱なのだから、これはアゴン宗でいう世間福などではありません。
この経典では世俗的な福徳など何も説いていない。
だから、言葉としてはあなたの上記の表記は仏教的には正しい。
問題は、あなたや桐山さんが腹の中で信じている三善根の中身です。
釈尊のいう三善根と全然違うことを三善根だという前提で話している。
それはあなたのゴマカシであり、インチキです。
桐山さんとあなたのいう三善根とは三福道であり、
「供養でアナゴンまでなれる」という珍説です。
三供養品の三善根にはこんな意味はまったくありません。
「功徳をうえる」には供養なんて意味はどこにもありません。
だから、
釈尊三善根・・・三善根(無貪・無瞋・無癡)を実践してアラハンになる。
桐山三福道・・・三福道で供養の見返りの功徳でアナゴンまでなる。
釈尊は解脱するといい、桐山さんはアナゴンまでだという。
釈尊は煩悩を断ち切ることだといい、桐山さんは供養することだという。
このように言っている内容はまるで違う。
「三善根」「功徳をうえる」という釈尊の言葉だけ用いて、
意味を勝手にすり替えるような狸の腹芸はやめなさい。
611深山:2009/05/13(水) 22:59:25 ID:ADQCxJmn
>>600 :準シュダオン:2009/05/13(水) 13:10:40 ID:YYnMT071
>三供養品の「功徳を種える」ことによって得られる福は、そういう世間福の
>ことではありません。涅槃界へ至る福です

「涅槃界=涅槃」をあなたも認めましたよね。
涅槃界とはアラハンであり、解脱です。
あなたも涅槃界に至る福だというのだから、解脱を指している。
だが、桐山さんは涅槃には至るとは書いていない。

「須陀オン自り阿那含に至りて五下分結を断ず。」

桐山さんはアナゴンまでしか書いていないから、アラハンにはなれないのです。
アラハンになるというあなたの説と矛盾するではないか。
と、前にも同じ矛盾を指摘されて、言葉に詰まったのを忘れたようですね。
あなたを見ていると、脳に障害があって学習効果がなく、
間違った迷路を何度も選ぶネズミを連想する。
612深山:2009/05/13(水) 23:02:41 ID:ADQCxJmn
>>600 :準シュダオン:2009/05/13(水) 13:10:40 ID:YYnMT071
>涅槃界へ至る福です。管長も本の中でちゃんと解説し
>てるのに、批判派はそういうことには目が行かないらしいね。

三供養品には元々、世俗的な福なんて説いていない。
「窮尽すべからざる福」とは仏教では解脱以外ありませんから、
三供養品の福とは解脱してアラハンになり、涅槃に至ることです。
あなたが引用した桐山さんのコメント自体が意味がないのです。
釈尊は三供養品で、最初から最後まで解脱しか説いていない。
アラハンになることしか説いていないのです。
桐山さんのようにアナゴンまでしかなれないなんて説いていない。
何度も私から指摘されても、あなたの目はどこについていて、
何を見ているのだ?
613深山:2009/05/13(水) 23:05:35 ID:ADQCxJmn
>>601 :準シュダオン:2009/05/13(水) 14:34:22 ID:YYnMT071
>だが、アンババリは、「たとえ国中の財宝すべて譲られようとも食事供養の
>権利は譲れない」と、断りました。
>それほど釈尊に出会う機会は稀であるのです

そのとおりで、だから「如来の所において」供養するなんて説は成り立たない。
供養することでアナゴンまで行けるというなら、リッチャヴィ族のために
釈尊は供養を別日受けたはずです。
あなたも書いているように、滅多にない機会であるばかりか、実際、
この後釈尊は亡くなったのだから、リッチャヴィ族は供養する機会がついになかった。
釈尊が本当に供養の見返りに解脱への道を歩めると説いたのなら、
リッチャヴィ族のために供養を受けたはずです。
だが、釈尊は供養の見返りの徳でアナゴンまで行けるなんて説いていない。
解脱は各人が煩悩を切るかどうかにかかっているだけだから、
リッチャヴィ族の人たちが解脱したければ、出家して三善根を実習するしかない。
だから、釈尊は必要のない供養を受けるなんてしないから、
予約が入っているとして、彼らの申し出を断った。
彼らの申し出を断ったというこの事実を見ても、釈尊が在家に、
供養でアナゴンまで行けるなんて説いていないことがよくわかる。
解脱するには三善根しかなく、それをアンバパーリーにも説いたから、
彼女は後に出家して、解脱した。
釈尊の教法と言動になんの矛盾もありません。
614ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/13(水) 23:08:40 ID:MaaS9cvb
>>601:準シュダオン :2009/05/13(水) 14:34:22 ID:YYnMT071
>アンババリが釈尊に食事供養の許可を得た直後、隷車という種族の人々が、
>大変悔しがり、大金を払うからその食事供養の権利を譲れ、とアンババリに
言います。
>だが、アンババリは、「たとえ国中の財宝すべて譲られようとも食事供養の
>権利は譲れない」と、断りました。
>それほど釈尊に出会う機会は稀であるのです。縁のない人は、布施供養する
>機会がないのです。於如来所での供養は難しいですね。

あなたにかかると尊い経典の記述も欲の深いあさましい者どもの取り合い合戦の
話になるのですね。(T_T)
ところがパーリ仏典では説き方が少し違って、貴族のお偉いさんがアンバパーリーに
辞退するように言っても釈尊が自分はアンバパーリーの供養を受けることになっていると
お偉いさんの供養を断るわけです。
これを馬鹿な信者が釈尊のスケベ心とまでは言わないもののまるでエコヒイキの
ように捉えた心の貧しいのがいた。
遊女アンバパーリーですからね。
違うのです。このシーンで経典が説きたいのは釈尊の平等の意識です。
卑しい遊女の身分だから、大金を出すから、お偉いさんだから・・・といった
身分差別の意識が釈尊には皆無なのです。
だから身分職業はどうあれ純粋に供養を願ったアンバパーリーの気持ちを釈尊は
受け入れ、いかなる飛び入りも許さなかったのです。
それを供養権利争奪戦に勝つのは難しいなどと・・・
いやはや、仏教を語る人とは思えません。
だからあなたのような卑しいあさましい心の持ち主を見ていると、「さ〜さ〜、
寄ってらっしゃい。我は如来でやんすよ。我に供養すると特別のサービスがあるから
申し込みはお早めに」なんて釈尊が説くはずがないとわかる。
こんな馬鹿どもしか集まらないんだもん。
615深山:2009/05/13(水) 23:12:01 ID:ADQCxJmn
議論とは別に、準シュダオンさんなどこのスレを利用している方に提案です。
このスレも間もなく終わります。
しかし、このスレの継続スレを2ちゃんねるに立てるのはやめませんか。
すでに、したらばに大日さんが継続スレを立てて運営してくれています。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/3419/1237845510/l50
スレの乱立を防ぐためにも、従来にように、2ちゃんねるに一つ、
したらばにザの転生スレを一つと、2本立てでいくのがわかりやすいと思います。
準シュダオンさんは、「阿含宗という宗教159」か「阿含宗と桐山氏について」の
どちらかを選択してください。
議論はそこで継続しましょう。
616神も仏も名無しさん:2009/05/13(水) 23:49:24 ID:dViiaIuc
おさらい

三難解法=三善根

三福業⇔三増法=三善根=三善思=三善想

三聚経

云何三法 向善趣 謂三善根

阿含経

欲求大福者當供養三寳
617天身菩提薩婆訶:2009/05/13(水) 23:52:45 ID:dViiaIuc
阿含経

欲求大福者當供養三寳
618ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/13(水) 23:53:44 ID:MaaS9cvb
>>604
あ、いたんですか?
今初めて気がついた。
お元気そうで何よりです。
ではさようなら。
619神も仏も名無しさん:2009/05/13(水) 23:59:45 ID:nAr3fQyi
>>615
そうしましょう。
スレは1本がいいですね。
620桐和田尚蔵:2009/05/14(木) 00:05:33 ID:VaCL6C73
>>604
おまえ(ミルラ)いい年して、アタマ大丈夫か?
621神も仏も名無しさん :2009/05/14(木) 00:09:36 ID:Wvxagu8Y
>>615
それがいいと思います。
大日さんが管理しているのも、ありがたいし。
622ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/14(木) 00:57:13 ID:sOSh58C7
準シュダオンさんは天身と違って荒らしではないから、どこに書いても心配する
問題はないよ。
623ユビキタス ◆oGqIQwSRtg :2009/05/14(木) 01:01:13 ID:sOSh58C7
>>604
そう。あと腰の使い方と舌の絶妙な転がし方、首の角度が重要ですね。
あと丹沢山系の河川の水を集めた相模湾で取れる海産物をどう使うかがキーとなりますね。


とレスする俺もほとんど荒らし同然になるが。
624準シュダオン:2009/05/14(木) 12:32:11 ID:AE6HzN5z
於如来所を釈尊に限定して考える必要もないでしょ。
修行を完成させた者は如来ですからね、すれば於如来所も、数は多いでしょう。
625準シュダオン
釈尊が三供養品の三善根を説いた時、批判派が次のように質問しました。
「三善根とは無貪無瞋無痴のことですよね?」と。
釈尊は答えました。
「この場合の三善根とは、無貪瞋痴のことではない。それならば有九善根と
 言うことになる。わかるか?
 如来の所で無貪を修す。・・・1
 如来の所で無瞋を修す・・・・2
 如来の所で無痴を修す・・・・3
 於正法無貪を修す・・・・・・4
 於正法無瞋を修す・・・・・・5
 於正法無痴を修す・・・・・・6
 於聖衆無貪を修す・・・・・・7
 於聖衆無瞋を修す・・・・・・8
 於聖衆無痴を修す・・・・・・9
と、いうように九善根になってしまう。簡単な算数を間違えてはいけない。」
そのようにお答えになりました。