【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】10
886 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 03:15:46 ID:Dr6CeHa/
輪廻は、死んでも生まれ変わって延々と苦が続くという「苦の教え」でしょ。
「苦の教え」があるからこそ、苦を増大する愚かな行為が制止されるし、
「苦を乗り越える」というテーゼが生まれるんじゃないのかな。
「苦の教え」に綻びを作ってしまったら、自殺とか自棄とか、
苦を増す愚かな行為の余地を与えてしまうので問題でしょう。
バラモン教は、輪廻を既成事実として説き、脅し文句のように虐げられた人々をさらに苦境に落とすようなことを言ったのです。
輪廻説に立つ限り、苦の現実を前世の因果として受け入れるか、救いを死後に託す以外に道はありません。
釈迦はその思想から脱却することを説かれたのです。
輪廻は業の鎖でバラモン教では生れが問われたのですが、釈迦は行いを問いました。
そして輪廻の意味を転換してその迷信性を失わせたのです。
苦の根本的な超克と、真の救済を目指した釈迦は現世この身一身における救いを体現したのです。
無記とは形而上学的な問いについて判断を示さず沈黙を守ることです。
無用な論争の弊害からのがれ、苦しみからの解放という目的を見失わないためにとられた立場です。
釈迦は不回答の理由を、これらは無益で法に適合せず涅槃に導かないからと説明されました。
私たちはどれだけ頑張っても、本当にしなければならない事も成し遂げられないかもしれません。
釈迦は形而上学的な事柄を理解していても、真理として打ち立てて他人と論争するはありませんでした。
そのような論争を価値のあることと見なされず、自分の信じた道で解脱する事のほうが重要であると考えたのです。
問題を複雑化しているのは、「苦を乗り越える」というテーゼが
苦の主体の探求そのものだということでしょう。
主体の探求は、過去から未来へ流れる時間を越えて「今」に接近していく試みを含んでおり、
過去や未来における輪廻の事実をいくら突き詰めても、主体の探求に供しません。
主体の探求ですから、客観的事実を論じても意味がないのは、当然といえます。
しかしながら、輪廻による隙の無い「苦の教え」は、少なくとも、
苦の主体の探求へ向かわせる強い動機付けとなる点で有効だと思います。
889 :
brown:2009/02/25(水) 04:29:52 ID:GuIzdwgb
>>782 >この善悪は概念であり、想念の中に浮かんだ言葉やイメージですね。
そのとおりですね。あなたはなぜかそれを否定したがる。あなただけではない
ですけどね。それは,自己の醜さにどこか気づいてるからなんですよ。
潜在的な罪の意識なんです。だから自身の思考や想念を否定的に捉え,
ひいては「人類の」思考や想念を否定する。
しかし,思考や想念に否定すべきものなどないんですね。善も悪もともに
輝かしい正義の働きであり,その意味で「区別はない」んですね。
しかし,あたりまえですが,善と悪は違いますね。違うから,それぞれ,
わざわざ,善とか悪とかいう訳で。
890 :
brown:2009/02/25(水) 04:36:35 ID:GuIzdwgb
>「心の境地が滅したときはには、言語の対象もなくなる。」と言っています。
>空 = 仮設 = 中道 では、善悪の区別が消失するのでしょうか?
心の境地が滅したとき言語の対象がなくなるというのは,
>>889で言えば,
正に「潜在的な罪の意識」が消滅し,自身の心に目を覆うことなく,直視
できるようになったときのことをいうんですね。ありのままに見るという
こと。
そうすると,どうなるかというと,自身の思考や想念を否定的に捉えること
なく,何かの壁を設けることなく,善も悪もともに輝かしい正義の働きであり,
その意味で「区別はない」とありのままに知ることになります。
反対に,何時までも自分自身との間に壁を作ったままでいると,単に想念の
渦に巻き込まれたり,逆にそれを否定したりするだけで,自分自身を敵として,
必要のない争いに巻き込まれることになりますね。
891 :
brown:2009/02/25(水) 04:47:37 ID:GuIzdwgb
ある世界に限定して,「その中では」一切が空であるというのではないん
ですよ。そういう「限定が空である」とおっしゃっているんです。
つまり,限定が空なのだから,限定なく「全ては空である」と世界全体に
ついていってるんです。
議論の領域の内とか外というのはないんです。
最初に重要な枠組みとして,勝義と世俗の区別が示されます。そして,
その両方が空であり,その区別もまた空であると証明されます。
論としてはこのプロセスが重要で,そこを一足飛びに勝義と世俗の区別
を否定する,ひいては善と悪の区別(この双方は世俗に位置づけられるけど)
を初めから否定してしまうと,実に頓珍漢な理解になってしまいます。
最初に区別があるんです。そしてそれは空である。その意味は中であり,
それは否定(という極端)ではないんです。感覚的な言い方になるけれど,
あえて言えば,ダイナミズムというか,動き,流れ,無常,絶対肯定,
そういうイメージです。
892 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 05:12:03 ID:m4vaYClP
結局いくら二元の思考法で分析しようとしても最後のリアリティーは得られない。
ならば多くの聖者が瞑想(サマディー)が唯一全てを知る貯めの方法だと言ってるのに
何故君たちはそれを徹底的に検証してみないのだね?
その方法が正しいか正しくないか結論つける前に。
893 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/02/25(水) 07:51:48 ID:Pc+5GVjQ
>>806 宝珠愚者どの
>もちろん人間としてですよ。
>また言い換えるならば、仏教徒の姿は人間の理想系なのでしょ?(仏教徒から見て)
>何故、沈黙するのかが理解できませんね、この私には・・。
非常にイイ書き込みですね。
このお題について、拙者が少々書き込みいたします。
仏教徒というのは理想を追求するものなのでしょうか?
これは拙者は疑問であります。
(つまり極を求めるベクトルではない)→中道ですから。
法珠氏の書き込みを拝するに、貴殿は理想主義者であることは明白です。
>人は、さまざま問題に対して、「支持」「不支持」といった自己の意志をしっかりと表明すべきです。
こういった貴殿の観点も、仏教からすると非常に疑問なるやにおもいますね。
仏教の教義は律や戒があったとしても、コアな部分は偏せざる。
寛容な教えなるやにおもいます。
>まっ、おそらくは相手の信仰(心)を尊重される机さんの態度なのだとは思いますが・・
基本的には「無可無不可」でありますね。
世の中にはどうにおもならないこともありまして、
しかしながらそれを選択せざるを得ない。というのも現実であります。
この一遍を選択する、それを一切皆苦と言えましょう。
<あら、かしこ>
894 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 07:58:51 ID:u+ei16an
>>873 ありがとうございます。
ジェ・リンポチェは、行者としてはものすごく偉大で、
ラムリムも止まではものすごく感動的ですが、
観の部分は、方便説と理解しております。
895 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/02/25(水) 08:09:27 ID:O4+HjcXq
>>806 宝珠愚者どの
>何故、沈黙するのかが理解できませんね、この私には・・。
これは自分の子供が臓器移植をせねばならない状況を想定しての話です。
自分の子供が助かる方法はある。
アジア某国の子供を金で買うことができる。
その子供の臓器を、自分の子供に移植できるチャンスがある。
ただし、自分の子供が助かったとしても・・・
それと引き換えに、アジア某国の子供は死を遂げる。
それでも、自分の子供を助けたいか?
#、常識教の方が、このスレで書き込みしておるようですが、
日本の常識では「命は買うことはできない」。
しかし、タイでは子供の命を買うことが出来ます。
(常識というのは、そこの文化圏でしか通用しない。
価値観の全く違う状況に対峙した場合、
それは答えが見出せない。
初代7氏は臨済宗僧ですよ。
看話・黙照の両方を納めた師家が輪廻に関してどういうスタンスであったかよく解る文章があります。
『仏教は何を説いているか』
http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/104nanio.htm 原田祖岳老師という方は曹洞宗に属していながら臨済宗の正眼寺や南禅寺などでも修行した大修行底の人で、著書も少なくない。
「参禅の秘訣」という著書の中で、「もしも人から、仏教は何を説いているのかと聞かれたならば、仏教の根本の教えは八つの項目に
収まっていると私は答えるだろう」と述べている。それは次の八つである。
一、本具仏性。二、自我迷執。三、生命持続。四、因果必然。
五、諸仏実在。六、感応道交。七、自他不二。八、成仏過程。
三、生命持続(せいめいじぞく)
人間だけではなく鳥獣虫魚にいたるまで、いやしくも自我の意識がはたらくまでに発達した生命体は、
個々の生命体として無限に持続進展するものである、というのが生命持続の意味である。
一つの有情がここに存在するのは、過去の業力による。 それは、あたかも風の力によって一つの波が生起したのと同様であって、
一つの波が次の一波を起こし、さらにその次その次と無数の波を起していくように、一有情の業力が次の霊肉を造り、
さらにその次その次と 無数に自己を創造していく。
だから生命持続というのは、業力相続ということであって、業力は不滅である。
私たちは自己の霊肉というものが存在しているように思っているけれども、実はただ業力相続の上に
あらわれている所の一種の幻影にすぎない。
(中略)
この霊肉が死んで無くなっても、業力の相続に変わりはない。はんこの印影が紙に写るように、
私たちの諸業は生まれ変わり死に変わりしながら完全に相続していく。
これが輪廻転生ということである。
このようなことは禅定力が進んでくれば明らかに知ることができる、と祖岳老師は書いている。
897 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 09:24:13 ID:u+ei16an
>>896 >初代7氏は臨済宗僧ですよ。
それは失礼しました。
>私たちの諸業は生まれ変わり死に変わりしながら完全に相続していく。
>これが輪廻転生ということである。
>このようなことは禅定力が進んでくれば明らかに知ることができる、と祖岳老師は書いている。
これは『梵網経』に完全に一致します。
つまり、禅定が深まれば、宿命通のようなものが出てハッキリと直接知覚できるということですね。
898 :
896:2009/02/25(水) 09:35:07 ID:4Yif7RJg
ということで、初代7氏は仏教徒として外道であるばかりか、禅宗門の徒としても外道であることがはっきりしました。
899 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 09:43:26 ID:u+ei16an
>>899 7さんは、攻められて萌えるタイプなんですw
901 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 09:45:38 ID:u+ei16an
>>898 あ、そうそう。禅宗には疎いので、原田老師は、たしか非難する方も結構あったと聞いているので、
原田老師の見解をもって禅宗を代表させるのは少し厳しい気がします。
>>901 >原田老師は、たしか非難する方も結構あった
駒沢の学長だった滑谷博士との論争(曹洞宗・正信論争)が原因で、敵も多かった為と思います。
論争が終わったあとも、学者サイドの情報操作や隠蔽工作などがあったと聞きます。
木村泰賢博士も最終的には、アンチ滑谷としてこの論争に加わりました。
しかし、ほどなくして急逝されたのです。
論争そのものは、滑谷博士が学長を辞める形で幕を下ろしたのですが、学問としての仏教学は滑谷博士の主張する常識的な教学が残りました。
その論争の模様は、現代の仏教学の混乱の雛形だと思います。
詳しくは、『正信論争 全』竹林史博編 青山社 をどうぞ。
903 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 09:59:07 ID:u+ei16an
>>901 我ながらむちゃくちゃな文ですな〜、
禅宗には疎いので、はっきりは言えませんが、ということです。
904 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 10:03:16 ID:u+ei16an
>>902 あ〜、それはネットで読んだことがあります。
批判仏教一派もその延長にあるような気がしました。
木村先生が、もうすこし長生きされたら色々と日本の仏教界は変わっていたんでしょうね。
残念なことです。
905 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 10:04:20 ID:5eET3l4B
>>895 >(常識というのは、そこの文化圏でしか通用しない。
「殺してはならない」「傷つけてはならない」「盗んではならない」「嘘を
ついてはならない」「知覚できるものが実在」等という「基本的常識」は、
どこの文化圏でも同じです。
906 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 10:50:23 ID:YJEk0NYM
>>896 >原田祖岳老師という方は曹洞宗に属していながら臨済宗の正眼寺や南禅寺な
>どでも修行した大修行底の人で、著書も少なくない。
曹洞宗と臨済宗とでは、かなり本質的に異なると思うが、二股架けることには
何か不純さを感じるね。仏教とキリスト教との二股かける輩と同じ。
カルト宗教は、白隠は常に引用するが、道元は殆ど絶対に引用しないのは、
何故だろうか。
>>906 世事に疎い人のようなので、親切に教えて差し上げますが、看話、黙照、いずれも達磨門下ですよ。
>>905 スパルタなんかでは成人になる時に、人を一人殺してくることが義務づけられていました。
どの文化圏でも同じ「基本的常識」がある、なんてのは思いこみや妄想の類では?
>>908 そういう話じゃなくて、自分の子供の臓器を勝手に売り払ったら、タイでも警察に捕まるだろ。
>>909 タイだったかな。子供を遊郭に売り払ったあと、
その子は栄養失調とエイズになって仕事ができなくなったので
埋め立て地に捨てられ、そこから脱出して川沿いに歩き実家に戻ってきた。
周囲の目もあったため、両親はその子供を庭に設置した檻に入れて監禁、
あまり食事も世話もしなかったため鳥がその子の目をつついて食べるような有様。
最終的に父親がガソリンをまいて、子供が生きている状態で小屋ごと焼き払った。
でも、その家は金持ちで、「この子もようやく辛い人生から解放されて天に召された」という
シナリオで地域住民も納得。
何度もいうようだが、常識なんてのは特定地域でしか通用しない。
それがどの文化圏でも同じで通用するというのは、思いこみや妄想のたぐい。
911 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 11:32:57 ID:u+ei16an
>>910 >常識なんてのは特定地域でしか通用しない。
全くそう思います。時代・地域でなんとなく了解している
ある程度の共通認識、しかも当然、個人差があり無常で一定しない。
でも、常識は尊重すべきです。
そして常識に真偽の判定を委ねるのは、世間的行為に限るわけです。
912 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/02/25(水) 11:38:46 ID:Pc+5GVjQ
>>896 >初代7氏は臨済宗僧ですよ。
たしか初代7氏は、勝義諦と世俗諦の譬えとして「紙の表裏」として説明したことがあった。
表が勝義諦として「無」。裏が世俗諦として「有」。
一介の僧が、基本的教学をマスターしてないわけはないんで、
僧であるとは思えんですね。
表は「無」であっても・・・まあ、いいとしても
裏が「有」ってことはない。
裏は「有無」。
譬えとしても次元が低すぎる。
密教関係でも、こんな譬えはしない訳だが、
禅宗、密教関係なし。と、拙者は認識している。
>>911 では、拡大解釈して五戒もサンガの中だけで通用する常識ですか?
罪も福も妄想であると切り捨てますか?
戒と世法でも情として重なる部分がありますが、決定的な違いがあるとしたら何ですか?
>>912 555 :初代スレ7:2008/12/28(日) 18:30:11 ID:XZ97f21W
>>506 > 私はパーリ仏教は見解が低いと見・・・・・・・・・からだと思ってます。
さきほど読み終えた片山さんの著書から、「p23.l12〜p24.l4」と「終章」を返答とします。(引用はしませんw)
> たぶん、あなたがパーリに共感するのは曹洞宗だからでしょうw
ごめんなさい! 臨済宗です・・・。 サーセンw (/>_<)
>>913 五戒はサンガの中だけで通用する常識というのは大体正しいのではないでしょうか。
サンガというのはこの場合は仏教徒ということで在家まで拡大してもいい場合もあるかと思いますが。
殺人を許容するか、否定するか、推奨するかは文化圏によるわけですが、
世間がどう認識していようが、常識がどう判断していようが、サンガが戒律と認定しようがしまいが
カルマは来ます。それはまた別の問題です。
ただ、殺人したら必ず地獄に堕ちるとか、そういう単純なものではおそらくは無いでしょう。
黒い心で行動したら、心がその分黒くなる。心が黒くなれば黒い現実を引き起こす。
そういう意味でカルマは必ず生じると思います。
その場合、心というのは無意識の方が重要で、いくら意識で白だと自己認識していても
無意識の部分が黒ければ、結局心は黒いことになり、意識の白さではどうにもならない
黒い現実を引き起こす。
来世でおこるかどうかは別としても現世でリアルタイムに起こり続けていく。
少しずつ確実に。カルマというかそこの領域の心の部分が本当に白くならない限りは。
916 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 12:29:26 ID:u+ei16an
>>915 全く同意します。杓子定規解釈には困りますね。
サンガについては水野弘元『要語』が美しいですね。
勝義には聖者のみ、世俗ではウバソク、ウバイも含む。
>>915 常識は一先ず、置きます。
では、罪・福、俗に言うなら善・悪の理法が「ある」ということでよろしいですか?
>>917 何を罪とするか、何を福とするかは、それを認定する人間の価値観や社会の問題です。
善と認定するか、悪と認定するかも、価値観や社会の問題です。
ただ認定するかどうかと関わりなく、善と悪は見かけ上存在します。
ここでも見かけ上としか書けないあたりが言語的限界です。
ひとついえるのは行動レベルでの善悪に注意して生きるよりも(無意識レベルでの)
善意悪意に注意して生きる方がたぶん内省には役に立つと思います。
>>916 ありがとう。
919 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/02/25(水) 12:49:47 ID:O4+HjcXq
>>914 >ごめんなさい! 臨済宗です・・・。 サーセンw (/>_<)
年々僧堂においては見性率が低下してますからね、
この率が上昇に転じる。ってことは先ず有り得ない。
つまり最後には、僧堂で修行をしたとしても見性することはない。
ってとこまで到達するのは間違いない。
これにはいろんな理由があるが、
先ずは民度の質的低下。
それに禅宗自体の形骸化。
これに尽きるんじゃ〜ないでしょうか?
(もはや、日本の禅も行き着くとこまで来ました)
これは宗教界だけの話ではなく、あらゆる分野において言えることなんだが。
原点回帰。これですよ、これからは・・・
拙者はそういうわけで、中国禅を推奨しとるんです。
>何を罪とするか、何を福とするかは、それを認定する人間の価値観や社会の問題です。
>善と認定するか、悪と認定するかも、価値観や社会の問題です。
常識は一先ず、置きます。
ただ認定するかどうかと関わりなく、善と悪は見かけ上存在します。
私は聖者ではありませんから、見かけ上で結構です。
では、世俗では理法としての善悪は「ある」でよろしいですね。
ならば、その理法としての善悪の基準はどこからくるのですか?
921 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/02/25(水) 13:02:11 ID:O4+HjcXq
曹洞宗も同じ穴の狢ですよね。
拙者が「正法眼蔵には矛盾があります」。って言ってるのに、
「じゃあ、その矛盾を提示せよ!」。ってんですから、
話にはなりません。
提示する前に「その矛盾にピンとくるようじゃないとね」。w
矛盾さえ分からんで、正法眼蔵の内容など理解できようがない。
道元は、そういった矛盾性の中より悟入への切っ掛けとしとるんですが、
もはやその切っ掛けさえ見逃してしまうとはw
釈迦はは形而上の問いに判断を示さず沈黙を守りました。
釈迦は不回答の理由を、これらは無益で法に適合せず涅槃に導かないからと説明されました。
釈迦は形而上の事柄を理解していても、それを真理として打ち立て他人と論争するはありませんでした。
無用な論争の弊害からのがれ、苦しみからの解放という目的を見失わない為です。
自分の信じた道で解脱する事が重要であると考えたのです。
バラモン教は輪廻を既成事実として説き、脅し文句のように
虐げられた人々をさらに苦境に落とすようなことを言ったのです。
輪廻説に立つ限り、苦の現実を前世の因果として受け入れるか、救いを死後に託すほか道はありません。
釈迦はその思想から脱却することを説かれました。
輪廻は業の鎖で生れが問われたのですが
釈迦は行いを問うことによって輪廻の意味を転換しその迷信性を失わせたのです。
苦の根本的な超克と、真の救済を目指した釈迦は現世この身一身における救いを体現したのです。
なるほど参考になります。
人はかように我田引水の解釈をす
愚かなものだ
925 :
初心:2009/02/25(水) 18:29:52 ID:uKmWHrzd
宝珠さんへ、
わたしなら新しいスレが立てられると思うけど、
pc不慣れなのでタイトルだけです。
あとは宝珠さんなりに、旧スレから徐々に移してもらうことになります。
それでいいなら試みて見ますけど、どうしましょう?
926 :
初代スレ7:2009/02/25(水) 18:50:56 ID:suUWbyt0
928 :
初心:2009/02/25(水) 19:18:29 ID:uKmWHrzd
初代スレ7さん、スレ建て乙です。
929 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 19:26:00 ID:bzVGdbXI
>原点回帰。これですよ、これからは・・・
>拙者はそういうわけで、中国禅を推奨しとるんです。
師にもつかず、祖録も読まずそれでいて原点とは
話になりませんw
>「じゃあ、その矛盾を提示せよ!」。ってんですから、
>話にはなりません。
なんの証拠も出せない机など話になりませんw
そもそも袈裟を見たこともない机など話になりませんw
930 :
初代スレ7:2009/02/25(水) 19:34:21 ID:suUWbyt0
931 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/02/25(水) 19:51:21 ID:O4+HjcXq
>>929 >なんの証拠も出せない机など話になりませんw
なんで拙者が他人様の見性を手助けせにゃ〜ならんの(笑
無闇に拙者から資料、ならびにヒントなどを提示することはない。
(これもレスのニュアンスにもよるがなw気が向けばそれなりのレスはする)
まあ、それより
>>837にはイイことが書いてある。
これは即見性には役立つ。
こういうレスポンに眼が留まった方が
机龍之介を当てにするよりは賢いw
(拙者は、そういう意味では役立たずである)
932 :
初心:2009/02/25(水) 20:06:40 ID:uKmWHrzd
>>889>>890>>891 brown さんへ
善も悪も輝かしい正義の働き・・・これはよくわからなかったです。
限定が空→「全ては空である」・・・竜樹の話は限定が多いのですが、
限定を空にしてしまえば確かに限定のない話に変換されますね・・・?
>その両方が空であり,その区別もまた空であると証明されます。
>論としてはこのプロセスが重要で,そこを一足飛びに勝義と世俗の区別
>を否定する,ひいては善と悪の区別(この双方は世俗に位置づけられるけど)
>を初めから否定してしまうと,実に頓珍漢な理解になってしまいます。
ウーム? なんかいまひとつ消化できませんでした。
933 :
宝珠愚者:2009/02/25(水) 20:33:15 ID:scqmabOU
>>925 7さんが新スレ建ててくれましたね。
>それでいいなら試みて見ますけど、どうしましょう?
いや〜全く構いませんねぇ!
私は基本的に人の善意を信じ---そこに価値を見る---のです。
多少のミスなり、なんなりというのは大したことではない。
明らかな、悪質的な改ざんなりというのは見れば瞭然ですよ。
>>722 中論第二十六章
「一 無知(無明)に覆われたものは再生に導く三種の行為(業)を自ら為し、
その業によって迷いの領域(趣)に行く。」
しっかし・・竜樹の解説のほうは進んでませんねw
でもまぁ〜これを見る限りは輪廻転生を説いてるわけでしょ!
まさかまた〜これはそんなことを述べてるのではない、といった屁理屈を並べる人がいるのかな?
934 :
宝珠愚者:2009/02/25(水) 20:34:22 ID:scqmabOU
935 :
宝珠愚者:
>>893>>895 >仏教徒というのは理想を追求するものなのでしょうか?
>これは拙者は疑問であります。(つまり極を求めるベクトルではない)→中道ですから。
>法珠氏の書き込みを拝するに、貴殿は理想主義者であることは明白です。
そう。私は理想主義者ですw
しかし、このような返答の在り方を屁理屈というのですよ。戒律に従う・・不殺生の生活をなるべく貫
きたいとか・・中道の姿勢といった・・これらを仏教の理想生活のスタイルというのです。
>世の中にはどうにおもならないこともありまして、
どーして、最初から「どうにもならない」と決め付けるのです?そういうことでは、如何なることに対して
であっても前途が切り開かれることはないと思います。
>それでも、自分の子供を助けたいか?
そりゃ〜助けたいでしょうよ!たとえ如何なるルートに拠る臓器であれ、それにより救われようとした親
子に対して、私はそれを責めることはできない。かといって、もちろん生きた人間の誘拐/殺害による臓器
売買といった非道な行為が許されていいという意味じゃない。
金よりも重い人命の価値観というか〜とにかく殺人行為は如何なる理由があっても正当化できないな。
社会的には政治的手段として肯定する意見もあるようですが、たとえ戦争というものでさえも肯定できるも
のではない(これも等しく殺人行為です)。まずは臓器売買といった犯罪を無くしていくことは当然のこと。
それとは別にして、人工臓器などの医学の発達と貧しくても受けられる医療制度といった社会システム
の構築が是非とも必要です。
でも、まぁ・・机さんのいいたいことは分るつもりです。
そのお気持ちもね!