1 :
神も仏も名無しさん:
やはり真理真実〈実相〉が大事なのであって、それを説くものが誰であるかは、
本質的問題ではないと思う。
一層の研鑽に励もう!
2 :
神も仏も名無しさん:2008/10/19(日) 12:09:44 ID:4digU60Z
3 :
神も仏も名無しさん:2008/10/19(日) 12:15:59 ID:WeEg303l
4 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/20(月) 21:23:31 ID:hzClTah4
不死の境地の体験、言語を語る霊(神の子)の存在を知れば、どちらを信じればよいかという比較は無意味。
《父(唯一の神)》
人間の思いでは知ることができず、決して死を味わうことのない境地で神を知る。地上のものに心引かれるこ
とはなく、地上の思いから遠ざかり離れ、物欲・享楽・快楽などもなく、一切の苦悩から解き放たれ、悩みな
く平安で安らぎに満ちている。「あなたがたは何でもできる」「神通力」イエスと釈尊のように、離欲を達成
した不死の境地に至れば、何でもできる不思議な霊力も事実となる。
《平安や安らぎ(父)より地の思いを捨てきれず、悪い者に従い人間の境地を得る》
人間の欲望の無い何でもできる唯一の神より、地上のものに心引かれる欲念があったので、人間の境地を得た。
「栄華や権威を拡大するために、他を打ち滅ぼす」という「野望の妄執」妄執というひとつのものに一切のも
のが従属した。全世界は悪しき者の配下にあることを知っている。
人間という存在は、利益拡大のため、物を得ることの拡大のため、地の楽しみを得ようと貪る心のため、権威
得よう、自分を誇ろうとする心などを悪しき者に従い得た。他を打ち滅ぼしても得ようとする慈悲のない心に
従い、平安・安らぎ・不死の境地から離れた。
5 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/20(月) 21:24:50 ID:hzClTah4
《清浄なら善悪は無い》
世を厭い離れ、世を遠ざかり離れ、欲念も全く無く、善悪も無く、今のような人間の思いが無くなって、神と
不死とを知る。
人間は欲のあるまま造られ続け、地を食いつくし、いつかは地を滅ぼす存在。地のことのために、敵意や憎し
みを抱き争い、戦争などしてやがて大きな苦難を生み出し肉のまま滅びる。「肉は肉に従って、更に肉となっ
て造られ続ける」地のものを貪ると、やがて地のものが得られなくなった時に、盗みとか、自分たちの利害関
係を思い戦争をして人が苦しんでも、最後には平気な人間に造られるという。地のことのために、誰かが苦し
んでも、悪いと思わない人間に造られ、最後は肉だけとなり大苦難を生み出す者となり、肉だけとなり滅びる。
《神の子(人格のある霊)》
「地上のものに心引かれるな」「衣食があれば足れりとせよ」「肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは父から出た
ものでなく世から出たものである」
人間の幸せを享受することは全て「左」だと。釈尊や修行僧のように、地のものに心引かれないように努め、
不死の世界で、平安と安らいで暮らせるようになれと命令する存在。人格神は人間の欲望を嫌い、世の中のこ
とから離れ、霊の世界に生まれるように命令する。人間は「地で生き続け」呪われ、人間の喜びのために、苦
しみを味わい続けているのだと。
《聖霊》
神がこの世を遠ざかり離れた世界を義としているように、そのように地上の人間の幸せから遠ざかることに努
め、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りを捨て、衣食があれば足れりと思えるような人が全てでない。
「神にはからし種一粒ほどの信仰もない」世の中は神に見捨てられたのである。人間が求める御利益など全て
のことで、とんでもない誤りなのである。神には、人間の暮らしをしても、欲を離れ、自分は義人だと求めて
も、物欲や欲楽、享楽、快楽、その他諸々の人間の欲望から離れ、そのほうが幸せと自ら心から思わないと認
めない。霊の世界で安住しない。修行僧は何も持たないで、諸々の執着から離れ、むしろ楽しんだのである。
6 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/20(月) 21:29:02 ID:hzClTah4
「生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生ものを害するならば、その人は自分の幸せを
もとめても、死後には幸せが得られない」(真理のことば)
人格のある霊は、「地で生き続ける」なら「愛」「良識」と語る。人は人間の不幸を求めて地に生まれるので
はない。そこで地の者の救いとして教えがある。
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ安穏であれ安楽であれ、上にも下にも中にも敵意なき怨みなき慈し
みのこころづかいをしっかりと保て。この世ではこのような慈しみのこころづかいが崇高。
他人の過失を見るなかれ、自らのしたこととしなかったこととだけを見よ。他人を見下すことは真理から遠く
離れる(仏教)
敵を愛し憎む者に親切にせよ。あなたがたは敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸してやれ。
あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ(聖書)
神は世のことから遠ざかり離れることであって、「私はしました、しませんでした」という両方を訴えて
も認めることは一切ないが、そのように父によって善くも悪くも造られる人々に、ゆるし、慈しみのここ
ろづかいがある人が世の中全体となると、それぞれの人が尊重される。決して他人に害を加えることを望ん
ではいけない。
たとえば、富に仕えるばかりで、肉の主人に誠実に仕えないならば、誰がその人の幸せを支えるのか。
地のことのために、敵意や憎しみを抱いて争い、或いは戦争まですると人間の行いにより誰かが死に、ま
た平安の幸せは得られないとか。
別に霊に生まれたいなら、世のことから離れ、欲の無いことに幸せを得るよう努めるとか。
神は「ああだろう、こうだろう」と論じ合い、人間の考えで見解が分かれるようなことはしてない。
「良識」もない「人を釣る(魚を殺す)」のも宗教の役割だそうです。
7 :
神も仏も名無しさん:2008/10/21(火) 06:29:52 ID:tN5midKU
不幸の世の中しか作れぬ神。
そして救世主とし居る子イエス。
8 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/21(火) 21:10:01 ID:E71vrG32
《父なる神》
世の中を遠ざかり離れ、地上のものに心引かれず、父なる神のもとでは「あなたがたは何でもできる」を真
実であると知る。善悪も無く、人をそのままの思いで造られる。その人をそのようにして下さる。
《神の子(人格のある霊)》
地上のものに心引かれるな、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを捨て去れ、衣食があれば足れりとせよなど、人
が人の手で造られたものの幸せを捨てるよう努め、情欲や快楽を捨てるように努め、霊の世界に生まれられる
ようになれと命令する。人間世界の幸せは「左」であると。そうしないと「地で生き続ける」と。
《釈尊と修行僧》
二度と生まれることはないを目指し、人里離れた所で修行に励み、離欲を達成しようとする。生きながら不死
に到達した人に、神通力があっても疑いがない。
《イエス》
人の手で造られたものを欲さず、神のわざがあっても疑いがない。私と父とはひとつであると語っても、悪し
き者を乗り越え、不死に達した人は、何でもできる父なる神の霊とひとつなのである。
9 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/21(火) 21:11:24 ID:E71vrG32
《悪魔》
人の手で造られたものを厭い、人間の幸福を厭い、地上のものに心引かれない存在とともにある父なる神を受
け入れなかった人を、地上の栄華や権威を恣にし、地上の栄華や権威を得るために他を打ち滅ぼしてもかまわ
ない「野望の妄執」を与え、冷酷・無慈悲・非道もある人間の境地を得させた。
物を貪ること、人の手で造られたものを喜び楽しむこと、事業拡大などによる自分たちの繁栄の拡大など
は清浄な存在・善なる存在・父なる神に従っているのではなく、正反対の悪魔に従っている。
悪魔は地上の人の手で造られたものの幸せを愛する限り、父なる神のもとへは行かせず、地上に生まれる者と
してしまう。そして地のものを貪らせ、地を食いつくし、肉を望む者を更に肉の者に造らせ、いつかは戦争や
略奪、敵意や憎しみに満ちた大苦難の地にする。
《神に従えず、悪魔にも従わない中間》人であるための神の「良識」
―園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々―(仏典)
肉の主人に誠実に仕えること。誰もそなたのために働いてくれる人がいないと心得て、富を得ようと心に抱か
ず、人々の幸福や安穏・安楽に役立ってから得るものを得ること。
10 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/21(火) 21:18:35 ID:E71vrG32
この世は苦しいこともあると心得て、苦しいことがあっても、自分で耐え忍ぶこと。
―世の中のどこにも害いを見ない―罪に定めるな、ゆるしてやれ―善悪もない清浄な父なる神に反して、人間
の善悪感により、むやみに他人を悪に定めないこと。他人に対しても我がものと思わず、ある程度はその人は
その人だとして尊重してあげること。人に対して敵意や憎しみ・怒りを持たないように努めること。
多くの財産があっても、それらは死んだら自分の物として持っては行けず、貧窮なる人、飲食を得るのに困難
な人などに分け与えることを善として心得ること。目の前の人が飢え、或いは苦しんでいたら助けてあげよう
とすること。
美味を貪ったり、物を貪ったり、人の手で作られたものの楽しみを貪ったり、それらを善いことのように思わ
ないこと。欲望に対して自制心があること。
神(人格ある霊)は人間の欲望があり人として地で生き続ける限り、頼るなと。
人が欲望のまま生きるのではなく、それらを自制し、他人に対して配慮のある人が増えれば、この世は
救われる。善いことを思えば善いものに造られ、財を貪ることやその他自分の欲望を制し、一切の生き
とし生けるものの幸福や安穏・安楽な暮らしを思う人々が増えれば、この世もそのようになる。
「慈しみのこころづかい」「愛」がある人が増えれば、この世もそのようになる。
神はこの世では良識的に考えられることしか与えてはいない。「良識」「愛」と語る。
神に救われる人は、人間の幸せを厭い離れようと努め、信仰に熱心になる人だけだという。
世のこと、世の欲楽から離れ、信仰に生きる人が信仰深い人だという。
11 :
神も仏も名無しさん:2008/10/22(水) 14:06:41 ID:UWVrkIwW
『オレの言いなりになれ』By神
12 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/22(水) 19:50:37 ID:AeHxhgMi
《神(人格ある霊)》
世のことを厭い離れ、地上のものに心引かれず、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを捨て去るように努め、衣食
があれば足れりと思うような心を持ち、物を得ようと考えたり、財を欲したり、享楽・快楽・情欲から離れよ。
そして、霊の世界に生まれられるようになれ。この世は「左」であり、呪われている。
《人(自分)》
〈神は愛で、人間の幸せを望まれている。〉そのように思っていたが、全く正反対であった。
私はそんなことはできませんと断り続けた。「罪人の私をおゆるし下さい」と。そのまま「地で生き続ける」
「神にはからし種一粒ほどの信仰もない」神に信仰があると言える人は、人間の幸せを思う人にとって、物凄
く難しいものであると思い知らされた。
できませんと断り続けたら「私との繋がりを切る」と。そして「人でありなさい」と。霊の世界に生まれるこ
とができない人のままであると。
《人への知識》
肉欲のことを願い求めても、叶えて下さる信仰対象物はない。この世で苦しいことがあっても、自分のことと
して耐え忍ぶこと。
財を貪ったり、この世の楽しみを貪ったりすることは、神聖なものとは正反対の、悪い者に従っていることで、
やがて地のものを食い尽くす。
13 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/22(水) 19:52:00 ID:AeHxhgMi
得ようとする心のまま造られ、やがて地のこと、利害関係や自分たちが正しいと考えたことに反する者に敵意
や憎しみを抱き、戦争をして人が死んでも平気な人となるだろう。食物や必要な物が得られず、略奪したり、
その他諸々の苦難な時が続くようになるだろう。
そんな人々の集団に生まれないように、普段から「与える」ことを心掛けたり、「金!金!」と思わずに、相
手に誠実に仕えて得るものを得るよう心掛けたり、戦争はしないほうがよいと思っていたり、自分が他人に敵
意や憎しみや怒りを抱く心を嫌がっていたり、楽しいことを貪ることがよいことと決して思わず、慎むことは
善い、楽しいことがなくても、何もしてない時もむしろよいと心掛けたり、人は何ものかに「しました、しま
せんでした」と思わずに、人は自分で苦難を回避する道を歩むしかないとのこと。
神は欲があって、この世を喜んでいる人を救わないとのこと。神を信じて欲を制しないことを正しいように思
っている人は、信じない人より悪いとのこと。信じなければそのまま人の運命のまま。苦であれ楽であれ、そ
の人が納得したまま。信仰があり自分を偉いように思う人より、「劣っている」自分を低くしている人のほう
が、神にはまだ好まれる。
14 :
神も仏も名無しさん:2008/10/27(月) 00:59:20 ID:kb5UX5x9
>>3 これらは確かに、
参考ウェブには違いないけれど、
ちょっと的外れに感じる部分が目立つ印象がありました。
(これらのウェブサイトの内容批判が目的ではないけれど・・)
まず第一に、
仏教/仏陀について語る場合に見られる傾向としては、
いずれも「大乗仏教」を中心に捕らえたり、または原始仏教と混同しながら述べているケースが多い。
大体、著者自身の立場が大乗仏教の信奉者と見られることから、
歴史上のゴータマからは、大きく逸脱して論じられている。
一応ここで、わたしの摂るスタンスを明確にしておくと、
原始仏典に見るゴータマの教え以外は全て、
基本的に仏教とはいえない、というものです。
極論的にハッキリいって、それらは「仏教」じゃない!
(尚、仏教以外の宗教は全てダメだという考え方ではないので誤解しないで下さい。)
阿弥陀仏や真言密教などを論材にするのは結構ですが、
ここからゴータマの姿や教えを見ようというのは実にナンセンスもいいところ。
阿弥陀仏や真言密教を仏教の一つとして取り上げ、
そこから仏教とキリスト教(ましてやイエスなど)の比較をするというのはどうにも府に落ちない。
ゴータマはそんなことは教えていない。
ゴータマの教え以外は仏教では断じてない。
つまり、仏教ではないものを仏教として語ることなどは全く論外なのです。
仏教ではないものを仏教扱いする伝統など、この日本国はいい加減やめろ!といいたい。
それから、
歴史上に実在した個性として、わたしは敢えてゴータマと呼称することが多いのですが、
それはつまり、「仏陀」や「釈尊」などという呼称は全く個人名ではないからなのです。
15 :
神も仏も名無しさん:2008/10/27(月) 00:59:54 ID:kb5UX5x9
似たようなことはキリスト教側においても見られます。
まず、イエスが個人名であって、キリストという呼称は“ヤーウェーに油を注がれた者”
を意味するギリシア語のクリストスからきており、本来は唯一者を示すものではない。
この点はゴータマと仏陀の呼称の関係と酷似します。
で、イエスという一個性が如何なる人物でどんな教えだったのかを示す資料には限りがあり、
それがなかなか特定は困難な状況にあります。
これについては、原始仏典と大乗経典という明確な区分けがある仏教側のほうが作業的に圧倒的に楽です。
ただイエスの場合も同様、後のキリスト教の内容から実在のイエスを誤解し、
偏見で捕らえてしまってるのではないか?ということ。
まず、こういった視点から整理しないことには、
正しい物事は見えてこないものと思います。
自然光ではない蛍光灯の明かりの下で、
しかも歪んだレンズの眼鏡を掛けながら見ていても
本当の色彩は認識できないのではないか?
わたしは前スレの872〜から投稿を続けている者です。
原始経典以外はゴータマの教説としては信頼できない(大乗非仏説)。
無我の誤解から輪廻転生を否定し、唯物主義や断見思想に陥っている仏教者らを痛烈に批判します。
(「無我」とはいわゆるアートマン存在の単純否定などではない。
本来は「非我」ともいうべきものであって、「アートマンではないものを自己と同一認してはならない」という意です)
また、愚かなキリスト教からくる偏見でイエス個人を軽視してしまうことはどうだろうか?
というスタンスをとっています。
また何か、思いついたら投稿します・・。
NHKの世界紀行でのインドのガンジス川を遡っていくの見ましたけど、
源流付近の人がいないところでの修行者が、ツララ張っているようなところで
ふんどし、だけで、弟子と2人で世界の平和を祈ってるんだと言ってましたけど立派に感じました。
メキシコ人もお酒を飲む前に、大地にこぼして神に捧げてから頂くのだと言ってましたけど
我々日本人の多くは、大地の恵みにまったく感謝をしませんから見習うべきなのかも知れないです。
17 :
神も仏も名無しさん:2008/10/27(月) 18:22:38 ID:kb5UX5x9
>>16 うん。そうだよねぇ!
大地の恵みに対する感謝。海の恵みに対する感謝!!
八百万の神々に対するじゃないが・・
そんな感じの基本的な自然と湧いてくる筈の人間の感情が乾いてきてるのかもしれないな。
大地と海の神に恵みを感謝ではなく、
企業が利益を得るために販売してるものを自分で稼いできた金銭で食を買ってるだけ。
という感覚になりつつあるのかもしれない・・。
でもまだ
食事前には軽く手を合わせて、
一礼してから食事してる人も多く見かける。
若者でも結構いるね^^
18 :
神も仏も名無しさん:2008/10/27(月) 22:12:53 ID:kb5UX5x9
>>1 >やはり真理真実〈実相〉が大事なのであって、それを説くものが誰であるかは、
>本質的問題ではないと思う。
>
これにはわたしも、もちろん大きく同意します。
このことがゴータマの御心であり、イエスも恐らく同じであった筈です。
ところが現実問題としては、
ゴータマが教えたこととは全く異なる事柄を、
後の時代の者たち(これも後世の弟子に当たるのだが・・)が勝手な内容を語り、
尚且つ、それらについてゴータマがそのように教えた、などという謀略が企てられたのです。
そして現在でも、大乗と称する勝手な創作経典が信奉され続け、
ゴータマの教えは小乗だの出家仏教だのといったレッテルを貼っては民衆から遠のけてきました。
キリスト教においては、
イエスが、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく、
天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。」(マタイ伝7章21節)
といったとされるのにも拘らず、
現実には、
「あなたはイエスを信じますか?
イエスを信じるならあなたは救われ、信じないならばあなたは救われない」と説かれてきました。
>>17 水道電気その他に税金は払っていますけど
生活を可能にする太陽や空気や大地には、何の報酬も払っていませんから
そのように考えたら、神に祝福を祈るのはあたりまえのことなのですけどね。
その基本すら、日常から消えているのは哀しいことなのかも知れませんよね。
20 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/28(火) 18:33:57 ID:GvCIHERb
釈尊や仏陀、ゴータマという名称にこだわりはないが、
妄執に打ち克ち、不死の境地に至って、「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、
つくるはたらきの静まった安楽である。そこでは、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用
も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている〜聖者はその
境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦し
みから全く解脱する〜これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、
没することなき解脱の境地である。」
この上なき最上の喜びの境地(ニルヴァーナ)とあるように、この境地を知ったら、これは絶対の
ものだという境地。そして釈尊に神通力があっても真実である。
イエスもまた「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中
にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら。そのとおりに成るで
あろう。」と教えているように、解脱し、不死の境地を唯一の神としている。
「安らぎは虚妄ならざる真理」安らぎに満足するよう努めていなかったので、私は悪しき者(妄執)に従
ってしまい、人間の境地の戻った。死なない境地があるということを知ったが、「愛や平和・人間の幸福」
くらいに思い、物欲や享楽に生きていた。
21 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/28(火) 18:36:01 ID:GvCIHERb
「不死に達するための苦行なるものは、すべてためにならぬものであると知って〜さとりに至る道―戒め
と、精神統一と、智慧と―を修めて、わたしは最高の清浄に達した」
「色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと―わたしはこれではない。また
これは、わたしに属するものではない。このように観じて、わたしはそれらについての執著を離れる」
《人格神(言葉を語る霊)も存在する》
欲楽を貪っていた時に、神は「地上のものに心引かれるなと」人の手で造られたものへの喜びや物を貪り
楽しむことは、神が喜ぶことではないと。出家して森の中で暮らせとは言われないが、五欲の対象を貪る
ことは、神が喜ぶこととは正反対のことであると。金のことを思い働くことも、考えが違う人と対立し敵
意を抱き、憎むことなども。人間の幸せを捨てて、霊の世界に生まれられるようになること。人の楽しみ
として何も言われないのは、自然などを楽しむことぐらいであった。まるで釈尊のような神の霊である。
神は人間の幸せを叶えて下さる存在ではないのだ。信じても「地上のものに心引かれるな」言うこと
を聞かないと「左だ」「地で呪われて生き続けよ」と人間的な救いはない。
人間の楽しみ、幸せを捨てて、霊の世界に生まれることができたら、救われると説かれるのだ。
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとして
も、その言葉どおりになるであろう。」神への信仰は想像以上に厳しいと、霊の言葉を聞いて知った。
22 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/28(火) 18:37:21 ID:GvCIHERb
全ての人が、神の言うことを聞けるとは限らないので、
《人としての救い》
「世間は貪りと怠惰ゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である」(ブッ
ダのことば)
「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この
世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(イエス)
地上のものに心引かれず、世を遠ざかり離れ、至上の境地に至り、なやみなき苦悩なき幸せな世界を
知った人は、悪魔(地上のものの喜びを貪らせ、【真理を見る人には何ものも存在しない】から、敵意
や憎しみ、怨み、冷酷、無慈悲、残忍など)で人々が苦悩を受けることは大きな恐怖である。
人として他人を我がものと執着せず、他人の過失やあやまちをゆるしたり、慈しみのこころづかいをこの
世では崇高として邪まな見解を捨て、他人を悩まそうと怒りの想いを抱いて互いに苦痛を与えることを望
まず、他人を欺かず、他人を軽んじない。罵倒しない。財を貪ろうとせず、誠実をつくして名声を得、何
ものかを与えて交友を結ぶ。物惜しみせず与える。快楽を享受することは清いとせず、自制する。
名称と形態は我がものとして永続しないから、それらのこだわりからくる悩みを捨て去る。劣っている、
勝っている、中くらいであるという迷いを捨て去る。人間同士が互いに悩みをつくらないようなこの世の
救いの教えを語る。
しかし、神の霊は「諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じ
ては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である」とそのような思考は変えられず、「目の欲、
肉の欲、持ち物の誇り」などを捨て去ろうと努め、「衣食があれば足れり」とするような心得で、物欲を
制し、霊の世界に生まれて救われると妥協されない。
福音の基となった資料があるらしいけど、まさしく覚者の説教だと思ったよ。
キリスト教はもしかして大乗なんて比較にならない歪められかたかも知れないよ。
24 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/28(火) 21:30:07 ID:GvCIHERb
世の中から遠ざかり離れ、地上のものに心引かれず、人の手で造られた喜びもない唯一の父なる神の世
界。このような今の人間の状態では存在せず、五感も思考も及ばぬ、平安と安らぎに満ちた世界。
「あなたがたは何でもできる」という言葉を真実と知る。肉を離れ、霊の世界(不死)の世界に安住で
きれば、その父と一つになれるのである。解脱した人が神通力があっても疑いがない。
《地上のものに心引かれない霊より、地上のものに心引かれる心が勝った》
栄華や権威を貪り求める妄執に従い、人間の境地に戻る。「自分の栄華や権威を貪り拡大するために他
を打ち滅ぼしてしまえ」という「野望の妄執」。
地上のものに心引かれない安楽な世界より、地上のものに心引かれた者を「左の神」に従えさせ、
地を呪った。人の思考の及ばぬ世界には、善悪はない。
人は無意識に、他人との競争に勝ち、喜び得ている。企業も組織も、その栄華と権威の拡大のため、あ
くせくして努力している。財力の拡大を思い、富を得ようとあくせくして、得たもので物欲や享楽を満
たし、楽しんでいる。そして地で様々な環境、状態になって、また人となって生まれる。
25 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/10/28(火) 21:32:39 ID:GvCIHERb
《神(霊)とは別の 人としての救い》
栄華や権威を貪り拡大するために他を打ち滅ぼす、不死の境地を失った原因を妄執・悪しき者の配下と
説く。「全世界は悪しき者の配下にあることを知っている」「妄執という一つのものに一切のものが従
属した」
<イエス>
「ああ、信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、
また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。」
「神と富とに兼ね仕えることはできない。」
「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」
<釈尊>
「未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている」
「善を喜び〜『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『昨夜はわたしは眠りづ
らかった』『今夜わたしはどこで寝ようか』―家を捨て道を学ぶ人は、これらの四つの憂いに導く
思慮を抑制せよ」
栄華と権威など人の欲求を満たすためにあくせくさせる存在に対し、このような言葉に従おうとす
ることも、呪いの緩和となるだろう。人格神(言葉を語る霊)は、「地上のものに心引かれるな」
などと、人間の欲楽を全く認めない存在であるから、天にあるもの地にあるものの(中道的な)
人の世の救いの言葉があってもよい。
信仰により頼れる救いはない。信仰を戒めとして、諸々の欲望に関する貪りから離れようと志す救い
はある。
26 :
神も仏も名無しさん:2008/10/29(水) 18:47:13 ID:IV/7YofF
やっと アク禁から開放されました。迷惑行為はしてないのですが、こんなことになって不愉快でした。
前スレへのレスもしたかったのですが、もう面倒なので再スタートです。
賢者はこの世を真とせず、涅槃を真とする。
28 :
神も仏も名無しさん:2008/10/30(木) 01:37:21 ID:kAOdL5dK
>>23 >
ゴータマの場合は80歳まで生存しました。
29歳で出家して35歳で覚醒。
以降〜最後に道端で倒れるまで伝道/教示の旅を続けられた。
よって膨大な説法の記録が残り、それらが経として纏められた。
おそらく実際の説法は単純明快な話が多かった筈でしたが、
膨大な説法の中から、あるものとあるものは一つにされ、
また或いは、あるものはあるものに関係付けられたりしながら整理されていき、
後に、「三法印」「四聖諦」「四念住」「四正断」「四神足」「五根」「五力」「七覚支」「八正道」
といった具合に呼ばれていき、体系化されていった。
対して、
イエスの場合はというと・・
実際問題が、30歳にてパプテスマ(洗礼)を受けて以降〜
十字架の磔刑までの僅かに3年間だけしかキリストとしての説法の記録がないのだから、
教えの体系化とか・・とてもそういう状況にはないということ。
更には、誕生時から12歳までの記録が空白であるし、
また、30歳で登場するまでの全てが空白期間だった、といっても良いのがイエスの生涯の実体。
カトリックなど伝統の教会は認めないだろうが・・
キリスト教によって着色されていない当時のタイムカプセルともいえる
死海文書といった考古学上の発見、そこから見るイエスについての情報は貴重価値が高いでしょう。
29 :
神も仏も名無しさん:2008/10/30(木) 18:10:04 ID:hZwbAr8P
>>28 >死海文書といった考古学上の発見、そこから見るイエスについての情報は貴重価値が高いでしょう。
どんな情報があるか開示してください。
30 :
神も仏も名無しさん:2008/10/30(木) 20:34:45 ID:11shjuLf
>>28 死海文書にヨシュアについての記録はないと聞いていますが、どんな
発見ですか。このスレに連投している人はバカですか。根拠のない
ずいぶん軽薄な書き込みをしていますが、頭は大丈夫ですか。
隣人に対するくだりとかの意味でしょう。
隣人を愛し、敵を憎めは、死海文書にのっているから。
32 :
神も仏も名無しさん:2008/10/30(木) 23:34:26 ID:hZwbAr8P
日蓮ほどじゃないでしょうw。
33 :
神も仏も名無しさん:2008/10/30(木) 23:49:11 ID:Ehp24WfB
773 :神も仏も名無しさん :2008/10/29(水) 14:23:45 ID:QkUF2atx
もし神が存在し自分が制約する現実世界で全能だと称していても
その全能とは蟻に対して好きにできる人間
のようなもんなんじゃないかなとしか俺には捉えきれない…。
そういえば最近こんなことがあったね。
「神」を相手取った州議員の訴えを却下、ネブラスカ州
http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200810160035.html イエスは疑念。ゴータマは確実性の高い根拠。
34 :
神も仏も名無しさん:2008/10/31(金) 00:23:45 ID:1dFIOmAu
>>29-30 >
ん、ちょっと早まったかな?
確かにわたしは、頭は良くないのでね(笑)
では、「そこから見るイエスについての情報は貴重価値が高いでしょう。」は、
「イエスの時代について知るためのタイムカプセル的資料」という感じまでに抑えときます。
どうにも、
死海文書は紀元前のものでイエスはそこには登場していない、
としたい輩が大勢いるのだろうと見られます・・。
しかし、もしもこれらがいずれ、紀元後〜イエス在世以降の資料であるということになったときに、
どういう扱いになるのでしょうかね??
まっ、わたしの場合は先取りが好きなものでして-どうも失礼!!w
35 :
神も仏も名無しさん:2008/10/31(金) 15:25:29 ID:pvJh5mdT
>>14 もしかして久保先生の仏教批判が気に入らないんですか?
だったらその箇所を引用して、もっと具体的に述べて下さい。
36 :
神も仏も名無しさん:2008/10/31(金) 18:25:01 ID:3zcJxOjf
だいたい、創造主だの、全知全能の神だの、モラルのない神を信じさせて、
愛だの人に言うのがおかしい。
キリスト教が日本で布教されても、平凡に生きている人間は神に問題なし
とするだろうが、いざ災害などに苦しむと全知全能の神はいないか、いた
ら非道だと思うだけ。
給与の十分の一を献金させて、牧師は平気で妻子を養う。
モラルのない神を信じると、他人が働いた金で生活しても、自分は神のよ
うに悪いとも思わない人間をつくりだす。
37 :
神も仏も名無しさん:2008/10/31(金) 18:51:56 ID:1dFIOmAu
>>35 >
はい、分りました。
では、わたしなりの批評意見を述べてみたいと思います。
たぶんやや長くなりそうですが、どうかご了承下さい。
久保先生ですかぁ
---聖書学者で牧師さんなのですねぇ!
いや本当に、大変ご立派なお方のようです。
この、『仏教の「修行」キリスト教の「贖い」』を拝読してみましたが、これはなかなかの名解説であり、
文章も上手でとても明快であると思いました。
ま〜たしかに、一般論としては間違いは書かれてないですし、そしてとてもよく纏まっています。
仏教には自力と他力の二つの方法論があるということで、自力仏教の例としての「密教」、他力仏教
の例として「念仏」をそれぞれ上げてキリスト教でいう罪からの「贖い」による救いの場合と比較し、その
上でキリスト教の優位性を論証しようとしています。
まず一つ目は、自力仏教の例としての「密教」、他力仏教の例としての「念仏」とはいうけれども、これ
らはゴータマが教えたものではなく、遙か後世の人間たち(弟子の流れを汲んではいる)が自分勝手に
展開したものに過ぎません。確かに大乗仏教(一般にはこれが信仰仏教)との比較にはなっていますが、
本当の意味での仏教との比較とは成り得ません。
また、氏の説くキリスト教の優位性なるものについては、わたし個人から見れば、ハッキリいってイエ
スの教えではありません。わたしの摂る立場はちょつとキツイ表現ですが、キリスト教はイエスの教えで
はない(含んではいるが・・)、というものです。
次からは、
個々の部分に対して、もっと具体的に話を展開します。
38 :
神も仏も名無しさん:2008/10/31(金) 20:23:35 ID:3zcJxOjf
だいたい牧師が先生と尊敬されるってかWWW
創造主、全知全能の神なんか、
>>33のようにくだらない迷いを人に与えるだけ。
だいたい全知全能なら、布教とか教えなんかいらない。
宗教の知者、知識ありと称される者ほど愚鈍。
全知全能の神なら、信じて下さいと布教したり、布教して信じて救われるなど
人に負担をかけない存在だと信じた連中は考えられるようになるのが普通。
迷い苦しみのある人が宗教的なものに頼るから、一切皆苦を説き、離欲による
心の安定統一を説いたのが釈迦。静寂により、心の安らいを求めるしか、苦悩
を取り除く方法はない。現実しかないんだよ。
世間では人の行い(業)。他人に苦痛を与えない行い。他人の苦痛を取り除く
行いを慈しみのこころづかいとして崇高とする。現実しかない。
法を島とし他を頼りとせず、自らを頼りとして生きる人々。何ものも信じず、
信じた対象からの救いはないという現実に生きることしかない。
信仰による救いは愚鈍な人間のやること。銀行に借金しまくって破産しまし
た、大変なことになったと騒ぐ連中のすること。
自分の心を制することができて、行いを制することができて、老いも死もこだ
わらないまともな人のやることではない。
39 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 02:59:29 ID:1pHBPNmv
それでは、
更に『仏教の「修行」キリスト教の「贖い」』
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/bukkyokirisuto06.htm についての見解を述べます。
『仏教では、「仏になる」方法として、おもに「自力仏教」と「他力仏教」の二種があります。自力
仏教の代表は「禅」、他力仏教の代表は「念仏」と思えばよいでしょう。』(仏教の「修行」キリスト教
の「贖い」)
>
大乗仏教(一般にいうところの仏教)では確かにそうです。しかし、ゴータマ本来の教えには自力
と他力の二つというものではなくて、
>>38で「法を島とし他を頼りとせず、自らを頼りとして生きる人
々」とあるように、「(法)ダルマ=真理=ゴータマの教え」を頼りに自己を拠り所として修行せよ、
というものでした(自灯明法灯明)。
では、何を修行するのか?ゴータマの教えであるところの三十七道品であり、これを修行しなけ
れば成仏(解脱)はできない。わたしにいくら成仏を願ったところで、決して成仏することはできない、
とハッキリいいきったのです。
ましてや、大乗には悪いが・・仏は願いごとをする対象でも、苦しみを救ってくれる(願いを叶えて
くれる)存在でもありません。有難い阿弥陀如来なる仏などはどこにもいません。阿弥陀信仰ほど
ゴータマから程遠い宗派はなく、紀元後200年頃にゾロアスター教(開祖/紀元前630年生)のアフラ
・マズダ神から取り入れたのが、おそらくは起源のようです。尚、禅は確かに大乗諸派の中ではゴ
ータマの教えにかなり似た形態を持つものだとはいえます。
40 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 03:00:46 ID:1pHBPNmv
『仏典には、人が「仏になろう」と決心してから成仏するまでの期間は、じつに、「三阿僧祇百大
劫」(さんあそうぎひゃくだいこう)だと記されています。「三阿僧祇」とは、仏教学者によると、3×
10の59乗という数字だそうです。「百大劫」は八〇〇〇劫と同じで、一劫=四三億二〇〇〇万年
ですから、これはなんと約一兆年の10の61乗倍を意味します。またはもっと控えめに、「三劫」
(一二九億六〇〇〇万年)だという仏典もあります。数字の上ではずいぶん違いますが、長大な
期間という点では同様です。
いずれにしても大変な期間です。仏典にはそんなに長い間、一心に修行を積まなければ決して
仏になれない、と記されているのです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
そういう数字そのものには、殆ど意味はありません。途方もない大きさや長さ時間といったもの
を示す際の仏教的比喩であり、経典特有の文学形式にしか過ぎません。
しかし、ゴータマはそんな無意味な記述に過ぎない大乗のものとは異なり、もっと明確で具体的
な指標を示しました。それが四向四果(四沙門果)と呼ばれる修行の成果にみる解脱の段階につ
いての解説です。
以下に原始経典の一つから掲載します。これを読めば、ゴータマが如何に大勢の在家信者を
抱えて育成、指導されていたかが瞭然とします。出家者だけにしか役立たないかのような誤解を
生ませる「出家仏教」との大乗からの批判は的を得ていません。またこれらは、主に在家信徒の
ケースを上げていますが、当然、出家僧の場合であれば解脱の進歩は更に格段と早いでしょう。
修行せずは仏にはなれません。お願いごとで成仏できる、そんなオメデタイできごとは無いの
です。そういった話は全てマルチな嘘(だまし)に過ぎません。この世界にインスタントはない。
41 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 03:02:02 ID:1pHBPNmv
『アーナンダよ。修行僧サールハは諸々の汚れが消滅したが故に、すでに現世において汚れ
の無い【心の解脱】【智慧による解脱】をみずから知り、体得し、具現していた。したがって、この
比丘は今さとりの世界におり、再び迷いの生存を受けることはない。
アーナンダよ。尼僧ナンダーは、ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくした
ので、おのずから善き世界に化生した。この比丘尼はその天界から直接さとりの世界に入り、再
びこの世に戻ることはない。
アーナンダよ。在俗信者のスダッタは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、欲情と怒りと迷い(貪り
・怒り・愚かさ)という三つの心の毒がしだいに弱くなっているので、【一度だけ戻ってくる者(=一来)】
となった。この信者はもう一度だけこの世に生を受け、苦を残りなく滅ぼし尽くしてさとりの世界に
入るであろう。
アーナンダよ。在俗信女のスジャータは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、【聖者の流れに踏み
入った人(=預流)】となった。この女信者は、もはや悪しき世界に堕ちることはなく、必ず正しいさ
とりを得ることが確定している。
42 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 03:18:49 ID:1pHBPNmv
アーナンダよ。在俗信者のカクダは、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので、
おのずから善き世界に化生した。この在俗信者はその天界から直接さとりの世界に入り、再びこ
の世に戻ることはない。同じように、アーナンダよ。カーリンガ、ニカタ、カティッサバ、トゥッタ、サン
トゥッタ、バッダ、スバッダなどの在俗信者も、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくした
ので、おのずから善き世界に化生した。これらの在俗信者たちはその天界から直接さとりの世界
に入り、再びこの世に戻ることはない。
アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ五十人以上の在俗信者たちは、ひとを下界に結びつけ
る五つの束縛を滅ぼしつくしたので、おのずから善き世界に化生した。これらの在俗信者たちはそ
の天界から直接さとりの世界に入り、再びこの世に戻ることはない。
アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ九十人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつ
くしたから、欲情と怒りと迷い(貪り・怒り・愚かさ)という三つの心の毒がしだいに弱くなっているので、
【一度だけ戻ってくる者】となった。これらの信者はもう一度だけこの世に生を受け、苦を残りなく滅
ぼし尽くしてさとりの世界に入るであろう。
アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ五百人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつ
くしたから、【聖者の流れに踏み入った人(=預流)】となった。これらの信者たちは、もはや悪しき
世界に堕ちることはなく、必ず正しいさとりを得ることが確定している。』 (大パリニッバーナ経/ナー
ディカ村にて)
43 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 03:39:45 ID:1pHBPNmv
四向四果(四沙門果)
・須陀桓(預流)(シュダオン・ヨル)
=三結(身見・戒取・疑)を断ずる。天上界と人間界を
七回往復する
・斯陀含(一来)(シダゴン・イチライ)
=三結(身見・戒取・疑)を断じて、貪欲・瞋恚薄らぐ。
天上界と人間界を一回往復する
・阿那含(不還)(アナゴン・フゲン)
=五下分結(身見・戒取、疑、貪欲、瞋恚)を断ずる。
天上界に生まれてこの世には還らない
・阿羅漢(仏陀)(アラカン・ブッダ)
=以後、『有』を受けないと自覚できる意識境。無餘涅槃の人
このようにしてゴータマは、
どのような境地になれば、あと何回の転生が必要であるかかを明確に解説されたのです。
44 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 03:41:08 ID:1pHBPNmv
『けれども、「シャカは二九歳の時、王宮を出て求道生活に入り、六年後には悟りを開いて、仏に
なったではないか。いったいいつ、彼がそんなに長い修行を積んだというのか」という疑問を持つ人
もいるでしょう。しかし、仏教は輪廻説に立っている、ということを思い起こしてください。
シャカは何度も何度も過去において生まれ変わりながら、「前世」(前生)で長いあいだ一心に修行
を積んできたと、仏教では考えているのです。そしてついに悟りを開いて、仏になったのだと。
ですからもし仏教の考え方で行けば、あなたが先ほど述べた長大な期間の修行を、すでに「前世」
で終えているとすれば、あなたは現世を最後に仏になれるでしょう・・もっとも「前世」というようなもの
が、本当にあったとしての話ですが。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
それは正解です。
ゴータマも6年間だけの出家修行だけで仏陀になったわけではありません。この人生の歩みその
ものも云わば大きな修行そのものなのであって、今生は前世からの継続であり、そして今生の人生
のあり方が来世にまた引き継がれていくのです。そしていつか学びの必要がなくなった段階に達す
れば、ピタッと転生は止むことになる。
人間、死ねばそれで済む話はなく、自分の行為の結果は次の生において自分に返ってくることに
なります。善行は善果を受け、悪行は悪果の報いがあるのは当然のこと。あの世でどうこうではな
く・・人生経験について学ぶ必要があって生を受けているのですから、必要な学びが終了して卒業で
きるまでは繰り返し転生します。
前スレで詳しく投稿したように、イエスの時代も生まれ変わりの考えはごく当たり前として民衆に浸
透しており、イエスも転生というものについては認めていた。そしてパプテスマのヨハネがエリアの転
生者であると名言しました。
《[我汝らに告ぐ。エリアは既に来たれり。然れど人々はこれを知らず、反って心のままにあしらへり。
かくの如く、人の子もまた人々より苦しめらるべし。]ここに弟子たちパプテスマのヨハネを指して言
い給ひしなるを悟れリ。》(マタイ17章12〜13節)
45 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 03:49:34 ID:1pHBPNmv
転生の教えはキリスト経の教義からは削除されたのです。
イエスを絶対的な唯一の神の子とするには、あまりに邪魔な思想だったからです。イエスとて生ま
れ替りを繰り返してきた人間の一人に過ぎません。ただ、内なる神性をほぼ完全に具現した稀なる
人間であり、だから聖なる者でした。教会はこのような当たり前の見解でさえ、それは神に対する冒
涜として排除し、全ては力ずくで弾圧してきました。
原因と結果の法則-転生については、また後で改めてやります。
『密教では、即身成仏を説くために、有神論的な教理を持つようになりました。言い換えれば、有
神論にならなければ、"この身このままで救われる"という教えは、生まれてこないのです。---略---
宗教的な感情の高まりによって、自分がそのような体験をしたと思い込む時があっても、ふと目覚
めてみれば、再び罪深い人間である自分の現実に舞い戻ってしまうのです。
仏教の神秘主義である「密教」も、同様な理由で衰退していきました。"大日如来と合一する"という
理想を掲げながらも、実際にそのような体験をすることは、多くの人々にとってきわめて困難だった
からです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
密教、そんなものはゴータマの教えではありません。
大乗徒の主張は誰でも簡単な修行で成仏できるというものでしたが、そんな程度で成仏できる筈
がないとして大衆からも飽きられ始めた時期と、ヒンドゥー教の勢力の拡大によって教団が圧迫さ
れていた事情があり、インド仏教最後の切り札として編み出されたものがこの密教でした。彼らの手
法はより具体的な修行体系を構築することと、そこにヒンドゥー教の要素を取り込むことでインド大
衆の人気を図ったことでした。
しかし結果的には、逆に仏教としての独自性を失って、拡大するヒンドゥー教の大きな流れに飲み
込まれていきました。教団がこうして衰退を始めた時期において、更に決定的な打撃を与えたのは、
イスラム教徒の侵入によりナーランダーなどの僧院が破壊されて彼らの拠点を失ったからです。こ
うしてインド仏教は壊滅したのです。
つづく
46 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 04:22:35 ID:aNhVWNFw
伝言ゲームも10人介すれば原型をとどめてない
47 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 09:03:56 ID:xnQqHVmm
>>38 汝を迫害する者のために祈りなさいとか聞いてた民衆はドン引きで去っていったらしいからね。
イエスが悪いわけではなくて、周りに教えの本質を理解できる者がいなかっただけで、キリスト教の迷いの根本はそこにある。
49 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 11:28:40 ID:xnQqHVmm
>>48 >教えの本質
教えの本質は仏教であるところ、これを教える教えが、明らかではないのだ。
「唯一」の神、と言うが、この真実の意味を理解する人は少ないのだ。
相対的に存在するものを、唯一の神とし、他の神を排撃することになる。
他の神を排撃すると言うことは、他の神の存在を認めていると言うことだ。
これでは、唯一の神ではない。唯一の神とは、「寂滅為楽」のことである。
「諸行無常・是生滅法・生滅滅己・寂滅為楽」−−−涅槃経
そうなんです。
そしてそのことが実感できるようになるまでは、かなり長い間
20年近く修行に打ちこんだはずなのですけど、福音にはその失われた期間は記されていません。
バラモン教やウパニシャッドが無かったら、ゴータマさんも周りに理解できる人がいないからハブられていたかも知れませんね。
王子といわれる立場も功を奏しました。
52 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 14:26:44 ID:1pHBPNmv
>>48>>51 >
その見方は正しいと思います。
イエスの場合は大衆が教えを理解できなかった。
ただし、やや低評価ながらも使徒(弟子)たちはなかり吸収していました。
ゴータマの場合には、すでにインドに浸透していた業報輪廻からの解脱というテーマ
(ヒンドゥー教の前身たるバラモン教の思想)がすでに素地としてありました。
尚、ゴータマがアートマン存在を完全否定したというのは全くの間違いです。
ただ大衆の誤ったアートマン観について否定した(正しくは理解されていなかった)ことと、
またアートマン性質に対する細かな理解などは仏道修行においては全く重要ではないために、
無駄な興味を引かないようそれらの解説については提供しなかっただけのことです。
>>41-42の経で示されたように、
業報輪廻からの解脱が前提でなければ仏教の教えそのものが成立しません。
輪廻転生を否定する異端仏教者は、このような経を無視し軽視します。
(この問題は重要なので、これもまた後でやります)
ゴータマが通常よく摂られた態度とは、
「毒矢のたとえ」として知られる「無記」(形而上学的な問題について判断を示さず沈黙を守ること)
という姿勢でした。つまり、意味がない場合には説かなかっただけのことです。
たしかにアートマン性質については特に解説はなかったけれども、
転生と解脱の関係については、
>>41-42の経で示されたように詳しく解説を提供していました。
また、アートマン性質に対する議論と詳細にして膨大な解説というのは、
すでにウパニシャッドの教えにおいては語り尽くされています。
53 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 14:29:35 ID:1pHBPNmv
『「マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が
可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行
生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方が
あろうと、人間は死後存在しないという考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩は
ある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。
マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは
説くと了解せよ。」以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を
受け入れた。』(マッジマ・ニカーヤ/毒矢のたとえ)
54 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 14:37:31 ID:1pHBPNmv
「わたしが説かないことは説かないと了解せよ。」といったのです。
無いものはない、などとはいっていない!
ゴータマは霊魂を否定した(転生する主体がないから転生もない)
などという誤った「断見」に陥っている異端仏教者・・
尚且つ、水子供養なる商売を提供する似非仏教者・・たちには、
強く懸念を感じざる得ません。
55 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 17:12:23 ID:1vt71Kte
>>54 イエス、ブッダ同値論とブッダ優位論の方も同様に批判したら?
56 :
神も仏も名無しさん:2008/11/01(土) 21:17:34 ID:EhIjJ9b4
批判するよりも久保牧師の考えから真理真実を学び、仏教者の言い分からも
真理真実を学べばいいことです。「我以外はみんな師」…を私自身はまったく
実行してませんけど。
阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕
警視庁防犯課
二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
58 :
神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 01:02:35 ID:R627J5Cd
---続き
『聖書によれば、罪の性質は人間の本性にまで及んでいます。それは外面についている"埃"(ほこ
り)のようなものではありません。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
言い換えるからば、人間の原罪の元となったという林檎をバクつかせた蛇もまた神の作品であり、
蛇の行動についても神は当然のごとく、その全てをお見通しの筈でした(全能の神ならば)。それが林
檎を食べたくらいで、どうして神は怒り心頭に欲し、未来永劫まで人間に罪を背負わせたのか?本当
は神は怒ったり喜んだりなどもしないのだが・・そんな自己の感情も制御できない自分勝手な意識とは
何かわかりますか?
善悪を知る知識というのは人間として生存し、且つ成長を遂げるためには必要なものなのです。で
は、このときアダムとイヴが林檎を食べなかったら、一体どうなったのだと思いますか?それが望まし
いことだとあなたは考えますか?このときの神の怒りとは何だったのかを理解していますか?ここでは
霊と物質の関係について理解する必要があります。
これらは仏教でいう煩悩と似たようなものなのです。それは人間存在として生存するには必要不可
欠な部分も含むのであり、そして人間として生を受けたからこそ成長を可能にし、ついに気付きが起
こり、更には仏教に触れて、それについても理解することが可能になります。
59 :
神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 01:03:34 ID:R627J5Cd
『自分の力で律法の一つ一つを完全に全うし、長い律法の"鎖"を登りきることのできる人は、ひとり
もいません。私たちは、自分の力で鎖を登ろうとするのではなく、天から差し出された力強い腕に、つ
かまればよいのです。
この天からの腕こそ、神と人との間の仲介者であり私たちの救い主である、イエス・キリストの差し出
された腕です。私たちがその腕につかまりさえすれば、キリストは私たちを難なく、天にまで引き上げて
くださるのです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
特に異論はありません。
ゴータマは法(わたしの教え)に拠って自己の修行によって解脱するよう説きました。イエスもほぼ同
じことを話したと思います。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではな
く、 天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。」(マタイ伝7章21節) というのは、イ
エスにお願いをすれば救われるというものではないことを意味します。「わたしの父のご意志を行なう者」
とは真理の実践を意味し、これがゴータマの説く修行に相当する部分になります。イエスを信じれば救
われ、信じなければ救われないということはない。人のその行為に応じた結果がある、それだけのこと
です。イエスを知らない者もその行動が正しければそれに相応しい結果があり、「イエス様イエス様!」と
いくら繰り返し嘆願しようとも、悪行はそれ相応の結果(悪果)が返るだけです。天に引き上げる力とは
イエスの説いた教えの実践によるものでしょう。
ゴータマもイエスの場合も、その本当の有難さとは真理について語り教えてくれたことにあります。もち
ろん信仰心の強さによる効果というのがあり、イエスを想い慕う心により、より困難に立ち向かう精神的
な強さを得ることに繋がります。
60 :
神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 01:05:47 ID:R627J5Cd
最後の部分として---「キリストによる贖い」〜「信仰による救い」の項に至っては、ハッキリいって誰が
何を信じようともご自由ですが・・ここが全くナンセンスでお話にならない最大の部分です。イエスはそん
なことは教えなかったと思いますよ。
イエスを尊敬し大好きなのは大いに結構なことです。イエス(の教え)が好きならば、何故そんなキリス
ト教の信者となってるのかがわたしには不思議でなりません。イエスの教えとはあまりに異なる、そしてイ
エスが教えもしなかったことばかりを説く教会などに何故、あなた方は熱心に自分自身の身を置くのか?
つづく
イエスは病気を癒したりが聖書に書いてあるので、
地上天国を夢見る御利益に走る人が、少なからずいるのがイエスに対する理解が足りないところでしょうね。
それでも賢者は本当の教えを求道すると思います。
イエスの創造主に対する父とは、ユダヤ、イスラム、キリスト教の同じ経典の創造主なのです。
同じように仏教徒とキリスト教徒で世界の法則に何か変化があるのでしょうか
悪人にも善人にも太陽は登るし、雨も同じように降るのだとイエスは教えたのです。
わたしの神、あなたの神と勝手に解釈して争うことが、イエスの教えには程遠いはずなのですから。
悪人にも善人にも等しくあれ
天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさいと説いたのです。
これは仏陀の至った境地と同じものだと感じます。
64 :
神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 08:52:45 ID:SLL3D8cu
仏教では、妄執が一切のものを作り出した、といい、キリスト教では、
神が一切のものを創造した、と言う。
仏教に言わせば、キリスト教の神は妄執に他ならないと言うことになる。
更に妄執とは悪魔であると仏教は言う。
キリスト教のここ(創造説)に不合理が有ると、キリスト教会の中の理性を重んじる人々は、
戸惑っているのだ。
仏陀は、この世は生老病死の苦が有る、と言う。キリスト教の神は、この世を創造したのであり、
創造し終わって、「はなはだ良かりき」と自賛したとある。
キリスト教の神にとっては、生老病死は、苦しみではないのであると言うべきである。
悪い行為をするものがいることは、神にとって、不愉快なことではなく、「はなはだ良かりき」なのである。
人々が、老病死する様は、神にとって悪い事ではないのである。神自らは
生老病死から離れているのだ。
イエスはわたしと父とはひとつであると言われました。
それらの発言から、迷妄からも当然離れていたと思われます。
66 :
神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 09:48:34 ID:SLL3D8cu
キリスト教の神は、この天地を幻として創造したのである。ところが、
愚か者は、この幻に実体があると思い、それを追求するのである。
神にとっては創り出したものは幻であるから、それはよくも無く悪くも無いのである。
それ故に、はなはだ良かりきなのである。そこにはいかなる差別も無いのであるから。
神の創造したものは、あらゆる状態を持つ。ナンデモアリなのである。
愚かな人間は、その様を見て苦悩し神を呪うのである。しかし神に罪は無い。
人間が、神の創造されたものが、幻である事を知らなければならないのである。
67 :
神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 10:00:18 ID:SLL3D8cu
神の創造したものに実体があると思うこと、これが人間の妄執である。
68 :
神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 10:09:09 ID:SLL3D8cu
人間の妄執が創造したものは、一切が実体あるものであり、その一切が
自己を主張しお互いに争っているものである。これが良い、これは悪いといって。
69 :
神も仏も名無しさん:2008/11/02(日) 10:40:12 ID:10Yw4iyM
>>60 最後の「つづく」というのが可笑しいです。期待してます。
70 :
神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 08:00:33 ID:HGtlBTXo
なぜ神の創造したものが幻なのか?それは仏教の言う縁起現象に他ならないからである。
71 :
ヨワネハク:2008/11/03(月) 08:42:11 ID:4zDgJVd/
「井の中の蛙、大海を知らず」というだろう。
人間は物質界より他を知らないんだよ。
物質界は、考え方で言えば、井戸の範囲なのだ。
外の大海が神の家。
72 :
神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 08:54:46 ID:3xPWwklo
>>70 神の創造したものが幻なのではない。
阿頼耶識に現じたものが幻。間違えないように。
73 :
神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 09:07:43 ID:HGtlBTXo
>>72 >阿頼耶識に現じたものが幻
これは何?詳しい説明を求む。
イエス語録が少なすぎる、
野球に例えれば、イチローのような名選手だけでなかっただけでなく、名監督にもなりえただろうに。
75 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/03(月) 11:39:10 ID:sFQDUxEq
《人格神(言葉を語る霊は存在する)》
神仏を信じて、宗教を戒めとして、慎ましく暮らすこと、正しく暮らすことを善いと思える人をつ
くること。人が信仰対象の正邪を語るだけで、神は全てに対して寛容である。
《諸行無常》
諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じ滅びるからで
ある。それらの静まるのが安楽である。
「地上のものに心引かれるな」「肉の欲、目の欲、持ち物の誇りを捨てよ」「衣食があれば足れり
と思うくらいの暮らし」出家せよとは言われないが、禁欲的な言葉ばかりを語る。言うことを聞か
ないと「苦労をせよ」「つらい生き方をせよ」と。
【ありのまま、そのままで表現】
地上のものに心引かれず、肉欲も存在せず、平安と安らぎに満ちた不死の霊の世界。修行僧は、何も
持たず、我がものという執着心もなく喜んでいる世界をそのまま行った。快を貪らず、享楽・欲楽を
捨て去ることに努め、この世で安らぎに安住することに努め、死後も安らぎに安住できるように努め
た。
「哲学で終わるな」が人格神。実際に行っていることが重要で、神仏を信じて、宗教を戒めとして、
快楽・物欲に生きないことは善いこと、正しく暮らすことは善いことと思える人をつくる。
修行僧のように、物欲や快楽を一切捨てることを強く望まれるが、宗教によりそれと正反対にならな
いなら、別にどのような宗教も区別なく認められる。物質的な喜びなどを求め、この世の災いの回避
を願い求めたりしても聞いてくれない存在。この世で生き続けるなら、自分で耐え忍んで生きなけれ
ばならない。
76 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/03(月) 11:40:54 ID:sFQDUxEq
《平安・安らぎから離れ、栄華や権威・五欲の対象を思慮できる人》
栄華や権威の拡大を思い、他を打ち滅ぼすという妄執(悪しき者)に従い、物質的な喜びや、五欲の
対象を好いと思慮できる人となり、敵意や憎しみ・怨み・怒り・冷酷・残忍・無慈悲な行いを思慮で
きる人となった。
《宗教的に特異な知識・知者はいない》
何ものも存在しないものから、人間の思慮を得たので、宗教的な特異な知識で対立し人を制覇できる
ような人は誰も存在しない。
《人格神・この世では「良識」「愛」》
「下女の汚れた衣のように、汚れて荒々しい男に向かって、わたしは説いているのではない〜そなた
のために仕事をしてくれる人々がいるのではない」(悪魔との対話)
「肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌み嫌いなさい」「働こうとしない者は、食べることも
してはならない」(聖書)
「貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ」(神々との対話)
「空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったと
きに着せ、病気のときに見舞い」(聖書)
「世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐れみな
がら」(悪魔との対話)
「人をさばくな〜人を罪に定めるな〜ゆるしてやれ」(聖書)
77 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/03(月) 11:42:17 ID:sFQDUxEq
《下界はこの世、神にとって地に繋がれた地獄(ちごく)》
「大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために真理の道がそしりを受けるに至るのである。彼らは
貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう〜神は、罪を犯した御使
たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれ
た」(聖書)
地上のものに心引かれず、肉欲のない安らぎに安住しようと努めないから、地で生き続け人間の
苦楽を味わう者となる。人格神からすれば、この世は地獄で、人々はそれを知らないと。
《この世で生きる人として》
しかし、全知全能の唯一の神は、五欲の対象もない世界より、五欲の対象を享受することもできる人
間をそのままゆるし造られた。「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深い」
欲望を自制せず恣であること、富だけ欲して誠実に働こうとしない、目の前の人が飢えたり苦し
んでいるのを助けられるのに助けようともしない、離欲であれ何であれ、他人を自分の考え通り
にしようとすること、敵意や憎しみを抱いて、また無慈悲にも暴力を行い、争ったりすること、
おおよそ人にもわかる善悪の思慮に反する人々が、この世で幸福を求めても得られない者となる。
法に反する人は、その人がこの世で苦渋を受けるから、人が他人に対して我がものとして支配し
なくてよいと。ひとりひとりを尊重することによって、自然にも法律が作られるだろうし、人で
ある以上、「愛」に背くといつかは不幸となる。
この世に打ちひしがれた人、世より素晴らしい完全な世界に生まれようとする人は、世を厭い離れ、
欲望を制し、肉欲を制し、信仰により自己の心の安定を求めるだろうし、世の中に害いを見て、遠
ざかり離れようとも努めず、悪いと思うだけの人は自己を害っている。
78 :
神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 22:49:07 ID:HGtlBTXo
福音書に、イエスの言葉として、「あなた方は神々である、と聖書に書いてある。
それなら、神の言葉を託された私が、神の子であるといって何が悪いのだろう?」
それ以上に、イエスは「唯一の神と私は一体である」といっている。
又、アブラハムの神、イサクの神、モーゼに神、と言われている。
これらは何を意味するのだろう?
仏陀は、シャリホツが修行を完成させているものと認めている。大乗教徒にいわせるなら問題が
有るかもしれないが、シャリホツは仏陀となったのである。仏陀とは真理真実を体得した人である。
ここの二人の仏陀がいるのだ。
>>41-42にあるような悟り得の道に入り、後戻りしない人々これらの人も、
いずれ仏陀となるであろう。
仏陀とは神の事であり、神とは仏陀のことなのである。修行とは神になること、仏陀になることなのである。
真理真実を体得する事なのである。真理真実が「唯一なもの=一相無相空相」なのである。
そこで、神と神が対立してるものなら、その神は実の神ではない。神と神が仲良しなら
、平等なら、差別が無いなら、その神と神は「唯一=一相無相空相」なのである。
阿弥陀の浄土は、この神々の世界の直前の国、であると言わなければならない、と思うが、どうか?
79 :
神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 23:11:15 ID:HGtlBTXo
そこで、上に上げた神々は、それぞれに於いて、幻としてこの天地を創造したのである。
ところが、自分の創造した天地の、あるものに執着して、神の身分を失ってしまったのである。
しかし、思い起こし、執着から離れ、被創造物から解脱するのである。
幻としての天地創造をも、一切見ない時が来なければならない。
それは修行が完成するときである。阿頼耶識が消滅しなければ修行は完成したといえないのである、と思う。
創造とは何か?輪廻=縁起のことを知る事である。これすら消滅しなければ智慧の完成:修行の完成 はない、
のではないだろうか?
80 :
神も仏も名無しさん:2008/11/03(月) 23:12:37 ID:OFF8uN89
【神の】俺は選ばれた人間だ。【選民】
真理が示されたスレだ。熟読しておくように。
確かにキリスト教では、マリア像と像を削りだした木とが等しく観れるような考え方はしていないですよね。
だから教会の聖堂内だけ非常に美しく飾り立てる。
イエスは悪人にも善人にも等しくあれと説いたのですから、他のものも等しく観るべきなのです。
82 :
神も仏も名無しさん:2008/11/04(火) 08:34:23 ID:ueIHnyH0
---続き
「エホバの証人」のバンフにはこういう説明が載せられています。
「サタンは、地に対するエホバの支配権の正当性と、エホバの支配が義にかなっているかどうか
を問題にし、いまや全人類を真の崇拝から引き離すことができると主張して神に挑戦しました。神
は、その挑戦が本当に正しいかどうかをサタンに証明させるために、約6000年の期間をお与えに
なりました。」
つまりは、サタンによる世の支配を認め、そしてサタンによる人類の苦悩を神は見過ごしている
というわけです。このあまりに馬鹿げた矛盾は神学の根本原理なので、何もエホバに限ったもので
はないようです。
いや、そうじゃない!神は人類のためにちゃんと救い主であるイエスを遣わして下さり、そして教
えを残されたのです。だから、あとは我々の選択の側にかかっているのだと・・こういうかもしれませ
ん。もう正直、こうなってくると、殆どまるでゲームのような感覚です。
湾岸戦争の勃発でさえ、ハルマゲドンの始まりだとして---自分らの永遠の生命が近づいたことを
意味するから---ミサイルの雨を歓喜の想いで眺めていたクリスチャンすらもいたという。一部のキ
リスト教徒は戦争で人が死ぬかもしれない、という悲劇に対する当たり前の感覚さえも失っているよ
うです。
ではこの、「キリストによる贖い」が必要とされる根源的理由の、その「原罪」を背負う羽目となった
神学、“林檎パクつき事件”でのあまりの非論理性について、今回は本当にとても良い機会なので、
以下にこのテキストを掲載して紹介することにします(おそらくはネット初登場?となる名文です)。
83 :
神も仏も名無しさん:2008/11/04(火) 08:35:16 ID:ueIHnyH0
「そういうわけでアダムとイヴは枝からリンゴをとったのではない。誘惑者がいたのだ。サタンまた
は蛇が。が、すべては神がつくりたまいしもの、とわれわれは習っている。となるとサタンもしくは蛇も
神の製品なのだ。善なる神がサタン、蛇をつくり、その力で単純な人間二人を欺いたというのか?
もしそうなら、神はなぜリンゴを食べたぐらいで侮辱をおぼえ、その世界に(救い主が現れるまで)
《原罪》が根をはることになったのか? どうなるかはあらかじめご存知のはずなのに・・・・・。
神学者はここで私の袖をひっぱる。そうじゃなかったんだよ! 悪魔ルシファーは神の国で背いた
存在なんだ・・・・・神の国で背いた? どういうことです? 《天国》が(われわれに約束されているよ
うに)《幸福》と同義なら、そこでの反対勢力なんてあるはずないでしょう。これか---あれか。神の国
が完全な幸福状態を保証するなら、ルシファーも神に対抗しようという気など起こさなかったはず。
だが、天国に絶対幸福がなかったなら、神は完全な全能ではなかったことになる。ここも神学論争
の泣きどころ。神とルシファーの争いを神学者はうまく解釈もできないし、論理的動機づけもできない。
ルシファーがアダムとイヴを誘惑に来る前に、それが成功することを神は知っていたはずなのだ。ア
ダムとイヴの《自由意志》という問題は、ルシファーを登場させても、身勝手な解釈というほかない。
ルシファー、アダム、イヴ、もしくは蛇にしても、全知の神の意志で行動したのだから。
教えられたことをそのまま受け取る人にとり、状況はこういうことになる。神は至福なる天国に住み、
そこには反対勢力がある---ルシファーは例のことをやりに楽園に来、アダムとイヴは彼にそそのか
され、神の予測どうりに罪を犯す---リンゴをぱくついたのである。以後、生まれる人間はすべて、お
ぎゃあといった瞬間から《原罪》を背負っている。
84 :
神も仏も名無しさん:2008/11/04(火) 08:37:39 ID:ueIHnyH0
あわれな人類がこの重荷をおろすにはどうしたらいいのか? 救い主によるほかない。聖書はこう
いっている。<神は人間を愛し、みずからの御子を犠牲となりたまえり>
唯一の神が家族を持っているとはちょっと想像しがたいが、いきなり息子なるものが現れてくる。う
らやましい息子である。《天の》父を持つのだから。愛と善と配慮に満ち満ちた父を。と考えたくなるが、
そうではないのだ。息子は(原罪に苦しむ)人類のため、兄弟姉妹を救うべく、犠牲とされる。神の息
子は十字架につけられ、出血多量で死なねばならぬ。しかし、《御子》の死後、神のご機嫌は直った
のだ! この酷い話は野蛮な異教の要素を含んでいないだろうか? この救済ドグマはどうも原始宗
教への後退に思えるのだ。怒れる神を血の生贄によって鎮めるため奴隷を要求するということではな
いか。
十字架での死はシンボルとして理解すべきだ、と神学者はいう。何故それを普通にいわないのだ
ろう? 私の娘リラは---それまでの世代と同じように---イエスは《人の子となった神の御子》で、苦し
み(=原罪)を《人として共に感じた》のだ、と習っている。人として死んだ者は、人として苦しんだのだ。
すべての苦悩を持って。しかし、アダムとイヴが罪を犯したため(それだって神がその気になれば防げ
たはずなのに)自分の息子をそれと知りつつかくも苦しめた神が、息子の死後、彼を殺した人類と和解
するとは、どういうことなのか? (この酷い結末で事実上、原罪はこの世から追放されたということに
なっているが、それは今でも盛んなのだ)」(エーリッヒ・V・デニケン著/奇跡)
イエスが好きでイエスの教えを学びたい、それは大いに結構なことです。ならば何故、イエスが教えも
しないような教会の伝統や教義などを鵜呑みにし、イエスの意志に反することばかり教えるキリスト教
なんかを信仰するのか?
つづく
アートマンとかブラフマンといわれるものが何のことなのか?
それらは宗教だけでなく、人生そのものを通して理解を深めなければならないのかも知れませんし
心や思考とか感情それらではないとは伝えられています。
林檎パクつき事件や天地創造を文字通りに受け取ってはいけませんよね。
聖書は科学を教えるものではなく、人に救いを教えるためにあるのですから。
突き詰めたらQ資料とダンマパダ
それだけで良いのかも知れません。
聖者シャンカラも文法の規則を暗記しても救いは得られないと言っていますし
膨大な経典を暗記しても実践無くしては意味がありませんから、人にとって特別な才能とは前世の賜物だともインドの経典は教えてくれます。
ゆっくりじっくり蟻にように着実に進むべきなのです。
88 :
神も仏も名無しさん:2008/11/06(木) 11:06:37 ID:oVOU0KoQ
---続き
『キリストは、永遠において神より生まれ出た神の御子であって、父なる神と一体になっておら
れるおかたです。そのかたが、今から二千年前に、肉体の姿をとって、ユダヤのベツレヘムに
降誕されました。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
「処女懐妊」及びマリアの「無原罪の御宿り」なる教義については、ここで強く否定させて頂く。
人間には、一人とて例外的な特別というものはなく、それぞれが個々の持つ神性の具現する度
合いが違うだけのこと。
キリスト教徒ご自慢の「処女懐妊」の奇跡なるものは、何もイエスに限った専売特許ではない
といっておきます。インドの聖英クリシュナ(紀元前3000年頃)はデバキという貞淑な処女から産
まれた。ゴータマにもマーヤー(マリアと名前が似てるという指摘もある)が白象に脇腹を牙で刺
し込まれる夢を見て懐妊、それまでは処女だったという伝承がある。ペルシャのゾロアスター(ゴ
ータマよりも170年ほど前)や王キュロスもそうであり、タイや中国にも処女出産の聖者がいる。
ゾロアスターはイエス同様、誕生以前から数々の奇跡現象によって予言者たちによって未来の
誕生が知られていた。エジプト神話のホルス神は処女神イシスから産まれたというのも同じこと・・。
これらが意味するものは何か?ちょっと感のイイ人ならばすぐに分ることです。つまり、これら
は後世の人間(信奉者)による神格化の意図で作られた逸話であり、処女性の持つ汚れ無き神
聖なイメージを結びつけたものに過ぎないということ。
89 :
神も仏も名無しさん:2008/11/06(木) 11:07:39 ID:oVOU0KoQ
『イエス・キリストは、罪のない清いかたでしたが、私たちの代わりとなって罪をその身に負い、
身代わりに十字架上で死んで、裁きを受けてくださったのです。神は、積もり積もった私たちの罪
咎を、すべてキリストに負わせ、キリストはそれを、私たちのために背負ってくださいました。
これをキリスト教では、「贖い」と呼んでいます。贖いとは"代価を払って買い戻す"という意味で、
キリストの命が、私たちを神のもとに回復させるための代価となったのです。』(仏教の「修行」キ
リスト教の「贖い」)
>
あのような非論理的で実に愚かな原罪思想(
>>83-84)を、いつイエスが認めたというのか?
キリスト教徒らは、人間は原罪を背負っているからキリストの贖いにすがる以外に救いはないと
いい、だからイエスが磔刑によって人類の罪の身代わりになったのだと教える。更にはなんと、
我々も全員イエスにひたすらすがる他には道がないとして、無力な人間は今でも原罪に毒されて
いるのだと主張している(十字架の磔刑で救ってくれたのではなかったのか?)。
そんなことは断じて絶対に有り得ない。イエスが永い転生の繰り返しの中で、自らの意志による
困難な霊性の歩みによって、己れの神性を完全なまでに具現するほど高い意識境に到達した非
常に稀なる人間であったことは賞賛に値いします。しかし、如何にイエスといえども、他人の罪を
代わりに背負ってあげるなどいうことは、決してできよう筈がないのです。
自己の行為による果報を自ら受けるという、原因と結果の因果律はこの宇宙の絶対法則。懺悔
(反省と祈り)することは良いけれども、それによって行為の結果を受けないで済むなどということ
にはない。
「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたも
のを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、
霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、
実を刈り取ることになるのです。」(ガラテア人への手紙6章7-9節)
90 :
神も仏も名無しさん:2008/11/06(木) 11:09:29 ID:oVOU0KoQ
『私たちは、善行によって救われるのではありません。善行によるなら、救われる者はひとりもいま
せん。善行は、救いの"条件"ではなく、むしろ"結果"なのです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
もう、完全にあべこべです・・。
キリスト教徒はイエスを見習おうとすることは恐れ多く、それすら誰にも許されていないものと考
える傾向がある。しかし、イエスはなんていったか?
「天の父が完全であるように(あなたがたも)完全でありなさい。」(マタイ伝5章48節) そして、
「わたしは父のもとにに行くのであるから、あなたがたはわたしがなしたことよりも更に大いなるこ
とをなすであろう。」(ヨハネ伝14章12節)といい、イエスは、私たちも彼のようになれることを、その
可能性を、自ら手本を示すことで教えたのです。
その私たちに潜在(内在)しているその可能性を「キリストの原理」、または「キリスト意識」と呼ぶ。
このことは原始キリスト教の時代ではよく知られていた。これがパウロの「汝らの中に在すキリスト
にして栄光の望みなり。」(コロサイ書1章27節)といわれた所以です。いずれ私たちもキリストのよ
うに完全なる段階に達することにより、「キリストの満足れるほどに至る。」(エペソ書4章13節)
までになるのです。
『あなたは、生まれたばかりの神の子(赤ん坊)なのです。あなたが成長することを、神は楽しみ
にしておられます。その成長は、あなただけの力によってできるものではありません。あなたの内
におられるキリストが、助けてくださるのです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
と、ちゃんと解かっているようですが・・ならば何故、イエスが教えもしない贖いなどというものにす
がろうとするのか?
つづく
91 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/06(木) 20:13:23 ID:DVFCZF1c
【多くの思考の共通は神、洗脳は悪魔】
神は人の思考の迷いなど当てにしてない。
人の手で造られたものへの喜びも無く、地上のものに心引かれること無く、苦悩も無く、平安で安ら
ぎに満ちている。真理を見る人には何ものも存在しない。
地上の栄華や権威、色あいや味わいといった五感、人間的な思考を得たのが人。それらに執着心あり、
得ようとする心を得たのが人。諸々の欲望に関する貪りがあるのが人。(悪しき者に従い得た)
《記憶になくてもよい》
しかし、人として、自分が食べる飲む得るという生命の維持や物を得て享楽・欲楽に生きる以外に、
「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに
宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い」(聖書)
「信仰心あり、学び修めた賢明な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ」
「貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ」(神々との対話)
目の前の人が飢え、苦しんでいるのを助けることは善いことだと思う心が人にはある。人として、
このようなことが妄執を乗り越え、つくられざる善なる存在を知ろうとしていることである。
特異な宗教的知識などに執着しても、悪しき者を乗り越えていない。人の手で造られた偶像に執
着しても悪しき者(妄執)を乗り越えていない。つくられざる者は、無意識にあり、人が知らぬ
間に善いこととして(善いとも意識しないくらいにして)、世の人に影響を与えている。
92 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/06(木) 20:14:30 ID:DVFCZF1c
「園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々、かれらの功
徳は昼夜に増大する。」(神々との対話)
「誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友を結ぶ。信仰心あり在家の生活を営む人〜もしも
この世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、さあ、〜バラモンども
に問え」(スッタニパータ)
「肉による主人に仕えなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕
として心から神の御旨を行い」(エペソ人への手紙)
富に仕えるよりも、人に誠実に仕え世に益がもたらされる、人に考えや意向を押し付けて従えさ
せるよりも、相手の考えや意向に仕えて交友を結ぶ、何ものも存在しないものから、肉欲ある人
間と人間の考えがある人をゆるされ造られたように、肉をゆるし仕え、他人の意向に仕える。
悟りの境地に達し、一切皆苦を悟った釈尊のように、好ましく愛すべく意に適う五欲の対象や物質へ
の執着は苦しみである。人はあくせくした日々や、それらから逃れて自然の中で開放感を味わうこと
だってある。快楽に耽溺している人より「美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い気持ちもよく起き
上がった」ような人のほうが健康的に見られる。
「修行僧は、瞑想を修め、心が解脱し、心の達成を望め、世の興亡盛衰をさとって、良き心あり、こ
だわることなく、そのとき、すぐれた益をもたらすものとなって」(神々との対話)
93 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/06(木) 20:16:28 ID:DVFCZF1c
【神は人の善悪感情関係無い。現象を世にもたらす】
栄華や権威・富の拡大に執着心ある人、一方「あくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮ら
している」(神々との対話)「一日の苦労は、その日一日だけで十分」(イエス)
悪魔に従って世の興亡盛衰をもたらす。世の人々に、興亡盛衰をもたらさない現象を与えようと
した。
《人を乗り越え霊の世界に生まれる道》
「世の中を泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ〜この身は泡沫のごとしと見よ。
この身はかげろうのごとしと見よ」(感興のことば)
「あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」「今からは妻のある者は
ないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持た
ないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この
世の有様は過ぎ去るからである」(聖書)
絶対善とともに在る時は、人間の思考から生まれた特異な教義はない。洗脳されることもない。
《人格神・釈尊》
物質文明社会は「左」「狂った世」と手厳しい。世俗的なことから離れ、「地上のものに心引かれ
ず、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを捨て、衣食があれば足れりと思うくらいにして、離欲に努め、
苦悩の無い安らいだ世界に生まれられるようになれ」
《イエス》
神に義なら、悪しき者(妄執)を乗り越え神通力あり。地上の欲楽を厭う。冷酷・無慈悲など無い。
神には罪しかないと認め、自分を誇らず、愛という現象を信仰により世にもたらそうとした。神(平
安)とひとつになり、悪しき者を非常に厭う存在となった者が、聖霊による救いを世にもたらそうと
した。釈尊も慈悲をこの世では崇高と説き、妄執を厭い、邪まな見解を捨て去れと説いた。
94 :
神も仏も名無しさん:2008/11/06(木) 23:19:41 ID:gZA1wPrF
人の心を束縛するもので、何が一番であろうか?
嵐で家屋を失っても、地震で自分の愛する家族を失っても、過失で老人が高速で運転を誤り、
後続の何十台もの車が追突事故が発生し、その事故で、最愛の人を失っても、
これらの原因だと、それほど、失ったこと及びその原因に対して執着しないのではないだろうか?
一方契約又は、身近な法律を破られることにより、被害を受けとき、相手に対して、何時までもうらむだろうと思う。
他人が自分の物を盗んでも、その行為は、縁起なのである。その人の五蘊は、空性なのである。
自分の五蘊も空性なのである。そこには真実には、何も生じていないのである。
悪人はおらず、悪なる行為は無く、善人はおらず、善なる行為は無いのである。
善も無く、悪も無いのである。
縁起してるものは空性であるとは、この意味なのである。人間などいないのである。
この真実の教えは、実に人を苦しみから救いとる。一切の苦悩から人を救いとる。
95 :
神も仏も名無しさん:2008/11/06(木) 23:39:33 ID:gZA1wPrF
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
真実を知った今、さ、みなさん浄土への旅をしましょう!
小乗非仏の根拠は明確だ。
史実により、釈尊の戒律作りは
問題が起きてから対策を始めるという
泥縄そのものであり、
なくて済むならないほうがいいという
基本方針を通しているからだ。
他の教団の状況も知っているのだから
それらの問題が起きることは
とうぜん予測の範囲内であったろうが、
あえてこういった方針で行動することで
範を示していたわけだ。
で、当時の同地方の他の宗教や慣習との対比において、
在世およびそれ以降の仏教教団の選択内容から見て、
小乗の側にどんな理があるのか? さあ、何でもどうぞ?
97 :
神も仏も名無しさん:2008/11/07(金) 06:49:00 ID:fK868WNN
>>96 >
小乗と呼ばれても仕方ないグループが在ったことは確かですが、
あなたはゴータマそのものも小乗呼ばわりするのですか?
98 :
神も仏も名無しさん:2008/11/07(金) 12:00:59 ID:fK868WNN
---続き
イエスの十字架による磔刑(罪を背負ってくれたの)で人類は救われた、などいうことはない。
ひたすら救いを嘆願する贖いの信仰などは、イエスご自身は推奨していない。「わたしに向かっ
て主よ主よ」といってもダメだ、といっているのに、「イエス様、イエス様〜」と嘆願したって、それ
は同じこと。
懺悔と祈りは自分の心の浄化作用には効果はあるが、しかし、イエスに対する過剰なまでの
崇拝行為を繰り返したところで、それをイエスが喜ばれることはないだろう。イエスならばきっと、
そんな暇があったら道端で倒れて苦しんでいる人々に手を差し伸べてきなさい。などと、多分そ
ういうことをいうに違いないからだ。
キリスト教はかつて大量殺戮を行ってきた血に塗られた歴史を持つ。キリスト教の(教会によっ
て勝手に作られた)教義に反するものは凡て異端であり、神に対する冒涜であるとみなしてきた。
そして相手をサタンの惑わしであるとして罵って、人の命さえも平気で奪ってきた。中世における
異端尋問、いわゆる魔女狩りでは600万人以上の人間を生焼きにし、12世紀には十字軍を起こ
してパレスチナを奪還すべく、何十万というイスラム教徒を虐殺した。コペルニクスとガリレオに対
する迫害の話もまたよく知られているところ。
これらの出来事は昔のものであり、ごく一部の異常な司祭らによるものと思いたいところだが、
しかし、残念ながらキリスト教としての基本的性質と考え方は現代でも殆ど進歩がない。
対する仏教徒の場合には、その根底にはインド思想のアヒンサー(不殺生非暴力の実践)の教
えが息づいており、破壊行為は必ず自己を破滅に導くものであるとして理解している。無害の実
践(破壊行為をしない)は何にも増して最重要であって、これは仏教についての理解や修行の進
歩の云々、以前に最大限に必要なものだとしている。
99 :
神も仏も名無しさん:2008/11/07(金) 12:02:48 ID:fK868WNN
キリスト教徒たちは、イエスが異なった思想を持つ者にも寛容であり、受容的で広大な愛を説い
た人であったことをすっかり忘れている。キリスト教の伝統的思想から外れる者は皆、地獄に落ち
る運命にあるとする傾向に関して、次の言葉を贈らせてもらう。
「自分が裁かれないために、人を裁くのを止めなさい。」(マタイ伝7章1節) 「他の人を裁くその
事柄において、あなたは自らを罪に定めているからです。」(ローマ人への手紙2章1節) 「たとえ
わたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい
鐘やシンパルと同じである。たとえ山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わた
しは無に等しい。」(コリント人への手紙13章1〜2節) 「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに
愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ
ネ伝13章34節)
「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、誰一人、父のもとに来るこ
とはありません」(ヨハネ伝14章6節) これをキリスト教徒は誤解し、キリスト教のみが唯一の真理
であって、これに拠らない限りは天国に行くことはできないとした。しかし、私たちは以下の言葉を
見出すことができる。
「キリストにあってすべての人が生かされるのである。」(コリント人への第一の手紙15章22節)
「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。」(ローマ人への手紙8章35節) 「高いも
のも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたち主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたし
たちを引き離すことはできないのである。」(ローマ人への手紙8章39節) 「わたしの父の家には、
住まいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。」(ヨハネ伝14章2節)
「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリ
スト・イエスにあって一つだからである。」(ガラテア人への手紙3章28節)
100 :
神も仏も名無しさん:2008/11/07(金) 12:05:39 ID:fK868WNN
ローマン・カトリックの金銀財宝、あの煌びやかな教会装飾は一体、何なのか?そんなところに莫
大な金銭を使い、聖職者らに宮殿のような教会に住めなどとイエスはいったのか?イエスの人生そ
のものが貧しく虐げられた人々の中に同じく一緒に住んで、共に行動していたことを思い起こすなら
ば有得ないことだ。そんな教会の中で神に対する賛美歌を歌ったところで、イエスが喜ぶとでも思っ
ているのか?
スレタイから外れて・・話が拡大してきたので、これで終わりにします。
『仏教の「修行」キリスト教の「贖い」』に対して思うところは、取り合えず以上です。
この話の投稿
>>37 >>39-45 >>58-60 >>82-84 >>88-90 >>98-99
イエスの人を裁くなとは、私たちの体は細胞やDNAひとつ取っても神の力、法則で行われているんだよね
他人を見るにしても何にしても、神から与えられた視力や肉体で何かをおこなっていることになるから、
生きてるからこそ日差しや風を感じて、気持ちが落ち込んでいても立ち直れるわけだし
それくらい我々は本来無力なんだから、人を裁くのなんてもってのほかみたいな感じだと思っている。
ブラフマンは偉大だ。
ハレークリシュナ、ハレーラーマ。
104 :
神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 00:08:36 ID:x1EPflHm
>>103 >
教会によるキリスト教としての勝手な教義の編纂(制作)というのが先にあり、
これが絶対視され、そこから外れたものは凡て排除してきたわけです。
聖書の正典もそのような視点で選抜された。
これは何もキリスト教に限ったことではありませんが、
自分たちにとって都合の悪いもの、異なった思想や新情報/新発見には目を塞ぐ傾向がある。
見ない聞かない・・。
このような、
「疑ってはならない」という指導方針や
異なった思想に対する強制的弾圧の姿勢というのは全て、
自分自身の弱さの現れ以外の何ものでもないということでしょう。
本当に自信が在るならば、むしろその逆なのであって、
「大いに疑って調べてみなさい」というべきなのです。
そうすることで教えの正当性がより明確化することになるのだから。
この点は新しいカルト宗教も酷いものです。
106 :
神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 00:29:50 ID:x1EPflHm
---------------------------------------------
「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、誰一人、父のもとに来るこ
とはありません」(ヨハネ伝14章6節)
「スバッダよ。わたくしは二十九才で、何かしら善を求めて出家した。スバッダよ。わたしは出家し
てから五十年余となった。正理と法の領域のみを歩んで来た。これ以外には『道の人』なる
ものも存在しない。第二の『道の人』なるものも存在しない。第三の『道の人』なるものも存在しない。
第四の『道の人』なるものも存在しない。」(大パリニッバーナ経/スバッダの帰依)
---------------------------------------------
「私はあなたの先生ではない。私はあなたと同じ泉から知恵を授かった存在であり、あなたと私は
対等にして同一の存在である。」(トマス福音書)
「アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか? わたくしは内外の区別なしに(こ
とごとく)法を説いた。完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳[にぎりこぶし]は、
存在しない。『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくし
に頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向
上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまは
わたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語る
であろうか。」(大パリニッバーナ経/旅に病む――ベールヴァ村にて)
---------------------------------------------
107 :
神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 09:47:17 ID:Ka1Cqq/K
縁起してるものに執着してはならない、という。
身近なものにそれを適用するのは、容易である。
しかし、身近なものも、実は大きなもの、遠いものと縁起してるのである。
政治経済である。政治の中でも、医学、教育であるが、これ等の教えも縁起してるものゆえ、
執着してはならないのであるが、特に医学に対する執着は、身近なものであろう。
医学関係の人は自分たちの存在を誇示するかのように、盛んに医学上の知識をばら撒いている。
これらの存在は、修業してる者に襲い掛かる怪物のようなものに違いない。
原始経典に、修行僧に、悪魔が怪物の姿をとって、修行僧を恐れさせようとするシーンがでてくる。
これらの脅迫に対峙した修行僧のように、現代の我々修行僧は、医学や政治上の脅迫、強要に、
打ち勝たなければならないのではないだろうか?
「全てを超越せよ」とは原始経典の仏教である。
縁起してる怪物に支配されていることに気づかないでいてはならない、と思う。
>>107 君は執着してるな
適切な関心を払うことと執着を持つ事は両立しないし、
人には社会的な相互の関わりと責任が必ずある。
灰身なれば即身ではありえず
滅私なれば成仏の義もなし
たまにでいいからそういった真実も考えたほうが?
109 :
神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 11:44:59 ID:x1EPflHm
>>107 執着なしに医学の問題に対峙したり、病気治療にあたることはできる筈です。
ゴータマは、肉体は無常であり実体(永久不滅の存在)ではないから、
「病人を放置していなさい」とか・・
苦しむ病人を前にしていながら
「病気というものはない」と説いたりはしないでしょう。
医学や政治上の問題を自身に関わることへの「脅迫」とみなし、
それに故意に目を背けようという意識が一つの執着の姿勢となります。
賢者とは、
執着なしに必要な事柄のみを淡々とこなす人をいう。
110 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/08(土) 11:52:44 ID:Bb3zHQJM
「世の中を泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ〜この身は泡沫のごとしと見よ。
この身はかげろうのごとしと見よ」(感興のことば)
「あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」「今からは妻のある者は
ないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持た
ないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この
世の有様は過ぎ去るからである」(聖書)
唯一の父なる神のもとでは、このような今のような生存状態ではなかった。地上のものに心引か
れず平安と安らぎの境地のままであった。
しかし、地上の栄華や権威を欲する罪を犯した。「栄華や権威を貪り拡大し他を打ち滅ぼしてし
まえ」という「野望の妄執」の悪魔に従った。
そして人間の個性・好み・性分・考え・感情など諸々のものを得た。
「世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐れみ
ながら、われは眠る」(悪魔との対話)
「人をさばくな〜人を罪に定めるな〜ゆるしてやれ」(イエス)
父により人間は決して善人と誇れないように造られた。「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人
にも、なさけ深いからである」(イエス)人のあやまちをゆるしてやらないと、父を否定、知ら
ない者となる。
>>103 正統派キリスト教は人を悪魔のみに仕立て上げることになる。神と言って貪欲に生きると
神から離れる。
111 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/08(土) 11:56:05 ID:Bb3zHQJM
「他人の過失を探し求め、つねに他人を見下して思う人は、卑しい性質が増大する。かれは実に真
理から遠く隔たっている」(感興のことば)
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」(イエス)
様々な人がこの世に生まれ、それぞれの考えや意思に従って生きている。人として世の中で生
き、欲を捨て去ろうと努めない限りは、「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなか
ったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」としないと、真理から
離れ、悩みが増す。父は欲ある人間を完全に造ったわけではない。自分に気をつけ、他人のあ
やまちをゆるすなら、他人への悩みも少ない。そういった人が世の中に増えれば、他人から少
々のあやまちをゆるしてもらえる。
「平安の境地に達して〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜上
に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高
な境地と呼ぶ」(ブッダのことば)
「敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ〜あなたがたの父なる神が慈
悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」(イエス)
「奉仕を楽しむために〜生活を送っている人々がいる〜この二つの極端説を知って、そこにとどこ
おっていなかった賢者たちは、それで思い上がることはない」(感興のことば)
「思うべき限度を越えて思いあがることなく」(聖書)
冷酷・無慈悲・残忍は悪魔(妄執)からで、この世でどのような状態であろうと、人によくし
てやることは善いことと思うことは、妄執を乗り越えた神の領域に近い。思考が慈悲に結びつ
けば、その人の心の内は妄執と結びついていない。
112 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/08(土) 11:57:39 ID:Bb3zHQJM
【世界の終極・太陽も月も無い】
「欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ」「ああ、この世は滅びる。ああ、この
世は消滅する」(悪魔との対話)
「修行僧は、瞑想を修め、心が解脱し、心の達成を望め、世の興亡盛衰をさとって、良き心あり、
こだわることなく、そのとき、すぐれた益をもたらすものとなって」
「世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう。
かれは、悪を静めて、世界の終極を知り、この世をもかの世をも望まない」(神々との対話)
「わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終わりの日によみがえらせることで
ある。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。
そして、わたしはその人々を終わりの日によみがえらせるであろう」(イエス)
諸々の欲望に関する貪りを取り除いて、心の平穏と安らぎを楽しむ修行僧。
地上のものに心引かれることなく、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを捨て去ることがすぐには
難しいので、信仰対象となったイエス。「欲に慣れ、のろいの子となっている。彼らは正しい道
からはずれて迷いに陥り〜ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み」
地上のものに心引かれることなく、神の平安と安らぎに満ちた不死の世界。釈尊もイエスも、敵は
栄華と権威を貪る悪魔で、肉欲に生きる人々は、最後には大苦難の後、滅ぼされる。
五欲の対象の貪りや自分の考えが正しいと言い張る(六つ)の欲望、富や栄華の貪り拡大などを離
れるために信仰対象となった。
「思考の及ばない静かな境地は〜太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を」
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」「天体は焼けくずれ」
113 :
神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 15:33:47 ID:x1EPflHm
>>107 >現代の我々修行僧は、医学や政治上の脅迫、強要に、
>打ち勝たなければならないのではないだろうか?
>
まぁ・・気持ちは全く分らないでもない。
私は僧じゃないが、まるで出家僧のようだった時期もあったw
TVも見ないしラジオも聴かない。
新聞も読まないし、流行の曲一つ聴かない。
肉食を絶って菜食主義で食し、すべての時間を瞑想やら霊性の行に当てていた。
Winkが絶頂期だった数年もの間、それすら全く知らなかったんだな(笑)
自分ひとりで過ごしている間は何も問題はないが、
他の人間と接するときに、違和感が生じて関係がギクシャクしてくる。
「この人は普通の人間じゃない」と見られることになるw
それはやはり、山林なり河川なりに行って暮らすのが適してる。
人によっては確かに、そういう時期が必要な生涯も1度は来るものかもしれない。
114 :
神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 16:10:42 ID:Ka1Cqq/K
>>113 無相と言う真実を認め、それに少しでも邁進しようとする者を修行僧と名づけました、勝手に。
ですからここにおられる人達のほとんどが修行僧であるといえると思うのです。
僧院に隠遁してる人達を指しているのではありません。
世俗の生活をしていますと、今頃なら、年金の事、株安の事、それから、
医療の問題、です。
医療の問題では、やれ定期健診だとか、癌だとか、煙草の害だとか、そのような話で溢れています。
これらの心配事は、無相に近づくために、12縁起の修行をするものには、何の力も有ってはならないものです。
病気を恐れて、それを避けるために、行為するなら、無明に従うものでしょう?
年金の額を恐れて行為するなら、これも無明に従うものです。
このような意味で、医学や政治上の脅迫と言ったのです。
115 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/08(土) 18:14:45 ID:Bb3zHQJM
不死の境地、平安の境地を知り、それがきっかけで仏典や聖書を読んだが、
「人への愛」「慈悲がこの世では崇高として邪まな見解を捨てよ」というくらいの信仰で、妄執に従
属(悪しき者)に従い生まれた敵意や憎しみ、怨み、怒りもある人間の境地のまま生きるのではなく、
平和で幸せに生きることだと思っていた。
「熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富ん
でいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが」(聖書)
今の世の中は、昔と違い、様々な物質的な喜びができ幸せだ、と思って暮らしていた時、
人格神が現れて、「お前は右か、左か」と問われ、私は「右」と答えてしまった。
「地上のものに心引かれるな」「ぬるいのは嫌いだ」と文明的な暮らしの喜びをことごとく否
定されるのである。「浮世」とも。物質文明の楽しみを全て否定されるので、何もできなくな
ってしまう。否定されないのは自然を楽しむくらいである。言うことを聞かないと「左だ」と。
「地で生き続ける」「つらい思いで生きる」「苦労をする」「老いと死を受け朽ちる」と。
輪廻転生する人は「良識」的な知識や「愛」、霊からすれば「地で呪われている」と。
霊の世界に生まれられるようになるには、世俗的なことから離れ、離欲に努めないといけないという
のである。
人の世は人次第、霊の世界に生まれようとするのは、その人の離欲の努力次第。
信じることを大切にするのは、悪を滅ぼす戒めとして大切なこと。悪業をつくらないようにするため。
116 :
神も仏も名無しさん:2008/11/08(土) 20:26:23 ID:N/31ZnzQ
>115
地で生き続ける、つらい思いで生きる、苦労をする、老いと死を受け朽ちる。
全てが,素晴らしい事。恐れることは、ひとつもありませんよ。
117 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/08(土) 21:40:17 ID:Bb3zHQJM
「何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、善悪を
なすによしなく、欲求を捨て去った人、―――かれこそ実に最上の人である。
〜人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれ
は快楽を求めないからである」(真理のことば)
世俗的なことから離れ、離欲に努めて二度とこの世に生を受けないように努める人々は、宗教的
行事をも捨て去る。
世間にいて世俗的なことから離れられない人は、神仏を信じること(宗教)が人格神には大事な
ことらしい。信仰を戒めとして、慎ましく暮らすことは善いこと、正しく暮らすことは善いこと
という人をつくろうとする。信仰対象で優劣を争うのは人だけで、人格神は寛容。
人というものは妄執に導かれ貪欲で、慎ましい暮らしを善いことと思えぬ存在になっていると。また、
妄執に導かれ悪い事を行いやすいと。人格神は、今のこの世を喜んでおらず、「貪欲で狂った世の中
だ」と。信仰によりその貪欲の炎を消すことができ、信仰している人のほうがまともだと。
イエスが言った、「もしあなたがたを導く者があなたがたに、(見よ、天国は天にある)と言うなら、天の鳥があなたがたよりも先に王国へ来るであろう。
彼らがあなたがたに、(それは海にある)と言うならば、魚があなたがたよりも先に王国へ来るであろう。
そうではなくて、王国はあなたがたの直中にある。
そして、それはあなたがたの外にある。
あなたがたがあなたがた自身を知るときに、そのときにあなたがたは知られるであろう。
そして、あなたがたは知るであろう、あなたがたが生ける父の子らであることを。
しかし、あなたがたがあなた自身を知らないなら、あなたがたは貧困にあり、そしてあなたがたは貧困である」。
<ナグハマディ文書、トマスによる福音書から>
119 :
神も仏も名無しさん:2008/11/09(日) 22:26:33 ID:VqB61Ndb
>>110 >「世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐れみ
ながら、われは眠る」(悪魔との対話)
世の何処にも害を見ないのなら、どうして、生きとし生けるものを憐れむことがあるのだろうか?
夜空を見上げたなら、それだけでも真理は学べるのかも知れません。
星々はアートマン、星座は輪廻による人々の出会い、月は神、
サマーディで日が上るなら自我はきえて全ては等しくなる。
青空はブラフマン
流れる雲は刻一刻と変化してやまない人生の姿を現しているようです。
121 :
神も仏も名無しさん:2008/11/09(日) 22:47:49 ID:VqB61Ndb
>>119続き
害を見るとは、悪を見ると言う意味であろう?悪を見ないのならどうして、
悪から人を善に移すと言う意味の、憐れみの感情を持つことが有るのだろうか?
悪とは苦しみであり、その苦しむ姿に同情して、善と言う幸せの状態に、引き入れる事になる、
感情を持つことになるのだろうか?
122 :
神も仏も名無しさん:2008/11/10(月) 18:59:10 ID:Q5SJ1jD1
>>119 害を見る=人間界 害を見ない=彼岸 他に害を見ることにより、他に対するこだわり悩みが生ずる。
争いも生じる。
他に害を見ないことで、自身も安らぎ、争いも起きない。
感情的にならず、理法に適った人々が増せば、他との争いを避け平安となる=布教
人間界の煩悩の無い幸せな平安な境地を悟って、煩悩が苦しみの原因であるとして理法を
説いた。煩悩の無い幸せな平安の境地がとても素晴らしいものであったので、それを人々
に伝えようとした。素晴らしいものは誰かに教えたくなるという動機。
また、そこに生まれたいなら、葬儀など簡単な方法で生まれることはできず、修行により苦悩の無い、
安らぎを求めること。静けさを目指し、永い間修養すること。静けさを目指し、妄執を断じて安らぎ
に至るから安らぎに至るという理法。自己の断滅の妄執(命を絶つ)では得られないものと説く。
仏教は現代の様々な問題を解決して、人を明らかな知恵に導く。
123 :
神も仏も名無しさん:2008/11/10(月) 19:33:06 ID:rrvNl+Un
>>117 理屈こねてないで、しっかり禅定に励んではどうか。
124 :
神も仏も名無しさん:2008/11/10(月) 20:27:54 ID:Q5SJ1jD1
釈迦は、煩悩の無いとても素晴らしい境地を悟ったので、諸行無常・一切皆苦・諸法非我を説き、欲界の王パーピマンに
苛んでいる世の中を静めるため法を説いた。
自殺・子や妻など様々な人への暴力・格差・貧困・地球温暖化・飢餓・過労死・離婚・・・
修行僧は自分をよくととのえて自分の主となる
生きとし生けるものを憐れむとは、愛情などの他に対する執着でなく、執着より我がものという執着を離れること、
子ある者は子について憂い、「我が妻は意に適っている」でなく、「我が心はよくととのえられている」として、自分を
よくととのえた人が世の中を正しく歩む。「あなたの心はよく解脱しています。さあ、世の中を歩め」と。
子や妻に対して如何なる悪をも無い、我が意に適っているではなく、憂いと見ること。捨て去るのではなく、慈しみのこ
ころづかいを崇高として、その人の幸福を思ってあげられる人となること。
釈迦を尊敬し、真理の言葉を学ぶことで、誤った見解を正そうとした。
125 :
神も仏も名無しさん:2008/11/10(月) 20:54:19 ID:rVIgGQl8
>>122 世の何処にも、害を見ない、とは、世の何処にも、自分を害するものが無い事を
知っている、又は、現実に自分に敵対するものがないことを知っている、と言う意味か?
それなら解る。そのことと、真理真実を知らないので苦しむ人がいるということを知っている事とは別である。
そこで、苦しむ人が、苦しまないように願う心が生じると言う理解で良いか?
一切は縁起してるもので、実体はないのであるから、自分を苦しめるものはないし、他人が何かに苦しめられると言うことも無い
と言うことをも知っている。この一切は空、無相、一相と言う真理真実は、一切の縁起してる怪物を破砕するのである。
126 :
神も仏も名無しさん:2008/11/10(月) 22:42:03 ID:rVIgGQl8
縁起してるものを実体あるもののように恐れたり、反対に好ましく思ったりする
。執着と言うと、好ましいものを対象にしてると解釈する傾向に有るが、
反対に、恐ろしいと恐怖するものも、実に執着しているのである。
恐ろしいものも、好ましいものも、共に縁起してるだけの、幻なのだ。
このことを知って、恐れたり、捕まえようとしてはならないのである。
恐れるべきものも、捕まえておくべきものも、過去にも無かったし、これからにも無いのである。
現在も無いのである。
127 :
神も仏も名無しさん:2008/11/10(月) 22:48:48 ID:Q5SJ1jD1
断滅の妄執も生存のための妄執もなくなってしまった。もはや自己が自身ではない。敵対するそのものも無くなってしまった。
愛も無い。
しかし、在家の生活を営む生存者たちが、妄執に従い生まれるのを見ては、苦悩なき平安の境地からして、煩悩によって苦悩
を受けるのはよいとは思われない。「苦悩が大きな恐怖であるとわたしは説く」
一切が苦悩なき幸せの境地に至ったブッダは、非我ならざる者に対しても、煩悩による苦しみを厭う存在となった。それで法
を説いた。
一切の生きとし生ける者は幸福を求めて生きているとして、釈迦は幸福を求めて生存の輪廻する人は別にかまわないが、暴力
とか、他人を欺いたり、軽んじて、怒りの念を抱いて互いに悩ますこと、他をならかしめて自らの利を欲すること、食乞う人
に分け与えないことなど、人が互いに苦悩を与え合わないように、苦悩を取り除くことを説いている。
それだけ、一切が苦悩なき幸せの境地は大きく、諸々の教えを説く動機となった。しかし、もう人として二度と生まれること
がない境地に至った釈迦は、一切の事物は我ならざる境地でもあり、見知らぬ行為もあった。
128 :
神も仏も名無しさん:2008/11/11(火) 09:18:00 ID:SavFzdFH
縁起=変化。人が執着する、好ましいもの、恐れるべきものは、縁起してるもので実体がない。
一切は縁起してるものである。一切は実体がない。それらに執着するのは、
虚妄を追いかけるもので、決して獲得する事が出来ないものである。故に、苦しみである。
一切皆苦である。故に、恐れるな!求めるな!恐れないこと、求めて行為しないこと、
これがニルバーナである。何も心に生じないこと、これがニルバーナである。
129 :
神も仏も名無しさん:2008/11/11(火) 19:58:16 ID:SavFzdFH
神となった人は、次に、縁起と言う法則を使用して、幻を創造する。
幻とは、五蘊である。五蘊を創造する目的は、その必要があるからである。
教えを必要としてる人に対して、その人の事象に対して、異なる事象を創造して、
その人を、その事象に対する執着から、解脱させるためである。
この目的のために、モーゼは天地創造の説話を創造したのである。創造説に
人を執着させるためではなく、反対に、神に目を向けさせるためである。
神とは、創造されたものではなく、無始無終、不生不滅、の実在であり、これこそ、
仏教の、一相無相空相、である。
色即是空とは、色と表現するに於いて、それは一色:無相一相なものではなく、縁起関係にある複数の色形
を言うものであるから、どちらも実体としてないものと判断しなければならないもので、この判断の必然性を、色即是空
というのである。
空即是色とは、複数の色形が無いなら、縁起関係と言うものをそもそも識別する機会がないので有るが、
空と言う判断は、この縁起関係に認識に他ならないと言う意味である。
最終的には、空と言う判断と縁起関係と言う判断は、言葉上、縁起関係にあると言わなければならない。
そこで、更に、空と言うものなく、縁起関係と言うものも無い、というのが究極の判断である。
これで良いかな?
130 :
神も仏も名無しさん:2008/11/13(木) 19:57:30 ID:8/2IewBt
チョット乱暴な意見だったかな。w<<129
大海から離れた水滴のままでは、干乾びたり苦難に出会います。
本来の輝きを取り戻すには大海に戻る努力をするべきなのです。
そりゃ、ロケットとかない時代に天国は、空の上のどこかにあるとか言われたら、そっち信じるだろうね。
実はトマス福音の地上に天の国は広がっているのだのほうが本当だっただけで、物質も粒子より小さいものは霊的なものだとわかってきた。
キリスト教が公認されたときは、誰も実際のイエスのことを知ってる人なんかいなかったもんなあ
でトマス福音書が外典とされて削除されたわけで、、
だが、今あるキリスト教を仏教やヒンズー教に近付けようとするのは無益だ。
興味がある人だけが仏教やヒンズー教をやればいいだけのことで
全ては悲しみである。全ては移ろい行く。全ては、はかない諸性質によって出来た
一時的なからくり仕掛けに過ぎない
134 :
Sure宝珠愚者( ´Д`):2008/11/16(日) 01:09:17 ID:MF+exR1H
>>132 >キリスト教が公認されたときは、誰も実際のイエスのことを知ってる人なんかいなかったもんなあ
>でトマス福音書が外典とされて削除されたわけで、、
>だが、今あるキリスト教を仏教やヒンズー教に近付けようとするのは無益だ。
>興味がある人だけが仏教やヒンズー教をやればいいだけのことで
>
基本的には賛成!
ただ現在、伝わっているキリスト教から
イエスの低評価へと繋がっている現実については、正直いってもの悲しいよね。
現行キリスト教がイエスの教えだなんてことはない。
寧ろ、逆行してる内容だよね!
>>134 トマス福音書は外典とか言われてますけど、グノーシスは異端とされ迫害のなかにいたわけで
発見されたエジプトは原始キリスト教の生活そのものが割と厳格だったらしいですからね。
むしろ正典とされたほうが政治や権力の道具とされ改竄された可能性があるように感じますね。
ただこれまで世俗の人に合わせて進化してきた現行キリスト教を、もともとの厳格なイエスの教えに帰す必要は無いのかも知れないです。
それは大乗仏教や創価学会も似たようなものなのかも知れないですね。
136 :
神も仏も名無しさん:2008/11/17(月) 22:05:16 ID:pyGSMYIF
無我と言うと、自分と言うものに実体がない、と言う意味である、と考え勝ちかもしれないが、
そのように考えがちであるが、自分を含め、一切が無我であり、実体がないのである。
137 :
ヨワネハク:2008/11/18(火) 09:16:13 ID:j/cBu9+p
他人への忠告を以て、自らを省みよ。
あなたが他人に忠告する言葉は、あなた自身に向けられたものである。
138 :
神も仏も名無しさん:2008/11/18(火) 10:29:29 ID:9ZxqsyrU
イエスの「教え」には、「良いこと」など唯の一つもない。すべて「自分(イエス)
の気に入らない者、自分を信じない者に対するあくなき憎悪・非難・排斥とセ
ットになっている。聖書を「初めから有難がらずに」、現実と照合しながら
いささかでも批判的に読めば、自明のこと。
キリシタン、クリスチャンの悪逆非道は、このイエスの「教え」を信じたこと
の「必然的な結果」である。
クリスチャンがイエスを信じたのは、ヨハネ福音書のオカルト性、黙示録の狂気、
パウロの「罪意識」の植え付けによる「脅迫」と「贖罪」「救い」という「甘言」
を宣教手段として利用した「心理操作(マインドコントロール)」によるもの
である。
イエスは、その狂信と統合失調症の症状としての誇大妄想故に、「自分が旧約
聖書に書かれた預言者、さらには神になる」という野望を抱いた。「イエスが
神」というのは、すべて彼の「自己申告」。勿論、根拠は皆無である。
キリスト教とは、上記の各手段による、イエスの統合失調症の世界的一大集団
感染といえる。精神病は感染する(感応精神病)。
イエスにあるのは、「我のみ良しの思い上がった独善性」「あるがままの人間
そのものに対する洞察と愛の欠如並びに人間差別」「自分の気に入らない者に
対する非難と排除」「論理矛盾」「創造(あるがままの自然と人間)に対する
畏敬の欠如」のみである。
イエスが「神の冒涜罪」という己の大罪故に処刑されたのは、当然のことで
ある。彼には、「人間を救う」などという意図は、毛頭無かった。彼の唯一の
関心は、「自分を信じさせる」という彼の「エゴ」のみであった。彼の病気の
症状としての「現状不満」故に、「あるがままの現実」に存在する価値を理解
することができなかったのである。
端的には、「愛の欠如」である。
139 :
神も仏も名無しさん:2008/11/18(火) 11:21:45 ID:g44lV8ns
>>137 その通りw。自分に言い聞かせているのでもあります。
しかし、この間違いは誰にでも起こり得るのではないでしょうか?
というのは、大乗経典の涅槃経には、この教えを正しく用いないなら
最悪になる、といっているからです。又原始経典でも、用い方を誤るなら、
自分自身を切ることになると言っているでしょう?
自分の我を殺して、他の我を殺さないなら、それは自分の我を殺している事にならないのではないでしょうか?
自分の我を殺してないのに、殺していると思っていることになるんです。
それでは決して無我の修行は進展しないでしょう。
140 :
神も仏も名無しさん:2008/11/18(火) 11:25:34 ID:N50ZzfTO
イエスキリストは死後2000年も地上人類のため、
さらに地上から去った人類のためにも、活動をしておられる。
>>138 バカは氏ね。
141 :
神も仏も名無しさん:2008/11/18(火) 11:33:36 ID:N50ZzfTO
>>138 は、ウンコだろ。
批判的内容ばかり知識を吸収して、肝心の真理に関しては無知。
神ってのは、全ての第一原因なんだよ。ぼけ。
つまり、原因が無けりゃこの世はないの。お前も神がいなけりゃ、
この世にいないんだよ。魂の生みの親が必要だろ。何でも原因があるんだよ。
そして神のみ永遠に存在するもの。
イエスは人を神の子そして、神を父と表現した。真理を悟っていたから
このような表現ができたのであって。キリストが悟りの程度、神の理解度も
一番なの。人間として、未熟な人間とかかわりあっていれば、たまには
暴言も出るだろうが、そんなもんよりも、イエスを通じて現れた神のみ
がすばらしいのであって。その神を一番、顕現させることができたのが
イエスだった。少なくとも150年前の時点では。
ヒマラヤ聖者の一部は、当時のイエスを越えているという可能性もあるが。
仏陀もキリストも同列に考えられているが、スピリチュアルの総指揮は
イエスだし、その地上での霊力、神の顕現の程度を見ても、
キリストが最高だったと言う結論なの。こんなもんは勉強していけば、
わかること。
142 :
神も仏も名無しさん:2008/11/18(火) 17:37:16 ID:ncqY2vAS
>>141 すべて、現実上の根拠は皆無な、「人間」の妄想。
神とは、「人間には計り知れない存在」、従って「人間が語ることもできず、
また語ってはならないもの」。
神が人間を創ったとしたら、それは「人間として自立的に生きてゆける人間」。
いつまでも神に依存するような、「不完全な人間」「知恵遅れの人間」では
ない。
イエスは、ナザレ村のしがない大工の子倅で、まともな教育も人生経験もない、
30歳そこそこの気の狂った若者。そんなイエスに一体何が期待できる?常識
でちょっと考えれば自明のこと。
「イエスが神」というのは、あくまで彼の誇大妄想からの「自称」「自己申告」
に過ぎない。根拠は「皆無」である。
143 :
神も仏も名無しさん:2008/11/18(火) 18:17:01 ID:ScES9Imr
仏陀さんは他人に罵られても、涼しい顔してそうな印象
145 :
ヨワネハク:2008/11/19(水) 08:45:30 ID:boEgic4y
「スピリチュアルの総指揮はイエス」
シルバーバーチ曰く、「イエスは何人もいる」が、キリストは一人。
すなわち、「スピリチュアルの総指揮者はキリスト」なのです。
悪人の輪廻の先が食卓にならぶ豚や牛なのかもしれない
言葉より風は冷たい
2ちゃんねるは幻想、共同幻想、現実はもっと罪に満ちている。
人は現在のポジションより上から目線だから、愚かにも罪をおかす。
風に答えを聞け、雨の冷たさに問え
日差しのなかに疑問が消えてゆく
150 :
神も仏も名無しさん:2008/11/21(金) 23:31:36 ID:lTrS6yTp
神が愛であると言うが、何よりも神を愛せよ、と言う言葉と、どう整合性が有るのだろう?
151 :
神も仏も名無しさん:2008/11/22(土) 03:09:40 ID:RrBnHYhU
>>117 どうして神が文明を怒る理由があるの?
文明で環境が破壊されるから?
もし破壊されたとしても地球は壊れない
人間はいなくなるけど
だから神は文明を怒るの?
152 :
ゆみちゅん:2008/11/22(土) 08:06:28 ID:RJg/yHZs
153 :
神も仏も名無しさん:2008/11/22(土) 08:50:31 ID:AuwbPJ+S
154 :
神も仏も名無しさん:2008/11/22(土) 10:12:45 ID:AuwbPJ+S
訂正
言い逃げすんなよ。
156 :
神も仏も名無しさん:2008/11/24(月) 08:10:43 ID:Y1AocBKP
正直に言うが、愛とか慈悲と言うものが解らない。
157 :
神も仏も名無しさん:2008/11/24(月) 09:28:45 ID:0CeKkxhq
偽善が醜い
158 :
神も仏も名無しさん:2008/11/24(月) 10:41:38 ID:Y1AocBKP
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/yomu.htm ここに仏教の慈悲とキリストの愛が説明されているが、このような説明は聞き飽きているのだ。
神とは何か、罪とは何か、これらが正しく説明されないならば、愛も犠牲も理解できないのである。
このようなキリストの愛の説明で理解できるものは居ないはずだ。これを理解しているとするものは嘘をついているのである、と思う。
しかし、仏教の縁起と空諦の教えが伴うなら、キリストの愛を説明できるのである。
マホメットは、それまでのキリスト教の教えに満足できなかったのは、この仏教的な
教えが無かったからである。彼は神を説明した。それを表に出した。それでも、
充分ではない。仏教の縁起と空諦が必要である。
2-3 神の特性
--------------------------------------------------------------------------------
アッラーの特性はコーランの多くの箇所に述べられている。
学(al-Tauhid)として: 実在(Wujud)、 初めがなく(Qidam)、
終わりがない(Baga)、 形なし(Mukhalafuhulil hawadith)、
単身(Qiamuhubinafshi)、 高度な働き(Wahdaniah)、道具(Qudrat)、 知識(Iradat)、 不飲食(Mayat)、 聞く(Sami)、 見る(Basar)、 話す(Kalam)、あらゆることが可能である。
神は絶対的自由、神は人間理性の尺度を超越し、比べられるものは何も存在しない。
従って、人間はこの神に依存する以外に救われる道がないのである。
159 :
神も仏も名無しさん:2008/11/24(月) 16:47:18 ID:Y1AocBKP
コーランの教えにしろ、キリストの教えにしろ、神とは何かに付いては、押し付けだろう?
ところが、仏教では、縁起と空と言う科学的な理法を挙げるんだよね。
これは押し付けではないだろう?道理を説いているのだ。
ところで、いるラム京になると、どうしてエホバ又は、ヤハウエの神が、アッラーになるんだろうか?
160 :
神も仏も名無しさん:2008/11/24(月) 16:48:07 ID:Y1AocBKP
旧約聖書が同じ聖典だからね
江戸時代の殉教者たたえる=カトリック列福式、日本初開催−信者3万人・長崎 (時事通信)
http://news.www.infoseek.co.jp/search/story/081124jijiX283/%25C4%25B9%25BA%25EA%25A1%25A1%25CE%25F3%25CA%25A1/ 江戸幕府の弾圧などで殉教したペトロ岐部ら日本人カトリック教徒188人に
「福者」(ふくしゃ)の敬称を与えるローマ法王庁の「列福式」が24日、長崎市内で開かれた。
日本初開催で、多数の日本人を一度に「福者」に列するのは1867年以来、約140年ぶり。
「福者」は、カトリックで最高位の「聖人」に次ぐ敬称で、信仰の模範とされる死者に与えられる称号の一つ。
最近ではノーベル平和賞を受賞した故マザー・テレサなどが列せられている。
会場の長崎県営野球場には、ローマ法王ベネディクト16世の代理として、
列聖省前長官のジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が出席。時折吹き付ける雨や寒風の中、
雨がっぱを着た敬虔(けいけん)な信徒ら約3万人が、国内外から集まった。
列福の儀では、東京や新潟、京都など殉教者ゆかりの9つの各教区司教が、列福される188人の略歴を紹介。
特使に任命されたマルティンス枢機卿が教皇書簡を朗読し、正式に188人の殉教者が福者の列に加えられた。
[時事通信社][ 2008年11月24日17時35分 ]
>>44 まずエリヤは死んでおらず、エノクのように天にあげられています。
また、同じマタイの福音書にはイエスがエリヤとモーセとまみえる場面が描かれています。
「〜〜の再来」「現代の〜〜」などと同じような表現だと考えられます。
>>49 >他の神を排撃すると言うことは、他の神の存在を認めていると言うことだ。
いいえ。そうはなりません。例えば地動説者が天動説を否定したとしましょう。
しかしそれは天動説を正しいと認めていることにはなりません。
存在を認める、としてもそれは「誤った神観」「偶像」として存在するということです。
>>104 勝手な教義の編纂(制作)という容疑はグノーシス側にも向けられて然るべきでしょう。
正典福音書は、新約聖書のリストが出来上がる前から使用されてます。
推定される成立年代もユダの福音のようなグノーシス関係や外典よりも
古いとされています。これらが引き続き正典とされたのは故のないことではないと考えられます。
んなこたーない。ペテロもパウロも様々な地で宣教していた
もしかして、その相手が書き記した書類が外典の基となったのかも知れない。出所が正典と違っていたからといって破棄するべきではなかった。
それにトマスのイエス語録が種本で最古なわけでもなく、3位一体の解釈で教会が枝分かれするような石頭ぞろいだから、正典にも外典は混ざっていたらしかったから
都合よく外典として破棄された可能性もある。あったとされるQ資料にもトマス語録のような言葉が記してあったのかもしれないし、
なにより天国とか地獄とか死後に住み分けがされるような教義であれば、頬を向けなさいだとか敵を愛せだとか悪人も善人にも太陽を昇らせだとか
肉体意識を大きく超えた完全さなんて人に説かないと思われる。ここは仏教やヒンズー教よりだと感じる。
大体、正典と外典を選別したのは、もはや年代も違い直にイエスを知っているわけではない皇帝寄りのサドカイ派のような人たち、トマス福音を正典としていた人たちは
エッセネ派のような厳しい修道生活を送っていた人たち
とにかく正典だろうと外典だろうと、文書類は全て大切に教会が現代まで保管しておく責任があった。
コンピューター解析、洋紙の炭素測定や年代、地域特定、筆跡鑑定、それらは必要だったね。
使徒信条にそぐわないので異端とか馬鹿すぎるし、すべて教会の都合で破棄されてしまったので、確かなことなんて今更何も知りようがないのだけどね。
>159
ムハンマドが、霊感により啓示を受けたのがアッラーの名だったらしい。
もし、あったとされるQ資料にもトマス語録のような言葉が記してあったとして、外典として破棄されたのであれば
単純に人工衛星が太陽系の端まで行っても天国など存在しなかったのをその時代の人は知らなかったとか、物質と霊は違うとの思い込み
現代では粒子より小さいものは霊てきな物と物質も変わらないのではないかと段々わかってきていますが、そのような凄く単純な理由で
主イエスがこのような出鱈目を言うわけが無いのだとか、後世の人間が勝手に満場一致で解釈して破棄したのではないのかと
勝手に推測しています。もちろん真相は闇の中ですけど、、
167 :
神も仏も名無しさん:2008/11/25(火) 08:27:59 ID:LxtsTYGR
>>165 ウィキなどで検索すると、アッラー=ヤハウエなのであり、語源的にも根拠があるようですね。
イスラムの言うこともよく理解できる。
こうして世界の宗教を見てみると、大事なものは(真理真実)、保存され維持されているのである。
>>164 イエスはパリサイ人の例のように、無条件に優しいわけではありません。
律法を杓子定規に解釈する(さらには、それを守れない人まで悪と断じる)態度をとらなかっただけで、
彼も別なかたちで戒めを説いています。
グノーシス思想など不純物が混じっている、ということは少なくとも「歪められた」ことを意味します。
伝えた当人らにとっては福音書は「歴史の資料」にはとどまらないのですから
参考までに残す、という態度がなくても仕方ありません。
「正統派」にとっては「毒を入れられた清水」というところでしょうか。
クルアーンも編纂時に正式と認められたもの以外は破棄されました。
ところで
>勝手な教義の編纂(制作)という容疑はグノーシス側にも向けられて然るべきでしょう。
には同意していただけますか?
>勝手な教義の編纂(制作)という容疑はグノーシス側にも向けられて然るべきでしょう。
そうですね。グノーシス側にも当然に故意であろうと間違って伝わっていようと捏造のような歪みは在り得ますね。
どちらにせよ、主の祈り等の山上の教えは現代まで正しく伝わっていると思いますのでね。
170 :
神も仏も名無しさん:2008/11/26(水) 18:54:34 ID:07LoTPys
>>167 創価の池田がイスラム教徒の地へ行き、題目を広めた事が有るそうだ。
そのとき、いかにも真理真実であるかのように、題目を宣伝したようだ。
日蓮の題目が真理真実であるなどと言うのは、到底真理から隔絶している。
イスラムが改修したと言う話は聞いたことが無い。
イスラムの地ばかりじゃなく、アメリカ合衆国においても、題目を広める事、題目が
真理真実であると言う宣伝は、ほとんど、鼻から相手にされない、と聞いている。
日蓮層化の宣伝は、単なる押し付けに過ぎないのである。
これを見ると、人類の良識は腐ってはいないと言える。
日蓮は、仏教を理解していなかったのである。哀れな坊主であった。その哀れな坊主の教えを、
今又、日本人が取り上げていると言うのであるが、それほど日本人の良識「理性」は腐敗しているのである。
道理、理性と言うものに、感覚が無いのである。
171 :
神も仏も名無しさん:2008/11/27(木) 23:13:46 ID:yeOF9AcM
新型インフルエンザが流行すると言う。日本だけで64万人が死ぬだろうといっている。
しかし、縁起と空性を学んだ我々は、これを機会に、学んだ事を実行するいい機会
にしなければならない。
インフルエンザも、他のどんな病気も、縁起現象である。実体がないのだ。
どんな病気も、健康な状態と、平等に空性である事を信じよう。信じて行動するのだ。
解脱する以外に道がない事を知ろう。
縁起と空性とは粒子より小さくて、あるのか無いのかさえよくわからないといったようなものなのかな?
それが感知できるのは、流石にゴータマさんだよね。
173 :
神も仏も名無しさん:2008/11/28(金) 08:05:58 ID:Uo3O8SsO
>>172 最近のテレビで、ものを見ると言うことは、目で見るのではなく、脳で見るのである、と医学上の解説をしていたね。
これは真理真実に一歩近づいたものだよ。脳で見るとは、是にも問題があることを知らなければならないが。
この意味は、脳と言う物質があってものを見ると言うのなら、それは、目があるから見えるのであるというのと、相違が無い、
のである。この意味は、従前の生活における、諸機関(諸感覚)、想、行、識が、統合されたものが合って、
それを能であると考えているのである、と理解すべきであると思う。これらを、心といってもいいだろう。
この心で見るのである。つまり、心が無いなら、ものは見ても見えていないのである。
視覚としての感覚器官が正常であっても、心が無いならみていないのである、と言うことであると思う。
其処で、仏教は、心そのものがないのである、と教えるのであるから、心に執着しないなら、
ものは見えないのである。ものが見えるとは、ものの相違である。比較する事である。比較し判断する事である。
このような心の作用が無い状態が、空性一相無相なんであると思う。
粒子が有るとか無いとかは、粒子とその他のものの相違を判断してる状態で、それは縁起の状態で、
空性一相無相の状態ではない、と言うべきだろう?
174 :
神も仏も名無しさん:2008/11/28(金) 08:23:06 ID:Uo3O8SsO
ものは縁起現象であると言うなら、それは、過去の事象が未来に必ず相応した事象を予定すると言うことであり、
そのことが永遠に繰り返されるというのが輪廻思想であり、この故に、仏教とは、
宿命論を、前提としてると言わなければならないね。
宿命論に留まる限り、人には絶望しかないね。
175 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/29(土) 00:32:25 ID:oyIHqYm9
>>151 神は霊で、人間の影響を一切受けない所に住んでおいでになる。
物欲も人の手でつくられた幸せもなく、快楽も享楽も人間の五欲の対象の喜びもない幸せな所に住んでお
いでになる。
神や真理を求めながら、物欲や人の手でつくられた幸せを求める人は、私の求めぬ人だと。
「上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上に
あるものを思うべきであって、地上のものに心引かれてはならない」(コロサイ人への手紙)
神を信じたり、真理を求める人は、「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する
者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の
誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである」(ヨハネの第一の手紙)
神の目から見れば、今の人間は、地上のものに心引かれあくせくし、呪われているだけだそうです。
慎ましい生活により、安らかな生活を望んでおられる。信じながら、それらにあくせくしているならば、信
じないと同じと言われる。「左だ」と。
176 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/29(土) 00:33:13 ID:oyIHqYm9
愚者
「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のもの
ではない〜もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である(真理のことば)
「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みによ
り、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである〜すると、どこにわたしたちの誇りが
あるのか」(ローマ人への手紙)
神と真理を信じる人への命令は聞き難い。人間の欲望から離れて、静かに安らかな生活を送れというもの。
悩み苦しみを受けるために地で生き続けるような人間は、自分をまず誇らないようにすることが第一歩だと
いう。
神の求めぬ人になりたかったら、文明的な楽しみを追うことは別にかまわないだろう。神と真理を求める人
にとっては、それらの貪りを離れようと心得ること。
なるほど、縁起と空性とは当然に意味が違いますよね。ところで心を無くすとは凄く難しくないですか?
心を無くすよりかは、風船が弾けて大気と風船内の空気が同化するような方向性のほうが人間らしいような?
でも禅の達人とか人が揺さぶっても目が覚めないくらい瞑想が深いのかも知れないですね。
178 :
神も仏も名無しさん:2008/11/29(土) 08:43:42 ID:/rFKi/VD
>>177 >心を無くす事は凄く難しく無いですか?
そうです。私が心といったのは、仏教が、心とは、妄執である、つまり欲心である
、相対的な一方のものに執着しているその執着心である、と言う教えに同意してるからです。
お金が欲しいのは、少なくとも文化的最低限度の生活を維持したいからであるし、
その意味するところは、現状の肉体が損傷されない事である。この場合肉体と言うものが有り、
そのための世話が十法に発展しているといえるでしょう?何時いかなる時も、この肉体の保持
のための価値判断をしてるのではないでしょうか?これを肉体に執着している「心」といっているのです。
しかし肉体と言うものは縁起現象に他ならない
と理解し、肉体の実体は無い、と知るなら、肉体のための方策を取り立てて採らないのではないでしょうか?
179 :
神も仏も名無しさん:2008/11/29(土) 08:47:06 ID:/rFKi/VD
そして、欲心:執着心を取り除くためには、縁起の理法と空の真実を知る以外ないし、
それを知り信じるなら、心を除くことが出来るのではないでしょうか?
それにしても、寝ているならともかく、起きてて心が無いなんてありえないですよね。
以前てんかん持ちの人が、いきなり倒れて、しばらくして起き上がって
その間の記憶とかないのだろうけど、それとはまた違うのだろうし、覚醒した意識で心が無いのとか
炎見てたら、うっとりと見とれてしまうけど、あんな感じなのかな?
181 :
神も仏も名無しさん:2008/11/29(土) 16:44:45 ID:/rFKi/VD
自分でも言葉だけではないかと思ったりします。しかしこういうことだと思うのです。
美人が訪問したと思った。その美人が去った。その美人の事を去ったとたんに思い出さない。
又、恐ろしい感じの人が来たが、去ってからその恐ろしさを思い出さない。
なぜか?自分の美人であると思った気持ち、恐ろしいと思った気持ちは、無いものであるから。
損をしたと思った。しかしその気持ちは無いものであると知ったので、後を追いかけて、取り返そうと思わない。
何よりも、心の平安こそ有るもの、と知った、と言うことではないのか、と思う。
このように自分に教えるのでスw。
182 :
神も仏も名無しさん:2008/11/29(土) 16:50:08 ID:/rFKi/VD
自分は悪い事をした、と思った。しかしそれに付いて一切心配しない。なぜなら、
それは無いもの(実体の無い幻)と知ったからである。
自分は良い事をしたと思った。しかし、それに付いて、一切思い返して自分を考えることは無い。
そのようなものの実体がない事を知ったからである。と言うことではないでしょうか?
心の平安をこそ追求するべきもの、と言うことでしょうか?
183 :
神も仏も名無しさん:2008/11/29(土) 17:36:11 ID:Gnn8HkCw
あぶないな
それじゃあぶない宗教だぜ
家族が死んでも涙流すなって宗教があったよな
間違ってないけどそれじゃ極端なんだよ
もっと人間的でもっと動物的でいいんだよ
うん難しいよ
本を読んで真理を得られるなら誰も苦行なんかしないw
聖書や教典は真理だらけじゃないか
結局は実行あるのみさ
嫌なことされて許せるかな??
ルールに縛られて自分の気持ちを押し殺していないか??
顔の良し悪しや身長の高低や体型の細い太いや乳房やぺニスの大きさやかたちに悩んでいないか??いいか例えばだ
他人と比べるのは自分の成長にとって大事な要素だが自分の成長にとってマイナスな要素もたくさんある
ここに真理がある
すべての事柄は心がけ次第で良いものに変わるということだ
すべての事柄は良い部分のみじゃないし悪い部分のみじゃないんだよ
両方合わせ持っている
聖書などありがたい言葉さえも同様で間違った解釈で人を不幸にもすれば人の未来を明るく照らす光にもなるんだ
真理にたどり着きたいならこれを実行していくことさ
少なくとも本を読んで真理を得られることはない
だから堂々巡りになる
実践し経験しないとわからんよ
184 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/29(土) 22:24:00 ID:oyIHqYm9
不平
「眼のある人は、不平等のようなことがらに勇敢に打ち克つ―たとい何かが存在していても。賢者は、こ
の命あるものどもの世界において、悪いことがらを全く避けるべきである」(感興のことば)
「互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから」(ヤコブの手紙)
人間の命
「身体は泡沫のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ」(感興のことば)
「あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行
く霧にすぎない」(ヤコブの手紙)
世の中・わずらいの無い人
「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ」(感興のことば)
「今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののよ
うに、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去
るからである。わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしていてほしい」(コリント人への手紙)
「さとりの究極に達し、恐れること無く、無欲で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが
最後の身体である」(真理のことば)
心
「世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない。そうではなくて、意識もそなえ心もあ
るこの一尋の身体に即して」(神々との対話)
185 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/29(土) 22:25:16 ID:oyIHqYm9
妄執・悪しき者
「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のもの
が従属した」(神々との対話)
「全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」(ヨハネの第一の手紙)
神の身体
「ブッダに帰依した人々は、すべて、悪しき境地におもむくことはないであろう。かれらは、人間の身体
を捨てたあとでは、神の身体を満たすであろう」(神々との対話)
「たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても〜わたしたちには、父なる唯
一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する」(コリント人への
手紙)
思い煩いも、悪い心と行為も、妄執・悪しき者に従って生まれたのであり、人里離れて暮らし、安らぎに
安住することに努め、この世で平安の境地に達する人々。
また、その他の人々は、世の中で暮らす時に、悪しき者・妄執に従わないように気をつけて暮らす。
「悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は善いところ(=天)に生まれるであろう。
しかし他の人々はこの世で道を修して、汚れを去り、安らぎに入るであろう」(感興のことば)
186 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/11/29(土) 22:32:27 ID:oyIHqYm9
自分が今行っている行動の、どのような行動が妄執(悪しき者)で、どのような行動が妄執(悪しき者)か
ら生み出されたものではないかと説き示すのが大事なことで、また、悩み苦しみもある世の中で、その時、
どのような心を保てば中和されるかが肝心なことだろう。
「無が有であるかのごとくに見られている。真理を見る人には何ものも存在しない。人々は自我観念にたよ
り、また他人という観念にとらわれている」(感興のことば)
真理で自分の粗雑な思考を修め、煩悩のままの行いを抑制し、この世の苦を嘆き悲しむままにもならな
い。老いて死に、愛する人と別れるこの世を深く思えば、この世は悲惨な状態である。それらの緩和で
あって、人々に極端なことを行うことを示すためではないだろう。
慈しみ
「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは〜一切の生きとし生けるものは、幸
福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜何ぴとをも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を
軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではな
らない。あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものど
もに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき
慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」(ブッダのことば)
「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深い
ように、あなたがたも慈悲深い者となれ」(ルカ)
修行を積んで、平安の境地に達すれば、他人を軽んじることもなく、母が己が独り子を命を賭けても護
るような慈悲をこの世で一番崇高な境地とするのだから、そのような慈悲が少しでもあれば、家族が死
んだ時は泣くだろう。「過ぎ去るものは虚妄」として真理は多少働くわけだから、嘆き悲しむばかりで
もない。真理はこの世に影響しており、その時、煩悩のままにならないように教えはある。
187 :
神も仏も名無しさん:2008/11/30(日) 03:32:15 ID:nkQWf323
>>184-
>>186 なあ神なら頭の悪いオイラにもわかるようにもっと簡単な言葉で
集中力のないオイラでも読み切れるように5行くらいにしてくれよう(T_T)
>>175 風俗嬢叱る客みたいな?
他すれで見て笑ってしまった例え
言い得て妙
>>181 よちよち歩きの子供のときはそんな感じでしたよね。
>>182 寒いからこたつから出ないのが安全だけど、楽しいことを求めて
外で事故にあったりとかも、心の平安が足りないせいなのかな?
確かに実態のない幻ですね。
>>183 実践し経験しないと確かにわからないことはありますね。
熱いものは、触って初めてわかるし
189 :
神も仏も名無しさん:2008/11/30(日) 13:37:41 ID:kEET2TF5
>>183 >嫌なことされて許せるかな??
将にこの点に、縁起と空の真実を適用しなければならないんであるとおもう。
いやなことの事象には実体がないのである。故に固執してはならないのである。
いやなことの事象は全て縁起しているものである。何処にも実体がないのである。
一切が無実体、空相無相一掃なのである。自分が何かに執着しているので、それが失われる
ことを恐れる、又は、失われたと思っていること、これがうらみの原因ではないか?
執着してるものに実体がないし、自分にも実体が無いのである。これが真実であるので、
何かの善悪の変化がおきたと考えないで済むのである。かくして心を一定に保つ事が出来る。
平安な状態に留まる事になる。
肉体の感覚に依存しているのもありますよね。
たとえばニコチン中毒とかそうなのだと思うけど、腕が無い人も無いはずの指が痛くなったりするらしいし
タバコ止めても、なにか口にしないと落ちつかないとか、似たような感じなのかな?
とにかく心と魂はあきらかに違うと思うから、そこらへんの際目を観察してみようかな。
食料を縁として起こる。とか、何なのだろう
具体的には美味しいものを避けるとかなのかな、観察だけとかより、そういった実践もたしかに必要なのかも
192 :
神も仏も名無しさん:2008/11/30(日) 17:54:37 ID:kEET2TF5
>>191 原始仏教典に、毒矢の喩えがあったね。岩波文庫の原始仏教典には無いんだけど。
毒矢上に刺さって苦しんでいる時、その毒矢が何処から飛んできて、誰が何の目的で、又は
どんな恨みが有って放ったのか、その毒はどのような性質が有るので、自分の肉体に、
害をどのような経緯を経て及ぼすのか、自分はこの毒でどのくらい生き延びるのか、どのくらいで死んでしまうのか
、などを考えても、自分の苦しみは少しも癒えない。
私が思うに、これは縁起現象の考察である。
よく原因を除けば、結果も除かれる。と言われるが、原因を除くのは簡単であろうか?
簡単に出来る事だろうか?それは不可能である。原因なるものが明確に、これであると言えるものとしてないからである。
仏教は、そのようには教えていないと思う。仏教の教えは、原因と言うものも無く、結果と言う事象も無い、と言うのである。
つまり空性がが一切いであると言うのである。空性が一切なので、一相であると言い、一掃なら、
無相であるし、無我である、と言うのである。
苦集滅道と言う。集の意味が執着と言われるものである。そこで執着を除くために
(これを滅と言う)八正道をするのであるが、ここには、原因と言うものを取り除く行為、そのものが無い。
私が言うのは、がんが出来たので、その細胞を除去する事が、ガンから開放されるように、そのように人生の苦しみを
取り除く方法を採るべきである、と。八正道はそのような教えではないのである。
がん細胞を取り除く意思は、寧ろがん細胞に執着しているものではないか?
仏教はそうではなく、がん細胞なるものは無いので、それを心配しないようにする事こそ大事であると言う教えなのである。
八正道は、寧ろ苦しみを見ないようにすることを求めているのではないか。
一切の苦しみを見ないようにする修行は、一切が空相無相一相無我であることを理解し、信じること、これが強固でない限り、
達成は難しいのである。
193 :
神も仏も名無しさん:2008/11/30(日) 18:12:09 ID:kEET2TF5
>>191 先の説明はいささか混乱してるようですが、マ、良いかw。
>美味しいものを避けるとかなのかな
美味しいもの、まずいもの、そんなものが有るのだろうか?仏教はそのような相違は無い、と言う教えではないか?
美味しい食物を求める心を良く考えてみると、どこかに、欲心が有るんではないのか?
この人生は、たかだか100年である。おいしいものをたくさん食べているほうが、人生を楽しんだことになるではないか、
これは人生と言う100年間に執着した欲心ではないだろうか?
100年間の人生など無いのである。
194 :
神も仏も名無しさん:2008/11/30(日) 19:26:52 ID:kEET2TF5
平安のみある。これは限定されたものではない。
なるほど永遠不滅の魂と魂の宿った肉体は要は別なのだから、上手いとか痛いとかは肉体に依存したことで
起こるのであるから、そのような物事に囚われない魂から発する精神力を身につけよ、みたいな感じですか?
もし、そうであれば中途半端はないですよね、お金とコピー用紙は等しくみるべしとか言ってても、なかなか同じようには見れないだろうし
でも肉体と魂は別なのは確かだし、生きてたら霊と物質を行ったり来たりしますけど、どっちかにとどまらないと駄目ですよね。
196 :
神も仏も名無しさん:2008/12/01(月) 17:27:49 ID:QcGq3zUg
>永遠不滅の魂と魂の宿った肉体は要は別なのだから
永遠不滅のものとは、絶対的に、無相なもの、一相なもの、空相なもの、無我なもの、
である事は、論理の帰結なのです。したがって、永遠不滅な魂と言うなら、
それは無相なもの、一相なもの、無我なものを言っていると理解しなければならないですね。
しかし、肉体と別に存在するものと言うなら、それは、肉体と言うものと、魂と言うものを
両方のものがあると見ているのです。二つのものが有ると言うのなら、
それは正しくない論理の帰結です。
このような間違いは、人類共同の妄想と言うべきものなのです。
つまり、数の数え方に有るのです。人間の数は一人二人三人と数えます。
リンゴの数は、一つ、二つ、三つと数えます。これは人類共通の妄想なのです。
しかし、この妄想が、仮の約束として、人類に共通しているのです。
あくまでも約束なんですね。約束と言いますと、これが契約、そして法律となっているのですね。
これを守らないでは、生活できないようになっているのですね。
あくまでも、約束である事を忘れないようにしましょう。
197 :
神も仏も名無しさん:2008/12/01(月) 19:30:52 ID:QcGq3zUg
複数のものが有ると言う約束を前提に、ドンドン発展して、法律にしろ、科学にしろ、現在のものになっているのですね。
それで、複数のものが有ると言う約束が本当なのかどうか調べて見ましょう。
複数のものを今二つのものとしましょう。二つのものが有ると言うのです。
それでは、二つのものは、それぞれ異なっていないといけませんね。同じものが二つ有ると言うなら、おかしいです。
なぜなら同じものを識別する事は出来ないはずです。
それで、異なるものが有るのですが、異なるとは、相対的に存在すると言うことなんですが。
Aと言うものとBと言うものが有るのですが、Bと言うものが無いなら、Aと言うものの異なる点はなくなるからです。
比較する対象が無いのでスから。反対の場合も同様です。
であるなら、AもBも本当に有るものではないといわなければなりません。
従って二つのものは無い、更に三つのもの、それ以上のものもない、と言わなければなりません。
しかしリンゴは二つ、三つ、と有るとしか思われない、というのが常識ですね。
リンゴが二つ並んであるとして、一方を取り去っても、残りの一つは残っているとしか思われません。
何処に縁起関係、相対的存在と言えるところが有るのでしょうか?
この場合は、立方体が二つ接して並んでいるのを想像しなければなりません。
一方の立方体を取り去ると、他方の立方体はその形を維持できません。
この接する面が、両方を分けていたのですが、片方を取り去ると、片方は相手を失い、
自分の形を維持できないのス。
こう言うものであるにもかかわらず、依然としてリンゴはあると思ってしまいます。
それは、我々の欲心が有るからです。欲心が、リンゴを縁起関係にあることを、見させないのです。
リンゴは美味しい、見た目に美しい、たくさんの人を喜ばせる。たくさんのリンゴが有るほうが、
人間にとって良い、と言う風にです。欲心がものを作り出すのです。
お釈迦様の至った境地なら、そうなのかもですね。
全て等しく感じられる、しかし実際にそのように感じられないのであれば、魂の成長度合いに照らし合わせて
ある程度は物事に違いを見せるのは仕方がないのかもしれませんね。
家族と他人、ゴミとお金、その本質は同じでも、なかなか等しく物事を見れたり感じられたりする境地には至れないのかもしれません
お釈迦様もその境地に至るには大変な苦行をしたと聞きますし、でも本質はそうですね、物事を等しく見れる努力をするべきだと思います。
199 :
神も仏も名無しさん:2008/12/02(火) 22:49:48 ID:5b347xs3
一切皆苦=一切皆空
生老病死と言う苦の集合=無相:空相
故に、苦を微塵も認めてはならない。苦を取り除こうとすらしてはいけない。
苦と格闘してはならない。
かくして苦から解脱することが出来る。
苦とは心の平安を害するものである。
心の平安には、身体の苦痛、心の苦痛も、両方含まれる。
200 :
神も仏も名無しさん:2008/12/02(火) 23:19:22 ID:5b347xs3
心の生じるもの、滅するもの、これらは縁起しているものであるが、それらを捕らえる(執着する)なら全て苦痛である。
生じたものは無いのである。滅したものは始から無いものである。
201 :
神も仏も名無しさん:2008/12/02(火) 23:23:10 ID:5b347xs3
人を男と女に作られた。男と女は一体となる。産めよ殖やせよ地に満てよ。
この教えの故に、情欲は神の心である、又は、神そのもので有る、と考える。
神は情欲にある、と考えるようにならないだろうか?
これは正しいだろうか?
202 :
神も仏も名無しさん:2008/12/03(水) 21:34:49 ID:pEML/tit
執着しない良い方法の一つは、change your mind! である、とおもう。
203 :
神も仏も名無しさん:2008/12/03(水) 22:08:53 ID:NuLwmTM+
仏教=何にも無い、世界も無い、地球も無い、もちろん癌も無い
+
神=情欲
頭の中は物凄く幸せになります
宗教は考えていくと、その人自身の幸せを導き出す
一般世間で言ったり+やっちゃうと、基地外かエロ幸せか
創世記は神父さんでさえ、たとえ話しだと言ってますから
205 :
神も仏も名無しさん:2008/12/03(水) 23:08:08 ID:pEML/tit
>>203 >仏教=何にも無い、世界も無い、地球も無い、もちろん癌も無い
真実もない、と言うのではない。真実は何も無いと言う状態ではなく、
一相、無相、無我、空相、である。つまり、空相一相無相無我と言うものが有る、というのである。
変化してるものに実体があると言う間違いに対して、空相、無相、一相、無我、が真実であると言うのである。
これは、何も無い、と言うことだろうか?
206 :
神も仏も名無しさん:2008/12/04(木) 00:57:45 ID:8NebONSR
ブッダってインド人?それともネパール人?
207 :
神も仏も名無しさん:2008/12/04(木) 17:39:10 ID:jo0kr/FZ
空相、無相、一相、無我と言うものが有って、
情欲という神の心を持った人がいて、
南無阿弥陀仏を唱えて、
援交菩薩、売春菩薩など様々な菩薩を生み出して
いる。
これは日本の救いとして正しいだろうか?
208 :
神も仏も名無しさん:2008/12/04(木) 19:26:57 ID:jJqOOLAl
イエスは、「あなた方よりも、この遊女のほうが早く天国に入るであろう」と言われたのはなぜか?
又「金持ちが天国に入るよりも、ラクダが針の穴を通り抜けるほうがたやすい」と言われたのはなぜか?
大乗の菩薩は、脳髄、手足、なんでも、捨てると言われている。まして、そのカラダを
情欲の餌食にしないわけがあるだろうか?虎にさえも身を投げ出すのである。
209 :
神も仏も名無しさん:2008/12/04(木) 22:44:14 ID:jo0kr/FZ
愛の神様としては、立派な人しか生きていけないと困る。
金持ちは金儲けのために人を雇い、不景気になるとリストラする。
庶民的な味方ということじゃないの?
金を大儲けすることを憎んで、人を憎まずということで。
情欲を正当化する釈迦やイエスの教えはあるの?
釈迦の弟子が情欲の餌食になるよう修行した感じがしないけど、
それは一般人の思い込み?
イエスを信じる人が情欲の餌食になるよう信じた感じがしないけど、
それは知らないだけ?
210 :
宇宙からのメッセージ:2008/12/05(金) 16:27:58 ID:bbfbQVQm
211 :
宇宙からのメッセージ:2008/12/05(金) 16:28:36 ID:bbfbQVQm
先の映像の太陽のフラッシュダンスの奇跡の解析映像
太陽がフラッシュダンスをする時、UFOが飛来してるのを確認できます。
http://jp.youtube.com/watch?v=cGCRBrV0f2s スペースシャトルから撮影された日本上空を飛ぶUFOの軍団
http://jp.youtube.com/watch?v=-6Wim9EQp_w コインブラ大学教授、アルメイダ・ガレッタ博士の証言:「私は土砂降りの
雨の中で、ずぶ濡れになってしまった。雨が止むと、きらめく太陽のようなものが、
厚く覆っていた雲の層を突き抜けて出現した。群集の目はいっせいにその方向へ
向けられ、私もそれを見た。輝いているが目がくらむほどのものではなく、輪郭が
明瞭な円盤状の物体だった。外観は良質の真珠のような、鋭く変化のある
透明のようなものだった。。鈍い銀色の灰皿みたいという周囲の声が聞こえたが、
その形容は正確ではない。それは夜空の月にも似ず、それ自体の色も影もない。
むしろ銀色の貝殻を削り取って磨き上げた車輪といった方がよい。誰も霧を通して
見る太陽とは混同しないだろう。円盤の周囲は少しもぼやけず、中心部もはっきりと
輝いていた。たえず変化しながら輝く物体は、目まぐるしく運動し、それ自体が
驚くほど急速に回転していた。」(太陽が2つ現れた丘より)
この奇跡はファティマから遠く離れた地域でも大勢の人に目撃されている。
当時の有名な詩人A・ビエラは、ファティマから40キロ離れた自宅から見た光景を
次のように話している。「私は驚いた。空中のスペクタクルに魅せられた。
まったく聞いたこともない現象なので、びっくり仰天した。このバルコニーから
見たんだ」 この太陽のような円盤は、少なくともファティマを中心に半径40キロの
範囲で目撃されたことになる。すると500メートル以上の高空に出現した、
直径1キロぐらいの巨大な円盤状の物体だったことになる。
http://page.freett.com/dateiwao/fatimaufo.htm
212 :
神も仏も名無しさん:2008/12/05(金) 20:56:15 ID:ChbYm3/G
>>209 飢えている者に、食を与えることは、良いこととされている。
情欲に飢えている者に、体を与えることは、いけないのだろうか?
なぜいけないのか?
213 :
神も仏も名無しさん:2008/12/05(金) 21:13:20 ID:ChbYm3/G
情欲を以って女を見るものは、心の中で姦淫したのである、とイエスは教える。
心の中で姦淫しても、行動に現さないならば、問題ないとされるのではないか?
なぜ心の中ではいけないのか、現実にすることはいいのか?
214 :
神も仏も名無しさん:2008/12/05(金) 22:11:06 ID:ChbYm3/G
姦淫の現場を見つかりつかまり、石打の刑に処せられようとしていたとき、
イエスは、「罪のないものがまず、この女に石を投げよ」、といわれたとき、
石を投げるものは誰も折らず、みんな去った。そこでイエスは、「私もあなたを罰しない。
今後同じ罪を犯さないように。もっと悪いことが起こらないように。」と言い残された、という。
また「不品行以外の罪で、自分の妻を出すものは、姦淫を犯すものである」、と教えられた。
215 :
神も仏も名無しさん:2008/12/05(金) 22:17:54 ID:ChbYm3/G
>イエスを信じる人が情欲の餌食になるよう信じた感じがしないけど
自分の妻に対しての情欲ならば、それは神の心なのか?
仏陀は、姦淫(邪淫)を禁じられている。どうしても我慢できないときは、
商売女を利用するように教えられている。仏陀の教えでは、人妻なるものは、社会的関係の中に
収まっているもので、その位置関係を左右(破壊)することになる、というのである。
216 :
神も仏も名無しさん:2008/12/06(土) 16:27:47 ID:7rG49OX+
仏陀の坊主は信者から金貰って、どうしても我慢できないときは、商売女と姦淫する。
イエスの信者は、自分の妻に対しての情欲。
社会的関係の中に収まってしまうから、社会の中で働かず、信者から金貰って、商売女
と姦淫するか、自分の妻だったら情欲の餌食になってよいと不公平なことを言う。
妻のある人はイエスを支持し、妻もなく働かない人は仏陀を支持する。
妻のない人はイエスは不公平だし、妻があり社会的関係の中で生活している人は、
仏陀は卑怯だ。
217 :
神も仏も名無しさん:2008/12/06(土) 17:23:32 ID:7rG49OX+
情欲を我慢できず、商売女を利用するなら、社会的関係の中に収まって、自分で働くべきだし、
わけのわからんことを言って、信者から金を巻き上げる仏教は世の中から消滅すべき。
誰かが病気になっても、それは無い、それを心配するなという現実離れしたくだらない教えの
ために信者から金を巻き上げる。それで、自分たちは商売女に手を出す。
仏教の癌細胞が無いと信者が思えるなら、なおさら坊主は情欲など無いとできるだろうが!
信者たちはそいつら坊主が癌だとわからないのか。虎にさえも身を投げ出せるなら、信者の
ために早く死ねばいい。
妻のある人だけ認めるイエスも、その不公平な教えによって、妻のない人が不愉快な思いを
させられるだろう。だから宗教はいらない。
218 :
神も仏も名無しさん:2008/12/06(土) 20:02:59 ID:+XeySRHk
>>217 >だから宗教はいらない
まだ科学の発展していない時代にも真理真実というものを求める人がいたのあり、
それは時の経過に関係なくあるものであり、その真理真実は今でも通用するものである。
この真理真実の教えを説いた人の周りに人々が集まったのであり、それを教団と
言ったのである。宗教という名前は、真理真実をさまざまな方法でとかれており、その集団も教えに基づき
さまざまな集団であったのだ。
このさまざまな教団を区別するする必要に応じて、宗教という名前が発生したものではないか?
どれが真理真実であるから、異論がありえるが、真理真実がひとつでなければならないことは、各教団においても
同意するところと思われるだろう。われこそ真理真実であり、他は真理真実ではない、と言うことは予想されるところだから。
で、真理真実が大事なのであり、真理真実を掲げる教団、換言して、宗教名が大事ではない、というべきではないか?
ゆえに宗教はいらない、といっても罪はないが、真理真実をいらないとは言ってはならないだろう。
それは罪となる。
219 :
神も仏も名無しさん:2008/12/06(土) 20:10:59 ID:+XeySRHk
つづき
なんか変だね。
いろんな教団があるので、それらをまとめて宗教と名づけた、というのが正しくないか?w
220 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/12/07(日) 00:09:20 ID:V7Y64nxG
右も左も分からない頃
神に頼って歩き出したと思いきや
自分で歩けるようになりましたから神はいりません
なんて良い性格してますねぇ
221 :
神も仏も名無しさん:2008/12/07(日) 09:28:18 ID:rX51JQQN
>>217 この姦淫(邪いん)がなぜいけないのか、そのところを究明してみる必要がある。
なぜ聖者はそれは良くないと教えたのであるか?
それは真理真実にどう反しているというのだろうか?
222 :
神も仏も名無しさん:2008/12/07(日) 13:03:39 ID:RkO9sQUf
彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない
者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。愛する者たちよ、それだから、
あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけ
なさい。 ペテロの第二の手紙 3. 16−17
誤っても神は情欲にあると考える非道極まりない者の惑わしに誘い込まれて、地獄に投げ入れられないように気をつけなさい。
223 :
神も仏も名無しさん:2008/12/07(日) 14:18:48 ID:rX51JQQN
>>222 >彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている
これらのこととはどのような事をさしているのでしょうか?
224 :
神も仏も名無しさん:2008/12/07(日) 16:20:29 ID:j3NU/a1S
「一般的にいって、新約聖書の中には、まぎれもない生まれ変わりについてはっきりと語られて
いることに人々は気付いていない。事実、多くの人々が、宗教的観点から生まれ変わりのことが
それほど大切なのであれば、聖書の中でそれについての言及が殆どないのは何故か、と質問す
る。それに対する明白な答えの一つは、少なくとも新約聖書の中では生まれ変わりが事実である
ということが、当然のこととされていたことである。---ではこのような結論を導き出す根拠となる証
拠を調べてみることにしよう。
再生誕の教えが当然の事とされている第一の徴は、マタイ伝11章13〜14節と16章13節とにある。
イエスが弟子達にこう尋ねていらっしゃる。《人々は人の子を誰と言うか》(マタイ伝16章13節) す
ると弟子達はこう答えている。《或る人はパプテスマのヨハネ、或る人はエリア、エレミア、また預言
者の一人》(マタイ伝16章14節) 過去世においてそうであったのでない限り、イエスがこれらの人々
の内の誰であったと考えることがどうして人々にできたであろうか。エリアとエレミアとは何世紀も前
の人物である。洗礼者ヨハネに至っては、その頃殺されたばかりで、生まれ変わりは有り得なかっ
たはずである。しかし、彼の霊がイエスを鼓舞したはずだと考える人々がいたようである。当時の
人々にこのような話し方ができたとすれば、それは明らかに生まれ変わりを当然のものと受け取っ
ていたからである。イエスが実際に質問に答えていらっしゃるということは、イエスが生まれ変わりの
教えを承知し、かつ、それが正当であると考えておられることを示す。イエスご自身は弟子達に対し
て洗礼者ヨハネが過去世において本当は誰であったかを語っておられる。《すべての預言者と律法
との予言したるは、ヨハネの時までなり。もし汝ら我言を受けんことを願わば、来るべきエリアはこの
人なり、耳ある者は聴くべし。》(マタイ伝11章13〜14節)
225 :
神も仏も名無しさん:2008/12/07(日) 16:21:41 ID:j3NU/a1S
したがって、イエスご自身の考え方によれば、エリアは洗礼者ヨハネの人格に宿って地上に戻っ
てきたのである。この事はマタイ伝17章12〜13節の中でも繰り返され、確認されている。《[我汝らに
告ぐ。エリアは既に来たれり。然れど人々はこれを知らず、反って心のままにあしらへり。かくの如く、
人の子もまた人々より苦しめらるべし。]ここに弟子たちパプテスマのヨハネを指して言い給ひしなる
を悟れリ。》(マタイ17章12〜13節)
------(生まれ変わりについての)第3回目の言及は、一盲人についての質問として行なわれて
いる。弟子がイエスに尋ねる。《ラビ、この人の盲目にて生まれしは、誰の罪によるぞ。己のか、親
のか》(ヨハネ伝9章2〜3節) 他の生において罪を犯さぬ限り、どうして人間は生まれ出る前に罪を
犯すことができようか。使徒達は盲目という結果をきたした罪の種類を聞いているのではなく、誰が
罪を犯したかを聞いているのである。このことは、罪を犯す行為自体が、このような悲惨な結果をも
たらすことを当然のこととしているのである。さらに又、罪はその男が前世において犯したかも知れ
ないし、或いは彼の両親が犯したかも知れないのである。ということは、両親の罪は子供達に報いと
してかぶされる(これは聖書の教えである)こと、および、魂は〔生まれ変わって出てくる低我パーソ
ナリティーよりも〕前から存在すること、したがって、前世での〔低我パーソナリティー〕の過ちに対して
は、返報をする・・・ということを暗々裡に意味する。イエスは使途達がこのような質問をするのをはね
つけてはいらっしゃらない。もしも生まれ変わりの教えが、イエスの御心に合わないものであれば、イ
エスは弟子達に、ナンセンスなお喋りだとおっしゃったであろう。彼は単に違った態度をとられただけ
である。
(即ち)《この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顕れん為なり。》(ヨハネ伝9章
3節)というお答えは、カルマ(したがってその当然の帰結である生まれ変わり)が必ずしも正しくは理
解されていないこと、および、人間の身に降りかかる災難は必ずしも、人間の責任とすべきではない
ことを意味する。-----」(聖書の中の再生誕とカルマの教え/ジニーン・ミラー)
226 :
神も仏も名無しさん:2008/12/08(月) 07:57:33 ID:PxXGKh0w
>>222 日蓮は、男女の交合の喜悦が南無妙法蓮華経である、と教えている。
それで、創価の女どもは、男を付回し(ストーカー)、あらゆる犯罪を犯す。
創価の男どもは、創価の女どもの欲望を満たす手助けに全精力を傾注する。
性狂といわれる所以である。
日蓮は、自分こそ仏教の極意を説くものだという。その極意が男女の喜悦のようだ。
227 :
神も仏も名無しさん:2008/12/08(月) 12:17:58 ID:1l6/8IYE
>>224 >マタイ17章12〜13節
「人の子」は称号です。単に人間という意味にも使われるほか、預言者への呼びかけにも使われてます。
ダニエル書では「人の子のようなもの」の出現(7:13)が予言されてます。
高慢な「獣」が裁かれた後、この出現によってすべてが彼に服従し永遠に続く統治が行われるという、
新しい時代の到来を予言した。それにあたる人は誰?ということで
世間でこの人だろう、と言われてる面々が列挙されたわけです。
それだけの話ですね。イエスをほめるヨハネがエリヤと称されるのは
マラキ書3章23節で「恐るべき主の日」の前にエリヤを遣わす、と書いてあるからでしょう。
続く文章によれば、彼は、地上を破滅させないよう、父の子の心を、子の父の心を向けさせる存在とされます。
エレミヤ書には新しい契約が結ばれるという予言もありますが、
新約聖書にはイエスをこうした「新しい時代をもたらす存在」
「聖書に予言された存在」にしようとする記述にあふれてます。
彼がロバに乗ってきたことすら予言されていたことにするほどです。
先に書いたように、(旧約聖書では)エリヤは天に引き上げられ、死んでません。
イエスの臨終の言葉を聞いて「エリヤでも呼んでるのか」という人がいたことは、
彼が(遠く離れたその時代でも)地上の人々に手をさしのばす存在だという
信仰・考え方があったことを示しているのでしょう。
そして、福音書にある通り、エリヤやモーセ(こちらは死んでます)は天に住まっています。
少なくとも福音書記者にとって、エリヤが死んでおらず、加えて天上にいるのに、
別の人を「エリヤ」と呼ぶことは矛盾するものではなかったわけです。
イエスがよくたとえ話で教えを説いたこともこれを了解しやすくしたと思います。
228 :
神も仏も名無しさん:2008/12/08(月) 12:19:36 ID:1l6/8IYE
>>225 旧約での罪への応報もまた「神の業」です。
罪への罰として神が災いを人やイスラエルにもたらすわけです。
親の罪でもなく、本人の罪によるものでもないということは
「前世」が現世での状況に影響する、という教義が否定されるということです。
現世での「生まれつきの盲目」という結果を生む罪は、「生まれる前(前世)」にしか犯せないからです。
そして人間は生きている限り、善行したり罪をおかします。
よって、イエスのその発言は「前世」の存在を肯定するものではないということになります。
「低我パーソナリティー」という概念を新たに導入して辻褄を合わせようとしているということは、
ジニーン・ミラーさんもそこらへんの矛盾を自覚なさってるんでしょう。
フィルターを用意しないとその場で否定されてしまいますからね。
この当時、他宗教の観念が実際にそこに流入していたのかもしれませんね。
ともあれイエスは「本人の罪により、生まれながらに盲目にもなる」という考えを否定したわけです。
それに対して、あくまで「神の業」が人間の生を定めると述べました。
各人が歩む運命という重大事についてナンセンスで済ませるわけにはいかなかったのでしょう。
相手にしたら認めていることになる、という理屈こそナンセンスです。
229 :
神も仏も名無しさん:2008/12/08(月) 12:24:50 ID:1l6/8IYE
>>226 >日蓮は、男女の交合の喜悦が南無妙法蓮華経である、と教えている。
出典は何でしょうか。
230 :
神も仏も名無しさん:2008/12/08(月) 17:29:59 ID:iAyORQAG
>>229 層化が用いている日蓮の遺文集で、御書と彼らが言ってるものだ。
残念ながら、そこを引用できないが、それの根拠となる大乗経典がある。
それは理趣経という経典で、それに関係した教えである。しかし、その経典は
快楽が真理真実である言っていないと思う。日蓮が読み違えているのであると思う。
日蓮は、法華経自体をも読み違えている人であり、すべての仏典を読み違えている。
読み違えているというか、大事な仏の知恵、真理真実としての空諦を理解していないのである。
231 :
神も仏も名無しさん:2008/12/08(月) 20:23:20 ID:iAyORQAG
肉欲と真理真実の関係を論じたいときは、この理趣経を題材にするのがベストだ。
232 :
神も仏も名無しさん:2008/12/08(月) 21:01:43 ID:iAyORQAG
第一段 欲望は浄らかなり(大楽の法門) 金剛さったの章
その最初の教えは「一切の存在(法)は清浄である」という教えである。このことについて、大日如来は十七の清浄なる菩薩の境地をあげて次のように説かれた。
男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。
欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である。
男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である。
異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である。
男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である。
欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。
男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である。
男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である。
自慢の心も、清浄なる菩薩の境地である。
ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である。
思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である。
満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である。
身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である。
目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である。
耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である。
この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である。
口にする味も、清浄なる菩薩の境地である。
233 :
神も仏も名無しさん:2008/12/08(月) 21:04:59 ID:iAyORQAG
>>232つづき
以下の続きが大事なのである。
なにがゆえに、これらの欲望のすべてが清浄なる菩薩の境地となるのであろうか。これらの欲望をはじめ、世のすべてのものは、その本性は清浄なものだからである。
ゆえに、もし真実を見る智慧の眼である般若を開いて、これら一切をあるがままに眺めるならば、あなたたちは真実の智慧の境地に到達し、
すべてみな清浄でないものがないという境地になるであろう。
金剛手菩薩よ。この清浄なる境地を生み出す真実なる知慧の理趣(みち)を聞かされたならば、すべての障りは速やかに消え去り、
光り輝く菩提(さとり)の道場(にわ)に入ることであろう。すべての障りとは、貧りや瞋りなどの煩悩の障り、法(教え)を聞きえない障り、
悪業のみをなす障り等で、これらすべての障りを積み重ねても、地獄の境涯に落ち入るようなこともなく、
重い罪を作ったとしても、それを消滅することは難しいことではない。
234 :
神も仏も名無しさん:2008/12/08(月) 21:08:14 ID:iAyORQAG
>見る智慧の眼である般若を開いて
とあるように、この般若の知恵に基づいて、キリスト教や、仏教の、その他の宗教が禁ずる
、肉欲の教えを、判断しなければならないのである。
235 :
神も仏も名無しさん:2008/12/08(月) 21:16:14 ID:iAyORQAG
大乗経典に言う般若の知恵が、原始経典に言う般若の知恵と異なるところが少しでもあるものなら、
大乗経典は、釈尊の教えではない、と断言しなければならない。しかし、同じなら、
大乗経典を釈尊という正覚者の教えそのものであり、その異なる展開に過ぎないと判断しなければならないのである。
そして実に、この般若の知恵こそ、キリスト教のイエスや預言者の知恵であり、
古代ギリシャの哲学者の説く真理真実であることを知らなければならない、と思う。
236 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/12/08(月) 22:19:57 ID:LEBvrHBW
被造物である人間が造られざる存在(唯一の神)を希求するのは、自分の粗雑な思考をおさめるため
〔神いわく〕ひとは、どれだけの日時にわたって修行者の行いを行うべきであろうか?もしも自分の心を
制することができないならば。
〔尊師いわく〕亀が諸々の肢体を自分の甲羅のなかにひっこめるように、修行僧は、自分の粗雑な思考を
おさめとり(神々との対話)
結局、被造物である人間である以上「世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない」を知るだけである
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとして
も、その言葉どおりになるであろう」造られざる存在を知っても、人間の状態ではそれほどの信仰はない。
「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みによ
り、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである〜どこにわたしたちの誇りがあるのか。
全くない」(聖書)
勿論、神は「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」の無い「地上のものに心を引かれない」『神の右』の世界を
知っておられるし、被造物の人間のことも知っておられる。
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった〜御子によって、この世が救われるためで
ある〜真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らか
にされるためである」(ヨハネによる福音書)
237 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/12/08(月) 22:21:59 ID:LEBvrHBW
たとえ言うことを聞いて守れなくても、神によって被造物が善をわかるようにされたのだから、人間の思考
によって枉げてはいけない。
「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイ)
「欲情が邪道と呼ばれる」(神々との対話)
「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな」(マタイ)
「善を喜び〜すなわち『わたしは何を食べようか』〜『今夜はわたしはどこで寝ようか』家を捨て道を学
ぶ人は、これらの憂いに導く思慮を抑制せよ」(ブッダのことば)
「わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であっ
たときに着せ、病気のときに見舞い〜『主よ、いつ、わたしたちは〜」(マタイ)
「学び修めた賢明な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ・貧窮なる人々、
旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ」(神々との対話)
肉欲を満たすことを誰もが善いこと、正しいこと、清いことと考えてはいけない。
人をあわれんでも、本当に正しい人は、自分を意識せずに行い、自分は正しい人、善人と誇らない。
肉欲を満たすことを正しい・清いとできないように神によって決められているのである。目の前の人が、
飢え苦しんでいるのを自分を善人と誇らず助けることは、本当に正しい人と決められているのである。
被造物である人間が信仰を増そうとするなら、肉の思いの行為を離れることで、肉の思いでいる時は、
言葉を受け入れ、誇らないでいることで、少しずつ真理に近づこうとする。
238 :
文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ :2008/12/08(月) 22:23:39 ID:LEBvrHBW
【下界はこの世】
「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、
自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ」
「自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。また、大ぜいの人
が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。彼らは、貪欲のために、甘
言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう〜神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、
彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた」(聖書)
「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して〜能力(神通力)あり、直く、正しく、ことばやさしく、
柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、
生活も簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。他の
識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない〜諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保
ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろ
う」(ブッダのことば)
平安の境地を知れば全てわかる。冷酷・無慈悲を避け、怒り・憎しみ・敵意・怨み・妬み・思い上がりな
どを避け、それらの思いが発生したなら、速やかに取り除こうとする。
他人から貪り取ろうとせず、諸々の欲望に関する貪りを除こうとすること。
執着するもとのある人は、愚人と認めて、それを誇らないこと。
239 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/12/09(火) 09:29:37 ID:zTK5DlYs
ホントはお釈迦様が悪いんだけど
俺が悪いことにしとくよ
と
キリストは十字架にかかりました
オリジナルラブです
240 :
神も仏も名無しさん:2008/12/09(火) 18:22:12 ID:uk8yMNMe
>>238 ぐだぐたと訳の分からんこと言ってないで、正しい禅定でも修してはどうか。
241 :
神も仏も名無しさん:2008/12/09(火) 18:51:34 ID:jNkhPeK3
>>232 経典ってびっくりすること書いてあるんだね!
仏教やっている人って、そんな思いを込めて、信仰している。
242 :
神も仏も名無しさん:2008/12/09(火) 21:16:55 ID:9b7Fd/1E
>>241 びっくりしてはいけないのだ。
これのことはすでに原初から言われていることだ。
具体的に性行為を表現したのはこれが始めてであるが。
どんな恐ろしいことが現前しても、それは縁起現象であるので、実体はなく、
清浄があるのみである、ということをしっかりと信仰しているのが仏教徒であり、
真正のキリスト教徒、回教徒、その他の聖者である。
243 :
神も仏も名無しさん:2008/12/09(火) 22:13:02 ID:jNkhPeK3
>>242 でも、彼女のいない人はどうするのだ?
正しい禅定とかで、彼女が見つかり、その幸せがつかめると?
男女関係は人生の中で大きなウエイトを占めているからね。。。
仏教の正しい禅定って何?それでその幸せが得られる仏教の教えは
人生の根本的な問題解決だからね。
どうすれば彼女が見つかるのだろう..............
244 :
神も仏も名無しさん:2008/12/09(火) 23:03:11 ID:9b7Fd/1E
>>243 >彼女のいない人はどうするのだ?
仏教でもその他の宗教でも、彼女を作ることを良いこととしてはいない。
仏教では、釈尊が阿南という弟子が、結婚の式を挙げたその夜、説得して
出家させたという話がある。結婚して家庭を持つということは、
ニルバーナを目指す方向と反対の方向に進むものなのだ。
245 :
神も仏も名無しさん:2008/12/09(火) 23:22:58 ID:jNkhPeK3
男女が抱き合って満足するだろ?
どんな男女が抱き合っても、現前しても、それは縁起現象であるので、
実態はなくでゴマカスのかい?それじゃ、仏教っていんちきじゃん。
それともソープランド?
仏教がいんちきだから、普段から坊さんに布施して仏壇拝んでおしまい
ってわけ?
いんちきすぎて、まともな人間はそれに気づきしないだけになるな。
信者は世の中の笑いもの(WWW
246 :
神も仏も名無しさん:2008/12/09(火) 23:29:18 ID:9b7Fd/1E
仏教でも、回教徒同じに、負傷不滅という真理真実を説く。
いまだかって何かが生じたことはなく、未来においても何かが滅するということはない、というのが心理真実
である、という道理が導かれるのだ。あなたが結婚し、子供を何人儲け様とも、それは真理真実ではなく、
真理真実には、結婚とか、子供の誕生などというものは無い、ということになるのである。
これが印理真実であるので、結婚を求めて執り行うということは、真理真実を求めるもののすることではない、ということになるんである。
247 :
神も仏も名無しさん:2008/12/09(火) 23:32:55 ID:9b7Fd/1E
訂正
回教徒同じに→回教徒も同じに
負傷不滅→不生不滅
心理真実 印理真実→真理真実
248 :
神も仏も名無しさん:2008/12/09(火) 23:38:29 ID:jNkhPeK3
異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である。
男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である。
欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。
男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である。
結局仏教って、仏壇拝んで坊さんに布施させられておしまい。
できない人には、ゴマカスだけ。普段、詐欺まがいの教えだから、お経って読まないんだ
ろうな。やっぱりな、エッチは菩薩の境地だけど、エッチは真理真実でないとかいって、
仏壇拝んで、布施しろだけだよ。
249 :
明解:2008/12/10(水) 08:19:00 ID:Cm73g50p
この世の真理真実は、唯一神が知っている。
唯一神の心を知れば、この世の真相がわかる。
250 :
神も仏も名無しさん:2008/12/10(水) 18:17:15 ID:Ybm3c/Sc
色も音も香りも味も満たされる世になり仏壇は満たされぬ目的を果たす
ように作られる また満たして飽きた場合、人類は捨て去る場合も有り
得る
大陰唇・小陰唇の扉を開き、その中にある大事な物を拝むよう作られ、
毎日同じような行為ができるようにしてあるではないか
カラオケでストレスを発散するように、声を出して教本を読み(お経)
文字を声を出して読むことにより、健脳となるようしてある
男女関係もただの感覚によるもので、毎日女性性器の扉を開けば欲心が
薄れていくように、仏壇の扉を開き、その中の大切な物を拝むことは、
きちんと、人間が生き続けるために大切な行為をさせているのである
人間の感官は実態はなく、行為そのものを同一化することによって、
生命が後々まで続くように、忘れないようにさせるために仏壇はある
のだよ
251 :
神も仏も名無しさん:2008/12/10(水) 18:34:04 ID:Ybm3c/Sc
色も味わいも音も香りも満たされぬ時代は簡素であり、その時代が来るまでの
準備期間であった 簡素な仏壇から現代の仏壇に至った理由はある
人々が色や味わい音や香りといったものに満たされ続けた場合、人類の存続に
かかわる重要な行為を忘れてしまう場合も有り得る
そこで大陰唇・小陰唇の扉を開き、その中にあるものは大切なものとして行為
だけは忘れさせないように、仏壇の扉を開き拝むことは大切とする理由はある
のだよ
そしてストレスによる性欲の減退、健脳により子供を養えるようにしてあるの
だよ
今はまだそのような時代ではないが、遠い未来、そのようなことが起き得ると
予測して、仏壇を拝む行為はあるのだよ
きちんと科学的な要素はあるのだよ
252 :
神も仏も名無しさん:2008/12/10(水) 21:24:31 ID:+tBGyGNS
>>248 いかにあるような、条件付であることを忘れないでください。
欲望が満たされた状態ばかりではなく、悲惨な状態もまた、菩薩にとっては清浄な状態なのです。
一切は縁起しているものゆえ、一切は空相無我であることを理解しているので、菩薩は、一切に心が動かされることが無いのです。
「ゆえに、もし真実を見る智慧の眼である般若を開いて、これら一切をあるがままに眺めるならば、
あなたたちは真実の智慧の境地に到達し、すべてみな清浄でないものがないという境地になるであろう。」
253 :
神も仏も名無しさん:2008/12/11(木) 18:50:34 ID:Zw0SXLQu
この清浄なる境地を生み出す真実なる知慧の理趣(これを般若の知恵といっている)を聞かされたならば
そして、それを理解し信仰するにいたるなら、その人は仏の子となって誕生したものであり、
仏の家系に連なるものとなったのである。信仰を完成すること、これが修行を完成することなのであるが、
これを完成すると親である仏と同等の仏となるのである。
イエスが、信仰が足りないといわれたのは、この修行が足りないという意味であると思う。
また、ニコデモに、あなたは生まれ変わらなければ天国に入れない、といわれたのは、
この神を信仰することに目覚めなければならない、という意味であると思う。そうでなければならないはずなのだ。
この点、キリスト教はなんら説明しないので、大事な教えを、致命的に欠いているのであると言わなければならないと思う。
254 :
神も仏も名無しさん:2008/12/11(木) 23:55:45 ID:5Rn89JtB
>>230 その「御書」のタイトルだけでも教えて頂ければ結構です。
255 :
神も仏も名無しさん:2008/12/12(金) 03:23:20 ID:lUXdP0O/
>>254 その遺文のタイトルを知っているなら、出し惜しみをしません。
熱心な創価学会印に聴けば教えてくれるかもしれません。私はそうして
知ったのです。
そして、わかったときはここに掲載してほしいです。
256 :
神も仏も名無しさん:2008/12/12(金) 09:58:56 ID:lUXdP0O/
257 :
宗教:2008/12/12(金) 17:00:39 ID:wdHYK9on
>>1 仏教もキリスト教も教えは同じと思う。
自分の欲望を抑えて、分け与えましょう。ということ。
お釈迦様は例えば、朝ご飯を食べたとして、昼ご飯の備えをしなかった。
何ももたないのだから。家も、お金も、服も。 托鉢とはそういうこと。
働かないということではない。
キリスト教も金持ちが天国へいけるなら、象が針の穴を通る方が簡単と
いったという。
金持ちはお金を持っている。全く正反対のことをしているのだから、
その一事で、教えとは正反対ということになる。
仏教にしても、キリスト教にしても、後の世には、正しく伝わっては
いない。以前、仏教の本を探したが、お釈迦様はそのようなものを
残していないことがわかった。キリスト教も同様。
後の人が書いた書物が一杯ある。名残はあると思うが。
日本の仏教だが、鎌倉ぐらいにできたものだが、
大名がいばっている時代に、正しく伝えられなかっただろう。
(念仏を唱えて救ってもらおうとは、名残もない。)
カトリック教会なんてのは、所業を見ると悪魔と思う。
258 :
神も仏も名無しさん:2008/12/13(土) 09:38:29 ID:TuWe+Nfb
>>255 この件について裏をとってはいないということですね。
259 :
神も仏も名無しさん:2008/12/13(土) 10:23:47 ID:fYUwOm/d
>>258 熱心な創価の人から聞いたのは、創価関係のスレにおいてでした。
二度その文面を取得しました。そのスレのそのレスを探したのですが、もう無いのですよ。
260 :
神も仏も名無しさん:2008/12/13(土) 18:11:15 ID:fYUwOm/d
立川流というのがあったそうだね。そしてそれはかなりの影響力があり、
真言教徒の対部分を信者にしたというではないか?
この理趣経の説いてるところが正しく理解されなかったのだ。
大楽というのはニルバーナのことである。
261 :
神も仏も名無しさん:2008/12/13(土) 18:21:09 ID:cpL5A0PO
自分で検索してみたところ
四条金吾殿御返事が出典のようです。確認がまだでしたら
層化サイトの御書検索で「男女交会」でぐぐってみてください。
262 :
神も仏も名無しさん:2008/12/13(土) 19:37:18 ID:fYUwOm/d
ここにどのような理法があるといえる?押し付けでしかない。論理の無い押し付けなのである。
「まさしく男女交会のとき南無妙法蓮華経ととなふるところを、煩悩即菩提・生死即涅槃と云ふなり。
生死の当体不生不滅とさとるより外に生死即涅槃はなきなり」。まさしく男女の交わりの時に南無妙法蓮華経と唱えることを、
煩悩即菩提、生死即涅槃というのであります。
そもそも人間の男女の交わりというものは、人間ばかりではなく、あらゆる生きとし生けるものの大事な働きであります。
虫の世界でも鳥の世界でも獣の世界でも、男女、雌雄の営みがあって、新しい生命を産むわけであります。そのことによって生命が繋がり、
社会が維持されていくという大事な働きであります。 男女の交合は、六道の働きのうえに現れた一つの姿でありますけれども、
そのなかに煩悩即菩提、生死即涅槃の原理が具わっているわけであります。その妙法のもとにおける煩悩は、
煩悩を超えて菩提へと導くことができる。生死を超えて涅槃へと導くことができるのであります。
263 :
神も仏も名無しさん:2008/12/13(土) 19:43:46 ID:fYUwOm/d
とにかく日蓮の言うことは押し付けにほかならず、妄想に過ぎないのだ。
264 :
神も仏も名無しさん:2008/12/13(土) 22:06:33 ID:fYUwOm/d
しかし、インドで誕生した大乗経典は、そこには修行を完成した人が見受けられる。
インドではこれほど修行を完成した人が居たのだろうか?居たものといわざるを得ないな。
その理法が理法であるがゆえに、理解され、修行しやすいものだったからだと思う。
265 :
神も仏も名無しさん:2008/12/15(月) 19:58:49 ID:hvg2fZvA
縁起してる現象には実体が無いので、男女の交合も、幻である。
ゆえに、遊女の罪も許されるのである。遊女は戒律の大きいものを破らせる
行為をするものだから、この世ではもっとも、値打ちの無い捨てられるべきものであるが、
そしてこの世では捨てられているものであるので、この世に未練は無く、反転して
天国に入りやすいのであると思う。反転とは、姦淫という罪の真実を知って、
真実の世界、天国に入ることである。一方この世で、よきことをしているという意識のあるものは、
その意識そのものがあるがゆえに、それが障害となって、天国に入りにくいのであると思う。
この世の名誉につながっているから。
266 :
神も仏も名無しさん:2008/12/17(水) 06:29:06 ID:DEIyse3S
・・・・・・・・・・
10点
268 :
神も仏も名無しさん:2008/12/19(金) 05:23:28 ID:BXsGpCDX
・・・・・・・?
269 :
神も仏も名無しさん:2008/12/19(金) 18:50:57 ID:BXsGpCDX
福音書に、イエスの名の故に、差別を受けるときは、躍り上がって喜べ、とかの教えがあったね。
これはどうしてか判る?
270 :
神も仏も名無しさん:2008/12/20(土) 13:28:12 ID:6wYLa5he
>>269 真実につくものと、虚偽につくものと分かれることになるから。
虚偽につくものは、一切がうそ偽りのものを得ることになる。
真実につくものは、一切が真実なものを得ることになる。
差別行為が、いっそう真実に追いやり、またいっそう虚偽に追いやることになる。
であるから、差別というものは、単純に悪いものと考えられない、ということではないか?
差別するものが害を受けるが、されるものは害を受けない、というのが真実真理であるから。
ところで、真理の言葉の投稿が無くて寂しいね。
271 :
喜捨愛:2008/12/21(日) 12:41:56 ID:aAW4iF1t
◆◆◆ 神を信じれば死も何も怖くなくなります ◆◆◆
神の愛を信じる人は、もう死も何も怖くなくなります。
神がどんな怖れもすべて人から取り除いてくださいます。
神は愛であり、愛はすべての恐れを取り除くからです。
もう、死の怖れも何の怖れもありません。あなたの愛がすべてです。
アーメン。主よ、あなたの愛に限りない感謝をささげます。
272 :
神も仏も名無しさん:2008/12/21(日) 16:03:51 ID:h6OdsnOQ
般若経典群のひとつに、名前はやたらと難しいもので、梵語を漢字で音写したものかもしれない、その経典の中に、
菩薩が自分に情欲を抱いた何十人もの女たちに、幻を与えて満足させた、というところがある。
273 :
神も仏も名無しさん:2008/12/22(月) 06:13:03 ID:6qJGN9GM
>>271 愛というものはなんとなく判る。その愛が神なのか?
その愛は不安定なものだ。神は信頼できないではないか?
不安定なのだから。
274 :
自愛(ミズカメ):2008/12/22(月) 07:38:21 ID:tD3UeEaW
愛というものは、曖昧でよく解らないが、「愛でる」の愛なら解る。
愛でるとは、かわいがる・いつくしむという意味だ。
親が子を可愛がる・慈しむ心なら、誰だって持っている。
神の愛とは、神が人間を、我が子のように可愛がり、慈しむというものではなかろうか?
275 :
神も仏も名無しさん:2008/12/22(月) 19:25:26 ID:6qJGN9GM
パウロの愛の定義こそやかましい銅鑼のようだw。
276 :
神も仏も名無しさん:2008/12/22(月) 19:36:10 ID:UnAsIWfs
ひとつ言えるのは、聖書にしても仏典にしても
直接本人たちが書いた訳じゃないいうこっちゃ
277 :
神も仏も名無しさん:2008/12/22(月) 21:33:46 ID:6qJGN9GM
>>274 >神の愛とは、神が人間を、我が子のように可愛がり、慈しむというものではなかろうか?
そのように慈しんでくれるのなら良いのだが。
どうだろう、津波で何十万人もの家族を形成する人の命を奪うのは神ではないのか?
その他の災害ででも同じだ。どこに愛があるのだろうか?
278 :
神も仏も名無しさん:2008/12/22(月) 22:45:22 ID:6qJGN9GM
>>277訂正
>人の命を奪うのは神ではないのか→人が地震やその他の災害で命を奪われ
る時、泣き叫んでも助けが無いのは、どうしてか?
279 :
神も仏も名無しさん:2008/12/22(月) 22:49:56 ID:6qJGN9GM
何の助けも無いので、愛である神は居ない、というのが正しいのでは?
それとも、助けが無いのは、その人が神の子ではないので、なのか?
愛とは神のほうから人間に向かうものなのか?それとも、人間のほうから神のほうに向かうものか?
280 :
神も仏も名無しさん:2008/12/23(火) 05:28:26 ID:PrgCGKAg
モーゼは、心を尽くし神を愛せよ、自分を愛するように隣人を愛せよ、といった。
これによれば、神とは愛されるべき存在であり、隣人も神と同様に愛されるべき存在である。
ここで、神と隣人とは同一なもの、さらに、神と隣人と、自分とは同一なもの、では無いか?
まったく同一なものである、というと反論もあると思う。神と隣人(人間)とは区別してるんだから。
それなら、神に対する愛と、人間に対する愛とは、どのような部分で同一であり、どのような部分で異なるのか?
そして、神が愛なら、神を愛するとは、愛を愛するということになる。
それから、モーゼの教えの中には、神が人間を愛するという意味はまったく無い。
キリシタンよ、この点を説明せよ。
281 :
自愛増す(シメマス):2008/12/23(火) 10:22:30 ID:R6ewqJB9
「神と隣人とは同一なもの、さらに、神と隣人と、自分とは同一なものであり、まったく同一なものである」
だから、神の愛は、自分自身を愛すること。
究極の愛だ。
「神・隣人(他人)・私」の三位一体は、即ち神ご自身のことである。
絶対唯一神は、唯一人の存在である故に、自らを愛するより他の愛は知らぬ。
それが、真理の真相だ。
282 :
神も仏も名無しさん:2008/12/23(火) 14:02:38 ID:PrgCGKAg
>神の愛は、自分自身を愛すること。
生老病死の自分が神か?こんな自分を愛する値打ちがあるのか?
283 :
自真伝(シマツタ):2008/12/24(水) 12:17:58 ID:2bf8Jo3d
自分を愛せない人は、他人も愛せない、神も愛せない。
神の愛は、恋人を愛するようなものではないのでは?
神の自愛は、慈愛なんだろうね。
普く広く。
死ぬ人は不幸だと思いがちだが、必要あって生まれてきたのならば、必要あって、死なねばならない。
もともと、生があるから死があるものだし・・・。
神が勝手に生まれさせたというなら、勝手に死なせることもあろう。
恨んでも始まらない。
人間にはどうしようもないのだからね。
284 :
理性:2008/12/24(水) 13:03:19 ID:2bf8Jo3d
「◆◆◆ 神を信じれば死も何も怖くなくなります ◆◆◆
神の愛を信じる人は、もう死も何も怖くなくなります。
神がどんな怖れもすべて人から取り除いてくださいます。
神は愛であり、愛はすべての恐れを取り除くからです。
もう、死の怖れも何の怖れもありません。あなたの愛がすべてです。
アーメン。主よ、あなたの愛に限りない感謝をささげます。」
本当に信じていますか?
明日、死んでも後悔しませんか?
迷いはありませんか?
心の底から、そう言えますか?
あなたは、神の奴隷、神の道具になれますか?
285 :
神も仏も名無しさん:2008/12/24(水) 19:17:54 ID:0r5BJHcl
>>284 だから、その愛の説明を求めているんじゃない。
こちらは神の愛というものが判らないといっているのだから。
286 :
理性:2008/12/25(木) 08:16:44 ID:6Vs+Nc8T
あなたの心に愛はありますか?
あるのなら、それが「神の愛」です。
人間も神も心は同じですから。
287 :
神も仏も名無しさん:2008/12/25(木) 08:55:47 ID:dty/Uf8V
愛とは何か対象を持つのではないのか?
それでは説得力は無い。
愛とは何を愛といっているのか?
288 :
理性:2008/12/25(木) 09:51:34 ID:XDZt9O6a
対象は、我・私・自分。
そこから生まれる「自らの愛」。
出発点は自分自身。
神も同じ。
自愛が慈愛に至る愛から、博愛へ。
あなたは、愛を求めて与えることを知らないか?
自分を愛するように、神を愛するのだ。
289 :
神も仏も名無しさん:2008/12/27(土) 07:07:12 ID:LD7l6Kr/
ま、パウロという人は、キリシタンの模範のような人というべきなんだろう?
その模範が、わかりやすい道理を説かないで、押し付けの教えを宣伝するというのは、
イエスキリストにとっては、良い感じしないと思う。だいたいパウロは、
イエスの山上の垂訓などのような言行録にまったく言及すらしないのだ。
イエスのもっとも大事な教え、真実である神について説明しなかったのだ。
少なくともこのスレでは、パウロの愛の説明は、それから犠牲などというものは、
その嘘が暴露されるであろう。
290 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2008/12/27(土) 10:28:32 ID:Da28zcIq
(1)明らかに智慧のない行為の批判
呪文・くどくどと祈る行為、葬儀での成仏、供え物、偶像礼拝、宗教行為での功徳、誓い、
呪詛のような作法をしそれらに何らかの効力があると思う無知、意味の無い言葉を唱える
無知、他人に従属すること。
(2)つくられざる存在(正しい教えに導く仮の教え=方便)
自己も世の中も存在しない、自分の思い煩いも世のこころづかいも存在しない、一切の悩
み苦しみから解き放たれる。
一切が安穏で安楽で幸福。母が命を賭けても護るように、一切の生きとし生けるものに慈
しみの心づかいをしっかり保て。友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛は
ない。神を知っても、肉欲の悩みは無く、全てが苦しむことも困ることも無いことを何よ
りも素晴らしいとしている。(あわれみ・慈悲)
(3)つくられなかったほうが幸せであったということはない
自己こそかわいいものは存在しない。
この世で自己より愛しい者は存在しなかった、そのように他人も自己が愛しいのである。
自分を愛するように、あなたの隣人を愛せ。
道を修して学び修めた賢明な人は、食乞う者、かわいている者、貧窮な人、宿の無い人な
どに施し与えよ。
(4)常に罪汚れない状態でなくてよい
この世でつくられざる存在と共に在するように、欲望を捨て去る修行に励み、悩み苦しみ
の無い状態を目指さなくてよい。誰もそなたのために働いてくれる人はいないと心得て、
働いて衣食、自分の幸せを適度に得ること。
291 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2008/12/27(土) 10:29:40 ID:Da28zcIq
(5)主
修行僧は自分をよくととのえて自分の主となる。修行僧は自分をよくととのえて諸々の幸
せを得る。闇から光、光から光。愛し合えばかなえられる。イエスは自分を主として、御
言に従えと教える。
(6)天にあるもの地にあるものをひとつに(中道)
地上で苦しいことがあっても、過ぎ去った天ではほんの僅かな出来事だと思うようになる。
つくられた世界は、つくられざる世界とは正反対に、肉欲もなく全くの幸せである。肉欲
を満たすごとに苦しみを味わっているようにして下さった。
たとえ、何も持たなくても、みじめな者であっても、肉を誇る者を愚かにし、誇らない者を
高いと神はして下さった。しかし、つくられないほうが良かったとつくられた存在を冒涜す
ることはない。神は自然を創造し、快楽よりも自然は楽しいし、敵意・憎まない・怒らない
ことは楽しい。ゆるすことは楽しい。愛することは楽しい。金に執着するよりも、働いて得
ることは楽しい。悩まないことは楽しい。つくられた者は、地上でつくられざる存在ととも
に在することで、苦悩を回避できる。また、肉もある地上で、幸せを得ることも可能として
下さった。
苦しみの彼岸として、つくられざる世界が幸せとは限らないのである。
(7)魚を釣る
法を行えなかった人を、偶像礼拝で釣る。
292 :
神も仏も名無しさん:2008/12/29(月) 23:25:10 ID:rV1u7TVj
愛の説明はキリシタンでもわかるように説明できないだろう。
愛というのは「ヨサゲ」な言葉なのだ。
293 :
神も仏も名無しさん:2008/12/30(火) 09:22:42 ID:5WrK03P3
自分の命を賭けても護るような隣人の愛、妻子への愛が持てなかった
ので、仏教修行僧には結婚させなかった。
愛は説明して得られるものではないので、孤独な修行の道を選ばせた。
釈迦は世を尊ぶ世尊であった。
294 :
神も仏も名無しさん:2008/12/30(火) 11:21:02 ID:5WrK03P3
修行を積んで死に打ち勝った修行僧は死を望み、死を思い自殺した。
師は答えた「思慮ある人々は、実にこのようにするのである。ゴーディカは
安らぎに帰したのである。」と。仏教的に思慮あり立派な人は、そのように
すればよいとなる。
生存の貪欲を捨てきれず、世の苦悩を厭い離れ、安らぎを楽しむ人は、世捨
て人となり、世間にいないはずである。思慮ある人は、そのようにすべきで
ある。
修行完成して一切の生きとし生けるものをあわれむ仏陀を目指す人は、生き
ものをあわれむよう目指せばよいのである。
ブッダは現代で言ったらヒンズーの聖者に近いよね。
296 :
神も仏も名無しさん:2008/12/31(水) 18:03:01 ID:TE/AEdhe
シャンカラの不二一元論。隠れた仏教徒といわれていたそうだ。
いやこれは仏教そのものだ。
ああ、真理は常に一つのものとして究められるのだな。
297 :
神も仏も名無しさん:2008/12/31(水) 18:25:49 ID:TE/AEdhe
シャンカラの不二一元論。隠れた仏教徒といわれていたそうだ。
いやこれは仏教そのものだ。
ああ、真理は常に一つのものとして究められるのだな。
298 :
神も仏も名無しさん:2008/12/31(水) 21:49:55 ID:TE/AEdhe
イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、神秘主義の特質を下記の3点にまとめている。「あらゆる分離は真実でない。宇宙は不可分な統一である」、
「悪は部分を実体と考えることから生じる幻影である」、「時間は実在しない。実在はまったく時間の外にあるという意味で永遠である」(RELIGION AND SCIENCE, 1935)。
このような神秘の特質は、キリスト教の普遍性を日常生活に不必要なまでに拡張した歴史を垣間見ることが可能で、
宗教を相対化することに成功した先進国の日本ではそういう現象は僅少である。
しかし逆輸入された神秘主義的新興宗教に悩まされオウムなどに至ったがその勢力は小さい。
wiki神秘主義
299 :
神も仏も名無しさん:2008/12/31(水) 23:32:11 ID:0Y7K45l0
ようはキリストは真理を悟ったけどそれが
とても神秘的だったので神のお告げか何かと言った
自分の頭でいろいろな常識や物事を疑って考えれば
おのずと真理が理解できる
キリストや釈迦の言葉を引用したりして云々する必要はない
300 :
神も仏も名無しさん:2008/12/31(水) 23:38:06 ID:0Y7K45l0
まずさまざまな知識を取っ払って考えよう
キリストや釈迦もそのような無駄な知識を駆使して
真理を得たのでは無いのだし
今の世にある理解するのが難しいさまざまな知識はほとんど
無駄だといっていい
シャンカラは釈迦並みの聖者。何故か日本ではそこまで有名ではないけど。
302 :
神も仏も名無しさん:2009/01/01(木) 12:18:21 ID:A2gTVZVh
>>301 シャンカラは、ヒンディー教徒で、ヒンディー教徒して伝道したからではない?
ヒンディー教徒なら、芝紳とかの神々を祭る。仏教徒なら、それらは排斥しないまでも、
仏陀以上のものとはみなさない。仏教のほうが合理的だな。
しかし、シャンカラが尊敬されている以上、彼の教えが力があるということだろう。
ヒンディー教と言うのはワケワカメだなw。
シャンカラはヒンズー教と言うよりもギーターや不二一元論。
ブッダの教えと同じく合理的だよ。
304 :
神も仏も名無しさん:2009/01/02(金) 12:00:18 ID:+Iur3xVc
シャンカラ不二一元論の有名な聖者は多い。
特に有名なのはラーマ・クリシュナ、シルディサイババとか他にも何人か居る。
306 :
神も仏も名無しさん:2009/01/02(金) 22:47:22 ID:+Iur3xVc
しかし、いずれにしても、真理真実として不二一元論が支持されているという、
ヒンディー教が繁盛してるということは、すばらしいことだ。
こうしてみると、真理真実が、道理として人々に受け入れられている
と言えるんじゃないか?
さて、縁起してるものは実体が無いが、縁起してるものは、これを厳密には、
縁起してるとみなし得るもの、これは一切をさすが、それぞれの異なる相は、平等に、
空相であり、空相は真実である故に、浄らかであり、浄らかなものは
光り輝くもので、美なるものである。この故に、浄土は、浄らかで美しい
世界なのである。
307 :
神も仏も名無しさん:2009/01/03(土) 09:15:32 ID:9/IWaaiQ
人はそれぞれにあるものに執着しているから、その間違いを正そうとして、
一切のものは縁起している、一切のものは相対的に存在している、固定的に存在
してるものは無い、という真理が明かされる必要が生じたのである。
善も悪も実体としてあるものではない。善と悪は同時に生じた。
308 :
神も仏も名無しさん:2009/01/03(土) 10:39:57 ID:9/IWaaiQ
善とは有身見を満足させるものであり、悪とは有身見を滅ぼすものである。
309 :
S谷ナ夫:2009/01/04(日) 00:25:39 ID:L7oC2bsD
バラサイババによると
イエスと仏陀はご同体らしいですね。
310 :
神も仏も名無しさん:2009/01/04(日) 06:51:32 ID:HvXy2KZI
>>309 バラサイババなんて聞いたことが無い。
詳しく説明してくれ。
311 :
神も仏も名無しさん:2009/01/04(日) 09:39:37 ID:HvXy2KZI
しかし、諸法の実装が一相であるという真理真実を説くものがインドには多いね。
ギリシャローマ世界でも、ここまで言い切っているものは、パルメニデスとプロチノス
だけだ。彼らが教団を形成したという事実は無いんだな。いやないというと間違い。
あったが、それがインドに於けるように大きくなっていないんだな。
インドでは、この真理真実は、ウパニシャッドで完結しているようだが、それがBC 5世紀
。それ以前からベーダにおいて尊重されていたのである。
このように真理真実が尊重されてきた国はインド以外にあるだろうか?
ヒンズー教のほうが仏教より人口が倍多いからね。それだけ聖者も多い。
聖者って何を根拠に言ってるの?
似非真理語ってるやつ多すぎて笑える
314 :
神も仏も名無しさん:2009/01/05(月) 08:37:55 ID:uQyijKtY
しかし、ユダヤとパレスチナの問題。
あすこはすごく生活しやすい気候の土地だ。
しかし、人間関係の問題で、戦争状態なんだね。
315 :
神も仏も名無しさん:2009/01/05(月) 21:28:24 ID:phsX67db
聖者とは不死の世界に至った人。この世から離れ、絶対的な境地に至ったため、肉欲を制す
ることにより平安を説く。その圧倒的な世界は、知らないとわからないため、救い主として
教えを語り、信仰対象となる。
敵を愛し、憎む者に親切にせよ。敵意なき怨みなき慈しみのこころづかいをしっかりと保て。
上では神の右に座し地上のものに心引かれてはならない。何も持たない者は楽しんでいる。
この世の有様は過ぎ去るからである。あなたがたは思い煩わないでいてほしい。
過ぎ去るものは虚妄である。ああだろう、こうだろうと考えても、それらは過ぎ去る。
肉の欲・目の欲・持ち物の誇りは神の愛はない。それらから厭い離れる修行。
世の中も自己も、絶対的な境地では自分ではないのである。
殺人・盗み・妬み・思い煩い・略奪・冷酷・無慈悲・非道・怒り・他をならかしめて自らの
利を欲する・他人の過失を探し求めることなどもないのである。
316 :
神も仏も名無しさん:2009/01/05(月) 22:10:42 ID:phsX67db
人にはなかなかできない妄執(悪しき者の配下)を乗り越え、世俗的な欲望はないが神通力
(神のわざ)により、奇跡を起こす。それが聖者となった証。
普通の人には、その激流を渡ることは困難なのである。
また、わたしは聖者と名乗り認められることも、他人から聖者と言われることも本当はない
のである。なぜなら、聖者は何でもでき、死人を生きかえらせることも、病人を治すことも、
容易いこととしてできるからである。
そして、この世の救い主として慈しみを説く。
そうですよね。
おそらく進化の最終地点なんでしょう梵我一如が。
地球の始まり〜プランクトンから人類までの進化
そこからイエスや釈迦までの長い道のりが創造主の意思で完成形なのだと思います。
ただ多くの人は迷妄に囚われてイエスと釈迦は違うのだと言い張りますけど。
>>314 18世紀の終わり頃までは、ガザ地区といえば綿織物の産地として栄えた平和で豊かな土地だったんですよ。
319 :
S谷ナ夫:2009/01/06(火) 02:21:56 ID:1Yo6nqqW
>>310 サティアサイババとそっくりなインドの聖者。
確かまだ四十代です。
320 :
神も仏も名無しさん:2009/01/06(火) 07:54:44 ID:zMMe3jem
>>319 シャンカラがどうしてインド最大の哲学者と言われるんでしょうか?
彼の功績は、やはり一元論をといているから、と言わなければならないでしょう。
しかし、それなら、仏陀を筆頭に竜樹世親、大乗の経典作者たちは、シャンカラに及ばないのでしょうか?
シャンカラは理屈だけでなく実践も伴っていたから。
322 :
神も仏も名無しさん:2009/01/07(水) 23:19:55 ID:2B7JsB+c
うむぅ。
真理真実は一つであるが、その表現方法が異なっているのではないか?
その表現方法がいくつでもあるということである。その表現方法により、
各宗派が生じているように思われる。
たとえば、ジャイナ教では、真理真実は無いという。真理真実というものが無いというのが
真理真実なのである。仏教は一切は無我であると説く、一切が無我であることが真理真実なのである。
真実真理は一つで無ければならず、されば、それは無相であることになるのである。
梵我一如というが、梵が真理であり、真理であるならそれは一つで無ければならず、
それに対抗するものがあってはならないのである。我がそれに対抗するものであってはならない。
これは畢竟、一切は無相であるといっているに他ならないのだ。
323 :
神も仏も名無しさん:2009/01/07(水) 23:24:47 ID:lwyC75Fr
>>317 イエスと釈迦は、人が死ねば完全な善となる。肉体は消滅し肉体以外のひとつ
の霊的な存在とひとつとなるとして、それを語っても何もならないから、道を
学ばせた。
イエスも釈迦も哲学なんて何もならないとした。
324 :
神も仏も名無しさん:2009/01/07(水) 23:33:44 ID:2B7JsB+c
>>323 仏教は理法といっている。理法とは理解の対象である。
理法を哲学というべきか、否かである。仏教が自らを理法というからには、
理法は哲学ではない。哲学が理法であるなら、仏教やキリスト教が否定する哲学とは、
理法ではないものである。しかし、哲学と簡単に言うが、その内容は様々ではないのか?
理法でないものまで、哲学といわれているのではないかということである。
325 :
神も仏も名無しさん:2009/01/07(水) 23:34:45 ID:lwyC75Fr
>>322 イエスは唯一の神、釈迦はつくられざるものニルヴァーナ。
それを追求する姿勢が違っていた。
326 :
神も仏も名無しさん:2009/01/08(木) 14:04:31 ID:Rm/oHpBX
釈迦もイエスも天に昇って神の横の座につくとか、私の輪廻は終わったとか、生物の進化の終了を感じさすことを言ってたからね。
これから何万年も経てば第二、第三の釈迦やイエスがどんどん現れるのではないかと。
327 :
神も仏も名無しさん:2009/01/08(木) 20:47:49 ID:PNKrW0zS
仏とか神の国はあなたがたのただ中にあるものだから、哲学的な断定によってそれに固執させる
ことなく、人は自然体でもわかるもの。その元となるものは、身破れて後わかるだろうが、たと
えば人々が幸せを得ようとしても、執着心のために争いかえって苦悩を生み出すことは正しいこ
とではないとか、世間の苦悩を厭い、自然の中で静かに暮らすことで、安らいだ幸せを得られた
とか、生きながら彼岸に到達しなくても、中間的な行いによって、悩み苦しみを回避できる。
人は苦しみを生み出すために行動するわけでもない。自分や種族の繁栄のみ願って、また動物の
ように、生物的な反応によって生きるのではなく、利益を目指さず、互いに他人の幸せのことを
考えて行動できるようになれば、人間の進化ではないか。
ここはレベル低いな。
329 :
神も仏も名無しさん:2009/01/09(金) 21:59:40 ID:19lVFufw
>>328 自分がレベルが高いと思うなら死を選べ。
ここは欲界だ。レベルの高い人は、自分の命を憎んだ。
自分が他人より勝れていると思う奴ほど知らない。
いや、中学生が小学生を幼いと
思うように、ここはレベル低い。
331 :
神も仏も名無しさん:2009/01/09(金) 22:04:11 ID:TSg14dMF
>>330 人を認めないお前は、ここで相手にされない。
そもそも、わかってる人は高い低いないから。
中学生は小学生と議論はしない。
可愛いと思うだけw
君達も可愛いよ。。じゃね。
334 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/01/10(土) 15:45:25 ID:Xai7k7iR
>>333 中学生と小学生は議論しない。大人と大人が議論しても議論で真理・真実から来る言葉は導
き出せない。実際不死の世界を知った人は言葉を尊重する。信仰を増そうとして、或いは道
を学ぼうとする人が、それすら否定するなら、本当の愚鈍であるということを知っている。
本当に高い人は、悪しき者の配下、妄執を乗り越え、地上のものに心引かれず、何でもでき
る不死の境地とともにある。神通力あり、たとえば山を動かすことも可能なのである。
そして思考も及ばず、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」
とも書いてあるように、決して死を味わうことのない、何でもできる崇高な者の世界は、全
ての人の考えで導き出せることはない。
地上の一切のものがつくれぬように被造物である人、アートマンである人の思いを悪しき者、
妄執によってつくり出したのである。だから、誰もが誇れることはないのが道理である。誇
るのは非我なるもので我ではないからだ。
335 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/01/10(土) 15:46:06 ID:Xai7k7iR
霊になり、不死の世界に至れば神通力あり何でもできるのに、
「このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、か
れは見る視力が無いという以外の何だろう」(ブッダのことば)
「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して〜自分を高くする者は低くさ
れ、自分を低くする者は高くされるであろう」(ルカ)
「他人の過失を探し求め、つねに見下して思う人は、卑しい性質が増大する。かれは実に真
を見ることから遠く隔たっている」(感興のことば)
「真理を見る者は何ものも存在しない」のに、この世でも、特異な教義に騙されて、自
分たちの特異な考えは、他の人たちよりも勝れていると言うなら、その人は愚鈍他なら
ない。何も知らないから、自己を自身と思い込む人の考えに騙されて、不朽を見ること
から遠く隔たっている。この世だけの限定的な考えで終わる。
愚鈍な者ほど、そういった理法がわからず、自分たちの特異な教義が他の教義より勝れてい
ると思い込む。賢明な人は、この世では誰も誇れぬ者だと悟って、他人を見下さないように
するのである。
336 :
神も仏も名無しさん:2009/01/12(月) 09:59:23 ID:vTBvpcEf
>>319 一昔テレビで話題になったあのぼさぼさ頭のサイババか?
奇跡はいんちきであるといわれて、信用を毀損されていたね。
社会福祉活動をたくさんインド国内でしてるそうですね。
インドには本物ではないかという程度の宗教家が多く生まれているから、
彼も、虚栄心という敵を知っているだろうね。
聖者といわれたいとか、聖者になりたいという虚栄心が、ある人のほうが、
まったく無い人々よりも、歓迎すべきではないだろうか?
337 :
神も仏も名無しさん:2009/01/12(月) 16:49:49 ID:vTBvpcEf
http://members.at.infoseek.co.jp/StudiaPatristica/philosophia3.htm 結論から言えば、以後の西洋哲学の歴史は、感覚と理性の対立の歴史だと言うことができる。
それは、感覚によって捉えられた生成変化する現実をそのまま受け入れ、それを真理(本当の姿)として認めるか、
それとも理性によって捉えられる何かしら永遠不変なものを真理として認めるかという対立である。
前者は一般に「経験主義」(empiricism)と呼ばれ、後者は先程述べたように「合理主義」(rationalism)と呼ばれる。
しかし当然のことながら、自然の変化を否定するパルメニデスの思想には、すぐに反対者が現れた。
それは、小アジア(現トルコ)のエフェソスにいたヘラクレイトスという人物である。
・・・・・・・
こうであるなら、釈迦は合理主義者であろう。かってほかのスレで、釈迦は経験主義者であるというものが居たが、
それは間違いだ。また行為主義者であるといえるが、それは合理主義者であることが前提となる。
338 :
神も仏も名無しさん:2009/01/12(月) 19:57:28 ID:vTBvpcEf
ヘラクレイトスも、万物は一である、とか、縁起の理法をも、言っているようだ。
339 :
神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 02:30:00 ID:+xDROCU4
世界三大宗教に「仏教」がありますが これは本来の仏教ではなく「大乗仏教」です。
本来のものは簡素で揺ぎ無い真理を説くが故に 多くデコレーションされた「商業仏教大乗」に飲み込まれました。
仏教は 大乗のように 「唱えたり信じたりすれば救われる」などという「妄想」は説きません。
その要諦は 「明らめる」つまり真理を明らかにして妄想から離れ、真理を悟り、自己を整える道です。 そこには
盲信や崇拝などの「宗教要素」は見当たりません。
しかし衆生はそのような「迷信」を求めるので、本来仏教は、いつしか そのように汚されてしまいました。
人類が、そろそろ「宗教という名の迷妄から離れ目覚めること」を望むならば 「仏教」がその妙薬と成り得るはずである。
http://space.geocities.jp/mindmanipulate/bukkyou-honnshitu.html
340 :
神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 02:40:34 ID:xh8x9oq9
キリストはキリスト教信者ではないし、釈迦は仏教徒ではない。
彼らが語っていたのは人としての『生き方』。
彼らの死後、人間が彼らを宗教にした。
341 :
神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 03:08:34 ID:+xDROCU4
イエス 「とにかく祈り 信じなさい 信じる者は 救われる」
釈 迦 「信じ 祈ることでなにか得られるものがあるならば 何もせず祈っていてください」(微笑)
342 :
神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 08:50:12 ID:O09MzjV2
>>341 イエスの信じなさい、というその対象を言ってませんね。
神とその国を信じなさい、といったのです。その国は、創られたものの国ではないのです。
現実がどんなに悲惨であろうともまた、幸せのあふれた国であろうとも、創られたものであるなら、
それは神の国ではないのです。幸せのあふれた国といいましたが、そんなものは思い違いしてる人の言う
表現に過ぎません。真実の神の国は、この世の幸不幸などないのです。
この神の国は、釈迦の説くニルバーナです。理法の示すところを信じなさいと釈迦は言いました。
その理法は、この世の幸不幸は虚妄で実在していません、真実は空相、一相無相
であると良い、この世のいかなるものにも、後ろ髪を惹かれるように、惹かれてはなりません、
理法の説く一相無相空相無我を信じて、振り切り捨てなさい、といわれたんです。
343 :
神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 12:36:07 ID:NGDmIG+Q
344 :
神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 22:42:47 ID:O09MzjV2
>>343 >イエスは架空の神の国を説き 釈迦は理法を説いたのか
イエスの神の国は架空の国ではない。それは仏国土つまり浄土、そしてニルバーナである。
釈迦の理法とは、仏国土へ至るための方便である。
345 :
神も仏も名無しさん:2009/01/14(水) 22:46:14 ID:O09MzjV2
>>343 >現実を見て目覚めることで
目覚めるとは、この世は虚妄の世界であることに気づくことである。
日本に伝わってきた仏教と同じく
キリスト教も5世紀頃までに、かなり余分なものが付いて聖典が外典として処理されたりしたのだろうね。
ユダの福音とか読むとヨーロッパ人は神秘主義が好きそうだし。
347 :
神も仏も名無しさん:2009/01/15(木) 05:45:34 ID:yFS+CNpA
>目覚めるとは、この世は虚妄の世界であることに気づくことである。
たしかにこの世は嘘がまかり通り悪人が笑うのだが 真実の世界です。 なぜなら食べなければ餓死する。
これはすぐに実証できるゆえに真理と思われます。一方
イエスの神の国は 実証もできない空想の国なので 妄想好きの信仰者には必須アイテムです。
釈迦は、神秘主義を排した思想家として知られます。
天におられるとかも、宇宙まで行っても居なかったし
これも後世の後付けらしいけど、もともとは「父よ」とかだけだったらしい。
パピルスの腐敗が問題と言うか、原文もテキストとして模写して後世に伝えろと。
349 :
神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 21:31:54 ID:pAQ5QCCo
神秘主義というとなんか科学的ではないという意味で言われるようであるが、
そうではない。最も科学的で、科学的真実を言うものだ。
350 :
神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 23:15:51 ID:uV57CIVb
科学的真実は信じる必要は無い。真実だからだ。一方 信仰は信じないと成り立たない。
351 :
神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 23:39:21 ID:pAQ5QCCo
>>350 >信仰は信じないと成り立たない。
何を信じるかでしょう?その対象がしっかりしていないと
信じることができないでしょう?明確な対象が必要なんですよ。
明確な対象は、科学的なんですよ。客観的なんです。
故に信じることができるのです。
反して、曖昧なものをどうして認めることができるのですか?
信じるとは真実を信じるのであり、その真実は、明確な対象で無ければならないのです。
真実が明らかになっても、従来の習慣によって、その真実への執着が
万全でないので、真実と一体になるまで、心を管理する必要があります。
真実を目指して心を管理することを信仰と言うのですよ。
352 :
神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 23:53:53 ID:uV57CIVb
>曖昧なものをどうして認めることができるのですか?
イエスが再臨すると盲信すれば それが真実となる。その思考形態が 信仰信者の愚かさを顕す。真理なら 信じる必要さえ無い。
353 :
神も仏も名無しさん:2009/01/16(金) 23:59:45 ID:pAQ5QCCo
>>352 イエスとは真理真実という意味のものですよね?
これが再臨するとは、真理真実が再び世を照らす時が来るという意味でしょう?
信仰が未熟であれば、強い心の管理を必要とするんです。心の管理を信仰という。
354 :
神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 00:39:05 ID:ODeMIsLI
イエスとは昔のオッサンですよね? これが再臨するとは、言うのは自由ですが 来てから言えば良いのでは?
来ないのに来る来る言うのは可笑しい。
信仰が未熟であれば、より強い心の盲信を必要とするんです。来ないのに来る来る言う、心の偏りを信仰という。
355 :
神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 08:04:02 ID:djKpLon5
>>354 ま、僕ちゃんは、部外者だから、普遍的なことを言うようになるのですが、
イエスは、アブラハムは私を見て喜んだのである、イサクは私を見て喜んだのである、
モーゼは私を見て喜んだのである、などといっていますね?
時間的に言うと、アブラハムもイサクもモーゼもイエスよりはるかに昔の人でした。
その大昔の人が、イエスを見て喜んだ、というのです。
イサクなどの人は、信仰を以って神を見ていたのである、といわなければなりません。
その信仰がある故に神を見たのです。これらの人と同じに、今の人も真理真実を把握して
それから離れることが無い様に信仰を持しているなら、神を見ることになる、という道理があるのです。
神を見るということが、神の再臨という事に当たるのだと思いませ。
神は神を信じない人の前には決して姿を現さないが、神を認め信じている人の前には、現れるということであり、
神への信仰により、神に近づく人が神を見るのであって、これが再臨であると解すべきだとおもいませんか?
再臨というのが、神を認めない人の前に、神が自ら前進してこられるという意味ではないと思いませんか?
この意味は、再びその臨在を知るという意味ですからね。
356 :
神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 20:57:37 ID:HoncFWNR
わたしも部外者だから、普遍的なことを言いますが
信じた者にしか見えない再臨は信じた者同士で言っていればいい。 他人に信じさせようとする時点で説明義務があるし
説明できないなら 来る来ると言うなという事。
まあそう言うことで 自分を慰めたいのだろうが。 自慰は独りで行うのは人としてのマナーだろう。それくらいは理解すべき。
釈迦は真理を説き イエスは妄想を説く。
357 :
神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 22:07:50 ID:djKpLon5
>>256 イエスは神を信じるように行ったのだ。イエスの言う神とは何だと思ってるの?
358 :
神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 22:21:31 ID:g/81GvsD
信じた者にしか見えない再臨は信じた者同士で言っていればいい。
唯我独尊の自己中はきのこ食って下痢してろよ
360 :
神も仏も名無しさん:2009/01/17(土) 22:54:07 ID:IlzOWtb9
唯我独尊というのは自惚れではなく 否崇拝の自己制御だと思われます。
本当のイエスの言葉を知りたいよね。
どんなこと言ってたのか?何も足さず何も引かずシンプルな語録集が読みたい。
2千年前のことだから、ある程度神話化するのも仕方ないのかもね。
あのあたりはギリシャ神話とかああいったのが好きそうだし。
363 :
神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 02:22:17 ID:BlIAWG/N
287 :神も仏も名無しさん:2008/10/15(水) 09:34:11 ID:LsdCUVBO
なーんだ、真如苑のやり方はカトリックをまねした物だったんですね。
ここの議論、真如板とそっくりですね。
ちなみに、新興宗教真如苑では、その本部の教主が作ったヘンテコ涅槃像の本尊の足の下に
キリスト最後の晩餐の地の土を埋めてふんづけさせて、口では和合といいつつ自らはキリストより上という無言のメッセージを信徒に送っています。
そしてクリスチャンも取り込み、改宗しなくてもいい、本尊を拝むこと教主をあがめることはキリストに祈りをささげることになるという詭弁を使い
要するにお金を集める方便にしています。この傲慢何とかしてやってください。まねっこのくせに。
364 :
神も仏も名無しさん:2009/01/18(日) 23:16:06 ID:zgq48+aQ
>まねっこのくせに。
www
365 :
神も仏も名無しさん:2009/01/20(火) 17:06:34 ID:rWPm+5uk
353=355 は 消えたのかい?
366 :
神も仏も名無しさん:2009/01/20(火) 18:15:27 ID:vAlzPbyq
>心の管理を信仰という。
いえいえいえ 妄想依存を信仰と言うのですよ。心の整備は精進です。 信仰と精進を一緒にしないで頂きたい。
367 :
神も仏も名無しさん:2009/01/20(火) 22:24:11 ID:sq7b1657
>>366 イエスが信仰が足りない、といったのは、精進が足りないという意味だったというのか?
368 :
神も仏も名無しさん:2009/01/20(火) 23:10:58 ID:GlNJvIqB
いえいえ イエスが「信仰が足りない」と言ったのは、妄想依存が足りないという意味ですよ。
妄想信仰と精進を一緒にしないで頂きたい。
369 :
神も仏も名無しさん:2009/01/20(火) 23:39:23 ID:sq7b1657
>>368 そこまで言うのなら、精進とはどのようなものか説明するべきだ、どうぞ。
370 :
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦:2009/01/20(火) 23:40:56 ID:kWDrorUt
┌──────────┬────────────┬──────────────┐
│自覺道(佛陀、辟支佛) │→(十二緣起 四諦)→苦→信法→戒→定→慧→解脫→證解脫 │
├──────────┼────────────┼──────────────┤
│他覺道(聲聞四雙八輩) │→(四預流支)→(四 諦)→淨信→戒→定→慧→解脫→證解脫 │
├──────────┴────────────┼──────────────┤
│● → → → → 世、俗八支正道 → → → → → ◎ → 聖、出世間八支正道 → ○│
├───────────────────────┼──────────────┤
│ (有漏)十 善 業 道 │ 「十正行、十無學法」 │
└───────────────────────┴──────────────┘
371 :
神も仏も名無しさん:2009/01/20(火) 23:47:29 ID:sq7b1657
>妄想依存を信仰と言うのですよ
ちょっとうかつであった。
どのようなものに対する依存を信仰というのですか?キリスト教の場合と仏教の場合の両方を説明してください。
仏教でも信仰といいますからね。
372 :
神も仏も名無しさん:2009/01/20(火) 23:49:37 ID:Quy67Hc/
今日のオレの精進も足踏みだ。 妄想信仰は排斥しているが 生活と無財の七施の拡充が足りない。
ただし糞信仰者の頭脳にショックを与えるという布施行は実施した。
373 :
神も仏も名無しさん:2009/01/21(水) 00:12:57 ID:/e7YgEoO
374 :
神も仏も名無しさん:2009/01/21(水) 17:26:50 ID:hXskZM3F
>>373 あなたは、このスレに書いてあることを援用して、自分の見解として答えとするということですよね?
それでは、あなたにお聞きしますよ。
>自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、
他を拠り所とせず、生きていきなさい。(ディッガ・ニカーヤ 16:2.25-2.26)
神々やブッダの神秘的力に依存して救われるのではなく、一人一人が真理を理解することによって救われる、
というのがブッダの教えです。
・・・・・
上に真理とありますが、この真理とはどのようなものを言うのですか?
375 :
神も仏も名無しさん:2009/01/21(水) 17:33:34 ID:OhwH+8n2
真理とは、心理であり、神理である。
それは、言葉で知るものではなく、心で知るものである。
他人の言葉に拠らず、自らの心をのぞいて見なさい。
「自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、 他を拠り所とせず、生きていきなさい。」
この言葉を、あなた自身が理解した時、真理の何たるかは、自然と理解できることである。
376 :
神も仏も名無しさん:2009/01/21(水) 19:47:46 ID:hXskZM3F
377 :
神も仏も名無しさん:2009/01/21(水) 20:03:08 ID:hXskZM3F
>>375 >苦 諦 私たちの生存は生老病死などの苦しみに満ちているという真理
集 諦 苦しみの原因は煩悩にあるという真理
滅 諦 煩悩を原因とする苦しみを滅し(止め)た境地が理想(悟り)だという真理
道 諦 その悟りに到達する方法は八正道であるという真理
・・・・・
ここに真理とあるが、「心をのぞいて見なさい。」といわれて各人が、このように思わなければならないものなら、
それは強制しているものであり、心をのぞいたら解るというものではない。特に八正道などは、心をのぞいても解らないだろうことは、
容易ではないか?
378 :
神も仏も名無しさん:2009/01/21(水) 20:15:08 ID:hXskZM3F
>>375 >自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、 他を拠り所とせず、生きていきなさい。」
ここでは「自己」と「真理」を区別している。自分の心をのぞけば真理が解るというなら、自己をのみよりどころとすれば
良いはず。なぜ「自己」と「真理」を分けてよりどころとするのか?
379 :
神も仏も名無しさん:2009/01/22(木) 00:00:07 ID:wiHVAN7I
>そこまで言うのなら、精進とはどのようなものか説明するべきだ、どうぞ。
妄想を捨ててありのままを観じることからはじまり 自己を律し整えることかな。
>上に真理とありますが、この真理とはどのようなものを言うのですか?
>真理とは、心理であり、神理である。
そんな語呂合わせはどうでもいいが 真理とは (イエスは再臨するとかのオカルト妄想ではなく) そこにある、あるがままだ。
人は様々な外的内的偏りのために 真理が見えない。
仏道とは 欲とか偏見を取り 無心になって真理を観じ寂静に至ることを目的とする。
>「自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、 他を拠り所とせず、生きていきなさい。」
>なぜ「自己」と「真理」を分けてよりどころとするのか?
いい質問です。 自己を解析して 偏りがあることを知り その偏りから解脱すればありのままの真理を得られるでしょう。
ちなみにイエスの勧めは信仰ですから この意味で偏りを勧めるものですので
仏教とは真逆と言えます。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1210417061/l100
380 :
神も仏も名無しさん:2009/01/22(木) 06:19:38 ID:MHhpqpPd
>>379 >偏りがあることを知り
偏りがあるかどうかはどうして判断するのか?
また、八正道の正しいとの判断はどうしてするのか?何か基準があるのか?
基準が無いとするとどうして判断が可能か?
381 :
神も仏も名無しさん:2009/01/22(木) 23:09:43 ID:UyYjMLqP
382 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2009/01/23(金) 05:10:01 ID:suKu3RvT
>自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、
>他を拠り所とせず、生きていきなさい。(ディッガ・ニカーヤ 16:2.25-2.26)
実にその通りで食事も他に依らないキリスト様のお庭という事です
これはキリストの血であり肉である
383 :
神も仏も名無しさん:2009/01/23(金) 08:23:42 ID:ONmL5xYX
>>381 そのとおりなんでしょうね。あなたはそう信じていけば良いと思いますよ。
しかし、私はそんなことは信じないし、理解しないし、そんなことを人に教えられないし、
そんなことを極悪であると思いますので、地獄行きの考えであると人に教えるほどです。
384 :
神も仏も名無しさん:2009/01/23(金) 08:35:05 ID:ONmL5xYX
385 :
神も仏も名無しさん:2009/01/23(金) 08:47:56 ID:o3V5wOne
偏りがあるかどうかはどうして判断するのか?
また、八正道の正しいとの判断はどうしてするのか?何か基準があるのか?
基準が無いとするとどうして判断が可能か?
386 :
神も仏も名無しさん:2009/01/23(金) 23:30:59 ID:3ZmfRut4
まず384 はその根拠が無いので却下。そして礼儀にも欠く。
>これはキリストの血であり肉である
いえ 仏教ではそのような妄想は排斥しますから。 あと385は3週間くらい座禅すべきかも。
387 :
神も仏も名無しさん:2009/01/23(金) 23:48:42 ID:ONmL5xYX
>>386 そのとおりなんでしょうね。あなたはそう信じていけば良いと思いますよ。
しかし、私はそんなことは信じないし、理解しないし、そんなことを人に教えられないし、
そんなことを極悪であると思いますので、地獄行きの考えであると人に教えるほどです。
388 :
神も仏も名無しさん:2009/01/24(土) 00:26:35 ID:IzlBmpIS
歴史上のお釈迦様は秘密の儀式や修法などしただろうか。
お釈迦様は伝統的なインドの古代宗教にとらわれず、自由な思索によって、生きるうえで避けて通れない苦しみ
という問題に対して教えを説かれたのである。
「原因があって結果がある」という簡素で揺るぎない真理。しかもそれは「信仰」には依らず誰にでも知覚できる。
「信仰」から生まれる「妄想」ではない。
389 :
神も仏も名無しさん:2009/01/24(土) 00:32:54 ID:/Zrnsy4l
まさに疫病神の貧乏神なのが聖書神
悪魔上部→神のような奴
悪魔下部→悪魔
これ常識
390 :
神も仏も名無しさん:2009/01/24(土) 10:22:49 ID:sQLIO50J
>>388 原因があって結果がある」という真理があるから、そんなものが何の人の利益に成るのか?
誰がそんな真理を喜ぶだろうか?こんな真理で人が幸せになれるとする教えこそ、
妄想の原因であり、妄想そのものである。したがってお前の仏教とは妄想に他ならないではないか。
391 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/01/24(土) 13:45:18 ID:b8qcJF80
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言った
としても、その言葉どおりになるであろう(ルカによる福音書)
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」(コリント人への第一の手
紙)
「思考の及ばない静かな境地は」(感興のことば)
「愚者らは煩悩に束縛されて、暗黒に覆われている。かれらには無が有であるかのごとくに見られ
ている。真理を見る人には何ものも存在しない」(感興のことば)
解脱した人、不死の境地に達した人は神通力がある。人は罪を犯したため神は地の者を呪った。
被造物の思い、アートマンの思いを乗り越えて、つくられざるものの境地に至らないと、神に
信仰があるといえない。
人格神すら、今の人間の境地のままでもよいが「地上のものに心を引かれるな」「肉の欲・目
の欲・持ち物の誇りを捨て去れ」と語るのに、被造物の思いで誰が神の信仰があるといえよう。
神は被造物である人間の思いを全く受け入れてくれない。
神には「地上のものに心を引かれるな」、被造物・アートマンを乗り越え、つくられざる存在
に至って、神通力ありの状態にならないと愛されない。
392 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/01/24(土) 13:46:26 ID:b8qcJF80
仲保者・世を救う人、つくられざる自身を認めること
「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去ってい
く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」(テモテへの第一の手紙)
「足ることを知り、わずかな食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静
まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪らない」(ブッダのことば)
「世と世にあるものを愛してはいけない〜肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものでは
なく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る」(ヨハネの第一の手紙)
「何物ももってない人々は楽しんでいる」(感興のことば)
「今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないも
ののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにす
べきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである」(コリント人への手紙)
「過ぎ去るものは虚妄なるものであるから」(ブッダのことば)
「たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの
神、多くの主があるようではあるが、わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。
万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する」(コリント人への第一の手紙)
人格のある神を信じても、被造物の思いを乗り越えて、つくられざるもののように「地上のも
のに心引かれるな」「衣食があれば足りろ」と言われるのであって、それが救いのようではあ
るが、実際全ての人々が行っているわけではない。イエスも釈尊と修行僧も被造物・アートマ
ンの思いを乗り越えて行い、信仰対象となった。
神の言うことを聞くことも、悪しき者、妄執を乗り越えて、つくられざる境地に至ることも、
速やかにできることはないからである。
393 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/01/24(土) 13:47:49 ID:b8qcJF80
「ひとが何か或るものに依拠して『その他のものはつまらぬものである』と見なすならば、それは
実にこだわりである、と<真理に達した人々>は語る」(ブッダのことば)
「愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終わるだけで
ある」(テモテへの第二の手紙)
「争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行僧は〜修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩
が地獄に赴く道であることを知らない〜あたかも糞坑が年をへると糞に充満したようなものであろ
う。不潔な人は、実に清めることがむずかしい」(ブッダのことば)
清まった世界は、被造物・アートマンを乗り越えて、「真理を見る人には何ものも存在しない」
「思考も及ばない」「知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」
争論をする被造物と、何ものも存在しないつくられざるものの世界。つくられざるものは、争論
してもただ争いに終わるだけであることを見極めて、非我ならざるものと争わず自身を害わない。
世の人々は欲望のためにあくせくすることを「悪しき者」「妄執」に従っていることを知らない。
「何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな」(ルカによる福音書)
「動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれ
はあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る」(ブッダのことば)
信じた対象に依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすより、世と世にあるも
のを警戒して、あくせくせず、つくられざる滅びない自身に従おうと志すほうが肝心だろう。
394 :
神も仏も名無しさん:2009/01/24(土) 22:26:24 ID:nl8rSIqf
395 :
神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 21:58:54 ID:01WM0QW3
無念無相で座禅してみると、胃の痛いのが治るんだなw。
396 :
神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 22:19:10 ID:BqOPR7r8
>原因があって結果がある」という真理があるから、そんなものが何の人の利益に成るのか?
だからそれは金口の説法によって説明されているだろう。それを自分で読み知れ。
現状が病んでいるから薬が要るのだ。 添加物だらけの体には 有機野菜が効くというようなことだ。仏教。
>もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、その言葉どおりになるであろう(ルカによる福音書)
ならない。 なるというならさっさとそれをやってみせなさい。 そうすれば言うまでも無い事だろう。真理なら実現するはずである。
397 :
神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 22:33:50 ID:01WM0QW3
>>396 >金口の説法
これはどんな説法ですか?
398 :
神も仏も名無しさん:2009/01/25(日) 22:39:35 ID:01WM0QW3
>>396 >ならない。
神とは、無念無相なのだ。無念無相を念じていると、胃痛が治ったといっているではないか。
神とは,造られたものではないのだ。造られたものでないものは、そして一切を創造したものは、
造られたもの、すなわち今の例で言うと、胃痛であるが、造られた胃痛は居場所がなくなるので消滅する以外ないのだ。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232767495/213 >ここでいう「本人の罪」ではないというのは、今生での本人のこ
>とに決まってる。生まれながらの盲目の人の話ですよ、これは!
今生のAさんと、前世のAは別人ということでしょうか。つまり連続性を認めないわけですね。
「前世の私」という表現も間違いということでしょうか。
><「生まれる前(前世)」にしか犯せないからです> って、ちゃんと自分で書いてるじゃないか?(笑)
連続性を認めず同一人物としないなら、現世のAさんが、
それを(過去世)にやったとするのは矛盾します。
>ならば原因は前世しかないでしょう!
福音書には「神の業」と明記されてますし、それは旧約からの考え方とも符合します。
>転生とカルマの教義はキリスト教から抹殺されたのです。
仏典の輪廻を説いた部分、その他超自然的部分を後世の付加とすることと何の違いがあるのでしょうか。
400 :
神も仏も名無しさん:2009/01/26(月) 00:10:39 ID:ShcMyZCd
>無念無相を念じていると、胃痛が治ったといっているではないか。
なるほど。 つまり「オウム真理教や法の鼻での奇跡的治癒」は 無念無相を念じたからだったということか。
やれやれ。
仏教やらキリスト教を考え出せる人間に神秘を感じるなw
402 :
神も仏も名無しさん:2009/01/26(月) 02:49:58 ID:yJIuwrzL
>>400 オームというだけで、すべてが価値無いと言うのは短絡に過ぎる。
ストレスで胃を悪くしたり頭髪が抜ける事は疑わないのに
その逆は認めないってのはどうだろう?
404 :
神も仏も名無しさん:2009/01/26(月) 07:11:45 ID:lB9Gd4Q9
>無念無相を念じていると、胃痛が治ったといっているではないか。
なるほど。 つまり「オウム真理教や法の鼻での奇跡的治癒」は 無念無相を念じたからだったということか。
やれやれ。
あちらのスレは消化が早いので、あちらのスレが落ちないうちに貼っておきます。
以下のレスは
>>227-228への反論です。さらにこれに反論したものが
>>399です。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232767495/213n 213 :宝珠愚者:2009/01/25(日) 22:24:00 ID:oM6E2Y58
>>211 某スレ225
>親の罪でもなく、本人の罪によるものでもないということは
>「前世」が現世での状況に影響する、という教義が否定されるということです。
>現世での「生まれつきの盲目」という結果を生む罪は、「生まれる前(前世)」にしか犯せないからです。
>そして人間は生きている限り、善行したり罪をおかします。
>よって、イエスのその発言は「前世」の存在を肯定するものではないということになります。
一体、どこのキリスト教伝統信奉者さん?ここでいう「本人の罪」ではないというのは、今生での本人のこ
とに決まってる。生まれながらの盲目の人の話ですよ、これは!
<「生まれる前(前世)」にしか犯せないからです> って、ちゃんと自分で書いてるじゃないか?(笑)
ならば原因は前世しかないでしょう!転生とカルマの教義はキリスト教から抹殺されたのです。イエスの
絶対性を謳うためには非常に邪魔な思想だったからです。当時の権力者(皇帝)はキリスト教を支配の道具
に使ったのです。
あなたが認める必要はないから、お好きなようにキリスト教を信奉してなさい。別にあなたの改宗を迫って
るわけじゃないから。疲れる。。。
(
>>211については、この投稿だけで止めにします)
406 :
神も仏も名無しさん:2009/01/26(月) 21:46:32 ID:bNJrHfKQ
↑ なにこれ
407 :
神も仏も名無しさん:2009/01/26(月) 22:38:14 ID:yJIuwrzL
間違って投稿してんだろう。
408 :
神も仏も名無しさん:2009/01/27(火) 00:07:35 ID:ld/kr32x
さあどんどん 仏教とキリスト教の根本的異相を明らかにしていきます。
慈悲や愛といった徳の部分にしか、共通点は無いんじゃないでしょうか。
死生観・来世観といった根本的に違う部分まで同じにしようとすれば、
皇帝の勢力が抹殺しだだのという陰謀論まで使わなくてはならなくなります。
410 :
神も仏も名無しさん:2009/01/27(火) 22:50:11 ID:5oE+myZV
>>409 死生観、来世観までも一緒であると思う。
キリスト教では、イエスにより解脱することができ、イエスを信じないものは、永遠の地獄に閉じ込められるといっている。
つまり、永遠の輪廻の世界から抜け出せない、というのである。
仏教でも、同じではないか。地獄とは六道輪廻の世界とされている。それからの解脱を説くのが仏教である。
その方法として、真理真実は、空相無相一相であることを知り、それに合った修行方法を説いているのだ。
411 :
神も仏も名無しさん:2009/01/27(火) 23:24:09 ID:ITVPnNs1
ぜんぜん違います。
仏教とは 自らを整えることで 輪廻だか崇拝だかから自由になる、つまりそのような「妄想への偏り」から解脱することが目的なので
イエスにより解脱なんて似非仏教もいいとこ。
釈迦の遺言は 釈迦を崇めろ信じろなどと言っていない。 自らと、ありのままの真理を灯明としなさいと言う。
イエスだかに縛られる宗教とは一緒にしてもらわないで頂きたいな。
お願いいたします。
412 :
神も仏も名無しさん:2009/01/27(火) 23:32:39 ID:ITVPnNs1
☆これが仏教だ。 「イエスを信じれば地獄に落ちない」などという他人の戯言は排斥する。
ダライ・ラマ14世:「長いものに巻かれるべきか?」 石井慧選手が進路相談
◇「自分で判断しなさい」
「自分で決めた方がいいのか、長いものに巻かれる必要があるのか」。
チベット仏教最高指導者、ダライ・ラマ14世(73)が6日、東京都墨田区の両国国技館で行った講演後、
柔道の北京五輪男子100キロ超級金メダリストでプロ格闘家への転向を表明した石井慧(さとし)選手(21)が
ダライ・ラマに進路選択について相談する一幕があった。
石井選手は講演を終えたダライ・ラマに花束を贈呈する一人として招かれていた。
講演会を主催したチベット支援団体によると、贈呈時間に合わせて来てもらえればいいと依頼したが、
石井選手は「講演も聴きたい」と言い、他者を思いやる心の大切さを説くダライ・ラマの講話に熱心に耳を傾けた。
質疑のコーナーで2番目に立った石井選手は
「今、自分の中で全く分からない世界に来ている。いろいろな人からアドバイスをもらっているが、
最後は自分で決めた方がいいのか、長いものに巻かれるというやり方も時に必要なのか」と質問し、会場を沸かせた。
これに対し、ダライ・ラマは
「たくさんの方のアイデアを取り入れることもためになると思うが、仏教的な観点から答えれば
状況をよく調べ、考えてみることだ。
それによって自分自身で判断を下すことが最終的になさねばならない道だと私は思う」と答えた。
石井選手が礼を述べると、約4500人の聴衆が大きな拍手を送った。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1210417061/242
413 :
神も仏も名無しさん:2009/01/27(火) 23:36:39 ID:5oE+myZV
イエスも釈迦も自分と天国ニルバーナは一緒であると教え、それゆえに、
天国として神という理法を、ニルバーナとして空諦の理法を説き、天国に入っているものとしてイエス自身を示し、
同じく、ニルバーナに入っている釈迦自身を示したのである。
そして、自分とは、本来の天国やニルバーナに入っている自分であり、それゆえに
入っているか入っていないかの判断は、自分でする以外ないものとして、自分を導きとするように教えたのである。
自分とは空相であり、神であるのだ。それが真実の自分であるのに、自分で妄想したものに囚われて、真実の自分を
切り刻んでいるのである、と教えたのである。
それゆえに、人を、自分を、絶対の神であると信じての行為のみが正しい行為とみなされるのである。
故に、差別は、正しいものとは常にならないのである。どの人もすべて、神を見ており、真理真実を見ているのである。
それを犯してはならない。
414 :
神も仏も名無しさん:2009/01/27(火) 23:40:23 ID:ITVPnNs1
415 :
神も仏も名無しさん:2009/01/27(火) 23:45:33 ID:ITVPnNs1
>天国として神という理法を、ニルバーナとして空諦の理法を説き、
神の何処が「理法」なんだか。 理法と言うならさっさと再臨して見せなさい。再臨するという妄想は 理法ではない。
416 :
神も仏も名無しさん:2009/01/28(水) 00:06:34 ID:FJnoOAkc
>>414 >ところが縁起説は、そのような実体としての真我や霊魂を否定する。
否定していないのに、否定してると他者に教えるとは、のろわれていますね。
>>410 >キリスト教では、イエスにより解脱することができ、
>イエスを信じないものは、永遠の地獄に閉じ込められるといっている。
はい。永遠の地獄、とあるとおり、そこで罪を清算したら
別の人間や動物となって良い場所に再び生まれ変わることができる、
ということはありません。地獄で刑期を終えて次の生へ、とはされません。
神を崇めない不信心者、罪人が落とし込まれる終着点、引き返せない行き止まりです。
418 :
神も仏も名無しさん:2009/01/28(水) 00:13:31 ID:tZXUvmQk
>否定していないのに、否定してると他者に教えるとは、のろわれていますね。
そういう「呪い」とか「再臨」とかの形而上学的見解を 排斥したのが仏教ですから。 くれぐれも、崇拝、妄想、を説くイエス教
とは一緒にせぬよう。
419 :
神も仏も名無しさん:2009/01/28(水) 00:17:08 ID:FJnoOAkc
>>471 >別の人間や動物となって良い場所に再び生まれ変わることができる
別の人間になっても、他の動物になっても、状況が改善するという道理は、
地獄という輪廻の世界にはないのです。天界、人界、修羅、がき、地獄、畜生
の境涯は平等に地獄なのです。
420 :
神も仏も名無しさん:2009/01/28(水) 00:26:19 ID:tZXUvmQk
仏教的に言うと 神の国も地獄ですね。それを希求することそのものが執着であるから
イエス教徒は渇きが止まらないわけです。よって、寂静に至れない。
>>419 >平等に地獄なのです。
それは比喩的な呼び名としての「地獄」です。
例えば「この世の地獄」の「地獄」ですね。
「堕落した」国や都市をバビロンと呼ぶのと同じです。
>>420 >イエス教徒は渇きが止まらないわけです。よって、寂静に至れない。
はい。もともと寂静を目的としてないので、最初から目指してすらいません。
根本的な違いですね。
422 :
神も仏も名無しさん:2009/01/28(水) 18:32:08 ID:FJnoOAkc
>>414 仏教では無我というが、それはよく説明に援用される人間の中に固定的なものは無い、というように、
個人的に適用される説明では、正しくなく、それだけの説明では非常に危険である。
無我という真理は、一切に適用されるのである。自分ばかりではなく自分に対する一切も、無我なのである。
一切は無我なのである。一切が無我であるとは、一切が無常ということでもあり、無常とは、
無相ということである。
これが真実である。そして、自分という固定的なものが無いというばかりではなく、一切には固定的なものがないと言うのが信実であるから、
真実の自分は、無我という真実の自分を持つのである。無我こそ真実の自我なのである。これを真我と言っているのである。
そしてこれをアートマンと言い、一切がアートマンであるので、ブラフマンとはアートマンのことということになるのである。
この無我というアートマンに反抗するものが、妄想により生じる我であり、真実の無我というアートマンは、この偽者の我と戦わなければならないのだ。
423 :
神も仏も名無しさん:2009/01/28(水) 18:38:31 ID:FJnoOAkc
>>414 >ところが縁起説は、そのような実体としての真我や霊魂を否定する。
ほら、やっぱお前は、依然として、仏教を理解していないな。真如苑敵時間というサイト
の教えには、根本的な仏教の教えがかけ落ちているのだが、未だに、それが判ってない。
オームの言う真我というものがどのようなものか知らないが、また、キリスト教の言う霊魂というものがどのようなものと説明
されているか知らないが、仏教の教えのように、理解されなければならないんだが。
424 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 17:53:21 ID:NuvQSw5E
>はい。もともと寂静を目的としてないので、最初から目指してすらいません。 根本的な違いですね。
なるほど。 釈迦の教えとイエスの教えは 根本から異なるな。
425 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 18:22:26 ID:EWxg6YB0
早く以下の質問に答えてほしいのですが、お願いします。
自分も正しいことをしたいのです。
神も仏も名無しさん:2009/01/23(金) 08:47:56 ID:o3V5wOne
偏りがあるかどうかはどうして判断するのか?
また、八正道の正しいとの判断はどうしてするのか?何か基準があるのか?
基準が無いとするとどうして判断が可能か?
法句経 と スッタニパータを読めば結構細かい規律が書いてるから、そこから正しいことへの参考にするといいのじゃないかな?
427 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 19:42:50 ID:2wdpH7eO
野党は与党の揚げ足取りだけで 政権を奪うことしか考えていないのでそれが 偏りですね。
そのようにあなた自身を鑑みればいいのです。 分かりましたか。
428 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2009/01/29(木) 19:51:51 ID:cLT7VHwi
自己判断ということ自体、勘違いという事に気がつきませんか?
過去からの継続によって為される事に自己判断を挟む余地がありますか?
429 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 20:30:35 ID:EWxg6YB0
誰も八正道に言う正しいとの判断の基準を知らないとは、仏教は未だ日本には
伝えられていないのであると、言わなければならない。なんという愚かな民族であろうか。
430 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 20:31:40 ID:EWxg6YB0
誰も八正道に言う正しいとの判断の基準を知らないとは、仏教は未だ日本には
伝えられていないのであると、言わなければならない。なんという愚かな民族であろうか。
431 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 20:32:07 ID:EWxg6YB0
誰も八正道に言う正しいとの判断の基準を知らないとは、仏教は未だ日本には
伝えられていないのであると、言わなければならない。なんという愚かな民族であろうか。
432 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 20:35:48 ID:EWxg6YB0
正しいとはどのようなことをいうのか知らないで、どうして八正道を行えるのか?
それではどうして、「滅」を得られるのか?
433 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 20:36:56 ID:EWxg6YB0
正しいとはどのようなことをいうのか知らないで、どうして八正道を行えるのか?
それではどうして、「滅」を得られるのか?
434 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 20:37:34 ID:EWxg6YB0
正しいとはどのようなことをいうのか知らないで、どうして八正道を行えるのか?
それではどうして、「滅」を得られるのか?
435 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 20:38:06 ID:voeLH4Co
という煽りがありますが
そもそも何がどうして正しいかというのは 金口の説法を知らないと分かりませんよ。ま どれが捏造なのか本物なのかはあなたがご判断を。
>自己判断ということ自体、勘違いという事に気がつきませんか?
座禅瞑想は仏教的自己判断を促すものです。だが その内部に独自の教説があるのはもちろん否定
できません。
436 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 20:52:20 ID:EWxg6YB0
>>435 >そもそも何がどうして正しいかというのは 金口の説法を知らないと分かりませんよ
釈迦が正しい基準を教えているかどうか、お前は知らないと言うことか?
437 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 20:55:44 ID:voeLH4Co
当時のインドでも 厳格な身分制度が民衆をコントロールする手段として用いられていて
貴族の言うことを聞けば来世は良くなる、という迷信によって 奴隷たちは終身こき使われていました。
それに対し釈迦は、そんなの関係無い、善き事をすれば善き処に生まれ変わるのだ、と言い、そんな迷信を吹き飛ばしました。
438 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 21:10:29 ID:EWxg6YB0
>>437 >善き事をすれば善き処
どういう行為がよきことになるというのですか?どういう行為が悪い行為であると言うのですか?
439 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 21:16:05 ID:EWxg6YB0
>>435 >座禅瞑想は仏教的自己判断を促すものです
仏教的自己判断という、仏教的判断とはどのようなものか説明してください。
説明できなければ、いい加減なことを言って人を惑わすものとして、取り消し
謝罪してください。
440 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2009/01/29(木) 21:24:30 ID:cLT7VHwi
依存関係を排除していけば良いんですよ
寄生虫呼ばわりですよ
441 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 21:48:53 ID:EWxg6YB0
442 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2009/01/29(木) 21:52:46 ID:cLT7VHwi
だから自分が依存する事がなくなれば良いんですよ
何かに依存していたら寄生しているんです
太陽みたいにはなれませんか?
キリストは太陽神ということなんですよ
これはキリストの血であり肉である
と食さえも依存する事を排したんです
443 :
神も仏も名無しさん:2009/01/29(木) 21:57:31 ID:EWxg6YB0
>>442 それもまた解らない。そんな説明は誰も解らないと思うよ。
444 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2009/01/29(木) 22:06:57 ID:cLT7VHwi
これはキリストの血であり肉である
食するものさえ外から入手しないという事ですよ
445 :
神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 03:58:31 ID:FgXpbnlz
善き事とはお婆さんに席を譲ることですね。
仏教的自己判断というのは 座禅して自己を見つめることですね。問答にてその道が正されます。
>説明できなければ、いい加減なことを言って人を惑わすものとして、取り消し 謝罪してください。
そのとおりですね。
イエス教徒は 信じれば永遠の命がもらえるとか、イエスが再臨するとかいう妄想を妄想と認めることが大事です。
>依存関係を排除していけば良いんですよ 太陽みたいにはなれませんか? 食するものさえ外から入手しないという事ですよ
全ては依存で成り立っていますね。縁起です。 まずその真理が解らないと 仏道を進めませんね。
仏教徒でも 布施が無ければ餓死です。
欲を整え消すことで 判断力が正され 渇愛が消え寂静という至福に至れます。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1210417061/l100 にて質問すればさらにお答えしますよ。
お楽しみに。
イエスと仏陀の説く真理真実とは? → 神はいないという真実
447 :
神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 14:33:57 ID:A2OGOJ7d
エホバの商人や創価学会は キリスト教や仏教を都合よく改変し霊感商売をしている。そして信者たちはそれに気付きもしない。
無知で責任感の無い なんという愚かな民族であろうか。
448 :
神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 15:28:03 ID:A2OGOJ7d
>353 イエスとは真理真実という意味のものですよね?
名前なんぞどうでもいい。
>信仰が未熟であれば、強い心の管理を必要とするんです。心の管理を信仰という。
それが真理であるなら別に強く信じなくても真理ですよ。 妄想を信じようとする時に信仰が必要とされる。
難しく考えすぎ
450 :
神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 21:53:12 ID:Z8TcZ71i
>>445 哀れな人ですね。
>>446 神とは何を神といっているか知らないで、神だとか言っているのは、意味も解らずに、
人の会話を真似してるだけですね。
>>447 民族じゃなくて、国民、でしょう?
>>448 真理真実の意味をそろそろ区別していってもらいたいものですね。
真理と真実は異なりますよ。
真理真実は、あなたがいようといまいと、また、あなたが信じようと信じまいと、厳然とあるのですよ。
真理真実から離れていることがさびしくないなら、そのままで行けば良いんですよw。
451 :
神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 22:06:35 ID:qSl9hyb/
それは言えてるな。 真理でないことを信じるには 信仰が必須だ。
w
452 :
神も仏も名無しさん:2009/01/31(土) 16:12:49 ID:Ohi6z28W
>真理と真実は異なりますよ。
具体的には?
453 :
神も仏も名無しさん:2009/01/31(土) 21:10:19 ID:emXh0S/7
>>452 真理とは完全な論理
真実とは実体そのもの。
仏教で言えば、真理とは、縁起、原因結果、四諦の法門
12支縁起の法門。
真実は、空相、無相、一相、無我。
真実と言う名称は、真実そのものではない。真実に類する表現として
実体、実相、などがある。
454 :
神も仏も名無しさん:2009/01/31(土) 21:16:26 ID:emXh0S/7
>>453 訂正
真実とは実体そのもの。
↓
真実とは、「一」である。
455 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/01/31(土) 22:14:40 ID:4XiXUcn+
「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである〜肉の思いは神に敵対するか
らである」(ローマ人への手紙)
肉欲も無いつくられざる存在であったにもかかわらず、そこに安住せず地に落ちた。神は人を見捨て、
悪魔に手渡した。悪魔は権威や栄華を貪る欲念を人々に与えた。
■善悪
「悪魔の征服者です〜煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり〜あなたは善悪の
両者に汚されません」(ブッダのことば)
「へびは女に言った〜神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです〜賢くなる
には好ましいと思われたから」(創世記)
人々は地上の栄華を得ようとあくせく働き、得たものを享受して肉欲を満たし、ついに土に帰る。
世の人々はつくられざる世界、不朽の神を知ることもない運命を生きる。思考が神ならぬ肉欲に結
ついた。
■神に信仰のある人はいない
「わたしの願いと言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり」(ピリピ人への手紙)
「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである」(ヨハネ)
「全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭い離れ、身を修
めて、死ぬ時の到来を願っている人」(ブッダのことば)
456 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/01/31(土) 22:15:51 ID:4XiXUcn+
□「生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない」
悪魔の子となった人が、そのままで神に信仰は無く、自己の生存の断滅という悪魔に従い不朽の神を
知れることもなくなった。つくられざる存在を知れることもなくなってしまうのである。しかも、地
上では肉欲のある人々を誰も愛さない。
□断食・わずかな食物と明朗な顔つき
「断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな〜人に知れないで」(マタイ)
「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色は〜明朗」(神
々との対話)
□食べようか・肉欲のためにあくせくしない
「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか〜思いわずらうな〜あすのことを思いわず
らうな〜一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ)
「わたしは何を食べようか、昨夜はわたしは眠りづらかった〜これら憂いに導く思慮を抑制せよ」
「未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている」(ブッダ・神々)
□邪まな見解も無い
「上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇
高な境地と呼ぶ〜諸々の邪まな見解にとらわれず」(ブッダのことば)
「敵を愛し、憎む者に親切にせよ〜あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い
者となれ」(ルカ)
457 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/01/31(土) 22:17:33 ID:4XiXUcn+
□思い上がりも無い
「学ぶことに生きがいを認め、奉仕を楽しむために、戒律をまもって〜これは一つの極端説であると
説かれている〜そこにとどこおっていなかった賢者たちは、それで思い上がることはない」(感興の
ことば)
「思うべき限度を越えて思いあがることなく」(ローマ人への手紙)
□善悪のはからいも無い
「心が煩悩に汚されることなく、心が縛られることなく、善悪のはからいを捨てた人には」(感興の
ことば)
「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ〜あなたがたも完全になりなさい」
(マタイ)
偶像を抱ける神だと信じていた人々に、イエスは肉欲を制した永遠の命の神を自ら行い、「わたし
を主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」「盲人は盲人の手引きがで
きようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか」と語った。
修行僧は瞑想により肉欲を制することに努めた。肉は決してつくられざる存在、不朽の神を知るこ
となく朽ちるからである。世の中で行為をするなら、邪まな見解を抱かず、慈悲に反しないこと。
悪魔に従って造り出された人々が、いくら信じても、肉欲を制しないなら神にもつくられざる永遠
も知れない者となるからである。
神と肉欲は敵対する。肉欲を制しようと努めない人々が、神を信じるなら悪魔崇拝となるから、イ
エスは言葉と行いを残し、信仰対象となった。
458 :
神も仏も名無しさん:2009/02/02(月) 14:58:22 ID:rE3Ak/V5
>真理とは完全な論理 真実とは実体そのもの。
まあどっちでもいいですけど 真理よりも喰うことを目指したのが 大乗仏教だね。
>神と肉欲は敵対する。
肉欲が無いと 滅びるよ。肉欲が無いと 神に滅ぼされるのかな。
459 :
神も仏も名無しさん:2009/02/02(月) 21:04:05 ID:HWLacsfn
>>458 大乗仏教は、二乗と言って小乗をけなす目的があったんだ。
>神に滅ぼされるのかな
神の国が到来しているのに、人の数を数えている人は、神の国に入ってない人ですよ。
この意味解るかな〜。
460 :
神も仏も名無しさん:2009/02/02(月) 22:14:25 ID:LrcfI4Lr
神の国はたしか埼玉あたりにあるよ。
461 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/03(火) 22:43:37 ID:wqpc9XPP
他に滅ぼされると思うのは、悪魔を神としているから。
権威や栄華(地上の諸々の欲望に関する貪り)を妄執(悪しき者)から得た。それを賢くなった人々
が可能にする。多くの人々は、死んで土に帰る。
□世の中のどこにも害いを見ない
「世の中のどこにも、わたしは害いを見ない」(悪魔との対話)
「人を罪に定めるな〜ゆるしてやれ」(ルカ)
悪魔の子がただ信じただけでは、神を悪魔としている。信じただけでは、そのまま土に帰るだけである。
それは地を思う人の決まった運命だから、別に問題ないわけではあるが、肉の思いを制する人々だけは、
不朽の存在に至る。つくられざる存在(唯一の神)を知り、つくられざる者となる。
□この世で既につくられざる者となる法
「断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな〜報いて下さるであろう」(マタイ)
「そのあいだ何も食べず〜空腹になられた〜」(ルカ)
「森に住み、心静まり〜日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗」(神々と
の対話)
「軽安」「長寿」(仏教)「この世の有様は過ぎ去るからである〜思い煩わないように」(コリント)
心身をかろやかに快適にすること、長寿。
悪魔の子でも、静かに安静にしていると癒されるように、例えば病気の時、肉欲を貪らないように、
「何でもできる神の霊」は、肉欲外の存在であるから、偶像礼拝をせず、そういったことを信じな
さいと教えたのがイエス。自分の肉欲外を求めて、自分が救われるしかない。
たとえば釈尊は、神と一つになり神を目指すことを指導した。イエスは妄執を打ち破り不死の境地
に達し、あなたがたの内にあるものが、神とつながりがあると教えたとしてもよい。
462 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/03(火) 22:44:41 ID:wqpc9XPP
■自分を愛し、世と世にあるものを愛するために信じる人は悪魔崇拝
肉欲も無いつくられざる存在であり、そこに安住せず地に落ちた。神は人を見捨て、悪魔に従えさせ、権
威や栄華の拡大と、それを考え行える状態にした。自分を愛し、世と世にあるものを愛し信仰するのは悪
魔崇拝であり、つくられざる存在(唯一の神)、つくられざる状態から全く離れて正反対である。つくら
れざる状態になることはできないから、戒めの言葉によりつくられざる状態がわかるようにしよう。それ
によって、不朽の神とともに、自らの朽ちない状態とともに肉体を保った状態でいなさい。
□手向かうな
「罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人」(真理のこと
ば)
「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」
(マタイ)
神を信じた人は、つくられざる存在とともにつくられざる状態でいないと信仰したことにはならない
から、そのように努めなさい。煩悩の可能力を与え、罪がない者を罵り、なぐるようにしたのは悪魔
である。手向かうという行為ができるのも悪魔からである。罪をゆるす権威によって、自己防衛のた
めに、なぐり返して相手が逃げたとしても、自分が正しいことをしたと思ってはいけない。
神はつくられざる状態で、最も清く善によって知るのだから、信じた人は、人のような行いを正しい
としないこと。
偶像礼拝により自分を愛するために信仰するのではなく、つくられざる存在を信じ、つくられざる状態に
なることを教えたのがイエスで、肉欲の多い者にとって、不朽の神とともに在る道は険しい。
463 :
神も仏も名無しさん:2009/02/03(火) 22:45:28 ID:wqpc9XPP
神は物質的な喜びや、快楽や享楽を少しも喜んではいない。
□神よりも快楽を愛する者
「つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心のある人は
広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ」(感興のことば)
「神よりも快楽を愛する者」(テモテへの第二の手紙)
釈尊は理により、修行により、イエスは信仰により、悪しき者に従って生まれた快楽から遠ざかって、
死を味わうことのない世界に生まれさせようとした。どちらの宗教が信じた人を快楽や物質的な喜び
の貪りから遠ざけられるかということ。
464 :
神も仏も名無しさん:2009/02/03(火) 22:47:43 ID:Re8CWse6
読まない
465 :
神も仏も名無しさん:2009/02/03(火) 23:31:56 ID:X3s7YzOW
信仰から真実は見い出せません。
466 :
神も仏も名無しさん:2009/02/04(水) 08:06:12 ID:X7LkUXPz
467 :
神も仏も名無しさん:2009/02/05(木) 00:32:00 ID:fx+bbkaY
いえ 真理には信仰なぞの必要はございません。 仏教の真理とはありのままです。
ゆえに信仰というツールは不要です。
468 :
神も仏も名無しさん:2009/02/05(木) 08:53:45 ID:krl5gp1r
人のためになることをし様としないのなら、人の中に出てくるのは、人の迷惑ですね。
469 :
神も仏も名無しさん:2009/02/05(木) 08:57:17 ID:krl5gp1r
人に食物を請うのでもなく、人に何かを与えるのでもない人、そんな人は、人の中にいてはいけないでしょうね?
470 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/05(木) 21:08:53 ID:LeFqgj2h
□悪しき者に従ってつくられた人間
「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のもの
が従属した」(神々との対話)
「全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」(ヨハネの第一の手紙)
つくられざる存在はつくられざる状態しか愛さず、つくられなかったら神を信じることになる。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ)罪がないのに罵られ、なぐ
られ、拘禁されても、命乞いをしても、つくられざる存在は人間の思いとは反し、つくられざるようにさ
れる。そして人も、煩悩の可能力によらず、つくられないように耐え忍べば、つくられない存在を信じる
ことになる。
■信仰の度合いにより人はそれぞれ■
常に罪汚れなく、「人里離れた所での瞑想や断食」により、つくられざる存在への信仰を増そうとする人
もいれば、
□仕事をしてくれる人々がいるのではない
「罪汚れなくして、常に浄らかさを求めている人には、毛先ほどの悪でも、雲ほどに大きく見えるのであ
る〜わたしは、そなたに依存して生きているのではない。またそなたのために仕事をしてくれる人々がい
るのではない」(悪魔との対話)
「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(テサロニケ人への第二の手紙)
471 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/05(木) 21:10:22 ID:LeFqgj2h
私たちは肉でもある。全く清浄でつくられざる存在(唯一の神)に愛されない部分もないと生きていけない。
つくられなかったら、人間の思いはなく公平・平等であるので、自分のために労をしてくれる人はいないと
感じて働いて食べることは、愛されない肉にあっても、心の中は神を信じていることになる。
□冷酷・無慈悲・残忍も無い、遠ざかり離れた境地の慈しみ
「貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ〜信仰心あり、学び修めた賢明
な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ」(神々との対話)
「空腹のときに食べさせ、かわいているときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに
着せ〜わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」
(マタイ)
悪魔は煩悩の可能力を与え、肉を立派にした。しかも、全てが苦悩無きことを喜ぶ境地から(つくられ
なかったら一切が苦悩無きことを喜ぶ)権威や栄華を貪る妄執を与え、冷酷・無慈悲・残忍もある人間
に仕立て上げ、肉によって土に帰るようにした。慈悲が少しでもあれば、神に信仰がある。
□思い上がらない程度
「思うべき限度を越えて思い上がることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたが
って、慎み深く思うべきである」(ローマ人への手紙)
「学ぶことに生きがいを認め、奉仕を楽しむために〜この二つの極端説を知って、そこにとどこおって
いなかった賢者たちは、それで思い上がることはない」(感興のことば)
「私はしました」と言って善悪のはからいを求めて妙な利益を与えてくれるつくられざる存在はい
ない。自然のままで、自分の欲得関係なしに行える人もいる。冷酷・残忍・無慈悲を避け、思い上
がらない程度の状態がよい。
472 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/05(木) 21:11:35 ID:LeFqgj2h
自分(肉)を愛してくれる偶像なるものは存在しない。
肉で無いことが神で、この世の苦難を耐え忍んだり、物への執着心を捨て去って分け与えたり、この世で肉
の思いから少しでも離れることは何かと見いだして行うしかない。
神も肉を助けてくれることはない、という信仰。
473 :
神も仏も名無しさん:2009/02/05(木) 23:30:20 ID:sj+iNRQo
469は却下だな。 悪が栄えるのが真理なので 善人は食われるだけ。現代で言えば 知能が高い
者が生き残る。 それが真理。 その上で釈迦は 妄想ではない倫理を勧めた。
474 :
神も仏も名無しさん:2009/02/06(金) 00:11:48 ID:+uUunFhp
>>473 八正道の、正しいという意味は、どういうのが正しいのか、答えてください!
475 :
神も仏も名無しさん:2009/02/06(金) 00:17:04 ID:xsnc4xS8
476 :
神も仏も名無しさん:2009/02/06(金) 08:30:17 ID:+uUunFhp
>>475 どこに答えている?
要するに知らないんだろう?解ってないんだろう?
知りもしないのに、人の真似をして、知ったかぶりをして、人を騙していたんだ。
>>473 知能の高いものが生きる?知能てなんだ?
お前、まったく妄想の人ではないか?
仏教の一から勉強して来い!
477 :
神も仏も名無しさん:2009/02/06(金) 22:33:28 ID:+uUunFhp
正法=八正道
478 :
神も仏も名無しさん:2009/02/06(金) 22:45:05 ID:jQ3poMrm
479 :
神も仏も名無しさん:2009/02/06(金) 22:54:26 ID:+uUunFhp
>>478 俺は誰よりも知ってるつもりなんだよ。w
480 :
神も仏も名無しさん:2009/02/06(金) 23:14:58 ID:jQ3poMrm
残念ながら それだと阿羅漢になれないね
481 :
神も仏も名無しさん:2009/02/06(金) 23:33:52 ID:+uUunFhp
だいたいおかしいじゃないか、何でほかのスレに行かなきゃ答えられないんだ?
反省して、今までの詐欺行為を謝罪すべきだ。
482 :
神も仏も名無しさん:2009/02/06(金) 23:46:18 ID:jQ3poMrm
2ちゃんでは逃げられるからね。 卑怯者はステージに上がる勇気が無い。
479のような境涯では 阿羅漢は無理だ。
483 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 00:16:02 ID:OIds0jVN
いえ 真理には信仰なぞの必要はございません。 仏教の真理とはありのままです。
ゆえに信仰というツールは不要です。
484 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 09:40:38 ID:iCRtwLbB
仏教では、念ずるというが、それが信仰に当たるだろう。尤も念ずる対象がわからない
なら、信仰もありえない。
485 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 11:44:19 ID:iCRtwLbB
信は道の元であり、功徳の母である。一切のもろもろの善法を長養し、疑いの網を断って、まよいを出、涅槃のさとりを開かせる。
信は濁りの心なく、清浄にして驕慢を滅し、敬いのもととなる。
また法の蔵の第一の宝である。清浄の手となって、もろもろの修行を受けとり、施しの心をおこさせ、もの惜みをなくす。
信は歓喜して仏法に入らせ、智慧と功徳を増長し、必ず如来地に至らせる。
信は六根を浄化し明らかにする。信の力は堅固であり、それを壊すことのできるものはない。
信は永く煩悩のもとを滅ぼし、もっぱら仏の功徳に向わせる。
信はこだわりの心をなくし、自由な境界を得させ、もろもろの苦難を遠ざけて、無難を得させる。
信はかずかずの魔を超えて、無上のさとりを得させる。
信は功徳の種を壊さず、菩提の樹を成長させる。
信は最勝の智慧を増益し、一切の仏を示現させる。
――華厳経
486 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 15:19:38 ID:SWJK3PJa
イエスとブッダの共通点より、仏教を統一したほうがいい。
南無阿弥陀仏と唱えるのか、南無妙法蓮華経を唱えるのか、原始仏典か、
仏教をひとつにすること。仏教はそれからだ。
487 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 15:40:21 ID:iCRtwLbB
>>486 >南無阿弥陀仏と唱えるのか、南無妙法蓮華経
浄土宗と日蓮を一緒にするのは、あまりに見識が無い。
日蓮の教えは、仏教とは関係が無い。
そこで、日本における大乗の宗派を見てみると、無論同じ目的を持っている。
その目的にいたる方法が外面上異なっているのである。しかし、内実は同じなのだ。
ところが、その目的と方法の理解が多少相違してくる。それは導師の指導により、である。
私は浄土真宗であるが、曹堂宗も良いな、と思う。
ギリシャ哲学とキリスト教の哲学、というか要するに彼らの指導と、仏陀を元とする
仏教哲学を比較すると、仏教哲学のほうが、断然優れていると思う。真理真実を穏やかに妥当に
説明してるからである。そこには無理が無いのである。
488 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 19:13:42 ID:SWJK3PJa
>>487 どう優れているのかきっちり説明せよ。
アー アー アー南無阿弥陀仏と唱えることがなんの意味がありどう優れているのか
きっちり説明せよ。
結局釈迦の妄言を信じた人間が、適当に理由をつけて言い押し付けたもの勝ちが仏教
と思うがね。
489 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 19:27:16 ID:SWJK3PJa
>>浄土宗と日蓮を一緒にするのは、あまりに見識が無い。
日蓮の教えは、仏教とは関係が無い。
だろ、日蓮からすれば浄土宗は仏教でないと言っているんだろ。
断然優れているんなら、日蓮宗を浄土宗にできるはずだろ。
そういったこともできないか事実から、釈迦の妄言を優れていると
思い込み組織ができたということだろ。
とりあえず、南無阿弥陀仏をなぜ唱えるのが、全ての人にわかり易く
説明してもらおうじゃないか。
490 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 22:12:13 ID:iCRtwLbB
>>489 まず、仏と言う意味は、正覚を得た人という意味である。これは大変な最大事なのだ。
であるからぶつとか正覚その他にも仏に関わる言葉を耳にしたときは、体が緊張する
ほどで無ければならない。体が緊張するというのは、正覚とか仏と言うものをよく理解しているからである。
理解しているというのは、よく教えられているのでなければならない。
それゆえに、仏の名前を唱えるということは、必ずその効果があるのが必然なのだ。
それは、一切の罪の許しをもたらすものであるからだ。罪とは、仏を認めないことなのであるから。
491 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 22:14:36 ID:iCRtwLbB
神についても仏の場合と同様である。
492 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 22:31:31 ID:iCRtwLbB
判った?
493 :
tibyaku:2009/02/07(土) 22:36:02 ID:krW4MGqx
南無阿弥陀仏は「阿弥陀仏に帰依します。」の意味で大衆救済の救世主的力に対して信仰しますの意であります。
南無妙法蓮華経は「神秘的お経である法蓮華経に帰依します。
南無は「帰依」を現し信仰の対象を言います。
仏教は反省修法と三宝帰依(ブッタに帰依しブッタの説く法に帰依し、僧団のルールに帰依します。の誓い)がありますが、
日蓮宗も浄土宗は反省修法と三宝帰依がないので仏教では無いですね。
494 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 22:41:37 ID:iCRtwLbB
>>493 >仏教は反省修法と三宝帰依(ブッタに帰依しブッタの説く法に帰依し、僧団のルールに帰依します。の誓い)がありますが、
で、あなたは、仏とはどのようなものか、法とはどのようなものか、僧とはどのようなものか、知らないでしょう?
495 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 22:44:54 ID:pz6pDPNp
仏教哲学の洗脳。仏の名前を唱えて効果があり、一切の罪の許しをもたらす???????????????
釈迦って自分の名前を多くの人に知ってもらいたかっただけ。
そのための多くの言葉を語った。
そして馬鹿は騙され続けた。
それが仏教である...........................
496 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 22:50:13 ID:iCRtwLbB
>>495 お前も仏の意味を知らないだろうね?だから、仏と何回聞いても、馬の耳に念仏となるのである。
お前に仏教を教えるものがいなかったのだ、そうだろう?
497 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 22:53:25 ID:pz6pDPNp
釈迦の名前で一切の罪のゆるしをもらえて、大衆救世的な力に帰依しますって、大衆救世的な力に帰依しますで大衆が助かるのか??????
人殺しも盗みも釈迦の名前とやら大衆的な力に帰依しますとして、罪のゆるしをもらえて、
世の中は大変なことになり、坊主が儲かるだけ。
それが仏教である................................
498 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 22:59:33 ID:pz6pDPNp
仏教は人殺しや盗みに念仏である。
その人の罪はゆるされた。
人殺しや盗み、そのた諸々の罪を犯した人はゆるされて、
殺された家族や、盗まれた人は苦しむだけ。
坊主だけが儲かるシステム。
それが仏教である.................................
499 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:00:45 ID:iCRtwLbB
>>497 お前も仏の意味を知らないだろうね?だから、仏と何回聞いても、馬の耳に念仏となるのである。
お前に仏教を教えるものがいなかったのだ、そうだろう?
500 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:02:31 ID:m8Ivrc1X
>華厳経
大乗ですね。
>イエスとブッダの共通点より、仏教を統一したほうがいい。
そもそも1つですから。 いろんな理由で捻じ曲がり 分裂しましたからね仏教は。
>仏教哲学のほうが、断然優れていると思う。
優れているもなにも 別物ですから。
>488
そのとおり。 だが釈迦は戯言を 多分言っていない。周りが勝手に捻じ曲げたんだろう。
>南無阿弥陀仏をなぜ唱えるのか
それは仏教というより キリスト教並みだろう。
>490
は まさに画に描いた餅だな。なんら答えになっていない。
>神についても仏の場合と同様である。
神と仏は 大乗では一緒くたにされているが 本質は全くの別物である。
>日蓮宗も浄土宗は反省修法と三宝帰依がないので仏教では無いですね。
それよりも仏教的に 大事なのは
仏に逢うては仏を殺せ。
祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん。
ですね。
>497-498 は
まさにキリスト教ですね。 つまり大乗仏教です。
501 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:10:33 ID:iCRtwLbB
ああ、日本人は仏教を知らない、仏教仏教といいながら!
502 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:15:56 ID:OeLcDKyW
そんなほのめかしは通用しないと思え。
503 :
tibyaku:2009/02/07(土) 23:24:03 ID:krW4MGqx
494>仏とは?法とは?僧とは?教えて頂けますでしょうか?
504 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:32:50 ID:iCRtwLbB
>>503 法がはじめである。法は常住している。仏はそのほうを体得したお方である。
僧はその法を修行する団体である。
法とは、無相のことである。無相であるが故に、空相とも、一相とも、無量とも
永遠とも、いえる。この方と一体になったものが仏であり、一体になる修行をする団体を
僧「サンガ」と言う。
そこで、法が無相であるとはどう言う訳か判るか?
505 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:33:19 ID:OeLcDKyW
>天国として神という理法を、ニルバーナとして空諦の理法を説き、
神の何処が「理法」なんだか。 理法と言うならさっさと再臨して見せなさい。再臨するという妄想は 理法ではない。
506 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:36:44 ID:yd6MDDdV
念仏すれば浄土に行けるか?
さぁ?わかりませんなぁ。。
それが理解できるほど優れた人間じゃないからねぇ。。
地獄ってのがあるんなら、地獄行き確定な身の上だしね。
ただ先輩や祖父が、そんな非道な私でも「念仏したら救われるよ」って言ってるから、信じてみようと念仏しているだけですが、なにか?
507 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:39:26 ID:iCRtwLbB
>>505 神は、「唯一」というお方である。唯一なものを神と言うのである。唯一なものは無相であり、
空相であり、永遠である。これは理法としかいえないのである。この唯一なものを
仏教では仏と言うのである。
508 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:40:58 ID:iCRtwLbB
唯一な者は、時に縁があって、地上に現れるのである。釈迦が現れたように。
これの二回目が再臨である。
509 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:43:00 ID:iCRtwLbB
>>506 >そんな非道な私でも「念仏したら救われるよ」って言ってるから、信じてみようと念仏しているだけですが、なにか?
仏とは何か、仏を念じるとは何か、それを知っていないなら、馬の耳に念仏である。
510 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:48:59 ID:yd6MDDdV
私が教わったのは「浄土に行けると信じて『なむあみだぶつ』と唱えると救われます」ということだけですよ。
それ以外のことは何もないです。
仏とは何かなんてことは申し訳ないんですが、わかりません。
>>509
分かり易く言えば、お釈迦さまが仏(ブッダ)。
法(ダルマあるいはダンマ)は、一言では説明しがたい。
自分で図書館に行って調べるなり人に聞くなりパソコンでググるなりせよ。
512 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:52:28 ID:iCRtwLbB
>>510 それではその念仏は徒労である。
>>511 判りにくいと言ってはいけない。法とは一相無相空相無我であるから。
513 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:54:46 ID:iCRtwLbB
無相とは、いかなる変化も見出せない世界のことである。一相というのも
ひとつのそうしかないということは、そこにいかなる変化も見出せないということである。
空相無我も同じに考えるべし。
514 :
神も仏も名無しさん:2009/02/07(土) 23:58:07 ID:yd6MDDdV
>>512 まぁ徒労かどうかはわからんけど、少なくとも私は救われると信じて「なむあみだぶつ」と言ってるだけですわな。
仮に騙されて、念仏して浄土に行けなかったり地獄に落ちたとしても後悔なんかはしないと思うけどね。
515 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:00:21 ID:yqxsWlUn
もともとはお釈迦さまだけが仏ということでスタートした仏教のはずが
いつのまにか大日如来やら阿弥陀仏やら様々な仏が時代が進むと共にドンドン増えてしまった。
大半はバラモン教からの影響だろうが、極めつけは
ゾロアスター教から派生した古代ローマの新興宗教ミトラス教の影響により
救世主神ミトラ(マイトレーヤ)の再臨という教義が入り込んだ。
いわゆる弥勒信仰である。
本来はユダヤ教のヤハウェ神に匹敵するような
仏教における唯一絶対の教主であるはずのお釈迦さまが時代の流れの中で
いつの間にやら脇役に成り下がってしまった。嘆かわしいことである。
517 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:03:01 ID:yqxsWlUn
>>514 訳もわからずに唱えていたのでは、それは呪文ではないか?
呪文ならまだ良いかもしれないが、キチガイのたわごとであろう。
何の意味がおまえ自身にあろうか?おまえ自身に無いなら、相手にどうして伝わろうか?
518 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:07:24 ID:iCRtwLbB
>>516 それは間違いである。
釈迦仏という個別の仏がおられるのではない。仏とは一相無相空相であるから
釈迦仏がお出ましにならなかったとしても、法は実在しているのである。
519 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:12:48 ID:ODTpyn97
>>517 意味。。意味ねぇ?
あんまり考えたことないけどなぁ。。
ホントに単に信じて念仏してるだけだからね。
強いて言うなら、信じてることに意味があるんかな?
繰り返すけど、祖父や先輩らが「救われると信じて、念仏すれば救われるよ」 と言ってるから、私も信じてるだけで、他の子細は無いからね。
520 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:14:10 ID:yqxsWlUn
気の遠くなる先に弥勒が来られるという教えは、方便である。これにより
人を期待させるためである。実際はそれは今なのである。時間空間は
一相なる仏の世界には無いのである。
念仏に限ったことじゃないけど
幸せになるために南無をしちゃいけないよ。
南無すること自体、祈ること自体がすでに幸せだと思わないとダメだよ。
522 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:15:28 ID:yqxsWlUn
>>519 それでは何を信じているのか言えるか?救われるとはどういうことか?
523 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:18:08 ID:ODTpyn97
524 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:24:55 ID:ODTpyn97
>>522 何を信じてるかって、「念仏したら救われる」ってことを信じてるですて。
「救われる」とは何かと言われてもねぇ。。
もし私が誰かを救うってんなら、これが救いだって言えるかもしれないよ?
でも救うのは私じゃなくて阿弥陀さんだからねぇ、
阿弥陀さんのしてくださることは、ホント申し訳ないけど愚か者の私にはわかりません
525 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:27:05 ID:yqxsWlUn
>>524 それじゃ、言葉だけじゃないか?
仏とは何か、を知らなければならない。
祈りは信じるためにあるのではない。
祈りは単なる手段であり道具であり法則である。
例えるならば、自転車のようなものである。
自転車を信じようが信じまいが、
部品を設計図通りに組み立てれば出来上がるし
乗り方を覚えてしまえば乗りこなせる。
すべての祈りや儀式は単なる手段であり道具であり法則である。
信じようが信じまいが、きちんと組み立てて乗れば乗れるし使えば使えるものだ。
人生は短い。疑ってる暇があるなら、それを乗りこなしなさい。
527 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:32:07 ID:yqxsWlUn
>>526 >疑ってる暇があるなら
524は疑ってもいない。
528 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:35:10 ID:OZsMXrdS
わたしも部外者だから、普遍的なことを言いますが
信じた者にしか見えない再臨は信じた者同士で言っていればいい。 他人に信じさせようとする時点で説明義務があるし
説明できないなら 来る来ると言うなという事。
まあそう言うことで 自分を慰めたいのだろうが。 自慰は独りで行うのは人としてのマナーだろう。それくらいは理解すべき。
釈迦は真理を説き イエスは妄想を説く。
529 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:35:32 ID:ODTpyn97
>>525 うーん。。言葉だけじゃないかと言われれば、返す言葉は無いよなぁ。。確かにただ信じて「なむあみだぶつ」って言ってるだけだし。。
でも仏を知らなければならないって言われたって、愚鈍な私には難しい勉強だの修行だのはとても出来ないしねぇ。。
仕事して生活しなきゃならないし、マジで愚か者だから理解しきれるとも思えないしね。。
念仏したら救われる、ということを本当に信じて安心の境地にいる人ならば
たぶん、そういう人はすでに念仏によって救われているのだろう。
まぁ、なんであれ、信教の自由は憲法で保障されているから、他人が口を出すべき話ではないわけだが。
531 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:38:50 ID:yqxsWlUn
>>529 お前は人に聞くということが無いね。多聞というのは大事な修行だ。
多聞であればあるほど、良い。サンガの効果である。
532 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:39:42 ID:ODTpyn97
>>530 えーと、うん。。
なんか、ありがとう?で良いのかな?w
533 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:48:50 ID:ODTpyn97
>>531 多聞って修行かぁ。。
なんか修行したり戒律を守ったりとか、愚か者の私にはとても全うできそうもないんですが。。。
534 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 00:58:14 ID:+OjeyTGi
>仏教における唯一絶対の教主であるはずのお釈迦さまが時代の流れの中で いつの間にやら脇役に成り下がってしまった。
半分正解。
仏教の本質は 後に歪められ乗っ取られた。 しかし釈迦はイエスのような絶対存在ではない。
真理のガイド役に過ぎない。 もちろんイエスは似非の絶対神だが。
535 :
tibyaku:2009/02/08(日) 00:58:25 ID:6KHdq3oe
513>まで教えて頂きましてありがとうございます。
法とは一相無相空相無我であるということでしたが私見の解説をしたいと思います。
法とはこの世の宇宙ができる前にありあの世の宇宙のできる前にあり、故に法は初めに
あります。
一相とは法によりあの世の宇宙を創り、この世の宇宙を創った。
無相とは法は姿形なきものにて永遠にして初まりなき終わりなき普遍の真実である。
空相とは法によって法則がこの世とあの世を貫ぬいて縁起によって生かされています。
縁起を見るものは法を見るからであります。
無我とは法によってこの世とあの世が法則の中に循環して森羅万象の永遠の魂の修行の場として
与えられています。(例えば水が冷やされ氷になり、氷が暖められて水となり太陽
の熱で水蒸気になり、空が曇って水蒸気が雨になって水に戻り循環しています。
そこに俺が俺がの我はありません。)
間違ったところがあれば御指摘御指導お願いいたします。
イエスは伝えるものを選ぶんだよね
無明の人間には真実は誤解しか生まない
受け取る側が成長するしかない
537 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 10:43:14 ID:yqxsWlUn
>>533 >修行したり戒律を守ったりとか、愚か者の私
正法を誹謗するものと五逆罪を犯すものは浄土に入れない。
正法とは、真実である無相一相空相を認めることである。
この真実の前には、愚か者も、賢者もいない。自分は賢者であるというもの、
自分は愚か者であると自認するもの、これらのものは、正法に敵対するものである。
正法に敵対するものが正法に受け入れられるという道理は無い。
538 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 11:19:34 ID:yqxsWlUn
>>535 唯一なものは神と命名されるものであり、仏と命名されれるものである。
唯一なものは、無相である。唯一なものは一相である。唯一なものは空相である。
唯一も無相も一相も空相も、同じものを指すのであり、表現が異なっているからといって、
その指し示す対象が異なっているのではない。
縁起とは、変化する現象が原因結果の法則に支配されていることを言うものである。
この変化は、人の変化する心の一切を言う。そして原因がった生じたもの、このようなものは
真実としてあるものではない。真実にあるものは変化しないからである。真実は原因結果の法則に支配されていない。
これゆえに、真実は一相であり、無相であり、空相であるというのである。
無我とは、変化しているものには本体:実体:命が無いという意味である。
原因となっているものの本体:実体:命は無く、結果となっているものにも、
本体:実体:命は無いのである。
>唯一なものは、無相である。唯一なものは一相である。唯一なものは空相である。
>唯一も無相も一相も空相も、同じものを指すのであり、表現が異なっているからといって、
>その指し示す対象が異なっているのではない。
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
宮沢賢治 春と修羅・序
http://why.kenji.ne.jp/haruto/100jo.html
「この世に唯一の安定は、無常なり」
http://entre.exblog.jp/7819029/ 西水恵美子さんのコラムが電気新聞2009年1月15日付に掲載されていた。
ブータンの雷龍王5世の戴冠の話だったが、その父4世と12年前に謁見したときの言葉として「この世に唯一の安定は、無常なり」というものが紹介されていた。
これを読んで、久しぶりに「「すべてのものは変わっていく」ということが、唯一、この世の中で変わらないこと」というエントリーを思い出した。
シリコンバレーは今日も快晴。広くて青い空は、沈んだ気持ちやちょっとしたストレスをすべて昇華してくれるようだ。そんな空を見て思う。
世の中で、決して変わらないことが一つあると思う。この世の中では、ほとんどすべてのことが変化する。人の気持ちはその最たるものだろう。
そして、この地球の自転速度でさえ、インドネシア沖の津波をもたらした地震によって、少し変化しているという。
それでも、この世の中に変わらないものがあると思う。それは、「物事は常に変化する」ということである。
「すべてのものは変わっていく」ということが、唯一、この世の中で変わらないことであるような気がする。青い空の下、そんなことを感じながら、私は車を走らせていた。
当時、結構反応があったエントリーだが、こんなことを綴っていた日が懐かしい
541 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 13:31:05 ID:yqxsWlUn
一切皆苦、諸行無常、諸法無我、これらの意味は、一切が縁起現象であるので、
右と左に変化しているものには実体が無い幻であるから、それらを取り押さえようとするなら、直ちに苦しみを身に
引き込むことになる、というものである。幻をつかむことはできないのに、
捕まえようとしているからである。
そこで変化しているものを変化していないものとみなして対することが正しいことになる。
固定的(執着心から来る観念)なものを生じさせない行為が、正しい行為である。
542 :
tibyaku:2009/02/08(日) 13:39:59 ID:DZePpt4y
法とは
例えですけれど水は氷になっても雪になっても雨になっても水蒸気になっても
姿(働き)はかわれど唯一水の本質は変わらない。ということですね。
ありがとうございました。
543 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/08(日) 14:09:59 ID:36lgf3V0
■貪欲と憎しみによりこの世は消滅する
「わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微
妙であり、賢者のみよく知るところである
ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ
すべての形成作用のしずまること、すべての執著を捨てること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やす
らぎ(ニルヴァーナ)というこの道理もまた見がたい。だからわたしが理法(教え)を説いたとしても、もし
も他の人々がわたしのいうことを理解してくれなければ、わたしには疲労が残るだけだ
貪りと憎しみにとりつかれた人々が、この真理をさとることは容易ではない。この世の流れに逆らい、微妙で
あり、深遠で見がたく、微細であるから、欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ」
「ああ、この世は滅びる。ああ、この世は消滅する」(悪魔との対話)
※絶対的な境地(不死の永遠)は在る=つくられざる存在(唯一の神)=つくられなかったら信仰あり
「軽安」「長寿」たとえば病の人が欲を貪らず静かに安静にして病を治そうとするように、悪い者であっても、
多少は現象として現れる。
■あなたがたはこのままで神の信仰があると思っているが、神への信仰はからし種一粒ほどの信仰も無い
「断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである〜報いて
下さるだろう」(マタイ)
信仰の対象(偶像)を抱いて神を信じた人々よ、それは誤っている。人里離れた静かな所でわずかな食物
で暮らし、私のように不死の境地に達しなさい(イエス・釈尊)
□ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの束縛
「欲貪・瞋恚・有身見(われ・わがもの)とかいう観念を離れぬ我執・誤った戒律や禁制を正しい修養方法
であるとして執著すること・疑い」
「在俗信者であるスダッタは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、欲情と怒りと迷いとが漸次となるが故に、
〜一度だけこの欲界の生存に還って来て、苦しみを滅ぼしつくすであろう」(ブッダ最後の旅)
544 :
名無し:2009/02/08(日) 14:10:14 ID:xEq9KBRs
542氏へ,あなたは、有見に着してます。
眼の前に水があったとしても,縁次第でどんどん変化します。
変わるのが本質なのです、見ただけで水と判断したのはあなたの心です。
一定の決まりきった相はないのです。
雨、霧,湯、雲、条件次第で名称がどんどん変化します。
ここで応用問題、夫45歳、妻44歳、息子18歳、娘14歳の家族構成の一家が
有ったとして、多分日本中にありふれた家族構成です。
この夫が、勤め先の会社の部下と肉体関係を結ぶように成った。
この場合、夫から見て部下は、愛人と呼ぶべき存在になります。
妻からは、何と呼ぶべきでしょうか?
息子、娘からは、何と呼ばれるべきでしょうか?
このまま行きますと子供たちの将来にも差し支えそうに成ってきた所です。
一人の若い女が、同一家族、四人からそれぞれ違う名称と心理状態で呼ばれる
わけです。
此れを空と呼ぶべきとは、大変な皮肉でしょうが、此れを解決できたら立派な
宗教でしょう。
此れをしないで物を言ってるのが空理空論と言うのです。
545 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/08(日) 14:11:28 ID:36lgf3V0
□下界
「貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう〜神は、罪を犯した御使たち
を許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた」
(ペテロの第二の手紙)
□過ぎ去る有様を自分と思わない
「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ〜この身は泡沫のごとしと見よ。この身
はかげろうのごとしと見よ」(感興のことば)
「何となれば、その愚者のその考えは虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから」(ブッダ)
「今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、世を交渉のある者は、それに
深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである」(コリント人への)
「あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧に過ぎない」(ヤコブの手紙)
□一切の苦悩の無いことを喜ぶ境地
「上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高な境
地と呼ぶ。諸々の邪まな見解にとらわれず〜諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿る
ことがないであろう」(ブッダのことば)
「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いよ
うに、あなたがたも慈悲深い者となれ」(ルカ)
神を信じた者よ、そのままで神を信じれると思うな。あなたがたは権威や栄華を貪る欲念を抱かせた悪魔
の子なのだ。だから、人は栄華を得ようとあくせくし、快楽・享楽・物質的な喜びを得ようとする。そし
て死んだら終わりの者と同一となろう。信じた者は、貪欲や憎しみ・怒りを捨てることに努め、一切の事
物は我ならざるものと思うことに努め、目の前の人が飢えているのに助けないような邪まな見解を捨て、
それを行っても私は善人だと思い上がらないようにせよ。
誤った信仰を正すために主となったが、私を「主よ、主よ」と言う者が、皆天国に入るというわけではな
い(イエス)
546 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/08(日) 14:13:03 ID:36lgf3V0
人がそのままで神を信じたら悪魔信仰となってしまう。イエスは神がわかるような教えを残し、教え主とな
り信じさせ、「主よ、主よ」と言うなという言葉とともに、名称と形態(偶像)を滅ぼすように信仰させた。
誤った信仰の行いを正すためであった。
□世の終極・世の終わり
「意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して〜世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあ
り得ない。それ故に、世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となる
であろう」(神々との対話)
「その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起こるからである。
もしもその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう」(マタイ)
「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり〜そこには、すでに有ったものが存在せず、
虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っ
ている〜そこでは月も照らさず、太陽も輝かない」(感興のことば)
「その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は
揺り動かされるであろう」(マタイ)
信じていても、権威や栄華の拡大、貪り、物質的な喜び、快楽、享楽、敵意や憎しみ、怒り、無慈悲な人々
は滅ぼされ、この世の有様は過ぎ去るとして、世の中と身体は泡沫のごとしと見よ、世の中と身体は陽炎の
ごとしと見よ、一切が苦悩なき事を喜びとする境地であるから、目の前の人が飢えていた時に助け、宿の無
い人に宿を貸したり、貧窮なる人に施し与え、乞う人に施し与えたりしている人々、悪魔に造り出されない
ように努めている人々は、つくられない存在となるであろう。
信じたら信仰(偶像礼拝)など無い。そのようになるよう努めなさいということだ。そういったことを信じ
られるのが信仰。
547 :
tibyaku:2009/02/08(日) 14:39:16 ID:DZePpt4y
544>投稿を見られる方々はいろんな認識をお持ちです。
相手の見方を考えてこの世にある誰でも解る「水」を用いたまでであります。
有見にして見なければ多くの人は解らないままです。
故に手段として使用したまでです。
変わるのが本質は自己変革して魂の向上をはかることは良いことですが、
法は変わることを本質としていません。
また皆様に御理解しやすい最大公約数として「有見」を使わせていただきます。
宝石の王様は、ダイアモンドです。宝石ですから幾重にもカットが入ってダイヤモンドの魅力が引き出せています。
ダイヤモンドのカットは次々かわりますが、カットが変わることを持ってダイヤモンドの本質というでしょうか?
ダイヤモンドの本質はタンクローリに踏まれても変形しない硬さと、限りなき透明感が
ダイヤモンドの本質ではないでしょうか。
548 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 16:31:28 ID:yqxsWlUn
諸法無我と実相としての無相との関係について知っておかなければならない。
諸法とは、一切の現象を指す。この一切の現象とは、自分の心の範囲である。
自分の心の範囲を、五蘊という。色受想行識である。色の一切、受の一切、想の一切
、行の一切、識の一切が無我なのである。人はこれらの一切を決して実体があると思ってはならない。
これらに命があると思ってはならない。命とは、自ら行動するもののことである。
この誤解の命を自分と誤認すると激しい煩悩の激流に流されることになるのだ。
故に一切を自分であると誤認してはならないのである。
それでは自分とは何であり、どこにあるのであるか?変化するものに騙されない自分が
自分である。変化するものに騙されない自分とは、五蘊を自分としない自分である。
それは変化しないものである。変化しないものは、真実であり、真実は無相一相空相
である。これが人の真実である。故に、人は、真実には、仏であり、神なのである。
拈華微笑
550 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 16:42:08 ID:yqxsWlUn
仏であるとか、神であるとかの名称は無意味である。無相一相空相、と言う
変化しないものと言う理解が大事である。
そこで、この変化しない自分があり、一方変化を追い求める自分があるので、
苦しみが生じるのである。自己が分裂するのである。この真実の変化しない自分が
もともと無いものなら、変化するものを自分として、流転しても、何の障害も無いのである。
流転といったが、これは輪廻と言う。輪廻とは縁起の法則の支配下にあるものである。
輪廻も永遠に存続するものであることを知らなければならない。真実の自分を放棄して
変化してやまないものを自分と誤認している限り、永遠に輪廻の世界から脱することができない。
輪廻の世界のことを地獄と言うのである。故に真実の自分に留まらない限り
地獄から抜け出すことはできないのである。
という観念論から抜け出せてないようではだめですよ
感情論の裏にあるそのしこりから抜け出せてない
552 :
NAS6 ◆kl1JWE6W72 :2009/02/08(日) 19:52:17 ID:oiM2Y/Qi
無いは無い
Nothing is nothing.
お分かりですか?
553 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 19:55:35 ID:yqxsWlUn
554 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 19:58:51 ID:yqxsWlUn
判った?
555 :
NAS6 ◆kl1JWE6W72 :2009/02/08(日) 19:59:24 ID:oiM2Y/Qi
だから分かりますよね?
不変、普遍のものは
Nothing is nothing.
何か在るから認識できるのですよ
556 :
NAS6 ◆kl1JWE6W72 :2009/02/08(日) 20:13:01 ID:oiM2Y/Qi
Nothing is nothing.
無いは無い
仮に無いが在るとして
無いは無いんだろ
557 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 20:49:55 ID:yqxsWlUn
>>555 普遍なものはある。しかし、そこには認識できる個々のものは無い。
このことを諸法無我と言うのだ。そして進んで、一相無相空相という。
これが普遍なものの実体である。
>>556 >仮に無いが在るとして、無いは無いんだろ
個々のものは縁起している。しかし、知性の目で見ると、縁起してるものは実態が無い、故に
そこには何も無い。が、何も無いものがある、つまり一相であり無相であり空相である。
何が無いのか、どのような要素のものが無いのか、それをはっきり言うべきである。ほのめかしは
得にならない。
558 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 21:05:48 ID:yqxsWlUn
真実にあるものは無相一相空相で無ければならないのだから。
何も認識できないものこそあるものと判断しなければならない。
559 :
神も仏も名無しさん:2009/02/08(日) 21:09:05 ID:63B9Ba3F
という講釈師の説法会です in2ちゃん。
560 :
神も仏も名無しさん:2009/02/09(月) 20:58:15 ID:peTPTSdx
故に、認識されるもの(認識できるもの)を大胆に捨てることができる。
こうして一つ一つ捨てることにより、そのつど、ニルバーナに近づくことを感じるのである。
つまり真実の喜びを感じることができるのである。真実の喜びであって、相対的に感じる
この世間の喜びではないものを、である。
561 :
神も仏も名無しさん:2009/02/09(月) 21:30:08 ID:33y4WPXx
結局、信じるより捨て去ろうとすることが神なんだろうね。
捨て去りきれないところに罪があると。
562 :
神も仏も名無しさん:2009/02/09(月) 22:11:50 ID:peTPTSdx
理解していることと信じていることとは別ではない。
563 :
神も仏も名無しさん:2009/02/09(月) 22:13:04 ID:peTPTSdx
理解の無い信仰は、狂信でありカルトである。
564 :
神も仏も名無しさん:2009/02/10(火) 01:25:33 ID:PIMtwFse
釈迦は理解を勧めたが イエスは妄想を勧めた。
565 :
神も仏も名無しさん:2009/02/10(火) 08:08:47 ID:4Xul0ieT
566 :
神も仏も名無しさん:2009/02/10(火) 23:15:52 ID:HFCcvE2N
イエスや日蓮らの妄想は 仏教では到涅槃に役立たないので排斥されます。
567 :
神も仏も名無しさん:2009/02/10(火) 23:31:56 ID:4Xul0ieT
568 :
神も仏も名無しさん:2009/02/10(火) 23:48:38 ID:HFCcvE2N
↑ 教えてあげているのだから そういう言い方は駄目だな虚無くん。
せいぜいイエスのイエスマンとして一生を終えなさい。
569 :
神も仏も名無しさん:2009/02/10(火) 23:56:00 ID:4Xul0ieT
それにしてもお前は説明と言うものを知らないのか?
570 :
神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 00:20:43 ID:l7kUZOPA
求めれば与えられるのか。 はじめてきいたなそれが真理だなどとは。
571 :
神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 08:51:29 ID:ZcCbw3V+
>>570 お前何にも判ってないんじゃない。
それなのに偉そうにする事だけは堂に入っている。偉そうに嘘つくことを
今まで修行してきたんだな。
572 :
神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 08:53:58 ID:ZcCbw3V+
>>570 あなた様は思われるとおり歩み行かれるのがよろしかろうと思います。
573 :
神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 10:00:20 ID:ZcCbw3V+
>>570 >求めれば与えられるのか。
これが真理であると誰がどこで言ったというのだろう?
妄想の世界にいるひとのいうことはてんでわからないなwww.
ま、こんなものはほっとけか(苦笑)。
574 :
神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 22:10:44 ID:9tef7gOB
3連チャンで無駄遣いすんな。 節約が大事だぞ。
575 :
神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 22:18:44 ID:ZcCbw3V+
そうですね。あらゆることに慎み深くあれと聖人の教えだしね。
576 :
神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 22:48:46 ID:9tef7gOB
その 言い成りになりたい症候群がまさに失点だな。
要するに人間は何かを思い実行する度に自分なり相手なりに借金を作ってしまうから
何にも頓着しない事で借金を作らない生活をして
ついでに他の人間の借金まで虚空の彼方に消し去る徳政令の実現を目指しましょうねミ★
(借金を帳消しにして貰うには双方=全人類の合意が必要)
って言うのが教えなんでしょ
宗教に勧誘する人はさしずめ借金返済を迫る借金取りって所かな
578 :
神も仏も名無しさん:2009/02/12(木) 23:04:24 ID:8e864QY1
そろそろニルバーナ、天国の様子について、知るときではないでしょうか?
どんな世界でしょうか?
579 :
神も仏も名無しさん:2009/02/13(金) 00:30:25 ID:4Imj3y/1
578のどちらも体験済み。 別物ですけどね。
580 :
神も仏も名無しさん:2009/02/13(金) 19:14:23 ID:Abt3CM6E
それを紹介してもらえますか?
曹洞宗 統一スレッド
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1234456132/l50 1 :神も仏も名無しさん:2009/02/13(金) 01:28:52 ID:g8LX0+JX
無いようなので独断で立ててみました。既出でしたらすみませんm(__)m
本尊 曹洞宗はお釈迦(しゃか)さまをご本尊として仰ぎます。
本尊唱名 南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)
教義 わたしたちはみな仏(ほとけ)の子(みこ)であり、生まれながらに仏心を具(そな)えています。
しかしそれに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみや悩みのもとをつくっています。
ひとたび仏さまに懺悔(さんげ)し帰依(きえ)するならば、
心が落ち着いておのずから生活が調えられて明るくなり社会のお役に立つことを喜び、
又 どんな苦難にも耐えて生き抜こうとする信念が生まれます。
そこに生きがいと幸福とを発見するのが曹洞宗の教えであります。
参考:曹洞宗 公式サイト − 曹洞禅ネット
http://www.sotozen-net.or.jp/
582 :
神も仏も名無しさん:2009/02/13(金) 20:36:03 ID:8j5PhyKx
寂静と希求の違いですね。
583 :
神も仏も名無しさん:2009/02/13(金) 23:24:59 ID:Abt3CM6E
584 :
神も仏も名無しさん:2009/02/14(土) 03:35:07 ID:1Yu3U+Q4
585 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/14(土) 08:46:54 ID:pTWCzhIK
□寂しい所と安らぎ
「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」(マルコ)
「イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれ
ないようにと、引き止めた」(ルカ)
「孤独の味、心の安らいの味をあじわったならば、熱のような悩みも無く、罪過も無くなる」(感興のこと
ば)
〔そして、「やすかれ」と言われた〕(ルカ)
「安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る」(ブッダのことば)
□欲を満たすことの誇り
「肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過
ぎ去る」(ヨハネの第一の手紙)
〔「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のもの
ではない〜どうして財が自分のものであろうか。もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者
である」(真理のことば)
□願い求める者には欲念がある
「祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな〜その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるな
ら、そのとおりに成るであろう〜なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」
(マルコ)
586 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/14(土) 08:53:01 ID:pTWCzhIK
「ねがい求める者には欲念がある」(ブッダのことば)
「諸君、怖れることはない、怖れることはない。われわれに安心を授けられる偉大な志を持つ求法者アヴァ
ローキテーシュヴァラを、われわれは声を揃えて一緒に呼ぼう。そうすれば、諸君はたちどころに盗賊や敵
どもの恐怖から免れることができよう」(正しい教えの白蓮)
□平安
「あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、
悪い求め方をするからだ。不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。
〜神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほど愛しておられる」(ヤコブの手紙)
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、み
んなの人に示しなさい〜何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささ
げ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることので
きない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ人)
□自分の持っているもので満足しなさい
「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい」(ヘルブ人への手紙)
「自分の所得だけで満足する者となろう」(正しい教えの白蓮)
悩みや恐れ、不安があって信仰する人は、いつまでもくどくどと祈ること無く、既に叶えられた信じきっ
て煩悩を断つこと。そういった教えの知識を求め、見いだすこと。
587 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/14(土) 08:54:03 ID:pTWCzhIK
つくられざる存在、つくられざる者、地上のものに心引かれず、欲も無いところに安住できず、罪を犯し、神
は見捨て、「権威と栄華を貪る」悪しき者、妄執の配下とした。だから、人は欲念のためにあくせく働き、物
欲や享楽・快楽などを享受し暮らす。そして死に土に帰る。
財や持ち物のこと、自分を愛し神を信じるなら、悪しき者を信じることになり、人はそのままでよいのだ。
神は物欲やその他諸々の欲のある人を見捨てられたのだから、ただ信じて救われることはない。
悪の無い者から敵意や怒り、憎しみある人に造られ、物欲ある人々、世間にはそのような人も存在する。
善悪のはからいも無く、良い者も正しい者も悪い者も正しくない者も、別に差別無く暮らしている。
おいしいものを食べ、快楽・享楽を満たし、人は清浄とか善人だと間違っても思わないように、
信じること無く、寂しい所で心の安らいを味わって癒されるか、悩みや恐れ、不安があり信仰をし、そのため
の願いは既に叶えられたと強く信じて煩悩を断ち切り、つくられざる者の喜びを得る多くの人々への救いとが
ある。
全世界は物欲や財欲、享楽や快楽を貪る悪しき者・妄執の配下にあるので、信じた者がつくられざる存在、つ
くられざる者に近づくように宗教がある。
世のこと、生活のこころづかいから離れ、静かに瞑想して心の安らいを味わったなら、妄執から離れつくられ
ざる者に近づくこともできるし、信仰を戒めとして、世のこと、貪欲から離れようとすることも悪しき者の配
下から逃れ命を得ることができる。
588 :
神も仏も名無しさん:2009/02/14(土) 22:35:13 ID:iTydq/Mf
>>584 お前のサイトを読んでみた。
やはり、大事な点をお前は理解していない。仏教のありがたい真理真実の
開示を判ってない。お前の相手のものもわかってないんで、議論が泥だらけになっている。
八正道に言う「正」とは何かを説明できないところに、仏教の教えの本質を理解していない証拠が現れている。
明日よく説明してやろう。人から説明されるのが面白くないなら、今晩ここに
よく考えて、答えてみよ。私が今まで言ってきたことにかなりのヒントがあるから、
答えられるかもしれないが。そんなことを言うとますますストレスになるかも、それではいけないんだが。
589 :
神も仏も名無しさん:2009/02/14(土) 22:39:37 ID:iTydq/Mf
神とは何か、仏とは何か、それがわからないままに、神であるとか仏であるとか、
言っている。こんな初歩的な間違いをしてはいけない。それから、唯一とか一相とかの理解もまったく
不十分だ。やっぱ、仏教は未だ日本に伝わっていないのではないかな。
590 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 00:05:56 ID:LwS8VkxU
だから具体性が無いんだよ しゃべれないなら書くなよな
てかサイトを作れるなら作りなさい。
591 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 13:36:07 ID:xXe3tuim
因果の実体が無いというのが仏の知恵である。
因果があるとは、因なるものがあり、果なるものがあると言う認識である。
それによれば、例えば、自分は過去にあのような悪いことをしたから、現在このような目にあっている。
これは仕方が無いことで自業自得である。この悪い果から逃げるためには、これと異なる
原因を作り、善い果を得る様にしよう、とこのように考えるようになる。
そして、これこそ釈迦がわれわれにお説きくださった縁起の法則である。
しかし善い事とは何かわからない。お金をばら撒くことである。といわれても
自分の生活が成り立たないと思われる。こんな具合で、少しも方策がたたない。
ものは縁起であるから実体が無い、と聞いている。実体が無いから執着してはいけないといわれている。
こんな理解知識であるので、少しも仏教の利益が無いのが実情である。
これが今の日本人の仏教の理解である。この程度なんである。
仏の知恵が因果の実体はないというのはどこに行ったのであるか?
一切は因果であるから、一切の因果には実体が無い、という真理真実はどこに行ったのであろうか?
仏の知恵に従うなら次のようにしなければならない。心に起こる過去未来現在の思いは
すべて因果の法則によっているものである。故に、心の起こることはすべて実体が無い、嘘である。
従って、この心を滅しよう、この心に従うのを止めよう、と考えねばならない。これを続けると、
自然と、嘘に引きずられていない自分を見るようになる。これが解脱である。
非常に簡単なことなのである。
例せば、自分にがんが発祥していると言うときは、その自分にがんが発祥しているという重いそのものが、
縁起の法則により生じているものであるから、それは実体の無い思いであるとして、その思い自体を
滅するのである。
このように考えるよう教えるのが、仏の知恵である、因果には実体がないと言う教えなのである。
592 :
tibyaku:2009/02/15(日) 14:04:02 ID:/nOKkJ27
因縁果報は心の想念体に経験として遺されております。
この世とあの世を輪廻転生し永遠の生命として因縁果報の法則は貫かれています。
愛の思いは善の行いになり良き因縁果報の流れをつくります。
お金をばらまくばかりが善ではありません。顔施(笑顔で施す)、無畏施(悩み、苦しみ、恐怖を取り除いて施す)、
財施(余力の財を施す)、法施(法の説いて道を求めている者の悩みを解いて施す)などがあります。
593 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 14:22:18 ID:xXe3tuim
一切は因果である。故に一切は無実体である。これを真実は無相であるというのは、
更なる発展した真理真実であろうか?単に言い換えただけではないだろうか?
次に、無相であるとは、一相ということであるというのも、更なる真理真実に発展したもの
だろうか?単に言い換えただけではないだろうか?次に因に、さらに、因も拘らず果にも拘らないというのは
更なる発展した真理真実であろうか?単に、因果には実体がないという真理真実に従う表明に他ならないのではないだろうか?
また実体が無いのを空性というのも、言い方を変えたに過ぎないというべきだろうね?
594 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 14:35:27 ID:xXe3tuim
八正道とは真理真実にかなう道と言う意味であります。
真理真実に適っている見方を正見、つまり、正しい見方と言うのである。
以下の項目についても同様に、真理真実に適った見方を正見、真理真実に適った思考を正思惟、
真理真実に適った表現を正語、真理真実に適った習慣を正業、真理真実に適った生活を正命、
真理真実に適った努力を正精進、真理真実に適った希望を正念および真理真実に適った安定を正定
というのである。
因果の実体はないという真理真実に適う方法が正しいといわれるのである。
595 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 14:42:26 ID:xXe3tuim
因果の実体がないというのを正法というのである。
この正法を人に教えること、これを法布施と言うのであるが、これ以上の布施は無いのである。
この正法により安息を得ないものは居ない。病気もしも老いることも生じることも、一切の
苦しみを滅する教えだからである。
596 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 21:56:29 ID:xXe3tuim
>>592 >因縁果報は心の想念体に経験として遺されております。
この世とあの世を輪廻転生し永遠の生命として因縁果報の法則は貫かれています。
>愛の思いは善の行いになり良き因縁果報の流れをつくります。
愛の思いというのが曲者です。愛の思いと言うのは、相手があって生じるもので、つまりこれを
因果と言うのですが、別に縁起とも言いますね、このように相対的なものは、真実にあるものではないのです。
従って、愛の思いが生じたら、それをこれは嘘であると断定して、その思いを滅するようにしなければなりません。
それをこれは良いものであると判断し、それに戸主対馬スト、それが、原因となって結果を生むことになります。
原因が虚妄なものですから、結果も虚妄なものなのです。そしてこれが実体あるものと、はじめに
愛の思いは善いものと断定した人のものとなり増す。しかし、愛には実体が無いのですから、
決して愛と獲得することはできないのです。このために悩み苦しむ結果になります。
そのようなものではなく、真理真実に基づいて行為することを訓練すべきです。愛の実体が無いのに
実体があると妄想し、それを他者に与えるという行為は、正しく無く迷惑なものなんです。それは相手に負担を課すもの
ものである事を知るべきです。しかし真理真実に従って、愛を実体あるものと妄想しないで、そのようなもの
を与えないなら、あなたと他者は真理真実の関係にある異なるのです。
つまり、一体の関係です。これこそ望むべき関係です。八正道に言う
正思惟および正念と言うものがこれに当たります。
597 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 22:00:18 ID:xXe3tuim
>>596訂正
それに戸主対馬スト→それに固執しますと
598 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 22:08:42 ID:xXe3tuim
キリスト教の神が唯一であるとするなら、彼らの神が霊であるなら、それは真理と解釈しなければならない。
その真理は、真実である神を理解させるもので無ければならない。であるなら、その真理は必ずしも
言葉である必要は無い。
またキリスト教の愛は、一般に言う愛と解釈してはならない。それは
真理真実つまり神の中での一体を得させるもので無ければならない。つまり
無償の愛である。見返りを求めない行為である。つまり因果関係を形成しないもので無ければならない。
599 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 22:17:49 ID:MJGk5ItR
長いな。
600 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 23:19:26 ID:Jn8cBkRV
592さんは
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1210349648/685-686 にて論破
されてますね。
さて
>真理真実に適っている見方を正見、つまり、正しい見方と言うのである。
説明になっていない。
>因果の実体がないというのを正法というのである。
実体が無い因が縁を伴って果を生む。 その法則を正法という。
>キリスト教の神が唯一であるとするなら、彼らの神が霊であるなら、それは真理と解釈しなければならない。
真理とはありのままの法であり 唯一か霊であるかとは 何の関係も無い。なぜなら唯一の偽りも在り
霊であるかどうかも あるがままであるかどうかとは関連させ論ずることが出来ないのです。
分かりましたか。
601 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 23:29:05 ID:xXe3tuim
>>600 自己中なことを勝手に言ってるだけで反論になっていないねw。
もう少し真面目に質問したらどうw?
602 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 23:36:42 ID:Iyf6s4mo
そういうのがまさに外道だな。
603 :
神も仏も名無しさん:2009/02/15(日) 23:47:01 ID:xXe3tuim
>>602 自己中なことを勝手に言ってるだけで反論になっていないねw。
もう少し真面目に質問したらどうw?
604 :
神も仏も名無しさん:2009/02/16(月) 21:53:03 ID:GNsMOBm3
.............
605 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/16(月) 23:15:29 ID:nFdetH2E
一切が苦悩の無い喜び、平安・安らぎ、欲の無い所、五感も第六の思考も無い存在、「軽安」「長寿」と仏教
にあるように、思い煩い無く心軽やかにして長寿。その何でもできる神、神通力世界は、微妙にこの世に現れ
る。
病気の時は、貪欲にならず安静にすること。
快楽や享楽、物質的な欲望を満たす時、ほとんどの人がその人を善人とか清浄とか思わない。
誰もいない静かな所で、心の安らいを味わうように努めたら、熱のような悩みも少なくなる。
そういったことが、つくられざる存在(唯一の神)とともに在ることで、自己がつくられない以前を感
じて無意識に行っていることである。
欲の無い所に安住できなかった者が、悪しき者、妄執に導かれ、悪も行うことのできるそのままの人間となっ
た。そして、世間は物質的な物を欲しがり、五欲の対象を享受することを喜び、それらを得ることにあくせく
する者となり、他人を罵り、傷つける、損をさせる人を憎んだり、その他悪を行うことのできるありのままの
人間にさせられた。
善いと思っている人にも善悪のはからいは無く、良い者も悪い者も正しい者も正しくない者も区別無く、あり
のままの世の中となった。
606 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/16(月) 23:16:39 ID:nFdetH2E
■いけにえ
「ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても
〜行いの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている
たとい〜慈しみの心の功徳の十六分の一にも及ばない〜生きとし生けるものどもを憐れむ功徳の十六分の一
にも及ばない」(感興のことば)
「雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである」(ヘルブ人への手紙)
神を信じていけにえをささげても、私たちのつくられざる戻らねばならない姿は「一切が苦悩の無い喜び」
である。いけにえをささげても悪しき者、妄執を乗り越えていない。
だから、人には悪しき者から得た人間の機能の他に、つくられざる存在、つくられざる者となれる要因を
持っている。この世で他人の苦悩を取り除くことは善いことだと思える慈悲やあわれみ。
行うべきだと考え、思い上がって善人だと自任して、そのはからいを求めても無いが、行いの正しい人を
尊ぶことにより、保持できる。
無所有で静かな自然の中でわずかな食物で暮らす生活を守り、
「一切の生きとし生ける者をあわれむブッダに罪過は存在しない」として釈尊と修行僧を尊ぶようにさせた。
荒野で断食をして、権威と栄華という悪しき者に従わず、
イエスはあわれみの行いをして信じさせた。
つくられざる者のような行いをした人を尊ぶことによっても、つくられざる状態に少し近づくことができ
る。世俗的なことを捨て去って、信仰に集中すれば更に近づくことができる。
607 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/16(月) 23:17:45 ID:nFdetH2E
□自分の持ち物を売って、施しなさい
「善い人々は僅かであっても、正しくわかち与えるならば、多くの人々に勝つ」(感興のことば)
「自分の持ち物を売って、施しなさい」(ルカ)
□あくせくするな
「いかなることにもあくせくするな。他人の従者となるな」(感興のことば)
「何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな」(ルカ)
□財を蓄えることなく
「財を蓄えることなく」(感興のことば)
「盗人らが押し入って盗み出すことのない天に、宝をたくわえなさい」(マタイ)
つくられない者であるなら、欲望無く、それらの執着心から解き放たれ、清く正しく悩めること無く、
「生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老い
と死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、―それは喜ぶに足りない」
この世のことは全て愚かだと思えるほどの境地に至る。そこに安住できず罪を犯した。
権威や栄華を他を打ち滅ぼしても得ようとする悪しき者・妄執に従い、それらを得ようとあくせく働く
人間となり失楽した。
全てを捨て去ることをしない人間であることの機能にある人は、つくられざる存在を正しく善いものと
して、自分を愚かだとするならば、まだ救われている。多くの人は中間的な生き方しかできないだろう。
608 :
神も仏も名無しさん:2009/02/17(火) 08:48:31 ID:GhEqgd6Y
>>600 >真理とはありのままの法であり 唯一か霊であるかとは 何の関係も無い。なぜなら唯一の偽りも在り
霊であるかどうかも あるがままであるかどうかとは関連させ論ずることが出来ないのです。
唯一とは理論低に説明できる。しかしありのままと言うのはこちらには少しも理解できない。
そのようなものは、人によりけりであると思うのだ。そこには論理的な説明はあり得ないし、ありのままと言う主観的な見解に、
は説明は不要であると思う。従って、ありのままと言うのは真理ではない。
あなたはこういう論理的に説明できない主観的見解を、真理と良い、論理的に説明でき誰も反駁できないものを
無意味なものにしている。これは真逆ではないか。
>唯一の偽りもあり
唯一とは絶対と言う意味であることを知るべきである。
Aと言う人は二人といないことを以って、Aさんは唯一である、と通常解釈される。
つまりBさんCさんと区別し、AさんはBさんCさんではない、というのである。
しかし、BさんCさんがいないならAさんのAさんたる所以は無いのである。AさんはBさんCさんがいて初めて
Aさん足りえたのである。つまり相対的存在なのである。相対と絶対は常に真逆である。
唯一なものが偽りであるということはありえない。偽りと言うなら、真なるものがあると言うことである。
これらは相対的な存在である。唯一なものでかつそれは偽りなものである、というのは矛盾してるのである。
故に唯一は常に真実で絶対なもので無ければならないのである。
609 :
神も仏も名無しさん:2009/02/17(火) 22:49:16 ID:GhEqgd6Y
突込みがあるかと思っていたが全然無いな。
610 :
神も仏も名無しさん:2009/02/17(火) 22:58:21 ID:5gWjVJX8
リンゴがココに在るから食べれる そして餓死しない。
それにより リンゴがあるという真理が確認できるのでそれは主観ではない。
主観を排しないと 真理は得られない。従って、ありのままと言うのは真理であると言う事ができる。
イエスが再臨するというのは 誰の主観だか知らないが 真理とは到底呼ばれる資格が無い。
>キリスト教の神が唯一であるとするなら、彼らの神が霊であるなら、それは真理と解釈しなければならない。
キリスト教の神が唯一であるとする根拠が弱すぎる。
信じなければ永遠の命を得られるというのが唯一の真理ならば 信じて永遠の命を得た者がすぐさまココで証言でき得る
はずだが 何千年経っても未だそのような者が独りも現れないこのありのままの真理をみると
とんでもない似非説法だと認め謝罪すべきだろう。彼らにその 勇気が在ればのはなしだが。
611 :
tibyaku:2009/02/18(水) 00:26:52 ID:Gjscbqti
592>と596>のコピペの誤字訂正します。
想念体は想念帯が正当でした。申し訳ございませんでした。
因果は実体がないから修行もないことになれば話にならないので
あくまで修行精進するのが本則とするならば因果の理法は
法則であり、修行の思い行いの積み重ねによって自己責任が生じ
良きにつけして悪しきにつけ因縁果報は公平に法則として
働くのであります。
612 :
神も仏も名無しさん:2009/02/18(水) 21:54:08 ID:DENdtMBu
>>610 あなたの言うところは、すべてあなたの過去に存する原因に基づく結果のものである。
それゆえに、その原因も結果も相対的存在であるから、実体の無いもの、
すなわち、虚妄、嘘である。私にはこのように思え、または、そのようの思ってはならない、ということは、言っても、
その効果は無い。あなたの自身のことであるから。しかし、そのように思うのは、そのように思う原因があるのであり、
その原因と結果は、相対的関係(因果関係)にあるものであるから、それゆえに、その原因も結果も実体を持たないもの、
であるから、あなたはその原因にも結果にも固執してはならないばかりか、それを嘘であると破棄すべきである、とは
教えるのが慈悲と言うものであると信じる。
>キリスト教の神が唯一であるとする根拠が弱すぎる。
このれも前答と同じである上に、キリスト教自体が、神は唯一であるといっていることを言いたい。
モーゼも唯一と良い、イエスも唯一といっている。唯一といわないなら、キリスト教には何の価値もない。
613 :
神も仏も名無しさん:2009/02/18(水) 22:13:41 ID:DENdtMBu
>>611 一切が因果(縁起)であるとするのなら、そして因果には実体がないということを理解するのなら、
それからの修行はどのようなものであるのか、に正しい解答があるはずではないか?
それは因果を知らず、因果には実体がないということを知らなかったゆえの、今までの態度を変えなければならない、ということに異議は無いでしょう。
今までは因果に執着していたのでしたね。因に、果に。どうして因を解消しようかとか、別の因を造ろうかとか、
それは因に実体があるものと盲信していたからと言うべきでしょう?
でも今、その因が元々無いのであり、今後からもその存在を主張するものではないと判ったのです。そうすると単に自分が
その因に実体を妄想していただけであるということを知るべきです。
ですから、その妄想を止めるようにするのが修行と言うべきでしょう。
その妄想を垢と言います。穢れのことです。妄想を泊めることが垢を洗い落とすことになるのです。
妄想を止めることが修行なのです。今までと反対です。今までは妄想を積み重ねることでした、そして、
それが修行であると思っていたのです。真逆でしたね。
解脱とは、因果から解脱することなんですね。
614 :
神も仏も名無しさん:2009/02/18(水) 22:22:29 ID:DENdtMBu
結果を生じる行為は、それが良いと一般に言われ認められるものであろうと、
反対にみんながよくないというものであろうと、結果をもたらすものである以上
良いと思う思い、悪いと思う思い、は妄想で、実体の無いものを実体のあるものと思っている
正しくない見解なのです。
世に、よいこと悪いことの判断基準、正しいこと間違ったことの判断基準は、厳然とあるのに
世は知らないでいるのです。しかし、今は、その基準は、無相一相空相であることを理解したのではないですか?
自分に都合の良い結果をもたらすものをよい原因としていたことを恥じるべきです。
それが正しいなどと、客観的正義であるなどと、言っていた自己中心の、
自分を恥じるべきときではないでしょうか?
615 :
tibyaku:2009/02/18(水) 23:17:17 ID:ItgcCDhX
因・縁・果・報は法則であり、法則の中に既に真理価値の物差しがあって、自らが
勝手な正しさをもっての行動であろうと、自らが正しさを知らず善悪の認識が無く
無智であろうと、仏法真理の価値に則して生きることであろうと因果の理法は公平
に働くのであります。
因果の解脱は、もうあの世からこの世に生まれて来ないことを意味している
のではなく、因果のカルマとしてカルマの修正にあの世からこの世に生まれ
ることではなく、自らの使命の意思により、この世に生まれ使命を果たして
行くことを言い、因果の解脱は如来の悟りを持たれた方の事を言うのである。
616 :
神も仏も名無しさん:2009/02/18(水) 23:53:16 ID:DENdtMBu
>>615 問題は、どのような因をつむのが正しいか、と言うことです。
617 :
神も仏も名無しさん:2009/02/19(木) 00:02:39 ID:FaoIBo3W
>612
過去を過去と認識するのは体験であり、その体験を形造るのは自らの識である。
ならば識は唯一のものであり複数である。
そこで真と言うべき物は複数であるはずだが 賢者はそれが唯一であると認識するのは、自らの識によってではなく
我見を排斥した時に自動書記される、いわば物理学の範疇に存する物事そのものであるはずである。
そのものは要素(色)として存在するというのが仏教であるわけだが キリスト教の場合は、要素ではなくそれが個
として存在すると言うところで1つの破綻がある。 要素(因縁から成る)はそれが自性を保てないが故に
物事を瞭察する際に自らをも排撃されるので、誰かのように独断を進めることが在り得ないから、それが衆生からみれば
慈悲と見えてしまう。
信じればどうなる、という教えからは不遜が生まれるが 我見を排する教えからは実相が生まれてしまうのは
皮肉であるが、残念ながらこれが似非と実体の差となる。
618 :
神も仏も名無しさん:2009/02/19(木) 00:06:56 ID:1FXyREH4
>613
戯論が戯論と呼ばれるのは、事実でない場合と仮想の虚空にマボロシを見たい人の我侭を重く見てしまう
ことからである。ならば、それを要素に分解してみるとその正体が現れ出るとしたところに仏教の
蘊奥がある。
因に実体が無いというのはその仏道の先にある結果であり、道そのものである。しかし、どこだかの教義は「信」を勧めるところに
その哀れさがあるのであって、仏道とは隔たるというのはあなたでも分かるだろう。
そしてそれは唯一でもあるはずがない。
>614
善い悪いというのはそれこそ流転するので、そこで必要とされるのは、繰り返すが因縁を意識して、更には
万物を解体することに他ならない。
しかし何とか教徒は何それを信じることで、真理に近付くことを拒否しているのに真理だと言う。
さてそこで真理の定義だが 信仰と真理は同居しない。
つまり、精神のバイアスを主体とする615のような思索は 思索ではないと知るべきでしょう。
619 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/19(木) 20:02:00 ID:7tRGpASj
「悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためで
ある。すべて神から生まれた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。
また、その人は、神から生まれた者であるから、罪を犯すことができない〜わたしたちは互いに愛し合う
べきである〜彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである」(ヨハネの第一の手紙)
「あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。
そこで争い戦う」(ヤコブの手紙)
□種類
「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ〜
神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のある
すべての鳥を、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された〜
家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」(創世記)
「草や木にも種類の区別のあることを知れ〜はうものにも種類のあることを知れ〜水の中に生まれ水に
棲む魚どもにも〜翼を乗り物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、種類のあることを知れ」(ブッダのことば)
□天のおおぞらに光
「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため〜地を照らす光と
なれ」(創世記)
「今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちもよく起き上がった」(ブッダのこと
ば)
「作られざるものを知り〜人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は
楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである」(真理のことば)
620 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/19(木) 20:03:45 ID:7tRGpASj
□慈しみ・足ることを知り
「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」(ルカ)
「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」(テモテへの第一の手紙)
「足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活も簡素であり〜諸々のひとの家で貪るこ
とがない〜いかなる生物生類であっても、怯えるものでも強剛なものでも〜長いものでも〜目に見える
ものでも、見えないものでも〜これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、
幸せであれ〜慈しみの意を起こすべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」(ブッダのことば)
■悪魔
権威や栄華を貪る欲念。賢くなり煩悩の可能力を得て、それに向かってあくせく働く。損をさせる者に
憎しみを抱いたり、富に仕えたり、栄華の拡大を願い争う。それらはつくられざる存在には無いものな
のである。
権威や栄華の拡大を願い、富に仕え「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」を得て悪魔を正しいと感じてい
る人々もいるが、「色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと―わたしは
これではない〜わたしはそれらについての執著を離れる〜悪魔・悪しき者は、尊師はわたしのことを知
っておられるのだ」と離れようとする人もいる。
他人の過失(あやまち)はゆるすが、富に仕えるばかりで肉の主人に誠実に仕えないのはおかしい、
肉の欲、目の欲、持ち物の誇りを貪ること無く、自然の中は心が安らいで楽しい、生き物を慈しむことは
本当は善いことだ、冷酷・残忍・無慈悲なことは悪いことだ、敵意や憎しみを抱いて争うこと無く、平安
を喜ぶことは善いことだ、怒りや世の思い煩い無く、安穏な心でいる時は楽しいなど、人の内につくられ
ざる存在を持っており、そういったことの維持・努めのため教えがあり、つくられざる者となる。無意識
に身についてしまえばよいのである。何ものか(偶像を抱けるもの)のためにしているわけではない。
ただ信じただけで、つくられざる者となるわけではない。肉を越えないと肉のまま土に帰る。
621 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/19(木) 20:05:02 ID:7tRGpASj
得ようとして額に汗して働き、名誉や権威を得ようとして努力する。生活のこころづかい、世のこころづ
かいのために尽くす。悪しき者を乗り越えておらず、つくられざる世界を知ることなく土に帰る。
釈尊も神の子なのである。無所有で自然の中で妄執を乗り越えるために修行僧らと暮らした。離欲を目指
した。それができない多くの人々のためにイエスは、滅びることを信じないといけないと教えたのである。
徐々に教えに導いていかないと多くの人々が離れていくからである。釈尊を信じて素直に行う修行僧と、
信じないと離れていく多くの人々の違いがある。
―富むことを願い求めず、わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきて去っていく。非我なるものを
我とせず、欲念を捨てただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。肉も無い神の人は、この世で
寛容や慈悲を追い求め、悪魔の煩悩の可能力に苦しめられても、煩悩の可能力をもって対抗せず忍耐強
いことを追い求めなさい―
「神は〜人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである」(テモテへの第一の手紙)
「彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這う
ものの像に似せたのである」(ローマ人への手紙)
神は人間で無い状態にならないと全く知ることもできないが、悪魔によって肉となり一切が苦悩の無い喜
びを捨てた。朽ちる人間のような存在と思うなら、知恵が無い者なのである。
□多くの財産のある人々は貧しい人に分け与えよ
「貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」(ルカ)
「身に悪事をなさないで〜飲食豊かな富んだ家に住んでいるならば、まことあり、柔和で、よく分かち
与え、温かい心でいるならば」(神々との対話)
富などへの執着心無く、肉で無いなら一切が苦悩が無いから、この世であわれみの心はつくられざる
存在、つくられないその人を知っている。偶像では描けない存在なのである。その人のつくられなか
った状態は偶像では描けない。
622 :
神も仏も名無しさん:2009/02/19(木) 20:06:08 ID:0s9jlOG4
死後はやっぱ火葬され植物の栄養になりたい。 天国要らない。
623 :
神も仏も名無しさん:2009/02/19(木) 20:45:03 ID:/f9lIp/1
因果によらなければ諸法は存在し得ない。印画による諸法は、実体が無い故に幻である。
幻は虚妄:嘘である。嘘を生み出しているのは因果の理法である。諸法が嘘であると知ったものは、
処方を捨てなければならないが、それの根本である因果の法則を捨てなければ、処方という幻を
捨てることにならないことを知らなければならない。仏の知恵とは因果の法則が嘘偽りの母であることを知り、
それを認めるべきものではないということを知ることである。
大乗教に空即因果(縁起:色等の五蘊)とあるが、これは間違いである。
空:一相:無相という真実と因果(縁起)の法則とは何の関係も無いのである。
お釈迦様とイエス様は同じ境地に至っていたのは、個人的に結論出てるんだけど
今の課題は、凡夫の私がどのように生きればその境地に近付けるかが現在の課題だ。
岩波文庫のバガヴァット・ギーターもいいよ。
日本では聖書や原始仏典よりマイナーかも知れないけど内容は負けてないと思う。
バガヴァット・ギーターじゃなくてバガヴァッド・ギーターでした。
627 :
神も仏も名無しさん:2009/02/19(木) 21:46:34 ID:/f9lIp/1
>>624 諸法は恐ろしい悪魔の誘惑であることを肝に銘じて接することである。
諸法から離れることである。諸法に首を突っ込んではならないのである。
諸法に捕まえられてはならない。
629 :
神も仏も名無しさん:2009/02/19(木) 22:07:55 ID:sfVp7KRY
>>624 自身を凡夫と認識できている、あなたの賢明さ、素直さ、正直さによって
いつの日か、その求める境地に少しでも近付けるかと思われます
この世の、「真理」「摂理」によって人は、その境地にいたることになると思われます
630 :
神も仏も名無しさん:2009/02/19(木) 22:54:26 ID:/f9lIp/1
>>628 道徳行為だけで天国にいけるとは、そういう教えは無いだろう。
しかし、道徳に反する行為をするものが天国(ニルバーナ)には入れるとは
、そういう教えはないし、それでは天国に入れないと、言う教えはある。
つまり、神を認めない限り天国には入れないのである。
神は一相無相であるから、その真実に反して、有無(諸法)に囚われた行為、これが不道徳な行為となるんであるが、
これでは、神を認めていないのであるから、神が受け入れるということはありえないのである。
人を殺すという行為は、殺すことにより、何かを求めるということであるから、それでは
無相に反して、獲得するものがあると思っているのであるから、無相という真実に反しているのである。
>>630 神の言葉である聖書には姦淫した女は石で叩き殺せとあるそうですか、キリストは
そのような殺人は止めろと教えています。どちらの言うことに従えば天国にいけるのでしょうか?
632 :
神も仏も名無しさん:2009/02/19(木) 23:26:18 ID:/f9lIp/1
>>631 聖書の規定は知りませんが、お言葉のとおりとしますと、
キリストはその規定を無視したのではなかったでしょう?つまり意思で殺せという
神の言葉を無視してはいない、でしたよね、新約聖書では。
罪の無いものが、その女に石を投げつけよといわれたのでした。そしたら誰も殺そうとするものがいなかったのでしたね。
イエス自身も、私もあなたを罰しない、今後罪を犯さないように、と教えて許されたんでした。
みんなが罪を犯しているから自分も罪を犯しても、誰も同じなのだから、罰せられることは無い、と言う事実は
ありえるのですが、この世間で罰せられないということが、天国に入れるということではないようですね。
天国に入るためには、神に罪を犯さないことが必要であると言うべきでしょう。
633 :
神も仏も名無しさん:2009/02/20(金) 01:23:32 ID:aMkNHAqT
>その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう〜なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」
>(マルコ)
このようなイエスの嘘に 人は酔い痴れる。 仏教は科学的ですが。
634 :
神も仏も名無しさん:2009/02/20(金) 07:56:57 ID:TgMi6CVp
>>633 仏教は科学的というのは仏教を馬鹿にするものです。
科学と言うのは、ある一定の範囲を自分で決定し、その範囲内での考究に過ぎません。
しかし仏教は、範囲を自分勝手に決定するなどと言う、恣意的な考究ではないんですね。
今範囲を自分で決定するといいますが、これを正しく言いますと、人間が生活する範囲
を考究の範囲と決定するということです。簡単に言うと、便宜的な世界なんですね。
その範囲外のことは、人間にも、あることはわかるのですが、まったく白雉なんですね。
635 :
神も仏も名無しさん:2009/02/20(金) 08:10:29 ID:H8g70sp/
636 :
神も仏も名無しさん:2009/02/20(金) 08:35:42 ID:TgMi6CVp
ここだな。
1121> そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。
1122> イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。
1123> よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
1124> そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられると信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
637 :
神も仏も名無しさん:2009/02/20(金) 08:49:54 ID:TgMi6CVp
つまり、諸法は幻であるから、幻なら、どんな風にも造り替えられるのであり、
それは、人のねがいにもとづくいがいにないのである。
638 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 00:25:28 ID:bGo651yX
またまた戯言を。
では 人類が存在しない場合山は隆起するか。 無人の山岳は崩れるのか。そのように考えて見なさい。
そして仏教は 形而上学には触れない。もし触れたならその者は 病に倒れてしまうだろう。 なぜならば
彼にはそのような彼岸を認知でき得ないからである。 寝言は就寝後に呟くべし。
639 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 09:34:06 ID:9O/KAChd
イエスがどんな奇跡を起こしたとしても、それは原因結果の関係にあるもの、つまり、
縁起現象に過ぎなかったのである。故に、かれの奇跡は、他の縁起関係にあるものと、
同じものであったのであり、実体の無いものであったのである。
かれの処刑も縁起現象であり、実体の無いものであったのである。
縁起現象と因果と言うものは同じ意味のものであるが、因果と言う表現は
現在の時代に、よく使用され、その範囲はあらゆる部分に及んでいる。
同じ意味の縁起と言う表現は、現代では、因果と言う表現とは、異なるものとして
使用されている。ここを見ても、縁起と因果の理解が仏教として行き渡っていないのである。
現代では因果の理法が支配し、その因果から脱出することはできないものと思われている。
ここを見ると、日本および世界には、仏教が死滅しているといっても過言ではない。
上座部仏教ではどうかと思うが、同じであるといって良いとおもう。なぜなら、
仏教のありがたみの感謝の思いが、今まで聞かれたためしがないからである。
正法を認めないものは、永遠に輪廻するが良いのだ。
イエスの教えを間違って伝えたのは、イエスを非難しメシアと認めなかったファリサイ派や律法学者みたいな権力側の人たちだろうけど
表面上は博識で熱心なくせして、文字すら書けないイエスの周りの人たちのほうが実際は善良で神から愛されていた。
これは現代でも変らない、だからイエスがもし再臨してもこういった人たちは気付かないし認めない。
641 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 10:33:36 ID:Fyrw3AxF
642 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/21(土) 11:34:59 ID:YBRtu8Wf
□悪魔の征服者(善悪)
「悪魔の征服者です〜煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり〜善悪の両者に汚され
ません」(ブッダのことば)
「へびは女に言った〜神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。女がその木を
見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから」(創世記)
「色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと―わたしはこれではない〜悪魔・
悪しき者は、尊師はわたしのことを知っておられるのだ」(悪魔との対話)
不死の境地は、思考も及ばず、神は知者の知恵を滅ぼし賢い者の賢さをむなしいものにする。五感も無い、
第六の思考も無い。平安の境地、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安。一切皆苦を悟り、
一切の苦悩無き喜びに満ちている。快楽などを享受せず安らぎに満ちている。
軽安・長寿というように、病気の人が欲望を享受せず、静かに安静にして病を治すという現象で解脱しな
い人にも神通力・何でもできる神の影響を少し受けている。
肉体から離れ、つくられなかったら欲望も無く、あなたがたは何でもできる。
つくられざる存在から離れ、権威や栄華の拡大という妄執(悪魔)を得て欲望を持ったつくられた人々は、
得ようとして働く。五欲の対象・物欲・快楽を満たし、楽しみ暮らす。損をさせる者に敵意を抱き怒り争う。
殺人や盗みといった悪も生じ、悪を制するために争う。肉が肉を制して、煩悩の可能力が煩悩の可能力によ
って世を制する。
643 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/21(土) 11:36:11 ID:YBRtu8Wf
《軽安・長寿》
■形あるものの信仰対象物を捨て去ること
「この世またはかの世におけるいかなるかたちでも〜魚を殺すために餌が投げ込まれた」(神々との対話)
「偶像礼拝は貪欲他ならない」(聖書)
■くどくどと祈るな・呪文を唱えるな
「多くの呪文をやたらにつぶやいていても〜内心は汚物に汚れ」(悪魔との対話)
「異邦人のように、くどくどと祈るな〜みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタ
イ)
人を殺す形あるものの信仰対象物を捨て、呪文やくどくどと祈ることを捨て、願い事はもう叶えられたと
して自分の思い煩い・欲念を捨てることに努め、
□世も自己の煩いも自分ではない
「この身は泡沫のごとくと見よ、この身は陽炎のようなはかない本性と見よ〜世の中は泡沫のごとくと見よ、
世の中は陽炎のようなはかない本性と見よ」(仏教)
「あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」(ヤコブ)
「買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜな
ら、この世の有様は過ぎ去るからである〜思い煩わないようにしていてほしい」(コリント)
□誰もそなたのために働かない、富に仕えるな
「苛酷なることなく、貪欲なることなく万物に対して平等」(仏教)「公平とあわれみと忠実」(聖書)
「そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない」(仏教)「働こうとしない者は、食べることも
してはならない」(テサロニケ)
644 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/21(土) 11:37:19 ID:YBRtu8Wf
□慈しみのこころづかいが崇高
「母が己が独り子を命を賭けても護るように〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを
行うべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」(ブッダ)
「敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ〜恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ
深いからである〜慈悲深い者となれ」(ルカ)
形あるもの、偶像礼拝に肉となって殺されること無く、願い事をくどくどと祈り、また呪文のように意味の無
い言葉をつぶやく明らかに智慧の無い者とならず、既に叶えられたと信じて、供え物を霊が食べるなどと思わ
ず、宗教的行為によって功徳があると思わず、葬儀によりつくられざる者となると思わず、
実際、つくられざるものの世界では過ぎ去るものは虚妄として、この身と世の中を泡沫のごとくと観じて、
自己とこの世の思い煩いを捨て去るように努め、偶像礼拝やくどくどと祈る行為を捨て去ること。買うと
か生活のこころづかい、世のこころづかいのある者は、ないもののようにせよ。雑務少なく、生活も簡素
なもののようにせよ。それらから実際遠ざかり離れることにより、思い煩いを捨て善となる。形あるもの
の信仰対象物は人を殺す。
万物に対して平等・公平だと心得、富に仕えず、欲するものがあれば仕事をせよ。肉の主人に誠実に仕え
よ、耐え忍べ。母が己が独り子を命を賭けても護るような慈しみは素晴らしいと思え。人によくしてやり、
何も当てにしないで貸してやることは善いことと思うではないか。人がつくるものより、つくられざるも
のに従え。他人はその人のものだ、誰でも自分の思考が正しいと思うな。他人の過失を探し求めず、あや
まちをゆるしてやれ。
つくられたものに従属せず、他を頼りとせず自らを頼りとすることができる。
つくられざるその実があれば、言葉を聞けば、それが善いことだとわかり、後は自制心によって救われ
る。つくられざるものを持たない人は、つくられたものの救いを探し求め滅びに至る。
645 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 20:50:16 ID:WixefKra
だから仏教とキリスト教は水と油なのか。
646 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 22:03:13 ID:9O/KAChd
>>645 きっとそうなんだ、どうして二つを分けたものでしょうかあ?
647 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 22:23:29 ID:9O/KAChd
>>638 五蘊は縁起現象であるから、実体が無い空相であるということを認めるか?
648 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 22:27:31 ID:n7jDahHF
いえ 結局はキリスト教のような嘘から人類は離脱するでしょう。
649 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 22:52:52 ID:9O/KAChd
五蘊が空であることは、般若経の説くところであるし、般若心教の説くところとして有名である。
五蘊が空であることを認めないとすると、どのようは反論があるのか?
650 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 23:34:52 ID:t0m2KF6e
まず 書いてあるから正しい それが非仏教であるところから理解せよ。
651 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 23:38:38 ID:9O/KAChd
書いてあるから正しいとは言ってないだろう?
お前がどうして同意しないのか、と聞いてるんだ。
652 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 23:42:39 ID:9O/KAChd
返事が遅いんだよ。
判らないで、言っていたんだ、と言う返事もありだな?
653 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 23:52:22 ID:CDhBxoRb
まとめて書け。
654 :
神も仏も名無しさん:2009/02/21(土) 23:57:37 ID:9O/KAChd
何だ、お前の正体が判ったぞw。
疲れたからそろそろ寝るが、お前はには、なんでも質問したら答えてやる。明日までに準備して於け。
655 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/22(日) 13:40:30 ID:juyqArCZ
肉体無い世界があって、「一切の苦悩の無い喜び」なのである。そこは地上の苦悩も存在しない。悪しき者
につくられなかったら、一切の苦しみも悩みも無い境地とともに在り、
「生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死
との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの―それらは喜ぶに足りない。
それらの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらき
の静まった安楽である〜これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、
没することなき解脱の境地である」(感興のことば ニルヴァーナ)
「一切の苦しみから解き放たれた境地」により、悪しき者につくられた人間の思い冷酷・残忍・無慈悲
に反発する、人間の状態では慈悲のかけらがある。
しかし、愛・慈悲だとか幸せだとか平和だとかで物質的な喜びや享楽、五感の喜びがある者は、土に帰
るだけである。人はそこを見ずに終わる。
神の言があって、《物質的な喜びや享楽、五欲の対象》を享受している時に、「そのようなことをしている
と、朽ち土に帰る」悪魔のわざを滅ぼさないと、神を信じようが信じまいが土に帰る。地で生き続け、下界
から脱出できないと。
656 :
素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2009/02/22(日) 13:41:40 ID:juyqArCZ
生活のこころづかいのためにあくせく働いても、肉の欲・目の欲・持ち物の誇り、衣食があれば足れりと思
うように欲求から離れ平穏な心の内に満足していないと、人間というものは土に帰るということだ。
肉の思いの者は、全て土に帰る。その神の摂理に反する者はいないということだ。
信じたら神の摂理を認め、そのように努めるしかないのだ。中途半端な「なまぬるい」者は、その人に何も
益をもたらさないと語る。
まだ、無信仰で、この世の重荷に堪え、死んだら終わりを覚悟して、正々堂々と生きている人のほうが、そ
の人にはまだ益がだろう。
「ひとを下界(欲界)に結びつける五つの束縛 貪欲・瞋恚・有身見(われ)とか(わがもの)とかいう観
念を離れぬ我執・誤った戒律や禁制を正しい修行方法であると執着すること・疑い」
「一切の事物は我ならざるもの」世も自己も。諸々の欲望に関する貪りを離れ、怒り・敵意・憎しみと
いう肉の思いから離れ、邪まな見解を抱かず、静かに瞑想などをして安穏な心に満足して暮らす。
つくられざるものの存在は、諸々の欲求から離れて、静かな安らぎに努めれば、妄執を乗り越えつくら
れざる者となる。神の右となれると。
イエスは下界に生まれ被造物となる人々が、殺人、盗み、無慈悲で苦しむのを防ぐために「愛」を説いたの
であり、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを捨て去って、衣食があれば足れりとする思いとならないと、神の
望みである下界の暗闇からは脱出できない。
現代に至っては、信仰しても物質的な喜びあり、享楽やその他の諸々の欲望に関する貪りのある人々は、
「形ある札を拝んで」「くどくどと祈る」人々となんら変わりは無いと、神は語るのである。
死んで終わる人の慰めとしての「御利益宗教」となんら変わりは無いということだ。貪りのある人は、どの
ような人も死んだら終わりと覚悟して生きること。
釈迦は涅槃について一言も解説していない、ただ「それ」を涅槃と言っただけ。
658 :
神も仏も名無しさん:2009/02/22(日) 20:56:58 ID:tfGRBfRW
仏教を語ってる その増上慢が非仏教 という事に気付かないのではこりゃ駄目だw
だからおまえは
package Shinri;
public class Iesu extends Shaka{
public void Muhannmado(){
System.out.println("Allaahu akbar!");}}
660 :
神も仏も名無しさん:2009/02/23(月) 18:25:47 ID:y/6EmWIW
>>658 仏教は、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ
だよな。他人をたよりとした仏教なんて有り得ない。
661 :
神も仏も名無しさん:2009/02/23(月) 19:44:02 ID:CWEsWw6Z
>>660 自分を島とするのは良いとしても、同時に法を頼りとしなければならないのですが、
自分と法とが一致しなければ矛盾分裂しますね?どのように整合性を説明できるのでしょうか?
662 :
神も仏も名無しさん:2009/02/23(月) 19:48:47 ID:1/cuyoq1
660「仏教は、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ 」
@確か中村 元氏の考え方で以前テレビの教育番組「島」の認識が掴めませんでした
ので詳しく「島」は河の中州のことかと思いますが、「自らの島とし」「法を島とし」
の所を解りやすくお教え願いますでしょうか?
663 :
神も仏も名無しさん:2009/02/23(月) 20:42:55 ID:y/6EmWIW
>>661 一切の相をこころにとどめることなく、一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまる。
真理・真実は空相・無相であるから、世間における貪欲と憂いとを除け。
釈迦は精神の安定統一のため瞑想修行させたでしょ。
今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、人をたよりとせず、法を島とし、法
をよりどころとし、他のものをよりどころとしない。
人をたよりとしてはいけないから、自分で法を求めること。法でもいろいろあるよ。衣食は働いて正しく得ること
なども仏教の法。世間における様々な憂いを自分で除こう、ああだろう、こうだろうと思わないようにするとか、
仏教は他人をたよりとしてはいけない。自分で学んで考えて行動できるようにした。
なんかの動物のたとえで、自らの尾を大切にすることで人に狩られる、無知なため他人に従属させられてしまう。
釈迦は、そんなことのないように、自分で考えて行動できるように法を説いた。
>>662 ひとつのことに執着しこだわらないほうがいいよ。それも仏教の知恵。自分をたよりとし、法をよりどころとして
だけでもいいと思うよ。欲のない話で世間における貪欲と憂いとを除くものだから、仏教でも執着しこだわり、そ
れが憂いとなると、無意味になる。
664 :
神も仏も名無しさん:2009/02/23(月) 21:55:46 ID:CWEsWw6Z
>>663 >一部の感受を滅ぼしたことによって
どのような感受でしょうか?
665 :
神も仏も名無しさん:2009/02/23(月) 22:22:20 ID:IBOeMm/p
頼むならそれなりの提題を示しなさい。
666 :
神も仏も名無しさん:2009/02/23(月) 22:48:09 ID:CWEsWw6Z
667 :
神も仏も名無しさん:2009/02/23(月) 23:03:16 ID:y/6EmWIW
>>664 仏教経典の流れを見ればわかるだろう。
真理・真実は空相・無相であるから、世間におけるこだわりや憂いに導く感受を滅ぼすことだろ。
釈迦は理法がわかるようにしたが、あまりにもわからない人を愚鈍と説いた。
貪欲も憂いに導くものだから、それを取り除くために熱心だったでしょ。そのような欲求に熱心な
人は釈迦を尊敬していない人だ。つまり仏の教えを学んで行おうとする人ではない。
働いて財を得た人が、全く使わぬことも自然ではないから愚劣だと説く。
そこらへんから、信者は貪って止まぬ激しい欲望に気をつけねばならないと思うのが普通。
仏教は自分の苦しみをどう取り除くのか、自分で考えられるようにしてあるのさ。
自分の今ある状態と、法とが一致する部分を自分で見つけて、愚鈍愚劣極まりない行いをす
るなってことだよ。
仏教は他人に従属せず自分で学んで自分で考えて生きなさいという教えだよ。人を迷わない
ように熱心に説法しただろ。
あまりにも愚鈍だと釈迦が生きていたら泣くぞ。愚鈍愚劣極まりない信者が、迷わないよう
に教えた私の説法に迷ったと。
釈迦を尊敬するなら、自分をたよりとして、他人をたよりとするな、これは当たり前のこと
だろ。
668 :
神も仏も名無しさん:2009/02/23(月) 23:06:54 ID:CWEsWw6Z
>>667 法に頼るのと、自分に頼るのと、どちらを 先行させるべきでしょうか?
669 :
神も仏も名無しさん:2009/02/23(月) 23:23:25 ID:CWEsWw6Z
>>667 >真理・真実は空相・無相であるから、世間におけるこだわりや憂いに導く感受を滅ぼすことだろ
どんな感受なら良いのでしょうか?
670 :
神も仏も名無しさん:2009/02/23(月) 23:37:47 ID:64brmZyu
↑ このような個人的趣味
671 :
神も仏も名無しさん:2009/02/24(火) 19:12:42 ID:h2IYRJ+s
他人に盲従、自分で考えて行動できない人は畜生として法を説いたのが釈迦。
内的な心の安らぎを求めさせ、精神を安定統一させた。
内的な心の安らぎを求めず、精神が安定統一できていない人は、迷ったり苦しんだり
して、他に拠り所を求める。
そこでヤクが自らの尾を大切にすることで人に狩られると。
もうその人は家畜のように、他を頼りとしてしか迷いや苦しみから逃れることができ
ない。他人に従属し家畜のようになる。
673 :
神も仏も名無しさん:2009/02/24(火) 21:21:02 ID:8DWNxnTf
>>663 >一切の相をこころにとどめることなく、一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまる。
一部の感受だけを滅ぼしてでは、それでは、無相の世界に入れませんよw。
>>667 >真理・真実は空相・無相であるから、世間におけるこだわりや憂いに導く感受を滅ぼすことだろ
これを言うならむしろ、想及び行が良いのじゃないかな?
そして、五蘊の一部を滅することは、五蘊の全部を滅するよりも難しいw。
674 :
神も仏も名無しさん:2009/02/24(火) 23:11:01 ID:h2IYRJ+s
>>673 釈迦ってのはなあ、バラモン教の反発だ。そこらへんがわかってないなWWW
あんたが釈迦を本気にするなら、出家修行しろよ。そういったことは否定して、パソコンに向かって修行かいWWW
仏教修行僧のようなふりをして、三食きちんと食べ、世間の中で住んでいる。そういうグズどもは世の中にいらない
としたのさ。
働かないで他人の家から貪る。働かないならわずかな食物で満足して暮らせと。貧しい人の慰めと、他に拠り所を求
めて他人に従わないといけない宗教形式から、内的な心の安らぎを求めさせ、恐れや不安、悩みを取り除く修養をさ
せた。苦悩があるなら、静けさを求めそれらの苦悩を取り除くために修養する。そういった修養形式を残すための修
行僧であって、自然体の癒しを唱えただけである。変な宗教をさせないように自然の中で自然体の癒しをさせた。
あんたらのような三食食べ、所有物有り、パソコンに向かって仏教修行僧のふりをして無相世界に入れませんよなん
ていうくだらない人間をなくすためだ。
修行僧は自分をよくととのえて自分の主になる、諸々の幸せを得る、自然的な修養によって悩み、迷いなどを除いた
人は、あんたのようなくだらないことを言う人より、迷いや悩み少なく世の中を歩んでいるだろう。
なぜ、修行僧は自分をよくととのえて自分の主になり、諸々の幸せを得ると言った?そこらへんの流れを自分で考え
て見極めない人間は、世の中でくだらない修行をさせるだけだから、釈迦に従って世間から離れてきちんと修行せよ。
675 :
神も仏も名無しさん:2009/02/24(火) 23:35:41 ID:8DWNxnTf
余白の空けすぎじゃないか。無駄を止めろ屋。
676 :
神も仏も名無しさん:2009/02/25(水) 00:22:12 ID:6E9Cw3We
まあ 649のような似非仏教者には674のような良薬が必要だということだ。
677 :
神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 08:23:05 ID:9TmFVLHR
>>674 >修行僧は自分をよくととのえて自分の主になる、諸々の幸せを得る、自然的な修養によって悩み、迷いなどを除いた
人は、あんたのようなくだらないことを言う人より、迷いや悩み少なく世の中を歩んでいるだろう。
なぜ、修行僧は自分をよくととのえて自分の主になり、諸々の幸せを得ると言った?そこらへんの流れを自分で考え
て見極めない人間は、世の中でくだらない修行をさせるだけだから、釈迦に従って世間から離れてきちんと修行せよ
どのように、何を目的に、修行するかわからないなら、いくらお前のように修行修行といっても、
困惑するだけなのだ。親切に、修行と言うものを説明してもらおうか?
678 :
神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 20:19:02 ID:dbgxtwBF
釈迦の修行法は正しい。
人里離れた所でわずかな食物で瞑想する。
ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。
美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちもよく起き上がった。
日も盛りの時、鳥どもが枝にとまっているときに、大きな森が鳴りひびく、それは、わたしには楽
しみと思われる。
人のいない林は楽しい。
正しい修行法により、最低でも森や林が憩いの場と感じられ、人の言論や言語表現された教えに執
着しこだわらない。
何も知らずに、世の人が欲求や快楽を求めず、自然の中での安らぎを感じることは、まだ仏を知ろ
うとしている。
更に静かに瞑想する。
世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、
死王もかれを見ることがない。
身体は泡沫のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。身体をこのように観ずる人は、死王
もかれを見ることがない。
更にその安らぎを楽しみながら、このように観ずるようにしている人は、やがて死王も見ることの
ないニルバーナを知る。世の中がどうであれ、他人の言論がどうであれ、順応や反応もない絶対的
な境地に至る。
679 :
神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 20:20:22 ID:dbgxtwBF
常にそのようにしている人々は、死後もそのように絶対的な境地に至る。
しかし、多くの人々は、
妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。人は、苦悩から
解脱しないのである。
ということも悟る。
業(行い)によって、生存者世界(欲界)は良くも悪くもなる。欲を絶たなければ再び欲界に生まれ、
苦悩も欲もある生存状態となる。
この欲界では、人の行いによって成立するわけであるから、
身に適したふさわしいことを為し、重い荷に堪え、努力する人は、財を得る。誠実をまもることによ
って、良い評判を得、ものを与えるならば交友を結ぶ。
悪い行いをするな良い行いをせよ。求めて得られるものを悲しむな。劣っているとか勝っているとか、
中くらいであるとか迷うな。貪欲のために悩むのは愚かである。欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、
不正になずんでいが、死時には苦しみにおそわれて悲嘆する、「ここで死んでから、われらはどうなる
のだろうか」と。だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどん
なことであろうとも、それのために不正を行ってはならない。
人が死んで簡単に苦しみを受けないということはない。安らぎを求めて欲を絶つ修行を行っていな
いと、妄執という邪魔ものに打ち負かされて、再び生存状態に陥る。
林や森の中で静かに瞑想し、欲を絶つよう修行するか、この世ではありのまま何が人が暮らしにく
くすることか、幸せになることかなど、オカルト宗教に頼ることなく、人が経典から学べばよい。
世間で妙なこと、不自然なこと、オカルト的なことに囚われる必要はない。
オカルト的な行為は、オカルト的な行為が残るだけ。そのような行為よりも、まだ欲や快楽を制し、
自然の中で楽しむか、世と自己とのこだわりを捨て、迷いや苦しみを取り除き、安穏な心に満足し
ているほうが、その人は救われているだろう。真理・真実に忠実な救いである。
680 :
神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 20:43:24 ID:dbgxtwBF
釈迦は世尊でもあり、釈迦を信仰した人々がこの世で業(行い)の悪い人をなくす。
或いは釈迦と同じように、欲念を捨て去って、世間の諸々のことよりも静けさを楽しみ安住できる人
が、ニルバーナに至るということ。誰もその人を助けてくれるわけではない。
世間にあるものよりも、安らぎは虚妄ならざる真理であり、静かに瞑想を楽しみ、妄執を乗り越える
ことができるのは、その人次第なのである。
それよりも目的があって生き生まれる人は、経典に書いてあるような善い行いができるようになれば
よいのである。オカルト的な行為が、人々の目的を達成できる善い行いということではない。
681 :
神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 21:39:32 ID:9TmFVLHR
>>678 >釈迦の修行法は正しい。
オヨヨヨw。ま、真面目にたくさん言ったものヨノ〜。
だが、だいぶ間違ってないかい?
682 :
神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 21:53:58 ID:9TmFVLHR
釈迦が悟りを開いたいきさつを知らないのか?原始経典を基に、解説などに紹介されているが。
【修証義】◆第一章◆(総序)@第一節の大意
若い人であっても老人であっても、人生とはどうゆうことか、死とはどうゆうことかという人生の意義をあきらかにし、
自己のいのちとは何かという真実を求めて参究するのは、仏教徒にとって、もっとも大切なこころがけなのです。
この人生は無常なものではあるけれども、仏の教えを信じ行ずるのであれば、現実の苦しい人生にふりまわされません。
この生死という苦しい現実も、涅槃というやすらかな彼岸の世界も表裏であり本来同体であって、さとりに対して迷いの生活があるというのではなく、
このいのちの事実そのものが、そのまま、仏の世界であると得心して、人生を苦しみときめつけてきらったりすべきでもないし、涅槃のみを求めたりして、こだわりおぼれるのもまちがいです。
この無常なる人生そのまま涅槃(サトリ)と心得るべきです。このとき、はじめて、現実の迷いから解放される道が開けるのであり、無窮なる仏道修行がもっとも大切な心がけなのです。
685 :
神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 22:09:30 ID:C9zZ3ZdW
>人が死んで簡単に苦しみを受けないということはない。
?
>安らぎを求めて欲を絶つ修行を行っていないと、妄執という邪魔ものに打ち負かされて、再び生存状態に陥る。
?
>林や森の中で静かに瞑想し、欲を絶つよう修行するか、
>この世ではありのまま何が人が暮らしにくくすることか、幸せになることかなど、オカルト宗教に頼ることなく、人が経典から学べばよい。
?
>世間で妙なこと、不自然なこと、オカルト的なことに囚われる必要はない。
?
>オカルト的な行為は、オカルト的な行為が残るだけ。
?
>そのような行為よりも、まだ欲や快楽を制し、自然の中で楽しむか、
>世と自己とのこだわりを捨て、迷いや苦しみを取り除き、安穏な心に満足しているほうが、その人は救われているだろう。
>真理・真実に忠実な救いである。
偽タオイズムですか?
◆第五章◆(行持報恩)D第六節 行持の報恩は仏の道
謂(イワ)ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏(ソクシンゼブツ)なり、
過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、
是れ即心是仏なり、即心是仏というは誰(タレ)というぞと審細(シンサイ)に参究すべし、
正に仏恩を報ずるにてあらん。
【修証義】◆第五章◆(行持報恩)D第六節の大意
今まで述べた諸仏とは、釈迦牟尼仏のことであります。
釈迦牟尼仏とは、2500年前のインドで覚られ仏陀となられた歴史上の人物と考えるのはまちがいで、
釈尊のさとりとは、生きている自分自身の純粋ないのちとこころそのものです。
過去、現在、未来にも、諸仏がさとられ仏になるときには、みな釈迦牟尼仏となられるのです。
これが即心是仏(ソノママノ心コレ仏)という仏であります。
このそのままの心是仏という仏とはいったい誰のことをいうのであろうか。ねんごろに真摯に実参実究することです。
たゆみない浄心精進の行持こそが、仏恩に報いることとなり、仏の道となっていくのです。
688 :
神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 22:17:40 ID:AMLucO16
で 経典は知っているがさっぱり悟ってないのだろ?おまえ。
689 :
神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 22:22:25 ID:AMLucO16
さらにいえば 修行に耐えられないからここでのたまうのさ。その自覚無しに。
w
─ 道元禅師著『正法眼蔵 現成公案』より ─
仏道を習うというは、自己を習うなり
自己を習うというは、自己を忘るるなり
自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり
万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり
自己をはこびて万法を修証(しゅしょう)するを迷とす、
万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
迷を大悟するは諸仏なり
悟に大迷なるは衆生なり。
さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。
691 :
神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 22:27:17 ID:9TmFVLHR
>>678 かわいそうだから少しは良いところも言ってやらなければな。ま、方向は間違っていないよ。
692 :
神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 23:21:39 ID:9TmFVLHR
>>678 釈尊は29歳で出家し、35歳で常道したといわれている。これは定説で信用して良いだろう?
さて、その成道だが、成道というのが正しいかどうか問題があるのだ。
つまり、35歳頃に、今までの自分を苦しめる修行の無意味さを悟り、もの(諸法)の真実を悟ったのである。
諸法は、縁起によりなっている幻に過ぎない、真実(実相)は、空相無相一相である、と知ったのである。
しかれば、ここでまずいわ無ければならないことがある。それは、釈尊のそれまで6年間の修行と言うものの、
無意味さである。真実を知らなかったが故に、無駄な修行をしていたということである。
お前はこの無駄な修行と、お前が言う修行を分別していない。それはなぜか?
真実の修行を明確に認識していないからである。それでは、釈尊が6年関してきた無駄な修行
に迷い込む恐れがあると言うべきだろう。お前は間違った修行方法に人を導く恐れが多大にあるのだ。
693 :
神も仏も名無しさん:2009/02/27(金) 23:48:21 ID:M4ol0fCL
読んでない。
694 :
神も仏も名無しさん:2009/02/28(土) 00:01:36 ID:RifbRE1U
>>692続き
釈尊は諸法の実相を知ってから、一週間ほど、座禅をしそれから成道を遂げられたのである。
その一週間に、正しい修行をされたのである。真実に至る種行を正しい修行と言い、
真実に至らない修行を間違った修行と言い、それは、釈尊の6年間の修行であり、外道の修行である。
そして正しい修行を八正道および12支縁起の法門としたのである。
八正道を中道とも言う。
695 :
神も仏も名無しさん:2009/02/28(土) 08:54:06 ID:RifbRE1U
>>694続き
釈尊は6年間の修行されたが、その修行をさせたものは、信仰であった。
おそらくブラフマンを教えるバラモンへの信仰であったに違いない。
で、現代人がバラモン教を調べてみるなら、釈尊の心の内面を推定することができる。
バラモン教では、釈尊の言うような、理法が無いのである。理法こそブラフマンで無ければならないのに。
故に、理法を説かない、理法に基づかない修行を信仰とみなし、そのような信仰を、捨てよ、と釈尊は
教えるにいたったのである。これはまず最初の教えとなった。
キリスト教のイエスも、実は釈尊の言う理法により、真理真実を獲得するにいたったものであることを知らなければならない。
原始経典の「大パリニッバーナ教」にこの理法によらなければ、いかなる人も
真理真実に至れない、ことが述べられている。
この理法は優しく易しく苦しみを滅する方法なのである。
キリスト教は、縁起という理法を説かないのが欠点であり、これはバラモン教と同じである。
しかし唯一と言う真実を説く点で、バラモン教と異なる。このようなわけで、キリスト教は
修行と言うよりも信仰を強調することになるんである。キリスト教の信仰は盲目的な信仰ではない。
唯一を掲げる限り。
696 :
神も仏も名無しさん:2009/02/28(土) 16:54:42 ID:RifbRE1U
因果の理法なら、釈尊当時、知れ渡っていた。しかし、因果関係にあるものなら、
因の実体もなく、かの実体もない、と言う理法は、なかったのである。
これが釈尊の特異な点である。
697 :
神も仏も名無しさん:2009/02/28(土) 21:38:43 ID:zt/z46kq
あいかわらずだな。 695-696は半分当たり。しかし根拠無い言い切りがあるので
そこはプゲラ以上でも以下でもない。
698 :
神も仏も名無しさん:2009/02/28(土) 21:46:24 ID:l/mLGYcx
>>695 仏教教祖は信者を小馬鹿にしていたということだろうね。
涅槃寂静や諸行無常という仏教は完璧のように見えて、臆病な者だけの救い。
キリスト教の愛は、そんなことは乗り越えて、人に奉仕できるような立派な
人間になれるようなことを目標に教えたのだろう。
死んだらなんて思っているろくでもない奴のための涅槃寂静の仏教思想。
自分の苦しみを取り除くために精一杯の人のためだけの教え。
699 :
神も仏も名無しさん:2009/02/28(土) 22:29:45 ID:RifbRE1U
>>698 人が正しい人になるということは、どれだけ周囲の人を利益することになるか、を考えてみるべきである。
そして、その利益は、限りなく伝播するのである。
ある人が自分の苦しみを解消した、とするなら、その効果はその人自身に留まらず、周囲すべての人に
影響するのである。それは同時に、理法による解消であるのだから、その理法が広まることになるのだ。
大乗でも、理法を広める以上の布施行はない、といっている。
さて釈尊の教えたり法の修行は、世間の考えるようなものと、まったく反対の方向を目指すものである。
世間ででは、努力と言うと、欲が導く努力である。釈尊の言う努力は、無欲の努力である。
一切は空相無相一相であるので、それに反して、目に付くまたは心に残ることは一切してはならない、というのが
正しい努力になるのである。盲目なものは、目明きを求めない努力するのである。
病気のものは、病気の回復を求めない努力をするのである。求めるものがないようにする努力なのである。
これほど、簡単な易行があるだろうか?キリストの教えもこれなのである。
700 :
神も仏も名無しさん:2009/02/28(土) 22:39:11 ID:hWm+f07P
馬鹿だな、お前ら
仏陀もイエスも同じ所から来た使者だ
教えが違うのは遣わされた民族・文化が異なるからだよ
やろうとしていたことは同じだが方法が違うだけのこと
701 :
神も仏も名無しさん:2009/02/28(土) 22:45:32 ID:RifbRE1U
諸法の真実が空相無相一相であるということの根拠は、諸法とは因果関係にあるものであるということである。
そこで、人が考える一切は因果関係にあることを認めなければならない。
自分のことだけが因果関係にあるのではない。他人の考える世界も因果関係にあることを知らなければならないのだ。
此れゆえに、誰かをうらむとか、怒りを潜ませるとか、このようなことを思うものは、
未だ諸法の実相が空相無相一相であることを理解していないものといわなければならない。
また自分の過去の過ちを後悔するのも、同じに実相を理解していないものである。
また、個人のことに止まらず、国家からの抑圧と言うものを恨む事もあってはならない。
自分であろうと、他人であろうと、国家からのもんであろうと、いや世界からのものであろうと、
一切とは、これらすべてを含むものを言うのであるが、これらすべては、縁起、因果関係にあるものであると知り、
それゆえに、実体がない幻であることを理解し、幻であるが故に、嘘であるとみなし、
今までのように、それに固執してはならない。それ以上にないものとみなさなければならないのである。
かくして人を支配するものは一切ないことを知らなければならないんである。こうして人は自由になれるのである。
無相一相こそ真実なのである。あなかしこ、あなかしこw。
702 :
神も仏も名無しさん:2009/02/28(土) 22:54:47 ID:hWm+f07P
仏陀もイエスも見た目はふつうの人間の姿をしていたが、実際には人間ではない
また仏陀もイエスも特定の修行によって聖者になったわけではない
仏陀が瞑想の結果悟りを開いたなどというのは後世の人々が作り上げたたわ言だ
703 :
神も仏も名無しさん:2009/02/28(土) 23:00:09 ID:RifbRE1U
>>702 >また仏陀もイエスも特定の修行によって聖者になったわけではない
真理真実が唯一なものである以上、真理真実を否定しない方法と言う点で、
特定な修行になると思われるが?真実は無相。
ID:RifbRE1Uよ、あんたは字句に囚われすぎている
真理真実などと言葉で言うのはたやすいが、では真理真実とは何か?
無相?w
やはり特定の語句に囚われている
自分の言葉で真実を語るがよい
全ては幻などというのは少なくとも我々一般人のレベルでは詭弁だよ
705 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 00:11:27 ID:fJq0eT5G
>>704 >無相?w
お前は最大の間違いをしてる。
なぜ無相一相空相が真実ではないと思うのか?
706 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 02:33:08 ID:EN6ikHX3
705いいぞ そのまま一人相撲を続けなさい。それでこそおまえだ。
707 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 02:36:51 ID:EN6ikHX3
702と700はさらに上行く大馬鹿者だな。 本人はさぞ幸せだろう。
708 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 08:10:51 ID:fJq0eT5G
★「まことでないものを、まことであると見なし、まことであるものを、ま
ことでないと見なす人々は、誤ったおもいにとらわれて、ついに真実に
達しない」
709 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 10:12:53 ID:ZNopofmt
>>704 自分の言葉で教えを語るから、教えが捻じ曲げて伝えられる。
>>702 仏陀もイエスもまことでない修養方法から、荒野での修養法を語った。
自分の悩みがあって信仰する人の依存的な宗教体質では、何も改善されないからだ。
修養している人は、恐れや不安を抱いて依存的な宗教に頼らない。
仏陀はあわれむ修行完成者、母が己が独り子を命を賭けても護るような慈しみを崇高
として説き、イエスも慈悲を説き、イエスは殺されて信仰対象となった。
自分の悩みで信仰しなくなった人は、次にあわれみ深い者となれ、慈悲深い者となれ
ということだ。
710 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 11:59:24 ID:ZNopofmt
>>699 >大乗でも、理法を広める以上の布施行はない
大乗経典
・・・余のために、塔を建てたり、僧院を建立したりする必要はなく・・・
・・・僧の集団へ供養する必要はない・・・
釈尊の一定した態度
塔を建てなかった。僧院を建立しなかった。
修養している間は、わずかな食物で暮らし、その人に食物を与えることで与える人も慈悲あり。
八正道により、
僧は人の家で貪らない。衣食は働いて正しく得る。
日本の大乗仏教僧に習ってはならないのが、ひとつの教えの施与。
711 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 12:38:38 ID:fJq0eT5G
>>699 正しい人になろうとしないで、今のままでいるとするなら、今のままと言うのは、
隣人に悪を働いている状態と言うことであるから、悪を働いている以上
常に悪が身に寄せているのである。
712 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 12:40:03 ID:fJq0eT5G
以下に、因果の世界と無相の世界が説かれている。
ルカ
0627> しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。
0628> のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたがたの頬を打つ者にはほかの頬を向けてやり、
0629> あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。
0630> あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。
0631> 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。
0632> 自分を愛してくれる人を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
0633> 自分をよくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。
0634> また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
0635> しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また、何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも、悪人にも、なさけ深いからである。
0636> あなたがたの父なる神が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者となれ。
713 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 12:47:41 ID:ZNopofmt
信者はこの世の悩みや苦しみがあって信仰する。
その信者から、僧院の建立、僧の衣食住、自動車、子供らの大学進学などで
布施を求めることなど仏教では有り得ないわけだ。
釈尊の一定した態度で、世の中の悩みや苦しみがある人は、修養者として、
欲望を制し、荒野など人里離れた所で修養する。
わずかな食物で暮らす修養者に対し、食を与える人は慈悲ありと教える。
また、世の中でも食乞う者に食を与える人は慈悲ありと教える。
修養者も修行を完成して、一切の生きとし生ける者をあわれむ者となり、
他人の家から貪らず、衣食は働いて正しく得、母が己が独り子を命を賭け
ても護るような慈悲を崇高として世の中を遍歴する。
釈尊の教えを正反対にしたのが、日本の大乗仏教僧である。
714 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 13:27:15 ID:ZNopofmt
空相無相一相という言葉すら消滅するものだから、
世の中で悩み苦しむ人を荒野など人里離れた所で修養させた。
苦しみを滅する法は、自己の沈黙を目指すしかないのである。
世の中に戻って、或いは世の中でそれほど悩みのない人は、
敵意や憎しみにより争うことは悪いという心があるだろう、
僅かな者に執着し、取り戻そうとして争うことは愚かだとわかるだろう、
人によくしてやることが善いこと、何も当てにしないで貸してやることが
善いことだとわかるだろう、
我が物と執着せず、分かち与えることを善い教えだとわかれ、
母が己が独り子を命を賭けても護るような慈しみは素晴らしいとわかるだ
ろう、
修養しない信者にも、そういったことを教えた。
715 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 13:39:21 ID:fJq0eT5G
正しいというのは、関係が正しいということに他ならない。
正しい人は、関係を正す人である。あらゆる関係を正す人である。
このような人が、利己的な人であるはずがないだろう?
正しいとは、真理真実にかなっているということである。
正見とは、真理真実である無相に適って見るということである。
無相という判断基準があり、かつそれが目標である場合、自分の今見てる状態
が正しいか正しくないか判るのである。
716 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 17:06:45 ID:ZNopofmt
正しいのは有りのままの行動。
世の中に悩み苦しみがある人は、世の中から離れて悩み苦しみのないように
修養する。有りのままの行動により、苦悩を滅する。貪欲から離れれば平等。
その悩み苦しみを抑制できた人は、肉の主人に仕え誠実に働く。誰もその人
のために働いてくれる人はいない。
自分が豊かに食しているのに、目の前の人が飢えに苦しみ乞うのに、少しも
食物を分け与えないことは、普通しない。
他人の意向や思考もその人のものであり、自分の意向や思考が他人にも正し
いことであるということはない。だれかが、あなたをしいて一マイル行かせ
ようとするなら、その人と共に二マイル行きなさいと。求める者には与え、
借りようとする者に断らないことをよしとして受け入れよ。
他人との関係を正せる人は、相手の意向や思考を尊重できる人であり、
その人の意向や思考が、その人自身を害したり、他人を害したりする場合
は、母が己が独り子を命を賭けても護るような慈しみで、注意したり止め
させようとすることも大事なことである。
人の意向や思考が人々を制することはない。もしもできているなら洗脳さ
れているからである。互いに他人の意向や思考を尊重できるようになるこ
とが、人と人との関係改善なのである。
人々が互いにゆるし、相手によくしてやろうとするような慈しみがあれば、
世の中で人に対する悩み苦しみも少ないから、教えを信仰させた。
717 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 17:11:35 ID:ZNopofmt
他人との関係を正せる人は、相手の意向や思考を尊重できる人であり、
人々の意向や思考を制覇できるほどの、意向や思考はない。
718 :
神も仏も名無しさん:2009/03/01(日) 23:45:12 ID:Y/+63qD8
つまり イエスと仏陀は相通じないということか。
イエスは根拠無い妄想を説き 仏陀はありのままの真理を説く。根拠在り。
719 :
神も仏も名無しさん:2009/03/02(月) 18:20:26 ID:8/5kh9Ws
イエスもありのまま。
健康な人は医者はいらない、いるのは病人である。
病人には医者はいるし、言うことを聞かない殺人者には妄想でもなんでも
抱かせて信仰させる。
仏陀はありのまま。
貪欲を捨て、悩みなく自然は楽しいという人は健康的な精神。
720 :
神も仏も名無しさん:2009/03/02(月) 21:53:31 ID:rHAjzf69
>健康的な精神。
こんなものあるの?
721 :
tibyaku:2009/03/02(月) 22:02:45 ID:NeqXVvp3
健康な人が病気になるのは、70%心の病いが原因で身体が病気になります。
心の健康を回復したらそれに遅れて身体も健康になります。
722 :
神も仏も名無しさん:2009/03/02(月) 23:13:05 ID:rHAjzf69
どんな心が健康なの?
723 :
神も仏も名無しさん:2009/03/02(月) 23:17:34 ID:rHAjzf69
先ほどNHK ロシアのキリスト教復活の事案を取り上げていた。
キリスト教が論理的なものであることがぜんぜんロシア教会においても、
説明されていない事実を見た。此れでは、宗教はアヘンであるといわれても仕方がない。
本当の宗教こそ絶対の科学なんだがね。
724 :
神も仏も名無しさん:2009/03/03(火) 05:22:58 ID:UUemFDCq
だったら科学やれよ。
725 :
神も仏も名無しさん:2009/03/03(火) 07:46:39 ID:6iBlYQdz
本当の科学とは本当の宗教なんだよ。
726 :
神も仏も名無しさん:2009/03/03(火) 19:09:19 ID:4Q3n6pZL
富に仕えず、肉の主人に仕えること(聖書)・・・
誰もそなたのために仕事をしてくれる人々がいるわけではない(仏教)
世の盛衰(仏教) 法に従えば、全ての人々が互いに仕えられ、財などを貪る人々、仕事をして得た以上に物や
快を貪る人々が増えると、バブルの崩壊など世の盛衰が発生する場合がある。
科学でも根底には、生きとし生ける者の幸福や安穏、安楽な暮らし、慈しみのこころづかいがないということではな
い。
科学や物質文明の発展のために働いても、多くの人々に苦悩を与え、苦しみに導くようなことをしない。
世の中の根底にあるものは何かを教え、環境や状態が変化しても捨て去らないように維持させる。
諸行無常(仏教) 神の右(聖書)
苦しみがあって信仰する人々は、地上のものを貪らない。生じて滅びる性質のものより、それらが静まるのが安楽
であるという現象を根拠として。
貧窮なる人々・食乞う人々・宿のない人々に分け与える(聖書 仏教)
衣食のない人には分け与えるであろう。(生存権の保障)
預言者として法を説く者として、根底にあるものを説いて信じさせた。
727 :
神も仏も名無しさん:2009/03/04(水) 17:11:52 ID:Lcl7/+zr
苦からの解脱を体得したと言いながら、食中毒で苦しみながら
もその苦しみを紛らわそうと瞑想とかやったけど、結局
苦からの解脱などできてなくて、苦しみぬいて死んだのが釈迦wwww
ま、宗教の教祖なんて今も昔もこんなもんwww
暴れて死刑になったアホのキリスト
729 :
神も仏も名無しさん:2009/03/04(水) 17:42:48 ID:giwAuN0B
だから、昔は信仰よって何か頼れものと信じていたから、
自然には勝てないと身をもって示したのだ。
730 :
神も仏も名無しさん:2009/03/04(水) 21:50:58 ID:giwAuN0B
対象物信仰などにより死ぬ時期が長引くことはない。
信仰により死ぬ時期が長引くというのは現代の嘘宗教。
嘘宗教に毒されていた時代も、命を救う宗教はないと
教えた。信じるなら自分の命を憎め、死ぬ時期の到来
を願う、ということで、自分の命の存続を願える宗教
はないと示した。
なぜ、人は頼ろうとする宗教をするか?その原因のひ
とつが我が身の存続であるから。
731 :
tibyaku:2009/03/04(水) 22:00:42 ID:HaqbC8kk
722>「どんな心が健康なの? 」
@さわやかな心で煩悩から離れている心、清らかな心ですね。
732 :
神も仏も名無しさん:2009/03/04(水) 22:09:26 ID:zKs9oPdV
識すなわち心が縁起してるもの故に空であると教えた人が、食中毒の経緯を
識と認めなかった、ということはない、のではないか?食中毒の苦しみを識と求めるなら、
それに取り合わない態度をとることは、当然で、そのような態度で50年ばかり過ごしてきた人
には、容易であったろうと思う。この態度が、禅定瞑想であったのだ。
生前から、自分を肉体と見るもの、及び音声と見るものは、自分を見るものではない、とも教えている。
733 :
tibyaku:2009/03/04(水) 22:30:54 ID:HaqbC8kk
救世主は使命を終えたら死後肉体の牢獄から自由になって、
いと高き心の故郷の救世主の世界へ還るのですから。
肉体の存続の勝利ではなく、心の向上といかに良き感化力
を成したかであります。
救世主は世界の三大聖人として、世界宗教となるべく教えを
説かれ精神的最大遺物を遺されています。
それが、後代の心の指針となって限りなき感化力を与え続け
ています。ありがたいことであります。
734 :
神も仏も名無しさん:2009/03/04(水) 22:47:33 ID:giwAuN0B
物欲しさのためにあくせくする。食べ飲みそれらの楽しさの追求のために
あくせくする。
貪るという煩悩に生きるより、あくせくしないほうが長生きする可能性は
高い。
死ぬ時の到来を願う、自分の命を憎む。
自分の命の存続のために、必死になって何かにしがみつくこともない。
735 :
神も仏も名無しさん:2009/03/05(木) 21:58:40 ID:jPc6Xxri
怒りすぎると死ぬ 米名門イエール大学の医療研究結果に世界が騒然
【コラム】 エロ業界って不景気に強いの? (R25)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_r25so__20090304_6/story/r25column_details_id_110000006208/ 上司のグチが増え、ボクのストレスも増加中の今日このごろ。内容は、もっぱら不景気のオハナシです。もういい加減に勘弁してくれー!
と、すさんだ心でアパートに帰ると、ポストにデリヘルのチラシがドッサリ! 日々のストレスについつい心が動きそうになりつつ見ていると、当然ながら1枚ずつ別の店のチラシなわけです。
もしや、エロ業界ってこの不景気のなかでも儲かってるの?
----------------------------------------
デリヘルは2兆4000億円の市場!?
下半身マーケットが拡大中!? 景気と何か関係あるの?(2007年7月19日号)
「下半身産業は90年代から拡大し続けていますが、実は景気の影響を比較的受けにくい業種です。
好景気のときは他の産業よりも潤いが早く、不景気のときはストレスの発散として利用される。
バブルのころは高価格路線の店が主流でしたが、いまは所得格差が開いているので、サービスの設定料金は低価格と高価格に二極化しています」(『世界の[下半身]経済が儲かる理由』の著者・門倉貴史さん)
----------------------------------------
もしかしたら、このご時勢にもまだ拡大してるかもしれないんですね…。 やっぱり、エロは偉大なり!?
737 :
神も仏も名無しさん:2009/03/06(金) 20:54:17 ID:BHfKMlQ3
やっぱ、解脱の最大の障壁は、情欲かも。
738 :
神も仏も名無しさん:2009/03/07(土) 08:52:37 ID:HWZZkgtO
現代は人の誕生日を祝うのが普通になっている。特にこの風習はヨーロッパから来たものであろう。
仏教から言うと、このような行事は、真理真実に反するものである。キリスト教でも同じなはずである。
結婚や子供の誕生を祝う行事は、どのような原因から来ているのだろうか?
それは真理真実からではなく、固体保持本能と言う有身見から来ているのである。
この有身見がエロスと関係があるのだ。有身見がエロスなのだ。
739 :
神も仏も名無しさん:2009/03/07(土) 10:09:31 ID:ZvHJiJTE
人間関係の悩み・ストレス
◎遅効性
慈悲・寛容・愛・謙遜・柔和・あわれみを身に着ける小さな集団の中に属し生活活動
を行う
◎速効性
有身見・諸法非我・諸行無常・涅槃寂静・一切皆苦
独り安らいを楽しみ狂おしい悩みを解決する
上は素晴らしい、欲界である地は、罪を犯した者の愚かなたわごとの楽しみに過ぎない
他人の妻との性交は悪
740 :
tibyaku:2009/03/07(土) 10:23:05 ID:++0UeWiV
>>737
@確かに一理はありますが、情欲を消すことはこの世の生命の死を意味しま
す。情欲を無くすることはできません。いかなる難行苦行をしても無駄で
あります。情欲を調えることはできます。
それには「八正道」の反省修法をすることで偏りの無い中道の心になれば
出来ます。
既に解脱し大悟なされた、大救世主大川隆法総裁の幸福の科学の元で三帰
者(仏・法・僧三宝帰依し直弟子)になり、日々の正しい信仰生活や宗教
生活の中に四正道(愛・知・反省・発展)の愛の発展に向けて実践でをす
ることによって霊的人生観の確立することで、心のコントロールが出来る
ようになります。 そうすると情欲をコントロールできてまいります。
情欲に振り回される状態は心が煩悩に支配されてはなりません。
心が煩悩を支配することが心の王国を支配することになります。また胆力
で耐え忍びの精神力の強さも要求されます。正しい仏法真理を自分のもの
にして府に落とすことも大事であります。エル・カンターレ信仰を通して、
正しい瞑想を通して「明鏡止水」の心境の継続の時間が延びてくれば、卒
啄同時のように卵の内側から突いて卵を割ろうという行為が、親鳥が雛に
なる鳥が突いている方に突いて卵を割った行為を解脱と言います。
第一段階の解脱は阿羅漢の境地であり、誰でも可能性のある境地です。
解脱は得ようとして得られるものではありません。解脱の時期は御本人
には解りませんが解脱に近づいていることは解ります。
解脱の時期はその時期に相応しい状態になる時に神仏からあたわるもので
あります。阿羅漢の解脱の境地でも安心はできません。
増上慢という魔境が、信仰の試しが待っています。日々感謝の思いの積み
重ねと謙虚さが問われてまいります。
感謝と謙虚さ(主への篤い信仰心)があれば絶えず利他愛他の立場を
確認することができます。信仰心が無くなると感謝や謙虚さが無くな
り、後与える愛が知らず知らず奪う愛に摩り替わります。
日々の正しい反省があれば未然に防げます。
解脱に向けて頑張ってみてはいかがでしょうか?
741 :
神も仏も名無しさん:2009/03/07(土) 18:10:09 ID:HWZZkgtO
解脱といっても、仏教の解脱には、解釈の相違があるのではないでしょうか?
大川氏の解脱、仏教の理解は、どのようなものでしょうか?
742 :
神も仏も名無しさん:2009/03/07(土) 23:43:10 ID:HWZZkgtO
因果はない。
743 :
神も仏も名無しさん:2009/03/07(土) 23:49:44 ID:HnooNjxE
744 :
神も仏も名無しさん:2009/03/08(日) 10:16:13 ID:MCj9xzxT
われわれはキリスト教のイエスの犠牲と言う意味について話したことがない。
ここにキリスト教の特徴がある。ここが仏教と決定的に異なるところである。
イエスの犠牲と言うことが真理真実とどう関係があるのか?
回教では、この意味を認めていない。
745 :
神も仏も名無しさん:2009/03/08(日) 13:19:58 ID:MCj9xzxT
イエスは「真理は人を自由にする」といった。しかし此れが現実に認められたことがあるといえるだろうか?
無いとすれば、何故なのか?
746 :
神も仏も名無しさん:2009/03/08(日) 22:20:50 ID:uumC0Uxz
>>741解脱といっても、仏教の解脱には、解釈の相違があるのではないでしょうか?
大川氏の解脱、仏教の理解は、どのようなものでしょうか?
@たしかに解脱には幾通りの段階があります。「悟りの階梯」と言います。
幸福の科学の教えは、真の幸福はこの世ととあの世をつらぬいた幸福を
目指しています。
真の幸福になるためには四正道(愛・知・反省・発展)の思いやり・優しさの与
える愛の発展が真に幸福になり利自即利他の実践で、心のユートピアから社会の
ユートピア・国のユートピア・世界のユートピアへと「愛と悟りと地球ユートピ
アを目指しています。
仏法真理の学びを通して真理の物差しを構築し愛の発展繁栄を目指し自己責任の
もと自助努力から悟りを目指し幸福になってその余力でユートピア運動を展開し
ています。仏法真理の学び無くして解脱(悟り)なしであります。
1 誰でもが解脱が可能な「阿羅漢の悟り」があります。
与える愛の実践で指導者としての生かす愛の実践が確立し許す愛に向けての菩薩行も
しつつ真理の学びも深めて反省で八正道)によって心の塵やホコリを取り心の波立ち
がなく、心が統御され継続して煩悩の支配から自由になり、爽やかな心の安心立命の
継続できる境地です。
2 阿羅漢果の解脱です。菩薩になった悟りであります。
3 梵天の解脱による悟りであります。
4 如来の解脱による悟りであります。如来の上もありますが
人間として解脱できるのは如来までです。
解脱の内容は菩薩の解脱から割愛します。幸福の科学の大川隆法著「太陽の法」・「黄金
の法」・「永遠の法」・「仏陀の本心」にも解脱について詳しい内容が書かれてあります。
大手書店にあります。500冊以上刊行されています。幸福の科学の入門としては「幸福
の法」などがあります。
747 :
神も仏も名無しさん:2009/03/08(日) 22:42:55 ID:MCj9xzxT
>>748 理法と言うものを前面に出さないのは不審ですね。
理法がすべての根本なのですから。
748 :
神も仏も名無しさん:2009/03/08(日) 23:19:59 ID:vzk14N5+
>>745 教えに反する人の信仰対象となった。
仏教の慈悲、他人の過失を見ない、イエスの慈悲、あやまちをゆるす
平安の境地に達してからの仏教の慈悲、健康な人は医者はいらない、あわれみであっていけにえではないイエス
一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者の仏陀
五感や第六の思考・意向のみならず、それぞれ違った形態、考え方がある。
たとえば、わが妻は従順であるという人よりも、自分をよくととのえた人が互いを自由にさせる。
益に縛られるよりも、互いに与え合う人々のほうが、公平・平等。
世の中と自己に悩み苦しむよりも、そこから離れて貪らないほうが心が縛られない。
人の思考や意向、利益を貪る思いなどが、言葉(教え)より勝る世の中のため、人は自由になれない。
749 :
神も仏も名無しさん:2009/03/09(月) 08:05:23 ID:MoeNecXX
>>748 >利益を貪る思いなどが
真理真実を知らないから、貪るのである。
ここも大川総裁の話で盛り上がってるんですか?(藁)
751 :
神も仏も名無しさん:2009/03/09(月) 21:55:35 ID:MoeNecXX
まだ、そこまで行ってないw。
752 :
神も仏も名無しさん:2009/03/10(火) 23:38:37 ID:Ek/bmhZ7
真理・真実
言語表現できるこの世で最高の理想状態が自分の命を捨てても、一切の生きとし生ける
者への慈悲。友のため自分の命を捨てる人より大きな愛はない。
少なくとも隣人を愛し、最低でも暴力、罵ること、害を加えること、わざと悩まそうと
しない。他をならかしめて自分の利益を欲さない。
しかし、自己の存在しない世界のように涅槃寂静、諸行無常、諸法非我を求めて、世の
中から遠ざかり離れるような心得で、離欲を心得ようと努力し、静かに暮らすことも善
いこと。
753 :
神も仏も名無しさん:2009/03/14(土) 15:45:57 ID:jXq49rBk
この世界は虚妄の世界であるから、何をしても良いのだ、と思う人が居る。
このように思う人はどのようになるだろうか?思い実行する人は?
754 :
神も仏も名無しさん:2009/03/14(土) 22:23:40 ID:82g5RU51
善なる人格的神の支配なら、この世界に善悪は無い。そこで人は神に対し罪を犯した。
肉体の欲するものは虚妄に過ぎず滅びに至る思いである。
しかし、その他に対する善悪を捨て、他に対するあやまちをゆるすなら、他人に対する思い煩いも
無いし、人は互いに自由である。
欲するより与え、肉の主人に誠実に仕え益を得る。恩を知らぬ者は、人々がその人から離れていき、
孤独になるだろう。
永遠の命の命令といっても、現代では理で学んで、自制心を身につけるしかない。
仏教ではカルマ。悪いことをすれば、一時的には幸せが得られるが、それが積み重なって悪いこと
が返ってくると。
そうでもないかもしれないことを信じることが信仰心。
善悪業を捨て、他人の過失を探し求めることは真理から離れ苦悩を伴うのでやめるよう諭され
行えるようになるのが、何ものも信じないで自分の心を制する修行者の生き方。
現代では殺人や盗みといったことを平気で行う人々は少ないので、妄想より理のほうが健全な
精神を保てるだろう。
755 :
神も仏も名無しさん:2009/03/14(土) 22:41:35 ID:82g5RU51
そして「安かれ」と言われた。
盗みや他人、人々から取ろうとすること、他人のあやまちをゆるさず、他人を見下したり、過失を責め立てたりする
ことは、心の苦しみや多大な労力により苦悩する。
多くの人はその苦悩を避けて、無意味なことをやらないように暮らしている。
757 :
神も仏も名無しさん:2009/03/15(日) 09:10:32 ID:7BeRH9h1
王室を尊敬しなければならない理由はないだろう。
王室がない国は、そもそも存在しており、それもまた多数に上るのだから。
そして王室のない国が繁栄している。先進国で王室があるのは日本ぐらいであろう。
先進国で王室があっても、それを尊敬してる国はない。
758 :
神も仏も名無しさん:2009/03/15(日) 13:44:58 ID:CSNEzCBq
>>641 >ノーシスっていう公民館でやっている教会みたいところで性の英知を教えないキリスト教や仏教はみんなインチキだと教えられました。
>ということはノーシスが本当のキリスト教だとか仏教だといいたいらしいけど・・・。
>雰囲気がおかしいですね。金星に人が住んでいるとかいうと、資料を送りたいからとしつこく連絡先とか聞いてきます。
>なんだか怖くなりました。
>(変な雰囲気の変な人たちの中に引き込まれそうな感じで・・・)
>いろいろありますね。
新約聖書のコロサイ人への手紙は、使途パウロが当時の教会に入り込んできたグノーシス思想との戦いの書であると
言われていますね。
>あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの
>霊力に従う人間の言い伝えに基づくものにすぎない。(コロサイ人への手紙 2.8)
そのノーシスの創設者のサマエルアウンベオールという人の思想も当時のグノーシス思想と共通する部分があるみたいですね。
原語は両方ともギリシャ語の「GNOSIS」だし、両者とも善悪二元論という点では特徴が一致しているようです。
759 :
神も仏も名無しさん:2009/03/17(火) 20:53:03 ID:DD2F3sY9
二元論と言うのは、不二一元論、不二の法門に通じるのではないかな?
760 :
神も仏も名無しさん:2009/03/17(火) 22:13:03 ID:DD2F3sY9
善悪=有無=神悪魔=真理虚偽==因果=縁起
761 :
tibyaku:2009/03/17(火) 22:13:49 ID:vBOsUoQj
>>759二元論と言うのは、不二一元論、不二の法門に通じるのではないかな?
@二元論は「善」「悪」の善悪の判断力もと悪を捨て善を成していくことが
二元論であります。
不二一元論は二つとない光一元の意味であり、不二の法門は二つとない法
の教えの門の意味でしょうか。
「善・悪」二元の意味を熟知しその上位に光一元があります。
二元論から一元論に通じています。
法門は法の教えの門はお釈迦様が8万4千の法門があると言われていますので、二つとな
い法門は個々に二つとはない法門かも知れません。
762 :
神も仏も名無しさん:2009/03/18(水) 18:59:18 ID:sLEAaIcf
真実に至らしめる教えはすべて真理の教えであり、それは8万4千以上あるといえる。
763 :
神も仏も名無しさん:2009/03/21(土) 22:35:26 ID:N+ns662e
1つですけど。
764 :
神も仏も名無しさん:2009/03/22(日) 14:22:48 ID:iVGGM/CM
聖書をよく読めばイエスは人でなく神だったのがわかります。
死後数分でなく何日も経た傷んだ細胞が復活しての蘇生ですから、それが意味するところは人の力を大きく超えていたということで
悪霊、天使、聖霊,神の右の座とかもただの例えで、天の国も宇宙に到達した時点でただの例え話だったことがわかります。
実際の本当のところは、神の力が宿らないと知りえないことになりますね。
イエスが親切であったからこその例え話が、逆にキリスト教を混乱や妄想に導いたわけです。
つまりは蟻には人間の生活は理解できない、理解できないからこそ例えで話したわけです。
釈迦もイエスも死時に雷鳴や地響きが起こったといいますから、自分本位な聖書解釈や仏典解釈がそもそもの争いの火種だとも言えます。
イエスの言葉は、実はほとんど全部例え話だった。
死後何日もたった匂うような死体を蘇生させることが出来る者が、本当のことを言っても人が理解できるわけないから
実際は神や魂の存在に無記で通した釈迦以上に無記だったのです。
767 :
神も仏も名無しさん:2009/03/22(日) 23:11:01 ID:kdcD1JyG
呼んでません。
768 :
神も仏も名無しさん:2009/03/23(月) 00:32:01 ID:gt94ABlr
>天の国も宇宙に到達した時点でただの例え話だったことがわかります。
馬鹿すぎる。 例えかどうかがお前に分かるんなら お前こそ神だわな w よお神。元気か?
もちろん、天の国は在るのかも知れないが、それは宇宙飛行士から地球を見た
地球は青かったといったような、漠然とした象徴的な言葉でしかなくグーグルアースのように細かくそれを説明しているわけではない。
770 :
神も仏も名無しさん:2009/03/24(火) 02:05:41 ID:0F5Lw1w8
あいかわらず会話ができないなきさまは。w
はじめから在った神も、たぶん自分が一体なんなんだか知らないだろうな。
人が「自分は一体なんなんだ?」という欲求も神からくるのかもな。
自分が神だと、神とひとつだと気づいた、
あるいは実感し神とひとつになったとしても、そっから先はどうなるんだろうな。
772 :
神も仏も名無しさん:2009/03/25(水) 22:59:37 ID:AqyXMyd1
サタンが、神と同じ知恵を持つようになるとか言って、イヴを誘惑したのは、
自ら神を知らないからであった。神は唯一名存在であるのを知らなかったのである。
善悪なるものはないのを知らなかったんである。知恵なるものがないのが神であるということを知らなかったのである。
単に外観にのみ囚われ、単に恐れのみに恐れ、そういう存在の理解が悪魔の神の知識(理解)であったのだ。
今ここで、神を理法により説明しないものは、このサタンに他ならない。
いままで、福音書の成立時期ばかりに気をとらわれて、マタイ、マルコ福音書ばかりを重要視してたけど
予想だけど、まだ、使徒が存命してて、直にイエスの教えを説けれたから
福音書の内容そのものは、そこまで重要ではなかったのかも知れないな。
外典に隠されたイエス像を疑ったこともあったけど、
ヨハネ福音書のイエスが一番優しさがあり、福音記者の文章も丁寧で思いやりが感じられ、
実はヨハネ福音書こそ、おそらく後世に書き記そうと一番試みているように思う。
それと死海文書を見る限り、割とみな信心深く、改竄とかしないものなのだとも理解出来た。
実はヨハネ福音書こそ、本当のイエスの姿を克明に描いていたのだね。
そしてよく注意すれば、ヨハネ福音書はグノーシスや仏教とも、割とその思想が似ているのにも気付く。
キリスト教も国教になったあたりで、小乗のような禁欲的な修道院生活から、大乗のように似て非なる変化を遂げたのかも知れないね。
イエスも釈迦も、ローマ帝国やユダヤ教、外道やバラモン教の存在で
言いたいこといえなかったけど、本当の真理は一つだよ。
日本でも、天皇とクリスチャンとか、信仰の自由がなかったくらいだからね。
それは、察するべきだ。
775 :
神も仏も名無しさん:2009/03/29(日) 21:01:48 ID:eMaxSH4u
つべで、666.xjohn.comを検索し
666-Part5 signを見るとイエス・キリストと仏教が
776 :
神も仏も名無しさん:2009/03/30(月) 21:36:59 ID:Sx3t771h
なるほど。 ゆえに、仏教とキリスト教は真逆なんだな。
正確に言うと、聖書も仏典も後の世の人間がまとめたと言う事。
即ち、伝記と思えばよい。真理はいくつか含まれているが、それが全てではない。
キリストも仏陀も分を弁えていた。
778 :
神も仏も名無しさん:2009/04/01(水) 21:58:36 ID:1xN+NoV6
そういえば、沈黙と言う題名の小説があったね。沈黙とは真実であり神である。
どうしてそれでは神の言葉があるのか?それは真理である。神の使い(預言者)の教えである。
・・・・と言うのはどうだろうか?
779 :
神も仏も名無しさん:2009/04/04(土) 16:00:52 ID:KScu2p8l
『神の沈黙と不在』
朽ちる人間と同じような神と説くなら、善なる神は世界に存在しない。
―あなたがたは下から出た者であるが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の
者ではない― イエス
―あなたは悪魔の征服者です・・みずから彼岸に渡りおわり・・麗しい白蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両
者に汚されません― 仏教
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし
いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたが
たも慈悲深い者となれ
―ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである― ―足ることを知り―
貧しい人々のほうが信仰に富んでいる。貧しい人々も真っ直ぐな見解を抱くなら、貧しからずと呼ぶ。
780 :
神も仏も名無しさん:2009/04/04(土) 16:01:59 ID:KScu2p8l
『この世の者ではない神』
この世の者ではない神と説くなら、この世にいる人に影響を与え続けている。
世に打ちひしがれた人々、世の中から遠ざかり離れて、静かな安らぎを楽しみ、狂おしい悩みも無くなる。
世の中のどこにも害いを見ない。罪に定めず、さばかず、ゆるしてやる。他人の過失を探し求めない―自分自身に気をつける
人々が増えれば、互いに自由となる。更に、他人の過失に思い煩うこともない。
食べること、飲むこと、享楽、快楽、持ち物を誇ること―そういったことを行っている時、誰も賢者だ、善人だと思わない。
神と富とに兼ね仕えることはできない。働こうとしない者は食べることもしてはいけない。誰もそなたのために働いてくれる
人々がいるわけではない―人々が肉の主人に誠実に仕えるから、世の人々は誠実に仕えられる。財を欲する人々が、世間を輝
かせているわけではない。
あくせくしない。欲求のためにあくせくしない。他をならかしめて自らの利を欲さない。あくせくさせない―富に仕える人々
と働く以上に持ち物など得ようとあくせくしたために、世に苦悩が生まれた。
貧窮なる人々に分け与える―自分のことばかりで生きるのではなく、貧しい人々にも配慮がある世の中となる。
見ようとしても見ることはできず、考えてわからない思考の外の存在で、自分のために意識しても自分に利益がある存在
でもなく、人の内に宿り世に漠然と影響を与えて、自分の利得のために信じる人を釣る存在。
781 :
神も仏も名無しさん:2009/04/05(日) 22:03:50 ID:KsTSqACb
怒りすぎると死ぬ 米名門イエール大学の医療研究結果に世界が騒然
怒る=肉体 怒ることがない=この世の者意外の生存=神
宗教は科学も全ての人類がやがて認めるものとなるか?
宗教は一部の人の考えを評価し、少数の人が自分たちの信じたもの、
学んだことは他の宗教、宗派より正しいと思い続けるものだけとなるか?
トマス福音書のイエス語録はガチ
物質界には救いがないとしたグノーシスの人たちが、ヨガマスターの境地
ニルヴィカルパ・サマーディなんて知ってるわけないから創作文書などではないのは明白
本当のイエスを理解したいなら、ヴェーダーンタを学ぶべき
エドガーケイシーの透視も参考になる。
783 :
神も仏も名無しさん:2009/04/08(水) 07:38:09 ID:4KpvmvCD
日本に原子爆弾が二個も投下されたと言う事実は、日本人の真実に対する無知が、
処罰されたのだ、と解釈すべきだ。
784 :
神も仏も名無しさん:2009/04/08(水) 09:39:05 ID:M97snzc1
783は相手の事情を汲むのがオトナのマナーだって意味でOK?
785 :
神も仏も名無しさん:2009/04/08(水) 13:20:14 ID:sscAj04Y
>>783 ていうか、キリスト教徒のあんたらが落したんでしょ。
786 :
神も仏も名無しさん:2009/04/09(木) 18:28:00 ID:0jhBw4k9
>>785 盲目的信仰である神道が、罰せられたと言うのだが。
戦争になる前から、日本は負けると診断されていたのだ。
それを戦争に駆り立てたのは、神道だろう?
盲目的というのは、真実に対して無知であることを言う。
これをはずすなら、残るものは欲しかないんだよ。欲が神様になるのだよ。
今の創価のように。その欲は何か突き詰めると、有身見なんじゃない?
有身見とは何かと突き詰めると、情欲なんだよ。
787 :
神も仏も名無しさん:2009/04/09(木) 22:30:55 ID:Xpxhp2zt
執着が苦なんですよ
ご苦労様
>>786 君の思考は病的だね。
実際精神を病んでいるのではないか?
真実に無知なのは君自身だ。
789 :
神も仏も名無しさん:2009/04/10(金) 01:24:47 ID:XnYpIz4X
まあ 786はここでだけ強いからな。強さを求めている情欲なんだよ。
その情欲が 一生彼を縛り続ける。 仏教というのは 彼にとっては画に描いた餅として、掲げられ続ける。
790 :
神も仏も名無しさん:2009/04/11(土) 00:31:40 ID:DJuOrLOe
世のことに苦しみ自殺する→世のことから遠ざかり離れ冷静になる
信じて戦争をする、世のものに執着心あり戦争をする、正義で戦争をする→敵意も憎しみも争うことのない正義
独裁者が武力で人々を制圧する→生ける者どもの幸福・安穏・安楽な暮らしのために働く
足ることを知らず貪り満足せず幸福感が得られない
791 :
神も仏も名無しさん:2009/04/16(木) 20:50:50 ID:ofrVpHa/
仏教の一切は平等であると言う真理は、縁起してるものは空性であるから平等で差別がなく、一相であると
言うだけでは、現実に適用できないのではあるまいか?
一切が平等であるとは、確かに縁起している存在に付いて言っているのであるが、
お互いに他が無いと存在し得ないものであるが故に、どちらに重点があるとか、優れているとか、
良いとか、悪いとか、言えないと言う理解なのであり、それゆえに、その判断を究極のものとして
、平等であると言われるものではあるまいか?これであれば、変化してるものを故意に無視すると言うことは、
変化に囚われていることになって、逆効果となり、むしろ変化してるものに囚われないようにするためには、
先の見方が良いということにならないか?いずれにしろ、優劣、善悪と言うものを追求しないことが前提であると思うが。
792 :
神も仏も名無しさん:2009/04/17(金) 12:10:33 ID:/uuMzLNr
793 :
NAS6 ◆kl1JWE6W72 :2009/04/17(金) 13:01:13 ID:J2rwa9oS
一切が平等とは快苦が表裏一体、等価交換だからですよ
794 :
神も仏も名無しさん:2009/04/18(土) 00:39:08 ID:J+SYS0CH
釈迦は一切の幸福と安穏と安楽に到達し慈しみのこころづかいにより法を説いた。
イエスも一切の幸福と安穏と安楽に到達し神は愛と語り、人の命は限定的で偶像で信じることはできない存在と
示した。その実があれば受け入れることができ、人の思考は神を受け入れることはできない。
地のものから離れた一切の存在は、物質的なものから離れ平等。
地のものでも苛酷なることなく貪欲なることなく万物に対して平等、公平は善いと自然体ならある。
他人に苛酷だけ強要して平然とはしない。その代償として与える。人々に仕えて偉い者となる。富に仕える者は、
人々に苛酷を与えるだけになるから、公平ではない。
多くの人々の望みに仕え、なんらかを与え(施与)し交友を結ぶ。また、正しく財を得た人は、自ら喜ばせ楽し
ませ、妻子、他人を楽しませ、父母を養い、という教えもある。
世に打ちひしがれた人々も、より信仰を増し、世と世にあるものは過ぎ去る、執着心を捨て去り何事も思い煩う
なという地のものを離れた癒しの言葉もある。
この世で幸せを求めている生きとし生ける者どもに対しては、互いにその人の幸福だと思うことに仕え、一方が
自分の利益のために他方を支配しない。また、仕えて益を得なければならないということはなく、苦しんでいる
人は、世のことから離れ、信仰を増しなさいという真理の教え。そしてまた、生存権の保障という教えもある。
釈迦とイエスは同じ真理を悟ってる
聖書は難解だがよく読めば理解できる。
特にヨハネ福音書は、多くの弟子が去った後も残ったイエスに近しい弟子が記した貴重な書
796 :
神も仏も名無しさん:2009/04/18(土) 15:41:36 ID:J+SYS0CH
「人のいない地域に清涼な水があっても、それを飲まぬならば、涸れて消え失せるように、愚劣な人が富を得る
と、自ら用いることなく、他人にも与えない。健き人・智慧のある人は、富を得たならば、自ら用い、またなす
べきこをなす。牡牛のような人であるかれは、親族の仲間を養って、人から非難されることなく、天の場所にお
もむく。」(仏典)
信仰を増すということは・・・命じられたことを皆してしまったとき、「わたしたちはふつつかな僕です。すべ
き事をしたに過ぎません。」(聖書)
死体を葬ることは死人、葬儀をしない。くどくどと祈らない、多くのことばをやたらにつぶやかない。
供え物をしない、供え物は霊は食べない。誓うな。
富を得た人が用いることがないから生じる世の中の苦難や、肉の主人に誠実に仕えるから、人々は誠実に仕えら
れる現実。決して富を貪ることやその他の欲求のためにあくせくすることが、人々を幸せにすることではない。
世に打ちひしがれた人々や、貧しい人々が信仰に富んだ者となり、衣食があれば足れり、この世の有様は過ぎ去
る、思い煩わない。
くどくどと祈ってどうなるのか、死んだ人は人の手では届かぬもの。オカルト的な宗教を批判し、現代でも起き
ている人々の苦難の解決。世に思い煩わない人が世のことから遠ざかり離れて思い煩わないように、言葉に従っ
ている人は神にあってなされたこと、平安の境地から説いたこととして、自ら慈しみのこころづかいによって教
え信仰対象となった。
797 :
神も仏も名無しさん:2009/04/18(土) 19:17:07 ID:J+SYS0CH
神を信じている人が、自然災害などで苦しむ人々を天罰だと思うとする。
貧しい人々は、神に愛されていないとする。
宿無き人々、食物のない人々、裸である人々、乞う人々に宿を貸し与えよ。貧窮なる人々に与えよ。
真理を行っている人々は光に来る。その人の行いが神にあってなされたということが明らかにされるためであ
る。自然災害などでも苦しんでいる人々を助けた人々が神にあってなされた。
何も持たない人々は楽しんでいる。貧しい人々に福音。
賢くなった人がその思考で信じられる神ではない。人は自然のままでも行っている神で、自分のためにくどくど
と祈ったり、多くのことばをやたらにつぶやいていたり、供え物、誓い、葬儀で天国を批判した。
世に悩みがあるなら信仰に富んだ者となり、世から離れ世の悩みをなくす。貧しくとも、所有物にこだわらず、
自然などで安らいなどを楽しむ人々もいる。
五欲の対象を享受したいなら、誰もそなたのために働いてくれる人はいないとして働き、富を得ても自ら用いる
ことなく、妻子を喜ばせず、友人を喜ばせず、父母を養うことなく、何人にも与えないなら健康な精神ではない。
肉の主人に仕えた以上に富を得て、自ら用いることなく、何人にも与えようとしない不健康な精神の人々が世を
暗くする。
釈迦とイエスは現実的にある法、神である。
エドガーケイシーは預言者
聖書に親しんだ西洋人で、あの透視は凄い
先入観無く、イエスが輪廻で魂を完成させたとか、インドで修行したとか
透視で報酬も無く、日曜には教会に奉仕してたクリスチャンだから、むしろ信憑性がある
異端発言して得るものが無いから
使徒が記したヨハネ福音書には
釈迦が影響受けたウパニシャッドに相通じる思想を感じさせるし、まさに真理は一つなのだろう
799 :
神も仏も名無しさん:2009/04/20(月) 22:19:56 ID:6+xBywbk
>>792 欧米人は禅とかインドのヨガとかベーダンタとかの哲学に親近してるんだね。
しかしもう一つ判らないな。この人は仏教、ベーダンタ哲学に精通しているよう灘ね。
自分の説はこれらの哲学を基礎にしているのに、これらの哲学を少しも顕わさないんだね。
800 :
神も仏も名無しさん:2009/04/20(月) 23:40:18 ID:6+xBywbk
>>798 ヨハネがグノーシスに近いとかその思想を取り入れてるとか、あなたのようにウパニシャッドに通じるとか
今まで聞いてきました。具体的にどこがそれに当たるのでしょうか?
801 :
神も仏も名無しさん:2009/04/21(火) 00:31:13 ID:RiFw+tu4
ウパニシャッドやら釈迦やイエスの教えの本質は難解だからね
イエスの弟子は最後まで例えで話されて、理解できなかったくらいだから、
釈迦のほうが弟子の数も多く、教えてる時間も長かったから、釈迦の真意は伝わってるハズ
唯一の創造主や隣人を自分のように愛すとか驕り高ぶりや欲、執着を捨てよとか
それらをひたすら守れば難しくない。意味や結果を求めたら難しくなる。
意味や結果(因果応報)が大事だからね。
欲や執着がなくて愛に満ちた善人なら、それだけでいいの
それはイエスも釈迦も説いた共通の真理
806 :
神も仏も名無しさん:2009/04/26(日) 01:12:13 ID:H9sBFCDk
>>805 健康な人は医者はいらない、いるのは病人
自然のままでの律法、かれらにとっては自分自身が律法
究極の理想に通じた人が平安の境地に達して・・・母が己が独り子を命を賭けても護るような慈しみ
一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者仏陀に罪過は存在しない
かれらは律法がわからず殺人を犯した
魚を釣る
善悪を悪魔と説いている。他人のあやまち(過失を探し求め)ゆるさない、見下す者は真理から遠
く離れている。不正に得た名声・利益=悪魔ナムチ
科学・現実の教えを説いた、そして人間は欲念があり理屈だけでは駄目だとして信仰させた
怒る・悩む(肉)=短命 怒ることない・悩まない(肉体外) ストレス無く、自然は美しいとか楽
い・快楽などに耽溺しない健康な精神の人 物質的な形のこだわりや所有物の有無に悩まず、死んだ
どうなるのだろうかと悩まない
なんらかの施与(与えて)交友を結び、苛酷なることなく貪欲なることなく平等を思う
宿や食のない人々、貧窮者への配慮 恣の肉欲にならず、自制する
そういったことができなかったので釣りながら信仰させる
807 :
神も仏も名無しさん:2009/04/26(日) 01:55:20 ID:H9sBFCDk
唯一、平安や安らぎといった真理を感じることを人間は持っている
一切の幸福と安穏と安楽は、人間はこの世では大切だと思っている
敵意や憎しみ、他人のものを盗んだり争うとをに嫌悪を抱き、自分の思考・意向に反する者・利害によ
り互いに対立しない
食べること、飲むこと、快楽・享楽を満たすこと、肉欲を満たすことで偉い、崇高な者としない
病気の治療は、むしろそれらの貪欲から離れて、静かにする
科学でも、何でも、人々の不幸や安穏、安楽な暮らしを奪おうとしない むしろ人々の幸福や安穏、安
楽な暮らしに努める
人によくしてやること、何も当てにしないで貸してやることが悪く、人に悪くしてやること、自分の物は
自分の物だから誰にも与えないことは善いことだとしない
自分だけのことを思う身体作用、自分の考えが正しく自分の意向のみに生きる、飲み食い快楽を楽しむ以
外の全ての幸福と平安や、欲求のみに生きることなく、安らぎを楽しむ身体以外のものが働いている
イエスの弟子は多くても1万人くらいで、しかも多くは去ったから
残った数人の弟子よりかは、何十億人に1人の逸材の釈迦やシャンカラ
のほうがイエスの悟った境地に近かった理解していたと考えたほうが自然だろうね
真理はひとつ、世界中どこにいても重力や空気の働きもひとつだし
809 :
神も仏も名無しさん:2009/04/27(月) 18:44:51 ID:KaA4EdFO
仏陀もイエスも特定の時代、特定の地域・文化の人々に向けて教えたのだ。
もし今現れれば全く別の教え方をするだろう。
教え方は違っても「教え」は同じだ。
人間の脳の構造が同じである限り。
811 :
神も仏も名無しさん:2009/04/28(火) 15:48:08 ID:C9u1cQWl
812 :
神も仏も名無しさん:2009/04/29(水) 10:00:57 ID:3tDmBA5v
(1)教祖として金銭を要求しない
働こうとしない者は食べるべからず 修行者よ諸々の人の家で貪るな
(2)無所有・尊敬
何も持たずにこの世を去る
地では肉の欲・目の欲・持ち物を誇るが、霊的な勝利者はそれらから離れて悩み・苦しみがない
自分が豊かに暮らしながら、貧しい人々に世と世の富をは過ぎ去り、何事も思い煩うなとしない
(3)くどくどと祈る・呪文や意味の無いことばをつぶやくことを否定
教えを祈りに、理法を詩に、唱えて意味のわかることばを唱えさせ教えを学ばせた
(4)葬儀否定・供え物否定
死体を葬ることは死人・霊は供え物を食べないなど霊や人の死後について非科学的な行いを否定した
(5)誓い・宮・僧院否定
誓いをしてはならない・釈迦のために僧院を建立する必要はない・宮を否定し、貧しく、或いは苦悩
のために信仰している人々から、宗教的行為で雑務をさせないようにした
(6)神通力・不法
学び修めた賢明な人・修行完成者。奇跡で人の病を治す人を不法者として、言葉を行えとした
813 :
神も仏も名無しさん:2009/04/29(水) 10:01:39 ID:3tDmBA5v
(7)知恵・善悪を知る人こそ賢者
学び修めた賢明な人は食乞う人々に与えたり、宿の無い人・貧窮な人に宿を貸し与えよ
富に仕えず肉の主人に誠実に仕え、誰もそなたのために働いてくれる人々がいないとして働け
母が己が独り子を命を賭けても護るような慈しみは崇高、人によくしてやり何も当てにしないで貸し
てやれ
他人を見下し、過失を探し求めることは真理から遠く離れる。世の中のどこにも害いを見ない。罪に
定めるな裁くなゆるしてやれ
財を欲することが益をもたらすのでなく、一切の生きとし生ける者の幸福や安穏や安楽、肉の主人
に誠実に仕える、富を得たら自ら用い他人にも与える、貧窮な人にも配慮のある世の中や、敵意や
憎しみを抱かない、互いに他人の過失を探し求めずあやまちをゆるしてやる、自分に気をつけ、ひ
とりひとりを尊重させる教え
(8)神の国はただ中にある
かの世もこの世も望まない 感謝
そういった教えを行えることが神の国として、できない人への信仰配慮、釈迦はかの世を望むことは
悪魔ナムチの褒め称えることとして、人里離れたところでの瞑想、安らぎを楽しむ
814 :
神も仏も名無しさん:2009/04/29(水) 10:19:14 ID:SEPwVI+B
以上、共産主義国では仏教がこう教えられる。
815 :
神も仏も名無しさん:2009/05/01(金) 06:20:02 ID:EMLpZwRD
自分が生きる、自分のためなら宗教でもなんでもしがみつく。
そんな欲の深い人間に正反対のことを教える宗教教祖。
過去でも今でも自分のためにといって執着する愚鈍で愚劣な信者
が、自分の信じたもののほうが正しいといって争う道具となった。
816 :
神も仏も名無しさん:2009/05/01(金) 18:21:36 ID:GzfYYXlx
仏陀もイエスも、いや宗教そのものが誤解されている。
本物の宗教は絶対に我々と同レベルから発生することはない。
つまり仏陀もイエスも我々よりはるかに上方から来たのだ。
仏教徒とかキリスト教徒というのは厳密にその教えに従って生きることが可能な者を意味する。
しかし実際には(ry
無論チンケな金儲け目的の新興宗教など論外である。
817 :
神も仏も名無しさん:2009/05/02(土) 00:33:30 ID:9NY+ZbzB
七覚支を楽しむ
真実を選び出し、偽りを捨て去る修行法 → 教えは弟子たちに任せた。
諸行無常・諸法非我・一切皆苦・涅槃寂静
「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去っていく。
ただ衣食があれば足れりとすべきである。」
「今からは妻のある者はないもののように、泣くものは泣かないもののように、世と交渉のある者は、それ
に深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。」
善いことをした人々は善いところに生まれる、他の人々はこの世で道を修して、汚れを去り、安らぎに入る
修行者として世を厭い離れ、肉の思い=怒りや憎しみ、物欲、快楽、享楽など人間の身体からくるありとあ
らゆるものを捨て去ることに努め、静けさを目指した。これも仏教の真実である。
この世では
慈しみのこころづかいが崇高。一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者仏陀。
人がこの世でなす善と悪の両者は、その人の所有するものであり、人はそれを身につけておもむく。
学び修めた賢明な人は、食乞う人々に飲食物を与えよ。貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々
に施しとして与えよ→イエスもそのようなことを教えた。
※慈悲・分け与えの教えは仏典の多くに記されている。これも仏教の真実である。
これを否定する人は仏教を否定する人。イエスも慈悲深い者となれと教えた。
この世で悩み苦しみ、或いは汚れを捨て去り安らぎを目指す人は、離欲を達成し涅槃寂静への道。
この世にあって善悪の両者をよく考える人は仏典に書いてある修行完成者をよしとする人、学び修めた賢明な
人、御言を受け入れる人。
818 :
神も仏も名無しさん:2009/05/02(土) 09:27:57 ID:vb1XpVKS
皆さん、去年の暮れにはサーズとかのインフルがパンデミックすると言われていました。
寒いからそれに相応したインフルと言えると思っていました。しかし、今のインフルは
発生地が暖かいメキシコで、さらに寒い冬を脱し、春になった今、パンデミックと言うのです。
しかし、真理を学び真実を知ったわれわれは、インフルのパンデミックなるものも
身の回りの変化してる色、自分の身体に基づく心の変化と異なるものではない、実体のないものであることを
知り、信じ、恐れないでいましょう。
819 :
神も仏も名無しさん:2009/05/11(月) 17:26:11 ID:alT6wWL5
・・・・・・
820 :
神も仏も名無しさん:2009/05/12(火) 18:19:33 ID:oJYOEzLc
日本の明治時代を築くのに、皇国思想というものが取り上げられたと言う。
皇国思想と言うは、仏教を排斥した上での思想なんだな。カモマブチとか?
で、かれは、仏教とは因果の思想であるとし,それ以上に出てないみたいなんだよ。
仏教は一相無相空相が真実であると言う思想なんだ。これを言わないのは、
日本の仏教が因果の思想であると言う教えに止まる、そんな教えがあるからではないのか?
因果を超越するのが仏教なんだ。
821 :
神も仏も名無しさん:2009/05/12(火) 18:41:28 ID:JMMPFcy7
822 :
NAS6 ◆kl1JWE6W72 :2009/05/12(火) 20:43:08 ID:MWKPsodn
お釈迦様は悟ったとか言う割には二度と母の胎に宿る事は無いですもんね
そんなに生まれたくなかったのかね?
こんな糞のような世に生まれたいと思わないだろ悟った人は
イエスは糞だから二度生まれようと思ったようだが
824 :
NAS6 ◆kl1JWE6W72 :2009/05/12(火) 20:59:19 ID:MWKPsodn
なるほど生まれたくなかったと後悔する事が悟りですか?
馬鹿丸出しですね
二度と生まれようと思わないのが悟りね
よく聞くように
826 :
神も仏も名無しさん:2009/05/14(木) 22:14:51 ID:lkG+KKft
827 :
神も仏も名無しさん:2009/05/14(木) 22:21:23 ID:0trLMaRT
仏陀はその教えから真実では無い
828 :
神も仏も名無しさん:2009/05/15(金) 00:04:29 ID:ILSZbqy8
ここの住人バカばっかだなあ。
感心する。。
830 :
神も仏も名無しさん:2009/05/15(金) 13:26:07 ID:3MZjL/bX
仏陀の説いた無心・無我・はっ衝動なるは自己暗示のガラクタに過ぎず。
イエスの説くは真理真実で真の導きをなす。
イエスの説くは真理真実 のように見せかけた妄想と思いつきの産物。合掌。
832 :
我は”福音派”! ◆9lDu49QCPQ :2009/05/15(金) 17:30:56 ID:3MZjL/bX
福音は罪人を救うためのものである
833 :
神も仏も名無しさん:2009/05/15(金) 18:02:42 ID:V4xDvjv4
福音は人を欺くためのものである
834 :
一在家通りすがり:2009/05/16(土) 08:30:40 ID:vJCV3rsW
各福音書や文献の示すイエス様像
参考:@「禁じられた福音書−ナグ・ハマディ文書の解明」青土社
A「ナグ・ハマディ文書U 福音書」岩波書店
(イエス様像と人)
マタイ:神に任ぜられた王 ※内、パウロは未来のイスラエル王と認識
ルカ:祭司としての役割を強調
マルコ:神の預言者 ※コーランのアラー神示もこれと同じ
ヨハネ:神自身 (注)2世紀〜4世紀に正統派の基準とされた
トマス:神の子。全ての人は神の似姿に創られ神の光を共有
ユダ:弟子達の祈るこの世の最高神よりも至高の神を知っている義の教師
死海文書:(エッセネ派ユダヤ教)全ての人に光の霊と闇の霊が宿る
最古層の福音書と言われるマルコでは、大祭司が裁判でイエス様を尋問し、
「お前は神の子か?メシアか?」と訊ねた際に、イエス様は、「そうです。」
と答えて、自らを「人の子」と呼ばれました。
835 :
一在家通りすがり:2009/05/16(土) 08:41:23 ID:vJCV3rsW
>死海文書:(エッセネ派ユダヤ教)全ての人に光の霊と闇の霊が宿る
法華経「如来寿量品十六」より、
釈尊曰く、「すべてのものは、生まれ、かつ死に、必ず変化する
ものでありますが(無常の意)、それはただ現象の上だけの
ことであって、如来の眼をもってすべてのものごとの実相を
見れば、すべては消え去ることもなく、現れることもありません。
(中略)また、ものごとが常住するもののように考えるのも迷い
でありますが、現象面だけを見て、常住のものがないと考えるのも
浅い見方です。」
「方便品第二」
釈尊は、「すべての人は仏になりうるという最高の真実を悟っている。
(中略)とはいえ、最高の真理をそのまま説けば、無智の人は混乱し、
思い惑い、まっすぐ受け入れることができない。」と舎利弗に説く。
以上より、肉体も精神も無常で固執すると苦しみを生じますが、
アートマン(霊魂、仏性)は常住だという説法だと認識致しました。
イエス様の師匠だった洗礼ヨハネは言行からエッセネ派ユダヤ教
だったという説が増えてきております。
聖書でもパリサイ派とサドカイ派の名前は度々出ますが、ご自身が
エッセネ派だったのかも知れませんね。
エッセネ派ユダヤ教と法華経の共通点は、
「すべてに人には神性(仏性)が宿る」という共通真理でしょう。
836 :
神も仏も名無しさん:2009/05/16(土) 18:33:40 ID:nh0FfANq
自治会町内会、子ども会、もうイラネ!二十二丁目 [生活全般]
PTAの違法性について4 [育児]
これが御仏の導いた道なのか?wwwww
837 :
一在家通りすがり:2009/05/17(日) 01:59:53 ID:1KzqbaIy
ヨハネの福音書と同じ頃(1世紀の終わり頃)に書かれ、正統派から
抹消された「トマスの福音書」が「死海文書」の発見より2年前の
1945年に上エジプトの洞窟で発見されました。
「死海文書」は旧約聖書と関係が深く、「トマスの福音書」は新約聖書
との関係が深いので一部対比して紹介します。
イエスに受肉した神の光は全人類が共有している、何故なら私達は
みな「神の似姿」に創られたからである、とイエス様は説かれたそうで
後世のグノーシス派の中でも参考にされているそうです。
838 :
一在家通りすがり:2009/05/17(日) 02:00:58 ID:1KzqbaIy
弟子達がイエスに言った、「どの日に死者の復活があり、どの日に
新しい世が来るのでしょうか。」
イエスが彼らに言った、「あなた方が待っているものは既に来た。
しかし、あなた方はそれを知らない。」(中略)
「もしも彼らがあなた方に、「あなた方はどこから来たのか」と言う
ならば、「私たちは光から来た、光が自ら生じた場所から。そこで
光は彼らの像において現れ出た。」と言いなさい。」と。
死海文書にも全人類に神の光(神性)が宿っていることが説かれており、
また法華経の最高真理「全ての人に仏性あり」ともよく一致しております。
839 :
一在家通りすがり:2009/05/17(日) 02:36:48 ID:1KzqbaIy
昨日、15日(土)は「天使と悪魔」を映画館で見ました。
その晩にテレビで「ダヴィンチコード」の再放送を見ました。
「ダヴィンチコード」を見るのは3回目でしたが、原始キリスト教
の書籍を最近読んでいたので、理解が更に深まりました。
映画の中で、「マリアの福音書」や「フィリポの福音書」という言葉が
出てきますが、今はどちらも手許に訳本がありますので少し紹介します。
出典:「ナグ・ハマディ文書 U 福音書」角川書店(5,040円)
「マリアの福音書」8
救い主は言った、「人の子がいるのはあなたがたの内部なのだから、
あなたがたは彼の後について行きなさい。彼を求める人々は見出すで
あろう。それで、あなたがたは行って、王国の福音を宣べなさい。」
「フィリポの福音書」32
「三人の者がいつも主と共に歩んでいた。それは彼の母と彼女の姉妹と
彼の伴侶と呼ばれていたマグダレネーであった。なぜなら、それぞれ
マリアという名前だからである」
仏陀とイエスは同じ境地にあったのだけど、凡人には別々に見えるんだよね
山の頂に近くなるほどそのことが理解できるようになってるから、道は違えど登るしかない
841 :
神も仏も名無しさん:2009/05/17(日) 14:49:10 ID:cRjj1O0p
俺も昨夜ダヴィンチコードを観たけど、途中からだった。
要するに、イエスが人間と同じように結婚し、若しくは、結婚しないまでも
情夫を持ち子供を儲けること、このことが,カトリック教会のイエス像と
対立すると言うことが問題なんじゃないのか?
カトリックでは、イエスは処女マリアから生まれ、十字架上で死んで、復活して、
今は神の国にいるという、と言う教えが大事なのだが。
カトリックばかりじゃなく、プロテスタントにおいても、ほとんど同じなんだろう?
むしろダヴィンチコードの話は、仏陀の話の域内に当てはめれば、同じな部分がある。
仏陀の場合は、子供のラゴラは、出家して結婚しなかったんだろう?
しかしイエスの場合のマリアは、その子供がさらに結婚し、子孫を後世に残しているというところだ。
842 :
神も仏も名無しさん:2009/05/17(日) 14:54:10 ID:cRjj1O0p
しかし、レオナルドダヴィンチの最後の晩餐の絵の話だが、イエスの隣の人物が、
マグダラノマリアである、と言う見識は、初めてだな。
しかし映画としては、内容の豊かなものだな。
843 :
一在家通りすがり:2009/05/17(日) 16:36:48 ID:iOUdmDkK
>>842 「フィリポの福音書」55b
「主はマリアをすべての弟子達よりも愛していた。」
「弟子達が主に言った、『あなたはなぜ、私たちすべてよりも
彼女を愛されるのですか』。救い主は答えた。『なぜ、私は
君たちを彼女のように愛さないのだろうか。』」
「フィリポの福音書」と「トマスの福音書」は特に「ヨハネの福音書」派
だったアタナシウスにとって邪魔であり、4世紀のニケイア公会議以降に
廃棄するようにお触れが出されました。
それから1600年間、存在のみが知られた幻の福音書だったのです。
しかし、上エジプトの修道士がこれらの福音書を壺に入れて洞窟に隠し、
1945年に発掘されたという経緯があります。
844 :
神も仏も名無しさん:2009/05/17(日) 18:04:10 ID:cRjj1O0p
しかし、仏陀が、悟りを開いてから、女との交わりを避けられ、それを弟子達にも
教えられたところを観ると、イエスが、伝道を始めていながら、女を連れており、
その子供までも作っていたというのは、真理真実が同一であるという見地から見ると、
そして仏陀の女人禁制が真理であるとすると、イエスは,おかしいということになり、
イエスも真理真実を体得していたとするなら、イエスが女を同行させていたというのは、
真実な話ではない、といわなければならないだろうね。
ああ、イエスは蘇りをするために強力なエネルギーが必要なので
その身体を作り出すためにパートナーを与えて核爆発に匹敵するクンダリーニパワーを蓄積したんだ
846 :
神も仏も名無しさん:2009/05/17(日) 21:12:34 ID:cRjj1O0p
>>845 >クンダリーニパワー
これはどんなパワー?
蛇だよ、蛇
背骨を上る二匹の蛇
性エネルギーを成就させる修行 左道?とかなんとか
848 :
神も仏も名無しさん:2009/05/17(日) 22:39:19 ID:cRjj1O0p
きみがわるそうですね・・・・
849 :
神も仏も名無しさん:2009/05/18(月) 11:08:55 ID:EXsoTPJR
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
850 :
神も仏も名無しさん:2009/05/20(水) 22:00:49 ID:SfJTxASZ
南無阿弥陀仏
自治会から追放されました自営業です
誰からも無視され生きる事が辛いのです
お〜神よ。我を救いたまえ
852 :
神も仏も名無しさん:2009/05/22(金) 13:40:38 ID:hsAu1Cdg
神は、自分達は特別と考えている自演夫婦を救うほど暇ではありません。
悪しからず。
853 :
絶対神:2009/05/22(金) 13:47:33 ID:76ysQ/12
当たり前だが、聖人が女と寝る訳ねーだろww
そんなのは万国共通どころか、いつの時代にも共通の概念だって。
854 :
一在家通りすがり:2009/05/23(土) 09:29:51 ID:iUXMh5DO
>>853 >当たり前だが、聖人が女と寝る訳ねーだろww
釈迦は前世も仏でしたが、奥さんも子供もおりますよ。
モーゼも同様でしょう。
大体、出家は悟りを得る為の方便にて、日常生活をしなからでも八正道を
実践できる人こそ上位だと思います。
釈迦が苦行では悟り難いと悟られてことが参考になります。
855 :
神も仏も名無しさん:2009/05/23(土) 09:42:33 ID:x00yBRCb
人間の本能、これが縁起してるだけのもので、実体がないと,知性で判断される
性質のものである、と言うところから、仏教もキリスト教も発生していると思う。
故に本能に従うとか、本能を価値あるものと見做すことは、有り得ない教えである。
856 :
一在家通りすがり:2009/05/23(土) 17:06:59 ID:gB76111T
出典:「スッタニパータ」中村元訳(岩波文庫)
最古層の原始仏典の中で、釈尊は説かれました。
「真理は一つであって、第二のものは存在しない。
その真理を知った人は、争うことがない。
彼らはめいめいに異なった真理をほめたたえている。
それ故に諸々の「道の人」は同一の事を語らないのである。」
もしイエス、シャカ、聖者達が同じ時代におられましたら、
争うことはなかったでしょう。
857 :
神も仏も名無しさん:2009/05/24(日) 08:49:18 ID:3DL/NcUZ
教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリスチャンも無数にいると思うのですが……
そういう人はクリスチャンとしては立派とは言えないでしょう。
いわばダメなクリスチャンですが、人間としては立派です。
教義は必ず足枷になるということを忘れないでください。
教義を重んじることで立派になるのではありません。
教義を無視しても立派になれるのです。
キリスト教国では教義の名のもとに殺し合いと火刑が行われてきました。
魂を縛るもの、魂を閉じこめるもの、魂の自由な顕現を妨げるものは
すべからく排除しなくてはいけません。
858 :
神も仏も名無しさん:2009/05/25(月) 08:58:27 ID:b94tuVPu
エコエコアザラク エコエコザメラク エコエコケルノノス エコエコアラディーア
エコエコアザラク エコエコザメラク エコエコケルノノス エコエコアラディーア
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859 :
神も仏も名無しさん:2009/05/25(月) 09:21:45 ID:lOfZbEAP
真理がいくつあってもかまわない。
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は
どちらも真理だ。
だからといってそれを争うことは無い。
宗教も無神教・唯一神教・多神教の三種のいづれが
真理ということでも無い。
それぞれが真理だとしても何の矛盾も無いし争うことも無い。
これだけが真理と思うから争いになる。
人は正義のために闘う。正義なんて無いのに。
860 :
神も仏も名無しさん:2009/05/25(月) 15:25:28 ID:26fv6YxF
汝の隣人=接骨院を愛せよ
861 :
神も仏も名無しさん:2009/05/25(月) 16:35:56 ID:b94tuVPu
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故
心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶 般若心経
862 :
神も仏も名無しさん:2009/05/26(火) 08:56:10 ID:yV2KPSoK
オウム同様の思考回路
呆れる馬鹿集団
宗教法人「幸福の科学」(大川隆法総裁)の信者7人が25日、東京都内で記者会見し、政治団体「幸福実現党」の結成を発表した。
「幸福の科学」の支援を受け、次期衆院選の300小選挙区と11比例ブロックすべてに候補者を擁立するという。
同日、政治団体の届け出を都選管に提出しており、書類が整っていれば総務省で受理される。
会見によると、大川総裁は政治団体の運営にはかかわらず、出馬もしないが、支持母体トップとして支援する。
妻の大川きょう子氏が「党首代行」として、都内の小選挙区から出馬予定という。
「党首」で「幸福の科学」元常務執行理事の饗庭(あえば)直道(じきどう)氏は「経済の復活や教育の立て直しに力を注ぎ、未来に夢を持てるような国をつくりたい」と語った。
863 :
神も仏も名無しさん:2009/05/28(木) 22:18:05 ID:HoInikUM
やられた…
864 :
神も仏も名無しさん:2009/05/29(金) 15:55:11 ID:+e/6kcxc
865 :
神も仏も名無しさん:2009/05/31(日) 00:33:44 ID:cHXkv68X
>>840 決して死を味わうことのない境地。
多くの神々が天地に存在しようと、私たちは唯一の神により救われる。万物はこの神から出てこの神に帰するか
ら。
〔善悪〕悪魔の征服者として彼岸に到達する。彼岸に到達すれば善悪の両者に汚されず(蛇)、人々のあやまち
(過失)を見ることも、見下すこともない。
執着心もなく、求める者には与え、自分の欲得のためにあくせくすることもない。
平安の境地に達した人、修行完成者が一切の生きとし生ける者の幸福と安穏と安楽、生ける者をあわれ
むように、「神を信じる者よ、修行に励む者よ、なぜ肉体の欲することから離れ、重荷を下ろそうとし
ないのか?」と、肉体の欲することから離れた教えを説き、信仰対象となった。
〔善悪を考える知恵〕
この世で善悪をよく考える人こそ聖者。善悪をわきまえて知るべきである。
「人によくしてやること、何も当てにしないで貸してやることはよいこと、母が己が独り子を命を賭けても
護るような慈しみを一切の生きとし生ける者に行える人は素晴らしい人である。怒り敵意や憎しみを抱いて
日々過ごしても、その人のためにはならない。つまらぬことがあっても、過ぎ去るものは虚妄として忘れ去
ってしまう。この世に打ちひしがれた人が、欲望から離れ、世のことから離れ、悩み苦しみから遠ざかる。
もしも、五欲の対象を享受しようと欲求が生じたら、誰もその人のために働いてくれる人がいるわけではな
いと心得て働くこと。」
866 :
神も仏も名無しさん:2009/05/31(日) 00:34:46 ID:cHXkv68X
見えざるもの、思考外、意識されずに行っている、良いことではないかと思っていることをよく考えて、世の中
で行わせようとした。見えざるもの、思考外、意識されずに良いことではないかと思っていることを行うことが
宗教であって、人の考えで生み出されたことは、この世だけで終わりとした。
868 :
神も仏も名無しさん:2009/06/03(水) 11:57:05 ID:i2vHXg3Z
死んだら救われるぞwww
869 :
神も仏も名無しさん:2009/06/03(水) 17:50:45 ID:43HCDtBk
生存本能を満たせる信仰対象物はない。
そこらへんを思考させることができるかどうかだな。
870 :
神も仏も名無しさん:2009/06/03(水) 21:16:00 ID:43HCDtBk
御利益を望める信仰対象物さえない。思慮の浅い人間を思慮ある者にさせ
救う。
871 :
神も仏も名無しさん:2009/06/03(水) 23:43:31 ID:/SLwlgCw
868は本当だぞ。 死んでみなよ 分かるから。
872 :
神も仏も名無しさん:2009/06/04(木) 05:57:00 ID:qTRxpDqJ
宗教にのめり込むのは不幸だから。
幸福なら宗教に頼らないでも生きていける。
幸福でよかった♪wwwwwwwwww
873 :
神も仏も名無しさん:2009/06/10(水) 12:10:18 ID:/EBv3abh
874 :
神も仏も名無しさん:2009/06/18(木) 13:51:59 ID:WO51YR+N
そろそろ科学者が教えを解明する時代とならないとな。
善悪
蛇 悪魔の征服者になるため世と世にあるものを厭い離れ静けさを目指した。真理の希求。
荒野での断食、わずかな食物で満足する。欲の無い人、人の手で造られたものを好まず、自然の中で楽しい、
よく晴れた朝は美しいといって常に満足している人々は、善悪というものから遠ざかってよい。
意識もあり、賢くなった人でも
持ち物を誇り、食べ飲むことを善いこととは思わない。
病気の時は、欲望から離れ安静にする。
快楽などに耽溺する人より、自然の中で楽しむ人のほうが健康的。
世の中に思い煩いのある人は、世の中から離れて苦悩をなくす。
「ああだろう、こうだろう」と思い煩うより、つまらぬことをいつまでも思っているより、過ぎ去るもの
は虚妄として忘れ去り、精神を安定統一している人のほうが、問題を解決していく。
教えは、そういったことの正当性を教えるもの。
875 :
神も仏も名無しさん:2009/06/18(木) 13:52:51 ID:WO51YR+N
善悪を考える人こそ聖者(この世の君、この世では)
一切の苦悩のない喜び。善い所では、全てがこの世の苦しみがないと考えてもわかるようにしてある完全な
存在。わからないから愚鈍・愚劣。
貧窮なる人々、食や衣服のない人々に分け与え、宿のない人に宿を貸し、そういったことを行っても、自分
は善人だと自任せず行う人は、偽善者でない。学び修めた賢明な人となれ。
あくせくしない。地のことにあくせくし、過労死はあるが、飢え、持ち物のない時代の人々は、少し得ただ
けで喜び、満足しない人々は、苦悩がある。
富に仕えない、自らの所得で満足する。相手になんらかを与えて、交友を結ぶ。働くこと。富だけに仕える
人々は、世に益をもたらさない。
多くの富があろうと、何人にも与えず、自ら使わないなら愚劣。
母が己が命を賭けても護るような慈しみは、この世で崇高。友のため自分の命を捨てること、これより大き
な愛はない。たとえば他人の子供が海で溺れていたら、自分の命のことを思わないで助ける人は、素晴らし
い人。
他人の過失やあやまちを責め立てる人々より、ゆるしながら自分に気をつける人々のほうが、平安と自由を
この世にもたらす。また、世の人々にも悩まない。
人間は身体以外の全ての苦悩を厭い、全ての苦悩を取り除こうとする霊の思いを内に持っており、そう
いったことのために、イエスとブッダは信仰対象となった。
科学もそろそろ認めて、この世の一切の生きとし生ける者が幸福であること、安穏であること、安楽な
暮らしはどうあるべきか研究すべきだろう。
876 :
神も仏も名無しさん:2009/06/18(木) 14:02:54 ID:VZt597q/
>>875 >善悪を考える人こそ聖者
旧約聖書では、神は、「人間が自然状態を離れ、神のようになり、善悪を知る
こと」を、「原罪」として禁止している。この旧約の禁止命令の内容が持つ物
凄い真理を理解する必要がある。
一神教徒は、この原罪を犯したが故に神の怒りにふれ、果てしない殺し合いと
争いを続けているのである。
877 :
神も仏も名無しさん:2009/06/19(金) 00:10:38 ID:KPskEBlr
この世にあって善悪の両者をよく考える人こそ聖者とよばれる・・・仏典
イエスは殺人を否定し、ブッダも殺人を否定した。宗教で殺人を善いとする盲信者でなく、有識者が科学的な
見方で教えを研究したほうがよい。
善悪を知る木は神のミスではない。神は情欲もなく、物欲や世の諸々の欲望もない、死もない平安の境地=神
の平安を最初の人に与えた。このような今の生存状態により神を知れるとすることが罪であり、肉欲は永久で
はなく、私たちと同じような神とするなら、神を罪に定めている。
善悪を知る者となり永久に生きるだろうか。情欲もあり、色あいや味わいといった五欲の対象もある人間が、
労して永久に生きるために、善悪を知れるように許可したのである。人類が労せず、自然だけを楽しみ生きる
なら、善悪を知る木を神はつくらなかった。
神の怒りは、盗みや殺人も善いことと思える人間、このような今の肉欲に満ちた人間状態が死後も永久に存在
し、神を知れる者と思ってしまうことであり、罪=肉欲もある人間、神の怒り=神の平安、地上の一切の悩み
や苦しみもないことを善いと思わず、あわれみなく、慈悲なく、怒り、憎しみ、敵意を抱き、物質的な喜びに
執着し、妬み、傲慢で、自分を他人より偉いと思いなし、快を貪り・・・完全とはならない人間でも仲保者・
中道の道を歩まず、恣に生きること、信仰を増そうとして教えを尊重せず、信仰対象として思い描ける偶像礼
拝により信仰ありと思ってしまうことなどである。
878 :
神も仏も名無しさん:2009/06/19(金) 08:07:47 ID:xeq8lEto
879 :
神も仏も名無しさん:2009/06/19(金) 13:54:16 ID:lwCon03d
おい!おまいら、聖☆お兄さんを読んでいるか。
ブッダもキリストも、フレンドリーだぜ。
神様は複数存在しても良いって発言しただけで敵意剥き出しにするキリスト信者を見て
これがキリスト様の最大の失敗なんだなぁ、と
881 :
神も仏も名無しさん:2009/06/21(日) 19:22:34 ID:Gj3vaPkv
家を捨て道を学ぶ人は、これらの四つの憂いに導く思慮を抑制せよ(仏典)
食べよう・どこで寝よう(仏典)食べよう、飲もう、何を着ようか(イエス)
かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである
(仏典)
五人は思慮深い者たちであった(イエス)
究極の理想に通じた人が〜他の識者の非難を受けるような下劣な行いをしない(仏典)
神への信仰があったために、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植
われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。」(イエス)
あなたがたは神への信仰はできません。信仰を増そうとする人は、教えを行いなさい。
「イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」「子供たちのパンを取って小犬に投げてや
るのは、よろしくない」(でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます)「あなたの信仰
は見あげたものである」(イエス)
律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、彼らにとっては自分自身が律法なの
である。
宗教のあり方とは、盲従ではなく、教えられぬとも自然にその人から出てくる的を得た正しい思慮で、伝統
的な宗教が正しいということではない。宗教的組織があるから、その宗教組織を滅ぼそうとして、かえって
反発のみに終わるようにせず、教えを聞けるようにしようとしたのがイエス。
882 :
神も仏も名無しさん:2009/06/21(日) 19:25:01 ID:Gj3vaPkv
呪文やくどくどと祈ることは、本当は何らかの意味や役に立つのか?
人が供え物をするのは、霊が食べたり喜んだりするのだろうか?
死体を葬ることは死人と言われ、死んだ人はもう人の手の届かぬものと教え、死後はもっと大切で、死者の供養
は、宗教として大事なことであるという教えが生じた場合、「そうではないだろう」という自然のままの思いは
護られるだろうか?
かの世の形、形あるものを崇拝させる。宗教的行為により功徳があると思わせる。その崇拝したものが永遠にあ
り、また宗教的行為により功徳があるのだろうか?
人の幸せのために仕えず、人が幸せだと思うことにも仕えない。また悩みや苦労をしている人を助けない。なの
に自分は偉い者として、人に言うことを聞かせ、かえって金銭などを要求する。そんな権威のある人間が存在す
るのだろうか?
おおよそ人々が、本当ではないだろうということは本当ではないと説き示し、宗教のあり方を現代の良識に
通じるものとしたのである。預言者として(普通なら)そのようになるであろうと。
世の中に苦悩のある人は、世の中の思い煩いから離れて暮らすしかない。自分を善人だと自任して、命が危ない
時に助けて下さる神はいない。働けないで衣食住に不自由している人を助ける。ないからといって悩まなくてよ
い。働くこと、誠実に働くから益がある。富に仕えることが益をもたらすわけではない。見たこと感じたことを
そのまま伝えると、相手を傷つける場合がある。非暴力。
呪文やいけにえ、宗教的行為による功徳などから人里離れた所で苦悩を取り除く修養をする。そして道を学
び、学び修めた賢明な人となる。仏教は良識を守らせる教えなのであり、死体を葬ることでもなく、くどく
どと多くのことばをやたらにつぶやくことでもなく、人の手で作られた信仰対象物を崇高なものとして崇拝
することでもない。自然のまま公にある良識を守らせる、しかし、自分によくしてくれる信仰などない。
883 :
神も仏も名無しさん:2009/06/21(日) 20:39:12 ID:aBTNuhIz
884 :
神も仏も名無しさん:2009/06/22(月) 19:59:15 ID:pibW4iiY
>>883 これは阿含経典にある教えであろう?
しかし、これは明らかに阿含経典のそのほかにある教えと、まるっきり正反対の教えである。
その正反対の教えとは、一切は空であり、いまだかって何かが生じたまたは何かが滅したと言うことはない、
と言う教えである。これに寄れば、過去の一時期に、地球が誕生したとか、その時に人が居たとか、言うことは
明らかに矛盾することは誰の目にも明らかではないか?一切が空であるという真理は、
それの論理的根拠が、また、明らかにされているのである。しかし一方、地球の誕生などと言う根拠は、
当該経典のどこにも明かされていないのである。しかも、先の一切は空の根拠とも矛盾することは、これまた、明らかであると
言わなければならないのだ。
こういう一時的な、真実への道のりの途中に、教えられる気休めの教えが、阿含経典にあるが故に、
阿含経典は、仮の教えであると、言われる元となったものと考えられる。
885 :
神も仏も名無しさん:2009/06/22(月) 22:59:47 ID:MqTY5hPk
つまり、阿含経典でさえも、鵜呑みに信じちゃいけない、ですよね。 鵜呑みは真理に向かう道程では無いのだから。
それが仏教でしょう。
目で見て触って、それが真理だと分かるのですから、伝聞では、真理はつかめないのですから。
経典は 参考情報に過ぎない。
しかし、
>地球ができたころは、人間は空中に浮いて、自ら光っており、太陽も月も星もなかった。
地球が、太陽も無く独立して存在していた、というのは凄い説ですなあ。 キリスト教の妄言と匹敵する。
最近、ローマ阿呆王でも、進化論を認めたというのに。 まあ、そういう突飛な妄言は、「集客」には必要だからなあ。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1210417061/ >一切は空であり、いまだかって何かが生じたまたは何かが滅したと言うことはない
「生滅はしている」のだが、そこに自性は無い、 というのが「空」の概念であろう。
886 :
神も仏も名無しさん:2009/06/22(月) 23:27:09 ID:jl4oVndI
数多くの面白い、人を悦ばせ満足させるだけでなく、人々に幸福と安楽をもたらす有難い物語を語るのであって、
この有難い物語によって、人々は現世において安楽となり・・・次第に仏の教えに専念するようになるのだ
(仏典)
人に説教をする場合は、相手を悦ばせ満足させるだけでなく、幸福感や心に安楽をもたらすような物語のよ
うなものも必要と考えた。説教だけで素直に聞ける人が全てでない。この世に苦悩を抱えて信仰に頼る人が、
その物語に熱中する、生活などの苦しみから逃れられたという人もいるし、この世以外の妄想を抱いて暮ら
すと、悪いことをあまりしなくなったという人もいるだろうし、それを本気にして他人に話すと、哀れな人
だと思われるだけだ。だから、これは物語であるという認識が必要なのだ。
887 :
神も仏も名無しさん:2009/06/22(月) 23:42:23 ID:MqTY5hPk
仏典て どこの仏典?
888 :
神も仏も名無しさん:2009/06/22(月) 23:54:29 ID:SHxeyQUg
>>876 不正解
原罪を犯したのはアダムとエバです
その後神は人間を救うためにイエスキリストを送りこみ
十字架に磔にして、人類の罪をなくさせる計画を成功させたのです
889 :
神も仏も名無しさん:2009/06/23(火) 08:25:34 ID:QgwReZT7
いえす うぃ きゃん
890 :
神も仏も名無しさん:2009/06/23(火) 18:54:59 ID:9aRMZ8wm
>>885 >>一切は空であり、いまだかって何かが生じたまたは何かが滅したと言うことはない
「生滅はしている」のだが、そこに自性は無い、 というのが「空」の概念であろう。
平安時代末期に流行。
『涅槃経(ねはんきょう)』の
「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」を表すと言われる。
色は匂へど 散りぬるを
香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。
諸行無常(しょぎょうむじょう)
我が世誰そ 常ならむ
この世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。
是生滅法(ぜしょうめっぽう)
有為の奥山 今日越えて
この無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて
生滅滅己(しょうめつめつい)
浅き夢見じ 酔ひもせず
悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境である。
寂滅為楽(じゃくめついらく)
891 :
神も仏も名無しさん:2009/06/23(火) 19:25:00 ID:9aRMZ8wm
>>890続き
>生滅滅己(しょうめつめつい)
どうして生滅滅己なのか、と言うと、諸行は縁起してるだけのもので、実体がない、からである。
この縁起の理法を理解しないならば、生滅滅己と言う理解に至らないであろう。
とすると、この涅槃経の格言は、大事な仏教を欠いているのではないだろうか?
892 :
神も仏も名無しさん:2009/06/23(火) 20:03:25 ID:9aRMZ8wm
893 :
神も仏も名無しさん:2009/06/23(火) 21:28:54 ID:cWWXJeUB
真理というのは、五感で感じ取ることはできず、普段意識もされない。第六の思考・意向の域を超越し、人々は
ある程度わかり、無意識に悪ではないとしているもの。
「今からは妻のある者はないもののように、泣くものは泣かないもののように、世と交渉のある者は、それに深
入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。わたしはあなたがたが、思い
煩わないようにしていてほしい。」(聖書)
過ぎ去るものは虚妄として、ああだろう、こうだろうと思い煩わない。このようなことは仏典にもあり、執着す
る拠り所から離れて、苦しみを滅する修養方法、五感と思考を抑制し、真理の希求として瞑想修行がある。
悩みのある人は、ひとり遠ざかって、静かに安らぎを楽しむなら、狂わしい悩みも和らぐ。たとえ貧しくとも、
自然の中で暮らしている人のほうが、世の中にある様々な悩みから遠ざかっている。
食べること飲むこと寝てばかりいること、私はあなたより素晴らしい持ち物を持っていると誇ること、目の欲を
満たすこと、情欲を抱いて女を見ること、それらを行っている人を見て下劣だと思う人々は多いが、優秀で素晴
らしい、或いは賢者だ、善人だという人々は少ない。
894 :
神も仏も名無しさん:2009/06/23(火) 21:30:00 ID:cWWXJeUB
飲食豊かなのに、目の前の人が飢えているのを放っておくのは卑劣である、与えて自分は善人だと人に言えば偽
善者と、他人から快く思われない。
人々が幸福を得ようとあくせく働き、過労により死ぬこと、そんな道理はない。未来の幸せのためにあくせく働
き、人が死んでも仕方がないと言うなら、その人を卑劣だと思わねばならない。
贅沢を希求し、地球温暖化などの環境破壊があれば、慎ましく暮らしている人のほうが、害は少ない。
科学でも、根底には人々の幸福や安穏な暮らしや安楽な暮らしを害うように努めることを多くの人々が認めるこ
とはなく、人々の幸福や安穏な暮らしや安楽な暮らしに役立つなら、奨励される場合が多い。
母が己が独り子を命を賭けても護るように、たとえば海で溺れた他人の子を命を賭けて救おうとする人は素晴ら
しい、人によくしてやること、何も当てにしないで貸してやることは善いことではないかと感じる人。
幸せを求めながら、敵意や憎しみ、怨みを抱いて争うなら、かえって幸せから遠ざかる。
誠実に人に仕え、何ものかを与えて交友を結び、この世に益をもたらす。
肉欲を慎んで、安らぎにより人は癒され、平安により幸せを得る。
宗教は迷える人を自然な立場で調教するのが本当で、異様なことをさせてはならない。
識者は世の人々の下劣な行いを正す。
ほんとの仏教はそんな
センチメンタル・ジャーニーじゃないよ。
わかるかな・・?
896 :
神も仏も名無しさん:2009/06/23(火) 22:37:51 ID:1LPMXaFj
>人類の罪をなくさせる計画を成功させたのです
んじゃもう オレらに罪は無いな。ありがとうなイエスさん。 ちなみに仏教は そんな嘘の恩は着せない。
897 :
神も仏も名無しさん:2009/06/24(水) 08:06:33 ID:MfixYHqq
天上天下唯我独尊
私以外の人間はクズなのだ。
私を敬いたまえ。
お前等わかったか?
898 :
神も仏も名無しさん:2009/06/24(水) 10:21:17 ID:AqwE6Rxm
天上天下唯我独尊
とは、自らを尊ぶ勧めなので 他を尊ばない金正日症状とは異なりますよ。
ハハハ 金生日症候群だねw
↑正
901 :
神も仏も名無しさん:2009/06/25(木) 22:14:56 ID:Urdq8t9+
イエスさんも、釈迦さんも、ただ自分を尊敬させたかっただけWWW
信者は馬鹿だから、その詐欺師の教えに魅惑され、自尊心を育てられただけ。
世の中では何にも役に立たない信者が自尊心だけで生き、教えを学んでいる、
信じているボクチン(=信者)と違うことを言う教祖と争うところを見ると、
宗教をやってる奴とは結婚しないほうがいい。
世の中には可哀想な奴もいる・・
903 :
神も仏も名無しさん:2009/06/25(木) 23:59:01 ID:4sAEU0pr
899-900 ハズレ。 「自らを尊ぶ」というのは、誰かに従わない、ということ。 だから、仏教は自分に従う。
キリスト教とは真逆ですねえ。
904 :
神も仏も名無しさん:2009/06/26(金) 22:43:48 ID:i8LjPkc6
905 :
神も仏も名無しさん:2009/06/27(土) 08:41:44 ID:LVOLrwEv
フリーセックスの新興宗教を教えてください。
ヌーディズムの新興宗教も教えてください。
教祖になりたいと思います。
906 :
神も仏も名無しさん:2009/06/27(土) 12:10:23 ID:2zXspzkA
どういう教えを広めたいのかまず開示してください。
907 :
思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/06/28(日) 11:41:51 ID:gDH6QWJh
絶対的な境地を知っているのは私しかいない。
言語ある霊(神)の言葉を聞いたのは私しかいない。
何ものかを信じる者は、今だ迷っている人類に呆れ、死も無い境地を知った唯一人の者は、論争の愚かさをよ
く知っている。
愚鈍・愚劣な者どもの中では、唯私一人しか教えられる者はいない。しかし、思慮のある人々は、わかるで
あろう。
これだという絶対的境地を知った人は、愚かにも迷い論じ合っている人々や、別の宗教形式を正しいと思い
込んでいる人々に対し、その反発で私しかいないと強く思うのである。
思慮のある人々に対しては、反発することも何も無い。しかし、思慮の無い人々に対しては、不死にも天に
も見捨てられているように、私もそのようにするのである。
次スレ イエスとブッダの共通点 善悪
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1246156633/
908 :
神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 05:40:03 ID:K9VRo9zW
我こそが神である
909 :
神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 08:35:41 ID:jnSmHgei
イエスと仏陀の説く真理真実とは?
天国も、極楽浄土も、自らの心の内にある。
それを詳しく解説しているのだ。
だがなかなか、最初の一歩が理解できないで居る。
910 :
神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 09:08:59 ID:JfVh5rsg
911 :
神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 09:43:16 ID:K9VRo9zW
我こそが神である
敬い従い給え
寄進したまえ
君の愚かさを救ってしんぜよう
912 :
神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 09:54:16 ID:JfVh5rsg
と言う奴に従うな
913 :
神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 14:59:27 ID:8iUJX/Wa
真理は心の内面に存在する。
真理を解くものは、内面の天国をとくものである。
天上に天国があると受け取るのは、心の外を見ているからである。
自らの心の内面において、神はただ一人である。
心の外面において、神は無数に存在する。
その違いを理解せねば、心理は人間にとって無用の長物である。
914 :
神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 15:01:47 ID:d5X6H9cT
小林正観さんの前世って シャカの弟子らしいよ
915 :
神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 17:37:29 ID:K9VRo9zW
>>912に天誅を
神を冒涜する愚かな民よ
覚悟しておけ
916 :
神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 19:22:50 ID:bHdHGOfg
>>910 イエスと言うのは大乗仏教の菩薩の行いである。
917 :
神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 19:34:05 ID:bHdHGOfg
神=万物の創造者を思うとは、仏教の一切は縁起であり、故に一切は空相であるということを思うのと同じである。
一切の被造物に囚われないと言うことと、一切は空相であるから、一切に囚われないというという事と同じである。
918 :
思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/06/29(月) 21:08:29 ID:uO6Npjn9
神への信仰は非常に困難である。
―肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである―(ヨハネの第一の手紙)
―わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去っていく。ただ衣食
があれば、それで足れりとすべきである―(テモテ・・)
言葉を語る霊も存在し、働き・調理し、自分の気に入ったものを食べる。人の手で造られたものを欲しがり、
或いはそれらに執着心がある。現代の物質的な喜びや、生活のこころづかいさえ否定されるので、言われる
がままにしようとすると、私はもう部屋の中で静かにしていることしかできなくなってしまうのである。
TV番組や音楽を聴くことでさえ、「私の敵だ」と言われるので、何も楽しみがなくなってしまう。仕事のこ
とでパソコンを使うことでさえ否定される。
―足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、
高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない―(ブッダのことば)
釈尊も人間の肉欲を離れた世界を知り、― 一切皆苦 ―を悟り、修行僧に、離欲を達成することを説いた。
言語ある霊(神)も同様、世と世にあるものとを愛さず、五感や第六の思考を静め、部屋の中で静かにする
ことを求めてくる。
919 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/06/29(月) 21:09:01 ID:6rT6wc+7
>917
(^。^)バカかね、君は。(笑)
920 :
思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/06/29(月) 21:09:56 ID:uO6Npjn9
天の存在は、地のものから離れ幸せを得ている、むしろそれら地のものを忌み嫌い、世の中に対する理想も無く、
人々のこの世の幸福を思う気持ちも否定され、どのような環境でも気がかりは無い。
信じて「私のことをよくしてくれるだろう」と思っているなら、大間違いであり、人間が思うこととはむしろ逆
で、家があれば部屋の中で、欲楽などから離れ静かにする。
言うことの聞けない地の者に対し
「地の者は愛」
神は人間思いの愛情深い方とは違い、釈尊のように、地の諸々の喜びから離れ、静かに安らいでいることを尊重
され、天(絶対的な境地)からすればそのようなことが神の愛だとわかるが、言うことを聞けない人を見捨てな
さる。しかし、地のことを捨てきれない私に対して、「地の者は愛」(を大切)にしなさいと言葉を語られた。
神は天の存在で、天のことを愛される。そして、その愛によりこの世で天のように、地上の諸々の欲望や生活の
思い煩い、世のこころづかいを捨て、静かに安らいでいることを命じられる。
そして人は地のことが捨てきれないために神に背く。地の者でも、隣人のことを思わず、自分勝手で、冷酷・無
慈悲なら、それは人間の幸せではないと説かれる。
地の者は、自分の妻や子、父母、友などに執着心あり、自分の欲望のために裏切ったりしないことが大切で、天
は天で別格として、地は地でたとい困難なことがあっても、良識を失わないように生きることが人間として大切
だということ。
921 :
神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 13:45:06 ID:YRyyLjp1
イラネ違法基地外電気屋がこんなところにも居た
922 :
神も仏も名無しさん:2009/07/01(水) 07:48:58 ID:QCDUcxxw
>>921 自分の馬鹿な放言が処罰を請けないと思っているのか?
923 :
神も仏も名無しさん:2009/07/01(水) 22:34:23 ID:avY+v2Ru
聖☆おにいさんage
924 :
神も仏も名無しさん:2009/07/02(木) 01:18:08 ID:Vf8lC0rb
925 :
神も仏も名無しさん:2009/07/02(木) 06:09:57 ID:RCR4/Or0
誠実を尽くさない行為は、処罰されるのだ。誠実を尽くす行為とは
殺さないこと、嘘を吐かないこと、盗まないこと、邪淫しない事、これらを四重禁
と仏教では言う。これと同じ内容の教えをイエスも説いている。それはイエスのどの教えか、
誰か言えるか?
926 :
神も仏も名無しさん:2009/07/02(木) 09:02:54 ID:fxZPaDiT
邪淫た゜けしてしまいました。お許しくだされ
927 :
神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 19:11:47 ID:KmG3Wq+O
>>926 邪淫ってどんなことをしたと言うのでしょうか?
928 :
思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/04(土) 00:25:09 ID:ikbHNvXN
神の怒り
神をして、物質的な幸福などを教える人々。まるで釈尊が離欲を達成せよと修行者に教えるように、イエ
スが貧しい人々に語ったように、しかし、愛より物質的な幸福から離れよと語る。
―妻のある者はないもののように、泣くものは泣かないもののように、世と交渉のある者は、それに深入
りしないようにすべきである―肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出た
ものである―ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである―
世の多くの人々は、神に対して、からし種一粒ほどの信仰が持てないだろう
神の処罰
地上のものに引かれる全ての人々は、もう神の「左」「下界」。我々文明的な暮らしをしている者は、神
の左として既に処罰されている。この下界で、「土に帰り」地の者として生き続ける。
神からすれば、誰が偉いとか、まともだとか、悪いということはない。地上のものに心引かれる全ての人
々が悪魔の子=罪人なのである。罪人は、既に裁かれている。
多くの人々は神に愛されない者であるから、イエスは教え、釈尊は修行者と在俗信者に法を説いた。誰も行
いにより神に義とされることはない。神に代わって、この世を愛する法も説いた。
929 :
神も仏も名無しさん:2009/07/04(土) 21:00:04 ID:7DHDDPFF
要するにここは幸福の科学信者のスレだったのか
納得した
930 :
思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/04(土) 23:28:27 ID:ikbHNvXN
幸福の科学のことは知らないが、神は人格的に存在し言葉を語る。語られた言葉に変化はない。
―地上のものに心引かれるな―世と交渉のある者は深入りするな―人の手で造られたものを欲しがり、今あ
る物に対しての執着、享楽、快楽、五欲の対象を喜ぶこと、生活のこころづかいや世のこころづかい、人が
普通に行っている全てを否定されるのである。
神の怒りは神をして、物質的な世の幸福などを教える人々に変化は全くない。
宗教が人間教として、一切の悩み苦しみを取り除く神の国(天)、平安の境地を利用してつくられても、別
に人間のことだからかまわない。
たとえば、敵意や憎しみを抱いて争わないように平和を愛する、互いの悩み苦しみを取り除こうとする慈し
みやあわれみ、あくせくした生活から離れるように、信仰対象物を拝むこと。
しかし、神にとっては世との交渉に深入りせず、物欲や享楽・五欲の対象から離れ、生活のこころづかいや、
世の思い煩いから離れ、土に帰らないことがその人にとって重要なことだと言われるのだ。
世の多くの人々、死んで土に帰る人々は、神は愛さない。愛されないから信じても無駄として信じない。
信じたらそうなってはいけない、世のことに深入りせず、肉欲から離れ、土に帰らない者となりなさいと言
われるのだ。
931 :
神も仏も名無しさん:2009/07/08(水) 01:16:32 ID:urT43kaS
植草先生こんばんは。
貴ブログ拝見しました。
色々言ってくれちゃってますが、盗人猛々しいとは貴方のことです。
厚顔無恥にも程がありますよ。
932 :
思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2009/07/08(水) 23:18:14 ID:GmF8gR9C
このことは書物から得たのではなく、実際に神の言葉を聞いたから言う。
―わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去っていく。ただ
衣食があれば、それで足れりとすべきである―(テモテ)
―肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである―(ヨハネ)
出家修行僧のように無所有で森の中で暮らせと言われなかったが、世にある様々な欲、物質的なものへ
のこだわりを捨て去るように言われ、土に帰らない者となれと。
慈悲とかあわれみは、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りやこだわりを捨て去るよう努める人々に言うので
あって、世の欲を捨て去ることを差し引くな。人間的な幸せを求める人々に、永遠はないと言われる。
愛や寛容は肯定されるが、衣食があれば足れりとするような暮らし、肉の欲、目の欲などの人間の欲を
捨て去ろうとしないと、ただ土に帰る者となると。
人間の欲を捨て去ろうとしない者に、神への信仰はない。慈悲やあわれみ、愛をよいと思うだけでは、
神への信仰ではなく、人間の信仰で土に帰ると。
人を先生にしている人は、衣食があれば足りよ、永遠の命のため世にある人間の欲を捨て去れとは言わな
いだろうな。現代の物質文明の中で暮らしている先生は、それと正反対のことは言わないだろうな。
933 :
神も仏も名無しさん:2009/07/09(木) 11:16:05 ID:5XUOm9Q8
愛するバモイドオキ神様へ
今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。
[…]公園で、一人で遊んでいた女の子に「手を洗う場所はありませんか」と話しかけ、
「学校にならありますよ」と答えたので案内してもらうことになりました。
ぼくは用意していた金槌かナイフかどちらで実験するか迷いました。
最終的には金槌でやることを決め、ナイフはこの次に試そうと思ったのです。
ぼくは「お礼を言いたいのでこっちを向いてください」と言いました。
女の子がこちらを向いた瞬間金づちを振り下ろしました。
[…]また女の子が歩いていました。
女の子の後ろに自転車を止め、公園を抜けて先回りし、通りすがりに今度はナイフで刺しました。
934 :
思慮 ◆AIOdk12HhuOj :
神の正義や善は、世のこころづかいや生活のこころづかい、肉の欲やその他人間の欲を捨て去り、土に帰ら
ない人となることで、言語があっても人の悪を止めさせることをなさらない。
世の中で善い者も悪い者もそのままにしておかれる。人は善悪のはからいを求めても無駄なのである。
もちろん、土に帰らない人々は、世の人々に無慈悲で冷酷、残忍な行いをしない人々である。
もし、人が(悪い世の中だ、なんとかしないといけない)と思ったとしても、「世のことから離れて、欲を
捨て去り、静かに暮らして土に帰らない人となれ、地の者となるな」と言われるだけで、地で生き続ける者
とならず、天に入れる者となれと言われるだけである。
そして地の者は、何も信じず自分自身や世のことに熱心である。土に帰ることを自然に認め、人が死ねば、
『もうその人と二度と会えないのだ』といって悲しむ。そして神のとおり、二度と会えない者となる。
自分に危害を加える者、親族や愛する者に危害を加える者に敵意や憎しみを抱き、『目には目を、歯には歯
を』といって、それに近い法律などをつくる。
右か左か、天に忠実か肉か、神は中途半端に生きることを嫌い、信じた者に罪意識を持たせ、人間教として、
この世の人々に、この世の善を教えるしかなかった。それがイエスの真実だろう。
神にとっては、地で生き続ける人々は、ただの苦難しかないのである。だから地の者・人間は、人間がしっ
かりしないと、生き辛くなるのである。