【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】3

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491/4 初代スレ7
勝義と世俗の繋ぎ・橋渡しを考えるに際し、一枚の紙の裏表を喩えとして用いてみましょう。
『表』が『世俗』、『裏』が『勝義』としましょう。
>>40の《「個」と「無常」「無我」「縁起》」で言えば、
紙の『表側』が「個であり(似顔絵が描いてありw)」、『裏側』が「無地である」ようなものです。
『裏』が「無地」であるからといって『表』の「似顔絵」が消えるわけではありません。
また、『表』に「似顔絵」があるからといって『裏』にも「似顔絵」があるわけではありません。
(“透けて見える”くらいの受け止め方はあってもいいかもしれませんが・・・w)

この時、「勝義しかない」「表側は虚妄である」などと『裏』のみを主張してしまうと、
(仏教外の人間からの)「では、切り裂いても燃やしてしまっても構わないよねw」
「殺人とか暴行とか、人格・尊厳の軽視は問題にならないよねw」「だって“無地”なんだからwww」
という発言に返答できなくなります。 《『裏』のみを見るならばまさにその通り》 なのですから!
 (※勿論、仏教の究極の視線・態度としてそのベクトルが存在することを否定はしません。
   しかし、(伝家の宝刀ではありませんがw)援用する場合は、よくよく状況を吟味すべきだろうと思います。)
≪『表』に「個」があること、似顔絵があること≫を忘れてはなりません。
(『裏』しか見ない姿勢は、禅的に言えば“百尺竿頭に留まるようなもの”です。
 “安悟りに腰を据えるな”と叱咤されるようなものです。)

仏教が(一般に対して)何事かを語る時、その時には、
「『表』だけを見たら確かにその通りだけれども、そこには『裏』があるんだよ。
 その『裏』こそが、見据えられるべき真の姿なんだよ。だから、『表』に固執してはいけないよ」
とでも語るべきなのです。そして、こう付け加えられるべきだと思うのです。
「けどね、『表』を蔑ろにしてはいけないよ。『表』の在り様もまた、かけがえのない、
 一度きりの、貴方の生なのだから。他者の『表』もまた同じだよ」と・・・。