952 :
神も仏も名無しさん:2008/06/10(火) 23:19:36 ID:elioFbXZ
>>948 >分別してないということですよね、一如、とは。
梵我一如という言葉に見られるように、一如とは同一であるという意味です。
分別しないなどということではありません
953 :
句:2008/06/10(火) 23:21:22 ID:mC1r6Vkr
ぼったん君の妄想脳と一如と言う事ですは、
彼の喜びなんですは。
954 :
神も仏も名無しさん:2008/06/10(火) 23:21:32 ID:elioFbXZ
>>948 一如を一の如しと訓読しているとすれば、それも誤りです。
一如は同一という意味ですが、一の如しは、同じようなものである、つまり同じではない
ということですので正反対の意味になります。
950章を過ぎました。
どなたか、スレを建てていただけませんか?
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書込み中・・・
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ERROR!
ERROR:新このホストでは、しばらくスレッドが立てられません。
またの機会にどうぞ。。。
神も仏も名無しさん (1)
坐禅と見性第58章 二は二ではない一の如し
名前: 神も仏も名無しさん
E-mail: age
内容:
このスレの1章は、南予さんが、机龍之介さんアクセス禁止と、スレタイした、2chの掟破りのものだった。
禅は、来る者は拒まず、去る者は追わず、である。
スレの興隆は、時空のながれ。
遠くの山は、青く見え、旅に誘う。
あの青い山の向こうに、何があるのか。
白い雲は、山にかかると、さっと分かれて、又、元に戻り何事も無かった如く流れていく。
水も又、川面に顔を出している大石にあたると、さっと分かれてまた、もとの流れとなる。
行く雲、流れる水に、修行僧がたとえられるゆえんである。
縁があって、対話してきた章のつらなり。
1000章が、つぎのステップである。
坐が坐のまま、宇宙である、われら。
956 :
句:2008/06/10(火) 23:26:06 ID:mC1r6Vkr
法は存在とか言うぼったん教祖様ですからね、
神の絶対的お言葉の領域でしょう。
959 :
神も仏も名無しさん:2008/06/10(火) 23:32:16 ID:elioFbXZ
>>957 光陰矢の如し
と言いますね。決して光陰と矢は同一ではありません。
同一ではなくて二つの別々の概念であるからこそ「如し」と言えるのです。
互いに異なる二であってはじめて二つのものは一の如し、といえるのです。
同一のものであれば、一の如しとは言えません。
960 :
神も仏も名無しさん:2008/06/10(火) 23:33:52 ID:elioFbXZ
>さとりは、二は二ではない、一の如しです。
などという出まかせはどこから出てきたのでしょうか
>>959 名無し さん
>
>>957 > 光陰矢の如し と言いますね。決して光陰と矢は同一ではありません。
> 同一ではなくて二つの別々の概念であるからこそ「如し」と言えるのです。>
> 互いに異なる二であってはじめて二つのものは一の如し、といえるのです。>
> 同一のものであれば、一の如しとは言えません。
如しについて・・・
理解(りげ)と、言います。
>>960 名無し さん
> さとりは、二は二ではない、一の如しです。
> などという出まかせはどこから出てきたのでしょうか
へこまそうという意図でしょうが、的を外してますよ。
禅は、やはり、さとりを求めます。
サア、俺を納得させろ!と、わたしに求めても、わたしからの、答えはありません。
冷暖自知、
自分で、知れと、禅は、言います。
963 :
神も仏も名無しさん:2008/06/10(火) 23:43:59 ID:9xUP9bRK
そこは 禅定を重ねて「心頭滅却すれば火も亦た涼し」
の境地にならないといえないなー
964 :
神も仏も名無しさん:2008/06/10(火) 23:56:22 ID:elioFbXZ
>>961 >理解(りげ)と、言います。
それが何か?
965 :
神も仏も名無しさん:2008/06/10(火) 23:59:36 ID:elioFbXZ
>>962 へこまそうなどという意図はありません。
>自分で、知れと、禅は、言います。
自分で知ったことを言っています。
ポッたんさんも妄想や聞きかじって誤解したことなどではなく、本当に知っていること、
理解したこと、体験したことを話してくれることを望みます。
966 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 00:01:58 ID:elioFbXZ
>>963 禅定を重ねた結果、禅定は悟るためのプロセスのほんの一部の助けにはなりうるが、
禅定そのものは悟りではないという結論を得ました。
967 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 00:07:22 ID:MLx0GhD3
そうですか。
釈迦は禅定したまま悟りを開かれましたがね。
冷暖自知ということが見性体験だといいたかっただけですよ。
ぽったんは一如しかしらんからな。
969 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 00:14:27 ID:FAL+cw2q
>>967 >禅定したまま悟りを開かれましたがね
このことからも禅定が悟りではないことが分かります。
「禅定したまま」悟りを開いたのならば、悟りを開く前から禅定状態だったということです。
やはり、禅定は悟りではありません。
そして禅定の結果として悟るわけでもありません。
袈裟を着たまま悟りを開いたからといって、袈裟が悟りであるとか、袈裟を着ることで
悟ることができると考える人はいないでしょう。禅定もかくの如し。
970 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 00:23:33 ID:MLx0GhD3
これは 悟りというのがどの程度のものかによるね。
見性を極めて仏を体で体現するのか。
仏向上をいうのか。
971 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 00:27:18 ID:FAL+cw2q
冷暖自知という言葉がお好きな方がいますが、
今時分が悟りに達している人にとっては、なるほど冷暖自知は可能でしょう。
しかし未だ悟ることのない凡夫であれば、悟りのなんたるかも、どうすれば悟りに至るかも「自知」
できません。だからこそ、論理的で具体的な説得力のある道標が必要なのです。
泳げないで困っている人を無理やり海に放り込んで「自分で泳ぎ方をさとれ」と言っても
意味がありません。運よく自分でコツをつかむこと(稀にそれで禅定まで至る人はいるかもしれませんが)
ができなければ、溺れ死ぬしかありません。まあ禅の修業とはそういうものかもしれませんね。数撃ち当たるで、
たまたま禅定に至るまで修行僧を何人も何人も海に放り込み続けるのでしょう。そしてそこには悟りは
ありません。
永平寺でいくら厳しい修行をしても、下山した僧の多くは元の木阿弥と聞きます。
972 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 00:31:21 ID:MLx0GhD3
禅は面白いですよ 達人ならば修行者に境地を述べさせて
禅病につながるものならば即否定する。
そういうのを発見するのも一興かと。
973 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 00:37:58 ID:FAL+cw2q
>>972 そうですね、禅は面白いです。達人の立居振る舞いの美しさ、荘厳さ、威厳も
とても立派なものですし、達人の修行者を導く能力もすばらしいものです。
ですが禅定は悟りではありません。
974 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 00:38:54 ID:MLx0GhD3
それからね あることを止めて次の段階に移るときはね
必ずステップアップしたときだよ。上が下を兼ねているから。
元の木阿弥ってのはより力強く仏の力を受ける方法を習得したってこ
だと思うよ。
975 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 00:42:38 ID:w2LWNFxk
>>975 名無し さん
ありがとうございます、<(_ _)>
感謝します。
978 :
素人A:2008/06/11(水) 07:01:38 ID:KsBingDy
一の如しとは? 一の如しという円の中に123がある
ということか?一の如しの表現が一や二等色色に分かれて
見えるということですか?
??頭まだ起きてないので出任せ、いや手まかせ。
979 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 12:17:53 ID:6Lsge8CN
論理と、理論の枠の中にいる内は、多分ムリ。
悟りは、経験。
キリストの救いも。
仏教の悟りも、論理を、超えた処に存在する。
それは、分別を、超えたところ、です。
理論上を、いくら探しても、それは、ムリな事。
理論上の、計らいが、ゆきずまる事は、当たり前の事。
それが『精神疾患』
980 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 12:23:34 ID:6Lsge8CN
論理の上を、歩き回っている時は。自由が無い。
人生には、制約がある。
「生死の問題」を解決すれば「自由」が手に入る。
永遠の『今』を、生きていると言う事。
永遠の命の獲得となる。
火にも焼けないもの、となれる。
981 :
素人A:2008/06/11(水) 13:22:16 ID:KsBingDy
分別を超えたところ?
達磨は中国に行きませんでしたの玄沙言葉出た。
何か飛び出したけど???感じだけだ。
ええい思い切って恥かこう。あとわからん
982 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 15:41:34 ID:FAL+cw2q
>>979 どうしてかくも論理を軽視するのだろうか。
古い仏典を読めば、非常に論理的に書いてあるのに。
禅で不立文字というのを経典や論理の軽視と勘違いしたのかなあ。
>仏教の悟りも、論理を、超えた処に存在する。
>それは、分別を、超えたところ、です。
>理論上を、いくら探しても、それは、ムリな事。
一体どのようにして、そんな「論理を超えた」ようなものごとをあなたは知ることができたのですか?
>>971、
> 永平寺でいくら厳しい修行をしても、下山した僧の多くは元の木阿弥と聞きます。
そんな馬鹿な。一秒に一秒の変化(進歩)。
下山した何人の僧の、何年目のデータをもとにして書き込んでいる?
「停滞」「後戻り」、ありもしない。
984 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 17:43:59 ID:FAL+cw2q
>>983 > 下山した何人の僧の、何年目のデータをもとにして書き込んでいる?
実は直接知っているのは一人だけす。
肉も食らえば、酒も飲み、高級な腕時計をし、高価な服を着、贅沢をしています。
およそ永平寺の質素な生活からはかけ離れています。
その彼が、「他の僧も似たり寄ったり」と。
これは実態とは違うのでしょうか?
> 「停滞」「後戻り」、ありもしない。
だとよいのですが。
それとも進歩というのは霊妙なもので、外からは分からないが内側では確実に
徳があるのでしょうかね。そのような微妙な徳ならばあってもなくてもあまり
変わらない気もしますが。
私のイメージする修行者の姿とはかけはなれていますし、
宗派への畏敬というのは、僧侶の行動・姿で判断されてしまうのは
当然のことのように思えますが。
道元禅師と、永平寺で修行に励んでおられる僧侶や、下山しても静謐な生活をし、
修行に打ち込んでおられる僧侶は大変尊敬いたします。
>>978 素人A さん
一の如しは、結論です、結果です。さとりです。
一の如しであると さとるのです。
答えは、すでに、わかっています。
答えは、問いの中にすでにある、と小学生の時の先生は、言う。
坐のままで30メートル先の炎を吹き消せ。
>>981 素人A さん
> 達磨は中国に行きませんでした、の玄沙和尚の言葉が出た。
問う、祖師再来意? でしょうか?
>>985 そうしたい欲望、
苦を取り除けってこと。
無我、
さすれば心の煩悩の炎は消えるのだ。
>>987 名無し さん
>
>>985 >
> そうしたい欲望、
> 苦を取り除けってこと。
> 無我、
> さすれば心の煩悩の炎は消えるのだ。
無茶振り、です・・・
989 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 18:28:07 ID:FAL+cw2q
>>985 > 坐のままで30メートル先の炎を吹き消せ。
を少し考えて見ましょうか。
炎は煩悩の例え、つまり我執でしょう。
それを吹き消すことは、悟りを意味する。
30メートル先の炎を吹き消すにはどうすればよいでしょうか。
近づいていって吹き消せばいいのです。
「座ったまま」吹き消そうと無理なことを考えてただ座るばかりなのが、
座禅を誤解した者です。
座るだけでは悟れないということを教えてくれる公案なのではないでしょうか。
炎を消すのに、吹き消すのではなく、燃え尽きるのを待つ方法もあります。
どれくらい時間がかかるでしょうか。
燃え尽きる前に自分の命が尽きなければよいですが。
>>989 名無し さん
公案は、論理では、通れません。
991 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 19:06:28 ID:MLx0GhD3
30m先に火があるだと?
ここにあるではないか!
禅定というのは見性を体験することではありません。
自己を見つめることです。
992 :
素人A:2008/06/11(水) 19:10:15 ID:KsBingDy
中国 インド 生 死 枝分かれる前の枝や幹も全部が自己。
やっぱり柏の樹は法の樹か。悟りも迷いも幹は知らんが、
枝の部分ではあれやこれや情報おおすぎてまとまらないか。
私何か飛び出すとこれこれですの頭がすぐ理屈付ける。座禅しよう。
993 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 19:30:54 ID:FAL+cw2q
>>990 > 公案は、論理では、通れません。
その根拠は?
どうも論理軽視の軽薄な印象を受けます。
論理の通らないものは、単なる戯言でしょう。
994 :
素人A:2008/06/11(水) 19:49:50 ID:KsBingDy
もしロウソクの公案 10年とたつても通らなかったら
師匠30メートル先からロウソク持ってくる。
フウッやっと消えた。師匠言う、おまえには負けた。
そんな人は居ない。
995 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 20:18:06 ID:dXZZB1yp
黙って歩いていって消してはどうか?素人ながらこのスレ
を読むに213さん始め多くの方がそれを示唆してるのでは?
師に歩いたと詰められれば、私は歩いたが深い所で
私達はそこにいたと言えばいいし、何も言われなければ、
そんな事より飯、トイレ、寝床が
欲しいと言えばいい。
名詞という錯覚を超えて、流転に入って
その中心に入れば片手の音も音の前に聴けるんじゃ。
つか、公案の悟りって稲妻みたいな、でも完璧な静けさ
は得られるんでしょうね。中心までいけるかは
自分にはわからん。ただ、中心を一度確認すれば
元の木阿弥とはならないと思う。明日に希望あって
そのままでハッピーなら坐る必要ないし、そうでないなら
死ぬとかいう前に確かめておく意味で坐る価値も公案も
アリかなと思う。思う、、、思うことが表面だって
確認したら、少しは喜怒哀楽に間合いがとれてくる??
996 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 20:19:45 ID:MLx0GhD3
>>994 こら もう座禅終わったのか 集中力がたりんぞ
>>993 論理の先に求めるもの
それを求める動機を
もう一度思い出されてみては?
997 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 20:23:01 ID:6Lsge8CN
論理を、超えるは、飛び越しです。連続ではない。
心を、見つめて、その連続の、線の上には無い。
心を、凝らす事、計らう事、悩み、苦しむ事。
その事で『自我』が、ギブアップする事。
又、悩みの元は、『それ』の仕業。又、不安の種も『それ』の仕業。
『それ』は、人間に埋め込まれたもの。
誰にでも在るもの。
燕が、誰に教わらなくても、目的地を知っている事。と同じ事。
クモが、習わなくても、クモの巣を作る。
人間にも、同じように備わっているもの。自覚でき難い。
それは、自我に対する、『もう一つの意識』
人間に、元から備わっているもの。
悩みの症状「罪悪感、業、不安、恐怖、」これらは、自我を、
『それ』が導こうとしている事。自分の存在を、アピールしている事。
自我と『それ』の意識の違いが、上記の『圧迫感』
『それ』が、自我を圧迫します。その圧迫が「人生苦」「精神疾患」
精神疾患、人生苦は、『悟りを開く事で』全てが、解決する。
お釈迦の、教えは『精神療法』完璧な『心理学』
『自分の性』を見る事で、自我と「それ」の、対立と矛盾が解消する。
そこに至って、絶対の安心の、獲得となる。それが、『涅槃』
998 :
神も仏も名無しさん:2008/06/11(水) 20:32:28 ID:MLx0GhD3
悟りを開いてそれで終わりなら釈迦は名を残していません。
悟りを開くことで釈迦は何をやったのか?
それが本当に大切なことではないでしょうか。
>>992 素人A さん
> 中国 インド 生 死 枝分かれる前の枝や幹も全部が自己。
> 柏の樹は
自己!
>>994 素人A さん
> もしロウソクの公案 10年とたつても通らなかったら 師匠30メートル先からロウソク持ってくる。
一如、ですよね。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。