>>228 ねw
>>245のように、宝珠氏もまた、
《『A』の側から(も)アプローチしたい》という意図が明らかです。
※また、現代人の一般的知識から(様々な知識・経験則から)却下し易い、というのもあります。
これを、「ただ知らないだけ」「凡夫の視線でしか見ていない」と言うのは容易いですが、
検証困難(不能?)・追体験困難(不能?)であることに変わりはありません。
もしかしたら、箱の中身を知らないだけ、壁の向こうを知らないだけかもしれません。
が、様々な情報の集積から予測・推測されるに、「どうやら中身は空っぽだ」「壁の向こうは荒野だ」
と、仮説を立てるのです。否定論者の殆どはこの点に拠っています。
現代の常識を古代の思想にそのまま援用することが不当であるとは言いながらも、
「同じ人間であった」という姿勢をとる限りは、どうしても生じてしまう事態なのです。
たとえそれが阿羅漢達の実体験であったとしても、
思索の上での「心理的体験」である可能性も又完全却下できないのです。
もし、仏教内部だけでなく外部の者との対話が想定されるなら、
『A』についての議論も又避けては通れないのでしょう・・・。
他の教義のように、通常の思考・体験により「頷ける」の可能性の高いものとは違うでしょうが、
(
>>242で述べたように)その「考察の構図」或いは「考察の方法論」の上で、
「輪廻」に関してもまた、『A』の側からのアプローチが重要な位置を占めるのです。
様々な教祖(始祖)たちが、『実体験・自身の体験』として何事かを語る時、
それの検証は追随する者の追体験に委ねられます。
現代に於いては、それらに対する科学的アプローチも手法としては存在しますが、
完全な検証・分析は今の所不可能でしょう。
さて・・・、果たして「涅槃」は“正しく”追体験されてきたであろうか・・・。