1 :
宗教の存在意義とは何? :
2008/05/17(土) 19:45:40 ID:pQHuoyIy ―あなたは善悪の両者に汚されません。雄々しき人よ―(スッタニパータ) ―へびは女に言った・・・神のように善悪を知る者となることを―(創世記) ―世間は妄執によって導かれる・・・妄執という一つのものに、一切のものが従属した― (サンユッタニカーヤT) ―全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている―(ヨハネの第一の手紙) ―平安の境地に達してなすべきことは・・・上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき 慈しみを行うべし―(スッタニパータ) ―いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである・・・あなたがたも慈悲深 い者となれ―(ルカによる福音書) ―或るものを、ああだろう、こうだろうと、と考えても・・・その考えは虚妄なのである。過ぎ 去るものは虚妄なるものであるから―(スッタニパータ) ―この世の有様は過ぎ去るからである。わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしていてほ しい―(コリント人への手紙) ―聡明な人、清らかな行いを修めた人、世界の終局に至る人となるであろう―(サンユッタニカ ーヤT) ―天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない―(マルコによる福音書) 世の中での生活活動の他に宗教がある。宗教が存在する意義とは何だろうか?
イエスも仏陀も2GETはしない。
3 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 22:29:46 ID:SfqSYN3p
>真実は空相無相であるので、それなら悪も無く善も無いのである。 いえいえ 空相に至ってそこから善悪を判断するのだよ。善悪の判断できないようでは仏教徒ではない。 それ以前に 人間でも無い。ただの棒だ。 >先日の中国の地震にしても、始から中国と言う国土も存在せづ、中国人も存在していないのが真実なのである。 それはそうだが 人が、瓦礫に圧縮される時の爆痛は確実に存在していると言わなければならない。 どれだけ、一相無相空相無我だとか、言おうとも。 イエスとブッダは水と油である。 仏教には信仰などは無く、キリスト教には盲信などがある。 共通点などなんにでもある。 松本智津夫とオレと池田の共通点は、メロンが大好物だ、ということである。
4 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 22:35:50 ID:SfqSYN3p
イエスとブッダの共通点?? そんなの吐いて捨てるほどある。 オウムとの共通点も同様に。
30過ぎてもニートというのが一番の共通点 片やロイヤルニート片や物乞いというちがいはあるが。
6 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 23:46:24 ID:45f1yq+b
松本智津夫さんとブッダの共通点は イエスとブッダの共通点です。 だからおまえら dameなんだ。
7 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 23:49:10 ID:4MQsqr4X
罪の奴隷にならず、神の奴隷になり正しい事を行いなさい。 なかなかの名言だな。
8 :
神も仏も名無しさん :2008/05/17(土) 23:50:14 ID:+Or4ySk6
でいむ
9 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 01:04:44 ID:wteDByhO
1.神は人が考え出せるような存在ではない。偶像に描けない存在である。 そこに公平性がある。他人が考えたことに盲従しなくてよいから。 2.人間の五感・思考(6つ)・感情などは永久ではない。 3.自然は人間がつくったものではなく、人間に必要な物は人間の思考に よって生み出された。 4.世の中には生存に必要最低限のものがあればよいのに、人には好みが ある。その好みを満たすために、提供する側も享受する側も自分は正 しい人であると自任することは正解ではない。 人々が好みを満たす行為において、過ちをゆるさないのは誤りである。 世の中では正しくない人、自分を謙遜するような人こそ正しい道理に 従っている。「互いに好みを満たそうとする愚かな者。少々の過ちぐ らいゆるしてやれ。」と。
10 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 01:05:19 ID:wteDByhO
5.自分の考え、意向に従わせるより、相手の意向、考えに従ってあげら れるような人々が増したほうが、互いに好ましい。 人によくしてやることは、人々から利益を貪ろうと考えている人より 善い人だと思っているから、人の幸福を害おうとする人より、人に幸 福を与える人が増したほうが、幸せが得られることが多くなる。 6.悩んで生きるより、悩まず生きたほうがよい。他人の悪を見ては怒り 苦しむよりも、世の中の人は正しい人ばかりとは限らないと、自分の 思いを他人に押し付けない。物欲、五感を満たそうとして悩むなら愚 かなことである。 7.人は世の中を五感にたより、思考にたより、自分の意向どおりに生き ようとして道から外れる。欲の無い世界を思い、自分の思考を静めて、 人々が無意識に行っている世の中を良い方向に向かわせていること、 世の秩序を学ぶ。そのために宗教はある。
11 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 10:17:07 ID:twb4gwPH
>>4 慈悲を説き、殺人をゆるさなかった。
>>3 美味を貪らなかった。
>>5 信者より豊かな生活をしない。労働者から金を得て、本人は労働者と
同じような暮らしをする存在じゃない。
12 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 11:16:29 ID:0Tx0dS6l
仏教の「われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きていこう。光輝く神々のように、喜び食む者となろう。」 「悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は天に生まれるであろう。しかし他の人々はこの世 で道を修して、汚れを去り、安らいに入るであろう。」 仏教には、@五欲の対象の享受をやめて、思考も静め、安らいに安住するなら形成されない安らいに入る A所有物や食べようなど物質的な欲望にとらわれず、善い行いをした人は天におもむく B俗人でも正しい見解を得て生活するなら、何度生まれても地獄に行くことはない その三つの生き方が説かれている。 安らぎに安住できたら、そのまま安らぎに入る 人間の欲望にとらわれず、善い行いをしたら、善いところに入る 人間の欲望があるなら、悪いことをしない。業はその人に影のようにつき従う やっていることがそのまま反映されるから、仏教は完全なのです。
13 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 11:35:39 ID:aO77Qa07
>罪の奴隷にならず、神の奴隷になり正しい事を行いなさい。 へええ 仏教とは違うね。
14 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 13:12:48 ID:Q5kQPRT6
一緒だよ。名称と形態に執着してはいけない。
15 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 14:16:41 ID:9Pbfy/gx
仏教は 他人に従属しない・自らを頼りとする 信者が他人に貪られるような教えを一切廃し、他人の労働により妻子を養わない、 物を得ない、わずかな食物で満足するという法を示し、誰もその人のために働く 人はいないと認識させ、衣食は正しく得ることを説いた。 誰も公平・平等という思いが永遠に続く。 呪文を唱えない・供え物はしない・名称と形態(形あるもの)を信仰対象としない 呪文のようなものを唱えるな道理を学べ。供え物は人が食べるもの。 名称や形態のあるものを信仰対象としても永遠ではない。 また、宗教的行為によって功徳はあり得ない。 飲食物をわかち与えよ 食乞う者などに飲食物をわかち与えたりするあわれみの心が永遠と説く。 快楽を貪らず自然の中で安らぎ、慈悲・あわれみ・寛容といった、その人 の内にある善い思いが永遠であると説いた宗教。 他人など何かを頼れるのではなく、修養して自分の内にあるもののみが頼 れるという宗教。 欲望はこの世でしかなく、人々の行いで築き上げるというのも仏教道理。 行いの悪い人は、その行いが来世に反映されるから、行いを正せという教え。 自ら貧しく、他人から貪らず、苦悩の無い人となった仏陀。苦悩を生み出すのも その人の心の内にある。
16 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 20:30:12 ID:SOmM6a9X
15 正解。 仏教とキリスト教は正反対だ。名称や形態ではなくその本質を見よう。
17 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 21:23:03 ID:CMPm3jOE
文化的差異だと思うが。しればしるほどよく似てる。
18 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 21:52:27 ID:lY2Ajsqp
しればしるほど まったく似ていない。
ぜひイスラム教のマホメットも加えて論議してほしいと思います。
20 :
神も仏も名無しさん :2008/05/18(日) 23:30:22 ID:N+HJHdMU
イスラム教とキリスト教は似てるね。 盲信状態。
21 :
神も仏も名無しさん :2008/05/19(月) 00:26:13 ID:VnhKBWt1
神々を信じていた人々に対してだろうか?
神々曰く「ブッダに帰依した人々は、すべて、悪しき境地におもむくことはない。
かれらは、人間の身体を捨てたあとでは、神の身体を満たすであろう。」
>>18 仏教には唯一思想があるのは確か。その唯一の存在に至るまでは、世の中を離れる
ように、身体から出るあらゆるものを制しなければならないようだ。
キリストの罪のゆるし、仏教の愚人(凡夫)の輪廻転生思想がないと、罪の自覚が
生じる、ただ失望するのみとなる。
22 :
神も仏も名無しさん :2008/05/19(月) 21:01:47 ID:1bqXGEIi
唯一思想、これが空諦なのだよ。これが仏教。 キリスト教の、神と言うのも、創造者はそれ以外に誰もいない。 この意味で、唯一と言われているものと解さなければならない。 キリスト教では、であるから、神の像を創ってはならない、と教えている。 唯一なものは、空諦、一相、無相、無我なものでなければならないから、いかなる像 にしてはならないわけだよ。
23 :
神も仏も名無しさん :2008/05/19(月) 22:10:06 ID:V4A5a+TB
唯一なものは唯一に決まっているだろう。それが空だと? 説明が飛躍しすぎだよおまえ。 >かれらは、人間の身体を捨てたあとでは、神の身体を満たすであろう。」 という言葉があるのか。 そんなの、人が土に帰ることだろう。土は神の一部だから、 神の身体を満たす、 とか言い方かっこつけるから分かりにくいんだよ。
24 :
神も仏も名無しさん :2008/05/19(月) 22:32:00 ID:1bqXGEIi
25 :
肉欲を正しいと認めない :2008/05/19(月) 23:44:04 ID:/a9BoLRG
神と永遠は人間の思考外・肉欲とも反する ― 一切の戒律や誓いをも捨て、世間の罪過あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て、 「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわ れず行え―安らぎに固執することもなく。 ―このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば― ―もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である― ―他人の過失を探し求め、つねに他人を見下して思う人は・・・かれは実に真理を見ること から遠く隔たっている―(スッタニパータ・真理のことば・感興のことば) ―自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して・・・「神よ、わたしはほか の人たちのような貪欲な者・・・「神様、罪人のわたしをおゆるしください」 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう― (イエス) 環境や自分の持ち物にとらわれず、むしろ自分を愚かな者と低くしている人は、神 と永遠に近づいている。人はこの世で肉欲を全て滅ぼすことはできないが、それを 愚かなことと認める行いによって神と永遠に近づいていくのだろう。 自分を他人より清浄な行いをしていると認めるよりも、自分は清浄なことができな い愚か者と認める人のほうが、自分に対する欲望を捨て去っている。 しかし、肉欲を正しいことのように行っている人は、やはり肉である。
26 :
神も仏も名無しさん :2008/05/20(火) 08:48:45 ID:3W8rBAvO
永遠とはあらゆるものの消滅である。
永遠または無限の時間、永遠または無限の空間、これ等の意味は、
時間の消滅であり、空間の消滅である。
>>23 >唯一なものは唯一に決まっているだろう。それが空だと?
唯一とは、唯一つのものがあるのであって、それ以外のものがない、と言う意味だろう?
つまり絶対的存在であり、相対的存在ではないと言う意味なのだ。
相対的存在とは、縁起関係にある存在であり、片方が消滅するなら、自己の存在を維持し得ない存在なのだ。
他方に依存している存在を相対的存在と言うのである。絶対的存在とは、
他方を必要としないで、自己のみで存在できるものを言うのである。
であるから、相対的存在は必ず対を成すものであり、それは二つのものと一応数えるのである。
このような相対的存在を「唯一の存在」とは言えないのである。
然るに、唯一の神というのは、唯一の存在を神と名称しているだけであって、名称に意味があるのではないのである。
そこで、唯一の意味は、絶対的存在と言う意味であるから、相対的存在を排斥した存在である。
相対的存在は実在しないものであるから、その二つのものがあると見えるところには、真実なものとして
一つのものが有るのである、と見なければならない。二つのものが有るとは「変化」を言う。
真実は変化しているのではなく、変化していないのである。変化していないものが真実として存在しているのである。
この変化していないものを、唯一の存在と言うのである。
変化しているなら有相とわなければならないが、変化のないので無相と言う。又、立体的に言うと、それは空相と言わなければならない。
相対的存在の特徴である二つのものがないのであるから、一相と言わなければならない。
これらの総意として、唯一とも言えるのである。
27 :
神も仏も名無しさん :2008/05/20(火) 12:02:34 ID:K/5zbFwA
>絶対的存在とは、他方を必要としないで、自己のみで存在できるものを言うのである。 それはそうだが >かれらは、人間の身体を捨てたあとでは、神の身体を満たすであろう。」 という言葉があるのか。 そんなの、人が土に帰ることだろう。土は神の一部だから、 神の身体を満たす、 とか言い方かっこつけるから分かりにくいんだよ。 土も鼻糞も神なんだよ。 どっちにしろ 中国地震で下敷きになれば、痛いんだよ。その痛みも空かよ。冗談も程々にしろ。
28 :
神も仏も名無しさん :2008/05/20(火) 20:01:41 ID:3W8rBAvO
><27 インドや日本の神々は、真理真実として空相無相一相を説かないのだよ。 この真実を説かないものは、実の実在者ではない、というのが釈尊の見識なのだよ。 ところが、釈尊はその真実を説いたのであるから、その真実を体得したものが 最高の実在者であると言うべきであるから、真実を体得したもの即ち仏陀と称しただけなのだ。 しかし同じ神と言う名称を持つユダヤの神だけは、真理真実に対するアプローチは相違するが、 ブッダに相当するのだよ。その同位性をこのスレは論じているのでもあるけどね。 貴方も人が死ねば土に帰すると言うところを見ると、ユダヤの神の教えを知っているのだ。 しかし、ユダヤの神はイエスにより、完成されているのだ。つまり神はイエスにより最もよく知ることが出来ると言うわけなのだ。 >中国地震で下敷きになれば、痛いんだよ。その痛みも空かよ。冗談も程々にしろ。 イエスの奇跡と言われているもの、水上を歩いたとか、僅かの食物をたくさんのものに増やしたとか、 これらに相当する奇跡は、仏教でも説かれている。水上を歩く事ができるとか、空中に留まるとか、 壁を通り抜けるとか。 イエスは、シロアムの塔が地震で崩壊した時、たくさんの人が死んだ事を聞き、 そのとき、あなた方も真実である神に対する罪、即ち神である真実を認め真実に従った行動をしないなら、 シロアムの塔が崩壊して死んだ人と同じになるであろうとおしえた。 と言うことは、真実を認めそれに従った行動をしているなら、シロアムの塔が崩壊して 自分の頭上に岩石が降ってきたとしても、先に挙げた奇跡と同じ奇跡により、害を受けないのである、と言うことなのだ。
29 :
神も仏も名無しさん :2008/05/20(火) 21:34:54 ID:+bsawMdF
>>28 1.奇跡が起こせるような人間になれと?
2.全員キリスト教徒になれと?
3.働いて災害に強い都市をつくれと?
4.空相無相一相を説けと?空想無相一相って何?縁起とは何?
5.神が災害を起こす?神とは4のこと?
30 :
神も仏も名無しさん :2008/05/20(火) 21:58:14 ID:nbAv9YzF
神=人間の思いが一切無い 地震も無い、何も無い 宗教=裁くためではなく救うため そこに一切の苦しみも無い 互いに苦しみを取り除け 愛・慈悲・あわれみ
31 :
神も仏も名無しさん :2008/05/20(火) 22:01:56 ID:3W8rBAvO
真実があたりまえなのである。邪悪なものには奇跡と思えるだけなのだ。 キリスト教徒とかイスラム教徒とか仏教徒とかの名称に執着してはならない。 真実を知り、真実に従うものとならなければならないのである。 災害とは邪悪なものの思うことである。
32 :
神も仏も名無しさん :2008/05/20(火) 22:57:06 ID:de+0fo7R
神はあらゆるものの消滅であり苦悩の消滅であり、人の思いの消滅であり、汚れも一切無い神聖である。 そのことはイエスもブッダもわかっていた。 苦しみの消滅のための瞑想、人の知れないところでの断食。 明日のことを思いわずらうな、あくせくするな、他人の悪を見るな、苦悩の無いところから罪が生まれ、 人の思いが生じた。 人の苦悩を取り除く具体的な教えが肝心だとして教えを説いた。 イエスも主よ主よと言ったとしても、ブッダも空と言ったとしても、瞑想しないと苦しみは消滅でき ないと知り、行動するなら苦しみを生み出さない教えを説いた。 そのことにイエスとブッダの価値がある。
33 :
神も仏も名無しさん :2008/05/21(水) 00:31:39 ID:CkUEa+++
>>31 いささか厳しいことを言ったが、このようなものであることを知ろう。
34 :
神も仏も名無しさん :2008/05/21(水) 18:54:47 ID:KLwwrYvR
教えがあるから宗教的価値がある。当たり前のこと。
35 :
神も仏も名無しさん :2008/05/21(水) 20:21:57 ID:WJ01ovfQ
>自分の頭上に岩石が降ってきたとしても、先に挙げた奇跡と同じ奇跡により、害を受けないのである、と言うことなのだ。 ああそうですか。まあ水上を歩いたり国道を無傷で渡ったり。 見たら信用するけど 無理だろ?
36 :
神も仏も名無しさん :2008/05/21(水) 21:28:14 ID:CkUEa+++
>>35 食物を食べる時に、自分には胃袋があるから、その他の肉体があるから、それらに栄養を補給しなければならないから、と思いながら、
食べてみる事をしてみたら良い。それを一日でもやってほしいものだ。
そして今あなたが胃が健全でないなら、反対に、上の思い、即ち、自分には胃袋などないし、その他の肉体もないし、
それらに栄養を補給する必要もないと思い、その気持ちで食べてみて欲しい。
胃に変化があるかないか報告を待つ。
37 :
神も仏も名無しさん :2008/05/22(木) 00:06:29 ID:AolJjZyu
いやいや いいから水上を歩いたり国道を無傷で渡ったり。してみせてよ わかりやすく説明して欲しいのさ。 ジェット機や新幹線からの飛び降りでもいいよ。 気持ちの問題じゃなくて。だって空なんだろ??
38 :
神も仏も名無しさん :2008/05/22(木) 06:26:07 ID:L87mvkkJ
>>37 真実が空相無相一相無我であると言う教えを否定するのか?
39 :
神も仏も名無しさん :2008/05/22(木) 20:04:54 ID:abNWZUe/
やるのかやらないのか
40 :
神も仏も名無しさん :2008/05/22(木) 20:57:20 ID:L87mvkkJ
完了しました。全然大丈夫。
41 :
神も仏も名無しさん :2008/05/22(木) 21:50:34 ID:3HYeexmP
なにが
42 :
神も仏も名無しさん :2008/05/24(土) 10:59:54 ID:1zebIt0d
おいおい ジェット機や新幹線からの飛び降りは? まだ? 山手線でもいいよ。
43 :
神も仏も名無しさん :2008/05/24(土) 18:37:03 ID:ayeiNjUJ
イエスは神は真実であるとか真理であるとか言う外に、神は霊であるとも言う。 真実が無相一相空相無が「無生命」であることは、誰もが認めなければならない事実である。 それなら、イエスの言う「霊」をどのように説明されるべきであろうか?
44 :
神も仏も名無しさん :2008/05/24(土) 21:16:27 ID:ayeiNjUJ
目には見えないものであるが、あるもの、実在するもの、と言う意味ではないかな?
45 :
神も仏も名無しさん :2008/05/24(土) 22:55:00 ID:qmeLlVWQ
>>43 「空」などという思考の遊戯に堕している日本坊主には、最高の問題提起ですね。
知能の低い日本の仏教僧は、
「空」は無であり、「霊」は有である、といって延髄反射します。
これは、ある意味の怯えなのです。
現代科学では「霊」の世界も範疇に入りつつあるということを知らない、
公職追放令の申し子達が、現代の日本僧侶です。
ある意味、被害者なのです。
坊さんは、何故こうなったの、という分析をそろそろするべきだと思います。
46 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 00:02:26 ID:z4D6krr4
イエスとブッダの共通点を欲しがる人々がいる。 それはなぜ? イエス信者のくせに、ブッダの教えを使って イエスの言葉を解釈したがる人々がいるのはなぜ? イエスの言葉は、時代も場所も違う別宗教の人の言葉を使わないと、 現代人に理解できないものなのか? だとしたら、イエスの説明がめちゃくちゃ下手くそだったってことでしょ。 イエスの言葉のみでイエスの教えを理解させられないなんて、 イエスの言葉が不完全だったってこと?
47 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 00:10:24 ID:z4D6krr4
一相とか無相とか空とか、仏教用語を使わないと イエスの教えを理解させられないなんて…おかしくないか? へんな解釈を加えずに、 イエスの言葉を文字どおりに、 素直に理解すればいいのではないか? イエスが神は霊だと言ったのなら、 素直に、霊の存在を認める宗教なのだと理解すればいいじゃないか。 神は肉体のない存在なんだなって 理解すればいい程度の話なんじゃないかな。 イエスは聖書の教えを引き継いでるわけだから、 素直に、聖書のとおりの創造神の実在を信じる宗教なんだと 理解すればいいだけなんじゃないか? それを信じられないなら、キリスト教徒なんかやめればいいわけで、 仏教用語とかを使って、教えをねじまげてまで、 自分を納得させる必要はないと思うよ。
48 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 00:18:24 ID:z4D6krr4
イエスとブッダの共通点を探る方法として、 逆に両者の違いをピックアップするというやり方も、 おもしろいんじゃないでしょうか。
49 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 00:19:37 ID:7ixACgXO
方便は違うが最終的には同じ境地を目指しているのだろう。 仏陀の場合は苦からの解脱、輪廻からの解脱でありキリストの場合は天国に行くための手段を解いている。 どちらも善い行いをせよと言っており、なるほどな、解脱や天国に行くには煩悩をすくなくして、または無くして人々を慈しみなさいという事が理解できる。
ともに寝言だということが共通点かな
51 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 00:29:11 ID:z4D6krr4
>>19 イスラム教では、天国では大勢の処女とやり放題で、
しかも処女達は何回やっても処女にもどると説く。
イスラム教では、性欲を肯定している。
一方仏教では、性欲も含めて、
眼耳鼻舌身意の刺激に執着することは苦悩の原因になると、
欲と苦悩の因果関係を理由に、
快楽への執着から脱するための修行を説く。
52 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 00:32:05 ID:z4D6krr4
>>49 その程度の共通点なら、たいがいの宗教家や思想家にも言える。
他人にやさしく親切にし、威張りちらさず、良いことをしましょう…なんてのは、
ブッダのイエスの共通点とかいうたいそうなもんじゃない。
53 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 00:36:41 ID:7ixACgXO
あくまでもそれは基礎的なものな。 仏陀やキリストが多くの人々を救ったのはそれなりの体験や理論があるからだろ。 だが凡人が簡単に体得できる体験ではないわな。
54 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 00:40:26 ID:7ixACgXO
仏陀の場合はきちんと理論をとくが、キリストの場合はとりあえずやってみろ、ととく。 いずれにせよ父権的な宗教には変わりがないってことじゃ。
55 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 00:43:21 ID:7ixACgXO
イエスの御名を唱える事により癒されるのであって偶像は破壊をうむ、とキリストがいっている。 とりあえずイエスキリストの御名を唱えて癒されるのが正しいであろう。
56 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 00:50:06 ID:z4D6krr4
>>55 癒されるとは、具体的にどういうこと?
また、なぜイエスの名を唱えると癒されるの?
57 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 00:54:56 ID:7ixACgXO
その原理は分からぬが、ではこう想像してみてはいかがだろうか。 光に輝くヒゲの生えたイエスキリストがあなたに癒しと平安を与えている。 イエスキリストがあなたに『心身共に平安であれ』 そしてあなたはアーメンと言う。
58 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 00:58:13 ID:7ixACgXO
イエスを信じて統合失調症が治ったという人もいる。 イエスキリストは人々を救済するために現れたのであり、それ以上でもそれ以外でもないのである。
59 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 01:02:03 ID:LCbhOrcw
60 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 01:18:10 ID:z4D6krr4
>>1 宗教の存在意義は、
人生における悩み苦しみを、なくしたり軽減したりできること。
宗教のせいで悩み苦しみが増大するような教えは、
宗教としては欠陥がある。
61 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 06:23:51 ID:f/xHFB5t
62 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 08:13:04 ID:qYu03U42
いつの間にか、お坊さんが変に威張り散らしたりするようになってはいたが、どちらも人間みな平等です、と言ってるようには見える。 個人的にはブッダとイエスよりは、親鸞とイエスが似ているような気がする。 愚か者、賎しき者こそ救われる…
63 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 09:21:14 ID:f/xHFB5t
おまえらは52を百万回読め。
お前が読め。
65 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/05/25(日) 15:34:38 ID:VNLirCce
「神の沈黙と不在」ではなく、霊である神の子が言葉を発し、この世の欲楽・快楽を離れよと。 神・・・五欲の対象・自分の粗雑な思考(六つ)も存在しない、思考の及ばぬ静かな境地。 快楽に嫌悪を抱き、五欲の愛すべき快く思う心にも敵対し、世の創めが神が創造され たとその霊感によって説かれたように、自然の中で静かな安らぎを楽しむことは、こ の世にある場所では、人の手で作られたものと共にいるより神に近い。 男女の性差の意識も無く、この世の一切の出来事に動揺して思い煩うことも無く、感 受作用も無い。 「あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」(ヤコブ の手紙) 「この身は泡沫のようなものであると知り、陽炎のようなはかない本性のものである と、さとったならば、この世で悪魔の花の矢を断ち切って」(感興のことば) 「この世の有様は過ぎ去るからである。わたしはあなたがたが思い煩わないようにし ていてほしい」(コリント人への第一の手紙) 「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中は陽炎のごとしと見よ」(感興のことば)
66 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/05/25(日) 15:35:29 ID:VNLirCce
偶像的なものを思い描くこと無く、神様他の人たちより清浄であると願い求めず、 自らの納得のうちに世を厭い離れ、離欲による「自己の沈黙」に努めて安らぎや平安 に至ろうとしている人は、神を知ろうとしている人である。 「この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、 あなたがたにできない事は、何もないであろう」(マタイによる福音書) 断食やわずかな食物で瞑想修行に励む人は、その神に近づこうとしている人で ある。 神はこのような不浄な人間の状態では一切知ることも、受け入れられることも無く、 「自己の沈黙」に自分で納得して努めている人は、神を知ろうとして努めている人。 子・・・五欲の対象の享受も無く、快楽も無く、物欲も無い。地上でどのような状態であろう とそれらに執着しない。肉体であることに執着せず、自己への悩みも無く、この世の 悩みを厭い、悩める人々をあわれんで、思い上がることも無く、自らの納得のうちに 行うことができ、神を現す身体。 「善いことをした人々は善いところ天に生まれるであろう。しかし他の人々はこの世 で道を修して、汚れを去り、安らぎに入るであろう」(感興のことば) 「意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して」光輝く神々となるには、神々を信 じるのではなく、神により汚れを去る道を学んで、自己の思い煩いと地上のものに引 かれる心を打ち消して、苦悩ある人々を自らの納得のうちに助けられるような善い心 に安住しないといけない。
67 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/05/25(日) 15:41:13 ID:VNLirCce
唯一の神により道を修して、「自己の沈黙」により地上のものに心引かれず、自己への悩み無 く、人の苦悩を取り除けるような神の子が多くの人々に容易くできるわけではない。 聖霊・・・「罪汚れ」「劣れ」言うことを聞けない人は、罪汚れであること、善い人・正しい 人ではないと認めて、自分を低くしていなければならない。 「イエスは彼をいやして、物を言い、また見えるようにされた」(マタイ) 一切の生きとし生けるものをあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しないよう に、苦悩ある人を助けるようなことに反する無慈悲な思いは罪が大きい。 肉欲が正しいことのように思い、無慈悲な思いで地獄に行くのを防ぐ。霊の身体に 生まれることができなくても、誤った見解を捨てた人であることから始まる。 次に、神と永遠の命を信じる人は、地上の貪りを捨て去ったことに自ら納得して喜 び、善い思いに自ら納得して、「自分は善人だ・義人」だとか願い求めない人とな らないといけない。 「恐れなくてもよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪 な見解をいだいて、悪いところ=地獄におもむく」(真理のことば) 「この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を罵り退け、他人が与えようとするのを妨げる人々、 かれらは、地獄、畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる」(神々との対話) 自ら飲食豊かで遊び暮らし、目の前の人が飢えているのに助けない人は、神を持たず地獄 に生まれる。 霊体を信じて願い求めても、神により心の内から清まらないと霊体にもなれない。肉欲と対 極の神。肉欲を制することと、他人の苦悩を取り除けるような善い思い。信仰のあり方に、 偶像なるものは存在しない。 良い者も悪い者も平然と暮らしている。真理のみあり人格神はいないとしていたら、人が肉欲 を離れないと私は知らないという存在である。
69 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 19:20:35 ID:8Kr38Lxo
>>62 親鸞さんはもうあきらめムード
言葉による清めがない
肉欲と神の摂理の知識を与えない
70 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 23:14:51 ID:u1H0Vu2B
念仏そのものがあらゆる罪の浄化を意味する。 空相を念ずると言うことは、あらゆる罪の浄化を念ずることであり、 空相と言う実在が有るので、あらゆる罪の浄化は達成されるのである。 阿弥陀と言う固有名詞は意味が無い。阿弥陀と言う名称が空相を意味するところに 意味があるのである。 罪とは、真実である空相に反する思い:心配:妄想を罪と言うのである。 これらの罪は、縁起している相対的存在なのである。相対的存在でない罪はないのである。 相対的存在は無自性である。つまり、真実ではないのである。この真理を教えられ、伝えられ、 理解したので、真実である空相を真実なものであるとして、念ずるのである。 この真理真実を教えてくれたのが、阿弥陀であり釈迦であるので、そして且つ、 これらは真理真実を体得して、空相そのものとなっているので、南無阿弥陀又は、南無釈迦むに と唱えるのである。 罪のない世界を浄土と言うのである。浄土と仏は同じ意味である。 一切の現象は幻と理解し、それらにいささかも囚われないようになるのが、浄土の入ること、成仏する事 のであると思う。 親鸞は>言葉による清めがない、というのが間違っていると思う。
71 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 23:48:09 ID:u1H0Vu2B
>>67 布施については法布施と食物などの物質的援助がある。
物質的援助については、現代と古代の釈尊の時代と異なるのを知るべきではないか。
古代では、税金の徴収と言うものはどのようになされていたのだろうか?
少なくとも、今の日本のように税金を徴収していたのではないだろうと思う。
今は税金を納付し、その税金から、恵まれない人に援助する制度を採っている。税金を納めているなら、
自動的に貧しい人に恵んでいるのである。
古代では、このような制度は無かったんでは、と思う。
この点、イスラム教の社会では、大々的に教えているね。
この徴収した税金から貧しい人に配分する役の者が、正しくしないと、
その役人は大変な罪を犯すことになるのである。今の役人、為政者は責任重大である。
それとも、税金の他に、恵む事を要求する教えなのであろうか?
72 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 23:58:16 ID:ZRaNa5kw
>念仏そのものがあらゆる罪の浄化を意味する。 トンデモ嘘。釈迦はそんなもの勧めてない。ところで飛行機とかから飛び降りたのか?まだ?
73 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/05/26(月) 21:52:06 ID:F+d2hByc
良い世の中となった、豊かになった、なんの不自由もない。そのように感じて暮らしていた。 世の中は楽しいもので満ち溢れ、自分の収入の拡大を願い、日々働いていた。 しかし、神の子(人格神)の言葉は、世の創め、およそ2000年前と変化してない。 「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去っ て行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑 と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に 陥るのである」(テモテへの第一の手紙) 「愛により人々は平和に暮らし、この世を楽しんで生きればよい。」その思いをひっくり 返す言葉を語られた。自分が楽しんでいることを、ことごとく否定されたのである。 否定されないことと言えば、神が創造された自然を静かに楽しむことぐらいである。 また、自分を愛する者しか愛せない。 言うことを聞かないと、「罪汚れ」「劣れ」「左れ」。むしろ、今の豊かさは、神にとって は左(呪い)が増している。人はそれを捨てきれないでいる。 「札を拝むのと変わらない」札とは違うようなことを言うが、言うことを聞かないなら札を拝 んでいるのと変わらない。人は札を拝んで、物欲や享楽、情欲を慎めるなら、まだましだとい うようなことを語られるのである。見えるもので「釣る」のである。
74 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/05/26(月) 21:53:05 ID:F+d2hByc
「大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。 彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼ら に対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。神は、罪を犯した御 使いたちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込 めておかれた」(ペテロの第二の手紙) 神は人間の物欲や情欲、享楽などに厳しい方でもある。
75 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/05/27(火) 22:38:58 ID:dZ6hQZkK
「札」とは「ふだ」であり、目に見えるもの偶像礼拝のことである。
>>67 本当のことを言うが、神の子(言葉を語る人格神)からは、まだ人助けのために「お金を与え
よ」と一回も聞いていない。
目の前に飢えた人などがいないことや、真に貧しく苦しんでいる人が目の前にいないことや、
見知らぬ恵まれない誰かを助けようと望むと、「私は善いことをしました」という思い上がり
が生ずるからか、まだ霊性が低いから自然に行えないことを考慮されているからだと思う。
しかし、
「恵まれない人を助けることは善いことだ」と思うこと自体は、人に霊性があるから。
「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であった
ときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれた
からである」(マタイによる福音書)
「貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ」(神々との対話)
人の肉欲が一切無い、つくられざる存在(神)を知る時は、苦悩無き世界を喜びとして
いるから、他人の苦悩を取り除こうと無意識に働く心がある人は、つくられざる存在を
内に持ち、教えを善いことだと受け入れられる人も、被造物(アートマン)の中に不朽
の神を持っている。
76 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/05/27(火) 22:40:03 ID:dZ6hQZkK
しかし、それだけではなく、「あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに 心を引かれてはならない」(コロサイ人への手紙) 「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のう ちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たも のではなく、世から出たものである」(ヨハネの第一の手紙) 「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去っ て行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑 と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に 陥るのである」(テモテへの第一の手紙) 平和を喜び、物質文明を喜び、物欲を満たし、享楽などを喜んでいると、「罪汚れ」「劣れ」 「左れ」と言われ、「土に帰る」と言われ、「地を生き続ける」と言われ、「札(ふだ)= 偶像礼拝」と変わらない、甘い言葉のみを選んでいるだけでは、死んで土に帰り、記憶なく 別人となって生まれ変わり、下界の暗やみで生き続け、いつか終わりの日の患難で救われな い者となる。 とにかく、生活の思い煩いも、物質文明を喜び楽しみ、享楽を楽しんでいることは、肉とな り、天には決して入れないと言われるのだ。信仰対象が何であっても、物欲・欲楽から離れ させることが人格神の意向であり、信じても物欲・欲楽から離れないと叱られる。 教えは真に受け入れないと叱られる。
77 :
神も仏も名無しさん :2008/05/27(火) 22:49:06 ID:gBJZG9eN
>イエスキリストは人々を救済するために現れたのであり、それ以上でもそれ以外でもないのである。 イエスは単なる罪人か、冤罪人。それ以上でもそれ以外でもないのである。
78 :
神も仏も名無しさん :2008/05/28(水) 18:50:36 ID:0TjGCx4m
イエスは生前、自分は死なない、と言っていた。真実である不生不滅であるなら、当然である。 そして又、イエスが墓からでて、弟子たちに姿を現したのも当然なことと認めなければならないだろう。 この点から言えば、イスラム教徒がイエスを神と認めないのは不当間違いと言わなければならないな。 又、大乗の涅槃経が、釈尊が死ぬのではない、と説いているのも、当然である。 それではイエスにしろ釈尊にしろ、あの死は何だったのか?それは解脱していない ものの目に見えるものである。真実にはないものである。イエスや釈尊のこの世間での伝道 はまさに、この解脱していない人々を相手にしているものでった。この点で、イエスも釈尊も、 この世間から関係を断ち切れていなかったのである。しかし、死と言うものがないと言うことを証明したのは、 イエスであった。 神、神、私をお見捨てになるのですか?と言う叫びはどういうものと説明すべきか?
79 :
神も仏も名無しさん :2008/05/28(水) 20:59:31 ID:0TjGCx4m
神は何故天地万物を創造したのか? この答えは聖書にあるか? 何故この答えがないのであろうか?
80 :
神も仏も名無しさん :2008/05/28(水) 21:37:18 ID:wwkOoXI/
死はないが、世俗的な人は生まれる。 欲を貪っている人のほうが、死より恐ろしいってこと。 本当の神は死なないとわからないってこと。欲を貪っていると死んでも分からないってこと。 イエスも釈尊もこの世のものではないから、神を知り、肉欲で命乞いをしても無意味だと 教えた。わが身に対する存続の思いで願い求めることは無意味で、苦しみであると。 人間があまりにも愚かなことに囚われ信仰しているから、肉の思いを断ち切る思いで信仰し なさいと伝道した。
81 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/05/29(木) 21:44:56 ID:HM+pxl28
>>79 神の子は今でも世の創めのような人を求められている。
人の手でつくられたものを求めず、喜ばず、欲楽を楽しむことのない人々。
物質文明を喜び、豊かな生活をしている人々より、貧しく物質的には豊かではないが、神が創
造された自然の中で心癒され、生活のための思い煩いのない人々。
・・・聞いていると、ついには何もできなくなってしまうほどである。
「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る」
決定的に言うことができないと感じた言葉は、あくせくして仕事をするな、生活のための思い
煩い、生活のこころづかいさえいけないことだと言われたので、現在の生活が維持できなくな
ってしまう。
言うことを聞けないと「罪汚れ」「劣れ」と。神には罪しかないと認めて、自分は愚か者と認
めないと、神の子の語る言葉を認めないことになってしまう。
地を生き続ける者となり、苦悩あるこの世を自分で耐えて生き続ける者となる。
82 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/05/29(木) 21:46:14 ID:HM+pxl28
今すぐ天の思いで生きるのではなく、半分肉の思いで、半分霊の思いで生き続けること。 「神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとさ れたのである」 御言は霊の思いからきており、それを善いことだと受け入れ続け、終わりの日になって霊 の者となるように蘇えさせる。 全ての言うことを聞けない人々も多くいるので、イエスは先に苦しみを受け、地上の苦し みに耐えても、御言を捨ててはならないとしたのである。
83 :
神も仏も名無しさん :2008/05/30(金) 22:58:11 ID:NLosuCaK
仏教にしろ、キリスト教にしろ、現代科学を否定するんだよね。 現代科学は、単に人と人の契約から発生している人工的なもの、又は、人間の作り出したものなのだ。
84 :
神も仏も名無しさん :2008/05/30(金) 23:06:30 ID:udE7kXMo
>>83 仏教は科学を否定してないと思いますよ。
医者が病気を治せることは否定しない。
ただ、いくら治療したって人間はいずれ死ぬから、
健康にあまり執着しないだけ。
85 :
神も仏も名無しさん :2008/05/30(金) 23:16:30 ID:NLosuCaK
イエス:この世の理法を理解できないなら、天国のことを話しても理解できないだろう。 ぶっだ:縁起の理を理解しないなら、空諦を理解する事は出来ない。
86 :
神も仏も名無しさん :2008/05/31(土) 00:16:28 ID:lN/Fgazm
※ 妄想からの解脱
ブッダは、人間苦を成立せしめる原因となり条件となっているものに対する無明(無知)を克服すること(知)
こそが救いの道であると考えた(縁起の思想)ため、
形而上学的見解(空想的ことがら)については、それは知ではないとして認めませんでした。
そのため、人間にとって有意義な「一切」とは、人間の知の及ぶ世界と内察できる心だけであり、それ以外の「一切」を説こうとすると、
根拠がないので単なる「言葉だけに終わる」であろうと説きました。
参考:
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/okawa.html 比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。
「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。
「キリスト教の信仰者」がこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、
それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。
何故か。何故なら、「キリスト教の信仰者の主張が彼の知識領域を越えているから」です。
(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1210417061/19
87 :
神も仏も名無しさん :2008/05/31(土) 11:10:07 ID:kzXsx9g3
>>84 >仏教は科学を否定してないと思いますよ。
医者が病気を治せることは否定しない
大乗仏典が、医者が病を治す事例を挙げているのは、それを比喩として用いているのである。
医者が病を治すように、仏教は苦しみを治す、と言うように。
医者は真実には病を治していない。しかし、仏教は、真実に病を完全に治すのである。
医者の治療が科学的と言うならば、それはまやかしものであると、仏教は言っている事になる。
これは科学の否定と言うべきではないだろうか?
88 :
神も仏も名無しさん :2008/05/31(土) 11:19:22 ID:Oq5M7nI3
医者は真実には病を治していない。とはどういうことなのですか? いまいちわかりにくいのですが
89 :
messiah :2008/05/31(土) 11:28:40 ID:bzoV9F6G
90 :
神も仏も名無しさん :2008/05/31(土) 11:58:37 ID:Oq5M7nI3
よくわからないけど盲腸炎になったら医者へはいかないの? 盲腸を切ればそれを真実なおしたことにはならないの?
91 :
神も仏も名無しさん :2008/05/31(土) 11:59:20 ID:kzXsx9g3
92 :
神も仏も名無しさん :2008/05/31(土) 12:14:08 ID:kzXsx9g3
仏教の教えに拠れば医者を必要としないで治す事が出来る。更にあらゆる病を治す事が出来る。 盲腸と言うところが炎症を起して苦痛となっていると言うことは、肉体が有ると言う病にかかっているのである。 この病が有る限り、盲腸を取り去っても、本来の肉体があると言う病は治っていない。一時的な対処療法を施しただけなのである。
93 :
神も仏も名無しさん :2008/05/31(土) 12:27:46 ID:x3BJu/db
90が正解で92は妄想。
94 :
神も仏も名無しさん :2008/05/31(土) 21:20:43 ID:Q45hSavg
>>92 修行を効率よく行うためには、
対処療法で健康を維持するのもいいと思いますよ。
健康に執着するんじゃなくて、
修行の道具としての肉体をメンテナンスする。
95 :
神も仏も名無しさん :2008/05/31(土) 21:33:41 ID:rHk0W0j9
盲腸を取り除く。これは仏教です。92の言うように 本来の肉体があると言う病は治っていない。 と言うのに納得するなら 死んで亡くなりなさい。 さあどうぞ。
96 :
神も仏も名無しさん :2008/05/31(土) 22:07:28 ID:kzXsx9g3
仏教の修行とは、死の練習に他ならない。いや生と死からの解脱だ。
97 :
神も仏も名無しさん :2008/05/31(土) 22:48:56 ID:Q45hSavg
盲腸放置で悟る前に死ぬより、 盲腸治して修行して悟るほうがいいなぁ。
98 :
神も仏も名無しさん :2008/05/31(土) 23:20:04 ID:rHk0W0j9
96は分かるが 92に納得するなら死んで亡くなりなさい。 さあどうぞ。
99 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/01(日) 00:53:44 ID:pojPcIKQ
「わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、微妙であり、思考 の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執著のこ だわりを楽しみ・・・貪りと憎しみにとりつかれた人々が、この真理をさとることは容易では ない」 世界の主・梵天「ああ、この世は滅びる。ああ、この世は消滅する」(悪魔との対話) 「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった 安楽である・・・これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてな くなり、没することなき解脱の境地である」(感興のことば) 「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする・・・この世の論者はど こにいるか・・この世は、自分の知恵によって神を認めるには至らなかった」(コリント人へ の第一の手紙) 「この世の有様は過ぎ去るからである」(コリント人への第一の手紙) この世の有様は過ぎ去り、それに囚われない。今現在の人間の生存状態の思いも全く無 く、それに囚われない。 「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている・・・光がこの世に きたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである・・・ 真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明 らかにされるためである」(ヨハネによる福音書)
100 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/01(日) 00:54:49 ID:pojPcIKQ
このような今の生存状態の思いは、『悪しき者の配下』『妄執』に従って生まれたのであって、 善い者(上にあるもの=神を知る時=不死の境地である時)は、この世を思うこと無く、自己 に対する思い悩みも存在しない。全ての束縛から解き放たれ、一切の苦悩無き、思い煩い無き 世界を何よりも真理・真実として、「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」 「平安の境地」と「安らぎ」に満ちている。 世の創めに神の愛があり、釈尊は自然の中で静かに瞑想修行し、平安の境地に至り、神通力を 得て、 「能力あり、直ぐ、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者・・足ること を知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり・ 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ・・怯えているものでも 強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも・・一切の生きとし生けるものは、幸 せであれ・・上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし」 (ブッダのことば) 不死の境地とともに、人の手で造られたものを貪ること無く、自然の中で安らぎ、快楽・ 享楽を求めること無く、一切の生きとし生けるものの、幸福と平安を思って喜ぶ神の心と 共にいた。 しかし、人は賢くなり、人の手で造られたものを求め、世間をつくり、また世間に戻る輪廻の 道を歩むようになった。
101 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/01(日) 00:56:19 ID:pojPcIKQ
「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、 一切のものが従属した・・妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻 に堕している。人は、苦悩から離脱しないのである」(神々との対話) 神より、物欲や享楽・欲楽・生活のためにあくせくする営みを尊重するため、下界の暗闇 から抜け出せない者となっている。 ■考えられたものを学び、信じましただけでは神と永遠に近づけない。 快楽や享楽より、自然の中などで何も無く安らぎを楽しむ。 あれこれ考えること無く、精神を安定統一する。何も無く平穏な心に満足する。 物のためにあくせくしない。物への執着を慎む。 他人の過失を探し求め、他人の過失に怒り、憎み、他人に敵意を持たないように努める。 自分の考えが正しいものとして、他人も自分の考え通り、意向通りになると思わない。他人に悩 まないように努める。 自分に対する悩みも捨て去ろうと努める。 一切が悩み無く、苦しみも無い幸せを何よりも喜ぶ心(境地)があるから、他人に対する悩みを 取り除いたり、苦しんでいる人を助けようとする「あわれみ」「慈悲」を自分に囚われず行える ようになろうと努める。 医者は他人の苦悩を取り除き先生と尊敬される。自分の病を治すために安静にし、食べ飲み 快楽を貪り偉いと尊敬されることはない。肉(人)の内でも無意識に真理は働き、物質的な もの、富を追い求めるよりも、他人が幸福だと思うことに仕え、安穏や安楽な暮らしのため に役立つことを思う人々が全てとなると、人々の苦悩は少なくなる。 肉の思いを全て捨て去ることはできないだろうが、真理を思い、真理を行えるような人々を 増して、この世の悩みを少なくするのが宗教の役割だろう。
102 :
神も仏も名無しさん :2008/06/01(日) 08:27:47 ID:L8vJgC7L
>>97 仏陀は、大医王である、と言われている。
>盲腸放置で悟る前に死ぬより、
盲腸治して修行して悟るほうがいいなぁ。
仏教をもう少し勉強すべきであると思う。
サンユッタニカーヤT「岩波文庫」の「サミッディ」に次のような仏陀の説法が紹介されてある。
『この理法は、現に目の当たりに体験されるものであり、時を要せづ、(来たり、見よ)と言われたものであり、
導くものであり、英知ある人々が各自自ら体験すべきものである。』
103 :
神も仏も名無しさん :2008/06/01(日) 08:31:58 ID:L8vJgC7L
健康=生、病気=死、これら生も死も無いと言う真実に達する事が悟り(知恵)の成就なのである。
104 :
神も仏も名無しさん :2008/06/01(日) 10:07:14 ID:L8vJgC7L
色心と言うが、色=色形は、心=受想行識の中に、本来は含まれている。 色は、目に見えて範囲が大きいので、それを元に、縁起を論ずるのが容易であるから、 色を、心から離したものではないだろうか? 色を心から離し、独立しているものと考えてはならないのである。 心の中でも、識こそ中枢である。受想行は識の中に含まれるのである。 そこで、識は縁起しているので、一切は空相であると判断するのである。 病気を知るのは識なのである。その識が真実には空相なのである。 故に病気、老いる事、死滅する事、これらは真実にはないのである。
105 :
神も仏も名無しさん :2008/06/01(日) 11:52:01 ID:L8vJgC7L
こんな理論に基づいて進むとカルトになるのかな? 部屋に死後数ヶ月経った遺体を置いている団体があったとか聞くからな。
106 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/01(日) 11:58:55 ID:tMtCqvqc
医者は他人の苦悩を取り除き先生として尊敬される。 病人は自分の病を治すために安静にする。 軽安(心身をかろやかにし、快適にすること 長寿) 五欲の対象を貪り、快楽や欲楽を貪り、偉いとして尊敬されることはない。 自然の中で安らぎ、世の中の苦悩を忘れ去る場合もある。 人々は五感を頼りとして、思考や意向を頼りとし、自らに執着し貪り、真理・真実から離れて いく。「六つのものに依拠して、六つのものにおいて世間は害われる」 ―しかし、一切の苦悩から解き放たれた幸せな世界は在る― 人が死んで簡単にその世界に入ることができないから、教えはある。 「全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」 「大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。 彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに 対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。神は、罪を犯した御使 たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めて おかれた」(ペテロの第二の手紙)
107 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/01(日) 12:00:30 ID:tMtCqvqc
「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、 一切のものが従属した。」「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、 輪廻に堕している。人は、苦悩から解脱しないのである」(神々との対話) 人は物欲や五感、享楽や快楽を貪り、好ましく愛すべく甘味な思考を貪るがために、こ の世に生を受け続け、記憶なくあの状態、この状態に生まれて、決して善いところに生 まれることはなく、苦悩から解脱できないのである。 しかし、不死の世界、善いところを知った人は、一切皆苦と知り、それらのもののため に苦しみを受けると知るのである。 他人の苦悩を取り除こうとする心(あわれみや慈悲)は妄執ではない。 物質的なものに愛着を持たず、五欲の対象を貪ること無く、欲楽のためにあくせくすること 無く、何も無くても安穏な心に満足するなら妄執によって生み出されたものに従ってはいな い。 他人の過失を探し求め、他人に悩まされ、怒り、憎しみ、怨み、敵意を持たないなら妄執で はない。 この世の出来事に動揺し、感受作用も慎み、自分のことに思い煩い、くよくよと悩まないな ら、妄執によって生み出されたものに従ってはいない。 善い世界に生まれることより、世間で生み出されたもの、物欲や生活のためのこころづ かい、起動をともなう雑務多く、心も肉に汚され、善いところに生まれられないように なっている。
108 :
神も仏も名無しさん :2008/06/01(日) 14:04:11 ID:kpxqHM3I
>>105 オカルト。
上では悩みがない。他人の苦悩を取ることは善いこと。
一切は空相に固執する心もない。考えられたものに固執すると真理を失う。
遺体は物体。肉に執着し過ぎて、異様な行動をしている。
109 :
神も仏も名無しさん :2008/06/01(日) 17:13:29 ID:L8vJgC7L
神により創られた自分と、神に拠らず、神以外のものにより作られている自分がいるのである。 神により創られた自分は、創られた物自体に実体を認めなく、神に実体を認めるのである。 一方神により創られたと考えない場合は、それは自分が創っているのであリ、自分に実体を認めるのである。 この後者の場合が、仏教に言う無明による生老病死の大苦ウンの誕生である。 キリスト教の信仰を得るのは、仏教よりも、難しいのではないかな?
110 :
神も仏も名無しさん :2008/06/01(日) 17:41:38 ID:L8vJgC7L
空即是色、これが神(真実)と被造物の関係である。 色即是空、これが縁起関係を認め神(真実)に至る方法である。
111 :
合唱院 ◆DGPK9RXLY6 :2008/06/01(日) 17:54:03 ID:20zOnoFF
112 :
神も仏も名無しさん :2008/06/01(日) 18:01:35 ID:L8vJgC7L
キリスト教の場合、天地創造と言う発想に特徴があるのであり、その特徴は もっぱらモーゼによるもので、モーゼの同時代人及びモーゼの隣人に共通する発想ではなかった 言い得るで有ろうと思う。
113 :
神も仏も名無しさん :2008/06/01(日) 21:30:04 ID:4hTnV+5g
>>109 仏教も生老病死の苦のみ教えているわけじゃないな。
老いと死などの苦を気にしているのは、無宗教より劣っている人だろうし。
114 :
神も仏も名無しさん :2008/06/02(月) 17:39:34 ID:yzxCzIGp
仏教が生老病死の恐れや苦の解決? >>死の恐れを利用して食べてる人だけ
115 :
神も仏も名無しさん :2008/06/02(月) 18:52:33 ID:l1LtTbRd
教団に入って、布施をしたりする事が仏教ではない。 仏教を受け入れるとは、仏教と言われる「理法」を理解しそれを信仰する事でなければならない。 その理法に拠れば生老病死は無いのである。
116 :
神も仏も名無しさん :2008/06/02(月) 19:06:57 ID:KodjCKJv
イエス・・・あなたがたも慈悲深い者となれ。 釈迦・・・・母が己が独り子を命を賭けても護るような慈悲がこの世では崇高。 善い行いを善いと思うこと、つまり言葉を受け入れることで不死を説いているの で、自分の生老病死のこだわりを既に超越している。しかも、現実的な教えを根 本としているから、世界的な宗教であり、日本の死の恐れを利用する宗教とは違 う。
117 :
神も仏も名無しさん :2008/06/04(水) 12:16:26 ID:ya7ubTAn
仏教は理法だが キリスト教はとんでも妄想 寝言は寝て言うべし
118 :
神も仏も名無しさん :2008/06/04(水) 12:37:52 ID:fQQr2N56
確かに
>>1 の文章だけで比較しても
仏陀の言ってることのほうが奥深い
よって似てない
119 :
神も仏も名無しさん :2008/06/04(水) 23:02:55 ID:b05ReN0r
もしもイエスやゴータマが、奇蹟とか神通力とか言う何らかの超常の力を持っていて、 その力で人間の運命を支配する神の定めた秩序や規則性を見出して、それを“理法”とか “裁き”という言葉で表現し、教訓や戒めという形でいろんなたとえを用いながら、 当時の人々に説いて聞かせたというのなら別に何も文句ないよ。イエスもゴータマも 立派だと思う。でも問題はここから。 だからといって宗教組織要るか? 徒党を組む必要あるか? 弟子を集めて彼らに家庭や社会からの離脱を強要して、あちこち連れまわして、 意志も自由も奪って、人生の全てを奪って、自分の教団の拡大のための奴隷として こき使うような必要があるのか? その宗教集団が分裂し、対立し、後世が異なる 宗教宗派どうしのいさかいや争いで多大な迷惑を被ることになるとしてもか。 特にキリスト教、自分の死後巨大にふくれ上がったその集団が暴走して、海と大陸を 駆け巡って世界中を蹂躙することになるのに、それはおかまいなしか。 自分の時だけ良ければいい。後は野となれ山となれ。この態度はあまりにもお粗末。 救世主だとか仏陀だとかいうわりに、無責任すぎやしないか。
120 :
神も仏も名無しさん :2008/06/04(水) 23:44:12 ID:93/CYcKo
119の言う弊害はあるけど しょうがないでしょう 当時何言っても後の人々が悪用するのは
121 :
神も仏も名無しさん :2008/06/05(木) 01:06:40 ID:gPZz7/Fk
後の人々が悪用したのでなく、当時すでに悪用されてる。イエスによって。ゴータマによって。 彼らは自分勝手に自分王国をつくっている。すでに存在してたユダヤなんかを否定しつつ、 自分の分派を作って信者を集めている。イエスなんか隣人愛を説きながら、隣人である パリサイ派といがみ合って、当時からすでに抗争を起こしている。充分悪いでしょ。 「イエスは悪くない、ブッダも悪くない、悪いのは全てその教えをきちんと伝えなかった弟子達や 後世の信者であって、教祖は正しかった。」なんていう人多いけど、俺は教祖が全ての元凶だと 思うね。そもそも弟子を狂わせたのは、師である教祖だよ。 今みたいに科学技術もメディアも発達してて、映像も音声もデジタル信号に変換されて、半永久的に 保存されるのなら、説いた教えを歪められる事もないと思うよ。でも時代が違う。 印刷技術もなく、ボイスレコーダーも当然ない。そんな中で伝える術は記憶、写本、こんなもんしか ないんだよ。こんなの書き記す人の主観でどうにでも書けるよ。それを受け取る人のさじ加減次第で どうとでも書き換えられるよ。正しく伝わるワケがない!! キリスト様やブッダ様ともあろうおかたが、それわかんないのか?不用心だろ。 イエスやゴータマに惑わすつもりはなくても、結果的にはそうなっている。 世界は彼らをきっかけにして大いに惑わされた。これは動かしがたい事実。 弟子の不手際は師の責任、しもべの失態は主の責任、言いだしっぺであるイエスゴータマの責任は 誰よりも重いんじゃないのか。
122 :
神も仏も名無しさん :2008/06/05(木) 01:13:49 ID:vQ0GoCL7
「空の空、いっさいが空である」 コヘレト1:2 聖書は仏教に導く本ですから、 聖書を読むと仏教に目覚め、救いの果(阿羅漢果)を得るのです
123 :
神も仏も名無しさん :2008/06/05(木) 01:57:13 ID:UcgppyU+
また122は出鱈目を。糞も味噌もいっしょにすんな。内容が違うわ。 121にはまあ納得。
124 :
神も仏も名無しさん :2008/06/05(木) 02:12:20 ID:xq6lkPXb
共通点ね。 共に「偶像崇拝」を禁止した点かな。 今は両方ともその事実が捻じ曲げられちゃってるけど。
125 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/06/05(木) 06:41:38 ID:4BR3tPIE
>124 (笑 強盗と警官の拳銃所持を一緒にするみたいな話だな。(笑 (^。^)
126 :
神も仏も名無しさん :2008/06/05(木) 08:21:14 ID:wdmStcuT
イエスがローマの行政官の、「真実とは何か?」の質問に、答えなかった事実。 それなら、ローマの行政官に答えなかったとしても、弟子達に又はユダヤ人に 真実とは何かの説明をしたかと言うと、それもないのである。 しかし、とにかく、イエスは真実と言うものを知っていたのである。 今のクリスチャンに、イエスの言う「真実」とは何か、と聞くと、 それは「神」の事である、と言う。神と言うものは、真実をこそ神と言うというのが、 道理である。真実の上に更に神がいるのではない。真実は客観的事実であり、世界中の何処にでも 通用するものを言うのである。神と言う名称は、それは創造者と言う意味で世界中に通用する用語なのである。 それなら、真実とは創造者の事か、と言うことになる。創造者自体は、 「無」なる存在と解さざるを得ない。天地を創造しても、自身は創造されたものではないのであるから。 無なる存在なら、仏教に言う、一相なるもの、無相なるもの、空相なるものでなければならないのである。 実に実在するものは、純一なるものであり、純一なるものは、無相なるもの、空相なるもの、一相なるもの、でなければ ならないのである。その他のものは縁起している、相対的な存在であり、幻以外のものではないのである。
127 :
神も仏も名無しさん :2008/06/05(木) 12:32:25 ID:J3QZDgMJ
>>126 本当にキリスト教において、昔から、
被創造物を縁起・無自性・空・無我・無常の観点から説明していたの?
それとも、あなたが仏教的知識をもとに解釈してるだけ?
128 :
神も仏も名無しさん :2008/06/05(木) 12:39:25 ID:J3QZDgMJ
>>119 最初から組織をつくろうと思ってたわけじゃないでしょう。
教えに興味もって弟子入り志願してくる人が増えてしまったから、
ルール作ってまとめる必要性がでてきたわけです。
129 :
神も仏も名無しさん :2008/06/05(木) 12:44:54 ID:J3QZDgMJ
>>119 たとえば創価学会は自称仏教で、他人に迷惑かけてるけど、
ブッダから見たら、「あんなやつら弟子でも何でもない」でしょう。
偽ブランドで詐欺をはたらく奴が現れたら、
その責任はオリジナルのブランドの創設者にあるのか?
違うだろう。
仏教の名をかたって他人に迷惑かける偽仏教信者が悪い。
130 :
神も仏も名無しさん :2008/06/05(木) 19:44:02 ID:wdmStcuT
>>127 仏教は理法なのだ。理法は何処ででも通用するものである。他のものを創造しても、
自らは創造されたものでないものは、自存者で無ければならず、それは無相なるもの、一相なるもの、
空相なるものでなければならない、と言うのは、理法なのだ。
131 :
神も仏も名無しさん :2008/06/05(木) 22:24:42 ID:f7w1XSbh
132 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 08:06:36 ID:t0aBFgor
>>127 神(創造者)と被造物は縁起関係にある。これは真実と虚妄が縁起関係にあると言うことである。
133 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 08:23:10 ID:ZAQ6MEJ6
>>132 神が神以外のものと縁起関係にあるなら、
インプットとアウトプットによって、
神もまた変化するわけですよね。
ということは、神は永遠不変ではないのでしょうか。
たとえば、キリストと遣わす前の神とキリストを遣わした神。
神が新たな行動を起こしたということは、
神が態度を変えて変化したことになる。
134 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 08:26:08 ID:ZAQ6MEJ6
>>132 被造物同士が相依相関の縁起関係にあるのはよくわかるけど。
135 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 08:51:48 ID:t0aBFgor
>>133 良い所をついているね。
不空空。空ではない空。これが究極の空である。
136 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 12:48:23 ID:ZAQ6MEJ6
>>135 わけわからん言葉だなぁ。
空とは、「実体がないこと」、
つまり「無我」「無自性」という意味ではないの?
やはり、「諸法無我」と言うほうがわかりやすい。
「すべての法(私達が考えたり感じたりする対象:コト)には、
それ自体が独立して存在できるようなゆるぎない実体がない。」
「法」とは、「コト」「コトガラ」。
「○○とはどういうコトですか?」の「コト」。
「私とはどういうコトですか?」
「私がいるとはどういうコトですか?」
「そのコトにはゆるぎない実体がありますか?」
137 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 12:49:48 ID:ZAQ6MEJ6
「神」もまた「法(コト)」ですよね。 だから「神」には実体がない。
138 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 19:47:41 ID:irNYg6n3
つーか居ないし神w
139 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 20:09:23 ID:t0aBFgor
>>137 結論から言うと、空相と言う実体が有るのである。
ある人が、幻を追いかけているのをみるとしよう。
その人に、「君よ、それは幻ではないか。そのようなものは無いではないか。」
といって、縁起の理法を教える。
幻を追いかけないようになる。世界は幻であると知ると言うことは、
世界は幻を排したものが真実なものである、と知る事である。
幻を排した状態のことを、空相と言うのである。
幻を求めるのは、『虚しい』、であるから、幻を追い求めないようにしよう、と言うのではない。
『虚しい』を『空しい』に解し、一切は『空しい』ものである、と解してはならないのである。
むなし・い【空しい/虚しい】
[形]むな・し[シク]1 空虚である。内容がない。「―・い言葉」2 無益である。むだである。かいがない。「―・く時が過ぎる」「奮闘―・く敗退する」3 かりそめである。はかない。「―・い世の中」4 (「... [さらに]
空相を『空しい:虚しい』に解しては、虚無主義『ニヒリズム』と言うべきであろう。
空相は真実なのである。
140 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 20:11:55 ID:t0aBFgor
>>137 結論から言うと、空相と言う実体が有るのである。
ある人が、幻を追いかけているのをみるとしよう。
その人に、「君よ、それは幻ではないか。そのようなものは無いではないか。」
といって、縁起の理法を教える。
幻を追いかけないようになる。世界は幻であると知ると言うことは、
世界は幻を排したものが真実なものである、と知る事である。
幻を排した状態のことを、空相と言うのである。
幻を求めるのは、『虚しい』、であるから、幻を追い求めないようにしよう、と言うのではない。
『虚しい』を『空しい』に解し、一切は『空しい』ものである、と解してはならないのである。
むなし・い【空しい/虚しい】
[形]むな・し[シク]1 空虚である。内容がない。「―・い言葉」2 無益である。むだである。かいがない。「―・く時が過ぎる」「奮闘―・く敗退する」3 かりそめである。はかない。「―・い世の中」4 (「... [さらに]
空相を『空しい:虚しい』に解しては、虚無主義『ニヒリズム』と言うべきであろう。
空相は真実なのである。
141 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 20:14:53 ID:t0aBFgor
>>137 結論から言うと、空相と言う実体が有るのである。
ある人が、幻を追いかけているのをみるとしよう。
その人に、「君よ、それは幻ではないか。そのようなものは無いではないか。」
といって、縁起の理法を教える。
幻を追いかけないようになる。世界は幻であると知ると言うことは、
世界は幻を排したものが真実なものである、と知る事である。
幻を排した状態のことを、空相と言うのである。
幻を求めるのは、『虚しい』、であるから、幻を追い求めないようにしよう、と言うのではない。
『虚しい』を『空しい』に解し、一切は『空しい』ものである、と解してはならないのである。
むなし・い【空しい/虚しい】
[形]むな・し[シク]1 空虚である。内容がない。「―・い言葉」2 無益である。むだである。かいがない。「―・く時が過ぎる」「奮闘―・く敗退する」3 かりそめである。はかない。「―・い世の中」4 (「... [さらに]
空相を『空しい:虚しい』に解しては、虚無主義『ニヒリズム』と言うべきであろう。
空相は真実なのである。
142 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 20:28:48 ID:t0aBFgor
>>133 五蘊は空である、とは、識が空である、と言うに帰結する。
色受相行は識に最終的に収まるからである。
真実『神』と虚妄『被造物』が相依相関関係にあるというのは、
識に於いて、判断しているのである。この判断に留まる限り、
識は存在し、識が存在するとは、色受相行が存在している事になってしまう。
識に於いて、縁起していると認『識』されるものは、すべて幻で、無実体であり、真実ではなく、
故に、識における、真実『神』も、その被造物も、共に有るものではないと、言わなければならないのである。
最後に残ったものが真実な『空相:神』である。
論理『理法』を追求すると、このように言わなければならないと思わない?
143 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 21:14:37 ID:t0aBFgor
一切が幻であり、真実が空相であるとわかったら、つぎにすべきことがある。 六波羅蜜の修行であり、八正道の修行であり、12支縁起の逆観の修行である。 要は、善い事をすることである。一切の過去にしばられる事無く、又、未来に縛られる事が無いのであるから、 自分の思う良いことをするのである。
「おのれを空しくする」(聖書) ↑ これがキリスト教における最重要テーマ。 クリスチャンとは空を体得する修行者である。
145 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 22:48:02 ID:ZAQ6MEJ6
>>142 そこで「神」を引っ張りだしてくる必要性がわからない。
キリスト教の「神」と仏教の空相をくっつける思想は、
あなたにとって必要なのか?
なんか、仏教を使って、後だしジャンケンで
キリスト教を弁護してるように思えてならない。
仏教用語を使わずに、聖書の言葉のみで「神=空相」と説明できるのか?
また、そのような聖書の読み方は正しいのだろうか?
146 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 23:07:32 ID:t0aBFgor
>>145 神とは創造者だろう?
創造者は創造されたものではないのだろう?
創造されたものでなく、そのものが存在しているものは、自存者なのだ。
自存者とは、縁起したものではない。縁起したものでなければ、それは空相である。
一相である、無相である。これを仏教用語であるとしてはならない。
何処が仏教用語なのか?そもそも仏教とは真理の教えと言う意味なのだ。
仏教は他のものと縁起関係にはないのである。
キリスト教では、外典に仏教に似たといわれる教えを説いたものが有ると言う。
それがキリスト教の本質なのではないのか?その外典の名前は、ナンだったか忘れたが
その思想はヨハネの福音書に一番影響を与えていると言う。
147 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 23:20:05 ID:t0aBFgor
>>145 キリスト教の教えも、根拠の無いものにしてはならないと思うからだ。
148 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 23:22:29 ID:t0aBFgor
この世が作られる前から私はいる、と言うイエスの自白は、空相を体得したものの自白である。
149 :
神も仏も名無しさん :2008/06/06(金) 23:53:25 ID:fcHJjTpm
>>148 つくられた者が、つくられざる存在と一緒にいることが重要なことで、たとえば「つく
られざる存在」と言ったとしても、つくられざる存在に近づくことはできない。
「主よ、主よ」「空よ」「空よ」と言ったとしても、つくられざる存在に近づくことは
できないから、教えがある。そこが重要。
つまり、言葉を守ろうとすることで、「つくられざる存在を知る」ことができる。
「空相」「空相」と何度言っても、「空相」という言葉はこの世でしかあり得ず、実際、
敵意や憎しみを抱かず、貪らず、一切の苦悩無き世界を真理と愛するように、この世で、
他人の苦悩を取り除く、慈悲やあわれみを心得ていたほうが「つくられざる存在」を知
ろうとしているのだ。
その他諸々の肉の思いを制することで「つくられざる存在」と一緒にいることができる。
教えこそ重要で、「空相」と唱えても、言っても、つくられざる存在に近づき知ろうと
することはできない。
150 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 01:23:58 ID:RPFU7oLZ
>145 自然の法則を神と考えるのは間違いだね。神の世界とは善の世界。だから人間が死んでも、心に悪がある限り、神の国には生まれない。これが真理です。 あの〜〜。真理と言うならそれなりの証拠が要ると思いますよ。喰わなければ死ぬ。 これ真理です。 この世はマボロシだ、とか言う方もいますが、それなら、たとえば食わないでも餓死しないのではないでしょうか。笑
151 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 04:25:18 ID:h+NytuZi
神が空相なので、何かあると思っている人は、神を認めておらず、罪を犯しているのである。 仏教では、善き人、賢者は、何も無いと思っている、と教えている。 イエスもこれに似た事を言っていなかったか?
152 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 06:11:26 ID:5gajSF+V
>>151 じゃあ、神を空相だとして、三位一体とは?
153 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 08:48:05 ID:h+NytuZi
>>152 三位一体とは、神が聖霊であり、父と子は聖霊であると言う意味である。
ここにおける父と子は、消滅するが故に、一となるのである。
いや、父と子及び聖霊も消滅し、一となると言う意味である。一とは一相であり、
無相であり、空相である。
神が空相であることを知らないなら、イエスの様々な教えが理解できない。
せっかくの真理の教えが、なんら理解されないままに、あるのは忍びない、と思うので、
その理解を促したいために、仏教「理法」を持って説明するのである。
154 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 12:54:53 ID:erGha2UY
>神が空相なので、何かあると思っている人は、神を認めておらず、罪を犯しているのである。 勝手に罪人にするな。訴えるぞ。 いくら空だと言っても、四川大地震で圧死する痛みは空でない。お前も圧死すればそれを悟るだろう。
155 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 13:10:18 ID:erGha2UY
>「おのれを空しくする」(聖書) >これがキリスト教における最重要テーマ。 クリスチャンとは空を体得する修行者である。 いえいえいえなにをおっしゃる。 言葉尻だけで一緒にすな。キリスト教は 有ることを信じることで救われるという有の思想。 いっぽう仏教は 諸法無我を悟ることを勧める道。 キリスト教などの妄想を排斥するものだ。 >善人か悪人かを人間が判断することはできません。だから人間は人間に欺かれるのです。 意味不明。 できないなら、人は人に裁かれないだろう。 こんなんだから盲信者は困る。
156 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 14:43:45 ID:DtwkjzE2
358:光の法縁配夢 :2008/05/27(火) 04:05:40 ID:Uv+/J8iD 「勘違い信者」、光の法縁配夢です。どうも霊的感覚も少しおかしいらしいです(苦笑)。 「ジークさんも少しは常識をわきまえなきゃいかんよ」ってたしなめただけなのに、 まったくずいぶんな扱いだよなあ。 ジークさんは以前、自閉症についてもまるで知識を持たないまま勝手なことを書いて、 初代さんに注意されたことがあったろう? あれからまるで進歩していないじゃないか。 『過ちて改めざる、是を過ちと謂(い)う。』(論語) 私は今回の件は、この言葉に尽きると思うけれどね。 188:ローエングリン◆5DG1kcTwhc :2008/05/26(月) 05:59:21 ID:xX9hugOS 追伸: 私を弁護してくださった「法友」(会員以外を含め)の皆様、 ありがとうございますm(__)m (人) 私は○とも思ってませんし、故なき「謝罪」は絶対にいたしませんので、以後 お気遣いなく。穏やかな心、揺れない湖面、不動心、平らかな心で、今日も、 頑張りましょう。(人) 198:ローエングリン :2008/05/26(月) 10:27:28 ID:oq41LY1o 他人の心は自由になりませんが、自分の心は 王国であり自分の責任です。なんでも他人や環境のせいにしてはなりません。情けない心です。
157 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 17:34:20 ID:PhKUG9bN
>>153 仏教の理法ね(w
いったい、釈迦が理法だけ学んで悟れるとでも教えたのかい?
それこそ、理法を知らない無知まるだしだ。
釈迦を軽蔑しているから、世捨て人となった修行僧の行いを無視している。
158 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 18:26:56 ID:h+NytuZi
>>157 理法を理解し、実践するんである。理解しないものを単に、信じて(妄信して)
実践するのではない。これは無理と言うものである。
以下は解深密経の抜粋であるが、この経は、実に仏教の理法を教える経典である。
みなさんが、この経典に取り組まれる事を希望する。
http://qookaku.kitunebi.com/mahayana_sutra/gejin/gejin3.html 世尊 『慈氏よ、心の統一を計る、即ち禅定は、超認識による対象を対象とし、正しい観察、即ち観照(の智慧)は、認識による対象を対象とし、また真如と、真如の活動に対しては、禅定と観照とともにそれを対象とする」
慈氏 「世尊よ、仏の道に向う者は、この四の対境につき、如何様にして禅定と観照とを得るのですか」
世尊 「予が様々な手段方法によって説く、普遍絶対の真理について、よく聴き、善く受け、よく理解し、よく思惟し、よく究め、その心の状態を静かに続けていけば、身も心もこれによって快く安らかになる。
これが 『禅定』 である。 この禅定の境界を求めていくうちに現れる、統一された心について、よく観察し、理解し、認識を超越し、これによって覚めと、安楽と、智慧と、正しき見界と、観察とを得る。これが禅定に従って現れる 『観照』 である」
159 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 18:29:06 ID:w2d+z4Wu
で? 空さん 飛行機からのダイブは完了しましたか?できますよね?
160 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 19:00:34 ID:h+NytuZi
>>159 アホナことを言ってないで、理法を学べ!
161 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/07(土) 19:13:26 ID:ZOeXNU01
人は「悪しき者の配下」「妄執に従属」し、神と永遠は知れなくなってしまった。神を知る時は、 このような自己の思いが完全に無くなってしまい、思考も及ばず、考え出されたものを信じるこ とも神と永遠ではなく、肉の思い(地)を全て滅ぼし尽くし無くして完全に清まった状態になり 神と永遠を知る。 しかし、肉の思いを全て滅ぼし尽くせない人間にとって、教えを善いことと受け入れる心の状態 を保つしかない。 「過ぎ去るものは虚妄」であり、「真理を見る人には何ものも存在しない。人々は自我観念にた より、また他人という観念にとらわれている」「空であり無相」(真理のことば・感興のことば) 一切の悩み苦しみの無い世界をまこととして、「一切皆苦」を悟り、地の思いも、自己のこだわ りも無い。学んだこと、考えられたこと、見たことも消滅するので、心の状態を善くするよう心 掛けるしかない。 《釈尊》 「あなたは悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼 岸に渡りおわり〜麗しい白蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません」 (ブッダのことば) 創世記「へびは女に言った・・神のように善悪を知る者となることを」(創世記) 五感も思考・意向も我ではないと悟り、神が創造された自然の中で瞑想修行し、静けさを楽 しみ、自分の粗雑な思考をおさめとった修行僧。 「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは・・・未来のことにあくせくすることもなく、ただ現 在のことだけで暮らしている」(神々との対話)
162 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/07(土) 19:15:35 ID:ZOeXNU01
「平安の境地に達して・・・一切の生きとし生けるものは、幸せであれ、安穏であれ、安楽であれ、 あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものども に対して無量の慈しみの意を起こすべし〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈し みを行うべし」(スッタニパータ) 「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない」(神々との対話) 五感を抑制し、第六の思考を静め、自然の中で静けさを目指し、不死の境地に達してから人知 ではとうてい測り知ることのできない神の平安に達して、一切の悩み・苦悩から解き放たれた 世界を何よりも真実なものと知ってから、この世で一切の生きとし生けるものどもに対して慈 しみの意をたもてと教えた釈尊。 《イエス》 五感を抑制する修行をするのではなく、「上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右 に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引 かれてはならない」(コロサイ人への手紙) 「敵を愛し、憎む者に親切にせよ〜いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからで ある。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」(ルカ) 修行により神と不死を知るのではなく、上では地上のものに心を引かれず、このような「悪し き者の配下」にある人間の思いは一切無く、一切の悩み苦しみから解放される神が存在する。 そこで、悩み苦しむ人々を神のわざでいやし、父を敬するように私を敬するようにして、永遠 の心を保つように教えたイエス。
163 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/07(土) 19:17:44 ID:ZOeXNU01
神と永遠を知る人は、地上の思いや、自分へのこだわりを捨て、一切の苦しみ悩みを厭い、全てを 安穏に安楽に、地上のものに囚われない安らいだ幸せを自身の内に保とうとする人。 全て無になるのではなく、在るから宗教の教えはある。 「人によくしてやることは善いことだ」と人が思うのは、その神が在り、その神に通じる心がその 人の内に具わっているから。 「敵意や憎しみ、怨みを抱いて争うことは、幸せなことではない」と人が思うのは、その神が在り、 その神に通じる心がその人の内に具わっているから。 「他人は別と思わず、悩み苦しんでいる人を助けてあげよう」と人が思うのは、その神が在り、そ の神に通じる心がその人の内に具わっているから。 地上のものに惑わされず、自分に負けず、そのような教えを心に抱いて守ろうとする人は、神 と永遠を知ろうとしている人であり、肉欲と地上のものへの執着こそが、死後無となり、その ような心を保っていると滅びに至る。 神と永遠は上に至り完全に知り、その時、全ての悩み苦しみ無き世界を何よりもまこととして愛す る。「あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容、愛」を人である時に保とうとする心は永遠。 地上のものに心を引かれないように努めようとする心は永遠。 「聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけ のものであると知り」(感興の言葉) 教義だけ学んでも、その心の状態が善くないと神と永遠は知れない。
164 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 22:13:05 ID:h+NytuZi
永遠とは時間と空間の消滅である。
165 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 22:41:28 ID:5gajSF+V
>>162 キリストが神の右に座している
…っていう言葉は無視かい?
神には体があり、だからその右にキリストが座することができる。
キリスト教の神は無相ではなく、
姿形のある、ゼウス様みたいな人格的な神じゃないのかな?
結局、聖書を素直に信じられないから、
仏教的な解釈を加えて自分に納得できるようにねじまげて、
キリスト教徒である自分の面子を保とうとしてるだけでは?
素直に聖書を読んで、
書いてあることを書いてあるままに
信じられないなら、
信じられないでいいじゃないか。
聖書なんか信じられない、キリスト教徒やーめた…ってなぜ言えないの?
166 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 23:39:34 ID:h+NytuZi
>>165 >神には体があり、だからその右にキリストが座することができる。
神に体があるのなら、何故十戒に、神の像を刻んではならない、と戒められているのか?
キリスト自身が、自分は神と一体であるといっている。一体なものがどうして、並座出来るのか?
キリストは神の右に座しているとは、誰の言葉か?
前後を含めて引用されたし。
167 :
神も仏も名無しさん :2008/06/07(土) 23:58:05 ID:ZOeXNU01
>>165 神そのものが人間を罪としているから、目の欲など身体の感覚を捨てないと
神の右にも座せない。むしろ、見えないからといってその人は神から見捨てられて
いるわけでもなく、持ち物がないからといって神から見捨てられているわけでもな
く、身体の特徴により誰でも神から見捨てられているわけではない。
地上での今、自分を清めないと神にも出会えないということだろうな。
しかし、人は完全になれないから、イエスに罪をゆるす権威を与えた。
不完全でも、神の言葉を受け入れていることで、いつか神に出会えると。
168 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/08(日) 11:16:52 ID:7If74/uL
>>165 「この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがた
にできない事は、何もないであろう」(マタイによる福音書)
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言った
としても、その言葉どおりになるであろう」(ルカによる福音書)
「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言
い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」
(マルコによる福音書)
そのことを真実として体験しないと、神と永遠の命はわからない。
「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから
来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」(ヨハネによる福音書)
そのことを真実として体験すると、神と永遠の命が全てわかる。
169 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/08(日) 11:17:57 ID:7If74/uL
すべての人は罪を犯したため、神を知ることはできないようになっている。このような今の人間の ままでは、神を見ることも全く無い。偶像を抱く人間も朽ちる。 その神と不死を知ろうと思うなら、神が創造された自然の中で、妄執(罪)を断つ修行に励まない といけない。 「荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、 その日数がつきると、空腹になられた」(ルカによる福音書) 「イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにし ておられたが」 罪を犯し完全にならなくとも神を知ることができるようにされたのである。 不死と「神を信じなさい〜だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い」と地のこ とを思うこと無く、自己の思い煩いも無く、このような今の生存状態の思いも一切無く、全て の苦悩を取り除かれる神はひとつの心の状態で知り、偶像を描ける思いも、人間が今の状態で 見えることも悪しき者に従ったから生まれたのである。 だから、人は偶像を思い描くこと無く、形あるものとして識別すること無く、今の状態で見るこ とができるようになると思うこと無く、地と自己のことで思い煩うこと無く、神のわざであわれ みのわざを行ったイエスを信じるように、他人の苦悩を取り除こうとすることは、自分の地の思 いより善いことだと思っていないと、不死と神は知れず天国に入れず、神の体も知ることもない。
170 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/08(日) 11:18:55 ID:7If74/uL
地のことを貪り悩むこと無く、あわれみのわざでこの世で苦悩を受けている人をいやしたイエス を信じるように、他人の苦しみ悩むことを取り除くことは善いことだと思い続けていないと、 人間の欲で偶像を描き形あるものを望んでも、神の体を知ることはない。
というわけで 今週中に山動かします。 お楽しみに。
172 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/10(火) 20:20:25 ID:c+nvzsP0
つくられざる存在(神)を知る時は、 地上の思い煩いも無く、自分のことに囚われること無く、 「盲人で口のきけない人を連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見える ようにされた」 そのように自分のことも忘れて、全てを苦悩無き幸せにされる神を何よりも善いものと受け入れ る。そして「あなたがたにできない事は、何もないであろう」という言葉を真実として知る。 しかし、自分には地上のものに心引かれる欲念が残っており、 「悪魔は〜これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう」 この世の栄華や権威を多く手に入れようという「野望の妄執」というものに従って、現在の人間 の境地に戻った。 「からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとして も、その言葉どおりになるであろう」 全世界は悪しき者の配下にあることを知っているし、自分を善人とできる人はいない。 そのように神通力ができない人を、聖者だとして信じなくてよい。 神に対しては、全ての人は罪しかない。この世のもののために、人は罪の重荷を背負って生きてい る。自分の考えたことに従えと言える人はいない。
173 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/10(火) 20:21:25 ID:c+nvzsP0
「自分を義人だとして他人を見下げているより、おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低 くする者は高くされるであろう」と教えるイエスは正しい。 「しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ」 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても。わたしはその人をさばかない〜 わたしの言葉を受け入れない人は、その人をさばくものがある。わたしの語ったこの言葉が、終わり の日にその人をさばくであろう〜この命令が永遠の命であることを知っている」 永遠は敵意も憎しみも無いし、人によくしてやり、何も当てにしないで貸してやることが善いこ とだと思うことは、その人の内に永遠に通じるものがあるから。それを失わないように教えるイ エスは正しい。
174 :
何もできない霊力 ◆/RmMHsJvGs :2008/06/10(火) 20:27:47 ID:bHh/OBjq
すべては空なので 秋葉原無差別殺傷も単なる思い込み現象である。気にしないで放置しよう。
175 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/11(水) 21:38:01 ID:TAErxGY7
神と永遠は地上のものに心引かれること無く、一切の苦悩も無く幸せである。 持ち物の誇りや目の欲、地上の栄華や権威を求めて得ようとすること、得たものを誇るのは悪魔から 得たことであって、悪魔から人は重荷を背負わされている。 それらを得たことで、人に素晴らしいと顕示すること、顕示させること、 それらを得ることを、正しいように思うこと、思わせること、 それらを得ている人を目標にしたり、羨望することは悪魔から得たものに従っている。 飲み、食い、享楽を貪り、善いことをした、正しいことをしたと人が思わないように、肉欲を満たす ことは善いことではない。 しかし、肉欲を満たすことが素晴らしいと思わせる真理の法に背く世の中の風潮が、肉に悩む人の心 の闇を増大させ、他人の幸福を害い、平安を害う真理の法に背く行動の原因となる場合がある。
176 :
何でもできる霊力 ◆GOlfzrLHQ6 :2008/06/11(水) 21:38:57 ID:TAErxGY7
医者は病人を治し先生と尊敬される。病という苦悩を治して、人々から尊敬される。 世の中を平和にする立場の人々が、平安という真理を善として、世の中を平和にするよう考え、 そういう立場でない人々は、過ぎ去るものは虚妄として、世の中のことに対してくよくよと思い煩わ ない。 思い煩うという真理の内にいない人は、その人が善い状態ではない。 イエスもブッダも所有物を貪ること無く、快楽や享楽を貪ること無く、慈悲を教え、、世の人々が真理 に背くことを善いことと思わないように、真理に背くことを正しいように思う見解を持たないように、 イエスやブッダと修行僧を尊敬させるよう教えた。 「修行僧たちよ〜多くの人々の利益のために、多くの人々の幸せのために、世間の人々をあわれむ ために、神々および人間の利益のために、幸せのために、遍歴をなせ」(悪魔との対話)
177 :
神も仏も名無しさん :2008/06/11(水) 22:52:49 ID:KwbLSOFG
過去には何も生じておらず、未来にも、何も生じない。あるのは縁起している幻である。 縁起してるに過ぎない幻であるが故に、何も無かったし、これからも、何も生じるのではないのである。 アキバの事件も、実に何も生じているのではない。
178 :
神も仏も名無しさん :2008/06/11(水) 23:12:45 ID:UCgpsjPt
↑ これも空である。あれもである。すべてが空である。鈴木も空である。
179 :
神も仏も名無しさん :2008/06/12(木) 08:14:45 ID:cvSjnNrQ
縁起現象を、イコール空相であると言われることが有るが、これは激しい間違いである。 この間違いは、真実に至る道を妨げると思う。 諸法とは縁起現象のことである。そして諸法とは、幻の事である。 幻とは嘘偽りの世界のことである。虚妄の世界の事である。 虚妄の世界のことを縁起の世界と言うのである。 にもかかわらず、虚妄=縁起=幻=諸法と死、ここまでは真理であるが、 更に、これらに、イコールとして実相、空相、一相などと追加する事は、 仏教に盲目である事を示すものである。それは虚妄と真実が同じものであると言うに等しいからである。 それでは修行はありえない。 真理と真実を正しく弁別しないと言うところから、このような間違いが生じているのではないか?
180 :
神も仏も名無しさん :2008/06/12(木) 08:25:33 ID:S3ps1YQ6
身は不浄、受は苦、心は無常、法は無我。 涅槃は、身でも受でも心でも法でもない。
181 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/06/12(木) 08:39:23 ID:m6WI6pY7
>179 仕方ないよ。 空見さんなんだからさ。(笑 てか、基督教徒が仏教哲学を理解出来る訳無いし。(笑
182 :
神も仏も名無しさん :2008/06/12(木) 12:40:44 ID:S3ps1YQ6
>>180 この場合の法とは、色声香味触法の法、
つまり、心・意識が考えたり感じたりする対象(ものごと)総てのこと。
183 :
神も仏も名無しさん :2008/06/12(木) 17:20:40 ID:cvSjnNrQ
>>181 >基督教徒が仏教哲学を理解出来る訳無いし。(笑
その訳を詳しく。
184 :
神も仏も名無しさん :2008/06/12(木) 17:52:18 ID:Bw6Tu9ZH
仏教哲学なんてただの言葉遊びに過ぎない。 釈迦は言語表現だけのものとして、仮に弟子に教えを語ってもよいとしただけ。 釈迦とその弟子は、世捨て人となり静かに瞑想して真理に到達しようとしたし、 怠け者の信者が言語に執着し、自分がわかったふりをするのが仏教となっただ け。 離欲を達成したなら教えも捨て去らねばならないとある。誰も釈迦の教えなど まともに信じちゃいないのサ。
185 :
神も仏も名無しさん :2008/06/12(木) 18:39:23 ID:cvSjnNrQ
>>184 >仏教哲学なんてただの言葉遊びに過ぎない。
寧ろ、言葉遊びを排してるんじゃない?
名称と形態を破壊せよ、というのが教えなのだから。
186 :
神も仏も名無しさん :2008/06/12(木) 20:22:13 ID:doVqMY+k
釈迦は言語表現すら無いと悟っていた。そして瞑想をし離欲を達成した。だから自ら文章として教えを残さなかった。 弟子たちは離欲を達成するため教えを残した。後々まで教えを励みとして離欲を達成させるためである。離欲を達成したら教えを捨て去る ことも教えとして残した。言語表現すら無いからである。煩悩から悪を生じさせない教えも残した。 離欲を達成できない在俗信者には、離欲を達成した釈迦や修行僧を尊敬させ、離欲を心得るようにさせた。 仏教徒が言語表現されたもの、目に見える信仰対象物の違いで論争するのは、釈迦の教えから離れ愚鈍だからだ。 離欲を心得させても、論争をしないというのが教えなのだから。
宗論はどちらが勝っても釈迦の恥、ともいうが論争は古来絶えない模様。 まぁ、金持ちケンカせずってこったな。マターリいこうぜ。 農民芸術概論綱要 宮沢賢治 序論 ……われらはいっしょにこれから何を論ずるか…… おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった 近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
188 :
神も仏も名無しさん :2008/06/12(木) 23:32:03 ID:z98uLgjz
衣食住のない時代に快適をゆるした。 五欲の対象に貪欲なことをゆるさなかった。 満足しないことを貧しいと説き、 何も持たない幸せを示し、 貧しい人にも真っ直ぐな道を示した。 今、世界は貪欲な者が人の自由を奪い、 世の中を混乱させ、環境を破壊する。 行為で他人に幸せを与え、 分け与える人は、他人の衣食に不自由を与えない。 世界の人々の幸福に尽くそうとする人々が増えれば、 世界と個人の幸福は害われない。 一への意識は誰かの考えでもない。 貪欲もない、 一切の生きとし生けるものの幸福と安穏と安楽な、 誰でもわかる一切の幸せを思う慈しみのこころづかいだ。
189 :
神も仏も名無しさん :2008/06/13(金) 00:20:05 ID:kbPAvNay
自分で書いた書物を残していないのが共通してるな。宗教の教祖になるには書物を残してはいけないということだ。
190 :
神も仏も名無しさん :2008/06/13(金) 11:14:51 ID:VPMZJMJO
空だから国道を無傷で渡れます。という者が居るが それでは90日間絶食してみてくれたまえ。 できるだろ?空なら
「仲良く」自分自身だけ「救って」互いに黙っていれば他にとって 一番良さそうなのしかいないな。エサが悪いんじゃないか? およそ表題のどちらにも似ていないが、そうなると、 表題にある二人は良く似ていたということか。
192 :
神も仏も名無しさん :2008/06/13(金) 14:18:49 ID:yy45hvfY
>>90 ほんと、すべて空だから奇跡を起こせるといのは変な理屈だよね。
なぜ一切は空(実体がない)なのかというと、
一切は縁起により成り立っているから。
肉体も、食べ物などのさまざまな因縁により成り立っている。
だから、肉体にはゆるぎない実体がなく、
肉体はたった90日の絶食で壊れてしまうような儚いシステム。
縁起・空だから、はかなくもろい肉体。
だから肉体に執着するなというのが仏教のはず。
193 :
神も仏も名無しさん :2008/06/13(金) 20:52:07 ID:GTPbNm3S
>>192 >縁起・空だから、はかなくもろい肉体。
空、一相、無相なるものが真実として、実在するので、そして、肉体のようなものは、真実に存在するものではなく、
幻に過ぎないので、執着してはならない、というのが仏教である。
>空であるから、はかなくもろい存在、と言うと、ニヒリズムとなるから、注意すべきであると思うが。
194 :
神も仏も名無しさん :2008/06/13(金) 22:33:51 ID:SqvExr1+
言語表現すら無い。 離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、捨て去らねば ならない。 哲学的な見解により確執を起こすことが無い。 哲学を否定。考えられたことに固執しても悟りに至らない。 生命に固執せず→自殺→葬儀・法要によって成仏しない。 自己の断滅の妄執は悪である。瞑想修行により、世と自己の苦悩を捨て去るよう努め、妄執 を断じて、彼岸に至る。 健康的な精神。 美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちもよく起き上がった。世と自己に対する悩 み少なく、物質的なものに執着せず、満足に努め、いつも清々しい心でいる人は、危険人物 とならない。 他に対する執着をせず、憂いと見ること。 世間に対し、他に対し、憂いと見ることで、思考通り、意向通りにならない煩悩の苦悩から 遠ざかる。理不尽なことも、思考・意向通りになる執着の苦しみから遠ざかっているという 見解を持つことで、悪いから危害を加えようということにもならない。 利益を目指さない友を得、自分の思考通り、意向通りにならぬ時も別れない。
195 :
神も仏も名無しさん :2008/06/13(金) 22:34:40 ID:SqvExr1+
世界は貪りと憎しみによって消滅する。 貪りと憎しみにより、世界は滅びると予言。 世の欲望などから離れた人を賢者、享楽などを求める人を愚者。 享楽・物欲などに貪欲な人より、何もしないでも貪欲から離れ、静かに瞑想し生まれないこ とを目指す人や、施し与え、分け与え、渇に苦しめられていた人を助けたり、あわれみの善 い行いをして神々の世界に生まれると示す。 現実社会でも、五欲の対象などを満たし誉れを受けている人よりも、何もできなくても慎ん で満足して暮らしている人のほうが、地球環境にやさしいし、人々の幸福のために、世間の 人々に同情し、安寧な暮らしのために専念している人を褒め称えることで、世間の人々は正 しい見解を得る。 釈尊は、欲望により盲目になった人々に、正しい見解を持つよう教える。
196 :
神も仏も名無しさん :2008/06/14(土) 07:54:51 ID:V7AQHnKz
>193 ニヒリズムって悪いことなのかなぁ。 まぁ、仏教には慈悲もある。 苦悩の原因を消して苦悩を消すのが仏教。 本当は執着に値しない肉体でも、 それを悟っていない人にとっては肉体を奪われるのは苦悩につながる。 だから、悟ってない人に対して肉体を傷つけたりしないのも慈悲。 大人からみたらくだらないおもちゃでも、 子供にとっては宝物だとする。 くだらないから捨てろというのは確に真実を指摘しているが、 くだらないと理解していない子供にとっては、 おもちゃをとりあげられることは苦悩になる。 だから、やみくもに子供からおもちゃをとりあげるのは、 慈悲に反する。 仏教がただのニヒリズムではない点は、そこだろうか。
197 :
神も仏も名無しさん :2008/06/14(土) 08:00:07 ID:V7AQHnKz
>>193 真実として「実在する」と言う言い方は、
実在・存在への執着になりはしないかな?
結局、真実であれば存在してほしい、
存在すること自体はすばらしいという、
存在することの美化、ひいては生きることの美化になるのでは?
それこそが煩悩の親玉である無明でしょう。
仏教の涅槃は、真実の存在に入ることではなく、
虚妄の存在から消えて亡くなること、
平安なる滅びに入ることでしょう。
198 :
神も仏も名無しさん :2008/06/14(土) 10:51:57 ID:2suu7bZU
>>197 人の執着心と言うのは、そのものが無いと自分は亡くなってしまう、と言う恐れがあるからであると思う。
そして、ついにその執着の対象が消滅すると言う事態になってしまうのであるが、そして、その解決策として、
人はその執着心を他のものに遺産として継承させるのである。このようにして真実を知らない限り、
永遠に輪廻を繰り返すと言う地獄から抜け出せない、というのが仏教ではないか?
今真実として空相である、無相である、一相であると言うことを、理解したものは、
無相なる真実が実在すると言うことを知ったから、虚妄の幻を捨てることが出来ると言うべきではないか?
虚妄の幻を捨てるのは、決意を必要としている。従前の習慣からの脱出である。
脱出先が解らないでは、その決意(これを菩提心とか、言うのであろうか?)は不可能事ではないだろうか?
無相と言う真実の世界が有ると言うこと、そこは、従前の世界と異なり、清浄:幸い有る所、麗しの世界である、と言う
理解をするから、修行ができるのであると思うのだ。
>虚妄の存在から消えて亡くなること、
平安なる滅びに入ることでしょう。
というのではなく、虚妄の世界を滅ぼすのである、と言うべきではないか?
この故に、阿羅漢(アラハット)とは、絶滅する人、と言う意味があるというのだ。
煩悩を絶滅するのである。
真実であるか虚妄であるかその判定は自分がするのである。他の誰かがしてくれるのではない、そんなことは出来なのである。
そのときの自分とは、空相を追及する自分であり、その自分が空相と異なるものとなる事は、追及する修行と矛盾するので、
ありえなく、自分とは、空相と言う真実に他ならないのである。空相とは無我の別名である。
>平安なる滅びに入ることと、言うと、真実の世界と言う目標がない。
真実の世界がどのようなものかの説明は、方便として真理の教えがあるが、
真実の世界そのものを、煩悩と言う炎がロウソクの非が消滅するように、消滅したところにある、
というのは、真理である、といえるとしても。
199 :
神も仏も名無しさん :2008/06/14(土) 15:59:49 ID:PcP/VZzO
>>196 「この世において欲望を制することなく、美味を貪り、不浄の生活をまじえ、
虚無論をいだき、不正な行いをなし」
仏教は虚無主義を悪としている。
200 :
神も仏も名無しさん :2008/06/14(土) 20:20:02 ID:LX+s58VU
>>196 仏教は脳内宗教家らによってつぶされた。学問のようなものに勘違いされ、脳内宗教家が経典から学んだ
ことを更に自分の脳内で考え、教え伝え仏教はつぶされた。
釈迦は世捨て人となり、楽しみ、所有物の有無にかかわらず、楽しみ多い人生を教えた。
世の人に善い行いを教え、物のある人が貧しい人を助け、分け与えを奨励した。
また、世の中のこと、物質的な思いより、心の内にある平安を尊重することを教え、戦争
や争いごとを厭う心の持ち方を教えた。
キリスト教より勝れた教えで、内にある安らぎを求めることで戦争はしない。
神頼みせず、人間の行いで人を助けるので、いざ災害などでは仏教の慈悲のこころづかい
が実際人間を助けているという現実を説き明かす。
キリスト教が不十分だったので、キリスト教国は金と物の執着を生み出し、満足しない不
幸を世界に及ぼし、金を追い求める人のみが幸せと感じる原因を作り出した。
201 :
神も仏も名無しさん :2008/06/14(土) 20:42:11 ID:LX+s58VU
神って何?と考えさせるより前に、内にある安らぎを求めることで、安らぎの世界に生まれるから、 離欲と安らぎの素晴らしさを求めていけばよい。 安らぎと平安を絶対的な真理と示し、心の内にある安らぎに反すること、平安に反する行為などをやめる よう努め励んでいればよい。怒りや嫉妬、怨みや憎しみなども心の安らぎに反する。 人助けなど善いことを神々の世界に生まれるとし、善いことをしない人が増えるということでもない。 欲望やこの世の楽しみを捨てきれない人は、この世に生まれるとし、行い(業)の悪い人々が増えると、 この世の幸せどころか、楽しみさえ得られない事実。自分の業(行い)に責任を持つことが大切である。 戦争など他人を苦しめた業は自分に返ってくるから、他人を苦しめないことに努めようとする。 人はその理法を知って、自分が思うがままの自分の主となる。自分の行為、この世に生まれたく なければ離欲に努めることに気をつければよいわけだ。 全ては人の行為と、その人の思いと努力によって決まる。
202 :
神も仏も名無しさん :2008/06/14(土) 23:16:12 ID:+8ehV72m
まあ、死んだほうがましのような仏教の捉え方から、 全てを失ってもそれを糧にして、彼岸に達するという喜びを与え、 何もない者の勝利者を教えさとす。 欲望から離れ、二度と生まれない勝利者となる目標や、 欲望から離れられず、敗者となる者も善い行いにより報われ、 金銭欲や物欲にまみれた先進諸国も、 全世界は平等で徳を積まないと来世の報いはないと。 人の世は人の行いによって良くも悪くもなり、 そこに信じて気に入られて、自分に利益を与えてくれる存在はないと。 母が己が独り子を命を賭けて護るような慈しみがこの世で崇高で、 死んだほうがましな人間だったら、 そのように命を賭けて、全世界のために善い行いをなせと。 釈迦の教えに虚無主義なし。 それらのことが何も行えないのに、 理屈だけ崇高になろうとする人間が、 教えを枉げて、仏教を苦しかったら自分に執着せず死ねと 思われるものに変化させ、 ただ、この世は苦しみだからという虚無主義に変える。 釈迦自身は、世の中から離れ、 自分は自然の中でかの世のこの世も望まず楽しみ、 その欲望から離れた楽しみの中で、 二度と生まれない勝利者を語っていたのだ。
203 :
神も仏も名無しさん :2008/06/16(月) 22:42:06 ID:rQuQ2rDZ
無我の人間が、死ぬと言うことは道理としてない。 釈尊が水がほしいといって死んだ、と言われているが、釈尊が、 真実死んでしまうのであると思っていたと考えてはならないと思う。 無我の人は、自分の身体が自分であるなどと思っていないのであるし、又、 自分の受想行識が自分であるなどと思っていないからである。 従って、釈尊が心で2500年経っているといわれているが、我々仏教と言う真実の教えに接しているものは、 今も釈尊が、存命中と同じに、われわれに接して存命 していると考えるのが正しい見方(正見)ではないだろうか?
204 :
神も仏も名無しさん :2008/06/17(火) 00:29:34 ID:jsjgnJT8
>>203 いや逆に、さとりを開いてブッダと成った次の瞬間には、
もうブッダは消滅しているとも言えるのでは。
205 :
◆OlsfYIGODM :2008/06/17(火) 02:18:10 ID:6rfOGBrw
キリストもブッタも、我々と同じ人の形を全うした。 きっと転んだり、屁を放ったり、赤面したり... そこから弱い他者に惑うことなく悟りへ、高見に登り続け、闘い続けたようですが。 我々の様な低次元に自己を説明するのは面倒だったのでは? 黙ってイメージしたりする。 時空を越えて
206 :
神も仏も名無しさん :2008/06/17(火) 08:59:43 ID:lrg8VgKR
207 :
神も仏も名無しさん :2008/06/17(火) 17:44:33 ID:HsF/S7AZ
>>205 他の人々の主である人が弱い人々を忍んでやるならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに同情して
忍んでやらねばならぬ。
イメージだけで悟れるなら、修行僧の行いはいらない。経典に書いてあるものを否定する人間は低次元。
経典に書いてあるものを無視して、自分の思いを言うから、低次元が直らないのである。
208 :
◆OlsfYIGODM :2008/06/17(火) 18:30:36 ID:6rfOGBrw
>>207 経典なんぞ、周りの弟子が必死こいて書いたもんなのに・・・
そこから学んだことは多いけど、鵜呑みにはできひんて。
透明に近い心でフィルターかけないと
間違った解釈に近付くよ。
だって我々弱いし自己満足好きだから・・・
最上の忍耐って経典書いた弟子に向けられたはず
209 :
神も仏も名無しさん :2008/06/18(水) 17:05:12 ID:z/qUH3BP
>空だから国道を無傷で渡れます。という者が居るが それでは90日間絶食してみてくれたまえ。 できるだろ?空なら ほんと、すべて空だから奇跡を起こせるといのは変な理屈だよね。 なぜ一切は空(実体がない)なのかというと、一切は縁起により成り立っているから。 肉体も、食べ物などのさまざまな因縁により成り立っている。 だから、肉体にはゆるぎない実体がなく、肉体はたった90日の絶食で壊れてしまうような儚いシステム。 縁起・空だから、はかなくもろい肉体。 だから肉体に執着するなというのが仏教のはず。
210 :
神も仏も名無しさん :2008/06/18(水) 19:51:10 ID:sp9PHxXF
>>209 >縁起・空だから、はかなくもろい肉体。
ここは違うよ。縁起であるから、はかなくもろい肉体、と言わなければならない。
しかし、空であるから、はかなくもろい肉体、ではないのだ。
空と言う実相には、はかなくもろい肉体など始からないのである。
イエスは、宣教を始める前に、荒野で自分を試した。40日間絶食したといわれている。
彼はそのために死んだ、とか、空腹と闘ったと言う話はない。
人はパンのみによりて生きるに有らず、神の言葉により生きる、とは、神の言葉を理解すると、
パンはパンでは無くなるのであるから、神を理解しないものには、絶食しているように見えても、
神の御心を行うことが、食物となって、彼は死ぬ事がないのである
かなり苦しい主張かw?
211 :
神も仏も名無しさん :2008/06/18(水) 19:55:45 ID:622keQvV
というわけで仏教とキリスト教は真逆なわけだが さあはやく90日間絶食してみてくれたまえ。 できるんだろ?空なら
212 :
神も仏も名無しさん :2008/06/18(水) 20:01:08 ID:sp9PHxXF
さて、真実があって、それに反して不真実を唱えるものがいるわけであるが、 真実の世界に入っているものと、不真実の世界にいるものと、はっきりと差別される時が必ず来なければならない。 それがイエスの言う裁きである。
213 :
神も仏も名無しさん :2008/06/18(水) 20:48:45 ID:AbTEnBjU
という妄想でした。 仏教は 妄想を排する教えです。
214 :
神も仏も名無しさん :2008/06/18(水) 21:05:17 ID:sp9PHxXF
仏教も、実相を体得しない限り、六道輪廻すると教えている。 解脱する時は、その知見をうると教える。この知見が、はっきりとした差別をもたらすのである。 知見を得たものには、煩悩の入り込む隙がない。煩悩とは六道輪廻する心である。 六道輪廻する者は、解脱した人に近づくことができない。ここに裁きがある。 イエスが裁き主であるというのは、世界中に自分の行いと言葉が知られている状態で、 その死が、何にもないものであると言うことを証明しているのである。この不死 を証明したのである。これが真実である。これを疑うものは不真実の世界にいるのであり、それはその人の真実を認めないと言う罪なのである。
215 :
神も仏も名無しさん :2008/06/19(木) 21:50:20 ID:J0MulNVd
>真理は真実のことです。 真理とは、「信じなければ死後裁かれるぞ」というような、「根拠も無く証明も出来ない論理」ではありません。 いつでもどこでもあてはまる、普遍的なものです。 よって、キリスト教や日本の新興宗教やイスラム教のような、その教義を信じた者だけにあてはまる理屈は 真理ではない。
216 :
神も仏も名無しさん :2008/06/20(金) 17:41:42 ID:hpLp4pQw
>>215 真理と真実は区別すべきである。真理イコール真実ではないからである。
真理は無数に存在しえるが、真実は唯一つとしてしか存在し得ないからである。
217 :
神も仏も名無しさん :2008/06/21(土) 07:20:15 ID:F2iJmsRq
そういうことじゃねえだろボゲ
218 :
神も仏も名無しさん :2008/06/21(土) 12:07:19 ID:bHcfiQZi
もし、真実が仮に二つありえると言うなら、それは矛盾している。 その二つの真実をAとBとしよう。 Aは自分だけが真実であり、自分以外に真実はない、と主張しているので有る。 Bも同じく、自分だけが真実であり、自分以外に真実はない、と主張しているので有る。 ところが、貴方は、AもBも真実であると、言うのであるが、それでは質問しよう。 Aが真実であると認めるなら、Aが否定するBを認めないことになるのではないか? それであれば、AもBも両方とも真実であるとはいえないではないか?Bの側から言う場合も同様である。 であるから真実が二つ有ると言うことはありえないのである。 次に真実が唯一のものであるなら、それはそれ以外の他者を認めないのであるから、唯一の存在として 有るのであり、唯一の存在としてあるものなら、無相なものとしてなければならないのである。 無相とは、認識できるいかなる変化も絶無であると言う存在の事である。
219 :
神も仏も名無しさん :2008/06/21(土) 13:07:11 ID:bHcfiQZi
>>218 続き
真理と真実が同一のものというのなら、真理も一つのものでなければならないが、
真理が一つのものと言われる根拠はない。
例えば、福音書のイエスの言葉は、イエス自身が自分で、私の言葉は真理であるといっていないか?
その言葉は、単一のものと言うべきか?
例えば、「貧しいものは幸いである、天国はその人のものである。」「富んでいる人が天国に入るのは、
ラクダがが針の穴を通り抜けるよりも難しい。」。また、「左の頬を打つものには、右の頬をも向けよ、」「上着を奪うものには、下着をも与えよ。」
等。
これらの言葉をイエスは真理であるといったのである。これらの意味することは、単一の事を言っているといえるか?
到底単一のことを言っているとは見做しえないのである。
又釈尊のスッタニパータの言行録は真理の言葉といわれている。イエスの場合と同様に、
単一を言っているとは到底見做しえないのである。
しかしこれら聖者の言行録は、真理であると言うのに障害はないのである。
なぜならその通りであるから、道理であるから。
どうして道理であり、真理といわれるべきであろうか?
それは真実をバックとする言葉であるからなのだ。唯一の真実がそのような真理の言葉、道理を導き出すのであるからなのだ。
真実から来る教えの言葉は、であるから、無数に有るといってもいい。
故に、真実と真理は弁別すべきである。
220 :
神も仏も名無しさん :2008/06/21(土) 16:08:20 ID:AIx0qKXn
いいからはやく90日絶食してよ空ならば
221 :
表現より状態が肝心 ◆MbUUVUuxNA :2008/06/21(土) 17:33:10 ID:6oOdJImN
言語表現されたものに執着しても、それは虚妄なるものである。人が行動する時も、真理を希求 しようとして、静かに瞑想なり、荒野で断食しようが、言語表現されたものだけにこだわり、今 その状態でないならば、その人は真理から遠い。 たとえば、何も迷いなく、精神を安定統一して、自分の欲得のことに心奪われず、肉の主人に仕 えることに精神を集中し働いている人より、言語表現されたものに執着し、正しいと言っている だけになる人は、真理から遠い。 「真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。」 「安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理 をさとるが故に、快を貪ることなく平安に帰しているのである。」 イエスもブッダも、真理ができる状態にしようとして真理の言葉を語り、その言葉を行って いる状態で人は真理に近づけるようにしたのである。たとえば、争い快を貪ることがなけれ ば、人はその状態で真理であり、「快を貪ることがない」という言語表現されたものを学ん で快を貪っても真理でなく、「空と無相」を学んでも、今「空と無相」でないならば真理で はないのである。
222 :
論より証拠が肝心 ◆/RmMHsJvGs :2008/06/21(土) 17:48:21 ID:AIx0qKXn
いいからはやく90日絶食してよ空ならば 真理はあるがままだが キリスト教義は妄想なので困ったものですね。
223 :
神も仏も名無しさん :2008/06/21(土) 19:07:14 ID:bHcfiQZi
>>222 空であるので、食物なるものもなく、時間なるものもないのに、どうして絶食なるものが出来るのか?
224 :
神も仏も名無しさん :2008/06/21(土) 22:41:04 ID:EqTPpfYR
絶食できないならおまえは 何故インターネット書き込みできるんだ? そっちの方が困難だろ? 絶食は喰わないだけだぞ?
225 :
神も仏も名無しさん :2008/06/21(土) 23:09:32 ID:fk2skq27
空であるので、食物も時間もない。どうして絶食できるか? 空であるので、インターネットもない。食物もない。どうして食べることができるか? つまり、教えなどのやりたくないことは理由をつけてやらず、やりたいことは理屈 をつけてやる。 自分はめいいっぱいメロンなどおいしいものは食べ、信者から尊敬されたオウムの麻原と同じ。 自分はめいいっぱいおいしいものを食べ、立派な修行僧となったと思うのと同じ。 理屈だけの立派なバカ。変な理屈をつけて教えを枉げず、やれることからやれよ。
226 :
神も仏も名無しさん :2008/06/21(土) 23:52:02 ID:bHcfiQZi
私は何も食べていない。食べた事もない。これからもなにも食べる事はない。 インターネットもしていない。これが真実に生きるものの心境である。
227 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 00:29:25 ID:ZtyHAjos
キミは食べた事もないのかい。なら断食は一生できないなあ。 心境? 食べた事もないという心境ですか? 実際は喰っているのですか? 心境なんて聞いてないから。
228 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 00:30:47 ID:Od0AQqfP
イエスは4月うまれ。ブッタも4月うまれ。
229 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 09:06:22 ID:MKAczXfe
>>226 泥棒が捕まり、私は盗んでいないと。
そんなの仏教かよ!
230 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 09:15:10 ID:iACkSKw7
モーニング2 ブッダとイエスが1ルームアパートで同棲シェア生活する漫画『聖(セイント)☆お兄さん』を読もう(・∀・*)!
231 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 09:26:28 ID:nd4FT1+G
《イエス》 「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、 自分の量る秤で量り与えられる」 (マタイ7・2) 《ブッダ》 「殺す物は殺され、怨む者は怨みを買う。 また罵りわめく者は他の人から罵られ、 怒りたける者は他の人から怒りを受ける。」 (サンユッタ・ニカーヤ)
《イエス》 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、 また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」 (マタイ6・25) 「それで明日のために思い煩ってはならない、 明日は明日自身でその事柄を処理するのである。」 (マタイ6・34) 《ブッダ》 「食物や飲料や堅い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。 またそれらがえられないからとて心配してはならない。」 (スッタニパータ・924)
233 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 11:57:14 ID:PJtTl5Cm
>>229 万引き犯が自分が万引きしてないと仏教は教える。
万引きはない、盗みはない、これが真実に生きるものの心境である。
殺人を犯した人を殺人を犯してないと仏教は教える。
殺人はない、これが真実に生きるものの心境である。
仏教は社会に害を与える人の言い訳に過ぎない。
世界から仏教がなくなることを望んでいる人は多い。
仏教は自分のしたことに責任を負わせず適当にできる
から。
《ブッダ》 「もし証人として問われし時に、 自己のため、他人のため、または財のために、 偽りのことを申しのぶるがごとき者、 かかる者は賤しき者と知るがよい。」 「まこと、かりそめの欲心をおこし、人を殺害して、 些少のものを奪い取るがごとき者、 かかる者は賤しき者と知るがよい。」 (南伝 小部経典 賤民経) 《キリスト教》 「 殺すなかれ。 盗むなかれ。 隣人に対して偽証するなかれ。」 (10戒)
235 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 14:31:22 ID:RD8T2gMs
>>227-229 あなた方は、仏教を学んだことがないのか?
縁起しているものは幻である。食うと言うことは縁起したものである。盗むと言う行為は縁起したものである。
これらを幻であるというのである。真実としては、食うと言う行為も、盗むと言う行為もないのである。
食うと言う行為があると考えるなら、その行為から生ずるあらゆる行為に束縛される。盗むと言う行為があると見做すなら、その行為から
生ずるあらゆる行為に束縛される。幻を真実と誤解して、虚妄の世界に止まってはならないのである。
イエスが、天国は暴力により入られているといっているが、この意味はどういう意味であると思うのか?
暴力とは、盗む行為、殺す行為、騙す行為、を言わないのか?
236 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 14:43:34 ID:nygzSGxs
>イエスが、天国は暴力により入られているといっているが 何処でイエスがそんな言葉を?
検索結果 "天国は暴力により入られている"との一致はありません。
240 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 15:32:48 ID:RD8T2gMs
ダンマパダ 97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲望を捨て去った人、──かれこそ実に最上の人である。
241 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 15:55:29 ID:RD8T2gMs
http://homepage3.nifty.com/kaboliveland/olive2006S.html#matthew18 《激しく攻める御国−バプテスマのヨハネが切り開いた時代》
今回の御言葉に聴く会は、イエスがバプテスマのヨハネについて語るところです。その中でも、冒頭の御言葉は異彩を放っています。ヨハネを「預言者よりもすぐれた者」(マタイ伝11:9参照)と評価したイエスが、掌を返したかのように、
「天の御国の一番小さな者でも、彼より偉大です。」(マタイ伝11:11c)と言い放ちます。そしてマタイ伝11:12の難解な言葉です。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで」とは、
ヨハネとイエスが公生涯に入った時点が30歳であったと仮定すれば、ヨハネとイエスの年齢差(約6ヶ月。ルカ伝1:36参照)を考慮に入れても、1年かせいぜい2年というところでしょうか。
しかし、それ以来「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ伝11:12a&b参照)。
この御言葉の併行箇所はルカ伝16:16で、「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。」と記されています。
「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」の主語は「だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。」の動詞(biazo)の名詞形です。
これは元来「暴力」を表す言葉ですが、「無理に押し入る、突き破るように道を開いて突進する」、「激しく襲う者」という意味です。
では、「天の御国は激しく攻められています。」とはどういう意味か。激しく襲う者どもに天国は踏みにじられようとしているのか。
>>233 ああそれは仏陀が経典の中でこういう外道の教えがある、のなかで
書いてるよ。
殺人を犯した人を殺人を犯してないとある外道行者は教える。
殺人はない、これが真実に生きるものの心境である、という外道の教えが
ある。
私はそうは説かない、と仏陀は経典の中でいっています。
243 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 16:23:29 ID:RD8T2gMs
阿弥陀仏がどんな罪をも許し、浄土に入れることが出来るというのも、イエスが罪を許す権威を持ちその罪に、軽重がない、というのも、 同じ源があるからである、と思う。その源とは、神=無相と言う真実があるからである。神の他は全て虚妄であるからである。
244 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 16:29:06 ID:RD8T2gMs
縁起している犯罪は幻であると言う真理と、真実は無相であると言うこととが、 伴っていなければ、罪の許し、と言うものはないんである。 外道が殺人と言うものがないと言う教えを説いたとしても、真実として 無相であると言う教えが伴って教えられていないなら、外道の教えは根拠を欠いているのである。 浄土や天国に入るための行いは、無差別に許容されると理解すべきではないか?
245 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 16:33:41 ID:RD8T2gMs
>>245 古い記憶なのですが、原本は 原始仏典 中村元 編 筑摩書房
だったと思います。
>>245 6?種類の仏教(仏陀)でない教えについて記述されていました。
248 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 16:55:39 ID:RD8T2gMs
>>245 あいまいな記憶で申し訳ないが
・殺人しても盗んでも悪や罪にならない説
(険で人間を切り刻んでも盗んでも強姦しても他者を苦しませても
嘘をついても悪でも罪にもならないから報いも生じない)
という論とその逆を行っても善も報いも生じない説
すべては無
・善悪はなく、この世もあの世も存在しない、両親も、生類も存在しない
説
・宇宙は常住であり変化しているようで1であって普遍である説
・生命もとくになく分解と再結合があるだけ説
・・・・・とか そんな感じだったかなあ。
外道という言葉は「この腐れ外道がっ」って意味ではなくて 仏道外の道=外道 という意味だったと思います。
252 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 17:19:38 ID:RD8T2gMs
>>247 ここでは四人の説が出ており、それらに対して、悪魔の説も登場した。
悪魔の説は釈尊は否定されたが、その他の説は否定されていない。
殺人などの犯罪は、欲から来るものであるので、否定されなければならない。
浄土や天国に入るためには、欲を否定しなければならないのであるから、
上の殺人などの犯罪はありえないことになる。欲から発生しない殺人、盗み、偽網
等と言うものは矛盾している。
と言うことは、欲から発生した殺人を犯しても、それが縁起しているものであることを知って、
実体がないものと理解した人は、その殺人の罪を償おうとして、新たな行為をすることなく、
ないものとして真実の世界に突入すると言うことになるのであり、このことを暴力で天国に入るといったものではないだろうか?
出家と言う行為は、同じ態様のものであろう。
ID:RD8T2gMsさんのいいたい主張は何でしょうか? いまひとつ私には理解できずにいます。 まず ID:RD8T2gMsさんはクリスチャンでしょうか? 仏教徒でしょうか? 無宗教でしょうか? 他の何かの団体の方なのでしょうか? さしつかえなければ教えていただきたい。
254 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 17:45:59 ID:nygzSGxs
理解しただけでは駄目だろう? 縁起そのものを滅さないと。 縁起を滅するということは、殺人も生起しないわけだ。 殺人を犯してしまった段階で因縁が既に生起しているわけだから、 そこに業があるわけだ。 いいたいことは分からないわけではないが、そのような形而上の問題で 理屈をこね回しても覚りはないよ
255 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 17:58:13 ID:RD8T2gMs
>>253 一応真宗教徒です。真理真実に叶っていると思っていますから、今のままでと思っています。
真理真実を求める気持ちがあるだけの人間です。
257 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 18:08:28 ID:RD8T2gMs
>>256 そうです。浄土を入れないといけないのですね。
>>254 形而上と言う意味を今まで検索して理解しようとしてきているんですが、
話の中で、それを言われると、解らなくなるのです。
貴方の言われる形而上とはどのような内容のものでしょうか?
とすると
>>257 さんの主張は
「悪人も善人も等しく死んだら極楽浄土にいけるんだよ」
ということが言いたいのでしょうか?
260 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 18:22:06 ID:RD8T2gMs
>>259 真実が空相無相一掃なので、その理を認めるなら浄土に入れる、と言うことと理解しています。
262 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 18:36:24 ID:nygzSGxs
>>255 なるほどね。浄土真宗か。
自分も真宗王国と言われた国の生まれなので、
なんとはなにし、歎異抄の悪人正機を思い浮かべてたよ。
>233にいう「殺人を犯した人を殺人を犯してないと仏教は教える。」
これなど形而上の最たるモノではないですか?
仏教のロジックを援用して、現にある殺人の存在を否定する。
今ココにある苦を見ずして、救われたい(今、助かりたい)とする欲の発露かと。
263 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 19:14:49 ID:RD8T2gMs
欲の発生もまた縁起だよね。仏の智慧、縁起しているものは実体がない、と言う真理、これがないことには、 誰も救われないね。
264 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 19:26:09 ID:nygzSGxs
>>263 たぶん、そこが意見の違いと思うんだよね。
救われる、救われないじゃない。
仏教は誰も救わないし、誰も救われない。
仏教は求めるモノだし、学んで覚るモノ。
やっちまったものは元には戻らない。だからそれから目を背けちゃいけない。
殺人は殺人。実体のある存在。そこにある苦。
解脱は、そこから逃げる事じゃない。受け入れてから始めて修行が始まる。
265 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 20:00:51 ID:w8zjkwzp
>>243 阿弥陀は人殺しを問題ないとする。日本人、いや、世界にとって大変危険な宗教だ。
仏陀は殺人を否定し、イエスも殺人を否定した。
そこで阿弥陀を肯定するために、自分なりの理屈をつけて仏教をデタラメのものに
するわけだ。
266 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 20:10:31 ID:ETzeIi4K
>>235 >>252 だから、イエスは暴力により天国に入るとは言っていないし、そのよう
に感じられることも言ってはいない。釈迦も同様だろう。
阿弥陀=イエス=釈迦と同一のように思うからいけない。
阿弥陀≠イエス・釈迦でないといけない。
阿弥陀を信じると殺人や盗みなどが世の中に多くなるだろう。
267 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 20:38:36 ID:D2tdg3Pz
浄土真宗より無宗教がまだましで、 殺人は悪い、盗みは悪いという心で天国、成仏できると 釈迦やイエスは説いたんだろうね。
自分は浄土真宗信者じゃないけど 阿弥陀や浄土真宗を殺人肯定宗教に位置づけしてしまうのは 浄土真宗教徒の人に気の毒だと思うけどなあ。 浄土真宗の内容や教義を読んだことないのではっきりしたことは いえんけど。
ただ日本の田舎の百姓の家の人とかのかなり多くが 浄土真宗だと思うので もしかしたら浄土真宗に殺人否定の教えがなかったから 第二次世界大戦にすんなり国民が移行できたのかもしれないけど。 でもイエスを信仰する諸外国も・・・殺ってるか・・・。 うーん。
白人にとって日本人は猿、 日本人にとって白人は鬼、 両者人間でないとして殺ってた可能性もあるか・・。 でもイエスを信仰する白人が日本人を人間とみなしてたら 原爆は落とさないよなあ。 猿か家畜くらいの認識だったなら落とすかもしれんなあ。
271 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 21:12:27 ID:RD8T2gMs
272 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 21:18:17 ID:nygzSGxs
>>288 うん、かわいそうだね。
だけど浄土真宗の人は、自分のところの教義にはこういう危険性もあるというのを
知っておいて戒めにするということも必要だと思う。
殺人肯定っていう話は、親鸞のころからあったわけで、
「悪人でも救われるなら悪事をしてもいいじゃん」という援用をやったやつは
ごまんと出たわけで、典型的な中二病。
http://ja.wikipedia.org/wiki/悪人正機 同様にキリスト教や日蓮など唯一のモノに帰依させるという思想も
エリート意識や選民思想という甘美な毒を孕むモノとして、
重々戒められなければならないでしょう
>>272 なるほど。
>同様にキリスト教や日蓮など唯一のモノに帰依させるという思想も
>エリート意識や選民思想
については旧約聖書を読めばわかると思うけど
旧約聖書中期あたりで明らかな「選民思想」みたいなのがでてきて
最後にイエスが現れてそこを正して本来の神の教えにしてると思う。
旧約聖書中期あたりではxx人は殺してもいい、とまではいかないけれど
そのくらいの明らかな民族や選民思想になってる。
あと本来「殺すなかれ」のはずの原始キリスト教が
中期ではxxを行った者は殺していい、みたいなこと書いてたり
旧約聖書の中期はひどい。
イエスが降臨しなかったなら聖書は無茶苦茶になっていた気がする。
第一イエスとか「反逆のルルーシュ」じゃないけど 明らかに既成協会や祭司を叩きまくってるし。
旧約聖書中期の選民思想部分を了承してしまうと 例えば「日本人」は異邦人に当てはまってしまい選外民になっちゃう。 神が救わない民になっちゃう。
276 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 21:43:38 ID:nygzSGxs
>>274 十字軍とか、正しければ何やってもイイじゃんてな具合に
東征の圧力のための援用になっていたのはイエス以後の話だけどな。
277 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 21:56:57 ID:H2VwFOWl
仏教は妄想を排する道であり キリスト教は妄想丸出し信仰ですので 水と油ですからね。たとえ似た台詞があろうとも。
ところで
>>226 は
私は何も食べていない。食べた事もない。これからもなにも食べる事はない。 インターネットもしていない。これが真実に生きるものの心境である。
とか言ってます 一生何も「食さない」そうです。 まるでライフスペースの高橋さんのようだ。
ただ彼は 獄中で、ムシャムシャムシャ!食していたそうだ。 226もその類かな?????????????
どうかな??? 食さなくていいなら 食費が浮いていいよね。
ウンコもしないのかな!!ウンコもしないのかな!!ウンコもしないのかな!!ウンコもしないのかな!!ウンコもしないのかな!!
彼は以前に 空なので投身しても死なないとも言っていましたね。
278 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 21:58:46 ID:H2VwFOWl
ちなみに私もウンコしたこと無いですよ226さん。
>>276 その辺は第二次大戦でも米国戦争でも同じで
自称クリスチャンが何故それを行うのかはわからない。
280 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 22:43:37 ID:9fi+N1/2
《イエス》 外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。 どんな食物でもきよいものとされた。 人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、 誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである。 《ブッダ》 おいしく料理された鳥肉とともに米飯を味わって食べながら、しかもわたしはなまぐさものを許さない と称している。カサッパよ、わたくしはあなたのこの意味を尋ねます。 生物を殺すこと・・盗むこと、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に接 近すること・・この世において欲望を制することなく、美味を貪り、不浄の生活をまじえ、虚無論をい だき、不正の行いをなし、頑迷な人々・・粗暴・残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、 極めて傲慢であり、ものおしみする性で・・嫉妬、ほら吹くこと、極端の高慢・・法廷で偽証し、正義 を装い、邪悪を犯す最も卑劣な人々――これがなまぐさである。肉食することがなまぐさいのではない。
281 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 22:44:37 ID:9fi+N1/2
《親鸞》 自力作善の善人さえ往生するのだから、まして悪人はなおさら往生できる。 悪人は他力に頼れるからである。 たとえ千人殺そうが念仏によって往生できる。しかし、毒を消す薬があるからといって、好んで毒を飲 むこともないという思想。 イエスとブッダの共通点は 肉食することが人の心を汚すというのではなく、殺人や盗み、欲望を制することなく貪欲で、好色・ 妬み、高慢・・・といった悪い思いと悪い行為をしないように。 神仏を信じる人々は、邪曲を学習することなく、悪い思いと悪い行為をしない方向に向かい、この世 の悪をなくそうといった教えに通じる。 親鸞は 千人殺そうと念仏によって往生できる。世の人々に害を与えても、念仏を唱える僧のみに益があり、 念仏を唱えて往生できる。 殺人などをしないようにする教え(イエスとブッダ)と、殺人容認の教え(親鸞)とは正反対である。
>>281 そんなこと言ってたのか・・・親鸞は・・・。
知らなかった。
だとすれば親鸞の教えは仏陀の教えではないと思う。 仏教の看板を掲げてはならないと思う。 親鸞真理教としなければならない。
284 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 23:15:34 ID:H2VwFOWl
※ 信仰とは「そうあって欲しい」という思い込みである
人類の作った火星探査機が火星に到着するのは、信仰によるのではなく、客観的な根拠のある知識によります。
しかし、クリスチャンが救われて天国に着く
という主張には何の根拠もありません。単なる思い込みです。 信仰とは「そうあって欲しい」という思い込みに過ぎません。
※ ブッダ自身の思想のなかに、信仰の場所は無い
キリスト教徒は、「何が悪いか正しいかは、人知では計れない、
神の意思こそが正しい。人間が判断することはできません」とか言いますが、、私は仏教徒なので 自分で判断します。
釈迦も人間であり 弟子に対しても、自分で判断せよ、と言い残しています。
仏教の目的とは、苦を抜くことですが、その方法とは、「その原因を突き止めて消すこと」です。
「無知を消して知を得れば原因が消せる」というのは、あたりまえで論理的な理屈です。
そこには、崇拝や盲信などの、信仰の場所はありません。
崇拝や盲信や神秘的力に依存して救われるのではなく、一人一人が真理を理解することによって救われる、
というのがブッダの教えです。
それは、人間の知識の届かない領域に関する事柄には沈黙を守ったというブッダの姿勢と一致するものでもあります。
ブッダを超人化した後代の人びとがブッダの超越的な力に依存するようになったことは歴史的事実ですが、
ブッダ自身の思想のなかに、信仰の場所はありません。 一方イエスは、信じなければ成立しない「信仰」を勧めています。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1210417061/
285 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 23:24:59 ID:2I/ekb1Z
286 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 23:33:15 ID:H2VwFOWl
>だとすれば親鸞の教えは仏陀の教えではないと思う。 そのとおり。 >千人殺そうと念仏によって往生できる。世の人々に害を与えても、念仏を唱える僧のみに益があり、念仏を唱えて往生できる。 念仏など 釈迦は勧めてない。 そんなの唱えるは見惑の林に迷い込むだけである。
287 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 23:36:22 ID:RD8T2gMs
幸せになりたい人は、弥陀のを認め信じることだけで救われると言う教えに付くべきで、 悪い事とされていることをすることによって、救われると言う道理はない。 悪い事をした人でもそれの罪、即ち、欲望の間違いを知って、欲望に従わないで弥陀の浄土を願うなら、 必ず浄土に入れると言う教えである。 親鸞は、本願ぼこリ、と言って、間違った理解を戒めている。 もう一回言うが、どんな罪を犯した人でも、罪の故の苦しみではなく、幸せを求めるなら、 弥陀を念ずれば、救われる、と言う教えである。 弥陀は罪人の罪を解消するための修行をして、それを完成したものである。 弥陀と言う仏ばかりではなく、仏となったものは、全て弥陀と同じキリストなのである。
288 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 23:40:17 ID:H2VwFOWl
ブッダ自身の思想のなかに、信仰の場所はありません。 一方イエスは、信じなければ成立しない「信仰」を勧めています。
289 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 23:42:41 ID:RD8T2gMs
イエスとても、弥陀と同じきりストである。 世の悪魔も縁起しているもので、実体あるもんではない。この世の支配者は、 悪魔で有り、イエスを殺したが、イエスにとっては、それも縁起している幻に過ぎない。 イエスはそのような悪魔に打ち勝ったのである。故にイエスに勝てる悪魔はなく、悪魔であっても、 悪魔は自分のすべての罪が既に消されているイエスの前に、進み出て、イエスと一体になる事が出来るのである。
290 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 23:43:36 ID:dLME17Vu
>>281 造悪無碍の異安心・変化球バージョンって感じだな
そもそも親鸞聖人のいう悪人っていうのは、自力で悟れない末法の我ら凡夫の事で、
いわゆる一般的に言われる悪人とは別物だぞ
292 :
神も仏も名無しさん :2008/06/22(日) 23:55:03 ID:H2VwFOWl
生まれたものどもは、死を逃れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。
…… 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に到る。
…… 見よ、見守っている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。
…… このように世間の人々は死と老いとによってそこなわれる。それ故賢者は、世の成りゆきを知って、悲しまない。
…… 泣き悲しんでは、心にやすらぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。
…… 人々がいろいろ考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。やぶれて消え去るのは、このとおりである。
世の成りゆくさまを見よ。
…… だから尊敬さるべき人の教えを聞いて、人が死んでなくなったのを見ては、
「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。(スッタニパータ575-590 中村元訳)
真実を直視してそこから逃げないことをブッダは教えます。 死者の再生をいくら願っても無効。
この点が、「永遠の命」のようなものを信じることによって、根拠のない希望を抱かせるキリスト教ときわめて異なるところです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1210417061/28
>>292 確かにイエスは「信じなさい」を連発するけど
なんなんだろうねえ。
イエスは普通に「信じなさい」無しでも真理、道理、人の道を
語ってるのにねえ。
あと奇跡とかが蛇足なんだよね。
べつに奇跡いらんから・・・みたいな。
(個人的見解)
水の上歩くなんて尊師の空中浮揚と同じで宗教的に 自殺行為と思うんだけど。
あと仏陀の 「世尊が亡くなられたときすさまじい大地震が起こり・・・」 みたいな記述も なんであんな安い飾りをわざわざ嘘書いてまで書き加えるのか、 が個人的には許せない感じがある。
>>296 なんか、あれはインドの習慣というか癖というか、そういうもんらしい
298 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 04:29:13 ID:4UkRSf6l
>>293 これは、親鸞そのものの考え方とはちょっとちがうのよ。
親鸞は逆説のロジックを使って仏説の展開を試みただけでね。
現代でいうところの悪魔のディベート術というか論理学というか、
形而上的に仏説をこねくり回して出てきたのが、悪人正機
で、それを誤解して援用、悪用したものがあるということ。
オウムも同様に、麻原がチベット密教やヨガから教義となる
さまざまな教典を導入して、独自の解釈を施していっているわけ。
ヴァジラヤーナなんか殺人教義っていわれているけど、
実際には、人殺して良しなんて書かれてないわけで、
ヴァジラヤーナのロジックを援用して、殺人に利用しただけ。
ここが仏教の怖いところで、対機説法による方便でいかようにも
いうことが出来るから、悪用されやすいんだよね。
だから頼るな、仏陀さえも疑えと仏陀自身が言ったんであろう。
299 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 04:42:00 ID:MN0qv2l3
足が臭い
300 :
293 :2008/06/23(月) 07:31:18 ID:sXhnJ9Zs
>>298 ああそれならわかる。
なるほど。
私が親鸞の原書を読んだこと無いのが誤解のもとになったのか。
なるほど。
301 :
スペイスマン :2008/06/23(月) 08:08:01 ID:XPyXw2YF
わかんない所もあるけど勉強になるょ。
>>272 ああでも今改めてよくよく旧約聖書読んでみると
確かにイエス登場後のイエスの言葉の中にすら
選民思想的発言が0では無いなあ。
《イエス》
「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが
許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。
それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/
ようになるためである。」
ルカ8-10
確かに総じて 《ブッダ》は慈悲と許しを無限に広げているけれども 《イエス》は選別して審判し裁く部位傾向がある気がした。
その辺りが 2人の臨終時の終わり方が天と地の差であった原因かもしれない。
イエスは正義の味方(正義の暴力者)であり 仏陀は正義のための悪を葬る暴力はそれは悪の暴力よりさらに悪い暴力 となる、と説くので、ここが天下分け目かもしれない。
せっかく
>>231 で《イエス》は
民衆には「裁く勿れ」っていっているのに
《イエス》自身はバリバリに裁きまくっている・・・。
あと《ブッダ》は自分が正義で外に悪がある、と説かないのに対し
《イエス》は自分が正義で外に悪がある、と説く。
あえて無理やり差異をあげるとすると
そこが最大の両者の差異の気がする。
でも《イエス》は許しや愛を説き、《ブッダ》も許しと慈悲を説く。
おかしいなあ・・・同じはずなのに・・・
<イエスがなんか少し変わった事件> 《イエス》 神殿で露天の店やレジカウンターを壊してぶん投げて大暴れ (ルカ・19) ↑口で露天商を諭せばいいのにぃ・・・ (↑よく他宗教者がイエス叩きに使う聖書箇所)
そうそうこの大暴れ以前のイエスの言動/行為と この大暴れ以降のイエスの言動/行為が けっこうガラッと変わってる。 この事件以前のイエスは「裁くな・許せ・左右頬差し出せ・泥棒に 全財産差し上げろ・隣人/敵を愛せよ/悪人批判より悪人への同情」 で統一せれていたのに この大暴れ事件以降「敵を批判、罵倒、退治、許さない/裁き/脅し/ 目には目を/信じないとあんた地獄に落ちるわよ」 傾向にシフトしていっている・・・。
清貧潔白で神聖な《イエス》と酒池肉林と俗悪の《麻原》 を比較しても全く意味無いけど <イエス大暴れ事件以降>のイエスの境遇を現代風にその<流れ>だけを わかりやすくするために無理やり麻原境遇と比較してみました 愛の救世主(救済者)→信者数・権力増大→【イエス神殿大暴れ暴力事件】 →怪獣退治の正義の味方へ→ →(清貧だけど)細木・麻原方向の好戦的方向に→ →ハルマゲドン(滅亡)が来るぞ(エルサレムは近く滅びる)予言 →(麻原の弟子たちに語った予言「私は逮捕される」) イエスの弟子たちに語った予言「私は死刑にされる」を発表 →イエス逮捕される→ →弟子に事情聴取→刑事「イエスの弟子か?弟子ならお前も死刑だけど」 とイエスの弟子や側近に恫喝→弟子全員命惜しさに 「イエスとは関係ないッス」と偽証→ →裁判長:「あなたの名前はナザレのイエスですね」 イエス:「その名前は捨てました。私の名前はキリスト・メシア・神の子です」 →その後刑事は色々尋問したがイエスは黙秘した →多くの世間やマスコミは「イエスを死刑にしろ」と言った。 →兵士(看守)は「お前が奇跡の使える神の子ならその力(超能力) でこの牢(十字架)からでてみろ」とイエスを罵った 「できないだろ?やっぱりただの詐欺師だ」(まさに麻原状態) →死刑執行→埋葬→3日目に復活
99.9%麻原は詐欺師だとは思いますが (自分は麻原でないことと麻原が自白していないので 100%断言は自分には断定できないけど) イエスは前期と後期で 【許しの愛の救世主(救済者)メシア・菩薩】(前期) から 【赦さない裁きの正義の(言葉の暴力)者(怪獣退治のウルトラマン)】(後期) に変化していったように感じました。 【ウルトラマンA 第13話「死刑! ウルトラ5兄弟」、 第14話「銀河に散った5つの星」】 それでゴルゴダ星でウルトラマン(イエス)は異次元超人エースキラーに 十字架に磔られてスペシウム光線(ロンギヌスの槍)で殺られる。 ・・・と思ったら(調べたら)この話ではウルトラマンは助かる( ゚д゚)ミタィ… *結論:ウルトラマンの話は聖書や仏教経典からパクっているものが かなり多いこと。 ウルトラマンのモデルが仏像や弥勒菩薩や仏陀や イエスという話も聞いたことがあります。
311 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 11:53:56 ID:4UkRSf6l
一神教のドグマだよな。 キリスト=日蓮になったってことか
>>311 調べたら
親鸞の教えは確実にキリスト教をもりこんでるみたいです
---------------------------------------------------
http://www.soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=6&no=1&reno=no&oya=1&mode=msg_view 東方キリスト教(景教)が、親鸞に直接影響を与えていることを示す本を
みつけたので紹介します。
「日本・ユダヤ封印の古代史2[仏教・景教編]」(著者:久保有政、
ケン・ジョセフ、徳間書店、2000年2月29日初版)
170ページから172ページの内容を要約すると以下の通りです。
「世尊布施論」という経典が京都・西本願寺に宝物として
保管されています。非公開。新約聖書「マタイの福音書」五〜七章の
「山上の垂訓」を中心に、キリスト教の教義が記されています。
ここでの「世尊」とはイエス・キリストのこと。
経典の写真が掲載されていました。漢文で書かれていて、
いわゆるお経と同じ体裁をとっていました。
詳細は、上の本を参照ください。
---------------------------------------
・・・・ということらしい
313 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 12:29:40 ID:dK8cJLTB
>>243 阿弥陀仏なんかブッダは説いていない。
あと、勝義諦と世俗諦の違いを理解していないと、こんがらがる。
また、罪が無いなら最初から許す必要ないじゃないかという批判もできる。
314 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 12:36:41 ID:dK8cJLTB
>>260 阿弥陀仏の極楽浄土がどんな浄土がご存じですか?
お経の説明のとおりに理解し信じるなら、
無相とか持ち出す必要はないでしょう。
極楽浄土には、金銀財宝でできた樹木や建物もあります。
無相ではありません。
極楽浄土は、具体的な姿形のある世界ですよ。
315 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 12:38:15 ID:dK8cJLTB
ただ、お経によると、極楽浄土の菩薩達は、 空・無相・無願の三解脱門という三昧(サマタ瞑想)を実践しています。
316 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 12:41:49 ID:dK8cJLTB
>>283 法然の弟子だから、法然の教えと連続で理解すべき。
法然は、こう言ってる。
親はどんな悪い子供でも見捨てないが、子供が悪さをすると嘆き悲しむ。
阿弥陀仏もこれと同じで、どんな悪人も見捨てないが、
善人を見て喜び、悪人を見て嘆く。
死者蘇生、手かざし瞬間治癒、死者復活等の奇跡は 多分無い、と僕は思っているので 聖書のイエスの奇跡が全て実話なら <復活は> ・イエス双子(or替え玉)説 ・イエス死んだふり説(ロンギヌス番兵サクラ) ・イエスソックリさん用意説 <病気治癒/死者祖蘇生は> ・盲人のふりサクラ説 ・歩けないふりサクラ説 ・死んだふりサクラ説 <パン大量増殖・ぶどう酒出現は> ・セロのマジック系法説 ・サイババマジック法説 を使用した説を支持したい。 聖書御伽噺説イエス架空人物説も在り得る。 理由は仏教経典と比較して聖書の中のイエスの言語、逸話が とんでもなく少ないから。 新約聖書なら漫画本1冊、絵本10巻で描ける。 ところが仏典の『南伝大蔵経 』65巻は創作物語とは思えない。 仏陀は歴史上の実在人物と思える。
318 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 19:32:23 ID:GDAgtE1o
>>318 P;119〜最短で何ページくらいまで読めば
おおよそ分かるか教えてー
例;p119〜p125
とか範囲をできるだけ小さくしてくれたら有難い。
320 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 21:26:05 ID:GDAgtE1o
>>319 41-42でいいと思う。
要するにここでは、智慧の光明があるのであり、個個のものが存在を主張しない状態であるのだ。
縁起を見るものは仏を見る、と言う仏陀の言葉があるが、まさにそのことをここで言っているものと解すべきであると思う。
慧眼で観ると言うことでしょう。
す べ て の 世 界 の 仏 が た は い つ も み な と も に そ の 仏 が 何 も の に も と ら わ れ ず さ ま た げ ら れ な い こ と を ほ め た た え て お ら れ る の だ か ら そ こ で 阿 難 は 仰 せ 通 り 座 を 立 っ て 衣 を と と の え 姿 勢 を 正 し て 西 方 に 向 か い う や う や し く 合 掌 し 大 地 に 身 を 伏 し て は る か に 無 量 寿 仏 を 礼 拝 し て 申 し あ げ た ¬ 世 尊 ど う ぞ 無 量 寿 仏 と そ の 国 土 そ し て そ こ に お ら れ る 菩 薩 や 声 聞 の 方 々 を ま の あ た り に 拝 ま せ て く だ さ い
こ の 言 葉 が 終 わ る と す ぐ さ ま 無 量 寿 仏 は 大 い な る 光 明 を 放 ち ひ ろ く す べ て の 仏 が た の 国 々 を お 照 ら し に な っ た す る と 鉄 囲 山 や 須 弥 山 や そ の 他 大 小 の 山 々 な ど す べ て の も の が 等 し く 金 色 に 輝 い た
ち ょ う ど こ の 世 の 終 わ り に 際 し て 大 洪 水 が 世 界 中 に 満 ち あ ふ れ る と き さ ま ざ ま な も の が み な そ の 中 に 沈 み 去 っ て 見 わ た す 限 り 一 面 に た だ 水 ば か り が 見 え る よ う に 無 量 寿 仏 の 光 明 の た め に 声 聞 や 菩 薩 な ど の す べ て の 光 明 は み な お お い 隠 さ れ て し ま い た だ そ の 仏 の 光 だ け が 明 る く 輝 い た の で あ る
そ の と き 阿 難 は 無 量 寿 仏 の お 姿 が ち ょ う ど 須 弥 山 が す べ て の 世 界 の 上 に 高 く そ び え て い る よ う に 実 に 気 高 く そ の お 体 か ら 放 た れ る 光 明 が す べ て の 世 界 を 残 ら ず 照 ら す よ う す を ま の あ た り に 見 た て ま つ っ た た だ 阿 難 だ け で な く 出 家 の も の も 在 家 の も の も 男 で あ れ 女 で あ れ こ こ に 集 ま っ て い た も の は み な 同 時 に 見 た て ま つ り ま た 無 量 寿 仏 の 国 か ら も 同 じ よ う に こ の 世 界 を 見 た の で あ る ▲ 四 二 ▼ そ こ で 釈 尊 は 阿 難 と 弥 勒 菩 薩 に 仰 せ に な っ た ¬ そ な た た ち は そ の 国 の 大 地 か ら 天 空 に 至 る ま で の 間 に あ る す べ て の も の が 実 に す ぐ れ て 清 ら か な こ と を よ く 見 た だ ろ う か
阿 難 が お 答 え す る ¬ は い そ の 通 り に 見 さ せ て い た だ き ま し た ¬ で は そ な た は 無 量 寿 仏 が す べ て の 世 界 に 響 き わ た る 声 で 教 え を 説 き 述 べ て 人 々 を 導 い て お ら れ る の を 聞 い た か ¬ は い そ の 通 り に 聞 か せ て い た だ き ま し た
¬ で は そ の 国 の 人 々 が 百 千 由 旬 も あ る 大 き な 七 つ の 宝 で で き た 宮 殿 に い な が ら 何 の さ ま た げ も な く ひ ろ く す べ て の 世 界 へ 行 き さ ま ざ ま な 仏 が た を 供 養 し て い る の を 見 た か ¬ は い 見 さ せ て い た だ き ま し た ¬ で は ま た そ の 国 の 人 々 の 中 に 胎 生 の も の が い る の を 見 た か ¬ は い そ れ も 見 さ せ て い た だ き ま し た
釈 尊 が 仰 せ に な る ¬ そ の 胎 生 の も の の い る 宮 殿 は あ る い は 百 由 旬 あ る い は 五 百 由 旬 と い う 大 き さ で み な そ の 中 で と う 利 天 と 同 じ よ う に 何 の さ ま た げ も な く さ ま ざ ま な 楽 し み を 受 け て い る の で あ る .。
>>320 うーん
41-42じゃあいまひとつわかりにくいんだけど・・・
【43】 そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。 「世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に 胎生と化生の区別があるのでしょうか」 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。 「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら 疑いの心を持っているものがいて、 無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。 それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、 功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、 これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、 五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、 教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。 そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。 これに対して、無量寿仏の五種の智慧を疑いなく信じて さまざまな功徳を積み、まごころからその功徳をもって この国に生れようとするものは、ただちに七つの宝でできた 蓮の花に座しておのずから生れる。これを化生といい、 たちまちその姿を光明や智慧や功徳などを、他の菩薩たちと同じように、 欠けることなく身にそなえるのである。
「信じれば救われる」 が結論?
善行を行っていいところに逝きたいとか 悪行を行ってヤベエよとかそんなセコイことで境涯を過ごせば そういう奴は地獄行きで大差ないぜ。 そうじゃねえ、無量寿仏を信じて生きてりゃええんじゃい。 そーゆー性根の座った奴だけが極楽浄土に行けんだよ! ということ?
信仰系のキリスト教に近いなあ・・・・。 仏教じゃ無い気はするけど・・・。
334 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 23:44:42 ID:GDAgtE1o
五種の知 密教で、仏の備える五種の智のこと。 @法界体性智、A大円鏡智、B平等性智、C如観察智、D成所作智 ・ 大日如来に備わる五種の智慧。密教で、大日の智の総体の法界体性(ほつかいたいしよう)智と、大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作(じようしよさ)智の四智。 また、浄土教では仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智の五つを阿弥陀仏の智とする。(大辞泉より) ・密教で、大日如来のもつ智を五つに分けたもの。大円鏡智・平等性智(びようどうしようち)・妙観察智(みようかんざつち)・成所作智(じようしよさち)の「四智(しち)」に、四智の根本である法界体性智(ほつかいたいしようち)を加えたもの。(大辞林より)
335 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 23:44:47 ID:/p6+PoBb
<復活は> ・イエスソックリさん用意説 ← これに一票。
336 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 23:52:51 ID:/p6+PoBb
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ7:34)
これも「世間知らずの若者イエス」の、浅薄で、誤った言葉。
人類は、明日のことに思い悩み、常に明日に備えたからこそ、今日まで存続しているのではないか。
明日に備えることをしない人間の人生は、必ず破滅する。「今日遊ぶ金がなければ、街金からどんどん借金しろ」と勧めている
のと同じ。「生きる」とは、そんなに簡単なことではないのである。
「空の鳥」も「野の花」も、その生存のために絶え間なく懸命な努力を続けている
ことに、イエスは思い至っていない。即ち、イエスには、「生命」についての理解が皆無である。
「野の花」は、自然のままだから、即ち、「着飾ってはいない」からこそ、美しいのである。
イエスは、「明日のこと」ではなく、「過去のことは思い悩むな」というべきであった。過去のことをいくら思い悩んでも、取り返しはつかないからである。
また、「明日のことを思い悩まなければ」、死も、最後の審判も、天国も、地獄も思い悩む必要がないことになる。「永遠の生命」など、問題外である。
イエスの「教え」は、矛盾しまくりである。こんなものは、そもそも「教え」 とさえも言えない。唯の、浅薄な、口から出任せの「思いつき」の言葉
に過ぎない。要するに、イエスは、何とか「気の利いたこと」を言ってみたかった だけである。
しかし、その内容は、すべて、惨めな誤りであった。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1210417061/179
337 :
神も仏も名無しさん :2008/06/23(月) 23:56:01 ID:GDAgtE1o
>>332 仏の智慧とは、五種の知などと、難しいことをいえるのかもしれないが、
要するに、縁起しているものは幻であり、真実は一相空相無相なのである、と言うことである。
これを仏の智慧と言い、是により、一切に執着しないならば、浄土に生まれることが出来るが、
この仏の智慧に導かれないでの、善行なるものは、真実に従ったものでない故に、浄土の辺境の地の、胎生
に生まれ、仏の智慧を知りそれを信じない限り、浄土から脱する運命にある、と言うことであると思う。
仏の智慧を知らないものとは、六道輪廻するもののことであり、その中での善行の頂上は、天界の神々の世界である。
神々は、仏の智慧を知らないために、いずれ地獄に落ちるものである、とされている。これは、上の辺境にある胎生の世界のことであると解すべきである。
阿弥陀を信じるとは、即ち、仏の智慧を信じると言うことなのである。
>>337 仏(仏陀)の智慧であるところの「悟り」「12縁起」「無所有処」「空無辺処」
「非想非非想処」その他一切の仏の教えを信じる以前に
それがどう説かれたかすら知らずして仏の智慧を信じるもなにも無い
とおもうのだが・・・。
不思議な信仰だなあ阿弥陀信仰は・・・。
>>336 世間知らずの才気走った血気盛んな熱い若者イエスも
けっこういいこともいってるよ。
1回聖書全文を読んでお試しあれ。
340 :
神も仏も名無しさん :2008/06/24(火) 00:17:34 ID:pnUvlV2p
>>338 縁起しているものは幻であり、真実は空相である。これに基づいて、
12支縁起、四諦の法門、非想非非想処等の真理が生じるのである。
貴方の考えは逆さまではないか?
>>340 では非想非非想処を体験/体感/禅定していないあなたでもいい。
非想非非想処とはどういうものか言葉上の説明でいい。
それを説明してみて。知っている範囲でいい。
でも 『「縁起しているものは幻であり、真実は空相である。これに基づいて、 12支縁起、四諦の法門、非想非非想処等の真理が生じる」 ということを信じれば極楽浄土に逝けるという教えが 浄土真宗なんですよ』 というのなら、それなら僕は納得します。
343 :
神も仏も名無しさん :2008/06/24(火) 08:29:49 ID:d/GxY6Ie
>>340 非想非非想処は仏教の真理ではなく、
八段階の禅定のうちの第八番目です。
そのような禅定は、ブッダが出家当初に
弟子入りした仙人達がすでに実践していたものです。
非想非非想処という名称や、
禅定を八段階に体系づけて説明したのは仏教の特徴ですが。
禅定への執着もまた煩悩であり、
非想非非想処の境地をすばらしいものだと美化するなら、
梵我一如のバラモン教とかわらなくなりますよ。
禅定は、観察の実践に必要な集中力を養うためのトレーニングとして必要ですが、
禅定の境地自体はさとりや涅槃ではありません。
天や梵天の境地が禅定です。
それらの境地もまた無常なので、執着してはいけないのです。
344 :
神も仏も名無しさん :2008/06/24(火) 08:54:39 ID:pnUvlV2p
>>342 そういうことを信じれば浄土に入れると言うことではない。
真実が空相であると言うことを理解し、それならば、自分はどうすればいいのか、と言うことになり、
そのときに、12支縁起の法門、四諦の法門、六波羅蜜の法門が生じるのである。
真実が空相であることを理解するとは、身近な事象から、縁起を理解し、それが世界全部に行渡っていることを推定
するのである。しかして、一切の事象は縁起しているものと見做し、この場合はどのような縁起があるのであろうかとか、
そのような詮索を避け、又は不必要であると考えルのである。そして、これら世界の一切のものはまぼろしであり、実体のないものであり、
自分の心がそれに執着するべきものではなく、取り押さえようとする心が生じないようにするのであるが、ここで、
どのような縁起があるか知ろうとしないこと、しかも、一切が真実空相であると思うこと、このことが「信仰」といわれるものである。
仏の智慧を「信仰」している状態なのである。この信仰に従えば、生老病死と言うものもないモンと言うことになり、それに捕らわれる事から離脱する事が出来るのである。
心の動きもまた縁起しているものである。生じた思いは、生じない思いがあるから、生じた思いというのである。
この心の有無と言う相対的関係を見るのを、非想非非想処というのである。
縁起を見るものは法を見る、又は仏を見るとは、縁起と言う幻を見ると言う意味と解してはならない。
縁起している状態を見るとは、それらが実体として存在していない事を見るのである。嘘偽りを見破ったので
真実を観る事になるのである。
345 :
神も仏も名無しさん :2008/06/24(火) 12:38:48 ID:d/GxY6Ie
非想非非想処とは、第八禅の状態の名称です。 想いがあるでもなくないでもない状態のことです。 八段階の禅定のうち、初禅から第四禅は、 色界の心(色声香味触の刺激への欲はないが物質に束縛される心)です。 第五禅から第八禅は無色界の心(物質に束縛されない心)です。 第五禅は空無辺処、第六禅は識無辺処、第七禅は無所有処、 そして第八禅が非想非非想処。 集中力が高まって禅定が深くなるにつれ、 初禅から第八禅へと移っていくわけです。 心が集中力に応じて変化するだけの話だから、 それらの禅定は悟りや涅槃ではありません。 非想非非想処の境地を、神との合一だとか梵我一如だとか不二だとか言って、 すばらしいものだと執着するなら、 それは仏教のめざす悟りとは違います。
346 :
神も仏も名無しさん :2008/06/24(火) 12:48:40 ID:d/GxY6Ie
五禅の空無辺処は、色声香味触がなくなっていき、 空間が果てなく有る状態。 六禅の識無辺処になると、空間もなくなって識が際限なく有る状態。 七禅の無所有処は、所有する対象がなくなる状態。 八禅の非想非非想処は、想があるでもなくないでもない状態。
ID:d/GxY6Ieさんは仏陀の直接説かれた教えを知った上で 仏教を語っておられる。 対し ID:pnUvlV2pさんは 仏陀が直接説かれた教えをほとんど知らずして 後世誰かが仏典を短文や単語にまとめたフレーズを「信仰」してらっしゃる。 これが元祖仏教徒と浄土真宗徒の大きな違いだと思いました。 ただし、どちらが正しくどちらが駄目、とは僕は思わないけど。 違いは納得しました。
それだから ID:d/GxY6Ieさんは12縁起を説明できるけれども ID:pnUvlV2pさんは12縁起は(google検索で 調べる以外の方法で)説明できないと思います。
349 :
神も仏も名無しさん :2008/06/25(水) 03:45:58 ID:Irv4FKfn
とにかく
>>226 さんは凄いな。 飲まず食わずでインターネットもしないのに
ちゃんと毎日書き込んでる。凄いとしか言いようが無い。 こりゃアキバ事件より中国大地震より大問題だな。
350 :
神も仏も名無しさん :2008/06/25(水) 07:48:25 ID:vNZEmA3Z
>>1 イエスとブッダの共通点は互いに自分の妄想でしかない「マイ・ルール」を
真理として広めた点だね。
物理の法則は真理だから世界中で共通するが、彼らのは真理ではなく「マイ・ルール」
だから、死後の世界観とか違う。
もし、お互いに真理を説いていたならば、例え生きた年代や住んでる場所が違えど、
真理である物理の法則が世界中で共通であるが如く、死後の世界観も同じでなければならない。
宗教家とは「己が妄想したマイ・ルールを、いかにも真理であるかの如く、他者に植え付ける
能力に長けた者達」のことを言う。
科学者こそが真理の探究者だよ。
351 :
神も仏も名無しさん :2008/06/25(水) 08:13:41 ID:vNZEmA3Z
>>1 イエスとブッダのは自分の妄想でしかない「マイ・ルール」だから、2人の妄想を
信じない者、例えば唯物論者や共産主義者は信じない。
しかし、物理の法則は真理だから唯物論者や共産主義者も受け入れる。
352 :
神も仏も名無しさん :2008/06/25(水) 08:23:36 ID:p+C6rnZ2
>>350 仏教を何も知らずに書いてるのか?
仏教の説く諸行無常は世界のどこに行っても真理でしょう。
無常だから、老いたり病んだり死ぬのはあたりまえなのに、
そのあたりまえのことを不幸だと勘違いしていると、
人生の悩みが増える。
あたりまえのことをあたりまえだと受け入れられれば、
人生の悩みやストレスは減る。
354 :
神も仏も名無しさん :2008/06/25(水) 09:25:07 ID:Pis7ye6e
350は イエスとブッダについての話でなく イエスの妄想についてなら正解。 釈迦は真理を説くがイエスは逝ってよし。
>>354 ・・・ということを言ってはならない、と釈迦は説いている
356 :
神も仏も名無しさん :2008/06/25(水) 17:00:13 ID:xPGrfvj/
・・・ということを言ってはならない、と釈迦は説いている
358 :
神も仏も名無しさん :2008/06/25(水) 18:21:46 ID:xPGrfvj/
・・・ということを言ってはならない、と釈迦は説いてい
359 :
神も仏も名無しさん :2008/06/25(水) 21:21:03 ID:O1bRbrja
324 :神も仏も名無しさん:2008/06/23(月) 23:03:05 ID:hX5H6AUq ち ょ う ど こ の 世 の 終 わ り に 際 し て 大 洪 水 が 世 界 中 に 満 ち あ ふ れ る と き さ ま ざ ま な も の が み な そ の 中 に 沈 み 去 っ て 見 わ た す 限 り 一 面 に た だ 水 ば か り が 見 え る よ う に 無 量 寿 仏 の 光 明 の た め に 声 聞 や 菩 薩 な ど の す べ て の 光 明 は み な お お い 隠 さ れ て し ま い た だ そ の 仏 の 光 だ け が 明 る く 輝 い た の で あ る この点はキリスト教の世界の終末に似ているんじゃない?
360 :
神も仏も名無しさん :2008/06/25(水) 22:01:38 ID:9Rknqot9
まあどちらも後世の誰かの作だからね 作者かぶってるかもね。人の趣向は同じだろうし。
361 :
神も仏も名無しさん :2008/06/25(水) 23:16:01 ID:HFbBSWQK
>>359 >この点はキリスト教の世界の終末に似ているんじゃない?
キリスト教の終末を引用してください。
>>312 みたいにキリスト教をよんだ仏教のオッサンが
ノアの箱舟あたりの話をゴッチャンにアイコラして
本来の仏教経典を改ざんした説に一票
363 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 16:19:23 ID:D+Rr+XCV
>>351 すべてが無常であるという真理は、誰にでも理解できる。
ただ、その真理をいつも意識して忘れないで行動するのには、
かなりトレーニングが要る。
心は無常で、「ぶっ殺すぞ」という怒りの感情も、
数秒辛抱すればピークはすぎる。
感情は無常だから、人を殺すときには「ぶっ殺すぞ」と思って殺したのに、
あとで逮捕されてから後悔したりする。
しかし、数秒辛抱すれば過ぎ去ってしまう感情のために、
とりかえしのつかない過ちを犯す人が多い。
364 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 16:35:23 ID:rXIhtS9T
362に100票。 大乗経典という捏造品が仏教を汚した。
365 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 17:27:32 ID:q3ShnRdO
>>352 諸行無常
それは真理ではなくて答えを出すための解説だろ。
366 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 17:29:30 ID:q3ShnRdO
>>老いたり病んだり死ぬのはあたりまえなのに、 この箇所は答えを出すための解説だろ
367 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 17:40:34 ID:rXIhtS9T
はあ?
368 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 17:55:29 ID:D+Rr+XCV
>>365 「真理」っていう言葉がわかりにくいなら、
「本当のこと」「世界のどこに言ってもかわらない法則」とでも言いましょうか。
369 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 17:58:51 ID:D+Rr+XCV
>>366 仏教でいう解脱とは、
生老病死の繰り返しから解放されること、
惑→業→苦→→惑→業→苦→…の繰り返しから解放されること、
ではないでしょうか。
「答えをだすための解脱」って、意味がわからないです。
370 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 18:16:23 ID:rXIhtS9T
>真理とは「本当のこと」「世界のどこに言ってもかわらない法則」とでも言いましょうか。 なら イエスが復活するとか信じれば救われるってのは 信者にだけ当てはまる信仰だから 真理じゃないね。 信仰とは、真理じゃないのだね。
371 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 19:23:37 ID:W9ttLMp1
イエスは神にからし種一粒ほどの信仰もないとし、肉欲から来るもの(仏教では煩悩) をなくすことを理想としたんだろう。誰でも煩悩を全て滅ぼすことはできないから、 イエスを信じて煩悩を滅ぼすように努めることをよしとせよと。 釈迦は更にこの世で無欲の悟りの行いを示し、善悪・煩悩の可能力を滅ぼし尽くし、 自然の中で静けさを楽しんだ。 物理的に、世の中で悩み苦しみがある人は、世の貪欲から離れ、自然を楽しんだり して静養して、世の中の悩み苦しみを取り除こうとするなら、物質的なもののため に、世の中のことのために、人に対して冷酷・残忍・無慈悲・誹り・罵倒・他をな らかしめて自分の利益を貪る・敵意や憎しみを抱いて争い暴力を振るう、金銭だけ 欲して働かない、肉体的な刺激などを享受することは、肉体的な刺激もなく全くの 安らぎで苦しみを受けない理法を知らないで、他人を羨望し妬み、恣に振る舞い、 相手に施そうとしない。 世の中の悪を静めようとした。
372 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 21:51:41 ID:b6AjQDTi
イエスを信じて裁きに怯える。 釈迦はそんなことは勧めていない。
373 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 22:43:25 ID:D+Rr+XCV
>>370 真理を信じる信仰もあれば、
真理じゃないおとぎ話を信じる信仰もある。
374 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 23:01:50 ID:b6AjQDTi
おとぎ話は要らないね。
>>363 キリスト教徒は生命の永遠を信じてるから(と言っても信者限定だけど)、無常の概念は理解してないと思う。
信仰というのは自分で考えるのを放棄して何かにすがることだから、真理とは程遠いものだよ。
以前うちに布教に来たキリスト教関連団体のオバさん、
キリストを信じてる自分は死なないんだと本気で信じていて怖かった。
376 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 23:33:20 ID:b6AjQDTi
>キリストを信じてる自分は死なないんだと本気で信じていて怖かった。 んじゃ俺も信じようかな
377 :
神も仏も名無しさん :2008/06/26(木) 23:38:04 ID:aqfumK4W
>>372 釈迦は業だね。
人殺し、盗み、貧しい人の癒しの教えと、
貪欲から離れ、解脱しようとする人の教えと、
求める人に合った教えを探すといいかも。
>>375 律法を持たない異邦人が・・・彼らにとっては自分自身が律法。
釈迦に従おうとする人は、他人に害を加えないことは既に乗り越えて、
貪欲までなくそうとするハズの人だから、内にある平安を求めようと
する人は、もっと真理に近いのだろう。
378 :
神も仏も名無しさん :2008/06/29(日) 08:13:12 ID:P/QxfA5a
真理真実を知ったものは、それの獲得のために戦わなければならない。 相手は悪魔だ。悪魔は何の力もないものなのに、全能であると言う威力を装うものである。 悪魔は、輪廻の支配者である。輪廻とは縁起の世界の事である。 悪魔と勇敢に戦い勝利を収める人は、何人いるだろうか?その戦いは容易ではないと思われるから、少ないのでは、と思われるのである。
379 :
神も仏も名無しさん :2008/06/29(日) 09:36:09 ID:P/QxfA5a
縁起してるだけの、幻を、あたかも実体あるものと、思わせようとするもの、これは悪魔である。
380 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/06/29(日) 10:42:16 ID:yXDNLTlH
何かを判断するには自分の判断を信用しなければならない その上で他人や事象を信用するのでこの世界は悪魔信仰ということです 弱肉強食の世の中だから一発でそうって分かりますね
381 :
神も仏も名無しさん :2008/06/29(日) 12:22:04 ID:P/QxfA5a
自灯明;法灯明
382 :
神も仏も名無しさん :2008/06/29(日) 16:33:10 ID:Ibq0xAdj
釈迦は貪りを否定して、修行僧とともに世の中を離れ、所有物を持たず。 信者は物あって、物に執着せず、分け与えを教えられる。 釈迦から弱肉強食は生まれない。かえって貧窮な人に分け与えよだから、 弱肉強食を乗り越えるのは容易い。 キリスト教はアメリカを生んだから、教義に欠陥があったのでは? 地球温暖化より経済優先、戦争、は釈迦から起き難い。
383 :
神も仏も名無しさん :2008/06/29(日) 18:03:29 ID:P/QxfA5a
悪魔は居所を求めて必死に彷徨っている。悪魔とは輪廻する心である。
384 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/06/29(日) 18:16:08 ID:yXDNLTlH
真理とはTRUE=FALSEの二値でしかない 信じるか疑うかです
釈迦からしてみれば、イエスは悟っていない。 逆にキリストからしてみれば、釈迦は罪人であろうか。 もちろん、釈迦はイエスを極楽往生させるし、 キリストは、釈迦を天国に招くだろうが。 どちらも、同一の神の異文化的あらわれにすぎないのかもしれない。
386 :
神も仏も名無しさん :2008/06/29(日) 22:54:32 ID:ZDhrXxTe
ブッダは、 生きること・生命という存在の価値を否定していて、 究極の目標である涅槃は、消えて亡くなること。 (日本の坊主はそこを理解していない人が多いが。) 一方、キリスト教は、 天国でより高いレベルの生命になって永遠に生きる教え。
387 :
神も仏も名無しさん :2008/06/30(月) 00:45:50 ID:ECnZlHeM
385-386 はまだ分かっていないな。 仏教とは 無我になることでトワワレから解脱する教え。そして本人が寂静となる。 そしてその道を他にも分け与えてあげる。 イエスのような 死後裁かれるだの永遠の命だのの妄想に囚われていてはしょうもない。 寝言は寝て言え免罪符教。勝手な妄想は真理とは呼べない。しかもぜんぜん再臨もしないイエスキリスト。
>>386 仏教の一派の中にはそんな考えもあるが、ブッダ自身は生命に付き物の欲望を全否定したわけではないよ。
否定したのは渇愛や苦行、つまり貪欲と禁欲のどちらにも行き過ぎず、中道をとれということ。
涅槃も死とは無関係で、苦の原因を悟ってそれを克服し、安定した心の状態のこと。
ブッダは死後の世界については何も語らなかった。
(日本のカルト信者はそこを理解してない人が多いが。)
一方、キリスト教は、
真実に目をつぶり、教会の言いなりになって死ぬまで貢ぎなさいという教え。
もっとも、このシステムを考案したのは弟子達だから、キリストの責任にするのは酷だけど。
389 :
神も仏も名無しさん :2008/06/30(月) 08:00:50 ID:fpeerwz9
>>388 一切は苦しみであるという教えをないがしろにしてはいけないでしょう。
苦も無常も無我も、同じことを表現してるらしいです。
一切が苦であり、生きるために必要な生命活動も、
本質はすべて苦痛なのです。
>>389 そういう字面だけの解釈をすると、生きるのをやめるのが一番と言っているようにも見えるけど、
ブッダは苦自体を直接取り除けと言っているのではなく、
苦を発生させる感情にとらわれるのをやめろと言っているのでは?
つまり生命活動=苦痛ではなく、それを切り離す方法があるということ。
例えば病気で苦しんでる人がいるとして、肉体的な痛みはどうしようもないとしても、
自分は死ぬんじゃないかと不安になったり、この痛みを何とかしてくれよと嘆いたり、
元の健康な生活に戻りたいと望んだり、あれこれ思い悩むことで、
精神的苦痛も加味されて一層苦しむことになる。
生に執着しても仕方ないことだし、生き物だから病気にもなるし、病気なら痛むのは当たり前、
それにこの痛みも実体はなくて、ただの脳の反応に過ぎないんだと割り切れれば、
苦はすべて解消とまではいかなくても、ずっと落ち着いて冷静になれる。
そういうことだと俺は解釈してる。まあ実践は難しいけどね。
391 :
神も仏も名無しさん :2008/06/30(月) 21:12:02 ID:Rrfrp0nX
>>388 最後の身体として、瞑想により煩悩の全てを滅ぼし尽くし、無所有で静けさを楽しみ、静けさを目指せと教えたブッダ。
「あの世もこの世も望まない」何もしなくても、この世で「安らい」に入り、「永久に存在するという見解と滅びて無く
なるという見解」とを捨て、霊体という体も持たないかたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱
して、最上の究極で無上の静けさの境地に至ったブッダ。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。
そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。自己の沈黙をみずから知るがままに、一切の苦しみから全く解脱する。
そこにブッダの価値があると思う。神々を超越した世界に入ったということで。
それで、人は貪欲が苦しみの原因と知り、苦を発生させる感情にとらわれることなく、精神を安定統一させることがよいと。
善いことをした人々は善いところ(天に)生まれる。
欲心ある人々は、善いこと悪いことの業を身に着けて、この欲界に再び生まれる。
(1)何もしないでただ安らいを求める人
(2)善い行いによって天に生まれる人
(3)欲心捨てきれず、下界に再び生まれても、人の行いにより悪くも良くもなる
仏教はその三つがあるから完全。何もできない人の安らい。善を行える人の善い報い。
欲望の希望のある人も、無理に断って失望することなく、善い行いで良い来世。なおか
つこの世でも多くの人が、ことばや行い、思いといった善い行いをするようになる。
392 :
神も仏も名無しさん :2008/06/30(月) 22:34:59 ID:fpeerwz9
>>390 生きるのをやめるために、煩悩をなくし業を断ち切る。
煩悩があれば、業により、死んでもまた生まれかわってしまう。
なので、単に自殺しても、入滅できない。
393 :
神も仏も名無しさん :2008/07/01(火) 08:33:53 ID:OPdav13H
チョット息抜き中断。 キリスト教徒の巡礼の旅、と言うのが、スペインの北部に有るのだ。 ヤコブの墓があるところが目的地である。 インカ帝国の石積み建築の素晴らしさを今まで見たことがあるが(テレビを通して) 古代ギリシャローマそしてその後のキリスト教国の石積み建築から比べたら取るに足らない。 正確に工事された石畳の道路も素晴らしい。街全体が統一されている。ゴミなど何処にも落ちていそうですらない。
394 :
神も仏も名無しさん :2008/07/01(火) 10:20:18 ID:q1ohE2hQ
ぶっちゃけ二人共物乞いと一緒。 額に汗せして働け!!
395 :
神も仏も名無しさん :2008/07/01(火) 20:55:16 ID:OPdav13H
福音書とスッタニパータを慈悲哀れみの行いを取り上げてみてみると、スッタニパータには、全然慈悲哀れみの行いが記録されていない。 病人を癒したと言う記録がないのだ。同じ真理真実に基づいていると言いながら、。どういうことであろうか?
396 :
神も仏も名無しさん :2008/07/01(火) 21:18:39 ID:GXDpm87a
毎日新聞英字版が垂れ流していた記事(の一部) ■24時間オルガズムが止まらない病気で苦しむ日本人女性の数が増えている ■日本人の若い女性はファーストフードを食べると性的狂乱状態になる ■日本のティーンたちはバイアグラを使ってウサギのようにセックスをする ■日本では小学生の売春婦にも仕事がある ■日本の女子高生は、刺激のためにノーブラ・ノーパンになる ■日本人女性の55%は、出会ったその日に男と寝る 毎日新聞の真の目的は、日本人女性を襲わせること。 極悪。最低。鬼畜。
397 :
神も仏も名無しさん :2008/07/02(水) 02:08:00 ID:35GFp0lu
仏陀とイエスは、悟りとしては最高の段階にいたのではなかろうか。 問題は、イエスがすでに悟ってから世に現われたのと違い、仏陀は悟りに段階がある。 イエスの言葉は全てが真理であり、初期の仏陀の言葉には、とらわれが見られる。 キリスト教の2分法的差別は、「救われる者」「救われない者」に分かれ、 仏教の段階的差別は、善行を積めば積むほど、仏に近づくという意味で存在する。 ともに、仏陀、イエスの教えと程遠いと思う。 両者は、「三界は唯心の緒源」という意味で共通しており、思いの性質と正確に 一致した結果がもたらされることも同じであると思う。キリスト教の予定律も、 仏教の因果律と根本的には同じだと思う。一言で言えば、「愛」、または「優しさ」 が教えの本質だと思うが、キリストが愛であることを知るということと、自分に愛が あふれているかという問題は別なので、体験することが一番だろうな〜。
398 :
神も仏も名無しさん :2008/07/02(水) 07:43:28 ID:8uIFQnCr
399 :
神も仏も名無しさん :2008/07/02(水) 08:57:18 ID:TsvM2/Yd
>>398 まず自分の悟りの解釈を開陳してから、相手の解釈を求めるべきである。
400 :
神も仏も名無しさん :2008/07/02(水) 12:22:55 ID:8uIFQnCr
>>399 煩悩が消えていくことが、
ブッダの説いた仏教の悟りだと思います。
「イエスも悟っていた」というなら、
イエスも煩悩が消えていたという意味になります。
しかし、「悟り」の意味が違うなら、
「イエスも悟っていた」と言っても、意味が違ってきます。
401 :
神も仏も名無しさん :2008/07/02(水) 20:48:17 ID:h4hHVuPo
>>395 釈迦は修行僧相手だから、理論的に教えたのだ。また、究極の理想に達し平安の境地に達して知るかだ。
「一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜慈しみがこの世では崇高な境地、慈しみのこころづかいをしっかり保て」
※人間とは永久に存在することなく、真理は何ものも存在しないが、滅びて無くなることもなく、平安の境地に至る。この世では一切の生きとし
生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれと一切が安穏で安楽で幸福な境地はこの世では慈しみである。他に何ものもない。それを取
ったら人はただの動物と同等の肉だけの存在である。その人に永久はない。
「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない」として人の立場で修行完成は何かと教える。
まず、修行ありと煩悩を滅ぼす理法を学ばせることだから、神通力で病人を癒したということはあるようだが、特別重要視しない。
イエスは人の心に訴えた。神の形で現れたが、結局は神も人知ではとうてい測り知ることのできない平安で知るのだ。
離欲を目指しても教えを学ぼうとする人と、神を信じて人を殺す国の人とは教え方が違う。
402 :
神も仏も名無しさん :2008/07/02(水) 22:34:22 ID:ySwc5y/R
397 は物凄い出鱈目なので破棄しましょう。
>仏陀とイエスは、悟りとしては最高の段階にいたのではなかろうか。
両者は目指すところが逆なので、一緒ではない。真理とはあるがままであるので、キリスト教の妄想とは隔たる。
>イエスの言葉は全てが真理であり、初期の仏陀の言葉には、とらわれが見られる。
とらわれがあるから解脱の必要があるのだ。そんなのあたりまえなことだろう。しかもイエスの信仰は妄想であり真理ではない。
>仏教の段階的差別は、善行を積めば積むほど、仏に近づくという意味で存在する。
仏とは善行を積めばなれるものでない。とらわれから解脱しなければ いくら善行を積んでも駄目。
>思いの性質と正確に一致した結果がもたらされることも同じであると思う。
そんなわけがない。寝言は寝て言え。 もし思えば実現するなら 今すぐ山を隆起させてみなさい。
>キリスト教の予定律も、仏教の因果律と根本的には同じだと思う。
すべて予定されているなら 因を滅する必要さえ無い。キリスト教徒のようにただ信じていれば良いはずだ。
>キリストが愛であることを知るということと
愛だか何だか知らないが、いつ再臨するんだか。まあいつ来るだか設定しないことが信させるコツかな。
仏陀は再臨しない。仏とは、自らが向かう境涯に過ぎない。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1210417061/
403 :
神も仏も名無しさん :2008/07/03(木) 19:09:23 ID:jE/LYmyz
仏陀は、様々な現代の問題を解決する教えも説いた。 物のとらわれから解脱し、五欲の対象のとらわれを抑制する教え。 非暴力、慈悲、分かち与え、快適な環境にするために働くことなど。 また、 この世の苦悩から輪廻転生しないために、貪欲から離れるという合 理的な教えであり、貪りから離れ心の安らぎを求めていく。 貪欲でなく安らぎが安らぎの彼岸に通じるものだとして、貪欲な世 間を厭い、世間の苦悩から離れようと努める人が輪廻しないのだと。 キリスト教は、戦争、地球温暖化、経済格差、など様々な問題を もたらした。信じることで救われるとするからである。 仏教的には、苦しみの原因をもたらしたのである。 天地を創造した神が愛なら、信じて救われている人々は、おおよ そ宗教がいらない人ではないか?という問題が生じる。
404 :
神も仏も名無しさん :2008/07/04(金) 02:23:11 ID:4daRCjPP
403さんありがとうございます。 仏教キリスト教 まったく逆ですね。 さて 前半の仏教理解はソースはどちらですか?
405 :
神も仏も名無しさん :2008/07/04(金) 22:14:14 ID:/SMMNyDY
>>403 スッタニパータなど。人は今の状態か、人の無い平安と安らぎの状態とに分かれる
と考える。
仏陀は生きながらにして彼岸に達する。人体の消滅した世界は一切の苦悩無く安ら
ぎと平安に至ることを行いで示し、物質的なものへの執着なく苦悩も存在しない。
何かを信じて救われるより、実際自然の中で安らぎを求めれば安らぐ。
執着心少ない人は利益を目指さず、互いに分け与え平安と安穏世界を築く。
406 :
神も仏も名無しさん :2008/07/04(金) 23:22:16 ID:HKm29GX0
>何かを信じて救われるより、実際自然の中で安らぎを求めれば安らぐ。 ですね。 仏教とキリスト教は水と油です。似た言葉で混同しないようにしましょう。
407 :
神も仏も名無しさん :2008/07/05(土) 16:03:01 ID:dQqsQs4I
>>406 教えで似たところがあれば、ありのまま同じようなことを意図として説いたとしていい。
イエスは罪を犯す犯罪者や娼婦に対しての教え。神が見ているから悪いことをするなと。
健康な人は医者はいらないとした。
仏陀は平安と安らぎの希求。離欲まで達成しようとした人たちの修行行為だから、健康
な人に対して、更に安らぎを求め輪廻から離れようとする教え。
>何かを信じて恐れ、または希望を持つのではなく、自分で自分を制して、苦悩から離
れ輪廻しないまでになるという上の教えだと思う。
イエスの言っていることは、仏陀は既に説き、更に上の安らぎに至る道を仏陀は説いて
いる。「愛」はこの世だけの最低限の教え。更に上を目指さないと世の中の苦悩もなく
ならない。
408 :
神も仏も名無しさん :2008/07/05(土) 21:05:31 ID:KSIM9Ddi
>教えで似たところがあれば、ありのまま同じようなことを意図として説いたとしていい。 ということは、仏教とオウム真理教は 同じようなことを意図として説いたとしていい。ということですね。 つまり、 釈迦 = 松本智津夫 ということですね。
409 :
神も仏も名無しさん :2008/07/06(日) 00:03:48 ID:7s/VsqFE
釈迦もイエスも人を殺すなと言った。 そういうことをわからない人が多く、 宗教はただ他を排斥するためのもの となるんだろう。
410 :
神も仏も名無しさん :2008/07/06(日) 01:45:02 ID:65WVTWGh
ここまで、キリスト側は一生懸命、仏陀とイエスはおなじことを説いたといい、 仏教側は、違うと言い。 キリスト側からは、仏陀とイエスのココが違うという話は聞けないのですかね?
411 :
神も仏も名無しさん :2008/07/06(日) 08:13:55 ID:2IwOKMDT
キリスト側が仏陀とイエスはおなじことを説いたといったと決め付ける。 思い込みが激しいと仏陀とイエスは水と油。
412 :
神も仏も名無しさん :2008/07/06(日) 10:50:29 ID:BLXcjAqS
イエスは「友のために死ぬよりもおおいなる愛はない」と言う趣旨にことを言っていると思うが、 これの意味はどう言うものなんでしょうか?イエスの十字架の死と関係有るのでしょうか?
413 :
神も仏も名無しさん :2008/07/06(日) 18:14:08 ID:gdDz7WBg
>>412 仏教的には「母が己が独り子を命を賭けても護るように」
十字架の死は、神を信じながら人を殺した。信仰対象を「愛」にしたかった
だけのこと。
神といっても、この世と煩悩の消滅した世界しか無いし、殺人を犯さない世
界を義として、信じたら決して他人に害を加えるなと。
行いだけを教えると、行いだけで消え去る。十字架の死により、かえってそ
のほうが律法が残るとした。
414 :
神も仏も名無しさん :2008/07/06(日) 21:35:45 ID:TSSKFEc7
>釈迦もイエスも人を殺すなと言った。 さて、松本智津夫も言ってますが。同じことを言ったからといって安直に同一視しないでね単細胞に。
415 :
神も仏も名無しさん :2008/07/06(日) 23:00:22 ID:YhNobECB
松本智津夫は殺せと指示しただろうが。 それで死刑になった。そんなことも考えれないのか馬鹿。 だから同じことを言っても違うと馬鹿は思い込むのさ。
416 :
神も仏も名無しさん :2008/07/06(日) 23:13:20 ID:BLXcjAqS
>>413 ウ〜ン、難しい。
友のために死ぬとは、身代わりになると言う意味だよね?
イエスの友とは、人類なのか?
その人類が罪を犯したので、真実である神から必然として罰を受けなければならなかった。
その罰は死であった。そこで、罪を犯して死と言う罰を受けなければならない人類を友と見做しているイエスは、
その罪を身に引き受ける事にした。罪を引き受けるとは、死ぬことを意味する。
人類の罪を引き受けてイエスは死んだ。しかし、罪とは輪廻しているもの、相対的に存在しているもの、縁起しているもの、
故に、幻なのである。真実の前にはないものなのである。罪を引き受けるとは、
この輪廻、縁起、幻、虚妄を引き受けると言うことなのである。これらの真相を知っているものは、
これらに惑わされないで、打ち勝つことができるわけである。
一旦この罪を引き受けて死んだけれども、これに打ち勝って、蘇った、というのがイエスの復活、と言うことではないか?
417 :
神も仏も名無しさん :2008/07/06(日) 23:22:43 ID:DFcnpYCr
>>415 松本智津夫が殺人を指示しないと死刑にならなかっただろうな。
現実無視の宗教家は無知に等しいよな。
同じことを言っても違うと言い張り、自分の信じたものだけを正しいとする。
宗教組織はやばい人間を育てるだけ。
418 :
神も仏も名無しさん :2008/07/06(日) 23:29:44 ID:TSSKFEc7
>同じことを言っても違うと言い張り、自分の信じたものだけを正しいとする。 本質が違うからね 仏教とキリスト教は。 同じ言葉を言うから同じとは笑止。 ちなみに信じるのでは真理は現れず 解析あるのみ。それが仏教。 よって信じるキリスト教とは別。
419 :
神も仏も名無しさん :2008/07/06(日) 23:32:17 ID:TSSKFEc7
キリスト教は殺せと指示したが未だ繁栄している。 これではオウム真理教が可哀相だw 麻原が獄中で「なんでなんだ〜〜」と叫ぶのも無理は無かろう。
420 :
神も仏も名無しさん :2008/07/07(月) 00:30:16 ID:D1pgad2C
>>416 イエスとブッダの共通点も、そのように客観的に考えてみるといいと思う。
同じような教えがあり、それは違うという無能な人間は無視するべきだろう。
421 :
神も仏も名無しさん :2008/07/07(月) 00:35:14 ID:D1pgad2C
>>人類の罪を引き受けてイエスは死んだ。しかし、罪とは輪廻しているもの その考え方は共感できる。解脱の道は、多くの人ができるとは限らないから、 人間の罪をゆるした、しかし、イエスは罪を犯さない生き方を示し、信仰さ せたと考える。
422 :
神も仏も名無しさん :2008/07/07(月) 00:39:29 ID:D1pgad2C
釈迦が修行僧とともに人里離れた所で輪廻しない道を歩んだ。 無所有で、五欲の対象から離れ、瞑想による煩悩の消滅。 そのような行為をしないで輪廻しないと教えるのは、釈迦を見下している。
423 :
神も仏も名無しさん :2008/07/07(月) 08:15:30 ID:0LpmnRaR
>>422 仏教というが、世間から離れ自然の中で瞑想修行し悟りに至ろうとする、
所有物を捨て去り、静けさを目指し、五感の対象・第六の思考を静め・・・という修行を
している人は少ないよな。
424 :
神も仏も名無しさん :2008/07/07(月) 09:11:16 ID:hocVPGCA
イエスと釈迦の共通点 炭素ベース、ヒューマノイド型二足歩行。 頭部の前面に、左右対照に目があり、頭部中心、目の下位置に二つ鼻孔の鼻があり、更にその下には口がある。 口から食物及び水分を摂取する。 肛門よりウンコをする それがまたクサイ!
425 :
神も仏も名無しさん :2008/07/07(月) 12:26:03 ID:pjfg52+z
それがまたクサイとは、またの臭いがするという意味?
426 :
神も仏も名無しさん :2008/07/07(月) 13:55:32 ID:hocVPGCA
そのあたりは御想像に御任せいたします。
427 :
神も仏も名無しさん :2008/07/07(月) 14:26:32 ID:hocVPGCA
イエスと釈迦の共通点 両者は共に、性別は男性であるため、オシッコはチンチンから出しました。
428 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/07(月) 20:58:41 ID:1wsAgF6k
・・・なぜお釈迦になるって言うのかな? 最大ヒントです
429 :
神も仏も名無しさん :2008/07/07(月) 23:12:25 ID:YNJr4WAc
souka? souka.
430 :
神も仏も名無しさん :2008/07/07(月) 23:15:14 ID:FJ8eSqgW
というわけで仏教とキリスト教は違う。ということがハッキリしました。 ちなみに創価は後者です。なぜならば
431 :
神も仏も名無しさん :2008/07/08(火) 10:12:02 ID:C48kNg+3
朝鮮半島の統一教会の傘下組織だから?
432 :
神も仏も名無しさん :2008/07/09(水) 21:30:16 ID:fdlsmuTJ
テレビを見ていたら、ブラジルのある地方に地下に水に満たされた洞窟がたくさんあるのだ。 その洞窟の底に、太古の動物の化石なった骨がたくさんあるのであった。一種類の動物の骨ではなく、 たくさんの種類の動物の骨の化石であった。何万年も前の動物だそうだ。 私は、時間の空間は同一のものである、と言う持論を持っているものである。更に、時間と空間は 縁起しているものゆえ、無実体の幻であると信じている。 ところがこのテレビを見て、時間と空間の同一性に障害が生じたのだ。 ブラジルの一地方と言う空間と、其処が何万年も経過している時間の矛盾である。 空間に変化はないのに、時間が変化しているではないか?空間と時間が同一なものなら、 時間が変化するなら、空間も変化しなければならないはずである。 時間とは距離である。距離とは時間である。距離を空間と言う。 誰か、この矛盾を説明できるか、説明してくれ。
433 :
神も仏も名無しさん :2008/07/09(水) 23:03:04 ID:rG5n3Git
精神障害一歩手前かな
434 :
神も仏も名無しさん :2008/07/10(木) 06:58:35 ID:22kPj8A6
時間と空間が縁起関係にあるというのではなく、時間そのものが縁起関係の存在であると言うことであり、 空間そのものが縁起関係の存在であると言うことである。
435 :
神も仏も名無しさん :2008/07/10(木) 07:14:34 ID:22kPj8A6
時間と空間(距離)の関係も又、縁起関係と言うべきである。 ある点に止まっているのに、時間が経過していく、と言うことの説明を、どうするか、と言うことだ。
436 :
神も仏も名無しさん :2008/07/10(木) 07:35:09 ID:edjUwDKj
で?空だと列車に飛び込んでも平気?
437 :
神も仏も名無しさん :2008/07/10(木) 22:35:36 ID:22kPj8A6
ファ〜、眠いw。
438 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/07/10(木) 22:44:00 ID:4Bb5XcPV
>>435 > 時間と空間(距離)の関係も又、縁起関係と言うべきである。
時空間は無記だろ。
重力なら時空間と縁起するがな。
439 :
神も仏も名無しさん :2008/07/11(金) 23:11:38 ID:zuRG5QKG
いや、基本的なことを忘れていた。 縁起と言うことは変化と言うことであることだ。 時間と言うものは、変化に他ならないのだ。変化がなくて時間の経過と言うものは無いのだ。 変化が積み重なる事を時間の経過というのである。 これはいいとして、それでは、距離はどうなのかと言うと、距離も変化なのだ。 変化の積み重ねが距離の伸張なのだ。変化なくして距離と言うものはない。 例えば、全く同じ風景があったとして、その中を列車が進行する場合を考えてみよう。 永遠に同じ場所なのだ。どうして距離の伸張があろうか? 次に本題の地球とその年齢を考えてみよう。 地球には年齢が有ると言う。百年経った時の地球と百年前の地球は違うのだ。 そこに変化があるのだ。それは同じ風景ではない。同じ風景でないならば、 同じ地球ではない、と言わなければならない。同じ地球でないなら、その間には距離がなければならない。 その距離はまさに時間である。 ものの変化とは、時間と距離(平面及び立体)を言っているのである。 そして変化とは縁起である。相対的存在である。生滅である。時間と距離と言うものは、 合一して変化を言うものに他ならず、変化とは相対的存在なのである。 変化の具体的様相は、相対的存在と言うものの説明である。 相対的存在とは、二つのものが並存し、それぞれ場所を有するものである。場所を有するとは 一定の面積(立体)を持つものである。 結論 地球はあるときに誕生し、一定の形状(形相)を保っているのではなく、一時も留まることなく、 変化しているものなのだ。
440 :
神も仏も名無しさん :2008/07/11(金) 23:36:01 ID:zuRG5QKG
一個の地球と言う球体が変化していると言う考えではなく、無数の地球が 過去、未来に、並存して存在していると考えるべきなのである。 重力とは、引力の事で、ものの相互を関係付ける相対的存在の 説明の一つである。一方がなければ他方はないのである。 時間と空間と言うものがないのが真実であると言うのと同様に、 重力と言うものはないのである、真実には。
441 :
神も仏も名無しさん :2008/07/11(金) 23:59:47 ID:JMYuIY7X
ファ〜、眠いw。
442 :
神も仏も名無しさん :2008/07/12(土) 08:38:17 ID:HJvznFW2
>>438 ものは相対的にしか存在し得ない。あるものが生じるなら、別なものが滅するもしくは生じるのである。
この相互関係は『必然』なのである。
お互いにものが引き合っているのである。この引き合うと言うことがないなら、ものは存在していないのである。
443 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 09:26:59 ID:vNPW5HYb
我々が感じられる物質世界は、 地水火風の四大だけ。 地…かたさ、おもさ、へだたりの感覚。 水…収縮、引き付ける感覚。 火…熱さ(相対的に冷たさ)の感覚。 風…膨張、押し退ける感覚。 水の感覚と風の感覚は相対的関係。 この四つの感覚(四大)がない場合、空大(空間)の感覚となる。 仏教における物質の分析は、私達が直接得られる感覚の分析であり、 西洋物理学のような理論による推測ではない。
444 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 09:31:49 ID:6HZQcpOm
>>441 netストーカーが生じるのも必然かw。
445 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 09:38:01 ID:6HZQcpOm
>>443 >西洋物理学のような理論による推測
上を説明してください。
446 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 12:00:06 ID:vNPW5HYb
>>445 べつにたいした意味はないです。
仏教では、実際に感じることのできる感覚を、
瞑想によって注意深く観察し、分類する。
だから、元素は土水火風の四大か、それに空大を加えた五大。
どれも、人間が感じる感覚の分類。
水素とか酸素とかいった物理学の元素とは違う。
重力とか万有引力とかの概念は、論理的に導きだされたもの。
仏教では、それらはただ、水大(収縮、引き付けの感覚)として観察するだけ。
447 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 17:42:52 ID:6HZQcpOm
現代の科学は、原子の活動のみを追及しているが、前提する虚空を捨てている。 WIKI デモクリトス [編集] 学説 〈原子〉は不生・不滅・無性質・分割不可能な無数の物質単位であって、たえず運動し、その存在と運動の場所として〈空虚〉が前提とされる。 無限の〈空虚〉の中では上も下もない。形・大きさ・配列・姿勢の違うこれら無数の原子の結合や分離の仕方によって、 すべての感覚でとらえられる性質や生滅の現象が生じる。デモクリトスは世界の起源については語らなかったが、 「いかなることも偶然によって起こりえない」と明確に述べている。 デモクリトスの倫理学においては、政治の騒がしさや神々への恐怖から解放された魂の安らかさが理想の境地とされ、 詩学においては霊感の力が説かれている。 原子論を中心とする彼の学説は、古代ギリシアにおける唯物論の完成であると同時に、 後代のエピクロス・近世の物理学に決定的な影響を与えた。
448 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 17:58:28 ID:6HZQcpOm
<<447 >〈原子〉は不生・不滅・無性質・分割不可能な無数の物質単位であって、たえず運動し ここに矛盾がある。これが妄想である。妄想によりものは生起する。
449 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 20:59:30 ID:IYyxCQh/
さあ私は空なので 今日も国道を横切ろうかな。ご飯も食べませんし。
450 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 21:28:33 ID:6HZQcpOm
>>449 お前の髪の毛一本も神に知られている、と言うイエスの言葉は、何を意味するか
説明してみよ。
451 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 21:57:03 ID:IYyxCQh/
452 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 22:20:39 ID:6HZQcpOm
>>451 神とは真実のことなんだよ。真実を尊重するのは、必要だろう?
自分のことだからね。真実の自分でありたいだろう?
嘘の自分だと、虚しいじゃないか。不幸せを幸せと思っているのは嘘の自分なのだ。
神は空相一相無相だ。お前は自分の髪の毛の数を知らないし、知らなくともなんともないと思っている。
自分の事なのに、知らなくともいいのか?自分の事を知らないものが、幸せを得られるだろうか?
http://www.hokuu.co.jp/zennbun.html#saronn ●今月から和絆がサロン開設
秋田県能代市民有志で組織する「ハートフルケアグループ・和絆(やわらぎのきずな)」は、
15日午後2時から同市萩の台の淨徳寺(泉幸一住職)で住民が気軽に語らう場としてサロンを開設する。
和絆は、19年度のはまなすふれあいサポーター養成講座修了者で結成。
同講座修了生で組織するグループは「ふれあいのWA」に続いて二つ目。
サロンは午後2時から同4時までで、毎月15日に開くことにしており、参加は自由。参加費無料
454 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 22:53:07 ID:IYyxCQh/
>神とは真実のことなんだよ。真実を尊重するのは、必要だろう? 嘘を言うな嘘を。 真実なら見せろ。見せれぬなら真実と言うな。こんな単純なことを言わせるな。 嘘つきめ。 そもそも真実なら証明する必要も無いだろう。もうだれかが明らかにしているだろうし。
455 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 22:55:03 ID:IYyxCQh/
456 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 23:44:40 ID:IYyxCQh/
さて国道でも渡っとくか。
457 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 23:49:55 ID:vNPW5HYb
>>452 聖書の神は、人格神でしょう。ゼウス様みたいな。
神を真実とかに置き替えないと神を信じられないなら、
キリスト教徒なんかやめちゃえばいいのに。
458 :
神も仏も名無しさん :2008/07/13(日) 23:59:17 ID:6HZQcpOm
>>456 死ぬなよ。そのうち又、面白い体験談が聞けるかもw。
459 :
神も仏も名無しさん :2008/07/14(月) 21:32:41 ID:XZNSoycr
法華経の薬王菩薩本事品そのほかに、自分の身に油を塗って焼いたとか、ひじを焼いたとか、 身を投げたとかの話がある。これは、空諦を聞いて、それを信じていることを身を以って実行して見せたものである。
460 :
神も仏も名無しさん :2008/07/14(月) 23:03:46 ID:UQ1JjY6a
>>457 イエスはきっと、天国でしか会えない神を説きたかったのだろうと思う。
アートマンが罪人だ。アートマンが悪を行い偶像を抱くのだ。
本当は慈悲・寛容・謙遜・柔和・愛という人の心の中のものでしか神は
知れないと。
461 :
神も仏も名無しさん :2008/07/15(火) 08:02:07 ID:zGTtfAZE
>>457 人格紳と言い出すと、それは、絵に描ける姿形を持ち、その姿形が、
人間のものである、といっていると思われる。
それは有身見ではないだろうか?
もし我々が姿形を持っている又は、姿形を持っていることが自分の本質である、と考えているなら、
その有身見が我々を拘束するだろう。
462 :
神も仏も名無しさん :2008/07/15(火) 08:28:52 ID:Ctm91rBm
>>461 キリスト教には有身見の煩悩とかいう概念がないでしょう。
天国では、完全な肉体が与えられるんじゃなかったっけ?
だいたい、神は、神に似せて人間を造ったわけで、
神も人間のような、しかも人間より完全な肉体をもってるのでは?
463 :
神も仏も名無しさん :2008/07/15(火) 19:32:13 ID:2Da4e4pJ
難しいことを考えてるね、みんな。
464 :
神も仏も名無しさん :2008/07/15(火) 23:19:57 ID:zGTtfAZE
>>462 > キリスト教には有身見の煩悩とかいう概念がないでしょう
有身見というのは、肉体が自分である、と言う観念。煩悩とは
欲心の事でしょう。キリスト教でも、欲心を戒めている教えを見つけるのは容易です。
「貧しいものは幸いです、天国はその人のものです。」等も、欲心のないことは幸いであるといっているのです。
この世で富んでいる者は、欲心の結果でしょう。その欲心の功罪のために、天国に入りにくいのです。
そして、その欲心と言うものは、有身見から生じるものです。自分の身を守るために、そしてより一層
安全にするために、たくさんのものを得ようとするのではないでしょうか?
>神は、神に似せて人間を造ったわけで
神の姿は無相です。人間も無相であるのが、神の創ったままの人間です。
その無相な姿を、人間は、無相と言う真実を認めないで、有身見に基づき、反対に、神を罪のある人間の姿に
しているのす。
465 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/15(火) 23:27:29 ID:NKuEHY2K
キリストがアルファでありオメガであると言ったのは 初めての人間アダムであり最後の子キリストである と言う事ですよ それで、世々限りなく生きておられる方なんですよ
466 :
神も仏も名無しさん :2008/07/15(火) 23:39:17 ID:xtzqkOmp
最初の人が罪を犯したからな。そういう理屈で、自分と同じような神を創造するなら、 神を罪に定めている。 今のままの人間で永遠なら宗教など必要ないだろう。キリスト教はそれを考えること もしない。 今のような人間を創造して神としているから、神の沈黙と不在という心も生まれる。 神はただの名称であって、そのような偶像を抱く恐れがあったから釈迦は神と言わな かった。 肉体も自分ではないし、欲心も自分ではない。それらの思いを慎もうとすることで不朽 に近づこうとするのが宗教のあり方。
467 :
探究者 :2008/07/16(水) 00:22:36 ID:iWiVvZvf
参加させていただきます。ちょっと興味があってのぞいたのですが、 現在、存続している宗教で真理を説いて人を導く事が出来ている宗教は無いと 思います。ブッダもイエスも最初は同じ事を説いて生きる事に苦しんでいる人 を助けたと思います。ですが、ブッダやイエスが亡くなった後、 それを引き継いだ者が全く悟っていなかった結果、人間の権力欲、金欲、等に 負けて、都合よく曲げて伝わって行き、それの2000年間の積み重ねが 現在残っている宗教なんです。なので、神を外に求めるのはこの2000年間 の結果で間違っていることが判るはずです。ブッダもイエスも神は自分の心に あると説いています。それをどう解釈するかも、あなた次第です。 どう解釈してどう生きるかもあなたの自由です。 私は、「良心」と言われる部分と「真理を求める心」がそれなのだと思います。 イエスはそれを「キリスト」と呼びました。 ブッダはそれを「仏性」と呼びました。 宗教戦争をしたり、財政で生き残ろうとしたり、人を勧誘したり、 その現状を見るだけではっきりわかる事だと思います。
468 :
神も仏も名無しさん :2008/07/16(水) 01:20:12 ID:X/MtKMFV
>>467 ブッダは「仏性」などの余計な概念を説かなかったと思いますよ。
「仏性」信仰は、ブッダの死後に大乗仏教からでてきたものです。
私達が仏教の教えを知り得るのは、既存の仏教教団のおかげです。
市販の書物の元ネタは、僧侶達が脈脈と伝えてきた教えです。
ですから、教団は、真理を伝えている部分もあります。
もし2千年前のキリストさんにDNAの情報量やら染色体の話をしてまともに会話できるならダビンチとか目じゃないって思うしな。 歩けない人間が何時間後かには歩けるようになる万能細胞のメカニズムですらキリストの奇跡の一旦ですらないし なにより魚を増やすとかが事実だったなら、それまでの地球の進化の歴史は何なの?って感じで チンパンジー改造バージョンごときには所詮理解は無理なんだろーな。 悟るとかはパイロット性能が違うと言うかザクとは違うのだよ、ザクとはw
470 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/16(水) 05:51:01 ID:QrcZcRrN
文明右上がりの幻想 幻想です諸行無常なんですよ 二千年前がまた再びこの現代にやってきました イエスキリストの再臨です
471 :
神も仏も名無しさん :2008/07/16(水) 08:15:45 ID:lZNTwQtt
再臨しないよね。
472 :
神も仏も名無しさん :2008/07/16(水) 19:48:51 ID:yH9vx48x
再臨どうのこうのというより、足りない、足りないといって世のことに動揺す る人々に対して、 衣食があれば足れり、足ることを知り世の盛衰を乗り越えた修行僧は、世のこ とに動揺せず苦しみも受けないということじゃないのか。 その時に応じて役に立たない宗教知識は無駄だと思うのだが。
473 :
神も仏も名無しさん :2008/07/17(木) 20:43:27 ID:clFnHStH
どうだろう、キリスト教では、イエスの教えは全治に述べ伝えられなければ ならず、それから終わりの日が来るというのであり、その終わりに日というのは、 虚妄の世界の終わりと言うことである。この終わりの日に、虚妄の世界に浸っているものどもは、 永遠の輪廻の地獄に閉じ込められ、真実の教えを受け入れるものは、永遠の天国に入ると言うことになる。 従ってこの終わりの日というのは、裁きの日でもあるのだ。
474 :
神も仏も名無しさん :2008/07/17(木) 21:01:35 ID:clFnHStH
この再臨のイエスとは、修行完成者なのである。修行完成とは、 彼が知る一切の範囲に於いて、虚妄が無いと言うことである。 つまり、彼は一切に罪なるもの、虚妄なるもの、穢れたものを見ないのである。 であるから、かれに寄り頼るものは、必ず一切の罪を許され、一切の苦しみから癒されるのである。 その人の苦しみをけして、見ない人が、修行完成者なのだから。 この修行完成者に反対するもの、疑うものは、反対に、生老病死から開放される事はない、と言う道理である。
475 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/17(木) 21:03:33 ID:d8RHTDTp
>>473 宗教関係全てこの真理です
贅沢は敵だ
ただこれにつきます
476 :
神も仏も名無しさん :2008/07/17(木) 21:32:08 ID:n8mU1uqs
>再臨どうのこうのというより、足りない、足りないといって世のことに動揺す >る人々に対して、 >衣食があれば足れり、足ることを知り世の盛衰を乗り越えた修行僧は、世のこ >とに動揺せず苦しみも受けないということじゃないのか。 つまり再臨しないんですね。
477 :
神も仏も名無しさん :2008/07/17(木) 21:36:18 ID:n8mU1uqs
キリスト教は人類に対する冒涜だと思うが イエスさまとお釈迦さまは個人的にレスペクトしてるよ。
479 :
神も仏も名無しさん :2008/07/17(木) 22:45:54 ID:clFnHStH
0707> 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。す 0708> べて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 0709> あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 0710> 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 0711> このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いもの下さらないことがあろうか。 0712> だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
キリストの奇跡のひとつでしかない 歩けない人が歩けるようになる万能細胞の発見までにたっぷりと2千年だからな。 よく手とか写ってない写真を霊能者が見て先祖の警告で体を気をつけろのメッセージうんたらとか言ってるけど 多分このメカニズムの解明なんかよりもよほど先に人間より優れた知的生命体が地球の支配者になってるだろ ただの光の反射とかが原因とか言い切る奴は科学を信仰しすぎ 世界は人間の想像を遥かに超えて複雑なんだよ
481 :
神も仏も名無しさん :2008/07/18(金) 07:51:54 ID:6CBH5y0X
0625> それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 0626> 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養って下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 0627> あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 0628> また、なぜ、着物のことて思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 0629> しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾ってはいなかった。 0630> きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 0631> だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、 0632> これらのものが、ことごとくあなたがに必要であることをご存知である。 0633> まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添え与えられるであろう。 0634> だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。 第七章
482 :
神も仏も名無しさん :2008/07/18(金) 07:54:31 ID:6CBH5y0X
483 :
神も仏も名無しさん :2008/07/18(金) 08:37:26 ID:A7Z7Y4B2
そらやっぱりあれでっせ。それでっか そうでんにゃ ほんまかいな うそでんがな そらあかんがな やっぱりあきまへんか そらそうでんがな ほなもおよろしいですわ わけわかりまへんな そおでっしゃろ おおじょしまっさ そらそうでっしゃろ
484 :
神も仏も名無しさん :2008/07/18(金) 12:38:11 ID:HKg0LpT2
>479 >481 必要なものは神様が与えてくれるから心配せずに、 神様を信じることだけ考えていなさい…ってことですね。 大乗仏教ではそういうのもあるだろうけど、 ブッダの教えとは違う気がする。
485 :
神も仏も名無しさん :2008/07/18(金) 22:43:25 ID:5ESgntbC
486 :
神も仏も名無しさん :2008/07/18(金) 23:30:45 ID:6CBH5y0X
音響忍=仏の説法の音声を聞いて、道理を知って安住すること。 柔順忍=自ら思惟して真理に安住する事。 無生法忍=すべてのものが生ずる事もなく、滅すると言うことも無いと言う真理を知って、そこに 安住する事。 神を信じるとは上の忍を言う。 極楽浄土では、ほしいものは思っただけで得てしまう、と説かれて居る。 原始仏教では、この辺りの説法を知らないが、きっと有るはずである。 布施に関する教えとして、ないだろうか? いずれにしても、道理上、求めるものは全て与えられなければならない、と言うことになるんだ。
487 :
神も仏も名無しさん :2008/07/18(金) 23:35:24 ID:5ESgntbC
仏教は信仰という迷妄からの解脱を勧めるが 愚かな人類は信仰したくてたまらない。 何かに依存したい。そのような希求から仏教は キリスト教のような信仰宗教に改造されて今に至る。 やれやれ。 馬鹿人類。
宗教なんて教祖が若い信者を抱くために始めて、いまは金儲けの為に続けてるんだって幼稚園で習わなかったか?
信仰でインターネットは充分可能 ただ理屈はしっかりしてないとな。願うだけでパソコンが現れてネットサーフィンまでやってみろとか その発想が色々と駄目だろ
490 :
神も仏も名無しさん :2008/07/19(土) 12:00:53 ID:v2GGk67H
三忍(音饗忍・柔順忍・無生法忍)を理解したからといって、直ちにその真理に安住できるか? 今までの、その真理に反する生活習慣の故に、出来ないのである。その生活習慣は、 その真理に反するものであったので、その真理に反する考えが優勢となっているのである。 その真理に反する生活習慣に打ち勝つ時、真理の教える真実は、無相であるとの思いを、 強く掲げ、それに従うようにしなければならないだろう?真実は無相であるとの思いを強くして 、それに反する思いを打破する行為を、信仰、と言うのである。
491 :
神も仏も名無しさん :2008/07/19(土) 20:46:14 ID:CHlYHt0C
信仰によってネットサーフィン出来得る、という伝説がまた誕生しました。 さすが名スレ。 次は、信仰で 手を触れなくとも鼻糞がほじれる。でお願いいたします。
492 :
きらら :2008/07/19(土) 22:07:50 ID:CC9V0NSz
無償の愛を送ります☆
信仰無くとも毎日神の奇跡を見ていて何をいまさら 木の存在が無くとも科学と呼ばれる葉が単独で存在するとでも思っているのか?
494 :
神も仏も名無しさん :2008/07/19(土) 23:19:08 ID:evRDmUcW
>>478 イエスは仏教修行僧のように荒野で修行して解脱した。
神を信じる人々に「神に信仰のある人はいない」と。
釈迦は解脱し修行完成者となり、「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない」
修行を行い、平安の境地に達してから、この世では慈しみが崇高な境地であると説き示す。
そこでイエスは神を信じる人を悟りの言葉に誘導しようとした。神を信じる人に神への信仰はないと教え、自分
を主として、慈悲など釈迦の教えにあることを説き、主よ主よと言うなと。
修行完成者のようになるのは難しく、信仰により身に着けるだろうとしたが、信仰だけになってしまった。これ
がキリスト教の失敗である。言葉通りなら戦争など有り得ない。慈悲が優先で、金銭を愛することや衣食など物
の優先を戒めていたが、慈悲より金銭や物優先の人々を育て上げた。
イエスは自分の意図と反する人々をつくりあげてしまった。
495 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 01:15:35 ID:2ZaMoGSC
496 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 02:02:15 ID:9d10O+ro
キリストさんの教え、偽善臭がぷんぷん。 あほな人間向けではないよ。 人間の汚さを認めたうえで、言葉を選んでいるのはお釈迦様。 それでもあほが解釈捻じ曲げるんだけどね。 どこまでいっても「自分だけが分かっている」っていうエゴで汚すんだよね。 日本に伝わってる仏教は、見事汚れてるよ。 お釈迦様が開祖なのに、日蓮とか空海とか親鸞とか訳わかんね。 「俺の」解釈が正しいっていうエゴ丸出し。 もめてやんの、こいつら。 悲しくなるぜ、馬鹿の程度にも。
>>496 昔からいうだろ。「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」だってな。
498 :
妄想してみた :2008/07/20(日) 02:24:54 ID:mw0wWPb2
釈迦そのものに会ってないのに 釈迦を信じられる理由は何か それは 釈迦自身に出会っているからである
499 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 06:22:13 ID:CViQYD63
494が正解。 >493 信仰無くとも毎日神の奇跡を見ていて何をいまさら >木の存在が無くとも科学と呼ばれる葉が単独で存在するとでも思っているのか? そうきましたか信者さん。たしかに宇宙は 何らかの力で出来ている。無秩序ではない。 その秩序を探ることで利用するのが科学であり インターネットは端末を繋いではじめてできる。 信仰者は 願えば叶うとか 信じれば救われるとか 善人は護られるとか 神だかのシモベになれば裁かれないとか の妄想に浸り 現実逃避しているくせに我々は真理を知っているんだ、 などとおろかな選民思考となっている。 奴隷根性はそれほどに気持ち良く 辞められないようだ。 釈迦はそんな迷妄を勧めず 自ら思惟し解脱することを勧めた。
イエスとブッダ、ではなくて、イエスさまと親鸞さまの共通点ならなんとなく分かる気がするがw 幼稚園が真宗、中高カトだったから、どちらもついつい様付けしてしまうw教皇さまと言ってしまったり、新門さまと言ってしまったり、さすがに聞かれると恥ずかしい(//△//)
>>496 親鸞さまはそんな事は言ってないぞ。
自分だけが正しいと思う事が、そもそも間違いの始まり的な事も言ってるぞ。だって凡夫だもんw
502 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 07:22:14 ID:CViQYD63
親鸞はテキトーだからね。
503 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 09:23:58 ID:CpeLJU2C
>>500 新約聖書=原始仏典
釈迦は解脱した。修行僧は解脱を目指す、荒野で瞑想修行。
多くの人々向けにも釈迦は悟りの言葉を説いた。
それが聖書に影響を与え、新約聖書として聖書を封じた。
世界に良い影響を与えたのは元々は釈迦の悟りの言葉である。
もともと、人の内にあるものだから、その言葉を善いものと心得させ
るなら世の中は良くなるというもの。
世界に好ましくない影響を与えているのは信仰である。
504 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 09:52:02 ID:7k5IXDHh
新約聖書≠釈迦説法 妄想を勧め求めれば貰えるとか、信じれば裁かれないとか言う新約とは隔たり 釈迦は、そんな迷妄を捨てて目覚めることを 説きました。
505 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 10:27:08 ID:2ZaMoGSC
イエスがどこかで、「今見えると言うところに、貴方の罪がある」といっていた記憶があるので、 其処を探して、マタイ伝を斜め読みをした。あいにく見つけられなかったが、 仏教との相似点が無いと言う人も居てもおかしくない、と思った。 しかし、例えば、スッタニパータを読んでみるなら、その形態は、マタイ伝の形態と相似している。 スッタニパータの教えの源泉は、何処にあるんだろうと、初心者は考えるだろうが、 其処を重点的に教えている章は、特別にあるわけではないと思う。 しかし、一見するならすぐに、仏教とは異なると言う感じはするかもしれないが、 やはり、真理真実の源泉とそれに基づく教えは、同一であると見られるのである。 そこで、「今見えると言うところに、貴方の罪がある」と言うイエスの判断の根拠は、仏教の教えと同じ源泉 に基づくものである、と言うことを知るべきである。仏教の真理真実により、始めてイエスのこの判断を説明でき、理解されるのである。 もっとも、このイエスの言葉が、福音書の通りであるなら、であるが。 誰か、説明を試みてみないか?
506 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 10:41:08 ID:k/x3B5x6
生まれたものどもは、死を逃れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。
…… 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に到る。
…… 見よ、見守っている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。
…… このように世間の人々は死と老いとによってそこなわれる。それ故賢者は、世の成りゆきを知って、悲しまない。
…… 泣き悲しんでは、心にやすらぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。
…… 人々がいろいろ考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。やぶれて消え去るのは、このとおりである。
世の成りゆくさまを見よ。
…… だから尊敬さるべき人の教えを聞いて、人が死んでなくなったのを見ては、
「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。(スッタニパータ575-590 中村元訳)
真実を直視してそこから逃げないことをブッダは教えます。 死者の再生をいくら願っても無効。
この点が、「永遠の命」のようなものを信じることによって、根拠のない希望を抱かせるキリスト教ときわめて異なるところです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1210417061/28
507 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 12:25:10 ID:9d10O+ro
屁理屈こねてないで自分の心をきちんと観察しなさいとお釈迦様はおしゃっていますよ。 私を信じなさいなんて言っていない。 どこまで自分に「嘘」をつかずに観察できるかがポイントです。 だから修行しないといけないんです。 試行錯誤するしかないんです。 でも、正しい試行錯誤の仕方をお釈迦様は「教えて」下さっています。 「八正道」です。 自分の馬鹿さ、苦しみを認めることがスタートです。 お釈迦様の言葉と違っていたら、検討しなおす。 何度も何度も確認するんです。自分の中の「嘘」をどんどん捨てていくんです。 いろんなことに気付かないと駄目なんです、お釈迦様の言葉が「正しい」と確認できるまで。 それだけですよ。
508 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 12:46:46 ID:k/x3B5x6
507正解。505不正解。
509 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/07/20(日) 12:59:02 ID:wAotRsIx
釈尊もイエスも仏陀=生きながら彼岸に達し、悟りの言葉を語る ■葬儀などやるな 葬儀などやるなという思想は原始仏教聖典にまま散見するが(ブッダの最後の旅) 死人を葬ることは、死人に任せておくがよい (マタイ) ■供え物など人が食べる このようなものは、梵天の召し上がる食物ではないのです(悪魔との対話) 偶像は何かほんとうにあるものなのか〜人々が供える物は、悪霊ども、すなわち神 ならぬ者に供えるのである(コリント人への第一の手紙) ■呪文など意味のない言葉を唱えるな 無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる有益なことばを一 つ聞くほうが勝れている(感興のことば) 多くの呪文をやたらにつぶやいていても〜内心は汚物に汚れ、欺瞞にたよっている (悪魔との対話) 会堂の上席や宴会の上座をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長 い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう(ルカ)
510 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/07/20(日) 13:00:00 ID:wAotRsIx
■清浄・不浄をねがい求めるな 「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく(ブッダの ことば) 「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく」 (ルカ) ■誓うな 一切の戒律や誓いをも捨て、罪過あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て(ブッダ のことば) いっさい誓ってはならない(マタイ) ■信仰はない 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り(真理のことば) からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言った としても、その言葉どおりになるであろう(ルカ) 『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御 旨を行う者だけが、はいるのである(マタイ)
511 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/07/20(日) 13:00:56 ID:wAotRsIx
葬儀・供養・供え物・呪文など聞いてもわからぬ言葉をくどくどと唱えることを否定し、哲学 的断定も否定し、 慈悲を崇高・他人のあやまち(過失)を見ない、足ることを知り、目の欲・持ち物の誇りを捨 て去ること、耐え忍んで争わないことなどを肯定している。 □世界の終極 世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない〜清らかな行いを修めた人 は、世界の終極に至る人となるであろう〜この世もかの世をも望まない(神々との対話) 神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』 などとも言えない。神の国は、実にあなたがたの中にあるのだ(ルカ) ■魚を殺すこの世かの世のかたち この世またはかの世におけるいかなるかたちでも、空中に現れる光り輝きや彩色でも、これら はすべて悪魔ナムチの褒めたたえるところである。魚を殺すために餌が投げ込まれたのである。 (神々との対話) 悪を行わない、我が物として執着しない、目の欲など肉欲を貪らない、持ち物を誇らないなどの 今が既に永遠だとして、宗教を行ってもそれらをしない人々を釣って殺す。
512 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 13:10:53 ID:k/x3B5x6
釈迦は迷妄からの解脱を説きますが イエスは迷妄信仰を勧めています。
>>499 お前も十分におかしな事を言い切ってるのが自分で理解出来ないのか?
インターネットは端末に繋ぐことで初めて利用できるこれは事実だとここまではいい。
問題は出会った事すらない5千年前の人物に完璧にシンクロしたかのような言動が自分でおかしいとは感じないのかい?
514 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 13:18:14 ID:2ZaMoGSC
>>508 お前は以下の真理の言葉を読んで、進退を考えろ。
450 立派な人々は説いた──[T]最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)
[U]正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。
[V]好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。
[W]真実を語れ。偽りを語るな。これが第4である。
そのときヴァンギーサ長老は座から起ち上がって、衣を一つの肩にかけ(右肩をあらわして)、
師(ブッダ)のおられる方に合掌して、師に告げていった、「ふと思い出すことがあります! 幸せな方よ」と。
「思い出せ、ヴァンギーサよ」と、師は言われた。そこでヴァンギーサ長老は師の面前で、ふさわしい詩を以て師をほめ称えた。
451 自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。これこそ実に善く説かれたことばなのである。
452 好ましいことばのみを語れ。その言葉は人々に歓び迎えられることばである。感じの悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである。
453 真実は実に不滅のことばである。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上えに、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。
454 安らぎに達するために、苦しみを終減させるために、仏の説きたもうおだやかなことばは、実に諸々のことばのうちで最上のものである。
>>499 我々一人一人の体の細胞ですら神の力すなわち神の奇跡によって行われている。
本当の自分とは何なのか?
お前のようにインターネットで利用するパソコンに使われてる鉄ですらゼロから人間が創造したかのような
そんな考えかたをしていて解脱がどうとか到底理解できるわけが無いだろうに?
516 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 16:58:11 ID:UYYIScbF
たしかに宇宙は 何らかの力で出来ている。無秩序ではない。 その秩序を探ることで利用するのが科学であり インターネットは端末を繋いではじめてできる。 これが真理である。 信仰者は 願えば叶うとか 信じれば救われるとか 善人は護られるとか 神だかのシモベになれば裁かれないとか の、「真理でない妄想」に浸り 現実逃避しているくせに我々は真理を知っているんだ、 などとおろかな選民思考となっている。 奴隷根性はそれほどに気持ち良く 辞められないようだ。 釈迦はそんな迷妄を勧めず 自ら思惟し解脱することを勧めた。 ところでそれが 釈迦の言葉かどうかはどうでもいい。 大昔にそれを説いた誰かがいたようだ、そしてそこに真理があるかどうかである。 願えば叶うとか 信じれば救われるとか 善人は護られるとか 神だかのシモベになれば裁かれないとかは、「真理でない妄想」である。 阿保な信者は 真理か妄想か 区別はハッキリつけたほうが良かろう。
まあ、根本の問題はアレだね。 川で溺れかけた人が居たとして、いつも飲んでる飲み水が溺れかけた川に流れている同じものなのだと信じられない そんなところなんだろうな。
518 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 20:11:29 ID:sK4+svw6
>>512 神より釈迦を信じるから、釈迦が正しいと言う。そこに釈迦を信じる事実がある。
神を信じてしまった人に神より自分を信じさせ、自分を主と呼ぶなと言い、教えを
行えとしないと神を信じることになってしまうのではないか。
神を信じて願い求める人々に対して、もう願い事は叶えられたとしないといつまでも
くどくどと祈るようになるのではないか。
>>513 真理は物質的なものが無い世界を言うのであって、イエスも「何を食べよう飲もう着よ
う、これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである」
「何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去ってい
く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」
釈迦と同様、物質的なものへの貪欲を戒めている。
言うことを聞かない信者に対して、甘言で釣ることもしているだろう。
519 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 20:39:56 ID:AscORCVe
×神より釈迦を信じるから、釈迦が正しいと言う。そこに釈迦を信じる事実がある。 ○神がどうだと言うより、釈迦の言うことが当たり前な真理だから、それを正しいと言う。べつに釈迦を信じるわけでもない。 ×真理は物質的なものが無い世界を言うのであって、 ○仏教での「真理」は キリスト教のような 願えば叶うとか 信じれば救われるとか 善人は護られるとか 神だかのシモベになれば裁かれないとかではなく、 物質的なものは 絶対にあるという真理 しかしその実体は無く自性も無く、それはそれではなく其々の要素が集まったものだ という真理、そんな科学的なものだ。 インターネットは端末を繋げなければできないという真理。 まあ、根本の問題はアレだね。 川で溺れかけた人が居たとして、助かる、と信じれば必ず助かる、というキリスト教的迷妄から脱して、 川に落ちないよう気をつけましょう 落ちたら死にますよ、というのが仏教。 そんなところなんだろうな。
520 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 21:05:33 ID:qL2GgLGX
真理は永遠 物質的なものは永遠に無い。 真理の言葉は、物質的なものへの貪り、執着よりも安らぎを大切にすること。 身体から生じる悪は永遠に無い。 真理の言葉は、この世のことで悪を行うな。 人間が物質的なものの奴隷となって苦悩を生み出すことなく、 平穏で安らいだ暮らしにするのが善いとなる。
521 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 21:07:45 ID:9d10O+ro
仏教は、因果則という超科学的なことを説いています。 でも、人間の「欲」がそれを認めないだけです。 単純極まりないのですが・・・。 希望も夢も実現したいのなら、「お祈り」や「他力本願」はやめることだね。 でも、「心掛け」や「意思」はいりますよ。 みんなここを見誤る。 人間の本性は、「楽して儲けたい」だからね。 でも、よく冷静に考えよう。 長く繁盛してる店って、払ったお金以上の「何か」をお客にあげる努力を欠かしてないんだよ。 だからまたこのお店でお金つかいたくなるんだよ。 そんなもんだよ、本当のところは。
522 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 21:14:44 ID:/TlFMB7N
>真理は永遠 そりゃそうですけど だから何? >物質的なものは永遠に無い。 いえ在りますって。 今私モニタみて文字打ってますよ。 あるある。 521 大正解。
つーか何の話をしてんだよ。 端末を繋げないとインターネット出来ないとか、 物質は永遠に変化しないとか 物質を物質たらしめているものが何かを答えられる奴なんかどこにも居ないだろ? いつも見慣れた道路や持ちなれた只のペン これらが本当は何で出来ているか? 違いを説くには順序的にそれらを解明出来てからだろ?
広い宇宙ではなにやらブラックホールとかホワイトホールとか物質が消えたり現れたりが観測されてるらしいけど、 今までの人生でそんなことは一度も起こらなかった。 だから奇跡は存在しない いったいどれだけ身勝手な理屈なんだよ?
525 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 22:26:33 ID:fCHPEhzW
まあ人類は はやくキリスト教のような幼稚な迷妄から離れて 真理に気付いた方が良いね。
526 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 22:30:23 ID:avpZziMp
真理 すなわちキリストである
527 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 22:47:56 ID:fCHPEhzW
526は外れ。しかも根拠無し。
528 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 22:57:37 ID:2ZaMoGSC
神とは何か理解しないで、何を祈り求めると言うのか? そんなことは出来ない。神とは被造物では全くないものである。 それは空相無相と言う以外ないのである。 人が何かを求めると言うことは、縁起してその願いが生じるのである。 その願いは、既に、それと相対的な何かを生じているものである。その相対的なものは、 十方に生じているのであり、単に一つではない。 それは無相である神に対して起す願いであるから、その願いは一切の事象を形成するのである。 それは天地創造である。 イエスが祈り求めた時、やはり、理由をつけて求めている。つまり、その理由と祈り求めるものとが、 縁起しているのである。かくして、地獄も天国も求めて生じるのである、といえまいか?
529 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 23:02:22 ID:oHgjNo9i
>>516 真理は自分で勝手に決めるものじゃない。
SEXして子供ができる、子供が大人になって社会を支える、学校でSEXをさせよう。
そういうアンポンタンの類似がお前だ。
お釈迦様が開祖なのに、日蓮が本の題名を何度も言うこと、法然・親鸞が南無阿弥陀仏
を唱えて葬式仏教にしたのも真理とは何か知らずにいたからだ。
本の題名を何度も言うなら、お釈迦様が瞑想修行により離欲を達成し迷妄の領域から離脱
したことを思え。
この世のことにあーだろう、こうだろうと愚人は考えて迷う。賢者は過ぎ去るものは虚妄
として何も迷わない。この世全てを厭い離れ、精神の安らぎを得る。
何事も迷わず精神を安定統一して、現在に集中している人ほど何事も為しえるという理だ。
本の題名を何度も唱えるくらいなら、今自分のことに集中したほうがまし。葬儀で極楽浄土
のことを考えるなら、今自分のことに集中したほうがまし。
>>521 自分の損得のことに集中せず、さっさと働けだな。因果法という妙な宗教的行いとは関係なく、
よく冷静に考えると現実的な行為により繁盛する。この宗教で因果法がよくなり繁盛するという
ものに騙されてはいけないよな。
530 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/20(日) 23:03:18 ID:uer9ZsEK
死の再生は出来ますよ 皆殺しすれば不死の存在に成れるんです
531 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 23:19:07 ID:A18HP2Fo
この宗教で因果則がよくなり、商売繁盛するといって 知的障害者を釣る
532 :
神も仏も名無しさん :2008/07/20(日) 23:41:59 ID:x6A7pYVV
>真理は自分で勝手に決めるものじゃない。 当たり前だ。 イエスは勝手に 信じれば救われるだの言うけど 釈迦はそんな妄想を捨てろと説いた。
533 :
神も仏も名無しさん :2008/07/21(月) 12:09:08 ID:Kfs8JAA0
神とは、名前ではない。神とは真実である。真実は○○である。
534 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/21(月) 12:17:20 ID:8npyDTeC
真実は○○である。 真実は心を閉ざして嘘ばっかり言うなよ という事です
立川在住
536 :
摂理 :2008/07/21(月) 20:41:22 ID:qBCyCamM
533は嘘つきである。
537 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/07/21(月) 20:59:20 ID:G6DoKbYq
■願い求める者には欲念がある ねがい求める者には欲念がある(ブッダのことば) 神を信じなさい〜だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは 必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう〜なんでも祈り求めるこ とは、すでにかなえられたと信じなさい(マルコ) また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれ られると思っている(マタイ) 呪詛の作法をしてそれがなんらかの効力があると思ったり、多くの呪文を唱え、聞いてもわから ぬ言葉をくどくどと唱える。それらを無明、内心は汚物に汚れと仏陀は批判する。批判してもわ からぬ場合は、すでにかなえられたと信じ、くどくどと祈らないこと。 できないとくよくよ思い煩うより、できると信じている人のほうが心の荷は軽い。 □何物ももっていない人々は楽しみ この世で教えをよく説き、多く学んで、何物をももたない人は、楽しい。見よ!人々は人々に たいしてかたちが縛られ、何物かをもっているためにかえって悩んでいるのを(感興のことば) 肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである(ヨハネ の第一の手紙)
538 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/07/21(月) 21:00:24 ID:G6DoKbYq
□足ることを知り 足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静ま り、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない(ブッダのことば) わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去っていく。 ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである(テモテへの第一の手紙) 上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上 にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない(コロサイ人への手紙) 神仏を信じる人々は地上のものに心を引かれてはならない。欲念を抱きくどくどと祈ってはなら ない。 □働くこと 〔神いわく〕罪汚れなくして、常に清らかさを求めている人は、毛先ほどの悪でも、雲ほどに大きく 見えるのである〜そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない(悪魔との対話) 働こうとしない者は、食べることもしてはならない(テサロニケ人への第二の手紙)
539 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/07/21(月) 21:01:24 ID:G6DoKbYq
□誠実 適宜に事をなし、忍耐づよく努力する者は財を得る。誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友 を結ぶ。信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれらの四種の徳があれば、 かれは来世に至って憂えることがない。もしもこの世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れ たものがあるならば、さあ。それら他のものをも広く道の人、バラモンどもに問え(ブッダのことば) 肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕とし て心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい(エペソ人への手紙) 死後のための葬儀・供養、供え物、呪文など意味不明のことばを言葉にして唱えること、誓ったり、ただ 信じて信仰があると思ってしまうことを否定し、清浄とか不浄とか願い求めず、離欲を達成しようとして 瞑想修行する。 五欲の対象を享受しようとする心が少しでもある者は、罪汚れを認めて、誰もその人の欲求を満たしてく れる人はいないと心得て働くこと。 欲心少なく誠実に働く人々が多くなれば、世の中はよくなると信じること。 ■無明 「わたしが乞うているのに、あなたが施してくださらないならば、いまから七日の後に、あなたの頭は七 つに裂けてしまえ」いつわりをもうけたそのバラモンは〜〔ブッダ〕「無明が頭であると知れ」 アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れで ある(ブッダのことば) 「呪詛の作法になんらかの効力がある」そのような無明から脱却して、足ることを知り悩まず聡明で、誠実 に働く人々が増えれば世間は輝く。
540 :
神も仏も名無しさん :2008/07/21(月) 21:36:50 ID:Kfs8JAA0
自分を知るとは、自分が縁起していることを知ることである。その自分は、しかしながら、 無相であることを知ることである。
541 :
神も仏も名無しさん :2008/07/22(火) 22:22:30 ID:cA/+osKp
釈迦もイエスも意味不明の言葉を何度言ってもなんにもならないと悟った のかなあ。 夢も希望も叶えたければ、人々が努力するしかない。 努力しても叶わなければ、足ることを知り満足するしかない。 信仰への期待感で、超科学的なことのようなもので釣るけど、結局は欲ある限り耐えて 生きるしかないぞと。
542 :
神も仏も名無しさん :2008/07/22(火) 23:10:24 ID:JuA5q1KA
そこで、神々の主であるサッカは、すヴィーラ天使に、詩を以って語りかけた。 「勤めることもなく、努力する事もなくして、しかも安楽に達しえるところがあるならば、 スヴィーラよ、そこに行け。又、私を其処に行かせてくれ。」 スヴィーラ曰く 「怠惰であって努力することなく、為すべき事を為さず、あらゆる欲望がはびこっているならなば、 そのところを私に恩典として示してくれ、サッカよ。 サッカ曰く 「怠惰であって努力することなく、しかも限りない快楽を盛んに楽しむところがあるならば、 スヴィーラよ、其処へ行け。又私を其処に行かせてくれ。 スヴィーラ曰く 「最上の神、サッカよ。我々が何もしないでも、安楽になる事が出来、憂える事もなく 悶える事もないならば、それを恩典として私に示してくれ。」 サッカ曰く 「何もしないでも、誰も決して老いる事のない所があるならば、それはニルヴァーナの道である。 スヴィーラよ。其処へ行け。又、私を其処に連れて行ってくれ。」 三ユッタニカーヤ(悪魔との対話):スヴィーラ
543 :
神も仏も名無しさん :2008/07/25(金) 08:15:04 ID:XLE4LWZl
>>542 つづき
以下のような続きがある。
修行僧達よ、神々の主、サッカ(帝釈天)なるものは、自らの功徳の果報によって生き、
三十三天の支配・統理を死ながら、努力精進を賞賛するものとなるであろう。そなたらが、この良く説かれた
教説と解説とに於いて出家しているのであるから、未だ得られていないものを得るために、
未だ達していないものに達するために、未だ体得していないものを体得するために、励み、勤め、
身を制するならば、そなたらはここに輝くであろう。
544 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/07/25(金) 09:13:05 ID:OvDmedXo
□救い主 この世で、心が暗くふさぎ込んだり眠くなるのを取り除いて〜救い主、慈悲ぶかい人、最後の身体をたもつ 人である仙人・尊師は次のように説かれた。諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のもの である。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である(感興のことば) 罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストが おられる(ヨハネの第一の手紙) □慈悲ぶかい人 主がいかに慈悲とあわれみとに富んだかたであるか、わかるはずである(ヤコブの手紙) □喜びを憂いに 何の喜びがあろうか。何の歓びがあろうか?世間はこのように燃え立っているのに(感興のことば) 心を清くせよ。苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ(ヤコブの手紙) □不平等のようなことがらに打ち克つ 眼のある人は、不平等のようなことがらに勇敢に打ち克つ〜賢者は、この命あるものどもの世界において、悪 いことがらを全く避けるべきである(感興のことば) 耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるか もしれないから(ヤコブの手紙)
545 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/07/25(金) 09:14:04 ID:OvDmedXo
諸行無常・一切皆苦・諸法非我 聖者は諸々のつくられた事物が滅びて静まり、自己の沈黙をみずからあるがままに知り、かたちからも、かた ち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱して、最上の究極であり、無上の静けさの境地を知って、生じ たもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死の集積、 虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたものを喜ぶに足りない、むしろそれらの出離によって、苦 しみのことがらの止滅を説くのである。 □静けさを目指せ 呪文のように無意味に言葉を語る、葬儀・法要により死者が善い報いを受ける、供え物を霊が食べる、宗教的 行為での功徳など無知・無明から離れ、瞑想修行により静けさを目指す。誤った修行法を捨て去り、真理を希 求する。 日も盛りの時、鳥どもが枝にとまっているときに、大きな森が鳴りひびく。それは、わたしには楽しみと思わ れる(神々との対話) 今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちもよく起き上がった(ブッダのことば) 真理は人が考え出すものではなく、自然とも融和する。生活や目的のためにあくせくして障害となるものに思い 悩む人よりも、自然は楽しい、美しく晴れた朝に感動して悩み少なく生きている人のほうが聡明だと思わないと いけない。静けさを目指し、世を厭い離れ、離欲を目指す人は、善悪の両者からも離れている。
546 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/07/25(金) 09:15:16 ID:OvDmedXo
□愚者が愚かと考えれば賢者 「〜子がある〜財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない〜もしも愚者が みずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である(真理のことば) 「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者〜」よりも「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と 自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう(ルカ) 最後の身体、つくられざる境地を目指し至った人は勝利者であるが、その他の者は妄執を断じていないので、 みずからを愚かであると考えれば賢者である。誰も究極の安らぎに至っていないし知らないから。 □善悪の両者をよく考える人は聖者 この世にあって善悪の両者を秤にかけてはかるように、よく考える人こそ聖者とよばれる(真理のことば) 何が神の御旨であるか。何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえて知るべきである (ローマ人への手紙) ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が聖者なのではない(真理のことば)静かに沈黙しても迷っ ている人が聖者なのではない。この世にあって善悪の両者をよく考える人こそ聖者である。完全に沈黙して、 最後の身体のように生きようとしても、一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地を考えても、こ の世で教えを守っていることにはならない。よく考えて自分で判断できるようになることが肝心である。
547 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/25(金) 21:16:26 ID:yJfv4abm
>誰も究極の安らぎに至っていないし知らないから。 究極の安らぎを教えてあげます 誰もいない世界です うえーはっはっは、誰もいない世界で全勝したなって 被造物相手にやりたい放題です
548 :
神も仏も名無しさん :2008/07/25(金) 21:44:39 ID:hY+G13+h
コピペ連投
549 :
神も仏も名無しさん :2008/07/26(土) 00:22:43 ID:9flqPWqE
宗教の教えで、自分の考えのみだけ正しいと言うほど馬鹿はいない。
550 :
神も仏も名無しさん :2008/07/26(土) 09:36:30 ID:MqIDSz5+
馬鹿な人間が宗教を考え出すと、自分たちの信じたものだけが正しいだの、
一般に理解し難い教えのようなものを教え、自分たちの言うことを聞かないと
悪いことが起きるだの、良いことがないといってオカルト教をつくる。
>>547 人間を被造物だと思っているんだろ。ならば被造物じゃない世界を善いとして
宗教的な教えがあるという理由を理解できないアホとなる。
道理としてお前はアホ。
被造物じゃない世界はないと考えるなら、宗教思想など全て捨てて現実だけで生
きればよい。被造物などという発想を捨てて人は両親がつくった人だけのこと。
つくられざる世界はないのに被造物だの、宗教だの思う奴は現実的なバカ。
551 :
神も仏も名無しさん :2008/07/26(土) 11:37:54 ID:bqLICsqm
>>神の世界とは善の世界。だから人間が死んでも、心に悪がある限り、神の国には生まれない。これが真理です。 これは嘘です。真理とは いつでもどこでもだれにでも知覚できる物事であって 神の国だの永遠の命だのは 根拠も何もない その信者の脳内にだけ存在する「妄想」であるので 真理ではありません。 釈迦は真理を説きますが、イエスは真理ではなく妄想を説きます。
552 :
神も仏も名無しさん :2008/07/26(土) 11:51:50 ID:6G1b5LAQ
善のみの善、悪のみの悪は無い。 善なる者も縁に触れて悪にもなるし、悪なる者も縁に触れて善にもなる。 何が善か、何が悪か?。立場が変わればどうにでも変わる。 知らず知らずに侵したる罪咎は、自称善には解りえないものだ。 まだ悪の方が救われる場合があるのではなかろうかと。私はこう思うが。
553 :
神も仏も名無しさん :2008/07/26(土) 13:46:43 ID:TKZBuTem
>まだ悪の方が救われる場合があるのではなかろうかと。私はこう思うが。 またまた具体性の無い。そもそも救われるって何。 言えるのは、宗教患者のような偽善者よりも 悪のほうが清いということだ。
554 :
神も仏も名無しさん :2008/07/26(土) 13:47:16 ID:/M7xPvAR
神様に裁かれるから不平を言わない・・・イエス
理法を知って不平等を思わない・・・釈迦
>>552 どっちも世の中に悩みをもたらす悪は駄目だという教え
イエスは裁かれるから、
釈迦は悪を行えば世の中に苦悩をもたらすから駄目だ
悪い人は殺すわけにはいかないから、
悪い人を救うふりをして、宗教的行いにより殺すとい
うのが本音かもしれない
555 :
神も仏も名無しさん :2008/07/26(土) 22:11:41 ID:62djpHFD
それで人に迷惑をかけて平気な奴に、宗教の行いをさせて、 呪文のようにお経を唱えさせるわけか。 しかし、悪の方が救われるなど言うと、人に迷惑をかけず に暮らそうとする無宗教の人が毒されるようになる。 悪に目覚めてしまう可能性がある。 宗教を信じて、世間の良識に反して損害があれば、悪い方 のほうが救われると教える宗教者が責任を果たさないとい けなくなるな。
http://jp.youtube.com/watch?v=mXNHjTx7UPk 森山直太朗 生きてることが辛いなら
生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい
恋人と親は悲しむが 三日と経てば元通り
気が付きゃみんな年取って 同じとこに行くのだから
生きてることが辛いなら わめき散らして泣けばいい
そのうち夜は明けちゃって 疲れて眠りに就くだろう
夜に泣くのは赤ん坊 だけって決まりはないんだし
生きてることが辛いなら 悲しみをとくと見るがいい
悲しみはいつか一片の お花みたいに咲くという
そっと伸ばした両の手で 摘み取るんじゃなく守るといい
何にもないとこから 何にもないとこへと 何にもなかったかのように巡る生命だから
生きてることが辛いなら 嫌になるまで生きるがいい
歴史は小さなブランコで 宇宙は小さな水飲み場
生きてることが辛いなら くたばる喜びとっておけ
生きてることが辛いなら
557 :
神も仏も名無しさん :2008/07/27(日) 12:53:09 ID:GspU+kye
真面目に書いてみるよ。 人間であった。 髪の毛があった。 歩いた。 息してた。 見た。 聞いた。 ご飯食べた。 うんこした。 寝た。 生まれてきて、なんかして、そして死んだ。 およそ自分が経験してること経験してる。 私は「死」は経験していませんけど。 知らないことは正直に「知りません」と言わせてもらうよ。
558 :
神も仏も名無しさん :2008/07/27(日) 22:31:27 ID:vMcdTq2c
>>557 そう、釈迦の説法はそれだ。「死」は経験していないが知れる。
「欲」があれば働け。
「欲が少なく」「持ち物も少なく」「何もできなくとも」他人から奪おうとせず今生きている
ことに満足すれば、他人を妬み、羨望を抱くような心の苦しみがなければ、安らかである。
どうして、「他人に従属」する必要があろうか?宗教的行為は必要なのであろうか?
宗教者は様々な宗教的行為を善いものとして言うが、その本質は何であろうか?
誰でも「死」は経験しなくても、自ら悩まず苦しまず、他人を悩まさず苦しめない
という事実。
では、宗教を求める人々に自らを悩ませ苦しめ迷わすことを善いことだと教えてよいか?
宗教を求める人々に他人を悩ませ苦しめ迷わすことを善いことだと教えてよいか?
宗教を求める人々に自らを悩ませ苦しめ迷わすことを善いとして教えてはならない。
他人を悩ませ苦しめ迷わすことを善いとして教えてはならないのが理屈として正しい。
この世では「慈しみのこころづかい」を崇高として、邪な見解を捨て去るべきである。
修行完成者として「一切の生きとし生ける者をあわれみ」、他人の悩みや苦しみを取り
除くことを理想的な人と教え、他人の悩みや苦しみを取り除こうとすることが宗教的な
ものを求める人々の理想の目的とする。
このような生存状態は永続せず、思考も存在しないから、死後のことを考えることがで
きた私の考えに従いなさいという人は、偽りである。「かの世」も望まない人が、普通
である。もちろん、人の手で造られた偶像を正しくよいものとすることもない。
559 :
神も仏も名無しさん :2008/07/27(日) 22:45:37 ID:XDMZ4G1H
557-558 ナイス。 よってキリスト教とは違う。
560 :
神も仏も名無しさん :2008/07/27(日) 23:28:12 ID:x5xUpM0U
仏教と一緒にされるのは迷惑だからそれでいいよ。
561 :
神も仏も名無しさん :2008/07/28(月) 00:41:21 ID:4c4TazlP
イエスの言う真理は真理ではなく妄想ですからね。脳内でだけの。
562 :
神も仏も名無しさん :2008/07/28(月) 00:50:55 ID:EzMsXHsR
ブッダの言う真理は真理ではなく妄想ですからね。脳内でだけの。
563 :
神も仏も名無しさん :2008/07/28(月) 01:54:57 ID:8T0H2NVp
またまたまた 562 やせ我慢すんな。 永遠の命がどうたら 信じればどうたら そんな妄想は大乗やキリスト教や創価で十分だ。 釈迦はそんな妄想は 「無記」として排斥する。
564 :
神も仏も名無しさん :2008/07/28(月) 02:33:27 ID:hNQCTHan
エホバの証人の書籍で、 釈迦は豚肉を食べて食中毒でくたばったと書かれてたけど、本当?
565 :
神も仏も名無しさん :2008/07/28(月) 02:35:58 ID:8T0H2NVp
はい そうらしいです。 キノコ料理かもしれません。 イエスはドジ踏んで晒し死にしました。
566 :
神も仏も名無しさん :2008/07/28(月) 02:37:10 ID:AW8edZm+
大乗の側から言わせてもらうが、無記はあくまで無意味な質問に対して 特に出家者を対象に沈黙したということ。 お釈迦様は在家のことも考えてくださった。悟らなくても 善行によって来世にはよいところにいける。 それを妄想と排斥しないでもらいたい
567 :
神も仏も名無しさん :2008/07/28(月) 02:45:58 ID:8T0H2NVp
はい566さん あなたの言う無意味な質問というのは 釈迦の場合 世界とか時間は有限か無限かとかの 不可知領域に対してだ。と言われている。 悟らなくても 善行によって来世にはよいところにいける。 というのは バラモンの階級制を排斥するため輪廻をベースにして説いたものだ。 基本は 不可知領域に対しては 「無記」だ
568 :
神も仏も名無しさん :2008/07/28(月) 21:47:24 ID:xEIQsRBF
神々の世界を超越し最後の身体に達した釈尊。
生きとし生ける者どもは死ぬであろう。生命は終には死に至る。かれらは、つくった
業の如何にしたがっておもむきそれぞれ善と悪との報いを受けるであろう。
悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は善いところ(=天)に
生まれるであろう。しかし他の人々はこの世で道を修して、汚れを去り、安らぎに入
るであろう。
>>567 仏教否定。死後はこのような生存状態はないが、最後の身体、神々の世界などを信じ
るのが仏教。
569 :
神も仏も名無しさん :2008/07/28(月) 22:32:41 ID:3cwVT5n/
>死後はこのような生存状態はないが、最後の身体、神々の世界などを信じるのが仏教。
さあそれはどうかな。釈迦は、涅槃という無に赴くことを勧めた。それは輪廻思想からの解脱ではないかな。
当時は階級制によって死後が決まるという迷信が大衆を支配
しており、それにアンチテーゼとして釈迦は その行いが死後を決めるんだよ。と言った。
果たして仏教は、人間には永遠に生き続ける「魂」のようなものがあると教えたのでしょうか。
仏教にとって
「神」とは何なのでしょうか。仏教は神への信仰を説いたのでしょうか。本シリーズは、
そのようなことなどについての、Nさんのお便りとわたしの応答です。
Nさんは、仏教は「唯物論ではない」と主張され、永遠に存続する魂や神々の存在を仏教は説いたと主張されます。
わたしは、仏教の「無我」の思想はそういう「永遠に存続する魂」を否定するものであり、
仏教は人間の認識のとどかない形而上学的領域(神々の世界や、死後の世界など)に関する断定を知識として認めず、
有神論を批判したと主張します。
仏教における「魂」と「神」
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul01.html
570 :
神も仏も名無しさん :2008/07/28(月) 23:02:31 ID:xwwU0hbw
出家者はかの世もこの世も望まず修行せよ。悟りの境地に至れ。 在家者は善い行いをするよう努めよ。 妄執が生まれさせる。妄執というひとつのものに一切のものが従属した。 そこで妄執を滅ぼすためにお釈迦様は教えを説いた。 悪い心と行いと言葉が世の中を悪くする。世間から離れ静けさを目指す人々 は悪をも断っている。在家の生活をする人々は、善い行いで善い世の中をつ くるような教えで、お釈迦様の本音は、善い行いをなせ、悪い行いをするな ということかもしれない。それが本当の悟りではないか。 天を望むことなく、善い行いの状態で天におもむいたり、修行に努めている 人々だけが安らぎに入ると。それは方便か真実かは信じるか否かだ。 考えられた奇異なものは、人が亡くなれば全て消え去るのは事実だろうが。
571 :
神も仏も名無しさん :2008/07/28(月) 23:52:34 ID:2TyXvwBC
>お釈迦様の本音は、善い行いをなせ、悪い行いをするなということかもしれない。それが本当の悟りではないか。 それだと普通の道徳だな。 悟りとは、自分で自分を整え、欲から発する歪みが問題だと認識し 欲を鎮めることでありのままを観ずることだろう。 だから、信仰や妄想ではない真理 を説ける。
572 :
神も仏も名無しさん :2008/07/29(火) 18:53:30 ID:8R/x4hD2
>>569 仏典に書いてあるものをないがしろにする思想が反仏教。
そのような道理がわからないことが愚鈍。
ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も神々を念じている。
反仏教徒は、涅槃をただの無と説く。
573 :
神も仏も名無しさん :2008/07/29(火) 22:15:14 ID:PzY0uyaF
キリスト教より仏教が完全なのは、創造主・全知全能・神は愛という教えがないこと。 創造主である神により愛されているのは、宗教が必要な人々ではないということになる。 1)欲があるから下界に生まれ変わる。苦悩から離脱できないでいる。 妄執を断ち切れないでいるから、輪廻する。 2)修行僧のように完全に欲望を断ち切れないでいる人々も、善い行いにより神々 の世界に生まれる。 3)この世で良い境遇に生まれ変わりたいという人も、言葉や行い、心で善い行い をして、邪な見解を捨て去るなら良い境遇に生まれる。 ただ信仰をして運命が決まるというものではなく、自分自身の努力により決まるとい う教え。この世もまた人々の行いにより良くも悪くもなり、釈尊の説いた教えを現世 で行うことにより、そのまま来世に反映される。 1)離欲を達成し、静けさを目指すなら自己の沈黙あり、究極の安らぎの境地に 至る。 2)欲望に囚われず、善い行いをすれば、光り輝く神々の世界に生まれる。 3)この世の欲望を思い、良い境遇に生まれたいなら、善い行いをせよ。 道徳的にも善い行いをする人々が住みやすい地上をつくる。世を厭い離れ、静 けさを目指す人々は、究極の安らぎに至る。釈尊の説く教えは微妙で、ある意 味道徳のような一面もあるが、今努力して行っている報いはあるということ。
574 :
神も仏も名無しさん :2008/07/29(火) 22:41:09 ID:QloZgOHb
572さんが私を反仏教と言いますが、572さんが反仏教だと思いますよ。
果たして仏教は、人間には永遠に生き続ける「魂」のようなものがあると教えたのでしょうか。
仏教にとって
「神」とは何なのでしょうか。仏教は神への信仰を説いたのでしょうか。本シリーズは、
そのようなことなどについての、Nさんのお便りとわたしの応答です。
Nさんは、仏教は「唯物論ではない」と主張され、永遠に存続する魂や神々の存在を仏教は説いたと主張されます。
わたしは、仏教の「無我」の思想はそういう「永遠に存続する魂」を否定するものであり、
仏教は人間の認識のとどかない形而上学的領域(神々の世界や、死後の世界など)に関する断定を知識として認めず、
有神論を批判したと主張します。
仏教における「魂」と「神」
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul01.html こちらをよく読誦し 理解を深めて欲しいものです。
575 :
神も仏も名無しさん :2008/07/29(火) 23:38:20 ID:weuEG3Z6
576 :
神も仏も名無しさん :2008/07/30(水) 19:31:00 ID:TSlpClYf
「不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。」 不死の境地を見た人は、 「永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解」とを捨て去れる。 涅槃は決して無ではない。 もちろん話してわかるものではない。 例えば、その人が食べたこともない食べ物の味を説明するなら、その人が食べたことのあるような食べ 物で説明するが、食べたこともない食べ物の味と同一とはならない。 それで、その人は食べたことのある食べ物で理解し、食べたこともない食べ物は存在しないとしてしま まう。それを涅槃を無としてしまうことである。 しかし、その人が食べたことのある食べ物で理解し、食べたこともない食べ物も自分は知らないが存在 すると信じるなら、食べたこともない食べ物は存在しないと考えるより知っている。
577 :
神も仏も名無しさん :2008/07/30(水) 19:31:48 ID:TSlpClYf
不死の境地を知って仏典を読むが、不死の境地そのものは話してわかるものではない。 不死の境地は、自然の中で欲望を制して静かな瞑想で得られるもので、そう簡単なものではない。 自然の中で欲望を制し、静かに瞑想しても、まだその人が食べたことのあるような食べ物の位なのであ る。まだ、この世の境地から完全に離れて、不死の境地を知ってはいない。 しかし、知った人は、仏典に書いてあることは真実であると認めるのである。 不死の境地を得ようと努力せず、欲望を制して最上の境地を見ない人に、自分の理解だけで涅槃は無と して他人に伝えてはならない。見た人は完全に知り、信じた人は不完全ながら知る。信じもしないで、 自分の理解だけで否定し、他人に伝えるなら無知を伝えることになるからである。 もちろん霊的な存在のことも同様である。 賢明な人は、経典に書いてあることを信じ、経典に書いてあるのに否定し、自分の考えを仏教と伝える 人を愚鈍だと思えばよい。
578 :
神も仏も名無しさん :2008/07/30(水) 22:57:06 ID:dwoKldJW
経典に書いてあることは すなわち真実なのですか? 捏造や誇張や妄想が 混じっているとそれも鵜呑みにしますか? それは賢いのでしょうか。 それが仏教なんですかねえ。
579 :
神も仏も名無しさん :2008/07/30(水) 22:58:23 ID:Qq5TNkdx
仏教では、人間界を神が愛しているというような教えではない。 一物でも所有していない、光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう。 下界は天上界と比べ、貪欲で苦悩が多いところ。つまり災いである。 貪欲で悪い思い(妄執)により輪廻に堕落している。 欲望を制し、善い行いにより天に生まれる。 賢者は自分をよくととのえて永く天の世界にあって楽しむ。 賢者は自分をよくととのえてニルヴァーナの近くにある。 聖者は内的に瞑想を楽しみ、心を安定統一して、自分の覆いを破ってしまった。 妄執をすべてほろぼしすべての快楽にうち勝ち、ニルヴァーナに達し一切の相が 滅びてなくなる最後の身体となる。 善い悪い関係なく様々な災いや人の幸せがある世の中からの出離を楽しみ、欲望 を制して欲望からの苦悩少なく善でもあり、善いところに生まれ善い報いを受け ようとする教え。信じ望んで善いところではなく、現在の努力でその報いを受け る。神々などの霊的な存在も、目標なのである。
580 :
神も仏も名無しさん :2008/07/31(木) 01:06:44 ID:YMJyw6xx
で? その時の人の寿命は86000歳でしたか。
581 :
神も仏も名無しさん :2008/07/31(木) 21:12:18 ID:NH+PzRzl
「不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。」 不死の境地を見た人は、涅槃は決して無ではないと断言する。 釈尊は宗教開祖としての動機がある。それは決して無ではなかったからである。 例えば、生まれながらにして地下室に閉じ込められた人々が働き、自分の作ったものを自慢したり、取 り合いになったり、あまり作れなくて悩んだりしていた。広大な地上があることを知って、そこでは、 緑豊かな自然や湖があって人々が楽しみ、衣食などのことにも悩まず幸せに暮らしていた。 それで知った人は、今まで地下室が全てであったと思っていたのに、地上もある。しかも、物凄く楽し く安楽なところだ。知った人は喜び、地下室の者にも地下室での行いをやめさせ、地上に連れてってあ げようとした。 地上の幸せを感じ、喜んで話し、それを信じて地下室の行いをやめて、地上に向かっているのが修行僧。 地下室にいながら、地下室の喜びはそれほどでもないと悟って、自分たちの作ったものを自慢しあったり、 あまり作れなくて悩んでいることもそれほどではない。貪って取り合いになるなどもっての外だとするの が賢明な信者。 物の幸せなどどうでもよい、避けるべきだと再三言うのが霊の言葉。
582 :
神も仏も名無しさん :2008/07/31(木) 21:13:39 ID:NH+PzRzl
この上なき最上の喜びの境地(ニルヴァーナ)を知り、一切皆苦を悟り、 「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。人は、苦悩から離 脱しないのである。」ということを知り、妄執を断じ、生存の輪廻から脱しようとするのが仏教の根本。 この世の欲望を思えば妄執に従うのである。この世の欲望を捨て去ることができ、静けさや安らぎに安住 しようとすれば、「無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地」 のままであった。 人間の境地は妄執に従って生まれたものだということを知っている。 経典は修行僧が言語表現だけのものとして書いたものであり、真実でないものも含まれている。しかし、 複数の経典に同じようなことが書いてあれば真実である。 自分の考えに執着し、「涅槃は無い」とするなら、経典は偽りばかり書いてあると言うことになる。 真実のものを選び、偽りを捨て去る修行法でも、不死の境地は無いと思ってはいけない。それは事実に反 するから。 人はこの世の物質的なものを求め、物質的な喜び、享楽などを楽しむからこの世に生まれてしまう。自業 自得だ。 「世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、とわ たしは説く。」 だが、欲心のために悩み苦しんで生きるなら、やめたほうがよいとは思う。この世に生き続けようが、苦 悩を受けることは恐れである。
583 :
神も仏も名無しさん :2008/07/31(木) 22:52:18 ID:OHVlxrFG
>複数の経典に同じようなことが書いてあれば真実である。 そうですか。多数決ですね。
584 :
神も仏も名無しさん :2008/07/31(木) 23:02:55 ID:4bPrB4xo
まともな反論しろよw
585 :
神も仏も名無しさん :2008/07/31(木) 23:29:32 ID:OHVlxrFG
うける〜〜
586 :
神も仏も名無しさん :2008/08/01(金) 20:33:55 ID:FB9NOTu0
587 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 09:16:52 ID:riNr+uEU
ブッダ「人々は無常で、はかない存在です。肉体に捕われるのは虚しいのです」 イエス「ブッダさん。まったくその通りです。 肉体のみでは神の国にはいけない。 肉の技は金欲や姦淫を生み出すばかりです」 ブッダ「精神が重用なのはわかっています。まず肉体から生まれる苦悩を取り除かなくてはいけません。 中道を実践し、捕われから解放されなければ悟りは難しいでしょう」
588 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 09:22:25 ID:riNr+uEU
ブッダ「我々には潜在意識があります。まずは深く暗い潜在意識を清らかにしましょう」 イエス「この事はコリント人に伝えています。 第二の人こそ貴方の影であると。影を見つめ、闇を取り払いましょう」
589 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 09:31:14 ID:riNr+uEU
ブッダ「私はこの理論を唱えてから、毎日のようにバラモン僧に迫害されています」 イエス「ブッダさん。私もですよ。貴方に似たような事を言っていたら長老達に石を投げ付けられました」 ブッダ「昔の人は恐ろしいですなあ」 イエス「まったくその通りですなあ」 ブッダ&イエス「はははははははは!」
590 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/02(土) 10:18:47 ID:tySrrYVn
葬儀・供え物・呪文など聞いてもわからぬ言葉・宗教的行為で功徳を求めること・清浄や不浄といって願い求め ること・信仰があると思ってしまう間違い。 ■神に信仰のある人はいない わたくしはもはや母胎に入ることはないであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ (ブッダのことば) もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して植われ』と言ったとしても、その言 葉どおりになるであろう(ルカ) □善悪の両者に汚されない あなたは悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり 〜あなたは善悪の両者に汚されません(ブッダのことば) へびは女に言った〜神のように善悪を知る者となることを(創世記) かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきであ る〜なすべき善となすべからず悪とを捨て去っていて(ブッダのことば) 葬儀や供養で、つまり他人の行いで善いところに行ける、供え物を霊が食べる、呪文など聞いてもわからぬ言葉 を言うこと、宗教的行為で功徳があると思ってしまうこと、清浄である不浄であるといって願い求めること、 諸々の欲望に関する貪りを除こうとせず、信仰があると思ってしまう間違い。それら善いことだと思って行って いたことも善いことではなく、諸々の欲望に関する貪りを除いて、母胎に入らないように努めないのに神に信仰 のある人はいない。
591 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/02(土) 10:20:05 ID:tySrrYVn
□この世の善悪 愚かに迷い無智なる人が聖者なのではない〜この世にあって善悪の両者をよく考える人こそ聖者とよばれる。 (真理のことば) □慈悲 母が己が独り子を命を賭けても護るように〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行う べし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ(ブッダのことば) 敵を愛し、憎む者に親切にせよ〜あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸し てやれ〜いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである(ルカ) ■乞う者を退けると地獄 この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を罵り退け、他人が与えようとするのを妨げる人々―かれらは、地獄、 畜生の胎内、閻魔の世界に生まれる(神々との対話) 毎日ぜいたくに遊び暮らしていた〜ラザロという貧しい人が〜食卓から落ちるもので飢えをしのごうとしてい た〜金持も死んで〜わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています(ルカ) □施しとして与えよ 貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ(神々との対話) 空腹のときに食べさせ、かわいているときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、 病気のときに見舞い〜正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは』(マタイ)
592 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/02(土) 10:21:28 ID:tySrrYVn
□世に害いを見ない 世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐れみながら、われ は眠る(悪魔との対話) 人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ、そうすれば、自 分もゆるされるであろう(ルカ) □他人を見下すな 他人の過失を探し求め、つねに他人を見下して思う人は、卑しい性質が増大する(感興のことば) 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して(ルカ) 特殊な宗教的行為を善と信じることなく、快楽は享受されるべき清いと思うより、森などの自然の中で楽しみ、 快楽から離れたほうがまだ清いと思ったり、母が己が独り子を命を賭けても護るようなこと、そのように他人に 対しての慈しみのこころづかいが、自分のことだけ思い続けていることより素晴らしいと思ったり、飲食豊かな のに、目の前に飢えている人がいるのに助けないのは悪いことだと思ったり、貧窮なる人々に与え助けることは よいことだと思ったり、他人の過失・世の中の悪を探し求めて悪いと怒り狂っても、自分が苦しむだけで問題解 決にはならないと思ったり、他人を見下している人を卑しい人だと思ったり・・・たとえそれらのことを行って も、自分は偉いと思い上がらなかったり、自分の内の滅びないものを感じて、自然に思えるようにする。 人が考え出した奇異なことを、この世で善とせず、多くの人々も滅びないものを持っているはずだから、聞いて そうだなあと思えるようなことを、善として守らせるのが、善い宗教。
593 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 12:00:32 ID:bhk0YVSO
つまり 信仰という妄想を勧めるイエスと 思い込みではない真理を知覚させる釈迦は 別物ということですね。
594 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 12:23:55 ID:dulfrDrS
イエス豚
595 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 17:16:48 ID:riNr+uEU
ブッダ「私は祈祷や占いを信じません。真理は一切が不完全であり その輪廻から抜け出す方法を実践しているだけなんです」 イエス「私は祈りは正しいと感じますが、他人を陥れる邪悪な呪いを禁じているだけです 人々は悪魔にとりつかれ、他人を陥れようとしている。 正しい祈りと信仰をしてこそ、神の国へと行けるのです」
596 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 17:23:20 ID:riNr+uEU
ブッダ「人々は真のバラモンを知らない。今では祈祷師や増上慢な司祭になりさがっている」 イエス「昔のタールムーードはすばらしかった。 富が次から次へと舞い込み、人々は豊かであった。今では悪魔を呼び寄せ他人を蹴落とす書物になりさがったではないか」
597 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 17:36:00 ID:riNr+uEU
ブッダ「大金があったとて、死ねば無常であり、金など持っていく事はできんのだ。 増上慢な司祭は現実から逃げ、そのお金で女と遊び狂い、肉を喰らい、酒を飲み胃袋を慰めているだけである。 いずれは虚しさに襲われるであろう」 イエス「その通りですなあ。金持ちの長老は女を買い、肉を食べ、大酒を飲み、他人を陥れる事には夢中ですが、それでは神の国へは行けない。 ラクダが針の穴を通るより難しい事なんです」
598 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 17:53:34 ID:riNr+uEU
ブッダ「よい所へ生まれ変わりたければ、布施をしなさい」 イエス「神の国に行きたければ、貧しい人に金を施しなさい」
599 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 18:02:04 ID:iGU5klJ6
>>586 リンク置くだけじゃなく、何か書いていけよ
とりあえず、見てみた。
パート1面白い。
イエスの復活のイメージの源泉がエジプトにあったとは...
もともとユダヤ人自体、エジプト人の奴隷だったわけで、その当時に培われた
ユダヤ人たちの宗教のイメージが、エジプト人の神話からの引用であったとしても
おかしくないわけだ。
そしてエジプトを出、流浪の民となったユダヤ人たちの中で定着し、清から俗へ
変化していったユダヤ教の中から、その改革として新たなキリストのイメージが
生まれ出でたのも、いちいち納得できる話だ。(イスラム教の今日を見ればわかるね)
ツァイトガイスト(時代の精神)日本語字幕版 パート1
(p)
http://video.google.com/videoplay?docid=1431037135738418803
600 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 19:53:26 ID:riNr+uEU
エジプトはローマの植民地だから嫌だ。 ユダヤはエジプトの奴隷だから嫌だ。 ローマはイタリア人でドイツ人に馬鹿にされてるから嫌だ。 韓国人や中国人は侵略されたから嫌だ。 やっぱり日本人がいいや〜い。
ちょっと待てや。ユダヤ人はエジプトの前に バビロニア(今のイラク)に捕囚されてただろ。 ミカエルやガブリエルなどのエルは元はカナーンの一地方神のことだが、 バビロン捕囚時代にユダヤ人の中に入ったんだろうな。
602 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 20:11:45 ID:riNr+uEU
603 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 20:13:55 ID:riNr+uEU
朝鮮、琉球、シナ、ユダヤ。 どれもこれも侵略されてけがれているから、見たくもな〜い。 やっぱり清らかな日本人がいいや〜い。
ブッダは生まれてすぐに聖者に、この子は将来王位を継げば伝説の転輪聖王になるか、 出家して悟りを開き偉大なブッダとなるだろう、と予言されたとか。 転輪聖王のモデルは何だろう? おそらくアレキサンダー大王のことではないだろうか? 大王がマケドニアからインドまで遠征した理由はいまだに謎に包まれているが、 ブッダと奇しき縁で結ばれていたとしたら面白い。
不垢不浄 不増不減
606 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 20:21:06 ID:u5HVOQ4r
つまり 信仰という妄想を勧めるイエスと 思い込みではない真理を知覚させる釈迦は 表面は似ていても、別物ということですね。
607 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 20:23:30 ID:HtFXdWB0
ブッダはインド人 イエスはユダヤ人 どちらも日本人からみれば外人。
608 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 20:24:17 ID:riNr+uEU
インドはギリシャに二度も侵略されているし、現に中央アジアのアーリア人やモンゴル人に侵略されているではないか。 バラモンだって肌の白い アーリア人しかなれないから。 ユダヤ人もエジプト人やバビロン人に従属し、ローマの植民地になり、ドイツに迫害された。 そういう環境の中でブッダやイエスが生まれたのは、人間としての普遍的な意味はある。
609 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 20:36:49 ID:riNr+uEU
実はブッダも信仰という言葉を出している。 スッタニパーダの蛇の章を参照されるといい。 親と子の関係、自分と他者の関係。 勝ちたいと思う心と、負けた時の悔しさ。 実は宗教というのは人間の普遍的な部分を言っているのではなかろうか? たしかに霊的な部分もあるのだが。
610 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 20:41:21 ID:riNr+uEU
ミリンダ王やアレクサンダー大王がインドを侵略し、またアーリア人も インドの町や村を破壊し 自分の文化を押し付けた。ビルマ族のシャカはその事が気にくわなかった。なぜに侵略者の法律に 従わなければならないのか? 生きる事は苦悩である。私は出家しよう、と。
611 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 20:43:06 ID:HtFXdWB0
ブッダは釈迦族だ
612 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 20:44:57 ID:riNr+uEU
ビルマ系=シャカ族
>>608 肌の白いインド人って実在するのか?
本やTVで見るインド人でバラモンで肌が白い奴って見たことないんだが。
>>607 火星人から見たらどっちも地球人。
宇宙から見れば火星人も地球人もどっちも宇宙人。
一説によると、たしかキリストは修行時代にインドに来て仏教を学んだらしいが。
キリスト教の源流には救世主マイトレーヤ(ミトラ)を崇拝するミトラス教があり その源流にはゾロアスター教がある。 ゾロアスター教はヒンドゥー教や仏教(特に密教)と密接な関わりが有る。 よってキリスト教と仏教が似ているのは仕方がないことだし 別に何の問題もない。
615 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 21:04:03 ID:riNr+uEU
ユダヤの教典であるタールムードが、アーリア人のゾロアスター教から派生しているのも何かの意味があるのだろうか?
616 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 21:05:17 ID:HtFXdWB0
>>614 >キリスト教の源流には救世主マイトレーヤ(ミトラ)を崇拝するミトラス教があり
>その源流にはゾロアスター教がある。
>ゾロアスター教はヒンドゥー教や仏教(特に密教)と密接な関わりが有る。
へぇ。ならイエスとブッダはともかく
キリスト教と仏教は兄弟みたいなものか。
617 :
神も仏も名無しさん :2008/08/02(土) 22:10:32 ID:F1CbB8Qg
「目覚めよ」
1.目覚めよ!!!!!
と いろんな宗教がそれぞれ口を揃えて言いますけど
これは 主語、つまり、「何に、どう目覚めるのか」ここが問題です。
仏教もキリスト教も オウムもエホバも創価も 目覚めよ目覚めよ目覚めよ目覚めよ目覚めよ目覚めよ目覚めよ目覚めよ目覚めよ
と言うようです。
2.目覚めよ!には2種類あって
信仰心に目覚めよ!世界平和に目覚めよ!一切衆生を救う心に目覚めよ!供養心に目覚めよ!
そして組織の説くドグマに目覚めよ!
これが キリスト教や創価学会やヒンズー教やエホバや佼成会や幸福の科学 の言う目覚め!です。
それに染まれば「その枠組みでのみものを考える」ことになります。
3.反して
仏教が言う目覚め!は 解脱や悟りとも言われますが
除霊・供養・祈祷・呪文・読経・祭祀・運命判断・胡麻焚き・まじないなど、
すべての神秘的な力に預かろうとする宗教的行為 からの解脱
さらに 利己欲からの解脱、であり それは ありのままを知覚する「悟り」です。
ttp://space.geocities.jp/mindmanipulate/cult-text.html#mezame
618 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/03(日) 19:27:41 ID:8dhvJ/iV
道の人(ブッダ)は高く或いは低い種々の道を説き明かしたもうた(ブッダのことば) ■神に信仰のある人はいない もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して植われ』と言ったとしても、その言 葉どおりになるであろう(ルカ) 輪廻の流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。なすべき善となすべからず悪とを捨て去って〜 あなたに聖者の道を説こう――食をとるには剃刀の刃の譬えのように用心せよ〜腹についてはみずから食を節す べし〜独り坐することと(その道の人)に奉仕することとを学べ。聖者の道は独り居ることである(ブッダのこ とば) 荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数が つきると、空腹になられた(ルカ) 断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな〜人に知れないで、隠れた所においでにな るあなたの父に知られるためである(マタイ) □食を節すること・顔色が明朗・森や荒野 森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色は〜明朗(神々との対話)
619 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/03(日) 19:28:38 ID:8dhvJ/iV
人が考え出した様々な宗教的な行いで信仰があるとしてしまうが、独り遠ざかり食を節して修行し、不死の境地 に達しないと神に信仰のある人とはならない。 高い道は、正しい修行法によって解脱し、輪廻の流れを断ち切ること。決して死を味わうことのない者となり、 この世の者でない者となれば、高いのである。 □妄執という一つのものに、一切のものが従属した 世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のものが従属 した。妄執が人を生まれさせる〜生存するものが、輪廻に堕している。人は、苦悩から解脱しないのである。 (神々との対話) 全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている(ヨハネの第一の手紙) □自分を偉いとするな このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば(ブッダのことば) この幼い子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである(マタイ)
620 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/03(日) 19:29:52 ID:8dhvJ/iV
□罪過を告白する人を受け入れる 罪過を告白して懺悔するのを受けいれない人は〜そなたの罪過の告白を、わたしは受け入れる(神々との対話) 兄弟が罪を犯すなら〜悔い改めたら、ゆるしてやりなさい(ルカ) □貪らないことは善いこと にせ預言者が〜滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み〜大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために真理 の道がそしりを受ける〜貪欲のために甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう〜罪を犯し た御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた (ペテロの第二の手紙) キリストが神の右に座しておられるのである〜あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに 心を引かれてはならない(コロサイ人への手紙) 荒野で修行し解脱する高い教えでなくとも、低い教えで、地上のものに心を引かれてはならないことは善いことだ として、地上のものを貪り悩まないように気をつけよう、自分を偉いと思わず、また他人も神様のように偉いもの だと思わないようにしよう、誰かがその人に過ちを犯しても、ゆるして下さいと過ちを認めるなら、ゆるしてあげ ることは善いことだと思うようにしよう。 肉欲は囚われ、諸々の事柄に執着を示すが、それらのこだわりを捨て、意識されない善を心得ていよう。 自らあわれみを善いものだと心得るが、五欲の対象は変化するので、安穏・安楽・平穏な暮らしに実際の行いで仕 えてくれた人に感謝し、むやみに他人を偉い者・尊敬して、従わねばならぬものと思わず、何者にも従属(盲従) しないようにしよう。
621 :
神も仏も名無しさん :2008/08/04(月) 22:03:06 ID:D7GTriqT
なるほど。釈迦はありのままの真理を説くが イエスは架空の命を説くんだな。 嘘つきだな。
622 :
神も仏も名無しさん :2008/08/04(月) 22:41:03 ID:OA9jzXvk
信仰対象物は本当は無い。欲望に関する自制心と悪を制する心があること。 釈迦もイエスもそう教えたかった。 欲望と悪を肉とし、欲望ばかり追う心がない時、悪を厭う心がある時、 それは自己の内に仏心や神を見出した時、永遠を見出した時だと。
623 :
神も仏も名無しさん :2008/08/04(月) 22:46:05 ID:OA9jzXvk
外的な信仰対象は本当は無いのだと。 信仰は欲望の無い世界と悪の無い、肉が消滅した世界で、 それを自己の内に見出そうとしないと、信仰を熱心にしても何も ならないと。 できない人を罪人として、信仰対象となった。
624 :
凌駕 :2008/08/05(火) 08:19:08 ID:P22ek9AY
例え殺人者であろうとも、神の眼から見れば、罪人ではない。 人間の最大の悪ともされる、殺人者であっても罪人でないならば、どんな小さな悪であっても罪人にはならない。 しかし、小さなことに固執し、小さな世界に閉じ篭ることは「罪」とされる。 大きな世界を見ようとしない者こそ、罪人であるとされる。 信仰は、個人のものである。 決して集団の中では起りえないものである。 集団の信仰(宗教団体)は、神の国の入り口ではない。 個人の精神の開拓が、神の国の入り口である。 他人の言葉に惑わされて、自分を見失うことこそが罪である。
625 :
神も仏も名無しさん :2008/08/05(火) 21:00:29 ID:s+PgJRxb
個人的な思考・想像・集団の考え方に惑わされることなく、 信仰対象となる不朽の霊的な(肉体がない世界を霊と命名) が殺人を犯すかだな。 肉体で殺人を犯すと知らないといけない。
626 :
神も仏も名無しさん :2008/08/05(火) 21:36:31 ID:0xhrtvWH
イエスもブッダも天の父・彼岸として偶像をつくらない、偶像を抱かない、人が勝手に想像して信仰しては いけないと。 神は愛、人の愛が天の父に通じるものだと、目の前の人を愛せと、慈しみを崇高として暴力否定、 結局永遠を善として、殺人は悪いという心があるなら、それは天の父に通じる心、彼岸だからその心をよし とせよと教えたんだろう。 個人の心の状態は様々だが、理屈もないと変な思想を信仰してしまう。
627 :
神も仏も名無しさん :2008/08/05(火) 22:01:46 ID:Wt0aH9Ry
というわけで 妄想と真理は別物なのです。 w イエスは逝ってよし。あ もう逝ってるか。
628 :
神も仏も名無しさん :2008/08/05(火) 22:56:54 ID:pAsgVkjI
日本の馬鹿宗教より、イエスの宗教理論のほうが正しかったw
629 :
神も仏も名無しさん :2008/08/05(火) 23:04:34 ID:zKHQgVyW
真理と信仰は同居しない。 真理は信じなくてもそのままで真理だし 信仰とは 信じなければ単なる鰯の頭である。 何だかを信じれば永遠に生きれるだの 供養すると幸せに しないと不幸にと言うのは「霊感商法」である。 教祖だか霊感者などというのは 適当な不可知論を述べてもバレ無いから美味しい。 善を成せば幸せになると「そそのかされ」絶対者の言い成りになるのは自由からの逃避であり 奴隷根性 乞食根性である。 「尊い教義」に感化されて「一般人を下に見る」のもカルト症状であり馬鹿者である。 根拠の無いことを信じるのは馬鹿でなければ不可能で、組織内では、信じぬと馬鹿にされるから、進んで彼らは馬鹿になる。 妄想による信仰は、麻薬と同じで脳が侵され、現実乖離が進むので、次第に友達が減り その症状から抜け出るには 困難な禁断症状の壁を乗り越えなければならない。 篤信者にとって、その苦しみは「耐え難い恐怖」である。 宗教詐欺に掛かったと認めることは 死よりも恐ろしい困難であるから、信者は真実から目を逸らし 信仰の中に「逃避」する。 南無何とか。アーメン。 そんな信仰の「毒」を、釈迦という者が棄却した。 彼は「信仰を捨てよ 祭祀や読経に何の意味があるんだ」とまで言った。 しかしそんな教えは今や「ご利益宗教」に飲み込まれた。 欲しい欲しいの人の欲が、 信仰宗教・破壊的カルトを繁栄させる糧である。
630 :
神も仏も名無しさん :2008/08/06(水) 07:48:17 ID:t6vNZZnc
真理が存在すると考えるのは妄想w
631 :
凌駕 :2008/08/06(水) 07:50:31 ID:PBnkd7Jk
人が宗教に頼るのは、自分を持たないからだろう。 仲間はずれにされたら生きていけないという、弱さからだろう。 しかし、人間は、どこにいても何をしていても、その気になれば自分を変えることが出来るのだ。 どんな宗教でも、心の弱さを克服しなければならないと教えている。 弱さを克服できれば、自分だけいい思いをしようという気はなくなるものだ。 そうすれば、欲に駆られて騙されることも少なくなる。 ご利益宗教がいやなら、やめればいい。 何も宗教団体に所属しなくても、宗教を学ぶことは出来るのだ。 日本には、世界中の書物が翻訳されて書店に並ぶ。 買えない人は、図書館で無料で貸し出す。 「書物」という師でも、充分役に立つ。 要は、何事も本人次第と言うものだ。
632 :
神も仏も名無しさん :2008/08/06(水) 21:43:20 ID:EYZhDdRR
迷い、悩み、苦しみを解決できない人々が、信仰に頼る。 宗教的行為、くどくど祈る、呪文、供養、供犠、人々から衣食住を得、同じように楽しみを得ながら暮らし、 まるで聖者のように尊敬心を得ている人、葬儀、供養で死後のことを思い、見ることもでき形ある偶像を拝んで、 信仰心ありとする人々。 それらは人が考えたものである。 考える以前に漠然とある善、多くの人々が善いと思ってしまうこと、それに逆らえば悪いと思ってしまうことを 悪いことと教え、たとえば目の前の人が瀕死であるとき助けることは善いこと、目の前の人が飢えている乞うて いるのに、自ら豊かで分け与えないのは悪いこと、 悩みの解決は少欲で、何もないことに満足、他人に悪を見ないようにするなど。たとえ、死にかけても命を乞うて 願い求めても、助けてくれる不思議な存在はいないから、日ごろから本能的な行いを慎むこと。 欲があるなら、その人が悪いと思っている世の中でも耐え忍んで生きること。 信仰より、その人の努力次第で問題解決の道を歩む。 皆欲があるから、正しい人、善い人はいないという教えが根底にあり、人が他人を制覇しないで尊重することで 益があると教える。
633 :
神も仏も名無しさん :2008/08/08(金) 22:31:43 ID:RHw2vQC9
630は間違いだな。 その証拠に私は今 インターネットしている。 これは真実だ。
http://www.eccj.ne.jp/ 日本エドガー・ケイシーセンター(Edgar Cayce Center in Japan (ECCJ) )は、米国バージニア州バージニアビーチに本部を置くARE/エドガー・ケイシー財団の正式な認可のもと、
日本におけるエドガー・ケイシー (1877-1945)の業績の普及および研究を促進するセンターとして設立されました。
当会は特定の宗教や教義を持つ団体ではありません。あくまで、ケイシーがもたらした情報をみなさまに提供したり、
ケイシーの研究を支援することを目的としており、オープンな会員制で運営されています。
2002年10月に特定非営利活動法人(NPO)の認証を得ました。詳しくは、入会案内をご覧下さい。
ECCJ公式Youtubeサイト「ケイシーTV(仮称)」オープンのお知らせ
当会への入会時に配布しているDVD「エドガー・ケイシー入門」などをご覧になれます。今後もコンテンツなどを増やしていく予定です。
URL
http://jp.youtube.com/caycetv
イエスとは、ミトラ教信者であり、仏教を「知恵」として、ユダヤ教のヤハウェを「悪魔の父」として 排除した、仏教の覚者の一人です。 新約で、イエスに洗礼を与えるヨハネは、エッセネ派です。 エッセネ派の居住地であるクムラン洞窟は、11の窟に別れています。 これは、インドに見られる石窟寺院が10〜50の窟があるのと類似します。 さらに、内部には、水路及び水道が完備されるのも、仏教洞窟と同じです。 エッセネ派とユダヤ教が、明らかに異なる点は、クムラン洞窟には、ユダヤ教では必須である 神殿も、いけにえを捧げる祭壇も一切ありません。 また、ユダヤ教では、古来、動物をいけにえに捧げるのは、当然ですが イエスとヨハネの所属したエッセネ派では、動物のいけにえ(殺生)を一切禁止しています。 パンとぶどう酒の儀式も、エッセネ派は、ユダヤ教の祭事の順序とは逆であります。 ヨセフスの記述によれば、 エッセネ派は、祈りの際に、パンが先であり、ぶどう酒があとになります。 これも、ユダヤ教とは逆であり、ミトラ教のパンとぶどう酒の儀式と同じ 順番です。 今のキリスト教は、イエスを神の子としますが、実は、イエスとは、ミトラ教徒であり 仏教の「知恵」の覚者であります。
636 :
神も仏も名無しさん :2008/08/09(土) 00:04:54 ID:6FlfSXKk
637 :
神も仏も名無しさん :2008/08/09(土) 00:13:18 ID:CrHQJ1OG
念押し。 真理とは 妄想ではなくありのままの事実のことですからね。
イエスの属したエッセネ派は、仏教徒として、托鉢行を行なっています。 托鉢とは、家々を回り、その家から、食物や生きるのに必要な物を「頂き」 自分が、廻りの人に「生かされている」事を知り、感謝する事を知る行ないです。 イエスの所属したエッセネ派は、ヨセフスの記述から托鉢を行なっていた事がわかります。 彼らの持ち物はすべて、他所から来る同心者にも同様に提供されており、彼らは会った事が無い人々の所でも 知合いであるかのように入る。 ヨセフス 「どこかの家に入ったら」、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。ルカ 10:5 エッセネ派の托鉢は、家々の扉を開けて、最初の一言が「この家に平和があるように」で 始まるのがわかります。 彼らは互いに売買いせず相互交換を行い、それが出来ない場合でも、 支障なく彼らは「どの望む相手からでも物をもらうことができる。」 ヨセフス この記述からわかるように、エッセネ派は、家々をまわり、挨拶をして、話しをして、 あらゆる人から「ほどこし」を受けていました。 このような集団は、当然ですが、ユダヤ教の集団には一切ありません。 この托鉢も仏教の修行の一貫であり、イエスが属したエッセネ派が仏教徒である証拠です。
仏教僧は、長い旅をする時も、お金を持たず、托鉢をして、慈愛あふれる家で、寝床を借り その家を中心に布教し、また町から町へ、旅を続けますが、 イエスの教えも全く同様です。 ルカ 10:7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。 注、「働く者が報酬を受けるのは当然だからである。」家から家へと渡り歩くな。 注)この言葉は、釈尊が 語った「我もまた働く者である」と同じ言葉である。 マルコ 6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、 その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 彼らは、托鉢し、理解者の家で、「ほどこし」を受け、旅を続ける仏教僧の姿そのものです。
641 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/09(土) 10:15:33 ID:/4fni5kH
ウロボロスということですよ イエス「コレは私の血であり肉である」 釈迦「肉体は父母より生まれ食によって保たれるものであるから 病み傷つきこわれることはやむを得ない」 イエスも釈迦も自分の肉体を食べていたんです
642 :
神も仏も名無しさん :2008/08/09(土) 16:19:29 ID:E1YNGI/g
変な宗教的対象(偶像)や呪文のようにくどくど祈る読経、 葬儀・供養・宗教的行いによる功徳など特殊な宗教的行いは無知と説き、 自制・慈悲・寛容などの本人自身が行えることを理想として説いた。
643 :
神も仏も名無しさん :2008/08/09(土) 16:54:34 ID:5m3syewB
小乗もエッセネも禁欲主義で、 布施重視であった事がうかがえる内容だな。 だが凡人に禁欲せよ、大金を施せ、家を持たず行脚せよと言っても無理な話しである。 だからこそ一切が救済される大乗やカトリック、プロテスタントがうまれたのだろう。
644 :
神も仏も名無しさん :2008/08/09(土) 17:04:28 ID:5m3syewB
インドのバラモン、ユダヤの司祭→動物をいけにえとして神にささげ、祈祷や占いで、民を統治していた。 ブッダ、イエス→いけにえの儀式を禁じ、祈祷や占いは無意味であるとした。ブッダは真理と表し、イエスは光りへの信仰とした。
イエスの所属したエッセネ派は、その規模から常時4000人〜5000人の 集団を形成していた事が判明しています。 ヨセフスの記述から、在家信者の存在も確認されており、その生活様式は 相当寛容なものであった事が判明しています。 また、発掘調査から、現時点で、約1300体の墓があり、女性や子供の遺体も多く 発見された事や、男性の墓が一直線に整頓され、女性と子供の墓が、その東側に 並ぶ形から、エッセネ派は、設立当初は、非常に厳格であったが、在家者の 出現と何らかの要因によって、徐々に、寛容さを取り入れたと考えられます。 エッセネ派が設立されてからの年月は、結論が出ていませんが、少なくとも 150年以上の歴史があるとされています。 彼らは、ヨセフスによって、医者、魔術師と呼ばれており、古文書を読み解き 草をすりおろし、石を砕いて、まぜて、病人に与えていた事も判明しています。 これは、現在の漢方薬であり、石から必要なミネラルを補給させていた事が わかります。これは、まさにアーユルベーダと同一の方法であり、 彼らが、仏教経典等を、参考にしていた事を伺わせる記述です。
エッセネ派では、内部の厳格性とは、全く正反対の「他者」への慈悲の精神が溢れて事が解ります。 ヨセフスの記述によれば、 病人や老人は、男女問わず無料で治療を受けられ、介護も全て無料で受けられました。 さらに、旅行中の異邦人も、一切の差別無く治療を受けられた事が示されています。 これらの費用の全ては、クムラン共同体が賄っていた事も記されています。 もちろん、このような制度は、ユダヤ教には、一切ありません。 インド仏教では慈悲の精神から、治療施設が寺院の周辺に存在した事も確認されますし また、看病は、仏教修行の一つとして、取り入れられていた事も判明しています。 このエッセネ派と同様な治療保護施設が、日本にもあります。 聖徳太子が四天王寺建立の際に「施薬院(薬草栽培と投薬所)、療病院(病人の治療所)、 悲田院(孤児・貧者の収容所)、敬田院(学問所)です。 これら、エッセネ派も聖徳太子も、仏教の慈悲の精神から、全く同様の施設建設を 行なっていた事がわかります。 エッセネ派とは、ミトラ神を主神とした、仏教修行集団なのです。
647 :
神も仏も名無しさん :2008/08/09(土) 18:56:26 ID:3FzVcqcC
神への信仰もあやふやなものではなく、人里離れた荒野で修行し、不死に至ってから信仰ありとした。 無所有で、物へのこだわりが無い。 いつかは、その人も地上のものに心引かれず、世の中から離れ、物などの執着心も無いものとなるから、 世の中で生活を営む人々も、そのようになった人を信仰することは正しいことだと。 妙な宗教的行為を捨てて、何ものか(偶像)を描くことなく、願い求めず、 誠実に働くこと 学び修めた賢明な人は、 貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ、飲食物を与えよ、 空腹のときに食べさせ、かわいているときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに 着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである―わたしにすると思って行え
648 :
神も仏も名無しさん :2008/08/09(土) 18:58:37 ID:O0Gl3fWo
一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない 仏教修行とはあわれみを完成させることである。この世では慈しみのこころづかいが崇高である。 として、 貧しい人も、その人の見識が真直ぐであるならば、その人を貧しからずと呼ぶ。その人の生活は空虚で はない。 妙な宗教的行為など何も意味がなく、 自然は楽しい、林の中は楽しい、快楽を求めない人の心の内は健康である。 もしも、物が欲しかったら働け。熱心に働いて、飢えをなくせ。快適な暮らしのために努めよ。 宗教を学び修めることは、飢え苦しむ人々を助けるためにあるのだと。 そのように教えた人を信用(信じる)すること。
649 :
神も仏も名無しさん :2008/08/09(土) 18:59:24 ID:O0Gl3fWo
いつかは良い国々の人々が、妙な宗教的行為を重要視せず、ひとりひとりを尊重して、また平和を尊重し て、働いて快適な暮らしをつくり、飢えなどの苦しみをなくし、幸せな国をつくると予言したのだろう。 天におもむくとは地上で天国を人々がつくるということだろう。 教えの根底にあるのは、妙な宗教的行為で人々が愚鈍・無知になることを悪魔ナムチと批判し、 何もなくても満足したり、自然が楽しいとか、快楽を享受しない時でも、かえって心のゆとりを感じたり、 自分を偉い者として、他人も自分の思い通りになると思いなし、少々のことで怒り・憎しみ・敵意を持っ たり怨んだり、利益(金銭)だけ欲して、他人に施さないことで、世の光り輝きを失ったり、五欲の対象 への執着心・生活のこころづかいにより、隣人が苦しんでいても後回しにしてしまう。 奉仕活動をすべきであるということではなく、苦しんでいる隣人がいるなら、助けることを優先すること を守るのが大事だということ。 また、貪り続けていると、自然環境破壊で、大変なことになるかもしれないと予言した。 〜貪りと憎しみにより世は消滅する〜
ミトラ神についての認識をするには、非常に多くの時間を必要とします。 紀元前13世紀の碑文にミトラの名が刻まれてから、非常に多くの民族に「愛された」神で、 ミトラ神の固有の性質が、非常に多い為です。 多くに共通するミトラ神は、公平であり、善には善を、悪には悪をもたらす神であり 一切の不平等が無い点です。 ミトラ神は、古代人の崇拝象徴である「太陽神」であり、ミトラ教の主神であり日曜日(SUN) の象徴です。言うまでも無く、SUNとは太陽であり日曜日(SUNDAY)を指します。 西方のキリスト教では、現在も、キリスト(メシア)とはミトラであり、教父をミトラと呼びます。 西方キリスト教が、現在もミトラ神を主神とするのは、古代のローマ帝国の勢力外であり ローマ帝国によるキリスト教の捏造戦略が、及ばなかった事が関係すると思われます。 西方キリスト教会は、バチカンに対して、現在もミトラ神がキリストであり、 歴史捏造を改めるように、抗議しています。 エッセネ派にとって、誰に対しても公平なミトラ神を信仰する事は、至極当然であったと 考えられます。 では、そのエッセネ派とイエスの最大の違いは、何でしょうか? それは、女性の成仏に関する普遍的慈愛を持つか?持たないか?であったと 思います。 パウロは、イエスを信じる事によって、女性を含む全ての人が、神の国に入れるとして 仏教の大乗化に影響を与えますが、その根本は、イエスの思想にあった事は理解する 必要があると思います。
ヒンドゥー教ではアスラ神族はデーヴァ神族に敵対する悪役だが、 ゾロアスター教ではアスラ=主神アフラ・マズダの眷属だ。 なかでもミトラは代表的なアスラ神族。ちなみにデーヴァはデヴィル(悪魔)の語源らしい。 それはともかく、 馬小屋で生まれた大工の息子イエス・キリスト=ミトラ=マイトレーヤ=弥勒菩薩 =救世観音(くぜかんのん)=日本の大工に熱烈に信仰された聖徳太子こと馬ヤドの皇子。 つまり、聖徳太子はイエスのことだった!ということで、皆さんよろしいか?
652 :
神も仏も名無しさん :2008/08/09(土) 22:23:32 ID:fq8mtVas
>聖徳太子はイエスのことだった イエスのレプリカ、と言うことだろう?
653 :
神も仏も名無しさん :2008/08/09(土) 22:36:11 ID:4zEA5uhg
他人信仰こそ害悪である。人が神の代役を務めない。 誰も神を知れる人はいない。アートマン被造物は神は見ることも意識することもできない。 考えることもできない。偶像を抱くこともできない。 「わたしを主よ、主よと言うな!言葉を行え!」 これは釈迦の教えに通じるものである。最低でも言葉を受け入れよと。 何をも信じることなく、自然のままで律法の行いをした人のほうが、神を知っているのである。 本当は神仏を信じて、その人が信仰あるわけではない。 いくら信じても無駄だと教えている。 しかし、他人に害を加えるような人間もいるから、現代の法律代わり に信仰させたのである。
654 :
神も仏も名無しさん :2008/08/09(土) 23:10:16 ID:yz+FjBha
イエス「私が死ぬから神に愛されている。」 「神への信仰は不可能である。」 肉欲の抹消(仏教でいう煩悩)により神の道を説いた。 ※肉欲=敵意・憎しみなどの抹消 人によくしてやる、何も当てにしないで 貸してやる 自分へのこだわりを捨てる ブッダ 煩悩の抹消を説く。身体は消滅して肉欲は滅び、このような生存状態は永遠 ではない。それが愚鈍な人には、いくら説明してもわからないと。 しかし、この世で慈しみが崇高として、自分の欲望へのこだわりを捨て、他 人への配慮が身体の消滅世界に近い
聖徳太子 『和(=仏の慈悲=神の愛)をもって尊しとなす』 イエス 『神は愛である』 ジョン・レノン 『愛こそすべて』 宮沢賢治 『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか』
656 :
神も仏も名無しさん :2008/08/10(日) 07:39:25 ID:6sfht+L/
ブッダもイエスも信仰対象は「あなたの罪無き死後」だと。 人里離れた荒野・無所有・地のものへの貪りを捨て、敵意や憎しみを持たない。 そういった肉欲を捨てた形が神の形であって、何人からも利益を望むことをしない。 この世では衣食あって足り、他をならかしめて自らの利益を得ない。 一切が苦悩無き幸せの永遠を言葉で表現して、「一切の生きとし生けるものは幸福で あれ、安穏であれ、安楽であれ、慈しみがこの世では崇高」「いと高き者は恩を知ら ぬ者にも悪人にもなさけ深いからである。あなたがたも慈悲深い者となれ」 人である時も、諸々の欲望に関する自制がある時、他人から益を得ようと思わな いで、与えて利益を得る公平・平等を思う時、敵意・憎しみ・怨み・怒りなどの 感情を抑えて平穏な心でいる時、目の前の人が苦しんでいるのを助ける時などが、 神や仏心=永遠といる時で、信仰対象物(偶像)はいらない。
657 :
神も仏も名無しさん :2008/08/10(日) 08:28:38 ID:EUHxc9qR
658 :
神も仏も名無しさん :2008/08/10(日) 09:10:51 ID:Xyzr0qfh
>>567 イエスの勧める信仰とはどのような信仰か?
釈迦の棄却する信仰とはどのような信仰か?
659 :
神も仏も名無しさん :2008/08/10(日) 09:28:50 ID:Xyzr0qfh
>>567 >キリスト教や法華経などは「信仰」だが
法華経の信仰とはどのような信仰か?
660 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/10(日) 09:29:36 ID:MTdci5zw
イエスと仏陀の共通点は 両者ともに 撲殺天使ドクロちゃん ということです
661 :
神も仏も名無しさん :2008/08/10(日) 09:36:28 ID:dGIC7GZR
「平和」や「世の理想」を追い求めて対立し争う。非我ならざるものを我と見なし、愚かな者は 争う。ましてや信仰対象物、素晴らしいと思う書物によって争うなら、その愚かな者の救いは無い。 「林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである」 世の中の害いを見ず、崇高とされる信仰対象物も捨てて、自然は楽しい、晴れた朝の太陽は美しい といった心で、貪り悩まず健康的な精神に生きている人は、争い平和を乱すことも少ない。 更に他人の過失を見ず、慈しみを崇高と心得ている人は、他人に害を与えようとせず、苦しむ人を 助けようとする。 誰も自分のために働いてくれる人々はいないと心得て、他人に施し与え交友を結ぶ。 誰でも善いことは、自分の内にあるもので感じ取られることしかない。他を頼りとして 従属することも、他人を自分の主とすることもない。 人々は貪欲のため、満足しないため、世間のことで悩み、苦しみ、他を頼りとするので、 自然は楽しい、晴れた朝は美しいなど、自然に感動できるように修養するとよいだろう。
662 :
神も仏も名無しさん :2008/08/10(日) 10:10:02 ID:8MuQGreY
663 :
神も仏も名無しさん :2008/08/10(日) 10:57:43 ID:Xyzr0qfh
>>662 >
『法華経』に特徴的なことは、『法華経』そのものへの「信仰」を説く点にある。
たとえば、常不軽菩薩品では、この経典を奉ずる人には幸福がおとずれ、非難する者には災難がふりかかると説く。
仏教ではこのような、経験も論証も不可能な独断は、「無記」として退けますが、
法華経では何故か、それらは退けられずに、受容されてしまっています。
創価会員さんの言によれば、仏教とは、
とにかく法華経を、その内容も解らずとも一心に唱えると そこから仏の生命が噴き出し、元気になり運命転換ができる。
日蓮の言い成りに信心すれば、必ず幸せになれる。 法華経を誹謗すれば 後々地獄的罰を受ける。
そして大乗的利他に向かうこと。 とのこと。
◎このことか?親切に引用してほしいな。
法華経そのものへの信仰とは、どのような信仰か? 又法華経を奉ずるとは、どのようなことか?
665 :
神も仏も名無しさん :2008/08/10(日) 22:06:00 ID:cUaz5XsT
>>663 子供だましの信仰。幼稚。
イエス=神への信仰も「愛」と教えるが、創造主・神・全知全能=愛でその教えは無い。
なんでもできて、知っていながら愛があるという存在は、現実から一番遠い。
本の名称を唱えることも幼稚、全知全能の愛の神を信じることも非現実だ。
666 :
神も仏も名無しさん :2008/08/11(月) 07:02:38 ID:OJK/LzAn
まあ 大人でも騙されてますがね。
667 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/11(月) 14:41:44 ID:F3/oAEi8
>>665 だから撲殺天使ドクロちゃんといっているでしょう
>>663 法華経なら国の役人や王子や権力者と親しく交わってはならないと書いてありますがね
はな
もともとは自然信仰みたいなのはある そこが始まりだったと思うし
自然信仰と言うか、宗教の違いなく眠りとか痛みとかそんなのは誰にでもあるし それに打ち勝っていった その集大成がキリスト教や仏教になっていったんだと思うし
ようするに人生の諸問題が起きるたびに最善の方法でその度に克服できれば 何信じててもいいじゃないのかって? 悟るとかは結果だから 自然信仰というか、世界を相手に何かを学ぶのに宗教はひとつの道なだけで
明日みじめに死んでいくとしても 恐れず受け入れ 笑って動じないくらいの人としての器が育まれるなら 戦争だろうと科学だろうと何を信じようと結果オーライ
と言うか人類の歴史がそんな感じだよね
仏教やキリスト教はゴールへの近道なのかも知れないけれど
675 :
神も仏も名無しさん :2008/08/12(火) 22:54:01 ID:Vg9y/Zxn
676 :
神も仏も名無しさん :2008/08/12(火) 23:25:24 ID:tjTUjkEJ
>>674 世の中に打ちひしがれた人の癒しと、
癒しを学びながら、世の中では互いに助け合うことの教えが根底にある。
法華経でも、塔や僧院を建てる必要はなく、僧の集団に供養する必要はないと。
677 :
神も仏も名無しさん :2008/08/12(火) 23:33:09 ID:30nhFXFw
>>676 法華経の教えは、いいんだが...
最大の欠点は、法華経そのものを信じないと地獄に堕ちるという脅迫にあるな。
そしてそれをネタにして信者をユスル構造にある。
創価学会とか顕正会とか法華講とか日蓮正宗とか...
678 :
神も仏も名無しさん :2008/08/12(火) 23:55:58 ID:m4ruNi5S
>最大の欠点は、法華経そのものを信じないと地獄に堕ちるという脅迫にあるな。 それ最大の長所だろう。法華経とかキリスト教の。 仏教は別物。
>>677 それは法華経が悪いんじゃなくて利用してる奴らが悪いだけだろ。
法華経自体には人を脅したり騙したりして勧誘しろとか金集めろなんて書いてない。
自動車や刃物で人を傷つけたり殺したりした場合、
悪いのはそれを使った人間だ。法華経にも被害者にも落ち度は一切無い。
この子どもでもわかる理屈がどいつもこいつも何故わからんのかな。
680 :
神も仏も名無しさん :2008/08/13(水) 00:22:00 ID:5iCpj5SZ
まあ、日蓮解釈の法華経が原因だろうな、 日蓮の時代の鎌倉時代は、国家祈祷ご利益仏教の価値しか重視しなかったんで、日蓮が出てきたんだろうな、 空海、最澄は、後の連中は祈祷馬鹿だけだろうけども、当人達は、自己と他者と世界の関係、空間論的悟り追求型仏教だったんだろうけれども、 法然、浄土宗で、感覚が、南方仏教的志向になり、 日蓮で、ヒンズー的、いやイスラム的になりだしたからなあ。
鎌倉時代以前の日本仏教は主に聖徳太子などの王侯貴族やエリート学僧の為のものだったからな。 学も金も無い庶民や被差別階級の為に、唱題を発明するなどあまりにも構造改革しすぎた結果がこのざまだ。 法然や日蓮自体はまだそれなりにあちこち修行して頭も良かったしカリスマ性があったが、 後世の歴代弟子の頭が悪すぎたのだな。とくに池〇。
682 :
神も仏も名無しさん :2008/08/13(水) 07:52:50 ID:GY0o9Gwl
>>679 法華経のような偽経を創った人が悪い。
釈尊が説いていなかった話を釈尊のお経だと言うのは、
不妄語(嘘ついちゃダメ)の戒を破る行為。
戒を破って、そんなだいそれた嘘をつくような人々が、
まともな仏教の僧侶だったのかさえ怪しい。
新興宗教的な人々が創った偽経だったんじゃないかな。
683 :
679 :2008/08/13(水) 09:50:33 ID:vVyz0HzC
>>682 法華経の成立には諸説あるが、古代オリエント世界を席巻していた原始キリスト教団やミトラス教やゾロアスター教の影響がかなり強いと思う。
弥勒などの諸菩薩・諸天善神等は明らかにそれら異教の神を仏教の中に無理やり取り入れたものだ。
そういえば聖書にも正典とされない偽典がいっぱいあるらしいな。ユダの福音書など。
いえす
685 :
神も仏も名無しさん :2008/08/13(水) 22:45:40 ID:+rin3VO1
686 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/14(木) 07:12:53 ID:B8OVQybJ
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ(ブッダのことば) また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ) あなたがいつも献供をささげる梵天の世界は、ここから遠いのです〜あなたは梵天に達する道を知らないのに、 何をつぶやくのですか?(悪魔との対話) 人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである(コリント人への第一の手紙) 悪魔は〜これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう(ルカ) 妄執が人を生まれさせる〜生存するものが、輪廻に堕している(神々との対話) 人々はこの世の豊かさや権威を欲しがり、神に望まれぬ者となっている。人の望みの世界(欲界)である。 神とか霊を信じて、宗教的儀式などを行っても、離欲を達成しない限り無駄なのである。 世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない〜肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではな く、世から出たものである(ヨハネの第一の手紙) 霊である者は、霊の世界(上)のことを愛するため、肉欲のある地上のことは少しも愛されていない。 宗教的儀式などを行っても、離欲を達成しない限り、信じていることにはならない。霊には善悪業も無い し、行いによって神に義とされる人はいない。
687 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/14(木) 07:14:12 ID:B8OVQybJ
この世の君がさばかれるからである(ヨハネ) この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ(ブッダのことば) 荒野で断食し、または人里離れた森の中でわずかな食物で暮らす生活を守り、妄執(悪魔)に打ち勝ち、 欲念を捨て、不死の境地に達したブッダとイエス。地上のものに心引かれず、不死の境地に達するくらいに ならないと、神(霊)の望み通りにはならない。 しかし、世の中で生活活動をする人々にも、人の内に霊に通じるものがあるから、それを説いて、この世の人 の教えとする。イエスが肉体の存続を願い求めても叶えられなかったように、この世で生きようとする限り、 何ものにも依存してはいけない。(霊には自分の肉欲のことを願い求めてはいけない、頼ってはいけない) □平等・公平 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等 (ブッダのことば) 律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている(マタイ) 自分が偉い、あの人はなぜか偉い・・・・・神様のようになぜか偉いという人はいない。聖者のように尊敬心 を得たいなら、他人の家から貪らず、人の手で造られたものを愛し喜ばず、わずかな食物で暮らし、不死の境 地に達すること。偉くない人々が造ったものを必要とし、自分はなぜか偉いという人は、法に反する。
688 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/14(木) 07:30:50 ID:B8OVQybJ
□誤って得られた利得と名声と尊敬・・・悪魔の褒め称えるところ 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑すること(ブッダのことば) 偉くなりたいと思う者は、仕える人となり〜かしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねば (マルコ) □功徳・・・宗教儀式での功徳は怠け者の親族(ブッダのことば) ―五欲の貪りを慎み、一切の幸福と安穏と安楽な暮らしに努める― 園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々―かれらの功徳は、昼夜 に常に増大する 学び修めた賢明な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ〜かれは、天が雨降らす ごとくに、その轟きを発するのである。その豊かな功徳の流れは、施しを与える人に、降り注ぐ(神々との対話) 不死の境地に達し、神に信仰のある人にならなくても、世間で人は肉欲のまま生きるのではなく、人の内にある永 遠に通じるものの判断が人々の暮らしに役立つ。それを言語表現し、戒めとして守らせようとするのが、世間で生 活活動をしながら生きる人々への教え。無意識では善と思っていることで、特異なことは無い。 自分の五感を満たしてくれる人々を善いとせず、快適な暮らしを善いものとし、衣食に苦労している人々を助ける。 税金で行っても、多くの人々が納得することは何か。五感を満たすことは楽しいといって、その五感を満たすため に税金を多く使うことは、多くの人々は納得しないだろう。そのように、五欲より一切の生きとし生けるものの幸 福と安穏と安楽を思うことが、この世では大切だと教えている(ブッダのことばより)
689 :
神も仏も名無しさん :2008/08/15(金) 08:35:17 ID:7pegjQoi
>>674 労働すること、困った人々を助ける社会。
宗教行事・儀式を一切否定し、宗教をそのように変革した。
信仰対象は人間の死後の霊の形。
持ち物も肉欲もない。
690 :
神も仏も名無しさん :2008/08/15(金) 08:45:51 ID:kj5Evq8/
688のような書き込みを 垂れ流し と言う。
691 :
神も仏も名無しさん :2008/08/15(金) 09:39:43 ID:7pegjQoi
神仏といっても、人の死後であり、信仰を高めようとするなら、 世の思い煩いを捨て去ろうとして、肉欲を慎むことしか在り得ない。 願いを叶えようとして、呪文・くどくどと祈っても世の中は良くならない。 霊は供え物を食べない。宗教儀式では救いはない。 教えとして、慈悲や寛容、他人を見下さないこと、憎んだり怨んだり敵意 を持たないこと、他人から貪ろうとせず、互いに相手に奉仕するように働 くこと。 霊的なものを信じるなら、人間の内面をととのえること。
692 :
神も仏も名無しさん :2008/08/15(金) 11:43:51 ID:7pegjQoi
懲らしめの宗教儀式や行事から、 諸々の欲望に関する自制、恣にならない、世の中の思い煩いから自然は楽しいとか 美しいと思えるような聡明な心に。 食べるもの、着るもの、その他、世の中で苦しんでいる人々を助けることをよしと し、安穏な暮らし、安楽な暮らし、幸福な暮らしのために働くことを戒めとする。 そうでない、他のものを求める人々を、架空の偶像を抱かせ、宗教的儀式に義を求 めさせ、懲らしめて束縛するのだと(魚を殺すために餌が投げ込まれたのである)
693 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 16:21:13 ID:CX4ErSVn
宗教儀式は意味あるぞ、 日蓮宗、浄土宗、っ浄土真宗の至福は、 お勤め、勤行で、精神安定するらしいぞ、 慈悲が身に付くのには疑問があるな。
694 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 19:30:59 ID:r6g2iW1t
お経で精神安定ね。それはその人の好みの問題。嫌がる人に勧めれば、ストレスが溜まるだけ。
>>691 良いこと言うわ
生きてる間中、死後のことを考えるのはこっけいすぎる
受験勉強をやらずに、結果ばかり知りたがるのとそっくり
696 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 19:49:09 ID:mYPPPuLD
南無仏
697 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/16(土) 20:10:13 ID:VSwUmBVa
お釈迦様の嘘発見 真理を悟るもの 求不得苦 両者並び立ちません 求不得苦が真であれば真理は悟れません 真理を悟っているならば上述の過ちを言いません 求めよされば与えられるです 真理とは嘘ですよ これが疑いようの無い真実です
698 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 20:36:27 ID:E8Jwh0El
>>697 求めるものが得られないこともあるのが人生さって意味であり、
求めるものが何ひとつ得られないというわけではない。
699 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/16(土) 20:41:55 ID:VSwUmBVa
求めても得られない、または得られないものを求めてしまう なのに真理は得たんですか? 嘘でしょ?
700 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 20:46:19 ID:W66wjVG2
なるほど。目の前の、当たり前なことが仏教の真理か。 キリスト教の妄想とは全く違うな。 苦の根源は欲だと いうわけだな。
701 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 21:03:06 ID:mYPPPuLD
仏教の原点にかえれ!
702 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/16(土) 21:12:39 ID:VSwUmBVa
マゾになれば良いんですよ 苦しみも気持ちよければどうってこと無いでしょ 右の頬を叩かれたら左の頬を差し出しなさいです
703 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 22:54:15 ID:r6g2iW1t
悩み苦しみもあって変な宗教的行為を行う。正しい癒しは、被造物・アートマンであることから 離れて、肉欲を慎むことから始まる。最も正しい修養方法は、世の中から離れて、自然の中で瞑 想をして静けさを楽しむ。 世間にいても、貪ろうとせず満足すること。宗教儀式が役にたつわけない。苦悩ある人は、雑務 少なく生活も簡素でないといけない。それは仏教の理法だ。 雑務多い世の中でも、信仰だけは静けさを目指して安らいを求める。 一切の事物は我ならざるもの、諸々のつくられたものは生じて滅びる性質のものである。それら が静まった世界が安楽である。 他人も物も自己と思いなし執着する。しかし、他人はその人の固有のものであり、その人の性質 で生きているわけだから、他が意向どおりにならなくても、怒り・憎しみ・敵意・怨み・見下す ことを互いにしない。互いに相手を尊重して交友を結ぶ。 誰かが邪まな見解を抱いて、無慈悲で冷酷・残忍な行い、他をならかしめて自らの利を貪ろうと するから、世の中に苦しみが生まれる。 おかしな宗教行事を善いように思う人々は、求めるから得られるのであり、世の苦悩解決も、法 を求めれば得られるだろう。執着心を捨て去れば安らぎが得られるだろう。 老い死ぬよりも前に妄執を離れる。髪の毛が黒いうちは、中間的な生き方をする。
704 :
神も仏も名無しさん :2008/08/17(日) 01:44:08 ID:YKR5PN7h
>>699 たとえば、求不得苦を理解したら、
求不得苦という真理を得たことになる。
生老病死の四苦を理解したら、四苦という真理を得たことになる。
ドラえもんにタイムマシンとホンヤクこんにゃく借りれば イエスさんと御釈迦さんに会いにいけるから、教義に違いがあったかどうかハッキリするんだけどね
キリスト教の場合は聖者を十字架にかけるくらい荒れてた時代背景も考慮すべき 荒れた世の中をまずは正そうと、そんな考えもあったのかも知れない
707 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/17(日) 08:14:47 ID:61xibHLh
キリストは正しいから十字架にかけられたんですよ 罪深き罪人である事を被造物に自覚させるためですよ
708 :
神も仏も名無しさん :2008/08/17(日) 08:40:27 ID:HmXxpWRo
>キリストは正しいから十字架にかけられたんですよ 罪深き罪人である事を被造物に自覚させるためですよ なるほど。 麻原さんと同じですね。
さとり
710 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/17(日) 11:55:04 ID:IM/n5OM2
◎釈尊やイエスに信仰心あり、学び修めた賢明な人とは 学ぶだけで不死の境地に至ろうとしない人々は、罪汚れを認めて自分を低くして言葉を守ろうとすること。 ◎神に信仰心ある人 荒野や森でわずかな食物で暮らす生活を守り、決して死を味わうことのない境地に達すること。偶像なるもの は実際は世に存在しないと知る。 ■宗教的儀式の功徳はない 〔悪魔〕聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。 〔釈尊〕悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。 「からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉ど おりになるであろう」 荒野で断食し、森でわずかな食物で暮らす生活を守り、不死の境地に至らないと、神に信仰があると言える人 はいない。呪文のようにくどくど祈ったり、供え物、葬儀などの宗教儀式は釈尊やイエスの教えではない。 釈尊の教えは、人里離れた所での瞑想修行であり、不死の境地から説いた法を在家者も学ぶ。 イエスの教えは、神に信仰のない罪人として教えを学び、行っても自分は善人として思い上がらないこと。
711 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/17(日) 11:55:55 ID:IM/n5OM2
◎学ぶだけでも無知・無明から離れること 学び修めた賢明な人は〜食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ。心に喜んで、撒き散らし、「与えよ」 貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ(神々との対話) 空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ 〜正しい者たちは答えて言うであろう、「主よ、いつ、わたしたちは」(マタイ) □思い上がることはない (1)奉仕を楽しむために、戒律をまもって生き(2)快楽は享受されるべきであり、清らかである 二つの極端説を知って、そこにとどこおっていなかった賢者たちは、それで思い上がることはない (感興のことば) 何が神の御旨であるか、何が善であって〜思うべき限度を越えて思いあがることなく(ローマ人への手紙) ※自分たちの貪欲のための宗教行為は、悪魔信仰なのである。 学び修めた賢明な人となり、空腹やかわいている人々、貧窮なる人々に与えることが宗教の教えであると知れ。 しかも、それらを行ったとしても、自分は善人だとして思い上がることもない。知らぬ間に行っている人は本当 の善人である。 逆に、自分たちに何らかの益を得ようとして、宗教行為に励む人々は、悪魔信仰なのである。 イエスも、自分の悩みや欲求をくどくどと祈ることから、願い事は既に叶えられたと自信を持ち、人によくしてや る人々が増えますようにという祈りにした。釈尊も、呪文のように意味不明な言葉を唱えることを、内心は汚物に 汚れと説き、安らぎを求める瞑想修行、平安の境地に達したら、慈しみのこころづかいがこの世では崇高であると 知れと説いた。
712 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/17(日) 11:57:12 ID:IM/n5OM2
□重荷 重荷をおろした人、債務のない人よ。世の中を歩め。あなたの心は、よく解脱しています(悪魔との対話) すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい(マタイ) □アートマン・被造物であることを乗り越え 世の中は泡沫のごとしと見よ〜この身は泡沫のごとしと見よ。この身はかげろうのごとしと見よ。身体をこの ように観ずる人は、死王もかれを見ることはない(感興のことば) 世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからであ る(コリント人への第一の手紙)あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない (ヤコブの手紙) 人間の思いは、妄執・悪しき者に従って生み出されたのであり、宗教的儀式でも悪魔を乗り越えていない。 世と身体の悩みから遠ざかり離れる修養方法によって、思い煩いから離れること。 宗教的行為での功徳、くどくど祈る、呪文のように意味不明の言葉を語る、供え物、人の手で作られた偶像を拝 むこと、呪詛の作法をして、それが何らかの効力があると思ってしまうこと・・・そういったことは、悪魔信仰で 無知・無明である。世と身体との悩みを遠ざかり離れる修養によって、「美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い 気持ちもよく起き上がった。自然は美しい」というような聡明な心となってオカルト的な信仰から離れ、慈悲や寛 容といった自分の欲得から離れることのほうが、宗教の教えとして大切なことだと理解する。
キリストの時代に御釈迦さんいても、そのままの教えでは無理でしょ 差別意識の激しいインドのような環境での王子の出だったみたいなバックボーンもない、ただの大工の息子で みな生活が苦しくて、お布施を貰いながら座るとか当然聞き入れるわけがないだろうし 事実、当時に民衆がイエスに期待したことは政治的な改革だったらしいけど 本来似たような教義でも、時代背景とかで違ってきて当然 イエスさんもユダの砂漠で菩提樹で御釈迦さんがしたような修行したらしいから似てる部分もあったのかも知れないけど
714 :
神も仏も名無しさん :2008/08/17(日) 20:33:14 ID:xAwgaffG
仏教は、 我侭やめなさい そうすれば寂静ですよということなので 簡単な理屈ですし普遍ですよ。
>>707 第三者的視点で
正しいから十字架にかけられるなんてことはありえないから
716 :
神も仏も名無しさん :2008/08/17(日) 22:18:27 ID:PXdo6S7V
俺は、日蓮とキリストは一緒だと思ってる。 同様に迫害された。 なぜか? 聖人という意味ではなく、秩序破壊者として当時の人々から嫌われたから。 実際、布教してたときも盛り上がってたのは、信者内だけでしょう? 狂信的だったんだよな。
717 :
神も仏も名無しさん :2008/08/18(月) 00:07:17 ID:OEaFF2Jj
家庭環境から見たキリストと釈尊の違いは、 キリストは逃れ逃れ辿り着いた馬小屋で生まれた上、父親が誰かわからない私生児であり、母マリアはバビロン神殿の神聖娼婦出身だった。 釈尊はモンゴロイドのシャーキャ族の王家に生まれ母親マーヤを早くに亡くしている。 ある意味ではどちらも片親で育ったようなものだが、 母を亡くした点で、釈尊はむしろジョン・レノンに近いかもしれないな。
719 :
神も仏も名無しさん :2008/08/18(月) 00:56:07 ID:bsYwPRfi
本当に神がいて神の子を遣わすとしたら、 ブッダのような恵まれた環境に生まれさせるべきだっでしょうね。 ブッダは妻子を捨てて出家したといっても、 王家だから、妻子が生活に困るわけでもない。 子供ができてから出家したのだって、逆にいえば、 王家の後継者を産むまで出家をガマンしてたのだろう。 結果的に悟りを開いて、結局は妻子や親戚もブッダに弟子入りするわけだけど、 それは、妻子が、自分達を捨てて出家したブッダを 恨むどころか尊敬した結果になったわけで、 めでたしめでたしの円満解決になった。 ブッダはイエスのように処刑されたりせず、 80歳で亡くなる直前まで、説法を続けることができた。
720 :
神も仏も名無しさん :2008/08/18(月) 01:09:25 ID:bsYwPRfi
ブッダは幼いときに片親を亡くしている。 これは、出家を決断する後押しになったのでは。 なぜなら、ブッダが出家したら、 残された息子もまた片親しかいなくなってしまうから。 しかし、ブッダ自身が片親しかいなくても、 立派に成長してこられたから、 この息子だって父親がいなくなっても大丈夫だろうと、 安心できたのではないか。 ブッダ自身に片親しかいないという環境を乗り越えた経験があったから、 出家に踏み切ることができたのではないだろうか。 ブッダの人生は、まるで神の仕業か、 あるいは前世からの善行・功徳の報いかと思えるほど、恵まれている。
>>719 >本当に神がいて神の子を遣わすとしたら、
>ブッダのような恵まれた環境に生まれさせるべきだったでしょうね。
マザー・テレサに言わせると逆みたいだけどな。
マザーの言葉にプアー・イズ・ビューティフルってのがあるけど、
貧しさや苦しみを乗り越えてこそ人生はより美しく尊いんだってことだろう。
不幸を不幸と思わず、苦労を苦労と思わない、そういう人じゃないと成功することはできないんだな。
722 :
神も仏も名無しさん :2008/08/18(月) 07:58:01 ID:bsYwPRfi
>>721 マザー・テレサって、実は、
神への信仰については確信がもてずにいたんじゃなかったって、
告白してなかったっけ?
マザーは神は居なかったって言ったと思うよ。
>>722 ああ、あのソースの出所が怪しいやつか。
あれって、自称マザー(カトリック)の大親友の牧師(プロテスタント)の作り話だろ。
カトリックの聖職者は神父だよ。
門外漢の牧師がなんでマザーのことそんなに詳しく心の中までいちいち知ってるんだと。もうバカかとアホかと。
証拠の手紙と称するものだって日本人は誰も確認してないはず。
仮に本物だとしてもだ、だいたいマザー自身が焼いて欲しいって送った手紙を死後に本にしてる時点で親友ではない。
725 :
神も仏も名無しさん :2008/08/18(月) 23:08:42 ID:raDdbqHc
マザー・テレサって、実は、 血塗られた独裁者と組んでいたんだよね。
神はいなかった。 創造物から創造以前の創造主をみることは出来ない。 創造主は時空がなく、比較出来るものがないところ、 無さえない絶対無にある。会いたい人は坐禅したほうがいい。
727 :
神も仏も名無しさん :2008/08/19(火) 01:41:21 ID:auCHDtBP
>あなたは科学を真理だと信じているが、宗教を信じる者は宗教が真理なのです。 私は単に、 電池が切れたら買ってきて、付けた結果、時計が動き出すので、科学を信じざるを得ない、言い換えると「科学は 信じる必要さえ無いありのままの真理だ」ということです。 「信仰」とは 信じるものであるがゆえに 「真理」ではない。よって、キリスト教は真理ではなく「信仰」です。
728 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/19(火) 04:14:53 ID:BwpFvqY1
ウロボロスである事がありのままの真理なので 欲望を叶える事は自分の首を絞めることになります 欲は苦です
729 :
神も仏も名無しさん :2008/08/19(火) 08:00:46 ID:QwziFFye
欲望自体も苦しみ。 「食べたい」という欲望は、「食べ足りない」という苦しみである。 「食べ足りない」という苦しみを消したい気持ちが、 「食べたい」という欲である。 すべての欲望の裏に、苦しみがある。 まばたきしたい、右手を上げたい、誰かに声をかけられて振り返りたい、 そんな些細な行動ひとつひとつの裏にも、苦しみがある。 一切(眼耳鼻舌身意・色声香味触法)は苦しみである。 一瞬一瞬に生まれ滅してゆく苦しみのバリエーションである。
730 :
たいら :2008/08/19(火) 11:46:02 ID:KAGvalW7
わたしたちはみなひとつです。あなたは一日のうち何度、地獄に落ちたひとのことを考えますか?意識せずにはいられないこの瞬間こそ、わたしたちが一体であると感じてください。ありがとう。アーメン
731 :
神も仏も名無しさん :2008/08/19(火) 12:07:55 ID:NHu8Pdi2
ウロボロスである事がありのままの真理ではありません。
732 :
神も仏も名無しさん :2008/08/20(水) 21:45:28 ID:U77fH2Vv
同じ時代?
733 :
神も仏も名無しさん :2008/08/21(木) 08:22:15 ID:LH8RH8V9
約500年の差がある
734 :
神も仏も名無しさん :2008/08/21(木) 14:27:18 ID:6kHY4n9z
そか
人たる役割は、利他で理解者であること を言いたいのではないだろうか
736 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 00:47:45 ID:J9JRd07/
人の内にある、他人を思いやる心や慈悲が昔の人には話してもわからなかった。
まぁ、ネアンデルタール人の時代にはすでに 死者に花を手向ける習慣と心がそなわっていたらしいからな。 言語以前の人類普遍の倫理道徳というか良心みたいのがあったのかもしれない。 たぶんジョン・レノンがイマジンで伝えたかったのはそのことだったんだなぁ。
738 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 07:25:37 ID:X6rt7UDE
×人の内にある、他人を思いやる心や慈悲が昔の人には話してもわからなかった。 そんなわけねえだろ馬鹿 ○すべては 原因が在り結果がある、そんな当たり前の真理が 当時迷信に支配された昔の人には話してもわからなかった。 勘違いすんな
739 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 08:59:24 ID:gm4TMFuH
>>738 >○すべては 原因が在り結果がある、そんな当たり前の真理が 当時迷信に支配された昔の人には話してもわからなかった。
おい、おい、これだけが真理であるというのは、仏教を破棄するものではないか?
原因と結果は相対的存在である。であるから、原因もなく、結果も無い、というのが、空の真理であろう?
この空の真理が仏教であり、大事なのだ。この真理による真実から、あらゆる教えが流れ出るのである。
全ての罪は許されるとか。罪は欲望から生まれるとか。天国極楽、地獄、輪廻と言う真理も説かれるのである。
原因と結果の理は、当時の人々には、わかっていただろう。ではなくて、原因と結果の現象であるから、
空相、無相、一相、無我、無願と言う真理が、説かれるのであるが、これの理解が難しいのである。
いや、理解が難しいのではなく、その実行が難しいのである。
この真理に反対するものが、欲望なのである。有身見なんである。
この欲望を滅する修行が、残されているのみなのである。この修行が困難だったのである。
740 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 09:10:35 ID:gm4TMFuH
つづき この欲望を当たり前のものとし、その獲得が容易な人々が居る。それが裕福な人々である。 このような人々に近づくのは、致命的に危険なのだ。このような人々を天界を享受するものと言うので有ろう。 真理真実への修行の最大の障壁となるからである。これらの人に近づくのは、油のまかれた広々とした道であり、 滅びへの道なのである。狭い門から入れとは真理である。狭い門とは、欠乏である。貧困である。無所有である。
741 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 10:05:44 ID:gm4TMFuH
つづき 故に、上着を奪うものには、下着をも与えよ、と言う教えが生じる。 奪う者は自責の念が生じているが、その自責の念を、下着を与える事により、 帳消しにしてやる事になるので有り、与えられたものは、心に楽を生じるのである。 これが善行であるのである。善行とは、人を罪から解放することである。
742 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 10:13:46 ID:gm4TMFuH
貴方に対して復讐心に燃えているものがいる場合、左の頬を打つのに、右の頬をも向けて打たせ、彼の復讐心を満足させよ。 彼はそれにより、復讐心を満足させるのである。あなたは彼の心を満足させたのである。彼を苦悩から救ったのである。 さて、このような一般常識から乖離している行為の源泉は、真実は空であると言う真理である。 この真理に基づいて、貴方は善行に励まなければならない、これが修行であるから。下着や顔面だけでなく、 身体全体をも差し出さなければならない、と言うことになる。これが難しいのであろう。
743 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 10:26:09 ID:gm4TMFuH
しゃりほつが、一方の目玉をくれと悪魔に言われて、それを差し出したところ、悪魔は それをみて、汚いといい、投げ捨てた。次に残っている目玉をもくれといった時、 しゃりほつは、大事にしないものに、目玉をやれないと断わった。 この拒否の行為の故に、しゃりほつは修行の足りないものとされたのである。 アブラハムは、老年になってから出来た自分の一人子を、神から、生贄に差し出せといわれた時、 「ハイ、主よ」といって差し出したのである。彼はこの行為により、義なるものとされたのである。
744 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 10:32:51 ID:gm4TMFuH
アブラハムの「主よ」と言うものとは何か?真実である。 それでは真実が、最愛の子供の命を奪うのであるか? このような質問は悪魔から来るのである。神は何も要求しておらず、アブラハムは、 何も差し出していないのである。
745 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 10:51:09 ID:oH5A9lWz
いけにえとは自己は傷つくことなく自分以外の他人(親子を含む)を差し出して難を見逃してもらう契約宗教の常態 一方、自分の臓器をえぐりだして人に与えるのは自己犠牲の精神(原初キリスト教もこの仏教精神だった)
746 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 15:55:31 ID:J9JRd07/
宗教行事は何もならない。お経とか偶像といった対象物を拝んだところで無知は増すばかりだ。
そこで釈迦は宗教行事を捨て去るために、人里離れたところでバラモンに修行させた。瞑想により
頭を冷やせと。修行も誤った修養方法を捨てることができ、自分の心を制することができるまでだ
と経典には書いてある。
>>738 原因があり結果がある。よい結果をつくるために悟りの教えがあるんじゃないか。
お前こそ経典の文字が読めない馬鹿。
修行を積んで、修行完成者となり慈悲をしっかりたもてと。経典にはそのことが書いてあるだろう。
この慈悲は愛情というものではなく、他に対する、世の中に対する幸福と安穏と安楽な暮らしを思う
ことだ。
だから、宗教的行為によっても何も生み出されることはなく、それに向かって努力するために、人の
幸福が生まれ、安穏・安楽で平和な世の中となる。
きちがいじみた宗教行為ではなく、慈悲の精神によって世の中によい結果が生み出されると。
お経とか偶像とか拝んでいる奴は、世の中から追い出されればいいんだよ。
747 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 19:12:27 ID:J9JRd07/
だいたい原因があり結果があるなんて、そんなもん真理じゃないんだよ。 馬鹿が執着心を捨てきれず、仏教と言っているだけだろが。 この世では自分の命を捨てるくらいの気持ちで、一切の生きとし生けるものの幸福と安穏と安楽に努めよが 仏教の悟りで、原因や結果だとか自分の欲得につながる執着を捨てることだ。 結果が得たいために信仰をするというのは迷いで煩悩なんだよ。利益がないことのために信仰をする。 命が得たいために信仰をする、災害に遭わないために信仰をする、そんなもん仏教じゃない。 自分の欲得を捨て去って、一切の生きとし生けるものの幸福と安穏と安楽に努めれば、かえってよい 結果となる。原因と結果なんて宗教的な欲得を考えることなく、迷いを捨てて、集中力を身につければ、 現実的な問題の原因にも対処できる。 誰でも幸福を求めて生きている。平安と安穏と安楽な暮らしを願っている。現実的なことでの対応がで きるから、その人は他人に認められ、よい結果となる。たとえよい結果とならなくても、悩まない。
>>746 追い出すというのも、なんか支配的でよくないな
少なくとも、崇拝が自己満足であることを理解させることが必要
749 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 20:21:52 ID:sXabxA1H
747は一部正解。 >この世では自分の命を捨てるくらいの気持ちで、一切の生きとし生けるものの幸福と安穏と安楽に努めよが >仏教の悟りで、原因や結果だとか自分の欲得につながる執着を捨てることだ。 それは大乗の集客のためのプロパガンダだろう。 寂静への道は 寂静でない原因を探りそれを消すこと。 原因とは、あるがままの真理を知り得ない無明。 無明だと分かれば それを消すことができて そうすると、自我はあるが我侭は消える。他への慈愛が 自然発生する。 表面上 利他利他言っているのは そんな順番をすっ飛ばした馬鹿だ。
750 :
神も仏も名無しさん :2008/08/23(土) 23:43:08 ID:gm4TMFuH
勉強中なのだ。
人生は、一生勉強だし終わりのない修行なのだ。
尾崎豊 − 太陽の破片
http://jp.youtube.com/watch?v=C0xm8nmjJIk&feature=related 昨晩 眠れずに 失望と戦った 君が悲しく見える 街が悲しいから
昨晩 一晩中 欲望と戦った 君を包むもの すべてが 僕を壊すから
すり替わってゆく現実とのはざまに描いた夢が 愛を傷つける・・・
暮らしはただ 街明かりに照らされ 何を信じるの どこへ向かうの
僕の手も握らずに 消えるのは何故
誰も手をさしのべず 何かに怯えるなら
自由 平和 そして 愛を何で示すのか
だから 一晩中 絶望と戦った 僕は ただ清らかな愛を信じている
目をつぶってみる 涙がほら 乾くまでの間に 忘れられるさ
破れた約束の前で 人はいつも 偽りつづける
だけど 君を 欲望の果てに ただ奪われたくはない
君を守りたい 悲しみこぼれぬよう あわれみが今 希望のうちに生まれるよう
もし君が 暗闇に 光を求めるなら ごらん 僕を 太陽の破片が 頬をつたう
昨晩 眠れずに・・・ 昨夜 眠れずに・・・
754 :
神も仏も名無しさん :2008/08/24(日) 08:31:46 ID:+e5ws5z1
>赤塚さん・ 誰?
755 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/24(日) 10:05:18 ID:KTXpq7tP
◎信仰対象 荒野や森で断食・わずかな食物で暮らし、不死の境地に達した存在(釈尊・イエス) 世の中の思い煩いと自己の肉欲の執着の無い者が、神と不死の理法を説いた。 信仰対象は、特異なものではない。偶像なるものは実際は世に存在せず、世の中の思い煩いと自己の肉欲の執 着が無くなり、清浄となり完全な善に至る。 □修行完成者・慈悲 いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、 あなたがたも慈悲深い者となれ〜盲人は盲人の手引きができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。 〜修行をつめば、みなその師のようになろう(ルカ) 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは〜一切の生きとし生けるものは、幸福であ れ、安穏であれ、安楽であれ〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世 では、この状態を崇高な境地と呼ぶ(ブッダのことば) 世の中と自己から遠ざかり離れた不死の境地は、一切が安穏で安楽で幸福に満ちた平安の境地。 □平安 平安の境地に達して(ブッダのことば) 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安(ピリピ人への手紙) 偶像なるものは実際世には存在せず、善い者も悪い者も苦難に遭い、また人の幸せを得ているが、世と自己とを遠ざ かり離れ不死に至った人は、一切皆苦を知り、解脱できない多くの人々にも、人間の内に神と永遠に通じるものがあ ると説く。偶像は益をもたらさない。願い求めのある人は、既に叶えられたと信じて、思い煩いをなくし、法に従お うとして世の中を歩む。
756 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/24(日) 10:06:11 ID:KTXpq7tP
□なぐられても耐え忍び 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人(真理のことば) 悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい(マタイ) □生存のために願い求めない・生存の断滅の妄執もない 依りかかることのない人は〜生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない(ブッダのことば) 自分の命を愛する者はそれを失い(ヨハネ) 神を信じたら、肉体の存続さえ願い求めて叶えられることはないと知ること。離欲を達成することが義なのである。 □命を賭けての慈悲は崇高 平安の境地に達して〜母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものども に対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし(ブッダのことば) 人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない(ヨハネ) 「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない (真理のことば) 修行僧は、アートマンを乗り越えて、一切が安穏で安楽で幸福に満ちた平安の境地が自分であると知る。 なぐられて、拘禁されて、手向かうことは真実の自分ではない。肉体的な反応のみで行う行為であって、世の中と 自己とを離れ、平安の境地に真実の自分を知った人は、この世の災難も耐え忍ぶことができるのである。 生存の断滅の妄執も無く、平安の境地に従って、一切の生きとし生けるものどもに対して、命を賭けても護るよう な無量の慈しみが、この世では崇高だと説く。 間違ったものを崇高としてはいけない。この世で自分の命を賭けても、一切の生きとし生けるものの幸福と安穏と 安楽に尽くしている人が崇高である。
757 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/24(日) 10:08:12 ID:KTXpq7tP
■罪の自覚が生じるのみである人々 律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっ ては自分自身が律法なのである。 律法によっては、罪の自覚が生じるのみである〜すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって おり〜キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである〜信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効 にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである(ローマ人への手紙) 肉欲は神ではない。肉欲を断って、不死に達して神に義とされるのである。偶像なるものは存在しない。 だから、「なぐられても手向かうな。敵を愛せ、何も当てにしないで求める者に与えよ、友のために自分の命を捨 てるくらいの大きな愛の者となれ、それが神に信仰のある人だ、行え」と言っても罪の自覚が生じるのみの人々。 修行などの行いではなく、信仰により、かえって律法を確立しようとするのがイエス。 □欲求・あくせくしない 善を喜び〜『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『わたしは眠りづらかった』『今夜はわ たしはどこで寝ようか』―家を捨て道を学ぶ人は、これら四つの憂いに導く思慮を抑制せよ(ブッダのことば) 信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな (マタイ) 未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている(神々との対話) あすのことに思いわずらうな〜一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ) 偶像なるものは実際は世に存在しない。肉の反応・肉欲を抑えることをしないと、神仏を信じても、全く信仰の無 い人に等しい。自己の沈黙と偶像の消滅に神や永遠の命があるのであって、宗教儀式・宗教的行いによっても神に 信仰がある、永遠の命があるわけではない。
758 :
神も仏も名無しさん :2008/08/24(日) 10:28:07 ID:ZmzIcy9m
長い
759 :
神も仏も名無しさん :2008/08/24(日) 12:18:12 ID:+e5ws5z1
760 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/24(日) 13:16:04 ID:KTXpq7tP
□尊敬心 この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、もの惜しみしない人々が、ブッダと真理との教えとに対して 信仰心があり〜尊敬心をもっているならば(神々との対話) すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである(ヨハネ) □人々に対して憂う 〔悪魔〕子ある者は子について喜び 〔釈尊〕子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのも のである(ブッダのことば) 一つの道を二人で行くな。修行僧たちよ(悪魔との対話) だれでもわたしのために〜家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は〜きたるべき世では永遠の生 命を受ける(マルコ) □あくせくするな 未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている(神々との対話) 何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな〜小さい群れよ〜自分の持ち物を売って、施しなさい(ルカ)
761 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/24(日) 13:17:57 ID:KTXpq7tP
われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜び食む者となろう (真理のことば) □親族 親族の仲間を養って、人から非難されることなく、天の場所におもむく(神々との対話) 彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている(テトスへの 手紙) □父母 母または父、あるいは長兄に対し〜これらの人々に対して慢心を起こしてはならない(悪魔との対話) 父と母とを敬え(マタイ) 神と永遠といっても、家、子、もしくは所有物に対して執着心の無いことである。食べること飲むこと、所有物を 得ることにあくせくしない。むしろ物惜しみせず、施すことが神と永遠につながる。 偶像を拝み、くどくどと祈ったり、呪文のような意味不明の言葉を何度も唱えることから離れ、供え物・葬儀・供 養といった、悪魔的な信仰から離れて、持ち物を貪ること無く所有せず、感情的な愛を戒めて、敵意や憎しみも怨 みも無い、完全な慈しみを説く人を尊敬し、信仰すること。 無所有で世の中から離れ、森の中で修行しない人は、その人々を尊敬し、真理の言葉を受け入れようとすること。
762 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/08/24(日) 14:13:27 ID:KTXpq7tP
人のいない林は楽しい〜愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである(真理のことば) 今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちもよく起き上がった(ブッダのことば) ■魚を殺す この世またはかの世におけるいかなるかたちでも〜すべて悪魔ナムチの褒め称えるところである。魚を殺すた めに餌が投げ込まれたのである(神々との対話) □乏しき中から 乏しき中からわかち与える人は、法を実践することになろう(神々との対話) 会堂の上席や宴会の上席をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする。彼らはもっ ときびしいさばきを受けるであろう〜あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ〜その乏しい中から、 持っている生活費全部を入れたからである(ルカ) 執着心を断ち切って、快楽を求めず美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちもよく起き上がった。自然 は美しい、楽しいといって喜んで暮らしている人にも、悪魔はかたちあるものを拝ませ、献供を求めてくる。 貧窮な人に施し与えるのは法だが、肉欲を制し、聡明な心で生きることが仏教。悪魔に負けてかたちあるものを 拝む人は、肉によって死んでいる人と変わらない。
真理のことば?
かたちあるものを 空だと見れないだけだ。修行が足らん
765 :
神も仏も名無しさん :2008/08/26(火) 23:50:26 ID:XgzRZVke
静寂に真理を悟ったお釈迦様にとって、名称と形態あるものを滅ぼしつくした 境地にかたちあるものを拝むのは悪魔と悟った 人の悪い心が生み出した妄念が、かたちあるものを拝ませるのだと
昔はことの成り立ちが不可解なため、安寧を得ようと形ある何かに縋った。つまり、崇拝。生け贄や代弁者もこれによる。 今は事象の研究が進み、崇拝の大義を失っている。その崇拝は利己的である意味排他的な強制や支配が多い。 ただし、少なくともスレタイにある二者は、人としての役割と規範を提示している。
767 :
神も仏も名無しさん :2008/08/27(水) 23:44:44 ID:Rt/q7IU4
昔も今も未来も見えるもの、聞けるもの、言えるもの、識別できるもの、感受できるもの、考えられるもの、 心に抱けるものを信仰対象としてはダメだという法則がある。 生きているうちは仮に、人間というものは肉欲があるから、肉欲に従わない生き方をよしとし、与えて得る ようなことを戒めとして教え、その戒めを学ぶなり心に抱いて世間で生きるような教えを説く。 生活しながら真理を求めようとすれば、離欲や世の中の思い煩いから離れ、静かな安らいを楽しむ時をつくる。 老い死ぬよりも前に妄執から離れ、五感に感じられること、物への執着心などから離れ、世の中を厭い離れ、 自己への愛着から徐々に離れていき、静かな安らいを求めて、何事も思い煩うことなく、こだわることのない ように努める。 信仰対象とできる、見えるもの、聞けるもの、言えるもの、識別できるもの、感受できるもの、考えられるもの、 心に描けるものは何もないわけだ。
768 :
神も仏も名無しさん :2008/08/28(木) 00:09:23 ID:wUFS8bY2
同じことを言うのでも 釈迦は天才おまえとは違う。
769 :
神も仏も名無しさん :2008/08/29(金) 17:35:53 ID:zU/zhVBM
釈迦は形あるものの信仰から離脱させるために世の中から離れ、 瞑想修行させたという事実。
770 :
神も仏も名無しさん :2008/08/29(金) 18:10:59 ID:zU/zhVBM
釈迦は天才であり努力家でもあった。 呪文やお供え、死者の供養を捨て去るため、 一生を通じて瞑想修行させた。
>>770 古典の仏典を読め、ガンガンやっているぞ。
772 :
神も仏も名無しさん :2008/08/31(日) 00:00:30 ID:kqLJxiH6
お釈迦様は死者を葬る人の生活のことを考えていらっしゃらなかった。 それこそ自己中心の考えで、後々お釈迦様の教えをまとも信じてはいけないという常識が勝ったのです。
773 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/08/31(日) 00:16:23 ID:YOnT4F0K
纏めると、 御釈迦様とローマの死刑囚に共通点が有ると考える連中は、 ジーザスコンプレックスの変態性欲者しか居ないって事だな? (^。^)ナルホドォ
774 :
神も仏も名無しさん :2008/08/31(日) 00:42:29 ID:TMehcL+j
773は当たりだが 性欲とは関係無いだろう。 772については 釈迦は供養を否定していない。棄却しただけだ。
775 :
神も仏も名無しさん :2008/08/31(日) 13:02:46 ID:VOTUmjvI
釈迦仏教 天上と地獄とを見 このような身体の永続を否定 悪魔 形あるものへ執着させる信仰 呪文・無益な語句を唱えさせる・呪詛のような作法をさせる宗教 供え物を霊が食べると無知を教える 葬儀によって成仏できると嘘を教える 宗教的行為で功徳ありと嘘を教える もの形への執着、言語を発し身体の行為での行いを清くなると思いなし、執着させること。 供え物や葬儀が死者に影響ありと嘘を教え、偽りに執着させること。 それらを悪魔ナムチと完全否定し、執着心による地獄を教える。 瞑想 静寂の中に滅びない真理を見、安らぎは虚妄ならざる真理として瞑想する 家なくしてわずかな食物で暮らす人を仏教僧。所有物を欲さず、わずかな食物 で暮らす人に与えることは慈悲あり功徳ありと教える
776 :
神も仏も名無しさん :2008/08/31(日) 13:03:37 ID:VOTUmjvI
慈悲 身体を超越した境地を一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽 であれと表現。この世では慈しみが崇高でしっかり保てと教える 物惜しみ 我が物という執着心なく、慈しみのこころづかいによる分け与えを教える あわれみ 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しないとし、 非暴力を教え、無慈悲・残忍・冷酷な人の死後の地獄を説き、貧窮な人々など への与えを教える 自灯明 他人に従属しない。他人を頼りとせず法を島とし、自らを頼りとして歩み、他 人に従属してはいけない 信仰対象 正しく悟りを開いた釈迦を崇拝し、法を学ぶ 釈迦仏教は、この世で貧しい人々から全ての人々が幸せや安穏・安楽になる道を教え、人の 無知・無明につけこんで、人々を従属させない、他人から摂取しない道を示した。 教えの希求は瞑想修行で、人がつくりだせる全ての宗教に打ち勝つことでもある。
777 :
神も仏も名無しさん :2008/08/31(日) 13:33:46 ID:VOTUmjvI
>>773 もちろん釈迦仏教には、事実を枉げる信仰対象というものはなく、静寂に真理を見出すため、
信仰を捨て去ることであり、肝心なところで正反対なのである。
修行完成させた修行僧は何をこの世で行うべきかが、慈悲や寛容であったので、釈迦とイエスが
似ていると思ってしまう人もいるのだろう。
信仰対象というものは、人であれ物であれ、身体が無くなれば消滅するものであり、人の無知・
愚鈍がつくりだしたものである。釈迦仏教は、静けさを目指すことで聡明となり、人の無知・愚鈍
から目覚めさせ、身体が消滅すれば消滅するものの信仰の結果の恐ろしさを説いた。
宗教行事・行為も否定し、聡明な人となって、静けさを目指せと説かれたのである。
釈迦の遺骨を崇拝するような教えは、正しく悟りを開いた人ということで、釈迦そのものを信じて、
将来なり現在なり不思議な益が得られるというものでは全く無いのである。
>>VOTUmjvI 覚ったひとに礼したてまつる。
779 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/09/01(月) 23:04:06 ID:mCQqFWsb
西遊記を信じれば 地球はお釈迦様の掌ということになりますね 真理を悟ったものとか言ってるんだから お釈迦様のエゴでしょ?
780 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2008/09/01(月) 23:09:33 ID:Jby3fzvN
>>779 西遊記は道教の暗喩の物語だよ。(笑
素人はこれだからなぁ。(笑
銀河鉄道999 live (2005) ささきいさお
http://jp.youtube.com/watch?v=OQzTDwX2tYA&feature=related 汽車は闇を抜けて 光の海へ 夢が散らばる無限の宇宙さ 星の架け橋渡ってゆこう
人は誰でも旅人のようなもの 希望の星に巡り会うまで 歩き続けるだろう
きっといつかは 君も出逢うさ 青い小鳥に
汽車は銀河を越え 最果て目指す 星は宇宙の停車駅なんだ 君を招くよ 夢の軌道が
さすらい人の澄んだ瞳に 生命が燃えているよ 心の歌を口ずさむよに 歩き続けるだろう
泣いてるような 星の彼方に 青い小鳥が
人は誰でも旅人のようなもの 希望の星に巡り会うまで 歩き続けるだろう
きっといつかは 君も出逢うさ 青い小鳥に
782 :
神も仏も名無しさん :2008/09/02(火) 07:54:13 ID:6sSxeUW5
>>779 ただの物語だからね。
斉天大聖(のちの孫悟空)は、お釈迦の指を宇宙の果ての柱だと
勝手に思い込んで引き返したため、
お釈迦様の掌から出られなかった。
つまり、自分の固定観念のせいで、失敗したわけです。
つまり、空を悟っていなかったために、現実をありのままに観ずに、
概念の色眼鏡で見ていたのです。
ye
784 :
神も仏も名無しさん :2008/09/02(火) 19:52:31 ID:FOi9akxp
俺は人間じゃない。 俺は愛なんだ。
785 :
神も仏も名無しさん :2008/09/03(水) 17:54:58 ID:gIIqh8lB
アートマン・被造物という生存機能を持った人間の中にも 一切の幸せを思い、一切の苦悩を厭う永遠を持っている。
イエス
まったくその通りだね 北斗のケンでは無いけど、「久しぶりに人間に出会った」気がするよ
788 :
神も仏も名無しさん :2008/09/07(日) 08:14:57 ID:hAl0TAN0
キリスト教では、進化論とか遺伝の法則とか論題になるようだ。 進化と言うものも、縁起に他ならないし、遺伝と言うものも、縁起に他ならない、 と言うべきではないか?どう思う? ここで問題の大事な点は、進化と言うことに付いては、優れたものになるのかどうかと言う点であり、 遺伝に付いては、同じく劣ったものと優れたものと言うものが、生じるのかどうかと言う点であると思う。 人類は数千年の歴史が認められているが、その間、進化と遺伝の法則が適用されなければ鳴らない。 優れたもの劣ったものの存在を認めらるか?数千年の歴史で足りないと言うのなら、何百万年の歴史でもいい。 恐竜が劣っており、人類が優れているといえるか?アミーバが劣っており哺乳類が優れているといえるか?
789 :
神も仏も名無しさん :2008/09/07(日) 08:20:05 ID:hAl0TAN0
縁起している存在の一方が優れ他方が劣っているといえるか? 原因が優れ結果が劣っているといえるか? しかし、次の事は言われなければならないと思う。 原因と結果を超越しているものは優れていると。
790 :
神も仏も名無しさん :2008/09/07(日) 08:39:32 ID:vfQ3nGKb
なんか諮意的な展開だな キリスト教的優劣思想が透けて見えるよ 遺伝は縁起じゃないよ 生物学的な複製だよ 進化は縁起じゃないよ 優劣を比べるものじゃないよ ダーウィン的には、環境への特化だよ
791 :
神も仏も名無しさん :2008/09/07(日) 09:46:07 ID:hAl0TAN0
>>790 遺伝が縁起関係で無いと言うのなら、また、進化が縁起関係ではないと言うなら、
神を否定し、仏教の無我、無相一相の真実を否定し、涅槃を否定し、釈尊を、又は、
キリストを否定する事になる。
アートマ
793 :
神も仏も名無しさん :2008/09/07(日) 20:55:40 ID:hAl0TAN0
All You Need Is Love - The Beatles
http://jp.youtube.com/watch?v=rLxTpsIVzzo&NR=1 不可能なことをやろうとしたり 心にない歌を歌おうとしても無理さ
でも君に覚える気があれば 楽しくなるのは簡単
造れないものを造ろうとしたり 救えない者を救おうとしても無理
でも君にその気があれば 自分自身に戻るのは簡単
愛こそはすべて 愛こそはすべて 愛こそはすべて 愛こそ僕たちが求めるものすべて
未知のものを知ろうとしたり 見えないものを見ようとしても無理
だけど 自分自身の居場所を見つけるのは 簡単なこと
愛こそはすべて 愛こそはすべて 愛こそはすべて
愛こそ僕たちが求めるものすべて
795 :
神も仏も名無しさん :2008/09/07(日) 21:27:09 ID:U1ALxEHj
母親の名前が「マ○ヤ」 イエスの母を普通は「マリア」と呼ぶが、正教関係では「マリヤ」という記載もある。 これは、ダメ?
796 :
神も仏も名無しさん :2008/09/07(日) 22:56:40 ID:dfaF7uyu
五感も思考もこれは私ではない=釈迦 肉体は私でなく肉の思いは何の役に立たない。霊によって生きる=イエス アートマン・被造物と言いながら、肉欲の求める信仰=悪魔の虜になっている。 一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ、この世では慈しみのこころづかいが崇高。 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。 修行を完成させ慈悲を説く釈迦。慈悲を説くイエス。 釈迦を信じて、イエスを信じて、肉欲に滅びることなく、慈悲を大切にすること。これが宗教の目的。 なぜなら、世の中も自己を思う心も過ぎ去り、上では全てが悩み苦しみなき一切が幸福な世界を善いと受け入れるからだ。
797 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/09/08(月) 08:31:15 ID:Cln4PXfT
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 ホログラム ホログラム
798 :
神も仏も名無しさん :2008/09/08(月) 08:36:15 ID:/AT88VMw
仏陀のことを盲信しては駄目だ。(尊重すること、尊敬すること、敬うことは大切だけどね) 修行の過程で、一つ一つ検証することが必要 なぜ百万と言われるほど経典があるのか、なぜ仏陀が対機説法といわれる手法で話したのか それは悟りに至る道、やり方は人それぞれだからだ。一人一人にあったカスタムメイドの修行内容が要る。 だから正しい修行をしているかどうかの検証が必要だし、導き手である師が必要。出家の意味もそこにある。 外界の変化を最小限にして、師に修行内容の検証をしてもらいながら完成に至る。 修行することの意味は、その悟りを得るため。 極端にいえば、慈悲の心など誰でも持っとるから、あえて慈悲、慈悲とやる必要はない。 なぜ人に慈悲の心が向かないか?それは、皆自分のことに手一杯だから。自分の苦の処理で忙しいから。 そこを修行することで心の整理をしましょうと。心の中が整理されれば、スペースが出来、慈悲が活動できるようになる それはもう自動的と言ってよい位に慈悲に心が向く もともと動物にとって慈悲は、優先順位が下なんだね。まずは生存すること、安心することが優先される。 それが達成されれば、犬猫でも慈悲の心は働く。 今の世の中、慈悲、慈悲と頑張っても辛いでしょう?慈悲行といって、心に苦の嵐が吹き荒れている人びとも多いでしょう? で、あれば無理せず修行の過程で、慈悲心が働いてくるまで自然にまかせるのが結果的にもっとも早い方法。 ブッダメソッドといっていいかも。 キリスト教の具体的な修行方法については、あまり詳しくない。 聖書を読むことが修行?教会に献金することが修行? 詳しい人、教えて!
799 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/09/08(月) 08:42:10 ID:Cln4PXfT
お祈りと懺悔です 全て神頼みですからねwww ホログラムホログラム色即是空空即是色
800 :
神も仏も名無しさん :2008/09/08(月) 08:49:43 ID:jjt7xxpp
イエスとブッダ ホモだち?
801 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/09/08(月) 13:13:34 ID:AJSyvAhV
悟りの修行してたインドのお坊さんが こんな世界は嫌過ぎるって自殺したんだって ソレが涅槃です 悟りましたね おめでとうです
>>795 そんなの関係ないよ。あんまり気にスンニ派。
マライア・キャリーのマライアってマリアのことだし、
メアリーとかマリーも全部マリアのことだぞ。
803 :
神も仏も名無しさん :2008/09/08(月) 23:55:06 ID:z7MQNVe0
なるほど。 そういうわけで仏教とキリスト教は根本から異なるんだな。
賽銭を投げることも修行 小銭を全部投げてお金への執着をなくす そのお金は地域の子供会の御神輿の祭りの お菓子になる
805 :
802 :2008/09/09(火) 00:49:06 ID:EFbmrQAh
>>803 何を言ってるんだ。
イエスの母マリヤは釈尊の母マーヤとほとんど同じだろ、少なくとも言霊的には。
>>804 正確には修行を積むというより功徳を積むということだろうな。
とどのつまり、人生とは前世からの罪業(マイナスポイント)をいかに減らすか、そして今世で功徳(プラスポイント)をいかに積むかのゲームなんだろうな。
ゲームが早く上がる(ポイントが満タンに貯まる)と解脱できる。
菩薩とはあえて、満タンになった功徳ポイントを自分一人の解脱に消費せずに皆に分ける人のこと。
日めくり暦の一粒万倍日とかに、ああ今日は良いことをすると功徳ポイントが万倍になるんだな、
とか思うと何だかワクワクする今日この頃。
『人生はゲーム。それを遊びなさい Byサティア・サイババ』
806 :
神も仏も名無しさん :2008/09/09(火) 02:16:17 ID:MLukCiuK
私は誰にも姿を見られたことがない。 だって、私は肉体や心じゃないもの。 山に籠もって瞑想する必要がない。 最初からこの世にいないからな。 最初から隠居してるも同然。
807 :
神も仏も名無しさん :2008/09/09(火) 08:00:15 ID:Ssticb8m
ボスキャラたおすためにレベルを上げるのが本来なのに、 (ブッダの前世物語の菩薩) ボスキャラたおせれレベルに達しても、 あえて村や町のモンスター退治にまわっている。 (大乗の菩薩)
808 :
神も仏も名無しさん :2008/09/09(火) 23:50:26 ID:bYoetw7W
イエスもブッダも日本のオカルト的な宗教思想でなく、科学的に認められそうな宗教ではなか ったか。当時としては法則を説いても大衆には受け入れられない。そこで民衆を惹きつけるた め偶像的なたとえ話で教えた。 イエスは苦難に悩む人を癒し、父を敬するように自分を敬せよと。 ブッダは一切の生きとし生ける者をあわれんで修行完成者とし罪過は存在しないと。 不朽の神、つくられざる永遠は朽ちる人間やその他の物で表現できず、無知・無明がかたちあ るものを信仰させるが、全ての存在が苦悩の無い世界を唯一の幸せとする世界はあるのだと。 そこでイエスは御言葉として教え、私の言葉を守らない人は私を愛さない、言葉を守る人につ いていかないと二人とも穴に落ち込むとし、ブッダは修行完成し一切の生きとし生けるものは 幸せであれ安穏であれ安楽であれと説いた。人間の肉欲は朽ちるが、教えを守る人は永遠にあ るものと一致し、朽ちないと。
809 :
神も仏も名無しさん :2008/09/09(火) 23:57:54 ID:bYoetw7W
貧しい人々に分け与えようとする心があるのはなぜか。食乞う人、かわいている人に施そうと する心があるのはなぜか。 人は熱心に働き、豊かさを求めたりするが、持ち物の誇り、快楽を追うばかりでなく、さみし い静かな場所で心の落ち着きを求めたり、自然を楽しんだりするのはなぜか。 財力あり、持ち物を誇り、食べ飲み、享楽を貪って、その人は勝利者だ偉いと人々が思わない のはなぜか。 物質的な喜びの中で損なようなことも、どこか人の心の内に非物質的なものを善いと思う心が 働いている。 いつか科学的に非物質世界が現実にあるものと証明され、多くの人々に多少なりとも影響を与 えており、それを強めるのが真実の宗教だったとわかる日が来るかもしれない。 もちろん、形あるものの信仰対象物を否定し、葬儀は真理に向かうことではなく、供え物は霊 は食べない、くどくど祈り呪文を唱えるのは不浄な心、呪詛の作法などの効力を否定、宗教行 為による功徳はない、多くの人が自然の状態なら考えても明らかに知恵の無い、無知な行いは 否定している。 普通は死者(死後)は意識活動もなくなり、人の手の届かぬものと思っているから、真剣に死 者のために生きている人はほとんどいないだろう。逆に無意識には、教えに通じるものは多く の人々が多少なりとも持っている。
810 :
神も仏も名無しさん :2008/09/09(火) 23:59:02 ID:bYoetw7W
宗教でも、特殊なものを拝ませ、特殊な宗教的行為による効力を訴え、洗脳支配し人を食い尽 くす宗教と、多くの人々の内的にあるものを浮上させ、維持させる教えがある。
BRIAN MAY + SISSEL 'WHAT ARE WE MADE OF?'(1996年 映画ピノキオ主題歌)
http://jp.youtube.com/watch?v=lOSoU2mVPdY&feature=related What are we made of?
(僕たちは何のために作られたの?)
Can we know what we will be?
(僕たちはこれからどうなるか知ることができるのかな?)
What are the chances I can find a better path, a better life, a better me?
(より良い道や、より良い人生や、より良い自分を見出せるチャンスがあるとしたらそれは何だろう?)
What are we made of?
(何のために僕たちは作られたの?)
If you think you know the answer
(もしもあなたが、もう答えは知っていると思っているとしたら)
Turn around, think again
(振り返り、考え直してみてください)
812 :
神も仏も名無しさん :2008/09/10(水) 01:18:19 ID:xNy/tZr0
サイババの手品映像は面白かったな。 昔はカメラが無かったからな。
813 :
神も仏も名無しさん :2008/09/10(水) 06:39:55 ID:Zs9Cb4Ej
>>808 ー810
印象論ばかりだな。
一度、キチンと宗教論、宗教史を勉強して頭の中を整理した方がいいと思うよ。
814 :
神も仏も名無しさん :2008/09/10(水) 17:38:59 ID:m5NuxnsA
>>808 〜810は経典や聖書に書いてあることを根拠にレスしていると思う。
やばいのが798
仏陀のことを盲信してはダメだとWWWWWW
結局自分教をつくって経典に書いてあることを否定する。
そういう奴はこの世界から早く消え去るほうがいい。
815 :
神も仏も名無しさん :2008/09/10(水) 18:36:33 ID:m5NuxnsA
釈迦は人里離れたところでの瞑想により信仰を捨て去れだ。他人に従属せず自らを頼りとして歩めと。
修行完成した者は慈悲。在家者はそういう修行者を尊敬し、一般的に通じる理法を学ぶ。
イエスも慈悲を説き処刑されたわけだが、教えを行えだけではダメだとして信仰対象となった。
イエスを信じながら、教えを浸透させるという方法だ。
>>813 こそ、馬鹿な頭を整理したほうがいいと思うよWWWWWWWWW
816 :
神も仏も名無しさん :2008/09/10(水) 19:00:22 ID:m5NuxnsA
たとえ百万経典があろうが、釈迦本人は経典を書いてない。
瞑想により煩悩を捨て去ること、単純で明快な釈迦の教えも、
弟子たちに言葉の上で教えを伝えてよいとしたので、経典の中には
偽りもあるとした。それを捨て去る修行方法もある。
複数の経典に書いてあるものは真実だ。それが道理だ。
>>813 宗教論なんて単純なもんなんだよ。宗教者が飯の種にしたいから複雑
なように教え、自分たちの組織なり、自分の教えていることに従わな
いといけないとして人を束縛する。お前の馬鹿な頭にはわからないだ
ろうがWWWWWWWWW
817 :
たいら :2008/09/10(水) 19:02:18 ID:sW3kATHK
わたしたちはみなひとつだ。人類はもう我慢の限界だろう?目からじわじわと涙が出てくるくらい大変な思いをしている。わたしたちはみなひとつなのに、ひとつになれないからだ。世界を一夜にして変えよう。アーメン。
818 :
神も仏も名無しさん :2008/09/10(水) 21:41:02 ID:m5NuxnsA
人でいる時はそれぞれの体があり分かれているが、万物は唯一の神に帰する。 病苦も地上の様々な苦難もない永遠で神を知る。 イエスは地上で人々に見えるように行い、自分を信じ、人でいる時は、敵を 愛し人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやるなどの御言で、 その神と一緒にいると教えた。 呪文などの無意味な言葉を捨て去る、葬儀・供養・供え物、また宗教的行為 を捨て、形あるものの信仰を捨て、人里離れた森の中で瞑想し、修行完成し 慈悲を説いた。 人間のつくった宗教的な行為などない。病苦も様々な地上の苦難もない平安 の境地があるだけだ。一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安 楽であれ、慈しみのこころづかいをしっかり保てと。 イエスも釈迦も迷わず論じ合わないように人にわかり易く説いたのだ。 それを馬鹿がいろいろな理由をつけて違うと言うだけ。 馬鹿か詐欺師は、いろいろな理由をつけて自分たちの言うことのほうが正し いと人を欺き、人を自分の言うようにさせよう、或いはその人から利益を得 ようとするだけ。そして人々を肉が欲する信仰に堕落させるのだ。
愛燦燦 美空ひばり
http://jp.youtube.com/watch?v=NQSoyv7OECo&NR=1 雨 燦燦と この身に落ちて
わずかばかりの運の悪さを
恨んだりして
人は哀しい 哀しいものですね
それでも過去たちは 優しく睫毛に憩う
人生って 不思議なものですね
愛 燦燦と この身に降って
心秘そかな嬉し涙を 流したりして
人はかわいい かわいいものですね
ああ 過去逹は 優しく睫毛に憩う
人生って 不思議なものですね
ああ 未来逹は 人待ち顔して微笑む
人生って 嬉しいものですね
アーメン
821 :
神も仏も名無しさん :2008/09/13(土) 13:49:57 ID:Xv0embe3
スイスに、ナンだっけ、原子と原子じゃなく、陽子と陽子だっけ?を衝突させる装置が完成したそうだね。 それを衝突させると、衝突したものが飛び散ってなくなると言う話じゃないか? 其処はブラックホウルなのであると。物質が消滅するところなんだそうだ。 一次、二次、三次元世界ではなく、これらと全く異なる異次元の世界があることになると言うのだ。 こんなことは仏教を学んでいる俺たちには常識だよね。
822 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/09/13(土) 19:42:47 ID:Ourr8tbf
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった(コリント人への第一の手紙) にせ預言者を警戒せよ〜あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう(マタイ) その実 盲人で口のきけない人を連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた (マタイ) 自分の粗雑な思考をおさめとり、聡明になった人 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない(神々との対話) イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが(ルカ) 色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと―わたしはこれではない(悪魔との対話) 一切の事物は我ならざるものである。自己さえ自身ではない。病苦や地上の様々な苦難も無い、一切が安穏で 安楽で幸せな世界が、身体を捨てた永遠であることが聡明な人にはわかるはずである。 不死の世界を知った人 真理を見る人には何ものも存在しない。人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている (感興のことば) あわれみのわざで様々な苦難に遭っている人々をいやされたイエス。一切の生きとし生けるものは幸福であれ 安穏であれ安楽であれと説いた釈尊。世と自己とを遠ざかり離れた境地で、苦難も無く一切が安穏で安楽な幸 せな境地が自分であることを知る。人の考えによって生み出されたものは一切無い。
823 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/09/13(土) 19:44:23 ID:Ourr8tbf
この世では 敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ〜あなたがたの父なる神が慈悲深いように、 あなたがたも慈悲深い者となれ(ルカ) 上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼 ぶ(ブッダのことば) 学び修めた賢明な人 空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ・・ (マタイ) 貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ。信仰心あり、学び修めた賢明な人は、 食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ(神々との対話) 愚鈍ではなく聡明な人は、この世でこのようなことが朽ちぬ自分に忠実な行いであるとわかるはずである。 教えの希求 荒野を〜そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた(ルカ) 森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが(神々との対話) 食に対して節し、森の中など静かなところで瞑想し、静けさを目指す。不死の境地に達したならば、御言や釈尊 のそういった教えが、この世で朽ちる肉の思いではなく、永遠の自分に忠実であるとわかるはずである。 自分の思考により否定したり、他人の考えに騙されてはいけない。
824 :
仏陀の悟りの言葉 ◆eJPS5fO0Ww :2008/09/13(土) 19:45:53 ID:Ourr8tbf
□良い者も悪い者も 心が煩悩に汚されることなく、心が縛られることなく、善悪のはからいを捨てた人(感興のことば) 天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下 さるからである(マタイ) □心を休めること 孤独の味、心の安らいの味をあじわったならば、熱のような悩みも無く(感興のことば) さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい(マルコ) 悩み苦しみがあって偶像にたよる人がいるが、人を避けてしばらく休むこと、それは真実に基づく行為である。 自己に対する善悪のはからいの迷いを捨て去る、他に対する善悪のはからいの迷いを捨て去ること。 悪魔教との戦い 悪魔ナムチ・・・形あるものへの信仰・偶像礼拝 内心は汚物・もっときびしいさばき・・・無益な語句よりなる詩を百となえる・呪文をつぶやく・くどくどと祈 る 嘘は地獄・・・供え物は人が食べる・人々が供える物は悪霊ども 葬儀などやるな・死人を葬ることは死人 怠け者の親族・・・宗教的行為(儀式)で功徳を求める者は、怠け者の親族、悪しき者よ 無知・無明・・・呪詛の作法など、宗教作法によりなんらかの効力があると思う無知 釈尊は人里離れた所での瞑想、イエスは「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」祈り。 それらによって悪魔教を批判し消滅させようとした。何ものか(何か)に人間の行為で言うことを聞かせようとす る、または清浄となろうとする誤りを批判し、肉欲を制することにより清浄となり、むしろ何でもできるものに近 づく。
>>79 激しく遅レスだが神が万物を創造した理由は
神が無の世界に唯「有り」
自身が何であるか、いかなるものであるのかを
御存知なかった為。
シュレディンガーのネコの様な話だが
主は他者によって観られて初めて自身が神なる存在である事を知った。
826 :
神も仏も名無しさん :2008/09/19(金) 06:31:33 ID:8r7u999A
俺は医者にかからないことにしてるんだ。病気と言うものは無いのだから。 反対に医者が病気病気というのをこそ、警戒すべきであると思う。 そこで、医者を無視、と言うか、医学、科学から、離れると、実に不思議、無相、一相、空相 が体得できそうな、予感がひしひし、と感じられる。皆さんもやってみて欲しい。
828 :
神も仏も名無しさん :2008/09/19(金) 22:15:06 ID:tH8eIu+x
中原中也 ― 春日狂想 1 愛するものが死んだ時には、 自殺しなけあなりません。 愛するものが死んだ時には、 それより他に、方法がない。 けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、 なほもながらふことともなつたら、 奉仕の気持に、なることなんです。 奉仕の気持に、なることなんです。 愛するものは、死んだのですから、 たしかにそれは、死んだのですから、 もはやどうにも、ならぬのですから、 そのもののために、そのもののために、 奉仕の気持に、ならなけあならない。 奉仕の気持に、ならなけあならない。
830 :
神も仏も名無しさん :2008/09/20(土) 08:27:43 ID:TUm/+mxu
真実と真実への信仰が人を助けるのであって、いかなる医者も人を助けられるのではない。
831 :
神も仏も名無しさん :2008/09/23(火) 15:23:01 ID:l/W6h0d1
真実と真実への信仰以外の一切のものを捨てなければ、真実にいたり得ない。
832 :
神も仏も名無しさん :2008/09/23(火) 20:49:56 ID:n2LjS8iN
>>831 真実と思われるものと真実への信仰と思われるものへの信仰を捨てなければ信仰に至り得ない。
833 :
神も仏も名無しさん :2008/09/24(水) 09:43:47 ID:Qs1vZi7y
何を以て真実を証明できるのか? 何が真実と言えるのか? 真実とは何か、が解らなければ、捨てようもないでしょうに。 闇雲に捨てまくっても実りはないよ。 あなたは何が欲しいのか? 欲しいと思うヨクは、物欲か、抑制か? 神は、言葉アソビがお好きなのです。
834 :
神も仏も名無しさん :2008/09/25(木) 18:24:28 ID:LNk0SbcY
神が無相であることの論証がキリスト教にも、イスラム教にもないんだよな。 ただし、パルメニデスの論証は有るが、それと、仏教の論証がイエスにどのように影響しているか、 あるいは影響していないか、影響していない可能性は充分有るが、・・・・。それから、 論証は有っても、それを実行し完成させるかどうかは、又別問題だしな。
835 :
神も仏も名無しさん :2008/09/27(土) 21:57:28 ID:Pd9gWq1c
wiki [編集] 一者 プロティノスの思想はプラトンのイデア論を受け継ぎながら、その二元論を克服しようとしたものである。 プラトンの『パルメニデス』に説かれた「一なるもの」(ト・ヘン to hen)を重視し、語りえないものとして、これを神と同一視した。 万物(霊魂、物質)は無限の存在(善のイデア)である「一者」(ト・ヘン)から流出したヌース(理性)の働きによるものである(流出説)。一者は有限の存在である万物とは別の存在で、一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。 あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出た光が周囲を照らすようなものである。光から遠ざかれば次第に暗くなるように、霊魂・物質にも高い・低いの差がある。 また、人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。[エネアデスVIの第11節] ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである(プロティノス自身は生涯に数回体験したという)。
ガンジーやマザーテレサ、キング牧師もなんか当てはまる気がする
837 :
神も仏も名無しさん :2008/10/02(木) 05:56:26 ID:8IEDWeTj
・・・・・・・・・・
ガンジー
839 :
神も仏も名無しさん :2008/10/02(木) 15:48:56 ID:XKXON+LX
ガンジー マザーテレサ この2人は最低だな。仏陀とは遠い。
840 :
神も仏も名無しさん :2008/10/03(金) 08:29:29 ID:7VEMQPRp
キリスト教神学では、先に挙げたプロチィノスの説を採用してると聞いている。 だとすると、仏教と本質は同じである。マザーテレサはキリスト教徒であるから、 仏陀の教えを実行してるといえるのでは? 仏陀は教えを説いてインドを旅しているが、その教えは人に希望を灯すものであった。 苦しみは実体の無いもの、それは欲望から生じるもの、欲望の対象は実体のないもの、 真実は無相一相空相である、ゆえにこの真理真実を聴き、理解し信じるなら、ニルバーナにいたる、と。 これ教える事が最高の慈悲業であると。 テレサは、神の慈悲を伝えた。神はどんな人にも平等に接し、愛していると。 神は罪を見ない方であると。 ガンジーは政治活動が主体であったのでは?
841 :
神も仏も名無しさん :2008/10/03(金) 08:38:25 ID:7VEMQPRp
キング牧師は、人種差別の無い世界を説いた。差別が無い問いは、仏教の一相を指向するものだ。 しかし、部分的な真実をといている。
842 :
神も仏も名無しさん :2008/10/04(土) 15:10:55 ID:kWvReuGH
WIKI バラク オバマ 2004年には、対立候補を得票率70%対27%の大差で破りイリノイ州選出の合衆国上院議員に初当選した。2004年のアメリカ大統領選挙では、 ジョン・ケリー上院議員を大統領候補として選出した民主党大会で 「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。ブラックのアメリカもホワイトのアメリカもラティーノのアメリカもアジア人のアメリカもなく、 ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」。「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ」と の基調スピーチを行い、その模様が広く全米に中継されるとともに高い評価を受けた。 大統領候補 スプリングフィールドで立候補宣言を行うオバマ ニューハンプシャーで遊説を行うオバマ2004年以降、2008年アメリカ合衆国大統領選挙の候補として推す声が地元の上院議員や新聞などを中心に高まっていった。 本人は当初出馬を否定していたが、2006年10月、NBCテレビのインタビュー
マルコムХ マル(^Х^)コム
844 :
神も仏も名無しさん :2008/10/04(土) 22:10:54 ID:kWvReuGH
マル(^Х^)コム 何?
845 :
神も仏も名無しさん :2008/10/04(土) 22:14:33 ID:kWvReuGH
しかし、オバマは状況を適切に表現する人だな。 マケインは既に勝つつもりでいないよ。
846 :
神も仏も名無しさん :2008/10/04(土) 22:33:08 ID:NpxEess9
847 :
神も仏も名無しさん :2008/10/04(土) 22:38:27 ID:NpxEess9
「ガンジーはアウトカースト(不可触民)として生まれていません」
「ヒンズー教にこだわる人でした」「非暴力の人であっても、非差別の人ではない」
次男のマニラル(当時三十五歳)がイスラム教徒と結婚しようとした。ガンジーは、ダルマ(宗教)に反しているという理由で、
この結婚に猛反対した。
この結婚はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の一致を台なしにするという不可解な論理で、自分の立場を正当化した。
もしもマニラルが従わなければ、
「インディアン・オピニオン」紙の社長の地位を失うことになると脅かした。青年は折れ、父の協力者の二十歳の娘と結婚した。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4145/1199511793/186
848 :
神も仏も名無しさん :2008/10/05(日) 14:59:54 ID:LTgzYe9T
久方ぶりに、原始仏典を開いて読んでみた。やはり真理の言葉だった。
849 :
神も仏も名無しさん :2008/10/05(日) 19:21:46 ID:e4csntpm
久し振りにイエスの妄想物語を読んだ。 イエスは「自分は正しい、正しいんだ!」の駄々っ子に過ぎなかった。 メシアかどうかは力ある神が決めるのではなく、受ける弱い人間である。 彼はみんなから否定された。 それでも言い張った。 さて。わたしも犬相手に殴ろうかな。ほれ、必死に腹見せ降参仕草しろ。 なんら変わらぬわ。
B'z/あいかわらずなボクら
http://jp.youtube.com/watch?v=9F78Q7nLVs0 今まで好きなこともしたし たまに我慢もしてきた
「あいつはダメだ」 なんてキミ勝手に
決めないで 余計なお世話だヨ
どこに行ってもいい 道なんていくらでもある
立てなくなるほど考え込むより
行こうよ行こうよ 自分を叫ぼう
元気なうちに やりたいこと 見つけだしたいよ
大好きなひとに 会いたいときに 会えればいいのにな
気がすむまでケンカして仲直りしたいよ
やりたいように やりたいこと できればいいのにな
いつでも正しい人なんているのかな
まあ そんなこと たいした問題じゃないネ
行こうよ行こうよ あいかわらずなボクら
>さて。わたしも犬相手に殴ろうかな。ほれ、必死に腹見せ降参仕草しろ。 パリサイ人のものまねですね。わかります。
852 :
神も仏も名無しさん :2008/10/05(日) 23:47:21 ID:u9q7kzz6
ブッダは、80歳までボケずに教えを説き続け、 弟子や信者達に世話されて穏やかに人生を終えられた。 それだけ考えても、イエスとの力量の差を感じる。 新興宗教を開きながら、 身分の上下や男女を問わず、人々から尊敬され、 逮捕されたり処刑されたりしないなんて、 それだけ教えに説得力があったからだろう。
>>852 一応、二人とも宗教的には死んでないことになってるよ。
キリストは復活しちゃったらしいし、
釈尊は即身成仏して解脱して涅槃に入っただけで永遠に生きてるということらしい。
弘法大師もまだ高野山の奥の院で弥勒下生までピンピンして生きてることになってるし。
854 :
神も仏も名無しさん :2008/10/06(月) 21:25:33 ID:RCUCtB2n
宗教的にってのは関係ないよ 人間ブッダと人間イエスのどちらが人間として優れていたか?ってところだろ
855 :
神も仏も名無しさん :2008/10/07(火) 00:03:20 ID:slP7wmOe
>キリストは復活しちゃったらしいし、釈尊は即身成仏して解脱して涅槃に入っただけで永遠に生きてるということらしい。 >弘法大師もまだ高野山の奥の院で弥勒下生までピンピンして生きてることになってるし。 キリスト復活したと 言うだけではなくさっさと実際に見せなさい。 釈迦は涅槃を目指すがそれは 永遠の死を意味する。 輪廻してなどという概念は 苦の滅却には 関係無い。 弘法大師などは仏教無知であり単なる 敏腕タレント坊主である。もちろん普通に死にました。 仏教は真理を説き キリスト教は妄想を説く。
856 :
神も仏も名無しさん :2008/10/09(木) 00:57:54 ID:9c15qfVL
お釈迦様は断食された後、腹が弱まっていたからお粥を頂いた。 イエスは荒野で断食し悪魔と頭の中で対決したらしいが、胃腸の弱まり(消化活動無しによる能力低下)は書かれていない。 これ時点でご都合主義。 ちなみに腹が減って頭の中にサタンが現れたそうだが、故にイエスは糞をしていた証ともなる。 はぁ。 聖なる神の子、救世主様々もしかと糞をしていたか。 同時だから… 平気で野糞か?
>>855 >釈迦は涅槃を目指すがそれは 永遠の死を意味する。
仏教にしてはあまりにも抽象的で観念的だな。ではその永遠の死とはどういう状態だろうか。
涅槃を本当に理解しているのなら具体的にわかりやすく説明してみたまえ。出来るもんならなw
858 :
神も仏も名無しさん :2008/10/09(木) 06:34:41 ID:t9Y5Igul
永遠の死=輪廻なんて無いってことだろ
859 :
神も仏も名無しさん :2008/10/09(木) 07:36:11 ID:7lr/WLhk
俺はキリスト教の、イエスの犠牲、と言うことが不可解である。 いやこれは道理に合わないんではないか? つまりキチガイの論理ではないかと思うのだ。 冤罪、主客転倒なのだ。 仏教の道理は、このような理屈を否定してるのではないか?
860 :
神も仏も名無しさん :2008/10/09(木) 17:51:53 ID:7lr/WLhk
神に犠牲を捧げるというのは、そして、それにより神との和解を保てるというのは、 全くの釈尊の否定した「信仰」である。そして、これはイエスの説いた信仰ではない。 今イエスを神として、そのイエスに何かを捧げてイエスの不快を取り除く事が出来るとすれば、 何が適当なのか?仏陀がもっとも喜ばれる捧げ物は何だったのだろうか? このような問いは適当であると思う。
>>858 仏教に永遠の死なんて概念はないだろ。
諸行無常(すべては移ろい巡りゆく)だから。
霊的には生と死は等価値なんだ。肉体があるかないかの違いでしかない。
生物は、今生きててもいつかは肉体を失うし、今死んでても時が来ればまた生まれてくる。
>>860 >神に犠牲を捧げるというのは、そして、それにより神との和解を保てるというのは、
>全くの釈尊の否定した「信仰」である。
何を言ってる。仏教は神の信仰を否定してないだろ。
聖天様や鬼子母神や四天王や大黒天や明王など
多くの諸天善神に供物や祈りを捧げるのは仏教の古来からの正式な作法だ。
862 :
神も仏も名無しさん :
2008/10/09(木) 23:55:52 ID:dLYOMnaX 釈迦 身体の消滅世界を彼岸とし、身体の欲するものを煩悩と説いた。瞑想修行により生きながらにして 彼岸に到達する究極の理想を目指す。 究極の理想に通じた人、平安の境地をこの世で一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽 であれ、敵意や怨みや憎しみ、諸々の欲望に関する貪りを除き、この世で慈しみのこころづかいが崇高 として、自分をよくととのえ自分を主として歩めと。与えてから得る、弱者に対する配慮などを説く。 イエス あなたがたも慈悲深い者となれ。イエスも肉の思いの無い者を神とし、無慈悲な行為は神に反すると説いた。 肉の思いを捨て去るのは無理として、信仰対象となり罪をゆるしながら徐々に教えを浸透させようとした。 釈迦のような修行方法だと、教えそのものがすたってしまうと。 肉体から生じる悪を抑制する教えそのものは重要なことでも地味なものであり、苦悩の解決は世の欲望から離れて暮ら すこと、得たいなら貪ろうとする心を捨て与えてから得ること、世の平安を乱さない人となること、他人に対する少々 のあやまちをゆるしたりして互いに自由にすること、貧しい人、苦しんでいる人を助けたりすること、そのようなこと ができるようにした国民を多くした方が教えを成功させたとみるべきだろう。