>>228 >どうでもいいことのように思うのだけれど。
そのように言うこともできますし、議論をスムーズにするには(≒学際的な議論にするには)捨象すべきことかと思います。
前スレ656のC・D(及びB)を問うスレ、というのがこのスレの本来あるべき姿であるのは貴方の御指摘通りです。
しかしながら、実際は(議論を進める上では)、どうしても絡んできてしまうのです。
なぜか?
(基本的に)我々が知り得るのは実は『E』のみです。
また、『E』から遡ってD・C(・B)がどうであったかを類推するしか手立てはありません。
『E』が脚色かどうかを判断することでさえ、
多くを比較検討する文献学的研究・教義の探究によるしかありません。
しかも、それすら決定的に確定することはできません。
もし、この時、『A』の側からもアプローチできたなら、選択範囲(考究範囲)は少しだけ狭めることができます。
ジグソーパズルを組み直す時、複数の基準・基点があると作業はずっと楽になります。
ですから、(無意識理にでも)『A』の部分に於いて或る仮説を立て、それを参考にしてしまうのです。
たとえ無意識にでもです。
客観的批判に耐えるには、比較検討という手段が妥当なわけですが、
上で“『A』の側からのアプローチ”と書きましたが、ここに追体験があったとしたら話は変わってきます。
体験のある彼は、『A』からD・C(・B)へとアプローチできるのです。
そして実は、追体験可能な(或いは“現代科学の知見により、仏典との関わりなく考察し得る”)という点で、
『E』以外の、我々の考察基準足り得るのです。(これは、輪廻以外の様々な記述・教義にも当てはまる構図です。)
ジグソーパズルの譬えではないですが、我々が基準とできる部分が希少である以上、
そして、『A』を仮設することが、どれほど考察を先へ進ませるかを考えれば、致し方の無いことのように感じます。
また、「ブッダは真実しか語らない」「ブッダに誤りは無い」という前提をとるかとらないかも関わってくるでしょう・・・。