>>456>>459>>462 『「われというものはない」「すでにわれなしと知らば」---その語句の部分だけを抽出して誤解すること
なく、他の経及び全体の文脈から語句の意味を理解する必要があります。そうすれば、「われというもの
はない」とは、「五蘊のいずれも我ではない」、という意味でしか述べていないものとして理解されるのです。
「(何ものについてでも)《これがわがものである》といわない人々、及びそれらのうちのいずれもわれ
(aham)であると語らない人々」(サンユッタ・ニカーヤT,p.116)---これが初期仏教の理想であった。
初期の仏教においては、このように「これ」として具体的に、或いは対照的客観的に、示して見せること
のできるいかなるものも、アートマン(自己)ではない。それはアートマンとは異なった他のものである。ま
たそれはアートマンに属するものでもない、と説いているのである。「修行完成者は自ら自己を見ることが
ない。」(スッタニパータ477) アートマンを客体的なものとして認めることができない、というのである。』
(「原始仏教-その思想と生活」中村 元著/NHKブックス)
「見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これ
こそ真実である」と考えている。或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものと
なる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。」
(スッタニパータ756-757)
『人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないか
らである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。人が「これはわ
がものである」と考える物、──それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理
を知って、わがものという観念に屈してはならない。』(スッタニパータ805-806)