【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】

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1神も仏も名無しさん
真実信心について語りあうスレです。
(※特定の団体個人を叩くのは他の専用スレで)
2神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 15:38:42 ID:b8Uai8Go
ttp://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1191756120/763

私も学問沙汰に偏りがちなチンピラだけど、文証、理証がなきゃ危ないと考えている。
度海難みたいなのは昔からウヨウヨいたわけで。

>この文をのせた意味は信を得た行者は還相回向の菩薩ですから有縁もしくは
>十方衆生(すべての生類)をも願いの願によって(十八願)済度できますよ

お東!?
往還分斉が安心論題に入ったように、それについて西は神経質だよ
3神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 15:42:54 ID://SVLT0h
>>1
「親鸞会の人と渡海難は出入り禁止」って書けよ。
4神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 17:27:11 ID:sWQrX/Ix
よろすこ1乙

前スレ>>762さん
うおー、ありがとうございます。
もういっかい味わってみたいと思います。
5神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 17:31:31 ID:sWQrX/Ix
700代で500Kオーバーなんてあまりなかったから思わずアク禁かとおもたよ
6神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 18:47:46 ID:b8Uai8Go
>>4
該当部分を貼っておきます

教行信証講義録 P124
その次に何がでておるか。
 『仏説諸仏阿弥陀三邦三仏薩楼仏檀過度人道経』(大阿弥陀経云二十四願経ト云)言「第四ニ願ズラク……終不作仏(真聖全二・六頁)
 異訳の経を引いて助顕なさる。この異訳の文を引かれるところに、ちょうど第二十の願にあたるような文がそこ
にあるというのが、古人の解釈の中にあるのです。これから後の文が『平等党経』の阿闡世太子について説かれた
文も引いてあるが、その中に宿善というて第二十願の意味がそこにでておるという。それでそこが二つのものの考
え方になる。なぜかというと、二十の願というものを宿善という。二十の願を宿善とみるみ方は、「化巻」 の第二
十の願の解釈のところにもその意味がでてくるのです。
 「化巻」の上で、もし第二十の願を宿善とみるみ方があるとすれば、これは宿善分斉であってまだ本当のものに
はなっておらん。熱しておらぬという簡びの文である。こういう意味で第二十の願の程度ではまだ宿善であるとい
う。それを通らねばだめかというと、そういうことをいうたのではなくして、宿着分斉であるということは、まだ
本当のものではないという簡びである。「簡去」 の意味でいうたのである。そうすると「行巻」のこれから後の異
7神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 18:48:33 ID:b8Uai8Go
>>6続き

訳の文の中に、この第二十の願の意味にあたるものがでてくる。後に偈文がでてくるでしょう。ずっとその後に、
称名破満の前のところ、『悲華経』の前のところに短い偈文がでてくるでしょう。そこに宿善の意味がやはりでて
くるのです。それで阿闍世王太子のことがそこへでておる。そういうものをこめて宿善だという。これで宿善まで
も大行のおんはたらきだといういい方が昔の人の中にあるけれども、これはやはり区別する簡びである。宿善分斉
のものとは違うぞという簡びである。こういうみ方と二つになっておるのです。いま大行の場合の十八厭の行者の
口にのぼってくる念仏は、名号がそのままでてきておる。即名号のものであって、第二十の願の宿善分斉の程度の
ものとは違うぞと、やはり簡びの意味である。このように、宿善までも名号のはたらきであるとみる一つのいい方
と、いやそんなことではなくて、あれは区別するためであるといういい方と二つありますので、私達が昔からやっ
てきたのでは、これを簡びとみるのです。区別である。「化巻」と同じょうに区別とみるのである。それが出体釈
と対照する。こういうふうにみてゆくのです。これをみんなはいろいろ末註を調べて、自分自分で考えてもらいた
いと思う。自分で研究をして多いに議論をたたかわせてもらうところまでいってもらわねばならぬ。引文のところ
は自分自身で科段をきってくるのだね。先年(昭和四十四年)再版したあれ(研讃集記)の中に科段がきってありま
すから、あれを持っておる人はそれをみる。持っておらない人でも、誰かにみせてもろうて、あの科段を一遍みて
ごらん。科段は昔我々がやった科段そのままなので、あれでみてもらう。その上でそれぞれの末註をはみて、それで
自分の考えを練ってくる。そうして、それを高祖の釈で結ぶ。こういうことをしてゆかねはならん。
8神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 19:05:05 ID:sWQrX/Ix
おおー、ありがとうございます。m(_ _)m
全部読んで咀嚼してから返事を、と思いましたが
時間がかかりそうなので、簡素ながらとりあえずレスしときます。
9神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 20:40:12 ID:QMTYgEX4
法然上人と善導大師が夢で邂逅したらしいという記事は選択集にある。
(和語灯や漢語灯にあるのかも知れないけど、ちょっと探し出せない)

選択集 後序
就中、毎夜に夢のうちに僧ありて、玄義を指授す。僧とはおそらくはこれ
弥陀の応現なり。しかればいふべし、この『疏』はこれ弥陀の伝説なりと。
いかにいはんや、大唐にあひ伝へていはく、「善導はこれ弥陀の化身なり」
と。しかればいふべし、またこの文はこれ弥陀の直説なり。すでに「写さ
んと欲はば、もつぱら経法のごとくせよ」(散善義)といふ、この言誠な
るかなや。仰ぎて本地を討ぬれば、四十八願の法王(阿弥陀仏)なり。十劫
正覚の唱へ、念仏に憑みあり。俯して垂迹を訪へば、専修念仏の導師(善
導)なり。三昧正受の語、往生に疑なし。本迹異なりといへども化道これ
一なり。
ここに貧道(源空)、昔この典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を識る。立
ちどころに余行を舎めてここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至る
まで、自行化他ただ念仏を縡とす。

>そうですよ夢の話せすよ、ですが実際は夢ではなく昼間でもご対面されていたと聞いてます。

その夢が選択集の記事を指しているなら、「 就中、毎夜に夢のうちに僧ありて」とあるように昼間じゃない。
また、
「 ここに貧道(源空)、昔この典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を識る。
 立ちどころに余行を舎めてここに念仏に帰す」

とあるように、廻心は善導大師からの面授ではなく、観経疏を被閲することが縁となっている。
10神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 20:42:24 ID:QMTYgEX4
後序じゃねー!後述だった
11渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/24(月) 22:02:21 ID:ZM1iCuvS
 化身土を考える   顕浄土方便化身土文類六 (本)
 無量寿仏観経の意 至心発願の願 邪定聚機 双樹林下往生
阿弥陀経の意なり 至心回向の願 不定聚機 難思往生

 化身土巻では、浄土の方便すなわち化身と化土とを顕す。化身・化土は、無量寿仏観経と阿弥
陀経の世界である。
 仏教は対機説法である。無量寿仏観経は人々に双樹林下往生を勧める。双樹林下往生は第十九
願、至心発願の願成就による。無量寿仏観経は邪定聚機を説法の相手方にしているのだ。
 阿弥陀経は人々に難思往生を勧める。難思往生は、第二十願、至心回向の願の成就による。阿
弥陀経は不定聚機を説法の相手方にしている。

 観無量寿経は人々を九品に区別する。善導は人々を定善の機と散善の機の二つに区別した。親
鸞は正定聚機と不定聚機と邪定聚機とに区別した。正定聚機と不定聚機と邪定聚機のような分類
は親鸞以前になく、文字通り親鸞に始まる親鸞のオリジナル独創の考え方である。
 
 「念仏なんかいやだ。おれはおれで好きな道を行くんだぁ」と、人の話にろくすっぽ聞く耳を
持たず、腹が邪(よこしま)に定まってしまっている人には、浄土教は観無量寿経を説く。彼ら
には、至心発願の願が誓われている。阿弥陀仏は双樹林下往生による救いを考えている。
 念仏に腹が固まっているんわけじゃないが、仏陀の言葉を素直に聞こうといって、心に自由さ
のある人には、浄土教は阿弥陀経を説く。彼らには、至心回向の願が誓われている。不定聚とは、
念仏を勧められれば称えるが、勧められないと称えない人である。阿弥陀仏は難思往生による救
いを考えている。
12渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/24(月) 22:03:03 ID:ZM1iCuvS
 正定聚は、他人から念仏しなさいよと言われなくても、自分から自主的に念仏を称えていく。
矢が飛んできても、鉄砲が飛んできても、「わしゃ絶対に念仏を称えるんじゃ」というところに
はらわたが固まっている。これを金剛の信心という。はらわたはダイヤモンドのように固くなっ
ている。彼らには、至心信楽の願が誓われている(信の巻)。阿弥陀仏は難思議往生による救い
を考えている。

 「念仏なんかいやだ。おれはおれで好きな道を行くんだぁ」。このように腹が邪(よこしま)
に定まってしまっている人には、なぜ至心発願が誓われ、観無量寿経が説かれているのか。観無
量寿経が説かれている意味、説かれている意義は何か。化身土巻(本)の前半ではそれを明らか
にしている。

 念仏に腹が固まっているんわけじゃない(不定)が、仏陀の言葉を素直に聞こうといって、心
に自由さのある人、このようなには、なぜ至心回向の願が誓われ、阿弥陀経が説かれているのか。
阿弥陀経が説かれている意味、その意義は何か。化身土巻(本)の後半ではそれを明らかにして
いる。

 至心発願の願が誓われ、邪定聚機に勧められている化身土と、至心回向の願が誓われ、不定聚
機に勧められている化身土とは、相違がある。一方は双樹林下往生で到達し、他方は難思往生で
到達する。
 両者を混同すると話は混乱する。もともと、正定聚機と邪定聚機と不定聚機とを区別するとい
う思想は親鸞以前にない。ここは親鸞の独壇場、まさに親鸞思想の親鸞思想たるゆえんのところ
である。親鸞の独創的オリジナル思想である。親鸞はその思想を、親鸞以前の人々の言葉で技巧
的に説明しようとしているから話がやや分かりにくい。しかし、原理が分かれば難しい話ではな
い。
 親鸞の考えを教行信証から聞いていこう。
13渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/24(月) 22:06:53 ID:ZM1iCuvS
 2,3日 カキコ不能
14渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/24(月) 22:15:12 ID:ZM1iCuvS
>11 (補充)
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1191756120/727
 のレスに回答しています。
157:2007/12/24(月) 23:34:34 ID:dUpoObBJ
新スレありがとうございます。みなさんよろしくお願いします。
16神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 23:39:57 ID:On/hXkCr
真宗の妙好人って凄いよな。
17298:2007/12/25(火) 00:45:02 ID:EfZrtciz
前スレ>>743
このスレを見るだけでも、難信之法であることがわかり、
疑情の存在もわかると思います。
「親鸞聖人は釈尊の説かれたことをそのまま説かれた」
このことには、厳密な意味での文証などありません。
しかし、私の心は、そう認識しました。今でもそうです。
私は、真宗の教えは、文字通りの「真宗」であり、
釈尊出世本懐の教えであると思います。
私がそう思うだけですから、信じる必要はありません。
説得の必要も無いお話ですから、釈尊は物証を残しませんでした。
7様が同じ様に感じるなら、宿善の行者である可能性があります。
今はまだ、無人空きょうの沢にいるのでしょう。
そこを抜けて、白道に足を踏み入れてください。
御文様が西を教えてくださるでしょう。
18298:2007/12/25(火) 00:57:34 ID:EfZrtciz
前スレ>>757
私も昼間のご対面について聞いています。

前スレ>>747
以前も書きましたが、法然上人が善導大師の書によって
信を獲たなら、どうしてその行(善導大師の書を読む行)を
選択されなかったのですか。
それは、信を穫るきっかけです。
源左様が念仏行者か、私は知りません。
念仏行者ではなくても、素晴らしい方はいます。
2chで信を穫るわけではありませんが、
たとえば2chのこのスレをきっかけに、
信を穫る方が出て来る可能性はあります。
既に、御文様をご自身で読んでいる方もおられます。
御文様は、宿善のある凡夫が読めばわかるようにと、
蓮師のそのような願によって書かれたものです。
次第相承のありがたさがわかります。
方便は、次々と積み重ねられてきているのです。
法蔵菩薩様がご修行されたように、蓮師が、我らのために
ご聖典を繰り返し読み込んでくださいまして、ご製作くださったものです。
19298:2007/12/25(火) 01:03:40 ID:EfZrtciz
前スレ>>745
727の私の書き込みは、
「(ただ口に称える念仏でも)念仏すれば誰でも化土往生できる」
のような主張をされている方に対してのものです。
ですから、遠慮がちに書いています。よく読んで下さい。
源信讃の左訓ですが、あなたは化土往生した方が、
いずれどうなるかご存知ですか。
他宗他派の誹謗を避けておられるのです。
20神も仏も名無しさん:2007/12/25(火) 01:27:45 ID:ceMlmeTp
>>17
”学問上”で言えば、歴史的な釈迦は大乗経典を説いてはいない。
だが、すべての大乗経典は歴史上の釈迦が説いたか否かで真実性が決まるのではない。
そこに釈迦の明かそうとした真実が有るか否かがすべてなのだ。
これは歴史上の釈迦の教えを学問的に規定すれば、ある程度は立証できるだろう。
そこから先は信仰の問題だな。

私も真宗は諸仏如来の出世の本懐であろうと思うよ。
21神も仏も名無しさん:2007/12/25(火) 01:33:35 ID:ceMlmeTp
>>18
>以前も書きましたが、法然上人が善導大師の書によって
>信を獲たなら、どうしてその行(善導大師の書を読む行)を
>選択されなかったのですか。

そりゃ、観経疏に
「一心専念弥陀名号行住坐臥不問時節久近念念不捨者是名正定之業順彼仏願故」
と書いてあったからだよ。
法然上人は、それ以前にも善導大師の書は目を通していたが、自分には耐えられない行だと素通りしたそうだ。
(たしか和語燈だったかにのっているらしい)

>源左様が念仏行者か、私は知りません。

因幡の源左さんは妙好人として超有名な人だよ。
ttp://www.hokuriku.ne.jp/genkai/115myoukounin.html

>2chで信を穫るわけではありませんが、
>たとえば2chのこのスレをきっかけに、
>信を穫る方が出て来る可能性はあります。

きっかけの話をしていたの?
私は「2chで信が穫れることはありません」を2chという場、縁によって
信を獲る人はいないと読んだんだけど。

前のスレで何度か書いたけど、法然上人や源左さんについては、
学問的探求で信を獲る人や、牛に阿弥陀仏の慈悲を見いだす人もいる証拠として出したんだ。
「2chでは信を獲られない」「学問的探求では信を獲られない」等々の計らいはおかしいと思う。
22298:2007/12/25(火) 01:41:48 ID:EfZrtciz
>>21
>「2chでは信を獲られない」「学問的探求では信を獲られない」等々の計らいはおかしいと思う。

2chで信を穫れると思う方は、2chで穫れば良いですし、
学問的探究で信を穫れると思う方は、学問的探求で穫れば良いと思います。
しかし、私はそのような道は知りませんから、私にはアドバイスができません。
2chで信を穫りたい方、学問的探究で信を穫りたい方は、
21様に聞かれたらよろしいのではないでしょうか。
私が知っているのは、本願の道、南无阿彌陀佛です。
それ以外の道を否定しているわけではありません。
私には、むずかしいというだけです。
私のような方で、易行の門をくぐりたい方に、お話させていただいております。
易行の門は、100発100中で、凡夫が生涯一度の行で信心決定するのです。
だからこそ、不可思議であり、不可称であり、とてつもなく素晴らしいものであり、
こうして私もお伝えしたいと思うのです。
23神も仏も名無しさん:2007/12/25(火) 01:42:11 ID:ceMlmeTp
>>19
>他宗他派の誹謗を避けておられるのです。

その文の主語は親鸞聖人?
だとしたら意味がわからない。

>源空讃
>「専修のひとをほむるには 千無一失とをしへたり 雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ」

>万不一生の左訓には「万に一人も報土に生れずとなり」とあり、万人に一人も「報土」には往生できないの意なんだね

和讃というのは他宗他派へ向けて書いたものではなく、専修念仏のともがらへ向けたものでしょ
他宗の学僧向きに書かれた教行信証に遠慮はないよ
24神も仏も名無しさん:2007/12/25(火) 01:46:09 ID:ceMlmeTp
>>22
結構

蓮如さんに関係する文で、
学問を理解できない人にはやさしく、学問の好きな人には学問的に法を伝えよ
という具合のものがあるそうだ(出拠を確認しなくちゃいけないんだけどね)

私も私のできることをするだけだね
後は阿弥陀さんが、おはからいくださると思う
25298:2007/12/25(火) 01:51:42 ID:EfZrtciz
>>23
私は、選択集にも、教行信証にも、たくさんの遠慮があると思います。
遠慮があるから、意味がよくわからなくて、多くの方が苦しまれているように
思います。
ズバズバそのまま書けたら楽ですが、そうは行かないのです。
親しくお話いただけた、身近な方には、わかりやすく話してくださったことでしょう。
26298:2007/12/25(火) 04:14:17 ID:EfZrtciz
>>2
弥陀の救いに、西も東もありません。
釈尊も、御開山も、蓮師も、西も東も関係ないのです。
今では、「真宗」も「御同行」も、広い意味になってしまいました。
ですから、真実行を教えてくれるところに行き、
真実信心獲ている方に近づくことが大切です、と私は言いたいと思います。
27298:2007/12/25(火) 04:49:04 ID:EfZrtciz
>>15
選択集の後述が話題に出ていますが、そこには次のようにあるのです。

◎それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡とす。
しかるあひだ希に津を問ふものには、示すに西方の通津をもつてし、
たまたま行を尋ぬるものには、誨ふるに念仏の別行をもつてす。

ぜひ、「希に津を問ふもの」「たまたま行を尋ぬるもの」になってください。
とにかく、御聖典は自分で読む事です。
選択集全文の中で、唯一ここの「別行」だけが、意味が違うのです。

>>9
「ほぼ」の意味はわかりますか。また、私が引いたところの
「希に」「たまたま」の意味はわかりますか。
それに、「毎夜に夢のうちに僧ありて」というのは、
善導大師が見ている夢のことですよ。
28神も仏も名無しさん:2007/12/25(火) 19:10:34 ID:ceMlmeTp
>>25
>私は、選択集にも、教行信証にも、たくさんの遠慮があると思います。

具体的には?
遠慮なしの典拠として

化巻
ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。
しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて
邪正の道路を弁ふることなし。
ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽の院と号す、諱尊成]
今上[土御門の院と号す、諱為仁]聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。
これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、
猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜う。

一番、痛烈なのはここだろう。
戦時中は墨を塗ることになったしね。
29神も仏も名無しさん:2007/12/25(火) 19:38:53 ID:ceMlmeTp
>>26
お東の教学では信後の行者は還相の菩薩であり、
信を獲て後は浄土の菩薩として振る舞うべきだそうだ。
これは清沢満之以降の東の教学らしい
文証としては
「浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、
心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。」
らしい。
しかし、西ではこれを断章取義的であり、宗祖の文を読み違えていると否定している。
(これ以前にも信後は還相の菩薩とする異解はあったのかもしれない…善知識だのみの系統で)

他にも清沢満之以降の東は口称念仏を必要なし(というよりしちゃダメのようだ)としたり、
現生往生説の結果として、来世の浄土を説かない傾向があるらしい。
(伝聞であり、実際にどこまでその傾向があるのかは確認していないが)
30神も仏も名無しさん:2007/12/25(火) 19:54:36 ID:ceMlmeTp
>>27
>「ほぼ」の意味はわかりますか。

先哲の言葉を探してくるよ。

>「希に」「たまたま」の意味はわかりますか。

親鸞聖人の「たまたま」であれば規定できるけど(億劫にも得難し)
法然上人の「たまたま」については、ちょっと出しかねる。

>それに、「毎夜に夢のうちに僧ありて」というのは、
>善導大師が見ている夢のことですよ。

これは痛恨(苦笑)。
たぶん選択集講義の最終回で、ここの夢について教わったんだけど、
法然上人夢想記とゴッチャになったようだ
31神も仏も名無しさん:2007/12/25(火) 19:56:03 ID:ceMlmeTp
西方指南書『法然上人夢想記』 真聖全四 P130

或夜夢にみらく、一つの大山あり、その峯きわめて高し、南北ながくとおし、西方にむかへり。
山の根に大河あり、傍らの山より出でたり、北に流れたり南の河原眇々としてその辺際を
しらず、林樹滋滋として、そのかぎりをしらず。ここに源空、たちまちに山腹に登りて、は
るかに西方をみれば、地より已上、五十尺ばかり上に昇りて、空中にひとむらの紫雲あり。
以為、、何れの所に往生人あるぞ哉。ここに紫雲とびきたりて、わがところにいたる。希
有のおもひをなすところに、すなわち紫雲の中より、孔雀・鸚鵡等の衆鳥とびいでて、
河原に遊戯す。沙をほり濱に戯ぶるこれらの鳥を見れば、凡鳥にあらず、身より光をはなち
て、照耀きわまりなし。そののちとび昇りて、本のごとく紫雲の中に入り了。ここにこの紫
雲、このところに住せず。このところをすぎて北にむかうて、山河にかくれ了。また以
為、山の東に往生人あるに哉、かくのごとく思惟するあひだ、須臾にかへりきたり
てわがまへに住す。この紫雲の中より、くろくそめたる衣着たる僧一人とびくだりて、わ
がたちたるところの下に住立す、われすなわち恭敬のためにあゆみおりて、僧の足
のしもにたちたり。この僧を瞻仰すれば、身上半は肉身、すなわち僧形也、身よりしも
半は金色なり。仏身のごとく也。ここに源空合掌低頭して、問うてまうさく、これ誰人の来
たまふぞ哉と。答えて曰く、われわこれ善導也と。また問うてまうさく、なにのゆへに来たまふ
ぞ哉。また答えて曰はく、余不肖なりといえども、よく専修念仏のことを言す。はなはなもて貴
とす。ためのゆへにもて来たれる哉。また問うて言さく、専修念仏の人みなもて往生を為す哉と。
いまだその答えを受けたまわらざるあひだに、忽然として夢覚め了。
32梯和上の論文「法然教学の研究」収録:2007/12/25(火) 20:05:20 ID:ceMlmeTp
第一章 法然聖人における回心の構造
第一節 回心の時期と機縁
 法然聖人(一一三三一一二一二)の決定的な回心が承安五年、四十三歳のときであったということは、最も古層
に属する伝記の『源空私日記』 (法然上人伝全集・七七一頁) をはじめ 『本朝祖師伝記絵詞』 (法然伝全・四七三頁)、
『行状絵図』 (法然伝全・二四頁)などの伝記叛から、良忠の『伝弘決疑鈔』二(浄全七二一三頁)等にいたるまで、
殆どが一致して伝えているところである。もっとも覚如の『拾遺古徳伝』 (法然伝全・五九八頁)は承安五年、四十
二歳としており、『元亨釈書』 (法然伝全・九八七頁)の「法然伝」は承安四年四十二歳としているが、これらとて
も承安五年四十三歳説をくつがえすほどのものではない。また愚勧住信の『私東百四線集』 (法然伝全・九八五頁)
には三十三歳回心説がでていて、これに注目する人もあるが、私はやはり承安五年四十三歳説に従っておく(1)。
 もちろん法然の長い念仏聖としての求道的な生涯の問には、宗教経験の深まりによる展望の開けや、教学的、思
想的な深化と展開は、回心以前にもあっただろうし、以後もありつづけられたことであろう。ことに「選択」とい
う法然教学の中核になる用語を導入して、選択本願念仏という独自の教学体系が確立するのは、少くとも五十歳を
過ぎておられたと考えられるが、それについての考察は今は省略する(2)。
 ところで法然の決定的な回心を成立させたのは、直接的な師弟の面授によるものではなかった。『阿弥陀経釈』
(古本『漢語灯』三・古典叢書本・二六頁)に、
 爰於善導和尚往生浄土宗者、錐有経論、无人於習学、錐有疏釈、无倫讃仰。然則无有相承血脈
 法、非面授口決儀。唯浅探仏意、疎窺聖訓、
(ここに善導和尚の往生浄土宗においては、経論ありといえども習学する人なし、疏釈ありといえども、
 讃仰するたぐいなし。しかればすなわち相承血脈の法あることなし、面授口訣の儀にあらず。
 ただ浅く仏意を探り、まばらに聖訓を窺う)
といわれている通りである。それゆえ決定的な智解は生じ難く、仏祖の遺訓の真意を了解することができず、苦心
の求道を余儀なくされたといわれている。それだけにまた最終的には善導に依りながらも、善導教学を超えて、極
33その2:2007/12/25(火) 20:06:08 ID:ceMlmeTp
めて独創的な教学体系をうちたて、深遠な宗教的領域を開示されるに至ったのである。毘沙門堂の明禅が『述懐
抄』 (『行状絵図』四十一・法然伝全二六〇頁)のなかに、『選択本願念仏集』を評して「むかしも今もこの義を立つ
る人なければ、失たるべくば人にすぐれたる失たるべし、徳たるべくぼ人にすぐれたる徳たるべし、ゆめゆめ普通
の義に准ずべからず」といって、そのすぐれた独創性を讃嘆しているが、そのような法然教学を支えているもの
は、いうまでもなく法然の甚深なる宗教体験であった。
 法然の回心に決定的な影響を与えた書物について、前掲の『阿弥陀経釈』や『選択集』後序(真聖全「九九三頁)
には、善導の『観経疏』であったといわれている。すなわち『選択集』に、
 於是貧道昔披閲茲典粗識素意立舎余行云帰念仏自其已来至于今日自行化他唯縡念仏
といわれているが、「茲典」とは『観経疏』をさしていた。
 ところが諸種の伝記によると、次のような五説に分類できるほど異説がみられるのである。第一は、天台の荊渓
湛然の『止観輔行』の「諸経所讃多在弥陀」という常行三昧の釈下の文であったとするもので、『本朝祖師伝記
絵詞』(法然伝全・四七三頁)、増上寺本『法然上人伝』(法然伝全・五八七頁)の説である。第二は、源信の『往生要
集』であったとするもので、『元亨釈書』法然伝(法然伝全・九八七頁)がそれである。第三は、広く中国の曇鸞、
道綽、善導、懐感、我が国の源信によるとするもので、『源空私日記』 (法然伝全・七七〇頁)の説である。第四
は、『往生要集』を先達として、追給、善導の釈義にいたり、ついに善導の釈によって回心されたとする、『醍醐
本法然上人伝記』 (法然伝全・七七三頁)、『知恩講私記』(法然伝全・一〇三六頁)、『拾遺古徳伝』 (法然伝全・五九六
頁)、『法然上人伝(十巻伝)』 (法然伝全・六六一貫)等がそれである。第五は、直ちに善導の『観経疏』によると
するもので、『黒谷源空上人伝 (十六門記)』 (法然伝全・七九六頁)、『徹選択集』 (浄全七・九五頁)等がそれであ
る。
34その3:2007/12/25(火) 20:14:13 ID:ceMlmeTp
 すでにみたように、法然自身が『観経疏』に依ったといわれているのだから、そうみるべきだが、しかしそこに
至るまでには『往生要集』が先達の役割をはたしたことは充分考えられるから、正確には第四説のように見るべきあろう(3)。


(1) 梶村昇『法然』(八七頁)
(2) 石井教道編『法然上人全集』序(七貢)、大橋俊雄 岩波日本思想大系十五・法然・一遍解説(四〇六頁)参照。
(3) 田村円澄は『法然上人伝の研究』(九四〜一〇三頁)に、法然の念仏門帰人という個人的な精神的変革の上に教団組織
   上の意図を反映し、浄土宗の独立開宗を主としてみるものは、回心の機縁を『観経疏』とし、天台と妥協的な法然像を措
   いて弾圧に対応しょうとした人々は『往生要集』を先達としたとみているといわれている。

>>31
ここの法然上人と善導大師の邂逅は「或夜」のことだ
このあたりが面授の出拠ととなっているのだろうか?
しかし、この場面で廻心したとは読み取れない。
善導大師は法然上人の最後の問に答えていないからね。

>>32-34
で、梯和上の論文を調べたら、こんな具合。
廻心については諸説あるようだ・・・
経蔵であるとばかり思っていたけど、思い込みはいかんね。
35神も仏も名無しさん:2007/12/25(火) 20:30:22 ID:ceMlmeTp
>>31
もう一つ言えば、この文面からは夢を見たのが廻心前とも廻心後とも断言できない。

廻心後に善導大師に聞きたくて仕方のなかった事を質問したのかも?
36神も仏も名無しさん:2007/12/25(火) 20:37:34 ID:ceMlmeTp
また書き方が不味かったな

>廻心後に善導大師に聞きたくて仕方のなかった事を質問したのかも?
 ↓
廻心後に善導大師に念のために確認したい事を聞いたのかも
37神も仏も名無しさん:2007/12/25(火) 22:14:51 ID:z6Z93ntf
ありがとう!
38神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 01:02:14 ID:ScfmZmQl
以下は元親鸞会の人へ
本願寺に木像本尊が置かれた時期について

「浄土真宗の本尊論」 永田文昌堂 梯和上『浄土教学の諸問題』下巻収録
P235
ところで、専修寺に伝承する順証上人(高田派第七世)の書状によると、覚如上人の晩年に、
大谷(本願寺)が、宗祖の影像を「かたはらへ移し」て、そのほかに、阿弥陀如来像を立てようとしたことがあったらしい。
  一定専傍(坊)主の時、大谷の傍主、御みゑひをかたはらへうつし申候て、本だうに
  は阿みだを立申候べきと候しを、定専さいさん御申そうろうによつて、うちをかれ
  て候に、いま又かやうに御はからい候間、せん師の御申のごとく歎申候へども、御
  もちひなく候いかやうに候べきやらん。だんがう申たく存候。専空傍主も大谷のか
  かる大事をば御申あはせ候けるとも承候間、その御いしゆをそむき候はじと令申候、
  諸事期後信候、恐々謹言
十月廿日 順証(花押)
惣門徒の御中へ 申給へ
  (『本願寺史1』P186)
というのがそれである。本堂に「阿弥陀を立」てようとしたというのだから、
おそらく木像であったと思われる。絵像や名号ならば「かけ」ようとしたというべきだからである。
すなわち高田派の専空上人(第四世)や定専上人(第五世)のころから、本来親鸞聖人の御影を安置すべき祖廟である
本願寺が阿弥陀如来像を立てたいと要請してきたわけだから、要請したのは覚如上人であろう。しかし門徒が同意し
なかったので「うちをかれて」いた。今また同じことを主張してきたので拒否したが、大谷本願寺は聞き入れてくれな
いので、総門徒中にはかりたいというのである。
康永二年(一三四三)になくなった専空上人のころ、すでに本願寺で本尊安置が提案されたとすれば、覚如上人時代に
あたっており、そのあとをうけた定専上人は貞治四年(一三六四)七月まで高田に住しているから、覚如上人の晩年から
善如上人時代にかけて、この問題がしばしば論義されたことがわかる。順正は康暦二年(一三八〇)四月から明徳元年
(一三九〇)六月まで高田に住した人であるから、この書状に書かれているように、本願寺が強引に阿弥陀如来像を
安置したのは、覚如上人の孫で本願寺の第四世となられた善如上人の晩年から第五世綽如上人の時代のことだったと
みられている。
39その2:2007/12/26(水) 01:02:49 ID:ScfmZmQl
このようにして、おそくとも本願寺第五世綽如上人治山のはじめごろまでには、本願寺に木像本尊が安置されるよう
になったと考えられる。しかし『慕帰絵詞』十に、毫摂寺の創草をのべる中に「尊下(覚如)の存日より或は画像を丹青に
顕し、或は木像を彫刻せしめて、居所の洛中にしても渇仰し、管領の城外にも安置す」(『慕帰絵詞『真聖全』3・P811)
といわれているから、覚如上人は、たとえ本願寺に木像を安置することはできなかったとしても、門弟に絵像や木像の
依用を許可されていたことは事実である。

P243
八 蓮如上人の本尊観
蓮如上人(一四一五-一四九九)の本尊論は、覚如上人系を伝承し、光明本を依用されることはなかった。大谷本願寺には、
おそくとも綽如上人時代には、木像の本尊が安置されていたことはすでに述べたが、蓮如上人の父存如上人(第七世)の時代
には、御影堂に対して阿弥陀堂が建立され、そこには木像が安置されていた。やがて蓮如上人が建立される山科本願寺の阿
弥陀堂にも、当然、木像の阿弥陀如来立像が安置されたわけである。

『真聖全5』P629 実悟師 『山科御坊事 並其時代事』
「やがて阿弥陀堂も立ちましましけり。三間四面に、四方に小縁、東方の前には六尺の縁也。向はさましやうじ、しとみの
ごとくに常の諸堂のごとし。左右の脇は唐さま、これ又諸堂のごとし、さまにほり物あり。(名失念)木像本尊(安阿作)今の如し。
左方(北)太子絵像(讃如常 蓮如御筆)、六高僧御影。右(南)法然聖人一尊御影(讃如常 蓮如御筆)

上の資料から読み取れること。
まず本願寺は親鸞聖人の廟所として出発した(その痕跡は現在の本願寺にも阿弥陀堂より御影堂が大きい事として残っている)
そして覚如上人はその廟所を守る墓守である留守職だった。
その聖人の廟所が、ある時点から真宗の拠点寺院となったのね。
で、これは自然にそうなったのではなく、覚如上人が意識的に努力して墓から寺へと発展させた。
おそらく「御みゑひをかたはらへうつし申候て、本だうには阿みだを立」てたのもその一環だろう。
そして実悟師が示されるように蓮如上人も山科本願寺に安阿作の木像を立てたというわけ。
40298:2007/12/26(水) 02:05:04 ID:LIGKLF8P
>>28
>具体的には?

両聖人が遠慮して書かれたことを、私がはっきりと書けるはずがありません。
素直にご聖典を読めば、わかると思いますが・・・
文証と言うほどでもありませんが、「この文どものこころは、おもふほどは申さず、
よからんひとにたづぬべし」などの表現から、汲み取ってください。
ここにも「たづぬ」とあるでしょう。>>27にも「問ふ」「尋ぬ」とあるでしょう。
御文にも出てきます。「他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひた
づねて」
これでわからぬなら、やはり、教学をされるしかないのでしょうか。
残念なことです。
南无阿彌陀佛
41298:2007/12/26(水) 02:20:19 ID:LIGKLF8P
>>17
誤解を招くかもしれない書き方だと思ったので、自分で補足します。
前スレ>>743にて、7様がおっしゃっている通りです。
>自分も親鸞聖人は釈尊が説かれたことをそのまま説かれた方だという前提が浄土真宗だと思っています。
>「さらに珍しき法をもひろめず」この聖人の言葉が全てではないでしょうか?

私も同じ思いです。私にとっては、これで十分です。
「独創性」とかに、私は興味がありません。
祖師の方々も、あくまで正統であろうとされたと思います。
ただ、このような言い方では、納得しない方々が多いだろうとは思います。
「考え方が違う」「感じ方が違う」としか、言いようがありません。
ですから、「信じる必要は無い」と申し上げたのです。
説得しようとも、思っていません。
私は、私と同じ様に感じる方に、弥陀の真実信心をいただいて、
生きながらにして、極楽往生治定してほしいと願っているだけです。
42神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 05:33:20 ID:NmZbDYRh
前スレ
>746
ABを合わせれば信心正因・称名報恩となる

へぇへぇへぇ(古)すごく勉強になります。

S会退会者です。
おとといから「おきて」が気になってしかたなかったので、昨日「蓮如五帖御文」(細川行信 ほか著)という
御文章の現代語訳本を本屋で見てきました。

その中にずばり「掟章」というのがあり、やはり「自分が弥陀をたのんだからといって、他宗派の人を批判してはいけない」「世間の義務はちゃんと果たしなさい」
というのが書いてありました。
他の仏教宗派を批判すると、お互いに仏法をそしる「謗法罪」を犯してしまうことになるから、だそうです。
ものすごく納得しました。

S会で聞いていたころは「自分こそがしょうもない人間だという自覚があるのに、なぜ『邪教』を破る、なんて偉そうなことを言わないといけないんだ?」とか、「親や友人に心配かけるのはよくないはずだよなあ?」
ということを考えていたのを思い出しました。

みなさんのおかげで真宗に対する誤解をといてもらっています。
ありがとうございます。横入りお邪魔しました。
43神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 12:43:52 ID:khNLVM7d
私としては、思わせぶりで惰性で聞かせるうちに洗脳させるような
勧誘の手口は親鸞会でこりごりなので、はじめから腹の内を見せて
少々あやしかろうが、思いの丈をぶちまけてくれる方が全然信用して
あげようと思うよ。あなたのいう救いって何?って疑問を毎回先延ばしにさせて
毎回似たような話ばかり、言いたいことは分かったからという顔をすると
まだ分かったとは言えない、自分で言えるようになって他人に教えるくらいに
ならなければ分かったと言えない、などといって、話している内容は
どっかで聞いたような話ばかり、とんちのきいた教訓話で退屈をまぎらわすのが
関の山。で何年もいて誰も救いの正体がわかってない。救いの理論のようなものを
信奉するだけで、その実証性は高森先生が握っている。
高森先生に誉められれば、救われたかような錯覚に陥り喜び、
しかられれば、まだまだダメだと落ち込み、まわりから懺悔を要求される。
認可を与えられると、尊大になって、わがままのし放題、法を欲に任せて説いて懲りない。
これが善知識だのみの集団がおちいる弊の様相だろう
44神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 16:03:05 ID:6fAMFXbD
>>27
さて「ほぼ」「希に」「たまたま」

   ここに貧道(源空)、昔この典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を識る。立
ちどころに余行を舎めてここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至る
まで、自行化他ただ念仏を縡とす。しかるあひだ希に津を問ふものには、
示すに西方の通津をもつてし、たまたま行を尋ぬるものには、誨ふるに念
仏の別行をもつてす。これを信ずるものは多く、信ぜざるものは尠なし。
まさに知るべし。浄土の教、時機を叩きて行運に当れり。

まず「ほぼ素意を識る」だが、これは「最重要の意を汲むことができた」だろう。
最重要の意とは雑行を抛ち正行に帰せば往生できるという要点である。
それは「ほぼ」の後に
 「立ちどころに余行を舎めてここに念仏に帰す。
 それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡とす。」
と書いてあることから読み取れる。
素意を識って「たちどころに」念仏に帰し、「それよりこのかた」…つまりその時点から
「今日に至るまで」選択集の後跋を書く時までそれは変わっていない。
つまり、そこで識った素意によって決定心を獲たのではないだろうか?
ここで「ほぼ」に漏れた素意とは梯和上が書かれたところの「選択」という
教学体系あたりかもしれない。
45神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 16:03:49 ID:6fAMFXbD
次に「希に」「たまたま」
これは宗祖の「億劫にも得難い」の「たまたま」とは意味が違う。
それは以下の文意から読み取れる。
  それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡とす。
  しかるあひだ希に津を問ふものには、
示すに西方の通津をもつてし、たまたま行を尋ぬるものには、誨ふるに念
仏の別行をもつてす。これを信ずるものは多く、信ぜざるものは尠なし。
まさに知るべし。浄土の教、時機を叩きて行運に当れり。
(意訳)
経蔵で廻心した後から今日に至るまで、念仏のみを自から行じ他に化導してきた。
その廻心から今日に至るまで、私の所へ希に彼岸への道を問う人には西方浄土への船を示し、
たまに仏道の行について質問しに訪れた人には格別の行である念仏を教えた。
私の教えたことを信じた人は多く、信じなかった人は少なかった。
これによって知ることができる。浄土の教えは時期相応であるのだ。

つまり、この文脈での「希」も「たまたま」も「廻心後から今」の間の時期を意味している。
法然上人に教えを受けに訪れる人が「まれに」「たまに」いたのだろう。
(実際、和語灯や漢語灯にそういうエピソードは結構残っている)
親鸞聖人の「たまたま」は億劫の過去を経て、たまたま、遇うことができたあり得ない縁の
希少性を示すものであり、「廻心後〜今」という狭い範囲、希少性とは明らかに違う。
46神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 16:18:16 ID:6fAMFXbD
追加 ここでの
しかるあいだ=それだから。それゆえ。

  それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡とす。
  しかるあひだ希に津を問ふものには、

だからこの文は
 自行化他は念仏を専らとし、それゆえ、「まれに」私の所へ道を聞きに来た人には
 西方浄土・念仏の教えを示した。
となるわけね。

>>29であげたお東の文証間違ってた
たぶん、即得往生関係の文が正しい
具体的にはどこか今わからない
47神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 16:42:02 ID:6fAMFXbD
>>40
>両聖人が遠慮して書かれたことを、私がはっきりと書けるはずがありません。
>素直にご聖典を読めば、わかると思いますが・・・

・・・・・・・・わるいけどそれじゃ度海難と同じと言われても仕方ないよ
それがあなたの曲解でないと論証しなければ。

>文証と言うほどでもありませんが、「この文どものこころは、おもふほどは申さず、
>よからんひとにたづぬべし」などの表現から、汲み取ってください。

唯信鈔文意の最後でしょ?
聖人が「唯信鈔は良い本だから読んでください」と勧めたら、
関東の同行から「唯信鈔は難しいから解説本を書いてください」と依頼が来た。
で、書かれたのが唯信鈔文意だけど、はっきり言って唯信鈔より難しいぐらいになってしまった。
それは、その紙幅を費やして書かれた唯信鈔文意の総決の文。
  「この文どものこころは、おもふほどは申さず、よからんひとにたづぬべし」
この意は一般的に
「唯信鈔の文について、もっと書きたい事があるけど書ききれません。
これ以上は浄土の教えについて詳しい人に聞いてください。」
と読まれる。

>>32の梯和上の論文にあるとおり、よき人が縁となることが多いだろう。
でも、私はそれ以外の縁もあるのだと思うよ。

>やはり、教学をされるしかないのでしょうか。

それは阿弥陀仏にはわかっても、私やあなたにわかるものじゃない。
わかるとしたら往生成仏してからだろう。
48神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 16:58:52 ID:6fAMFXbD
書いてから中西智海師の「唯信鈔文意講讃」を確認
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・むぅ

この文どものここころは、おもふほどは申さず、よからんひとにたづぬべし。
ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし。

「おもふほど申さず」とは、『観経』の一念十念に真仮があり、今は顕説のことは略して実義
を示されたということである。「よからんひとにたづぬべし」とは、浄土の教えをよく知っている
善知識に訪ねることを勧めておられる。「ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし」と
は、この隠彰の実義は顕説のように急には得られない深妙な教えであるから、推しはかるべしと
自省を求めておられるのである。

前節までの
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中除八十億劫生死之罪」
についての解説のつづきで隠顕のことは略したのが文意らしい。
・・・・もうちょっと調べる

聖教を読む上で気をつけないのは自説を補強する文言を探し、正確に読み取らないことだ。
わたしもポカを時々やらかすから、自分を教学的にはチンピラだと認識している・・・・
49神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 17:09:29 ID:6fAMFXbD
>>42
信心正因・称名報恩説について明確に打ち出したのは覚如さんからだよ
(もちろん信心正因・称名報恩説は親鸞聖人にも見られる)

蓮如上人もそれを受け継いだけど、御文章を年代順に並べると力点に変化があるということ。
50298:2007/12/26(水) 17:51:01 ID:dmtAUCjt
>>47
>・・・・・・・・わるいけどそれじゃ度海難と同じと言われても仕方ないよ
>それがあなたの曲解でないと論証しなければ。

残念ですが、「論証」まではできないのです。
同じと思われてても結構、曲解と思われても結構でございます。
もちろん、求めている方の誤解は解かねばなりませんが、
説得するようなものではございません。


>>やはり、教学をされるしかないのでしょうか。
>それは阿弥陀仏にはわかっても、私やあなたにわかるものじゃない。
>わかるとしたら往生成仏してからだろう。

歎異抄第12段を読んで下さい。
ちょっと聞いてピンと来なければ、ご聖典を読み込んで、
なんとか御心を知ろうとすることになると思います。
それでもわからないなら、私に何ができましょう。
解説本ばかり読んでも、間違えるばかりです。
わからなくても、ご聖典を読んで下さい。
このとき、御文様は、凡夫が読んでもわかるように書かれたものですから、
私はまず御文様をおすすめするのです。
往生成仏してから、ということであれば、その道を歩まれたらよろしいと
思います。
ひとりひとりの道ですから、それを否定しようとは思いません。
私は、平生にて極楽往生治定したい方、弥陀の十八願に救われたい方、
凡夫直入の近道を実際に体験したい方、そして、弥陀の報土に往きたい方に、
お話しているのです。
51298:2007/12/26(水) 18:12:51 ID:dmtAUCjt
>>42
ご自分でご確認されることは、本当に大切なことだと思います。
諸説入り乱れている中、正信に辿り着くのは、至難の業。
ご聖典を伝えてきてくださった方々に、心より感謝申し上げる次第です。
南无阿彌陀佛
52神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 20:20:47 ID:vgzJAb3U
>>50
>歎異抄第12段を読んで下さい。

「学問しなきゃ信を獲られないというのは間違いだ」
当たり前であるし、学問しないと信を獲られないとは私も言っていない。
また、12帖には学問が直接間接の縁となって信にならないとも書いていない。
ただ、学問が縁となり信に結びつく人もいるということを言いたいだけ。
(でなければ法然上人の廻心は偽物ということになる)

>このとき、御文様は、凡夫が読んでもわかるように書かれたものですから

室町時代の民衆にわかるように、ね。
古文という壁があったりして、正確に読むのは難儀する・・・
残念ながら、現にあなたは(そしてわたしも)聖教を少し読み違え、振り回してしまった。
(選択集の「たまたま」とか「希に」とかね)
53神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 20:41:24 ID:vgzJAb3U
>>50
>往生成仏してから、ということであれば、その道を歩まれたらよろしいと

ん?

>御文にも出てきます。「他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて」
>これでわからぬなら、やはり、教学をされるしかないのでしょうか。

この文章って、善知識に訪ねる以外の道は学問しかないのだろうか?
という疑問じゃないの?
私は善知識に訪ねる以外の道にどんなのがあるのかは、阿弥陀さんしか知らないと思う。
阿弥陀仏の願いがどういうかたちではたらいているか、それは凡夫にはわからんでしょう。

昔法話で聞いた話。
ある先生がある生徒について語った。
その人は放蕩な父親に悩まされ怨みを抱いていて育った。
しかし、その家庭の事情が元で真宗の教え救いを求め、
聞法し、やがて阿弥陀仏の願いを喜ぶ念仏者になったそうだ。
それからしばらくして彼の悩みの種であった放蕩な父は死んだ。
その葬式の場で先生は、生徒である彼から
「父は私の善知識でした」
と告白された、真宗学の先生は「うーん」となったそうだ。
彼は続ける
「あの父であったからこそ、私は真宗に縁を結ぶことができたのです
 あの父であったからこそ、私は念仏を喜ぶ身にさせていただいた
 怨みを抱いてきましたが、今は父が還相の菩薩であったのだと思います」
先生は
「君がそう思うのなら、きっとそうなのだろう」
と答えたそうだ。

学問的には彼の理解は否定することも肯定することもできる。
できるがどちらもそれは野暮な話だ。間違いなく彼にとって父は善知識であったろうさ。
54神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 22:19:54 ID:vgzJAb3U
彼の理解を学問的に否定する人がいるなら、私は苦言を呈するだろう。
彼の理解を学問的に肯定する人がいるなら、私は少しだけ異論を言うね。
学問的には彼の阿弥陀仏の導きに対しての味わいを否定も肯定もできが、そんなもの糞食らえだ。

同じく「善知識を尋ねる以外に阿弥陀仏と遇う可能性はない」と断言し、
阿弥陀仏のおはからいを計らうような人には苦言を呈するだろう。
55「妙好人のことば」より因幡の源左さん:2007/12/26(水) 23:35:32 ID:aEmhPiF/
 妙好人としたわれた源左という人がいました。
 本名は足利喜三郎といいましたが、一般には通称の源左衛門、略して源左でとおって
おりましたから、いまもそうよばせていただきましょう。
 彼の生涯と、その言行については、民芸の権威者であった柳宗悦氏と、源左の檀那寺
の願正寺の現住職である衣笠一省師とによって、源左ゆかりの人々から聞き集めた言行
録が『妙好人、因幡の源左』という書物としてまとめられ、昭和三十五年に出版されて
います。
 源左は鳥取県の浜村温泉に近い気多郡山根村(今日の青谷町山根)という山合いの小
さな村に生れ育った根っからのお百姓で、文字は読むことも書くこともできなかったと
いわれております。
 源左は、天保十三年四月に、山根村の善助の長男として生れ、昭和五年二月二十日に
八十九歳の高齢でなくなっております。
 彼が仏教を本気で聞くようになったのは、十八歳のときに父がコレラでなくなったの
が機縁だったといわれております。その年、安政六年は、全国的にコレラが流行し、何
十万人とも知れぬ人々が死んでおります。六連島のおかるがなくなったのは、その前の
コレラの流行のときでした。
 源左は、父に代って祖父の忠三郎、祖母のスナをやしない、母のチヨをたすけて、弟
や妹たちを養育していくことになりました。もともとまじめでよく働く若者でしたが、
父を失ってからは、ことにその勤勉と孝心は人々の称讃のまとになり、翌年、領主から
表彰されたほどです。
 しかし父の一周忌をすませたころから、彼の心には人生の根源的な疑問が次第に頭を
もたげてきました。四十そこそこの若さでなくなっていった父は、死の直前に、
「おらが死んで淋しけりや、親をさがして親にすがれ」
といいのこしていました。わずか半日のわずらいでしたが、コレラ特有のはげしい下痢
と嘔吐の連続で、みるみるうちに脱水症状を呈し、おそらく全身をけいれんさせ、苦痛
にのたうちまわるような最後だったでしょう。その苦痛のなかから、わが子の永遠の将
来を案じながら、血をはくようなおもいでいいのこした善助の遺言は、やがて源左の心
に根づき、彼を開法にかりたてていったのでした。
「おらあ、十八の時、おやじに別れてのう。死なんす時『おらが死んで淋しけりや、親
56その2:2007/12/26(水) 23:36:40 ID:aEmhPiF/
をさがして親にすがれ』 っていわんしてのう。親がなあなってみりや、世間は狭いし、
淋しいやら悲しいやらで、おらの心はようにとぼけてしまってやぁ。それから親の遺言
を思い出して、どっかでも親をさがさにゃならんと思って親さがしにかかってのう。
『親をさがせ』ちたって、どこにおられるむだらか、『親にすがれ』ちったって、どが
なふうにすがるかわかりやせず、おらもなんばこそ親さんに背をむけたり、捨ててしま
ったりしたこっか、わからんだいのう。御本山にもさいさい上らしてもらってのう、し
かられたり、どまかされたりしたいのう。むつかしいむつかしいって、わがむつかしゅ
うすっだけのう」
 後年、源左は棚田このにこのように語っております。突如としておそいかかってくる
死のおそろしさ、そして死んだら一体どうなっていくのだろうかという、まるで間のな
かをのぞくような不安が、ひたひたと心に迫ってきたのです。父親は「親をさがせ、親
にすがれ」といったが、どうしたら真実の親にあえるのか、親にすがるとはどうするこ
となのか、源左は手次の寺の願正寺をたずねて、住職の芳瑞師にいくたびもいくたびも
問いただしました。しかし聞いても聞いても何の解答もみいだせなかったのです。
真実の親さまとは、阿弥陀如来である、親さまにあうとは、その本願を信じ、念仏す
ることであり、親さまにすがるというのは、この身も心も、生も死も、そっくりそのま
ま親さまにおまかせすることである、と聞かせていただいて、頭のなかではわかったつ
もりで、やれやれそうであったかと思っていると、あるとき、ふっと心にしのびよるえ
たいの知れぬ不安におびえて、また何もかもわからなくなってしまうことがしばしばあ
りました。いてもたってもおれなくなって、夜中にとびおきて願正寺の門をたたき、夜
を徹して芳瑞師にききただしたこともありました。わざわざ京都までのぼって、そのこ
ろ学徳兼備の名僧として有名だった原口針水和上に、一週間ばかりつきっきりで問いた
だしたこともあったようですが、しかし一向にらちがあきませんでした。
 そんな、もんもんとした不安とあせりに心がいられるような日々が十年あまりもつづ
きました。そして三十歳を過ぎたある夏の朝のことです。源左はいつものようにまだ夜
57その3:2007/12/26(水) 23:40:19 ID:aEmhPiF/
の明けきらぬうちに、牛をつれて裏山の城谷へ朝の草刈りにいきました。朝日がのぼ
るころ、刈りとった草を幾つかにたばね、それを牛の背にのせて帰るのですが、みんな
のせたら牛がつらかろうというので、一把だけは、自分が背負って帰りかけました。と
ころが疲れがでたせいか、急に腹がいたんでどうにもならなくなったので、背負ってい
た草のたばを、牛の背に負わせました。自分は、すーっと楽になったのですが、その瞬
間、心が開けたのです。
 「ふいっとわからしてもらったいな」
と源左は後々まで語っております。
 おれが背負っていかねばと、きぼっていた草のたばを、牛の背にまかせたとたんに、
手ぶらになった自分は、うそのように楽になったのです。そのとき、私のこの生と死の
すべてをしっかりと支えて、「お前の生死は、すべてこの親が引きうけるぞ」とよびつ
づけていたまう阿弥陀如来のましますことを、全身で「ふいっと」気づかせてもらった
というのです。
 自分の意識や思想をつきぬけて、私の生命の全体が、途方もなく大きな如来の御手に
いだかれ、支えられているという、広々とした如来の大悲の御はからいの働く領域を実
感せしめられたのでした。
 源左は家へもどるなり、草も鎌もなげすてて願正寺の芳瑞師のところへ飛んでいって
お領解をのべたら師は、
「源左、そこだ」
といって一緒によろこんでくださった。彼は、
「ああ、ここだやぁと思って、世界が広いやぁになって、ように安気になりましたいな
不思議なことでござんすがやぁ」
と木下みよに語っております。このことがあってから、源左には親様と相談しながら生
きる新しい人生が開けていったのでした。


(源左さんは後にその牛を「自分の善知識だった」と語ったそうだ)
(もちろんそれまでの聞法も縁だったのかもしれないが、彼にとっては牛が善知識となった)
58神も仏も名無しさん:2007/12/26(水) 23:59:06 ID:6zkwBWQ2
「親」で思い出したけど
親鸞会発行の「正信聖典」に載っている信心数え歌
昔は華光会発行の「仏教詩歌集」(伊藤康善 編著)と
同じ文面だったのに、今は変えてあるんだよな

六ツ 
(旧)真実大悲の親さまとは → (新)真実大悲の御方とは
八ツ
(旧)親さま泣かせていたことは → (新)弥陀仏泣かせていたことは

ttp://homepage3.nifty.com/keko-kai/books/sikashu.htm


59298:2007/12/27(木) 00:34:07 ID:OKoj+Yky
>>52
>残念ながら、現にあなたは(そしてわたしも)聖教を少し読み違え、振り回してしまった。

どこを指して誤読とおっしゃっているのですか。
勝手に決めつけないでください。
そんなに、有縁の方を誤解させたいのですか。
それに、善知識には、広い意味も狭い意味もあるのです。
広い意味では、ご縁となったすべてのことを指して善知識と言います。
しかし、その話しを聞いて、求めている方が救われますか。
救われるためには、次第相承の善知識に逢うことが肝要です。
もちろん、それ以外の道もありましょうが、それは、「真実信心」という
このスレの趣旨とは異なるものです。
あなたは、何のために書き込んでいるのですか。
異論があるから、何なのですか。
では、救いへの道を、あなたは示せますか。
私は、正信求める方に、救われて欲しくて書き込んでいるのです。
あなたは信を獲ていないのでしょう?
それであれこれ言っても、自障障他になるだけです。
ご聖典に、ハッキリと書いてあるではありませんか。
60298:2007/12/27(木) 00:40:19 ID:OKoj+Yky
渡海様にせよ、最近多く書き込んでいる方にせよ、
真宗は、一体どうなってしまったのですか。
難しい理屈など、どうでも良いのです。
(もちろん、理屈っぽい方も弥陀は救います。
ですから、理屈も有ります。しかしそれは、あくまでも、疑い深い
理屈っぽい方にご縁をつけるためのものです。
素直に信じられる方には、必要ありません。)
実際に、弥陀の救いにあって、平生にて極楽往生することこそが
肝要です。
偉そうなこと、立派なことをいくらたくさん言っていても、
弥陀に救われないなら、いたずら事です。
自分が救いへの道を知らないことすら認められない「チンピラ」など
いません。「知っている」と思っているはずです。
61298:2007/12/27(木) 00:43:06 ID:OKoj+Yky
>>53
>>往生成仏してから、ということであれば、その道を歩まれたらよろしいと
>ん?

わかりませんか? 「往生成仏してから」というのであれば、
私が書いている「平生にて極楽往生したい方」という対象外になるのです。
大体、信決定もしていないで、どうして往生成仏できると思っているのでしょう。
つくづく自障障他な方です。
62298:2007/12/27(木) 00:59:16 ID:OKoj+Yky
上記60、61ですが「平生にて極楽往生治定」が「平生にて極楽往生」となっていました。
お詫びして、訂正致します。
63神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 01:02:16 ID:JMF8BubN
>>59
>どこを指して誤読とおっしゃっているのですか。
>>27
>>45-46
「ほぼ」「希に」も「たまたま」も、あなたの思うような意味では法然上人はお使いになっていないだろうね。

>救われるためには、次第相承の善知識に逢うことが肝要です。
>もちろん、それ以外の道もありましょうが、それは、「真実信心」という
>このスレの趣旨とは異なるものです。

だから法然上人や源左さんは?
彼等が真実信心に遇わなかったと?

>では、救いへの道を、あなたは示せますか。

求道することだ。
近くの寺へ聞法しに行く道も、2ちゃんねるで質問することも、よい本を求める道も、
檀家寺の坊主に聞く道も、全国各所にある真宗の学問を教えているところへいく道も、
大都市のカルチャーセンターなどでやっているセミナーへ行く道もある。
どこで善知識に遇うかなど凡夫にわかるものか?

>私は、正信求める方に、救われて欲しくて書き込んでいるのです。

私も同様だ。

>あなたは信を獲ていないのでしょう?
阿弥陀仏の広大なおはからいを、そうだなあそうだなあ、とありがたく思っているよ。
(思っているからこそ、それを計らう者には胡散臭さを感じる)
と、言ってもそちらは信用すまい・・・。
私の領解を他人からどう思われようと何とも言わない。
ついでに言うと、わたしはあんたが信を獲ているか否かについても言わない。
それは阿弥陀さんが知っていることだからね。
64298:2007/12/27(木) 01:04:25 ID:OKoj+Yky
>>>>45-46
>「ほぼ」「希に」も「たまたま」も、あなたの思うような意味では
>法然上人はお使いになっていないだろうね。

私がどのような意味で解釈したと思ったのですか?
65298:2007/12/27(木) 01:07:48 ID:OKoj+Yky
>>63
>だから法然上人や源左さんは?
>彼等が真実信心に遇わなかったと?

源左さんについては、私は詳しく知りません。
真実信心獲ている方かも知りません。
あなた様のお話聞く限りでは、どちらとも取れます。
一般人には難しいとされている化土往生を達成された方かもしれません。
法然上人については、選択集にて選択されている行を調べてくださいと
申し上げました。
法然上人が真実信心獲ているのは、もちろんのことです。
66298:2007/12/27(木) 01:13:08 ID:OKoj+Yky
>>63
>阿弥陀仏の広大なおはからいを、そうだなあそうだなあ、とありがたく思っているよ。
>(思っているからこそ、それを計らう者には胡散臭さを感じる)
>と、言ってもそちらは信用すまい・・・。

そうおっしゃっているのですから、もちろん、そうなのだろうと思います。
しかし、それでも、それは真実信心ではありません。
あくまでも、自力の信であって、他力には会われておりません。
ですから、極楽往生は治定しておりません。
私が言っても信用されないかもしれませんが、
ご聖典と領解が合わないでしょう?
全スレ326に少し書きました。よろしければ、確認してみてください。
ピタっと、合いますか?
それに、選択集にせよ、御文にせよ、「求道せよ」と書いてありますか?
真宗を求めているつもりで、別の道にそれています。
何とか気付いてほしいと思います。
私からすれば、目を覚ましていただくには、ご聖典が頼りなのです。
67神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 01:17:49 ID:JMF8BubN
>>60
>偉そうなこと、立派なことをいくらたくさん言っていても、
>弥陀に救われないなら、いたずら事です。

反論はない
その通りだよ
(というか私は学問しなきゃ救われないなんて、ちびっとでも書いたかい?)

ただ
>(もちろん、理屈っぽい方も弥陀は救います。
>ですから、理屈も有ります。しかしそれは、あくまでも、疑い深い
>理屈っぽい方にご縁をつけるためのものです。
>素直に信じられる方には、必要ありません。)

聖教を自分勝手に解釈し、義を立て人を惑わす人間は昔からいた。
覚如上人は学問によって学び得た正理を改邪鈔に記し、それらを破した。
存覚上人は大学者で、初めての教行信証の解説書である六要鈔を記し、
また、当時隆盛だった日蓮法華宗と法論をやっている。
江戸時代でも同様に幾度も異安心が起こったが、かれらは己義を立て人を惑わした。
学者の役目は原典を正確に読み取り、原典に返り、己義にとらわれないように学び教えることだった。
(私は学問拙い「学問上のチンピラ」であって「信仰上のチンピラ」とは思っていない。信は阿弥陀仏から賜りたる名号の相だからな)

>>61
話がかみ合っていない。
正定聚になるのは当然現生だ。
しかし、浄土で成仏しなければわからなことは山ほどある。
あんたも私も仏じゃない。
68298:2007/12/27(木) 01:19:59 ID:OKoj+Yky
誤解されたくないですので、さらに申し述べます。
求道することが、悪いことだとは思いません。
おっしゃる通り、どこで善知識に遇うかなど凡夫にわかりません。
しかし、まず先に会わねばならないのは、多くの場合、
「信決定している人」です。
領解とおっしゃいますが、信を獲ていないことは
恥ずかしいことではありません。
凡夫直入の易行です。信を獲ることは簡単です。
善知識に逢うまでが難しいのです。
69298:2007/12/27(木) 01:24:01 ID:OKoj+Yky
>>67
>信は阿弥陀仏から賜りたる名号の相だからな

信を獲ていないのに獲ていると思ったら絶望的です。
ですから、「ご聖典と領解を合わせてください」と申し上げているのです。
まず何よりも、「みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解」がありますか?
私は、真宗に縁のある方には救われてほしいです。
70298:2007/12/27(木) 01:28:57 ID:OKoj+Yky
>>63
>>61
>話がかみ合っていない。
>正定聚になるのは当然現生だ。
>しかし、浄土で成仏しなければわからなことは山ほどある。
>あんたも私も仏じゃない。

私としては、かみ合っているのです。
「浄土で成仏してから、わかろう」とするということは、
極楽往生治定していることが、前提になっているはずです。
「自分は本当に弥陀に救われているのか?」
「本当に浄土に往けるのか?」
それを問うています。
浄土往生の因は、真実信心です。
往生すると思っているということは、信心獲ていると思っているはず。
思い込んでも、そうでないなら、どうされますか。
私が言っても詮無きことですし、掲示板上ですから
限界も多い。ですから、ご聖典で領解を合わせてみてほしいのです。
私としては、縁有る方には、1日でも、一刻でも早く弥陀に救われて、
真実信心いただいて、極楽往生治定してほしいと思っています。
71298:2007/12/27(木) 01:35:38 ID:OKoj+Yky
>>67
>(というか私は学問しなきゃ救われないなんて、ちびっとでも書いたかい?)

私もうまく書けないのですが、おそらく次善の策として、
学問されているのだと思っています。
つまり、教義上そう思っているということではなく、
ご自身の行動が実際どうなっているかということです。
(信をいただく方法がわからないので、教義上はともかく、
やむを得ず、学問されているように見えるということです。)
どんなに学が無いように見える方でも、真実信心獲ている方は
いらっしゃいます。
信心の沙汰をすれば、気付く方は気付きます。
どうかご縁にあってください。
72298:2007/12/27(木) 01:37:12 ID:OKoj+Yky
>>67
己の義を立てないために、次第相承が重要なのです。
私は、「学問が無意味」と申しているのではありません。
信を穫るためには役に立たないだけです。
73神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 01:37:14 ID:JMF8BubN
>>64
労力の無駄を避けるために、
まず、あなたの領解を書いてほしいとろだな

>私がどのような意味で解釈したと思ったのですか?

「ほぼ」は、経蔵では治定せず、その後、善導大師との夢での邂逅で初めて決定した、と解釈した
「希に」「たまたま」は親鸞聖人がお使いになる「たまたま」と同様に解釈した

>>65
梯和上の「妙好人のことば」に載っているよ(残り全文だしてもいい)
しかし、妙好人の話をしようというのに、源左同行のことを知らないなんておかしい。
ttp://www.google.co.jp/search?num=50&hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=%8C%B9%8D%B6%81@%88%F6%94%A6&btnG=%8C%9F%8D%F5&lr=lang_ja

>法然上人については、選択集にて選択されている行を調べてくださいと

阿弥陀仏が選択した行である第十八願の念仏。

>しかし、それでも、それは真実信心ではありません。

さあねえ?
それは阿弥陀さんにまかせているから、なんとも。

>ご聖典と領解が合わないでしょう?
>全スレ326に少し書きました。よろしければ、確認してみてください。

そこに書いてあることを教行信証の文によって教わったよ。
信文類には出体釈がない、とね。
また、三重出体によっても説明されるところだ。

もっとも、どうせあなたはそれを学問的に理解することと領解があうかは違うだろうと言うのだろうがね。
74298:2007/12/27(木) 01:41:42 ID:OKoj+Yky
>>73
>「ほぼ」は、経蔵では治定せず、その後、善導大師との夢での邂逅で初めて決定した、と解釈した

これは、「経蔵では治定せず」までは私と同じ。「その後」以降は違います。

>「希に」「たまたま」は親鸞聖人がお使いになる「たまたま」と同様に解釈した

「希に」「たまたま」は、極ふつうの意味です。
生涯において、幾度もある程度の意味です。
1年のうちにも、幾度もあるかもしれません。
しかし、それをおかしいと思いませんか?
法然聖人に問う方が「希に」というのは。
お念仏の話ばかりしているのですよ。

75298:2007/12/27(木) 01:43:13 ID:OKoj+Yky
>>73
源左様については、もちろん話しに聞いたことがありますが、
きちんと判断できるだけの情報を私が知らないというだけです。
化土往生された方なのか、報土往生された方なのか、わからないのです。
行としては、前者の方が難しいです。
76298:2007/12/27(木) 01:46:53 ID:OKoj+Yky
>>73
>>法然上人については、選択集にて選択されている行を調べてくださいと
>阿弥陀仏が選択した行である第十八願の念仏。

それを知っていて、どうして書を繰り返し読んで信を獲たと思うのですか?
第十八願の念仏にて信を獲たと思うのが当然ではありませんか?
法然聖人は、自らを「貧道」とおっしゃっているのですから、間違いありません。
凡夫直入の道を通られたはずです。
77神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 01:49:47 ID:JMF8BubN
>>68
「求道」という言葉が気にくわないなら「聞法の場へ足を運べ」と言い直すよ

>善知識に逢うまでが難しいのです。

では、これはこちらからのお願い。
源左さんについて調べて。

>>69
>まず何よりも、「みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解」がありますか?

領解文か…

 一、おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり、心得ぬと思ふは心得
   たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるな
   り。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば
   『口伝鈔』(四)にいはく、「されば、この機のうへにたもつところの弥陀の仏
   智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。

「弥陀の御たすけあるべきことのたふとさ」これに「たまたま」遇えた縁を慶んでいるよ。
78神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 01:57:53 ID:gaQ5wrxF
こんばんは、S会退会者です。
「おきて」や「領解文」「次第相承の善知識」などに興味がでて検索しています。
その中で、次の長文を見つけたのですが、この文章を書いた人は教えにかなっているのでしょうか、それとも間違っている(ズレている)のでしょうか?
みなさんの意見をお聞きしたいのです。

  領解文の意義

 初めに言い落としたが、西本願寺では「領解文(りょうげもん)」、東では「改悔文(がいけもん)」と言います。
改悔とは「間違っておりました」と悔い改める意味。領解というのは「このように受領し、理解しました」という事。
それを如来様、ご開山様の前で、はっきり口に出して言い切る。すると、未安心者は、ウソつきだと分かってきて、
心はいたたまれなくなって、言葉通りになろうとする。また獲信者も、誤りはないかと仏前に自分のお味わいを述べる。
その為に、ひとつの型をこしらえてくれたのが領解文であります。口で言っていても、そらぞらしい。お味わいも出てこない、
喜びも出てこない。なぜこんなこと言ってるんだろうかという気持ちさえ出てくる。声に出して述べていく事によって、
正しい道にしつけられてくるんです。
 口にすることは、責任がともなう。この世のことならウソも通せるが、臨終を今に取り詰めて、出ていく後生となると、
そうは許されない。そこで、この信仰告白の型を考えだして下さって、型にはめて型から出ていける様に、しかも早く、
そして間違わさんようにと、蓮如様が考えに考えて、これしかないという信仰の道のエッセンスを打ち出して下さったわけであります。
しかも、一同で出言するので、「われらが」となってますね。
79298:2007/12/27(木) 01:58:06 ID:OKoj+Yky
>>73
>もっとも、どうせあなたはそれを学問的に理解することと領解があうかは違う
>だろうと言うのだろうがね。

もちろん違いますよ。御文様は凡夫のために書かれたものです。
領解が合わないことも、わかりませんか・・・
自説に固執するのは、致し方ありませんが、一枚起請文にも、ある通り、
学文は信を穫る上では役に立ちません。
どんなに学んでも、すべて無駄です。
それがわからなければ、第十八願の信は穫れません。
信をいただけば、「本当に何もいらなかった。易行だった」とわかります。
「みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解」も、無いわけでしょう?
まずご自身が信を獲れば、その教養も生き、学文されている方に
わかりやすくお話できるかもしれませんし、
有縁の方の後念相続にも、役に立つのではないかと思いますが・・・
80神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 01:59:10 ID:gaQ5wrxF
つづきです。

   安 心

ところで、「自力の心をふりすてて」とか、「今度の一大事の後生御たすけ候へとたのみもうして候ふ」という。
その「ふりすてて」というのも、なんか自分で捨てるようだし、「たのみもうして候ふ」というのも、自力でたのむようである。
けれども本当に聞かせていただいたら、そうしか言われなくなる。そこまで言葉と体験とを一つにしなさい、というお心が背後にあるわけです。
断言してはばからん。「私は、おかげさまでいただきました。救われました」と。ところが、そんなこと言ったらおこがましいとか、
晴れがましいとか、自慢たらしいとか思う人がいるでしょう。でもそんな遠慮は人間的な事であって、いよいよ後生となったら、
こう言わにゃおれんのです。そこを型に出して下さったんです。言行一致といいますが、信心のうえでは、これがピシャッといえるんです。
生活のうえでは私共は、心口各異(しんくかくい)、言行不一致なんですがね。
81298:2007/12/27(木) 02:01:48 ID:OKoj+Yky
>>77
>では、これはこちらからのお願い。
>源左さんについて調べて。

もちろん、興味を持って調べたことはあるのです。
感動のエピソードも、いくつもありました。
しかし、多くは信後のエピソードであり、肝心のところが
よくわかりません。
本人のことばを伝えるものとして、信頼できるソースは
どの本になるのでしょうか。
一番のおすすめがもしあるのであれば、
それを見てみたいと思います。
82神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 02:02:14 ID:gaQ5wrxF
つづきです。

   報 謝

 こういう型を「今度の一大事の後生、御たすけ候えとたのみもうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定、御たすけ治定と存じ」、
これで往生は決まってしまう。そこで、「このうへの称名は、御恩報謝」に切り替わるわけ。そして「このうへの称名は、
御恩報謝と存じよろこびまうし候」と、真宗の大事なご法義は、信心正因・称名報恩で、ここで一区切りする。
念仏で助かるんじゃなくて、たのむ一念で助かっていくんです。信心ひとつで往生の身が決まる。
そこで「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏様が、ありがとうございますと出てくださる。喜ばずにおられません。
そういう意味の言葉なんですよね。そこを「よろこびまうし候ふ」とある。安心、報謝。
そしてこの後が、師徳と続いて、最後に法度となります。


ここまでです。この文章の中の
「真宗の大事なご法義は、信心正因・称名報恩で、ここで一区切りする。念仏で助かるんじゃなくて、たのむ一念で助かっていくんです。」
というところが気になったりしました。みなさんのご意見をお聞かせいただけたら、と希望します。よろしくお願いします。
83神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 02:02:45 ID:JMF8BubN
>>72
>己の義を立てないために、次第相承が重要なのです。

(古本『漢語灯』三・古典叢書本・二六頁)に、
 爰於善導和尚往生浄土宗者、錐有経論、无人於習学、錐有疏釈、无倫讃仰。然則无有相承血脈
 法、非面授口決儀。唯浅探仏意、疎窺聖訓、
(ここに善導和尚の往生浄土宗においては、経論ありといえども習学する人なし、疏釈ありといえども、
 讃仰するたぐいなし。しかればすなわち相承血脈の法あることなし、面授口訣の儀にあらず。
 ただ浅く仏意を探り、まばらに聖訓を窺う)

>>74
>法然聖人に問う方が「希に」というのは。
>お念仏の話ばかりしているのですよ。

んん?
そりゃ、法縁聖人の黒谷別所は念仏聖の拠点だからね。
それに法然上人自身も東大寺で講師として呼ばれる程の学僧で、なおかつそこで浄土宗の独立を宣言するほどの念仏聖だよ。
尋ねてくる人が念仏の話をするのは当然と言えば当然で。
親鸞聖人も比叡山で黒谷別所の念仏聖達の動静は知っていたはずで、だからこそ比叡山を降りてはせ参じた。
・・・梯和上から、法然上人を尋ねて来たそういう念仏行者の話をいくつも聞いたのに、思い出せないし、すぐに用意できない。
(だからわたしゃ学問上のチンピラなのさ・・・)

>>76
>それを知っていて、どうして書を繰り返し読んで信を獲たと思うのですか?

選択集や和語灯や上の資料にはっきり書いてあるから。
自分の想像から判断するのは危ないね。
84298:2007/12/27(木) 02:04:53 ID:OKoj+Yky
>>77
>「弥陀の御たすけあるべきことのたふとさ」これに「たまたま」遇えた縁を慶んでいるよ。

信じていただけるかわかりませんが、あなた様は、まだ、遇っていないのです・・・
そこで、求道を止めてはならないと思います。
第十八願に遇えば、きちんとわかるのです。
85298:2007/12/27(木) 02:07:11 ID:OKoj+Yky
>>83
>>76
>>それを知っていて、どうして書を繰り返し読んで信を獲たと思うのですか?
>選択集や和語灯や上の資料にはっきり書いてあるから。
>自分の想像から判断するのは危ないね。

だからそんなことは書いていないではないですか。
なぜ「はっきり」になるのですか・・・
選択集にも、「ほぼ」とあるでしょう? また、選択集では、次第相承について、
ぼかして書いてあるでしょう。そういうところを、「遠慮」と申し上げたのです。
86298:2007/12/27(木) 02:10:52 ID:OKoj+Yky
>>78

あくまでも、私の立場からですが、ズレていること明白です。
弥陀をたのんだことの無い方でしょう。
87神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 02:10:55 ID:JMF8BubN
>>79
>自説に固執


>学文は信を穫る上では役に立ちません。
>どんなに学んでも、すべて無駄です。

そりゃそうだ
法然上人は人に往生の道を問うたが答える者がいなかった。
だから泣く泣く経蔵に入って大蔵経を読み、観経疏の文で決定した。
決定したら、学問が不要だとわかった。
法然上人以後の西方への津を求める行者の信に学問はいらんだろう。
でも、資料は法然上人が経蔵で目がとまった観経疏によって往生決定したと示している。

>「みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解」

あると書かなかった?
まさかこの一念を一念覚知的な意味で書いてる?
88298:2007/12/27(木) 02:15:32 ID:OKoj+Yky
>>87
>あると書かなかった?
>まさかこの一念を一念覚知的な意味で書いてる?

一念覚知的な意味ではありませんよ。
弥陀の早業を、凡夫に認識できるはずがありません。
ところで「ある」のですか?
「みずから」「たしかに」弥陀をたのまれたのですか?
89神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 02:16:05 ID:gaQ5wrxF
>86
298さん、レスありがとうございます。

>あくまでも、私の立場からですが、ズレていること明白です。
弥陀をたのんだことの無い方でしょう。

今後の参考にさせていただきたいので、文章のどの部分にズレを見出されたのか、教えていただけたらありがたいです。
よろしくお願いいたします。
90神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 02:16:21 ID:JMF8BubN
>>84
求道、というより、このたまたま得た人生こそ西方への白道でしょう・・・
この道を歩むことは死ぬまで、どころか死んでも終わりませんよ

私がその道を歩んでいないというなら、その忠告は心に留めておきますよ。

>選択集にも、「ほぼ」とあるでしょう? また、選択集では、次第相承について、

古本漢語灯録(江戸時代の義山の改編を受けていない)にはなかったと書いてある。
91298:2007/12/27(木) 02:17:38 ID:OKoj+Yky
>>83
>尋ねてくる人が念仏の話をするのは当然と言えば当然で。

それなのに「希に」とあることが、気にならないのでしょうか・・・
92298:2007/12/27(木) 02:21:05 ID:OKoj+Yky
>>90
> 求道、というより、このたまたま得た人生こそ西方への白道でしょう・・・
> この道を歩むことは死ぬまで、どころか死んでも終わりませんよ

わかっていただけないようですので、これでこの件については
終わりにしますけれども、白道というのは、信後のお話です。
ですから、白道を歩むのが死ぬまで終わらないのはその通り、
死んだら極楽ですから終わりますよ。西岸に辿り着きます。
信を獲るまでは、白道に踏み入れていません。
ですから、まだ歩みはじめていないと思います。
聞き入れにくいことを心に留めてくださり、
誠にありがとうございました。
93298:2007/12/27(木) 02:23:10 ID:OKoj+Yky
>>89
>すると、未安心者は、ウソつきだと分かってきて、
> 心はいたたまれなくなって、言葉通りになろうとする。
>また獲信者も、誤りはないかと仏前に自分のお味わいを述べる。

まず、ここが全然違います。そんなためのものではありません。
自分が獲信したか、獲信していないか、判別するためのものです。
94神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 02:25:06 ID:JMF8BubN
>>88
>「みずから」「たしかに」弥陀をたのまれたのですか?

「たしかに」ね
「阿弥陀仏が助ける」という仰せを「はいそうですか」と受ける。
そうですね

・・・なんか既視感を感じると思ったら、伊藤康善さんの「求道物語-仏敵-」で似たような場面があったんだな。
伊藤さんが婆さまから質問攻めにされる場面
95神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 02:30:42 ID:JMF8BubN
>>91
>それなのに「希に」とあることが、気にならないのでしょうか・・・

うん・・・おもしろい
調べる価値はありますね

>>92
>死んだら極楽ですから終わりますよ。西岸に辿り着きます。

終わらない。
自利利他円満の悟りを得るわけでしょ?
そこから還相の菩薩として、縁ある者から救うべくはたらきだすわけで。
阿弥陀仏のはたらきの手伝いができるわけですよ。
西方に到ってもなお阿弥陀仏と共に歩むのが念仏者でしょうね。
96298:2007/12/27(木) 02:31:49 ID:OKoj+Yky
>>95
終わるのは白道が終わるのです。
97298:2007/12/27(木) 02:36:12 ID:OKoj+Yky
>>89
他の方の文章について、公の場所で、あまり細かく「ここが違う、あそこが違う」と
指摘するのは、避けたいのです。
2chのように、対話できるのであれば、まだやりやすいのですが。
98神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 02:40:57 ID:JMF8BubN
>「みずから」「たしかに」弥陀をたのまれたのですか?

しかし、この質問
「はい」と答えたとして、それをどう証明すればいいのだろう?
私も「はい」と答えることはできるけど、自分にはなにも証明するべきものなどない。

心に思うよろこびも、口に顕れる念仏も、それはこちらの事で阿弥陀さんの事じゃない。
阿弥陀仏から願われていること、これだけはたしかなんだが。
99神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 02:47:40 ID:gaQ5wrxF
>>97
298さん

>他の方の文章について、公の場所で、あまり細かく「ここが違う、あそこが違う」と
指摘するのは、避けたいのです。

分かりました。これは当然ですよね。


ただわたしは、特に80と82の「安心」「報謝」の文章に、このスレでよく話題になっている「たのむ一念」のところが
(ネットで見つけた現代の文章にしては珍しく)書いてあるなあ、と思ったので、吟味していただきたいと思ったのです。

「明白にズレている」と聞き、この「たのむ一念」というか、80・82の信仰面についての部分だけでも、
教えからズレている部分をおたずねしたいと思いました。
というのも、わたしには判別がつかないのです。合っているようでもあるし、ズレているとも見える・・。
わがままをいってすみませんが、よければ「書ける範囲」でズレを書いていただけると助かります。
100298:2007/12/27(木) 02:48:39 ID:OKoj+Yky
>>98
みずからたしかに弥陀をたのみたる経験があれば、そういう曖昧な感覚ではなく、
きちんとわかります。
ですから、正信獲たかどうか判別されるための文言として、工夫して残されたわけでしょう。
98様は、「はい」と言い切らないところに正直さを見ますので、絶望的とも思いません。
時が熟すれば、尋ねるときもあるのではないでしょうか。
101神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 02:54:47 ID:JMF8BubN
>>100
>みずからたしかに弥陀をたのみたる経験があれば、そういう曖昧な感覚ではなく、
>きちんとわかります。

それが如実の信であるとどうやって証明する?
102298:2007/12/27(木) 02:55:24 ID:OKoj+Yky
>>99
たとえば、
>念仏で助かるんじゃなくて、たのむ一念で助かっていくんです。信心ひとつで往生の身が決まる。
とあるでしょう。
真宗念仏は、100発100中で、凡夫が弥陀の真実信心をいただけます。
ですから、この書き方はおかしいです。
99様が真実信心をいただけば、領解文がいかに名文であるか、
掟を保って工夫して書かれているか、わかります。
そして、その意味が、「今こそ明らかに知られたり」となります。
信前に領解文の意味をわかる必要はありません。
ただ、信前に領解文を知っていれば、異安心から守られます。

103298:2007/12/27(木) 02:56:45 ID:OKoj+Yky
>>101
>それが如実の信であるとどうやって証明する?

証明の必要などありません。
104298:2007/12/27(木) 03:03:37 ID:OKoj+Yky
>>99
あと、「師徳」のところをさらっと過ぎていますね。これもおかしいです。
「次第相承の善知識」の重要性が説かれていません。
基本的に、領解文の文言に沿って書かれている文章ですので、
もちろん、言葉上は正しいところもたくさんありますが、
「ズレてる」と感じます。
105神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 03:04:28 ID:JMF8BubN
>>102
>真宗念仏は、100発100中で、凡夫が弥陀の真実信心をいただけます。

念仏が如実であるとわかった時には既に救われている。
不如実の念仏では真実信心は得られない。

 誨ふるに念仏の別行をもつてす。これを信ずるものは多く、信ぜざるものは尠なし。

「尠なし」だからゼロじゃない。
だから「念仏の別行」としたら100発100中じゃない。
106神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 03:06:21 ID:JMF8BubN
>>103
では、私が「はい」と答えたら?
あなたを納得させる必要はないし、あなたに確かめる術もない。
107298:2007/12/27(木) 03:07:11 ID:OKoj+Yky
>>105
「あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。
行者よくこれを思量せよ」(選択集)

百即百生の現代語訳です。
「信ぜざる」は、行ずる前です。
108298:2007/12/27(木) 03:08:07 ID:OKoj+Yky
>>106
「はい」の二文字だけでは判別できませんが、
これだけのご発言を聞けば、弥陀をたのんでいないと判断できます。
109神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 03:12:37 ID:JMF8BubN
>>107
>百即百生の専修正行
>「信ぜざる」は、行ずる前です。

それは如実の聞、如実の信を得て後の如実の称名でしょうに。
親鸞さんの上では自力の称名は正行とは言えない。

他力の、つまり如実の称名は信の後だろう。
110298:2007/12/27(木) 03:17:31 ID:OKoj+Yky
>>109
如実の称名は、信をいただく際の正行です。
つまり、信よりも称名が先です。
ですから、他力の称名(非行の行)は、信より先になります。
この真実行により、弥陀から真実信心を賜るのです。
信の後は、御恩報謝の称名です。
111298:2007/12/27(木) 03:19:13 ID:OKoj+Yky
>>109
「他力の称名」が信後とは、信をいただいたうれしさに口から自然と出る
お念仏を他力としているのでしょう? 違いますか?
112298:2007/12/27(木) 03:22:18 ID:OKoj+Yky
如実の称名とは五念門中の讃嘆門、
真宗の要中の要です。
何よりも大切なところ、
南无阿彌陀佛そのものです。
113神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 03:25:22 ID:JMF8BubN
>>110
>如実の称名は、信をいただく際の正行です。
>つまり、信よりも称名が先です。
>ですから、他力の称名(非行の行)は、信より先になります。
>この真実行により、弥陀から真実信心を賜るのです。

完全に初耳だ。

  註釈版 註
 にょじつしゅぎょうそうおう【如実修行相応】
  真如の理にしたがって修行し、その信ずるところ、修するところが真如にかなうこと。
  また、阿弥陀仏の本願に相応し、教のごとくに修行して法に違わないこと。

 にょじつそうおう【如実相応】
  真実にかなうこと。

阿弥陀仏の真実にかなう称名。
信巻の三重出体で明かされるように、阿弥陀仏の誓願が名号と結実し、弥陀の名号が衆生にいたり届いて信となり、
歓喜という相となり、口には称名として顕れる。
この口に顕れた、弥陀の大行が如実の称名だろう。
114神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 03:27:30 ID:JMF8BubN
>>111
>「他力の称名」が信後とは、信をいただいたうれしさに口から自然と出る
>お念仏を他力としているのでしょう? 違いますか?

自然と・・・・それを信の証明としてみるなら誤りだろう。
尊くおもって称える念仏も、ふと口から漏れる念仏も共に他力の称名でしょうね。
115298:2007/12/27(木) 03:29:10 ID:OKoj+Yky
>>109
私の書き方がわかりにくかったかもしれませんので、補足します。
「行ずる前」というのは、せっかく念仏の別行について話しをしようとしたのですが、
バカにして、受けつけないような方を指しているのです。
尋ねておきながら、期待はずれだったというわけです。
ですから、この方々は、念仏の別行については、聞いておりません。
勘違いされたままでおります。
116298:2007/12/27(木) 03:33:47 ID:OKoj+Yky
>>113
> 完全に初耳だ。

完全に初耳?????
ご引用の註釈版の註を、一体どのように読まれているのですか?
如実修行相応の「また」以下が真宗における意味でしょう。
教のごとくに修行して法に違わないから、
信をいただけるのです。

>弥陀の名号が衆生にいたり届いて

この部分が、機法一体の南无阿彌陀佛ですよ。
如実の称名とは、ここを指すのです。
117298:2007/12/27(木) 03:36:05 ID:OKoj+Yky
>>114
「共に他力の称名」とありますが、もはやその「他力」は
流布語としての意味であり、広い意味になっています。
自力と他力を明確に切り分ける、発揮としての「他力」は、
そのような意味ではありません。
118神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 03:48:28 ID:JMF8BubN
>>116
>完全に初耳?????

それはどこで聞いたの?

>教のごとくに修行して法に違わないから、
>信をいただけるのです。

如実の信をえたからこそ、如実の称名になるのでしょう?
>真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。
信心には称名が具している。称名しているからといって必ずしも如実の信があるとは限らない。

>弥陀の名号が衆生にいたり届いて
>この部分が、機法一体の南无阿彌陀佛ですよ。
>如実の称名とは、ここを指すのです。

高僧和讃
決定の信をえざるゆゑ 信心不淳とのべたまふ 如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり
左訓 如実修行相応「をしへのごとく信ずるこころなり」

つまり如実修行相応は、如実の信→如実の称名のこと。
119神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 03:52:48 ID:JMF8BubN
>>117
>自力と他力を明確に切り分ける、発揮としての「他力」は、

義なきを義とす
疑蓋を除ければ法水が自然に器に満ちる
120298:2007/12/27(木) 04:01:25 ID:OKoj+Yky
>>118

なるほど、どのように考えていらっしゃるか分かりました。

>如実の信をえたからこそ、如実の称名になるのでしょう?

これは、全くその通りです。ただ、時間的順序を示しているのでは
ありません。
とても簡単なことなのですが、言葉にして誤解を解くことは
難しいかもしれません。
大事なところなので、もし興味があれば、幾度でも、わかるまで、
ご質問いただけるならうれしいです。
(些末なことであれば、辟易しますが、ここは大切なところです。)
私の人生において、弥陀の信心をいただいてもらうことは、
最優先のことなのです。
念仏にしても、称名にしても、「如実修行相応」でないもの
ばかりです。
「真実の信心が必ず名号を具す」のは、
名号無い信心は無いことを示しています。
つまり、無称名の異安心などについて書いています。
「名号はかならずしも」というのは、
たとえば、六字名号を書いて壁に飾っても、
それで信心は穫れません。
あるいは、ただ口に南无阿彌陀佛を唱えても、
それで信心は穫れません。
そこで、信心正因とします。
121298:2007/12/27(木) 04:01:30 ID:OKoj+Yky
>決定の信をえざるゆゑ 信心不淳とのべたまふ
>如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり

信決定していれば、ふらふらしないのです。
「一心に」が実現するからです。

時間的順序は、
 教→行→信→証
です。

そこまで詳しい方であれば、本当は目の前でご聖典を示しながら
説明するのが良いのですが・・・
263様もおっしゃっていましたが、残念な事です。
なんとか救われてほしいと思います。
実際、第十八願は易行なのです。
122298:2007/12/27(木) 04:04:34 ID:OKoj+Yky
>>119
> 疑蓋を除ければ法水が自然に器に満ちる

信をいただいた後の、後念相続の場であれば、
釈すことできるのですが・・・
「 疑蓋を除ければ」は、自力では無理だとだけ申し上げて
おきます。
弥陀に除いていただくしかありません。
「自力の心をふりすてて」もそうですが、
これを自力で行おうとして、苦しんでいる方が
たくさんおられます。
123298:2007/12/27(木) 04:09:09 ID:OKoj+Yky
>>119
>義なきを義とす

これも、真宗が真宗たる由縁です。
真の教えだからこそ、どなたをも救うことができるのです。
唯一の例外は、南无阿彌陀佛であり、ここだけは、外せません。
したがって、ここを要(かなめ)と致します。
信前も自由、信後も自由、ただ、真実行だけは経由しますので、
御同行と申すのです。
南无阿彌陀佛
124神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 04:25:09 ID:JMF8BubN
2ちゃんのサーバがダウンしていたらしい。
>>120
それは大行論的な話ですか?
つまり、第十七願の称名が至り届いて、という具合の?
節談説法調だと
「十八願の酒蔵で造られた名号の酒が、十七願の樽によって運ばれて、衆生の口に入りて信の酔いとなる」
だったか

>そこで、信心正因とします。

そう、ここの部分は信心正因の出拠ですね。

>時間的順序は、
> 教→行→信→証

四法立て、ね。
学問的には行についてが滅茶苦茶ややこしい部分。
あなたは蓮如上人の機法一体説だろうから、阿弥陀仏の名号と衆生の称名が
一体となるとき信となる、ってあたりでしょうかね?
125298:2007/12/27(木) 04:28:21 ID:OKoj+Yky
>>123

たびたびすみません、補足です。
「唯一の例外」と書きましたが、これはわかりやすくするためで、
さらにきちんと言えば、例外もないのです。
それは、宿善の有無があるからです。
つまり、信を穫るも穫らないも、こちらが計らうことではありません。
そうなると、本当に「義無きを義とす」になります。
126298:2007/12/27(木) 04:28:57 ID:OKoj+Yky
>>99
>声に出して述べていく事によって、 正しい道にしつけられてくるんです。

領解文は、正しい道にしつけるためのものではありません。
そもそも、上に「義無きを義とす」とありますように、
正しい道など、どうでも良いのです。
信前の姿はどうでも良いですから、それらのはからいを全て捨てまして、
弥陀をおたのみするだけです。
ご納得いただけたかはわかりませんが、ご参考になりましたでしょうか
127神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 04:30:32 ID:JMF8BubN
>>122
>「 疑蓋を除ければ」は、自力では無理だとだけ申し上げて
>おきます。

ああ
その話を聞いた後に、私に
「じゃあ蓋を外すのは誰か?」
と私に聞いてきた人がいましたよ。
聞きながら喩えの誤謬に陥っているな、と思ったものです。
それを外したのは阿弥陀さん以外に有り得ない。
128298:2007/12/27(木) 04:35:43 ID:OKoj+Yky
>>124
>阿弥陀仏の名号と衆生の称名が
>一体となるとき信となる、ってあたりでしょうかね?

このあたりの言い方を聞きますと、「無理かな」という感じですね。
偉そうですから。
名号をよろこんでいる方が、こんな書き方をするはずがありません。
それに、「行」がややこしい、って、そんなはずがありません。
「ややこしい易行」って、何ですか?
知らないだけです。
それにしても、学問を持ち出そうとするご自分の姿が、
まだ見えないのでしょうか。
まるで、ややこしいのが偉いかのようです。
知らないからややこしいだけなのに。
相変わらず、学問を偉いものだと思い、自障障他を重ねています。
知らないことを認め、知っている人を尋ねはじめ、
上を問わず下を問わず尋ねはじめ、頭を下げて、
信決定している人を探すことです。
ただ、下がる頭もないようですから、無理でしょう。
129神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 04:44:36 ID:JMF8BubN
>>125
>「唯一の例外」と書きましたが、これはわかりやすくするためで、
>さらにきちんと言えば、例外もないのです。
>それは、宿善の有無があるからです。

五重の義?
この宿善は、「遠く宿縁を慶べ」の如来の調育のはたらきの有無の沙汰か

>つまり、信を穫るも穫らないも、こちらが計らうことではありません。
>そうなると、本当に「義無きを義とす」になります。

自己中心から他力中心に、か
130298:2007/12/27(木) 04:46:04 ID:OKoj+Yky
>>124
>それは大行論的な話ですか?

「〜な話」という捉え方をしようとすること自体が、
わかろうとしていないということなのです。
わかったつもりになるだけです。
単語を覚えて、表現を丸暗記して、わかったつもりになる。
分類して相対化しているつもりで、
ますます自障障他を続けるのです。
知りたい方は、そんな聞き方はしません。
131298:2007/12/27(木) 04:51:53 ID:OKoj+Yky
>>127
>その話を聞いた後に、私に
>「じゃあ蓋を外すのは誰か?」
>と私に聞いてきた人がいましたよ。
>聞きながら喩えの誤謬に陥っているな、と思ったものです。

別に誤謬でも無いのではありませんか。
「阿弥陀様ですよ」と教えてあげれば、済むだけのことだと思います。
132神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 04:59:56 ID:JMF8BubN
>>128
ああ、口調については失礼の連続。
ネットではだいたいこの文体で通していますので。
ネットでの叩き合いは鬱陶しいですが、馴れ合いも嫌いなんですよ。

>それに、「行」がややこしい、って、そんなはずがありません。

行は易行です。大行論ですよ。
行巻の標挙には、諸仏称名の願とあり、また出体釈に「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり」とあります。
これは真宗の行が、法体大行であることを示しています。
一方、同じく出体釈には「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」とはっきり書いてある。
さて、真宗の行とは、十七願の行であるのか、それとも衆生の称名であるのか?、という問題です。

>相変わらず、学問を偉いものだと思い、自障障他を重ねています。

諌言は受けますよ。
その傾向があると、最初から認めるとおりです。
一つだけあなたは法然上人に善知識はいるとお考えで?
133298:2007/12/27(木) 05:02:03 ID:OKoj+Yky
>>127
私はその場にいないので、細かいニュアンスはわかりませんが、
もしかしたら、その質問してきた方が、真実信心獲ている方である
可能性もあるわけです。
しかし、あなた様のような態度では、そこから話しが進むことが
ありません。
134神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 05:06:08 ID:JMF8BubN
>>130
いや・・・失礼
行は易行でも、宗学で大行論は最も難解な所なんですよ。

>>131
その人には言ってもわかってもらえないでしょう
「本願寺は信心を獲る過程を明らかにするべきだ」と主張されている方なので
その時は、うまく納得させられるように言う自信はなかったですね。
135神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 05:07:46 ID:RiQHZ3mM
どちら様も一度お眠りになり熱さましをされてはいかがでしょう。
はたからみていると段々口が悪くなっていってるように見受けられます。
136298:2007/12/27(木) 05:10:28 ID:OKoj+Yky
>>132
もともと言葉にしにくいことを書いているのですから、
言葉上矛盾が出てくることは仕方がありません。
たとえば、私は上で「学問上ややこしい」ということを批判しました。
ですけれども、不可説のものを学問しようとしたら、
ややこしくなるのも当然と言うこともできるのです。
ただ、この方向性で書いた場合、信を穫る助けになると
思えないので、上のように書きました。
行そのものは易行です。
信を穫る上では、ややこしいことは必要有りません。
信をいただけば良いだけです。
ややこしいことは、全て弥陀がやってくださいます。

>さて、真宗の行とは、十七願の行であるのか、それとも衆生の称名であるのか?、という問題です。

ご納得いただけるかわかりませんが、非行という行、他力の行です。
単純に言えば、行は第十七願、信は第十八願、証は第十一願ということに
なるでしょう。
衆生の行は、途中から他力の行になるのです。

>一つだけあなたは法然上人に善知識はいるとお考えで?

いると考えます。ただ、詳しくは説明できません。
次第相承の善知識に逢うことがあれば、
そのときにお聞き下さい。
137298:2007/12/27(木) 05:13:12 ID:OKoj+Yky
>>135
見苦しくて申し訳ありません。
縁が切れないならば、なるべくお話してゆきたいのです。
138298:2007/12/27(木) 05:19:35 ID:OKoj+Yky
>>134
> 行は易行でも、宗学で大行論は最も難解な所なんですよ。
136で私も書いた通りです。
学問を優先するのか、信を穫ることを優先するのかですが、
まず信を穫ってから、学問されてはいかがですか。
信心為先というのは、文字通りに解釈するのが良いと
思います。

> その人には言ってもわかってもらえないでしょう
> 「本願寺は信心を獲る過程を明らかにするべきだ」と主張されている方なので
>その時は、うまく納得させられるように言う自信はなかったですね。

なるほど、探されている方だったのですね。
「私にはわかりません。私も、こうしてお話しながら、探しているところです。
お恥ずかしいことですが、真実信心いただいたら、私にもぜひ教えて下さい」
と言ったら良いでしょう。
次第相承の善知識は、その過程を明らかにしてくださいます。
それを行者の側から見れば、「六字の謂れを聞き開く」ということになります。
139神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 05:23:43 ID:JMF8BubN
>>136
>信を穫る上では、ややこしいことは必要有りません。
>信をいただけば良いだけです。
>ややこしいことは、全て弥陀がやってくださいます。

  念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。
  わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。
  ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、
  行者のためには非行・非善なりと云云。

>単純に言えば、行は第十七願、信は第十八願、証は第十一願ということに
>なるでしょう。

また、余計なことと言われるでしょうが、十八願は教行信証すべてが入っているのでは?
140298:2007/12/27(木) 05:27:43 ID:OKoj+Yky
>>134
>一方、同じく出体釈には「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」とはっきり書いてある。

真実信心いただけば、これも明らかに知られるのです。
今のままでは、讃嘆口業の意味もわからないでしょう。
五念門もわからなければ、礼拝身業もわからないでしょう。
もちろん、専雑もわからないはずです。
ご聖典は、いい加減に書いているのでもなければ、
わざとわからないようにしているのでもなく、
掟を守って書かれているだけなのです。
しかし、学問も、無駄になりません。
「信を穫る上では無駄」と書きましたが、
信をいただいたときに、「なるほど・・・」と
感動が押し寄せることでしょう。それまでの疑問が、
一気に氷解するからです。
また、異安心では、「一気に氷解」とは行きませんので、
学問全体が、領解文の働きをすることでしょう。
これが2chでなければ、ご説明できるのですが・・・
こんな私の話でも、どこか心に留めておいてくだされば、
いずれ念仏の行者に出会ったときに、
それとわかりやすくなることを願っております。
南无阿彌陀佛
141神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 05:29:58 ID:JMF8BubN
>>138
>なるほど、探されている方だったのですね。

いいえ
自分のためではなく、万人に通じる方程式が欲しいたぐいの人です

称名報恩というが、親鸞聖人にその言葉はない。
ただ念仏を正定業としている。
それは大行である念仏を称える行が信を獲る方法であるという側面があったからだ。
しかるに、今の本願寺は念仏をおろそかにしている。
称名報恩というあやまった念仏観を打破し・・・・

という具合。

>「私にはわかりません。私も、こうしてお話しながら、探しているところです。

あなたの忠告は受けます。
しかし、気を悪くしないでくださいね。
それは「人のいふことをばただふかく用心すべきなり」だからです
142298:2007/12/27(木) 05:33:25 ID:OKoj+Yky
>>139
>また、余計なことと言われるでしょうが、十八願は教行信証すべてが入っているのでは?

第十八願に行が入るというのは、第十八願成就の為には、第十七願成就が
必要だからです。そして、第十八願が成就すれば、信をいただき、
信をいただけば、極楽往生治定し、第十一願によって、滅度に至ることが
約束されます。
ですから、ひとつ選ぶなら第十八願なのです。
これにより、当流に於ては南无阿彌陀佛の六字にすべてが収まります。
143298:2007/12/27(木) 05:39:59 ID:OKoj+Yky
>>141
なるほど、その方もご聖典をもととした発言ですので、
正論である側面もありますが、やはり体験をもとにしていない
きらいがどうしてもありますね。
その方の言う念仏で、本当に信が穫れるのか、
すなわち、如実修行相応であるのか、ということが
問われるところでありましょう。
ご対応も大変でしたことでしょう。お察し致します。
気を悪くする云々ですが、意思疎通が出来ているなら、
私は問題としていません。
「義無きを義とす」であるからです。
見苦しい旨のご指摘もありましたが、
ひとりでも多くの方に信を穫ってほしいのが私の願いです。
本気であるなら、全く構いません。
144神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 05:40:15 ID:JMF8BubN
>>140
身業に顕れるのが礼拝
口業に顕れるのが讃嘆(称名)
一挙手一投足のすべてが南无阿弥陀仏

>これが2chでなければ、ご説明できるのですが・・・

なぜ2ちゃんでなければ説明できるのですか?
145298:2007/12/27(木) 05:42:53 ID:OKoj+Yky
>>142
補足しますと、142に書きました「成就」というのは、
弥陀の行の成就ではありません。
弥陀の行が成就したことによる、我らの側の「成就」のことです。
このようなことを書くと、やはり段々複雑になってきて
しまいます。
たとえば、新車を設計した自動車メーカーがあるとします。
車が完成した時点で、自動車メーカーの側では成就しています。
その車を運転したときに、ユーザーの側で成就します。
良い喩えかはわからないのですが。
そして、ユーザーが運転したときに、
メーカー側から見ても、真の成就と言うこともできます。
146298:2007/12/27(木) 05:46:08 ID:OKoj+Yky
>>144
目の前の方であれば、宿善の有無を見ながら、
少しずつお話することができるからです。
(そしてその最後に、六字の謂れが位置します。)
2chの場合、公開の場ですから、仮に宿善があるように
見えたとしても、その他の方も見ますので、
どうしても限りがあります。
つまり、2chというのは「宿善の機、無宿善の機の混在する場所」の
意味で、特に2chに限定しているわけではありません。
ですから、どうしても尋ねなければならないのです。
147298:2007/12/27(木) 05:48:16 ID:OKoj+Yky
>>144
>一挙手一投足のすべてが南无阿弥陀仏

これも、「わかったような、わからないような」ではありませんか。
つまり「南无阿彌陀佛」である必然性はありますか。
なぜ、「帰命尽十方無碍光如来」ではないのですか。
「一挙手一投足のすべてが南无阿弥陀仏」というのは、
もちろん間違いではありません。
しかし、どんな一挙手一投足でも南无阿彌陀佛になるのではなく、
あくまでも、如実修行相応でなければならないのです。
148神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 06:02:01 ID:JMF8BubN
>>142
それに真仏、真土の十二・十三をたして五願開示ですね。

>>145
第十八願には衆生の乃至十念の称名が誓われている。
十八願を信ぜしめ念仏を称えせしめるために、十七願の大行が誓われている。
その十念を称えさせたところで十八願は成就する。
だから、大行は衆生の称名となった名号である。
というのが石泉師の説です。

大行論は複雑ですが、
「念仏する者を救うと阿弥陀仏が誓われた」
「その誓いを信じるのだから誓われたとおり念仏する」
「お言いつけに従うのが最も報恩となり、また讃嘆となる」
という事についてはどこも同じです。

>>147
南無は阿弥陀仏をたのむ衆生の信心で、それが機。
阿弥陀仏は衆生を救う道理をあらわしているから、それが法。
実は西方指南書は学問の世界では軽視される傾向があります。
149神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 06:07:58 ID:JMF8BubN
>>146
うーん

感想としては禅宗みたいな話ですね。
機会があれば私の先生に、そういう次第相承について聞いてみますが・・・
150298:2007/12/27(木) 06:09:37 ID:OKoj+Yky
>>148
私がここで嘆いても仕方がないのですが、
そこまで学んでいらっしゃれば、
真実信心いただけば、やはり「それ」とわかるはずです。
つまり、やはり学問は無駄になっていません。
細かいことですが、「南無は信心」と本当に習われたのですか。
151298:2007/12/27(木) 06:13:54 ID:OKoj+Yky
>>149
真宗は真の禅門ですよ。
ぜひ、尋ねてみて下さい。
次第相承の善知識の説法を、たとえ十年聞いていたとしても、
尋ねぬ限りわからないのです。
次第相承について聞くよりも、六字の謂れや、他力信心の次第について
尋ねた方が、確実だと思います。
152神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 06:20:01 ID:JMF8BubN
>>150
>細かいことですが、「南無は信心」と本当に習われたのですか。

機法一体は安心論題ですから多少は。

安心決定鈔については
「黄金を掘るような書」と蓮如上人はおっしゃっているが、
 つまり、掘らないと黄金が出ない書で、読む際は注意しないといけない。
 西方指南書を読む場合は、かならず蓮如上人の指南を仰ぐこと」
という前置きが必ず付いてきます。
「鏡が衆生で、阿弥陀仏がそれに映る」という理解をしてはいけない、と。

大行論について機法一体論と絡めて義を立てる先哲もいます。
153神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 06:27:11 ID:JMF8BubN
>>151
鈴木正三の
「古歌に、悟りとは悟りで悟る悟りなり悟る悟りは夢の悟りぞとあり、
誠に悟る悟りはあぶないことぞ我も悟らぬ悟りが好きなり。
法然などの念仏往生も悟らぬ悟りなり。

という言葉もありますね。


質問については
・・・とりあえず念仏が自然と漏れるようになってる家の親父に聞きいてみますが。
154298:2007/12/27(木) 06:30:28 ID:OKoj+Yky
>>152
なるほど、それだと確かに「信心」となるでしょう。
詳しく言うと、南无阿彌陀佛の途中で機は信をいただくのです。
ですから、機には「たのむ機」と「信心いただく機」の双方があることになります。
信心正因ですから、このどちらかを選べ、となれば、信心となるでしょう。
学者の方は、仮に真実信心いただいていない方でも、御聖典の文字を
注意深く追いかけ、間違いのないよう、守りの言葉遣いを致しますので、
正信いただかずして、正信に迫るのです。
155298:2007/12/27(木) 06:38:34 ID:OKoj+Yky
>>153
誤解しないでいただきたいのですが、報土往生する方よりも、化土往生の方の方が
多いのです。化土往生は、行としては難しいのですが、それを熱意により乗り越えて、
達成する方がいらっしゃるのです。それは、本当に尊い方だと思います。
ですから、「自余の浄土門を批判するな」というご指示があります。
仮に、化土往生する方が1万人にひとりだとしても、1000万人の門徒がいれば、
1000人は往生することになります。
156神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 06:46:48 ID:JMF8BubN
>>154
>詳しく言うと、南无阿彌陀佛の途中で機は信をいただくのです。
>ですから、機には「たのむ機」と「信心いただく機」の双方があることになります。

十劫の昔に南无阿弥陀仏は完成されている。
阿弥陀仏が完成したものだから六字すべてが法と言える。
と同時に、それは機の為につくられたものだから、六字すべてが機とも言える。
我々の往生の行も法も名号成就のところで一体となっている・・・

もう少し調べてみます
157神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 06:48:21 ID:cBUphgmy
158神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 06:53:02 ID:JMF8BubN
>>155
親父のは熱意とか盲信とはちょっと違うような
・・・失礼ですが、あなたの領解が誤っている可能性もあるわけで。

>仮に、化土往生する方が1万人にひとりだとしても、1000万人の門徒がいれば、
>1000人は往生することになります。

それについては宗学では、「道は有れども人はなし」です。
十九願・二十願往生に必要な自力の至心は、有漏の凡夫には用意できないからです。
159神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 06:54:21 ID:JMF8BubN
すみません
長時間、朝までお付き合いありがとうございました。

さしあたっては失礼します。
160298:2007/12/27(木) 06:56:34 ID:OKoj+Yky
>>156
>十劫の昔に南无阿弥陀仏は完成されている。
>阿弥陀仏が完成したものだから六字すべてが法と言える。
>と同時に、それは機の為につくられたものだから、六字すべてが機とも言える。

ぜひ、お調べください。
分釈と皆釈についてですが、皆釈の場合、
機法一体であるからそうなるのです。
六字すべてが機であるとき、六字すべてが法でもあります。
これを指して、「六字と一体になれ」のように申します。
そのとき、帰投身命の意味も、はっきりとわかります。
もちろん、帰順勅命も、わかります。
分釈の際には、阿弥陀仏というのは、もはや菩薩ではないわけです。
南無というのは、その業因の完成をうけてたのむ機、
そして、信心いただく機です。
南无阿彌陀佛
161298:2007/12/27(木) 07:00:35 ID:OKoj+Yky
>>158
>それについては宗学では、「道は有れども人はなし」です。
>十九願・二十願往生に必要な自力の至心は、有漏の凡夫には用意できないからです。

なるほど、厳しいですね。
それであるなら、十八願を求めるしかないでしょう。
長い時間お付き合いくださり、こちらこそ感謝致します。
六字の謂れにつきましても、ぜひ親父様に尋ねてみてください。
厳しい方であれば、信をいただいても、夫婦親子の間柄と言えども、
漏らさないからです。その場合は、尋ねて来るのを待っているはずです。
162神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 07:02:46 ID:JMF8BubN
>>155
もう一つだけ

>仮に、化土往生する方が1万人にひとりだとしても、1000万人の門徒がいれば、
>1000人は往生することになります。

化土往生でそれなら報土往生はほとんどいなくなりますよ。
するとそれは・・・大乗中の大乗とはいえなくなるのでは?
163神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 07:09:20 ID:JMF8BubN
>>161
六字の謂われですか?
六字釈なら南無は本願招喚の勅命
阿弥陀仏は・・・則是其行で

だめだ、おやすみなさい
164298:2007/12/27(木) 07:09:39 ID:OKoj+Yky
>>162
報土往生は、ほとんどいませんよ。行は易行ですが、難中の難なのです。
大乗中の大乗であるのは、機を問わないからです。
165298:2007/12/27(木) 07:10:36 ID:OKoj+Yky
>>163
おやすみなさい。元気になったら、また書き込んでください。
166神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 12:37:00 ID:gaQ5wrxF
>126
>ご納得いただけたかはわかりませんが、ご参考になりましたでしょうか

S会退会者です、298さん、丁寧なレスありがとうございました。とても参考になりました。

ただ、わたしの引用が短かったため、以下の点について誤解をまねいたのかもしれない部分があったかもしれませんので、引用元をのせておきます。

 >>念仏で助かるんじゃなくて
 >真宗念仏は、100発100中で、凡夫が弥陀の真実信心をいただけます。
 ここは「ただ念仏をとなえていれば助かる」ということに対して言っているようです。

 >師徳のところを、さらっと
 師徳については私が引用しなかった部分に書いてありました。

ttp://homepage3.nifty.com/keko-kai/houwa/55-3houwa.htm

中途半端な引用文をもって質問してしまい、申し訳ありませんでしたm(_ _)m


ところでスレを読んでいて「信よりも称名が先」というのが、とても耳新しい感じがしました(でも違和感は感じません)。
これは
『「念仏する衆生を救う」という本願を、自分のことと聞く』ためには、とうぜん
「念仏をとなえる行為をあらかじめしておく必要がある(念仏する衆生となっておく必要がある)」というような理解でよいのでしょうか?

S会にいたので、あまりに「獲信が大事」といわれ、念仏との関係がよく把握できていません。
みなさんのご意見をお聞かせいただきたいです。
167神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 13:08:04 ID:cW7RY7Rx
>>166
「生きている念仏」五井昌久著 白光出版
法然や親鸞や妙好人たちの深い心をくみとり念仏を現代に生かすために書かれた書。

念仏関係の本では、これが一番わかりやすかったです。
感想はみんな違うでしょうから、読んでみて下さい。
168298:2007/12/27(木) 13:09:15 ID:CDXVgeFz
>>166
真実行である真宗念仏を行うことにより、獲信します。
つまり、行の一念の極まりがあり、そして、信の一念があります。
169298:2007/12/27(木) 13:25:29 ID:CDXVgeFz
>>166
ご紹介の文章を読んでみました。とてもためになることが書いてあると思います。
ただ、肝心の信心をいただくところが、自力の信心になっているのではないかと
思います。御文には、「宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり」
とあります。この善知識というのは、ご門主さまのことだけではないはずです。
おそらく、自力の心を自分で捨てようとする、結局は自力の信心を、
「これこそ他力である」とし、信をいただいたと見なしているように感じます。
晴れ渡る心になったり、喜びも沸き上がるかもしれませんが、それと他力信心は、
直接の関係はありません。もちろん、何を信じるかは、S会退会者様におまかせです。
170298:2007/12/27(木) 13:31:49 ID:CDXVgeFz
>>166
「獲信が大事」というのは、その通りです。
どこの団体様でも、ご聖典をきちんと読み込んでいるところでは、
教えていることは、かなりの部分まで正しいはずです。
171神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 14:33:50 ID:6CzM/+u9
298さん、お聖典って何処から出た言葉ですか?
真宗では、お聖教と呼び慣わしているはず。蓮師の頃だってそうでしょ。
『教行信証』は「本典」と略称されるけど。なんだか胡散臭いです。
「お聖典」を読み込んでいる割りには....(ry
五重の義の解釈も、自力義だし。
まあ、秘事法門でないなら、あなたの善知識と言える方は誰なのか?
お答えいただけませんか?
172298:2007/12/27(木) 14:43:42 ID:CDXVgeFz
>>171
言葉づかいにさほどこだわる必要もありませんが、
私は「ご聖教」と呼ぶときには、特に三部教を指すようにしています。
釈論まで含むときには、「ご聖典」と呼ぶようにしているということです。
「教」ということばを、別格扱いにしています。
ただ、このようなことは瑣末なことです。
「五重の義の解釈が自力義」というのは、私からすれば誤解です。
善知識様につきましては、2chで書く気はありません。
宿善のある方は、有縁の知識に辿り着けることになっています。
まず、信心決定の行者に会わねばならぬと、繰り返し書いている通りです。
そのためには、上下を問わず、頭を下げて聞く事です。
善知識にあふことは、難しいのです。
宿善有る方に対してでなければ、教えることもできませんから、
教えることも難しいのです。
173298:2007/12/27(木) 14:54:03 ID:CDXVgeFz
>>171
これも誤解を避けるために書きますが、もちろん、釈論と言えども、私の心の中では、
「教」と見なしているものもあります。
それを前面に出せば、「お聖教」と呼ぶことになります。
ただ、他宗への遠慮もあるのです。
ことばをどう遣うかは、いろいろと難しい側面があります。
どう言っても、曲解できます。
もちろん、なるべく工夫するようには致しますが、
聞く方の、宿善に甘えるしかありません。
174298:2007/12/27(木) 15:05:14 ID:CDXVgeFz
>>171
「教」と言えば、「教ではないでしょう」と言われ、
「典」と言えば、「教でしょう」と言われてしまう。
確かに、ことばづかいは、日常生活が出るでしょう。
ですから、私としては、「御文」「御文章」のように、
わざわざ名称を変えてほしくないのです。
本当にくだらない、なわばり意識を醸成するだけです。
南无阿彌陀佛以外は、すべて方便に過ぎません。
175298:2007/12/27(木) 15:11:12 ID:CDXVgeFz
もし、上下を問わず頭を下げて聞くことができないなら、
結局は、さほど信を穫りたくないということでしょうし、
権威を求める気持ち、自分を誇る気持ちがあるということで、
弥陀を求めているわけではないということです。
南无阿彌陀佛
176298:2007/12/27(木) 15:38:47 ID:CDXVgeFz
>>171
それと、読み込み云々ですが、私が読み込んでいるという
意味ではありませんよ。
私はたいしたことはありません。
真実信心いただいている方でなくても、読み込めば、
かなりのところまで正しい話しができるということを、
驚きも込めて、書いているのです。
あたかも自然科学者が、実験を通して、法則を発見するように。
ただ、この救いの法は、見いだすことは、ほぼ無理なのでは
と思います。
そのために、釈尊がご出世くださったわけですから。
不可能とは言いませんが、教わる方が早いですし、確実です。
177神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 17:43:24 ID:6CzM/+u9
>176
御文も御文章も、蓮師ご自身が言われたことを根拠に、そう言い慣わされてる。
それに比べて、あなたのお聖典という言葉遣いは、根拠あるの?ってこと。
それとも、あなたの善知識wの秘密の言い伝えでは、お聖典って言うのかな?
頭が下がらないのは誰なんでしょね。根拠はお聖教に聞け。
あと、自分自身お聖典を読み込んでないのに、なんで、
お聖典を読み込んでいる人なのかそうでないのか判断できるの?
人を惑わすような妄語はよした方がいいね。
あなたの意見をいろいろ読ましてもらったけど、抽象的だね。
宿善という私たちからはアンタッチャブルな概念を振り回して、
悦に入ってるのが心底にあるんじゃないかな?
宿善開発してると思い込んでいるだけで、本当の所、宿善開発してないんじゃ?
要らん、要らん。自力の迷信働かし、
如来の徳を手掴みで、心得たるは心得ぬなり。

もろた、もろたよ、六字の御名を
施す如来の心も知らず、
凡夫が狂喜に酔い痴れる
南無阿弥陀仏
178神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 18:12:38 ID:6CzM/+u9
>176へつづき
五重の義に関してだけど、あなたの書き込みから見たところ、それを「条件」としてるね。
何か凡夫に条件を課して、それがクリアされれば、めでたく信決定。
「よかったね、晴れて正定聚の仲間入りだよ。」だったら、典型的自力じゃん。
どうしてわかんないんだろ?とんびが鷹を産むことがないのと同じ。
自力は他力を産めません。
阿弥陀仏はそんなめんどいトラップ仕掛けない。
ことに十悪五逆の罪人を対機とされた仏ゆえに。
言っても嘘、思っても嘘、感動しても嘘のこやつ。
昨日がそうなら、明日もそう。悪因苦果→悪因苦果の輪廻から一歩も外に出られない。
智恵も、行いも期待できない。どうする、どうする。見捨てるか?
もう、何も注文出せない。そのまんま摂取して捨てないより他ない。
裏返してみりゃ、そこまでしてもらわにゃ、救われがたい五逆十悪の大悪人が
何を隠そうここで書き込みしてる、この私だったってこと。
南無阿弥陀仏
179因幡の源左2 1:2007/12/27(木) 21:03:18 ID:Xgx5eJ68
 源左の口ぐせは「ようこそ、ようこそ、なんまんだぶ なんまんだぶ」でした。
あるとき、鳥取の説教所で、但島から聴聞にきていた松下なにがしという同行と同
座しました。松下同行は、長年、熱心に聴聞していたが、どうしてもわが身の救われる
ことが信じられなくて悩んでいましたので、ちょうど隣あわせになった源左に、どうし
たら信じられるのかとたずねました。
「おらなぁ、親さんが、源左助けるっていわれっだけえ、ようこそ、ようこそよりほか
にゃないだいなぁ」
すると松下同行は不満気にいいかえしました。
「そがぁなこたぁ、とうに聞いて知っとるけど、まっと、はっきりしたことが聞きたぁ
て、こがして聞いて廻っとるだいなぁ」
源左は、ただ、
「ようこそ、ようこそ、なんまんだぶ、なんまんだぶ」
とお念仏していたそうです。
 源左はいつも「源左、助くる、の一声だけのう」と口ぐせのようにいっていたそうで
す。阿弥陀仏が大悲をこめて私を招喚してくださるみことばは「我よく汝を護らん」の
一声だと善導大師もおおせられていました。この決定的なみことばをたまわって「よう
こそ、ようこそ」と聞いて安心するほかに浄土真宗の信心はないのであります。
 松下同行は、この如来よりたまわっているみことばを、ただの人間の言葉と聞き流し、
もっと深い道理を、もっと有り難い話をさがしまわっていたのです。それではいつまで
たっても心の空しさの充たされるときはありません。
 私どもが、この世に生れて、どうしても聞かねばならぬ言葉とは、私の生と死を支え
て「我よく汝を護らん」とのたまう阿弥陀仏の本願のみことばだけです。それを一言で
あらわしているのが「南無阿弥陀仏」という本願の名号だったのです。だから源左は南
無阿弥陀仏を「おらがやぁなむんを、仏にしてやるとよんでくださる如来さま」のお名
のりであるといただいていました。この真実なる御親の名のりを聞かなかったならば、
人生はついに充足されることなく、空しく過ごしてしまうことになりましょう。源左は
如来のみことばをたまわった感動をこういっております。
「三世に一仏、恒沙に一体、仏のなかぁの大王様が、われが後生はおらに任せよとよん
でくださるだけ、心配いらんだいなぁ」
180因幡の源左2 2:2007/12/27(木) 21:04:07 ID:Xgx5eJ68
 過去、現在、未来の三世にわたって、ガンジス河の砂の数よりもたくさんの仏さまが
いらっしゃっても、私のような罪業の凡夫を、必ず救うとおおせくださる仏は阿弥陀仏
一体しかましまさぬ。それゆえに、すべての仏さまも、阿弥陀仏に帰一して、その本願
の徳をたたえつづけておられる。阿弥陀仏こそ、三世十方のあらゆる仏さまのなかの大
王であらせられる。その仏のなかの仏が「お前の後生は、我にまかせよ、必ず助けるぞ
よ」とおおせくださるのだから、後生の心配はいらんというのです。
 こうして源左の信心は「源左助くる」 の一声を一ほい」と障いて一ようこ孝、よう
こそ」と味わうほかになかったのです。だから源左は甥の足利元治によく、
「親様に『はい』と返事させてもらやぁ、事たぁ済んどるがやぁ」
と語っていたそうです。源左に育てられた同行の一人、小谷ひでは、
「源左さんは、こうなったが御信心、ああなったが御信心というふうな沙汰は云ってお
られなんだ」
と語っておりますが、たしかに源左は、わが心をせんさくせずに、ひとえに本願を聞信
しつづけた人だったのです。
「この心に相談すりや、まあちょっと、云うぞいな。いつ相談してみても、いけんけえ
のう。親さんに相談すりや、助ける、助ける、そのまんま助ける。いつ相談しても親さ
んは間違いないけんのう」
といっております。自分の心に向って、これで助かるだろうかと問えば、一向にはかば
かしい返答はでてきません。自分の人生でありながら、この生命は、どこから来て、ど
こへゆくのか、全く見きわめがつきません。こんな愚かな自分に、いくら相談をしても
らちはあきませんから、南無阿弥陀仏という本願のみ親に相談するのです。
 源左が若いころ教えをうけた原口針水勧学は、南無阿弥陀仏のこころを、
  われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀
   つれてゆくぞの親のよびごえ
と歌っています。親様に相談するとは、お念仏することであり、お念仏することは、
「必ずお浄土へつれてゆくぞ」と親さまからみことばをたまわっていることなのです。
 平生はあまり仏縁のなかったものでも、病気をしたりすると、やはり死が問題になり、
後生が苦になって、源左にあいたがったそうです。たのまれるとどこへでも「おう、お
181因幡の源左2 3:2007/12/27(木) 21:04:56 ID:Xgx5eJ68
う、行く、行く」と気軽に出かけていきました。源左の顔を見ただけで「南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏」と称えはじめる人がありますと、うれしそうに、
「おらよりさきに親様が来とられるけ」
といって手を合せて念仏したそうです。病人の称えている念仏の声を、如来のよび声と
いただいているさまがありありとみえます。
 源左は八十九歳で往生をとげますが、その少し前、病の床についていたときのことで
す。同じ山根村の棚田このが、自分の父親の山名直次郎のことで相談にきました。 直
次郎は源左の友人で、年は三つ下でしたが、床につく日がめっきり多くなっていま
した。人並みの開法はしていましたが、自分の後生に安心するというところまではいた
っていませんでした。娘のこのが心配して、
「おじいさん、ちったぁ念仏となえなはれ」
とすすめましたが、直次郎は、
「おらあ腹にいらんだいやぁ」
といいます。如来さまの御本願がなっとくできないから、お念仏も出ないというのです。
このが、近所の岡本政治郎同行に来てもらってお話をしてもらおうかというと、直次郎
は、それなら源左に来てもらってくれという。そこでこのが源左をたずねたが、彼もす
でに病床についていました。
「おらも、えらあて、よう行かしてもらわんだがのう、会いたい (という)だけど、何
の用だらあかいのう」
そこでこのが父親も病気になって、後生が気にかかるらしいので、念仏をとなえさせて
もらえば気もはれるかと思ってすすめるのだが、少しもお念仏が出ない。どうしたもの
でしょうかと相談しました。すると源左は、
「よしよし、称えられにゃぁ、称えんでもええけんのう。助かるにきめてむらっとるだ
けのう」
 このがそのままを直次郎に伝えると、「はあ」というばかりでした。ところがそれか
ら二、三日して、直次郎がこのをよぴました。源左のいったことを考えつづけてきたが、
どうもわけがわからんというのです。
「わっちゃ (お前は)念仏となえとなえちゅうし、源左は称えんでもええ、助かるにき
めてむらっとるだけ、心配せえでもええちったって。おらあわからんだいやぁ。源左が
どがあしとるか行って見て来てごせえや。おらあ、いっかな喜ばれんだが、源左に、喜
182因幡の源左2 4:2007/12/27(木) 21:09:03 ID:Xgx5eJ68
べるか喜べんか、源左の喜びを聞いてごせえや」
 そこでまた、このは源左をたずねました。
「源左もいっかな喜ばれんちってごせ。病の方がえらいだけ、喜びが出んだがのう」
 このからそれを開くと直次郎はまた「ふん」といって考えこんでしまいました。それ
から幾日かたって、このはまた直次郎に呼ばれました。
「おらあ源左のいうことが、いっかなわけがわからんだいや。この年になって、なりが
悪いだけど、世話せにゃならんけお寺にゃ参っても、人並に参っとって、いっかな、お
らが事だと闘いとらんだけ、わからんだいや。源左は助かるにきめてむらっとるちった
って、そがに親心ちゅうむんが、はやわかるかいや。源左は、えらあても、なんまんだ、
なんまんだと喜んでおっだが(おるのじゃないか)まあ一ペん行って見て来てごっせや」
という。このが父のことばを源左に伝えると、
「今さらくわしいこたぁ知らんでもええだ。この源左がしゃべらいでも、親さんはお前
を助けにかかっておられるだけ、断りがたたん事にしてむらっとるだけのう。このま
ま死んで行きさえすりや親の所だけんのう。こっちゃ持ち前の通り、死んで行きさえす
りやええだいのう。源左もその通りだっていってごしなはれよ」
といいました。源左のこの言葉を聞くと直次郎は、
「源左はまたそがいったかえ」
といったきり、だまってしまいましたが、翌日になってこのをよびよせ、
「おらあ、よんべ、ぽっちりぽっちり思うや。源左は念仏となえでもええちったけど、
聞かしてもらってみらや。称えさしてむらわにゃ気がすまんがやぁ。……なんてなんて、
ようこそ、ようこそ」
とよろこんで念仏していたということです。昭和五年二月二十日に源左がなくなると、
直次郎は、「源左にぬかれたわい」といったそうですが、彼もその翌二十一日の夕方五
時頃、源左のあとを追うように往生をとげました。
 それにしても「こっちゃ持ち前の通り、死んでゆきさえすりやええだいのう」と、ず
ばり云ってのけることのできた源左は、たしかに本願の世界に安住して、生も死も如来
にゆだねきっていました。
183263:2007/12/27(木) 21:17:31 ID:tTmmTsUG
凡夫に条件を課してはないでしょう。どこを読んでそう思う訳、道筋を示しているだけ
でしょう、十八願は衆生にたいして条件など課していません、凡夫がとんちんかんなだけで
自ら条件を造り妄想にとらわれ、いくら正行を説いても理解できないのが凡夫でしょう。
であるから条件などないのです。ただ十八願への道筋を親切に示しておられるでけですよ。
298様のように御文を読み貫き、御文のように善友に出会い善智識にお会いし、弥陀に光明摂取される
方などきわめて稀な方です。

184因幡の源左3 1:2007/12/27(木) 21:27:58 ID:Xgx5eJ68
 源左は、もともとはげしい気性の人だったらしく、青年時代には、よくカッとなって
けんかをしたこともあったし、また若いころは小ばくちも打ったようです。彼はしばし
ば自分のことを「ばくち打ちの、けんか買いの、こがな、よだきい (汚い)源左め」と
よんでおります。それだけに自制心も強く、心のうちではいつも自分と戦っていました。
その自制心を源左は、決して自分の力とはみず、如来さまのお力だといただいておりま
した。
 谷口しなという同行に、源左は、
「おかみさん、肚の立つのは、おらあ人一倍でござんすだけどやぁ、腹が立っても、お
らあ、堪える力がござんせん。だけど、こらえさしてもらいますだがやぁ、ようこそ、
ようこそ」
と語っております。しかし時には、たしなみがおよばず、ついもちまえのカンシャクを
おこすこともありました。
 源左のすぐ隣に住んでいた、二瀬川という相撲取りと、縁がわで御法義の話をしてい
る最中、小さい孫たちが、あまりうるさくさわぐので、源左はとうとう大声でしかりつ
けました。それは孫をさとすというようなものではなくて、肚の底から怒りをぶちまけ
たような声だったので、二瀬川もびっくりして、
「こんっあん(あなたさん)、こんっあんでも肚が立つかいのう」
というと、源左は、我にかえったように恥かしげに、
「立ちゃだいのう(立ちますわいのう)、借りものなら暇もかかるけっど、煩悩具足の
凡夫だけのう、肚にあるけれ、じきに出るがやぁ、ようこそ、ようこそ」
とお念仏したそうです。煩悩は借りものじゃない。浅ましい凡夫の地金です。死ぬるま
で消えもせず、たえもせず、心底でくすぶりつづけております。それが悪縁にふれると、
っいカッと燃えあがって、こころに、口に、手足にあらわれて、自分も人も、もろとも
に傷つけていくのです。こんな浅ましい愚かなものを見捨てたまわぬ如来さまであると
聞けば、「ようこそ、ようこそ、南無阿弥陀仏……」と念仏せずにおれないのです。
 下石村の山口なかが、小別所から田圃道づたいに村へ帰る途中、田植をすませたばか
りの田圃のあぜに源左がつくなんでいるのを見て、こんなところに源左の田圃はないは
ずだが、といぶかりながら声をかけると、源左はふりむいて、
185因幡の源左3 2:2007/12/27(木) 21:28:43 ID:Xgx5eJ68
「上の道を出よったら、田圃に大きな穴があいとって、おらは止めるやな奴じゃないけ
っど、源左よ、源左よ、源左がとめにゃ、この田園は干てしまうぞって、親さんが云わ
れるだけに、一間ほど出たけど、またあともどりして、止めとるだいなぁ」
といったそうです。源左は、正直に自分の持ち前の根性と、親さまのごさいそくとを告
白しております。
 道を歩きながら、ふと下をみると田圃のあぜにもぐらの穴があき、そこから水がもれ
ているのに気がついたとき、彼の心にどうしようかというためらいが生じました。他人
の田圃のことじゃないか、わざわざ降りていって穴をふさぐまでもあるまいと思ったの
です。これが彼のもちまえの根性だったのです。しかしそのとき、源左の心には、阿弥
陀仏のきびしい御意見がひびいてきました。「源左よ、お前が穴をふさがにゃ、この田
圃はひあがって、せっかく根づいた稲が枯れてしまうじゃないか、自分の田圃だったら、
お前は放ってはおくまい……」。その声によびさまされて、一間ばかりも行きすぎてい
た源左は、「はい、はい、申しわけございません」と返事をして、あわてて引きかえし、
穴をつめながら、身勝手な自分の浅ましさに冷や汗をかいていたのでしょう。
 そんな姿を山口なかに見られて「おらあ、止めるやな奴じゃないけっど、親さんがい
われるだけに、止めとるだいなあ」といったのは、彼の生々しい懺悔のことばだったの
です。それはなかに語るというよりも、如来さまに答えていたのです。
 源左はいつも「誰が悪いの、かれが悪いのちゅうても、この源左ほど悪いやつはない
でのう。その悪い源左を一番に助けるとおっしゃるで、他のものが助からんはずはない
だがやぁ。有難いのう」といっていたそうですが、「この源左ほど悪いやつはない」と
いったのは、教えの光に照らしだされて知らされた、かけねのない彼の実感だったので
す。だからこそ彼は、力のかぎり自己を慎んでいったのでした。
 さきにのべたように源左は、父がなくなった翌年、万延元年四月八日に、当時の鳥取
藩から、彼の勤勉、実直と孝行をめでて表彰されています。それが仏法を深く味わうよ
うになって、一そう美しくみがかれていき、村の人たちからもしたわれ尊敬されるよう
186因幡の源左3 3:2007/12/27(木) 21:29:35 ID:Xgx5eJ68
になりました。三十八歳、四十二歳、七十六歳の三回にわたって鳥取県知事から善行賞
をうけ、また本願寺からも三十七歳と四十歳の二回、表彰され、紺紙金泥の六字名号を
おくられております。
 大正六年、七十六歳で、三度目の県知事賞をもらったとき、願正寺の住職が「じいさ
ん、今日は知事さんから表彰されておめでとう」とお祝いをいうと、源左は、
「なんのなんの、きつい御意見にあずかりましてなぁ、この源左めが、親さんの顔に傷
つけちゃならんぞってなぁ、南無阿弥陀仏…」
と答えたそうです。源左にとって善行賞は、善いことを行ったからいただいたのではな
くて、悪いことをして、親さんのお慈悲に傷をつけるなよと、きびしい説諭をいただい
ていることだったのです。
 そんな源左ですから、晩年に用ケ瀬の正覚寺の住職が「おじいさん、あんたを妙好人
伝に載せるがのう」といったとき、彼は、とんでもないことだとおことわりして、
「まんだまんだ、だいてつかわんすなよ。これから監獄の厄介になるかも知れんけ」
というので、住職が「なぜだがやぁ、八十七にもなって」というと、
「煩悩具足の凡夫でござんすけえなぁ、十悪五逆の罪をもったおらでござんすけえなぁ」
と答えたということです。煩悩のありだけを、そっくりそなえている凡夫であってみれ
ば、八十になろうと九十になろうと、悪縁にふれれば、何をしでかすかわからない、不
気味な、危いものであるということを源左ははっきりと知らされていたのです。
 そんな源左にとって、何にもまして尊いものは、如来さまからいただいた南無阿弥陀
仏でした。源左は安岡しなに「一口称えて足らんでなし、千口称えて足ったでなし、た
だお念仏は、せいだいて、たしなまして頂きましょうぞなぁ」と語ったといわれていま
すが、一声一声無上の宝をいただいて生きるよろこびが、彼の全身にあふれていました。
毎日、よくとおる声でお念仏をしながら、腰を二重におるようにして田圃道を歩いてい
た源左の姿を思い出して、小谷しげは「源左さんの歩くその一歩一歩が、ほんに南無阿
弥陀仏でしたげなぁ」と述懐しております。
 源左が八十九歳でなくなる間ぎわのことです。村役場の人が帳面をさげて源左をたず
ねてきました。「お前は有名な人じゃで、村役場にも記録をのこしておきたい。何か記
187神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 21:31:09 ID:Xgx5eJ68
憶している大切なことがあればいうてくれ、書きとめておくから」というと、源左は、
「書いときたけりや、南無阿弥陀仏と書いてごしなはれ」
といったそうです。すばらしい三日です。時宗の開祖一遍上人がなくなる直前に、所持
しておられた書物をすべて焼きすてて、
「一代の聖教みな尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」
といわれたことが思いあわされます。

「ようこそ、ようこそ」という源左の口ぐせは、彼の信心の流露でもあったのです。
もともと南無阿弥陀仏とは「ようこそ阿弥陀さま」と広大な仏恩をよろこぶ信心の表白
でした。人生のあらゆるできごとの奥に、阿弥陀仏の大悲のお手まわしが、すみずみに
までゆきとどいていることを感じとる豊かな心を育てられていくのが念仏の行者ですが
源左は、人生全体を「ようこそ阿弥陀さま」といただいていく信心の智慧をたまわって
いたのでした。
 八十九年の長い人生を、孜々として働きつづけた源左でしたが、あるとき彼はわが手
をじーつとみつめながら、かたわらの人に、
「親からもろうた手は、つよいむんだのう。いっかな、さいかけせえでもええけのう」
といったそうです。「さいかけ」とは、鍬や、からすきの先に、鋳物でできたかたい刃
先をつけかえることをいうのですが、この手は、「さいかけ」をしなくても、何十年も
つかって、すりへることもなく、欠けもせずに働いてくれるが、なんとありがたいこと
だろうと、しみじみとよろこんでいるのです。
 私どもはふつう手が動くのはあたりまえだと思っていますから、そのことに感動する
というようなことはありません。この一見なんでもない、あたりまえのことに、霊妙な
「いのち」の不思議を感じ、もったいないこととおしいただく心こそ、仏法に育てられ
た深い智慧であるといえましょう。
 そういえば源左には、こんな話があります。ある夏の昼さがり、夕立にであった源左
は、全身ぬれねずみのようになって田圃から帰ってきました。そのすがたをみかけた願
正寺の住職が「じいさん、ようぬれたのう」と声をかけると、ふりむいた源左はずぶぬ
れの顔をほころばせながら、
「ありがとうござんす、御院家さん。鼻が下に向いとるで有難いぞなぁ」
といったそうです。
188因幡の源左3 5:2007/12/27(木) 21:33:37 ID:Xgx5eJ68
 この鼻が上向きについておれば、雨はみな鼻の穴へはいってしまうが、下向きについ
ていてくださるとは、何としたありがたいお手まわしであろう。おかげさまで、ずぶぬ
れになっても、息がつまることもなく、苦にもならん、そうおもうと彼は雨にうたれな
がらも「ようこそ、ようこそ」といわずにおれなかったのでしょう。
「暑かったら背にかけるむなぁあるし、雨が降りや傘はあるし、親様は何でもええやぁ
にしてくださるで、何で小言がいわれようかいなぁ」
と、よくいっていたそうです。「親様がええようにしてくださる」というひとことのな
かに、あらゆるできごとのなかに如来のおぼしめLを聞き開き、味わいながら生きよう
とする彼の如来中心の人生観が見事にあらわされております。
 阿弥陀仏を、尽十方無碍光如来ともいいますが、それは十方の世界をつつんで、生き
とし生けるすべてのものを、さわりなく救おうと働きつづけている大智大悲の親がいる
ぞとつげしらせる御名であります。すでに十方無碍の救い主であらせられるのならば、
地をはう一匹の虫にも、空をかける一羽の小鳥にも、大悲智慧の願いは同じようにかけ
られており、万物はみな同じ親の願いを宿された兄弟であるといわねばなりません。
「十方衆生とよびかけて下されてあるからにゃあ、虫もこの源左も同じことに助けてい
ただくだけのう。ようこそ、ようこそ」
といっていますが、彼の生きている世界の深さと広さがしのばれます。源左の語録をみ
ておりますと、牛も馬も狐も虫も、みんなお浄土への仲間だったことがわかります。ま
して人間はみな兄弟でした。
 松山ひめのが、山根村へ嫁いできて間のないころのことです。朝、仏前でひとり「正
信偈」のおっとめをしているところへ、見知らぬじいさんが、ぬーつとはいってきて、
「ここにも兄弟がおらんしたかいなあ」といわれた。びっくりして名前をたずねたら、
それが源左だったといいます。小さな村のことですから、松山家へ嫁がきたということ
は源左もよく知っていたと思いますが、その嫁が「正信偈」をあげているのを通りすが
りに聞いて、わがことのようにうれしかったにちがいありません。「ここにも兄弟がお
らんしたかいなぁ」と思わずいったことばには、いいしれぬなつかしさがこもっており
ます。
189神も仏も名無しさん:2007/12/27(木) 21:34:16 ID:Xgx5eJ68
源左が、柿ぬすぴとが怪我をしないようにと、自宅の横の柿の木に梯子をかけておい
たという話は有名ですが、こんな話もあります。あるとき、老母が芋をたべたいという
ので畑へいってみると、ちょうど誰かがきてせっせと芋を掘っていました。芋泥棒です。
それをみると源左は、くるりと引きかえしてきました。手ぶらで帰ってきた源左に母親
が「あんや、芋はどがなこったいのう」とたずねると、
「ああ、今日はおら家の掘らん番だっていのう」
と答えたそうです。
一所懸命に育ててきた芋を盗んでいる奴をみたとき、源左の心には、むらむらと怒り
がわいてきたにちがいないが、次の瞬間には、一つ間違えば自分が盗む身になっていた
かも知れないという思いがうかんできました。そうしなければ自分も家族も生きていけ
ないような羽目におちいるならば、きっと盗む身になっていたにちがいない。それが今
はめぐまれて盗まれる身になっているだけです。それにしても盗みぐいをしなければな
らない人は、どんなにかみじめな思いをしているかと考えると、源左は彼に気づかれな
いように、そっと引きかえさずにはおれなかったのでしょう。お互いに顔を見れば、あ
とあとまで気まずい感情が尾を引くからです。
 しかしここまでならば、よく出来た人というだけですが、「今日は、私とこの掘らん
番だったようだ」といってのけたとき、もうそこには、盗むとか盗まれるとか、おれの
もの、他人のものといった私有観念をこえた広々とした世界が開けております。人間は
勝手に、この土地は自分のもの、この畑は誰それのものときめて、主人顔をしておりま
すが、それはただ人間同士の約束事にすぎません。本当は、畑も芋も、田圃も家も、す
べて如来の領分なのです。蓮如上人はこれを仏法領といわれております。私はただ仮の
所有主であるにすぎません。源左はそうした仏法領に生きていた人でした。だからこそ
「今日は私とこの掘らん番だったようだ」といえたのです。
190おわり:2007/12/27(木) 21:34:50 ID:Xgx5eJ68
 またあるとき、麦の追肥をしようと、肥桶をかついで出かけたが、途中でよその家の
田の麦がやせているのを見ると、「どれ、こっちが先だがやぁ」といいながら、その麦
に肥料をやって帰ってきたそうです。源左にとって、わが田、ひとの田が問題じゃなく
て、麦そのものがいとおしかったにちがいありません。「さあ、この肥で力をだして、
大きくなれよ」と声をかけながら肥をやっていたにちがいありません。
 源左には三男二女の五人の子供がありましたが、長男は生れて間もなく死に、次男の
竹蔵は、源左が八十歳のとき、四十九歳の若さでなくなり、三男の萬蔵も、その翌年、
四十七歳でなくなりました。八十の坂を越して、二人の息子に先立たれた悲しみはどん
なに深かったかしれません。そればかりか彼は生涯に二度も火災にあって家が丸焼けに
なっております。しかし源左は、お念仏に支えられながら一家をがっちりと守り、立ち
直っていきます。そして村人たちのよき相談相手となって、人々から敬愛されていきま
した。夫婦のいさかい、親子げんか、土地争い、水争いといった日常のさまざまな問題
を、源左は見事にさばいていきました。
 あるときは、道行く人の荷物をもってあげて一緒に歩きながらお念仏のいわれを語り
かけ、またあるときは人の肩をもんだり、お灸をすえながら仏法を語るといった、文字
通り「自信教大信」(自ら信じ、人を教えて信ぜしむ) の生涯をおくっていったのでし
た。
191298:2007/12/27(木) 22:23:06 ID:CDXVgeFz
>>177
>御文も御文章も、蓮師ご自身が言われたことを根拠に、そう言い慣わされてる。
>それに比べて、あなたのお聖典という言葉遣いは、根拠あるの?

申し訳ありませんが、おっしゃっていることの意図がよくわかりません。
明治書院版にも、本願寺版にも、法蔵館版にも、
背表紙に『聖典』と書いてあります。
何がおっしゃりたいのですか?
聖教一度も読まなくても、信心決定できるこの道ですよ。
どうでも良いことに、こだわっていませんか。
行は易行でも、このようにして、凡夫の側から近づかないだけです。
これを指して、難信であり、易往にして人無しと言うのです。
信を獲ていないのに、獲ていないと認めない。
それで良いと思うなら、私を批難する必要もなく、
あなた様は、あなた様の安心を抱いて後生を迎えればよいでしょう。
それで良いなら、それで良いではありませんか。
どうして求めている方の邪魔をしようとするのですか。
求めている方は、このような雑音はすべて無視し、すべての壁を乗り越え、
大火を超えて、戸を開くまで叩き、六字の謂れを聞き開いて、
信心決定してください。
無人空きょうの沢は、走り抜けねばなりません。
十八願の信は、いただけばいただいたとわかるものですし、
ご聖典の文言と割符が合います。
192298:2007/12/27(木) 22:28:02 ID:CDXVgeFz
>>177
>あと、自分自身お聖典を読み込んでないのに、なんで、
>お聖典を読み込んでいる人なのかそうでないのか判断できるの

法然聖人のお弟子さんたちも、法然聖人ほど聖教を読み込んでいなくても、
「聖人は聖教を読み込まれている」と判断なさったと聞いています。
そんなにおかしいことでしょうか?
読み込んでいるからと言って、それで信が穫れるわけでもありません。
ただ、信を穫らずして、「信を穫るとはどのようなものか」という知識が
増えます。
193298:2007/12/27(木) 22:32:52 ID:CDXVgeFz
>>177
>要らん、要らん。自力の迷信働かし、
>如来の徳を手掴みで、心得たるは心得ぬなり。

これで、信を穫っていると思えるなら、どうぞそのまま
後生をお迎え下さい。
そのような説法なら、あちこちで聞けます。
あなた様のように素直な方なら、それで納得できるのでしょう?
まわりの方も救われていますか?
それならそれで、良いではありませんか。
私は疑い深くて、無理でした。
私は、私と同じ様に、それでは満足できない方に向けて話しているのです。
釈尊にはじまる弥陀の真実行が、今に至るまで大切に保存されていることを、
お伝えしたいのです。
あなた様のような方は、もう救われているのですから、要のない話しでしょう。
あなた様の説であれば、私も、既に救われているわけでしょう?
救われている私に対して、どうしてまだ言いたいことがあるのですか?
「ご聖典」と言えば救われないのですか?
そんな矛盾している説は、私には無理です。あしからず。
194298:2007/12/27(木) 22:38:46 ID:CDXVgeFz
>>177
条件がないと言い、「ご聖典と言うな」と言う。
全く矛盾しています。
私は、「念仏」という条件があると言います。
弥陀が救うのは、念仏衆生です。
ただし、この真実の念仏は、凡夫の機を問いません。
誰もができる易行、非行の行であり、他力の行です。
ですから、この意味で、「機を問わない」の意味で
条件が無いのであり、光明摂取には、真実行が必要です。
たのむ必要がない信心なら、布教の必要も有りません。
あなた様にとっては、もう、既に世界中の人も救われているのでしょう?
良かったですね。何もすることもありませんね。
ゆっくり、お休み下さい。一体何を広めたいのですか?
一方、私はそう思っていません。ひとりでも多く、
救われて欲しいと思っています。
195298:2007/12/27(木) 22:43:37 ID:CDXVgeFz
>>183
263様、本当に難信之法ですし、
自障障他の働きをする方が現れますね。
ご聖典の通りです。
177様は、方便の何たるかを知らず、見当違いの
批難をしておられます。
心無い方が批難している間にも、
宿善開発の行者は、見つけるべきことを見つけ、
救われてゆくでしょう。
南无阿彌陀佛
196298:2007/12/27(木) 23:48:10 ID:CDXVgeFz
>>178
>裏返してみりゃ、そこまでしてもらわにゃ、救われがたい五逆十悪の大悪人が
>何を隠そうここで書き込みしてる、この私だったってこと。

「そこまでしてもらわなにゃ」とのことですが、
私から見ると、この解釈だと、阿弥陀如来は何もしていないし、
南无阿彌陀佛の必要もないように見えるのです。
まるで、裸の王様のようです。
197298:2007/12/28(金) 00:33:49 ID:J3AI2PiR
>>178
>裏返してみりゃ、そこまでしてもらわにゃ、救われがたい五逆十悪の大悪人が
>何を隠そうここで書き込みしてる、この私だったってこと。

この考え方で信が穫れるなら、確かに、2chでも信が穫れるでしょう。
次第相承の善知識もいらなければ、弥陀も必要無いでしょう。
本を読んでも信が穫れるでしょうし、お聖教も要らないでしょう。
私からすれば、この考え方は、真宗を語りながら、真宗を否定しているのであり、
結局は、本願を疑っている人物の発言なのです。
自らも弥陀をたのまず、他の方にも、たのませないようにしている、
自障障他の働きに見えます。
198298:2007/12/28(金) 00:54:46 ID:J3AI2PiR
>>177, 178
繰り返し読んでみましたが、十劫安心との違いが分かりません。
私にそう見えるだけなのでしょうか。
199298:2007/12/28(金) 01:03:30 ID:J3AI2PiR
>>166
>S会にいたので、あまりに「獲信が大事」といわれ、念仏との関係がよく把握できていません。
>みなさんのご意見をお聞かせいただきたいです。

誰もレスしないので、再度書きます。
凡夫が生涯にただ一度の行で満足できる、真実の念仏というものがあるのです。
これにより、不可思議な弥陀の救い(光明)を受けて、
真実信心をいただきます。
祖師の方々も、この真実行に驚いて、伝えるために
力を尽くしたのだと私は思っています。
200神も仏も名無しさん:2007/12/28(金) 01:13:52 ID:7PDu1CX4
すいませんが
因幡の源左さんについての感想をお願いします

>>177-178は文体が親鸞会の関係者臭いですね。
2012000:2007/12/28(金) 01:15:58 ID:WywFCp4u
>>298
初カキコです。
最近親鸞会を辞め、善知識を求めさまよっている者です。
親鸞会にいても心に響く説法は全く聞けず、
ただ時間だけが過ぎてしまいました。

人生は苦しく、信心決定を焦る気持ちと、かといって働いて競争社会で
勝ち残らねば生きていけない現実と、どこに向かえばよいかわからない
状況です。
なにかアドバイスをいただければ有難いです。
202298:2007/12/28(金) 01:27:22 ID:J3AI2PiR
>>201
まず、信心いただくというのは、極楽往生治定するということです。
そうなると、厭離穢土欣求浄土になり、煩悩具足の凡夫に変わりありませんが、
弥陀にいただいた信心により、それでも、変化があります。
ましてや、後念相続すれば、心持ちも変わります。
「勝ち残らねば生きて行けない現実」というのは、幻想であると
私は思います。
勝っても負けても、怒っても喜んでも、みなさん生きています。
「仁義を守れ」と蓮師はおっしゃっているのですから、
仕事にも精を出して、そして、真実信心を求めたら良いのではありませんか。
行自体は易行ですから、ご縁さえあれば、信心決定はアッという間です。
私がお伝えしたいのは、信心決定は夢物語ではなく、
本当に、凡夫直入の近道があるということです。
203298:2007/12/28(金) 01:28:19 ID:J3AI2PiR
>>201
それと、まず会わねばならぬのは、善知識ではなく、
信心決定の行者です。これを間違えると、迷い込みやすくなると思います。
204298:2007/12/28(金) 01:34:43 ID:J3AI2PiR
>>200
源左さんの感想ですが、「とても素晴らしい方だなあ」としか、
申し上げようがないのです。
真宗に関しての情報が、少な過ぎます。
感謝の気持ちが育っている方は、真宗に限らず、いると思うのです。
また、信心いただいたからと言って、皆が源左さんのように
素晴らしくなれるわけではありません。
(というより、ほとんどならないでしょう。
一気に変わるのは、極楽浄土に往った後のことです。)
善人に早変わりするわけではないのです。
ですから、真実信心いただいても、まわりの方も、気付かないかもしれません。
(急に善人になれば、何かおかしいと思うでしょうが・・・)
それでも、私は、真宗は、つくづく仏法であると実感し、
弥陀の無上方便に感謝しています。
この気持ちは、うまく伝えられないのです。
2052000:2007/12/28(金) 01:41:49 ID:WywFCp4u
>>298
お返事ありがとうございました。
あっという間という言葉に若干出口を感じることができてうれしいです。
ずっと「仕事を辞めて聞け」が頭の中にあり
「仕事を辞める覚悟で聞かねば助からない」わけではないのですか。

信心決定の行者といっても雨世の星であり、思い当たるといえば華光会
ですがどうでしょうか。
大沼法龍さんの本も好きで昔から読ませていただいています。
206298:2007/12/28(金) 01:42:39 ID:J3AI2PiR
>>201
お聖教に真実権仮があるように、釈尊も、定散善を説かれたように、
私も、このスレと前スレで、さまざまなことを書いています。
「抽象的」という方がいらっしゃいましたが、
読めていないだけです。
私の言うことに、もし少しでも真実をお感じになるのなら、
道がわかるように書いてあります。
このスレだけでも、注意深く読めば、わかります。
ご聖典と同じく、方便があるのです。
求める方には、ひとりでも多く救われて欲しいと、
私は本気で考えています。
207298:2007/12/28(金) 01:47:12 ID:J3AI2PiR
>>205
真実信心の方は、無宿善の機もいる場所では、基本的に外相に出さないはずです。
ですから、本願寺様にも、親鸞会様にも、華光会様にも、あるいは、他宗教の会合にも、
あるいは、会社の同僚にも、いてもそれとわかりません。
異安心から守られるには、御文様が大切であると私は思います。

>「仕事を辞める覚悟で聞かねば助からない」わけではないのですか。

凡夫がそのままで助かる道ですよ。全然違います。
そして一度助かれば、もう極楽往生治定なのです。
こんなにラクな道があるでしょうか。
つくづく真宗であると思います。
2082000:2007/12/28(金) 01:54:40 ID:WywFCp4u
>>298
信心決定の人は私にはわかりません。
具体的にどうすればよいでしょうか。
本当に人生が苦しくむなしく感じられ弥陀の救いだけが唯一の希望です。
なにかオススメの本などはありますか?

こんなにラクな道と言われましても・・
全く出口が見えないんですが。
298さんは説法等はされていないのですか?
209298:2007/12/28(金) 01:56:33 ID:J3AI2PiR
>>205
>「仕事を辞める覚悟で聞かねば助からない」わけではないのですか。

こんなのは、私に言わせれば、単なる脅しです。
無視して構いません。
念仏するかどうかの一点だけです。それだけです。
覚悟もいりません。その身、そのままで良いのです。
私の知っている善知識の方は、(きれいな喩えではないかもしれませんが)
「トイレにいって、そのままお尻にウンチがついたままで来たって、
救われるんですよ」
「救われたら、毎週キリスト教会で祈っていたって、
極楽往生治定なのです」
とおっしゃっておられました。
自由な道です。
210298:2007/12/28(金) 02:02:40 ID:J3AI2PiR
>>208
具体的には、検索です。
私を探すのも、とてもカンタンです。
とにかく、尋ねさえすれば、易行であり、
弥陀を求める人には、必ずご縁が現れることになっています。
次第相承の善知識も、この日本に複数おられます。
211298:2007/12/28(金) 02:06:28 ID:J3AI2PiR
>>208
救うのは、弥陀であるのに、信前には弥陀の救いをチラつかせて脅し、
さらには、地獄の話しで脅し、そして、
せっかく真実信心いただいた(ことになった)ら、
今度は、「極楽往きの切符を落としてはならぬ!」と脅すところも
あると聞きます。
念仏衆生摂取不捨なのですから、極楽往きの切符は、
弥陀の真実信心なのですから、凡夫に落としようがありません。
治定と言ったら、治定です。だからありがたいのです。
どんな凡夫でも救うから、だからありがたいのです。
一度救われれば、凡夫の心のすべての粒子にまで、凡夫の身体のすべての粒子にまで、
弥陀の真実信心は、染み渡っています。どうやっても、落とせません。
212298:2007/12/28(金) 02:07:54 ID:J3AI2PiR
>>208
私に「本」と問えば、やはり「御文(章)」と答えますが、
そういう意味ではないのですよね・・・
2132000:2007/12/28(金) 02:10:16 ID:WywFCp4u
>>298
早速「信心決定」で検索したら親鸞会だらけでびっくりしました・・
他の298さんの言葉の中から検索したらそれっぽいのも出てきましたね・・
求めても大半は未信のまま後生の一大事に突っ込んでいくのではないのですか?
しかしこの末法に次第相承の善知識がそんなにおられるのでしょうか・・
19、20願も面倒くさがって実践できていない自分です。
助からない可能性の方が高い気がします。
214298:2007/12/28(金) 02:11:45 ID:J3AI2PiR
>>208
もうひとつ具体的には、御文をよく読んで、御文と領解を
合わせてゆくのです。
たとえば、私に何かを感じられたのでしょう?
このスレを見てみても、非難囂々です。
それでも興味があるのであれば、
そこには何かしらの感覚が働いているはずです。
それを信じてゆくのです。
2152000:2007/12/28(金) 02:14:12 ID:WywFCp4u
御文章はかなり拝読してきたつもりですが・・中でも白骨の章はかなり好きです。
「後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏をたのむ」がイマイチわかりません。
雑行・正行の分別がそんなに大事かな?とも思います。
なぜ御文章なのですか?
216298:2007/12/28(金) 02:16:20 ID:J3AI2PiR
>>213
このスレも前スレもそうですが、私が言っていることは、
なかなか信じる方は少ないはずです。
求めても、大半が未信のまま突っ込むのは、
信心決定の行者に会っても、気付かないか、信じないからです。
しかし、これまた信じにくいようなことを言いますが、
私は、これから日本には真宗再興の時期が来ると考えています。
末法でも、止住百歳の法ですよ。
求めている方が、全員救われるだけの数はいらっしゃいます。
行としては、19→20→18の順にやさしくなります。
ここから先は、宿善や、ご縁次第で、私には、なんとも言えないところです。
217298:2007/12/28(金) 02:20:22 ID:J3AI2PiR
>>215
>「後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏をたのむ」がイマイチわかりません。

これは信前にはわからないのが正常です。
それを、「わかったこと」にしてしまうと、先に進めません。
六字の謂れを聞き開けば、わかります。
信を穫れば、領解文もわかります。

>雑行・正行の分別がそんなに大事かな?とも思います。

これは、めちゃめちゃ大事です。
雑行は、どんなにやっても往生治定しない。
正行は、一発で極楽往生治定。この差はとても大きいです。
と言うより、それが真宗のすべてです。
この「選択」に本質があることを、
法然聖人が選択集にてお示しくださいました。


>なぜ御文章なのですか?

宿善の機が読めば気付くようにと、蓮師が願を立てた上での
ご製作だからです。
救いの法は変わりませんが、凡夫を救い摂るために、
方便は蓄積されてきています。
そもそも、六字名号もご方便であり、
あくまでも、漢訳以降の存在です。
2182000:2007/12/28(金) 02:20:56 ID:WywFCp4u
>>298
>たとえば、私に何かを感じられたのでしょう?
前スレの「阿弥陀仏の救いに対しての執着が無くなる」という表現が
非常にわかり易くてショックでした。
やはり298さんの言われるとおり「阿弥陀仏が必ず救って下される」と言う
説法を繰り返し聞くしかないのですね。
219298:2007/12/28(金) 02:24:36 ID:J3AI2PiR
>>218
>やはり298さんの言われるとおり「阿弥陀仏が必ず救って下される」と言う
>説法を繰り返し聞くしかないのですね。

これは誤解です。生涯に一度で満足のできる念仏があるのです。
ですから、「繰り返し」ではありません。
「ただ一度」です。
220298:2007/12/28(金) 02:27:05 ID:J3AI2PiR
一念義と勘違いされないために補足しますが、この「ただ一度」が誤解されて、生涯に一度「ふつうに口にとなえれば」極楽往生治定だと説く方々が出てきたのです。
一念と多念で争うことに意味がないのは、真実信心は、自動で相続されるからです。そして、この相続された信心が口から出てくると、御恩報謝のお念仏になり、上は一形まで続く訳です。
2212000:2007/12/28(金) 02:27:45 ID:WywFCp4u
>>298
誤解でしたか。聞き誤っていました。
では今私が出来ることは信心決定の行者を求めて検索していくという
ことでしょうか。
華光会には近い将来行く予定です。
しばらく親鸞聖人のようにさまよわねばならないですかね・・
222298:2007/12/28(金) 02:31:07 ID:J3AI2PiR
>>221
どの人を、「信心決定の行者」であると、2000様がお感じになるか、
それは私には、わかりません。
ですから、どれほどさまようことになるのかも、わかりません。
時間がかかる方もいれば、早い方もいるでしょう。
それは、宿善の厚薄によるのだと聞いたことがあります。
何を正信と感じるのかも、宿善によるのです。
2000様が御納得するには、2000様にとって、
「ここに真実がある」という有縁の場所に辿りつくしかないと思います。
2232000:2007/12/28(金) 02:35:10 ID:WywFCp4u
>>298
遅くまでありがとうございました。
非常に有難いご縁でした。
やはりなかなか信心決定は遠いな、という感じです。
298さんと思われるホームページも発見したので熟読してみます。
224298:2007/12/28(金) 02:39:16 ID:J3AI2PiR
>>223
真宗の繁昌は、ひとりにでも信を穫っていただくことにあるのですから、
弥陀のご恩、善知識のご恩、善友のご恩を考えれば、
何ということもありません。
骨も砕けていませんし。
225神も仏も名無しさん:2007/12/28(金) 03:14:30 ID:rQ8fgNfn
>>210

>具体的には、検索です。
>私を探すのも、とてもカンタンです。

このホームページでよろしいでしょうか?間違えていたら申し訳ございません。
     ↓
http://gokurakuhodo.com/
226298:2007/12/28(金) 03:45:18 ID:J3AI2PiR
>>225
これは、私ではないのですが、こんなページもあったのですね。
知りませんでした。ちょっと読んでみます。
227298:2007/12/28(金) 03:51:13 ID:J3AI2PiR
>>225
>遠からず全人類が直面するであろう、もはや人間の知恵や意思では
>どうすることも出来ない目前の宇宙惑星間核戦争を含め、
>人類間の核戦争と地球環境の破壊というこの二つが招く更なる大惨事を

読んでいたら、こんなフレーズが出てきました。
私の言うことも、なかなか信じてもらえないと思っていましたが、
世の中には、上を行く人がいますね。
ちょっとびっくりしました。
228298:2007/12/28(金) 04:17:18 ID:J3AI2PiR
>>225
こちらのホームページの中まで読んで、私の主張と同じであると
お感じになられたのですか?
参考のため、教えていただけると、うれしいです。
229神も仏も名無しさん:2007/12/28(金) 05:24:34 ID:rQ8fgNfn
>>228
お返事有難うございます。>>225です。
一応、中身を読ませていただいた上で、です。
いくつか298様の使っていない用語があったのですが
文体と主張全体が似通っていると感じ問わせていただいた次第です。
230298:2007/12/28(金) 05:58:25 ID:J3AI2PiR
>>229
なるほど、わかりました。
確かに、似ているところがあります。私も、そこにも、びっくりしました。
もちろん、法脈がどこに広がっているか、私にもわかりません。
私がおかしいと思うのは、次第相承の前に「弥陀一念信受による他力至心
回向の極意を会得」していることです。
また、もし私であるとすれば、やはりどこかで御文について触れているはずでしょう。
それに、私は「信心決定の行者に会うのが先」と書いています。
あと、気になるのは、キーワードが「十念授受の聞信受」であること、
無料贈呈しているのに、内容がHPで公開されていないこと、
「称」の一字を軽視している、
瑞祥を強調していることです。
御開山一流であるなら、「称」を軽視するのは、考えにくいです。
なぜなら、「ハカル・カナフ・トナフ」の意味がある、大切な字だからです。
(他には、「タタフ」等)
それに、「帰命」ではなくて、「信受」となっています。「タノム」も
重視されていません。「スガタ」もありません。
さらに、善知識は弥陀の代官であると思うのですが、「菩薩の代弁者」と
あります。
しかし、とても興味深いページです。
231298:2007/12/28(金) 06:13:52 ID:J3AI2PiR
>>229
それに私は別に隠したいわけではなくて、
いろいろ比較して、そして、たとえば私の言っていることに
うなずける人に尋ねてほしいと思いました。
ただ、よくよく考えると、HPが荒れるのを
恐れているだけなのかもしれないと思いました。
それに、URLを書いたところで、さらに別のページと
見比べることもできます。
十分探せるように書いたつもりでしたが、
どのような凡夫でも救わねばならぬ真宗の使命を
考えたときに、「中まで読んだ」と聞き、
私は探す方の智慧を要求していると思い、
反省させられました。
ですから、きちんと書いておきますが、
私のHPは、http://shinshu.in/ です。
232神も仏も名無しさん:2007/12/28(金) 07:01:06 ID:rQ8fgNfn
>>229です。http://shinshu.in/forum/forum.cgiの掲示版までは
検索で行き着いたのですが・・・
「ジャンヌ」の枝のような板かと思いきちんと調べませんでした。

「次第相承の善知識」で検索の結果が「浄土真宗・十念往生会」の板です。

298様がHPのアドレスを明かされなかったのには>>231にあるようにいろいろ訳があったと思います。
結局私のレスは「HPをあかせ!」みたいになってしまいました。申し訳ございません。
南旡阿彌陀佛。
233神も仏も名無しさん:2007/12/28(金) 07:44:40 ID:rQ8fgNfn
>>230
>とても興味深いページです

ご参考までに、こちらのHPの寺院も現在の真宗全体の潮流のなかにおいて
少しく異彩の主張をされておられる教団です。
       ↓
http://www4.ocn.ne.jp/~myorenji/framepage1.htm
234神も仏も名無しさん:2007/12/28(金) 11:16:18 ID:5mEX0pkX
298さん、もうあなたのスレみたいになってますので
専用スレでもたててください。
人の話も聞かないで、ひたすら相手に分かっていない、分かっていないじゃ
話合いにならないでしょう。
ここは妙好人を通して、みなが学ぶスレなのにあなたの独演会になってるいるんじゃ
とても真宗に学ぶ雰囲気づくりができません。
相手との呼吸の中で自分も学び、相手もそれを知識があるなかにも何か学べるものが
あるとかんじ、互いに磨かれていくことがスレの目的ではないですか?
あなたの姿は勝他のために法を道具にしているようにしか見えません。
今まで我慢してきましたが、もう目にあまります。
あなたの自分の法を伝えたいという気持ちはもう分かりましたから
相手の話に寸分も聞く姿勢がないなら、失礼ですがスレから出て行ってくれませんか?
もし、この話に異議があったり、無視するようであればこちらが他スレをつくりますので
どうか今一度胸に手を当てて考えて見てください。それでは。
235298:2007/12/28(金) 12:36:27 ID:j8EBsGne
>>234
>人の話も聞かないで、ひたすら相手に分かっていない、分かっていないじゃ
話合いにならないでしょう。

一体どうして、そう思われたのですか。
どちらかと言えば、私が否定されてきているように思います。
寸分も聞く姿勢もないのは、あなたでしょう?
236298:2007/12/28(金) 12:55:55 ID:j8EBsGne
>>234
>人の話も聞かないで、ひたすら相手に分かっていない、分かっていないじゃ
話合いにならないでしょう。

それに、私はこのようなことをしているつもりはありません。
これまでの私の書き込みを、よく読んで下さい。
私が「自力の信」と言うことを指しているのですか?
一昨晩の夜の方とも、対話していると私は感じました。
いわれのない批判をされていると感じます。
また、「あなたが自分の法を伝えたい」とおっしゃるのであれば、
私の言っていることが、全然わかっていないと思います。
「御文を読んで下さい」が、なぜ「自分の法」になるのですか?
聖典類を離れ、独自の味わいを述べる事こそ、「自分の法」だと思います。
237渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/28(金) 13:16:16 ID:JmCso1xU
>>http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1191756120/727 名前:298
>雑を修するは至心ならざれば、千が中に一もなし

>>http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1191756120/728 名前:298 
>易行であり、平生業成であり、100発100中の報土往生をおすすめくださっているのです。

 298さんの疑問を解いておこう。298さんは何と言っているのか。「雑を修するは至心ならざ
れば、千が中に一もなし」。雑を修行すれば仮土に至るというが、その仮土に至るというのは大
変なことだ。千が中に一もない。それよりも簡単なのは、報土往生だ。回り道をしないで、真っ
直ぐに報土往生を求めればいいじゃないか。そういう主張と理解します。

 「雑を修するは至心ならざれば、千が中に一もなし」。これは、化身土巻で、双樹林下往生を
説明している文の一部である。298さんは、非常に引用範囲が狭い、きちんと引用して欲しい。
きちんと引用すると次のような文になる。
 
 また云わく、それこのごろ自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専修に異あり。ただ
意を専らにして作さしむれば、十はすなわち十ながら生ず。雑を修するは至心ならざれば、千が
中に一もなし、と。已上

 ここで大事なのは、「また云わく」という引用語だ。また云わくという言葉が繰り返されてい
る。「また云わく、・・・。 〜(3回繰り返しあり)〜 また云わく、・・・。また云わく、
それこのごろ自ら諸方の道俗を見聞するに 〜 千が中に一もなし、と。已上」
 「また云わく、・・・。」は計6回繰り返している。また云わくとは、「同じような意味だが、
次のようなことも言っている」という意味だ。6回の繰り返し直前に次の文がある。
238渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/28(金) 13:16:55 ID:JmCso1xU
 光明寺の和尚の云わく、自余の衆行はこれ善と名づくといえども、もし念仏に比ぶれば、まっ
たく比校にあらざるなり。このゆえに諸経の中に処処に広く念仏の功能を讃めたり。『無量寿
経』の四十八願の中のごとき、ただ弥陀の名号を専念して生を得と明かす。また『弥陀経』の中
のごとし、「一日・七日弥陀の名号を専念して生を得」と。また「十方恒沙の諸仏の証誠虚しか
らざるなり。」またこの『経』(観経)の定散の文の中に、ただ「名号を専念して生を得」と標
す。この例一にあらざるなり。広く念仏三昧を顕し竟りぬ、と

 つまり、「光明寺の和尚の云わく、自余の衆行はこれ善と名づくといえども、 〜 千が中に
一もなし、と。已上」は、一体の段落を作っている。長い段落の一部をつまみ出してきても全く
意味はない。

 298さんが引用している「雑を修するは至心ならざれば、千が中に一もなし」という議論の
全体の主張何か。それは次の文である。冒頭にある。
 「光明寺の和尚の云わく、 〜 専念して生を得と明かす。」という文である。

 善導大師は言う。善導は、念仏と念仏以外の行に分けて説明する。念仏以外の行は、仮にこれ
を善と名づくといえども、もし念仏に比べれば、全く比べものにならない。だから、さまざまな
経典の中に広く念仏の功能を讃めている記載がある。大無量寿経は48願の中で、ただひたすら
阿弥陀仏の名号を専念して往生せよと言っている。
 
 また云わく、それこのごろ自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専修に異あり。ただ
意を専らにして作さしむれば、十はすなわち十ながら生ず。雑を修するは至心ならざれば、千が
中に一もなし(298さんの引用文
239渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/28(金) 13:18:26 ID:JmCso1xU
 最近私(善導)自身が各地の出家・在家の人に会い、話を聞く中で感じたことがあります。2
98さんのように頭で理解していることと、実際に自分が行動していることが違っています。一
生懸命にしていることが違っています。心を一つにして専ら念仏を称えていけば十人は十人なが
らみな、極楽浄土に往生します。ひたすら、ひたすら念仏を称えれば、全員が難思往生を遂げ、
果遂の誓いによってやがて難思議往生を遂げるでしょう。
 298さんのように、念仏を疎かにし、それ以外の行を行っていけば、千人中一人も、報土
(難思議)往生どころか、仮土(難思)往生も遂げません。

 念仏以外の行を修行していけば、自余の衆行はこれ善と名づくといえども、もし念仏に比ぶれ
ば、まったく比校にあらざるなり。念仏以外は至心とは言えませんから、千人いても一人も極楽
浄土に往生できないのです。298さんのように録に念仏を称えなければ、どんな善知識に会い、
聖教を読んでも、千人中、一人も極楽浄土に往生できないのです。


 辺地に生じて、疑いの罪を償いて後、報土の覚りを開くとこそ、承り候え。信心の行者少なき
ゆえに、化土に多く勧め入れられ候(歎異抄)。

 「雑を修するは至心ならざれば、千が中に一もなし」という本当の意味をしっかり認識すると
いいだろう。
 「それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。」
 298さんは、念仏念仏と口では言いながら、報土往生に先行する真門の仮土(難思)往生も
遂げていない。仮土(双樹林下)往生している邪定聚の機だということだ。

 宿善なくは、ちからなし(蓮如)。
240渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/28(金) 13:35:54 ID:JmCso1xU
>>237-239
  >>12の続きです。
241298:2007/12/28(金) 13:38:11 ID:j8EBsGne
渡海 様

今時間がありませんので、また今晩書き込みます。
また、源左さんについて問われた方、あれだけでは感想としてご不満でしょうから、
さらに書こうと思います。
「情報が不足しています」ということは述べましたので、
そこから先は、不足しているなりに、推測できることになります。
あくまでも「感想」ということですので、その方針で述べようと思い、考えています。
渡海様、私は、あくまでも「念仏」こそが正行だと繰り返し書いています。
念仏の中に、さらに正雑があり、この「正」の中に、さらに専雑があるのです。
私が「念仏を称えない」と、一体どこからそう思われたのかわかりませんが、
真宗の念仏、真実の行は、生涯一度の念仏で、信心決定し、
その後の念仏は、御恩報謝なのだと、繰り返し書いているつもりです。
242神も仏も名無しさん:2007/12/28(金) 13:39:25 ID:5mEX0pkX
>>235-236
あなたのいいたいことは分かりました。
相変わらず、他人の言葉に従うということがありませんね。

>>All
僭越だとは思いましたが、別スレを立てました。
こことは少しちがう主旨の下、真宗について語り合えたらと思いましたので、
もし賛同してくださる方がございましたら、是非いらしてください。

243神も仏も名無しさん:2007/12/28(金) 13:42:11 ID:5mEX0pkX
場所は妙好人で検索してください。

ここと名前がかぶってしまいますが、本当に妙好人について語るつもりでたてたもの
ですから、どうぞご勘弁いただきたく思っております。

2442000:2007/12/28(金) 17:18:38 ID:WywFCp4u
>>298
昨日はありがとうございました。
やはり私の探し当てたページと同じで安心しました。

信心決定の行者は本当にいるのですね。
インターネットによって本当に浄土真宗がまた広まっていくかもしれませんね。
昨日の質問のつづきですが298さんは「世間の暇を欠きて聞くべし」はどう
解釈されますか?
また、親鸞会で救われる人がいないのはなぜだと思いますか?
私も10年以上親鸞会で求めましたがだめでした。
若し親鸞会で求道のベクトルがずれていたら修正せねばならないと感じています。
ここより掲示板で質問した方がいいですかね・・
245263:2007/12/28(金) 22:01:30 ID:KuDZg+Hn
298様、HP見させて頂きました、いやはや頭がさがります。

これは私たちの中で話題になると思います、このようなサイトがあるとはびっくりしております。

私どもはどうやって人々を聞かそうかいつも頭をなやませて過ごしています。

今でも身近な人を聞かすのに苦労しておる最中です。言うにいわれずの法ですから

ですが298様の行っていることは非常に参考になります。

いまはただあなた方のような方がおられるというだけで非常に嬉しいですよ。


246298:2007/12/29(土) 00:28:21 ID:qk95TZlv
>>237
>298さんは何と言っているのか。「雑を修するは至心ならざ
れば、千が中に一もなし」。雑を修行すれば仮土に至るというが、その仮土に至るというのは大
>変なことだ。千が中に一もない。それよりも簡単なのは、報土往生だ。回り道をしないで、真っ
>直ぐに報土往生を求めればいいじゃないか。そういう主張と理解します。

これは、その通りです。
私の主張をご理解くださったことに感謝します。
ただ、そこから先の解釈は、私と渡海様では、異なるのです。
それは、「念仏とは何か」という問題です。
私からすると、渡海様の言う「念仏」は、「念仏」ではなく、
「自余の衆行」に入るのです。
渡海様も、通常の「念仏」が「念仏」ではないと思われたから、
五会念仏をおすすめになっているのではないのですか?
難信之法なのですから、すぐにご理解いただこうとは思っておりません。
信じないままで、不信のあるところがあれば、
幾度でも問うていただければ、うれしく思います。
この箇所について言うならば、「意を専らにして作さしむれば」と言われても、
一体どうすれば? と思う方なら、希望があるのです。
つまり、「至心がむずかしいのであれば、『意を専ら』も、
むずかしいのでは?」という疑問です。
これは、「専念とは何か?」「念仏三昧とは何か?」という疑問でもあります。
実際、これらの箇所は、文字通りに読めば、矛盾があるように見えるのです。
こういう疑問を、周囲に問うて行くのが、「信心の沙汰」であり、
探して行けば、きちんと答えてくれる方に出会うというお約束なのです。
ですが、こう言われても、受け入れることは、きっと難しいだろうと思います。
ですから、受け入れてもらえなくても、仕方が無いと思っています。
それでも、私の主張を読み取っていただけたことは、とてもうれしいです。
247298:2007/12/29(土) 00:46:55 ID:qk95TZlv
>>244
私の方こそ、このようなお話に耳を傾けてくださいまして、
心より感謝申し上げます。
信心決定の行者は、もちろんおります。

◎信にまた二種あり・・・一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。
この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。
これを名づけて信不具足とす

とある通りです。
止住百歳のお約束です。

「世間の暇を」につきましては、掲示板の方に書いておきました。

>また、親鸞会で救われる人がいないのはなぜだと思いますか?

もし、本当にいないなら、正法が伝わっていないということだと思います。
248298:2007/12/29(土) 00:50:48 ID:qk95TZlv
>>245
263様、過分なお褒めのおことば、ありがとうございます。
何しろ浅学なため、間違いはいろいろとあると思います。
お気づきの点ありましたら、ご指摘いただけると、本当にうれしいです。
私も263様の存在を見つけて、とてもうれしかったです。
正信が生きていると知ることは、本当に本当にうれしいことです。
249298:2007/12/29(土) 01:01:01 ID:qk95TZlv
>>200
源左さんについてですが、私が考える真宗念仏者だと仮定してお話しします。
私の考える真宗念仏者だとすれば、牛のとなりで信心決定はしておりません。
私が以前読んだ本では、その後ご隠居様に会いに行っております。
決定したとしたら、このときです。
しかし、私が以前読んだ本では、この部分があいまいになっており、
よくわかりませんでした。
掟を考えて、わざと曖昧にしたのかどうかも、私にはわかりません。
また、源左様に信の穫り方について尋ねた方がいたとしても、
必ず宿善の有無について見ております。
ですから、そこは対機で接せられたはずです。
「善知識が牛」というのは、広い意味での善知識のことだと思います。
そう言ったときに、納得してしまう方は、宿善が無いのです。
宿善ある方は、さらに尋ねてくるはずです。
私は、すばらしい方便であると感心している次第です。
南无阿彌陀佛
250263:2007/12/29(土) 01:11:57 ID:jkFZn1Kn
いえいえこちらこそです、間違いはございません、むしろ自信をお持ちになられては

と思うしだいですよ。ひとつお伺いしたいのは還相回向の菩薩について

どのように思われていますか、唐突ですがよろしければお願いします。

わたしは如来ニ種の回向である往相・還相回向によって瞬時に生まれ変わる離れ業

を得るのであるから、あなたも還相回向の菩薩であるといいたいのです。

251298:2007/12/29(土) 01:32:04 ID:qk95TZlv
>>250
往還については、>>2でも少しご指摘ありましたが、
説が分かれるところだと思います。
かなり個人的な意見になりますので、
少し書くのに躊躇する面もありますが、
掲示板の方にお書きします。
これから書きますので、少し時間が経ってから
見て頂けるとうれしいです。
252298:2007/12/29(土) 02:30:48 ID:qk95TZlv
>>250
ただですら難信なのに、余計ヘンに思われそうなことを書きました。
そのうち消すかもしれません。
南无阿彌陀佛
253渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/29(土) 10:50:49 ID:qkS7VEPm
>>248
>お気づきの点ありましたら、ご指摘いただけると、本当にうれしいです(>>248)。
   ご指摘しても改まらないんじゃ指摘した甲斐がない。

 それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし(化身土)。

 298さんは真門に入って 難思往生を願おうなどという気持ちにならんでしょう。
 難思往生を通らず、自分は既に難思議往生(報土往生)を遂げているつもりになっている。ま
さに邪定聚の機が双樹林下往生し、千年、二千年、一万年の惰眠を貪っている典型だ。

>>246
>「意を専らにして作さしむれば」と言われても、一体どうすれば?
  不定聚の機に向かって言っている話であって、邪定聚の機に理解できる話ではない。
  宿善開発してから質問したらどう?。

>「専念とは何か?」「念仏三昧とは何か?」という疑問でもあります。
  念仏を称える気持ちのない邪定聚の機に理解できる話ではない
  宿善開発してから質問したらどう?。

>文字通りに読めば、矛盾があるように見えるのです。
   矛盾があるのは298のおつむの中だ。
254渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/29(土) 10:51:56 ID:qkS7VEPm
>こういう疑問を、周囲に問うて行くのが、「信心の沙汰」であり
   邪定聚の機に、双樹林の下で信心の沙汰などあるわけがない。

>きちんと答えてくれる方に出会うというお約束なのです。
  念仏を称えない人と約束した覚えはないでしょう。
  信心なきひとには、あうまじきぞ(蓮如)。
 双樹林下往生しただけで、難思議往生したつもりで天狗になっている人には会うなと蓮如は言
っておるんじゃろう。

>受け入れることは、きっと難しいだろうと思います。
   邪定聚の機が真門を受け入れること、これが難しい。宿善なくは、力なし
   298が難思往生することはなく、まして難思議往生などは夢のまた夢。長い長いトンネ
ルの中。

>受け入れてもらえなくても、仕方が無いと思っています。
  双樹林下往生しただけで、自分は難思議往生したつもりでいる人を、誰が受け入れるもので
すか

>私の主張を読み取っていただけたことは、とてもうれしいです。
   なるほど、なるほど。貴方に宿善が開かれるときがくることを祈っているよ。
255渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/29(土) 10:53:33 ID:qkS7VEPm
>>241
>「念仏」こそが正行だと繰り返し書いています。
   解行不同にして専修に異あり(化身土)。298はおつむと口と腹が別人格だ。

>念仏の中に、さらに正雑があり、この「正」の中に、さらに専雑があるのです。

 同一念仏無別道故。
 独創説を立てるのもいいが、その場合には、自分の考えと対立する先人の説をしっかり批判し
てからにしなさいな。

>私が「念仏を称えない」と、一体どこからそう思われたのかわかりませんが、

 ほらほら、そこが称えてない証拠だ。自分の顔を鏡でみてみなさい。「私は念仏を称えていま
せん」と、ほっぺに大きく書いてある(笑)。

>真宗の念仏、真実の行は、生涯一度の念仏で、信心決定し

 これは、正定聚の人の話だ。貴方のような邪定聚の人の話ではない。
 至心信楽の願 正定聚の機(信の巻 冒頭)
 乃至一念は、至心信楽の願の願成就。貴方のような邪定聚の機とは関係がない。

>その後の念仏は、御恩報謝なのだと、繰り返し書いているつもりです。

 正定聚の機の念仏は御恩報謝かもしれないが、貴方のような念仏のない邪定聚の機に御恩報謝
と言われても、言われた仏は迷惑だろう。
256298:2007/12/29(土) 11:01:39 ID:6jZDzq3R
>>253
>ご指摘しても改まらないんじゃ指摘した甲斐がない。

残念ながら、当面は無理なようです。
心のどこかにでも、ヘンなことを言っていた奴がおったと、
印象に残れば幸いです。
257298:2007/12/29(土) 11:02:40 ID:6jZDzq3R
>>233

ご紹介ありがとうございます。また今晩見てみるように致します。
258神も仏も名無しさん:2007/12/29(土) 11:08:12 ID:YTjRUNVq
>252
「それ、信心をとるというは、ようもなく、ただもろもろの
雑行雑修自力なんどいうわろき心をふりすてて、
一心に深く弥陀に帰する心の疑なきを真実信心とは申すなり」
条件などない。なにのようもなく、弥陀を憑め。蓮如上人は仰る。
何故、自分勝手に義を拵えて、何が自分を動かしているのかアビダルマしないのか。
私はこんな体験をしたから、心得ている。だからみんな私を認めなさい。
不安で仕方ないから、信心得ている確証が欲しい。
凡夫の欲は限りない。それは妄念より起こるのに、妄念を真実だと錯覚するから、始末に悪い。
さらに人をして渇愛に翻弄させる。
259神も仏も名無しさん:2007/12/29(土) 11:18:48 ID:YTjRUNVq
298さんは、なにのようもあって、弥陀をたのむ。故に、自力です。
260298:2007/12/29(土) 11:21:41 ID:6jZDzq3R
>>258
「わろき心をふりすてて」というのが、なかなか凡夫にはできないのです。
そして、「ふりすて」は、条件です。
また、「弥陀を憑め」とは、何ですか。心光常護を獲よ、ということではないのですか。
「憑め」は、条件です。
善知識に会うことも、条件です。御文にきちんと書いてあります。
五重の義も、条件です。成就せねば、いたずら事です。
おっしゃる通り、妄念に真実はありません。
ですから、弥陀の真実信心をいただくのです。
261神も仏も名無しさん:2007/12/29(土) 13:32:43 ID:uh7CMOmC
横レスすみません。

無条件の救いだ、とよく言われますが、
阿弥陀仏の救いには、「条件つきの部分」と「無条件の部分」があると思います。

1、条件つきの部分
領解文にある
「ようもなく、ただもろもろの 雑行雑修自力なんどいうわろき心をふりすてて、
 一心に深く弥陀に帰する心の疑なき」の部分。弥陀に帰命しなければならない、という条件。
(ここの部分は、わたしの感覚でいえば、「帰命させられている自分を発見する」という感じなのですが)

2、無条件の部分は
 「(弥陀に帰命すれば)どんな極悪人でもOK」という、罪悪の軽重を問わない無条件の部分。


もし全くの無条件ならば、今ごろ私たちはすでに救われてしまって、人間界ではなく、悟りの世界にいるはず(菩薩・仏となり衆生を救済している)。

でも、1の条件をクリアしなかったから、前世まで救われなかった、なので今世でも迷いの世界(人間界)に生まれ苦しんでいる自分がいる、ということでしょう。


わたしは真宗学を学んだわけではないですが、自分の体験の上から「まったくの無条件」「条件などない」という発言は、たとえ信後の人であってもおかしいと思った次第です。
「条件などない」なら、苦しい求道(お導き)などなくても、聞即信の境地にたどりつけていることになってしまう。
この「たのむ」の部分は大事だと思うし、教学のない私には298さんの文章は「なるほど」と思わされるところが多いです。
わたしも他の方々と同様、御文章を読み始めました。教学と自分の体験がつながっていくのを感じています。

横入り失礼しました。
262神も仏も名無しさん:2007/12/29(土) 14:27:47 ID:YTjRUNVq
タノメはタノメ。そのままで、条件ととる必要があるのでしょうか。
蓮如上人はタノメとお勧めになられるが、私はタノンダ者であるとは言われない。
機の深信の必然的結果だと思われます。凡夫のお願い、はからい一切役に立たないからです。
お西の三業惑乱の論点ですね。
なかなか凡夫にはできないと言うけれど、
なかなかどころか、一微塵もできる要素は凡夫にはないでしょう。
弥陀の救いを求める資格さえない者が、下品下生、底下の凡愚であります。
何のようもなく、とは、まこと何の用事も凡夫には作り出すこと不可能、
自力のはからい無用と言うことを顕したお言葉とは頂けませんか?
一心一向の一心とは何だと思われますか?金剛心、菩提心。凡夫が起こすことかないますか?
全く仏心でしょう。そうでなければ、浄土の因になるわけがない。
一心に弥陀をタノム、もはや凡夫の作業ではありえませんね。
往生ほどの一大事、弥陀にまかせまいらせている姿こそ、信心であって、
得たの得ないの、条件あるのないのと、
自らの心にとやかくはからっている姿に信はないでしょう。
あとは寝ても覚めても御名称え、相続に生きる。かならず浄土に参らせるという
私のでもなく、善知識のでも無論ない、弥陀の願いを日々聞かせてもらう。
怒りが出れば、また出たか、また地獄種作るか、良薬あるのにと、
これが仏になる不思議を味わい、欲出れば、苦果を生じるは当たり前、
それを摂取して捨てたまわずとは、かたじけない
ざるは水につけておけ、まことですなぁ、南無阿弥陀仏
263渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/29(土) 23:22:28 ID:qkS7VEPm
>256
>心のどこかにでも、ヘンなことを言っていた奴がおったと、印象に残れば幸いです。

 自分は変なことを言っていたのかも知れないと言うことが、298さんの心のどこか
に残ったようだ。一つの収穫だろう。その思いは是非大事にするといい。
 その思いはまだ海のものとも山のものともわかんないけど、心が開くきっかけにな
ることを期待するよ。
 
264渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/30(日) 00:38:01 ID:GGTZipyP
>>261
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取して捨てざれば 阿弥陀と名づけ奉る(和讃)

 阿弥陀仏の救いは決して、無条件の救いではありません。念仏を称える者を救うのであり、念
仏を称える者という厳然とした選別条件が付いています。

 念仏以外の諸条件は、全て念仏の中に納まり、念仏の中で氷解していきます。

 この上は、念仏を取りて信じ奉らんとも、また捨てんとも、面々の御計らいなりと(歎異抄)

 阿弥陀に救われるか否かという選択権は我々衆生の側にあります。要するに念仏を取るか捨て
るかの二者択一です。

つねにその名号を称えて彼の恩徳を報ずべしと勧め給えり。また曰く、十方群生海、この行信
に帰命する者を摂取して捨てず。かるが故に阿弥陀と名づけ奉る。これを他力という。
                        浄土真要鈔

 恩徳を報ずるも、帰命するということも、すべて、我々自身が称名念仏するか否かという一点
にかかっています。

 すなわち選択本願の名号を一向専修なれと、教え給う御ことなり。専復専というは、はじめの
専は、一行を修すべしとなり。復は、又という、重ぬという。しかれば、また専というは、一心
なれとなり。一行一心を専らなれとなり。専は、一という言葉なり。専らというは、二心なかれ
となり。ともかくも移る心なきを専というなり。この一行一心なる人を摂取して捨て給わざれば、
阿弥陀と名づけ奉ると 唯信鈔文意

 ひたすら念仏を称える。念仏を続ける。これが救いの唯一の全ての条件と考えます。
265298:2007/12/30(日) 00:59:36 ID:H+HFNsOV
>>261

おっしゃる通りで、凡夫の罪悪の軽重は問われません。
凡夫の側に問われるのは、宿善のみです。
ただし、宿善の有無をはからっても仕方ありません。
法を求める方ならば、宿善があるのです。
宿善が無ければ、求めているようでいても、
途中でやめてしまいます。
凡夫の自力の行ではないのですから、「求める」と言っても、
求めるのは、弥陀の救いの法なのです。
「求道」と書いて、本当に「道」を求めるのです。
四諦を聞いた時、「苦集滅道」とあり、
「なぜ、道が明示されないのだ?」と疑問に思いました。
覚りに至る道を、もっと明確に示してほしいと思いました。
実際は、私が知らなかっただけで、知っている方は、
伝えよう、伝えようとしておられます。
この娑婆世界には、弥陀の救いという、本物の宝があります。
御文章を読み始められたとの事。
誠にうれしく存じます。

南无阿彌陀佛
266298:2007/12/30(日) 01:04:46 ID:H+HFNsOV
>>262
>なかなか凡夫にはできないと言うけれど、
>なかなかどころか、一微塵もできる要素は凡夫にはないでしょう。
>何のようもなく、とは、まこと何の用事も凡夫には作り出すこと不可能、
>自力のはからい無用と言うことを顕したお言葉とは頂けませんか?
>一心一向の一心とは何だと思われますか?金剛心、菩提心。凡夫が起こすことかないますか?
>全く仏心でしょう。そうでなければ、浄土の因になるわけがない。
>一心に弥陀をタノム、もはや凡夫の作業ではありえませんね。
>往生ほどの一大事、弥陀にまかせまいらせている姿こそ、信心であって、

この部分は、私も同じ考えなのです。
最後の最後、自力から他力に移る部分が、私と違うのです。

>弥陀の救いを求める資格さえない者が、下品下生、底下の凡愚であります。

そして、ここは違うと思います。凡夫のための救いでもあるのですから、
皆様資格をお持ちであると思います。
どんな罪人でも救うのですから。
267298:2007/12/30(日) 01:40:24 ID:H+HFNsOV
>>233

ざっと見ただけなのですが、それほど異彩とは感じませんでした。
私の感覚がずれているのかもしれません。
もちろん、私は、異彩に興味があると言うよりも、真実信心に関心があります。
268神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 02:09:54 ID:YpyqQ49c
>265
>ただし、宿善の有無をはからっても仕方ありません。
>法を求める方ならば、宿善があるのです。

私もまったくそうだと思います。
しかし、求めても求めても弥陀に会えなかった日々では、「私は無宿善ではないのか?」とくよくよ悩みました。
そして、「私は無宿善だ」とあきらめてしまった後で唐突に弥陀に出会い、「私には宿善があり余るほど与えられていた」と知らされました。
その後で、弥陀の慈悲の洪水の中にいるのに、「分からん、分からん」と言っている求道者を見るにつけ、じれったく、やきもきする気持ちが出てしまいます。


>実際は、私が知らなかっただけで、知っている方は、
>伝えよう、伝えようとしておられます。

全国には善知識が点在しておられるのでしょうか??
わたしがお世話になっている法座以外では、獲信者が生まれる場所をあまり知りません。
2・3箇所は聞いたことがあるのですが・・・。
もっとも、泥凡夫の自覚がある念仏者がみずから「おれこそ善知識だ」と大っぴらに名乗り出ることは、まあ不自然だなとも思います。

>自力のはからい無用と言うことを顕したお言葉とは頂けませんか?

これは私の場合、はからい無用というより、「はからい無効」の方が合う感じがします。
そりゃあ、はからいは無用ですが、「無用だよ」と言われて捨てられるものじゃなかったです。
捨てようとする姿勢もはからいであったから、どうしたらいいのか?ともがくそのままが「はからい」。
もがいてはからってはからって、自分ははからいから逃れられない、というところではからいが尽きた、という感じでした。


このように「どうすればいいのか?」「どうすれば信心いただけるの?」という苦悩を経験せずとも獲信する方というのは、実際にはおられるのでしょうか?
269298:2007/12/30(日) 02:19:17 ID:H+HFNsOV
>>268
>そりゃあ、はからいは無用ですが、「無用だよ」と言われて捨てられるものじゃなかったです。

本当に、そう思います。自分で捨てられるような方なら、
弥陀の救いを必要としないと思います。
「自力の心をふりすてて」を自分でやろうとして、
苦しんでいる方がたくさんいるように思います。

>「私には宿善があり余るほど与えられていた」と知らされました。

この感覚は、私には、あまりありません。
「よく救われたなあ」「本当に、得難い縁を獲た、運が良かった」のような
感覚です。


>全国には善知識が点在しておられるのでしょうか??

私も、詳しくありませんが、どうも、点在しておられるようです。


>このように「どうすればいいのか?」「どうすれば信心いただけるの?」
>という苦悩を経験せずとも獲信する方というのは、実際にはおられるのでしょうか?

事実上、いないのではないでしょうか。
重度障害の方が救われた例を見聞しましたが、
その方も、言葉に表せなかっただけで、おそらく苦しまれていたことと思います。
270298:2007/12/30(日) 02:32:02 ID:H+HFNsOV
>>268
>もがいてはからってはからって、自分ははからいから逃れられない、
>というところではからいが尽きた、という感じでした。

これは、どのような意味なのでしょうか?
私は、信をいただいた後でも、はからってばかりです。
271298:2007/12/30(日) 02:39:07 ID:H+HFNsOV
>>262
>タノメはタノメ。そのままで、条件ととる必要があるのでしょうか。

◎「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名
無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏
の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。

「必要」と言うよりも、素直に読めば、条件と読めるような気がします。
たとえば、この文だけでも、

1)善知識にあふ
2)そのおしへをうく
3)この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのむ

と3つの条件が書いてあると思います。
「この」南無阿弥陀仏とは、「善知識にあひて、そのおしへをうけた」
南無阿弥陀仏のことだと思います。
「〜たのめば」「かならず」ですので、10人の行者がいれば、
10人救われます。
272神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 02:48:16 ID:YpyqQ49c
>>>268
>>もがいてはからってはからって、自分ははからいから逃れられない、
>>というところではからいが尽きた、という感じでした。

>これは、どのような意味なのでしょうか?
>私は、信をいただいた後でも、はからってばかりです。

これは、1行目の「はからい」と2行目の「はからい」の意味が違うのです。
1行目の「はからい」は、
>私は、信をいただいた後でも、はからってばかりです。
の「はからい」と同じ意味。

2行目は、その「はからい」を握りしめる力が尽きた、ということです。


つまり、はからっている自分に見切りをつけさせてもらった、ということです。
273神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 02:58:08 ID:YpyqQ49c
>>「私には宿善があり余るほど与えられていた」と知らされました。

>この感覚は、私には、あまりありません。
>「よく救われたなあ」「本当に、得難い縁を獲た、運が良かった」のような
>感覚です。

「運が良かった」というのは私も強く思います。

「宿善が与えられていた」というのは、
自分の中に仏法を求めて求道するぞ、という種がまったく見当たらない自分が、
電車に乗って法座に出て、嫌いな仏法の法話を聞き、嫌いな仏法の話を色んな人にたずね、となえたくない念仏が口から出てくださっていた。

これは自分の中から出てきたものではなく、与えられていたものであり、しかし獲信前には
「自分の力で法座にでて念仏をとなえている」としか思えなかった。
なので、獲信してから「なんだ、全て与えられていたものだったじゃないか!」と驚いた次第です。
それに、悪を悪と感じることすら出来ない私は、過去世において善をしなかったはず。
そんな私が仏縁にめぐまれる人間界に出てこれたのは、阿弥陀様が善を私の代わりにしてくれたから。
(ここは教学的に正しくないかもしれませんが、こう味わっているのです)
なので、「宿善が与えられていた」と強く感じたのです。
2747:2007/12/30(日) 02:59:37 ID:Ni4YOWt4
このスレも、読んでます。たまには書き込みます。

有縁の獲信者に、もっと疑問をぶつけていきたいと思いました。
275298:2007/12/30(日) 03:09:06 ID:H+HFNsOV
>>273
やはりよくわかりません。
「握りしめる力が尽きた」というのは、フェードアウトする感じ、
「自力の心をふりすてて」は、もっと積極的な感じのように思います。

>なんだ、全て与えられていたものだったじゃないか!

からは、弥陀の早業を感じないのです。
276298:2007/12/30(日) 03:10:37 ID:H+HFNsOV
>>274
7様、信心の沙汰は、素晴らしいことです。
ぜひ、次第相承の善知識に逢われまして、
六字の謂れを聞き開いて下さい。
277298:2007/12/30(日) 03:19:06 ID:H+HFNsOV
>>273
>電車に乗って法座に出て、嫌いな仏法の法話を聞き、嫌いな仏法の話を色んな人にたずね、となえたくない念仏が口から出てくださっていた。
>これは自分の中から出てきたものではなく、与えられていたものであり、しかし獲信前には
>「自分の力で法座にでて念仏をとなえている」としか思えなかった。
>なので、獲信してから「なんだ、全て与えられていたものだったじゃないか!」と驚いた次第です。

これは、「それまで自力だと思っていたようなことも、実は他力だったと
気付かされた(知らされた)」のような領解でしょうか?
278神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 03:21:17 ID:YpyqQ49c
>やはりよくわかりません。
>「握りしめる力が尽きた」というのは、フェードアウトする感じ、
>「自力の心をふりすてて」は、もっと積極的な感じのように思います。

これは獲信の直前までの段階です。
>「握りしめる力が尽きた」
と書いてしまいましたが、完全に尽きたわけではなく、「ものすごく弱まった」という感じでした。

>「自力の心をふりすてて」は、もっと積極的な感じ
これはどんな感じなのでしょうか?
私は「自分の中に湧いてくる思いをいったん横に置いて、阿弥陀仏の本願に耳を向ける」という感じです。

>>なんだ、全て与えられていたものだったじゃないか!
>からは、弥陀の早業を感じないのです。

これは因他力ではなく、縁他力の部分を主に言ったものです。
一念の早業の部分ではありません。
279神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 03:23:44 ID:YpyqQ49c
>これは、「それまで自力だと思っていたようなことも、実は他力だったと
>気付かされた(知らされた)」のような領解でしょうか?

はい、そういうことです。
自分でがんばって法座に通っていると思い込んでいたので、
「思い返せば、あれもこれも仏さまの力ばっかりだったじゃないか」と驚きました。
280298:2007/12/30(日) 03:24:55 ID:H+HFNsOV
>>278
>>「自力の心をふりすてて」は、もっと積極的な感じ
>これはどんな感じなのでしょうか?
>私は「自分の中に湧いてくる思いをいったん横に置いて、阿弥陀仏の本願に耳を向ける」という感じです。

なるほど、そういうことであれば、私の領解とは異なります。
どちらが正しいかは、私にはあずかり知れぬことです。
「自力の心をふりすてて」は、名文句でありますので、
正にそのままの意味であるとハッキリわかります。
281298:2007/12/30(日) 03:28:19 ID:H+HFNsOV
>>279
もちろん、広い意味で考えれば、そのようなものも「他力」「お導き」であると
感謝できます。
しかし、「自分では絶対にできないこと」をして下さる「他力」があるのです。
真宗における本来の「他力」とは、この意味であると私は考えています。
真宗念仏行者のみが、弥陀にしていただいていることがあるのです。
282298:2007/12/30(日) 03:32:30 ID:H+HFNsOV
>>279
あくまで私の立場からの発言ということでお聞き戴けるとうれしいのですが、
そこで求めるのを止めてしまっていただきたくないです。
御文は読まれましたか? 領解が合うかご確認いただけるとうれしいです。

>>278
では、自力の心を強く握りしめている方が、弥陀をたのんだら、
救われませんか?
私は、「どんなに執着の強い方でも、弥陀をたのめば救われます」と
申し上げます。
283298:2007/12/30(日) 03:36:26 ID:H+HFNsOV
>>278
>自分の中に湧いてくる思いをいったん横に置いて

これは、凡夫にはできないと思います。
284神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 03:47:13 ID:YpyqQ49c
>なるほど、そういうことであれば、私の領解とは異なります。
>どちらが正しいかは、私にはあずかり知れぬことです。
>「自力の心をふりすてて」は、名文句でありますので、
>正にそのままの意味であるとハッキリわかります。

そりゃ聞即信の部分ははっきりそのままの意味だと分かるでしょう。
わたしが聞きたかった感覚というは、聞信するとき「自力の心をふりすてて」にいたるための姿勢のようなものです。
この姿勢が、私の場合、「自分の中に湧いてくる思いをいったん横に置いて、阿弥陀仏の本願に耳を向ける」という感じなので、
他の方は何かそのような姿勢などもっておられるか、お聞きしたいのです。

>しかし、「自分では絶対にできないこと」をして下さる「他力」があるのです。

これは後生の救い以外の特別な何かでしょうか?
285298:2007/12/30(日) 03:49:21 ID:H+HFNsOV
>>284
>>しかし、「自分では絶対にできないこと」をして下さる「他力」があるのです。
>これは後生の救い以外の特別な何かでしょうか?

いいえ。後生の救いそのものです。
286298:2007/12/30(日) 03:50:20 ID:H+HFNsOV
>>284
>わたしが聞きたかった感覚というは、聞信するとき「自力の心をふりすてて」にいたるための姿勢のようなものです。
>この姿勢が、私の場合、「自分の中に湧いてくる思いをいったん横に置いて、阿弥陀仏の本願に耳を向ける」という感じなので、
>他の方は何かそのような姿勢などもっておられるか、お聞きしたいのです。

そのような姿勢は、何一つ要らないのです。
弥陀の救いは、機を問いません。
287神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 03:55:52 ID:YpyqQ49c
>そのような姿勢は、何一つ要らないのです。
>弥陀の救いは、機を問いません。

なんというか、これが聞きたかったのです。これが私の言う「姿勢」のなのです。
288神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 03:57:51 ID:YpyqQ49c
>>278
>では、自力の心を強く握りしめている方が、弥陀をたのんだら、
>救われませんか?

自力の心を強く握りしめている=弥陀をたのんでいない
という意味でいっています。
当然、弥陀をたのんだら救われます。
289298:2007/12/30(日) 04:00:29 ID:H+HFNsOV
>>287
他力信を獲るとき、自力心は、完全にゼロです。
「死」と言われる通りです。
(あるいは、命終まで含めれば、「念仏の行者は二度死ぬ」)
290298:2007/12/30(日) 04:01:59 ID:H+HFNsOV
>>288
私たちからすれば、「弥陀をたのむ」とは、「六字と一体になる」ということなのですが、
これについては、どう思われますか?
291神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 04:12:17 ID:YpyqQ49c
>「弥陀をたのむ」とは、「六字と一体になる」

これこそそのままの意味ですよ。
「弥陀をたのむ(六字と一体になる)」になったらハッキリ分かります。

(すみません、途中ですがさすがにもう寝ます、また機会があれば明日)

298さんはきっと、おそろしく教学の文字に忠実な方なのだと感じました。
ちょっと堅苦しくて話が通じない感じがしたので、最初、もしかしてわざと揚げ足取りされてるのかな?とも思ったのですが、
教学的に曖昧な表現をしないという方のようですね。
皮肉ではなく、立派だと思いますし、大事なことだと思います。
なんというか、とてもご法を大事にされていると感じました。
南無阿弥陀仏
292298:2007/12/30(日) 04:12:18 ID:H+HFNsOV
>>287
断言はできないのですが、どうも、「気付き」系の信心であるように
感じられてなりません。
私からすれば、「気付き」と「救い」は明確に違うのですが、
これを説明するのは至難の業です。
(ですから、もし、「気付き」と「救い」の差がハッキリとわからないならば、
信前であるか、あるいは、「気付き」系である可能性がとても高いと思います。)
そのような方々は、求める方を、自分と同じ「気付き」に誘導しようと
しがちで、善意で自障障他をしてしまいます。
「弥陀が救う」というのは、文字通りの意味で、それを
気付かせるようなものではありません。
掲示板では、どうしても限界があります。
問答で信が穫れることも、ありません。
それに、私との問答よりも、御文様を読む方が良いです。
あくまでも、次第相承の善知識に六字の謂れを聞き開いた上で、
弥陀をたのまねばなりません。
293298:2007/12/30(日) 04:13:41 ID:H+HFNsOV
>>291
おやすみなさいませ。
南无阿彌陀佛
294298:2007/12/30(日) 04:54:41 ID:H+HFNsOV
>>291
>ちょっと堅苦しくて話が通じない感じがしたので、最初、もしかしてわざと揚げ足取りされてるのかな?とも思ったのですが、
>教学的に曖昧な表現をしないという方のようですね。

揚げ足を取りたいのではなくて、表現もまろやかですし、
とても誠実で、良い方のように思いましたので、
万一、他力信を穫られていないことをご心配申し上げたのです。
大きなお世話と思われるかもしれませんが、
弥陀を求められている方が、第十八願に辿り着く前に満足されていたとしたら、
それこそ悲しいではありませんか。
本当に、極難信之法なのです。
大事なことなのですから、そして、もし既に救われているなら、
何の心配も、ないわけですから、念のために、御文様とご領解を合わせて
いただけたら、うれしいのです。
御文様は、一文字一文字が佛菩薩であって、蓮師の苦労の賜物です。
やり取りしていて、どうも安心できぬのです。
教学の文字そのままの救いを獲ている方が、「堅苦しい」とはおそらく
感じないのではないかと思います。
「本当に、文字通りの救いである」と感じるような気が致します。
「蓮師もいい加減に書かれたのであろう」ということであれば、
結局は、信じていないということになるではありませんか。
これだけやり取りしていれば、他力信を獲ている方であれば、
それとわかることをおっしゃってくださるはずだと思います。
295神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 06:49:27 ID:BYFhH7kQ
>>267
298様へ。>>233です。少し補足いたしますと当該寺院は江戸時代、西本願寺で起きた三業事件で
事実上敗北した能化学派を奉ずる寺院で「法住教団」という宗教法人だそうです。

現在、西本願寺(お東はよく知らないのですが)の説教でよく表現されるところの「既にお救いが先手であった」
というのは三業事件の勝利の側である空華学派の教説がもととなっておるそうです。

298様からすればいわゆる「気付き系」と言われるものと同じかと思われます。能化学派もこれを
「空華無帰命」、「無信心」と呼び厳しく批判しているそうです。

私は今からかなり以前に法住教団の50代と思しき女性布教使の法話を一日だけ聞いたことがあります。
当時は10代だったためよく内容が分からなかったのですが、ただ非常に「タノム」を強調されていた
ことは覚えています。(当然お取次ぎの善知識も強調されておったように思うのですが、ここのところはよく覚えていません)

298様もタノムを大切にされておられますので、今後の六字相続の上での何らかの一助になればと
思い紹介させていただいた次第です。何か不愉快と感じてしまわれたなら申し訳ございません。

南旡阿彌陀佛


296神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 09:12:41 ID:ghkpjZ2I
西本願寺 こないだ行った 何の工事してるのですか?
297298:2007/12/30(日) 09:31:22 ID:QpkCEq58
>>295
233様、貴重な情報を、ありがとうございます。
HPを軽く見ただけでは、よくわかりませんでした。
遠慮されているのでしょうか?
不快に思っているわけではございませず、
私の不足を感じ入っている次第です。
三業惑乱についてですが、「御裁断申明書」を、私は大変
ありがたい文書であると思っています。
(『御書』は、とても短いですので。)
一枚起請文、改悔文(領解文)という、素晴らしい名文がありますが、
申明書には、具体的にいろいろと書いてあります。
ですので、私は、有縁の方に申明書もおすすめしております。
このように、ご方便は重なってきていますので、
日々ありがたいことであると感謝している次第です。
また、多くの方の三業惑乱の理解には、誤解があると私は感じていますので、
この掲示板をご覧の有縁の方に、少し申し述べます。
三業惑乱時の御裁断では、タノムに三業があることを否定していません。
そこでは、「このたのむ一念につきて三業の儀則を穿鑿し」という
異安心が述べられています。
298298:2007/12/30(日) 09:31:44 ID:QpkCEq58
>>295
これは、「三業の儀則」を否定しているのではないのです。
「(相承の正義ではなく)穿鑿」を否定しています。
掟があるのですから、とても注意深く書かれているのです。
『御書』と合わせて読むと、さらによくわかる工夫になっています。
こちらでは、「当流に沙汰せざる三業の規則を穿鑿し」を
否定しています。
また、「三業をいめるまま、たのむのことばをきらひ」を
否定しています。(すなわち、無帰命を否定しています。)
両書とも、勇気のある書であると、私は尊敬しております。
聖典にも、礼拝身業、讃嘆口業、作願観察廻向意業について
書いてあります。
否定されるのは、これらの聖典の記述にもとづき、
次第相承に基づくのではなく、自らの文字力に基づいて、
三業を推測し、正義と主張している方々です。
(推測すること自体は、人間の心の自然な働きです。
それを推測と忘れ、正義と主張するところに問題が生じます。)
一流の信心は、「〜派」というかたちでは、まとまっていないはずです。
何といっても、外相には出さないのですから。
そして、正義なのですから、派も何もありません。ひとつだけです。
つまり、私の考える真宗に派はありません。私の考える真宗は、真宗ただひとつ。
美しい気持ちからのご紹介、深く感謝しております。
ところで、233様は、信をお取りになっていらっしゃいますでしょうか。
299298:2007/12/30(日) 09:36:37 ID:QpkCEq58
>>295
しかし、タノムを非常に強調されるご法話、
一度聞いてみたいですね。
そのうち、顔を出してみるかもしれません。
南无阿彌陀佛
300298:2007/12/30(日) 10:19:19 ID:QpkCEq58
>>235, 232

南无の「无」に「旡(き)」の字を使っていらっしゃいますが、
これは、謂れがあるのでしょうか。
301神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 10:53:05 ID:BYFhH7kQ
>>295です
旡の字を使っているのは下記のご開山のお六字様のムに似ているからなのですが・・・
「角川新字源」で調べたらあまりよい意味ではないようなので改めます。
           ↓
http://www.e-butsudanya.co.jp/kakejiku/k2012.html

>233様は、信をお取りになっていらっしゃいますでしょうか

獲ております。ただ、根っから「空華」で聞いてきた者ですから、
298様のお領解の表現とは異なるものと存じております。

但し、「タノムを極端に嫌う」、「信を獲たと言うのを恥ずかしがる」という
現代の真宗全体の風潮にはおかしいと思うところがあります。
302298:2007/12/30(日) 11:02:29 ID:QpkCEq58
>>301

>獲ております。ただ、根っから「空華」で聞いてきた者ですから、
298様のお領解の表現とは異なるものと存じております。

そうですね、それであれば、異なると思います。

>但し、「タノムを極端に嫌う」、「信を獲たと言うのを恥ずかしがる」という
現代の真宗全体の風潮にはおかしいと思うところがあります。

ご和讃を見ましても、

◎真実明に帰命せよ

◎平等覚に帰命せよ

◎難思議を帰命せよ

◎畢竟依を帰命せよ

◎大応供を帰命せよ

どう読んでも、素直に読めば「帰命せよ」でございます。

人数の多少に意味はありません。真実かどうかだけです。
303神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 14:49:00 ID:rqpBmBHN
>>301
あぶねえな・・・一言だけ
三業派の原点といえるのは功存の『願生帰命弁』
願生帰命弁は無記安心を破すために書かれたものだ。
三心一心の一心を欲生で取り、三業の欲生=タノムがなければならないとした。
以下『願生帰命弁』のタノムについての名義について顕した部分。

 そのたすけたまえと云うは南無の二字なり。御たすけ一定往生決定とは、阿弥陀仏の四
字なり。またこれ論の「称彼如来名 如彼如来光明智相」等とのたもう他力の一心なり。
宗家の曰う、「言南無者即是帰命、亦是発願廻向之義」等と。その南無の言を善見論等に
は、翻じて「度我」といえり。その南無帰命を諺解して、「たすけたまえとたのむ」とは
のたまえり。
 たのむといえばとて、頼憑恃怙等の字をもって解すべからず。その頼字は、たのみにす
ることなり。憑は、よりかかるなどのこころなり。今のたのむと云うは、願文の欲生我国
、成就の文の願生彼国と説きたまえる如実の欲と願とのおもむきなり。善導大師の、「願
仏常摂受」とのたまえるが如し。然るに今は、最初帰命一念開発のすがたなり。故に御文
章に「南無というは願なり」と、また「南無というは極楽へ往生せんとねがいて、弥陀を
ふかくたのみたてまつるこころなり」とのたもう。

さてこの文の問題は?
答えは「頼憑恃怙等の字をもって解すべからず」に、憑の字が入っていることである。
本当に功存が言うように宗祖は「憑」の字使われなかったのだろうか?
304神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 14:49:22 ID:rqpBmBHN
行巻 註釈版187
  いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。
  ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。
  ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品)といへり。
  曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上)といへり。
  仰いでこれを憑むべし。
  もつぱらこれを行ずべきなり。
信巻 註釈版295
  ここをもつて、いま大聖の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、
  大悲の弘誓を憑み、
  利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。

このように宗祖の文にはっきりと「憑」の字が使われているのである。
「憑」とは「よる。よりかかる。たよりにする」の意味である。
宗祖は「帰」の字に「ヨリタノム」と左訓を書かれており、帰命の「帰」が「依り憑む」
を意味している事は明らかである。
功存は「タノム」は「憑む」ではなく欲生を意味していると誤解してしまったのだ。
意図的にしたのでなければ功存は不勉強であり、この手の不勉強が
三業惑乱を起こしたとも言える。

三業派ではタノムの理解に狂いが生じ、それにともなって帰命の解釈も
宗学のものと異なってきている。帰命とは三心の欲生を意味し、
三業わたって欲生の思いをもって願生しなければ往生する事はでいないとするのである。
そしてそれが帰命であると言うのだ。彼らは本願寺の宗学を無帰命であると批判するが、
それは本願寺の帰命の解釈が間違っていると批判しているのである。
しかし、上に見たとおり、タノム=帰命の意味を間違えているのは彼らの方だ。
(それに本願寺の宗学は空華とは限らない、今は学派意識は薄れているし、
 アカデミックな視点も導入されている)

宗学では蓮如上人のタノムも依憑であるとされるが割愛。
305神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 16:43:26 ID:GGTZipyP
>303
 ココハ インターネット ノ ケイジバン ナンダ シロート ニ モ ワカル ヨーニ
セツメイ デキン モンカ ネェ?
306神も仏も名無しさん:2007/12/30(日) 17:05:48 ID:GGTZipyP
>301
>> 233様は、信をお取りになっていらっしゃいますでしょうか
>獲ております。

 コーユーナラ ジブン ノ ナ ヲ ナノル ナリ スクナク 
トモ コテハン ニ シテ ホシイ ヨ ネェ
307神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 00:20:45 ID:SNBwJ/OT
>303
いや、まっこと。根っから空華学派?って、どこまで読んだんだよって聞きたいよね。
空華と一言で言い切れるほど、堺・越中皆網羅された上で書いているのかと。
責任もって発言してほしいと思うよ、ホント。適当な情報が垂れ流しにされて、
さらに、それを鵜呑みにした人が、そこに立って発言する。
既成概念を勝手に構築してる人に、その既成概念を破す話を一からやって、
やっと、話せる土俵が出来るという具合。そっから本題に入らなきゃならない。
気がとおくなる作業だよ。話す気も失せる。
コマーシャリズム・過剰表現大好きっ子たちが、
信心と言う名の新たな刺激を見つけて欲望する、
そんな人を対象にしたスレになってきてるんじゃないかなと。
スレタイはすばらしいのに残念な事だ。
彼らはどうして着実に学ぼうとしないんだろう。
どうして、自義にあわせた解釈に甘んじていられるのだろう。
偏った情報、自分の感覚・感情、淡い期待ばかりに従って、
果たして仏典を読み解くことが出来るのだろうか?
ゆとりなのかな?正確さよりも、刺激重視。難儀な時代だ。いや、いつの世もそんなものか。
308298:2007/12/31(月) 00:38:04 ID:ywShPZav
>>307
信を穫るために、教学の必要はありません。
一枚起請文にある通りです。
ですから、信を穫るために、着実な学びを推奨するのであれば、別義です。
もちろん、信を穫ることを目的とするのではなく、
教学の習得そのものを目的にするのであれば、別です。
このスレッドは、真実信心についてのものでしょう?
一文不知の方をも救う教えです。
批難のために語る方ならともかく、求めている方に対してであれば、
どんなに知らない方に対してであろうと、説明してゆかねばならぬと思います。
また、信を穫るために、仏典を読み解く必要等ありません。
何を意図して、そのような別義を書き込まれるのですか。
そこまでおっしゃる方が、一枚起請文を読んだことがないはずもないでしょう。
309神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 00:56:09 ID:SNBwJ/OT
私のレスは、別に教学を勧めているわけではないでしょ。
空華学派に対する誤った理解を誤っているよと言っているだけで、
何か問題が起こりえるのでしょうか?
また、私のレスは、あなたへのレスではありません。このスレの主人があなたであるならば、
そういうスレを立てればいいでしょ。【唯一の善知識】○○【真実信心】みたいにさ。
すごく偉そうなのは何故?此処は、みんなのインターネットなのに。
310神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 01:08:13 ID:nc1AxEC3
あの、お聞きしたいのですが、

〇298さんの「弥陀たのむ一念」というのはどういうものですか?

また、
〇「次第相承の善知識から教えを受け、弥陀をたのむ」という儀式の場面を具体的に描写した書物など現存するのでしょうか?
  (想像では、どうしても秘事のようなイメージしかできなくて困っています)

〇上記の善知識との弥陀をたのむ儀式に参加する形でなく、
『それまで「後生が分からない」と悩んでいたのに、ぼーっとしていたある時「弥陀たのむ」になった、驚愕の出来事だった』とおっしゃる方がありました。
そのように、儀式に参加しなくても獲信することは有りうるのでしょうか?

〇「空華の領解」と「298さんの領解」はどう違うのですか?

〇「次第相承の善知識から教えを受け、弥陀をたのむ」という儀式には、いくらくらいお金がかかるのでしょうか?

311298:2007/12/31(月) 01:11:35 ID:ywShPZav
>>309
偉そうと感じるのは主観なので、否定のしようもありませんが、
ご自分の書き込み(307)と比べて、なぜそのように思われるのか、
不思議でもあります。
「誤っている理解を誤っているよ」と言っているというよりも、
「説明するのが面倒くさい」という趣旨ではありませんか。
何が誤っているか、説明されたら良いのではないですか。
(303の方のように)
信心を求める方を、「信心という新たな刺激を見つけて興奮する」
と描写することは、大いに問題です。
信心を求めるのは、良いことです。
それをなぜ、否定されるのですか。
307のご発言は、「信心求めるより、着実に学べ」という
趣旨になっています。
意図とは異なることを書いているのかもしれません。
ご自分の書き込みを、よくお読みになって、ご確認いただければ
と思います。
「仏典を読み解く」ことを主張する方なのですから、
ご自分の書き込みも、読み解けるのではと思います。
312298:2007/12/31(月) 01:32:05 ID:ywShPZav
>>310
>298さんの「弥陀たのむ一念」というのはどういうものですか?

これは、短くお答えすることが、むずかしいです。
「弥陀の救いをいただくこと」では、おそらく答えになっていないのでは
と思います。
また、別の観点からご質問いただければ、うれしいです。

>「次第相承の善知識から教えを受け、弥陀をたのむ」という儀式の場面を具体的に描写した書物など現存するのでしょうか?

もちろん、お聖教がそれにあたります。
信を獲てから読み直したり、あるいは説明を受ければ、
それとわかるようになっています。

> (想像では、どうしても秘事のようなイメージしかできなくて困っています)

これは、今までそのような情報しかインプットされていないのですから、
自然なことです。
実際、私もそうでした。
私も、そのようなイメージを抱きながら、弥陀をたのんだのです。
313神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 01:34:44 ID:Bux6MwUp
>>308
しかし、欲生帰命説の三業派について行って、信楽一心に収まる処の三心を獲ることは可能だろうか?

その手の話を吟味せず、容易に信じる事がおそろしい結果を生むことはカルト団体を見れば明白なことだ。
そちらも御文章と照らし合わせて真偽を計るように勧めている。
(もっとも三業派についての真偽は御文章だけで判定するのは、けっこう難しい)

私の場合はその手の話は宗学に照らし合わせ吟味する。

あなたの話について引っかかった点は
1)口授面授の相承が必須とは宗学では言わない。
2)行一念のとらえ方がやや異質かもしれない。
3)一念は覚知できないとするものの、回心体験の覚知を必須としているように伺える。
 「今」たしかな信を獲ているか否かが問題なのであり回心体験の覚知の有無は問題とされない。

こんなところですね。
314298:2007/12/31(月) 01:35:17 ID:ywShPZav
>>310
>上記の善知識との弥陀をたのむ儀式に参加する形でなく、
>『それまで「後生が分からない」と悩んでいたのに、
>ぼーっとしていたある時「弥陀たのむ」になった、驚愕の出来事だった』
>とおっしゃる方がありました。
>そのように、儀式に参加しなくても獲信することは有りうるのでしょうか?

そのような方は、蓮師がおっしゃるような獲信ではありません。
しかし、そのような体験により、心の持ち方が変わったり、
感謝ができる善人になったり、心が晴れ渡るような感動を覚えたり、等のことは、
もちろん起こり得ると思います。
ですから、体験そのものは、起こりえると思います。
また、それがその方の人生を、とても良くするものである可能性も大きいです。
あくまでも、私が言うところの「弥陀の救い」では無い、というだけに過ぎません。
実際、真宗の信を求めていると思っていても、その種のものを求めている方の方が
多いのではとも思います。
真宗の信とは何かと言えば、弥陀に信心をもらって、極楽往生の因を得るのです。
本当に、難信之法です。


>「空華の領解」と「298さんの領解」はどう違うのですか?

「空華の領解」というよりも、私が書いたのは、301の方と違う、ということです。
315298:2007/12/31(月) 01:36:10 ID:ywShPZav
>>310
>「次第相承の善知識から教えを受け、弥陀をたのむ」という儀式には、いくらくらいお金がかかるのでしょうか?

善知識様によると思いますが、基本的には、お金はかからないと思います。
信を探す上で、私の場合、出費としては、書籍代と旅費にかかりました。
第十八願に辿り着くまでがお金がかかるので、
辿り着いてからは、さほどかかりません。
本物の善知識様であれば、救うのは自分ではなく、弥陀であるともちろん
知っていらっしゃいます。ですから、「お金がかかる」ということは
ないはずです。
本当の仕事をするのは自分ではなく、弥陀だからです。
こう書いて、ゼロ円でなければ異安心と思われても困りますので、
常識的な金額(お礼の報謝の気持ちとして、数千円ですとか、
あるいは、場所代として500円ですとか、場所によって違うとは
思いますが)であれば、何の問題もないと私は思います。
本当の仕事をするのは弥陀とは言え、行者を弥陀の救いに会わせるためには、
幾人もの方の働きが必要です。
316神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 01:37:38 ID:SNBwJ/OT
粘着質だねぇ。
空華学派の事をタノムを軽視してるなんて書いて、それに賛同してる人に対して、
「あなたは空華の諸説をどこまで読んで、そういうことを言えるのか」って事。
ろくに学んでないなら、空華だなんだと勝手なレッテル貼りすんなってこと。
俺は今、学んでる最中だから、殊更言いたくなるんだよね。
そう主張するなら、文証示して、論じる責任はないのか?
そこの、どこにおかしいことがあるのですか?当然の意見じゃないの。
ま、妙好人なら寝ている時間帯だわなw
317神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 01:47:56 ID:SNBwJ/OT
>313
横レスごめんなさい。う〜、的確な質問です。
俺が、289氏に質問したいとこがあるとすれば、正しく、そこんとこです。
298氏よろしければお願いします。
318298:2007/12/31(月) 01:51:01 ID:ywShPZav
>>313
>しかし、欲生帰命説の三業派について行って、信楽一心に収まる処の三心を獲ることは可能だろうか?

私は、可能とは思いません。
ただ、証明のできないことですから、「異なりますね」と
おっしゃってくださいましたので、それにうなずきました。
「同じですね」と言われたら、反論したでしょう。

>その手の話を吟味せず、容易に信じる事がおそろしい結果を生む(ことがある)

「ことがある」は引用上私が補って加えた部分ですが、私も同感です。
吟味せず、真実信心を獲てしまう方もいますが、本当にご縁の深い方なのだと
思います。
信が獲れず、苦しんでいる方の場合は、吟味が大切になると思います。

>一念は覚知できないとするものの、回心体験の覚知を必須としているように伺える。

回心体験の覚知は必須ではないのですが、通常の意識や、通常の
記憶力の方であれば、結局、覚えていることができるというだけです。
理論的には、必須ではありません。
たとえば、信をいただいた方でも、高齢になって、昔のことも、
思い出せなくなってしまった。そうなれば、もはや覚知できないでしょう。
319298:2007/12/31(月) 01:51:16 ID:ywShPZav
>>313
これだけではご不満かもしれませんので、もう少し詳しく述べますと、
回心体験そのものを覚知しているのではなく、
あくまでも、その前後の体験を覚えているに過ぎません。

宗学は宗学で、もちろん意味のあること(大切なこと)であり、
それを否定しているわけではありません。
たとえば、私は御文を勧めていますが、それは、伝えてきてくださった方々、
そして、現在入手し易く出版してくださっている方々、
テキスト批判をしてくださった方々等のご恩によるのです。
深く感謝しております。
320298:2007/12/31(月) 02:03:21 ID:ywShPZav
>>313
>行一念のとらえ方がやや異質かもしれない。

もっと詳しく教えていただけると、うれしいです。
321298:2007/12/31(月) 02:08:58 ID:ywShPZav
>>316
>ろくに学んでないなら、空華だなんだと勝手なレッテル貼りすんなってこと。

このことには、私も同意です。
322神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 02:13:22 ID:Bux6MwUp
>>319
>あくまでも、その前後の体験を覚えているに過ぎません。

それが違っていますね。
年を経る家に、いつのまにか信を獲た人も多くいるといわれます。
昔聞いたある先生の喩では
「ビールは子供の頃飲んだら不味かった。しかしいつの間にかビールをおいしいと感じる身になっていた」
という具合でした。

宗教心理学の回心体験の研究では、回心には突発的回心と漸次的回心があると言われています。
突発的回心とは比較的若い頃に自我が崩壊するような体験と共に急激な回心を体験するタイプで、
漸次的回心とは徐々に宗教的人間に変化していくタイプだそうです。

宗学では後者の回心の可能性も認めています。
323298:2007/12/31(月) 02:20:44 ID:ywShPZav
>>322
>宗学では後者の回心の可能性も認めています。

宗学について詳しく知りませんが、ご確認していただきたいことがあります。
弥陀の救いにおいては、徐々に宗教的人間に変化するのは、
信を獲た後のことです。
この、信を獲た後のプロセスを指している可能性はありませんか。
弥陀から信をいただくこと自体は、あくまでも一瞬のことに過ぎません。
つまり、他力信は一瞬でいただきますが、
自力信が醸成されるのは、その後のことなのです。
(自力信を醸成してもしなくても、極楽往生治定に変わりはありません。)

>年を経る家に、いつのまにか信を獲た人も多くいるといわれます。

これは、宗学の主張ですか。
では、文如上人の「みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解」は、
どう解されますか。

私自身は、教学も学びたく思っております。
なぜなら、現代の方にお伝えするとき、言葉遣いが正確な方が
良いはずだからです。
ですので、方便として、僧籍を取得することも有効なのではとも
考えております。
324神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 02:24:33 ID:Bux6MwUp
>>320
行一念、というより大行論でしょうか。
信一念に先行して行一念が起こるでしたか?
安心論題では行一念は信後の初一声、初一声から死ぬまで続く一声です。
325298:2007/12/31(月) 02:27:45 ID:ywShPZav
>>324
ご教授ありがとうございます。さっそく確認致します。
私は、自分の経験に基づいて書いている面が多いですので、
教学的に、間違っていることを書いている可能性も高いです。
それにより、まじめな方を救いから遠ざけてしまっては、
弥陀に申訳がありません。
きちんと定義されていることばは、それに基づいて用いないと、
誤解を招いてしまうと思っています。
326神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 02:36:48 ID:Bux6MwUp
>>323
>この、信を獲た後のプロセスを指している可能性はありませんか。

ではなくてですね。
子供の頃から法座に出席し、聴聞する内に染み込むように信を獲る人です。
自我の危機を感じないで年を経ることのできた比較的幸福な人です。

>これは、宗学の主張ですか。

宗学という学問によって証明されたものかは知りません。
一念覚知の論題について調べていけば、わかるかもしれません。
おそらく寺族として体験し、見聞した経験からであろうと思います。

>「みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解」

一念は信の一念です。
回心体験を覚知していなくても、「今」たしかに信を慶ぶ人には信の一念があったはずです。
327神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 02:38:48 ID:Bux6MwUp
安心論題では行一念は信後の初一声、初一声から死ぬまで続く一声です。
  ↓
安心論題では行一念は信後の初一声、もしくは初一声から死ぬまで続く一声です。
学説がわかれています。
328298:2007/12/31(月) 02:55:53 ID:ywShPZav
>>324
安心論題を読んでいますが、「行一念」を複数の意味で書いていますね。
「行の一念とは、名号が衆生の声となって活動する信心獲得後の
最初の一声を言い」とありますので、この意味であれば、
もちろん信後であるでしょう。つまり、御恩報謝のお念仏を
指していると読みますが、違いますでしょうか?
一方、「本願成就文の一念も、弥勒付属の文の一念も、名号
南無阿弥陀仏が私たちのところではたらいているすがたとしての
一念であり、行と信のどちらで見ることもできる」とあります。
「真実の行」も、それが弥陀の行になるときには、
行と信と、ほとんど同時になると思います。
弥陀の行によって、信を得るのですから、細かく言えば、
行の中で信を得ることになるでしょう。
しかし、その義を前に出しても、行者が信を穫るときの助けに、あまり
ならないと思います。
あくまでも、行者は、自力で始まる南无阿彌陀佛という真実行を
起こすのであり、この途中で、弥陀の他力の行によって、
他力信をいただく。
329298:2007/12/31(月) 02:56:08 ID:ywShPZav
>>324
これでなければ、実際の信は穫れないのではありませんか。
安心論題においては、「行者の行によるのではない」ということを
重視している書き方になっていると思います。
安心論題の行は、信後の行者の称名のことなのではないでしょうか。
行者の行為によって大利を得ることではないのはその通りですが、
南无阿彌陀佛は、途中までは自力なのです。
しかし、この自力の部分に大利はありません。
あくまでも、弥陀が大利をくださいます。
六要抄では、弥勒付属の一念を起行と解していますが、
これはどう考えていらっしゃいますか。
私は、この立場(行の一念は起行)です。
起行としての行の一念は、一声の念仏、一回の念仏、本願念仏であり、
この自力の行の途中(自力の真実の行)に、弥陀の真実の行(他力の真実行)
があり、弥陀の真実の行における一念は、極速の一念であり、
このとき、行者は信をいただきます。
そして、自力の真実の行である、南无阿彌陀佛を終えた後に
発せられる御恩報謝の念仏の第一声を指して、
安心論題では行一念と解しているように思います。
つまり、安心論題と、六要抄では、立場が異なると思います。
無論、起行とは方便であり、往生の正因は、安心です。
南无阿彌陀佛は、弥陀の無上の方便です。
整った論ではないと思いますが、わかりにくいところ、
不信なところがあれば、またお話できれば、うれしく思います。
330298:2007/12/31(月) 03:12:34 ID:ywShPZav
>>326
>>「みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解」
> 一念は信の一念です。
>回心体験を覚知していなくても、「今」たしかに信を慶ぶ人には信の一念があったはずです。

「みづから」「たしかに」は、「弥陀をたのみたる」に係るのでは
ないでしょうか。

>子供の頃から法座に出席し、聴聞する内に染み込むように信を獲る人です。

2つの可能性があると思います。ひとつは、他所にて信心の沙汰を行い、
獲信した方。
もうひとつは、自力の信の方です。
自力の信につきましては、

◎皆ひとのまことの信はさらになし ものしりがほの風情にてこそ(聞書)

他力信を得た後の自力の信は尊いものですが、真実信心無くして
「こころえたり」の類いの自力の信は、いたずら事です。

ただし、世間一般では評価されており、私はそれを否定したいのではなく、
あくまでも、他力の信をいただき、極楽往生治定したい方に向けて
書いているのです。スレタイは、そのような意味であると思います。

> 回心体験を覚知していなくても、「今」たしかに信を慶ぶ人には信の一念があったはずです。

それでは、「自力の心をふりすて」と領解が合わないのではありませんか。
それに、「弥陀をたのむところにて往生決定と信じて」(聞書)もわからないのでは
ありませんか。
「心口各異にして懺悔せざるのもの」になってしまってはいないか、
よくよく検討が必要なところだと思います。
331298:2007/12/31(月) 03:14:48 ID:ywShPZav
ことばから体験を想像するのか、体験をことばで語ろうとするのか、
この2つには違いがあると思います。
タイトルの「妙好人と学ぶ」というのは、あくまでも、
後者の方と学ぼうということでしょう。
前スレの263様も、せっかくいらっしゃったのに、
誰も耳を傾けず、いなくなってしまいました。
332神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 03:17:11 ID:Bux6MwUp
>>328
>つまり、御恩報謝のお念仏を指していると読みますが、違いますでしょうか?

そうなります

>一方、「本願成就文の一念も、弥勒付属の文の一念も、名号
>南無阿弥陀仏が私たちのところではたらいているすがたとしての
>一念であり、行と信のどちらで見ることもできる」とあります。

これは弥勒付属の一念が、信一念、行一念のどちらにも見られるということです。
行一念義義の論題の範囲は称名である行一念に取った場合の解釈です。
行一念義は、往生が決定するのは初一声の時か信一念の時か、という論題です。

行巻に「一声の称名」は「選択易行の至極」であると書かれた後に、
弥勒付属の文を引いて浄土に往生する「無常の大利」があることが示されています。
そこで「無常の大利を獲るのは一声の称名の時だ」と主張する人がいたのだと思われます。
333298:2007/12/31(月) 03:20:08 ID:ywShPZav
私も一度いなくなりましたが、書き込みも少なくなっていた時期、
どなたでしたか、また呼んでくださったので、書いたのです。
しかし、このスレでも、幾度か「出て行ってほしい」と書かれて
います。信を穫ることに興味がなく、信を穫らせないことに興味がある、
自障障他の方々がいらっしゃるということです。
334298:2007/12/31(月) 03:24:29 ID:ywShPZav
>>332
>そこで「無常の大利を獲るのは一声の称名の時だ」と主張する人がいたのだと思われます。

信じていただけなくて構いませんが、「無常の大利を獲るのは一声の称名の時だ」
というのは、間違いとも限らないのです。
ただ、これだけ言いますと、間違いなく誤解されそうですので、
先程も書きましたが、もう一度書きます。
真宗には、凡夫が生涯ただ一度の念仏で満足できる念仏があるのです。
この念仏の一声(これは、自力の一声)の途中に、他力の一念が
位置し、ここにおいて、弥陀の信心をいただき、大利を得ます。
335298:2007/12/31(月) 03:31:06 ID:ywShPZav
>>332
>行一念義義の論題の範囲は称名である行一念に取った場合の解釈です。

この称名が、信後の御恩報謝のお念仏、口に出して「なむあみだぶつ」
「なんまんだぶ」等声に出すお念仏であれば、信後になるのは、
もちろんです。
しかし、それを聞いても、信を穫ることに役に立たないでしょう?
(「異安心を防ぐ」という観点からは、役に立つと思います。)
称名には、真実行としての意味もあります。
この場合の「称」は、「ハカル・カナフ・トナフ」になり、
この最後の「トナフ」が御恩報謝のお念仏、五重の義で言うところの、
最後の名号になります。
336神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 03:31:14 ID:Bux6MwUp
>>329
>六要抄では、弥勒付属の一念を起行と解していますが、
>これはどう考えていらっしゃいますか。

これはこちらの勉強不足でわかりません。
百論題の方をみれば触れた部分があると思いますが、
あれはすぐに読めるものではありませんので・・・

>起行としての行の一念は、一声の念仏、一回の念仏、本願念仏であり、
>この自力の行の途中(自力の真実の行)に、弥陀の真実の行(他力の真実行)
>があり、弥陀の真実の行における一念は、極速の一念であり、
>このとき、行者は信をいただきます。
>そして、自力の真実の行である、南无阿彌陀佛を終えた後に
>発せられる御恩報謝の念仏の第一声を指して、
>安心論題では行一念と解しているように思います。

本当にこれは聞いたことがないですね。
それでは信を獲るのは念仏している時に限定されませんか?
337298:2007/12/31(月) 03:31:32 ID:ywShPZav
>>332
>行一念義は、往生が決定するのは初一声の時か信一念の時か、という論題です。

往生が決定するのは、信一念のときです。間違い有りません。
338298:2007/12/31(月) 03:37:43 ID:ywShPZav
>>336
>それでは信を獲るのは念仏している時に限定されませんか?

もちろん、限定されますよ。
宗学は、どうなってしまっているのですか?
(本当に、「限定されない」と教えているのですか?)
だからこそ、弥陀をたのまねばならぬのであり、
本当に本当に、六字名号が尊いのではないのですか?
念仏しなくて信が穫れるなら、真宗は要らないではないですか。
自力で良いではないですか。
信を獲た方は、自分では絶対に無理だった信心を、
念仏によって獲たから、そのあまりのありがたさを思うと、
御恩報謝のお念仏をおとなえするのです。
339298:2007/12/31(月) 03:52:15 ID:ywShPZav
>>336
>>六要抄では、弥勒付属の一念を起行と解していますが、
>>これはどう考えていらっしゃいますか。
>これはこちらの勉強不足でわかりません。
>百論題の方をみれば触れた部分があると思いますが、
>あれはすぐに読めるものではありませんので・・・

該当部分を貼っておきます。

◎次に『大経』の流通分の初に彼の如来の名号の徳を明かす文なり。
この故に、これを以て行の一念と為す。
問う。今この文を以て起行といいがたし。既に「歓喜踊躍」の言あり、
宜しく安心に属すべし。随いて彼の異訳の経等を見るに、安心の趣、
その説分明なり、いかん。
答う。行は信を離れず、信は行を離れず。今の文の意は信行相備りて
互いに以て通用す。強ちに違害せず。もしこの意を得れば、
異訳の経説はまた相違にあらず。ただし起行に属する、その理、
なお明かなり。これに依りて黒谷の『大経釈』に云わく
「上には機縁に逗して、かつ助念往生及び諸行往生の旨を明かすといえども、
本願に準ずるが故に、流通分に至りて初めて諸行を廃して、
ただ念仏に帰せしむ」已上。この講釈を以て、尤も指南と為す。
340神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 03:52:47 ID:Bux6MwUp
>>330
>「みづから」「たしかに」は、「弥陀をたのみたる」に係るのでは
>ないでしょうか。

「自分自身で」「たしかに」「弥陀に全託した」
であれば、矛盾はでないと思いますが

>2つの可能性があると思います

本願寺の方では別の可能性もあるとしているわけです。
これは出拠があるのか確認したいところです。

>「自力の心をふりすて」

振り捨てるや憑むを自力として解釈していると言うことですか
341神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 04:08:23 ID:Bux6MwUp
>>338
>宗学は、どうなってしまっているのですか?

念仏しているときに限定しません。
そうであると限定する文はありますか?
あって、それが正しいなら私が学んでいないはずはありません。

>念仏しなくて信が穫れるなら、真宗は要らないではないですか。

鸚鵡のように念仏を繰り返しても信は獲られません。
また、浄土宗の人々は真面目に念仏を繰り返しますが、真宗に転派する人はあまりいません。
自力の念仏が必須であるかについては保留しますが、名号のいわれをまず聞かないことには無意味でしょう。

>>339
すぐに読めないのは百論題です。

集中力が続かないのでちょっと失礼します。
342298:2007/12/31(月) 04:11:11 ID:ywShPZav
>>340
>「自分自身で」「たしかに」「弥陀に全託した」
>であれば、矛盾はでないと思いますが

これと他力のお話と、矛盾があるとは思いませんか?
「他力」という用語があることを知っていて、
あえて「みづから」と書いているはずです。

ただ、もうこれは感性の領域ですので、
領解文に限らず、一枚起請文や、御文も読みまして、
自ら、割符が合うかを確認しましたり、
信を穫ったと思いましても、信心の沙汰を続けて行く事が
肝要であるのだと思います。

>本願寺の方では別の可能性もあるとしているわけです。
>これは出拠があるのか確認したいところです。

もし、出拠がわかりましたら、ぜひ教えてください。
343298:2007/12/31(月) 04:11:24 ID:ywShPZav
>>340
> >「自力の心をふりすて」
>振り捨てるや憑むを自力として解釈していると言うことですか

説明になっていると思われないと思いますが、
領解文のこの箇所は、もう、南无阿彌陀佛なのです。

真実の行においては、自力にはじまり、自力に終わる南无阿彌陀佛があり、
また、南无という機があり、阿弥陀仏という法があり、
南无阿彌陀佛によってしか、信は獲られず、
南无阿彌陀佛によって、必ず信を穫ることができるので、
南无阿彌陀佛は信でもあるのです。

機法一体の機は自力、法が他力です。まず、自力からはじまるのです。

この自力の南无阿彌陀佛の途中に、
弥陀の他力の救いがあります。

六字のない信はいたずら事であると、私は思います。
344298:2007/12/31(月) 04:24:13 ID:ywShPZav
>>341
>念仏しているときに限定しません。
>そうであると限定する文はありますか?
>あって、それが正しいなら私が学んでいないはずはありません。

一枚起請文ではダメなのでしょうか?
「タノム」=「念仏」=「称名」と私は思います。
文ですが、他にも探してみます。
念仏しているときに限定しないということは、
少しく驚きでした。
信を穫るには念仏と限定せず、
御恩報謝は念仏と限定になるのでしょうか??


>鸚鵡のように念仏を繰り返しても信は獲られません。

これは誠にその通りで、繰り返し書いていますように、
凡夫が生涯ただ一度で信心決定する念仏(=称名)があるのです。
(ただし、まずは20願に回って、それから18願に転入する準備には
なると思います。)

> 自力の念仏が必須であるかについては保留しますが、
>名号のいわれをまず聞かないことには無意味でしょう。

名号のいわれを聞かないと無意味であることには、私も同意です。
私が繰り返し書いていますのは、
1)次第相承の善知識にお会いして
2)六字のいわれ(名号のいわれ)を聞き開いて
3)タノム(=南無阿弥陀仏=称名)
ということです。
345神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 07:56:23 ID:OQxVjZM4
>>307 >>309 >>316( ID:SNBwJ/OT)様へ、>>295をレスした者です。
宗学を学ばれる方々にご迷惑と不愉快な思いをいだかせてしまい、申し訳ございません。
298様にもご迷惑をおかけしてしまいました。

ただ、言い訳をさせていただきますと、>>295の話のもととなった話は全て、本願寺派の僧籍
をもたれていた複数の方より伺ったことです。

S鸞会がご本山で座り込みをした当時、複数の布教使の方が説教の席でまだ若かった私をみて、
「引っかからないように」とのご配慮だったのでしょうか、「つづまるところ、事の淵源は・・・」といった感じ
で三業惑乱と空華、能化の話を自分からされました。

後に付き合いのできた龍大卒の寺族の方よりも同じ内容のことを伺っております。

ただ、いくら本願寺関係者のお話とはいえ、あくまでも当時(かなり以前の)伝聞に過ぎないことを
自身による検証もせず結果として「真相はこうだ」のようなレスをしてしまったことは反省しております。

私自身は298様にあくまでも「知っていること」としてお話させていただいたつもりだったのですが・・・

本当に申し訳ございません。



346神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 10:38:33 ID:DNaclDQU
レスありがとうございます。

>また、別の観点からご質問いただければ、うれしいです。

〇298さんは、特定のお寺などで、善知識と1人で面会し、いろいろお話をして、
「そうですか、後生になやまれているのですね。では、今日が最後の日だと思って仏前でお念仏しなさい」
というような指導(儀式)を受けられたのでしょうか?
(こういう話を聞いたことがあるのです)

〇「298さんの弥陀たのむ一念」というのは、過去の1回だけの出来事なのでしょうか?
 それとも、現在も「弥陀たのむ一念」を日々体験しておられるのでしょうか?

〇「行一念」と「弥陀たのむ一念」は同じものでしょうか?

>もちろん、お聖教がそれにあたります。
>信を獲てから読み直したり、あるいは説明を受ければ、
 
〇現代の人が小説形式かドキュメンタリー形式で書いたものはありませんでしょうか?

>あくまでも、私が言うところの「弥陀の救い」では無い、というだけに過ぎません。
>真宗の信とは何かと言えば、弥陀に信心をもらって、極楽往生の因を得るのです。

〇このような「ぼーっと」の時に回心された方=「弥陀の救い」では無い
 と断言できる判断のもととなっているのは、何なのですか?
347神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 10:39:08 ID:DNaclDQU
>真宗の信とは何かと言えば、弥陀に信心をもらって、極楽往生の因を得るのです。

〇信心をもらうと、常にピカピカ光る信心が、心の中にできるという変化なのでしょうか?
 それとも「弥陀の本願を、自分一人のための本願であった、と聞信できるようになる」という変化(つまり、日頃はただの人。本願を聞信できるところが未信のものと違う)なのでしょうか?

>善知識様によると思いますが、基本的には、お金はかからないと思います。

〇安心いたしました。

〇善知識にお会いして儀式をしてもらっても、信を得そこなう場合があるのでしょうか?

>「空華の領解」というよりも、私が書いたのは、301の方と違う、ということです。

○どのように違うのでしょうか?

>名には、真実行としての意味もあります。
>この場合の「称」は、「ハカル・カナフ・トナフ」になり、

〇この真実行とは、「なむあみだぶつ」と口に出して言うことでしょうか?

>信を獲た方は、自分では絶対に無理だった信心を、
>念仏によって獲たから、そのあまりのありがたさを思うと、
>御恩報謝のお念仏をおとなえするのです。

〇病気や痴呆などで「信心を念仏によって獲た、そのあまりのありがたさ」の記憶がなくなってしまった人は、ご恩報謝の念仏をとなえることは可能でしょうか?

>1)次第相承の善知識にお会いして
>2)六字のいわれ(名号のいわれ)を聞き開いて

〇「 聞き開いて」は、普通の「聞く」とは、どのように違うのでしょうか?
348298:2007/12/31(月) 11:29:37 ID:fIUevvuC
>>346

>298さんは、特定のお寺などで、善知識と1人で面会し、いろいろお話をして、
>「そうですか、後生になやまれているのですね。では、今日が最後の日だと思って仏前でお念仏しなさい」
>というような指導(儀式)を受けられたのでしょうか?
>(こういう話を聞いたことがあるのです)

私の場合は、少し違います。
私は、宗派・宗教を問わず、救いを探していました。
「救われたい」という思いが先行し、
どこでも良いから、救われたかったのです。
「最後は真宗なのかな」という予感は持っていましたので、
真宗の信心決定者と思われる方を見つけたと思った際、
その方に善知識のご紹介を御願いしました。


>「298さんの弥陀たのむ一念」というのは、過去の1回だけの出来事なのでしょうか?
>それとも、現在も「弥陀たのむ一念」を日々体験しておられるのでしょうか?

今のところ、「弥陀たのむ一念」は、過去1回だけの出来事です。
日々体験はしておりません。


>「行一念」と「弥陀たのむ一念」は同じものでしょうか?

同じと考えて良いと思います。
349298:2007/12/31(月) 11:30:25 ID:fIUevvuC
>>346
>現代の人が小説形式かドキュメンタリー形式で書いたものはありませんでしょうか?

掟があるので、あり得ません。
ドキュメンタリーがあるとしても、
肝心のところの前後だけのはずです。
しかし、インターネット時代になりましたので、
前後だけでも、次第に世に知られてくるでしょう。
350298:2007/12/31(月) 11:31:04 ID:fIUevvuC
>>346
>このような「ぼーっと」の時に回心された方=「弥陀の救い」では無い
>と断言できる判断のもととなっているのは、何なのですか?

信心そのものが三業では判断できないために、
御同行かどうか、わかるような方便がございます。

また、信を獲た後に、お聖教と割符が合うかを調べ、
「なるほど」と私は思っておりますので、
まず、それが根拠です。
しかし、それは個人的なものです。

◎「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、
南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)

◎宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり(御文2-11)

◎幸ひに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや。
まつたく自見の覚語をもつて他力の宗旨を乱ることなかれ(歎異抄)
351298:2007/12/31(月) 11:31:13 ID:fIUevvuC
>>346
「「ぼーっと」の時に回心された方」=「自見の覚語」と私は思いますが、
ご本人に質問すれば、「弥陀の方から働きかけてくださったのだ」と
おっしゃるのではないかと思います。

文字をどう読むかは、その人次第ですので、結局は、宿善の問題です。

私は、これらの文を読むときに、「善知識と会う」ことは、
明確に必要な条件であると判断致します。

もちろん、他ございます。どうかご自身で、聖典をお読み下さい。(現代語訳ではなく、
原典をおすすめ致します。もちろん、現代語訳や註釈はとても参考になりますけれども、
あくまでも、「参考」としての位置づけにとどめ、読むことが大切であると思います。)
繰り返し書いていますように、御文がわかりやすいと思います。
352298:2007/12/31(月) 11:42:16 ID:fIUevvuC
>>347
>信心をもらうと、常にピカピカ光る信心が、心の中にできるという変化なのでしょうか?

「ピカピカ光る信心」は、比喩なのでしょうか?
金剛心という意味であれば、その通りですが、
真実信心そのものは、はっきりとは自覚できないはずです。

>それとも「弥陀の本願を、自分一人のための本願であった、と聞信できるようになる」という変化(つまり、日頃はただの人。本願を聞信できるところが未信のものと違う)なのでしょうか?

自力の心でどう感じるかは、機によります。


>善知識にお会いして儀式をしてもらっても、信を得そこなう場合があるのでしょうか?

これは、ありません。100発100中です。


>どのように違うのでしょうか?

ひとことで言えば、「弥陀をたのんだ経験の有無」です。


>この真実行とは、「なむあみだぶつ」と口に出して言うことでしょうか?

真実行とは、五念門を含み、如実修行相応のものです。
353298:2007/12/31(月) 11:42:39 ID:fIUevvuC
>>347
>病気や痴呆などで「信心を念仏によって獲た、そのあまりのありがたさ」の記憶がなくなってしまった人は、ご恩報謝の念仏をとなえることは可能でしょうか?

通常の口業という意味であれば、もちろん、できません。
それでも、往生治定に変化はありません。


>「 聞き開いて」は、普通の「聞く」とは、どのように違うのでしょうか?

これは、とても良い質問であると思います。
そのように読んでいかないと、御文を読んでも、よくわからないと思います。
まず、真宗では「聞く」に複数の意味が与えられています。
最も重要なものは、真実行を指す「聞く」です。
「聞き開く」が、普通の「聞く」と違うのは、「開く」ということです。
「開く」ものがあるのです。
ですから、六字のいわれを聞いたと思っても、何も開いていないならば、
それは御文で言うところの六字の謂れではないとわかるということです。
このようなことが多々ありますために、御文を御拝読下さいと
書いております。異安心から守られることでありましょう。

南无阿彌陀佛
354298:2007/12/31(月) 11:53:17 ID:fIUevvuC
>>345
私は気にしておりません。
私の書き込みにも、間違いはあるはずです。
それをあまり気にしすぎていたら、行動できなくなってしまいます。
美しい気持ちに基づかれてのご紹介、
感謝することはあれど、それでどうこう思ったりは致しません。
貴重な経験を述べてくださり、ありがとうございます。
355神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 12:05:29 ID:DNaclDQU
298さん、レスありがとうございます。

>真宗の信心決定者と思われる方を見つけたと思った際、
>その方に善知識のご紹介を御願いしました。
○どのような指導を受けられたのでしょうか?また何時間くらいかかったのでしょうか?
○ 獲信直後の心境は、どのような感じだったのでしょうか?

>今のところ、「弥陀たのむ一念」は、過去1回だけの出来事です。
日々体験はしておりません。

○では、「聞即信」というのは、生涯に1回だけ、ということでしょうか?
○信後の聴聞では何を聞くのでしょうか?

>信心そのものが三業では判断できないために、
>御同行かどうか、わかるような方便がございます。

○それは何でしょうか?

>私は、これらの文を読むときに、「善知識と会う」ことは、
>明確に必要な条件であると判断致します。

○法然上人は実在の「善智識と会う」ことによって、獲信されたのでしょうか?それとも、生身の肉体を持たない「善智識と会う」ことによって獲信されたのでしょうか?

>>善知識にお会いして儀式をしてもらっても、信を得そこなう場合があるのでしょうか?
>これは、ありません。100発100中です。

○この断言の根拠は何なのでしょうか?
356神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 12:08:20 ID:DNaclDQU
>ひとことで言えば、「弥陀をたのんだ経験の有無」です。
○301さんは「過去に善智識の儀式において弥陀をたのんだ経験がない」と理解してよろしいでしょうか?

>この真実行とは、「なむあみだぶつ」と口に出して言うことでしょうか?

>真実行とは、五念門を含み、如実修行相応のものです。
○具体的にはどういうものでしょうか?単に「なむあみだぶつ」と口に出して言うこととは違うのでしょうか?
>>病気や痴呆などで「信心を念仏によって獲た、そのあまりのありがたさ」の記憶がなくなってしまった人は、ご恩報謝の念仏をとなえることは可能でしょうか?
>通常の口業という意味であれば、もちろん、できません。
>それでも、往生治定に変化はありません。

○「善智識との儀式」前後の過去の記憶がなければ、信心をもらっていても、「ご恩報謝の念仏」をとなえることはできない、ということでしょうか?



>最も重要なものは、真実行を指す「聞く」です。

○〔真実行を指す「聞く」〕とは、具体的にはどのようなものでしょうか?
○〔真実行を指す「聞く」〕とは、善智識との儀式中にある出来事なのでしょうか?


>ですから、六字のいわれを聞いたと思っても、何も開いていないならば、
それは御文で言うところの六字の謂れではないとわかるということです。

○何を「開く」のでしょうか?
357298:2007/12/31(月) 12:26:00 ID:fIUevvuC
>>355

まず、申し上げたいことは、事前にすべての疑問を解決することはできない、
ということです。
また、掟がありますため、宿善の機、無宿善の機が混在する場所において、
十分な話しがなされることもありません。


>どのような指導を受けられたのでしょうか?また何時間くらいかかったのでしょうか?

時間の長短は、場所によって異なるのではと思います。
具体的に書いてよいのかどうかが、わかりません。
宿善の有無を見るのに時間がかかるだけで、
肝心の部分には、さほどかからないはずです。


>獲信直後の心境は、どのような感じだったのでしょうか?

私の場合は、「これで、ついに永劫の流転から抜けるのだ」という
感慨がございました。
ただ、これは機によります。
358298:2007/12/31(月) 12:26:20 ID:fIUevvuC
>>355
>では、「聞即信」というのは、生涯に1回だけ、ということでしょうか?

1回とは限らないと聞いております。1回で十分である、ということです。

>信後の聴聞では何を聞くのでしょうか?

信後の聴聞がなくても、往生治定に変わりはありませんが、
なるほど確かにお聖教の通りであったと、
お聖教を確認しましたり、
また、御同行の体験談を聞きましたり、
さまざまであると思います。


>>信心そのものが三業では判断できないために、
>>御同行かどうか、わかるような方便がございます。
>それは何でしょうか?

これは申せません。


>法然上人は実在の「善智識と会う」ことによって、獲信されたのでしょうか?それとも、生身の肉体を持たない「善智識と会う」ことによって獲信されたのでしょうか?

これも、次第相承の善知識から、お聞き下さい。


>>>善知識にお会いして儀式をしてもらっても、信を得そこなう場合があるのでしょうか? >>これは、ありません。100発100中です。
>この断言の根拠は何なのでしょうか?

ひとつには、自らの体験。
もうひとつには、見聞。
そして、お聖教です。
359298:2007/12/31(月) 12:33:26 ID:fIUevvuC
>>356
>301さんは「過去に善智識の儀式において弥陀をたのんだ経験がない」と理解してよろしいでしょうか?

私はそう判断しましたが、限られた情報からですので、間違っている可能性も
ございます。

> >真実行とは、五念門を含み、如実修行相応のものです。
>具体的にはどういうものでしょうか?単に「なむあみだぶつ」と口に出して言うこととは違うのでしょうか?

具体的には、次第相承の善知識にお聞き下さい。
また、単に「なむあみだぶつ」と口に出して言うこととは、もちろん違います。
御文様にも、繰り返し記載がございます。
360298:2007/12/31(月) 12:33:41 ID:fIUevvuC
>>356
>「善智識との儀式」前後の過去の記憶がなければ、信心をもらっていても、「ご恩報謝の念仏」をとなえることはできない、ということでしょうか?

これは私の書き方が悪かったと思います。申訳ございません。
声を出すことができれば、となえることはできるでしょう。


>〔真実行を指す「聞く」〕とは、具体的にはどのようなものでしょうか?
>〔真実行を指す「聞く」〕とは、善智識との儀式中にある出来事なのでしょうか?

これも、自らご体験くださいとしか言えません。


> >ですから、六字のいわれを聞いたと思っても、何も開いていないならば、
それは御文で言うところの六字の謂れではないとわかるということです。
>何を「開く」のでしょうか?

体験した後に、「なるほど」とわかります。
お聖教は、掟を保ちながら書かれているために、
多くはそのような書き方になっております。
領解文を信前に拝読することが推奨されていることなどから、
お汲み取りいただければと思います。
361神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 13:46:00 ID:SNBwJ/OT
>345
わざわざどうも。一般にいる真宗の坊さんが果たして
三業惑乱の教義論争についての詳細を理解しているかなあ?
ただでさえ読みづらい江戸期の講録や書物をみんながみんな読んでいるとは思えないし。
まあ、他人の意見を鵜呑みにしてレッテル貼る前に、詳しく調べること、
その道の専門家に尋ねて意見を伺うことが大事なんじゃないかなあ?
ことに正確な知識(善知識じゃないよ)を得るという点においてはね。
362神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 18:25:45 ID:SNBwJ/OT
>360
298さんのお話を伺っていると、【掟】というものを重視されてますね。
改悔文(領解文)に、
「もろもろの雑行雑修、自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、
我らが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定、御たすけ治定と存じ、
この上の称名は、御恩報謝と存じ、喜び申し候、この御ことわり、聴聞申しわけ候こと、
ご開山聖人ご出世の御恩、次第相承の善知識の浅からざる御勧化の御恩と、
有り難く存じ候。この上は定めおかせらるる御掟、一期を限り、守り申すべく候」
この掟とは具体的に何のことなのでしょう。
お西では、この領解文を安心・報謝・師徳・法度と科段に分けて解釈され、
この掟とは、前の文章の安心・報謝・師徳を守るという法度(きまり)と言う説が有り、
また、蓮如上人が御文章(御文)等にあるよう、
別にしたためられた掟のことを指していると言う説も有り、
また、両義有りとする説もあります。
298さんの言われる掟とは、どのようなものでしょう?
363298:2007/12/31(月) 19:16:27 ID:fIUevvuC
>>362
掟には、いろいろあるのですが、
最も大切なものは、「無宿善の機に対し、
正雑二行の沙汰をするなかれ」です。
364神も仏も名無しさん:2007/12/31(月) 20:47:02 ID:xRPSVbTP
>306
シン オ エタ ガ ソコ ニ ワ マダ ジュウブン ナ ジシン ガ ナイ ヨウ デス ネ

シン ニ ジシン ガ デタ ラ ソノ トキ カラ コテハン ニ スル ト イイ デス ネ
365298:2008/01/01(火) 04:20:09 ID:pntYTQ3r
〉〉346
ドキュメンタリー形式ではありませんが、
ジャンヌ掲示板を「自信教人信」「愚尼」「泥凡夫」等のHNで検索されたり、
また私のHPの掲示板をご覧いただければ、
参考になるのではと思います。
どちらの掲示板においても、
信前から信後に移行する方が
出てきます。かなりの文字数ですが、
興味のある方であれば、
十分読める量であると思います。
366298:2008/01/01(火) 10:57:16 ID:sp6L8rRU
>>362
掟というものは、努力目標であって、それで往生治定が変化するような
ものではありません。
しかし、救われた恩義に、なんとしてでも、守ってゆこうとするものです。
こう書いていますが、「他宗・他派の誹謗をしない」「仁義を守る」等に
つきましては、私もまだまだできていないと思います。
うつくしい念仏者であるべく、努力してゆきたいです。
367298:2008/01/01(火) 11:04:28 ID:sp6L8rRU
>>357
>>どのような指導を受けられたのでしょうか?また何時間くらいかかったのでしょうか?
>宿善の有無を見るのに時間がかかるだけで、

宿善の沙汰についての補足なのですが、
念仏行者の方から声をかけて、翌日に信をいただいた方も
いらっしゃったと聞いています。
この場合、行者が宿善の沙汰をして、
善知識様も、よしとされたということだと思います。
これは、真剣に救われたいという方であれば、
宿善があるわけですから、何としてでも救われたい、
という気持ちがあるかどうかだと思います。
「自力がすたる」というような表現を見聞致しますが、
「自分では、どうにもならない」とわかれば、
自然と、求める気持ちが出てくるものだと思います。
多くの方の「自力がすたる」というのは、
「すたる」と言いながら、自分でどうにかしようと
したり、善知識(と思われる方)に期待しているのではと思います。
あくまでも、弥陀を求めるしかありません。
368298:2008/01/01(火) 11:38:58 ID:sp6L8rRU
>>357
また、善知識の側からは宿善を見る訳ですが、
行者の側からは、真偽を見る訳です。
双方真剣です。
易行の門ではありますが、真の禅門でもあるのです。
これは、問答があるというだけではありません。
三業を整えることによって、佛になるという点においても、
真の禅門であるのです。
救いがないところにいつまでもフラフラしているのは、
行者の側に問題があるのです。
369298:2008/01/01(火) 12:33:29 ID:sp6L8rRU
>>341
>鸚鵡のように念仏を繰り返しても信は獲られません。
これと似たものに、「ありがたいですなあ」等のことばがあるように思います。
南无阿彌陀佛ですら、数万編唱えても、百万遍唱えても(それだけでは)
獲信できないとも言われているのに、「ありがたいですなあ」
「ただのただのお救いですなあ」
「如来は、はじめからおったのですなあ」等言ったところで、
救われるはずがないと私は思いますが、是非は知らぬところで
あります。
370神も仏も名無しさん:2008/01/01(火) 13:20:49 ID:Ex4Bds/4
いいスレになってきたな。
唯物論無神論者の禿は猛省しろ。
371神も仏も名無しさん:2008/01/01(火) 16:57:24 ID:COEcc2pe
298さん、懇切なレスありがとうございます。

>私の場合は、「これで、ついに永劫の流転から抜けるのだ」という
>感慨がございました。
>ただ、これは機によります。

○獲信したが、本人に自覚がない、というケースもあるのでしょうか?

>>では、「聞即信」というのは、生涯に1回だけ、ということでしょうか?
>1回とは限らないと聞いております。1回で十分である、ということです。

○これは儀式を複数回うける人もいるということでしょうか?


>これは私の書き方が悪かったと思います。申訳ございません。
>声を出すことができれば、となえることはできるでしょう。

○獲信前後の記憶がなければ、ご恩報謝の気持ちが出てこない、ということでしょうか?
372神も仏も名無しさん:2008/01/01(火) 16:58:42 ID:COEcc2pe
>ドキュメンタリー形式ではありませんが、
>ジャンヌ掲示板を「自信教人信」「愚尼」「泥凡夫」等のHNで検索されたり、
>また私のHPの掲示板をご覧いただければ、

○ありがとうございます、さっそく過去ログから見てみます。

○他に、次第相承の善智識が書かれた(もしくは、善智識にご縁がある方が書かれた)ご著書などございますでしょうか?

>易行の門ではありますが、真の禅門でもあるのです。
>これは、問答があるというだけではありません。
>三業を整えることによって、佛になるという点においても、
>真の禅門であるのです。

○宿善の有無を見る問答が行われ、それに合格すれば儀式を受けられる、ということでしょうか?
○儀式を受けられて獲信された人というのは、そのお寺の人々の中で、公表されるのでしょうか?それとも内密にしてもらえるのでしょうか?
○禅宗の悟り体験と真宗の獲信体験は、同質のものだということでしょうか?
373渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/01(火) 18:34:10 ID:CdlWR+05
>368
>真の禅門であるのです。
    何が真の禅門なんでしょうか。

>363
>最も大切なものは、「無宿善の機に対し、無宿善の機に対し、正
雑二行の沙汰をするなかれ」です。

 正雑二行の沙汰をするには、まず貴方が無宿善の機(邪定聚の
機)を脱し、きちんと真門に入る決意をなさったらいかがでしょうか。
 
374渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/01(火) 18:54:08 ID:CdlWR+05
>>373
 ただ聖人の御弟子にて候えども、様々に、義をも言い換えなんどして、身も惑い、人を
も惑わしおうて候めり。あさましきことにて候なり。京にも、多く惑い合うて候めり。まして、
田舎は、さこそ候らめと、心にくくもそうらわず。なにごとも、申し尽くし難う候。またまた、
申し候べし(消息集)。

 確かに法然上人の御弟子であった方も、さまざまに本来の意味を言い換えておりまし
て、自分自身も惑い、他人をも惑わしております。残念なことであります。京都でも、多く
の方が迷っておられます。まして田舎はさらに酷い状況になっているでしょう。もう期待
もしていません。何事も言い尽くすことができません。いずれまた申し上げましょう

 全く仰せにてなきことをも、仰せとのみ申すこと、浅ましく、嘆き存じ候なり(歎異抄)。

 親鸞聖人が仰ってもないことを、このように言っているいうということは、真に残念なこ
とであります。

 邪定聚の機が、双樹林下往生しただけで難思議往生したと錯覚していることは、まこ
とに嘆かわしい。
375渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/01(火) 19:35:18 ID:CdlWR+05
>364
 自信のもてない信を獲たというなら、こんどは自信の得
られる本物の信を獲るようにするといいですよね。
376渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/01(火) 19:48:47 ID:CdlWR+05
>>341
>鸚鵡のように念仏を繰り返しても信は獲られません。

 同一念仏無別同故

 全ての念仏はみな同じとはとても信じられない。裏技のある特別な念仏があるんだ。そんな念
仏を称えないと信は得られない。鸚鵡のように念仏を繰り返しても信など得られるとは、とても
とても自分は信じられない。貴方はそのように疑っているのですね。

 鸚鵡のように繰り返しているだけで信を与えてくれるような、そんな凄い仏様がいるわけない。
そんな凄い力のある仏様など絶対にいない。裏技隠し技を秘めた特別な念仏を称えなければ、ど
うして救われるだろうか。救われるはずはない。裏技はいらん。隠し技はいらん。そんな無茶苦
茶な凄いことをいうような仏様などいるわけがない。貴方は阿弥陀仏の本願をそのように疑って
いるんでしょうね。

 必ず救うぞ。念仏する者は全て救うぞ。結果をみてくれ。そんな誓い(二十願)は嘘っぱちだ。
自分は絶対に信じないぞ。貴方はそのように、二十願を否定し、邪定聚の地位にしがみついてい
るわけですね。
377298:2008/01/02(水) 00:44:19 ID:NT1XsNIc
>>371
>獲信したが、本人に自覚がない、というケースもあるのでしょうか?

もともと、はっきりとした自覚はできないものなのです。
しかし、何も変わらないか、と言えば、そういうわけでもありません。
繰り返しになりますが、感じ方は、機によります。
全くわからないように感じる人も、おそらくいるのではと思います。


>これは儀式を複数回うける人もいるということでしょうか?

これについても、次第相承の善知識にお聞き下さい。
いずれにしても、あまり詳しい事は、2chではお話できません。
結局、繰り返し2chで質問を続けるということ自体、
求める気持ちが少ないようにも感じられます。


>獲信前後の記憶がなければ、ご恩報謝の気持ちが出てこない、ということでしょうか?

ご恩報謝の気持ち(自力の信)は、自ら耕してゆくものです。
しかし、内に真実の信心をいただいていますから、
耕せば、開発されてゆきます。
378298:2008/01/02(水) 00:49:28 ID:NT1XsNIc
>>372
>他に、次第相承の善智識が書かれた(もしくは、善智識にご縁がある方が書かれた)ご著書などございますでしょうか?

何冊か知っていますが、ここに書いて良いかがわかりません。
ご縁のある方が、とても大切に読まれているものです。


>宿善の有無を見る問答が行われ、それに合格すれば儀式を受けられる、ということでしょうか?

そういう言い方ができるとも思いますが、あなた様のご質問には、どうも先入観が見受けられます。実際に求めることなく、好奇心で質問していても、いたずら事です。


>儀式を受けられて獲信された人というのは、そのお寺の人々の中で、公表されるのでしょうか?それとも内密にしてもらえるのでしょうか?

内密にしてもらいたいのであれば、事前にお願いされたら良いのではないでしょうか。
他宗の方で信をお穫りになる方もいると聞きます。
いろいろご事情のある方も、おいででしょう。
当流では、信を獲ても、それを内心に秘めて生活することができます。
だからこそ、凡夫が救われると言えると思います。


>禅宗の悟り体験と真宗の獲信体験は、同質のものだということでしょうか?

最終的に目指すところは同一ですが、いわゆる「禅宗の悟り体験」と
「真宗の獲信体験」とは、違います。
379298:2008/01/02(水) 00:57:54 ID:NT1XsNIc
>>373

◎念仏三昧是真無上深妙禅門。
380298:2008/01/02(水) 01:19:57 ID:NT1XsNIc
>>371
>>>これは私の書き方が悪かったと思います。申訳ございません。
>>声を出すことができれば、となえることはできるでしょう。
>獲信前後の記憶がなければ、ご恩報謝の気持ちが出てこない、ということ
でしょうか?

特にこの質問からは、単なる好奇心を感じます。
救われたいという、切実な気持ちが、あまり感じられないように思います。

>これは儀式を複数回うける人もいるということでしょうか?

これも、そうです。あなた様が信を穫る上で、あるいは、
救われる上で、何か関係があるのでしょうか?

単なる好奇心であると思います。

本当に、救われたいのでしょうか。よくご自身を、お見つめください。

私は、「質問して下さい」と申し上げましたが、
質問していただければ、このように、どのような機であるかが、
明らかになってゆくからです。

南无阿彌陀佛
381298:2008/01/02(水) 01:39:51 ID:NT1XsNIc
>>378

また、「儀式」という言葉づかいを、当たり前のように繰り返されていますが、
求めている方は、そんな他人事のような言葉づかいはしないものです。
あなた様が2chに書き込んでいるのも、2chに書き込んでいる「儀式」です。
あなた様が、顔を洗うのも、洗顔という「儀式」です。
無意味な言葉ですから、間違いではありませんが、なぜ、そのような言い方を繰り返すので
しょうか。
あなた様は、2chに書き込むことを、わざわざ「儀式」と呼びますか?
そこには、何か先入観があるはずです。
「他力」だからと言って、「やってもらう」という感覚では、戸は開かないことでしょう。
求めるところは、自分でやるのです。
382298:2008/01/02(水) 01:42:45 ID:NT1XsNIc
>>378
また、質問ばかりで、あなた様の考えを全然明かしません。
「物を申さぬものはおそろしき」と蓮師もおっしゃっています。
あなた様の捉える真宗、あなた様の捉える救い、あなた様の領解を明かさねばなりません。
383298:2008/01/02(水) 01:49:01 ID:NT1XsNIc
>>378
>>宿善の有無を見る問答が行われ、それに合格すれば儀式を受けられる、ということでしょうか?

たとえば、「合格」という言い方など、他人事の最たるものであると思います。
合格だろうが不合格であろうが、求める方にとって、そんなことは関係ありません。
そもそも、そんなことを考えるはずがありません。
なんとしてでも、救われようとするはずです。
あまりにも、真剣味に欠ける表現であると思います。
384298:2008/01/02(水) 02:11:13 ID:NT1XsNIc
>>376
>鸚鵡のように繰り返しているだけで信を与えてくれるような、そんな凄い仏様がいるわけない。

◎ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽に
は往生せず(御文3-3)
385渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/02(水) 10:39:35 ID:SFV9YPoG
>>371
>獲信したが、本人に自覚がない、というケースもあるのでしょうか?

 獲信してないのに、獲信してないことは理屈で考えても簡単に分かることなのに、それでも、
あたかも自分は獲信したと本末転倒の妄想をして、これを自覚と勘違いしているケースは、腐るほ
どあるようです。

>>379
>念仏三昧是真無上深妙禅門。

>>また、善知識の側からは宿善を見る訳ですが、行者の側からは、真偽を見る訳です。双方真剣
です。易行の門ではありますが、真の禅門でもあるのです。これは、問答があるというだけでは
ありません。三業を整えることによって、佛になるという点においても、真の禅門であるのです
>>368)。

 善知識の側からは宿善を見る(>>368)? 何だこれは?

 さらに上根のひとのためには卑しくとも、我らがためには、最上の法にてまします。たとい自
余の教法は優れたりとも、自らがためには器量及ばざれば、勤め難し(歎異抄)。

 問答がある(>>368)? 何だこれは?。

 ひとえに論義問答むねとせんとかまえられそうろうにや(歎異抄)。
 どんな問答か知らんが、内容によれば、論義問答をする浄土真宗など聞いたこともないと言う
べきだろう。学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく。
386渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/02(水) 10:41:49 ID:SFV9YPoG
 三業を整えて仏になる(>>368)? 何だこれは?

 我らがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずれば助かるよし、承りて信じ候(歎異抄)。

 浄土真宗に得体の知れない奇怪な(珍しき)教義を立てなさんな。
 経釈をよみ学すといえども、聖教の本意をこころえざる条、もっとも不便のことなり(歎異
抄)。

 経典・解釈文など、先人の書き物をいくら読んでも、聖教の本意を理解しなければ、これは大
変不都合なことだ。

 聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心をしかと決定なくは、いたずらごとなり。弥陀をたの
むところにて往生決定と信じて、ふたごころなく臨終までとおりそうらわば、往生すべきなり(蓮如)。

 聖教を覚えても、他力の信心を決定しなければ、全く無益なことだ。阿弥陀仏の果遂の誓いを
礎に、これなら真如門まで往生できると信じ、余念無く死ぬまでひたすら念仏称えてみなさいな。
まさにこれが往生の道だ。

 「無宿善の人とは正雑二行の沙汰をするな。これが掟だ」といいながら、邪定聚の機で無宿善
の298と盛んに正雑二行の沙汰をし、双樹林下往生しただけの298を、報土往生したかのように
錯覚させ、自分が言う掟破りをしている師僧などとは縁を切ったらどうなのよ。
387渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/02(水) 10:57:03 ID:SFV9YPoG
 念仏三昧是真無上深妙禅門
 念仏三昧でないなら念仏は禅門ではない。念仏ならなんでもかんでも禅門だというわけじゃな
いんだ。念仏三昧が無上深妙の禅門なんですよ(五会法事讃略抄)。
 念仏三昧とは五会念仏なんです。五会念仏が念仏三昧であり、その念仏三昧が無上深妙禅門な
んです。
 王よ、座禅して念仏申すべし(行の巻)。念仏は真の無上深妙禅門だというなら、念仏三昧や
ってみなさいな。座禅して五会念仏称えてみなさいな。まず、真門に入る決意をしなさいよ。

 邪定聚の機で双樹林下往生から眺めるだけで真実教を撹乱するのは止めたらどう。
 全く仰せにてなきことをも、仰せとのみ申すこと、浅ましく、嘆き存じ候なり(歎異抄)。

>>384
>ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず

 ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほか
に別の子細なきなり(歎異抄)。

 ただ(いたずらに)声に出して称えているだけでは往生しないと言うなら、それはそれでいい
だろう。そのかわり、ただ(ひたすら)念仏してみなさいな。

 問うて曰く。五会念仏はどこに出在せりや。
 五会念仏の根拠は何か。

 答へて曰く。「大無量寿経」に云う。(乃至)「清風時におこりて五会の音声を出す。微妙の
宮・商・自然に相ひ和す。皆悉く念仏・念法・念僧なり。それ、音を聞く者は深く法忍を得、不
退転に住して仏道を成るに至る」。
388渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/02(水) 10:58:06 ID:SFV9YPoG
 根拠は大無量寿経にある。清風時におこりて五会の音声を出す、と。微妙な音階を和す。全て
念仏・念法・念僧である。極楽の音を聞く者は、深く法忍を得、不退転に住して仏道を成る

 また五会の念仏を釈す。五とはこれ会数なり。会とは集会なり。かの五種の音声、緩より急に
至るまで、仏法僧を准念して更に雑念なし。念は則ち無念仏の不二門なり。

 五会とはどういう意味か。これは集合という意味である。ゆっくり称え、また速くとなえる。
仏法僧を准に念じ、雑念を払う。この念は雑念のない仏の唯一の入口である。

声は則ち無常第一の義也。故に終日に仏を念ずれば、つねに真性に順ず。

 なぜ声をだすのか。声は発すれば、声は聞こえ、止めれば消える。無常の第一である。だから
こそ、絶え間なく一日中仏を声を出して念じれば、かならず真実に従う。

 〜 故に「観経」に曰く「若し念仏する者は、当に知るべし、これ人中の芬陀利華なり。名づ
けて希有と為す。観世音・大勢至勝友となりたまふ。当に道場に坐し、諸仏の家に生ずべし。
389渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/02(水) 11:00:16 ID:SFV9YPoG
 だからこそ観無量寿経にいう。念仏する者は人中の芬陀利華である。観世音・大勢至の勝友で
ある。念仏道場に坐し、諸仏の家に生ぜよ。

 是を以て如来常に三昧海の中において、網綿の手を挙げて謂く、父の王に曰く、「王今坐禅し
てただ当に念仏すべし。

 ここにおいて、釈迦如来は、皺の深い手を挙げ、父の王に言う。王よ、今、座禅してひたすら
念仏なさいませ。極楽国土は、みなことごとく 〜 蓮華座に坐す<観無量寿経>。極楽浄土は、
結跏趺坐、蓮華座が正式の着座法なのだ。極楽国土の着座法をもって着座し、座禅して称えてみ
なさいな

 〜 また(この五会念仏を)如来禅と名づく、

 五会念仏は如来禅である。達磨大師がインドから中国にもたらした如来禅である。


>>371
 真門を通らない人に真如門への道はない。難思往生の無い人に難思議往生はない。
 この意味をしっかりかみしめれば、話の相手が獲信者かどうか、一発で分かることが多い。
      彡川川川三三三ミ〜
      川|川/     \|〜
      川川  ◎---◎|〜
      川川     3  ヽ〜
      川川  ∴) A(∴)〜
      川川     U  /〜     ___
    _;川川     ダッラ〜   .    |  |   |\_
  /  川川   __/        . |  |   | |  |\
 /    /     | |              |  |   | |  |::::|
(    (   ◎  / \_          .|  |   | |  |::::|
 \   \   /\    ̄ ̄\     |  |   | |  |::::|
  /:\   \  ドピュ ̄\っ))))〜〜|  |   | |  |::::|
 /:::  \    つ___  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
 |:::    \   (__3。 ;。 ̄ ̄ |  _________ .|
 |::::     \__/          .| |             . |.|
 \:::    (;;; );; )          | |           .   |.|
391神も仏も名無しさん:2008/01/02(水) 12:12:30 ID:WbNCG6Qb
正月早々家族から相手にされていないニート海難
392298:2008/01/02(水) 14:24:56 ID:6FpoB3ll
>>387
>念仏ならなんでもかんでも禅門だというわけじゃないんだ。

念仏には、種類が無いと言い(>>376)、種類があると言う。矛盾していませんか。
一枚起請文を見ても、種類があることは明らかであると私には思えます。

>>386
>三業を整えて仏になる(>>368)? 何だこれは?

三業相応の念仏にて真実信心をいただき、それによって滅度に至る。
基本です。
あなた様のおっしゃる五会念仏も、三業を整えようとしていることには、
変わりがありません。


>>385
>問答がある(>>368)? 何だこれは?。

あなた様のこの2chの書き込みも、問答と呼ぶことができるでしょう。
宿善を見ようとし、また、真偽を見ようとするとき、
言葉が話せる同士であれば、そこに会話が起こることは
自然なことであり、それを「問答」と呼ぶ事は可能です。
もちろん、その会話の雰囲気は、善知識様によっても
異なるでしょうし、いわゆる「問答」のようになる場もあれば、
そうならない場もあるでしょう。
393神も仏も名無しさん:2008/01/02(水) 15:09:11 ID:Blua/Cc2
あけました。298さん、皆さん、今年もまあよろしく。
さて、念仏には無義をもって義とす。と親鸞聖人は言われます。
義とは、自力のはからいを指すことはよろしいですね。末灯鈔にあります。
では、298さん、今年最初の質問です。善知識が他人の宿善の有無を沙汰し、
思慮分別することは、この「義」に含まれますか?含まれませんか?
394298:2008/01/02(水) 15:14:09 ID:6FpoB3ll
>>393
>善知識が他人の宿善の有無を沙汰し、 思慮分別することは、
>この「義」に含まれますか?含まれませんか?

これは、義に含まれません。
「宿善を持て」と命令するなら義になるでしょう。
「宿善が有る」というのは、「救われたいと望んでいる」と同じ事です。
望む方には救いの法をお教えし、望まない方には、お教えしないというだけです。
望むすべての方にはお教えするわけですので、この「すべて」が無義であり、
機を問わないということです。
395298:2008/01/02(水) 15:22:38 ID:6FpoB3ll
>>393
また、宿善の有る無しというのは、曖昧なものではなくて、
宿善の有るかたは、(開発されると)ハッキリそれとわかる
ふるまいを致します。
ですので、これも完成された救いの一環なのであろうと
私は思っています。
396神も仏も名無しさん:2008/01/02(水) 15:23:25 ID:Blua/Cc2
>394
早速のご解答ありがとうございます。
>「宿善が有る」というのは、「救われたいと望んでいる」と同じ事です。
出拠如何?
397298:2008/01/02(水) 15:24:08 ID:6FpoB3ll
>>393
また、望むも望まないのも相手の方の自由、
ということが、無義であります。
はからっても、致し方ないのです。
あくまでも、相手の方の宿善次第です。
398298:2008/01/02(水) 15:29:56 ID:6FpoB3ll
>>396
◎かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、
まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり(改邪鈔)
399神も仏も名無しさん:2008/01/02(水) 15:34:40 ID:Blua/Cc2
>397
>また、望むも望まないのも相手の方の自由、
>ということが、無義であります。
すみません、親鸞聖人が無義の意味として、そのような事を言われましたか?
これも出拠をお願いします。
400神も仏も名無しさん:2008/01/02(水) 15:43:50 ID:Blua/Cc2
>398
申し訳ないのですが、それは出拠として適当でしょうか?
何かあまりに飛躍が多い気がしますが。
401298:2008/01/02(水) 16:32:28 ID:6FpoB3ll
>>399
「無義」なのだから、含まれるでしょう。
具体例をすべて挙げるまでもありません。
「雑行」の「雑」も、同じような使い方をされている箇所があります。
402298:2008/01/02(水) 16:34:39 ID:6FpoB3ll
>>400
飛躍が多いと感じられるのは、仕方がありません。
では、400様は、「むつぶ」「親しむ」を、どのように解されておられるのですか。
「飛躍」とおっしゃるということは、文字通りの意味を離れていると
思われているということでしょう。
つまり、400様の解釈があるはずであると思います。
403298:2008/01/02(水) 16:36:53 ID:6FpoB3ll
>>399
> >また、望むも望まないのも相手の方の自由、
>>ということが、無義であります。


また、私が言葉足らずであったと思います。

「また、望むも望まないのも相手の方の自由、
ということも、また無義なのであります。 」

と訂正させてください。
404298:2008/01/02(水) 17:02:32 ID:6FpoB3ll
>>398

さらに挙げるならば、

◎まことに宿善の開発にもよほされて(御文)

「もよほす」とは何か? ということです。しかし、もちろんこれでは飛躍があります。そもそも、飛躍があるように書かれている、ということです。
飛躍があるように書かれているのは、説得するものではないからです。宿善次第なのです。

◎まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし(御文)

これも、飛躍と感じられるでありましょう。
私が個人的にそう解釈している、ということで構いません。
学問というものは、客観的でなければならず、次第相承とは別の側面から、
また世の役に立つものです。
私は、こちらにて、学問的にお話しているのではなく、
あくまでも、経験に基づいてお話させていただいております。
ですから、誤謬もあるでしょう。間違いに気付けば、直してゆきたく
考えております。
(今のところ、「飛躍」に関しては、「致し方ない」と考えております。)
その飛躍が、「原義とは違う」と感じられる方もおられるでありましょうし、
「なるほど、そういうことか」と思われる方もいらっしゃることでしょう。
405298:2008/01/02(水) 17:02:56 ID:6FpoB3ll
>>398
また、御文様には、信心の沙汰について、一箇所、具体的な記述があります。
(ここでは、引きません。演技する徒を増やせば、ややこしくなるだけです。)
ですから、見いだされた方も、「ここですね?」と書いてほしくないのですが、
今の時代の流れです。いずれは、知られることになるでしょう。

◎されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる(口伝鈔)

しかし誤解していただきくないのは、「善をこのみ悪をおそる」でありながら、
凡夫というものは、悪行を致してしまうのであります。

しかし、ここでは、さらに申したいと思います。飛躍と思われて、
致し方ない内容ですが、申し上げたいと思います。
この場合の「善」とは、真実の行をさすのであり、
「悪」とは「雑行」をさすのであると私は解します。

ですから、

◎われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへども
ふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念む
しろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われ
らが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや(唯信鈔)

も合わせて読まねばなりません。
406298:2008/01/02(水) 17:03:32 ID:6FpoB3ll
>>398
◎「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。しかるに宿善開発する機のしるしには、善知識にあうて開悟せらるるとき、一念〔も〕疑惑を生ぜざるなり(口伝鈔)

ここが一番わかりやすいとは思います。

◎さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて
宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の
願因の名号をきくなり。しかれば名号執持することさらに自力にあらず、
ひとへに光明にもよほさるるによりてなり(正信偈大意)

◎当流には信をとることを宿善といふ(聞書)
◎かやうに宿善も遅速あり(聞書)
◎非有是下。或説因其功徳聞経。或説因其宿善聞法(六要鈔)

文証を含み、広く議論されたいのであれば、できれば、私のHP(>>231)の掲示板に
書き込んでほしと思うのであります。
現在でも、私が多く書き込まれていると思う方も多いでしょうが、
これでも、言い足りないのでありまして、さらなる長文になりますと、
書き込むのに気が引けてしまいます。
407298:2008/01/02(水) 17:50:49 ID:6FpoB3ll
>>393
>では、298さん、今年最初の質問です。善知識が他人の宿善の有無を沙汰し、
思慮分別することは、この「義」に含まれますか?含まれませんか?

ひょっとして、このご質問は、「宿善の有無の沙汰をするのは、
おかしい」という意味でおっしゃっているのでしょうか?
だとすれば、思うところを述べずに、遠回しにご質問する方である
ということになると思います。
「宿善の有無を沙汰せよ」という意味のことは、御文様に幾たびも
出てくることです。引証の必要もない程明確であります。
ですから、もし、宿善の有無の沙汰を問題とされておられ、しかも、
御文様を拝読してもわからない方がいるとすれば、その方に、
引証によって示しても、徒労におわることと思います。
この点につきまして、もし疑問がありますならば、御文様をお読みください。
408渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/02(水) 21:39:53 ID:SFV9YPoG
>>392  
 念仏には、種類が無いと言い(>>376)、種類があると言う。矛盾していませんか。

 「行住座臥不問時節久近」と言っても、行動中念仏と停止中念仏と着座中念仏と臥中念仏とい
う四種類の念仏があるんじゃない。久しぶり念仏と、最近念仏という二種類の念仏があるんじゃ
ない。みんな一つの念仏なんだ。同一念仏なんだ。南無阿弥陀仏なんだ。

 額の付いている絵画も、額なし絵画も、絵画は絵画なんだ。絵画を見てくれと言われれば「額
付き絵画を見るんですか、それとも額無し絵画を見るんですか」などと質問する奴はいない。額
があっても額が無くても、絵画は絵画、同一なんだ。
 だからといって、美術館に自分の絵画を掲示してもらおうと思ったら、額が必要か不用か聞く
ことは大事なことだ。美術館が「額を付けてきてください」と言えば、額を付けない絵画は受け
付けて貰えない。
 「額があっても無くても絵画なんだ。同じなんだ。二種類の絵画があるんじゃない。額を付け
てこいというのはおかしいじゃないか。額が無くても受け付けろ」と、そんなことで美術館の受
付の人と喧嘩する奴がいれば、それはノータリンとしかいいようがない。

 世の中に念仏として、起立念仏と着席念仏という二つの種類があるんじゃない。念仏は立った
まま称えても、座って称えてもいい。それなら座って称えても誰からも文句は言われないだろう。
座って称えていいんなら、正座してとなえても、あぐらして称えても、結跏趺坐して称えてもい
いだろう。

 念仏は声を出して称える。世の中に念仏として、速く称える高速念仏と、ゆっくり称えるゆっ
くり念仏とがあるんじゃない。速く称えても、ゆっくり称えても念仏は念仏なんだ。それなら、
速い念仏と遅い念仏とを混ぜて称えてもいいだろう。
409渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/02(水) 21:42:01 ID:SFV9YPoG
 念仏は、息を止めて称えても、息をしながら称えてもいいんだ。それなら息を整えながら称え
ても悪くない。

 額のない絵画より、額のある方が見栄えがいい。家の扉は、足で開けても、鼻で開けてもいい
けれど、手を使って開けるのが一番楽だ。扉の開け閉め一つでも、小笠原流という作法が一挙手
一投足が一番きれいだ。
 念仏はどう称えてもいいんだが、結跏趺坐し、息を整えながら速度にバリエーションをつけな
がら称えると、自然に心と体が引き締まる。法照禅師はある称え方を特に五会念仏と名を付け、
これを念仏三昧という名で提唱している。親鸞はその提唱に賛成している。

 絵画に額を付けたくなければつけなくてもいいが、額を付けないと受け付けない美術館では、
額のない絵画は展示できない。これは美術館の管理の都合だ。五会念仏をしたくないならしなけ
りゃいいが、五会念仏の方式に反する念仏を念仏三昧という区分に認めろと言われても、そんな
阿呆はノータリンとしか言いようがない。

>一枚起請文を見ても、種類があることは明らかであると私には思えます。
    意味不明

>三業相応の念仏にて真実信心をいただき、それによって滅度に至る。基本です。 

 身口意の三業が相応しないと滅度に至らないというのか?
 そんなことを親鸞が言っているか?。どこで言っているというんだ?

 かるがゆえに今の時のごときは、これ最末の時なり。かの時の行事、すでに末法に同ぜり。し
かればすなわち末法の中においては、ただ言教のみありて行証なけん。 〜 かくのごときの仏
の所にして、無余涅槃において次第に涅槃に入ることを得ん。(末法燈明記 化身土巻)。
410渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/02(水) 21:46:04 ID:SFV9YPoG
 ある箇所では「行証なけん」という。つまりそこでは滅度がないという。同じ末法燈明記の中
で涅槃に入るという。つまりそこでは滅度があるという。親鸞はこの末法燈明記を引用している。
明らかに、滅度には二種類ある。末法になれば、開けなくなる滅度と、末法でも開ける滅度があ
る。
 親鸞は、不断煩悩得涅槃という。298さんが言う「三業が相応しないと開かない滅度」は、
どっちの滅度なんですか。?
 298さんの教学理解は、もうめっちゃくちゃ。

>あなた様のこの2chの書き込みも、問答と呼ぶことができるでしょう。

 貴方は師僧と2ちゃんねる問答をしているんでしょうか?。  (苦笑)
 僕は、問答は不本意なんだが、2ちゃんねるでは問答の範囲を超えるのが難しい。

 まあ、師僧と貴方は、真門には入らず、双樹林下の世界で居眠りしていることは明らかだ。双
樹林下の世界から真実の世界の構造を撹乱すんじゃなく、一日も早く真門に向かい、そこから
真如門に向かうことを考えたらどうよ。

 才市さんはほとんど学問の無い下駄職人だった。だから、言っている内容は厳密な教学に照ら
すとおかしいところもたまにある。しかし、信心だけは本物だから、主張の核心はいずれも全く
外れていない。
 298さんは、学があるから一見正しそうなことを言っている。ところが、真門を通過しない
で、ほとんど念仏の経験なく双樹林下からいきなり報土往生しているつもりだから、核心部分はめ
ちゃめちゃだ。
411渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/02(水) 22:43:42 ID:SFV9YPoG
>410
 「才市さんはほとんど 〜 核心部分はめちゃめちゃだ。」

 この範囲を無視してください。勢い余っていわんでいいことを
書いてある。才市さんは才市さんであり、298さんには298さんの
道がある。 別人格を比較するなんて、全く余計なことでした。
      彡川川川三三三ミ〜
      川|川/     \|〜
      川川  ◎---◎|〜
      川川     3  ヽ〜
      川川  ∴) A(∴)〜
      川川     U  /〜     ___
    _;川川     ダッラ〜   .    |  |   |\_
  /  川川   __/        . |  |   | |  |\
 /    /     | |              |  |   | |  |::::|
(    (   ◎  / \_          .|  |   | |  |::::|
 \   \   /\    ̄ ̄\     |  |   | |  |::::|
  /:\   \  ドピュ ̄\っ))))〜〜|  |   | |  |::::|
 /:::  \    つ___  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
 |:::    \   (__3。 ;。 ̄ ̄ |  _________ .|
 |::::     \__/          .| |             . |.|
 \:::    (;;; );; )          | |           .   |.|
413298:2008/01/03(木) 01:30:51 ID:5fkUMfgC
>>411
常々自らの不徳を恥じ入っている次第でありますから、
どうかお気になさらず。
有名な素晴らしい方と比べるまでもなく、哀れな泥凡夫であること、
存じております。
414298:2008/01/03(木) 01:43:48 ID:5fkUMfgC
>>387
>王よ、座禅して念仏申すべし(行の巻)。念仏は真の無上深妙禅門だというなら、念仏三昧やってみなさいな。

「座禅して念仏」にも、「念仏三昧」にも、もちろん賛成なのですが、
「具体的にそれが何なのか」について、私とは異なるご意見を
お持ちであるように思っております。
「持戒座禅名正法」をどのように解していらっしゃるのですか。
私は、

◎善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏
の名号を南無とたのめば(御文)

のことと解しております。(「そのおしへをうけて、この」が「持戒」)
415298:2008/01/03(木) 01:54:51 ID:5fkUMfgC
>>409
> >一枚起請文を見ても、種類があることは明らかであると私には思えます。
>意味不明

勝手に明らかとしてしまい、誠に申訳ございません。
一枚起請文、冒頭部分に、
「もろこし・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。
また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず」
とございます。
ここでは、「もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念」という念があること、
そして、「学文をして念の心を悟りて申す念仏」があるということが示され、
この両者は、否定されております。
つまり、雑行となる念仏の存在が示されていると考えます。
別解という言葉もございますように、
念仏にも、さまざな種類があり、念仏為本となる念仏は、
あくまでも、本願相応の、次第相承の善知識の相伝に基づいた、
真実の行である念仏であると考えております。

◎別解は、念仏をしながら他力をたのまぬなり。別といふは、
ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり、解はさとるといふ、
とくといふことばなり、念仏をしながら自力にさとりなすなり。
かるがゆゑに別解といふなり(一多証文)
416298:2008/01/03(木) 01:59:11 ID:5fkUMfgC
>>410
>298さんが言う「三業が相応しないと開かない滅度」は、
>どっちの滅度なんですか。?

私が言う滅度は、「不断煩悩得涅槃」の方です。
今は末法の世ですから、どんなに素晴らしい法でも、
如法修行できる機がいないために、行証が無いのです。
そんな機でも救ってくださる弥陀は、
非行という行を完成してくださいました。
非行という行でありますから、自らは行ずることのできない我らでも、
行証を獲ることができるのであります。
あくまでも、能行にあらず、所行であるのです。
417298:2008/01/03(木) 02:01:56 ID:5fkUMfgC
>>410
>僕は、問答は不本意なんだが、2ちゃんねるでは問答の範囲を超えるのが難しい。

私は、「問答によって信を穫る」と言っているのでは、ありませんよ。
事実上、ほとんどの場合は、問答(のようなもの)を経由してから、
六字のいわれを聞き開くことになるでしょう、ということです
結果的に、そうなってしまうことが多いでしょう、ということです。
418298:2008/01/03(木) 02:25:33 ID:5fkUMfgC
>>409
>>三業相応の念仏にて真実信心をいただき、それによって滅度に至る。基本です。 
>身口意の三業が相応しないと滅度に至らないというのか?
>そんなことを親鸞が言っているか?。どこで言っているというんだ?

次に引用する御文様がわかりやすいと思うのですが、
御文様ではだめでしょうか?

◎このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。
これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、
善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり(御文)

もちろん、ここでは、滅度までは書いてありませんが、
信心正因により、滅度に至ります。
419298:2008/01/03(木) 02:25:42 ID:5fkUMfgC
>>409
また、安心決定鈔からも引きます。

◎おほよそ念仏といふは仏を念ずとなり。仏を念ずといふは、仏の大願業
力をもつて衆生の生死のきづなをきりて、不退の報土に生ずべきいはれを成就
したまへる功徳を念仏して、帰命の本願に乗じぬれば、衆生の三業、仏体にも
たれて仏果の正覚にのぼる。かるがゆゑにいまいふところの念仏三昧といふ
は、われらが称礼念すれども自の行にはあらず、ただこれ阿弥陀仏の行を行ず
るなりとこころうべし(安心決定鈔)

◎衆生の三業は能業となりてうへにのせられ、弥陀の願力は所業となりて
われらが報仏報土へ生ずべき乗物となりたまふなり。かるがゆゑに帰命の心、
本願に乗じぬれば、三業みな仏体にもたるといふなり(安心決定鈔)

親鸞聖人であれば、化身土文類の以下のところは、どう解されますか。

◎『観経』の説のごとし。まづ三心を具してかならず往生を得。
なんらをか三つとする。一つには至誠心。いはゆる身業にかの仏を礼拝す、
口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す(化身土文類)
420298:2008/01/03(木) 03:16:12 ID:5fkUMfgC
>>408
>「行住座臥不問時節久近」と言っても、行動中念仏と停止中念仏と着座中念仏と臥中念仏とい
う四種類の念仏があるんじゃない。

「行住座臥不問時節久近」が、自力で達成できますか。
私には、無理な事です。
渡海様も、挑戦してみたらよろしいでしょう。
それとも、「念念不捨者」を、読み飛ばしておられますか。
421298:2008/01/03(木) 04:43:24 ID:5fkUMfgC
渡海 様

私と致しましては、渡海様には、どうか次の2首を、
ご拝読いただきたいと思うのであります。

◎五濁の時機いたりては
 道俗ともにあらそひて
 念仏信ずるひとをみて
 疑謗破滅さかりなり

◎仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし
422298:2008/01/03(木) 04:43:38 ID:5fkUMfgC
では、自力の称念を好む方に、どのようにおすすめくださっているのか
と言えば、

◎仏智うたがふつみふかし
 この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし

「(自力の)念仏せねばならぬ」というのは、

◎転輪皇の王子の
 皇につみをうるゆゑに
 金鎖をもちてつなぎつつ
 牢獄にいるがごとくなり

金の鎖につなげられているが如くなのであり、
真実信心をいただけば、正定聚に住し、その後は念仏をとなえなくても、
極楽往生治定なのです。

しかし、「そんな簡単なはずがない。自力の念仏は必要である」
のように、善本修する心が、なかなか抜けないのです。
そう思い、善意で念仏行者を疑い誹り、
善意にて、自障障他を致します。
423神も仏も名無しさん:2008/01/03(木) 07:15:12 ID:LmukgJaX
>402
298さん、おはようございます。
さて、>398引文の件ですが、この文章では、宿善ある機=救いを求める者という
298さんの言葉を明らかにすることにはなりませんよね。
この文だけを見るならば、どこにもそのような事は述べられていないからです。
お時間ございましたら、改めて別の出拠をお出し下さい。
424298:2008/01/03(木) 07:33:00 ID:5fkUMfgC
>>423
おはようございます。>>402にてもお書き致しましたが、
あなた様は、「むつぶ」「親しむ」をどのように解釈して
いらっしゃいますか?
それがわかりませんと、

>この文章では、宿善ある機=救いを求める者という
>298さんの言葉を明らかにすることにはなりませんよね。
>この文だけを見るならば、どこにもそのような事は述べられていないからです。

の意味がわかりませんし、「よね」と同意を求められましても、
判断できません。

ですので、>>400の「飛躍」の根拠をお示し下さるように御願い致します。
ご自身の解釈がないのに「飛躍」と述べることは、できないはずです。
また、別の出拠につきましては、

>>404, >>405, >>406

にお書き致しました。

ただし、議論が拡散致しますので、まずは、ご自身の
「むつぶ」「親しむ」の解釈をお示しください。
「他の」「他の」と言われましても、ご自身の思いも表さぬ方に
述べても無駄であります。

「飛躍」「よね」について、私が判断するためには、
あなた様の解釈を知ることが必要ですし、
また、自身の考えを表さず、質問だけする方は信用できません。
425298:2008/01/03(木) 07:36:38 ID:5fkUMfgC
>>423
さらに、自身の解釈なくして、「飛躍」と述べたり、
「明らかにすることにはなりません」
「どこにもそのような事は述べられていない」と
述べることは、いわれなき批難をしている行為であると
考えます。
つまり、あなた様の書き込みは、今のところは、
「飛躍の具体的内容については述べられていない」
「明らかにすることにはならないことについて、
どこにもその根拠は述べられていない」ということになっており、
単なる印象操作になっておると思います。
426298:2008/01/03(木) 07:38:55 ID:5fkUMfgC
>>423
> この文だけを見るならば、どこにもそのような事は述べられていないからです。
>お時間ございましたら、改めて別の出拠をお出し下さい。

さらに。簡単に「改めて別の出拠をお出し下さい」などと
即断する前に、私がどのような意図で書いているのか、
もっと省察するべきであると考えます。
ご自分の解釈に問題がある可能性について、
もっと考えるべきです。
あなた様の解釈に問題があるかどうかを私が判断するためにも、
あなた様自身の解釈が必要です。
ご自身の解釈なくして批難しているとするならば、
詮無き事と言わざるを得ません。
427298:2008/01/03(木) 07:50:25 ID:5fkUMfgC
>>423
そもそも、あなた自身は、弥陀に救われたいと
望んでいらっしゃるのですか?
救われたいと望まぬ方にお話しても、
無駄であります。
望まぬ方は、読んでも読めず、聞く耳もないからです。
428298:2008/01/03(木) 08:02:55 ID:5fkUMfgC
>>423
>どこにもそのような事は述べられていないからです。

というのは、かなり強い断定であって、
相当の根拠がなければ、このような発言はできないはずです。
しっかりした根拠無くしてこのような断定を行うのであれば、
あなた様自身の考え方について、省察するべきです。
「どこにも」とおっしゃるからには、
一語残らず、その含意まで含め、あなた様は理解しているという
ことでしょう。
ぜひ、そのご理解をお示しください。
そして、「『義無きを義とす』と主張するのも、また義である」ということが、
わかりますか?
429298:2008/01/03(木) 08:04:46 ID:5fkUMfgC
>>423
ですから、「どこにも」ということであれば、
本来は、「むつぶ」「親しむ」だけでなく、
その他の単語についても、あなた様の御註釈が欲しいところであります。
そこまでの準備なくして「どこにも」とおっしゃるのであれば、
はなはだ軽率であると申し上げます。
430298:2008/01/03(木) 08:12:36 ID:5fkUMfgC
>>423
私は今のところ、あなた様は、私が>>398にて引きました部分について、
理解してないと思っております。
理解していないままで、「どこにも述べられていない」と述べ、
他の箇所を要求する。
そのような行為を、是とは思わないのです。
わからない方に対してなら、その方にわかるように、
より易しく説いてゆくということはできるでしょう。
しかし、あなた様の態度は、
「知っていると主張しているが、実は知らない」という類いの
ものであり、まずそこを改めていただきませんと、
説明に入ってゆけないのであります。
批難のための批難を為していないか、
よくよくお考え下さいと申し上げます。
もし、ご自覚がないのであれば、一単語一単語、
まずは釈してみたらよろしいでしょう。
それがスラスラとできないのであれば、
要らぬ即断をしたと気付く可能性もございます。
431298:2008/01/03(木) 08:26:45 ID:5fkUMfgC
>>423
>>430にてお書きしました、
>まずそこを改めていただきませんと、
説明に入ってゆけないのであります。
の意味がわかりますでしょうか。
易行の門ではありますが、その門をくぐるには、
宿善の開発が必要であります。
機を問わずして、誰でもがくぐれるわけではない。
このことの意味も、あなた様にはわからないでありましょう。
軽く読み流せば、「矛盾している」で終わりであります。
機を問わずして、難信であるのであり、
機を問わずして、易往無人なのであります。
あなた様には、なぜ、釈尊は、出世本懐以外の法も説かれたのか、
また、方便が必要なのか、また、なぜ、第十八願だけではなく、
第十九願、第二十願を説かれたのかもわからなければ、
それが弥陀の大悲であることも、わかりますまい。
猛省が必要であると、私は申し上げたいのであります。
432298:2008/01/03(木) 08:49:09 ID:5fkUMfgC
>>423
「機を問わぬ」につきましても、
「機を問わぬのなら、この俺を救ってみせよ」というような方が
多いのであります。
残念ながら、そのような方は対象外であります。
弥陀が見放しているのではありません。
その方が、弥陀を信じず、弥陀から離れておるのです。
433298:2008/01/03(木) 08:57:16 ID:5fkUMfgC
>>423
つまり、末法にては、難行の法と、難信の法があり、
十八願は、後者です。
そして、難行の法には、(事実上)行信が無く、
難信之法には、行もあれば、信もあり、
日々、弥陀に救われる方々がおります。
(この「難信」とは、行に至る前の段階の話です。)
434298:2008/01/03(木) 08:58:14 ID:5fkUMfgC
>>433
すみません、行証と間違えました。
435渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/03(木) 13:15:22 ID:CEkzJNI6
>>414
>私は、◎善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏  の名号を南無とた
のめば(御文)のことと解しております。

 意味不明・理解不能
 僕には理解不能のこじつけ理由があるらしい。要するに結論は、「だから念仏三昧など
はまっぴらじゃ」と言っているんでしょ。
 貴方の理由付けは不明だが、最終結論だけはしっかりとどきましたよ。念仏三昧は嫌だ
という。貴方に勧めるつもりはありません。双樹林下往生の下で留まっていればいい。
「千が中に一もなし」。親鸞からの298さんへのメッセージだ。

>>415
>ここでは、「もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念」という念があること、そ
して、「学文をして念の心を悟りて申す念仏」があるということが示され、この両者は、
否定されております。

 富士山には沢山の種類がある。葛飾北斎が描いた北斎富士、安藤広重が描いた広重富士、
横山大観が描いた大観富士。みんな絵柄が違う。色も形も違う。これがみんな同じ一つの
富士で、富士山は一つしかないと言われても、貴方にはとても信じられない話でしょう。

 十人いれば十種類の念仏がある。百人いれば百通りの念仏がある。そう言っても、まあ、
間違いじゃないワイナ。
436渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/03(木) 13:15:50 ID:CEkzJNI6
 水に映る月影は沢山の種類がある。しかし、映る月はただ一つ。水に映った影を月と言
うか、空の月を月というかの違いだ。
 僕は親鸞に従うんだ。親鸞聖人は念仏は一つ、同一だと言っている。宗祖がそう言って
いるから、僕は念仏は一つだと言う。貴方が、念仏は二つも三つもあるというなら、それ
は貴方の自由だろう。念仏は一つか多数かという、「一か多か」という算術議論に僕は関
心がない。念仏は一つだと教えてくれているその宗祖の心に潜む価値観を僕は大事する。
だから、僕は念仏は一つだと言う。

 念仏には種類があるという貴方の言いたいことは、分かった。分かった。

 「海の性一味にして、衆流入るもの必ず一味になって、海の味、彼に随いて改まざるが
ごとしとなり(真仏土巻)」。
 「もし我成仏せんに、十方の衆生我が名号を称せん、下十声に至るまで、もし生まれず
は正覚を取らじ」
 称える心は問題としない。称えれば必ず往生し一味となる。僕はその心に共鳴するんで
す。

 298は言う。「名号を南無とたのめば(御文)のことと解しております(>>414)」。
298の念仏は「知恵を絞っていろいろと解する念仏」。僕の念仏は「親鸞から貰っただ
けで知恵を絞らず、何も解さない念仏」だ。
 解する念仏と解さない念仏とは違う。ここだけでも二種類ある。双樹林下往生の世界は、
考えれば考える程ジャングルの中に入っていく。いろいろ迷路もあるでしょう。
437渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/03(木) 13:16:37 ID:CEkzJNI6
>>416
>非行という行でありますから、自らは行ずることのできない我らでも、行証を獲ること
ができるのであります。

 自らは行ずることのできない我らに「三業が相応しないと開かない滅度」を獲ることが
できるのか?。三業が相応しないと滅度は無いのか?。

 「煩悩は断じないでもいいが、三業は相応しないと開かない悟り」。298のこんな話
は、僕などには全く理解不能だ。

 三業が相応する念仏も南無阿弥陀仏。三業が相応しない念仏も南無阿弥陀仏。相応して
もいい。相応しなくてもいいんだ。南無阿弥陀仏を称えれば、海の性一味にして、衆流入
るもの必ず一味になるがごとし。

 298とは、要するに滅度の概念が違う。「・・・・<意味不明の前置きを縷々ならべ
て>・・・だから念仏三昧などはまっぴらじゃ」、「真門などはまっぴらじゃ」と言って
いる貴方と、共通の価値観、概念を持つことは不可能だ。

>あくまでも、能行にあらず、所行であるのです。
      宇宙人の暗号は聞いても分からん。
438渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/03(木) 13:27:15 ID:CEkzJNI6
>>417
>問答(のようなもの)を経由してから、

 問答を経由したら、それで貴方はその後、真門を経由するのかしないのか。
 真門を経由するのはまっぴら御免なんでしょう。
 双樹林下から、一気に報土に向かう。 まあ、勝手にしなさいな。

>六字のいわれを聞き開くことになるでしょう、
 六字のいわれが分かったらどうするの?念仏称えるの?。称えないの?
 「一心専念弥陀名号」など、まっぴら御免。「念念不捨者」などできるわけがない。い
われが聞き開ければ、難思往生を飛ばして難思議往生一直線。勝手にしなさいな。

>結果的に、そうなってしまうことが多いでしょう、ということです。
     真門否定の外道の貴方にはついていけない。

>>418
>これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になる(御文)

 298は念仏は称えない。真門を通過しない。一心専念はしない。それで身(行為)と
口(言葉)と意(意思)とを整える。大事なことは念仏を称えることではない。身(行
為)と口(言葉)と意(意思)とを整える。これが機法一体の南無阿弥陀仏であり、佛に
なる(>>368)。「衆生の三業と弥陀の三業と一体になる」ということである。298は
そうう言っているんでしょう。

 もう勝手にしてくれ。
 問答して、念仏のいわれとやらを聞いて、念仏無く、身(行為)と口(言葉)と意(意
思)とを整え、弥陀の三業と一体になる。外道の寝言は馬鹿馬鹿しくて相手なんかできな
いよ。問答して念仏のいわれとやらを聞けば、宇宙の神様とでも勝手に一体になってくれ。
妄想の典型だ。
439渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/03(木) 13:27:45 ID:CEkzJNI6
>>419
 298は念仏は称えない。298は真門を通過しない。298は一心専念はしない。身
(行為)と口(言葉)と意(意思)とを整えるんだという。身(行為)と口(言葉)と意
(意思)とを整えること、これが、「仏体にもたれて仏果の正覚にのぼる」ということで
ある(安心決定鈔)という。双樹林下の中では298が迷路に迷うのは当たり前だ。

 身口意を整えて勝手に仏体にもたれればいい。仏と一体になる。難思往生を求めない貴
方とは、考えの基本的基盤が違う。

>『観経』の説のごとし。まづ三心を具してかならず往生を得。なんらをか三つとする。
一つには至誠心。いはゆる身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業に
かの仏を専念し観察す(化身土文類)

 引用する場合には、きちんと重要部分も引用したらどう?大事な部分を欠落させてどう
するの?

 また云わく、『観経』の説のごとし。まず三心を具して必ず往生を得。なんらをか三と
する。一つには至誠心。いわゆる、身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、
意業にかの仏を専念し観察す。おおよそ三業を起こすに、必ず真実を須いるがゆえに、
「至誠心」と名づく、と。乃至 三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみ
な回して往生を願ず、かるがゆえに「回向発願心」と名づく。この三心を具して必ず生を
得るなり。

 この文で注意しなければならない部分は、親鸞の読替、書き替えだ。親鸞は、善導の思
想を換骨奪胎している。親鸞は、善導仏教の急進的改革派だったということをまず理解し
なければならない。
 三心を具して必ず往生を得という。これは観経の三心だ。観経の三心は、至誠心、深信、
回向発願心である。ここで親鸞は深信を落としている。つまり、親鸞にとって深信は別格
であり、これは至誠心・回向発願心と同列に扱えない。
440渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/03(木) 13:29:06 ID:CEkzJNI6
 信の巻きで、善導の文を引用し、そこでは至誠心、深信、回向発願心の三つを引用し、
最後に『懴儀』の上巻を引用し、「二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり」という
結論を出している。
 親鸞にとって、至誠心・回向発願心は自力の心、これは真実の心ではない。深心だけが
他力の心だ。これは、親鸞が善導と決別し、法然と決別した重要な思想だ。
 善導=法然=親鸞、同一性を妄想している人には、親鸞なんか理解できないよ。

 「必ず真実を須いるがゆえに」。ここも大事なんだ。原文と違う。「若起善三業者必須
真実心中作不簡内外明闇皆須真実故名至誠心」とある。「もし善の三業を起こすなら、必
ず真実心の中でなすべし。内外・明暗を簡(えら)ばず。皆真実なるが故に至誠心となづ
く」。これを、「おおよそ三業を起こすに、必ず真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名
づく」、と変えているんだ。親鸞が善導と決別した重要な思想だ。

 親鸞の意思をしっかり掴んでいく必要がある。須を、「もちいる」と読むのが、親鸞一
流の読み方だ。「なすべし」を親鸞はこれを書き直している。298の主張は、親鸞から
善導に勘違いして先祖返りしている思想だと言うべきだろう。

>>420
>「念念不捨者」を、読み飛ばしておられますか。  
  馬鹿馬鹿しい。勝手にしてくれ。

>>421-422
 もうなんでもいい。
 問答して念仏のいわれとやらを聞けば身(行為)と口(言葉)と意(意思)とが整い、
弥陀の三業と一体になる。
 馬鹿馬鹿しくて相手なんかできないよ。問答して念仏のいわれとやらを聞いて、宇宙の
神様とでも勝手に一体になればいい。馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 421-422にコメントが必要というなら、もう一度言ってください。そうしたら、詳細なコメント
を行います。    貴方との論争は疲れた。( ´△`)アァ-
441渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/03(木) 13:43:37 ID:CEkzJNI6
>>419の教行信証論は、色んな本に解説があるでしょう。自分の考えと親鸞の理解と
同じかどうか調べてみてください。
 もし自分の読み方と同じだと思ったら、「同じだったぞ」と、一言知らせてください。そ
うしたら、その部分の私の理解をお伝えします。

 貴方は、その部分から深信が欠落していることも、善導の文を書き替えていることも、
文法を変更していることもご存じなかったと思います。貴方の考えを否定する重要箇
所と思います。もう一度そこを正確にお読みください。

 貴方と僕との議論はその後にしたいと思います。 疲れました。 
442渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/03(木) 15:29:33 ID:CEkzJNI6
>439
誤 深信
正 深心
443298:2008/01/03(木) 15:34:54 ID:1Uw21D+N
>>441
ちょうど今日、解説本が届くところですので、
ご確認し、ご返信したいと思います。
「必ず真実を須いるがゆえに」というのは、私からすれば、
「如実修行相応」「如法」ということです。
また、一心は三心を具すのであると、私は考えています。
如法の念仏により、念仏三昧に入り、一向専念も、一心も、
叶うのです。
444298:2008/01/03(木) 16:01:16 ID:1Uw21D+N
>>438
>問答を経由したら、それで貴方はその後、真門を経由するのかしないのか。
>真門を経由するのはまっぴら御免なんでしょう。
>双樹林下から、一気に報土に向かう。 まあ、勝手にしなさいな。

私の場合は、口称念仏は、問答の前です。
(もちろん、現在も、御恩報謝として、お唱え申し上げております。)
多くの方も、そうなるでしょう。
十八願と言われても、どうしてよいかわからない。
ですから、とりあえず実行可能なことを行い、
祈る気持ちで、弥陀のお導きを望んでいました。
「神通をお持ちの弥陀であるのだから、必ず導いてくださる」
そう信じて、お唱え申し上げたことです。
また、「高声の念仏は、必ず現証を伴う」というお言葉も、
助けになりました。

南无阿彌陀佛
445神も仏も名無しさん:2008/01/03(木) 18:36:32 ID:LmukgJaX
>424
この『改邪鈔』(八)のタイトルは、
「わが同行、ひとの同行と簡別して、これを相論する、いはれなきこと」ですね。
大意を言えば、
「自分(師)の元に来たり、去って行ったりすることは、
宿縁によるものなのだから、我が弟子、人の弟子などと言って信徒を囲い、
我執を本とする派閥的概念によって、互いに相論するのは愚の骨頂である。」
そんな文章ですね。それをふまえて、先程の引文の前後も含めて意訳してみます。
(世間の夫婦とか主従関係と言うのも、縁があれば、
別れようと思ったところで別れられない。
逆に、どんなに慕いあい睦みあう仲でも、宿縁が尽きたら、
別れていかなければならない。世間でさえそうであるのに、
出世間道たる仏教においてはなおさらであって、
凡夫の力をもって親しんだり、離れたりするべきものではない。
師・弟子がともに一所にいたとしても、縁が尽きたら疎遠になる。
親しくすまいと思っても、縁尽きなければ、ともに一所に居るしかない。
これらは皆、過去の因縁によるものであって、
この裟婆一生のことに限ったことではない。)
→ここから298さん引文
「さらにまた、宿善のある機は、正しい法を述べる善知識に親しむことによって、
特に招かれたわけではないのに、人を迷わさない仏法に必ず睦むべき由がある。」
(宿善なき機は、招かれたわけでもないのに、悪知識に近づいていき、
善知識から遠ざかる所以がある。
(弟子に)睦まれたり、(弟子が)遠ざかることによって、
さらに知識の過失欠点が明らかになる
(直していくべき点が明らかになる)のだから、
教えを受ける弟子の運・不運に関しても、宿善の有無に関しても、
(我が弟子、人の弟子と選びわけて、相論する前に)
まず、師・弟子ともに恥じて、(自分たちの教え方や、諸諸の事を直して)いくべきである。)
446神も仏も名無しさん:2008/01/03(木) 18:38:20 ID:LmukgJaX
>445のつづきです。
私の問いは、この文の何処が、298さんの主張たる
宿善の機=救いを求める者の論拠となるのですか?と言うことなんです。
自分の主張を明確に述べられた箇所をもってこなければ、
文証とは言えません。このことをきっちり押さえないと、
必ず論理飛躍が起こります。飛躍した論にさらに論を繋げていけば、
全く原型を止めない自義が生まれるだけです。お聖教は、自義を挟まず読まないと。
まあ、298さんの論が正しいと証明するためには、この出拠では
厳しいと言うのが、今のところです。
447298:2008/01/03(木) 23:02:23 ID:VNJ7bHih
>>445, >>446
まず、ご自身の解釈を示してくださいましたことに、
感謝申し上げたいと思います。
これだけ書き込んでおりますと、間違いがあることは、
避けられないと思っております。
間違いに気付いたら、直してゆきたいと思っております。
しかし、ただ「飛躍している」とおっしゃられても、
どこが間違いなのかもわかりません。
ですから、思うところを述べてくださいましたあなた様に、
感謝を申し上げます。
次に、あなた様の解釈を読んで上での感想ですが、
どうしてそこから「飛躍」と思うのかがわからないのが、
まず1点。(あなた様の解釈をお示しいただきましたので、
私からも、この後、私の考えを申し述べさせていただきます。)
また、>>400にて「あまりにも飛躍が多い」とのことですが、
>>446によりますと、その本意は、
> 私の問いは、この文の何処が、298さんの主張たる
>宿善の機=救いを求める者の論拠となるのですか?と言うことなんです。
とのこと。
まず、ご自身の主張が>>446の通りであるならば、
あなた様自身、>>400にて飛躍のある言葉づかいをしていると
感じるのが2点目です。
つまり、飛躍のあることばづかいをするあなた様ご自身が、
改邪鈔を読んでいるのだと言うことをわかってください。
ですから、「飛躍した論にさらに論を繋げていけば、
全く原型を止めない自義が生まれるだけです」というのは、
あなた様ご自身の姿かもしれないということです。
448298:2008/01/03(木) 23:09:03 ID:VNJ7bHih
>>446
3点目に、そもそも、証明はできません。
証明ができることならば、宿善論は要らないのです。
彌陀の救いは、証明があって、その証明により救われるような
仕組みではありません。
ですから、証明を求めるならば、宿善(の開発)がないのです。
以前も、同じ方か別の方かわかりませんが、
「証明」を求めた方がいらっしゃいました。
求めるのは、証明ではありません。彌陀の救いです。
疑心を解いてゆくのは大切だと思いますが、
それは、証明によるのではないのです。
> まあ、298さんの論が正しいと証明するためには、この出拠では
厳しいと言うのが、今のところです。
とのことですが、では、あなた様の論で、「証明」できるものが
あるのですか?
もしあるのであれば、ぜひ挙げてみてください。
私からすれば、「証明するのが厳しい」のは当たり前で、
だから何なのだろう? という感じです。
「飛躍」「どこにも・・・ない」について、「飛躍とおっしゃるのだから、
あるいは、どこにも・・・ないとおっしゃるのだから、
よっぽど自分の論に自信のある方で、
一語残らず、含意まで理解しているとお思いなのだなあ」
との旨、感想を申し上げました。
今度は、「よっぽどご自分の論は、証明のできるものばかりなので
あろうなあ」という感想を申し上げたいと思います。
あなた様の論で、「証明」のできるものを、
いくつか挙げてみて下さい。
私から見ると、あなた様は、いわれなき批難をする
習慣をお持ちでいらっしゃいます。
449298:2008/01/03(木) 23:25:37 ID:VNJ7bHih
>>398
>かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、
まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり(改邪鈔)

まず、ここでは、宿善のある機の性質が2つ述べられています。

1)正法をのぶる善知識に親しむべし

2)まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべし

「によりて」とありますので、1)は、2)の理由です。

ここまでは、同意いただけますでしょうか?

ここまでで、異論があるとすれば、「によりて」の解釈だと思います。

もし、同意いただけるならば、さらに論を進めます。

異論があるのであれば、その点につきまして、論を進めたいと思います。
450298:2008/01/04(金) 02:01:42 ID:ako6KVXQ
>>441
渡海様。疲れさせてしまい、申し訳ございません。
教行信証の解説本ですが、今日届くと思っておりましたのは、5巻本のもので、
しかし実際には、はじめの2冊しか届きませんでした。
ですので、信巻までの解説しか、ないのです。
今、手元にありますものですと、解説本としては、
六要鈔、本願寺出版社の浄土真宗聖典註釈版第二版、岩波文庫版教行信証
になります。

>貴方は、その部分から深信が欠落していることも、善導の文を書き替えていることも、
文法を変更していることもご存じなかったと思います。貴方の考えを否定する重要箇
所と思います。もう一度そこを正確にお読みください。

このご指摘の内容を、分けます。

1)その部分から深信が欠落していること

2)善導の文を書き替えていること

3)文法を変更していること

順番にお答えして参ります。
451298:2008/01/04(金) 02:02:28 ID:ako6KVXQ
まず、1)ですが、私は引用する際に六要鈔を参照しており、この点については、存じ上げておりました。

該当の箇所には、こうあります。

◎「乃至」というは深心の釈なり。問う、この中に何ぞ深心の釈を略するや。
答う、深心の釈は第二巻の中に智昇の釈を載せて既に以てこれを引く。
故に今はこれを略す。

新たな解説本が届いておりませんので、この点については、
「同じだったぞ」となります。

>親鸞にとって、至誠心・回向発願心は自力の心、これは真実の心ではない。
>深心だけが他力の心だ。これは、親鸞が善導と決別し、法然と決別した重要な思想だ。

につきましては、

◎『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり。知るべし。

「顕の義によれば異なり」なのですから、渡海様が「異」と為すことも
自然ではありますが、「彰の義によれば一なり」なのです。

では、「彰の義」とは何か。

第十八願です。
452298:2008/01/04(金) 02:02:52 ID:ako6KVXQ
そして、大経の三心は信楽の一心におさまり、彰の義によれば、
観経の三心もまた、信楽の一心におさまるのです。

(観経を十九願と解する際には、おさまりません。)

ですので、これもまた「同じだったぞ」となります。

私は、あくまでも、観経を十八願として読む場合について、
言っています。
この場合、廻向発願心も、衆生の側からの廻向では無く、
彌陀からの廻向であると読むことになります。
三業相応については、彌陀も行った業でありますし、
衆生も行うのです。
ただし、至誠心そのものは、弥陀からいただくものです。
「真実を須ゐるがゆゑに」凡夫の側から三業を起こすことにより、
至誠心を獲ます。
453298:2008/01/04(金) 02:03:04 ID:ako6KVXQ
次に、2)です。渡海様のおっしゃることが、
よくわかりませんでした。
「乃至」を指しているのでしょうか?
しかし、これは書き替えではなくて、「省略」であると思います。

3)です。漢文における再読文字は、日本語に読み替えるときの
都合に過ぎず、それを日本語の他動詞に読み替えたところで、
なぜ「文法を変更」とおっしゃっているのかが、わかりません。
通常の訓みでは、「真実」を「真実なり」と断定の助動詞を
加えて訓む(あるいは、形容動詞として訓む)わけですが、
これは、文法の変更ではないのでしょうか。
(漢文法上は、「真実」とは、名詞ではありませんか?)
「須」を日本語の助動詞で読もうとするが故に、
名詞と接続することができず、このように、品詞を転換する
(形容動詞化、あるいは、助動詞を補う)必要が起こります。
聖人が、これを「他動詞+名詞」で訓んだからと言って、
私はさほど驚きません。
この訓み方につきましても、以前、浄土真宗聖典七祖篇(本願寺出版社)を
読んだときに、註にもありましたので存じておりました。
454298:2008/01/04(金) 02:05:05 ID:ako6KVXQ
>>435
>貴方の理由付けは不明だが、最終結論だけはしっかりとどきましたよ。念仏三昧は嫌だ
という

私は念仏三昧を否定しておりません。ですから、届いておりません。
凡夫の自力念仏で、三昧に入ることが叶いますか? と問うているのです。
第十八願の念仏においては、凡夫がいとも簡単に三昧に入り、
真実信心をいただけるのです。
つまり、次第相承に基づいた念仏でなければ、三昧に入ること難いでしょう?
と言っています。
10人が10人、いとも簡単に念仏三昧に入り、真実信心をいただける。
そのような念仏を、渡海様は説けるのですか?
私はとてもではありませんが、教わるまで、行ずる事できませんでした。
修行の程度によるのではなく、どのような機でも、
一律に三昧に入り、彌陀からの信をいただく方法があるのです。
無碍、無辺、最勝、深妙、不可説、不可称、不可思議であるのです。
455298:2008/01/04(金) 02:07:30 ID:ako6KVXQ
>>440
>問答して念仏のいわれとやらを聞けば身(行為)と口(言葉)と意(意思)とが整い、
>弥陀の三業と一体になる。

少し誤解があるように思います。
念仏のいわれを聞いた時点では、一体になりません。
そのいわれに基づいた念仏を行ずる際に一体となるのです。
456298:2008/01/04(金) 02:09:07 ID:ako6KVXQ
>>437
> >あくまでも、能行にあらず、所行であるのです。
>宇宙人の暗号は聞いても分からん。

では、言い換えます。
あくまでも、自力の行ではなく、他力の行であるのです。
457298:2008/01/04(金) 02:11:38 ID:ako6KVXQ
>>437
>三業が相応する念仏も南無阿弥陀仏。三業が相応しない念仏も南無阿弥陀仏。
>相応してもいい。相応しなくてもいいんだ。南無阿弥陀仏を称えれば、
>海の性一味にして、衆流入るもの必ず一味になるがごとし。

◎かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、
実のごとく、修行し相応せんと欲ふがゆゑに(行巻)
458298:2008/01/04(金) 04:22:58 ID:ako6KVXQ
>>436
>僕は親鸞に従うんだ。

このお気持ちは、本当に尊いことであると、拝しております。
あなた様を疲れさせることも、私の本意では、ありません。
聖人の説かれた念仏は、次第相承されて、今の世にまで、
伝わっています。
どうか、あなた様にも、楽になっていただきたいと、
私は切に念ずるのです。
459神も仏も名無しさん:2008/01/04(金) 09:41:56 ID:DLfpmjXB
>449
論を進めるも何も、「宿善の機=救いを求める者」という主張を
裏付ける根拠を聞いているだけなのですが。
義相を述べるのは、まず出拠をある程度出してからにすべきかと。
無論、お聖教を元に、義を立てておられるのでしょうから、
出拠が『改邪鈔』(八)だけと言うことはないでしょう。
親鸞聖人も蓮如上人も当然述べておられるはず。
問いは「宿善の機=救いを求める者」という298さんの立てられた義が
本当に真宗義として成立しえるのか?成立しうると言うならば、
根拠は何処にあるのか?これ一点だけです。
まあ、ちなみに、その文章を直訳すれば、
「一方でまた、宿善ある機は・・・@、
正しい仏法を述べる善知識に親しむに違いないから・・・A、
特に呼び寄せられたわけではないけれど、
人を迷わすはずのない仏法に、
当然、仲むつまじくする由がある・・・B」
@を条件とし、Aが結果、さらにBはAの当然の帰結。
このように解釈するのが妥当です。何故なら、
前の文に、世間の妻子・眷属の関係を喩えとして、
凡夫の意志が如何様であろうとも何事も宿縁による、
と説明されているし、続く文には、
「宿善なき機は、特に呼び寄せたわけでもないけれど、
自ら悪知識に近づき、当然、善知識に遠ざかるべき由がある」
とありますから、298さんの引文は「善知識に馴れ親しむも疎遠となる(悪知識も然り)も、
皆、宿縁(宿善)のもよおしである」と解釈せねばならないという事です。
よって、宿善ある機=救いを求める者という義の文証、
出拠としては全く適当でありません。故に、他の出拠をお探し下さいと言う事です。
460298:2008/01/04(金) 20:22:06 ID:/lVgBIV5
>>459
相変わらず、
>出拠としては全く適当でありません。
>故に、他の出拠をお探し下さいと言う事です。
とのご主張。
一方、私は、「なぜ適当なのか」を示そうとして
書き始めています。
しかし、
>論を進めるも何も
とのことですので、進めてほしくないということでしょう。
尋ねる気のない方に、話すつもりもありませんし、
その必要もないでしょう。
もし、知りたい気持ちが出て来ましたら、
そのときに、再度お尋ねください。
私がスレを見ていたら、
続きを書いて行こうと思います。
もうひとつ。
私は、義を立てているのではありません。
経験に基づいてお話ししているのです。
お聖教は、その経験を裏付けし、
信後の相続となるものです。
お聖教から、弥陀の救いを想像しているわけではありません。
461渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/04(金) 21:42:50 ID:OsC5Ektx
       な が れ
>>368 (298)
易行の門ではありますが、真の禅門でもあるのです。
    議論はここから始まりました。

368 (渡海)
>何が真の禅門なんでしょうか。
   「禅門」であると言ったその主語を聞いたつもりでいました。

>>379  (298)
>◎念仏三昧是真無上深妙禅門。
 五会法事讃略抄を引用しています。無上深妙禅門であるのは、念仏三昧であると書いて
あります。
 禅門の主語は「念仏三昧」ということでしょう。

>>385 (渡海)
>善知識の側からは宿善を見る(>>368)? 何だこれは?
    禅門の主語は念仏三昧であるという主張を受けています。
 「善知識の側からは宿善を見る訳ですが、行者の側からは、真偽を見る」、
「問答がある」、「三業を整える」、いずれも念仏三昧とは関係がない。不適当な主張で
あると言ったつもりでした。

 「善知識の側からは宿善を見る」
 念仏三昧には、善知識の側からは宿善を見るということはない。
 「問答がある」
 念仏三昧には問答はない。なお、論義問答をむねとするということであれば、念仏三昧
どころか、真宗の伝統教義の範囲を超えるという意味も含めました。
 「三業を整える」
 念仏三昧には三業を整えるということはない。三業を整えるという考え自体が真宗にな
いという主張をしています。
462渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/04(金) 21:44:21 ID:OsC5Ektx
>461
>>387 (渡海)
 禅門というのは、念仏三昧をいう。念仏三昧でないものは禅門ではない。
 「善知識の側からは宿善を見る訳ですが、行者の側からは、真偽を見る」、「問答があ
る」、「三業を整える」
 いずれも親鸞が言う禅門とは関係がない。教義を混乱させるのはよくないというという
主張をしています。

>>388 (渡海)
 念仏三昧は、五会念仏を言うという主張をしています。


>>392 (298)
 念仏は、全て禅門である。
 禅門の念仏と、非禅門の念仏と種類があるという考えはおかしい。
   <念仏三昧是真無上深妙禅門という記載に反する主張をしています>。
 五会念仏も、それ以外の念仏も三業を整えようとすることである。
   <念仏は三業を整えることではないという渡海の主張と対立する議論を出していま
す。>

 宿善を見ようとし、また、真偽を見ようとするとき問答がある。
   <念仏三昧は、親鸞が言う禅門とは、問答と言うことか?>
 2ちゃんねるでも問答をしている。

>>408 (渡海)
 禅門の念仏と、非禅門の念仏とがあるということと、同一念仏無別道故とは矛盾しない
身口意の三業が相応しないと滅度に至らないという考えは間違いである。
 師僧と2ちゃんねるの問答をしているのか?。
463298:2008/01/04(金) 21:46:06 ID:/lVgBIV5
>>461
渡海様、流れをまとめてくださいまして、
ありがとうございます。
有縁の方にも、議論がわかりやすくなると思います。
まだ、途中だと思いますので、
ひととおりまとまりましたら、
その旨もお知らせください。
464渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/04(金) 21:46:11 ID:OsC5Ektx
>462
>>414 (298)
>「持戒座禅名正法」とは、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏
の名号を南無とたのめば(御文)という意味である。

>>416 (298)
 煩悩を断じないで得る涅槃は、三業が相応しないと開かない。

>>417 (298)
 問答(のようなもの)を経由してから、六字のいわれを聞き開くことになるでしょう

>>418-420 (298)
三業が相応するとは、衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところである
 お文・安心決定鈔・化身土文類を引用。

>>438 (渡海)
 真門を経由しないということは、認められない。
問答して、弥陀の三業と一体になるという考えは認められない。

>>455 (298)
 いわれに基づいた念仏を行ずる際に一体となるのです。
465渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/04(金) 21:55:06 ID:OsC5Ektx
>464
   総 括
298さんの主張
 念仏は全て禅門である。念仏三昧であるか否かに限らない。念仏は全て禅門である。
真宗は、問答して念仏のいわれを聞き、そのいわれに基づいた念仏を行ずる際、衆生は三
業を整え、衆生の三業と弥陀の三業と一体になる。

渡海の主張
A 禅門とは念仏三昧である。念仏三昧とは五会念仏である。五会念仏以外は念仏三昧で
はない。念仏三昧以外は禅門ではない。
 理由 念仏三昧是真無上深妙禅門 (五会法事讃略抄)

B 問答 論議問答を中心とすれば、これは真宗ではない
      (理由 論義問答むねとせんとかまえられそうろうにや 歎異抄)

C 衆生は三業を整え、衆生の三業と弥陀の三業と一体になるという主張は、双樹林下往
生である。難思議往生ではない。
      (理由 化身土)

 「三業と一体になるという主張は、双樹林下往生である」。今後、渡海難はこれを証明
しようとしています。
 三業と一体になるという主張は、双樹林下往生であれば、これは真実信心に至らないと
いう結論になる。なぜなら、双樹林下往生では、千中無一だから。千中無一では、真実
信心に至らない

 298さんの方で、三業と一体は難思議往生であると立証してみますか?。
 この議論は、その立証を待ってこれで一応終結。

 議論に他の人が参加できなくなっている。一応それで打ち切り。それでどうですか?。
466298:2008/01/04(金) 22:06:36 ID:/lVgBIV5
>>465
丁寧にまとめてくださり、本当にありがとうございます。
それにしても、よっぽど私の表現が悪いのか、
難信之法だからなのか、
最後の「総括」を見ても、私が書いていることと違います。
ただし、これは批難しているのと違います。
感謝しているのです。
どのように受け止めなさっているか、
私にとって、わかりやすくなるからです。
「議論に他の方も」につきましては、私はひとりでも
(知りたい気持ちで)話しを進めて下さる方がいれば、構いません。
私にとっては、ひとりひとりが大切です。
ひとりに話すのと、一万人に話すのと、
その価値を比べることに、意味はありません。
目の前の方のために、力を尽くすのが当然です。
わからないことは仕方がありませんし、
私も間違いはあるでしょう。
しかし、知りたい気持ちがない方にお話しても、
詮無きことです。(つづく)
467298:2008/01/04(金) 22:06:48 ID:/lVgBIV5
(つづき)お話していて、ぐるぐる回りになってしまえば、
私としても、手だてがありませんが、
渡海様は、このようにまとめてくださっていますので、
「総括」を見れば、どのような行き違いがあるかわかりやすく、
話しが進むのです。
それは、(間違いを書いてしまうかもしれないリスクを
乗り越えて)思うところを表現してくださっているからです。
そこが、思うところを書かない、知っているフリをしたい方々との
違いです。
確かに、私は他の方に遠慮をして、短く書いていました。
それが、誤解を生むもとにもなっていると思いました。
なんでも述べようとして、長くなることもわかりにくいですので、
私は今、伝え方を学びつつあるところです。
思うところを述べない方々がいらっしゃることも、わかってきました。
渡海様は、獲信について、以前「さあ?」とお答です。
難思議往生を望む方であれば、それ以上の優先順位はないはずでしょう。
それを理解しない真宗門徒など、真宗門徒ではありませんから、
そんな輩は無視して構わないと思います。
468神も仏も名無しさん:2008/01/04(金) 22:16:11 ID:DLfpmjXB
>460
四の五の言う前に『改邪鈔』(八)の俺の意訳を批判してから、ものを言ってほしいです。
もう一度、『改邪鈔』(八)を読んでみて下さい。タイトルはなんですか?
ここで、覚如上人は何を言わんとしているのですか?
冷静に、お聖教に対峙し、読解してから、書き込んでみたら如何でしょうか。
469298:2008/01/04(金) 22:22:18 ID:/lVgBIV5
>>465

まずは、総括についてです。

誤解が解けるかはわかりませんが、試みてみます。

>念仏は全て禅門である。念仏三昧であるか否かに限らない。念仏は全て禅門である。

私は、念仏には種類があると述べています。

その中に、「真宗念仏」という、真の念仏(真実行)がある。

この真の念仏を行うためには、次第相承の善知識に会い、六字の謂れを聞き開くことが必要であると述べています。

そして、この六字のいわれに基づいた念仏を行うと、機を問わず、すべての衆生が獲信します。

この意味において、「六字のいわれに基づいた念仏」は一種類です。

そして、「六字のいわれに基づいた念仏」を行う際に、例外無く、衆生は三昧に入ります。

このような念仏、すなわち、真実の行である念仏のみが、真の禅門であり、専修であり、これ以外は、すべて雑行です。
(つづく)
470298:2008/01/04(金) 22:22:52 ID:/lVgBIV5
(つづき)
>真宗は、問答して念仏のいわれを聞き、そのいわれに基づいた念仏を行ずる際、衆生は三
>業を整え、衆生の三業と弥陀の三業と一体になる。

「問答して」についてですが、善知識の側から見たときに、宿善のある機を見るわけですから、そこには自然と問答が生じるでしょう。「問答」がわかりにくければ、「会話」でも構いません。

(「言葉のしゃべれぬ方」などの事例は考えずに、大体の場合について述べています。あくまでも、実用的な観点から述べています。)

行者の側からみれば、「ここには正信があるか?」と考えるでしょう。そこに、問答が起こる可能性が高まります。

行者が、「ここには正信がある」と思い、法に頭が下がり、「すべてお任せします」のような態度でお願いすることができれば、六字の謂れを聞き開くことできるかもしれません。

私が書いた「問答」は、「尋ねる」のプロセスに相当します。「会う」「質問する」ということです。

「釈尊の教えをよくよく学んでいたとしても、一文字の知識もないものとして」ということなわけですけれども、行者の側からすれば、いきなりそういう態度を取ることができるでしょうか?(つづく)
471298:2008/01/04(金) 22:23:20 ID:/lVgBIV5
(つづき)
どうしてそこまで信じられるのでしょうか? 多くは直感によると思いますが、行為としては、会話が入ることが多いでしょう。

そして、自らの側としては、文字の知識もないものとする白紙の状態になって、六字のいわれを聞き開くのです。

六字の謂れを聞き開くことができたならば、その謂れに基づいた念仏を行います。この際に、衆生の三業と弥陀の三業が一体となり(如法修行相応)、行者は真実信心を獲ます。

如実修行相応のお念仏の際、行者は途中で三昧に入り、抜けます。

この三昧のとき、信を獲ます。

真実の信心を獲たら、その後のお念仏は、御恩報謝です。

渡海様の総括との違いは、わかりますでしょうか?
それとも、同じに感じますでしょうか?
このようなお話ができますのも、渡海様が、渡海様の理解を明かして
くださったからなのです。
しかし、あまりお話しが核心に進みますと、掟のため、
お話できないことも出て参ります。
今はただ、とりあえず、ここまでのお話を聞いて、
渡海様のご総括と、私がここに書いていることの
違いがわかるかを知りたいのです。
もともと、私の表現をもとにした総括ですので、
渡海様から見た場合、違いがわからない可能性もあると
考えています。
472298:2008/01/04(金) 22:25:20 ID:/lVgBIV5
>>468
あなたは結論を持っていらっしゃるとのことですから、
私の話は必要ないでしょう。
あなたは、「わからない」ということを、
繰り返し自慢気に書いているに過ぎません。
473298:2008/01/04(金) 22:29:27 ID:/lVgBIV5
>>468
>冷静に、お聖教に対峙し、読解してから、書き込んでみたら如何でしょうか。

ぜひ、お知り合いの妙好人にも、そのようにお尋ねください。
474298:2008/01/04(金) 22:34:01 ID:/lVgBIV5
>>468
信も穫らずに他を導こうとする、二尊のあわれみにはずれる行為を
しているご自身の姿も見えないならば、
真宗を語る資格などありません。
信を穫ってから、ものを言ってください。
有縁の方に、迷惑です。
475298:2008/01/04(金) 22:42:09 ID:/lVgBIV5
>>465
ひょっとして「問答=六字の謂れを聞き開く」という解釈でしょうか?
私も言葉足らずであったと思います。
六字の謂れを聞き開く「前に」問答がある可能性が高いということです。
六字の謂れを聞き開く「前に」、善知識の側からは行者の宿善の有無を見、
行者は善知識の真偽を見るのです。
行者が真と思えば、自然と態度に変化が起こるでしょう。
ここを、「宿善の開発」と言うのです。
476298:2008/01/04(金) 22:52:15 ID:/lVgBIV5
>>465
それと、ほとんどの場合、行者は、いきなり善知識に会うことは
ないと思います。
多くの場合は、まず信心決定の行者と会うことになるでしょう。
この場合、
信心決定の行者は、信心を決定したい行者の宿善を見、
信心を決定したい行者は、信心決定の行者の真偽を見ることになります。
そして、信心を決定したい行者が納得すれば、
次第相承の善知識のご紹介をお願いすることになるのではないでしょうか。
ただしそれが、演技である可能性もあるわけですから、
それによって、重い戸になることがあるであろうと言うことです。
(もったいぶっているからと言って、すべて真であるはずがないことは、
繰り返し訴えたいことです。)
真偽を見る際にたよりになるのは、お聖教と、直感です。
この直感を正確にするには、第十九願と第二十願を経由していることが
助けになります。
有縁の方で、興味のある方には、
いきなり善知識を探そうとしないようにとお伝えしたいです。
まず探すべきは、信心決定の行者です。
信を決定している以上、次第相承の善知識を知っているはずです。
477298:2008/01/04(金) 23:34:05 ID:/lVgBIV5
>>465
>「三業と一体になるという主張は、双樹林下往生である」。
>今後、渡海難はこれを証明しようとしています。

お説は聞いてみたいので、もしお手数でなければ、ぜひご紹介ください。

>298さんの方で、三業と一体は難思議往生であると立証してみますか?

私は、「立証はできない」という立場ですので・・・
体験すれば済む事です。お聖教と言えど、傍証の域を出ません。
すべてが、あくまでもご方便です。

再度引きますが、

◎これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、
善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、
このこころなり(御文3-7)

私としては、御文様をおすすめしますと、
繰り返し訴えたい気持ちです。

南无阿彌陀佛
478神も仏も名無しさん:2008/01/04(金) 23:46:33 ID:DLfpmjXB
>472-474
それならば、最初に出拠を尋ねられた時、「わかりません」と答えればよろしかったのでは?
「私の体験に基づいていることが、正しく根拠なのです。批判は許しませんとね。」
煽りあいはさておき、298さんには、『改邪鈔』(八)の内容・文脈をよくお読みいただき、
古語辞書などひっぱりだして、ご自身で現代語訳してみたら如何でしょう。
今後も真宗とお付き合いするのであれば、大変役に立つ勉強法です。お勧めしときます。
聖教は読み破れ、本尊は掛け破れ。
宿善あって、幸いにも字が読め、努力すれば読解力も身につけることができる
お互いでありましょう。有り難いことではありませんか。
479神も仏も名無しさん:2008/01/04(金) 23:53:05 ID:1mE3MINB
三業派の人らは今も昔も自分たちこそ正信を獲た真宗であると主張している
彼らは大真面目で熱心だが、その根本は>>303-304みたいなもの
親鸞聖人の教えに矛盾してもおかまいなし
自分たちのドグマを優先して、都合の悪い文や例は無視するかこじつけで回避
自分の都合のいい文言を追っかけて、前後の文脈も無始

伝承重視というなら東北の秘事法門だって主張する
京都から来た鍵屋何某が受けた親鸞聖人の法脈を継いでいるんだとさ

で、そういう文を正確に読む姿勢のない人が言う
「聖教と割り符が合う」
という話は信憑性があると思う?
480神も仏も名無しさん:2008/01/05(土) 00:03:29 ID:1mE3MINB
個人の味わいの範意なら、けっこうなんでもありだけど
それをドグマ化したときに恐ろしいことが起こりがちだ
481渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/05(土) 00:10:05 ID:WU3kWxeu
>466-467,>469-471
 あらたなコメントはありません。私の主張は、双樹林下往生の立証を除いて
全て尽きています。

>477
> お説は聞いてみたいので、もしお手数でなければ、ぜひご紹介ください。

 しばらく多忙です。数日すれば書き込みます。なお、この問題について、
次の書き込みを以て私の方は終わるつもりです。貴方の方で言い残しがあれ
ば、その前に書き込んでおいてくださるとよろしいかも知れません。
482298:2008/01/05(土) 06:42:22 ID:yv54N3zZ
>>478
>それならば、最初に出拠を尋ねられた時、「わかりません」と答えればよろしかったのでは?

勘違いも、はなはだしいことです。
私は出拠を示しましたが、あなたは、なぜそれが出拠になるかを
理解することができませんでした。
あなたは繰り返し、理解できないことを自慢しています。
相変わらず、「私にはわかりません」ということを、
繰り返し書いているに過ぎません。

>>479
> 自分たちのドグマを優先して、都合の悪い文や例は無視するかこじつけで回避

これは、正にあなたのことであると申し上げます。
あなたが理解できないことと、事の真偽は関係がありません。
説明を聞かず、決めつけることを繰り返しています。
このような徒がいるために、誹謗正法を避けるため、
なかなか書いてゆくことができないのです。

あなたのような方は、信を穫る人がいるのを許せないだけです。
自障障他の働きです。
自分自身も、自分以外の方も、弥陀に救われることが
許せないのです。

真宗は、押し付けるものではありません。
お聖教の通りです。
専修にて雑心なるものは、自障障他をなさいます。
その姿を見せてくださいましたことに、
感謝申し上げますと共に、「専修にて雑心」というのは、
あくまでも専修では無いということも、付け加えておきます。

南无阿彌陀佛
483298:2008/01/05(土) 06:47:52 ID:yv54N3zZ
>>479
> 伝承重視というなら東北の秘事法門だって主張する
>京都から来た鍵屋何某が受けた親鸞聖人の法脈を継いでいるんだとさ

あなたの論理性の欠如を指摘しても、仕方がないとも思いますが、
これが批判にならないことが、わかっているのでしょうか。

あなたは、伝承を重視するすべての仏教に、
反旗をひるがえす内容を主張しています。

その全ての宗派に、「鍵屋何某」の話しを持って、
批難にまわられたらよろしいでしょう。

ご自分に論理が無いこともわからず、
感情的な批判をお続けなさっています。
484298:2008/01/05(土) 06:49:25 ID:yv54N3zZ
>>479
>三業派の人らは今も昔も自分たちこそ正信を獲た真宗であると主張している
>彼らは大真面目で熱心だが、その根本は>>303-304みたいなもの

以前、どなたかがレッテルばりについて指摘していましたが、
あなたに「根本」などを論じる資格はありません。

一方、あなたの根本は、自障障他です。
485298:2008/01/05(土) 06:51:40 ID:yv54N3zZ
>>479
もし、あなたが根本が分かると主張するならば、
私の主張の根本を、抽出されてみたらよろしいでしょう。
486298:2008/01/05(土) 06:58:27 ID:yv54N3zZ
>>478

あなたは、出拠の意味について、完全に倒錯しています。
本来、まず経験があり、次に、その経験が適切である事を
示すためのものです。
あなたのように、頭の中で想像する遊戯のためのものではありません。
経験を離れれば、なんとでも言えます。
自分で体験することもせず、「ああじゃない、こうじゃない」と
文句を言い、体験者を尊重することもなく、耳を傾けることもない。
一体、何で判断しているのですか?
あなたの自覚がどうかはわかりませんが、内容では、無いのです。
内容は、聞こうとしません。
ここが、2chだからですか?
それとも、これまで何か異安心について教わっており、
その「ドグマ」に、毒されているのでしょうか。
あるいは、これまで、異安心を教わっているのでしょうか。
数学は、人間精神の学ですが、真宗は、弥陀についてです。
「証明」など言う輩は、思い上がっているだけです。
不可説の意味もわからないのです。
487298:2008/01/05(土) 07:05:15 ID:yv54N3zZ
>>479
まず、伝承の存在は前提であり、真偽は、その次でしょう。
伝承も無いのなら、お話になりません。
伝承無くして、信を獲ているなら、自義を立てているに過ぎず、
異安心そのものです。
それとも、「弥陀直通」の輩ですか?
自分の文字力でお聖教を読んでも詮無きことを、
ご存じないのでしょうか。
488298:2008/01/05(土) 13:47:33 ID:IUs91Rqz
念仏に種類があることについては、

◎この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す(御文1-11)

を見ても、わかると思います。
489神も仏も名無しさん:2008/01/05(土) 13:51:48 ID:rTFNQEyM
素朴な疑問。
一遍上人、空也、良忍、良寛、弁栄上人、などの高僧も妙好人と言えるのでは?
もっといえば、他宗教でも、他力的人間は、妙好人では?
例えば、アッシジのサンフランチェスコやマイスターエックハルト。
ドグマや念仏という行為にとらわれすぎると、肝心の阿弥陀仏(神霊)が観念や哲学としてしかとらえることが出来なくならないか?




490298:2008/01/05(土) 14:44:03 ID:IUs91Rqz
>>489
真宗で言う「妙好人」というのは、あくまでも、弥陀から信をいただいた方のこと。
どなたが弥陀から信をいただいたのか、私も詳細を知りません。
西洋の方が妙好人であるとするならば、釈尊からの法脈が西に流れ、イエス様が継いでいるのでなくてはなりません。
(この場合、「天国の鍵」は「六字の謂れ」と同一であるはずです。)
このことにつきましては、私は、知識不足でわかりません。
妙好人以外の方に価値が無いわけではありません。
阿弥陀仏は、単なる神霊ではありません。名前をお持ちです。
491神も仏も名無しさん:2008/01/05(土) 15:50:40 ID:Qd84osyt
浄土真宗親鸞会の批判サイトってのをみつけたんだけど、
この宗教団体って勉強になりますか?


なぜ私は親鸞会をやめたのか
http://shinrankai.hp.infoseek.co.jp/

なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロールについて
http://shinrankai.mindcontrol.tonosama.jp/

親鸞会被害家族の会
http://homepage2.nifty.com/nonsect/
4927:2008/01/05(土) 16:11:49 ID:HbYX3BBy
皆さん、あけましておめでとうございます。
私も、今年こそは「あけさせて」いただき、おめでたい年にするぞと決意しております。
まずは御文章を通読させていただきたいと思います。

298様、263様、親切丁寧なレスに頭が下がる思いです。
今年もよろしくお願い申し上げます。
493神も仏も名無しさん:2008/01/05(土) 16:29:16 ID:rTFNQEyM
>>490
「妙好人」というのを最初に取り上げたのは、禅家鈴木大拙で、有名にしたのは哲学者柳宗悦ではなかったか?
両者とも、神秘主義心霊主義にも造詣が深く、妙好人とキリスト教神秘思想家の類似点を指摘しているのだが。
また、単なる神霊ではないとは何か?阿弥陀仏は名前を持った神霊だということか?それとも空想的観念的存在なのか?
阿弥陀仏というものを専門用語でなく、現代語で説明してほしい。


494神も仏も名無しさん:2008/01/05(土) 17:35:11 ID:dbq44M6U
>>491
このスレにおいて親鸞会はNGワードです。
495神も仏も名無しさん:2008/01/06(日) 00:17:33 ID:AaproH4g
昔の時代(室町、江戸、明治)の情報量と現代では桁違い。

妙好人など成り立つのか?
閉鎖的コミュニティーではまだ成り立つのかもしれないが。

マニアックな一宗派の自己満足なのか?
それとも、普遍的なものがあるのか?
評価がわかれるところである。

宗教くさい、ありがたじじばばよりも
純粋な赤ん坊や、動物植物の方がより美しいともいえる。

自我をはなれたアピールをしても、死後の行き先ははたしてどうであろうか?
坊主でさえ、無神論者や唯物論者の多い現代に、妙好人認定などできるのか?

できるのは神霊(オカルト)のみ

所詮、レトロマニアのお遊びなのか?
496298:2008/01/06(日) 01:26:46 ID:gdpxUVmJ
>>493
「妙好人」という語は、善導大使の観経疏に

◎若念仏者、即是人中好人、人中妙好人、人中上上人、人中希有人、人中最勝人也。
「もし念仏する者は、即ちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり」

と出て参ります。
「最初に取り上げた」というのは、「最初に一般に広く知らせた」という意味でおっしゃっているのでしょうか。
阿弥陀仏について知りたいとのことですが、どのようなことをお知りになりたいのでしょうか。
多くの一般の方にとっては、阿弥陀仏は関係のないことだと思います。
興味本位で聞かれても、結局、信じることのできないようなお話です。
もしお知りになりたいということであれば、
今既に阿弥陀仏について知っていることや、それについての感想等、
お知らせいただけたらと思います。
497298:2008/01/06(日) 01:30:44 ID:gdpxUVmJ
>>495
>妙好人など成り立つのか?

申し訳ありませんが、おっしゃっていることの意味がよくわかりません。
弥陀をたのんで、信心決定すれば、妙好人です。
あなた様がどう評価するかなど、全く関係ございません。
純粋な赤ん坊や、動物植物を美しいと思われるのであれば、その美を愛でていればよいのであって、何も信を穫ろうとする方の邪魔をすることはないのではありませんか。
あくまでも難信之法であります故、多くの方は理解できません。
ごく少数の、誰もが信じないような法ですのに、なぜかそこに真実を感じ、弥陀に救われたいという希な方に向かってお話しています。
498298:2008/01/06(日) 02:23:03 ID:gdpxUVmJ
>>492
7様。御文章通読されるとの事、本当に素晴らしい事であると思います。
幾度も読んでいるうちに、いろいろわかってくることがございます。
どうか、幾度もお読みください。
499渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/06(日) 10:33:42 ID:9UjNo512
>> 477
 非常に分かりやすい根拠は愚禿抄です。教行信証よりも分かりやすいでしょう。(愚)は愚禿
抄です。(化)は化身土巻です。

また二種の往生あり。一には即往生、二には便往生なり。ひそかに『観経』の三心往生を案ず
れば、これすなわち諸機自力各別の三心なり、『大経』の三信に帰せしめんがためなり、諸機を
勧誘して三信に通入せしめんと欲うなり。三信とは、これすなわち金剛の真心・不可思議の信心
海なり。また即往生とは、これすなわち難思議往生、真の報土なり。便往生とは、すなわちこれ
諸機各別の業因果成の土なり、胎宮・辺地・懈慢界・双樹林下往生なり、また難思往生なりと、
知るべしと。  (愚禿抄)

 ひそかに観経の三心往生を案ずれば、これすなわち諸機自力各別の三心なり、(愚)
 観経の三心往生について沈思黙考すれば、結局これは諸機自力各別の三心であるということだ。
 観経の三心とは、
 一者至誠心。一切衆生身口意業に修するところの解行、必ず真実心の中に作したまえるを須い
んことを明かさんと欲う。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。(愚)

 二者深心。深心と言うはすなわちこれ深信の心なり。文の意を案ずるに深信について、七深信
あり、六決定あり。(愚)

 三者回向発願心。回向発願心と言うは二種あり。(愚)
  一には「過去今生自他の所作の善根、みな真実の深き信心の中に回向してかの国に生まれん
と願ずるなり。(愚)
  二には「回向発願して生まるる者は必ず決定して真実心の中に回向せしめたまえる願を須い
て得生の想を作すなり(愚)
500渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/06(日) 10:34:44 ID:9UjNo512
<結論>大経の三信に帰せしめんがためなり(愚)
<問題点> 観無量寿経は、極楽浄土往生の心として、なぜ至誠心・深心・回向発願心を掲げたのか。

 観無量寿経は言う。
 まず三心を具して必ず往生を得。なんらをか三とする。一つには至誠心。いわゆる、身業にか
の仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。おおよそ三業を起
こすに、必ず真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく、と。(化) 
<回答> 至誠心をもってなぜ三業を整えよと言ったのか。それは、大経の三信つまり至心・信
楽・欲生の三信に導こうと考えたからである。


また二種の往生あり。一には即往生、二には便往生なり。(愚)
 往生には二種ある。それは即往生(報土)と便往生(仮土)である。(愚)

 便往生とは、すなわちこれ諸機各別の業因果成の土なり、胎宮・辺地・懈慢界・双樹林下往生
なり、また難思往生なりと、(愚)
 便往生(仮土)というのは、それぞれ機に応じてそれぞれ個別に業因業果を形成する。ある者
は胎宮・辺地・懈慢界・双樹林下往生する。ある者は難思往生する。
501渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/06(日) 10:36:29 ID:9UjNo512
 親鸞は、便往生といいながら、胎宮・辺地・懈慢界・双樹林下往生と、難思往生とに大きく二
分していることを認識すべきだろう。至誠心は、「胎宮・辺地・懈慢界・双樹林下往生」すると
言うのか、難思往生するのか、ここは教行信証の文意から明らかだ。

 正確に言えば、胎宮・辺地・懈慢界・双樹林下往生は、胎宮往生・辺地往生・懈慢界往生・双
樹林下往生という、四種の往生方法を掲げている。なお、この四種は例示であり、本来はもっと
様々な往生の仕方がある。298さんが往生している「298往生」というのもあるようだ。こ
れらは、相互に何が本質的に違うか親鸞は解説しない。親鸞は「自分は双樹林下往生した」と言
っている。胎宮往生したとは言っていない。辺地往生したとも言ってない。親鸞の脳裏の中では、
それぞれ業因業果の違いの整理はついているようだ。

 三信とは、これすなわち金剛の真心・不可思議の信心海なり。(愚)
 至心・信楽・欲生は、金剛の真心・不可思議の信心海である。つまり難思議往生である。

 観経の三心は、そのままであれば、個別に業因業果して胎宮往生・辺地往生・懈慢界往生・双
樹林下往生など、いずれかに業因業果を遂げていく。釈迦は、至誠心をもって、身業にかの仏を
礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察すると教える。三業を整えよ
と教える。これは胎宮・辺地・懈慢界・双樹林下往生の道である。

>私としては、御文様をおすすめしますと、繰り返し訴えたい気持ちです。

 お文と矛盾している?(苦笑)全く矛盾してないんだよ。理由? ここまで明らかにしたんだ。
子供じゃないんだろう。矛盾があると思えば自分で考えなさいよ。蓮如は、至誠心をもって三業
を整えよと言ったか?。馬鹿馬鹿しい。(苦笑)

 追記
 逃げないで>> 493の、「阿弥陀仏というものを専門用語でなく、現代語で説明してほしい」と
いう要請に、勇気を持って挑戦してみなさいな。貴方の勉強になるだろう。もう答えを知ってるんだろうに。
                    (2,3日)カキコ不能の予定
502渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/06(日) 10:48:05 ID:9UjNo512
>>501
>お文と矛盾している? 〜 馬鹿馬鹿しい。(苦笑)

 ここは感情が露骨に出て口調がかなり厳しくなっています。
 ここはこんなにストレートに厳しい口調でいうところではありません。
 参考的な添え書きと思ってください。

 追記部分も、命令口調になっています。あくまで提案です。    m(_ _)m
503298:2008/01/06(日) 11:28:08 ID:xXNG9qZp
渡海様は、私の主張を受け取っておられません。
そもそも、渡海様が設定しておられる異安心が渡海様の心の中にあり、
その枠内で解釈しておられます。
これは、先入観が為すことです。
(前スレには、秘事法門の例を引く、さらにはなはだしい方が
いらっしゃいました。程度の差こそあれ、似たようなことなのです。)
「読めども読めず」となっております。
違いのあるところに気付かなければ、何が違うかが、わかりません。
私の力が及ばずとも、いつか、似たようなことをおっしゃる、
すばらしい方にお会いになることを念じております。
いつか気分が落ち着きましたら、私の書き込みましたところを、
ゆっくりと読みまして、省察いただけたら幸いです。
南无阿彌陀佛
504298:2008/01/06(日) 11:53:04 ID:xXNG9qZp
渡海様のおっしゃっていることで、おかしいと思うところはありますが、
大体においては、正統的なことをおっしゃっていると思っています。
三願転入を自覚されておられるのであれば、
第二十願の道をお進みになることにより、いずれ導かれるのではと思います。
私自身、第二十願を経由したのですし、信を穫る前に、
私が言っていたことは、外れていました。
事前にわかるなら、凡夫ではないのです。
私も似たようなことをしていましたから、もちろん気には致しません。
ただ、渡海様も、できましたら「早く」、少なくとも、今生には、
救われて下さい。
また、流転に還るならば、次はいつになるか、わかりません。
先程も書きましたが、私のような者ではなく、渡海様から見て納得のゆく、
すばらしい信心決定の行者にお会いになられることを念じております。
505298:2008/01/06(日) 12:58:49 ID:xXNG9qZp
>>502
それに、厳しい口調になりますのは、本気であるが故、
思い入れがある故でございましょう。
弥陀を求める気持ちが強いことに、問題があるはずがありません。
多少行儀が悪かろうとも、悪人正機の弥陀がそんなことを
問題にするはずもございません。
行儀が悪いことよりも、思うことを明かさぬことの方が
問題なのです。
明かさぬ方は、さらに腹黒いことを考えているだけでございます。
506渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/06(日) 13:43:32 ID:9UjNo512
>492
 7さん。聞こえますか。一つ言い忘れていました。僕の話が聞こえる耳を持っていますか?。

 聞こえますか。気を付けなさいよ。以前、貴方は、まわり中、未信の人しかいない環境
で、説法している人すら未信だったhttp://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1191756120/l78
ということがあったわけでしょう。

 信を穫る前に、私が言っていたことは、外れていました(>>504)と、言う人もいる。信心
など全くないのに、信心を得たつもりで大見得を切る人などは、他にもいくらでもいる。

 あなたがどんな人にエールを送っても僕はビックリしない。「無防備に 〜 何度もひどい
痛い目に遭ってきてもhttp://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1191756120/l76、繰り返し、繰
り返し痛い目に遭う人は、貴方だけじゃないからね。

 宗教には注意したいものですね。
.
      彡川川川三三三ミ〜
      川|川/     \|〜
      川川  ◎---◎|〜
      川川     3  ヽ〜
      川川  ∴) A(∴)〜
      川川     U  /〜     ___
    _;川川     ダッラ〜   .    |  |   |\_
  /  川川   __/        . |  |   | |  |\
 /    /     | |              |  |   | |  |::::|
(    (   ◎  / \_          .|  |   | |  |::::|
 \   \   /\    ̄ ̄\     |  |   | |  |::::|
  /:\   \  ドピュ ̄\っ))))〜〜|  |   | |  |::::|
 /:::  \    つ___  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
 |:::    \   (__3。 ;。 ̄ ̄ |  _________ .|
 |::::     \__/          .| |             . |.|
 \:::    (;;; );; )          | |           .   |.|
5087:2008/01/06(日) 15:22:40 ID:AiHyTPN3
ご忠告どうもありがとうございます。
諸説入り乱れる中で、何が真実か、どんどん分からなくなってきましたが、そもそも自分にどの説が真実か分かるような能力があれば、
それはもはや凡夫ではないと思うわけです。

渡海さんは、20願を強調されているように感じました。もちろん、私の受け止め方が正しいのか間違っているのか、分かりません。
三願転入から考えると、19願から20願、そして18願というわけですが、
まったくもって19願にも辿り着けているとも思えない日々、20願ははるか遠くに感じる次第です。
なのに何故さらに先であろう18願に自分は拘るのか?人生は余りにも短く、ろくに良いことも出来ず、念仏もすぐに忘れてしまう自分だからです。

人間に生まれたことも、仏法に出遭ったことも、浄土真宗に巡り合えたことも、遥か遠くからの因縁だとしか思えません。
19願、20願は通ってきた道かも知れません。今は、凡夫直入の易行道と聞いております、18願に早く相応したいと気持は焦ります。
全て間違いだったとしても、何も真実が分からなかった自分、ダメでもともとという思いもあります。

未信であるがゆえに、先人の獲信者の方々の口真似や聖典のコピペだけであれば真宗としての正しいことも書けるかもしれませんが、
いまはどんな自分の思いも、自損損他になるならば、あれこれ書けないなぁと思って、質問疑問だけにしておこうと慎重になっています。

未信たる自分が頼りにしているのはあくまでもお聖教です。今はそう信じています。
それで、御文章の拝読を強く勧めておられる方には当然、心惹かれるのです。
獲信者の方のそれぞれのお味わいにも関心はありますが、それと聖典とを冷静に区別して述べていただける方には誠実さを感じます。

それにしても、こんな自分を気にかけてくださる方があるとは、ただただ感謝したいと思います。
これからどれだけ痛い目に遭い、泣かねばならぬか分かりませんが、それもこれも因縁なんですよね。
結局このちっぽけな頭が納得するかどうか、信じられるかどうか、正しいと思うかどうかで動くだけの存在に過ぎないわけで、
その浅はかさを忘れないように心がけつつ(すぐに忘れるわけですが)道を求めていくばかりです。
5097:2008/01/06(日) 16:38:30 ID:AiHyTPN3
こんなHPもあったんですね。ここはどうなんでしょうか。
420 神も仏も名無しさん 2008/01/01(火) 10:06:47 ID:gYvTCQEi

檀特教遵勧学法話

一 年頭法話

去年の歳がたち、当年のお正月となって、お互いに人の顔を見合す度ごとに
新年を迎えて「おめでたい、おめでたい」と皆挨拶いたしますが、
御信心をもろうて御報謝で日送りなさるお方にしてみると、
時々刻々お浄土が近くなりますゆえ結構じゃ。
「楽しみ楽しみ、おめでたい、おめでたい」と申すももっともじゃが、
今日この御座まで不信未領解で、人の付き合いやら名聞で参詣している人は、
新年が来て「おめでたい」というても、その実おめでたいとは言われぬ。
一息一息地獄へ堕つるのが近くなるじゃで、
なかなかめでたいどころじゃない悲しみ、追々情けないと言わにゃならぬ。
一休和尚が「門松や冥土の旅の一里塚」と言い、
また舎利頭を持って「御用心、御用心」というて京の町を廻られた。
もし未信のお方は、当席は、新年の改まったとともに、
疑いの心を改めて真実の信に基づいて、心の底からおめでたい春を迎えて、
心ひろく体ゆたかに、楽しみ楽しみ浄土の花見の春を待ち受ける身となってこそ、
めでたい新年を迎えたというものじゃ。

http://www.pure.ne.jp/~pages/uemon/kyoujun1.html
510298:2008/01/06(日) 19:34:35 ID:kfyYxvYR
>>509
私はご紹介のページは読んで納得しました。
ただ、

「正意の御領解は、我が近所の火事で心配し、火事の治まったと聞いて安心するごとく、
我が後生の大事が心配でならぬに、それを仏の方に引き受けて、往生は間違わさぬ、
必ず助けるぞよと呼んでくださる仰せが、行者の方に引き受けられて、
後生に安心のできたが、真の御領解というものである。」
http://www.pure.ne.jp/~pages/uemon/kyoujun5.html

ここは、納得いきません。
この領解で、凡夫が皆救われますでしょうか。
「呼んでくださる仰せが、行者の方に引き受けられて」
というのは、よく聞く領解ですが、それが正意とは私は思いません。
行者は、「引き受ける」のでしょうか?
私は、あくまでも「タノム」のであると考えます。
みづからたしかに弥陀をたのんだ一念の領解がなければなりません。
親鸞会様もそうですが、教学をなされていれば、
かなりのところまでお話が正確になるのは、もちろんのことです。
ただし、やはり肝心の「タノム」が抜けているように感じられます。
511298:2008/01/06(日) 20:53:01 ID:kfyYxvYR
>>509
>未信たる自分が頼りにしているのはあくまでもお聖教です。今はそう信じています。

やはりそうするしか無いと思います。
それ以外、凡夫がどうしようと言うのでしょうか。
御文様は、宿善ある機が読めば、必ずわかる謂れです。
「わかる」というのは、御文様を読むだけで(読書中に)
「信が穫れる」という意味ではありません。
ですから、御文様を読まずして、信を穫られる方もおられます。
しかし、身近に手だてがないのであれば、
御文様を拝読し、そして、南无阿彌陀佛を口に出し、
(凡夫なりに)弥陀の救いを求めるくらいしか、
できることが無いではありませんか。
御文様は、「一文字一文字が佛菩薩」と尊ばれています。
佛になれるはずのない凡夫が、佛になるための
道しるべです。
信を穫る前には道しるべとなってくださり、
信後には「我らが往生の鏡」となってくださいます。
「鏡」と申しますのは、御文の中のお話しを、我が事として体験できるのです。
信後には、一文字一文字、領解を合わせてゆくことになります。
本当にありがたい御本です。

南无阿彌陀佛
512神も仏も名無しさん:2008/01/06(日) 20:59:58 ID:AaproH4g
霊能者の源信僧都も妙好人といえるのか?

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿弥陀信仰(あみだしんこう)とは、阿弥陀如来を礼拝することで極楽往生できると説く、
他力本願を根本とする浄土思想。浄土系仏教の教えのひとつであるが、宗派を超越した包括的な思想であるために民間信仰とも言える。
根本は2世紀頃のインドで始まったと考えられている。日本には奈良時代に伝わり、先祖敬仰としての阿弥陀信仰が弥勒信仰と混交してなされていた。
その後末法思想の流れを受け、阿弥陀如来に帰依することで極楽浄土への救済を求める阿弥陀浄土信仰とも言える念仏思想を伴うものに形を変え、
平安時代中期に空也、源信らの民間布教によって爆発的に流行した。
この浄土教をルーツに、平安末期の良忍の融通念仏宗や、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗などの鎌倉新仏教が派生した。
阿弥陀如来は法蔵菩薩時代に「世自在王如来」の教えを受け、
ほとんど無限とも言える期間の修行を成し遂げて四十八の誓願を完成させ(『無量寿経』)、如来となったとされる。
阿弥陀如来は多くの仏教宗派で信仰され、阿弥陀信仰はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つが、ともすれば偶像崇拝に陥りやすい側面もある。

513298:2008/01/06(日) 21:49:37 ID:kfyYxvYR
◎まつたく聖人の仰せとして音曲を定めて称名せよといふ御沙汰なし(改邪鈔)
514298:2008/01/06(日) 21:54:55 ID:kfyYxvYR
◎みな縁にしたがひてこころのひくかたなれば、
よしあしとひとのことをば沙汰すべからず、
ただわが身の行をはからふべきなり(後世物語)
515298:2008/01/06(日) 22:03:41 ID:kfyYxvYR
◎罪のあるなしの沙汰をせんよりは、
信心を取りたるか取らざるかの沙汰を
いくたびもいくたびもよし(聞書35)
516298:2008/01/06(日) 23:26:35 ID:kfyYxvYR
◎ちかごろもつてのほか、みな人のなにの不足ありてか、
相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、
また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり(御文3-13)

相伝の存在を示します。
517神も仏も名無しさん:2008/01/07(月) 00:03:55 ID:i7xBQR56
>486
出拠とは、出典・典拠と同意で、ある言葉の出所を言います。
真宗では、先ず何があっても親鸞聖人の言葉、次に歴代、
元祖、七祖、他浄土祖師方の釈義も参考にされます。
例えば、信心正因という熟語が問われたとします。信心正因とはどうして言えるのか、
親鸞聖人は本当にそんなことを言っているのか?出拠は何処にあるのか、という具合です。
さすれば、答える側は、正信ゲに「正定之因唯信心」とありますとか、
和讃に「不思議の仏智を信ずるを報土の因としたまへり、
信心の正因うることはかたきがなかになおかたし」
これを出拠とします、等と答えるわけです。
今回、問題に挙げたのは、あなたの「宿善の機=救いを求める者」という
定義化された発言です。これは立派に義として成立しています。
なぜなら、宿善の機と言う非常に抽象的で多義を含んでいるような言葉に、
救いを求める者という枠組み・定義をされたからです。
そこで出拠をお尋ねしたという事です。
あなたは『改邪鈔』(八)を出拠として挙げられましたが、
その内容を見てみると、救いを求めるという言葉は出てこない。
また、それが、宿善の機であるという覚如上人による定義づけも出てこない。
即ち、少なくともこの箇所においては、
覚如上人は、「宿善の機=救いを求める者」とは、一言も仰っておられていない。
ですから、出拠として適当ではない、的を得ていない、
とお返事したわけです。故に、他にあなたの言うが如く
定義づけられている箇所がありますか?と問い直したわけです。
あなたの体験がどうあれ、わたしの体験がどうあれ、
文章をきちんと読解するというルールが守られなければ、
何のために共通言語があるのかわからなくなってしまいます。
出拠を厳密に押さえねば、千人千様の自分の体験に即して、
各々勝手に解釈することを許す結果となるでしょう。
それは、祖師方が文章を書き残し、後代に伝えようとした
意志が失われてしまうことを意味します。文章はきちんと読みましょう、ということです。
518298:2008/01/07(月) 01:34:37 ID:mzwr9GQQ
>>518
「文章をきちんと読む」ことが大切であることについて、異論はありません。
しかし、「文章をきちんと読む」ということと、
「私はきちんと読めているが、あなたは読めていない」ということとは、
別の主張でございます。

以前の方と同じ方でしょうか?
再度引きます。

◎かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、
まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり(改邪鈔)

まず、「正法をのぶる善知識」という語句があります。
ここでは、「善知識」を限定しておられ「正法をのぶる」という
連体修飾語を伴っております。
これはなぜかと言いますと、「善知識」には、広義の意味もあるために、
誤読を避けるために加えたのであると思います。
では、「正法」とは、何でしょうか。
私は、「弥陀の救いを伝える法」と解します。
つまり、「正」の義には、「救い」が含まれていると解します。
愚禿鈔によれば、「邪正対」があります。
邪と正を分けるものは、何であると思われますか。
正邪の要は、「弥陀の救いがあるか否か」であると思いますが、
いかがですか。
519298:2008/01/07(月) 01:34:51 ID:mzwr9GQQ
そして、ここを含む文脈について。

善知識に対し、自ら「正法をのぶる善知識」と思っていても、
それが思い込みであるかもしれない。
それであれば、宿善ある機が離れても、仕方がない。
であるから、離れることを嘆いても、仕方がない。
もし、実際に「正法をのぶる善知識」であるとしても、
宿善無い機は、自ずから離れてしまう。
そうであるから、離れることを嘆いても、致し方ない。

のような意味だと思いますが、いかがですか。

また、

>一言も仰っておられていない
>出拠を厳密に押さえねば

とのことですが、あなた様のおっしゃる「厳密」の意味が、
私にはよくわからないのです。
ご自分にはできないけれども、努力目標として、
自戒の念でおっしゃっているということなのでしょうか?
あまりそのようには、感じないのですが・・・
520298:2008/01/07(月) 01:36:13 ID:mzwr9GQQ
どうでも良いことだとは思いますが、>>459の訳で、
「むつぶべき」の「べき」を落としていらっしゃるでしょう。
また、前の箇所の「べき」の義につきましても、「違いない」というのは、
推量で訳しているわけです。私は「当然」あるいは「予定」と解します。
改邪鈔全体の「べし」の用法は調べていらっしゃいますか。
申し訳ありませんが、厳密な方とは私には思えないのです。
また、「『特に』呼び寄せられたわけではないけれど」とありますが、
これは、勧誘を正当化したいわけですか? と勘ぐりたくなります。
また、「かならず」を「当然」と訳しておられます。
私が思いますに、「かならず」は「当然」とは異なります。
しかし、このようなことを指摘しても、論点がずれるでしょう。

まずは、「一言も」と豪語されます、あなた様の「正」の
解釈を聞きたいと思います。
「正」に「救い」の義は含まれない、という出拠を出していただけますか。
出拠ではなく、ご自身の体験にもとづかれた意見でも構いません。
521298:2008/01/07(月) 01:47:37 ID:mzwr9GQQ
>>518
問いかけてはいますが、あくまでもレトリックですので、
お答え戴かなくて、構いません。
議論する気もなく、結論を押し付けるだけの方には、
あまり興味が無いのです。
しかも、自らは結論を持っていると豪語する、
とても傲慢な方ですので、なおさら興味が有りません。
有縁の方が誤解しては良くない、という意図です。
私には確かに経験がありますけれども、
それでお聖教の解釈に間違いがないとは思えません。
解釈というのは、所詮自力の字ちからに依存しているのです。
経験があれば、確かに解釈する上で有利ですけれども、
それは無謬性を保証しません。
ましてや、信を獲ていない方に、どうしてそこまでの
確信が持てるのでしょうか。
思い上がっていると言う他はありません。
私が探しているのは、真実信心を求めている方です。
522298:2008/01/07(月) 12:14:28 ID:x0rfAxwo
ただ、私も自分が書いた文を読み直しますと、「傲慢だな」と
感じます。
これは、実践によって、少しでも、整えてゆきたいところです。
5237:2008/01/08(火) 09:36:04 ID:0CubGqzm
おはようございます。ようやく真宗聖典と拝読用の御文章が手元に。声に出して拝読していくと、時間を忘れますね。
524298:2008/01/08(火) 11:34:57 ID:P71an961
7様。すばらしい。蓮師の説法を、この耳に聞ける感動です。
単純に考えれば、まず先にしなければならないようなことなのに、
なかなかそれが実行できない。
いかに難信之法であるかがわかるでしょう。
7様は、難信之法の壁を越え、大きな一歩を踏み出したのであると
思います。
525渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/09(水) 10:51:06 ID:/WP/2X1w
>>508
>渡海さんは、20願を強調されているように感じました。もちろん、私の受け止め方が正しい
のか間違っているのか、分かりません。

 そうですね。僕は20願を非常に重視します。
 阿弥陀経の意なり 至心回向の願 不定聚機 難思往生

 阿弥陀経が主張していることは、至心回向の願つまり20願である。これは不定聚機に向かっ
て語られており、難思往生を勧める考えである。親鸞聖人のこの考えに僕は非常に共鳴している
んです。
 ネジを巻かれれば念仏を称えられるが、ネジが切れると念仏を忘れる。行ったり来たり。自由
さはあるが、一定していない。そう言う人はこの話を聞いて欲しい。そう言っているのが20願、
阿弥陀経なんですよね。まさに我々に向けて語られている教えでしょう。

 18願が大事だと言われますが、信の巻に「至心信楽の願 正定聚の機」とあります。至心信
楽の願つまり18願は正定聚の機に向けて語られていると仰る。僕はこの考えにも共鳴するんで
すよ。なるほどそうだな。すると、自分に向けて語られている教えは、やっぱり阿弥陀経なんだ
と思うわけです。

 竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。

 大船・恵日。それは難思の弘誓だ。つまり、念仏を称えよと言われれば称えるが、言われなく
なると止まってしまうような、そんな人々に向けて語られている難思の弘誓、つまり、二十願が
今、自分には最も大事なんだ。親鸞はこのように勧めてくれている。つまり僕に向かって念仏を
称えなさいよと言ってくれている。僕はここを重視しています。
526渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/09(水) 10:54:21 ID:/WP/2X1w
 二十願で安心してはいかん。そこは門であり、通過点だ。しかし、そこを通過すれば真如の門
は間近だ。それならまず真門を通ろう。僕は親鸞のそんな話に、 ( '-' )( ,_, )( '-' )( ,_, ) うんうん
と共鳴しているんです。

>まったくもって19願にも辿り着けているとも思えない日々、20願ははるか遠くに感じる次
第です。

 20願つまり真門に入ることは決して難しいとは思いませんよ。20願は念仏を称えよと言っ
ている教えですから。まず称えることです。親鸞はそこが原点だ。出発点だと言っている。
 真門から真如門に至るかどうか。これは難しい。しかし、それは自分でじたばたしてもしょう
がない。念仏に任せるしかない。自分たちはひたすら念仏を称えるだけです。

>18願に早く相応したいと気持は焦ります。
   これは、果遂の誓いに任せるしかない。


 2月3日に東京新宿で新年会を考えています。
 お住まいは東京から遠方ですか?。もしお近くならいらっしゃいませんか。今回の新年会には、
多分、新幹線でいらっしゃるんだろうと思う方から、友人を誘って是非参加したいというメール
を頂戴しています。その方は、この掲示板はROM専門で、書き込みはしてないそうです。
 3日の晩は東京に一泊するとまで言ってきました。多分きっといらっしゃるでしょう。仏教が
専門の方で、僕の考えに共鳴してくれています。共鳴といっても、百%共鳴なんてことは絶対に
あり得ない話なんで、賛成する部分もある、反対する部分もあるということでしょう。そんな方
に、飲みながらどこに共鳴し、どこはおかしいと感じているのか、その辺をお尋ねになるのもい
いでしょう。
527渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/09(水) 10:55:58 ID:/WP/2X1w
 2月3日第一日曜日、東京新宿で新年会を考えています。
 集合場所、東京・新宿駅
 近くで飲み会をしませんか。
夕方5時ころ集合、その後近くの店で新年会

 12月、1月は店は予約で一杯だと思うから、予約なしの飛び込みで席が
取れそうな2月を選びました。

 これはネタじゃないよ。煽りでもない。ただ、予定だから変更はある。細部は未定。
 何か意見・提案のある方は、この掲示板でもいい。メールでもいい。送って貰えるとありがたい。

 集合してくれる人は4,5人だと思っていますが、100人、200人も来るとなると
こちらも考えないといけない。
 集合者がゼロなら中止。
 なお、参加名は愛称・匿名OKとしたいと考えています。
 詳細は後日
  [email protected]

>>509
>こんなHPもあったんですね。ここはどうなんでしょうか。
>新年が来て「おめでたい」というても、その実おめでたいとは言われぬ。一息一息地獄へ堕つる
のが近くなるじゃで、なかなかめでたいどころじゃない悲しみ、追々情けないと言わにゃならぬ。

 竪出は難行道の教なり、厭離をもって本とす、自力の心なるがゆえなり(親鸞)。
 地獄が恐いという人の話は、僕はあまり信じないようにしているんですよ。親鸞会の高森さんな
んか、地獄を強調する典型でしょう。一番胡散臭い(笑)
 地獄だ、地獄だというのは、ちょっとねぇ。僕のタイプじゃないな。
528神も仏も名無しさん:2008/01/09(水) 16:33:34 ID:03++LJ3J
>518-521
読んでみましたが、この問いに不必要な事柄があまりに多いのでビックリしました。
問題は実にシンプルなのですが。あなたの「宿善の機=救いを求める者」と言う主張を
覚如上人が『改邪鈔』(八)で述べておられるのか否か?それだけです。
だらだら書き込むならば、あなたなりに『改邪鈔』(八)を意訳してみて下さい。
無論、自義を交えずにです。
「べし」を、推量、当然、強い命令、どれで訳されても構いませんし、
「まねかざれども」の主語を、知識あるいは教えを受ける側どちらにとっても構いません
(私は後者で訳しましたが、今は前者で訳すべきだったと思っています)。
時間があればよろしくどうぞ。
また、正法にも新たな定義づけがなされていましたね。
定義するのならば、殊に、この件に関しては、出拠を挙げてからにして下さい。
529298:2008/01/09(水) 17:27:06 ID:uoUW+7ZK
>>528
相変わらず、「不必要」とのご判断。
あなたは私の説に納得行かないのですから、
他で救いを求めればよろしいではありませんか。
信を獲っていないのであれば、
ご自分が納得行く縁を探し、
そちらにて、信をお獲りください。
あなたは、わからなくて知りたくて問うているのではなく、
否定しているだけのように感じます。
あなたがわからないからと言って、
特に私は問題を感じません。(矛盾の指摘があるのであれば、別です。)
ビックリするのも、ご自由です。どうぞ、驚いてください。
わかりたくて問う方には、どこまでもおつきあいしなければなりませんが、
あなたは、そうではないのでしょう?
それとも、あなたは私の同意を必要としているのですか。
それも、おかしな話ではありませんか?
あなたの道をおすすみください。
530298:2008/01/09(水) 17:37:42 ID:uoUW+7ZK
>>528
誤解されてはいやなので書き加えますが、
私に納得行かないのですから、私の話を聞いても、
不審が強まるばかりでしょう。
ご自身が、「ここ」と思う場にて学ぶ他ないのです。
正に、それが改邪鈔に書いてあることでしょう。
531298:2008/01/09(水) 17:51:49 ID:uoUW+7ZK
>>530
もちろん、イヤと言っても、そんなものは私のはからいにすぎず、
実際私の不徳の致すところで、
たとえば、もう少し文体がまろやかであるとか、
あるいは、あなた様の意図を受け取れる方でありますとか、
もっと素晴らしい方であれば、
あなた様にもご理解いただけるかもしれないのです。
しかし、不完全なのですから、仕方がありません。
あなた様がご納得の行くご縁にあいますことを、
願うばかりであります。
否定も縁になることがあるとのことですので、
一概に否定を否定もできないのですが、
否定を足がかりに、ご自分の論がありますれば、
それを展開されるのも一興ではありませんでしょうか。
532神も仏も名無しさん:2008/01/09(水) 18:12:27 ID:03++LJ3J
>529-530
お聖教に根拠が無いこと、もしくは、拡大解釈されたことを
浄土真宗だと平気な顔して、表立って述べている余地があるのであれば、
意見を差し挟むのは当然でしょう。
浄土真宗はあなたの感情で成立しているわけではないのですから。
自分の体験とそれに基づく自己主張を繰り返すだけなら、
298宗という一宗旨をお建てなさい。浄土真宗とは金輪際名乗らないことです。
再三、言っているように、あなたの解釈ではなく、出拠を尋ねているのですよ。
出拠がないのならば、それは、親鸞聖人に基づく教えでは無い可能性が高くなります。
意味もわからず、出拠として挙げられたのではないのでしょう。
それならば、当該箇所を意訳して下さい。あれだけ啖呵をきっておられるのですから、
責任もってお願いしますね。
533渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/09(水) 22:23:52 ID:/WP/2X1w
 298さんは、自分の思いの所がuoUW+7ZKさんにほとんど伝
わってない。どうやらそれはuoUW+7ZKさんが原因だと思っている
ようだ。
 uoUW+7ZKさんも自分の思いが298さんにほとんど伝わらない。
どうやらそれは298さんが原因だと思っているようだ。

 もつれた糸の端緒を、互いに相手に求めている。結局、298
さんは自分の土俵で一人相撲をとっている。uoUW+7ZKさんも自分
の土俵で一人相撲をしている。
 お互いが自分の土俵から出ようとしないね。

 互いに相手の主張を自分なりにまとめて、相手に提示するといい
んだけどね。貴方が思っていることはこういうことだろうって。
 内容は多少的外れでもいいんだ。外れていれば、相手が訂正してくれる。
この作業をお互いが相手に対して提示しないと、二つの土俵が一つになら
ない。
534298:2008/01/10(木) 00:36:59 ID:D1BnOn3X
>>532
不審を問うことは、問題ありませんし、互いに信心の沙汰をしてゆく
ことも、奨励されていると思います。
ですから、私からすれば、まずあなたに問うべきは、
信を獲ているかどうか、ということです。
しかし、他派の批難になっては、いけないのだと考えます。
私は、「正」には救いの義が入るでしょう、と申し上げました。

>あなたの解釈ではなく、出拠を尋ねている

とおっしゃいますが、解釈無くして出拠足り得るかを、
どうやって判断なさるおつもりですか。
出拠として妥当であるかを論じるためには、
どう解釈するかの議論が有る様に思います。
それとも、このような手順自体に、異論をお持ちで
いらっしゃるのでしょうか。
あなた様は、あなた様の解釈によって、
妥当かどうかを判断していらっしゃるのだと、
私は、推測しているのですが・・・
もちろん、これは私の判断過程から、
あなた様の判断過程を推論しているに過ぎませんので、
別個の過程を経るタイプの方なのかもしれないとは思います。
残念ですが、「正」の字に、「救い」の義が入ることが
わからないのであれば、私が申していることを、
理解することはできません。
ですから、もしあなたがそのような方であれば、
出拠として理解できないのは、仕方がないことなのです。
535298:2008/01/10(木) 00:43:34 ID:D1BnOn3X
>>533
渡海様は、実際に、私の主張をまとめようとしてくださったのですから、
説得力のある御主張であると、私は思います。
しかし、渡海様のような方は、少ないです。
uoUW+7ZK様は、私を同意させたいのかもしれませんが、
私は、uoUW+7ZK様の同意を必要としていないのです。
536298:2008/01/10(木) 00:52:25 ID:D1BnOn3X
>>532
それに、お聖教の理解が、信を獲るために必須であるわけでもないのに、
一体何をされたいのですか。
まず肝要なことは、とにかく信をお獲りになることでしょう?
おそばに信頼のできる方々がいらっしゃるわけでしょう?
その方々に御願いして、まずは信を獲ってみたらいかがですか。
それとも、御願いしても、信を獲らせてくださらないわけですか。
もしそうならば、あなたは無宿善の機と見なされているわけでしょう?
なぜ、そう見なされているのか、考えてみてはいかがですか。
身近な人にも無宿善の機と見なされている状態で、
あれが本当の真宗、あれが偽物、と言ったところで、
何の意味があるというのですか。
537神も仏も名無しさん:2008/01/10(木) 00:59:40 ID:icC59q5S
>535
同意やらなんやらは、どうでもいいんです。
個々人の感情論は、真宗の法義上の問題ではありません。
覚如上人が何を言おうとされたのか。
私は赤っ恥を覚悟で、一例として意訳を挙げました。南無阿弥陀仏があるから。
298さんも逃げなくていいんです。他力御信心の思し召しによって、
意訳よろしくお願いします。
538神も仏も名無しさん:2008/01/10(木) 01:15:04 ID:icC59q5S
298さんへ
寝る前にもう一つ。渡海さんの仲介を得なければ、書き込めないのですか?
とにかく、あなた自身による現代語訳を作ってから、もの言いなさい。
あれほどの事を私に対して書いたんですから、その誠意のすべてを見せて下さい。
あなたの善知識とやらに助力していただいても、一向構いません。
このままじゃ、アンフェアでしょ。言っている意味わかりますか?
539298:2008/01/10(木) 01:21:44 ID:D1BnOn3X
>>538
別に訳すのは構いませんが、訳したからと言って、
わかっていただけるかと言えば、そんなことはないと思いますが・・・
ですけれども、訳が欲しいということですので、
今晩中に、書き込むように致します。
感情を害してしまったようで、誠に申し訳ありません。
私に原因があると思います。
なかなか、うつくしい念仏者足れないものです・・・
540熊本:2008/01/10(木) 01:36:43 ID:zo8GFbzU
はじめまして。熊本と申します。
はじめてこの2ちゃんねるという掲示板を見せて頂きました。
噂とは違い、真剣な語り合いがなされているようですね。

298さんであってますでしょうか?ちょっと疑問に思うんですが…。
信心とは、善知識によって獲させて頂くものではないのではないのでしょうか?
信心とは、阿弥陀様の計らいによってのみ、お起こさせて頂くものではないでしょうか?

いきなりで失礼ですが、なにやら善知識頼みに聞こえてしまいましたので…。
541298:2008/01/10(木) 02:00:47 ID:D1BnOn3X
>>540
熊本様、善知識にお会いすることは、信を獲る上で必要なことですが、
だからと言って、善知識頼みになってはいけないのです。
前スレから、一生懸命に書いているつもりですが、
なかなかわかっていただけないのです。
もちろん、私は質問は歓迎致します。
ご質問の件ですが、

◎宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。
しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、
おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり(御文2-11)

でわかりますでしょうか?
今、上の方の質問に答えるべく、(改邪鈔の一文の)現代語訳をつくっておりまして、
しかし、何でもかんでも訳して行くということになりますと、これは大変なことです。
(いずれ、やることになるのかもしれませんが・・・)
訳がご縁になるのなら、うれしいことですので、求めに応じて、
作成中でございますけれども、御文様は、ふりがな付きのものでございましたら、
現代人が読みましても、十分にわかるものであると思います。
私の話よりも、蓮師の話の方が素晴らしいに決まっておりますから、
どうか御文様を御拝読いただけたらと思います。
私と致しましては(訳も大切かもしれませんが)、御本典の註釈や、
大経疏を書きましてから、浄土に旅立ちたいものだと思っております。
しかしそれらもまた、凡夫のはからいでございます。どうなるかわかりません。
このようなご質問ですから、熊本様は、まだ信をお獲りでいらっしゃらないのでしょう?
どうか、一刻も早く、弥陀をおたのみください。
有縁の善知識に辿り着かれることを、願っております。
また、このスレのどこかに、私のHPも載っておりますので、よろしければご覧ください。
弥陀のはからいであるのは、全くその通りでございますが、
弥陀のはからいによりまして、宿善もお育ていただき、
そして、弥陀のはからいによりまして、善知識に会うこともかなうのです。
542熊本:2008/01/10(木) 02:20:13 ID:zo8GFbzU
298さんへ。
え〜、まず私がご信心を起こさせて頂いているという証拠は残念ながらありません。
しかし、仏願の生起本末を聞いて疑心のおこらないところをみると、お陰さまでご信心頂いているのだと思っております。
しかし、仮にご信心頂いていたとしても、私は凡夫。時として不安になる事もあります。その不安こそがご縁となって、その都度お味わい頂いております。
それをもって信心獲得とは違うと否定される方もたまにいらっしゃいますが…。

それから、私は298さんの仰る事が善知識頼みに聞こえたのであって、私は基本的に善知識頼みではありません。

543298:2008/01/10(木) 02:31:06 ID:D1BnOn3X
>>542
ご信心いただいているということであれば、よろしいと思います。
もし、念のためということであれば、領解文や、御文様と、
ご自身の領解を合わせてみれば、信も深まるかと思います。
信心いただいても不安になるのは、お聖教の通りですので、
そのこと自体は、問題にはならないと思います。
先程の私の書き込み(>>541)を読みまして、いかがでしょうか。
やはり、善知識頼みに響くものでしょうか。
544熊本:2008/01/10(木) 02:42:07 ID:zo8GFbzU
298さんへ。
私は別にあげ足とりをしたい訳ではないのですが、あなたの書かれていた「善知識にお願いしても信心を獲させてもらえない…」という内容を見る限りは、完全に善知識頼みにしか聞こえません…。

その後に書かれている文章には、そこまで違和感はかんじませんが…。

あなたご自身が善知識頼みではないと仰るのですから、それでいいんですが。
545298:2008/01/10(木) 03:01:03 ID:D1BnOn3X
>>544
熊本様は、どのようなものを、善知識頼みと教わっていらっしゃいますか。
「善知識頼み」というのは、蓮師が御文2帖第11通で戒められているようなものです。
(よろしければ、御文2帖第11通全体をご確認ください。)

また、2帖第11通では、十劫安心も、戒めていらっしゃいます。

◎さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることを
しりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、
極楽には往生すべからざるなり

善知識をたのんでも、救われません。あくまでも、弥陀をたのまねばならぬのです。
善知識は、「弥陀をたのめ」とすすめるばかりです。
五重の義に示されているように、善知識の無い他力信心はございません。
上の方も「一言も」のようなことをおっしゃいますし、熊本様も「完全に」とのこと。
私が申しても詮無きことですから、どうか御文様を御拝読下さいと、
繰り返し申し上げておる次第です。
546298:2008/01/10(木) 03:17:49 ID:D1BnOn3X
>>544

◎「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、
善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)

◎それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、
まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。
さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、
無宿善の機は信心をとりがたし(御文3-12)

※他力信心のひととほりをすすめていただくためには、
宿善の機と見なされねばならぬのです。

◎こひねがはくは一宗の道俗、この出言のごとく、
一念帰命の本源をあやまらず如実相応して、
すみやかに一大事の往生を遂ぐべきものなり(文如上人)

※一宗の道俗(僧侶と、一般世間の人)に、信を獲ていない者がいることを示すと同時に、
如実相応すれば、信が獲れる事も示されていると思います。
547熊本:2008/01/10(木) 03:20:29 ID:zo8GFbzU
私は知識に乏しく、あまり難しい話は苦手ですので、簡単に言わせてもらいます。
先程も書きましたが、善知識頼みに聞こえた理由は、あなたの「善知識にお願いしても信心を獲させて下さらない…」といった内容です。
これは私から見ればまるで善知識が信心を与えるかのようにしか聞こえなかったのです。


これでやめませんか?
さっきも書きましたが、あなたが善知識頼みではないと仰るのですから、私はそれでいいんです。別にあなたを批判したい訳ではありません。

明日もありますのでこの辺で失礼します。
548298:2008/01/10(木) 03:35:14 ID:D1BnOn3X
>>538, >>445

◎かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、
まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。

まず、「かつは」ですが、これは、現代語の「または(論理和の義)」
「かつ(論理積の義)」とは、意味が違います。

漢文の「且つは・・・且つは・・・」という句法から来ており、
「一方では、・・・。一方では・・・」の義です。

ですから、「かつはまた」で、「一方では、また」となるでしょう。

「べき」は、以前も書きました様に、私は「予定・運命」と解します。

「べし」には、現在の状況を推量する場合と、その時点よりも先の未来の
推量があるのですが、私はここでは、後者を採ったわけです。

宿善のある機は、いずれ、「正法をのぶる善知識に親しむ」ことになるということです。

よって、「べき」には、「ことになっている」をあてます。

「によりて」は、「に因りて」ですから、原因を示します。
「のであるから」と訳します。

ここまで、「一方ではまた、宿善のある機は、正しい法を述べる善知識に親しむ
ことになっているのであるから」。
549298:2008/01/10(木) 03:35:33 ID:D1BnOn3X
「まねく」は、補うとしたら、「招き寄せる」と解します。また、
「ども」は、逆接恒常条件と私は解します。
したがって、「まねかざれども」は、「招き寄せなくても」です。

この「まねく」ですが、私は、「善知識が」「行者を」「まねく」と解しています。
そして、「まねかざれども」は、「むつぶ」に係ります。

「まじ」は、「打ち消しの当然」と解します。「はずがない」です。

ここまで、「招き寄せなくても、ひとを迷わすはずがない法灯には」。

「いはれ」は、「言われていること」と訳します。

「なり」は、断定です。

ここまで、「かならず親しくすることになっていると言われていることである」

つづけまして、「一方ではまた、宿善のある機は、正しい法を述べる善知識に
親しむことになっているのであるから、招き寄せなくても、
ひとを迷わすはずがない法灯には、かならず親しくすることになっていると
言われていることである」

文全体の構造としては、「一方ではまた、〜と言われていることである」です。

「宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、
まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべき」が、
「いはれ」の連体修飾部となっています。

論は不足していると思います、誠実さも、足りないだろうと思います。

何かしらの疑心が、少しでも解消する助けになるならば、
うれしいことですが・・・
550298:2008/01/10(木) 03:36:13 ID:D1BnOn3X
>>547
親切心からのご忠告、ありがたくいただきたいと存じます。
おやすみなさいませ。
551298:2008/01/10(木) 03:56:46 ID:D1BnOn3X
>>547
>これでやめませんか?

やっぱり、私の文体が、挑戦的に響くのでしょうか・・・
素朴に名号をとなえていらっしゃるように拝されます。
素晴らしいことであると思います。
552熊本:2008/01/10(木) 10:47:23 ID:zo8GFbzU
298さんへ。
大変失礼ですが、挑戦的と言えば挑戦的に見えるかも知れません。また、どこか上から目線に見える部分もあるように思います。

仮にご自身にそのようなおつもりがなくとも、読んだ側にそう受け取られてしまっては同じ事ですので、お悩みならばもう少し言葉遣いに慎重になられてみてはいかがでしょうか?
553298:2008/01/10(木) 11:52:12 ID:WZyWAJgh
>>552
いえいえ、決して失礼なことはないと思いますよ。
アドバイスありがとうございます。
言葉遣いを慎重にするようにしますね。
554渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/10(木) 21:58:34 ID:yCL1wrqg
   ↓ こういう理解でよろしいか?

 名無しと298の、両者の共通認識
宿善のある機は正法を語る善知識に親しめという記載が改邪鈔にある。

 論点
 改邪鈔のこの記載は、  「宿善が有る」というのは、「救われたいと望ん
でいる」ということを意味している根拠となるか。

 結論  298 なる     名無し ならない

 名無しの主張 (渡海の補充)
1 「宿善が有る」というのは、「救われたいと望んでいる」ということであれば、改邪鈔が敢
えて注意を喚起するまでもないだろう。
2  救われたいと望んでいる者もいるかも知れないが、望んでない者もいるかも知れない。
「善知識に親しめと教えていると言うこと」は、このように指示しなければならない背景があっ
たからであると推測できる。
 「親しめと教えなければならない背景があったということは、「宿善が有る」というのは、
「救われたいと望んでいる」ということとイコールではない。
3 根拠にならない。

 298の反論 (渡海の補充)
 「救われたいと望んでいる」という基盤がなければ、改邪鈔の指示は空論になる。宿善のある
機は正法を語る善知識に親しめと言っているということは、その様な主張を受け入れられる基盤
が善知識にあるからである。
 「宿善が有る」というのは、本質的に、「救われたいと望んでいる」ということである。
      彡川川川三三三ミ〜
      川|川/     \|〜
      川川  ◎---◎|〜
      川川     3  ヽ〜
      川川  ∴) A(∴)〜
      川川     U  /〜     ___
    _;川川     ダッラ〜   .    |  |   |\_
  /  川川   __/        . |  |   | |  |\
 /    /     | |              |  |   | |  |::::|
(    (   ◎  / \_          .|  |   | |  |::::|
 \   \   /\    ̄ ̄\     |  |   | |  |::::|
  /:\   \  ドピュ ̄\っ))))〜〜|  |   | |  |::::|
 /:::  \    つ___  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
 |:::    \   (__3。 ;。 ̄ ̄ |  _________ .|
 |::::     \__/          .| |             . |.|
 \:::    (;;; );; )          | |           .   |.|
556298:2008/01/10(木) 23:44:33 ID:xgWkOzGf
>>554
渡海様。まとめてくださいまして、ありがとうございます。
なんとか、すり合わせをしたいということであれば、
私は、幾度でも、おつきあいしたいと考えています。
改邪鈔の記載ですが、私は、「善知識に親しめ」という指示として
読んでいるわけではないんです。
「宿善の機は、真の善知識には、おのずと親しんでしまう謂れがある」と
解しています。
本人にもよくわからないことですが、宿善の機は、己の好き嫌いを超えて、
義理をも超えて、自動的に、真の善知識に親しんでしまうということです。
逆に、宿善のない機は、己の好き嫌いを超えて、
義理をも超えて、自動的に、真の善知識から離れ、
悪知識に親しんでしまうということです。
これらは、自動的に起こることなので、はからっても仕方がない、
と解しています。
私たち凡夫は、はからっても、仕方がないのです。
これまで、弥陀や諸佛のお育てにより、宿縁が熟していれば、
今生で十八願をいただくことができます。
他の方を説得しても仕方がないのは、
宿善のもよおしがなければ、いたずら事だからです。
557298:2008/01/11(金) 01:00:42 ID:NsJw2uIH
>>554
つまり、私が言っていることは、
宿善の機というものは、たとえ本人に当初は自覚がないとしても、
「救われることを望んでいる」のです。
この宿善のもよおしにより、正法を述べる善知識、すなわち、
次第相承の善知識に、自然と近づいてゆくということを、
言っています。
それは、事実上、実際の救いがあるのは、
正法を述べる善知識を通して、六字の謂れを聞き開き、
弥陀をたのむことだからです。
また、宿善のない方は、自然と悪知識に近づいてしまうのですから、
止めても仕方がないのです。
ピンと来ない方を、無理して説得する必要がないのも、
改邪鈔の通りであると思っています。
558298:2008/01/11(金) 01:49:49 ID:NsJw2uIH
>>554
宿善が無ければ、十八願をいただくことは、叶いません。
では、なぜ(自分に)宿善が有るか無いかをはからっても
意味がないかと言うと、もし、救いを求めているならば、
宿善があるはずだからです。
ですから、もし、弥陀の救いを求めていると思うならば、
宿善が有ると思い、正法を探すべきです。
宿善が無いならば、途中で気持ちが変わり、
法を求めるのを止めます。
ですから、法を求める気持ちがあるならば、
自らは宿善を宿している可能性があると思い、
法を求めるべきです。
559298:2008/01/11(金) 01:52:39 ID:NsJw2uIH
>>554
お知り合いの方に、冗談でも、「南无阿彌陀佛」と
一回言ってもらうだけでも、宿縁となります。
一目、「南无阿彌陀佛」の名号を見てもらえれば、
弥陀の名前を知りましたから、宿縁となります。
二十願を行われている方も、宿善の開発を
なさっているのかもしれませんし、宿縁を得て、
将来十八願をいただく方かもしれません。
真宗に興味が無いように見える方でも、
過去十八願をいただいている、還相廻向かもしれません。
自分にいじわるをする方も、還相廻向かもしれません。
還相廻向、必ずしも、次第相承の善知識ではないと思います。
この意味でも、広い意味の善知識があります。
560298:2008/01/11(金) 02:52:03 ID:NsJw2uIH
>>532
>自分の体験とそれに基づく自己主張を繰り返すだけなら、
>298宗という一宗旨をお建てなさい。浄土真宗とは金輪際名乗らないことです。

「自分の体験とそれに基づく自己主張を繰り返す」事以外、
凡夫には、なかなかできないのだと思いますが・・・
あなた様は、「自分の体験とそれに基づく自己主張を繰り返す」以外の
事が、お出来になるのですか?
私には、無理なことです。
ですけれども、真宗は、そのような凡夫も救ってくださる教えなのだと
思っています。
561298:2008/01/11(金) 02:54:49 ID:NsJw2uIH
>>532
私からすれば、信を獲ていない方が、真宗を理解しているとは、
どうしても、思えません。
自信教人信も、真宗において説かれていることであると、
私は考えています。
信を獲ずに人を導こうとするなら、自障障他になるはずです。
もちろん、信を獲ているとおっしゃる方にも、真偽はあるでしょう。
しかし、信を獲ていない方が、真宗を理解できていることが、
あり得るのでしょうか?
562298:2008/01/11(金) 03:16:56 ID:NsJw2uIH
>>532
もし、この名無し様が以前と同じ方であるならば、
この方の思考パターンには、大きな傾向が有ります。
以前、

>>446
>298さんの論が正しいと証明するためには、この出拠では厳しい

とおっしゃっていますが、もともと、証明はできないのだと思います。
ですから、私の論に限らず、証明はできませんし、
どんな出拠をあげても、証明はできないのではないかと思います。
私は、だからこそ、宿善論があるのではないかと思っています。
これにつき、証明のできる論をあげてほしいと申しましたが、
返答はありません。
もちろん、「論」というのは、救いの道筋を示すものに
ついて言っています。(数学の定理等のことではありません。)

「自分の体験とそれに基づく自己主張を繰り返す」これも、
当たり前のことです。
本気で、それ以外のことができると考えていらっしゃるのでしょうか?
私は、「自分の体験とそれに基づく自己主張を繰り返す」ことしか
できない凡夫ですが、それでも弥陀に救われたと思っていますし、
同じ様に、「自分の体験とそれに基づく自己主張を繰り返す」ことしか
できない凡夫の方でも、弥陀は救ってくださると申し上げます。
弥陀に救われるために、聖人になる必要はございません。
563298:2008/01/11(金) 03:20:09 ID:NsJw2uIH
>>446
>お聖教は、自義を挟まず読まないと

それに、こんなことできません。
この方は、できていると思っているということでしょうか?
564神も仏も名無しさん:2008/01/11(金) 06:42:04 ID:SOa8z592
おはようございます。
>298さんへ
意訳読ませていただきました。大体よろしいのではないでしょうか。
質問を変えましょう。『改邪鈔』(八)において、覚如上人は
宿善とは、具体的にはどういう事だと言われていますか?
298さんの言葉ではなく、覚如上人が仰ったお言葉でお答え下さい。
よろしければお願いします。
565298:2008/01/11(金) 06:42:24 ID:NsJw2uIH
>>446
読む時点で、自義が入ります。
ですから、私たち凡夫は、たとえ仏説と言えども、
読んで救われることがありません。
だからこそ、他力の救いが必要なのです。
566298:2008/01/11(金) 06:43:51 ID:NsJw2uIH
>>564
おはようございます。ひょっとして、あなた様は、
改邪鈔単独で読まれているのですか?
それでは、聖典は、そもそも読めません。
七祖聖教を立てる意味もなくなるのではありませんか?
単独で問いを立てているところに、邪義を感じます。
567298:2008/01/11(金) 06:44:58 ID:NsJw2uIH
>>564
聖典の一部を取り出して読もうとすることは、
誠に危険なことです。
少ない部分を取り出すならば、
どうとでも読めるのではありませんか。
全体との関連で考えねばなりません。
568298:2008/01/11(金) 06:45:24 ID:NsJw2uIH
>>564
「大体よろしい」とは、どういう意味でしょうか?
異論があるなら、隠さずおっしゃってください。
569298:2008/01/11(金) 06:46:25 ID:NsJw2uIH
>>564
「厳格に読む」という方が、「大体」とおっしゃっています。
いい加減な気持ちで、「大体」とおっしゃっているのですか。
疑義を明確にしてください。御願いします。
570298:2008/01/11(金) 06:47:55 ID:NsJw2uIH
>>564
質問を変えるのは、まだ早いでしょう。
あなた様の訳と、私の訳にも、違いがあるでしょう。
厳密に読むあなた様です。明確に御願いします。
また、「正」の字義について、私は問うています。
あなた様のご意見を、お聞かせください。
571298:2008/01/11(金) 06:50:54 ID:NsJw2uIH
>>564
以前も述べましたが、私は、あなた様が厳密な読みを
為す方だとは、とらえていません。
いい加減に読んでいることに気付かずに、
増長している方であると思っています。
あなた様が「私は厳密に読んでいる」と主張なさりたいなら、
その読みを示してください。
572298:2008/01/11(金) 06:53:20 ID:NsJw2uIH
>>564
私が問うているのは、「大体よろしい」の「大体」の具体的内容。
それと、あなた様の「正」の解釈に、「救い」の概念が
入るかどうかです。
573298:2008/01/11(金) 06:54:58 ID:NsJw2uIH
>>564
また、「よろしい」とおっしゃるからには、
あなた様には、あなた様の読みが正しいという前提が、
相変わらずあることでしょう。
この点に尽きましては、
「あなたは信を獲っていますか?」と、再度お尋ね致します。
信を獲らずして、正しく解釈できるとおっしゃるならば、
お聖教に反していると考えます。
自障障他の咎を、どのようにして逃れるおつもりですか。
574298:2008/01/11(金) 07:02:07 ID:NsJw2uIH
>>572
お答えがないので、質問を言い換えます。
「大体よろしい」の「大体」の具体的内容、
という言い方で私が問うているのは、
一体どこを問題と捉えているのか、
その問題を明確に指摘してほしい、ということです。
「大体」とおっしゃるからには、
誤りがあるということでしょう。
もちろん、誤りがあっても、不思議ではありません。
ですから、そこをはっきりとおっしゃってくださいと
御願いしているのです。
私としては、あなた様は、おそらく増長した傲慢な気持ちで、
たいして自らが発する言葉の意味を良く考えもせず、
「大体よろしい」と発言したのだと推測しています。
もしそうだとしたら、とてもいい加減な発言です。
そのような方だからこそ、自障障他を気にもしないのでは
ないかと思います。
5757:2008/01/11(金) 09:18:18 ID:tgN3KSWK
>読む時点で、自義が入ります。

>聖典の一部を取り出して読もうとすることは、
誠に危険なことです。
少ない部分を取り出すならば、
どうとでも読めるのではありませんか。

まったくその通りだと思いました。横レスごめんなさい。
576熊本:2008/01/11(金) 10:02:57 ID:zzDhLxO4
298さんへ。

人様に「あなたは信心獲得させて頂いてるのですか?」とまで問いかける事にそんなに意味があるんでしょうか?
お相手がどうであれ、ご自身がお相手を通しての阿弥陀仏のご縁を頂ければいい話ではありませんか?


また大変失礼ですが、あなたはどうも勝手な憶測で話を進めている部分があるように思います。
私に対してはいきなり「このような質問をなさるんだから、あなたは信心を獲てないのでしょう?」といった内容の事を言われましたし、他にもそういう発言が目につきます。
お気をつけられた方がよろしいのではないでしょうか?

少なくとも浄土真宗の門信徒の語り合いは、共に頂く世界での語り合いだと思います。
余計なお世話かと思いましたが、お互いに気分よく語り合えるために、もう少し配慮なされてみてはいかがでしょうか?
577神も仏も名無しさん:2008/01/11(金) 10:53:55 ID:IV2bZ763
救いや信心獲得にはいろいろあるだろう。もちろん個人差もある。
救われたと本人は思っていても、地獄にいってる場合もある。
客観的な判断はなかなか難しい。これは、理論や理屈ではないから。
結局は、その人の言動と人格と感化力、悟性、精神性、霊性で判断されるべき。
578298:2008/01/11(金) 11:46:08 ID:ArgpyOqh
>>576
熊本様。お気分害されたのでしたら、誠に申し訳ございません。
「善知識頼みと思われた」という内容から、十分に推測できるのです。
「信心の沙汰をせよ、せよ」という内容も、御文様に幾度も出て参ります。
(聞書にも幾度も出て参ります。)
不審がありますならば、御文様をご確認ください。
五重の義にて、善知識の必要は、明示してございます。
また、領解文にても、はっきりと書いてございます。
信心の沙汰についても、お聖教に繰り返し書いてございますのに、
もし、そこに不審がございますなら、御拝読されていないのではと
考えます。
蓮師は、信をいただいているつもりで、信をいただいておらず、
真宗に縁を持ちながら、説法聞いて地獄に堕ちてゆかれる方々のことを、
繰り返し嘆いておいでです。
信心こそが、往生の正因なのですから、そこを幾度も確認してゆかねば
ならないことは、むしろ当然のことだと考えますが・・・
ご自身で、御文様をご確認いただければと思います。
579298:2008/01/11(金) 11:51:55 ID:ArgpyOqh
>>576
気分が良いことは、もちろん大切ですし、人間関係も、大切なことです。
しかしこのスレは、わざわざ2chにて、真実信心を求める方の
ためのものです。
私に対して改邪鈔の対話をなされている方も、
本当に興味がなくなれば、書き込みもなさらなくなるでしょう。
私が、いい加減なことを言って、もしその方が信心を得ていなくて、
ただ堕ちてゆかれるとしたら、忍びないことです。
求めている方には、申してゆかねばならぬと思います。
もちろん、繰り返し書いています様に、私は間違いだらけの凡夫です。
気分を害したいわけではありません。ですから、表現は、
上手になってゆきたいと思っています。
ですけれども、優先順位は、何よりも、真実信心をいただいて
いただくことにあると考えます。
580熊本:2008/01/11(金) 15:43:30 ID:zzDhLxO4
まずあなたは私が善知識を必要としていないと思われているようですが、そんな事は一言も言ってませんし、そんな事はありません。

阿弥陀様のお声を直接お聞かせ頂く事のかなわない以上、善知識を通しての聴聞しかかなわない事くらい百も承知しております。


そもそも善知識とは、私を照らし育てて下さる阿弥陀様のご縁のパイプ的な存在であり、私自身がご縁を頂けたなら、そのお相手が親鸞聖人だろうが、信心獲得させて頂いてない方であろうが、赤子であろうが、そんな事は問題ではありません。
また正しいお話を通してのみご縁を頂けるとも限りません。間違ったお話からも反面教師的な意味でご縁を頂けます。

今、私はあなたを通してご縁を頂いております。ですから、あなたは私にとっての善知識とも言えると思います。
しかし、私はあなたが信心獲得させて頂いた方であろうが、そうではなかろうが、そんな事は問題ではありません。

要は、自分自身の信心の有無にこだわる事には大賛成ですが、他人の信心の有無にこだわる必要はないと私は思う訳です。
それに、他人の信心の有無わ推し測れる術などないのですから。

それから、私が善知識頼みに見えた理由は前にも書きました。
再度申し上げますと、まるで善知識によって信心獲得させて頂くかのように見えたからです。
あくまで阿弥陀様のご縁によって起こさせて頂くのが信心。
あなたにはそういうつもりはなかったのでしょうが、私には阿弥陀様を抜きに善知識から授かるもののように書かれてあると見えただけの話です。
私の勘違いであればそれでいいとお断りしたはずですが…。
5817:2008/01/11(金) 16:51:48 ID:tgN3KSWK
やはりいろんな読み方をする人があるものですね。
妙好人スレをたてていただいたのは、もちろん自身の信心獲得のための良き縁を求めてのことです。
今までは、周りに全く信心獲得者がいなくて心細く思っていましたが、今は逆に、いろいろな信心獲得者の方に
こうしてネットでもオフでも会うことが出来るようになりました。
喜ばしいことですが、言われることがそれぞれ違っているようで、逆に戸惑ってまいりました。

 教義上の解釈は、やはり獲信された方でないと無理な部分があると推測しています。
私としましては、教義上の解釈を展開される方が、未信であるか獲信された方であるかはとても重大な問題です。
これは自己申告による他はなく、凡夫に対して証明する方法もないと思いますが、一言添えていただけるとありがたいと思います。
582神も仏も名無しさん:2008/01/11(金) 19:02:59 ID:MU0dtfcl
とりあえずみんな本山で改悔批判を聞こうじゃないか。
583神も仏も名無しさん:2008/01/11(金) 19:10:52 ID:b0rzJbj5
>582
 もとやまってなに?
584298:2008/01/12(土) 00:55:28 ID:S6FsXfeZ
>>580
熊本 様
たびたび私の表現が至らぬようで、お詫び申し上げます。
もちろん、法に出会う縁となってくださったものは、
すべて善知識であります。
これは、広い意味における善知識であります。
しかし、善知識は、それだけではありません。

◎今遇善知識得聞弥陀本願名号一心称念求願往生
「いま善知識に遇ひて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。
一心称念して往生を求願せよ」(行巻)

弥陀本願の名号を教えてくださり、次に一心に称念します。

(参考)
「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を
無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、
この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、
かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)
585298:2008/01/12(土) 00:56:09 ID:S6FsXfeZ
信心にこだわることについては、

◎しかるに当流において毎月の会合の由来はなにの用ぞなれば、
在家無智の身をもつて、いたづらに暮しいたづらに明かして、
一期はむなしく過ぎて、つひに三途に沈まん身が、一月に一度なりとも、
せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて、わが信心は、ひとの信心は、
いかがあるらんといふ信心沙汰をすべき用の会合なるを、
ちかごろはその信心といふことはかつて是非の沙汰におよばざるあひだ、
言語道断あさましき次第なり(御文1-12)

信心の沙汰をしないことは、「言語道断あさましき次第」とまで、
おっしゃっておられます。

これはもちろん、誰と会うときでも、ということではございませんで、
あくまでも、御同行と会うときでございますが、
このスレは、信心獲得を目的とするものなのですから、
やはり、信心の沙汰は最重要になると考える次第です。
586298:2008/01/12(土) 01:01:01 ID:S6FsXfeZ
>>575
共感いただけますと、うれしい限りです。

>>581
実際、いろいろな考え方がございます。
私も、自らが思う所を申す他はございません。
自分の足りなさを、恥じ入る次第です。
587渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/12(土) 10:30:21 ID:Z7ulm3or
 分かりにくいディベートだったが、名無しと298とのバトルは何だったのか。

 自分の体験とそれに基づく自己主張を繰り返すだけなら、298宗という一宗旨をお建てなさい
>>532
 
 口頭試問の試験官が「暴れ馬一人教祖」に腹の虫の居所の悪さを感じていたということなんだ
ろう。

 試験官は言う。
 「意訳読ませていただきました。大体よろしいのではないでしょうか(はい、合格点です)。
(では、第二問に行きます。)覚如上人は宿善とは、具体的にはどういう事だと言われていますか?」

 人を見下すことには慣れていても、試験され、見下されることは我慢ができないプライド教祖
は、見下されたかと思って試験官に対し怒る怒る。

 私は、あなた様が厳密な読みを為す方だとは、とらえていません。いい加減に読んでいること
に気付かずに、増長している方であると思っています(>>571)。
588渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/12(土) 10:31:45 ID:Z7ulm3or
 本心では名無しが298にぶつけたい言葉だろうが、名無しとしては逆に自分に返ってきた。

 「大体」とおっしゃるからには、誤りがあるということでしょう。もちろん、誤りがあっても、
不思議ではありません。ですから、そこをはっきりとおっしゃってくださいと御願いしているの
です。(>>574

 ディベートには、信心とは別の独自の技術が必要だ。ディベートで相手の議論を詰めていくと
いうことなど、名無しは不得手の人だったようだ。298は、一瞬の脇の甘さを見過ごさなかっ
た。名無しには、真宗学で相手を口頭試問で詰めていくような力量の人ではないんだろう。それ
がどうこうということではないんだが。

 298さん、今年最初の質問です。善知識が他人の宿善の有無を沙汰し、思慮分別することは、
この「義」に含まれますか?含まれませんか? (>>393

 天狗の鼻をへし折ってやろうと思ったことがいけなかったのか。ディベートはまだ続くかもし
ないが、暴れ馬のような教祖の方が、口頭試問官よりは役者が上だったようだ。
 まあ、信心とは関係のない話だったな。
589298:2008/01/12(土) 10:59:43 ID:QO4iz5aS
>>588
>まあ、信心とは関係のない話だったな。

いえ、そういう感想こそが、信心の沙汰につながると思います。
なぜ、一対一ではなく、会合にて信心の沙汰が奨励されているかと言えば、
それを見ている方が、また感想を持つからではないでしょうか。
590神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 11:11:49 ID:LT3MS9Dz
おふみを読もうと思って、大谷暢順師の 「蓮如[御文]読本」という本を読んでいます。
591298:2008/01/12(土) 11:17:09 ID:QO4iz5aS
>>590
私も、この機会に読んでみようと思います。
592298:2008/01/12(土) 11:23:07 ID:QO4iz5aS
>>588
私自身は、渡海様ご指摘のように、怒り易く、不完全で、
性格の悪い凡夫なのです。
このスレを見るだけでも、私の性格の悪さは、
描き出されていると思います。
それでも、内に働く信心を信じ、私はダメでも、
そこに働いている信心の働きを信じて、
信心を表してゆく他ないと思っています。
593渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/12(土) 12:24:03 ID:Z7ulm3or
>592
 天狗様に自分の高い鼻を恥じ入られても、変な感じなんだよね。

> そこに働いている信心の働きを信じて、
> 信心を表してゆく他ないと思っています。

 仏様も手をお焼きになって、腫れ上がっていらっしゃることだろうにね。
 仏様がお気の毒だなぁ。 (笑
      彡川川川三三三ミ〜
      川|川/     \|〜
      川川  ◎---◎|〜
      川川     3  ヽ〜
      川川  ∴) A(∴)〜
      川川     U  /〜     ___
    _;川川     ダッラ〜   .    |  |   |\_
  /  川川   __/        . |  |   | |  |\
 /    /     | |              |  |   | |  |::::|
(    (   ◎  / \_          .|  |   | |  |::::|
 \   \   /\    ̄ ̄\     |  |   | |  |::::|
  /:\   \  ドピュ ̄\っ))))〜〜|  |   | |  |::::|
 /:::  \    つ___  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
 |:::    \   (__3。 ;。 ̄ ̄ |  _________ .|
 |::::     \__/          .| |             . |.|
 \:::    (;;; );; )          | |           .   |.|
595熊本:2008/01/12(土) 12:43:47 ID:71SImDQA
信心の沙汰とは、相手の信心の有無を詮索する事とは違うのではないでしょうか?
沙汰とは知らせる・伝えると言った意味ではないのでしょうか?だとすれば、信心の沙汰とは、自身の頂いた信心の有り様やお味わいの有り様をお話させて頂くという事だと思うのですが。

他人の信心の有無にこだわるのではなく、自身の信心やお味わいの有り様についてお話させて頂く事によって、自身の間違いやおごりを正して頂く事が目的かと存じます。

あくまで語り合いは自分自身のための阿弥陀様のご縁。
他人の信心の有無を詮索したりする事など、少なくとも私には大して必要ありません。
596熊本:2008/01/12(土) 12:47:04 ID:71SImDQA
間違えました。大して必要ありません。ではなく、大して問題ではありません。です。
597298:2008/01/12(土) 14:33:24 ID:QO4iz5aS
>>595
熊本様。もちろん、詮索の必要は無いと思います。
そして、信心の沙汰の基本は、「私の信心は〜です」と、表してゆくことで
あると思います。
未安心の方は、未安心の方なりに、表す内容もあるでしょうし、また、
ご不審もあるでしょう。

◎未安心の輩は不審の次第をも沙汰せざるときは、
不信のいたりともおぼえはんべれ(御文4-7)

そして、信心いただいている方でも、ご不審はあるはずなのです。
ご不安な方は、自ら「これでよろしいのでしょうか?」と問いかけるので
あろうと思います。
そうして信心の沙汰を続けているうちに、知らされたり、気付いたり、
反省したり、いろいろな心の動きが出てくると思います。
ただし、「信心を獲ていますか?」という問いは、
基本の問いであると私は思います。
蓮師も幾度も問われていることと思います。
598298:2008/01/12(土) 14:41:13 ID:QO4iz5aS
>>595
>>597における「詮索」と「問う」の意味の違いなのですが、
「詮索」というのは、しつこく、信を獲ているのか獲ていないのか、
正信なのかどうかを、問い詰めてゆくこと、というような意味で
書きました。
「問う」というのは、とりあえず「問う」という感じです。
これを、どの程度まで行うのか、というのは、
相手の方が、何を求めているかによって異なると思います。
599298:2008/01/12(土) 16:09:49 ID:QO4iz5aS
>>595
ですけれども、獲信に興味がない人に問うても、
本当に大きなお世話になってしまうと思います。
あくまでも、獲信者と学んで獲信したいという、
このスレの趣旨を考えたときに、
適当だと思う次第です。
600神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 16:22:21 ID:fdNBemI5
>渡海さん
>298さん
まだ話は終わってません。いろいろ想像たくましくされるのは勝手ですが、
私の意を勝手に総括されても困ります。
私の質問は、298さんの「宿善の機とは救いを求める者」という定義は、
どなたが言われたことなのか?親鸞聖人か覚如上人か蓮如上人なのか、
そこを尋ねているだけです。その後、298氏は『改邪鈔』(八)を挙げられました。
意訳までしていただきました。しかしながら、何処に上記の意が述べられていますか?
この箇所に「救い」「求める」を意味する言葉が述べられていますか?
また、この『改邪鈔』(八)は「宿善の機=救いを求める者」と解説する文章ですか?
それが無い以上、「宿善の機=救いを求める者」という298さんの主張を
覚如上人は「この箇所においては」されていないと言うことになります。
当然、「この箇所」は、彼の主張を裏付ける出拠たりえないことになります。
大きな意味においては、298さんが本当に親鸞聖人や覚如上人、
蓮如上人の言葉に従って、意見を述べておられるのか、
サンプルケースとして、お尋ねしていると言えばいいでしょうか。
余計な推論も意見も要りません。的確に、祖師方のどなたの仰せなのか、
それのみをお答えいただければ済むだけなのですが。
601神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 16:45:32 ID:fdNBemI5
>600補足です
時間がなくて書き込めませんでした。「大体よし」とは、
298さんの『改邪鈔』(八)の一部分を「意訳された文章のみ」を指します。
即ち、中世文書の意訳としては適当であると認められるという意味です。
副詞の意味を他の意味に取っても、この文章の大意は大きく変わる事はないから、
その訳にて問題はないと言う事です。
曖昧な言い方になり、申し訳ありませんでした。
さて、298さん、あなたの意訳を読ませていただき、
何処に「宿善の機=救いを求める者」とありますか?
602298:2008/01/12(土) 16:59:16 ID:QO4iz5aS
>>600, 601
>この箇所に「救い」「求める」を意味する言葉が述べられていますか?

繰り返し、「正」には「救い」の義が含まれると考えますか?
とお伺いしております。
「含まれる」とは、どういう事か、私にはさらに論がありますが、
その前に、あなた様は、
含まれると考えるのか、含まれないと考えるのか、
含まれるとも言えず、含まれないとも言えないのか、
含まれると言えずとも言えず、含まれないとも言えないとも言えないのか、
何らかのお考えは、ないのでしょうか。
私は、含まれると考えていると申し上げました。
あなた様のご意見は、どうなっているのですか。
それとも、意見が無いのでしょうか。
603298:2008/01/12(土) 17:02:13 ID:QO4iz5aS
>>601
また、「べし」の解釈は、
1)同時点における、目の前、あるいは、離れた場所の推量
2)未来の時点において起こると予想される事柄への推量
このどちらかに取るかで、この箇所の意味は大きく異なると
私は考えます。
604298:2008/01/12(土) 17:08:04 ID:QO4iz5aS
>>600
>余計な推論も意見も要りません

ここですが、「余計」というのは、あなた様がお決めになるということでしょう?
違うのでしょうか?
あなた様にとって余計に感じられることが、私にとっては、
とても大切であることもあるのです。
あなた様は、私が言うことを理解したいのですか?
それとも、「違う」と感じるから、否定したいのですか?
「違う」と感じても、わかりたい方もいらっしゃいます。
「違う」と感じて、ただ否定する方もいらっしゃいます。

>当然、「この箇所」は、彼の主張を裏付ける出拠たりえないことになります。

また、「当然」とおっしゃいますが、「当然」であれば、
論は要らないでしょう。
そこまで「当然」であるならば、あなた様は、
もちろん獲信しているはずですし、まわりの方にも、
信を獲らせることができるのではないかと思いますが、
現状は、いかがなのですか。
605神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 18:14:24 ID:fdNBemI5
>602-604
まず、初めに、正法とは、通常、正しい理法、正しい真理、大きくとらえれば仏法を言います。
覚如上人は、ここでは、正法に救いの概念を含ませて説明されておりません。
もし、正法とは救いのことであるという義を新たに立てるのならば、
これについても、出拠をお願いします。
次に、べしの用法については、べしの本来の意味は、
「道理に照らして、〜であるのが理にかなっている、当然である」です。
『改邪鈔』(八)は、【離れたり、親しくなったりするのも、
みな過去の因縁による】と言う「道理」に基づいて、
【わが同行、ひとの同行と簡別し、相論する理由はない】
という命題を証していく内容ですから、
「宿善のある機は、正しい道理を述べる善知識に当然親しむから、
招かれなくとも、人を迷わすことのない法灯(無明の闇を照らす仏智)に
当然、必ず親しむことになる。」ですね。
覚如上人は上記中、何処に「宿善の機=救いを求める者」
と解釈されていますか?お答え下さい。
私は、出拠をお尋ねしているだけです。
よって各々の意見は必要ないと言うことです。
親鸞聖人は、覚如上人は、蓮如上人は、何を仰ったのか?
幸いお聖教に遺されてありますから、そのお言葉を直接挙げて下さい。
南無阿弥陀仏
606298:2008/01/13(日) 01:00:39 ID:5YejBOoP
>>605
まず、私は、あなた様とお話することに、あまり熱意がありません。
信心求める方の疑問であれば、真摯にお答えしてゆかねばなりませんが、
それでも、怠惰な凡夫です。面倒に思う気持ちも、たくさん出てきます。
今のあなた様にお話ししても、煩悩をかきたててしまうだけになるような
気が致します。
私は、お聖教は相互に有機的に関連していると考えています。
また、解釈無くして読むことはできないと考えます。
しかし、あなた様は、>>600のような御主張ですから、
それに合わせて、お伺い致します。また、>>528も参考に致しました。
607298:2008/01/13(日) 01:01:15 ID:5YejBOoP
あなた様は、>>605において、
「覚如上人は、ここでは、正法に救いの概念を含ませて説明されておりません」
という義を立てておいでです。
では、お伺い致します。
この箇所の、どこに、「正法に救いの概念を含ませて説明していない」
という内容が書いてございますか?
また、この『改邪鈔』(八)は「正法には救いの概念は含まれない」と
解説する文章ですか?
それが無い以上、「正法には救いの概念は含まれない」というあなた様の主張を
覚如上人は「この箇所においては」されていないと言うことになります。
当然、「この箇所」は、あなた様の主張を裏付ける出拠たりえないことになります。
大きな意味においては、あなた様が本当に親鸞聖人や覚如上人、
蓮如上人の言葉に従って、意見を述べておられるのか、
サンプルケースとして、お尋ねしていると言えばいいでしょうか。
余計な推論も意見も要りません。的確に、祖師方のどなたの仰せなのか、
それのみをお答えいただければ済むだけなのです。
問題は実にシンプルなのです。あなたの
「覚如上人は、ここでは、正法に救いの概念を含ませて説明されていない」
と言う主張を覚如上人が『改邪鈔』(八)で述べておられるのか否か?それだけです。
自義を交えずに、お聖教の根拠をもとに、お話してください。御願いします。
私は、出拠をお尋ねしているだけです。
よって各々の意見は必要ないと言うことです。
親鸞聖人は、覚如上人は、蓮如上人は、何を仰ったのか?
幸いお聖教に遺されてありますから、そのお言葉を直接挙げて下さい。
608298:2008/01/13(日) 01:01:27 ID:5YejBOoP
しかし、こんなことをやって、意味があるのでしょうか?
我ら短命の機ですよ。御文様を拝読なさって、有縁の知識にも
御願いして、早く信を獲ってほしいと思います。
あるいは、信を獲った上で、破邪顕正を試みているということなのでしょうか?
それと、もし今後もお話されてゆくのであれば、HNを決めていただけ
ないでしょうか?
609神も仏も名無しさん:2008/01/13(日) 01:30:58 ID:/ihqoxdi
>603
この件に関しては、いたって冷静です。ご心配には及びません。
私は、【宿善の機=救いを求める者】の出拠をお尋ねしているだけですから、
特に感情的になる理由はありません。
逆に、298さんのレスには、その傾向があるのではないかと思うのですが。
煽りや挑発にはもう乗りません。
>604
覚如上人によって、宿善とは救いを求めることであると言及されていないからです。
言及されていないことを言及していないと証明しろと言う方が不自然です。
言及されていないのですから。
>605
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人に心配して頂いておりますから、
取り立てて心配して頂く必要はありませんよ。
凡夫に心配されても、気持ち悪いだけです。
それよりも、お聖教と言う大切な指南によって出拠を挙げて下さい。
余計な事は要りません。あなたの口から、
親鸞聖人のお示しを出拠を押さえた上でお聴かせ下さい。
610298:2008/01/13(日) 01:45:27 ID:5YejBOoP
>>609
私からすれば、あなた様は、ご自分でご自分のなさっていることが、
わかっておりません。

>言及されていないことを言及していないと証明しろと言う方が不自然です。
>言及されていないのですから。

では、「正法とは、通常、正しい理法、正しい真理、大きくとらえれば仏法を言います」
とは、どこに言及されていますか。
あなた様は、全く自義をまじえずに、お聖教を読解しているというご主張でしょう。
そもそも、それは無理なことなのです。
しかし、私は、お聖教に根拠無くして、「宿善のある機は、救いを求める」と書いたのでは
ありません。
依然として、あなた様に、ご理解いただけないだけです。
それに、私に心配していただく必要がないのであれば、
私から、何を聞きたいのでしょうか?
あなた様が、信頼できる知識なり、先生から、お聞きすればよろしいのでは
ございませんか。
611298:2008/01/13(日) 01:47:43 ID:5YejBOoP
>>609

そして、あなた様のご主張では、改邪鈔の該当箇所における「正法」とは、

1)救いの義を含まず
2)正しい理法、正しい真理、大きくとらえれば仏法

のことであるということで、よろしいのでしょうか。
612298:2008/01/13(日) 01:50:38 ID:5YejBOoP
>>605
また、「大きくとらえれば」というのは、包含関係を示しているのでしょうか。
「正しい理法、正しい真理」が「仏法」に含まれるということですか。
あるいは、「仏法」が「正しい理法、正しい真理」に含まれるということですか。
それと、HNを定めていただきたいのですが・・・
613298:2008/01/13(日) 01:58:37 ID:5YejBOoP
>>609
信を獲ていないのであれば、一刻もはやく、信をお獲りにならなければ
ならないのではありませんか。
私が心配しなくても、ご自分で、ご自分のことを心配しなくては、
ならないのではありませんか。
私の言う事がおかしいと思うのであれば、
そして、おかしいと思いながらもわかりたいのではなく、
おかしいと思うから否定したいのであれば、
まず、あなた様から見て信頼のできる知識や御同行を探し、
その方の導きのもと、信を獲らねばならないのではありませんか。
614298:2008/01/13(日) 02:45:11 ID:5YejBOoP
>>609
繰り返し訴えますが、宿善の機は、救いを求めます。
自分でも、なぜだかわからないままで、救いを求めます。
そして、この気持ちにもよおされて、
正法へと辿り着くのです。
名無し様がいくら否定されようが、真実に変わりはありません。
615298:2008/01/13(日) 03:36:52 ID:5YejBOoP
>>614
ただ、「真実」と申しましても、もちろん、「私が考える」ということです。
つまり、私は、名無し様の文章を読んでいて、今のところ、
(宿善のある機は救いを求めるかどうかについて)自論を
変えていないということです。
616298:2008/01/13(日) 03:41:38 ID:5YejBOoP
典拠につきましても、もしご理解いただけないのであれば、
他の箇所を示して行くことも、自然なことです。
しかし、名無し様の場合は、そもそも、きちんと検討された形跡が
見られないと思います。
それに、宿善の機が救いを求めることについて、
典拠が無ければわからないということが、
私にしてみれば、かなり不自然なことです。
名無し様は、弥陀の救いを求めていらっしゃらないのですか。
617298:2008/01/13(日) 04:07:35 ID:5YejBOoP
掟によれば、他宗他派の誹謗はできないのです。
私のように、掲示板にて書いたりしている者は、
ますます気をつけねばならぬと反省しております。
ですから、共に求めたい方には、あれこれお話したいこともございますが、
方向性が違うのであれば、あまり、あれこれ言いたくありません。
典拠典拠とおっしゃいながら、他派の誹謗を為すことも、
おかしなことです。
618熊本:2008/01/13(日) 11:20:58 ID:vSC1eyXm
298さんへ。

なぜ「信心を獲ていますか?」という問いが基本になるのでしょうか?私にはよく分かりません。
自分自身の信心の有無こそが問題であって、他人の信心の有無は計り知れないものであり、仮にお相手が信前の方であろうと、自らがその方を導く事など凡夫である私たちには出来はしないでしょう?

「あなたのお聞かせ頂いておられる信心とは、お味わいとは、いかなるものでしょうか?」という問いかけならば分かりますが。

私の誤解ならそれでいいんですが、あなたの過去の発言には「信心の無き者とは話にならない」といったニュアンスが感じられました。
だからこそ私はこだわる訳です。

お取り次ぎは他人の為のものではなく、私自身の為のご縁。ならば、何故お相手の信心の有無にそこまでこだわる必要があるのでしょうか?

私はあまり頭のいい方ではありませんので、出来れば御文章などの引用ではなく、ご自身のお味わいをご自身の言葉で語って頂けると幸いです。
6197:2008/01/13(日) 11:32:27 ID:2vEow7B2
横レスごめんなさい。
妙好人スレを立ててもらったのは、信心の沙汰をするためです。

ですからスレタイは【信心の】妙好人と学ぶ【沙汰をせよ】にしたほうが良かったかな、とも思っています。
しかし浄土真宗、信心獲得の文字は求めておられる方が検索するときのことを考えると絶対にあったほうがいいですよね・・
・・・最初のテンプレに信心の沙汰をせよ、と書いておくことにしたいと思います。

このスレとしては、書き込まれる方の信心の有無に徹底して拘っていきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
620298:2008/01/13(日) 18:25:52 ID:uVbvOqWv
>>618
>私の誤解ならそれでいいんですが、あなたの過去の発言には
>「信心の無き者とは話にならない」といったニュアンスが感じられました。
>だからこそ私はこだわる訳です。

熊本様。本当に私の主観であるのですが、
私は熊本様から、真摯な気持ちを感じるのです。
真摯な方のご不審には、何の問題がありますでしょうか。
誹謗のための問いには、あまり意味がないようにも思いますが、
お聖教にも、「誹謗もまた縁となる」のような意味のこともございますので、
一概に否定もできないのであると思っております。
「信心の無き者とは話にならない」と熊本様がお感じになられますのは、
「信心の無き者がお手引きをしようとするのは、もっての他」という
私の考え方に原因があるのではないかと思います。
しかし、「信心の無き者とは話にならない」ということですと、
信心を求める方まで否定されてしまいます。
信心の無き方をこそ、救わねばならないのです。
信心無き悪人こそが正客でございます。
621298:2008/01/13(日) 18:26:24 ID:uVbvOqWv
私が否定しておりますのは、あくまでも、自障障他です。
信心をいただいていない方が、信心を求め、不信であるからこそ、
不審を問うことは、これは歓迎されるべきことです。
私はここで、「お話にならない」方について、2種書いています。
ひとつ目は、
1)信を獲ていないのに、他を導こうとする方
ふたつ目は、
2)信を獲ておらず、信を求めてもいない方
です。
1)の方には、「信を獲てから、お導き下さい」と申し上げます。
2)の方には、「信をお求め下さい」と申し上げます。
いずれにしても、信心為先を申し上げます。
しかし、このように申し上げるわけですので、
「お話にならない」わけでもございませんで、
お話したい内容もあるわけでございます。
それはあくまでも、信心為先です。
そして、それがわからないであろう方には、
方便のお話を致します。
ですけれども、こちらのスレッドにおいては、
なるべく、真宗の要に近いところをお話してゆきたいというのが、
私の望みです。しかしそれも、凡夫のはからいに過ぎませんので、
流れに任せる他ございません。
この書き込みは、私の思うところを述べておりまして、
熊本様のお問いかけに、十分にこたえていないと思います。
また、今晩にでも、書き込むように致します。
622神も仏も名無しさん:2008/01/13(日) 20:58:23 ID:/ihqoxdi
>612
大きくとらえれば、「正しい道理」「正しい理法」でした。お詫びして訂正いたします。
これは直訳です。また、中村辞典に依っています。
出拠は『雑阿含』等、各所にあります。
正法を仏法と定義するのは『論註』に依ります。
仏教は救われれば良いと言う教えではありません。
悟りの理法・目覚めた人=仏の道理に基づかねば、仏教ではなく、
単に救済教とでも言うべきかもしれません。
出拠は、その宗旨が仏教であることを証明するために欠くことができません。
「真実の教を顕さば『大無量寿経』これなり」とあるように、
親鸞聖人も出拠を肝要とされておられるのはご存じのことと思います。
(『教行信証』自体ほとんど引文で構成されていますよね)
出拠を明確に押さえることは、大変重要事なのです。
仏教はお釈迦さまの教えなのですから(ここでは、大乗非仏説はひとまず置いておいて、
親鸞聖人の受け取られた浄土真宗を前提とします)。
では、再度お尋ねします。「宿善の機=救いを求める者」の出拠は他にありますか?
623298:2008/01/13(日) 21:01:47 ID:uVbvOqWv
>>622
やっと内容に進まれたようで、うれしく思う次第です。
よっぽど私の文体が悪いのだと思います。
先に進めてくださいましたことに、感謝致します。
今書き込む時間がございませんで、夜に書き込みたいと思います。
また、できますれば、簡単なもので構いませんので、
HNをお定めくださいませ。過去の発言を検索するのが、
大変なのです。
624298:2008/01/13(日) 21:09:23 ID:uVbvOqWv
>>622
よろしければ、一点確認したいことがあるのですが、
あなた様は、真宗を否定されている方(真宗は、仏法でないという立場の方)なのでしょうか。
それとも、真宗は良いと思うけれども、私が書いていることが、
真宗の正意と異なると感じている方なのでしょうか。
どちらの方であるかによって、私がまずお書きしたいことも変わって参りますので、
お答えいただけるならば、うれしく思います。
625神も仏も名無しさん:2008/01/13(日) 21:52:31 ID:/ihqoxdi
>624
勉強不十分な私は「宿善の機=救いを求める者」と言う事を、
お聖教で拝見した事が未だかつてありませんでした。
故に、何処にそのようなお示しがあるのか、お尋ねしているだけです。
覚如上人のお示しか、蓮如上人のお示しか、それとも親鸞聖人のお示しにあるのか、
その出拠を挙げていただきたい。唯この一点です。
626神も仏も名無しさん:2008/01/13(日) 22:37:25 ID:dnm5xxep
議論の前に
まず、阿弥陀(キリスト教はじめ、他の宗教における神)についての基本的合意が必要だと思うのだが?
627神も仏も名無しさん:2008/01/13(日) 22:38:13 ID:dnm5xxep
他力なんだろ?
628ROM人:2008/01/13(日) 22:45:50 ID:9WqtvJs5
基本的合意はすでにあると思いますよ。
今行われているのは、かなーり的を絞った議論です。
629ROM人:2008/01/13(日) 22:47:02 ID:9WqtvJs5
と書いたけど自信なくなってきた。上の発言はスルーしてください。
ではROMに戻ります
630渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/14(月) 01:11:56 ID:q5HWNZuM
>620-621
>信心無き悪人こそが正客でございます。

 こういうことは、信心ができてから言って欲しいものだ。298さんの発言は、信心の
ある人が言えば至極尤もなんだけど、信心の無い人が言えば、噴飯物の馬鹿話になる。

 298さん。貴方は信心のある人なのか、信心の無い人なのか。298さん自身は自分
で信心があると思っているんでしょう。ところが、貴方に問答をぶつけている人は、おそ
らく名無しさんも、熊本さんも298さんには信心はなさそうだと思ってるんじゃないの
か。ぼくはそう思うよ。なんなら、率直に聞いてみるといい。「298は信心がある人の
ように、貴方には思えますか」、と。
 298さんに信心があると思っている人も確かにいるようです。このスレを見ている人
の中でも、多分7さんと、263さんなどは298さんを信心のある人だと思っているよ
うだ。
 まあ、他人(名無しさん、熊本さん、7さん、263さん)のことについて、僕が、あ
あでもないこうでもないと勝手に想像していうのは、不遜極まりない。外れている可能性
は大ありだ。少なくとも、僕は298さんに信心など無いだろうと思っている。信心などない
と僕が貴方に思っている根拠も、聞かれればすぐに言う準備がある。

 298さんを「信心のある人」と思える人には、620-621などの話は真っ当な意見だと
思う。ところが、298さんには信心がないと思える人には、620-621のような意見は、
トンチンカン以外の何者でもない。

 信心があってこそ言えることは、まず、自らの信心の証を示してから言って欲しいと僕
は思う。それは僕だけの感想だろうか。他の人はどうなんだろう。少なくとも、298に
は信心がなさそうだと思っている人には、298さんの主張は非常に反発を感じる。僕が
見て620-621は非常に見苦しい。
631298:2008/01/14(月) 01:28:35 ID:W538q9Wq
>>622
>大きくとらえれば、「正しい道理」「正しい理法」でした。お詫びして訂正いたします。
>これは直訳です。また、中村辞典に依っています。
>出拠は『雑阿含』等、各所にあります。
>正法を仏法と定義するのは『論註』に依ります。

このようにおっしゃるということは、改邪鈔を解釈するときに、
改邪鈔以外の典拠を用いても良い、ということでよろしいのでしょうか。
私は、お聖教は相互に関連していると考えておりますので、
改邪鈔を解釈するときにも、他の出典に依って問題がないと考えております。
なぜなら、同一の弥陀の救いについて説いているものだからです。

また、私が>>624においてお尋ねしていることについてお答えがありませんので、
「真宗は仏法である」という立場で論を進めて参ります。
(これは、このスレの趣旨を考えれば、妥当であると私は考えます。)

親鸞聖人によれば、

◎それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の
大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで
功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群
萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本
願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。

でありますので、御開山当流におきまして、
釈尊一代の教説、縮めれば、「仏の名号」となるのであります。
これは、お認めいただけるのでしょうか?
無論、他宗の方であれば、認めていただけなくても、仕方ありませんし、
私は、「仏説に虚妄無し」と思っております。
如法に修行すれば、他宗でも、あくまでも仏法です。
滅度に至ることは、当然であると考えています。
632298:2008/01/14(月) 01:36:53 ID:W538q9Wq
>>624において、私が問いましたのは、

>>622
>仏教は救われれば良いと言う教えではありません。
>悟りの理法・目覚めた人=仏の道理に基づかねば、仏教ではなく、
>単に救済教とでも言うべきかもしれません。

を読みまして、浄土門と聖道門についてのあなた様の考えを、
問いたいと思ったのです。
ひょっとしましたら、「浄土門は仏教に非ず」という方なのかも
しれないと思ったのです。
それと、できましたらば、HNを定めてくださると、
とても助かります。
話しを進めてゆく上で、発言者を同定できることも助かりますし、
過去の御発言を検索する上でも助かります。
あなた様は、勉強不十分だからお尋ねしたいとのことですが、
以前の御主張は、あなた様は、厳密に聖典を読んでおり、
私の主張は全くお門違いで、検討にも値しない、
というような態度であったように記憶しております。
勉強不十分なのは、私も全くその通りでございますが、
あなた様は、以前、あなた様の勉強は十分であるとお考えのように
とれる表現をされていたと思います。
これは、心境に変化があったのでしょうか。
それとも、ただ、あまり意味のない挨拶のようなものとして、
本音ではなく建前として、「勉強不十分」とおっしゃっているのでしょうか。
もし、勉強不十分同士であることは仕方ないけれども、
それでも意見を交わすことにより、互いに成長があるかもしれないという
ことでありますならば、HNを定めることに、ご協力いただけないでしょうか。
それとも、HNを定める手間には値しないというお考えなのでしょうか。
633298:2008/01/14(月) 01:42:09 ID:W538q9Wq
>>630
渡海様。他の方が、私に信心が無いと思うということを、
特に私は問題としておりません。
他人様に認めてもらう必要は、無いからです。
私としても、私の思い込みで無いということを、
どうやって、自分自身(私自身)に示したら良いのですか。
自分に対してもできないことを、人様に対して
どうやってできるのでしょうか。私には、それは無理だと思います。
正法を誹謗する事は、よくないことですが、
私を批難したからと言って、それがたいしたことになるとは
思えませんし、批難されても仕方ないような私です。
証を出せと言われても、実際出せないのですから、
批難されても、どうしようもありません。
そもそも、「信心の証」とは、何なのでしょうか。
どのようなものを、想像されていらっしゃるのですか。
634298:2008/01/14(月) 01:49:15 ID:W538q9Wq
>>618
>お取り次ぎは他人の為のものではなく、私自身の為のご縁。
>ならば、何故お相手の信心の有無にそこまでこだわる必要があるのでしょうか?

それは、このスレの趣旨が、未信の方が、妙好人に学び、自身も獲信するための
ものであるからです。
なぜ、妙好人でなければならないのか。
それは、未信の方に導かれることは、もうこりごりだからだと思います。
自分も信が獲れていないのに、「ああじゃない、こうじゃない」と言ったところで、
その方について行って、どうして信がいただけましょうか。
獲信者と名乗る方でも、真偽があるでしょう。
しかし、そもそも信を獲ていない方であるならば、未信の方を導く資格がありません。
635298:2008/01/14(月) 02:02:15 ID:W538q9Wq
>>619
そもそも私がこちらのスレッドに興味を示したことも、
スレタイによるのです。
求めている方がいらっしゃるのだろうと感じました。
求める方がひとりでもいれば、たとえそこが地獄でも、
本来行かねばなりません。
「信心為先」と聞いておっても、真に受けない、本気にしない方が
ほとんどであるだろう中で、このようなスレッドを作ること自体が、
問題提起のようなものであり、それ自体がメッセージであると思うのです。
他所で書いていたときにも、私のようなこと(信心の有無を問う)をすれば、
「(ある真宗の派では)糾弾に合いますよ」とおっしゃった方がおられました。
その方の発言内容が、本当のことなのかどうか、私には経験もないので
わかりません。
しかし、その方の発言内容が嘘だとしても、その方ひとりの発言だけでも
嘆かわしいことであると私は感じました。
あくまでも、私の個人的な感想です。
636298:2008/01/14(月) 05:03:53 ID:W538q9Wq
>>618

熊本様。「信心を獲ていますか?」という問いが基本になるのは、
信心を獲ることこそが肝要であると思っているからです。
真宗では、信心こそが往生の正因であって、
この一点こそが大切です。
信心を獲ていない方には、信心を獲てもらわねばなりません。
信を獲たかどうかが、ものすごく大切なのです。
これにより、凡夫が弥陀の浄土に往けるかどうかが決まるのです。
もちろん、そもそも浄土往生を望んでいない方に対しては、
「信を獲ていますか?」ではなく、弥陀の救いとはどのようなものなのか、
あるいは、定散の善から、あるいは、八正道から、あるいは、四諦から、
あるいは、七佛通戒偈から、お話をはじめなければならないと思います。
そして、自らが信を獲たら、有縁の方に信を獲っていただくことは、
佛恩報謝になると考えます。
浄土に往くまで時間があり、御恩報謝のために何ができるのかと言えば、
御恩報謝の南无阿彌陀佛です。
それから、引用ではなく、とのことですが、ご参考にされる方も
いらっしゃるかもしれませんので、ひとつ引きます。
どうかご容赦ください。

◎信をとらぬによりてわろきぞ、ただ信をとれと仰せられ候ふ。
善知識のわろきと仰せられけるは、信のなきことをわろきと仰せらるるなり。
しかれば前々住上人、ある人を、言語道断わろきと仰せられ候ふところに、
その人申され候ふ。なにごとも御意のごとくと存じ候ふと申され候へば、
仰せられ候ふ。ふつとわろきなり、信のなきはわろくはなきかと仰せられ候ふ
と云云。(聞書186)
637渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/14(月) 11:29:47 ID:q5HWNZuM
>>633
>他の方が、私に信心が無いと思うということを、特に私は問題としておりません。
    まあ、そうなんでしょうね。信心がないと言われれば、猛烈に噛みついてるときもある
が、今回のように、冷静になっているときもある。そういうことでしょうね。人の心は千変万化
しますからね。

>他人様に認めてもらう必要は、無いからです。
    よく分かります。疑城胎宮のなかでは喩え金の鎖で縛られていても、たった一人の世界
では邪魔する者のないお天下様でいられる。大変心地よい世界だそうです。
    他人から見れば大変不便な世界だろうと思っても、ご本人は大変お幸せでいらっしゃる。
ここから抜け出るのは大変だ。500年かかるそうだ。

>私としても、私の思い込みで無いということを、どうやって、自分自身(私自身)に示したら
良いのですか。
    思いこみであれば、思いこみでないということを示す方法などは、世の中にあるはずも
ありませんね。

>自分に対してもできないことを、人様に対してどうやってできるのでしょうか。私には、それ
は無理だと思います。
    思いこみではないなどと、自分に対して偽証できない以上、他人に対して偽証などでき
るはずはありませんよね。

>証を出せと言われても、実際出せないのですから、批難されても、どうしようもありません。
    そうそう。無い袖は振れぬ。思いこみでないなどという証など、出せるわけありません。
638渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/14(月) 11:31:21 ID:q5HWNZuM
>そもそも、「信心の証」とは、何なのでしょうか。
     さあ、貴方の場合には何になるのでしょうか。信心の証は、貴方に信心が獲得できた
ときの貴方にしか分からないことだろうと思いますよ。

>どのようなものを、想像されていらっしゃるのですか。
   さあ、どのようなものになるんでしょうか。今から楽しみにしているんですよ。

 298さんには信心がない。まあ、実際は信心があるのかも知れませんよ。信心がないように
見えるというのは、僕の勘違いかも知れない。僕の勘違いかも知れないが、298さんには信心
がないと僕は思っている。このスレには、298さんには信心があると思っている人もいるよう
だが、無いと思っている人は、どうも僕だけではなく、複数いそうだ。

 信心のある人が言えば極めて妥当だが、信心の無い人が言うとやけどする主張というのがある。
確かに、親鸞聖人や蓮如上人が言えば、実に核心を突いている言葉というのがある。しかし、善
証や善鸞などが言えば、鼻持ちならん言葉になるものがある。善証とは、北の郡に住んでいた人
物で、親を罵り、善信を誹謗し、鎌倉政府から念仏禁止令を公布させた中心人物である。善鸞と
は、十八願を萎んだ花に喩え、親鸞が義絶した親鸞の長男である。彼らには信心がなかった。信
心のない人が言えば、鼻持ちならんことになるものがある。
 信心のない人が言っても他の人々にすぐ受け入れて貰える話はいくらでもある。しかし、信心
のない人が言えば鼻持ちならなくなる言葉がある。これは注意した方がいい。自分は信心がある
から何を言ってもいいんだと思えば、大きな間違いを冒す。
 話し手には信心があると言うことを、聞き手も受け入れている場合には、言ってもおかしくな
い。しかし、信心がなさそうだと思っているような聞き手には、発言は控えるべきだろう。無用
の混乱を招く。あくまでも、信心のない人が言っても受け入れて貰える話をする。あるいは、自
分には信心があることを先に聞き手に立証し、話し手には信心があることを聞き手に了解させて
から言う。手続きが必要だ。手続きを間違えると混乱する。
639神も仏も名無しさん:2008/01/14(月) 11:39:40 ID:nbgfGu4R
信心なんてそんなたいそうなもんじゃないだろ。
ようはあの世や仏様、魂の存在を是認できるか、どうかにすぎない。
単純なことだよ。唯物論が少数派の時代の昔の人や妙好人といわれる人は、これが容易にできた。
640神も仏も名無しさん:2008/01/14(月) 12:35:33 ID:UNdwUdRF
みんなお互いに
「あいつの信心はニセモノ」、「あいつには信心がない」と裁きあっている。
浄土真宗を究めると白蓮華じゃなくて閻魔大王になるんだね
641熊本:2008/01/14(月) 13:43:17 ID:ASsFB+A9
298さんへ。

まず、渡海さんの質問に対するお答えには共感いたします。私も信心の証など示せるはずはないと思います。
信心とは理屈や理論ではなく、心の動きであり感情です。心の証など私は示せるものではないと思います。
ですから当然、他人の信心の有無など分かるはずもありません。

また、信心正因である事くらいはもちろん私も重々承知しております。
私が再三お聞きしているのは、自分自身の信心の有無ではなく、他人の信心の有無にこだわる必要がなぜあるのか?と言う事です。
その理由が知りたいのです。

その理由としてあなたは他人を導かねばならないと言う事を仰いました。それならばこの件に関して私はもう何もお聞きしたい事はございません。
他人の信心の有無にこだわる必要があるのか?否か?という意見の違いが生じた理由がはっきりしました。

私とあなたとでは、決定的に考えに違いがあります。
私は自分自身も含めて凡夫を導いて下さるのは阿弥陀様であり、凡夫ではないと思っています。
善知識の話とも繋がりますが、あくまで我々凡夫はお相手にとっての阿弥陀様のご縁のパイプ的な存在でしかありません。

お相手を照らし育てて下さり導いて下さるのはそこに流れて下さる阿弥陀様のご縁と言う名の水です。
仮に私が今生で悟りを得ており、完全な対機説法が出来るのならば、他者を導く事も出来ましょう。

ですが、残念ながら私が私としてこの世に生きている間は、往生は決定させて頂けると思いますが、悟りは得られませんし、対機説法も出来はしません。
ですから、私には他者を導く事など到底かないません。

どちらが正しいとは言いませんが、私とあなたとは考えに決定的な違いがあります。
それがはっきりしましたので、私の疑問は私なりに解消しました。
ありがとうございました。
642熊本:2008/01/14(月) 13:53:15 ID:ASsFB+A9
渡海さんへ。

私は298さんだけでなく、他人の信心の有無など分かりません。また、そのような事にはあまり興味はありません。
私は私自身のお味わいを深めさせて頂けるなら、お相手が信心を起こさせて頂いた方であろうと、そうではなかろうと、そんな事はどうでいいです。

そこは誤解のなきようお願いします。
643渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/14(月) 15:46:14 ID:q5HWNZuM
>>642
>そこは誤解のなきようお願いします。

 はて?。どこぞに誤解でもありましたか。もし、こちらに気づかぬ誤解があったとし
たならを申し上げた。

>他人の信心の有無など分かりません。また、そのような事にはあまり興味はありません。

 前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざ
らしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と(親鸞)。

 熊本さんは、どこのどのような方が存じません。私は、正真正銘の在家ですから、他人様の信
心の有無などに興味がなくても構わんのですが。熊本さんがもしお坊様なら、お坊様とは実に楽
なご商売でございますね。私自身のお味わいを深めさせて頂けるなら、前を訪うことは必要がな
い。後を導くことにも興味がない。社会に対して責任もない。使命もない。そういうことでしょうか。

 もし、熊本さんがお坊様でなければ、想像で大変失礼なことを申し上げてしまった。  m(_ _)mスマン
644298:2008/01/14(月) 15:58:50 ID:M4dcHxhb
>>641
熊本様。たとえ信を獲ても、ひとりもお手引きしなくても、何の問題もないと
私は思います。還相廻向となった後に、済度すれば良いことだからです。
私の場合は、信をいただく前に、「いくら掟があるとは言え、何も言ってくださら
なければ、何もわからないし、信をいただく縁を得ることができないではないか」
と思っていました。
また、「信を獲ていない方に話しを聞いても、信を獲ることできないだろう」
と思っていました。
この自分自身の気持ちがございましたので、「信を獲たらば、自信教人信を行おう」と、
信心得る前から考えておりました。その気持ちが、継続してございます。
ただしもちろん、これは私の場合です。
私の考える信心では、通常の意識の方が信をいただいたのであれば、
「南无阿彌陀佛のすがた」とは何か、はっきりとわかるのです。
「次第相承の善知識」の意味もわかり、その役割もわかり、
信をいただきたい宿善開発の行者が10人いれば10人、
100人いれば100人、全員例外無く救われ、信をいただけるということも
わかるのです。
また、私自身を信じてくださる方が、もしいらっしゃるならば、その方々にも、
例外無く信を獲っていただけます。なぜなら、それは弥陀の仕事だからです。
お手引きとは、そういうことです。
私にとっては、味わいの深い浅いは、おまけのようなものです。
信心を獲たかどうかが重要なのです。
味わいが浅くても、信を獲たらば極楽往生治定、
味わいが深くても、弥陀をたのまず、信を獲ていないならいたずら事です。
南无阿彌陀佛
645298:2008/01/14(月) 16:20:06 ID:M4dcHxhb
>>641
味わいというのは、文学的感性や、宗教的感性に依存するものであると
思います。
弥陀は機を問わず救ってくださるのですから、救われたよろこびを
うまく表現できないとしても、何の問題もありません。
内心に秘めていて、何の問題もありません。
ただ、お講においては、まわりの方のためにも、自分のためにも、
表してゆくことが奨励されているだけで、それは義務とは異なると思います。
もちろん、後念相続において、よろこびを深めて行くことも、
真宗の楽しみとして、楽しい日暮しのために、価値があることだと
思います。
しかしそれは、信心の有無と比べるならば、ささいなことです。
もちろん、そのささいなことにこだわりながら生きるのが、
我ら凡夫であると思います。
ですから、信後の相続も大切になるのだと思います。
646渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/14(月) 17:02:24 ID:q5HWNZuM
>643

誤 あったとしたならを申し上げた。
正 あったとしたなら失礼を申し上げた。
647神も仏も名無しさん:2008/01/14(月) 17:14:08 ID:eBYVGjH6
>渡海 難  ◆Fe19/y1.mI

   お ま え  こ こ お か し ー ん じ ゃ ね ー か


         ,,-‐----‐、 , -'"` ̄ ̄"`''-,__, --‐‐-..,
        /  、゙ヽ、 ‐-'´          ヽ‐- / /   ヽ
      ,/´ .., ヽ,,l_)'    zェェェァ'  ;rfァt ヽ ,ト/ /    ヽ
     /    ヽ,r' ,l′    _,,,   . __,,  ,l゙.-〈__r,'、   ヽ_
    _.l    ヽ」   ,l    .イてソ` l イにj`,/    ゙‐ヽ、_,,  /l
    ,l l|  −'´ll   ,l      rソi"  ヽ じ'' f゙l    .,//゙l   //\
    l`l|     l|ヽ  v'⌒ヽ        .,ノ  j/    |l    //   }
   l  \    l| ,l  l_U>     r‐--‐ァ  ,l    |,l   //    l
   /   '\   l|`l   ゝ_,´    ゙ヽ__r′ .,.'   ___l ヽ //     |
  ,l     '\ l| .lヽ__lL..,,,  __ ,, _イ___./ |  ∨/      ,}
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  ヽ          |   \.   ヽ /   l   ヽ         /j
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648熊本:2008/01/14(月) 22:28:04 ID:ASsFB+A9
渡海さんへ。

え〜っとですね、私が他人の信心の有無に興味がないと言っているのは、私の誤解だったようですが、298さんが「信心の無い者とは話にならない」と思っておられると感じたからです。
他人の信心の有無を話をする前提条件になさっておられると私が誤解していたからです。
あくまで私が他人の信心の有無など問題ではないし、興味がない、と言ったのは、話し合いをする際にそんな事を前提条件にする必要はないという意味で言った訳です。

それにあなたは信心のある人とない人では同じ事を言っても違ってくるという内容の発言をなさっていましたね。
私の先程の書き込みでの発言は、そうは思わないから言ったのです。
お相手が信心獲得させて頂いた方であろうと、そうではなかろうと、そこに阿弥陀様のご縁を感じさせて頂くならば、そんな事は問題ではないと私は思うからです。
649熊本:2008/01/14(月) 22:36:06 ID:ASsFB+A9
また、私が他者を導く事など出来はしないと言う発言がお気に召さないようですが。
以前にも申しましたように、私は他者を導く事など凡夫である私には出来はしないと思っています。
確かに私は僧侶ですよ。私は日々、門徒さんに精一杯ご法話をさせて頂いております。
なぜなら、有縁の門徒さんと共に喜びを分かち合いたいと思うからです。

しかし凡夫である私に、正見も正思惟も正語も正業も出来ない私に、他者を正しい道へと導く事など出来るでしょうか?

あまり善鸞さんの話を持ち出すのは好きではないのですが…。
誰もが信心獲得させて頂いた方だと思われている親鸞聖人でさえ、結果的には我が子善鸞さんを正しい道へと導く事は出来なかったと言えるかと思います。
何故だと思われますか?
私はこう思います。

親鸞聖人はご自身のお聞かせ頂いたみ教えをそのまま善鸞さんにお伝えされた事と思います。
ですが、善鸞さんの心(受け皿とでも言えばいいでしょうか?)と言う名の因と、
親鸞聖人のお話やその他の様々な影響と言う名の縁が合い集まって出た結果は、親鸞聖人の想いとかけ離れたものとなったのでしょう。

何が言いたいかと言うと、親鸞聖人のお言葉に間違いはなくとも、それを受ける側の機に宿縁による耳がなければ、信心と言う名の花は咲かないと言う事です。
正しい法に遇う事はかなっても、正しく法を聞く事がかなうとは限りません。
そして、それは私たち凡夫には計りしれず、どうしようもないと思います。
ですから、私は精一杯お話はさせて頂きますが、他者を導く事など出来はしないと思う訳です。

650熊本:2008/01/14(月) 22:45:32 ID:ASsFB+A9
298さんへ。

ひとつ気になる表現がありましたので、一応確認のため質問させて頂きます。
例えば、厳密に言えば私は親鸞聖人を信じているのではありません。
親鸞聖人のお言葉を通してお聞かせ頂いた阿弥陀様のみ教えを、本願を信じさせて頂いております。

あなたは親鸞聖人を信じていますか?それとも阿弥陀様のみ教えを本願を信じていますか?

失礼な質問だと思いますが、お許し下さい。
651渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/15(火) 00:41:58 ID:YKGWVO+E
>>648
 議論の中に割ってはいるのをしばらく控えます。スレを見ている人が、議論の流れに混乱しそ
うなので、今回はノーコメントにさせてください。

 熊本さんと僕とは、立っている考えの基盤が違いすぎる。上辺では共鳴できる部分もあるんで
しょうが、心底では多分できないでしょう。議論が混迷する前に、僕はしばらくROMに入りま
す。

 熊本さんに対する思い以上に、僕は298さんにはいろいろ言いたいことがある。僕の感じで
見て、298さんは信心がない。今の僕はそう思っている。その上で、298さんが信心のある
ようなことを言っていることに、僕は今、抵抗感を覚えている。
 ただ、これもいまこれを出すと話が混乱するので控えます。議論のお鉢が僕に回ってくるか、
あるいは僕の欲求不満が頂点に達するかしたら、そのとき放出するかも知れないけど、とりあえ
ずは仕舞っておきます。
 298さんとは、じっくり話ができる機会が来るといいなと今の僕は願っています。
652298:2008/01/15(火) 00:47:16 ID:QccSb9f4
>>650
熊本様。決して失礼ではないと思いますから、安心して質問ください。
大切なところだと思います。
まず、信には自力の信と、他力の信があります。
自力の信というのは、凡夫の迷情を練り固めたようなもので、
たいして価値がありません。往生の正因にもなりません。
この信において、私は、親鸞聖人を信じてますし、
親鸞聖人は弥陀の生まれ変わりだと思いますし、
弥陀のみ教えも、本願も信じているわけです。
「信じようとしている」と言っても構いません。
そして、信じようとしても、疑いも残ります。
しかし、これは所詮は凡夫の信であり、自力の信です。
たいした価値もありませんし、
こだわりのもとですし、煩悩のもとです。
しかし、多くの方は、教義にもとづいてこの自力の信を
調節しようとして、苦しんでいるように見えますが、
そんなものは、どうでも良いのです。
信じようが、疑おうが、いずれにしても、
たいしたものではありません。
もうひとつ、私は他力の信をいただいています。
これは、何を信じるとか、何を信じないとか、
そういう種類のものではありません。
弥陀の本願による、真実の信心です。
清浄で、金剛のものであり、こちらは、はかり知れない価値があります。
ですから、よろこんでいるのです。
南无阿彌陀佛
653298:2008/01/15(火) 01:08:36 ID:QccSb9f4
>>650
>しかし凡夫である私に、正見も正思惟も正語も正業も出来ない私に、
>他者を正しい道へと導く事など出来るでしょうか?

もちろん、聖道の道を導くことは、凡夫にはできないでしょう。
しかし、弥陀の救いを獲てもらうように、導くことはできます。
というよりも、できねばなりません。(それが、信を獲ているという
ことだからです。)
これは、救うのが凡夫である自分だからではなく、
弥陀だからできるのです。
弥陀の救いは、聖道門とは違います。
自分があさましい凡夫だからこそ、
同じく凡夫の方も、救われる道を示すことができます。
弥陀の無上方便により、凡夫が白道を歩み出し、
いずれは滅度に至るのです。
654298:2008/01/15(火) 01:11:11 ID:QccSb9f4
>>653
>しかし、弥陀の救いを獲てもらうように、導くことはできます。
と書きましたが、これは、誰でも引接できるわけではありません。
あくまでも、相手の方に宿善がある場合に限ります。
しかし、宿善の機であり、救いを求める方であれば、
全員弥陀に救っていただくことができます。
信前の方は、南无阿彌陀佛が何かを知りません。
「真実信心とは、南无阿彌陀佛ですよ」と言われても、
訳がわからないはずです。
そこからいろいろなことを想像してしまい、
難しく考えているだけです。
655298:2008/01/15(火) 01:19:52 ID:QccSb9f4
>>651
しばらくROMに移行するとのことですが、お返事致します。
また、気が向きましたら、書き込んでください。

>熊本さんに対する思い以上に、僕は298さんにはいろいろ言いたいことがある。
>僕の感じで見て、298さんは信心がない。今の僕はそう思っている。
>その上で、298さんが信心のあるようなことを言っていることに、
>僕は今、抵抗感を覚えている。

私の現状を見て、「獲信したと言っても、こんなものか」ということで、
疑問に思われ、「ということは、信を獲ていないのだろう」と思われても、
全く自然のことであると思います。
私はあくまでも凡夫であり、信心いただいても、凡夫であることに
変わりはありません。
信心いただいて、急に善人に早変わりするわけではありません。
凡夫のままなのです。
凡夫のままで、それでも、何かが変わります。
(これを、「何も変わりません」と表現する獲信者の方もいますが、
私は、「何かが変わります」という表現を好みます。
信を獲たのですから、やはり変わると思います。
何より、安堵します。求道のゴールに辿りついたのですから。)
私はあくまでも凡夫に過ぎず、信心の体は、南无阿彌陀佛なのです。
南无阿彌陀佛は、体でありながら、用でもあります。
正に、機法一体のものです。
いずれ、お話する機会もあれば、さらにつっこんだお話もできるでしょう。
つっこんだお話をすれば、「やはり信など獲ていなかった」と失望される
可能性も高いと思いますが、私がどれほど浅ましくて醜くても、
それでも、弥陀の信心は真実なのです。
656熊本:2008/01/15(火) 01:53:14 ID:j/0u5+do
渡海さんへ。

ROMに入るとはどういう事なんでしょう?
いまいちよく分からないんですが。
文章から察するに、しばらくここに来られないという事なんでしょうか?
657熊本:2008/01/15(火) 01:56:19 ID:j/0u5+do
298さんへ。

あなたの仰る通り、道を示す事は可能かと思います。
私がお聞かせ頂いたみ教えをありのままお伝えさせて頂く事は出来ると思います。
ですが、これも厳密に言えば本来の私には無理な話です。
あくまで私は阿弥陀様のお陰さまで道を知らせて頂きましたし、その道を示したくともお相手に恵まれなければ示しようがありません。
聞き手も話し手も(こうやってわけて表現する事自体あまり好きではないのですが)お相手に恵まれたのは阿弥陀様のご縁によると思っています。

つまり、私は阿弥陀様のご縁なくしては導くどころか、示す事すら出来ない、何一つ出来ない存在なのですから、
私の伝道活動を他者を導くと表現する事にとても違和感を感じます。

確かに、私もお陰さまで多くの門徒さんとのご縁を頂いておりますので、
ひょっとするとお一人くらいは私を通した阿弥陀様のご縁によって信心獲得させて頂いた方もいらっしゃるかも知れません。

しかし、それはあくまで結果的に私が導いたかのように見えるだけで、実際は私が導いたとは思えません。

やはり私は「導く」と言う表現は、阿弥陀様のみに該当する表現であると思っています。


おそらく、私とあなたの「導く」や「示す」といった言葉の認識が多少違うのではないかと思います。
以前にも申しましたように、私は頭のいい方ではありませんのでうまく説明は出来ませんが…。

出来れば、先程の渡海さんへの書き込みの善鸞さんの話の部分に書きました内容とあわせてご覧頂けると助かります。
658298:2008/01/15(火) 01:58:24 ID:QccSb9f4
>>649
熊本様。それから、
>私が他者を導く事など出来はしないと言う発言
ですけれども、熊本様が、「他者を導く事など出来はしない」と思っていたとしても、
それでも、やはり我らは凡夫ですから、名利を求める気持ちも、人師になろうと
する気持ちもあり、他者を導こうとしてしまうものだと思います。
現に、今も熊本様は、私を導こうともされていると私は思います。
これは、批難しているわけではなくて、我らは凡夫ですから、
どうしてもそうなってしまうでしょう? という意味です。
もちろん、失言しないように気をつかい、自らは「人を導こうとはしていない」という
立場であると主張することはできるのですが、日常生活を、観察してみれば、
やはり、人を導こうとはされていませんか? 私は、そんなところばかりです。
もちろん、熊本様は、私よりは立派でしょうけれども、それでも、
知らず知らず、導こうとされているときがあると思います。
もしそうでなければ、私など足下にも及ばぬ、聖道も修せる尊い方だと思います。
659298:2008/01/15(火) 02:30:40 ID:QccSb9f4
>>657
熊本様。私は、熊本様のこだわる言葉づかいを否定したいわけでありません。
「導く」と言うと、たぶん傲慢に響くということで、
謙虚なお人柄から、抵抗を感じるということだと思います。
私の価値観からすれば、「多くの門徒さんとご縁をいただいて、
ひょっとしたらお一人くらいは信心獲得させていただいた方も・・・」
ということで、「それでいいのだろうか?」と思いますし、
その信をいただいた方も、熊本様のご想像通り、熊本様の導きにはよらず、
他所にて信心の沙汰を行い、信心いただいたはずです。
(もちろん、熊本様は、広い意味での善知識となっております。)

◎宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり(御文2-11)

この場合、熊本様は、宿善開発の助けとなってくださったことになります。
そして、その信心いただいた方は、他所にて善知識にあっているはずです。
もし、そのような方が実際にいらっしゃるならば、
おそらく、熊本様に次第相承の善知識の存在をお伝えしたいでしょうが、
言うにはばかれる雰囲気を、熊本様がお出しになっているのだと思います。

◎願力不思議の仏智を授くる善知識の実語を領解せずんば往生不可なり(改邪抄)

願力不思議の仏智を授けることができないならば、真の善知識ではありません。
また、実語を授かっていないなら、真の善知識ではありません。
僧侶必ずしも善知識にはあらず、道俗問わず、獲信せねばならぬのが、
この道です。
僧侶の方であるならば、「むずかしい話しはわからない」などと
おっしゃらずに、せめて御文様くらいは、繰り返し御拝読されることを
望みます。
もちろん、熊本様ご自身が決められることですので、
むずかしい話しがお嫌いであれば、致し方ありません。
660298:2008/01/15(火) 02:56:27 ID:QccSb9f4
>>622
>ここでは、大乗非仏説はひとまず置いておいて、

これも気になる御発言なのです。
真宗門徒にとっては、釈尊の出世本懐が大経であることは、
当然ではないのでしょうか。
あるいは、南无阿彌陀佛が尊いということや、
二尊の御恩を感じることも、当然ではないのでしょうか。
もちろん、そのようなことが当然でない方に対しては、
そのような方のために、少しでも、ご縁となるようなお話を
心がけねばならぬと思いますが、
他宗や無宗教の方にお話するならばともかく、信心獲得を求めるという、
とても絞ったお話をするこの場所において、
このような発言が出るということは、
あなた様は、特に獲信を求めてはいらっしゃらない訳でしょうか。
それとも、閲覧していらっしゃる方への、遠慮の表現なのでしょうか。
「妙好人」と言っている時点で、一般の方は信じていないのですから、
特に遠慮もいらないのではないかと思います。
661渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/01/15(火) 12:55:10 ID:YKGWVO+E
>656
>ROMに入るとはどういう事なんでしょう?

 失礼しました。掲示板の専門用語です。
 他人の書き込みを読むだけで、自分からの書き込みはやや控えるという意味です。

      彡川川川三三三ミ〜
      川|川/     \|〜
      川川  ◎---◎|〜
      川川     3  ヽ〜
      川川  ∴) A(∴)〜
      川川     U  /〜     ___
    _;川川     ダッラ〜   .    |  |   |\_
  /  川川   __/        . |  |   | |  |\
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(    (   ◎  / \_          .|  |   | |  |::::|
 \   \   /\    ̄ ̄\     |  |   | |  |::::|
  /:\   \  ドピュ ̄\っ))))〜〜|  |   | |  |::::|
 /:::  \    つ___  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
 |:::    \   (__3。 ;。 ̄ ̄ |  _________ .|
 |::::     \__/          .| |             . |.|
 \:::    (;;; );; )          | |           .   |.|
            ↑
「ROMに入る」と言いながら荒らしを止めない渡海難
663熊本:2008/01/15(火) 15:40:02 ID:j/0u5+do
298さんへ。

あなたとはやはり考えが違うようです。

大変失礼ですが、あなたはご自身を釈尊や菩薩か何かと勘違いなされてませんか?
善知識が善知識たるのは、阿弥陀様のご縁あっての事。
いくらあなたが素晴らしい方であろうと、宿縁によってお引き合わせ頂いた、法を聞く耳を持つお相手に恵まれなければ、善知識たりえません。

例えるなら、仮にあなたがいくら素晴らしい水を注ごうとも、種のないところに花は咲きません。

また、その水の水源はあなたではなく、阿弥陀様です。
仮にあなたが自ら水を注いでいると思われているのなら、それはあなたが救い主であると勘違いなされている事になります。
あなたはあくまでもパイプ的な存在でしかありません。
664熊本:2008/01/15(火) 15:42:41 ID:j/0u5+do
298さんへ。

また、想いと結果は別の話です。
確かに私も一人でも多くの方が少しでも早く救われて欲しいという想いはあります。それはまさしく私の煩悩のあらわれでしょう。
ですが、その煩悩の想いは私の才覚でかなうものではありませんし、その結果は私の伺い知れるものではありません。
それは阿弥陀様のご縁によってのみかなうものです。
何故私がそう思うかはこれまでに繰り返しお話させて頂いた通りです。
私はただ、精一杯お話させて頂く他ありません。
門徒さんが救われるかどうかの責任が私にあると言うのなら、仏教ではなく熊本教です。

私も御文章や三部経、教行信証、嘆異抄などなどの書物は自分なりに読ませて頂いております。
しかし、私は頭が悪いので出来れば分かりやすくお話して頂けると助かります。と言ったのです。
それがそんなにお気に召さないのでしょうか?

おそらくあなたは、私を相当な怠け者と思われているのでしょう。あなたが私をどう思われようとかまいません。
私は私なりに日々聴聞させて頂き、日々門徒さんに精一杯お話させて頂くのみです。
あなたのように、他者を導く事など私には出来はしませんし、私の才覚で信心を獲てもらうなど出来はしません。


もうこれ以上、私がお話する事はございません。私がお話したい事は繰り返しお話させて頂きましたので。

最後に、お付き合い頂きましてありがとうございました。
665熊本:2008/01/15(火) 16:07:20 ID:j/0u5+do
渡海さんへ。

そういう事でしたか。なにぶんそういう事にうといもので、お手数おかけしました。
666神も仏も名無しさん
          渡海 難
           ↓
        彡川三三三ミ
       川川 ::::::⌒ ⌒ヽ
      川川::::::::ー◎-◎-) 
      川(6|::::::::  ( 。。))
    ._川川;;;::∴ ノ  3  ノ              彡川三三三ミ
  /;;;:::::::::::::::\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ             . 川川 ::::::⌒ ⌒ヽ
 /::::  /::::::::::::    |::::|                川川::::::::ー◎-◎-)
(:::::::: (ミ:  ・ ノ:::・/:::|               川(6|::::::::  ( 。。)) <ああ先生ぇ〜
 \::::: \:::::::   (::: |    ,.:':'゙'゙'゙:゙'゙':';.,      川川;;;::∴ ノ  3  ノ
 /:::\::::: \:::    ヽ|  r゙ ,.: :;;;:: : : : :;          \_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ
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